宋史

列傳第二十五 錢若水 蘇易簡 郭贄 李至 辛仲甫 王沔 温仲舒 王化基

列傳第二十五 錢若水 蘇易簡 郭贄 李至 辛仲甫 王沔 温仲舒 王化基

錢若水

原文錢若水

若水は幼くして聡明で悟りが早く、十歳にして文章を綴ることができた。華山の陳摶がこれを見て、言うには、「あなたは神気が清らかで、道を学ぶことができる。そうでなければ富貴を得るが、ただあまりに速すぎることを忌むべきである」と。雍熙年間に進士に挙げられ、同州観察推官として官途に就き、訴訟の裁決は明らかで公正であり、郡の治めはこれに頼った。淳化初年、寇準が選挙を掌り、若水及び王扶・程肅・陳充・錢熙の五人の文学高第を推薦し、翰林で召試すると、若水が最も優れ、秘書丞・直史館に抜擢された。一年余りして、右正言・知制誥に遷った。時に理検院を乾元門外に設置し、若水にこれを領せしめた。まもなく同知貢挙となり、屯田員外郎を加えられた。詔して原州・塩州などに赴き辺境の事を制置し、還って奏上するとその旨に合い、翌日、職方員外郎・翰林学士に改められ、張洎とともに任命された。まもなく審官院・銀臺通進封駁司を知った。かつて趙保忠に賜る詔を起草し、次のように記した。「継遷を斬らざれば狡兎の三穴を開き、光嗣を潜かに疑えば首鼠の両端を持す」。太宗は大いに適切であると認めた。

原文若水幼聰悟,十歲能屬文。華山陳摶見之,謂曰:「子神清,可以學道;不然,當富貴,但忌太速爾。」雍熙中,舉進士,釋褐同州觀察推官,聽決明允,郡治賴之。淳化初,寇準掌選,薦若水洎王扶、程肅、陳充、錢熙五人文學高第,召試翰林,若水最優,擢秘書丞、直史館。歲餘,遷右正言、知制誥。會置理檢院於乾元門外,命若水領之。俄同知貢舉,加屯田員外郎。詔詣原、鹽等州制置邊事,還奏合旨,翌日,改職方員外郎、翰林學士,與張洎並命。俄知審官院、銀臺通進封駁司。嘗草賜趙保忠詔,有云:「不斬繼遷,開狡兔之三穴,潛疑光嗣,持首鼠之兩端。」太宗大以為當。

至道初年、右諫議大夫として同知枢密院事となった。真宗が即位すると、工部侍郎を加えられた。数か月後、母が年老いていることを理由に上章し、機務を解くことを請うたが、詔して許さなかった。若水の請いがますます堅くなったので、遂に本官のまま集賢院学士・判院事を充てた。まもなく詔して『太宗実録』を修めさせ、若水は柴成務・宗度・呉淑・楊億を引き入れて同修し、八十巻を成した。真宗は書を覧て涙を流し、賞賜を差等をつけて与えた。

原文至道初,以右諫議大夫同知樞密院事。真宗即位,加工部侍郎。數月,以母老上章,求解機務,詔不許。若水請益堅,遂以本官充集賢院學士、判院事。俄詔修《太宗實錄》,若水引柴成務、宗度、吳淑、楊億同修,成八十卷。真宗覽書流涕,錫賚有差。

初め、太宗は飼い犬を大変馴らしており、常に乗輿の左右にいた。崩御すると、悲しんで鳴き食を絶ち、永熙陵の寢に送られた。李至はかつてこの事を詠じ、若水にこれを書いて浮薄な俗を戒めさせようとしたが、若水は従わなかった。呂端は監修であったが、局に臨まなかったため署名できず、至はその事を抉って専美であるとした。若水は詔旨及び唐朝の故事を称えてこれを論破し、当時の議論も奪うことができなかった。その後また『太祖実録』を重修し、王禹偁・李宗諤・梁顥・趙安仁を参じ、一年を経ずして完了した。安仁は当時宗正卿であり、上言して夔王は太宗の属において兄とすべきであるのに、『実録』の記すところは誤りであるとした。若水は国初の詔令を援用し、廷諍を数四重ねてようやく定まった。

原文初,太宗有畜犬甚馴,常在乘輿左右。及崩,嗚號不食,因送永熙陵寢。李至嘗詠其事,欲若水書之以戒浮俗,若水不從。呂端雖為監修,以不蒞局不得署名,至抉其事以為專美。若水稱詔旨及唐朝故事以折之,時議不能奪。既又重修《太祖實錄》,參以王禹偁、李宗諤、梁顥、趙安仁,未周歲畢。安仁時為宗正卿,上言夔王於太宗屬當為兄,《實錄》所紀繆誤。若水援國初詔令,廷諍數四乃定。

まもなく吏部流内銓を判じた。大名に従幸し、若水は敵を防ぎ辺境を安んずる策を陳べ、次のように述べた。

原文俄判吏部流內銓。從幸大名,若水陳禦敵安邊之策,有曰:

「孫武は書を著し、謀を伐つことを主とし、漢高は将を将うるに法を用いることを先とした。謀を伐つとは、将帥がよく敵を料り勝を制することであり、法を用いるとは、朝廷がよく賞罰を私せずに行うことである。今、傅潜が雄師数万を領しながら、門を閉じて出ず、坐視して辺寇が生民を俘掠するに任せ、上は委注の恩に孤ならしめ、下は鋭師の気を挫く。蓋し潜の輩は勝を制することができず、朝廷が法を用いてこれを行わせることができなかったからである。軍法に、陣に臨んで命を用いざる者は斬るとある。今もし潜を斬って衆に示し、その後楊延朗・楊嗣の如き者五、七人を抜擢し、その爵秩を増し、兵権を分けて授け、万人を将とし、間に強弩を以てし、分路して討ち除かせれば、孰か敢えて命を用いざらんや。敵人は我が将帥が命を用いず、退けば死あることを聞けば、豈に遁走を思うのみならず、また来年も敢えて辺境を犯さざるであろう。かくの如くすれば坐して辺塞を清めることができ、その後鑾輅を還して京に至らしめ、天威を四海に慴せしめることができる。

原文「孫武著書,以伐謀為主;漢高將將,以用法為先。伐謀者,以將帥能料敵制勝也;用法者,以朝廷能賞罰不私也。今傅潛領雄師數萬,閉門不出,坐視邊寇俘掠生民,上孤委注之恩,下挫銳師之氣,蓋潛輩不能制勝,朝廷未能用法使然也。軍法,臨陣不用命者斬。今若斬潛以徇,然後擢如楊延朗、楊嗣者五七人,增其爵秩,分授兵柄,使將萬人,間以強弩,分路討除,孰敢不用命哉?敵人聞我將帥不用命,退則有死,豈獨思遁,抑亦來歲不敢犯邊矣。如此則可以坐清邊塞,然後鑾輅還京,天威懾於四海矣。

臣は嘗て前史を読みしに、周世宗が即位の初め、劉崇が敵と結んで入寇し、敵はその将楊衮に騎兵数万を領せしめ、崇に随って高平に至った。当時、懦将の樊愛能・何徽らが敵に臨んで戦わず、世宗は大いに宴会を設け、愛能らを斬り、偏将十余人を抜擢し、兵を分けて太原を撃たしめた。劉崇はこれを聞き、股慄して出でず、即日遁走した。ここより兵威大いに振るう。その後、淮甸を収め、秦・鳳を下し、関南を平らげるは、特なる席卷の如し。陛下の神武を以てすれば、豈に世宗に譲らんや。これ今日の敵を防ぐ奇策である。

原文臣嘗讀前史,周世宗即位之始,劉崇結敵入寇,敵遣其將楊衮領騎兵數萬,隨崇至高平。當時懦將樊愛能、何徽等臨敵不戰,世宗大陳宴會,斬愛能等,拔偏將十餘人,分兵擊太原。劉崇聞之,股慄不敢出,即日遁去。自是兵威大振。其後收淮甸,下秦、鳳,平關南,特席卷爾。以陛下之神武,豈讓世宗乎?此今日禦敵之奇策也。

若し将来の辺境を安んずる術を論ずれば、近き事を以て言うを請う。太祖朝の制置は最もその宜しきを得たり。ただ郭進を邢州に、李漢超を関南に、何継筠を鎮定に、賀惟忠を易州に、李謙溥を隰州に、姚内斌を慶州に、董遵誨を通遠軍に、王彦昇を原州に置き、ただ縁辺巡検の名を授け、行営部署の号を加えず、率ね皆十余年その任を易えざりき。辺功を立てる者には厚く賞賚を加え、その位は皆観察使に至らず。蓋し位高からざれば朝廷制し易く、任易えざれば辺事尽く知る。然る後に聖謀を授け、来れば掩殺し、去れば追わず。これをもって十七年中、北辺・西蕃は敢えて塞を犯さず、以て屡々使いをして乞和せしむるに至りしは、これ皆陛下の知る所なり。苟くも能く太祖の故事に遵い、名臣を慎選して辺郡を分理し、部署の号を罷めて相統轄せしめず、巡検の名を置いて互いに救応せしむれば、かくの如くすれば出でては必ず寇を撃ち、入りては城を守り、数年を経ずして、辺烽の警めを罷むるに至らしむべし。」

原文若將來安邊之術,請以近事言之,太祖朝制置最得其宜。止以郭進在邢州,李漢超在關南,何繼筠在鎮定,賀惟忠在易州,李謙溥在隰州,姚內斌在慶州,董遵誨在通遠軍,王彥昇在原州,但授緣邊巡檢之名,不加行營部署之號,率皆十餘年不易其任。立邊功者厚加賞賚,其位皆不至觀察使。蓋位不高則朝廷易製,任不易則邊事盡知。然後授以聖謀,來則掩殺,去則勿追,所以十七年中,北邊、西蕃不敢犯塞,以至屢使乞和,此皆陛下之所知也。苟能遵太祖故事,慎擇名臣,分理邊郡;罷部署之號,使不相統轄;置巡檢之名,俾遞相救應。如此則出必擊寇,入則守城,不數年間,可致邊烽罷警矣。」

まもなく開封府を知った。時に北辺未だ寧からず、内より手札を出して若水に策を訪ねた。若水は辺備の要として五つを陳べた。一には郡守を択ぶこと、二には郷兵を募ること、三には芻粟を積むこと、四には将帥を革めること、五には賞罰を明らかにすること。

原文俄知開封府。時北邊未寧,內出手劄訪若水以策。若水陳備邊之要有五:一曰擇郡守;二曰募鄉兵;三曰積芻粟;四曰革將帥;五曰明賞罰。

「何を郡守を択ぶというや。今の患う所は、戦守心を同じくせざるに患う。願わくは陛下、沈厚にして謀有り辺事に諳んずる者を選び、辺郡の刺史に任じ、兼ねて縁辺巡検と為し、勇敢の士を召して随身部曲と為すを許し、廩贍充たざれば官をして支給せしめよ。然る後に亭障を厳にし、斥候を明らかにし、毎に事の宜を得れば密かに相報示せしめよ。寇来れば互いに救応し、斉しく出でて討ち除き、寇去れば遠く追わしめず、各々安静を務めしめよ。苟くも大過無ければ替移を為さず、儻いや微功を立てば就いて爵賞を加えよ。かくの如くすれば戦守必ず能く心を同じくし、敵人は敢えて塞に近づかざるべし。

原文「何謂擇郡守?今之所患,患在戰守不同心。望陛下選沉厚有謀諳邊事者,任為邊郡刺史,令兼緣邊巡檢,許召勇敢之士為隨身部曲。廩贍不充則官為支給。然後嚴亭障,明斥候,每得事宜,密相報示。寇來則互為救應,齊出討除;寇去則不令遠追,各務安靜。苟無大過,勿為替移;儻立微功,就加爵賞。如此則戰守必能同心,敵人不敢近塞矣。

何を郷兵を募るというや。今の患う所は、敵情を知らざるに患う。願わくは詔して逐州の沿辺の民を招收軍と為し、糧賜を与え、その賦租を蠲免せよ。彼の両地の中、各々親族有り、これに恵みを懐かしめ、来たりて腹心を布かしめよ。彼若し兵を挙ぐれば、此必ず預め知る。苟くも能く預め知れば、則ち百戦百勝す。

原文何謂募鄉兵?今之所患,患在不知敵情。望詔逐州沿邊民為招收軍,給與糧賜,蠲其賦租。彼兩地之中,各有親族,使其懷惠,來布腹心。彼若舉兵,此必預知,苟能預知,則百戰百勝矣。

何を芻粟を積むというや。今の患う所は、民力を困するに患う。願わくは陛下、縁辺に各々広く営田せしめ、州郡の長官にその使額を兼ねさせ、毎歳秋夏、その課程を較べ、鼓旗を立ててこれを斉えしめ、賞罰を行いてこれを勧めよ。なお商人をして粟を縁辺に入るるを縦せよ。儻いや鎮戍に三年の備え有らば、則ち敵人は敢えて動かざるべし。

原文何謂積芻粟?今之所患,患在困民力。望陛下令緣邊各廣營田,以州郡長官兼其使額,每歲秋夏,較其課程,立鼓旗以齊之,行賞罰以勸之。仍縱商人入粟緣邊。儻鎮戍有三年之備,則敵人不敢動矣。

何を将帥を革めるというや。今の患う所は、重兵外に居り、軽兵内に居るに患う。去歳、傅潜は八万騎を以て中山に屯し、魏・博の間の鎮兵全く少なく、鑾輅親征に非ざれば、則ち城邑危うきに至らん。願わくは陛下、将臣を慎選して河北の近鎮に任じ、なお旧事に依りて辺兵を節制せしめ、未だ部署の名を削ぐ能わざれば、行営の号を且く減ずるを望む。警有れば則ち暫く辺徼を巡り、事無ければ則ち却って旧藩に復せよ。豈に戎心を啓くのみならず、況んや復た労を待ちて逸を以てす。かくの如くすれば辺備の要を失わず、また兵を挙ぐるの名無く、且つ重兵を一処に屯せず、進退動静、施すこと不可なる無し。

原文何謂革將帥?今之所患,患在重兵居外,輕兵居內。去歲傅潛以八萬騎屯中山,魏、博之間鎮兵全少,非鑾輅親征,則城邑危矣。望陛下慎選將臣任河北近鎮,仍依舊事節制邊兵,未能削部署之名,望且減行營之號;有警則暫巡邊徼,無事則卻復舊藩。豈惟不啟戎心,況復待勞以逸。如此則不失備邊之要,又無舉兵之名,且使重兵不屯一處,進退動靜,無施不可矣。

何を以て賞罰を明らかにするというか。今の患は、患うに戎卒の驕惰に在り。臣が知府に任ぜられて以来、侍衛・殿前の両司が辺上に送り届けた亡命軍卒を見るに、人数甚だ多し。臣試みにこれを訊ねれば、皆親を思うを以て言と為す。これは蓋し令の厳しからざるによるなり。平時すら尚お敢えてかくの如くす、況んや大敵に臨むにおいてをや。願わくは陛下、この言を以て将帥に示し、俾く厳に号令を申し、以てその下を警めしめよ。古人云う、『賞もて勧めざるは、これを善を止むと謂う。罰もて懲めざるは、これを悪を縦すと謂う』と。又曰く、『法は移すべからず、令は違うべからず』と。臣嘗て聞く、郭進西山に出鎮せし時、太祖は毎に戍卒を遣わすに、必ずこれを諭して曰く、『汝等謹んで法を奉ぜよ。我すら猶お汝を赦すとも、郭進は汝を殺さん』と。その仮借することかくの如し、故に郭進の至る所、未だ嘗て少しく衄ぐること無し。陛下能く前日の事を鑒とせば、即ち今日の元龜なり。」

原文何謂明賞罰?今之所患,患在戎卒驕惰。臣自知府以來,見侍衛、殿前兩司送到邊上亡命軍卒,人數甚多。臣試訊之,皆以思親為言,此蓋令之不嚴也。平時尚敢如此,況臨大敵乎?望陛下以此言示將帥,俾申嚴號令,以警其下。古人云:『賞不勸,謂之止善;罰不懲,謂之縱惡。』又曰:『法不可移,令不可違。』臣嘗聞郭進出鎮西山,太祖每遣戍卒,必諭之曰:『汝等謹奉法。我猶赦汝,郭進殺汝矣!』其假借如此,故郭進所至,未嘗少衄。陛下能鑒前日之事,即今日之元龜也。」

若水また言う、「辺部の兵を用うるは、唯だ太白と月とを視て進退とする者は、誠に太白は将軍なり、星辰は廷尉なればなり。合すれば則ち戦有り、合せざれば則ち戦無し。東に合すれば則ち主勝ち、西に合すれば則ち客勝つ。陛下臣の言を用いて謹んで辺備を為さば、則ち辺部は召さずして自ら来らん。太祖臨御十七年の間、未だ嘗て事を疆埸に生ぜずして、而して敵人は往々にして使を遣わし和を乞う者は、その任用に人を得て備禦に方有るを以てなり。陛下苟くも兵は凶器、戦は危事なるを思い、而して太阿を倒持して柄を人に授けざれば、則ち四夷に守りて常に静勝を獲ん。これ備禦の上策なり。」

原文若水又言:「邊部用兵,唯視太白與月為進退者,誠以太白者將軍也,星辰者廷尉也。合則有戰,不合則無戰;合於東則主勝,合於西則客勝。陛下能用臣言以謹邊備,則邊部不召而自來矣。太祖臨御十七年間,未嘗生事疆埸,而敵人往往遣使乞和者,以其任用得人而備禦有方也。陛下苟思兵者凶器,戰者危事,而不倒持太阿,授人以柄,則守在四夷,而常獲靜勝,此備禦之上策也。」

未だ幾ばくもせず、出でて天雄軍を知り兵馬部署を兼ぬ。時に言事者綏州に城し、兵を屯し穀を積みて以て党項に備えんことを請う。辺城互いに利害を言い、前後数輩の使を遣わし按視するも、決すること能わず。時に已に大いに丁夫を発し、将にその役を興えんとす。詔して若水をして大名より馳せ往きてこれを視しむ。若水上言す、「綏州は頃年内たりしも、民賦登集するも、尚お旁郡の転餉を須う。地を趙保忠に賜う以来、人戸凋残す。若し復たこれを城せば、即ち戍を増すを須う。芻糧の給は、全く河東に仰ぐ。その地は黄河・鉄碣の二山を隔て越え、無定河その城下に在り。緩急兵を用うるに、輸送艱阻なり。且つその地険にして、若し未だ葺ぎ未だ完からざれば、辺寇奔衝し、固守に難し。況んや城邑焚毀し、片瓦も存せず、過ぐる所の山林、材木匱乏す。これを城するは甚だ労多く、その利を見ざるなり。」復た闕に詣でて面しくその事を陳ぶ。上嘉納し、遂に役を罷む。初め、若水衆を率いて河を過ぐるに、軍伍を分布し、咸に節制有り、深く戍将に推服せらる。上左右に謂いて曰く、「若水は儒臣の中に兵を知る者なり。」と。是の秋、また遣わして陝西縁辺の諸郡を巡撫せしめ、便宜に辺事を制置せしむ。還りて鄧州観察使・幷代経略使・幷州事知に拝す。

原文未幾,出知天雄軍兼兵馬部署。時言事者請城綏州,屯兵積穀以備党項。邊城互言利害,前後遣使數輩按視,不能決。時已大發丁夫,將興其役,詔若水自大名馳往視之。若水上言:「綏州頃為內地,民賦登集,尚須旁郡轉餉。自賜地趙保忠以來,人戶凋殘,若復城之,即須增戍。芻糧之給,全仰河東。其地隔越黃河、鐵碣二山,無定河在其城下,緩急用兵,輸送艱阻。且其地險,若未葺未完,邊寇奔衝,難於固守。況城邑焚毀,片瓦不存,所過山林,材木匱乏。城之甚勞,未見其利。」復詣闕面陳其事,上嘉納之,遂罷役。初,若水率眾過河,分布軍伍,咸有節制,深為戍將推服。上謂左右曰:「若水,儒臣中知兵者也。」是秋,又遣巡撫陝西緣邊諸郡,令便宜制置邊事。還拜鄧州觀察使、幷代經略使、知幷州事。

六年春、疾に因りて両足を灸す。創潰えて血数斗を出だし、ここより体貌羸瘵す。手詔を以てこれを慰労し、俾く京師に帰らしむ。数月にして始めて朝謁に赴く。因りて僚友と僧舎に会食し、仮寝して卒す。年四十四。戸部尚書を贈り、その母に白金五百両を賜う。子延年、甫七歳、太常奉礼郎に録す。

原文六年春,因疾灸兩足,創潰出血數斗,自是體貌羸瘵,手詔慰勞之,俾歸京師。數月,始赴朝謁,因與僚友會食僧舍,假寢而卒,年四十四。贈戶部尚書,賜其母白金五百兩。子延年,甫七歲,錄為太常奉禮郎。

若水は風神美くしく、器識有り、能く大事を断つ。継母に事うるに孝を以て聞こゆ。雅に談論を善くし、尤も財を軽んじ施すを好む。至る所誠を推して物に待ち、僚佐を委任し、その綱領を総べ、治まらざること無し。後進を汲引し、賢を推し士を重んじ、襟度豁如たり。術数に精しく、年寿永からざるを知り、故に懇ろに権位を避く。その死するや、士君子尤もこれを惜しむ。集二十巻有り。

原文若水美風神,有器識,能斷大事,事繼母以孝聞。雅善談論,尤輕財好施。所至推誠待物,委任僚佐,總其綱領,無不稱治。汲引後進,推賢重士,襟度豁如也。精術數,知年壽不永,故懇避權位。其死也,士君子尤惜之。有集二十卷。

兄若愚、比部員外郎。従弟若冲、大中祥符中、河陽令に調ず。僕有りて酒に酔い、これを杖すること百数。僕刀を挟み夜室中に潜み、その臂を断つ。若冲大呼す。またその幼子を害す。詔して僕をその門に磔す。真宗若水の母老ゆるを思い、使を遣わし存問し、緡・綿・羊・酒を賜う。且つ若冲に帛三十端を賜い、孟州別駕に補す。延年後ちに文を献じて賜い進士出身と為り、太常博士・集賢校理を歴任す。

原文兄若愚,比部員外郎。從弟若冲,大中祥符中,調河陽令。有僕酗酒,杖之百數。僕挾刀夜潛室中,斷其臂,若冲大呼;又害其幼子。詔磔僕於其門。真宗念若水母老,遣使存問,賜緡、綿、羊、酒;且賜若冲帛三十端,補孟州別駕。延年後以獻文賜進士出身,歷太常博士、集賢校理。

蘇易簡

原文蘇易簡

易簡は少くして聡悟好学、風度奇秀、才思敏贍たり。太平興国五年、弱冠を踰え、進士に挙げらる。太宗方に儒術に心を留め、貢士皆軒に臨み覆試す。易簡の試むる所三千余言立ちて就く。奏上するに、これを覧めて称賞し、甲科の冠に擢ぐ。褐を解きて将作監丞と為り、昇州を通判し、左賛善大夫に遷る。八年、右拾遺を以て知制誥と為る。雍熙初、郊祀の恩を以て秩を進め祠部員外郎と為る。二年、賈黄中と同知貢挙と為る。詔有り、凡そ親属挙に就く者は、名を籍し別に試む。易簡の妻弟崔範、父の喪を匿して貢に充つ。奏名上第に在り。又た王千里なる者は、水部員外郎孚の子、協は孚の門生たり、千里薦に預かる。上聞き、範及び千里の罪に坐す。易簡はこれに縁りて知制誥を罷め、本官を以て奉朝請と為る。未だ幾ばくもせず、復た知制誥と為る。三年、翰林学士を充つ。初め、易簡貢に充つるに、宋白貢部を掌る。ここに至るまで裁七年。易簡幼時父に随い河南にありし時、賈黄中来たりて使し、嘗てこれに属辞を教う。及ぶに是に至り、悉く同列と為る。易簡連ねて貢挙を知り、陳堯叟・孫何並びに廷試に甲と為る。

原文易簡少聰悟好學,風度奇秀,才思敏贍。太平興國五年,年踰弱冠,舉進士。太宗方留心儒術,貢士皆臨軒覆試。易簡所試三千餘言立就,奏上,覽之稱賞,擢冠甲科。解褐將作監丞,通判昇州,遷左讚善大夫。八年,以右拾遺知制誥。雍熙初,以郊祀恩進秩祠部員外郎。二年,與賈黃中同知貢舉。有詔,凡親屬就舉者,籍名別試。易簡妻弟崔範,匿父喪充貢,奏名在上第;又王千里者,水部員外郎孚之子,協為孚門生,千里預薦。上聞,坐範及千里罪。易簡緣是罷知制誥,以本官奉朝請。未幾,復知制誥。三年,充翰林學士。初,易簡充貢,宋白掌貢部,至是裁七年。易簡幼時隨父河南,賈黃中來使,嘗教之屬辭;及是,悉為同列。易簡連知貢舉,陳堯叟、孫何並甲廷試。

淳化元年、外艱に遭う。二年、京朝官考課を同知し、中書舎人に遷り、承旨を充つ。先ず是れ、曲宴将相するに、翰林学士皆座に預かる。梁迥太祖に啓してこれを罷む。又た皇帝丹鳳楼に御するに、翰林承旨侍従楼の西南隅に升る。礼亦た廃す。ここに至り、易簡これを請う。皆旧制に復す。易簡唐の李肇の『翰林志』二巻を継ぎて以て献ず。帝詩を賜いて以てこれを嘉す。帝嘗て軽綃に飛白を以て大書し『玉堂之署』の四字、易簡に令して庁額にこれを牓せしむ。易簡韓伾・畢士安・李至等を会して往きて観る。上聞き、中使を遣わし宴を賜うこと甚だ盛ん。至等各詩を賦してその事を紀し、宰相李昉等も亦た詩を作してこれを頌美す。他日、易簡禁中に直す。水を以て欹器を試む。上密かにこれを聞く。因りて晩朝に問いて曰く、「卿の玩ぶ所は欹器に非ざるや。」易簡曰く、「然り、江南徐邈の作る所なり。」と。命じて取りてこれを試む。易簡奏して曰く、「臣聞く、日中すれば則ち昃き、月満てば則ち虧け、器盈てば則ち覆り、物盛んなれば則ち衰うと。願わくは陛下盈ちたるを持ち成るを守り、終わりを始めの如く慎み、以て丕基を固うせば、則ち天下幸い甚だし。」

原文淳化元年,丁外艱。二年,同知京朝官考課,遷中書舍人,充承旨。先是,曲宴將相,翰林學士皆預坐,梁迥啟太祖罷之;又皇帝御丹鳳樓,翰林承旨侍從升樓西南隅,禮亦廢。至是,易簡請之,皆復舊制。易簡續唐李肇《翰林志》二卷以獻,帝賜詩以嘉之。帝嘗以輕綃飛白大書『玉堂之署』四字,令易簡牓於廳額。易簡會韓伾、畢士安、李至等往觀。上聞,遣中使賜宴甚盛,至等各賦詩紀其事,宰相李昉等亦作詩頌美之。他日,易簡直禁中,以水試欹器。上密聞之,因晚朝,問曰:「卿所玩得非欹器耶?」易簡曰:「然,江南徐邈所作也。」命取試之,易簡奏曰:「臣聞日中則昃,月滿則虧,器盈則覆,物盛則衰。願陛下持盈守成,慎終如始,以固丕基,則天下幸甚。」

会い郊祀有り、礼儀使を充つ。先ず是れ、扈蒙宣祖を升配せんことを建議す。易簡唐の故事を引き、宣祖・太祖を以て同配せんことを請う。これに従う。審官院を知る。言う、初任の京朝官未だ嘗て州県を歴せざる者は、知州・通判に擬するを得ず。詔して可とす。審刑院を知ることを改め、俄に吏部選を掌り、給事中・参知政事に遷る。時に趙昌言も亦た参知政事たり。易簡と協わず、上前に至りて忿争す。上皆これを優容す。未だ幾ばくもせず、昌言出でて剣南に使し、中路に命じて鳳翔府を知ることを改む。明年、易簡も亦た礼部侍郎を以て出でて鄧州を知り、陳州に移る。至道二年、卒す。年三十九。礼部尚書を贈る。

原文會郊祀,充禮儀使。先是,扈蒙建議以宣祖升配。易簡引唐故事,請以宣祖、太祖同配。從之。知審官院,言初任京朝官未嘗歷州縣,不得擬知州、通判,,詔可。改知審刑院,俄掌吏部選,遷給事中、參知政事。時趙昌言亦參知政事,與易簡不協,至忿爭上前,上皆優容之。未幾,昌言出使劍南,中路命改知鳳翔府。明年,易簡亦以禮部侍郎出知鄧州,移陳州。至道二年,卒,年三十九,贈禮部尚書。

易簡は外見こそ率直であったが、内には城府(深謀)を抱いていた。知制誥より学士となり、年齢は未だ三十に満たなかった。文章を属する(作る)当初は体要(文体の要諦)に通じていなかったが、誥命を掌るに及んで、自らを厳しく励ました。翰林に在ること八年、眷遇(寵遇)は同輩を遥かに絶していた。李沆は後に入ったが、易簡の下位にあり、先に参知政事となった。それゆえ易簡を承旨とし、賞賜は均しく与えられた。太宗は旧制に従い、またその名望を熟成させてから正しく台輔(宰相)にしようとしたが、易簡は親が老いているため進用を急ぎ、時政の欠失をしきりに言上したので、ついに大政に参じた。

原文易簡外雖坦率,中有城府。由知制誥入為學士,年未滿三十。屬文初不達體要,及掌誥命,頗自刻勵。在翰林八年,眷遇敻絕倫等。李沆後入,在易簡下,先參知政事,故以易簡為承旨,錫賚均焉。太宗遵舊制,且欲稔其名望而後正臺輔,易簡以親老急於進用,因亟言時政闕失,遂參大政。

蜀しょくの人何光逢は、易簡の執友(親友)であった。かつて県令を務めたが、賄賂の罪に坐して官籍を削られ、京師に流寓していた。ちょうど易簡が貢部(貢挙を司る部署)を主管した時、光逢は他人に代わって試験を受け、報酬を得ようとした。易簡は雑踏の中から彼を追い出したので、光逢は誹謗の書を作り、朝廷の事をあからさまに非難し、かつ易簡を嘲笑した。易簡はその書を手に入れて上聞し、光逢を逮捕した。獄が決し、棄市の刑に処せられた。易簡は光逢を殺すことが自分の本意ではなかったので、常日頃から快く思わなかった。母の薛氏は父の執友を殺したことを厳しく責めた。易簡は泣いて言った。「このようなことになろうとは思いもよりませんでした。易簡の罪です。」易簡が参知政事となった時、薛氏を禁中に召し入れ、冠帔を賜り、座らせて問うた。「どうして子を教え、このような立派な人物に成したのか。」答えて言うには、「幼い時は礼譲をもって束ね、長じては詩書をもって教えました。」上は左右の者を顧みて言った。「真の孟母である。」

原文蜀人何光逢,易簡之執友也,嘗任縣令,坐賂削籍,流寓京師。會易簡典貢部,光逢代人充試以取貲,易簡於稠人中屏出之,光逢遂造謗書,斥言朝廷事,且譏易簡。易簡得其書以聞,逮捕光逢,獄具,坐棄市。易簡以殺光逢非其意,居常怏怏。母薛氏以殺父執切責之,易簡泣曰:「不謂及此,易簡罪也。」及易簡參知政事,召薛氏入禁中,賜冠帔,命坐,問曰:「何以教子成此令器?」對曰:「幼則束以禮讓,長則教以詩書。」上顧左右曰:「真孟母也。」

易簡は性来酒を嗜み、初めて翰林に入った謝恩の日には既に微酔い、その他の日も多くは深く耽っていた。上はかつて深切に戒め、また草書で『勧酒』二章を書いて賜り、その母の前で読ませた。これ以来、毎日入直する時は、酒を飲まなくなった。死んだ時、上は言った。「易簡は果たして酒で死んだか。惜しいことだ。」易簡は常に居室を雅にし、筆札を善くし、特に談笑を善くし、傍ら釈典に通じていた。著した『文房四譜』、『続翰林志』及び『文集』二十巻は、秘閣に蔵された。三子あり、宿、寿、耆という。大中祥符年間、皆官をもって禄を給されたという。

原文易簡性嗜酒,初入翰林,謝日飲已微醉,餘日多沉湎。上嘗戒約深切,且草書《勸酒》二章以賜,令對其母讀之。自是每入直,不敢飲。及卒,上曰:「易簡果以酒死,可惜也。」易簡常居雅善筆劄,尤善談笑,旁通釋典,所著《文房四譜》、《續翰林志》及《文集》二十卷,藏於秘閣。三子,曰宿、曰壽、曰耆,大中祥符間,皆祿之以官云。

郭贄

原文郭贄

七年、本官をもって参知政事となる。曹彬が弭徳超に誣告された時、贄は極言して救解し、深く宰相趙普に重んじられた。嘗て事を論じて奏上し言った。「臣は次を超える遇を受け、愚直をもって上に報いることを誓います。」太宗が「愚直は事に何の益があるか」と言うと、贄は言った。「そうではありますが、なお奸邪に勝ります。」

原文七年,以本官參知政事。曹彬為弭德超所誣,贄極言救解,深為宰相趙普所重。嘗因論事奏曰:「臣受不次之遇,誓以愚直上報。」太宗曰:「愚直何益於事?」贄言:「雖然,猶勝姦邪。」

間もなく、入対の際に前夜の酒が醒めていなかったため、左遷されて秘書少監・知荊南府となった。府の俗は淫祀を尚び、久しい旱魃に属して、雨乞いの具を盛大に陳列していた。贄が到着すると、命じて悉く撤去させ、江に投げ込んだ。数日も経たぬうちに大雨が降った。就いて左諫議大夫を加えられ、入朝して塩鉄使となった。当時、諸路に積み重なった滞納犯人は、死んでもなおその子孫を拘束していた。贄はこの事を条陳し、多くが免除された。籍田の礼に際し、超えて工部侍郎に拝された。淳化年中、澶州の知州となり、黄河の決壊に坐して居官を免じられた。久しくして、起用されて給事中となり、再び工部侍郎、知審官院・通進銀臺封駁司となった。

原文無何,以入對宿酲未解,左遷秘書少監、知荊南府。府俗尚淫祀,屬久旱,盛陳禱雨之具。贄始至,命悉撤去,投之江,不數日大雨。就加左諫議大夫,入為鹽鐵使。時諸路積逋欠犯人,雖死猶繫其子孫。贄條陳其事,多所蠲貸。籍田,超拜工部侍郎。淳化中,知澶州,坐河決免所居官。久之,起為給事中,復工部侍郎,知審官院、通進銀臺封駁司。

真宗が即位すると、刑部尚書に拝され、出て天雄軍の知軍となった。翌日、贄が入対し、懇ろに辞退した。上は言った。「全魏の地は、寄せる所が特に重い。卿は速やかに赴くべきである。」入朝して太常寺・吏部流内銓を判じ、集賢院学士・判院事を加えられた。河南府の知府となり、帰朝して詩を献上し自らを陳べ、吏部侍郎に進秩し、間もなく秘書監を兼ねた。

原文真宗即位,拜刑部,出知天雄軍。翌日,贄入對,懇辭。上曰:「全魏之地,所寄尤重,卿宜亟去。」入判太常寺、吏部流內銓,加集賢院學士、判院事。知河南府,歸朝,獻詩自陳,進秩吏部,俄兼秘書監。

初め、真宗が未だ出閣(東宮を出て独立した府邸を持つこと)していなかった時、贄は既に経を授けており、上は嘗てその家に行ったことがあった。後に楊可法がその任を継いだが、上は輔導が贄に及ばないと思い、嘗て贄を純厚な長者と称えた。この時、秘府に在り、屡々対を賜り、旧事を詢ね訪ねられた。かつその既に老いたことを憐れみ、特に工部尚書・翰林侍読学士に拝し、詩を作って賜った。その中に「啓発冲言(謙虚な言葉)して典常(常典)を暁さとらす」との語があった。東封の時、礼部尚書に遷った。太宗が晋王の邸に在った時、凡そ篇詠を作ると、多くは贄に属して和させた。真宗が嘗てその賜った本を訪ねると、贄は四巻に集めて献上し、詔をもって褒賞された。大中祥符三年、卒去。七十六歳。上は旧学の故をもって、特に親しく臨んで哭し、左僕射を贈り、諡して文懿といった。その子昭度を録して大理寺丞とし、昭升・昭用を並びに大理評事とし、昭允を左賛善大夫とした。

原文初,真宗未出閣,贄已授經,上嘗至其家;後楊可法繼其任,上以為輔導不及贄,嘗稱贄純厚長者。至是,在秘府,屢賜對,詢訪舊事。且愍其已老,特拜工部尚書、翰林侍讀學士,作詩賜之,有『啟發冲言曉典常』語。東封,遷禮部尚書。太宗在晉邸時,凡製篇詠,多令屬和。真宗嘗訪其賜本,贄集為四卷以獻,詔獎之。大中祥符三年,卒,年七十六。上以舊學之故,特親臨哭之,贈左僕射,諡文懿。錄其子昭度為大理寺丞,昭升、昭用並大理評事,昭允左讚善大夫。

贄は文章を属するのが敏速で、彫琢(過度な修飾)しなかった。昭度が三十巻に集めて上進すると、『文懿集』の名を賜った。性質は温和で、よく時に俊英の名誉を広めることができた。宋白は文学がありながら下位に沈んでいたが、贄が推薦引き立てたので、遂に共に誥命を掌った。趙昌言が幼少の時、一目で器とし、貢部を掌るに及んで、奏名の首位とした。後、ついに貴顕となった。贄が初めて賦を充てられて名声があった時、同郷の人が同じ籍の中にいてこれを妬み、密かに誹毀を加えた。これ以来、連続して上っても選に中らなかった。贄が再び貢挙を掌るに及んで、同郷の子が明経をもって推薦に充てられた。詔が下った日、悔いて泣きながら去った。贄はこれを聞き、その親しい者に命じて召し還し、慰め諭して挙に就かせ、遂に推薦されて及第した。しかし吝嗇で、生計を営むことに切実で、晩節は事を治めず、人はこれを以って少々軽んじた。

原文贄屬文敏速而不雕刻,昭度集為三十卷上之,賜名《文懿集》。性溫和,頗能延譽時雋。宋白以文學沉下位,贄薦引之,遂同掌誥命。趙昌言兒時,一見器之,及掌貢部,以為奏名之首,後卒貴顯。贄初充賦有聲,邑人同在籍中者忌之,潛加構毀,自是連上不中選。洎贄再知貢舉,邑人子以明經充薦,詔下日,悔泣而去。贄聞之,命其所親召還,慰諭俾就舉,遂預薦中第。然吝嗇,切於治生,晚節不事事,人頗以是少之。

李至

原文李至

雍熙初年、給事中を加えられた。当時、范陽親征が議論され、至は上疏して「兵は凶器、戦は危事、これを用いる道は必ず万全を務むべし。幽州は敵の右臂、王師の向かう所、彼は必ず拒んで張り、城を攻めるには数万、兵糧はその倍を要す。今日、辺境の倉庫は未だ充たず、況んや范陽の傍らは平坦で丘陵がなく、山を去ること既に遠く、石を取るは特に難し。金湯の堅固は必ず機石(投石機の石)を資する。もし備えが未だならば、願わくは暫く繕い完うすべし。威を蓄え鋭を養い、隙を観て謀を伐つ。更に一年を過ごしても、未だ遅しと為さず。必ずや聖心が独断し、必行に在らんとすれば、則ち京師は天下の本、陛下は宗廟を恭しく守り、京国を離れず、敵に閑暇を示し、億兆の仰望を慰むるは、策の上なり。大名は河朔の咽喉、或いは暫く鑾輅を駐め、自ら将たると揚言して、軍威を壮んにするは、策の中なり。若し遠く師旅を提げ、親しく辺陲に抵り、北に契丹の憂い、南に中原の慮りあらんか、則ち裾を曳くの懇切(鄒陽の諫言)、鞅を断つの狂愚(茅焦の諫言)、臣は不肖なりといえども、二賢(鄒陽・茅焦)の後に在るを恥ず」と為した。

原文雍熙初,加給事中。時議親征范陽,至上疏以為:「兵者凶器,戰者危事,用之之道,必務萬全。幽州為敵右臂,王師所嚮,彼必拒張,攻城數萬,兵食倍之。今日邊庾未充,況范陽之傍,坦無陵阜,去山既遠,取石尤難。金湯之堅,必資機石,儻有未備,願且繕完。畜威養銳,觀釁以伐謀,更縱彌年,亦未為晚。必若聖心獨斷,在於必行,則京師天下之本,陛下恭守宗廟,不離京國,示敵人以閑暇,慰億兆之仰望,策之上也。大名,河朔之咽喉,或暫駐鑾輅,揚言自將,以壯軍威,策之中也。若乃遠提師旅,親抵邊陲,北有契丹之虞,南有中原之慮,則曳裾之懇切,斷鞅之狂愚,臣雖不肖,恥在二賢後也。」

至は眼疾のため累表して機政(枢機の政務)の解任を求め、礼部侍郎を授けられ、吏部侍郎に進秩した。

原文至以目疾累表求解機政,授禮部侍郎,進秩吏部。

ちょうど秘閣が建てられ、秘書監を兼ねることを命じられ、三館の書を選んで閣中に置き、至にこれを総べさせた。至は毎度李昉・王化基らと閣下で書を観ると、上は必ず使者を遣わして宴を賜り、かつ三館の学士を皆参与させた。この時、秘閣を昇格させ、三館の次位としたのは、至の請いに従ったのである。上は嘗て秘閣に臨幸し、草書の『千字文』を出して賜った。至がこれを石に刻もうとすると、上は言った。「『千文』は梁の武帝が破碑の鍾繇の書を得て、周興嗣に命じて韻を次いで成したもので、理として取るに足るものはない。もし教化に資するものがあれば、『孝経』に若くはない。」乃ち書いて至に賜った。潘慎修・舒雅・杜鎬・吳淑らを推薦して直館校理に充てた。亡失した書の購求を請い、間に新書を奏上する度に、必ず便座に延引して接見し、恩礼は甚だ厚かった。淳化五年、国子監を兼判した。至上言して「『五経』の書疏は既に板行されているが、唯二『伝』(春秋左氏伝・公羊伝)、二『礼』(周礼・儀礼)、『孝経』、『論語』、『爾雅』の七経の疏が未だ備わっていない。仁君が訓を垂れる意に副うべきか。今、直講の崔頤正・孫奭・崔偓佺は皆励精強学し、経義に博通している。望むらくは重ねて讎校させ、刊刻に備えしめられたい。」従われた。後、また吳淑・舒雅・杜鎬を引きいて訛謬を検正させ、至と李沆が総領してこれを裁処した。

原文會建秘閣,命兼秘書監,選三館書置閣中,俾至總之。至每與李昉、王化基等觀書閣下,上必遣使賜宴,且命三館學士皆與焉。至是昇秘閣,次於三館,從至請也。上嘗臨幸秘閣,出草書《千字文》為賜,至勒石,上曰:「《千文》乃梁武得破碑鍾繇書,命周興嗣次韻而成,理無足取。若有資於教化,莫《孝經》若也。」乃書以賜至。薦潘慎修、舒雅、杜鎬、吳淑等入充直館校理。請購亡書,間以新書奏御,必便坐延見,恩禮甚厚。淳化五年,兼判國子監。至上言:「《五經》書疏已板行,惟二《傳》、二《禮》、《孝經》、《論語》、《爾雅》七經疏未備,豈副仁君垂訓之意。今直講崔頤正、孫奭、崔偓佺皆勵精強學,博通經義,望令重加讎校,以備刊刻。」從之。後又引吳淑、舒雅、杜鎬檢正訛謬,至與李沆總領而裁處之。

至道の初め、真宗が初めて儲位に正されると、李至は李沆と共に賓客を兼ね、詔して太子は師傅の礼をもって事えしめ、真宗は毎回必ず先に拝礼し、李至らが上表して礼に当たるべからざるを奏す。詔答して曰く、「朕は古訓を旁稽し、承華を肇建し、端良を選び用い、輔導に資す。卿の宿望を借り、護調に委ね、蓋し謙冲を勖めんと将するが故に、乃ち其の礼数を異にす。当仁の譲を飾ること勿れ、予が子を知るの心に副えよ。」李至ら相率いて謝す。太宗これに謂いて曰く、「太子は賢明仁孝にして、国本固し。卿等は心を尽くして規誨すべし、若し動くこと皆礼に由らば、則ち宜しく賛助すべく、事に未だ当たらざる有らば、必ず力を言わねばならぬ。『礼』・『楽』・『詩』・『書』に至りては、義に裨益すべき有るは、皆卿等の素習する所、朕の言諭を仮るまじ。」

原文至道初,真宗初正儲位,以至與李沆並兼賓客,詔太子事以師傅禮,真宗每見必先拜,至等上表,不敢當禮。詔答曰:「朕旁稽古訓,肇建承華,用選端良,資於輔導。借卿宿望,委以護調,蓋將勖以謙冲,故乃異其禮數。勿飾當仁之讓,副予知子之心。」至等相率謝。太宗謂曰:「太子賢明仁孝,國本固矣。卿等可盡心規誨,若動皆由禮,則宜贊助,事有未當,必須力言。至於《禮》、《樂》、《詩》、《書》義有可裨益者,皆卿等素習,不假朕之言諭也。」

真宗即位し、工部尚書・参知政事を拝す。一日、上霊武の事を訪う。李至上疏して曰く、「河湟の地は、夷夏雑居す、是を以て先王は之を度外に置く。継遷は異類、疆埸を騒動す、然れども臍を然らすも其の患を弭ぐに足らず、髪を擢げても其の罪を数うるに足らず。然れども聖人の道は、務めて己を屈し垢を含みて以て億民を安んず、蓋し損ずる所は小、益す所は大なり。陛下の元元を念うを望み、巨憝を介意せざらんことを。彼の脅従も亦兵を厭うこと久しきを料る、苟も朝廷之を捨てて問わず、厚利を以て啖い、重爵を以て縻すれば、安んぞ肯て迷いて復せず、淪胥に訖らんや。昨鄭文宝青塩を絶ち、使いて漢界に入らず、粒食を禁じ使いて羌夷に及ばず、致して彼に詞有り、而して我に謂無し、此の失策、悔ゆると雖も何ぞ追わん。今若し復た禁止して糧を通ずるを許さずんば、恐らくは敵を制し遠方を懐ける、戦わずして人を屈するの意に非ざらん。昔唐代宗は田承嗣を罪すと雖も魏塩を禁ぜず、陛下は宜しく此の事を行い、以て辺鄙を安んずべし。其の族類に有無交易有らしめ、塩を售して以て之を利し、糧を通じて以て之を済わしめば、彼は遠夷と雖も、必ず向化し、互いに誥諭せん。一旦恩を懐き、逆を捨て順に効せば、則ち継遷の豎子は孤にして輔無く、又安んぞ能く我が蜂蠆たらんや。今霊州は棄つべからずとす、独り臣の愚以為う所然りと為すのみに非ず、若し朔方軍の額を環州に移すも、亦一時の権なり。或いは霊州を指して咽喉の地、西北の要衝と為し、安んぞ之を棄てて以て敵の有と為さん、此れ不智の甚だしき、臣の敢て知る所に非ず。」後に霊武は卒く守る能わず。

原文真宗即位,拜工部尚書、參知政事。一日,上訪以靈武事,至上疏曰:「河湟之地,夷夏雜居,是以先王置之度外。繼遷異類,騷動疆埸,然臍不足弭其患,擢髮不足數其罪。然聖人之道,務屈己含垢以安億民,蓋所損者小,所益者大。望陛下以元元為念,不以巨憝介意。料彼脅從亦厭兵久矣,苟朝廷舍之不問,啖以厚利,縻以重爵,亦安肯迷而不復,訖於淪胥哉?昨鄭文寶絕青鹽,使不入漢界,禁粒食使不及羌夷,致彼有詞,而我無謂,此之失策,雖悔何追。今若復禁止不許通糧,恐非制敵懷遠、不戰屈人之意。昔唐代宗雖罪田承嗣而不禁魏鹽,陛下宜行此事,以安邊鄙。使其族類有無交易,售鹽以利之,通糧以濟之,彼雖遠夷,必然向化,互相誥諭。一旦懷恩,舍逆效順,則繼遷豎子孤而無輔,又安能為我蜂蠆哉!今靈州不可不棄,非獨臣愚以為當然,若移朔方軍額於環州,亦一時之權也。或指靈州為咽喉之地,西北要衝,安可棄之以為敵有,此不智之甚,非臣之所敢知也。」後靈武卒不能守。

咸平元年、目疾を以て政柄を解くを求め、武信軍節度を授けられ、節制に入り辞すも、允されず。居ること二年、河南府を知るに徙す。四年、病を以て本鎮に帰るを求め、之を許す。詔甫下りて卒す、年五十五。侍中を贈り、詔して其の子惟良・惟允・惟熙等に奉終の制を給す。

原文咸平元年,以目疾求解政柄,授武信軍節度,入辭節制,不允。居二年,徙知河南府。四年,以病求歸本鎮,許之。詔甫下,卒,年五十五。贈侍中,詔給其子惟良、惟允、惟熙等奉終制。

李至嘗て徐鉉に師事し、手ずから鉉及び其の弟鍇の集を写し、幾案に置く。又た『五君詠』を賦し、鉉及び李昉・石熙載・王祐・李穆の為に作るなり。李至は剛厳簡重にして、人士其の門に登ること罕なり。性吝嗇なり。幼く知審に育たれ、貴に及びて、即ち其の養子を逐いて以て其の資を利す。知審は李至に因りて亦た右金吾衛大将軍に至る。

原文至嘗師徐鉉,手寫鉉及其弟鍇集,置於幾案。又賦《五君詠》,為鉉及李昉、石熙載、王祐、李穆作也。至剛嚴簡重,人士罕登其門。性吝嗇。幼育於知審,及貴,即逐其養子以利其資。知審因至亦至右金吾衛大將軍。

辛仲甫

原文辛仲甫

太祖命を受く、崇を以て監軍と為す。陳思誨密かに崇に奸状有るを奏す、上怒り且つ疑い、中使を遣わし馳せ往きて之を験せしむ。未だ至らざるに、崇憂懣して拠所を失い、賓佐に謂いて曰く、「苟も人主察せずんば、之を奈何せん。」皆愕然として相視る。仲甫曰く、「皇帝運を膺け、公首めて節を効し、軍民の処置、率ね常度に循い、且つ何を以て辞を加えん。第に使者を遠く偵し、僚属を率いて郊迎の礼を尽くし、彼の伺察を聴けば、久しきに当たり自ら弁ぜん。」崇其の言の如くす。使者至り、崇に他意無きを視て、還り奏す、上大いに喜び、罪を思誨に帰す。仲甫又た崇に随いて平盧軍節度判官と為る。崇卒し、鄆・齊觀察判官に改め、累ね冤枉を雪ぐ。

原文太祖受命,以崇為監軍。陳思誨密奏崇有奸狀,上怒且疑,遣中使馳往驗之。未至,崇憂懣失據,謂賓佐曰:「苟人主不察,為之奈何?」皆愕相視。仲甫曰:「皇帝膺運,公首效節,軍民處置,率循常度,且何以加辭。第遠偵使者,率僚屬盡郊迎禮,聽彼伺察,久當自辨矣。」崇如其言。使者至,視崇無他意,還奏,上大喜,歸罪於思誨。仲甫又隨崇為平盧軍節度判官。崇卒,改鄆、齊觀察判官,累雪冤枉。

乾徳五年、入りて右補闕を拝し、出でて光州を知る。州に横河有りて城と直し、会う霖潦暴疾し、水溢れて廬舎を潰す。仲甫船数百艘を集め、軍資民儲、皆之に頼りて済わす。六年、彭州を知るに移す。州卒営兵及び諸屯戍を誘い、謀りて長春節宴集の日を以て乱を為さんとす。春初に属し、仲甫城を出でて巡視し、壕中に草深きを見、意に伏を蔵すべしとし、命じて之を焼薙せしむ。凶党謀の泄るるを疑い、自首する者有り、百余り人を擒え、尽く之を斬る。先ず是れ州に種樹少なく、暑に休む所無し、仲甫民に課して柳を栽え行路に蔭らしめ、郡人之を徳し、名づけて『補闕柳』と為す。太祖群臣に文武兼資の者を誰ぞと問う、趙普仲甫を以て対す。益州兵馬都監に徙し、代わり還り、選ばれて三司戸部判官と為る。

原文乾德五年,入拜右補闕,出知光州。州有橫河與城直,會霖潦暴疾,水溢潰廬舍。仲甫集船數百艘,軍資民儲,皆賴以濟。六年,移知彭州。州卒誘營兵及諸屯戍,謀以長春節宴集日為亂。屬春初,仲甫出城巡視,見壕中草深,意可藏伏,命燒薙之。凶黨疑謀泄,有自首者,擒百餘人,盡斬之。先是州少種樹,暑無所休,仲甫課民栽柳蔭行路,郡人德之,名為『補闕柳』。太祖問群臣文武兼資者為誰,趙普以仲甫對。徙益州兵馬都監,代還,選為三司戶部判官。

太平興国初、起居舎人に遷り、契丹に奉使す。遼主問う、「党進は何如なる人ぞ。進の比の如き者幾何有るや。」仲甫曰く、「国家名将輩出し、進の如きは鷹犬の材のみ、何ぞ道うるに足らんや。」遼主之を留めんと欲す、仲甫曰く、「信は以て命を成し、義は留まるべからず、死有るのみ。」遼主竟に之を屈する能わず。使い還り、刑部郎中を以て成都府を知る。既に至り、歳輸銅錢を免ずるを奏し、榷酤を罷め、政は寛簡を尚び、蜀人之を安んず。八年、右諫議大夫を加う。時に彭州盗賊連結して害を為し、詔捕えしも未だ獲ず。仲甫誘いて令し自ら縛りて吏に詣らしむる者凡そ百余り人、余り因りて散去す。

原文太平興國初,遷起居舍人,奉使契丹。遼主問:「党進何如人?如進之比有幾?」仲甫曰:「國家名將輩出,如進鷹犬材耳,何足道哉!」遼主欲留之,仲甫曰:「信以成命,義不可留,有死而已。」遼主竟不能屈。使還,以刑部郎中知成都府。既至,奏免歲輸銅錢,罷榷酤,政尚寬簡,蜀人安之。八年,加右諫議大夫。時彭州盜賊連結為害,詔捕未獲。仲甫誘令自縛詣吏者凡百餘人,餘因散去。

九年、入りて開封府を知り、御史中丞を拝す。雍熙二年、給事中・参知政事を拝す。端拱中、戸部侍郎に進む。時に呂蒙正は長厚を以て相位に居り、王沔は事を任じ、仲甫は其の間に従容するのみ。淳化二年、足疾を以て罷められ工部尚書と為り、出でて陳州を知る。代わり帰り、会う蜀に寇有り、仲甫素より恩信著しきを以て、将に輿疾して招撫せしめんとす、疾を以て未だ行かず。未だ幾ばくも無く、太子少保を以て致仕す。真宗即位し、太子少傅を加う。咸平三年、卒す、年七十四、太子太保を贈る。子若冲・若虚・若蒙・若済・若渝、皆其の官に能くす。孫有孚・有隣、倶に進士に中る。

原文九年,入知開封府,拜御史中丞。雍熙二年,拜給事中、參知政事。端拱中,進戶部侍郎。時呂蒙正以長厚居相位,王沔任事,仲甫從容其間而已。淳化二年,以足疾罷為工部尚書,出知陳州。代歸,會蜀有寇,以仲甫素著恩信,將令輿疾招撫,以疾未行。無何,以太子少保致仕。真宗即位,加太子少傅。咸平三年,卒,年七十四,贈太子太保。子若冲、若虛、若蒙、若濟、若渝,皆能其官。孫有孚、有隣,俱中進士。

王沔

原文王沔

淳化初、宰相趙普西洛を出守す。呂蒙正は寛簡を以て自ら任じ、政事多く沔に決す、沔は張斉賢と同く枢務を掌り、頗る叶わず。斉賢出でて代州を知り、沔遂に副使と為り、政事に参預す。陳恕は苛察を好み、亦た嘗て沔と忤う。淳化二年、斉賢及び恕参知政事と為り、沔自ら安からず、僚属に中書旧事を以て斉賢等に告ぐる有らんことを慮り、会う左司諫王禹偁上言す、「今より宰相及び枢密使は本庁に於いて客を見ること得ず、都堂に於いて延接するを許すべし。」沔喜び、即ち奏して之を行わしむ。直史館謝泌以為う、此の如くは是れ大臣を疑いて以て私と為すなりと、疏を以て之を駁す。太宗前詔を追還し、沔及び恕是に因りて罷められ本官を守る。翌日、蒙正亦た罷む。沔上に見え、涕泣し、左右を離るるを願わず。未だ幾ばくも無く、鬚鬢皆白し。会う省吏事発し、中書に連なり、因りて奏毀する者有り。上毀する者に語りて曰く、「呂蒙正は大臣の体有り、王沔は甚だ明敏なり。」毀する者慚じて止む。

原文淳化初,宰相趙普出守西洛。呂蒙正以寬簡自任,政事多決於沔,沔與張齊賢同掌樞務,頗不叶。齊賢出知代州,沔遂為副使,參預政事。陳恕好苛察,亦嘗與沔忤。淳化二年,齊賢洎恕參知政事,沔不自安,慮僚屬有以中書舊事告齊賢等,會左司諫王禹偁上言:「自今宰相及樞密使不得於本廳見客,許於都堂延接。」沔喜,即奏行之。直史館謝泌以為如此是疑大臣以私也,疏駁之。太宗追還前詔,沔暨恕因是罷守本官。翌日,蒙正亦罷。沔見上,涕泣,不願離左右。未幾,鬚鬢皆白。會省吏事發,連中書,因有奏毀者。上語毀者曰:「呂蒙正有大臣體,王沔甚明敏。」毀者慚而止。

三年、帝は官吏の昇降を行わんと欲し、沔に謝泌・王仲華と共に京朝官の考課を同知せしむ。沔上言す、京朝官の殿犯に応ずる者は、刑部に条報せしめ、贓罪及び公私の罪を以て三等に分ちて聞こえしむべしと。立法苛察にして、是を以て再び用いられんことを求めんとす。命を受けて甫はじめて旬日、方に視事せんとするに、暴疾に卒す。年四十三。工部尚書を贈られる。

原文三年,上欲黜陟官吏,命沔與謝泌、王仲華同知京朝官考課。沔上言,應京朝官殿犯,乞令刑部條報,以贓及公私罪分三等以聞。立法苛察,欲因是以求再用。受命甫旬日,方視事,以暴疾卒,年四十三,贈工部尚書。

沔は聡察敏弁にして、時に適う用あり、上前に事を言うに、能く委曲を敷繹す。毎に御前に対して試みる進士の辞賦を読み、音吐明暢にして、経読する者多く高第に中あたる。性苛刻にして、誠信少なし。機務を掌る日、凡そ謁見する者には必ず甘言を以て啖つみ、皆喜んで過望す。既にして進退允まことならず、人胥みな之を怨む。

原文沔聰察敏辯,有適時之用,上前言事,能委曲敷繹。每對御讀所試進士辭賦,音吐明暢,經讀者多中高第。性苛刻,少誠信。掌機務日,凡謁見者必啖以甘言,皆喜過望,既而進退非允,人胥怨之。

沔の弟淮は、太平興国五年の進士、殿中丞に任ず。嘗て香薬榷易院を掌り、贓に坐して棄市に当たるを論ぜらる。沔の故を以て、詔して杖一百に降し、定遠主簿に降す。沔は是を以て頻りに寇準の詆そしる所と為る。

原文沔弟淮,太平興國五年進士,任殿中丞。嘗掌香藥榷易院,坐贓論當棄市,以沔故,詔杖一百,降定遠主簿。沔以是頻為寇準所詆云。

溫仲舒

原文溫仲舒

淳化二年、右諫議大夫・枢密副使に拝し、同知枢密院事に改む。四年、罷めて秦州を知る。先ず是れ、俗羌・戎に雑まじわり、両馬家・朵蔵・梟波等の部有り。唐末以来、渭河の南、大洛・小洛門の砦に居り、良木を多く産するも、其の占拠する所と為る。歳に卒を調ととのえて采伐し京師に給すに、必ず資を以て羌戸に道を仮かす。然れども攘奪を免れず、甚だしきに至りては殺掠し、平民の患と為る。仲舒至り、兵を部へして諸砦を歴按し、其の酋に威信を以て諭す。諸部地を献じて内属す。既にして悉く其の部落を渭北に徙し、堡砦を立てて之を限る。民其の恵を感じ、画像を為つくりて之を祠る。会に仲舒の事を生ずる者有りと言う。上近臣に謂いて曰く、「仲舒嘗て機密の職を総べ、吾が左右に在りて、当に綏懐を以て務とすべし。古伊・洛の間、尚お羌・渾雑居す。況んや此の羌部内属し、素より渭南に居り、土着已久し。一旦意に擅ほしいままに斥逐せば、或いは騒動に至り、又吾が関右の民を煩わす。」乃ち鳳翔を知る薛惟吉に命じ、仲舒と対むかい其の任を易えしむ。連ねて興元・江陵二府を知り、給事中を加う。会に内侍藍継宗秦州に使いして還り、地を得ること甚だ利あるを言う。乃ち仲舒を召し、戸部侍郎に拝し、尋いで参知政事に参ず。二砦後ち内地と為り、歳に巨木の利を獲る。

原文淳化二年,拜右諫議大夫、樞密副使,改同知樞密院事。四年,罷知秦州。先是,俗雜羌、戎,有兩馬家、朵藏、梟波等部,唐末以來,居於渭河之南,大洛、小洛門砦,多產良木,為其所據。歲調卒采伐給京師,必以貲假道於羌戶。然不免攘奪,甚至殺掠,為平民患。仲舒至,部兵歷按諸砦,諭其酋以威信,諸部獻地內屬。既而悉徙其部落於渭北,立堡砦以限之。民感其惠,為畫像祠之。會有言仲舒生事者,上謂近臣曰:「仲舒嘗總機密之職,在吾左右,當以綏懷為務。古伊、洛之間,尚有羌、渾雜居,況此羌部內屬,素居渭南,土著已久,一旦擅意斥逐,或至騷動,又煩吾關右之民。」乃命知鳳翔薛惟吉與仲舒對易其任。連知興元、江陵二府,加給事中。會內侍藍繼宗使秦州還,言得地甚利。乃召仲舒,拜戶部侍郎,尋參知政事。二砦後為內地,歲獲巨木之利。

咸平初、礼部尚書に拝し、政を罷め、出でて河陽を知る。年を踰こえて、開封府を知る。五年、京府の務劇むごを以て罷めを求め、遂に本官を以て御史中丞を兼ね、尋いで刑部尚書に遷り天雄軍を知り、河南に徙す。景德中、幷州守を缺く。上北門の重鎮は須らく大臣の鎮撫するを以てすとし、張斉賢・溫仲舒に非ざれば可からずとし、宰相に旨を諭さしむ。皆往くを願わず。未だ幾ばからず、復た審官院を知る。大中祥符中、秩を進めて戸部尚書と為す。三年、昭文館大学士を判ず。命下りて卒す。年六十七。左僕射を贈られ、諡して恭肅と曰う。

原文咸平初,拜禮部尚書,罷政,出知河陽。逾年,知開封府。五年,以京府務劇求罷,遂以本官兼御史中丞,尋遷刑部尚書、知天雄軍,徙河南。景德中,幷州缺守,上以北門重鎮須大臣鎮撫,非張齊賢、溫仲舒不可,令宰相諭旨,皆不願往。未幾,復知審官院。大中祥符中,進秩戶部尚書。三年,判昭文館大學士,命下,卒,年六十七。贈左僕射,諡恭肅。

仲舒は応務に敏なり。少くして呂蒙正と契厚く、又同く第に登る。仲舒累年黜廢す。蒙正中書に居り、極力援引す。及び任用せられ、反って蒙正を攻む。士論之を薄しむ。正言より貳枢密に至るまで、皆寇準と同く進み、時人之を『温寇』と謂う。子嗣宗・嗣良・嗣先・嗣立。仲舒既に卒す。帝其の孤弱を憫あわれみ、並びに官を以て禄す。

原文仲舒敏於應務。少與呂蒙正契厚,又同登第。仲舒黜廢累年,蒙正居中書,極力援引,及被任用,反攻蒙正,士論薄之。自為正言至貳樞密,皆與寇準同進,時人謂之『溫寇』。子嗣宗、嗣良、嗣先、嗣立。仲舒既卒,帝憫其孤弱,並祿以官。

王化基

原文王化基

化基嘗て范滂の為人を慕い、『澄清略』を献じ、時事を言うこと五有り。

原文化基嘗慕范滂為人,獻《澄清略》,言時事有五:

其一、尚書省を復す。曰く、「国家制を立つるは、動く必ず天に法のっとる。尚書省は上玄象に応じ、紫垣に対臨す。故に六卿は喉舌の官に擬し、郎吏は星辰の位に応ず。斯れ実に乾文の昭著、故事の具明なるなり。方今の省署は、名実未だ称せず。夫れ三司使の額は、乃ち近代の権制なり。判官・推官・勾院・開拆・磨勘・憑由・理欠・孔目・勾押・前後行は、皆州郡吏局の名なり。請う、三司を廃し、止だ尚書省に於いて六尚書を設け其事を分掌せしめ、判官・推官を廃し、郎官を設けて二十四司及び左右司の公事を分掌せしめ、一人をして一司を掌らしめ、孔目・勾押・前後行を廃し都事・主事・令史と為し、勾院・開拆・磨勘・憑由・理欠等の司を廃して比部及び左右司に帰せしむ。此くの如く即ち事益々精詳にし、且つ尽く州郡吏局の名を去らん。六卿如し闕くれば、即ち名品相近く、才望有る者を選び之を権かね、郎官如し闕くれば、則ち両省三院に於いて名幹有り清望有る者を選び、資に依りて之を除く。其の二十四司の公事、若し繁簡同じからずば、望むらくは本省府属に下し其の類を参酌し、均しくして之を行わしむ。」

原文其一,復尚書省,曰:「國家立制,動必法天。尚書省上應玄象,對臨紫垣,故六卿擬喉舌之官,郎吏應星辰之位,斯實乾文昭著,故事具明。方今省署,名實未稱。夫三司使額,乃近代權制;判官、推官、勾院、開拆、磨勘、憑由、理欠、孔目、勾押、前後行,皆州郡吏局之名。請廢三司,止於尚書省設六尚書分掌其事;廢判官、推官,設郎官分掌二十四司及左右司公事,使一人掌一司;廢孔目、勾押、前後行為都事、主事、令史;廢勾院、開拆、磨勘、憑由、理欠等司歸比部及左右司。如此即事益精詳,且盡去州郡吏局之名也。六卿如闕,即選名品相近、有才望者權之;郎官如闕,則於兩省三院選名幹有清望者,依資除之。其二十四司公事,若繁簡不同,望下本省府屬參酌其類,均而行之。」

其二、公挙を慎む。曰く、「朝廷頻年に詔を下し、類を以て人を求む。但だ例を得て官を挙ぐるを聞くも、未だ其の挙主を択ぶを見ず。望むらくは今より先ず朝官に声望有る者を責め、各おの知る所を挙げしめ、其の挙げ得たる官員は則ち籍を置き、挙主の名姓を併せて之に籍す。挙げたる官、実に廉能を著せば、則ち挙主を特ことに旌し、若し挙げたる者貪冒事を敗れば、挙主に連坐せしむ。陛下宝位に登りより、茲に十年、七たび選掄を経、人を得ること多し。然れども下僚遠官、沈滞無きにしも非ず。望むらくは采訪司及び州郡の長吏に令し、廉察して以て聞こえしめ、籍して以て用いを待たしむ。則ち下に遺材無からん。」

原文其二,慎公舉,曰:「朝廷頻年下詔,以類求人。但聞例得舉官,未見擇其舉主。欲望自今先責朝官有聲望者,各舉所知,其舉得官員則置籍,並舉主名姓籍之。所舉之官,實著廉能,則特旌舉主;若所舉貪冒敗事,連坐舉主。陛下自登寶位,十年於茲,七經選掄,得人多矣。然下僚遠官,不無沉滯。望令采訪司及州郡長吏,廉察以聞,籍以待用,則下無遺材矣。」

其三、貪吏を懲らす。曰く、「貪吏の民に於けるや、其の損甚だ大なり。法を屈し刑を煩わし、私に徇したがい虐に肆ほしいままにして、民の害を受くること木の蠹を受くるに甚だし。若し乃ち其の人に非ざるを用いて法を以て縄たださざれば、夷・齊・顏・閔と雖も自ら見る能わず。蓋し中人の性は、水の器に在るが如く、方員常ならず、之を用うる者の如何なるかを顧みるのみ。望むらくは諸路の転運使副に令し、兼ねて采訪の名を以てし、州・府・軍・監の長吏の得失を覚察するを責め、其の部内を澄清するを俟ちて、則ち不次の擢を以て待ち、侍従の間に置かしむ。貴ぶ所は物理を周知し、能く顧問に備わり、且つ足らく外官の勧めと為らん。」

原文其三,懲貪吏,曰:「貪吏之於民,其損甚大。屈法煩刑,徇私肆虐,使民之受害甚於木之受蠹。若乃用非其人而不繩以法,雖夷、齊、顏、閔不能自見。蓋中人之性,如水之在器,方員不常,顧用之者何如爾。望令諸路轉運使副兼采訪之名,責以覺察州、府、軍、監長吏得失,俟其澄清部內,則待以不次之擢,置於侍從之間。所貴周知物理,能備顧問,且足為外官之勸也。」

其四、冗官を省く。曰く、「古人官を建つるは、初め必ずしも備えざるは、惟だ其の人を得んが為のみ。国家の封疆は前世を踰ゆと雖も、庶官を分設すること実に常数を倍す。意は天下の利を尽く籠めんと欲するも、民物転た凋弊を加う。二十年前、江・淮の諸郡、揚・楚最も要衝に居り、務穰むじょう事衆、地広く民繁し。然れども止だ知州一人を設け官事を署領せしめ、其の余の通判官・推官及び州官等は、悉く皆榷務・倉庫を分管す。当時事集まらざる無く、兼ねて獄訟少なし。其の後十年、臣揚州に任ずる時、朝廷監臨・使臣等の職を添置す。実に本州の官数を踰ゆ。諸州の冗員、此くの如きに似るもの一に非ず。今朝官・諸色使臣及び県令・簿・尉等を以て、高卑相折して之を計るに、一人月費十千に啻ただならず。千人を以て之を約せば、歳計十余万千を用い、更に万を倍して之を約せば、万又過倍す。仮令皆廉吏とせば、止だ公帑を糜ついやすのみ。設し或いは貪夫其の間に参錯せば、則ち民に取る者又倍加せん。望むらくは諸路の転運使副に委ね、知州と同議して裁減せしむ。若し県令・簿・尉等の官、前に自り多く備置せず、兼ぬ可き者は之を兼ねしむ。此くの如くすれば則ち冗官汰たいせん。」

原文其四,省冗官,曰:「古人建官,初不必備者,惟得其人也。國家封疆雖逾前世,而分設庶官實倍常數,意欲盡籠天下之利,而民物轉加凋弊。二十年前,江、淮諸郡,揚、楚最居要衝,務穰事眾,地廣民繁。然止設知州一人署領官事,其餘通判官、推官及州官等,悉皆分管榷務、倉庫。當時事無不集,兼少獄訟。其後十年,臣任揚州時,朝廷添置監臨、使臣等職,實逾本州官數。諸州冗員,似此非一。今以朝官、諸色使臣及縣令、簿、尉等高卑相折而計之,一人月費不啻十千,以千人約之,歲計用十餘萬千,更倍萬約之,萬又過倍。使皆廉吏,止糜公帑;設或貪夫參錯其間,則取於民者又加倍焉。望委各路轉運使副,與知州同議裁減。若縣令、簿、尉等官自前多不備置,可兼者兼之,如此則冗官汰矣。」

第五に、遠方の官を選ぶことについて、曰く、「罪を負った者は、多くは善良でなく、貪婪残忍で凶暴、至らざる所なし。もし遠方の民を治める官職を授ければ、あるいは悪を恃んで悔い改めず、遠方を恃んで毒を肆にす。小民が災いに遭い、遂に上訴する術もなく、遠方の人々を慰撫する意に甚だ背く。もし今後、西川・広南の長吏に罪を負った者を任用しなければ、遠方の人々は恩恵を受けるであろう」。

原文其五,擇遠官,曰:「負罪之人,多非良善,貪殘凶暴,無所不至。若授以遠方牧民之官,其或怙惡不悛,恃遠肆毒。小民罹殃,卒莫上訴,甚非撫綏遠人之意也。若自今以往,西川、廣南長吏不任負罪之人,則遠人受賜矣。」

上書が奏上されると、太宗はこれを嘉して受け入れた。

原文書奏,太宗嘉納之。

初め、柴禹錫が枢密を務めていた時、下僕が人の金を受け取ったが、禹錫は実際には知らなかった。参知政事陳恕がこれによって禹錫を陥れようとした。太宗は怒り、囚人を引いてその事を訊問したが、化基はその誣告を弁明した。太宗は感得して悟り、化基を長者であるとした。淳化年間、中丞に拝され、まもなく京朝官の考課を管掌し、工部侍郎に遷った。至道三年、参知政事に超拝された。咸平四年、工部尚書の官で罷免され揚州知州となった。河南府知事に移り、礼部尚書に進んだ。大中祥符三年、卒去。六十七歳。右僕射を追贈され、諡は恵献。化基は寛厚で包容力があり、喜怒を顔に表さず、僚佐に互いに凌ぎ侮む者がいても、常に寛容に扱った。中書に在っては、蔭補をもって諸子の官とせず、しかし善く教訓したので、その子の挙正・挙直・挙善・挙元はいずれも成す所があった。

原文初,柴禹錫任樞密,有奴受人金,而禹錫實不知也。參知政事陳恕欲因以中禹錫。太宗怒,引囚訊其事,化基為辨其誣。太宗感悟,以化基為長者。淳化中,拜中丞,俄知京朝官考課,遷工部侍郎。至道三年,超拜參知政事。咸平四年,以工部尚書罷知揚州。移知河南府,進禮部尚書。大中祥符三年,卒,年六十七。贈右僕射,諡惠獻。化基寬厚有容,喜慍不形,僚佐有相淩慢者,輒優容之。在中書,不以蔭補諸子官,然善教訓,故其子舉正、舉直、舉善、舉元皆有所立。

子に挙正あり。

原文子 舉正

挙正は、字を伯仲といい、幼い頃から学問を好み、重厚で寡言であった。化基は己に似ていると思い、諸子とは異なって器重し愛し、蔭補により秘書省校書郎となった。進士に及第し、伊闕・任丘県の知県、館閣校勘・集賢校理・『真宗実録』院検討・国史編修官を歴任した。三度遷って尚書度支員外郎・直集賢院となり、『三朝宝訓』を修し、起居注を同修し、知制誥に抜擢された。その妻の父陳堯佐が宰相となったため、龍図閣待制に改められ、堯佐が罷免されると、兵部郎中をもって再び知制誥となり、翰林学士に任じられ、右諫議大夫・参知政事に拝された。前日、吏が馳せて報せた者があったが、挙正はちょうど閑居の書斎におり、ゆるりと吏に言った、「どうして禁中の言葉が漏れることがあろうか」。入朝して謝した後、仁宗は言った、「卿は進取に恬淡で、未だ朝廷に私事を求めたことがない。故に順序を越えて卿を用いるのである」。

原文舉正,字伯仲,幼嗜學,厚重寡言。化基以為類己,器愛異諸子,以蔭補秘書省校書郎。進士及第,知伊闕、任丘縣,館閣校勘、集賢校理、《真宗實錄》院檢討、國史編修官。三遷尚書度支員外郎、直集賢院,修《三朝寶訓》,同修起居注,擢知制誥。其妻父陳堯佐為相,改龍圖閣待制、堯佐罷,以兵部郎中復知制誥,為翰林學士,拜右諫議大夫、參知政事。前一日,吏有馳報者,舉正方燕居齋舍,徐謂吏曰:「安得漏禁中語?」既入謝,仁宗曰:「卿恬於進取,未嘗干朝廷以私,故不次用卿。」

当時、陝西で戦争があり、呂夷簡が宰相として枢密院を判じていた。挙正は言った、「判という名は重い。避けざるを得ない」。そこで兼枢密使に改められた。給事中に遷った。御史台が李徽之を御史に推挙したが、挙正の友婿(姻戚)であったため、格付けして採用しなかった。徽之が訴訟して言った、「挙正の妻が悍ましくて制することができない。どうして国を謀ることができようか」。欧陽修らもまた挙正が懦弱で沈黙し職務を担えないと論じ、挙正もまた自ら去ることを求めた。そこで資政殿学士・尚書礼部侍郎として許州知州となった。光化軍の叛卒が傍境に転じて寇掠し、州兵にも謀って起こり応じようとする者があった。挙正は密かに首謀者を捕らえて斬った。応天府知事に移り、累遷して左丞となった。

原文時陝西用兵,呂夷簡以宰相判樞密院,舉正曰:「判名重,不可不避也。」乃改兼樞密使。遷給事中。御史臺舉李徽之為御史,舉正友婿也,格不行。徽之訟曰:「舉正妻悍不能制,如謀國何?」歐陽修等亦論舉正懦默不任事,舉正亦自求去,遂以資政殿學士、尚書禮部侍郎知許州。光化軍叛卒轉寇傍境,而州兵有謀起為應者,舉正潛捕首惡者斬之。徙知應天府,累遷左丞。

皇祐初年、御史中丞に拝されると、上奏して言った、「張堯佐は庸人であるが、妃の家縁故により、一日に四使を領し、賢士大夫に励みとする所がなくなっている」。返答がなかったため、挙正は留班して廷上で諍諫し、ついに宣徽使・景霊宮使の二使を奪った。また言った、「先朝の人材任用は、たとえ辺境を守ること累年であっても、官は遙郡刺史に止まっていた。今用いる者は未だ人を得ておらず、しかも期限を定めて昇進を待つ。後で功績のある者はどう励めばよいのか。かつ転運使は官吏の能否を察し、生民の休戚がこれに頼っている。任命が下って間もなく数度変更し、一年も経たずに再び替える。恩沢が未だ宣べられず、民の疾苦が未だ癒えないのは、この故である」。御史唐介が言事により春州に貶せられたが、挙正は力を尽くしてこれを言上し、介は英州に移ることができた。半年後、堯佐が再び宣徽使となると、家に居て凡そ七度上疏した。また狄青が枢密使となると、青は兵卒の出身で執政となってはならないと言い、力を尽くして争ったが改めさせることができず、そこで言職の解除を請うた。帝はその風憲の体を得ていると称し、使いを遣わして邸宅に賜り、白金三百両を賜い、観文殿学士・礼部尚書・河南府知事に任じ、入朝して翰林侍読学士を兼ねた。進読の度に、前代の治乱の際について、必ず再三諷諭した。

原文皇佑初,拜御史中丞,乃奏:「張堯佐庸人,緣妃家,一日領四使,使賢士大夫無所勸。」不報,舉正因留班廷諍,乃奪宣徽、景靈二使。又曰:「先朝用人,雖守邊累年者,官止遙郡刺史。今所用未盡得人,而克期待遷,使後有功者何所勸耶?且轉運使察官吏能否,生民休戚賴焉。命甫下而數更,不終歲而再易,恩澤所以未宣,民疾所以未瘳者,職此故也。」御史唐介坐言事貶春州,舉正力言之,介得徙英州。居半歲,堯佐復為宣徽使,家居凡七上疏。及狄青為樞密使,又言青出兵伍不可為執政,力爭不能奪,因請解言職。帝稱其得風憲體,遣賜就第,賜白金三百兩,除觀文殿學士、禮部尚書、知河南府,入兼翰林侍讀學士。每進讀及前代治亂之際,必再三諷諭。

太子少傅をもって致仕し、卒去した。太子太保を追贈され、諡は安簡、黄金百両を賜った。文章は雅正で温厚、その人となりの如く、『平山集』・『中書制集』・『内制集』五十巻がある。

原文以太子少傅致仕,卒,贈太子太保,諡安簡,賜黃金百兩。文章雅厚如其為人,有《平山集》、《中書制集》、《內制集》五十卷。

子に挙元あり。

原文子 舉元

挙元は、字を懿臣といい、上書の文章により進士出身を賜った。潮州知事となり、江水が堤防を破壊し、盗賊が隙に乗じて窃発した。挙正は夜に里の豪族を召して事を計り、盗賊を捕らえた後、堤防を修築した。河陰発運判官となり、ある者が大河が決壊して京師を犯すであろうと言ったが、挙元はちょうど入対しており、地形を詳しく論じてその妄りであることを証し、後に果たしてその通りであった。郡牧・戸部判官・京東転運使を歴任した。沙門島には流人が多く、守吏は賄賂を顧みて、密かに彼らを殺した。挙元は監を立てて賞罰を較べることを請うた。これにより全活する者が多かった。淮南・河東に移った。夏人が屈野の地を争いに来た。挙元は数騎を従えて河を渡り、幕を設けて彼らと議し、赤心を示した。夏人は感服した。

原文舉元,字懿臣,以上文章賜進士出身。知潮州,江水敗堤,盜乘間竊發,舉元夜召里豪計事,盜既獲,乃治堤。為河陰發運判官,或言大河決,將犯京師,舉元適入對,具論地形證其妄,已而果然。歷郡牧、戶部判官、京東轉運使。沙門島多流人,守吏顧貨橐,陰殺之。舉元請立監以較賞罰,自是全活者眾。徙淮南、河東。夏人來爭屈野地,舉元從數騎度河,設幕與之議,示以赤心,夏人感服。

治平年間、また成都に移った。邙井の塩の歳入は二百五十万であったが、丹棱の卓箇に侵され、積んで売れなかった。禁令を下して止めさせると、塩の収入は旧に復した。提挙在京修造に召され、英宗は労って言った、「官舎が水害を受け、僅かに存するのみである。卿は公家に心を究め、その労を憚るな」。まもなく塩鉄副使に進み、天章閣待制に拝され、滄州知事となり、河北都転運使に改められ、永興軍知事となった。慶人・夏人が境上に屯し、我が国を窺う意図があった。挙元は二人の裨将に千騎をもってその要害を扼させた。長安ちょうあんから従事が派遣され涇原で兵を会しようとしたが、軽挙を戒めた。大将の竇舜卿は鋭意出撃を請うたが、聞き入れなかった。挙元は言った、「三日を過ぎず、虜は去るであろう」。期日になると果たして去った。神宗が細札をもって攻守の策を諮問した。挙元は官を省き戍を減らし、備えを増やして兵を去らせ、亭障を営まないよう請うた。輿論と合わず、そこで病を引いて職務の解除を求め、陳州に移ったが、赴任せずに卒去した。官は給事中に至り、六十二歳。子に詔あり。

原文治平中,又徙成都。邙井鹽歲入二百五十萬,為丹棱卓箇所侵,積不售,下令止之,鹽登於舊。召提舉在京修造,英宗勞之曰:「官廬舍害於水,僅有存者,卿究心公家,毋憚其勞。」俄進鹽鐵副使,拜天章閣待制,知滄州,改河北都轉運使,知永興軍。慶人、夏人屯境上,有窺我意,舉元使二裨將以千騎扼其要害。長安遣從事來會兵涇原,戒勿輕舉。大將竇舜卿銳意請行,不聽。舉元曰:「不過三日,虜去矣。」至期果去。神宗以細劄諮攻守策,舉元請省官減戍,益備去兵,勿營亭障。輿論不合,遂引疾求解,徙陳州,未行而卒。官至給事中,年六十二。子詔。

孫に詔あり。

原文孫 詔

詔は、字を景献といい、蔭補により官に補され、広信軍の通判、博州知事となった。魏の地の風俗は椎埋・劫掠を尚び、姦盗が互いに嚢橐(庇い合う)していた。詔は反告殺および贖罪の法を開くことを請い、その徒党を離間させた。元祐初年、朝廷で回河の議が起こり、未決のうちに開河の役が急に興された。詔は言った、「河朔は秋の長雨で、水が溢れて災害となり、民人は流離し、倉を開いて賑済する恩恵により、かろうじてその生を蘇らせている。安んずべきであり、力役をもって傷つけるべきではない」。これに従った。開封府推官に抜擢された。富民が後に絶えた僧牒を借りて緡銭三十万とし、期限が過ぎてさらに倍額の納入を責め、身が死んで資産が没収され、さらにその妻子を拘禁した。詔はこれを免除するよう請うた。滑州に出向した。州の属県に退灘百余頃があり、毎年民を徴発して草を刈らせ河堤に供給していたが、民はその役を苦しんでいた。詔は人を募ってこれを佃作させ、その余剰を収めた。度支郎中となり、契丹に使いした。当時ちょうど西夏を討伐しており、出迎える者耶律誠が我が国を試そうとして言った、「河西(西夏)が礼を失しているが、大国はこれを容れることができようか」。詔は言った、「夏人が辺境を侮ったので、既にその罪を正した。どうして両朝の和好事に干渉することがあろうか」。入賀の際、故事では跪いて飲むが、誤って拝礼した者があったため、詔に強要した。詔は言った、「南北百年、守る所は礼である。どうして紛更できようか」。ついに跪いて飲んだ。

原文詔,字景獻,用蔭補官,通判廣信軍事,知博州。魏俗尚椎剽,姦盜相囊橐,詔請開反告殺並贖罪法,以攜其黨。元祐初,朝廷起回河之議,未決,而開河之役遽興。詔言:「河朔秋潦,水淫為災,民人流徙,賴發廩振贍恩,稍蘇其生,謂宜安之,未可以力役傷也。」從之。擢開封府推官。富民貸後絕僧牒為緡錢三十萬,逾期復責倍輸,身死貲籍,又錮其妻子,詔請免之。出為滑州,州屬縣有退灘百餘頃,歲調民刈草給河堤,民病其役,詔募人佃之,而收其餘。為度支郎中,使契丹,時方討西夏,迓者耶律誠欲嘗我,言曰:「河西無禮,大國能容之乎?」詔曰:「夏人侮邊,既正其罪矣,何預兩朝和好事?」入賀,故事,跪而飲,蓋有誤拜者,乃強詔,詔曰:「南北百年,所守者禮,其可紛更耶?」卒跪飲之。

崇寧年間、大理少卿より卿に進み、司農に転じた。御史が、詔が滁州に在った時に蘇軾に『酔翁亭碑』の書を請うたことを論じ、崇福宮の主管を罷免された。まもなく汝州の知州となり、鋳銭の卒が大校を罵ったので、詔は斬って示しにし、上章して罪を待った。直秘閣を除され、言事者がまた滁州の事を抉って、罷免されて去った。起用されて深州・兗州の二州の知州となり、同州に転じ、闕下を過ぎる時、留められて左司郎中となり、衛尉・太府卿・刑部侍郎に遷り、勅令を詳定した。旧来、緋紫を借りる者は魚袋を佩ばなかったが、詔は言う、「章服は上下を弁ずる所以である。今、胥吏と異ならず」と。そこで皆魚袋を佩くようになった。工部・兵部・戸部の三部侍郎を歴任し、開封尹に転じた。時に子の璹が京西に使いし、洛の尹を摂った。父子が両京に相望み、人は栄えと為した。

原文崇寧中,由大理少卿為卿,徙司農。御史論詔在滁日請蘇軾書《醉翁亭碑》,罷主崇福宮。旋知汝州,鑄錢卒罵大校,詔斬以徇,而上章待罪。除直秘閣,言者復抉滁州事,罷去。起知深、兗二州,徙同州,過闕,留為左司郎中,遷衛尉、太府卿、刑部侍郎,詳定敕令。舊借緋紫者不佩魚,詔言:「章服所以辨上下,今與胥吏不異。」遂皆佩魚。歷工、兵、戶三部侍郎,轉開封尹。時子璹使京西,攝尹洛。父子兩京相望,人以為榮。

刑部尚書に進み、延康殿学士を拝し、上清宝籙宮を提挙し、また工部尚書となった。徽宗はその老を憐れみ、拝礼せぬよう命じたが、詔は惶恐し、ここにただ朔望に朝するのみとなった。やがて銀青光禄大夫をもって致仕し、卒す。年七十九。

原文進刑部尚書,拜延康殿學士,提舉上清寶籙宮,復為工部尚書。徽宗閔其老,命毋拜,詔惶恐,於是但朝朔望。俄以銀青光祿大夫致仕,卒,年七十九。

論じて曰く、昔より大政に参じ、機務を賛するは、明敏特達の士でなければ、その任に勝つことができない。もしまた文雅を飾り、治具をもって済せば、則ち尽善である。若水は機鑑明敏にして、儒にして兵を知り、李至は剛厳簡重にして、古を好み博雅なり、その柄用に宜しきは当然である。王沔は事に臨み精密にして、私謁を遠ざけることができたが、考課の議は頗る苛刻を傷つけ、仲甫は吏事をもって時に用いられ、苟容の誚を免れず、瑕瑜固より相い掩わず。仲舒は蒙正に挙げられて、反ってその短を攻め、易簡は光逢を周恤することができずして、これを死地に置く、その郭贄が曹彬の誣を弁じ、化基が禹錫の枉を伸べたるに同日に語るべからざるは明らかである。この純厚長者の称が、所以に独り二子に帰するか。挙正は台佐を継ぎ践み、風憲の体を得、挙元は辺郡に職を任じ、持重の称あり。況んや詔の父子は又並びて両京を尹し、よくその美を済せり、何ぞ王氏の子孫の多賢なるや。

原文論曰:自昔參大政、贊機務,非明敏特達之士,不能勝其任。若又飭以文雅,濟以治具,則盡善矣。若水機鑒明敏,儒而知兵;李至剛嚴簡重,好古博雅,其於柄用宜矣。王沔臨事精密,能遠私謁,而考課之議,頗傷苛刻;仲甫以吏事為時用,未免苟容之誚,瑕瑜固不相掩也。仲舒見舉於蒙正,而反攻其短;易簡不能周恤光逢,而置之死地,其不可與郭贄辨曹彬之誣、化基伸禹錫之枉同日而語也明矣。此純厚長者之稱,所以獨歸於二子歟!舉正繼踐臺佐,得風憲體;舉元任職邊郡,有持重稱。矧詔之父子又並尹兩京,克濟其美,何王氏子孫之多賢也!