陶穀
陶穀は、字を秀實といい、邠州新平の人である。本姓は唐であったが、晉の高祖の諱を避けて改めた。北齊・隋・唐に歴て名族であった。祖父の彥謙は、慈・絳・澧の三州刺史を歴任し、詩名があり、自ら鹿門先生と号した。父の渙は、夷州刺史を領したが、唐末の乱に際し、邠帥の楊崇本に害された。当時、穀はまだ幼く、母の柳氏に従って崇本の家で育てられた。
十歳余りで文を綴ることができ、家から起用されて校書郎・単州軍事判官となった。かつて書を以て宰相の李崧に干謁し、崧はその文を大いに重んじた。時に和凝もまた宰相であり、共に奏して著作佐郎・集賢校理とした。監察御史に改め、西京に分司し、虞部員外郎・知制誥に遷った。晉の高祖が翰林学士を廃した際に、内外の制誥を兼ねて掌った。詞目が繁雑であったが、穀の言は多く妥当で、当時最も優れていた。少帝の初め、緋袍・靴・笏・黒銀帯を賜った。天福九年、倉部郎中を加えた。
初め、崧が契丹に従って北へ行き、高祖が京師に入ると、崧の邸宅を蘇逢吉に賜ったが、崧には別に西京に田宅があり、逢吉はそれらも全て取り上げた。崧が北から帰還すると、宅券を以て逢吉に献上したが、逢吉は喜ばず、崧の子弟がしばしば怨言を口にした。その後、逢吉は崧とその弟の嶼・嶬らを誘い出して獄に下し、崧は恐れて、病と称して出仕しなかった。崧の族子の昉は秘書郎であり、かつて崧を見舞ったところ、崧は昉に言った、「近頃、朝廷では私について何か議論があるか」と。昉は言った、「他には聞かないが、ただ陶給事(穀)がしばしば人込みの中で叔父を激しく誣いることがあります」と。崧は嘆いて言った、「穀は単州判官から、私が集賢校理に取り立て、数年も経たずに誥命を掌るまでに抜擢した。私は陶氏の子に何の負い目があろうか」と。崧が禍に遭った後、昉が公事で穀を訪れた時、穀は昉に尋ねた、「李侍中(崧)を知っているか」と。昉は襟を正して答えて言った、「遠縁の従叔です」と。穀は言った、「李氏の禍には、私が力を尽くしたのだ」と。昉はこれを聞いて汗をかいた。
穀は性急で軽率であり、かつて兗帥の安審信と集会し、杯酒の間で行き違いがあり、審信に奏上された。当時は武臣を寛大に扱っていたため、穀は責められて太常少卿を授けられた。
契丹の主が北に帰還する際、穀を脅して従行させようとした。穀は僧舎に逃げ隠れ、布の褐を着て、行者を装った。軍士は彼が偽りであると疑い、刃を以て陵ぎ脅すことが一日に四度もあった。穀は暦数にやや巧みで、同輩に言った、「西南に五星が連珠し、漢地に王者が出るであろう。契丹の主は必ず帰国できない」と。耶律徳光が死ぬと、孛星の光芒が北を指した。穀は言った、「これより契丹は自ら魚肉し、永く華を乱さないであろう」と。そこで漢に帰り、給事中となった。乾祐年間、常参官に転対を命じた。穀は上言して言った、「五日毎に上章するのは、かつての制度ではない。百官が順番に対することは、かつての昌言(直言)とも異なる。ただ天聴を汚すだけで、時政に益なく、転対を停めることを乞う。在朝の群臣に聞見があれば、即時に時を選ばず闕に詣でて奏聞することを許すべきである」と。これに従った。
周に仕えて右散騎常侍となり、世宗が即位すると、戸部侍郎に遷った。太原征伐に従い、時に魚崇諒が母を迎えて後から到着した。穀は隙をみて言った、「崇諒が滞留して来ないのは、顧望の意があるからだ」と。世宗はこれを大いに疑った。崇諒はまた表を上って母の病を陳べ、詔して陝州に帰り養うことを許し、穀を翰林学士とした。
世宗はかつて宰相に言った、「朕が歴代の君臣の治平の道を観るに、誠に容易ではない。また、唐・晉が徳を失った後、乱臣や狡猾な将帥で、僭窃する者が多いことを思う。今、中原はようやく定まったが、呉・蜀・幽・并はまだ平服せず、声教が遠くに及んでいない。近臣に各々論策を作らせ、経済の略を宣導すべきである」と。そこで承旨の徐台符以下二十余人に命じ、各々『為君難為臣不易論』『平辺策』を撰んで進めさせた。その策は概ね文徳を修め、遠人を来らせることを旨としたが、ただ穀と竇儀・楊昭儉・王樸は、封疆が江・淮に密邇していることから、軍を用いてこれを取るべきだと論じた。世宗は高平を克って以来、常に兵を訓練し武を講じ、天下を混一しようと考えていた。その策を覧て、欣然として聴き入れ、これにより平南の意はますます固くなった。
宋の初め、礼部尚書に転じ、前のまま翰林承旨を依った。穀は翰林にあって、竇儀と協わず、儀には公望があったため、自分を圧することを慮り、かつて宰相の趙普に附き、趙逄・高錫らと共に儀を排し、儀は終に宰相の位に至らなかった。
穀は記憶力強く学問を好み、経書史書に広く通じ、諸子百家や仏教・道教の書もすべて総覧し、多くの法書名画を蓄え、隷書をよくした。人となりは才弁に富み見識が広大であったが、奔走して進取を務め、後進で文采ある者を見れば必ず極言してこれを誉め、達官で声望ある者を聞けば巧みに誹謗してこれを排斥し、その猜忌多く名声を好む様はこの類であった。初め、太祖が禅譲を受けようとした時、禅譲の文がまだ無かったが、穀は傍らにいて、懐中から取り出して進めて「既に出来上がっております」と言った。太祖は彼を甚だ軽んじた。かつて自ら「我が頭の骨相は尋常ならず、まさに貂蟬の冠を戴くであろう」と言った。大用されることを意図していたのであるが、人々は多くこれを笑った。子の邴は起居舍人に至った。天禧四年、穀の孫の寔を録用して秘書省校書郎に試用した。
扈蒙
扈蒙は字を日用といい、幽州安次の人である。曾祖父の洋は涿州別駕、祖父の智周は盧龍軍節度推官、父の曾は内園使であった。蒙は若くして文才があり、後晉の天福年間に進士に挙げられ、後漢に入って鄠県主簿となった。趙思綰が叛くと、郭従義を派遣してこれを討った。郡県の官吏は供給に皆軍服で急いで事に当たったが、蒙は冠服をゆったりと着け、挙措は緩やかであったので、従義は大いに怪しんだ。転運使の李穀が「蒙は文学の名流であり、吏事に慣れていない」と言ったので、遂に彼を問わなかった。後周の広順年間、帰徳軍節度使趙暉に従って掌書記となり、召されて右拾遺・直史館・知制誥となった。蒙の従弟の載は当時翰林学士であり、兄弟ともに内制と外制を掌り、当時「二扈」と号された。
宋初、中書舎人から翰林学士に遷ったが、同年の仇華に請託した罪により、太子左賛善大夫に貶黜され、やがて左補闕に遷り、大名の市征を掌った。六年、再び知制誥となり、史館修撰を充てた。開宝年間、詔を受けて李穆らとともに『五代史』を修し、『古今本草』を詳定した。五年、連続して貢挙を掌った。
七年、蒙は上書して言った。「昔、唐の文宗は毎回大臣を召して事を論ずる際、必ず起居郎・起居舎人に筆を執らせ殿側に立たせ、時政を記録させたので、『文宗実録』はやや詳備であった。後唐の明宗に至っても、端明殿学士及び枢密直学士に日ごとの記録を輪番で修めさせ、史官に送らせた。近ごろこの事はすっかり廃れ、毎季内殿日暦はあるが、枢密院が記録して史館に送るものは、記すところ臣下の対見と辞謝に過ぎない。帝王の言動は、記すことができない。宰相が漏洩を憂慮し、宣播を暗くしているためであり、史官は疎遠で、どうして聞くことができよう。願わくは今後、裁制の事、優恤の言、宸衷より発し簡策に書くべきものはすべて、宰臣及び参知政事に委ねて毎月輪番で知り抄録させ、史官の撰集に備えさせたい。」これに従い、参知政事盧多遜にその事を主管させた。
九年正月、乾元殿で朝を受けると、降王が列にあり、威儀は大いに整っていた。蒙は『聖功頌』を上し、太祖の禅譲を受け天下を平定した功績を述べた。その文詞は誇麗であり、詔があってこれを褒めた。盧多遜に憎まれて、江陵府の知事として出された。
蒙は性質沈着温厚で、人の是非を言わず、仏典を好み、殺生を喜ばず、縉紳は善人と称した。笑い癖があり、天子の前でも自ら禁じえなかった。著述多く、『鰲山集』二十巻が世に行われた。載は字を仲熙といい、伝があり、『五代史』に見える。
王著
著は若くして俊才があり、世宗は幕府の旧僚として、特に厚く眷待し、常に召見して語り、皇子を出して拝ませ、毎回学士と呼んで名を呼ばなかった。たびたび彼を宰相にしようとしたが、その酒を嗜むことを以て、故に長く引き留めた。世宗の病が大いに篤くなった時、太祖と范質が入って顧命を受け、質らに「王著は藩邸の旧人である。我もし不諱あれば、宰相に命ずべきである」と言ったが、世宗が崩じて止んだ。著は人と交わることを善くし、後進を延誉することを好み、当時の士大夫に称された。伝があり、『五代史』に見える。
王祜
王祜は字を景叔といい、大名莘の人である。祖父の言は唐に仕えて黎陽令となった。父の徹は後唐の進士に挙げられ、左拾遺に至った。
祜は若くして詞学に篤志し、性質倜儻として俊気有り。晋の天福年中、書を以て桑維翰に見え、其の藻麗を称せられ、是より名京師に聞こゆ。鄴帥杜重威、辟して観察支使と為す。漢初、重威鎮を睢陽に移し、反側して自ら安からず、祜嘗て之を勧め、漢に反せざらしむるも、聴かず。祜是に坐して沁州司戸参軍に貶せられ、因りて書を作り郷友に貽りて以て志を見す、辞気俊邁、人多く之を称す。周に仕え、魏県・南楽の二令を歴任す。
太祖太原を征し、既に河を済つ。諸州の饋集上党城中に集まり、車乗路を塞ぐ、上之を聞き、将に稽留の罪を以て転運使を治めんとす。趙普曰く、「六師方に至らんとし、而して転運使罪を獲て聞こゆれば、敵必ず儲峙充たずと謂ひ、我を窺ふ所以有らん、威遠の道に非ず。劇を治むる能ふ者をして、往きて其の州を蒞らしむるは足れり」と。即ち命じて祜をして潞州を知らしむ。及び至るに、饋餉乏しきこと無く、路亦壅ぐること無し、師を班し、召し還さる。
会に符彦卿大名に鎮す、頗る治まらず、太祖祜を以て之に代へ、彦卿の動静を察せしめ、謂ひて曰く、「此れ卿が故郷、所謂る晝錦なる者なり」と。祜百口を以て彦卿の罪無きを明らかにし、且つ曰く、「五代の君、多く猜忌に因りて無辜を殺す、故に享国永からず、願くは陛下以て戒と為せ」と。彦卿是に由りて免る、故に世に祜陰徳有りと謂ふ。
継いて兵を嶺表に用ふるに以て、徙めて襄州を知る。湖湘平らぎ、移りて潭州を知る。召し還され、摂りて吏部銓を判ず。時左司員外郎侯陟揚州より還り、復た銓を判ず、祜門下省を判じ、陟の注擬する所、祜多く駁正す。盧多遜陟と善し、陟因りて之を訴ふ、多遜素より祜の己に比せざるを悪み、遂に祜を出して鎮国軍行軍司馬と為す。
太平興国初、徙めて河中府を知る。入りて左司員外郎と為り、中書舎人を拝し、史館修撰を充つ。未だ幾ばくもあらざるに、開封府を知り、病を以て告を請ふ。太宗祜の文章・清節兼ねて著るしと謂ひ、特り兵部侍郎を拝す。月餘にして卒す、年六十四。
初め、祜誥を掌る、会に盧多遜学士と為り、陰に趙普を傾け、多遜累ね祜を諷して己に比せしむるも、祜従はず。一日、宇文融の張説を排する事を以て之を釈すことを勧む、多遜益々悦ばず。及び普再び入る、多遜果たして敗れ、宇文融の事に頗る類す、識者其の先見を服す。
祜子三人:曰く懿、曰く旦、曰く旭。旦自ら伝有り。初め、祜貢挙を知り、多く寒俊を抜擢し、畢士安・柴成務皆其の取る所なり、後其の子旦と同に入りて両制に居り、中書に居中す。懿、字は文德、志を励まして学を為し、進士に挙げられ、嘗て袁州を知り、政績有り、卒す、年四十九。
子 旭
旭字は仲明。内を治むるに厳にして、物に接するに恕を以てし、尤も友誼に篤し。蔭を以て太祝に補せられ、嘗て緱氏県を知る。時官鄰邑なる者多く貪猥、民に「永寧三钁、緱氏一鎌」の謠有り。又雍丘県を知る。
真宗京を尹せし時、素より其の能を聞き、及び阼を践み、三遷して殿中丞に至る。旦宰府に居るより、旭嫌を以て職に任ぜず。王矩嘗て旭を薦めて材劇を治むるに堪ふとす、真宗旦を召して謂ひて曰く、「前代弟兄要地に同居する者多し、朝廷才を任ず、豈に卿が故を以て之を屈せしむるや」と。命じて京府推官を授けんとす、旦固く辞し、南曹を判するを改む。国子監を判ずるより出でて潁州を知り、荒政修めて挙がる。
大中祥符間、旦既に薨じ、中外に敭歴し、卓として政績有り、兵部郎中より出でて応天府を知る。卒す、年六十八。
懿の子睦、旭の子質、皆其の官に能くす。
孫 質
質、字は子野。少くより謹厚淳約、力を学問に致し、楊億に師事し、億歎じて以て英妙と為す。伯父旦其の為す所の文を見て、嗟賞す。蔭を以て太常寺奉礼郎に補せらる。後文を献じて召し試みられ、進士及第を賜ひ、薦められて館閣校勘と為り、集賢校理に改め、累遷して尚書祠部員外郎に至る。父憂に丁り、諸弟と脱粟を飯し蔬を茹ぶ。喪終り、蘇州を通判し、州守黄宗旦質を少くし、嘗て事を争ふに因り、宗旦曰く、「少年乃ち丈人と抗すや」と。質曰く、「事争ふに当る有り、職なり」と。終に屈せられず。宗旦盗銭を鑄する者百餘人を得て、獄に下して治め、退きて質に告げて曰く、「吾術を以て鉤致して之を得たり」と。喜色に見ゆ。質曰く、「術を以て人を鉤し之を死に置き而又喜ぶ、仁者の政、固より是の如きか」と。宗旦慚沮し、為に其の罪を薄くす。還りて尚書刑部・吏部南曹を判じ、蔡州を知る。州人歳時祀る吳元濟の廟、質曰く、「安んぞ逆醜有りて廟食すること民に於てせんや」と。之を毀ち、為に更に狄仁傑・李愬の像を立てて之を祠り、蔡人今に至るまで「双廟」と号す。本曹郎中を以て召され開封府推官と為る。時兄雍三司判官と為り、質兄弟並びに省府に居るを欲せず、懇りて辞し、寿州を知り、廬州に徙る。盗其の徒を殺し、併せて貲して遁る、捕へて之を得る。質盗を論じて死とす、大理以て法死に当らずと謂ふ、質曰く、「盗其の徒を殺し、自首する者は之を原く、是を以て其の党を疑懐し、且つ之に自新を許す、此れ法意なり。今人を殺し貲を取りて捕獲せらる、之を貸す、豈に法意ならんや」と。疏上るも、報へず、舒州霊仙観を監するに降す。古今の煉形摂生の術を採り、『宝元総録』百巻を撰す。年を踰へ、韓琦審刑院を知り、請ふ盗其の徒を殺し、自首せざる者は原く勿れと、令として著す。是に於て鄭戩・葉清臣皆質の罪に非ざるを言ひ、且つ其の材を称し、起して泰州を知らしめ、度支郎中に遷し、荊湖北路転運使に徙す。
かつて江陵府事を摂行した際、ある者が民が婚姻の約束を延期したと訴えた。民は貧しく費用を調達できないので、故意に約束を破ったのだと言った。質はその費用がどれほどかを問いただし、私財を出して与えた。吏が盗みを働いて人の衣服を捕らえた者がいた。盗人は叩頭して言った、「平生過ちを犯したことはありませんが、飢えと寒さに迫られてこのようなことをしました」と。質は命じて衣服を取って彼に着せ、帰らせた。史館修撰を加えられ、同判吏部流内銓となった。天章閣待制に抜擢され、出て陝州の知州となり、死去した。
質の家は代々富貴であり、兄弟は驕りと奢侈に慣れていたが、質は己を律して善を好み、自らの暮らしは寒士のように簡素で、財を蓄えることを好まず、ついには自らを養うこともできなかった。初め、旦が中書舎人であった時、家が貧しく、兄弟と共に人から利息付きで金を借り、期限に遅れ、乗っていた馬で償った。質が書物を閲して古い証文を見つけ、子弟を召して示して言った、「これは我が家の素来の風である、お前たちは忘れてはならない」と。范仲淹が饒州に貶謫された時、朋党の取り締まりが厳しく行われていたが、質はただ一人酒を載せて見送りに行った。ある者が質を非難したが、質は言った、「范公は賢者である、その党となることができれば幸いである」と。世間はこれによってますます彼を賢者と認めた。
楊昭儉
楊昭儉、字は仲寶、京兆長安の人である。曾祖父は嗣復、唐の門下侍郎・平章事・吏部尚書。祖父は授、唐の刑部尚書。父は景、梁の左諫議大夫。
昭儉は若くして聡明で才気があり、後唐の長興年間に進士に及第した。初めて官に就き成徳軍節度推官となった。鎮州・魏州の掌書記を歴任し、左拾遺・直史館に任ぜられ、中書舎人張昭遠らと共に『明宗実録』を編修した。書が完成すると、殿中侍御史に遷った。
天福初年、礼部員外郎に改めた。晋の高祖が宰相馮道を契丹冊礼使とし、昭儉を副使とし、職方員外郎を授け、まもなく虞部郎中を加え、すぐに本官のまま知制誥となった。一ヶ月も経たずに三度任命を受け、当時の人は栄誉とした。また荊南の高従誨の生辰国信使となり、金紫を賜った。使いから戻り、中書舎人に任ぜられ、また翰林学士となった。
当時驕慢な将軍張彦沢が涇原を鎮守し、暴虐に従事の張式を殺害したが、朝廷は罪を加えなかった。昭儉は刑部郎中李濤・諫議大夫鄭受益と共に抗疏して論じ、法に置くことを請うた。上疏は奏上されたが回答がなかった。ちょうど詔があり朝臣に転対を命じ、あるいは封事があれば、時を定めず条奏することも許された。昭儉は再び上疏して言った、「天子は四海に君臨し、日々万機あり、諍臣を立ててその欠けを補う。今は諫臣は設けられているが、言路は通じず、薬石の論は聖聴に達せず、邪佞の徒が左右に取り入っている。御史台は紀綱の府、弾劾糾察の司であり、冤罪を負う者は当然昭雪されるべきで、害をなす者は流罪を免れない。陛下が御位について以来、寛仁が甚だしすぎ、ただ両司を置いただけで、ほとんど虚器のようである。ついに節度使に朝章を侮らせ、幕吏を殺害させ、初め丹闕に冤罪を訴えさせながら、かえって本藩に送り返してしまう。跋扈の心を安んじさせ、冤抑の苦しみを顧みない。どうか睿断を回らせ、彦沢を誅して軍吏に謝罪されたい」。これによって権臣に忌まれた。ちょうど洛陽に休暇を請い、晋の高祖の喪に赴かなかったため、役人に糾弾され、官を停められた。
まもなく、河南少尹として起用され、秘書少監に改め、まもなくまた中書舎人となった。当時黄河が数郡で決壊し、大いに丁夫を徴発し、本部の長官としてその役を監督し、やがて塞き止めた。晋の少主は喜び、詔して碑を立ててその事を記させた。昭儉は上表して諫めて言った、「陛下が石に刻んで功績を記すよりは、哀痛の詔を降す方がよい。筆を揮って美を称えるよりは、罪己の文を頒布する方がよい」。言葉は甚だ切実で、少主は嘆賞し、ついにその事を中止させた。周の世宗はその才能を愛し、再び召し出して翰林学士とした。一年余りして、御史中丞に改め、多く御史台の旧例を振るい起こした。まもなく、獄を審理した過失により、知雑御史趙礪・侍御史張糾と共に出されて武勝軍節度行軍司馬となった。
昭儉は風采が美しく、名理を談ずることを善くし、晋に仕えて直言の名声があった。しかし口が達者で人を嘲笑することを好み、執政大臣は彼が誹謗を構えることを恐れ、多くその意に曲げて従った。
魚崇諒
魚崇諒、字は仲益、その先祖は楚州山陽の人で、後に陝に移った。崇諒は初め崇遠と名乗り、後に漢の高祖の諱を避けて改めた。幼くして文を作ることができ、弱冠で、相州刺史に召し出されて従事となった。ちょうど魏の帥楊師厚が死去し、相州を昭徳軍とし、魏郡の州県の半分を分けてこれに隷属させた。魏人は不便を感じ、裨校の張彦が部下を率い、節度使賀徳倫を囚えて荘宗に帰順したので、崇諒は陝に逃げ帰った。
漢の高祖が入京すると、崇諒が受け取った契丹の詔敕をことごとく求め、朝堂で焼き、再び知制誥を命じた。まもなく翰林学士に任ぜられ、就任のまま中書舎人を加えられた。隠帝が即位すると、崇諒は母が老いていることを理由に養うことを求め、保義軍節度副使に任ぜられ、台州刺史を兼ね、郡の俸給を受けた。ちょうど三つの反乱を討つために軍を挙げ、節度使白文珂が軍前にいたので、崇諒が後事を知った。軍需の供給・備蓄・調達・発送はすべて、期限を早めて整え、近隣の鎮はこれに頼った。崇諒の親族はすべて鳳翔城中にいたが、一年余りして城が陥落し、李穀が転運使として、崇諒の家数十人を庇護し、皆無事であった。崇諒は休暇を請い、自ら岐から迎えて陝に住まわせた。まもなく、王仁裕が内職を罷めると、朝議は崇諒を召して学士とすることを請うた。
周の太祖が践祚すると、書詔が繁雑に委ねられ、すべて崇諒がこれを行った。広順初年、工部侍郎を加えられ、職を充実させた。ちょうど兗州の慕容彦超が封邑を加えられ、彦超はすでに反逆の心を抱いており、崇諒を使者として官告を賜り、また慰撫することを充てた。当時献策する者が多く、崇諒に命じて枢密院で引試させ、考定して昇降させた。
崇諒は母が老いて郷里を懐かしむゆえ、官を解いて帰り養うことを請うた。詔して長告を与え、その母に衣服・繒帛・茶薬・緡銭を賜い、仮満百日の後は、本州に命じて月に銭三万・米麪十五斛を給せしめた。まもなく礼部侍郎に拝し、ふたたび学士となった。詔して母に侍して帰闕せしめんとしたが、崇諒は再び表を上し、母が老病なれば終養を乞うと、優詔をもって許さず。世宗が高平を征したとき、崇諒はまだ至らず、陶穀が隙に乗じて言うには、「魚崇諒は逗留して来ず、顧望の意あり」と。世宗はこれを頗る疑った。崇諒はまた表して母の病を陳べ、詔して陝州に帰り就養することを許した。太祖の朝が終わるまで起用されなかった。
太宗が即位すると、詔して金紫光禄大夫・尚書兵部侍郎を授けて致仕せしめた。歳余にして卒した。
張澹
張澹は、字を成文といい、その先祖は南陽の人であったが、河南に移り住んだ。澹は幼くして学を好み、才藻があった。晋の開運初年に進士に及第した。宰相桑維翰はこれを器とし、娘を妻とした。初めて官に就き校書郎となり、直昭文館を経て、再び秘書郎に遷り、塩鉄推官を充てられ、左拾遺・礼部員外郎を歴任し、ともに史館修撰を充てられた。出て洛陽令となり、任期が満ちると、吏部員外を授かり、ふたたび史館修撰を充てられた。周の恭帝の初め、右司員外郎・知制誥に拝した。
開宝初年、そのまま倉部郎中に転じた。四年の冬、本官をもってふたたび知制誥となった。六年、李昉が責授された際、盧多遜が江南に使いし、内署に学士が欠けたため、太祖は澹に権直学士院を命じた。七年の長春節には、殿中監を摂り、進酒し、命じて金紫を賜った。六月、権点検三司事となった。十日を経ずして、背中に疽を発して卒した。年五十六。太祖はその子なきを聞き、甚だこれを愍れみ、中使をして洛陽に葬らしめた。
澹は風儀美しく、談論を善くし、官を歴任して事務を治め、至るところ皆よく治めた。初め詞臣と文芸を較べて、郎署に黜けられ、頗る怏怏としていた。晚年に盧多遜に附会し、ようやく再び進用された。
淳化中、太宗が文士について論じ、「澹は書命を典する者であり、策をもって試みるはその長ずるところにあらず、これは蓋し陶穀・高錫が張去華に党して澹を沮まんとしたのであろう。もし穀らがその不意に出て急に試みたならば、どうして律を失わぬことがあろうか」と言った。
高錫
高錫は、字を天福といい、河中虞郷の人である。家は代々儒を業とし、幼くして穎悟にして、文を属することができた。漢の乾祐中、進士に挙げられた。王晏が徐州を鎮める時、書記を辟き、西洛に留守する時は、また河南府推官を辟いた。獄を按ずるに実を失うに坐して官を奪われ、涇州に遷置されたが、赦に会って帰ることができた。周の顕徳初年、劉崇が入寇すると、宰相は将を選んで拒がんことを請うたが、世宗は鋭意親征し、高平において崇を破り、敗将樊愛能らを誅した。これより政の大小を問わず悉く自ら決し、もはや有司に責成しなかった。錫は徒歩で招諫匭に詣でて上書し、賢を択び官に任じ、衆職を分治せんことを請うたが、疏が奏上されても報いられなかった。世宗はかつて翰林学士および両省官に分かれて俳優詞を撰せしめ、教坊に付して習わせ、遊宴に奉ぜしめた。錫はふたたび上疏して諫めた。後に蔡州防禦推官となった。
宋の初め、官を棄てて京師に帰り、匭に詣でて上疏し、兵器を禁ぜんことを請うたが、疏が入っても報いられなかった。建隆五年、また書をもって宰相范質に干し、質が奏して著作佐郎に用いた。明年の春、監察御史に遷った。秋、左拾遺・知制誥に拝し、屯田員外郎を加えられた。
乾徳初年、緋を賜った。太宗が京尹のとき、石熙載が幕中にいた。錫の弟銑が進士挙に応じ、熙載に干し、首薦を望んだ。銑の辞芸は浅薄であり、熙載は許さず、錫はこれを深く恨み、しばしば帝の前で熙載が裨讚すること状なきを言った。帝はことごとく太宗に語り、かつ「汝がために人を択びてこれに代えん」と言った。太宗は「熙載はその職に勤めており、高錫が嘗てその弟を薦めんことを求めたが、熙載はこれを拒んだ。錫に構えられるを慮る」と言った。帝は大いに悟り、これを怒ったが、発する由がなかった。時に青州に使いし、節帥郭崇の賂遺を私に受け、また嘗て書を澧州刺史に致して僧のために紫衣を求め、人に告げられた。事は御史府に下って核実され、責めて萊州司馬に貶された。赦に遇い、均州別駕に改め、陳州に移った。太平興国八年、卒した。
兄の子に冕あり。
從子 冕
論ずるに、唐より以来、翰林直学士と中書舎人は詔勅の起草を対掌し、功徳を頌宣し、欠失を箴諫し、専ら文墨の職務に止まらなかった。宋が興り、また詞藻を採りてこの選に備え、穀の才雋、著の敏達、澹の治跡、錫の策慮、冕の敦質は、いずれも観るべきところあり。然れども豫(陶穀)が禅代の詔を成し、時君に見薄くされ、終身大用を得ず。及びて険詖にして前を忌み、酣醟にして少しく検点を欠き、勢に附き栄を希い、讒を構えて己を謀るは、皆取るに足らざるなり。蒙(賈黄中)は博洽にして長厚、竇儀に継いで儀制を裁定す、惜しむらくは南郊の議に、太祖を去りて宣祖を以て天に配せんことを請い、識者に非とせらる。昭儉(張昭)は跋扈に抗論し、驕将を除かんと志し、而して多く言い歴に詆し、自ら悪名を取り、抑々好んで訐いて直を為す者か。崇諒(魚崇諒)は親に奉ずること篤く至り、反って間毀に罹り、終身帰養し、而して復た起らず、後に旌賁の典に蒙り、則ち善を為す者を聳動せしむ。祜(李昉)は百口を以て符彦卿に他志無きを明らかにし、且つ猜忌を以て無辜を殺す者は国を享くること長からずと言い、因って太宗の他疑を杜し、又盧多遜の趙普を傾けんとするを却け、以て黜せらるるに至る、仁者には後あり、宜なるかな子の旦(李旦)が宋の元臣たるは。