柴禹錫
雍熙中、宮城を広むるを議す。禹錫別業有りて表識の中に在り、官邸を以て易ふるを請ふ。上是に因りて之を薄しむ。又宰相宋琪と厚く善し。会に広州徐休復密に転運使王延範の不軌の状を奏し、且つ言ふ、大臣に倚附し、敢えて動揺する者無しと。上因りて琪及び禹錫に訪ひて曰く、「延範は何如なる人ぞ」と。延範は琪の妻と疏属たり、甚だ其の忠勤を言ひ、禹錫も亦傍らに之を讃す。上其の交通を意ひ、滋に悦ばず。禹錫又琪の為に盧多遜の故第を請ふ。上益々其の朋比を悪む。琪を坐して詼諧を以て相を罷むるも、顕はに之を言はんと欲せざるなり。詔を下し禹錫を切責し、驍衛大将軍を以て出でて滄州を知らしむ。任に在りて政治に勤め、部民濱州に詣りて状を列ねて以て聞こゆ。涪州観察使に改め、澶・鎮二州駐泊部署に徙り、俄に潞州を知る。州民留まること三載を乞ふ。詔を以て之を奨む。永興軍府を知るに徙り、再び召されて宣徽北院使・知枢密院事と為る。
至道初、制して鎮寧軍節度・涇州知事を受く。入謝の日、上謂ひて曰く、「宣徽を罷むる者は防禦使に過ぎざる爾、今卿に旌節を委ね、之に重鎮を兼ぬ、優異と謂ふべし」と。禹錫流涕哽咽するのみ。咸平中、貝州知事に移る。是の歳、契丹兵奄として城下に至る。禹錫内に備禦を厳にし、寇尋いで引き去る。明年、陝州に徙る。
景德初、子宗慶選ばれて尚す。禹錫を召して帰闕せしめ、公主をして第に就き謁見せしめ、舅姑の礼を行はしむ。固く辞すれども許さず。頃くして、鎮に還る。未だ幾もせず、卒す。年六十二。太尉を贈らる。子宗亮、太子中允。宗慶、永清軍節度。
張遜
張遜、博州高唐の人なり。数歳にして父を喪ひ、叔父職方員外郎幹に養はる。後に母に随ひて魏仁浦の家に帰る。駙馬都尉咸信、其の異父弟なり。太宗、晋邸に在り、召して帳下に隷す。太平興国初、左班殿直を補ふ。太原に従征して還り、文思副使に遷り、再び香薬庫使に遷る。嶺南平んだ後、交阯歳に入貢し、関市を通ず。並海の商人遂に舶を浮かべて外国の物を販易し、闍婆・三仏斉・渤泥・占城諸国も亦歳に至りて朝貢す。是に由りて犀象・香薬・珍異府庫に充溢す。遜京に榷易署を置くことを請ひ、稍く其の価を増し、商の金帛を入れて之を市ふを聴き、其の販鬻を恣にす。歳に銭五十万緡を獲べく、以て経費を済さんと。太宗之を允す。一年中果たして三十万緡を得たり。是より歳に増羨有りて、五十万に至る。
一日、遜等晩く私第に帰る。準と温仲舒並轡す。狂民有りて馬首を迎へ拝して万歳を呼ぶ。街使王賓旧に遜と晋邸に同事し、遜又嘗て賓を挙ぐ。雅く相厚く善し。因りて民の準を迎へ拝して万歳を呼ぶを奏す。準自ら弁す、「実に仲舒と同行す。蓋し遜の賓をして独り臣を奏斥せしむるなり」と。辞意倶に厲しく、因りて互ひに其の私を発す。太宗之を悪み、詔を下して切責す。遜左降して右領軍衛将軍と為り、準も亦職を罷む。会に右金吾街仗を判ずる蔡玉、富人子を州大校と為すを冒奏し、官を黜かる。遜を命じて其の事を代はらしむ。
子敏中、初め供奉官を補ふ。遜宣徽に在り、表を上りて嘗て文を業とし、改秩を願ふと言ふ。即ち大理寺丞に換へ、累りて比部郎中に至る。次子虚中、宗室申国公の女を娶り、供奉官・閤門祗候に至る。敏中の子先、進士及第す。
楊守一
楊守一、字は象先、其の先は河南洛陽の人なり。唐末乱を避け、家を宋・鄭の間に徙す。守一稍く『周易』及び『左氏春秋』に通じ、太宗に事へて晋邸に在り。太宗即位し、右班殿直を補ふ。太平興国中、出でて登州兵を護る。召し還されて儀鸞司を監む。累遷して西頭供奉官と為る。其の下多く貴族の子弟、頗る豪縱徼幸す。始めて三班院を置き、守一をして其の事を専にせしむ。考核授任、漸く条制有り。歳余、翰林学士に改む。守一初め名は守素、是に至りて詔して之を改む。
守一の性質は質直で勤勉謹直であったが、他の才能や術策はなく、ただ王府に始まり、長く側近に仕え、時機に適っただけである。故に職を歴任して高位に至り、死後の礼遇も、すべて通常の定数を上回った。子の安期は国子博士を歴任したが、事に坐して貶謫され、その地で卒した。安期の子夢得は進士に及第した。
趙鎔
趙鎔、字は化鈞、滄州楽陵の人。刀筆吏として太宗が藩王であった時に仕え、即位すると、東頭供奉官に補された。呉越に使いして国信を賜るに及び、また銭俶が土地を献納した際には、その倉庫を検校することを遣わされ、内酒坊副使に転じた。秦王廷美の陰事を告発したことにより、六宅使に昇進し、羅州刺史を領した。翰林司を掌り、東上閤門使に抜擢された。
郭贄が参知政事となると、鎔は同じ府にいた旧縁により、嘗て請託をしたことがあったが、贄は従わなかった。鎔は堂吏の過失を摘発して上聞に達し、贄は帝に拝謁し、鎔が私的に謁見したことを訴えた。即座に鎔を召して朝廷で弁明させたが、言葉に窮し、出されて梓州・遂州都巡検使となり、左驍衛大将軍に改め、刺史の領郡は従前の通りとした。任を代わられて帰還し、滄州知州兼兵馬部署となった。鎔は郡において城塁を修築し、戦具を厳しく整備した。賊寇が嘗て数百騎で境上に至ったが、備え有るを聞き、引き去った。左神武大将軍に遷った。崔翰が州知事となった際に、鎔を本州鈐轄に改めた。
鎔は若い頃より文史に渉猟し、書翰に優れ、晉邸に身を委ね、勤勉謹直をもって眷顧を受けた。本名は容であったが、太宗が鎔と改め、「陶鎔は器を成す所以なり」と言った。鎔は仏教を好み、多くの古書画を蓄えた。三人の子、忠輔は西京左蔵庫副使、忠愿は虞部員外郎、忠厚は内殿崇班。
周瑩
周瑩、瀛州景城の人。右領軍衛上将軍周景の子である。景は家は財に富み、交際を好み、唐・後漢・後周に歴事した。水利に習熟し、嘗て汴口を浚渫し、鄭州郭西の水を中牟渠に導き、滑州の河堤を修築し、累遷してこの官に至った。
太宗が潜邸の時、瑩は側近に給事することができた。即位すると、殿直に補され、武騎卒を率いて泉州・福州を巡警した。兵卒は僅か数百であったが、大賊千余人を捕らえ、供奉官に遷った。天雄軍節度使孫永祐と転運使楊緘がこれを称薦し、また綏州・銀州に使いして辺境の事を按察させ、還奏して旨に叶い、鞍轡庫副使に抜擢された。
五年、高陽関都部署に欠員が生じ、蕃侯の中でこれを領するに足る者がいなかったため、宰相は宣徽使を転じてその任に就かせることを請うた。当時王継英が北院使に任じられていたが、帝は瑩が軍事に練達していると考え、永清軍節度使を授け、兼ねてその任を領させ、三路排陣使とした。瑩に隷属する者に銭仁度という者がおり、頗る軍功があり、虎翼の小校劉斌と争い、殿直閻渥に発覚された。瑩の故を以て、詔して問わず、ただ斌を他の軍に転属させるのみとした。契丹が侵入した際、詔により歩兵を寧辺軍に赴かせて援軍とした。瑩が到着すると、既に寇兵は去っており、即日に駐屯地に還った。帝は聞いて言った、「瑩は何故慎重に少し留まって、不測を示さなかったのか。挙措を軽んじるは、将帥の体たるに非ず」と。
景德の初め、内艱に服し、起復して、王顕に代わり天雄軍都部署兼知軍府事となる。嘗て洺州の騎士千五百人を召して大名に赴かせしが、道中に寇と直に遭遇し、力戦して死傷者あり、瑩は猶ほ其の寇を玩ぶを謂ひ、将に悉く之を誅せんとす。詔して金帛を賜ひ、瑩に諭して其の罪を治むる勿れとす。車駕北巡に、駕前東西貝冀路都部署となる。明年、陝州知事に改め、俄に永興軍府に移り、又邠州に移り、環慶路都部署を兼ぬ。時に夏州内属し、詔して戍兵を省きて還営せしめ、以て饋餉の費を減ず。仍て手詔を以て瑩に諭す、瑩遽に奏して留めんことを乞ひ、以て辺威を張らんとす。上、瑩の庸懦にして智なきを謂ひ、曹瑋を以て之に代へ、澶州知事に徙す。
大中祥符の初め、天平軍節度使に改む。明年、鎮定都部署兼知定州となる。転運使其の曠弛を奏す、澶州知事に徙す。境内屡に寇盗有り、宰相以て瑩の任将帥に居り、威望を以て鎮靖すること能はず、請ふ他郡に徙すべしと。上曰く、「之を閑僻に処するは、適に其の自ら偷ましむるに使ふ爾」と。遂に詔を下して督責し、令して其の擒捕せしむ。時に卒を発して河防を修す、而して軍中に給する糗糧、多く腐敗して食ふべからず、又役使均しからず、瑩恤ひを加へず、以て故に亡命する者衆し。
七年、入朝し、復た還鎮を遣す。又澶淵契丹の衝に当るを以て、其の廩給の厚きを借り、復た命じて澶州を知らしむ。九年、疾に被り、京師に還るを求む。卒す、年六十六、侍中を贈る。初め忠穆と諡し、後ち元惠に改む。其二子供奉官普・顕を録して内殿崇班と為し、二孫永昌・永吉を殿直と為す。
瑩枢近に居り、他に謀略無く、及んで軍旅に蒞み、藩鎮を歴て、功業大いに人に過ぐる者無し。故事に、大礼覃慶に、外藩賜物の例無し。東封の歳、瑩澶淵に鎮し、車駕経る所なるを以て、故に特に関衣・金帯・器帛の賜有り。汾陰を祀り、瑩定州を知る、乃ち預て上言す、「礼成り、賜ふ所の物は治所に於て支給せんことを望む」と。人咸に之を笑ふ。普後ち崇儀副使と為り、顕は内殿承製に至る。
王継英
王継英、開封祥符の人。少く趙普に従ひ筆劄を給す、普河陽を罷めてより、少保と為り、従ふ者皆去るも、継英趨事愈よ謹し。普再び相に入り、継英中書五房院に名を隷す。
時に真宗藩邸に在り、選ばれて導吏兼内知客事と為る。太宗召見し、謂ひて曰く、「汝昔趙普に事へしこと、朕の備く知る所なり。今親賢に奉ず、尤宜く節を尽すべし」と。及んで儲を建つるに、左清道率府副率兼左春坊謁者を授く——謁者は本宦職、副率の品秩頗る崇く、趨走左右する者の為す宜しきに非ざるも、兼ねて之を領せしむ、是れ執政の誤なり。
真宗即位し、擢て引進使と為す。咸平の初め、恩州刺史を領し閤門使を掌ることを兼ね、左神武大将軍・枢密都承旨に遷り、客省使に改む。契丹寇に入り、継英密かに車駕北巡を請ふ、上之に従ひ、即ち継英に命じて馳伝し鎮・定・高陽関に詣り行宮儲頓を閲視し、将士に宣諭せしむ。俄に澶州鈐轄を充つ。会に大将傅潜逗撓して罪を得、継英に令して即ち軍中に召還し属吏せしむ。
尋て三班を掌り、宣徽北院使を拝し、周瑩と枢密院事を同知す。瑩出鎮し、継英遂に枢宥に冠し、小心慎靖にして、勤敏を以て称せられ、上之に倚頼す。
景德の初め、枢密使を授く。旧制に、枢密院使の祖母及び母は止だ郡太夫人に封ず、詔有りて特に関封を加ふ。嘗て軍校を進補するに因り、上に白して曰く、「疏外の人攀附に急なる者は、臣の蒙蔽して薦引せざるを謂ふ」と。上曰く、「此輩縁有るも、亦須らく事に因りて功を立つるを以て、方ち擢用を許すべく、過ぎて僥幸を求むべからず、卿復た言ふ勿れ」と。
初め、継英幼くして孤となり、外氏に寄育す。既に貴し、外王父・諸舅に族殯有る者、時に方に其の子を奏遣して葬を営ましめ、会に卒す、特詔して有司に給辦せしむ。子遵式・遵誨・遵度・遵範、皆顕宦に至る。
王顕
王顕、字は徳明、開封の人。初め殿前司の小吏と為り、太宗藩に居る時、嘗て左右に給事す。性謹介にして、狎を好まず、未だ嘗て市肆を践ます。即位し、殿直を補ひ、稍く供奉官に遷る。
間もなく永興軍を管知し、延州に移る。時に夏臺・益部に寇賊擾乱し、顕上疏して曰く、「近年以来、戎事未だ息まず、李継遷は霊・夏に恩を負い、王小波は巴・邛に紀を干し、河右・坤維並びに師旅を興す。而して継遷は翻然として向化し、子を遣わして入覲し、職貢を修めんことを願う。陛下は曲げて加えて容納し、其の内附を許し、徳信を示し、恩錫を伸べて、以て綏懐する所以の者は至れり。然れども狼子野心、未だ深く信ずべからず。宜しく謹んで屯戍し、城壘を固め、芻糧を積み、然る後に才勇を遴選し、辺任に付し、縦え緩急有るとも、則ち備禦素より有り、彼又奚ぞ能く患を為さんや。至若蜀寇未だ平らかならず、神人共に憤る、謂う宜しく将帥に申飭し、速やかに期して蕩平し、既に老師を免じて財を費やすを免れ、且つ事久しければ則ち変を生ずるを防ぐべし。又況んや邛・蜀は物産殷富、其の間士卒驕怠し、遅留顧恋、実に兼ねて之を有す。往來を憚ること莫く、潜かに更代を為すに若かず、既に其の労逸を均しくし、抑も遷延を免るべし。河北の関防、当に加謹すべき者は、誠に国家方に西南に事とし、密謀興挙す、若し中朝の勢力を分かたば、則ち外寇の姦謀を長ずるなり」と。
時に制ありて沿辺の糧斛は河西を過ぐるを許さず、河西の青塩は界を過ぎて販鬻するを得ず、犯す者は多少を論ぜず、斬に処す。顕は多きを犯す者は法に依り、自余は別に科断を為し、以て其の罪を差うるを請う。章上りて未だ報いず、秦州を管知すべく移る。
初め、温仲舒が州を管知した日、山林を開拓し、藩部を諷して其の地を献ぜしむ。後朝廷嘗て給還すと雖も、而して採伐旧に如し。転運使盧知翰は蕃部に茶綵を量り給いて、以て献ずる所に酬ゆるを請い、詔して張従式を遣わし顕と同往して規度せしむ。顕言う、「乃ち者朝命以て趙保吉に修貢せしめ、辺城務めて安静ならしむ、若し今衆を動かし疆境を開斥せば、便ならず」と。議遂に罷む。
明年、致仕を求め、許さず、河陽三城節度に改む。将に之に鎮せんとす。時に議有りて契丹に親征せんとし、顕言う、「盛寒序に在り、敵未だ塞を犯さず、鑾輿軽挙し、直ちに窮辺に抵る。寇若し逢わずんば、師乃ち先ず老ゆ。況んや今継遷未だ滅せず、西鄙寧かならず、儻し北辺部落、之と結援せば、則ち中国の患、量るべからず。議者は乃ち此時に於いて幽薊を復せんことを請う、計の得たるに非ざるなり。凡そ大事を建議するは、上下協力し、挙げば必ず成功す。今公卿士大夫より庶人に至るまで、尚異同有り、未だ万全の挙と謂うべからず。若し能く将帥を選択し、士卒を訓練し、城壘を堅くし甲兵を繕えば、亦た以て敵を待つに足る。必ずや燕・薊の旧地を復せんと欲すれば、則ち必ず文徳を修め勇鋭を養い、時に之を利し、以て天罰を奉行して而る後可なり」と。
景德初年、天雄軍府を管知すべく移る。又言う、「祖宗以来、多く近臣を命じて軍旅を統領せしむ。今後宣徽使は、宜しく文武群臣の中に辺事に暁達する者を択びて之を為すべし。蓋し位高ければ則ち威名著り、識遠ければ則ち勲労立つ故なり。武臣罪を以て黜せらるる者は、宜しく容貸を加え、一眚を以て遂に廃せず、苟くも之を用うるに恩有らば、必ず其の死力を得、故に曰く『功を使うは過を使うに如かず』と。至若敵に臨みて将を命ずるは、則ち専任を貴び、師を出して敵に応ずるは、則ち将校を約束し、相応援せしむ。是の数者を全うすれば、則ち軍威倍して壮ならん、人心勇を増さん」と。既にして上表して行在に赴かんことを請い、之に従う。是年秋、還鎮を遣わす。
契丹寇に入り、上議して親征せんとす。顕復た三策を陳べ、謂う、「大軍方に鎮・定に在り、契丹必ず南侵せず、車駕止だ澶淵に駐し、詔して鎮・定に出兵し、会して河南軍、合撃するも可なり。若し契丹母子虚勢を張り、以て我が師に抗し、潜かに鋭兵を遣わし南攻して駕前諸軍に及ばば、則ち鎮・定の師を令して直ちに戎帳を衝き、其の営砦を攻めしめば、則ち沿河の遊兵戦わずして自ら屈せん。然らずんば騎兵千・歩兵三千を濮州に遣わし河を渡り、横に澶州を掠め、大軍を継ぎて北を追い掩撃せしむるも、亦た其の不意に出づるなり」と。已にして契丹盟を請い、趙徳明使いを遣わし貢を修め藩を称す。朝廷賞錫を加え、且つ青塩を通ずるを許して以て辺民を済わしむ、顕の請いに従うなり。
顕は三班より数年ならずして正に枢任に至り、獎擢の速き、時に之に擬する者無し。顕が吏軍司の時、張永徳は滑州節度を以て殿前都点検と為る。及び顕枢密より自ら孟津に鎮し兼ねて相帥と為り、永徳は太子太師より相帥と為り、同日宣制す。永徳兼大夫反って顕の下に在り、時人之を訝る。顕中に居りて執政し、矯情を以て胥吏を厚くし、齪齪として自ら固むるのみ。藩鎮に在りては、頗る部曲を縦して下を擾わし、論者之を非とす。
子希逸、字は仲莊、蔭を以て供奉官に補う。好学し、尤も唐史に熟し、書万余巻を聚む。秩を換えて朝奉大夫・太子中允を授く。咸平初年、殿中丞・直史館に改め、『冊府元亀』の修撰に預かり、祠部員外郎を加え、卒す。希範は如京副使に至る。
論ずるに、柴禹錫より以下、多くは藩邸に給事することにより、攀附して通顕に至る者凡そ七人。若し守一の質直、趙鎔の勤謹、労に服すること久しといえども益々その職を修むるは、則ちその眷遇を受くるも宜なり。張遜は理財に優るも冒嫉を免れず、周瑩は軍旅に練習するも酷濫に傷つくこと頗るあり、禹錫は素より勤敏と称せられながら朋比に渉らざるを得ず、王顯は謹介自ら将うといえども学識に暗し、故に齪齪の譏を逃れず。若し勤謹を以て信任を受け、耆徳枢宥に冠たり、而して善終すること始めの如きは、其れ惟れ継英か。《易》に曰く、「君子終わり有り、吉。」と。これを謂うなり。