宋史

列傳第二十六 張宏 趙昌言 陳恕 魏羽 劉式 劉昌言 張洎 李惟淸

列傳第二十六 張宏 趙昌言 陳恕 魏羽 劉式 劉昌言 張洎 李惟淸

張宏

原文張宏

張宏、字は巨卿、青州益都の人である。高祖こうそは茂昭、唐の易・定節度使。曾祖は玄、易州刺史。祖は持、蒲城令。父は峭、『春秋』を学び、一度科挙に及第せず、丘園に退隠した。後唐の天成年中、賢帥の後裔として、協律郎に補され、平利令に至った。

原文張宏,字巨卿,青州益都人。高祖茂昭,唐易、定節度使。曾祖玄,易州刺史。祖持,蒲城令。父峭,業《春秋》,一舉不第,退居丘園,後唐天成中,以賢帥後,補協律郎,至平利令。

宏は、太平興国二年、進士に挙げられ、将作監丞となり、宣州通判を務めた。太子中允・直史館に改められ、著作郎に遷り、緋魚袋を賜い、『太平御覧』の編纂に参与し、左拾遺を歴任した。六年、峡路転運副使として出向し、そのまま左補闕を加えられ、副使の官が廃止されると、遂州知州となり、勤勉で有能であると評判となり、朝廷に入って度支員外郎となった。

原文宏,太平興國二年,舉進士,為將作監丞,通判宣州。改太子中允、直史館,遷著作郎,賜緋魚,預修《太平御覽》,歷左拾遺。六年,出為峽路轉運副使,就加左補闕、會省副使,知遂州,以勤幹聞,入為度支員外郎。

雍熙年中、呂蒙正・李至・張齊賢・王沔がその文才と品行を推薦し、主客郎中・史館修撰に改められた。数日後、本官のまま枢密直学士を充てられ、金紫を賜った。太宗が便殿で対面し、言った。「成都は要地である。卿は朕のためにこれを鎮めよ。」よって厚く賜物を与えて派遣した。鄭州に至った時、急ぎ召還されて朝廷に帰り、右諫議大夫・枢密副使に任じられた。ちょうど太宗が礼部の不合格貢士を親試し、枢密院に牒を与えるよう命じ、宏に言った。「朕が即位して以来、自ら多くの人材を選んできた。大きい者は棟梁とし、小さい者は榱桷とした。卿と呂蒙正は皆朕の選に適ったが、大臣にはかなり反対の議論があった。朕が独断でなければ、どうしてここまでできたであろうか。」宏は頓首して謝した。

原文雍熙中,呂蒙正、李至、張齊賢、王沔薦其文行,改主客郎中、史館修撰。數日,以本官充樞密直學士,賜金紫。太宗召對便殿,謂曰:「成都重地,卿為朕鎮之。」因厚賜以遣。至鄭州,促召歸闕,拜右諫議大夫、樞密副使。會太宗親試禮部不合格貢士,令樞密院給牒,因謂宏曰:「朕自御極以來,親擇群材,大者為棟梁,小者為榱桷,卿與呂蒙正皆中朕選,大臣頗有沮議。非朕獨斷,豈能及此乎?」宏頓首謝。

当時、河朔で戦争があり、宏は職位にありながら何も建議しなかった。御史中丞趙昌言が多く辺境の事を上奏したので、昌言を枢密副使とし、宏を中丞とし、両者の職を交換した。端拱初年、工部侍郎に改め、再び枢密副使となった。淳化二年、吏部侍郎の職を免ぜられ、まもなく吏部銓を判じ、開封府の権知事となった。太宗が便殿で囚人を審理し、府の獄が滞っていることを憂い、その官属を弾劾するよう詔を下した。宏らは頓首して罪を請うたので、これを赦した。真宗が開封尹であった時、宏は奉朝請を免ぜられた。至道初年、潞州知州として出向した。二年、そのまま右丞に転じた。真宗が即位すると、工部尚書を加えられた。咸平初年、朝廷に戻り、審官院知院事・通進銀臺封駁司を兼ねた。二年、真宗は上封する者が多いため、その滞留を憂い、宏と王旦に登聞鼓院知院事を命じ、再び吏部選を掌らせた。四年、卒去した。六十三歳であった。朝儀を廃し、右僕射を追贈し、中使を派遣して葬儀を監督させた。その子、可久を大理評事に、可道を太祝に、可度を奉礼郎に録した。

原文時河朔用兵,宏居位無所建白,御史中丞趙昌言多言邊事,乃以昌言副樞密,宏為中丞,兩更其任。端拱初,改工部侍郎,再為樞密副使。淳化二年,以吏部侍郎罷,俄判吏部銓,權知開封府。太宗御便殿慮囚,以府獄多壅,詔劾其官屬,宏等頓首請罪,乃釋之。真宗尹京,宏罷奉朝請。至道初,出知潞州。二年,就轉右丞。真宗即位,加工部尚書。咸平初,還朝,知審官院、通進銀臺封駁司。二年,真宗以上封者眾,慮其稽留,命宏與王旦知登聞鼓院,再掌吏部選。四年,卒,年六十三。廢朝,贈右僕射,命中使蒞葬事。錄其子可久大理評事,可道太祝,可度奉禮郎。

宏は順法謹直に職を守り、顕著な名声を求めず、高位を歴任したが、一度も事をしくじることはなかった。可久は虞部員外郎に至り、可道は国子博士に、可度は太子中舎人となった。

原文宏循謹守位,不求赫赫之譽,歷踐通顯,未嘗敗事。可久至虞部員外郎,可道國子博士,可度太子中舍。

趙昌言

原文趙昌言

趙昌言、字は仲謨、汾州孝義の人である。父は叡、使府に従事し、太宗が開封尹であった時、雍丘・太康の二県令に選ばれ、後に安州・申州の観察判官で終わった。

原文趙昌言,字仲謨,汾州孝義人。父叡,從事使府,太宗尹開封,選為雍丘、太康二縣令,後終安、申觀察判官。

昌言は若くして大志を持ち、趙逢・高錫・寇準らが皆これを称賛した。太平興国三年、進士に挙げられ、文思が非常に敏捷で、科挙の場で名声があり、貢挙の首席に推薦された。廷試の日、太宗はその言辞の優れた弁舌を見、またその父の名を見て、側近に言った。「これはかつて東畿の県令を務め、朕の誕生日には必ず百韻の詩を献じて寿ぎ、その子をよく教え導いた者である。これもまた賞賛すべきことだ。」甲科に抜擢し、将作監丞とし、鄂州通判を務めさせた。右拾遺・直史館に任じ、緋魚袋を賜った。荊湖転運副使に選ばれ、右補闕に遷り、副職が廃止されると、青州知州に改められた。朝廷に入り職方員外郎に任じられ、知制誥となり、『文苑英華』の編纂に参与した。雍熙初年、屯田郎中を加えられた。翌年、同知貢挙となり、まもなく天雄軍知軍として出向した。

原文昌言少有大志,趙逢、高錫、寇準皆稱許之。太平興國三年,舉進士,文思甚敏,有聲於場屋,為貢部首薦。廷試日,太宗見其辭氣俊辯,又睹其父名,謂左右曰:「是嘗為東畿宰,朕之生辰,必獻詩百韻為壽,善訓其子,亦為可嘉也。」擢置甲科,為將作監丞,通判鄂州。拜右拾遺、直史館,賜緋魚。選為荊湖轉運副使,遷右補闕,會省副職,改知青州。入拜職方員外郎,知制誥,預修《文苑英華》。雍熙初,加屯田郎中。明年,同知貢舉,俄出知天雄軍。

当時、曹彬・崔彥進・米信が岐溝で軍律を失い、昌言は観察支使鄭蒙を遣わして上疏し、彬らを誅するよう請うた。優詔で褒め答え、召して御史中丞に任じた。太宗が金明池で宴を催した時、特に召して参加させた。憲台の官が宴会に従うのは、昌言から始まったのである。

原文時曹彬、崔彥進、米信失律於岐溝,昌言遣觀察支使鄭蒙上疏,請誅彬等。優詔褒答,召拜御史中丞。太宗宴金明池,特召預焉。憲官從宴,自昌言始也。

河朔で戦争があり、枢密副使張宏は順法沈黙して職を守るばかりで、昌言は多く辺境の事を条陳して上奏した。太宗は即座に昌言を左諫議大夫とし、宏に代えて枢密副使とし、工部侍郎に遷した。当時、塩鉄副使陳象輿は昌言と親しく、知制誥胡旦・度支副使董儼は皆昌言の同年の進士であり、右正言梁顥はかつて大名府の幕下にいた。この四人は、日夜昌言の邸宅に会し、都ではこれについて「陳三更、董半夜」と言う言葉ができた。傭書の翟潁という者がおり、性質が邪険で大言壮語し、旦と親しくしていた。旦が大言を弄する文章を作り、潁に上奏させ、潁の姓名を馬周と改めさせ、唐の馬周が再び現れたかのように装った。その言うところは多く時政を誹謗し、自ら大臣に推薦し、さらに数十人を挙げて皆公輔の器であるとし、昌言が内応することを期待した。陳王(後の真宗)が開封尹の時、これを探知して上聞し、詔を下して潁を捕らえ獄に繋ぎ、取り調べてその全容を明らかにした。昌言は連座して崇信軍節度行軍司馬に貶せられ、潁は脊杖・黥げい面の刑を受け、海島に流罪となり、終身禁錮とされた。

原文河朔用兵,樞密副使張宏循默守位,昌言多條上邊事,太宗即以昌言為左諫議大夫,代宏為樞密副使,遷工部侍郎。時鹽鐵副使陳象輿與昌言善,知制誥胡旦、度支副使董儼皆昌言同年,右正言梁顥嘗在大名幕下。四人者,日夕會昌言之第,京師為之語曰:「陳三更,董半夜。」有傭書翟潁,性險誕,與旦狎,旦為作大言之辭,使潁上之,為潁改姓名馬周,以為唐馬周復出也。其言多毀時政,自薦為大臣,及歷舉數十人皆公輔器,期昌言為內應。陳王尹開封,廉知以聞,詔捕潁繫獄,鞠之,盡得其狀。昌言坐貶崇信軍節度行軍司馬,潁仗脊黥面,流海島,禁錮終身。

初め、太宗は昌言を厚く遇し、まさに宰相にしようとしていた。趙普が勲旧として再び入朝し、昌言の剛直で強情なのを嫌い、呂蒙正を宰相とした。わずか数か月後、ちょうど潁の事件があり、普は昌言が党派を結成したとして、再び太宗に誅殺を勧めたが、太宗は特に寛大に処した。淳化二年、昌言を起用して蔡州知州とし、一年余り後、召して右諫議大夫に任じた。ある者が茶塩の禁を緩めて、転漕を省くことを議論した。昌言を江淮・両浙制置茶塩使に命じたが、昌言は極めて不便であると主張し、太宗は聞き入れず、昌言に赴任を促した。昌言は初めの主張を固執した。即座に戸部副使雷有終に代えさせ、結局利益がなくて廃止された。

原文初,太宗厚遇昌言,垂欲相之。趙普以勳舊復入,惡昌言剛戾,乃相呂蒙正。才數月,會有潁獄,普以昌言樹黨,再勸太宗誅之,太宗特寬焉。淳化二年,起昌言知蔡州,逾年,召拜右諫議大夫。或議馳茶鹽禁,以省轉漕。命昌言為江淮、兩浙制置茶鹽使,昌言極言非便,太宗不納,趣昌言往。昌言固執如初。即以戶部副使雷有終代之,卒以無利而罷。

昌言は再び天雄軍知軍となり、二百万銭を賜った。大河が府の境内を貫き、豪民が芻茭を貯え利を図り、奸人を誘って堤防にひそかに穴を開けさせ、毎年決壊・氾濫が続いた。昌言はこれを知っていた。ある日、堤吏が急を告げたので、豪家の倉庫の貯積を直ちに取って用に充てるよう命じ、これ以降、奸利を図る者はなくなった。ちょうど澶州で黄河が決壊し、御河に流れ込み、増水して府城に浸水した。昌言は府兵を徴発して土を背負い堤を増築させたが、数が千に満たなかったので、禁軍兵士を求めて労役に加えさせたが、皆怠けて進もうとしなかった。昌言は怒って言った。「府城が沈みかけ、人民が溺れようとしている。汝らは厚い俸禄を食みながら、坐視しようとするのか。敢えて命令に従わぬ者は斬る。」皆が股を震わせて労役に赴き、十日と経たずに城は完成した。太宗は手詔を下してこれを褒め諭し、召して給事中・参知政事に任じ、駅伝を急がせて入朝させ、直ちに中書省に赴かせた。

原文昌言復知天雄軍,賜錢二百萬。大河貫府境,豪民峙芻茭圖利,誘奸人潛穴堤防,歲仍決溢。昌言知之。一日,堤吏告急,命徑取豪家廥積以給用,自是無敢為姦利者。屬澶州河決,流入御河,漲溢浸府城,昌言籍府兵負土增堤,數不及千,乃索禁卒佐役,皆偃蹇不進。昌言怒曰:「府城將墊,人民且溺,汝輩食厚祿,欲坐觀耶?敢不從命者斬。」眾股慄赴役,不浹旬城完。太宗手詔褒諭之,召拜給事中、參知政事,俾乘疾置以入,即赴中書。

時に京城は雨が続き、昌言は廐馬を外郡に分けて放牧するよう請うた。或る者は盛秋に敵に備えるため、馬は欠かせないと言った。昌言は言う、「塞下に水が溜まっているから、敵は必ず来ない」と。太宗はこれに従った。間もなく、王小波・李順が蜀しょくで乱を起こし、大臣を派遣して慰撫することを議した。昌言はただ一人で出兵を請い、蔓延させぬよう主張したが、朝廷の議論は決まらなかった。ちょうど嘉州・眉州が相次いで陥落したので、初めて王継恩らに分路進討を命じた。昌言が太廟の祭祀を代行し、斎宮に宿泊していた時、滋福殿に召されて対し、再び出兵の計を支持したので、使者を派遣して継恩の戦いを督させた。継恩は衆を統率する術に乏しく、残賊は未だ殲滅されず、兵を握って成都に留まり、兵士に闘志がなく、郡県がまた陥落するものが出た。太宗は兵を厭う気持ちが強く、昌言を召して言った、「西川はもと一国であり、太祖がこれを平定してから、今に至るまで三十年である」と。昌言はその意を知り、すぐに進み出て攻め取る策を指画した。太宗は喜び、昌言を川峡五十二州招安行営馬歩軍都部署に任じた。昌言は懇ろに辞退したが、諭されて許されず、精鎧・良馬・白金五千両を賜り、別に手札数幅を賜ったが、いずれも賊討伐の方略であった。継恩以下は、皆その節度を受けた。出発した後、昌言には子がなく、鼻の山根が折れ、反逆の相があるので、兵権を握って蜀に入れるのは適さない、との上奏があった。十日後、宰相を北苑門に召して言った、「先に昌言を蜀に入れようとしたが、朕は考えて何か不便があると思った。そもそも蜀の賊は小醜であり、昌言は大臣であるから、軽々しく前進させるべきではない。しばらく鳳翔に駐留させ、内侍の衛紹欽に手書を持たせて軍事を指揮させるだけで、事は成るであろう」と。詔書が追いついた時、昌言はすでに鳳州に到着しており、候館に百余日留まった。賊が平定されると、戸部侍郎に改め、政事を罷め、鳳翔府知府となった。澶州・涇州・延州に転任した。

原文時京城連雨,昌言請出廄馬分牧外郡。或以盛秋備敵,馬不可闕。昌言曰:「塞下積水,敵必不至。」太宗從之。未幾,王小波、李順構亂於蜀,議遣大臣撫慰。昌言獨請發兵,無使滋蔓,廷論未決。會嘉、眉連陷,始命王繼恩等分路進討。昌言攝祭太廟,宿齋中,因召對滋福殿,復贊兵計,遂遣使督繼恩戰。繼恩御眾寡術,餘寇未殄,握兵留成都,士無鬥志,郡縣復有陷者。太宗意頗厭兵,召昌言謂曰:「西川本自一國,太祖平之,訖今三十年矣。」昌言知意,即前指畫攻取之策。太宗喜,命昌言為川峽五十二州招安行營馬步軍都部署。昌言懇辭,敦諭不許,賜精鎧、良馬、白金五千兩,別賜手劄數幅,皆討賊方略。自繼恩以下,並受節度。既行,有奏昌言無嗣,鼻折山根,頗有反相,不宜遣握兵入蜀。後旬日,召宰相於北苑門曰:「昨令昌言入蜀,朕思之有所未便。且蜀賊小醜,昌言大臣,未易前進。且令駐鳳翔,止遣內侍衛紹欽齎手書指揮軍事,亦可濟也。」詔書追及,昌言已至鳳州,留候館百餘日。賊平,改戶部侍郎,罷政事,知鳳翔府。徙澶、涇、延三州。

真宗が即位すると、兵部侍郎・陝州知州に遷り、上表して還京を求めたが、許されなかった。間もなく、永興軍知軍に移った。咸平三年、呂蒙正・寇準とともに召され、本官のまま御史中丞・知審官院を兼ねた。門資官(蔭位による官)は親民官(民に接する地方官)に任ずべきでないとの意見があったが、昌言は手疏を上し、才があるかないかは人によるのであって、寒門の進士と世家とを限るべきではないとし、その議論は廃止された。工部尚書を加官され、引き続き中丞を兼ねた。

原文真宗即位,遷兵部侍郎、知陝州,表求還京,不許。未幾,移知永興軍。咸平三年,與呂蒙正、寇準同召,以本官兼御史中丞、知審官院。有言門資官不宜任親民,昌言手疏,以才不才在人,豈以寒進世家為限,遂罷其議。加工部尚書,仍兼中丞。

以前は、多く御史臺の吏を派遣して群臣の法式を越える者を巡察させていたが、昌言は故事に準じて、左右巡使に分領させるよう建議した。ちょうど知審刑院趙安仁・判大理寺韓國華が獄を断じて不当であったため解職されたので、昌言は上言した、「詳断官は慎重に選ぶべきであり、今後、刑を議して不当な者は厳しく懲罰を示し、遠方の官に授け、もし罪があって問われた時にすぐに服罪しない者は、追捕を許すべきである。また、天下の大辟(死刑)を断じ終わったら、皆その供述を録して奏聞し、刑部に詳覆させ、用刑が道理に外れる者は皆按劾を行うべきである。ただ開封府だけは未だ奏案を上したことがなく、あるいは獄を断じて過失があっても、ただ元の勘問した官吏を罪とするだけで、知府・判官・推官・檢法官は皆責めに及ばない。それではどうして冤濫を弁明し、四方の模範を示せようか。願わくは今後、外州の例のように施行されたい」と。これに従った。ちょうど孟州の民常德方が、臨津尉任懿が賄賂で科挙に合格したと訴え、事が御史臺に下ると、知貢挙の王欽若がそれを受け取っていたことが分かり、昌言はこれを上聞した。欽若が自ら訴えたので、詔して刑昺に覆按させ、昌言は故意に罪を入れたとして坐し、官を奪われ、安遠軍行軍司馬に貶され、武勝軍に移された。

原文先時,多遣臺吏巡察群臣逾越法式者,昌言建議請準故事,令左右巡使分領之。會知審刑院趙安仁、判大理寺韓國華斷獄失中解職,昌言因上言:「詳斷官宜加慎擇,自今有議刑不當,嚴示懲罰,授以遠官,若有罪被問不即引伏者,許令追攝。又天下大辟斷訖,皆錄款聞奏,付刑部詳覆,用刑乖理者皆行按劾。惟開封府未嘗奏案,或斷獄有失,止罪元勘官吏,知府、判官、推官、檢法官皆不及責,則何以辨明枉濫,表則方夏?望自今如外州例施行。」從之。會孟州民常德方訟臨津尉任懿以賄登第,事下御史,乃知舉王欽若受之,昌言以聞。欽若自訴,詔刑昺覆按,坐昌言故入,奪官,貶安遠軍行軍司馬,移武勝軍。

景德初年、刑部侍郎に任じられた。三館の職を兼ねることを求め、判尚書都省を命じられた。真宗が澶淵に幸した時、盟津(孟州)が要地にあるとして、屯兵を増やし、河陽知府を命じられた。天雄軍府知府を歴任した。境内に小盗がいたので、昌言は賊を告げる者に賞を与えると榜示して諭し、牙吏をすぐに昇進させた。枢密使王継英は、小盗に対して勝手に賞格を定めるのは不当であるとして、詔して昌言にその榜を改めさせ、功労者は朝廷の旨を待つようにさせた。間もなく、鎮州知州に移り、戸部侍郎に遷った。大中祥符二年、卒去。六十五歳。吏部尚書を追贈され、諡は景肅。子の慶嗣を国子監丞に録用し、喪が終わるまで俸禄を与えた。甥孫の允明に同学究出身を与えた。

原文景德初,拜刑部侍郎。求兼三館職,命判尚書都省。真宗幸澶淵,以盟津居要,增屯兵,命知河陽。歷知天雄軍府。境內有小盜,昌言榜諭能告賊者給賞,牙吏即遷職。樞密使王繼英以為小盜不當擅為賞格,乃詔昌言易其榜,有勞者俟朝旨。未幾,徙知鎮州,遷戶部侍郎。大中祥符二年,卒,年六十五。贈吏部尚書,諡曰景肅。錄其子慶嗣為國子監丞,賦祿終喪。侄孫允明同學究出身。

昌言は後進を推奨することを好み、湖外の漕運を掌った時、李沆が潭州通判であったが、昌言は彼に宰相の器量があるとして、上表して朝廷に知らせた。王旦が岳州平江県令であった時、昌言は一度会ってその遠大なことを見抜き、娘を妻とし、後に二人とも賢相となった。王禹偁が低い官位から詞職(文学の職)に抜擢されたのも、昌言の推薦によるものであった。

原文昌言喜推獎後進,掌漕湖外時,李沆通判潭州,昌言謂有臺輔之量,表聞於朝。王旦宰岳州平江,昌言一見,識其遠大,以女妻之,後皆為賢相。王禹偁自卑秩擢詞職,亦昌言所薦也。

昌言は強力で気概を尊び、官に当たって顧みることも避けることもなく、赴任先では威断をもって名を立て、たとえたびたび排斥されても、少しも自らを抑え損なうことはなかった。しかし剛愎で縦放、僚吏に対して傲慢であり、当時の論者はこれを以て彼を軽んじた。慶嗣は太子洗馬に至った。

原文昌言強力尚氣概,當官無所顧避,所至以威斷立名,雖屢經擯斥,未嘗少自抑損。然剛愎縱率,對僚吏倨慢,時論以此少之。慶嗣至太子洗馬。

陳恕

原文陳恕

陳恕、字は仲言、洪州南昌の人。若くして県吏となり、志を改めて書を読んだ。江南が平定されると、礼部侍郎王明が洪州知州となり、恕は儒服で謁見した。明が彼と語り、大いに奇異とし、資を送って計偕(科挙受験のため上京)させた。太平興国二年の進士となり、初めて大理評事・洪州通判に任じられたが、恕は郷里であることを理由に辞した。澧州に改任された。澧州は唐末以来、節度使が兼領しており、吏が簿書に因って公銭を着服し悪事を働くことが多かった。恕はその弊害をことごとく摘発し、郡中で強明と称され、吏幹をもって聞こえた。

原文陳恕,字仲言,洪州南昌人。少為縣吏,折節讀書。江南平,禮部侍郎王明知洪州,恕以儒服見,明與語,大奇之,因資送令預計偕。太平興國二年進士,解褐大理評事、通判洪州,恕以鄉里辭。改澧州。澧自唐季為節鎮兼領,吏多緣簿書乾沒為姦。恕盡擿發其弊,郡中稱為強明,以吏幹聞。

召されて入朝し、右賛善大夫となり、同判三司勾院を兼ね、左拾遺に遷り、度支判官を充任した。判使王仁贍と朝廷で本司の事を争い、仁贍が屈服し、官位を貶されることとなった。恕は度支員外郎に抜擢され、もとの職を続けた。

原文召入,為右讚善大夫,同判三司勾院,遷左拾遺,充度支判官。與判使王仁贍廷爭本司事,仁贍屈伏,坐貶秩;擢恕為度支員外郎,仍舊職。

再び工部郎中・大名府知府に遷った。時に契丹が侵入し、詔を受けて城濠の増浚を行ったが、民から徴発する器用が期日に集まらなかった。恕はすぐに府中の大豪一人を捕らえ、将吏を集めて斬ろうとした。宗族が号泣して訴え、賓佐が競って前に出て救いを請い、大豪は頭を叩き血を流し、翌日までに事を集めることを請い、期に違えば甘んじて死ぬと言った。恕は彼を械につけて示衆させたので、民は皆恐れ慄き、後れる者はなく、数日で工事は完成した。

原文再遷工部郎中、知大名府。時契丹內寇,受詔增浚城隍,其器用取於民者不時集,恕立擒府中大豪一人,會將吏將斬之。宗族號訴,賓佐競前請救,大豪叩頭流血,請翌日集事,違期甘死。恕令械之以徇,民皆恐慄,無敢後期者,數日功就。

ちょうど契丹が引き上げたので、召されて戸部郎中・戸部副使となり、右諫議大夫・澶州知州に遷った。駅伝で召されて河北東路営田制置使となった。太宗が農戦の旨を諭すと、恕は答えて言った、「古くは兵は民より出で、寇がなければ耕し、寇が来れば戦った。今の兵士は皆募集によって集められ、衣食は朝廷に仰いでいる。もし彼らに冬は兵を執って寇を防ぎ、春は耒を執って田に服させれば、万一変事が起こった時、悔いても及ばないでしょう」と。太宗は言った、「卿はまず行け、朕は考えよう」と。恕が数日行くと、果たして詔があり、ただ城塁を修繕し、溝瀆を通導させるだけでよいとし、営田の議は遂に中止となった。間もなく代州知州となり、入朝して吏部選事を判じ、塩鉄使に任じられた。恕は心計があり、積年の弊害を除去したので、太宗は深く彼を器とし、自ら殿柱に「真塩鉄陳恕」と題した。

原文會契丹引去,召入為戶部郎中、戶部副使,遷右諫議大夫、知澶州。驛召為河北東路營田制置使。太宗諭以農戰之旨,恕對曰:「古者兵出於民,無寇則耕,寇至則戰。今之戎士皆以募致,衣食仰給縣官,若使之冬持兵禦寇,春執耒服田,萬一生變,悔無及矣。」太宗曰:「卿第行,朕思之。」恕行數日,果有詔,止令修完城堡、通導溝瀆而已,營田之議遂寢。俄知代州,入判吏部選事,拜鹽鐵使。恕有心計,釐去宿弊,太宗深器之,親題殿柱曰「真鹽鐵陳恕」。

給事中・参知政事に遷った。数か月後、太宗が戸部使樊知古の管轄が治まらないことに言及した。恕は知古と連携して事に当たり、情誼が厚かったので、密かにこれを知古に話し、職務を修め挙げるよう望んだ。知古が太宗に訴えたので、太宗は恕が禁中の言葉を漏らしたことを怒り、本官を守るのみとして罷免した。まもなく江陵府知府として出向し、群吏の姦贓を大いに発し、徒罪・流罪・停職・廃官に坐する者が多く、郡内は恐れ息をひそめた。

原文遷給事中、參知政事。數月,太宗言及戶部使樊知古所部不治。恕與知古聯事,情好款洽,密以語之,欲知古修舉其職。知古訴於太宗,太宗怒恕泄禁中語,罷守本官。旋出知江陵府,大發群吏姦贓,坐徒、流、停、廢者甚眾,郡內惕息。

淳化四年、太宗は魏羽・段惟一の請いにより、三司を十道に分け、左右計使を置き、魏羽・董儼に分かって主掌させた。恕を召して工部侍郎とし、総計使を充任させ、左右計事を判じさせた。左右計使は十道の事を分判し、凡そ議論・計度は皆恕らに参預させた。恕は官司がそれぞれ建てられ、政令が互いに出るのは、長久に経るのは難しいとして、その不便を極言した。一年余りで、果たして廃止され、再び恕を塩鉄使とした。

原文淳化四年,太宗從魏羽、段惟一之請,分三司為十道,置左右計使,以魏羽、董儼分主之;召恕為工部侍郎,充總計使,判左右計事。左右計使分判十道事,凡議論、計度並令恕等參預。恕以官司各建,政令互出,難以經久,極言其非便。歲餘,果罷,復以恕為鹽鐵使。

時に太宗は金穀に留意し、三司の吏李溥ら二十七人を召して崇政殿に対せしめ、計司の利害を詢ねた。溥らは条目の煩多なるを言い、口占をもってすべからずとし、筆札を給して以て対せんことを願う。太宗は中黄門を遣わして相府に詣らしめ、五日を限り悉く条上せしむ。溥ら共に七十一事を上る。詔して四十四事を以て有司に付して之を行わしめ、其の十九事を恕らに下して可否を議せしむ。知雑御史張秉・中使張崇貴を遣わして監議せしめ、中書に命じて其の事を籍し、専ら之を検挙して、廃格に致さしめざらしむ。溥らに白金緡銭を賜い、悉く侍禁・殿直に補し、其の職を領せしむ。太宗、宰相に謂いて曰く、「溥らの条奏する事は頗る長ずる所あり。朕嘗て恕らに語りしに、若し文章稽古を論ずれば、此の輩は固より望むべからず。若し銭穀の利病に至りては、頗る幼より長ずるまで、寝処其の中にあり、必ず根本を周知せん。卿等但だ顔色を仮し、引いて剖陳せしめよ、必ず益有らん。恕らは剛強にして、終に肯て意を降して詢問せず」と。呂端対えて曰く、「耕は当に奴に問い、織は当に婢に問うべし」と。寇準曰く、「夫子太廟に入りて、事毎に問う、乃ち貴を以て賤に下り、先ず有司の義なり」と。

原文時太宗留意金穀,召三司吏李溥等二十七人對於崇政殿,詢以計司利害。溥等言條目煩多,不可以口占,願給筆劄以對。太宗遣中黃門送詣相府,限五日悉條上之。溥等共上七十一事,詔以四十四事付有司行之,其十九事下恕等議可否。遣知雜御史張秉、中使張崇貴監議,令中書籍其事,專檢舉之,無致廢格。賜溥等白金緡錢,悉補侍禁、殿直,領其職。太宗謂宰相曰:「溥等條奏事頗有所長。朕嘗語恕等,若文章稽古,此輩固不可望;若錢穀利病,頗自幼至長,寢處其中,必周知根本。卿等但假以顏色,引令剖陳,必有所益。恕等剛強,終不肯降意詢問。」呂端對曰:「耕當問奴,織當問婢。」寇準曰:「夫子入太廟,每事問,乃以貴下賤,先有司之義。」

後数日、太宗又た曰く、「国家の歳入財は数倍唐に於ける。唐中葉以降、藩鎮命を擅にし、征賦多く公家に入らず、下は上を陵ぎ替え、経制隳壊す。若し前代を以て得たりと為せば、即ち已に太平を致し、豈に復た朕が心慮を煩わさんや」と。因りて恕らを召し、職事曠廃を以て責む。恕ら対えて曰く、「今土宇は至って広く、庶務は至って繁く、国用軍須、費す所浩瀚なり。又た諸州に遇うに、凡そ災沴有れば、必ず其の租を尽く蠲す。臣等毎に榷利を挙ぐれば、朝廷必ず民を侵すを以て慮いとし、皆尼して行わず。縦令耿寿昌・桑弘羊復た生まるるも、亦た及ばざる所なり。臣等駑力、惟だ簿領に心を尽くすのみ、終に聖治を上裨するに足らず」と。太宗曰く、「卿等は清にして通ぜず、専ら縄墨を守り、終に国家の為に長を度り大を絜い、煩を剖き滞を析く能わず。只だ京城の倉庫の如き、主吏当に職を改むべき者、簿領中一箇所の節目未だ備わらず、即ち十年五年に至りて決せず、以て貧にして資給無く、溝壑に転徙す。此れ卿等の過ちなり、豈に和気を傷つけざらんや」と。恕ら頓首して謝す。五年、三司に銭百万を賜い、吏に能く本司の便ならざるを言う者を募り、恕らに命じて事の大小を量り、銭を以て之を賞せしむ。銭尽きれば更に給す。

原文後數日,太宗又曰:「國家歲入財數倍於唐。唐中葉以降,藩鎮擅命,征賦多不入公家,下陵上替,經制隳壞。若前代為得,即已致太平,豈復煩朕心慮也。」因召恕等責以職事曠廢。恕等對曰:「今土宇至廣,庶務至繁,國用軍須,所費浩瀚,又遇諸州凡有災沴,必盡蠲其租。臣等每舉榷利,朝廷必以侵民為慮,皆尼而不行。縱使耿壽昌、桑弘羊復生,亦所不逮。臣等駑力,惟盡心簿領,終不足上裨聖治。」太宗曰:「卿等清而不通,專守繩墨,終不能為國家度長絜大,剖煩析滯。只如京城倉庫,主吏當改職者,簿領中壹處節目未備,即至十年五年不決,以致貧無資給,轉徙溝壑。此卿等之過,豈不傷和氣哉?」恕等頓首謝。五年,賜三司錢百萬,募吏有能言本司不便者,令恕等量事大小,以錢賞之,錢盡更給。

至道二年、三司を倂せんと欲し、官を命じて総判せしむ。其の勾院・磨勘・理欠・憑由・支収・行帳・提点等の司は、恕に命じて其の事を条列して以て聞かしむ。恕奏して曰く、「伏して封域寛広、財穀繁多、三司の中、簿牒填委し、朝廷法を設け、督責尤も厳しく、官吏過ちを救うに暇あらず。若し三部各に主司を設けば、才を択ぶは難からず、事を弁ずるも亦た易し。事弁じ過ち鮮く、上心を撓さず、此れ亦た一時の良策なり。其の勾院・磨勘の両司は、旧制に出で、関防の要、此に加ふる莫し。理欠・憑由の二司は、旧設に非ざれども、理欠序を失い、憑由散落するより、故に二司を設け専ら典掌せしむ。綱目咸く具わり、制置倫有り、逋欠失理の名無く、憑由流散の弊鮮し、実に亦た要切にして、廃除すべからず。若し両司並びに一官に委ねば、方に判官一員の事に及ばん。其の主轄支収司は、先に京より財貨を支度し、外地に転輸するに因り、此を除き彼に附し、照験稽滞す。若し京城賢き主史を得て、此の司に居らしめ、専ら検轄を行わしめ、凡そ官物を支撥すれば、便ち除破の文憑を給し、却って所の司に簿を置きて記録し、収附の文記を催到すれば、即ち乃ち簿書を勾銷する取捷の門、亦た允当たりと為すべし。其の行帳司は近日権置し、旧帳を了絶し、帳目告げて尽き、司額自ら除かる。提点司は中旨特置し、三司の廃怠の事を提振す。固より有司敢えて擬議するを得ざるなり」と。詔して三司都憑由・理欠司は宜しく一処と為すべく、官を命じて兼判せしむ。応に諸道逋負の官物は、三司に逐部理約せしめ、理欠司は但だ其の逋の数を総べて之を糾督せしむ。余は悉く恕の奏に従う。

原文至道二年,欲倂三司,命官總判。其勾院、磨勘、理欠、憑由、支收、行帳、提點等司,令恕條列其事以聞。恕奏曰:「伏以封域寖廣,財穀繁多,三司之中,簿牒填委,朝廷設法,督責尤嚴,官吏救過不暇。若為三部各設主司,擇才非難,辦事亦易。事辦過鮮,不撓上心,此亦一時之良策也。其勾院、磨勘兩司,出於舊制,關防之要,莫加於此。理欠、憑由二司,雖非舊設,自理欠失序,憑由散落,故設二司專令典掌。綱目咸具,制置有倫,逋欠無失理之名,憑由鮮流散之弊,實亦要切,不可廢除。若兩司並委一官,方及判官一員之事。其主轄支收司,先因從京支度財貨,轉輸外地,此除彼附,照驗稽滯,若京城得賢主史,使居此司,專行檢轄,凡支撥官物,便給除破文憑,卻於所司置簿記錄,催到收附文記,即乃勾銷簿書取捷之門,亦為允當。其行帳司近日權置,了絕舊帳,帳目告盡,司額自除。提點司是中旨特置,提振三司廢怠之事,固非有司敢得擬議也。」詔三司都憑由、理欠司宜令為一處,命官兼判。應諸道逋負官物,令三司逐部理約,理欠司但總其所逋之數糾督之。餘悉從恕奏。

恕、将に茶法を立たんとし、茶商数十人を召し、使う各条利害を条せしむ。恕之を閲し第を三等と為す。副使宋大初に語りて曰く、「吾が下等を観るに固より滅裂にして取る無し。上等は利を取る太だ深し。此れ商賈に行わるべく、朝廷に行うべからず。惟だ中等は公私皆済い、吾之を裁損し、以て久しきを経べし」と。是より始めて三法を為して之を行い、貨財流通す。

原文恕將立茶法,召茶商數十人,俾各條利害,恕閱之第為三等,語副使宋大初曰:「吾觀下等固滅裂無取。上等取利太深,此可行於商賈,不可行於朝廷。惟中等公私皆濟,吾裁損之,可以經久。」於是始為三法行之,貨財流通。

峡路諸州は、孟氏の旧政を承け、賦税軽重均からず。閬州は税銭千八百を以て一絹と為し、果州は六百を以て一絹と為す。民前後登聞鼓を撃ち陳訴すること二十年に歴り、詔を本道の官吏に下すも、因循して理せず。転運副使張曄は年少気鋭、会うに詔を受けて按覆するに、即ち便宜に行う。恕、曄の法を擅に改むるを奏し、果州一歳の上供絹万余を虧くを計う。曄坐して一任を削り免ぜらる。

原文峽路諸州,承孟氏舊政,賦稅輕重不均,閬州稅錢千八百為一絹,果州六百為一絹。民前後擊登聞鼓陳訴歷二十年,詔下本道官吏,因循不理。轉運副使張曄年少氣銳,會受詔按覆,即便宜行之。恕奏曄擅改法,計果州一歲虧上供絹萬餘,曄坐削一任免。

恕、毎に便殿にて事を奏す。太宗或いは未だ深く察せず、必ず形誚譲す。恕は板を斂めて踧縮し、退きて殿壁に至り負いて立ち、容るる所無きが若し。意稍く解くるを俟ちて復た進み、愨として前奏を執り、終に改易せず、是の如く或いは三四に至る。太宗其の忠を以て、多く之に従う。礼部侍郎に遷る。真宗即位し、戸部を加え、中外の銭穀を条具して以て聞かしむるを命ず。恕久しく進まず、屡之を趣す。恕曰く、「陛下は春秋に富み、若し府庫の充実するを知らば、恐らくは侈心を生ぜん。臣是を以て敢えて進まず」と。真宗之を嘉す。

原文恕每便殿奏事,太宗或未深察,必形誚讓。恕斂板踧縮,退至殿壁負立,若無所容。俟意稍解復進,愨執前奏,終不改易,如是或至三四。太宗以其忠,多從之。遷禮部侍郎。真宗即位,加戶部,命條具中外錢穀以聞。恕久不進,屢趣之,恕曰:「陛下富於春秋,若知府庫充實,恐生侈心,臣是以不敢進。」真宗嘉之。

咸平二年、帝北巡し、行在転運使を充つ。俄に母老を以て解くを求め、吏部侍郎を拝し、通進銀台封駁司・審官院をを知る。上言す、「封駁の任は、実に給事中の職にして、左曹に隷す。別に官局を建つるも、其の故号を失うべからず。請う、門下封駁事を銀台司に隷せしめん」と。之に従う。五年、貢挙をを知る。恕自ら洪人なるを以て嫌を避け、凡そ江南の貢士は悉く黜退せらる。又た貢挙其の人に非ざるの条を援け、故に取る所甚だ少なく、而して取る所は王曾を以て首と為す。廷試糊名考校に及び、曾復た甲科を得たり。時に議之を称す。恕毎に自ら歎じて曰く、「吾曾を得たり、名世の才なり、知人に愧じず」と。

原文咸平二年,帝北巡,充行在轉運使。俄以母老求解,拜吏部侍郎,知通進銀臺封駁司、審官院。上言:「封駁之任,實給事中之職,隸於左曹。雖別建官局,不可失其故號。請以門下封駁事隸銀臺司。」從之。五年,知貢舉。恕自以洪人避嫌,凡江南貢士悉被黜退。又援貢舉非其人之條,故所取甚少,而所取以王曾為首,及廷試糊名考校,曾復得甲科,時議稱之。恕每自歎曰:「吾得曾,名世才也,不愧於知人矣。」

恕、母に事うるに孝なり。母亡び、哀慕過甚にして、葷茹を食わず、遂に羸瘠に至る。起復して視事し、尚書左丞に遷り、権に開封府を知る。恕已に病み、猶強いて職に親しむ。数月にして劇しく増し、表して館殿の職を求め、奉を獲て以て其の貧を済さんとす。真宗曰く、「卿一人代わる可き者を求めよ、卿の去るを聴せん」と。是の時寇準枢密使を罷む。恕即ち薦めて以て自ら代わらしむ。遂に準を以て三司使と為し、恕を集賢学士・判院事と為す。準即ち恕の前後改革興立の事を検尋し、類して以て冊と為し、及び以て出だす所の榜に、別に新板を用い、躬ず恕の第に至り判押を請う。恕亦た譲らず、一一之に押す。是より計使其の旧貫を循らざる無し。李諮三司使と為るに至り、始めて茶法を改む。恕の規模漸く革まる。

原文恕事母孝,母亡,哀慕過甚,不食葷茹,遂至羸瘠。起復視事,遷尚書左丞、權知開封府。恕已病,猶勉強親職,數月增劇,表求館殿之職,獲奉以濟其貧。真宗曰:「卿求一人可代者,聽卿去。」是時寇準罷樞密使,恕即薦以自代,遂以準為三司使,恕為集賢學士、判院事。準即檢尋恕前後改革興立之事,類以為冊,及以所出榜,別用新板,躬至恕第請判押。恕亦不讓,一一押之,自是計使無不循其舊貫。至李諮為三司使,始改茶法,恕之規模漸革矣。

帝恕を重んじ、詔して太医に診療せしむ。百日、有司奉を停めんことを請うも、許さず。未幾、卒す。年五十九。恕将に卒せんとし、口占して遺奏及び後事を約束し、送終の具、周悉ならざる無し。真宗悼惜し、朝を廃し、吏部尚書を贈る。其の子執中を録して太常寺太祝と為し、執古を奉礼郎と為す。

原文帝重恕,詔太醫診療。百日,有司請停奉,不許,未幾,卒,年五十九。恕將卒,口占遺奏及約束後事,送終之具,無不周悉。真宗悼惜,廢朝,贈吏部尚書。錄其子執中為太常寺太祝,執古為奉禮郎。

恕は史伝に広く通じ、典故を多く識り、吏務に精しく、深刻で恩情に乏しく、人々は私事を以て干渉することを敢えなかった。前後十数年にわたり利権を掌握し、強力に事を為し、胥吏は畏服し、職務に適う称賛があった。談論を善くし、聞く者は倦むことを忘れた。平素より釈氏を好まず、嘗て訳経院の廃止を請うたが、その言辞は甚だ激切であり、真宗は「三教の興りは、その来り久しく、前代にこれを毀つ者は多い。ただ存して論ぜざる可きなり」と言った。

原文恕頗涉史傳,多識典故,精於吏理,深刻少恩,人不敢干以私。前後掌利柄十餘年,強力幹事,胥吏畏服,有稱職之譽。善談論,聽者忘倦。素不喜釋氏,嘗請廢譯經院,辭甚激切,真宗曰:「三教之興,其來已久,前代毀之者多矣,但存而不論可也。」

恕は性吝嗇であり、子の淳が私的に銭を用いたことに怒った。及び病臥に至り、上疏して淳が教導に従わず、多く非類と交遊し、常に武芸を習い、外州の軍校として出されることを願うと述べた。真宗は「戎校は鎮兵を管し、丞郎家の子弟の莅む所にあらず」と言い、滁州司馬とした。恕が卒すると、召されて旧官に復し、後に竟に賄賂により敗れた。執中は同中書門下平章事に至り、別に伝がある。執古は虞部員外郎に至る。執方・執礼は共に太子中舎。

原文恕性吝,怒子淳私用錢。及寢疾,上言淳不率教導,多與非類遊,常習武藝,願出為外州軍校。真宗曰:「戎校管鎮兵,非丞郎家子弟所蒞也。」以為滁州司馬。恕卒,召復舊官,後竟以賄敗。執中至同中書門下平章事,別有傳;執古至虞部員外郎;執方、執禮,並太子中舍。

魏羽

原文魏羽

魏羽は、字を垂天といい、歙州婺源の人である。少時に文を属する能くし、李煜に上書し、弘文館校書郎に署せられた。時に当塗県を建てて雄遠軍と為し、羽を判官とした。宋師が江を渡りその境に出ると、羽は城を以て降り、太祖はこれを抜擢して太子中舎とし、仍って旧職に就かせた。金陵平定後、入朝し、出て興州を知った。

原文魏羽者,字垂天,歙州婺源人。少能屬文,上書李煜,署弘文館校書郎。時建當塗縣為雄遠軍,以羽為判官。宋師渡江出其境,羽以城降,太祖擢為太子中舍,仍舊職。金陵平,入朝,出知興州。

太平興国初年、棣州を知り、京兆府に改めた。六年、詔を受けて瀛州に詣で軍市の租を覆査し、隠漏数万を計上した。因って上言して「本州の録事参軍郭震は十年交代せず、河間令崔能は前任の即墨において、未だ歳を満たさずに官秩を遷した。有司の調選は公平を失い、疏遠なる者は何由か聞達せん。典司を罪し、以て欺弊を粛すべし」と言った。上は詔を賜って褒諭した。覆命後、太常博士に遷り宋州を知り、また閬州に徙り、就いて膳部員外郎に改めた。父の喪に服し、起復して職事に莅み、入って大理寺を判じた。度支・戸部の二判官を歴任し、召されて本曹郎中を拝した。因って上疏して三司の職官は頗る衆多であるから、その半ばを省き、責成すべきことを願い、併せて利害二十条を条列した。詔して有司に下して詳議せしめ、皆以て便りと為した。塩鉄判官に改めた。時に北辺に警多く、朝議は耕戦の術を論じ、羽を河北東路営田副使とし、両浙転運使に改め、兵部郎中に遷した。

原文太平興國初,知棣州,改京兆府。六年,受詔詣瀛州覆軍市租,得隱漏數萬計。因上言:「本州錄事參軍郭震十年未代;河間令崔能前任即墨,未滿歲遷秩。有司調選失平,疏遠何由聞達,請罪典司,以肅欺弊。」上賜詔褒諭。覆命,遷太常博士、知宋州,又徙閬州,就改膳部員外郎。丁外艱,起復蒞事,入判大理寺。歷度支、戶部二判官,召拜本曹郎中。因上疏言三司職官頗眾,願省其半,可以責成,仍條列利病凡二十事。詔下有司詳議,皆以為便。改鹽鐵判官。時北邊多警,朝議耕戰之術,以羽為河北東路營田副使,改兩浙轉運使,遷兵部郎中。

淳化初年、選ばれて秘書少監となり、一月余りを経て左諫議大夫に遷り、俄かに度支使を拝し、塩鉄使に改めた。四年、三部を併せて一司と為し、羽に三司を判せしめた。先に、三司の簿領は堆積し、吏が縁って姦を為し、嘗て新制を更に立てたが、適中せざりき。この冬、羽は上言して「唐制に依り天下の郡県を十道と為し、両京を左右計と為し、各判官を署してこれを領せしむ」と言った。三司使二員を制し、羽を左計使とし、董儼を右計使とし、諸道を中分してこれに隷せしめた。久しからずして、不便として罷め、本官を守り、出て滑州を知った。母の喪に服し、起復し、給事中を加えられ、潭州に徙り、使者を遣わして旨を諭した。真宗即位後、工部侍郎に遷り、連ねて杭・揚二州に徙り、召されて権知開封府とした。車駕北巡の際、留司三司を判じ、再び戸部度支使となった。

原文淳化初,選為秘書少監,逾月,遷左諫議大夫,俄拜度支使,改鹽鐵使。四年,倂三部為一司,以羽判三司。先是,三司簿領堆積,吏緣為姦,雖嘗更立新制,未為適中。是冬,羽上言:「依唐制天下郡縣為十道,兩京為左右計,各署判官領之。」制三司使二員,以羽為左計使,董儼為右計使,中分諸道以隸焉。未久,以非便罷,守本官,出知滑州。丁內艱,起復,加給事中,徙潭州,遣使諭旨。真宗即位,遷工部侍郎,連徙杭、揚二州,召權知開封府。車駕北巡,判留司三司,再為戶部度支使。

咸平四年、疾を以て職を解き、礼部侍郎を拝した。謝日の際、便殿に召し昇らせ、従容として問諭し、医薬を以て勉めた。一月余りして卒し、年五十八。

原文咸平四年,以疾解職,拜禮部侍郎。謝日,召升便殿,從容問諭,勉以醫藥。月餘卒,年五十八。

羽は史伝に渉猟し、事を言うを好んだ。淳化年中、許王が暴薨し、或いは宮府の旧事を以て上聞する者あり。太宗怒り、僚吏を追捕し、将に窮究せんとす。羽は間を乗じて上言して「漢の戾太子が父の兵を窃み弄び、当時の言者はその罪を笞に当たるのみと為せり。今許王の過ちは、これに甚だしからず」と言った。太宗嘉納し、これにより被劾者は皆軽典を獲た。嘗て建議して、唐以来、凡そ制詔は皆門下省を経て審し、不便なる者はその封駁を許す。故事に遵い、名臣を択び専らその職を領せしむることを請う。今に至るまで廃せず。

原文羽涉獵史傳,好言事。淳化中,許王暴薨,或有以宮府舊事上聞者。太宗怒,追捕僚吏,將窮究之。羽乘間上言曰:「漢戾太子竊弄父兵,當時言者以其罪當笞耳。今許王之過,未甚於是。」太宗嘉納之,繇是被劾者皆獲輕典。嘗建議有唐以來,凡制詔皆經門下省審,有非便者許其封駁,請遵故事,擇名臣專領其職,迄今不廢。

羽は強力にして吏幹あり、特に小心謹事であった。太宗嘗て左右に謂いて「羽は心計あり、亦吏道に明らかなり。但だ執守無く、物と推移するのみ。劇職を歴ること十年、始めて四十を逾え、鬚鬢尽く白し、亦憐れむべし」と言った。羽は計司に出入りすること凡そ十八年、金穀の事に習い知るも、然し頗る煩急を傷い、大體に達せず。

原文羽強力有吏幹,尤小心謹事。太宗嘗謂左右曰:「羽有心計,亦明吏道,但無執守,與物推移耳。歷劇職十年,始逾四十,鬚鬢盡白,亦可憐也。」羽出入計司凡十八年,習知金穀之事,然頗傷煩急,不達大體。

景德二年、長子の玠が卒し、その妻自ら家貧にして禄無きを陳べた。上これを憫れんだ。次子の校書郎瓘を奉礼郎とし、後に殿中丞とした。琰は太子中舎。孫の平仲は、天禧三年に同進士出身。

原文景德二年,長子玠卒,其妻自陳家貧無祿,上憫之。次子校書郎瓘為奉禮郎,後為殿中丞;琰為太子中舍。孫平仲,天禧三年同進士出身。

羽と同時に劉式という者あり、亦久しく計司に居り、端拱年中の三年磨勘の法を創始し、首に式を以てこれを主らしめた。

原文羽同時有劉式者,亦久居計司,剏端拱中三年磨勘之法,首以式主之。

劉式

原文劉式

式は、字を叔度といい、袁州の人である。李煜の時、『三伝』に挙げて第中した。宋に帰順し、歴遷して大理寺丞・賛善大夫・通州豊利監を監し及び三司都磨勘司を主り、仍って緋を賜った。式は又、主轄支収司を置くことを建議し、以て財賦の出納を謹しみ、時に以て当たりと為した。秘書丞に遷り、陳靖と共に高麗に使した。至道年中、三勾院を併せて一と為し、式に命じてこれを領せしめた。再転して工部員外郎となり、金紫を賜った。刑部に遷る。式は簿領の弊を深く究め、江・淮の間に旧く横賦あり、逋積甚だ多し。式これを奏して免じ、人以て便りと為した。然し条奏多く、検校過峻にして、下吏に訟えられ、免官し、卒した。

原文式,字叔度,袁州人也。李煜時,舉《三傳》中第。歸宋,歷遷大理寺丞、讚善大夫、監通州豐利監及主三司都磨勘司,仍賜緋。式又建議置主轄支收司,以謹財賦出納,時以為當。遷秘書丞,與陳靖使高麗。至道中,倂三勾院為一,命式領之。再轉工部員外郎,賜金紫。遷刑部。式深究簿領之弊,江、淮間舊有橫賦,逋積至多,式奏免之,人以為便。然多所條奏,檢校過峻,為下吏所訟,免官,卒。

真宗は前効を追録し、その子立本に学究出身を賜った。次子立之は、後に国子博士となった。立德・立礼は共に進士及第し、立礼は殿中丞となった。

原文真宗追錄前效,賜其子立本學究出身。次子立之,後為國子博士。立德、立禮,並進士及第,立禮為殿中丞。

劉昌言

原文劉昌言

劉昌言、字は禹謨、泉州南安の人。若くして篤学、文詞は靡麗。本道節度使陳洪進が功曹参そうしん軍に辟召し、箋奏を掌る。洪進が子の文顯を入貢させた時、昌言に同行させ、太祖自ら労った。

原文劉昌言,字禹謨,泉州南安人。少篤學,文詞靡麗。本道節度陳洪進辟功曹參軍,掌箋奏。洪進遣子文顯入貢,令昌言偕行,太祖親勞之。

太平興国二年、洪進が帰朝し、徐州に移鎮すると、また推官に辟す。五年、進士に挙げられ合格したが、太宗は初め科第を惜しみ、ただ帰徳軍掌書記を授けたのみ。八年、再び挙げられ及第し、保信・武信二鎮の判官に遷る。宰相趙普が南陽に鎮した時、昌言の吏幹を重んじた。錢俶が鄧を帥とし、表してこれを推薦した。泰寧軍節度判官に移る。入朝して左司諫・広南安撫使となる。淳化初年、趙普が西京留守となり、表して通判とし、府政を委ねた。普が病むと、昌言に後事を託した。普が卒すると、昌言は普の知己を感じ、その家事を經理した。太宗は挙主に忠なるものと認め、起居郎に拝し、金紫・銭五十万を賜う。三日連続で対し、皆日旰に至った。昌言は捷給で詼詭、人の主意を揣む能く、旨に称わざるはなかった。太宗は宰相に謂いて曰く、「昌言の質状は偉ならず、若し貌を以て取らば、子羽を失わん」と。工部郎中に遷り、一ヶ月余りで、本官を守り、枢密直学士を充て、銭若水と共に審官院を同知す。二十八日、右諫議大夫・同知枢密院事に遷る。

原文太平興國二年,洪進歸朝,改鎮徐州,又辟推官。五年,舉進士入格,太宗初惜科第,止授歸德軍掌書記。八年,復舉得第,遷保信、武信二鎮判官。宰相趙普鎮南陽,重昌言有吏幹。錢俶帥鄧,表薦之。移泰寧軍節度判官。入為左司諫、廣南安撫使。淳化初,趙普留守西京,表為通判,委以府政。普疾,屬昌言後事。普卒,昌言感普知己,經理其家事。太宗以為忠於所舉,拜起居郎,賜金紫、錢五十萬。連對三日,皆至日旰。昌言捷給詼詭,能揣人主意,無不稱旨。太宗謂宰相曰:「昌言質狀非偉,若以貌取,失之子羽矣。」遷工部郎中,逾月,守本官,充樞密直學士,與錢若水同知審官院。二十八日,遷右諫議大夫、同知樞密院事。

昌言は驟用され、時望に伏せられず、或いはその閩語が難解であると短じた。太宗曰く、「惟朕のみ能く之を曉す」と。また母と妻を郷里に委ね、十餘年迎え侍わず、傍妻を別に娶ったと短じた。太宗は既に之を寵し、詔して迎えて京師に帰らせ、本州に銭を給して装を辨じ、県次第に食を継がしむ。時にまた光禄丞何亮は果州に家し、秘書丞陳靖は泉州に家し、其の親を迎えず。詔を下し文武官を戒諭し、父母が剣南・峡路・漳泉・福建・嶺南に在る者は、皆迎え侍わしめ、敢えて違う者有らば、御史台糾挙して以て聞かしむ。

原文昌言驟用,不為時望所伏,或短其閩語難曉,太宗曰:「惟朕能曉之。」又短其委母妻鄉里,十餘年不迎侍,別娶旁妻。太宗既寵之,詔令迎歸京師,本州給錢辦裝,縣次續食。時又有光祿丞何亮家果州,秘書丞陳靖家泉州,不迎其親。下詔戒諭文武官,父母在劍南、峽路、漳泉、福建、嶺南,皆令迎侍,敢有違者,御史臺糾舉以聞。

昌言は自ら登擢が次を非とするを以て、人の傾奪を懼れた。時に凶人趙讚を誅するに会い、昌言は讚と素より善く、前に河南に在り嘗て之を保任したことがあり、心自ら安からず。太宗が近侍に讚と交わる者有りと言及するに因り、昌言は蹶然として位を出で、頓首して死罪と称した。太宗は之を慰勉したが、然れども此れより其の人為りを悪む。給事中を以て罷め、出でて襄州を知る。上言して曰く、「水旱の民は税を輸するに期を愆らす。旧制は六月に倉を開くが、臣は先ず一月を許し所在の県駅に輸納せしめて民に便ならしむ。盗を獲れば当に部送して闕下にすべきだが、臣は吏の柔懦にして制し能わず、再び亡命するを恐れ、軍籍に配隷す。此の二事、臣は便宜に従い、詔書の如くせず、讒慝の因りて浸潤するを慮る。願わくは陛下之を察せよ」と。太宗は詔を下し其の旧章に循わず、民に怨を斂むるを責め、自今より敢えて詔条を背棄せば、譴責して復た恕さずとす。

原文昌言自以登擢非次,懼人傾奪。會誅凶人趙讚,昌言與讚素善,前在河南嘗保任之,心不自安。因太宗言及近侍有與讚交者,昌言蹶然出位,頓首稱死罪。太宗慰勉之,然自此惡其為人。以給事中罷,出知襄州。上言:「水旱民輸稅愆期。舊制六月開倉,臣令先一月許所在縣驛輸納以便民。獲盜當部送闕下,臣恐吏柔懦不能制,再亡命,配隸軍籍。此二事,臣從便宜,不如詔書,慮讒慝因而浸潤,願陛下察之。」太宗下詔責其不循舊章,斂怨於民,自今敢背棄詔條,譴責不復恕。

至道二年、移って荊南府を知る。真宗即位に就き、工部侍郎を拝す。咸平二年、卒す。年五十八。工部尚書を贈られる。子に有方、比部員外郎。有政、虞部員外郎。

原文至道二年,徙知荊南府。真宗即位,就拜工部侍郎。咸平二年,卒,年五十八,贈工部尚書。子有方,比部員外郎;有政,虞部員外郎。

張洎

原文張洎

張洎、滁州全椒の人。曾祖は旼、澄城尉。祖は蘊、泗上しじょう転運巡官。父は煦、滁州司法掾。洎は少にして俊才有り、墳典に博通す。江南にて進士に挙げられ、上元尉に解褐す。李景の長子弘冀卒す。有司は武宣と諡す。洎は議して以て世子の礼は、但だ安を問い膳を視るべく、宜しく「武」を以て称すべからずと為す。旋って命じて諡を改めしめ、監察御史に擢る。洎は自ら論事が旨に称うを以て、遂に肆に弾撃して忌憚無し。大臣遊簡言等之を嫉む。景が国を豫よ章に遷し、煜を留めて居守せしむるに会い、即ち洎を薦めて煜の記室と為す。従うを得ず。未だ幾ばくもせず、景卒す。煜嗣ぐ。工部員外郎・試知制誥に擢る。歳満ちて、礼部員外郎・知制誥と為る。中書舎人・清輝殿学士に遷り、機密に参預し、恩寵第一。

原文張洎,滁州全椒人。曾祖旼,澄城尉。祖蘊,泗上轉運巡官。父煦,滁州司法掾。洎少有俊才,博通墳典。江南舉進士,解褐上元尉。李景長子弘冀卒,有司諡武宣,洎議以為世子之禮,但當問安視膳,不宜以「武」為稱,旋命改諡,擢監察御史。洎自以論事稱旨,遂肆彈擊無所忌,大臣遊簡言等嫉之。會景遷國豫章,留煜居守,即薦洎為煜記室,不得從。未幾,景卒,煜嗣。擢工部員外郎、試知制誥;滿歲,為禮部員外郎、知制誥。遷中書舍人、清輝殿學士,參預機密,恩寵第一。

洎は旧字は師黯、改めて字を偕仁とす。清輝殿は後苑の中に在り、煜は洎を寵し、左右を離れしめず、職を内殿に授け、中外の務は一に之に諮る。毎に兄弟宴飲し、妓楽を作すに、洎独り預かるを得たり。大第を宮城の東北隅に建て、及び書万余巻を賜う。煜嘗て其の第に至り、妻子を召見し、賜与甚だ厚し。

原文洎舊字師黯,改字偕仁。清輝殿在後苑中,煜寵洎,不欲離左右,授職內殿,中外之務一以諮之。每兄弟宴飲,作妓樂,洎獨得預。為建大第宮城東北隅,及賜書萬餘卷。煜嘗至其第,召見妻子,賜予甚厚。

洎は尤も好んで建議し、毎に上言し、即に行われざれば、必ず疾を称し、煜手劄を以て慰諭し、始めて復た事を視る。及び王師城を囲み、年を踰え、城甚だ危うし。洎は煜を勧めて降る勿からしめ、毎に符命を引きて云く、「玄象変無く、金湯の固きは、未だ易く取るべからず。北軍は旦夕に当に自ら引退すべし。苟も一旦虞らざれば、即ち臣当に先ず死すべし」と。既にして城陥つ。洎は妻子及び橐装を携え、便門より自ら入りて宮中に止まり、紿して光政使陳喬と同く閣に昇り、俱に死せんと欲す。喬は自経して気絶す。洎は反って下りて煜に見えて曰く、「臣と喬とは同く枢務を掌る。国亡ぶれば当に俱に死すべし。又主の在るを念い、誰か能く主の為に其の事を白せん。死せざれば、将に以て報ゆる有らん」と。

原文洎尤好建議,每上言,未即行,必稱疾,煜手劄慰諭之,始復視事。及王師圍城,逾年,城危甚,洎勸煜勿降,每引符命云:「玄象無變,金湯之固,未易取也。北軍旦夕當自引退。苟一旦不虞,即臣當先死。」既而城陷,洎攜妻子及橐裝,自便門入止宮中,紿光政使陳喬同升閣,欲與俱死。喬自經氣絕,洎反下見煜曰:「臣與喬同掌樞務,國亡當俱死。又念主在,誰能為主白其事,不死,將有以報也。」

帰朝し、太祖召して責めて曰く、「汝は煜を教えて降らざらしめ、今日に至らしむ」と。因って帛書を出して之を示す。乃ち城を囲む日の洎の草したる詔、上江の救兵を召す蠟丸の書なり。洎は頓首して罪を請いて曰く、「実に臣の為す所なり。犬其の主に非ざれば吠ゆ。此れ其の一のみ。他尚多く有り。今死を得るは、臣の分なり」と。辞色変らず。上之を奇とし、其の死を貸し、謂いて曰く、「卿は大いに胆有り。卿に罪を加えず。今の我に事うるは、昔日の忠に替うること無かれ」と。太子中允を拝し、歳余り、刑部を判ず。太宗即位し、其の文雅を以て、選んで舎人院に直し、諸州進士を考試す。未だ幾ばくもせず、高麗に使い、復命し、戸部員外郎に改む。太平興国四年、出でて相州を知る。明年夏、貝州に徙る。是の冬、又相州を知る。部内治まらず、転運使田錫其の状を言い、代わりて還る。洎は見えを求めて廷に辯す。上は其の儒生を以て、吏事を以て責めず、詔して問わず。本官を以て訳経院を知らしめ、兵部員外郎・礼・戸二部郎中に遷る。雍熙二年、貢挙を同知す。

原文歸朝,太祖召責之曰:「汝教煜不降,使至今日。」因出帛書示之,乃圍城日洎所草詔,召上江救兵蠟丸書也。洎頓首請罪曰:「實臣所為也。犬吠非其主,此其一爾,他尚多有。今得死,臣之分也。」辭色不變。上奇之,貸其死,謂曰:「卿大有膽,不加卿罪。今之事我,無替昔日之忠也。」拜太子中允,歲餘,判刑部。太宗即位,以其文雅,選直舍人院,考試諸州進士。未幾,使高麗,復命,改戶部員外郎。太平興國四年,出知相州。明年夏,徙貝州。是冬,又知相州。部內不治,轉運使田錫言其狀,代還。洎求見廷辯,上以其儒生,不責以吏事,詔不問。令以本官知譯經院,遷兵部員外郎、禮、戶二部郎中。雍熙二年,同知貢舉。

端拱の初め、契丹が辺境を侵したので、詔して群臣に事を言わしむ。洎上奏し、兵を練り穀を聚め、塞下に分屯し、来れば備禦し、去れば追わざるを要略とす。時に錢俶薨じ、太常諡を定めて忠懿とす。洎時に考功を判じ、覆状を作り、尚書省に経て集議す。虞部郎中張佖奏駁して曰く、「考功の覆状の一句に『亢龍悔い無し』と云うは、実に臣子の宜しく言うべきに非ず。況んや錢俶は島夷に生長し、夙に荒服たり、未だ嘗て尊位に略居せず、終に藩臣なり。故に名は龍と称すべからず、位は亢と為すべからず。其の『亢龍悔い無し』の四字、請う改正を。」事中書に下り、以て洎を詰む。対状して曰く、「窃に故秦國王の明德茂勳は、天壤に格し、崇高の富貴に処し、纖介の譏嫌を絶つ。太常禮院其の功行を稽え、茲の嘉諡を定め、考功詳覆の際、率ね至公に遵う。故に其の議状に云う、『茲れ所謂寵を受けて驚くが若く、亢に居りて悔い無き者なり』と。謹んで按ずるに《易・乾》の九三に云く、『君子乾乾として、夕に惕むこと厲きが若く、咎無し。』王弼の注に云く、『下體の極に処し、上體の下に居り、重剛の險を履み、時に因りて惕み、其の幾を失わざれば、以て咎無しとすべし。下卦の極に処するは、上九の亢に愈る。』《易例》に云く、『初九は元士と為し、九二は大夫と為し、九三は諸侯と為す。』《正義》に云く、『《易》の本理は、体を以て君臣と為す。九三は下體の極に居るは、人臣の体なり。其の亢龍の咎を免るるは、人臣の極にして、慎み守り以て禍を免るるべし。故に亢極の禍を免ると云うなり。』《漢書かんじょ・梁商傳》の贊に云く、『地は亢満に居るも、而も能く謹厚を以て自ら終わる。』楊植の《許由碑》に云く、『錙銖九有、亢極一夫。』杜鴻漸の《元帥を譲る表》に云く、『禄位亢極し、涯量を過ぎ逾る。』盧杞の《郭子儀碑》に云く、『亢に居りて悔い無く、其の心益々降る。』李翰の《霍光傳を書す》に云く、『伊・周負荷の明有り、九三亢極の悔い無し。』張説の《祁國公碑》に云く、『一に目牛の全無く、一に亢龍の悔い無し。』況んや考功の状内に止だ称して『寵を受けて驚くが若く、亢に居りて悔い無し』と云うは、即ち本より『亢龍悔い無し』の語無し。斯れ蓋し張佖公奏を擅に改め、天聰を罔冒す。請う元の状を以て看詳し、其の人を反坐し、以て奸妄を懲らしむべし。」俄に詔を下して曰く、「張洎援引する故実は、皆依據有り。張佖学識甚だ浅く、敷陳実を失う。尚だ矜容を示し、其の黜降を免じ、一月の俸を罰すべし。」

原文端拱初,契丹寇邊,詔群臣言事。洎上奏,以練兵聚穀,分屯塞下,來則備禦,去則勿追為要略。會錢俶薨,太常定諡忠懿。洎時判考功,為覆狀,經尚書省集議。虞部郎中張佖奏駁曰:「按考功覆狀一句云『亢龍無悔』,實非臣子宜言者。況錢俶生長島夷,夙為荒服,未嘗略居尊位,終是藩臣,故名不可稱龍,位不可為亢。其『亢龍無悔』四字,請改正。」事下中書,以詰洎。對狀曰:「竊以故秦國王明德茂勳,格於天壤,處崇高之富貴,絕纖介之譏嫌。太常禮院稽其功行,定茲嘉諡,考功詳覆之際,率遵至公,故其議狀云:『茲所謂受寵若驚,居亢無悔者也』。謹按《易·乾》之九三云:『君子乾乾,夕惕若厲,無咎。』王弼注云:『處下體之極,居上體之下,履重剛之險,因時而惕,不失其幾,可以無咎。處下卦之極,愈於上九之亢。』《易例》云:『初九為元士,九二為大夫,九三為諸侯。』《正義》云:『《易》之本理,以體為君臣。九三居下體之極,是人臣之體也。其免亢龍之咎者,是人臣之極,可以慎守免禍。故云免亢極之禍也。』《漢書·梁商傳》贊云:『地居亢滿,而能以謹厚自終。』楊植《許由碑》云:『錙銖九有,亢極一夫。』杜鴻漸《讓元帥表》云:『祿位亢極,過逾涯量。』盧杞《郭子儀碑》云:『居亢無悔,其心益降。』李翰《書霍光傳》云:『有伊、周負荷之明,無九三亢極之悔。』張說《祁國公碑》云:『一無目牛之全,一無亢龍之悔也。』況考功狀內止稱云『受寵若驚,居亢無悔』,即本無『亢龍無悔』之語。斯蓋張佖擅改公奏,罔冒天聰。請以元狀看詳,反坐其人,以懲奸妄。」俄下詔曰:「張洎援引故實,皆有依據。張佖學識甚淺,敷陳失實,尚示矜容,免其黜降,可罰一月俸。」

洎未だ幾ばくもせずして太僕少卿・同知京朝官考課に選ばれ、右諫議大夫・判大理寺を拝す。又た史館修撰・判集賢院事を充つ。淳化中、上史館修撰楊徽之等四人に令して入閣の旧図を修正せしめ、洎詔に同奏し、因りて故事を討論し、独り奏を草して以て聞かしむ。洎又た言う、

原文洎未幾選為太僕少卿、同知京朝官考課,拜右諫議大夫、判大理寺。又充史館修撰、判集賢院事。淳化中,上令史館修撰楊徽之等四人修正入閣舊圖,洎同奏詔,因討論故事,獨草奏以聞。洎又言:

「旧史に按ずるに、中書・門下・御史臺を三署と為し、侍従供奉の官と謂う。今起居の日に侍従官先ず殿庭に入り、東西に立定まり、正班の入るを俟ち、一時に起居す。其の侍従官東西に列拝するは、甚だ北面朝謁の儀を失う。請う旧儀に準じ、侍従官先に入り起居し、行い畢りて、分かち侍立して丹墀の下に在らしめ、之を『蛾眉班』と謂わん。然る後に宰相正班を率いて入り起居せしめ、礼に雅く合わん。

原文「按舊史,中書、門下、御史臺為三署,謂侍從供奉之官。今起居日侍從官先入殿庭,東西立定,俟正班入,一時起居。其侍從官東西列拜,甚失北面朝謁之儀。請準舊儀,侍從官先入起居,行畢,分侍立於丹墀之下,謂之『蛾眉班』。然後宰相率正班入起居,雅合於禮。

臣又た聞く、古の王者は躬ら庶務に勤め、其の臨朝の疏数は、政事の繁簡を視る。唐初五日に一朝し、景雲の初め、始めて貞観の故事を修む。天宝兵興の後より、四方多故あり、肅宗以下、皆隻日に臨朝し、双日に坐せず。其の隻日に或いは陰霪・盛暑・大寒・泥濘に遇えば、亦た百官の起居を放つ。双日に宰相当に奏事あれば、即ち特ちに延英を開き召対す。或いは夷蛮入貢し、勲臣帰朝すれば、亦た特ちに紫宸殿を開き引見す。陛下大宝に臨みてより、十有五年、未だ嘗て一日も鶏鳴せずして起きず、天下の政を聴く。剛健にして息まずと雖も、固より天徳の常然なり。而して遊び焉れ息み焉るも、亦た聖人の謨訓なり。儻し君父上に焦労し、臣子下に緘黙し、大體を引いて争う能わざれば、則ち忠良の心、至らざる所有らん。

原文臣又聞古之王者,躬勤庶務,其臨朝之疏數,視政事之繁簡。唐初五日一朝,景雲初,始修貞觀故事。自天寶兵興之後,四方多故,肅宗而下,咸隻日臨朝,雙日不坐。其隻日或遇陰霪、盛暑、大寒、泥濘,亦放百官起居。雙日宰相當奏事,即特開延英召對。或夷蠻入貢,勳臣歸朝,亦特開紫宸殿引見。陛下自臨大寶,十有五年,未嘗一日不雞鳴而起,聽天下之政,雖剛健不息,固天德之常然,而遊焉息焉,亦聖人之謨訓。儻君父焦勞於上,臣子緘默於下,不能引大體以爭,則忠良之心,有所不至矣。

臣陛下に望む、前代の旧規に依り、隻日に朝を視、双日に坐せざらんことを。其の隻日に大寒・盛暑・陰霪・泥濘に遇えば、亦た百官の起居を放ち、其の双日に崇徳・崇政の両殿に於て宰臣を召対せん。常参官以下及び時に非ざる蛮夷の入貢・勲臣の帰朝も、亦た特ちに上閤を開き引見し、並びに請う前代の故事に準じて処分せんことを。」

原文臣欲望陛下依前代舊規,隻日視朝,雙日不坐。其隻日遇大寒、盛暑、陰霪、泥濘,亦放百官起居,其雙日於崇德、崇政兩殿召對宰臣。常參官以下及非時蠻夷入貢、勳臣歸朝,亦特開上閤引見,並請準前代故事處分。」

奏入るも報いず。

原文奏入不報。

時に上《儒行篇》を版に刻み、近臣及び新第の挙人に印賜せしむ。洎之を得て、表を上り称謝す。上之を覧て之を嘉す。翌日、宰相に謂いて曰く、「群臣上章し文を献ずるも、朕再三省覧せざる無し。張洎の一表の如きは、古今を援引し、甚だ得難し。中書に召し至り、朕が意を宣諭すべし。」数月、擢て中書舎人を拝し、翰林学士を充つ。上顧みて近臣に謂いて曰く、「学士の職は清要貴重、他官に比ぶべからず。朕常に之を為すことを得ずして恨む。」故事、赴上の日に燕を設け、教坊雑戯を進む。久しく其事を罷む。是に至り、尽く之を設けしめ、仍て詔して枢密直学士呂端・劉昌言及び知制誥柴成務等をして会に預からしむ。時に以て栄と為す。

原文時上令以《儒行篇》刻於版,印賜近臣及新第舉人。洎得之,上表稱謝,上覽而嘉之。翌日,謂宰相曰:「群臣上章獻文,朕無不再三省覽。如張洎一表,援引古今,甚不可得。可召至中書,宣諭朕意。」數月,擢拜中書舍人,充翰林學士。上顧謂近臣曰:「學士之職,清要貴重,非他官可比,朕常恨不得為之。」故事,赴上日設燕,教坊以雜戲進,久罷其事。至是,令盡設之,仍詔樞密直學士呂端、劉昌言及知制誥柴成務等預會,時以為榮。

俄に吏部銓を判ず。嘗て選人を引対す。上之を顧みて近臣に謂いて曰く、「張洎は文芸に富み、今に至る尚学を苦しむ。江東士人の冠なり。」洎は錢若水と禁林に同じく在り、甚だ寵顧せらる。時に劉昌言驟に枢要に擢げられ、人望甚だ軽し。董儼方に財賦を掌り、計を以て之を傾けんと欲す。会に楊徽之・錢熙嘗て洎及び若水旦夕に大用さるべしと言う。熙以て昌言に語る。昌言曰く、「洎は必ず政柄に参ず。若水は後進年少、豈に遽かに此に及ばんや。」時に翰林の小吏事を諮りて側に在り。昌言洎の之を聞くを慮り、即ち小吏に対し熙の言を尽く述べ、洎に告げしむ。洎方に辺幅を修飭して以て恩寵を固めんとし、徽之の熙を遣わして飛語を構え己に中つを疑い、遂に上に白す。上怒り、昌言を召し質す。徽之を鎮安軍行軍司馬と為し、熙は職を罷め、朗州を通判せしむ。

原文俄判吏部銓。嘗引對選人,上顧之謂近臣曰:「張洎富有文藝,至今尚苦學,江東士人之冠也。」洎與錢若水同在禁林,甚被寵顧。時劉昌言驟擢樞要,人望甚輕,董儼方掌財賦,欲以計傾之。會楊徽之、錢熙嘗言洎及若水旦夕當大用。熙以語昌言,昌言曰:「洎必參政柄。若水後進年少,豈遽及此。」時翰林小吏諮事在側,昌言慮洎聞之,即對小吏盡述熙言,令告洎。洎方修飭邊幅以固恩寵,疑徽之遣熙以構飛語中己,遂白於上。上怒,召昌言質之,以徽之為鎮安軍行軍司馬,熙罷職,通判朗州。

時に皇子の益王元傑が呉王に改封され、揚州・潤州大都督ととく府長史を兼ね、淮南・鎮江両軍の節度使を領することとなった。張洎が制書を起草すべき任に当たり、上疏して議して曰く、「謹んで前史を按ずるに、皇子が王に封ぜられる時は、郡を以て国と為し、傅・相及び内史・中尉等を置き、王を補佐して治めしむ。漢・魏以降より、封ぜられた王は初めよりその国に赴かず、朝廷は卿大夫を命じて郡に臨ませ、即ち内史と称して郡事を行わせた。東晋の永和・泰元の際、琅邪王・会稽王・臨川王あり、故に謝霊運・王羲之等が会稽・臨川の内史となったのは、即ちその事である。唐が天下を有し、揚・益・潞・幽・荊の五郡を大都督と為し、長史・司馬を上佐に署したのは、即ち前代の内史の類である。その大都督の号は、親王でなければ授けず、その揚・益等の郡は、或いは親王が遥領し、朝廷が大臣を命じて郡に臨ませる者は、皆長史・副大使知節度事である。臣が前代に質すことを請う、段文昌が揚州に出鎮した時、『淮南節度副大使知節度事・兼揚州大都督府長史』と云い、李載義が幽州に鎮した時、『盧龍軍節度副大使知節度事・兼幽州大都督府長史』と云う、即ちその例である。今、益王が揚・潤の二郡を以て社を建てて呉国王と為り、大都督の任に居り、また既に節度事を正しく領している。豈に長史の号を却って加えるべきであろうか、これは国王自らが上佐となるのである。もし朝廷が暫く長史として拝受させるならば、その加銜の中にまた副大使・知節度使の目が無く、仮に他日に別に守将を命じ、本郡に臨ませる時は、何の名目を以て授け除くかを知らない。臣が制書を起草した夜、直ちに上陳せんとしたが、奏報の往反を慮り、明日の宣降に妨げあるを恐れた。この事は国体に関わり、況んや呉王は未だ恩命を領しておらず、尚改正することができる。乞う、中書門下に付し、商議して施行せしめられんことを」と。宰相は制命が既に行われたことを以て、追改するは難しとした。洎はまた上表して論列し、呂蒙正が言うには、「越王は福州長史を領し、今呉王は独り大都督と為り、越王の上に居るは、便ならず」と。上は異日に除授する時を待ち、併せてこれを改正せしめられた。翌年に至り、上が郊祀を行って恩赦を施すと、遂に改めた。

原文會皇子益王元傑改封吳王,行揚州、潤州大都督府長史,領淮南、鎮江兩軍節制。洎當草制,因上疏議曰:「謹按前史,皇子封王,以郡為國,置傅相及內史、中尉等,佐王為治。自漢、魏以降,所封之王始不之國,朝廷命卿大夫臨郡,即稱內史行郡事。東晉永和、泰元之際,有琅邪王、會稽王、臨川王,故謝靈運、王羲之等為會稽、臨川內史,即其事也。唐有天下,以揚、益、潞、幽、荊五郡為大都督,署長史、司馬為上佐,即前代內史之類也。其大都督之號,非親王不授;其揚、益等郡,或有親王遙領,朝廷命大臣臨郡者,即皆長史、副大使知節度事也。臣請質之前代,段文昌出鎮揚州,云『淮南節度副大使知節度事、兼揚州大都督府長史』、李載義鎮幽州,云『盧龍軍節度副大使知節度事、兼幽州大都督府長史』,即其例也。今益王以揚、潤二郡建社為吳國王,居大都督之任,又己正領節度事,豈宜卻加長史之號,乃是國王自為上佐矣。若或朝廷且以長史拜受,其加銜內又無副大使、知節度使之目,倘或他日別命守將,俾臨本郡,即不知以何名目而授除也。臣草制之夕,便欲上陳,慮奏報往反,有妨明日宣降。茲事有關國體,況吳王未領恩命,尚可改正,乞付中書門下,商議施行。」宰相以制命已行,難於追改。洎又上表論列,呂蒙正言:「越王領福州長史,今吳王獨為大都督,居越王之上,非便。」上令俟異日除授,並改正之。至明年,上郊祀覃慶,遂改焉。

俄に詔を奉じて李至・范杲・張佖と共に国史を修め、また史館を判じた。洎は経史に広く渉猟し、典故を多く知っていた。上に著述がある度、或いは近臣に詩什を賜う度に、洎は必ず上表し、経伝を援引して、その意に順い助長した。上は因って詩を賜って褒め称え、「翰長老儒臣」の句があった。蘇易簡と共に翰林に在った時、特に協わず、易簡が参知政事となると、洎は多くその過失を攻撃した。易簡が罷免されると、直ちに洎を給事中・参知政事と為し、寇準と同列にした。

原文俄奉詔與李至、范杲、張佖同修國史,又判史館。洎博涉經史,多知典故。每上有著述,或賜近臣詩什,洎必上表,援引經傳,以將順其意。上因賜詩褒美,有「翰長老儒臣」之句。與蘇易簡同在翰林,尤不協,及易簡參知政事,洎多攻其失。既而易簡罷,即以洎為給事中、參知政事,與寇準同列。

先に、寇準が吏部選事を知り、洎が考功を掌り、吏部の官属であった。準は年少で、新進の気鋭く、老儒をして己に附かせて自ら大いならんと欲した。洎は夙夜曹に坐して事を視、毎に冠帯して省門に於いて準の出入りを候い、揖して退き、一談も交わさなかった。準は益々これを重んじ、因って延いて語らった。洎は敏捷で議論を善く持ち、多く準のために規画し、準は心服し、乃ち兄事し、上に於いて洎を極口に談じた。上は進用せんと欲したが、またその江左に在った日に多く良善を讒毀したことを知り、李煜が潘佑を殺した時、洎が嘗て謀に預かったことを心に疑った。翰林待詔の尹熙古・呉郢は皆江東の人で、洎は嘗て善く彼らを待遇した。上は一夕、熙古らを召して禁中で侍書せしめ、因って佑が罪を得た故を問うた。熙古は、煜が佑の諫説が余りに直なるを忿っただけで、洎の謀ではなかったと言った。ここに至ってようやく洗い清められ、遂に加えて擢用したのは、蓋し準の推挽によるものであった。既に共に政を秉ると、準に奉する愈々謹み、政事は全て準に決し、参預することは無かった。専ら時政記を修め、甘言を以て善く柔らげるのみであった。後に奏事の異同に因り、準は再びこれを忌むようになった。

原文先是,準知吏部選事,洎掌考功,為吏部官屬。準年少,新進氣銳,思欲老儒附己以自大。洎夙夜坐曹視事,每冠帶候準出入於省門,揖而退,不交一談。準益重焉,因延與語。洎捷給善持論,多為準規畫,準心伏,乃兄事之,極口談洎於上。上欲進用,又知其在江左日多讒毀良善,李煜殺潘佑,洎嘗預謀,心疑之。翰林待詔尹熙古、吳郢皆江東人,洎嘗善待之。上一夕召熙古輩侍書禁中,因問以佑得罪故。熙古言煜忿佑諫說太直耳,非洎謀也。自是洗然,遂加擢用,蓋準推挽之也。既同秉政,奉準愈謹,政事一決於準,無所參預。專修時政記,甘言善柔而已。後因奏事異同,準復忌之。

至道二年五月、四方館使曹璨が河西より馳せて騎を入れて辺事を奏し、李継遷が万余の衆を率いて霊州を寇すと言った。上は宰相呂端・知枢密院事趙鎔等に詔し、各々所見を以て策を画し、即日に具して奏上せしめた。呂端は相率いて長春殿に詣りて上に謁し、言うには、「臣等若し各々所見を述べるならば、則ち詢謀僉同の議に非ず、其れが一状を為すことを許されんことを望む。利害を陳べしめん」と。洎が越次して奏して曰く、「端等は輔弼の位に備わり、上に詢問有るに、反って緘黙して言わず、深く訏謨の体を失う」と。端曰く、「洎が言わんと欲する所は、陛下の意を揣摩するに過ぎず、必ずや鯁切の理無からん」と。上は黙然とした。翌日、洎は上疏して賈捐之が珠崖を棄てた故事を引き、霊武を棄てて関西の饋運を省かんことを願った。上は嘗てこの意有り、既にしてこれを悔いたが、洎は果たして迎合し、奏を覧て悦ばず。既に疏を洎に付し、これに謂いて曰く、「卿の陳ぶる所、朕は一句も曉さず」と。洎は惶恐して退いた。上は同知枢密院事向敏中等を召して謂いて曰く、「張洎の上言、果たして呂端の料る所なり、朕は已に其の疏を還した」と。

原文至道二年五月,四方館使曹璨自河西馳騎入奏邊事,言繼遷率萬餘眾寇靈州。上詔宰相呂端、知樞密院事趙鎔等各以所見畫策,即日具奏來上。呂端相率詣長春殿見上,言曰:「臣等若各述所見,則非詢謀僉同之議,望許其為一狀,陳其利害。」洎越次奏曰:「端等備位輔弼,上有所詢問,反緘默不言,深失訏謨之體。」端曰:「洎欲有言,不過揣摩陛下意耳,必無鯁切之理。」上默然。翌日,洎上疏引賈捐之棄珠崖事,願棄靈武以省關西饋運。上嘗有此意,既而悔之,洎果迎合,覽奏不悅。既以疏付洎,謂之曰:「卿所陳,朕不曉一句。」洎惶恐而退。上召同知樞密院事向敏中等謂曰:「張洎上言,果為呂端所料,朕已還其疏矣。」

洎は既に議事が旨に称わず、恐懼し、自ら権位を固めんと欲した。上は已に寇準の専恣を嫉み、恩寵は衰え替わっていた。洎は一旦同罷免されることを慮り、奏事に因り、大言して寇準が退いた後多く誹謗すと奏した。準は只色変するのみで、敢えて自ら弁じなかった。上はここに由って大いに怒り、準は旬日にして罷免された。未だ幾ばくもなく、洎は病みて告在し、百日満ち、力疾して請対し、方に拝せんとして、上前に踣れた。左右が掖き起こした。明日、上章して職の解くを請い、優詔して允さず。後月余りして、刑部侍郎に改め、知政事を罷めた。詔を奉じて嗚咽し、疾は遂に亟く、十余日にして卒した。年六十四。刑部尚書を贈り、その二子を皆京官と為した。

原文洎既議事不稱旨,恐懼,欲自固權位。上已嫉準專恣,恩寵衰替。洎慮一旦同罷免,因奏事,大言寇準退後多誹謗。準但色變,不敢自辯。上由是大怒,準旬日罷。未幾,洎病在告,滿百日,力疾請對,方拜,踣於上前,左右掖起之。明日,上章求解職,優詔不允。後月餘,改刑部侍郎,罷知政事。奉詔嗚咽,疾遂亟,十餘日卒,年六十四。贈刑部尚書,以其二子皆為京官。

洎は風儀灑落、文采清麗、道釈の書を博覧し、兼ねて禅寂虚無の理に通じた。終日清談し、娓娓として聴くに堪えた。尤も険詖で、人の短を攻むるを好んだ。李煜が既に帰朝し、甚だ貧しかったが、洎は猶これを丐索した。煜は白金の摐面器を洎に与えたが、洎は未だ満足せず。時に潘慎脩が煜の記室を掌り、洎は慎脩が煜を教えたと疑い、素より慎脩と善くしていたが、ここに至って亦稍々これを疎んじた。煜の子仲㝢は雅に蒱博飲宴を好み、洎は因って切にこれを諫め、仲㝢は過ちを謝した。後数ヶ月、人の言うに仲㝢が蒱博すること故の如しと有り、洎は遂にこれと絶った。仲㝢が郢州で死し、京師に葬るに及び、洎も亦弔いに赴かなかった。張佖と議事協わず、遂に讐隙と為り、初めは従父の礼を以て佖に事えたが、既にして拝さなくなった。特に内官に事えるを善くし、翰林に在った日、唐の故事を引き、内供奉官藍敏政を学士使と為し、内侍裴愈をその副と為すことを奏した。上は奏を覧て、これに謂いて曰く、「これは唐室の弊政、朕安んぞこの覆轍を踵かん、卿の言過ぎたり」と。洎は慚じて退いた。性鄙吝で、親戚と雖も霑うる所無く、江表の故旧に及びても、亦其の門に登るは稀であった。素より徐鉉と厚く善くしていたが、後に議事相忤うに因り、遂に交を絶った。然しながら手ずから鉉の文章を写し、その筆札を訪求し、篋笥に蔵するは、珍玩に甚だしかった。洎は文集五十巻有り、世に行わる。

原文洎風儀灑落,文采清麗,博覽道釋書,兼通禪寂虛無之理。終日清談,亹亹可聽。尤險詖,好攻人之短。李煜既歸朝,貧甚,洎猶丐索之。煜以白金摐面器與洎,洎尚未滿意。時潘慎脩掌煜記室,洎疑慎脩教煜,素與慎脩善,自是亦稍疏之。煜子仲㝢雅好蒱博飲宴,洎因切諫之,仲㝢謝過。後數月,人有言仲㝢蒱博如故,洎遂與之絕。及仲㝢死郢州,葬京師,洎亦不赴吊。與張佖議事不協,遂為讐隙,始以從父禮事佖,既而不拜。尤善事內官,在翰林日,引唐故事,奏內供奉官藍敏政為學士使,內侍裴愈副之。上覽奏,謂曰:「此唐室弊政,朕安可踵此覆轍,卿言過也。」洎慚而退。性鄙吝,雖親戚無所霑,及江表故舊,亦罕登其門。素與徐鉉厚善,後因議事相忤,遂絕交。然手寫鉉文章,訪求其筆劄,藏篋笥,甚於珍玩。洎有文集五十卷行於世。

子の安期は国子博士に至り、方回は後に虞部員外郎と為った。方回の子懐玉は王欽若の婿、進士及第を賜り、大理寺丞・秘書校理と為った。

原文子安期,至國子博士;方回,後為虞部員外郎。方回子懷玉,王欽若婿,賜進士及第,大理寺丞,秘書校理。

李惟清

原文李惟清

李惟清、字は直臣、下邑の人。父の仲行は章丘の主簿となり、これにより家を移した。惟清は開寶年中、三史により初めて官に就き涪陵の尉となった。蜀の民は淫祀を尚び、病を療治せず、巫覡に任せていた。惟清は大巫を捕らえてこれを笞ち、民は禍が及ぶと思った。他日またこれを箠打ちすると、民は神ならざるを知った。その後医薬を教え、風俗を少しずつ変えた。時に宦官を派遣して造船の木材を輸送させ監督させたが、彼らは放恣に法を犯した。惟清は上奏してこれを誅殺させ、これにより名を知られた。任期が満ちて、大理寺丞に遷った。

原文李惟清,字直臣,下邑人。父仲行,為章丘簿,因徙家焉。惟清,開寶中,以三史解褐涪陵尉。蜀民尚淫祀,病不療治,聽於巫覡,惟清擒大巫笞之,民以為及禍。他日又加箠焉,民知不神。然後教以醫藥,稍變風俗。時遣宦官督輸造船木,縱恣不法,惟清奏殺之,由是知名。秩滿,遷大理寺丞。

太平興國三年、荊湖北路転運判官に遷る。五年、左讚善大夫に改め、転運副使を充て、正使に昇進し、そのまま監察御史に改め、兼ねて南路を総べた。嘗て入朝して事を奏上した時、太宗が問うて曰く、「荊湖は累年豊作であり、また徭役も無いが、民間は蘇息しているか」と。惟清曰く、「臣は見るに、官が塩を売るのに一斤を六十四銭とし、民は三数斗の稻の価でようやく一斤を買える有様です」と。そこで詔して一斤を十銭減じた。京西転運使に転じ、入朝して度支判官となり、主客員外郎に改めた。

原文太平興國三年,遷為荊湖北路轉運判官。五年,改左讚善大夫,充轉運副使,升正使,就改監察御史,兼總南路。嘗入奏事,太宗問曰:「荊湖累年豐稔,又無徭役,民間蘇否?」惟清曰:「臣見官賣鹽斤為錢六十四,民以三數斗稻價,方可買一斤。」乃詔斤減十錢。徙京西轉運使,入為度支判官,改主客員外郎。

雍熙三年、大いに挙兵して幽州を取らんとした。惟清は兵糧が未だ豊かでないとして、軽々しく動くべからずと考えた。朝廷は既に師を興していたので、奏上したが答は無かった。度支判官の許仲宣が塩法を通ずることを建議し、売塩の歳課を郷村に賦し、戸税と均しく納めさせようとした。惟清は詔を奉じて荊湖諸路に往き詳定し、塩を民に配するは便ならずと奏言したので、遂に罷められた。使いより還り、上はまた民間の苦楽不均の事を問うた。惟清言う、「以前荊湖におりました時、民が清酒務の官醸を買い転売する者には、一斗につき耗二升を与えていましたが、今は三司が一升を与えるのみです。民は多く他を図り、歳課は大いに減っています」と。詔して旧に復させた。未だ幾ばくもせず、出て京東転運使となった。会に丁壮を募り義軍としようとした。惟清曰く、「もしそうすれば、天下耕さざるなり」と。三度上疏して諫めた。これにより河北のみ選び、余りの路は悉く罷めた。屯田郎中・度支副使に擢でられた。

原文雍熙三年,大舉取幽州,惟清以為兵食未豐,不可輕動。朝廷業已興師,奏入不報。判度支許仲宣建議通鹽法,以賣鹽歲課賦於鄉村,與戶稅均納。惟清奉詔往荊湖諸路詳定,奏言以鹽配民非便,遂罷。使還,上又問民間苦樂不均事,惟清言:「前在荊湖,民市清酒務官釀轉鬻者,斗給耗二升,今三司給一升,民多他圖,而歲課甚減。」詔復其舊。未幾,出為京東轉運使。會募丁壯為義軍,惟清曰:若「是,天下不耕矣。」三上疏諫,繇是獨選河北,而餘路悉罷。擢屯田郎中、度支副使。

端拱初め、右諫議大夫に遷り、戸部使を歴任し、度支使に改めた。会に使者を河朔に遣わして方田を治めさせ、大いに兵を発した。惟清は盛春に農を妨げるとして、懇ろに罷廃を求めた。太宗曰く、「兵夫は既に発した。ただ辺城を完治せしめるのみである」と。淳化三年、給事中に遷り、塩鉄使を充て、遂に帳式を奏上した。太宗曰く、「費用この如くならば、民力は久しくどうして堪えられようか。もし減省できるならば、即ち便りに裁量せよ」と。惟清曰く、「開寶の軍興の際に比べれば、その数は倍多い。将帥未だ其人を得ず、辺事未だ寧からず、屯兵甚だ広きによるのです。臣聞く、漢には衛青・霍去病がおり、唐には郭子儀・李晟がおり、西北は望んでこれを畏れたと。このようであれば辺事は息み支用は減ります。将帥を慎んで擢で、威名有る者をして辺塞を安んぜしめられ、費用を節約されんことを望みます」と。上言う、「彼は一時、此れは一時なり。今の西北の変詐は、古と同じからず。将帥を選用するにも、また深く今の機宜を体すべし。韓信かんしん・彭越は古の名将なりといえども、彼の時の見識をもって今の敵を制せば、また成功できぬ恐れあらん。今たとえ人を得たりとも、未だ古の如くに委ねるべからず。これは機事なり、卿の未だ知らざる所なり」と。

原文端拱初,遷右諫議大夫,歷戶部使,改度支使。會遣使河朔治方田,大發兵。惟清以盛春妨農,懇求罷廢。太宗曰:「兵夫已發矣。止令完治邊城而已。」淳化三年,遷給事中,充鹽鐵使,遂以帳式奏御。太宗曰:「費用若此,民力久何以堪?如可減省,即便裁度。」惟清曰:「比開寶軍興之際,其數倍多,蓋以將帥未得其人,邊事未寧,屯兵至廣也。臣聞漢有衛青、霍去病,唐有郭子儀、李晟,西北望而畏之。如此則邊事息而支用減矣。望慎擢將帥,以有威名者俾安邊塞,庶節費用。」上言:「彼一時,此一時也。今之西北變詐,與古不同。選用將帥,亦須深體今之幾宜。韓、彭雖古之名將,以彼時之見,制今之敵,亦恐不能成功。今縱得人,未可便如古委之。此乃機事,卿所未知也。」

淮南の榷貨務が岳茶を売り、一斤を百五十銭としていた。主吏が陳悪のもの二十六万六千余斤あると申した。惟清は擅かに一斤五十銭を減じ、上聞に達せず。滁・泗・濠・楚州・漣水軍もまた岳茶が陳悪であるとして、減価してこれを市した。計って銭一万四千余貫を虧き、勾院吏の盧守仁に発覚された。左遷されて衛尉少卿となり、判官の李琯を本曹員外郎に貶し、守仁に銭十五万を賜った。俄かに出て広州知州となった。至道初め、そのまま右諫議大夫を拝した。太宗はその廉平を聞き、詔してこれを褒めた。二年、広南東・西路都転運使に転じ、尋ねて召されて給事中を拝した。一月を過ぎて、同知枢密院事となった。

原文淮南榷貨務賣岳茶,斤為錢百五十。主吏言陳惡者二十六萬六千餘斤,惟清擅減斤五十錢,不以聞。滁、泗、濠、楚州、漣水軍亦以岳茶陳惡,減價市之。計虧錢萬四千餘貫,為勾院吏盧守仁所發,左授衛尉少卿,黜判官李琯為本曹員外郎,賜守仁錢十五萬。俄出知廣州。至道初,就拜右諫議大夫。太宗聞其廉平,詔獎之。二年,徙廣南東、西路都轉運使,尋召拜給事中。逾月,同知樞密院事。

惟清は倜儻として自ら任じ、鉤距有り。事に臨んで峻刻、至る所で強幹と称された。然れども俗吏より進み、人望無し。僅か数月にして、真宗即位し、刑部侍郎を加えられ、また御史中丞に除かれた。枢要を去りてより、怫鬱ことのほか甚だしく、情に任せて弾撃した。咸平元年、卒す。年五十六。戸部尚書を贈られた。

原文惟清倜儻自任,有鉤距。臨事峻刻,所至稱強幹。然以俗吏進,無人望。才數月,真宗即位,加刑部侍郎,復除御史中丞。既去樞要,怫鬱尤甚,肆情彈擊。咸平元年。卒,年五十六,贈戶部尚書。

子の永錫、蔭により光禄寺丞に至る。頗る学に渉り文を属することを好み、気節を尚ぶが行いに慎み無く、交結を喜んだ。馮拯・王濟・皇甫選多くこれと遊び、日に挙子を家に集め、時政を談議した。真宗将に河朔に幸せんとする時、永錫はなお父の喪に服していたが、上章して大言し、近臣を列ねて詆り、自ら太平を致し敵を滅ぼす術有りと謂う。選が戸部判官となり、因って対するに及び、袖に表を蔵して献じ、また自らを薦め揚げた。真宗が大名に駐蹕した時、行在に召し赴かせ、策試したが中らず、瀧水県主簿に貶した。選は南剣州団練副使となり、俄かにまた光禄寺丞に復した。六年、また交遊非類に坐し、和州の商税を監り、後に右讚善大夫に至った。

原文子永錫,蔭至光祿寺丞。頗涉學屬辭,尚氣少檢,喜交結。馮拯、王濟、皇甫選多與之遊,日聚舉子於家,談議時政。真宗將幸河朔,永錫猶服父喪,上章大言,列詆近臣,自謂有致太平滅敵之術。選為戶部判官,因對,袖表以獻,又自薦揚。真宗駐蹕大名,召赴行在,試策不中,貶瀧水縣主簿。選為南劍州團練副使,俄復光祿寺丞。六年,又坐交遊非類,監和州商稅,後至右讚善大夫。

次子の永徳は殿中丞に至った。

原文次子永德,至殿中丞。

論じて曰く、張宏が枢密副使たる時、用兵の際に当たり、循黙として備位に居た。趙昌言が御史中丞たる時、屡々上書して兵事を言い、乃ち両者を易えた。中丞をして循黙の者を居らしむるを得るや。宋は政を失った。昌言は李沆を識り、王旦を器とした。陳恕は士を取るに王曾を得、代を挙ぐるに寇準を得た。皆な知人の明有りと謂うべし。然れども趙は奨抜を好み、頗る党与を樹て、終に取敗の因となった。陳は貢挙を典とし、務めて南士を黜し、嫌疑を避けんとした。皆な君子の為す所に非ず。昌言は気節を尚び敢えて言い、恕は宋人の能吏の首たり、庶幾くは称すに足る。劉昌言は趙普の遇に感じ、身後その家を経理した。然れども親を郷里に委ね、十年にして迎え侍さず、厚薄措く所を失う、また何を取るというのか。張洎は初め李煜をして降る勿からしめ、既にして之に死せず、「犬吠非主」の対、徒らに弁舌を以て、僥倖に免るるを得た。その後揣摩百端、正直を讒毀し、利口の士は、鮮しからずして反覆の小人なり。李惟清は台端に居り、政柄を失うを恨み、情に恣に鷙撃した。旧史は俗吏と称す、また何ぞ責めんや。

原文論曰:張宏為樞副,當用兵之際,循默備位;趙昌言為御史中丞,屢上書言兵,乃兩易之。中丞可使循默者居之乎?宋失政矣。昌言識李沆,器王旦;陳恕取士得王曾,舉代得寇準;皆可謂知人之明。然趙好獎拔,而頗樹黨與,終以取敗;陳典貢舉,務黜南士,以避嫌疑,皆非君子所為也。昌言尚氣敢言,恕為宋人能吏之首,庶足稱矣。劉昌言感趙普之遇,身後經理其家;然委親鄉里,十年而不迎侍,厚薄失措,又何取乎?張洎初勸李煜勿降,既而不能死之,「犬吠非主」之對,徒以辯舌,僥幸得免。厥後揣摩百端,讒毀正直,利口之士,鮮不為反覆小人也。李惟清居臺端,恨失政柄,恣情鷙擊。舊史稱為俗吏,又奚責焉。