宋史

列傳第二十七 柴禹錫 張遜 楊守一 趙鎔 周瑩 王繼英 王顯

列傳第二十七 柴禹錫 張遜 楊守一 趙鎔 周瑩 王繼英 王顯

柴禹錫

原文柴禹錫

柴禹錫、字は玄圭、大名の人なり。少時、客有りて之を見て曰く、「子の質、凡ならず、若し経術を以て輔くれば、必ず将相に致さん」と。禹錫是に由りて問学に心を留む。時に太宗、晋邸に居し、善く応対するを以て、給事することを獲たり。太平興国初、供奉官を授く。三年、翰林副使に改め、如京使に遷り、仍りて翰林司を掌る。毎夜直すに、上は藩府の旧僚を以て、多く召して外事を訪ふ。宣徽北院使に遷り、第を宝積坊に賜ふ。秦王廷美の陰謀を告げ、枢密副使に擢でらる。一年を踰へて、南院使に転ず。労に服すること既に久しく、益々勤敏を加ふ。

原文柴禹錫,字玄圭,大名人。少時,有客見之曰:「子質不凡,若輔以經術,必致將相。」禹錫由是留心問學。時太宗居晉邸,以善應對,獲給事焉。太平興國初,授供奉官。三年,改翰林副使,遷如京使,仍掌翰林司。每夜直,上以藩府舊僚,多召訪外事。遷宣徽北院使,賜第寶積坊。告秦王廷美陰謀,擢樞密副使。踰年,轉南院使。服勞既久,益加勤敏。

雍熙中、宮城を広むるを議す。禹錫別業有りて表識の中に在り、官邸を以て易ふるを請ふ。上是に因りて之を薄しむ。又宰相宋琪と厚く善し。会に広州徐休復密に転運使王延範の不軌の状を奏し、且つ言ふ、大臣に倚附し、敢えて動揺する者無しと。上因りて琪及び禹錫に訪ひて曰く、「延範は何如なる人ぞ」と。延範は琪の妻と疏属たり、甚だ其の忠勤を言ひ、禹錫も亦傍らに之を讃す。上其の交通を意ひ、滋に悦ばず。禹錫又琪の為に盧多遜の故第を請ふ。上益々其の朋比を悪む。琪を坐して詼諧を以て相を罷むるも、顕はに之を言はんと欲せざるなり。詔を下し禹錫を切責し、驍ぎょう衛大将軍を以て出でて滄州を知らしむ。任に在りて政治に勤め、部民濱州に詣りて状を列ねて以て聞こゆ。涪州観察使に改め、澶・鎮二州駐泊部署に徙り、俄に潞州を知る。州民留まること三載を乞ふ。詔を以て之を奨む。永興軍府を知るに徙り、再び召されて宣徽北院使・知枢密院事と為る。

原文雍熙中,議廣宮城。禹錫有別業在表識中,請以易官邸,上因是薄之。又與宰相宋琪厚善。會廣州徐休復密奏轉運王延範不軌狀,且言倚附大臣,無敢動搖者。上因訪琪及禹錫曰:「延範何如人?」延範與琪妻為疏屬,甚言其忠勤,禹錫亦傍讚之。上意其交通,滋不悅。禹錫又為琪請盧多遜故第,上益惡其朋比。坐琪以詼諧罷相,不欲顯言之也。下詔切責禹錫,以驍衛大將軍出知滄州。在任勤於政治,部民詣濱州列狀以聞。改涪州觀察使,徙澶、鎮二州駐泊部署,俄知潞州,州民乞留三載,詔獎之。徙知永興軍府,再召為宣徽北院使、知樞密院事。

至道初、制して鎮寧軍節度・涇州知事を受く。入謝の日、上謂ひて曰く、「宣徽を罷むる者は防禦使に過ぎざる爾、今卿に旌節を委ね、之に重鎮を兼ぬ、優異と謂ふべし」と。禹錫流涕哽咽するのみ。咸平中、貝州知事に移る。是の歳、契丹兵奄として城下に至る。禹錫内に備禦を厳にし、寇尋いで引き去る。明年、陝州に徙る。

原文至道初,制受鎮寧軍節度、知涇州。入謝日,上謂曰:「由宣徽罷者不過防禦使爾,今委卿旌節,兼之重鎮,可謂優異矣。」禹錫流涕哽咽而已。咸平中,移知貝州。是歲,契丹兵奄至城下,禹錫內嚴備禦,寇尋引去。明年,徙陝州。

景德初、子宗慶選ばれて尚す。禹錫を召して帰闕せしめ、公主をして第に就き謁見せしめ、舅姑の礼を行はしむ。固く辞すれども許さず。頃くして、鎮に還る。未だ幾もせず、卒す。年六十二。太尉を贈らる。子宗亮、太子中允。宗慶、永清軍節度。

原文景德初,子宗慶選尚,召禹錫歸闕,令公主就第謁見,行舅姑禮,固辭不許。頃之,還鎮。未幾,卒,年六十二,贈太尉。子宗亮,太子中允;宗慶,永清軍節度。

張遜

原文張遜

張遜、博州高唐の人なり。数歳にして父を喪ひ、叔父職方員外郎幹に養はる。後に母に随ひて魏仁浦の家に帰る。駙馬都尉咸信、其の異父弟なり。太宗、晋邸に在り、召して帳下に隷す。太平興国初、左班殿直を補ふ。太原に従征して還り、文思副使に遷り、再び香薬庫使に遷る。嶺南平んだ後、交阯歳に入貢し、関市を通ず。並海の商人遂に舶を浮かべて外国の物を販易し、闍婆・三仏斉・渤泥・占城諸国も亦歳に至りて朝貢す。是に由りて犀象・香薬・珍異府庫に充溢す。遜京に榷易署を置くことを請ひ、稍く其の価を増し、商の金帛を入れて之を市ふを聴き、其の販鬻を恣にす。歳に銭五十万緡を獲べく、以て経費を済さんと。太宗之を允す。一年中果たして三十万緡を得たり。是より歳に増羨有りて、五十万に至る。

原文張遜,博州高唐人。數歲喪父,養於叔父職方員外郎幹,後隨母歸魏仁浦家,駙馬都尉咸信,其異父弟也。太宗在晉邸,召隸帳下。太平興國初,補左班殿直。從征太原還,遷文思副使,再遷香藥庫使。嶺南平後,交阯歲入貢,通關市。並海商人遂浮舶販易外國物,闍婆、三佛齊、渤泥、占城諸國亦歲至朝貢,由是犀象、香藥、珍異充溢府庫。遜請於京置榷易署,稍增其價,聽商入金帛市之,恣其販鬻,歲可獲錢五十萬緡,以濟經費。太宗允之,一歲中果得三十萬緡。自是歲有增羨,至五十萬。

雍熙二年、其の労を録し、媯州刺史を領すに遷す。三年、安忠と並びて命を東上閤門使と為す。数月、会に許仲宣度支を判するを罷む。即ち遜を以て度支使と為す。端拱初、塩鉄使に遷る。二年、宣徽北院使・簽署枢密院事を授く。未だ幾もせず、枢密副使・知院事を兼ぬ。同列の寇準と協はず、毎に事を奏するに、頗る相矛盾す。

原文雍熙二年,錄其勞,遷領媯州刺史。三年,與安忠並命為東上閤門使。數月,會許仲宣罷判度支,即以遜為度支使。端拱初,遷鹽鐵使。二年,授宣徽北院使、簽署樞密院事。未幾,兼樞密副使、知院事。與同列寇準不協,每奏事,頗相矛盾。

一日、遜等晩く私第に帰る。準と温仲舒並轡す。狂民有りて馬首を迎へ拝して万歳を呼ぶ。街使王賓旧に遜と晋邸に同事し、遜又嘗て賓を挙ぐ。雅く相厚く善し。因りて民の準を迎へ拝して万歳を呼ぶを奏す。準自ら弁す、「実に仲舒と同行す。蓋し遜の賓をして独り臣を奏斥せしむるなり」と。辞意倶に厲しく、因りて互ひに其の私を発す。太宗之を悪み、詔を下して切責す。遜左降して右領軍衛将軍と為り、準も亦職を罷む。会に右金吾街仗を判ずる蔡玉、富人子を州大校と為すを冒奏し、官を黜かる。遜を命じて其の事を代はらしむ。

原文一日,遜等晚歸私第,準與溫仲舒並轡,有狂民迎馬首拜呼萬歲。街使王賓舊與遜同事晉邸,遜又嘗舉賓,雅相厚善,因奏民迎準拜呼萬歲。準自辯:「實與仲舒同行,蓋遜令賓獨奏斥臣。」辭意俱厲,因互發其私。太宗惡之,下詔切責,遜左降右領軍衛將軍,準亦罷職。會判右金吾街仗蔡玉冒奏富人子為州大校,黜官,命遜代掌其事。

西蜀しょく李順乱を為す。詔して兵を発し水陸進討せしむ。荊渚其の要害に居るを以て、遜を右驍衛大将軍・江陵府知事と為すことを命じ、銭二百万、白金三千両を賜ふ。遜既に至り、会すに峡路諸漕の卒数千人江陵に聚まる。其の謀を変じて蜀寇に応ぜんとする有るを告ぐ。府中議ひて尽く之を誅せんと欲す。遜首悪の楊承進等二十一人を捕へて市に斬るに止め、余党親しく加へて慰撫し、飛奏を以て聞こゆ。太宗之を嘉し、詔して其の卒を州郡に分配せしむ。数月、遜卒す。年五十六。時に至道元年なり。桂州観察使を贈られ、京師に帰葬す。遜小心謹慎、徒に攀附を以て貴顕に至る。其の訏謀献替聞こゆる無し。

原文西蜀李順為亂,詔發兵水陸進討,以荊渚居其要害,命遜為右驍衛大將軍、知江陵府,賜錢二百萬,白金三千兩。遜既至,會峽路諸漕卒數千人聚江陵,有告其謀變以應蜀寇,府中議欲盡誅之。遜止捕首惡楊承進等二十一人斬於市,餘黨親加慰撫,飛奏以聞。太宗嘉之,詔以其卒分配州郡。數月,遜卒,年五十六,時至道元年也。贈桂州觀察使,歸葬京師。遜小心謹慎,徒以攀附至貴顯,其訏謀獻替無聞焉。

子敏中、初め供奉官を補ふ。遜宣徽に在り、表を上りて嘗て文を業とし、改秩を願ふと言ふ。即ち大理寺丞に換へ、累りて比部郎中に至る。次子虚中、宗室申国公の女を娶り、供奉官・閤門祗候に至る。敏中の子先、進士及第す。

原文子敏中,初補供奉官,遜在宣徽,表言嘗業文,願改秩,即換大理寺丞,累至比部郎中。次子虛中,娶宗室申國公女,至供奉官、閤門祗候。敏中子先,進士及第。

楊守一

原文楊守一

楊守一、字は象先、其の先は河南洛陽らくようの人なり。唐末乱を避け、家を宋・鄭の間に徙す。守一稍く『周易』及び『左氏春秋』に通じ、太宗に事へて晋邸に在り。太宗即位し、右班殿直を補ふ。太平興国中、出でて登州兵を護る。召し還されて儀鸞司を監む。累遷して西頭供奉官と為る。其の下多く貴族の子弟、頗る豪縱徼幸す。始めて三班院を置き、守一をして其の事を専にせしむ。考核授任、漸く条制有り。歳余、翰林学士に改む。守一初め名は守素、是に至りて詔して之を改む。

原文楊守一,字象先,其先河南洛陽人。唐末避亂,徙家宋、鄭間。守一稍通《周易》及《左氏春秋》,事太宗於晉邸。太宗即位,補右班殿直。太平興國中,出護登州兵。召還,監儀鸞司。累遷西頭供奉官,其下多貴族子弟,頗豪縱徼幸。始置三班院,令守一專其事,考核授任,漸有條制。歲餘,改翰林學士。守一初名守素,至是詔改之。

七年、趙鎔・柴禹錫・相里勳らとともに秦王廷美の陰謀事を告発し、東上閤門使兼樞密都承旨に抜擢された。八年、判四方館事に改めた。雍熙年間、詔により雲州・朔州より帰附した安慶の兵を護送し潞州に駐屯させた。三年、内客省使に転じ、引き続き都承旨を兼ねた。端拱元年、宣徽北院使・簽署樞密院事を授かった。この秋、卒去、六十四歳。太尉を追贈し、中使が葬儀を監督した。

原文七年,與趙鎔、柴禹錫、相里勳等告秦王廷美陰謀事,擢東上閤門使兼樞密都承旨。八年,改判四方館事。雍熙中,詔護遷雲、朔歸附安慶兵屯於潞州。三年,轉內客省使,仍兼都承旨。端拱元年,授宣徽北院使、簽署樞密院事。是秋,卒,年六十四。贈太尉,中使護葬。

守一の性質は質直で勤勉謹直であったが、他の才能や術策はなく、ただ王府に始まり、長く側近に仕え、時機に適っただけである。故に職を歴任して高位に至り、死後の礼遇も、すべて通常の定数を上回った。子の安期は国子博士を歴任したが、事に坐して貶謫され、その地で卒した。安期の子夢得は進士に及第した。

原文守一性質直勤謹,無他材術,徒以肇自王府,久事左右,適會時機,故歷職通顯,飾終之禮,率加常數焉。子安期歷國子博士,坐事貶卒。安期子夢得,進士及第。

趙鎔

原文趙鎔

趙鎔、字は化鈞、滄州楽陵の人。刀筆吏として太宗が藩王であった時に仕え、即位すると、東頭供奉官に補された。呉越に使いして国信を賜るに及び、また銭俶が土地を献納した際には、その倉庫を検校することを遣わされ、内酒坊副使に転じた。秦王廷美の陰事を告発したことにより、六宅使に昇進し、羅州刺史を領した。翰林司を掌り、東上閤門使に抜擢された。

原文趙鎔,字化鈞,滄州樂陵人。以刀筆事太宗於藩邸,即位,補東頭供奉官。因使吳越賜國信,及錢俶納土,遣檢校帑廩,轉內酒坊副使。以告秦王廷美陰事,遷六宅使,領羅州刺史。掌翰林司,擢東上閤門使。

郭贄が参知政事となると、鎔は同じ府にいた旧縁により、嘗て請託をしたことがあったが、贄は従わなかった。鎔は堂吏の過失を摘発して上聞に達し、贄は帝に拝謁し、鎔が私的に謁見したことを訴えた。即座に鎔を召して朝廷で弁明させたが、言葉に窮し、出されて梓州・遂州都巡検使となり、左驍衛大将軍に改め、刺史の領郡は従前の通りとした。任を代わられて帰還し、滄州知州兼兵馬部署となった。鎔は郡において城塁を修築し、戦具を厳しく整備した。賊寇が嘗て数百騎で境上に至ったが、備え有るを聞き、引き去った。左神武大将軍に遷った。崔翰が州知事となった際に、鎔を本州鈐轄に改めた。

原文郭贄參知政事,鎔以同府之舊,嘗有所請托,贄不從。鎔摭堂吏過失以聞,贄見上,白鎔私謁,即召鎔廷辯。詞屈,出為梓、遂州都巡檢使,改左驍衛大將軍,領郡如故。代還,知滄州兼兵馬部署。鎔在郡完城塹,嚴戰具。寇嘗數百騎至境上,聞有備,引去。遷左神武大將軍。會崔翰知州,改鎔為本州鈐轄。

また廬州知州となり、対面の際に、自ら留まることを願い出たが、許されなかった。一年余りして、召されて樞密都承旨となり、三班を同掌し、間もなく宣徽北院使・同知樞密院事に任じられ、柴禹錫とともに機務を掌った。嘗て吏卒に変装させ、京城中に散らして事情を探らせた。兵卒が酔って書売りの韓玉と殴り合いをし、勝てず、そこで韓玉が指斥に及ぶ言葉を言ったと誣告した。禹錫らは直ちにこれを上聞し、韓玉は法に坐して処刑された。太宗は後にその冤罪を知り、以後は探事を再び聞き入れなかった。禹錫が出鎮すると、鎔は知院事を加えられた。真宗が即位すると、南院使・検校太傅に改め、心疾を理由に解任を求めた。この秋、寿州観察使を授かった。咸平元年三月、卒去、五十五歳。忠正軍節度使を追贈し、三人の子に官を録した。

原文又知廬州,因對,自陳願留,不許。踰年,召為樞密都承旨,同掌三班,俄拜宣徽北院使、同知樞密院事,與柴禹錫並掌機務。嘗遣吏卒變服,散之京城察事。卒乘醉與賣書人韓玉鬥毆,不勝,因誣玉言涉指斥。禹錫等遽以聞,玉坐抵法。太宗尋知其冤,自後廉事不復聽。禹錫出鎮,鎔加知院事。真宗即位,改南院使、檢校太傅,以心疾求解。是秋,授壽州觀察使。咸平元年三月,卒,年五十五。贈忠正軍節度,錄其三子官。

鎔は若い頃より文史に渉猟し、書翰に優れ、晉邸に身を委ね、勤勉謹直をもって眷顧を受けた。本名は容であったが、太宗が鎔と改め、「陶鎔は器を成す所以なり」と言った。鎔は仏教を好み、多くの古書画を蓄えた。三人の子、忠輔は西京左蔵庫副使、忠愿は虞部員外郎、忠厚は内殿崇班。

原文鎔少涉獵文史,美書翰,委質晉邸,以勤謹被眷。本名容,太宗改為鎔,曰:「陶鎔所以成器也。」鎔性好佛,多蓄古書畫。三子:忠輔,西京左藏庫副使;忠愿,虞部員外郎;忠厚,內殿崇班。

周瑩

原文周瑩

周瑩、瀛州景城の人。右領軍衛上将軍周景の子である。景は家は財に富み、交際を好み、唐・後漢・後周に歴事した。水利に習熟し、嘗て汴口を浚渫し、鄭州郭西の水を中牟渠に導き、滑州の河堤を修築し、累遷してこの官に至った。

原文周瑩,瀛州景城人。右領軍衛上將軍景之子也。景家富財,好交結,歷事唐、漢、周。習水利,嘗浚汴口,導鄭州郭西水入中牟渠,修滑州河堤,累遷至是官。

太宗が潜邸の時、瑩は側近に給事することができた。即位すると、殿直に補され、武騎卒を率いて泉州・福州を巡警した。兵卒は僅か数百であったが、大賊千余人を捕らえ、供奉官に遷った。天雄軍節度使孫永祐と転運使楊緘がこれを称薦し、また綏州・銀州に使いして辺境の事を按察させ、還奏して旨に叶い、鞍轡庫副使に抜擢された。

原文太宗潛邸時,瑩得給事左右。即位,補殿直,領武騎卒巡警泉、福州。卒才數百,捕劇賊千餘,遷供奉官。天雄軍節度孫永祐、轉運使楊緘稱薦之,又使綏、銀州按邊事,還奏稱旨,擢鞍轡庫副使。

雍熙二年、杭・睦五州都巡検使兼杭州都監となった。妖僧紹倫が変事を起こすと、瑩はこれを擒獲し、逮捕して誅戮に就かせた者は三百余人に及び、人々は酷く濫りであると思った。代わられて帰還し、崇儀使・滄州都監に改めた。召されて西上閤門使に任じられ、鎮州・定州・高陽関都監を領し、判四方館事を加えられた。郝守浚とともに宋州の黄河決壊を護塞し、間もなく三路排陣鈐轄に改め、天雄軍・真定二府の知事を歴任し、そのまま引進使に遷った。

原文雍熙二年,為杭、睦五州都巡檢使兼杭州都監。會妖僧紹倫為變,瑩擒獲之,逮捕就戮者三百餘人,人以為酷濫。代還,改崇儀使、滄州都監。召拜西上閤門使,領鎮、定、高陽關都監,加判四方館事。與郝守浚護塞宋州決河,俄改三路排陣鈐轄,歷知天雄軍、真定二府,就遷引進使。

至道二年、代わられて帰還した。李継隆が西夏を討つに際し、詔により瑩を軍前に赴かせ、機密事を授け、還って客省使に任じ、簽書樞密院諸房公事とし、間もなく宣徽諸房・鼓司・登聞院の提点を兼ね、劉承珪とともに任じられた。

原文至道二年,代還。會李繼隆討西夏,詔瑩詣軍前,授以機事,還拜客省使,簽書樞密院諸房公事,俄兼提點宣徽諸房、鼓司、登聞院,與劉承珪並任。

真宗が嗣位すると、承珪が河北に分使して告諭した際、富州刺史を加領した。帝はその母が老病であると聞き、これを哀れみ、特に武功郡太夫人に封じた。秋、宣徽北院使に任じられた。先に、宣徽の位次は樞密副使の上にあったが、瑩は表を上って下位に居ることを請い、従われた。咸平二年、大閲兵を行い、随駕部署に命じられた。河朔に征従し、また駕前馬歩都部署となった。

原文真宗嗣位,承珪分使河北告諭,加領富州刺史。上聞其母老病,閔之,特封武功郡太夫人。秋,拜宣徽北院使。先是,宣徽著位在樞密副使上,瑩表請居下,從之。咸平二年,大閱,命為隨駕部署。從征河朔,又為駕前馬步都部署。

三年、南院使・知樞密院事に遷った。蜀が平定された際、脅従者数十百人を部送して闕下に至らせた。西川転運使馬亮が入奏の機に、その罪を赦して遣還することを請うた。瑩はこれを全て誅殺すべきであると考えた。瑩と亮に朝廷で議論させたところ、帝は亮の議を是とし、悉くその罪を赦した。

原文三年,遷南院使、知樞密院事。會蜀平,部送脅從者數十百人至闕下。西川轉運使馬亮因入奏,請赦其罪遣還。瑩以為當盡誅之。令瑩、亮廷議,上是亮議,悉原其罪。

五年、高陽関都部署に欠員が生じ、蕃侯の中でこれを領するに足る者がいなかったため、宰相は宣徽使を転じてその任に就かせることを請うた。当時王継英が北院使に任じられていたが、帝は瑩が軍事に練達していると考え、永清軍節度使を授け、兼ねてその任を領させ、三路排陣使とした。瑩に隷属する者に銭仁度という者がおり、頗る軍功があり、虎翼の小校劉斌と争い、殿直閻渥に発覚された。瑩の故を以て、詔して問わず、ただ斌を他の軍に転属させるのみとした。契丹が侵入した際、詔により歩兵を寧辺軍に赴かせて援軍とした。瑩が到着すると、既に寇兵は去っており、即日に駐屯地に還った。帝は聞いて言った、「瑩は何故慎重に少し留まって、不測を示さなかったのか。挙措を軽んじるは、将帥の体たるに非ず」と。

原文五年,高陽關都部署闕,蕃侯無足領之者,宰相請輟宣徽使以居其任。時王繼英任北院,上以瑩練達軍事,乃拜永清軍節度,兼領其任,為三路排陣使。瑩隸人有錢仁度者,頗有軍功,與虎翼小校劉斌相競,為殿直閻渥所發。以瑩故,詔勿問,止徙斌隸他軍。契丹入寇,詔步兵赴寧邊軍為援。瑩至,則寇兵已去,即日還屯所。上聞曰:「瑩何不持重少留,示以不測。輕於舉措,非將帥體也。」

景德の初め、内艱に服し、起復して、王顕に代わり天雄軍都部署兼知軍府事となる。嘗て洺州の騎士千五百人を召して大名に赴かせしが、道中に寇と直に遭遇し、力戦して死傷者あり、瑩は猶ほ其の寇を玩ぶを謂ひ、将に悉く之を誅せんとす。詔して金帛を賜ひ、瑩に諭して其の罪を治むる勿れとす。車駕北巡に、駕前東西貝冀路都部署となる。明年、陝州知事に改め、俄に永興軍府に移り、又邠州に移り、環慶路都部署を兼ぬ。時に夏州内属し、詔して戍兵を省きて還営せしめ、以て饋餉の費を減ず。仍て手詔を以て瑩に諭す、瑩遽に奏して留めんことを乞ひ、以て辺威を張らんとす。上、瑩の庸懦にして智なきを謂ひ、曹瑋を以て之に代へ、澶州知事に徙す。

原文景德初,丁內艱,起復,代王顯為天雄軍都部署兼知軍府事。嘗召洺州騎士千五百人赴大名,道與寇直,力戰,有死傷者,瑩猶謂其玩寇,將悉誅之。詔賜金帛,諭瑩勿治其罪。車駕北巡,為駕前東西貝冀路都部署。明年,改知陝州,俄徙永興軍府,又移邠州,兼環慶路都部署。時夏州內屬,詔省戍兵還營,以減饋餉之費。仍手詔諭瑩,瑩遽奏乞留,以張邊威。上謂瑩庸懦不智,以曹瑋代之,徙知澶州。

大中祥符の初め、天平軍節度使に改む。明年、鎮定都部署兼知定州となる。転運使其の曠弛を奏す、澶州知事に徙す。境内屡に寇盗有り、宰相以て瑩の任将帥に居り、威望を以て鎮靖すること能はず、請ふ他郡に徙すべしと。上曰く、「之を閑僻に処するは、適に其の自ら偷ましむるに使ふ爾」と。遂に詔を下して督責し、令して其の擒捕せしむ。時に卒を発して河防を修す、而して軍中に給する糗糧、多く腐敗して食ふべからず、又役使均しからず、瑩恤ひを加へず、以て故に亡命する者衆し。

原文大中祥符初,改天平軍節度。明年,為鎮定都部署兼知定州。轉運使奏其曠弛,徙知澶州,境內屢有寇盜,宰相以瑩任居將帥,不能以威望鎮靖,請徙他郡。上曰:「處之閑僻,適使其自偷爾。」遂下詔督責,令其擒捕。時發卒修河防,而軍中所給糗糧,多腐敗不可食;又役使不均,瑩不加恤,以故亡命者眾。

七年、入朝し、復た還鎮を遣す。又澶淵契丹の衝に当るを以て、其の廩給の厚きを借り、復た命じて澶州を知らしむ。九年、疾に被り、京師に還るを求む。卒す、年六十六、侍中を贈る。初め忠穆と諡し、後ち元惠に改む。其二子供奉官普・顕を録して内殿崇班と為し、二孫永昌・永吉を殿直と為す。

原文七年,入朝,復遣還鎮。又以澶淵當契丹之衝,借其廩給之厚,復命知澶州。九年,被疾,求還京師。卒,年六十六,贈侍中。初諡忠穆,後改元惠。錄其二子供奉官普、顯為內殿崇班,二孫永昌、永吉為殿直。

瑩枢近に居り、他に謀略無く、及んで軍旅に蒞み、藩鎮を歴て、功業大いに人に過ぐる者無し。故事に、大礼覃慶に、外藩賜物の例無し。東封の歳、瑩澶淵に鎮し、車駕経る所なるを以て、故に特に関衣・金帯・器帛の賜有り。汾陰を祀り、瑩定州を知る、乃ち預て上言す、「礼成り、賜ふ所の物は治所に於て支給せんことを望む」と。人咸に之を笑ふ。普後ち崇儀副使と為り、顕は内殿承製に至る。

原文瑩居樞近,無他謀略,及蒞軍旅,歷藩鎮,功業無大過人者。故事,大禮覃慶,外藩無賜物例。東封歲,瑩鎮澶淵,車駕所經,故特有襲衣、金帶、器帛之賜。祀汾陰,瑩知定州,乃預上言:「禮成,所賜望於治所支給。」人咸笑之。普後為崇儀副使,顯至內殿承製。

王継英

原文王繼英

王継英、開封祥符の人。少く趙普に従ひ筆劄を給す、普河陽を罷めてより、少保と為り、従ふ者皆去るも、継英趨事愈よ謹し。普再び相に入り、継英中書五房院に名を隷す。

原文王繼英,開封祥符人。少從趙普給筆劄,普自罷河陽,為少保,從者皆去,繼英趨事逾謹。普再入相,繼英隸名中書五房院。

時に真宗藩邸に在り、選ばれて導吏兼内知客事と為る。太宗召見し、謂ひて曰く、「汝昔趙普に事へしこと、朕の備く知る所なり。今親賢に奉ず、尤宜く節を尽すべし」と。及んで儲を建つるに、左清道率府副率兼左春坊謁者を授く——謁者は本宦職、副率の品秩頗る崇く、趨走左右する者の為す宜しきに非ざるも、兼ねて之を領せしむ、是れ執政の誤なり。

原文時真宗在藩邸,選為導吏兼內知客事。太宗召見,謂曰:「汝昔事趙普,朕所備知。今奉親賢,尤宜盡節。」及建儲,授左清道率府副率兼左春坊謁者——謁者本宦職,副率品秩頗崇,非趨走左右者所宜為,俾兼領之,執政之誤也。

真宗即位し、擢て引進使と為す。咸平の初め、恩州刺史を領し閤門使を掌ることを兼ね、左神武大将軍・枢密都承旨に遷り、客省使に改む。契丹寇に入り、継英密かに車駕北巡を請ふ、上之に従ひ、即ち継英に命じて馳伝し鎮・定・高陽関に詣り行宮儲頓を閲視し、将士に宣諭せしむ。俄に澶州鈐轄を充つ。会に大将傅潜逗撓して罪を得、継英に令して即ち軍中に召還し属吏せしむ。

原文真宗即位,擢為引進使。咸平初,領恩州刺史兼掌閤門使,遷左神武大將軍、樞密都承旨,改客省使。契丹入寇,繼英密請車駕北巡,上從之,即命繼英馳傳詣鎮、定、高陽關閱視行宮儲頓,宣諭將士。俄充澶州鈐轄。會大將傅潛逗撓得罪,令繼英即軍中召還屬吏。

尋て三班を掌り、宣徽北院使を拝し、周瑩と枢密院事を同知す。瑩出鎮し、継英遂に枢宥に冠し、小心慎靖にして、勤敏を以て称せられ、上之に倚頼す。

原文尋掌三班,拜宣徽北院使,與周瑩同知樞密院事。瑩出鎮,繼英遂冠樞宥,小心慎靖,以勤敏稱,上倚賴之。

景德の初め、枢密使を授く。旧制に、枢密院使の祖母及び母は止だ郡太夫人に封ず、詔有りて特に関封を加ふ。嘗て軍校を進補するに因り、上に白して曰く、「疏外の人攀附に急なる者は、臣の蒙蔽して薦引せざるを謂ふ」と。上曰く、「此輩縁有るも、亦須らく事に因りて功を立つるを以て、方ち擢用を許すべく、過ぎて僥幸を求むべからず、卿復た言ふ勿れ」と。

原文景德初,授樞密使。舊制,樞密院使祖母及母止封郡太夫人,有詔特加國封。嘗因進補軍校,白上曰:「疏外之人急於攀附者,謂臣蒙蔽不為薦引。」上曰:「此輩雖有夤緣,亦須因事立功,方許擢用,不可過求僥幸,卿勿復言也。」

幸に従ひ澶州に至り、契丹和を請ふ、経略を諏訪するに、継英預る。明年郊祀し、特進・検校太傅を加ふ。三年、卒す、年六十一。上臨みて之を哭し、白金五千両を賜ひ、太尉・侍中を贈り、恭懿と諡す。且つ其の祖父を葬り、其の妻賈に長楽郡太夫人を贈り、其の子婿・門下親吏数十人を録す。

原文從幸澶州,契丹請和,諏訪經略,繼英預焉。明年郊祀,加特進、檢校太傅。三年,卒,年六十一。上臨哭之,賜白金五千兩,贈太尉、侍中,諡恭懿。且為葬其祖父,贈其妻賈長樂郡太夫人,錄其子婿、門下親吏數十人。

初め、継英幼くして孤となり、外氏に寄育す。既に貴し、外王父・諸舅に族殯有る者、時に方に其の子を奏遣して葬を営ましめ、会に卒す、特詔して有司に給辦せしむ。子遵式・遵誨・遵度・遵範、皆顕宦に至る。

原文初,繼英幼孤,寄育外氏。既貴,外王父、諸舅有族殯者,時方奏遣其子營葬,會卒,特詔有司給辦焉。子遵式、遵誨、遵度、遵範,皆至顯宦。

王顕

原文王顯

王顕、字は徳明、開封の人。初め殿前司の小吏と為り、太宗藩に居る時、嘗て左右に給事す。性謹介にして、狎を好まず、未だ嘗て市肆を践ます。即位し、殿直を補ひ、稍く供奉官に遷る。

原文王顯,字德明,開封人。初為殿前司小吏,太宗居藩,嘗給事左右。性謹介,不好狎,未嘗踐市肆。即位,補殿直,稍遷供奉官。

太平興国三年、軍器庫副使を授けられ、尚食使に遷る。踰年、郭昭敏と並び東上閤門使と為る。八年春、宣徽南院使兼枢密副使を拝す。是の夏、制して枢密使を授く。上之に謂ひて曰く、「卿世家本儒なり、少く乱に遭ひ学を失ふ、今朕が機務を典む、暇無く群書を博覽す、能く《軍戒》三篇を熟せば、亦た面牆を免るべし」と。因りて是の書及び道德坊の宅一区を取て之に賜ふ。

原文太平興國三年,授軍器庫副使,遷尚食使。踰年,與郭昭敏並為東上閤門使。八年春,拜宣徽南院使兼樞密副使。是夏,制授樞密使。上謂之曰:「卿世家本儒,少遭亂失學,今典朕機務,無暇博覽群書,能熟《軍戒》三篇,亦可免於面牆矣。」因取是書及道德坊宅一區賜之。

その後、居位すること既に久しく、機務益々繁雑となり、副使趙昌言・寇準は鋒気共に鋭く、王顕を軽んじ、顕或いは失誤し、短所を庇い終えて肯えて改めず、上は毎度面を戒めた。淳化三年八月、詔を下して切に責め、随州刺史に貶授し、崇信軍節度・観察等使を充て、之を任に遣わした。

原文其後居位既久,機務益繁,副使趙昌言、寇準鋒氣皆銳,慢顯,顯或失誤,護短終不肯改,上每面戒之。淳化三年八月,詔加切責,黜授隨州刺史,充崇信軍節度、觀察等使,遣之任。

間もなく永興軍を管知し、延州に移る。時に夏臺・益部に寇賊擾乱し、顕上疏して曰く、「近年以来、戎事未だ息まず、李継遷は霊・夏に恩を負い、王小波は巴・邛に紀を干し、河右・坤維並びに師旅を興す。而して継遷は翻然として向化し、子を遣わして入覲し、職貢を修めんことを願う。陛下は曲げて加えて容納し、其の内附を許し、徳信を示し、恩錫を伸べて、以て綏懐する所以の者は至れり。然れども狼子野心、未だ深く信ずべからず。宜しく謹んで屯戍し、城壘を固め、芻糧を積み、然る後に才勇を遴選し、辺任に付し、縦え緩急有るとも、則ち備禦素より有り、彼又奚ぞ能く患を為さんや。至若蜀寇未だ平らかならず、神人共に憤る、謂う宜しく将帥に申飭し、速やかに期して蕩平し、既に老師を免じて財を費やすを免れ、且つ事久しければ則ち変を生ずるを防ぐべし。又況んや邛・蜀は物産殷富、其の間士卒驕怠し、遅留顧恋、実に兼ねて之を有す。往來を憚ること莫く、潜かに更代を為すに若かず、既に其の労逸を均しくし、抑も遷延を免るべし。河北の関防、当に加謹すべき者は、誠に国家方に西南に事とし、密謀興挙す、若し中朝の勢力を分かたば、則ち外寇の姦謀を長ずるなり」と。

原文俄知永興軍,徙延州。時夏臺、益部寇擾,顯上疏曰:「間歲以來,戎事未息,李繼遷負恩於靈、夏,王小波干紀於巴、邛,河右坤維並興師旅。而繼遷翻然向化,遣子入覲,願修職貢。陛下曲加容納,許其內附,示以德信,伸以恩錫,所以綏懷之者至矣。然而狼子野心,未可深信。所宜謹屯戍,固城壘,積芻糧,然後遴選才勇,付以邊任,縱有緩急,則備禦有素,彼又奚能為患哉?至若蜀寇未平,神人共憤,謂宜申飭將帥,速期蕩平,既免老師以費財,且防事久則生變。又況邛、蜀物產殷富,其間士卒驕怠,遲留顧戀,實兼有之。莫若勿憚往來,潛為更代,既可均其勞逸,抑可免於遷延。至於河北關防所當加謹者,誠以國家方事西南,密謀興舉,若分中朝之勢力,則長外寇之姦謀矣。」

時に制ありて沿辺の糧斛は河西を過ぐるを許さず、河西の青塩は界を過ぎて販鬻するを得ず、犯す者は多少を論ぜず、斬に処す。顕は多きを犯す者は法に依り、自余は別に科断を為し、以て其の罪を差うるを請う。章上りて未だ報いず、秦州を管知すべく移る。

原文時制沿邊糧斛不許過河西,河西青鹽不得過界販鬻,犯者不以多少,處斬。顯請犯多者依法,自餘別為科斷,以差其罪。章上未報,移知秦州。

初め、温仲舒が州を管知した日、山林を開拓し、藩部を諷して其の地を献ぜしむ。後朝廷嘗て給還すと雖も、而して採伐旧に如し。転運使盧知翰は蕃部に茶綵を量り給いて、以て献ずる所に酬ゆるを請い、詔して張従式を遣わし顕と同往して規度せしむ。顕言う、「乃ち者朝命以て趙保吉に修貢せしめ、辺城務めて安静ならしむ、若し今衆を動かし疆境を開斥せば、便ならず」と。議遂に罷む。

原文初,溫仲舒知州日,開拓山林,諷藩部獻其地。後朝廷雖嘗給還,而採伐如故。轉運使盧知翰請量給蕃部茶綵,以酬所獻,詔遣張從式與顯同往規度。顯言:「乃者朝命以趙保吉修貢,邊城務使安靜,若今動眾開斥疆境,非便。」議遂罷。

咸平初年、朝に入り、横海軍節度に改め、出でて鎮州を管知す。二年、曹彬卒し、復た樞密使を拝す。郊祀し、検校太師を加う。真宗大名に幸し、内枢は惟だ顕と副使宋湜従う。言者多く謂う、顕は専ら兵要を司どり、謀略長ならずと。会うに湜卒し、乃ち参知政事向敏中を以て権同知樞密院事とす。三年春、山南東道節度・同中書門下平章事・定州路行営都部署・河北都転運使兼定州知事に改授す。秋、吏民駐泊都部署孔守正の許に詣り顕の治状を言い、願わくば借留せんと。守正以て聞こゆ。明年秋、鎮・定・高陽関三路都部署を加え、便宜従事を許す。十月、契丹寇に入る。前軍威虜軍を過ぐ。比時方に積雨し、契丹は皮を以て弦と為し、湿緩して用いるに堪えず、顕因りて大いに之を破り、名王・貴将十五人及び羽林印二鈕を梟獲し、首級二万を斬る。顕上言す、「先に詔を奉りて近辺に布陣し、及び応援北平控扼の路を令す。無何、敵騎已に亭障を越ゆ。顕が前陣は克捷有ると雖も、終に詔命に違う」と。上章して罪を請う。上は手劄を降し、以て其の憂悸を慰む。

原文咸平初,入朝,改橫海軍節度,出知鎮州。二年,曹彬卒,復拜樞密使。郊祀,加檢校太師。真宗幸大名,內樞惟顯與副使宋湜從,言者多謂顯專司兵要,謀略非長。會湜卒,乃以參知政事向敏中權同知樞密院事。三年春,改授山南東道節度、同中書門下平章事、定州路行營都部署、河北都轉運使兼知定州。秋,吏民詣駐泊都部署孔守正言顯治狀,願借留。守正以聞。明年秋,加鎮、定、高陽關三路都部署,許便宜從事。十月,契丹入寇,前軍過威虜軍。比時方積雨,契丹以皮為弦,濕緩不堪用,顯因大破之,梟獲名王、貴將十五人及羽林印二鈕,斬首二萬級。顯上言:「先奉詔令於近邊布陣,及應援北平控扼之路。無何,敵騎已越亭障,顯之前陣雖有捷克,終違詔命。」上章請罪。上降手劄,以慰其憂悸。

明年、致仕を求め、許さず、河陽三城節度に改む。将に之に鎮せんとす。時に議有りて契丹に親征せんとし、顕言う、「盛寒序に在り、敵未だ塞を犯さず、鑾輿軽挙し、直ちに窮辺に抵る。寇若し逢わずんば、師乃ち先ず老ゆ。況んや今継遷未だ滅せず、西鄙寧かならず、儻し北辺部落、之と結援せば、則ち中国の患、量るべからず。議者は乃ち此時に於いて幽薊を復せんことを請う、計の得たるに非ざるなり。凡そ大事を建議するは、上下協力し、挙げば必ず成功す。今公卿士大夫より庶人に至るまで、尚異同有り、未だ万全の挙と謂うべからず。若し能く将帥を選択し、士卒を訓練し、城壘を堅くし甲兵を繕えば、亦た以て敵を待つに足る。必ずや燕・薊の旧地を復せんと欲すれば、則ち必ず文徳を修め勇鋭を養い、時に之を利し、以て天罰を奉行して而る後可なり」と。

原文明年,求致仕,不許,改河陽三城節度。將之鎮,時議親征契丹,顯言:「盛寒在序,敵未犯塞,鑾輿輕舉,直抵窮邊,寇若不逢,師乃先老。況今繼遷未滅,西鄙不寧,儻北邊部落,與之結援,則中國之患,未可量也。議者乃於此時請復幽薊,非計之得也。凡建議大事,上下協力,舉必成功。今公卿士大夫以至庶人,尚有異同,未可謂為萬全之舉。若能選擇將帥,訓練士卒,堅城壘而繕甲兵,亦足以待敵矣。必欲復燕、薊舊地,則必修文德、養勇銳,同時之利,以奉行天罰而後可。」

景德初年、天雄軍府を管知すべく移る。又言う、「祖宗以来、多く近臣を命じて軍旅を統領せしむ。今後宣徽使は、宜しく文武群臣の中に辺事に暁達する者を択びて之を為すべし。蓋し位高ければ則ち威名著り、識遠ければ則ち勲労立つ故なり。武臣罪を以て黜せらるる者は、宜しく容貸を加え、一眚を以て遂に廃せず、苟くも之を用うるに恩有らば、必ず其の死力を得、故に曰く『功を使うは過を使うに如かず』と。至若敵に臨みて将を命ずるは、則ち専任を貴び、師を出して敵に応ずるは、則ち将校を約束し、相応援せしむ。是の数者を全うすれば、則ち軍威倍して壮ならん、人心勇を増さん」と。既にして上表して行在に赴かんことを請い、之に従う。是年秋、還鎮を遣わす。

原文景德初,徙知天雄軍府。又言:「祖宗以來,多命近臣統領軍旅。今後宣徽使,宜於文武群臣中擇曉達邊事者為之。蓋位高則威名著,識遠則勳勞立故也。武臣以罪黜者,宜加容貸,不以一眚遂廢,苟用之有恩,必得其死力,故曰『使功不如使過』也。至若臨敵命將,則貴專任,出師應敵,則約束將校,使相應援。全是數者,則軍威倍壯,人心增勇矣。」既而上表請赴行在,從之。是年秋,遣還鎮。

契丹寇に入り、上議して親征せんとす。顕復た三策を陳べ、謂う、「大軍方に鎮・定に在り、契丹必ず南侵せず、車駕止だ澶淵に駐し、詔して鎮・定に出兵し、会して河南軍、合撃するも可なり。若し契丹母子虚勢を張り、以て我が師に抗し、潜かに鋭兵を遣わし南攻して駕前諸軍に及ばば、則ち鎮・定の師を令して直ちに戎帳を衝き、其の営砦を攻めしめば、則ち沿河の遊兵戦わずして自ら屈せん。然らずんば騎兵千・歩兵三千を濮州に遣わし河を渡り、横に澶州を掠め、大軍を継ぎて北を追い掩撃せしむるも、亦た其の不意に出づるなり」と。已にして契丹盟を請い、趙徳明使いを遣わし貢を修め藩を称す。朝廷賞錫を加え、且つ青塩を通ずるを許して以て辺民を済わしむ、顕の請いに従うなり。

原文契丹入寇,上議親征。顯復陳三策,謂:「大軍方在鎮、定,契丹必不南侵,車駕止駐澶淵,詔鎮、定出兵,會河南軍,合擊之可也。若契丹母子虛張聲勢,以抗我師,潛遣銳兵南攻駕前諸軍,則令鎮、定之師直衝戎帳,攻其營砦,則沿河遊兵不戰而自屈矣。否則遣騎兵千、步兵三千於濮州渡河,橫掠澶州,繼以大軍追北掩擊,亦可出其不意也。」已而契丹請盟,趙德明遣使修貢稱藩,朝廷加賞錫,且許通青鹽以濟邊民,從顯之請也。

三年冬、病に被り、詔して中使を偕にし尚医をして療視せしむ。明年正月、許して京師に還る。時に車駕陵に上る。顕賓佐に謂いて曰く、「余は年位偕に極まれり、今天子道虎牢に出ず、一たびも属車の塵を拝するを得ず、是れ遺恨なり」と。言い訖りて涕下る。京に至り、信宿して卒す。年七十六。車駕鄭州に至り、之を聞き、宮苑使鄧永遷を遣わし馳せ還りて喪を護らしむ。中書令を贈り、諡して忠肅と曰う。其二子を録す。

原文三年冬,被病,詔中使偕尚醫療視。明年正月,許還京師。時車駕上陵,顯謂賓佐曰:「余年位偕極,今天子道出虎牢,不得一拜屬車之塵,是遺恨也!」言訖涕下,至京,信宿卒,年七十六。車駕至鄭州,聞之,遣宮苑使鄧永遷馳還護喪,贈中書令,諡忠肅。錄其二子。

顕は三班より数年ならずして正に枢任に至り、獎擢の速き、時に之に擬する者無し。顕が吏軍司の時、張永徳は滑州節度を以て殿前都点検と為る。及び顕枢密より自ら孟津に鎮し兼ねて相帥と為り、永徳は太子太師より相帥と為り、同日宣制す。永徳兼大夫反って顕の下に在り、時人之を訝る。顕中に居りて執政し、矯情を以て胥吏を厚くし、齪齪として自ら固むるのみ。藩鎮に在りては、頗る部曲を縦して下を擾わし、論者之を非とす。

原文顯自三班不數年正樞任,獎擢之速,時無擬之者。顯吏軍司時,張永德以滑州節制為殿前都點檢。及顯自樞密鎮孟津兼相帥,永德由太子太師為相帥,同日宣制,永德兼大夫反在顯下,時人訝之。顯居中執政,矯情以厚胥吏,齪齪自固而已。在藩鎮,頗縱部曲擾下,論者非之。

子希逸、字は仲莊、蔭を以て供奉官に補う。好学し、尤も唐史に熟し、書万余巻を聚む。秩を換えて朝奉大夫・太子中允を授く。咸平初年、殿中丞・直史館に改め、『冊府元亀』の修撰に預かり、祠部員外郎を加え、卒す。希範は如京副使に至る。

原文子希逸,字仲莊,以蔭補供奉官。好學,尤熟唐史,聚書萬餘卷。換秩授朝奉大夫、太子中允。咸平初,改殿中丞、直史館,預修《冊府元龜》,加祠部員外郎,卒。希範至如京副使。

論ずるに、柴禹錫より以下、多くは藩邸に給事することにより、攀附して通顕に至る者凡そ七人。若し守一の質直、趙鎔の勤謹、労に服すること久しといえども益々その職を修むるは、則ちその眷遇を受くるも宜なり。張遜は理財に優るも冒嫉を免れず、周瑩は軍旅に練習するも酷濫に傷つくこと頗るあり、禹錫は素より勤敏と称せられながら朋比に渉らざるを得ず、王顯は謹介自ら将うといえども学識に暗し、故に齪齪の譏を逃れず。若し勤謹を以て信任を受け、耆徳枢宥に冠たり、而して善終すること始めの如きは、其れ惟れ継英か。《易》に曰く、「君子終わり有り、吉。」と。これを謂うなり。

原文論曰:自柴禹錫而下,率因給事藩邸,以攀附致通顯者凡七人。若守一之質直,趙鎔之勤謹,服勞雖久而益修乃職,則其被眷遇也宜矣。張遜優於理財而未免於冒嫉,周瑩練習軍旅而頗傷於酷濫,禹錫素稱勤敏而不能不涉於朋比,王顯雖謹介自將而昧於學識,故莫逃於齪齪之譏。若以勤謹被信任,耆德冠樞宥,而善終如始者,其惟繼英乎。《易》曰:「君子有終,吉。」此之謂也。