宋史

列傳第二十五 錢若水 蘇易簡 郭贄 李至 辛仲甫 王沔 温仲舒 王化基

錢若水

若水は幼くして聡明で悟りが早く、十歳にして文章を綴ることができた。華山の陳摶がこれを見て、言うには、「あなたは神気が清らかで、道を学ぶことができる。そうでなければ富貴を得るが、ただあまりに速すぎることを忌むべきである」と。雍熙年間に進士に挙げられ、同州観察推官として官途に就き、訴訟の裁決は明らかで公正であり、郡の治めはこれに頼った。淳化初年、寇準が選挙を掌り、若水及び王扶・程肅・陳充・錢熙の五人の文学高第を推薦し、翰林で召試すると、若水が最も優れ、秘書丞・直史館に抜擢された。一年余りして、右正言・知制誥に遷った。時に理検院を乾元門外に設置し、若水にこれを領せしめた。まもなく同知貢挙となり、屯田員外郎を加えられた。詔して原州・塩州などに赴き辺境の事を制置し、還って奏上するとその旨に合い、翌日、職方員外郎・翰林学士に改められ、張洎とともに任命された。まもなく審官院・銀臺通進封駁司を知った。かつて趙保忠に賜る詔を起草し、次のように記した。「継遷を斬らざれば狡兎の三穴を開き、光嗣を潜かに疑えば首鼠の両端を持す」。太宗は大いに適切であると認めた。

至道初年、右諫議大夫として同知枢密院事となった。真宗が即位すると、工部侍郎を加えられた。数か月後、母が年老いていることを理由に上章し、機務を解くことを請うたが、詔して許さなかった。若水の請いがますます堅くなったので、遂に本官のまま集賢院学士・判院事を充てた。まもなく詔して『太宗実録』を修めさせ、若水は柴成務・宗度・呉淑・楊億を引き入れて同修し、八十巻を成した。真宗は書を覧て涙を流し、賞賜を差等をつけて与えた。

初め、太宗は飼い犬を大変馴らしており、常に乗輿の左右にいた。崩御すると、悲しんで鳴き食を絶ち、永熙陵の寢に送られた。李至はかつてこの事を詠じ、若水にこれを書いて浮薄な俗を戒めさせようとしたが、若水は従わなかった。呂端は監修であったが、局に臨まなかったため署名できず、至はその事を抉って専美であるとした。若水は詔旨及び唐朝の故事を称えてこれを論破し、当時の議論も奪うことができなかった。その後また『太祖実録』を重修し、王禹偁・李宗諤・梁顥・趙安仁を参じ、一年を経ずして完了した。安仁は当時宗正卿であり、上言して夔王は太宗の属において兄とすべきであるのに、『実録』の記すところは誤りであるとした。若水は国初の詔令を援用し、廷諍を数四重ねてようやく定まった。

まもなく吏部流内銓を判じた。大名に従幸し、若水は敵を防ぎ辺境を安んずる策を陳べ、次のように述べた。

「孫武は書を著し、謀を伐つことを主とし、漢高は将を将うるに法を用いることを先とした。謀を伐つとは、将帥がよく敵を料り勝を制することであり、法を用いるとは、朝廷がよく賞罰を私せずに行うことである。今、傅潜が雄師数万を領しながら、門を閉じて出ず、坐視して辺寇が生民を俘掠するに任せ、上は委注の恩に孤ならしめ、下は鋭師の気を挫く。蓋し潜の輩は勝を制することができず、朝廷が法を用いてこれを行わせることができなかったからである。軍法に、陣に臨んで命を用いざる者は斬るとある。今もし潜を斬って衆に示し、その後楊延朗・楊嗣の如き者五、七人を抜擢し、その爵秩を増し、兵権を分けて授け、万人を将とし、間に強弩を以てし、分路して討ち除かせれば、孰か敢えて命を用いざらんや。敵人は我が将帥が命を用いず、退けば死あることを聞けば、豈に遁走を思うのみならず、また来年も敢えて辺境を犯さざるであろう。かくの如くすれば坐して辺塞を清めることができ、その後鑾輅を還して京に至らしめ、天威を四海に慴せしめることができる。

臣は嘗て前史を読みしに、周世宗が即位の初め、劉崇が敵と結んで入寇し、敵はその将楊衮に騎兵数万を領せしめ、崇に随って高平に至った。当時、懦将の樊愛能・何徽らが敵に臨んで戦わず、世宗は大いに宴会を設け、愛能らを斬り、偏将十余人を抜擢し、兵を分けて太原を撃たしめた。劉崇はこれを聞き、股慄して出でず、即日遁走した。ここより兵威大いに振るう。その後、淮甸を収め、秦・鳳を下し、関南を平らげるは、特なる席卷の如し。陛下の神武を以てすれば、豈に世宗に譲らんや。これ今日の敵を防ぐ奇策である。

若し将来の辺境を安んずる術を論ずれば、近き事を以て言うを請う。太祖朝の制置は最もその宜しきを得たり。ただ郭進を邢州に、李漢超を関南に、何継筠を鎮定に、賀惟忠を易州に、李謙溥を隰州に、姚内斌を慶州に、董遵誨を通遠軍に、王彦昇を原州に置き、ただ縁辺巡検の名を授け、行営部署の号を加えず、率ね皆十余年その任を易えざりき。辺功を立てる者には厚く賞賚を加え、その位は皆観察使に至らず。蓋し位高からざれば朝廷制し易く、任易えざれば辺事尽く知る。然る後に聖謀を授け、来れば掩殺し、去れば追わず。これをもって十七年中、北辺・西蕃は敢えて塞を犯さず、以て屡々使いをして乞和せしむるに至りしは、これ皆陛下の知る所なり。苟くも能く太祖の故事に遵い、名臣を慎選して辺郡を分理し、部署の号を罷めて相統轄せしめず、巡検の名を置いて互いに救応せしむれば、かくの如くすれば出でては必ず寇を撃ち、入りては城を守り、数年を経ずして、辺烽の警めを罷むるに至らしむべし。」

まもなく開封府を知った。時に北辺未だ寧からず、内より手札を出して若水に策を訪ねた。若水は辺備の要として五つを陳べた。一には郡守を択ぶこと、二には郷兵を募ること、三には芻粟を積むこと、四には将帥を革めること、五には賞罰を明らかにすること。

「何を郡守を択ぶというや。今の患う所は、戦守心を同じくせざるに患う。願わくは陛下、沈厚にして謀有り辺事に諳んずる者を選び、辺郡の刺史に任じ、兼ねて縁辺巡検と為し、勇敢の士を召して随身部曲と為すを許し、廩贍充たざれば官をして支給せしめよ。然る後に亭障を厳にし、斥候を明らかにし、毎に事の宜を得れば密かに相報示せしめよ。寇来れば互いに救応し、斉しく出でて討ち除き、寇去れば遠く追わしめず、各々安静を務めしめよ。苟くも大過無ければ替移を為さず、儻いや微功を立てば就いて爵賞を加えよ。かくの如くすれば戦守必ず能く心を同じくし、敵人は敢えて塞に近づかざるべし。

何を郷兵を募るというや。今の患う所は、敵情を知らざるに患う。願わくは詔して逐州の沿辺の民を招收軍と為し、糧賜を与え、その賦租を蠲免せよ。彼の両地の中、各々親族有り、これに恵みを懐かしめ、来たりて腹心を布かしめよ。彼若し兵を挙ぐれば、此必ず預め知る。苟くも能く預め知れば、則ち百戦百勝す。

何を芻粟を積むというや。今の患う所は、民力を困するに患う。願わくは陛下、縁辺に各々広く営田せしめ、州郡の長官にその使額を兼ねさせ、毎歳秋夏、その課程を較べ、鼓旗を立ててこれを斉えしめ、賞罰を行いてこれを勧めよ。なお商人をして粟を縁辺に入るるを縦せよ。儻いや鎮戍に三年の備え有らば、則ち敵人は敢えて動かざるべし。

何を将帥を革めるというや。今の患う所は、重兵外に居り、軽兵内に居るに患う。去歳、傅潜は八万騎を以て中山に屯し、魏・博の間の鎮兵全く少なく、鑾輅親征に非ざれば、則ち城邑危うきに至らん。願わくは陛下、将臣を慎選して河北の近鎮に任じ、なお旧事に依りて辺兵を節制せしめ、未だ部署の名を削ぐ能わざれば、行営の号を且く減ずるを望む。警有れば則ち暫く辺徼を巡り、事無ければ則ち却って旧藩に復せよ。豈に戎心を啓くのみならず、況んや復た労を待ちて逸を以てす。かくの如くすれば辺備の要を失わず、また兵を挙ぐるの名無く、且つ重兵を一処に屯せず、進退動静、施すこと不可なる無し。

何を以て賞罰を明らかにするというか。今の患は、患うに戎卒の驕惰に在り。臣が知府に任ぜられて以来、侍衛・殿前の両司が辺上に送り届けた亡命軍卒を見るに、人数甚だ多し。臣試みにこれを訊ねれば、皆親を思うを以て言と為す。これは蓋し令の厳しからざるによるなり。平時すら尚お敢えてかくの如くす、況んや大敵に臨むにおいてをや。願わくは陛下、この言を以て将帥に示し、俾く厳に号令を申し、以てその下を警めしめよ。古人云う、『賞もて勧めざるは、これを善を止むと謂う。罰もて懲めざるは、これを悪を縦すと謂う』と。又曰く、『法は移すべからず、令は違うべからず』と。臣嘗て聞く、郭進西山に出鎮せし時、太祖は毎に戍卒を遣わすに、必ずこれを諭して曰く、『汝等謹んで法を奉ぜよ。我すら猶お汝を赦すとも、郭進は汝を殺さん』と。その仮借することかくの如し、故に郭進の至る所、未だ嘗て少しく衄ぐること無し。陛下能く前日の事を鑒とせば、即ち今日の元龜なり。」

若水また言う、「辺部の兵を用うるは、唯だ太白と月とを視て進退とする者は、誠に太白は将軍なり、星辰は廷尉なればなり。合すれば則ち戦有り、合せざれば則ち戦無し。東に合すれば則ち主勝ち、西に合すれば則ち客勝つ。陛下臣の言を用いて謹んで辺備を為さば、則ち辺部は召さずして自ら来らん。太祖臨御十七年の間、未だ嘗て事を疆埸に生ぜずして、而して敵人は往々にして使を遣わし和を乞う者は、その任用に人を得て備禦に方有るを以てなり。陛下苟くも兵は凶器、戦は危事なるを思い、而して太阿を倒持して柄を人に授けざれば、則ち四夷に守りて常に静勝を獲ん。これ備禦の上策なり。」

未だ幾ばくもせず、出でて天雄軍を知り兵馬部署を兼ぬ。時に言事者綏州に城し、兵を屯し穀を積みて以て党項に備えんことを請う。辺城互いに利害を言い、前後数輩の使を遣わし按視するも、決すること能わず。時に已に大いに丁夫を発し、将にその役を興えんとす。詔して若水をして大名より馳せ往きてこれを視しむ。若水上言す、「綏州は頃年内たりしも、民賦登集するも、尚お旁郡の転餉を須う。地を趙保忠に賜う以来、人戸凋残す。若し復たこれを城せば、即ち戍を増すを須う。芻糧の給は、全く河東に仰ぐ。その地は黄河・鉄碣の二山を隔て越え、無定河その城下に在り。緩急兵を用うるに、輸送艱阻なり。且つその地険にして、若し未だ葺ぎ未だ完からざれば、辺寇奔衝し、固守に難し。況んや城邑焚毀し、片瓦も存せず、過ぐる所の山林、材木匱乏す。これを城するは甚だ労多く、その利を見ざるなり。」復た闕に詣でて面しくその事を陳ぶ。上嘉納し、遂に役を罷む。初め、若水衆を率いて河を過ぐるに、軍伍を分布し、咸に節制有り、深く戍将に推服せらる。上左右に謂いて曰く、「若水は儒臣の中に兵を知る者なり。」と。是の秋、また遣わして陝西縁辺の諸郡を巡撫せしめ、便宜に辺事を制置せしむ。還りて鄧州観察使・幷代経略使・幷州事知に拝す。

六年春、疾に因りて両足を灸す。創潰えて血数斗を出だし、ここより体貌羸瘵す。手詔を以てこれを慰労し、俾く京師に帰らしむ。数月にして始めて朝謁に赴く。因りて僚友と僧舎に会食し、仮寝して卒す。年四十四。戸部尚書を贈り、その母に白金五百両を賜う。子延年、甫七歳、太常奉礼郎に録す。

若水は風神美くしく、器識有り、能く大事を断つ。継母に事うるに孝を以て聞こゆ。雅に談論を善くし、尤も財を軽んじ施すを好む。至る所誠を推して物に待ち、僚佐を委任し、その綱領を総べ、治まらざること無し。後進を汲引し、賢を推し士を重んじ、襟度豁如たり。術数に精しく、年寿永からざるを知り、故に懇ろに権位を避く。その死するや、士君子尤もこれを惜しむ。集二十巻有り。

兄若愚、比部員外郎。従弟若冲、大中祥符中、河陽令に調ず。僕有りて酒に酔い、これを杖すること百数。僕刀を挟み夜室中に潜み、その臂を断つ。若冲大呼す。またその幼子を害す。詔して僕をその門に磔す。真宗若水の母老ゆるを思い、使を遣わし存問し、緡・綿・羊・酒を賜う。且つ若冲に帛三十端を賜い、孟州別駕に補す。延年後ちに文を献じて賜い進士出身と為り、太常博士・集賢校理を歴任す。

蘇易簡

易簡は少くして聡悟好学、風度奇秀、才思敏贍たり。太平興国五年、弱冠を踰え、進士に挙げらる。太宗方に儒術に心を留め、貢士皆軒に臨み覆試す。易簡の試むる所三千余言立ちて就く。奏上するに、これを覧めて称賞し、甲科の冠に擢ぐ。褐を解きて将作監丞と為り、昇州を通判し、左賛善大夫に遷る。八年、右拾遺を以て知制誥と為る。雍熙初、郊祀の恩を以て秩を進め祠部員外郎と為る。二年、賈黄中と同知貢挙と為る。詔有り、凡そ親属挙に就く者は、名を籍し別に試む。易簡の妻弟崔範、父の喪を匿して貢に充つ。奏名上第に在り。又た王千里なる者は、水部員外郎孚の子、協は孚の門生たり、千里薦に預かる。上聞き、範及び千里の罪に坐す。易簡はこれに縁りて知制誥を罷め、本官を以て奉朝請と為る。未だ幾ばくもせず、復た知制誥と為る。三年、翰林学士を充つ。初め、易簡貢に充つるに、宋白貢部を掌る。ここに至るまで裁七年。易簡幼時父に随い河南にありし時、賈黄中来たりて使し、嘗てこれに属辞を教う。及ぶに是に至り、悉く同列と為る。易簡連ねて貢挙を知り、陳堯叟・孫何並びに廷試に甲と為る。

淳化元年、外艱に遭う。二年、京朝官考課を同知し、中書舎人に遷り、承旨を充つ。先ず是れ、曲宴将相するに、翰林学士皆座に預かる。梁迥太祖に啓してこれを罷む。又た皇帝丹鳳楼に御するに、翰林承旨侍従楼の西南隅に升る。礼亦た廃す。ここに至り、易簡これを請う。皆旧制に復す。易簡唐の李肇の『翰林志』二巻を継ぎて以て献ず。帝詩を賜いて以てこれを嘉す。帝嘗て軽綃に飛白を以て大書し『玉堂之署』の四字、易簡に令して庁額にこれを牓せしむ。易簡韓伾・畢士安・李至等を会して往きて観る。上聞き、中使を遣わし宴を賜うこと甚だ盛ん。至等各詩を賦してその事を紀し、宰相李昉等も亦た詩を作してこれを頌美す。他日、易簡禁中に直す。水を以て欹器を試む。上密かにこれを聞く。因りて晩朝に問いて曰く、「卿の玩ぶ所は欹器に非ざるや。」易簡曰く、「然り、江南徐邈の作る所なり。」と。命じて取りてこれを試む。易簡奏して曰く、「臣聞く、日中すれば則ち昃き、月満てば則ち虧け、器盈てば則ち覆り、物盛んなれば則ち衰うと。願わくは陛下盈ちたるを持ち成るを守り、終わりを始めの如く慎み、以て丕基を固うせば、則ち天下幸い甚だし。」

会い郊祀有り、礼儀使を充つ。先ず是れ、扈蒙宣祖を升配せんことを建議す。易簡唐の故事を引き、宣祖・太祖を以て同配せんことを請う。これに従う。審官院を知る。言う、初任の京朝官未だ嘗て州県を歴せざる者は、知州・通判に擬するを得ず。詔して可とす。審刑院を知ることを改め、俄に吏部選を掌り、給事中・参知政事に遷る。時に趙昌言も亦た参知政事たり。易簡と協わず、上前に至りて忿争す。上皆これを優容す。未だ幾ばくもせず、昌言出でて剣南に使し、中路に命じて鳳翔府を知ることを改む。明年、易簡も亦た礼部侍郎を以て出でて鄧州を知り、陳州に移る。至道二年、卒す。年三十九。礼部尚書を贈る。

易簡は外見こそ率直であったが、内には城府(深謀)を抱いていた。知制誥より学士となり、年齢は未だ三十に満たなかった。文章を属する(作る)当初は体要(文体の要諦)に通じていなかったが、誥命を掌るに及んで、自らを厳しく励ました。翰林に在ること八年、眷遇(寵遇)は同輩を遥かに絶していた。李沆は後に入ったが、易簡の下位にあり、先に参知政事となった。それゆえ易簡を承旨とし、賞賜は均しく与えられた。太宗は旧制に従い、またその名望を熟成させてから正しく台輔(宰相)にしようとしたが、易簡は親が老いているため進用を急ぎ、時政の欠失をしきりに言上したので、ついに大政に参じた。

易簡は性来酒を嗜み、初めて翰林に入った謝恩の日には既に微酔い、その他の日も多くは深く耽っていた。上はかつて深切に戒め、また草書で『勧酒』二章を書いて賜り、その母の前で読ませた。これ以来、毎日入直する時は、酒を飲まなくなった。死んだ時、上は言った。「易簡は果たして酒で死んだか。惜しいことだ。」易簡は常に居室を雅にし、筆札を善くし、特に談笑を善くし、傍ら釈典に通じていた。著した『文房四譜』、『続翰林志』及び『文集』二十巻は、秘閣に蔵された。三子あり、宿、寿、耆という。大中祥符年間、皆官をもって禄を給されたという。

郭贄

七年、本官をもって参知政事となる。曹彬が弭徳超に誣告された時、贄は極言して救解し、深く宰相趙普に重んじられた。嘗て事を論じて奏上し言った。「臣は次を超える遇を受け、愚直をもって上に報いることを誓います。」太宗が「愚直は事に何の益があるか」と言うと、贄は言った。「そうではありますが、なお奸邪に勝ります。」

間もなく、入対の際に前夜の酒が醒めていなかったため、左遷されて秘書少監・知荊南府となった。府の俗は淫祀を尚び、久しい旱魃に属して、雨乞いの具を盛大に陳列していた。贄が到着すると、命じて悉く撤去させ、江に投げ込んだ。数日も経たぬうちに大雨が降った。就いて左諫議大夫を加えられ、入朝して塩鉄使となった。当時、諸路に積み重なった滞納犯人は、死んでもなおその子孫を拘束していた。贄はこの事を条陳し、多くが免除された。籍田の礼に際し、超えて工部侍郎に拝された。淳化年中、澶州の知州となり、黄河の決壊に坐して居官を免じられた。久しくして、起用されて給事中となり、再び工部侍郎、知審官院・通進銀臺封駁司となった。

真宗が即位すると、刑部尚書に拝され、出て天雄軍の知軍となった。翌日、贄が入対し、懇ろに辞退した。上は言った。「全魏の地は、寄せる所が特に重い。卿は速やかに赴くべきである。」入朝して太常寺・吏部流内銓を判じ、集賢院学士・判院事を加えられた。河南府の知府となり、帰朝して詩を献上し自らを陳べ、吏部侍郎に進秩し、間もなく秘書監を兼ねた。

初め、真宗が未だ出閣(東宮を出て独立した府邸を持つこと)していなかった時、贄は既に経を授けており、上は嘗てその家に行ったことがあった。後に楊可法がその任を継いだが、上は輔導が贄に及ばないと思い、嘗て贄を純厚な長者と称えた。この時、秘府に在り、屡々対を賜り、旧事を詢ね訪ねられた。かつその既に老いたことを憐れみ、特に工部尚書・翰林侍読学士に拝し、詩を作って賜った。その中に「啓発冲言(謙虚な言葉)して典常(常典)をさとらす」との語があった。東封の時、礼部尚書に遷った。太宗が晋王の邸に在った時、凡そ篇詠を作ると、多くは贄に属して和させた。真宗が嘗てその賜った本を訪ねると、贄は四巻に集めて献上し、詔をもって褒賞された。大中祥符三年、卒去。七十六歳。上は旧学の故をもって、特に親しく臨んで哭し、左僕射を贈り、諡して文懿といった。その子昭度を録して大理寺丞とし、昭升・昭用を並びに大理評事とし、昭允を左賛善大夫とした。

贄は文章を属するのが敏速で、彫琢(過度な修飾)しなかった。昭度が三十巻に集めて上進すると、『文懿集』の名を賜った。性質は温和で、よく時に俊英の名誉を広めることができた。宋白は文学がありながら下位に沈んでいたが、贄が推薦引き立てたので、遂に共に誥命を掌った。趙昌言が幼少の時、一目で器とし、貢部を掌るに及んで、奏名の首位とした。後、ついに貴顕となった。贄が初めて賦を充てられて名声があった時、同郷の人が同じ籍の中にいてこれを妬み、密かに誹毀を加えた。これ以来、連続して上っても選に中らなかった。贄が再び貢挙を掌るに及んで、同郷の子が明経をもって推薦に充てられた。詔が下った日、悔いて泣きながら去った。贄はこれを聞き、その親しい者に命じて召し還し、慰め諭して挙に就かせ、遂に推薦されて及第した。しかし吝嗇で、生計を営むことに切実で、晩節は事を治めず、人はこれを以って少々軽んじた。

李至

雍熙初年、給事中を加えられた。当時、范陽親征が議論され、至は上疏して「兵は凶器、戦は危事、これを用いる道は必ず万全を務むべし。幽州は敵の右臂、王師の向かう所、彼は必ず拒んで張り、城を攻めるには数万、兵糧はその倍を要す。今日、辺境の倉庫は未だ充たず、況んや范陽の傍らは平坦で丘陵がなく、山を去ること既に遠く、石を取るは特に難し。金湯の堅固は必ず機石(投石機の石)を資する。もし備えが未だならば、願わくは暫く繕い完うすべし。威を蓄え鋭を養い、隙を観て謀を伐つ。更に一年を過ごしても、未だ遅しと為さず。必ずや聖心が独断し、必行に在らんとすれば、則ち京師は天下の本、陛下は宗廟を恭しく守り、京国を離れず、敵に閑暇を示し、億兆の仰望を慰むるは、策の上なり。大名は河朔の咽喉、或いは暫く鑾輅を駐め、自ら将たると揚言して、軍威を壮んにするは、策の中なり。若し遠く師旅を提げ、親しく辺陲に抵り、北に契丹の憂い、南に中原の慮りあらんか、則ち裾を曳くの懇切(鄒陽の諫言)、鞅を断つの狂愚(茅焦の諫言)、臣は不肖なりといえども、二賢(鄒陽・茅焦)の後に在るを恥ず」と為した。

至は眼疾のため累表して機政(枢機の政務)の解任を求め、礼部侍郎を授けられ、吏部侍郎に進秩した。

ちょうど秘閣が建てられ、秘書監を兼ねることを命じられ、三館の書を選んで閣中に置き、至にこれを総べさせた。至は毎度李昉・王化基らと閣下で書を観ると、上は必ず使者を遣わして宴を賜り、かつ三館の学士を皆参与させた。この時、秘閣を昇格させ、三館の次位としたのは、至の請いに従ったのである。上は嘗て秘閣に臨幸し、草書の『千字文』を出して賜った。至がこれを石に刻もうとすると、上は言った。「『千文』は梁の武帝が破碑の鍾繇の書を得て、周興嗣に命じて韻を次いで成したもので、理として取るに足るものはない。もし教化に資するものがあれば、『孝経』に若くはない。」乃ち書いて至に賜った。潘慎修・舒雅・杜鎬・吳淑らを推薦して直館校理に充てた。亡失した書の購求を請い、間に新書を奏上する度に、必ず便座に延引して接見し、恩礼は甚だ厚かった。淳化五年、国子監を兼判した。至上言して「『五経』の書疏は既に板行されているが、唯二『伝』(春秋左氏伝・公羊伝)、二『礼』(周礼・儀礼)、『孝経』、『論語』、『爾雅』の七経の疏が未だ備わっていない。仁君が訓を垂れる意に副うべきか。今、直講の崔頤正・孫奭・崔偓佺は皆励精強学し、経義に博通している。望むらくは重ねて讎校させ、刊刻に備えしめられたい。」従われた。後、また吳淑・舒雅・杜鎬を引きいて訛謬を検正させ、至と李沆が総領してこれを裁処した。

至道の初め、真宗が初めて儲位に正されると、李至は李沆と共に賓客を兼ね、詔して太子は師傅の礼をもって事えしめ、真宗は毎回必ず先に拝礼し、李至らが上表して礼に当たるべからざるを奏す。詔答して曰く、「朕は古訓を旁稽し、承華を肇建し、端良を選び用い、輔導に資す。卿の宿望を借り、護調に委ね、蓋し謙冲を勖めんと将するが故に、乃ち其の礼数を異にす。当仁の譲を飾ること勿れ、予が子を知るの心に副えよ。」李至ら相率いて謝す。太宗これに謂いて曰く、「太子は賢明仁孝にして、国本固し。卿等は心を尽くして規誨すべし、若し動くこと皆礼に由らば、則ち宜しく賛助すべく、事に未だ当たらざる有らば、必ず力を言わねばならぬ。『礼』・『楽』・『詩』・『書』に至りては、義に裨益すべき有るは、皆卿等の素習する所、朕の言諭を仮るまじ。」

真宗即位し、工部尚書・参知政事を拝す。一日、上霊武の事を訪う。李至上疏して曰く、「河湟の地は、夷夏雑居す、是を以て先王は之を度外に置く。継遷は異類、疆埸を騒動す、然れども臍を然らすも其の患を弭ぐに足らず、髪を擢げても其の罪を数うるに足らず。然れども聖人の道は、務めて己を屈し垢を含みて以て億民を安んず、蓋し損ずる所は小、益す所は大なり。陛下の元元を念うを望み、巨憝を介意せざらんことを。彼の脅従も亦兵を厭うこと久しきを料る、苟も朝廷之を捨てて問わず、厚利を以て啖い、重爵を以て縻すれば、安んぞ肯て迷いて復せず、淪胥に訖らんや。昨鄭文宝青塩を絶ち、使いて漢界に入らず、粒食を禁じ使いて羌夷に及ばず、致して彼に詞有り、而して我に謂無し、此の失策、悔ゆると雖も何ぞ追わん。今若し復た禁止して糧を通ずるを許さずんば、恐らくは敵を制し遠方を懐ける、戦わずして人を屈するの意に非ざらん。昔唐代宗は田承嗣を罪すと雖も魏塩を禁ぜず、陛下は宜しく此の事を行い、以て辺鄙を安んずべし。其の族類に有無交易有らしめ、塩を售して以て之を利し、糧を通じて以て之を済わしめば、彼は遠夷と雖も、必ず向化し、互いに誥諭せん。一旦恩を懐き、逆を捨て順に効せば、則ち継遷の豎子は孤にして輔無く、又安んぞ能く我が蜂蠆たらんや。今霊州は棄つべからずとす、独り臣の愚以為う所然りと為すのみに非ず、若し朔方軍の額を環州に移すも、亦一時の権なり。或いは霊州を指して咽喉の地、西北の要衝と為し、安んぞ之を棄てて以て敵の有と為さん、此れ不智の甚だしき、臣の敢て知る所に非ず。」後に霊武は卒く守る能わず。

咸平元年、目疾を以て政柄を解くを求め、武信軍節度を授けられ、節制に入り辞すも、允されず。居ること二年、河南府を知るに徙す。四年、病を以て本鎮に帰るを求め、之を許す。詔甫下りて卒す、年五十五。侍中を贈り、詔して其の子惟良・惟允・惟熙等に奉終の制を給す。

李至嘗て徐鉉に師事し、手ずから鉉及び其の弟鍇の集を写し、幾案に置く。又た『五君詠』を賦し、鉉及び李昉・石熙載・王祐・李穆の為に作るなり。李至は剛厳簡重にして、人士其の門に登ること罕なり。性吝嗇なり。幼く知審に育たれ、貴に及びて、即ち其の養子を逐いて以て其の資を利す。知審は李至に因りて亦た右金吾衛大将軍に至る。

辛仲甫

太祖命を受く、崇を以て監軍と為す。陳思誨密かに崇に奸状有るを奏す、上怒り且つ疑い、中使を遣わし馳せ往きて之を験せしむ。未だ至らざるに、崇憂懣して拠所を失い、賓佐に謂いて曰く、「苟も人主察せずんば、之を奈何せん。」皆愕然として相視る。仲甫曰く、「皇帝運を膺け、公首めて節を効し、軍民の処置、率ね常度に循い、且つ何を以て辞を加えん。第に使者を遠く偵し、僚属を率いて郊迎の礼を尽くし、彼の伺察を聴けば、久しきに当たり自ら弁ぜん。」崇其の言の如くす。使者至り、崇に他意無きを視て、還り奏す、上大いに喜び、罪を思誨に帰す。仲甫又た崇に随いて平盧軍節度判官と為る。崇卒し、鄆・齊觀察判官に改め、累ね冤枉を雪ぐ。

乾徳五年、入りて右補闕を拝し、出でて光州を知る。州に横河有りて城と直し、会う霖潦暴疾し、水溢れて廬舎を潰す。仲甫船数百艘を集め、軍資民儲、皆之に頼りて済わす。六年、彭州を知るに移す。州卒営兵及び諸屯戍を誘い、謀りて長春節宴集の日を以て乱を為さんとす。春初に属し、仲甫城を出でて巡視し、壕中に草深きを見、意に伏を蔵すべしとし、命じて之を焼薙せしむ。凶党謀の泄るるを疑い、自首する者有り、百余り人を擒え、尽く之を斬る。先ず是れ州に種樹少なく、暑に休む所無し、仲甫民に課して柳を栽え行路に蔭らしめ、郡人之を徳し、名づけて『補闕柳』と為す。太祖群臣に文武兼資の者を誰ぞと問う、趙普仲甫を以て対す。益州兵馬都監に徙し、代わり還り、選ばれて三司戸部判官と為る。

太平興国初、起居舎人に遷り、契丹に奉使す。遼主問う、「党進は何如なる人ぞ。進の比の如き者幾何有るや。」仲甫曰く、「国家名将輩出し、進の如きは鷹犬の材のみ、何ぞ道うるに足らんや。」遼主之を留めんと欲す、仲甫曰く、「信は以て命を成し、義は留まるべからず、死有るのみ。」遼主竟に之を屈する能わず。使い還り、刑部郎中を以て成都府を知る。既に至り、歳輸銅錢を免ずるを奏し、榷酤を罷め、政は寛簡を尚び、蜀人之を安んず。八年、右諫議大夫を加う。時に彭州盗賊連結して害を為し、詔捕えしも未だ獲ず。仲甫誘いて令し自ら縛りて吏に詣らしむる者凡そ百余り人、余り因りて散去す。

九年、入りて開封府を知り、御史中丞を拝す。雍熙二年、給事中・参知政事を拝す。端拱中、戸部侍郎に進む。時に呂蒙正は長厚を以て相位に居り、王沔は事を任じ、仲甫は其の間に従容するのみ。淳化二年、足疾を以て罷められ工部尚書と為り、出でて陳州を知る。代わり帰り、会う蜀に寇有り、仲甫素より恩信著しきを以て、将に輿疾して招撫せしめんとす、疾を以て未だ行かず。未だ幾ばくも無く、太子少保を以て致仕す。真宗即位し、太子少傅を加う。咸平三年、卒す、年七十四、太子太保を贈る。子若冲・若虚・若蒙・若済・若渝、皆其の官に能くす。孫有孚・有隣、倶に進士に中る。

王沔

淳化初、宰相趙普西洛を出守す。呂蒙正は寛簡を以て自ら任じ、政事多く沔に決す、沔は張斉賢と同く枢務を掌り、頗る叶わず。斉賢出でて代州を知り、沔遂に副使と為り、政事に参預す。陳恕は苛察を好み、亦た嘗て沔と忤う。淳化二年、斉賢及び恕参知政事と為り、沔自ら安からず、僚属に中書旧事を以て斉賢等に告ぐる有らんことを慮り、会う左司諫王禹偁上言す、「今より宰相及び枢密使は本庁に於いて客を見ること得ず、都堂に於いて延接するを許すべし。」沔喜び、即ち奏して之を行わしむ。直史館謝泌以為う、此の如くは是れ大臣を疑いて以て私と為すなりと、疏を以て之を駁す。太宗前詔を追還し、沔及び恕是に因りて罷められ本官を守る。翌日、蒙正亦た罷む。沔上に見え、涕泣し、左右を離るるを願わず。未だ幾ばくも無く、鬚鬢皆白し。会う省吏事発し、中書に連なり、因りて奏毀する者有り。上毀する者に語りて曰く、「呂蒙正は大臣の体有り、王沔は甚だ明敏なり。」毀する者慚じて止む。

三年、帝は官吏の昇降を行わんと欲し、沔に謝泌・王仲華と共に京朝官の考課を同知せしむ。沔上言す、京朝官の殿犯に応ずる者は、刑部に条報せしめ、贓罪及び公私の罪を以て三等に分ちて聞こえしむべしと。立法苛察にして、是を以て再び用いられんことを求めんとす。命を受けてはじめて旬日、方に視事せんとするに、暴疾に卒す。年四十三。工部尚書を贈られる。

沔は聡察敏弁にして、時に適う用あり、上前に事を言うに、能く委曲を敷繹す。毎に御前に対して試みる進士の辞賦を読み、音吐明暢にして、経読する者多く高第にあたる。性苛刻にして、誠信少なし。機務を掌る日、凡そ謁見する者には必ず甘言を以てみ、皆喜んで過望す。既にして進退允まことならず、人胥みな之を怨む。

沔の弟淮は、太平興国五年の進士、殿中丞に任ず。嘗て香薬榷易院を掌り、贓に坐して棄市に当たるを論ぜらる。沔の故を以て、詔して杖一百に降し、定遠主簿に降す。沔は是を以て頻りに寇準のそしる所と為る。

溫仲舒

淳化二年、右諫議大夫・枢密副使に拝し、同知枢密院事に改む。四年、罷めて秦州を知る。先ず是れ、俗羌・戎にまじわり、両馬家・朵蔵・梟波等の部有り。唐末以来、渭河の南、大洛・小洛門の砦に居り、良木を多く産するも、其の占拠する所と為る。歳に卒を調ととのえて采伐し京師に給すに、必ず資を以て羌戸に道をす。然れども攘奪を免れず、甚だしきに至りては殺掠し、平民の患と為る。仲舒至り、兵をして諸砦を歴按し、其の酋に威信を以て諭す。諸部地を献じて内属す。既にして悉く其の部落を渭北に徙し、堡砦を立てて之を限る。民其の恵を感じ、画像をつくりて之を祠る。会に仲舒の事を生ずる者有りと言う。上近臣に謂いて曰く、「仲舒嘗て機密の職を総べ、吾が左右に在りて、当に綏懐を以て務とすべし。古伊・洛の間、尚お羌・渾雑居す。況んや此の羌部内属し、素より渭南に居り、土着已久し。一旦意にほしいままに斥逐せば、或いは騒動に至り、又吾が関右の民を煩わす。」乃ち鳳翔を知る薛惟吉に命じ、仲舒とむかい其の任を易えしむ。連ねて興元・江陵二府を知り、給事中を加う。会に内侍藍継宗秦州に使いして還り、地を得ること甚だ利あるを言う。乃ち仲舒を召し、戸部侍郎に拝し、尋いで参知政事に参ず。二砦後ち内地と為り、歳に巨木の利を獲る。

咸平初、礼部尚書に拝し、政を罷め、出でて河陽を知る。年をえて、開封府を知る。五年、京府の務劇むごを以て罷めを求め、遂に本官を以て御史中丞を兼ね、尋いで刑部尚書に遷り天雄軍を知り、河南に徙す。景德中、幷州守を缺く。上北門の重鎮は須らく大臣の鎮撫するを以てすとし、張斉賢・溫仲舒に非ざれば可からずとし、宰相に旨を諭さしむ。皆往くを願わず。未だばからず、復た審官院を知る。大中祥符中、秩を進めて戸部尚書と為す。三年、昭文館大学士を判ず。命下りて卒す。年六十七。左僕射を贈られ、諡して恭肅と曰う。

仲舒は応務に敏なり。少くして呂蒙正と契厚く、又同く第に登る。仲舒累年黜廢す。蒙正中書に居り、極力援引す。及び任用せられ、反って蒙正を攻む。士論之を薄しむ。正言より貳枢密に至るまで、皆寇準と同く進み、時人之を『温寇』と謂う。子嗣宗・嗣良・嗣先・嗣立。仲舒既に卒す。帝其の孤弱をあわれみ、並びに官を以て禄す。

王化基

化基嘗て范滂の為人を慕い、『澄清略』を献じ、時事を言うこと五有り。

其一、尚書省を復す。曰く、「国家制を立つるは、動く必ず天にのっとる。尚書省は上玄象に応じ、紫垣に対臨す。故に六卿は喉舌の官に擬し、郎吏は星辰の位に応ず。斯れ実に乾文の昭著、故事の具明なるなり。方今の省署は、名実未だ称せず。夫れ三司使の額は、乃ち近代の権制なり。判官・推官・勾院・開拆・磨勘・憑由・理欠・孔目・勾押・前後行は、皆州郡吏局の名なり。請う、三司を廃し、止だ尚書省に於いて六尚書を設け其事を分掌せしめ、判官・推官を廃し、郎官を設けて二十四司及び左右司の公事を分掌せしめ、一人をして一司を掌らしめ、孔目・勾押・前後行を廃し都事・主事・令史と為し、勾院・開拆・磨勘・憑由・理欠等の司を廃して比部及び左右司に帰せしむ。此くの如く即ち事益々精詳にし、且つ尽く州郡吏局の名を去らん。六卿如し闕くれば、即ち名品相近く、才望有る者を選び之をね、郎官如し闕くれば、則ち両省三院に於いて名幹有り清望有る者を選び、資に依りて之を除く。其の二十四司の公事、若し繁簡同じからずば、望むらくは本省府属に下し其の類を参酌し、均しくして之を行わしむ。」

其二、公挙を慎む。曰く、「朝廷頻年に詔を下し、類を以て人を求む。但だ例を得て官を挙ぐるを聞くも、未だ其の挙主を択ぶを見ず。望むらくは今より先ず朝官に声望有る者を責め、各おの知る所を挙げしめ、其の挙げ得たる官員は則ち籍を置き、挙主の名姓を併せて之に籍す。挙げたる官、実に廉能を著せば、則ち挙主をことに旌し、若し挙げたる者貪冒事を敗れば、挙主に連坐せしむ。陛下宝位に登りより、茲に十年、七たび選掄を経、人を得ること多し。然れども下僚遠官、沈滞無きにしも非ず。望むらくは采訪司及び州郡の長吏に令し、廉察して以て聞こえしめ、籍して以て用いを待たしむ。則ち下に遺材無からん。」

其三、貪吏を懲らす。曰く、「貪吏の民に於けるや、其の損甚だ大なり。法を屈し刑を煩わし、私にしたがい虐にほしいままにして、民の害を受くること木の蠹を受くるに甚だし。若し乃ち其の人に非ざるを用いて法を以てたださざれば、夷・齊・顏・閔と雖も自ら見る能わず。蓋し中人の性は、水の器に在るが如く、方員常ならず、之を用うる者の如何なるかを顧みるのみ。望むらくは諸路の転運使副に令し、兼ねて采訪の名を以てし、州・府・軍・監の長吏の得失を覚察するを責め、其の部内を澄清するを俟ちて、則ち不次の擢を以て待ち、侍従の間に置かしむ。貴ぶ所は物理を周知し、能く顧問に備わり、且つ足らく外官の勧めと為らん。」

其四、冗官を省く。曰く、「古人官を建つるは、初め必ずしも備えざるは、惟だ其の人を得んが為のみ。国家の封疆は前世を踰ゆと雖も、庶官を分設すること実に常数を倍す。意は天下の利を尽く籠めんと欲するも、民物転た凋弊を加う。二十年前、江・淮の諸郡、揚・楚最も要衝に居り、務穰むじょう事衆、地広く民繁し。然れども止だ知州一人を設け官事を署領せしめ、其の余の通判官・推官及び州官等は、悉く皆榷務・倉庫を分管す。当時事集まらざる無く、兼ねて獄訟少なし。其の後十年、臣揚州に任ずる時、朝廷監臨・使臣等の職を添置す。実に本州の官数を踰ゆ。諸州の冗員、此くの如きに似るもの一に非ず。今朝官・諸色使臣及び県令・簿・尉等を以て、高卑相折して之を計るに、一人月費十千にただならず。千人を以て之を約せば、歳計十余万千を用い、更に万を倍して之を約せば、万又過倍す。仮令皆廉吏とせば、止だ公帑をついやすのみ。設し或いは貪夫其の間に参錯せば、則ち民に取る者又倍加せん。望むらくは諸路の転運使副に委ね、知州と同議して裁減せしむ。若し県令・簿・尉等の官、前に自り多く備置せず、兼ぬ可き者は之を兼ねしむ。此くの如くすれば則ち冗官汰たいせん。」

第五に、遠方の官を選ぶことについて、曰く、「罪を負った者は、多くは善良でなく、貪婪残忍で凶暴、至らざる所なし。もし遠方の民を治める官職を授ければ、あるいは悪を恃んで悔い改めず、遠方を恃んで毒を肆にす。小民が災いに遭い、遂に上訴する術もなく、遠方の人々を慰撫する意に甚だ背く。もし今後、西川・広南の長吏に罪を負った者を任用しなければ、遠方の人々は恩恵を受けるであろう」。

上書が奏上されると、太宗はこれを嘉して受け入れた。

初め、柴禹錫が枢密を務めていた時、下僕が人の金を受け取ったが、禹錫は実際には知らなかった。参知政事陳恕がこれによって禹錫を陥れようとした。太宗は怒り、囚人を引いてその事を訊問したが、化基はその誣告を弁明した。太宗は感得して悟り、化基を長者であるとした。淳化年間、中丞に拝され、まもなく京朝官の考課を管掌し、工部侍郎に遷った。至道三年、参知政事に超拝された。咸平四年、工部尚書の官で罷免され揚州知州となった。河南府知事に移り、礼部尚書に進んだ。大中祥符三年、卒去。六十七歳。右僕射を追贈され、諡は恵献。化基は寛厚で包容力があり、喜怒を顔に表さず、僚佐に互いに凌ぎ侮む者がいても、常に寛容に扱った。中書に在っては、蔭補をもって諸子の官とせず、しかし善く教訓したので、その子の挙正・挙直・挙善・挙元はいずれも成す所があった。

子に挙正あり。

挙正は、字を伯仲といい、幼い頃から学問を好み、重厚で寡言であった。化基は己に似ていると思い、諸子とは異なって器重し愛し、蔭補により秘書省校書郎となった。進士に及第し、伊闕・任丘県の知県、館閣校勘・集賢校理・『真宗実録』院検討・国史編修官を歴任した。三度遷って尚書度支員外郎・直集賢院となり、『三朝宝訓』を修し、起居注を同修し、知制誥に抜擢された。その妻の父陳堯佐が宰相となったため、龍図閣待制に改められ、堯佐が罷免されると、兵部郎中をもって再び知制誥となり、翰林学士に任じられ、右諫議大夫・参知政事に拝された。前日、吏が馳せて報せた者があったが、挙正はちょうど閑居の書斎におり、ゆるりと吏に言った、「どうして禁中の言葉が漏れることがあろうか」。入朝して謝した後、仁宗は言った、「卿は進取に恬淡で、未だ朝廷に私事を求めたことがない。故に順序を越えて卿を用いるのである」。

当時、陝西で戦争があり、呂夷簡が宰相として枢密院を判じていた。挙正は言った、「判という名は重い。避けざるを得ない」。そこで兼枢密使に改められた。給事中に遷った。御史台が李徽之を御史に推挙したが、挙正の友婿(姻戚)であったため、格付けして採用しなかった。徽之が訴訟して言った、「挙正の妻が悍ましくて制することができない。どうして国を謀ることができようか」。欧陽修らもまた挙正が懦弱で沈黙し職務を担えないと論じ、挙正もまた自ら去ることを求めた。そこで資政殿学士・尚書礼部侍郎として許州知州となった。光化軍の叛卒が傍境に転じて寇掠し、州兵にも謀って起こり応じようとする者があった。挙正は密かに首謀者を捕らえて斬った。応天府知事に移り、累遷して左丞となった。

皇祐初年、御史中丞に拝されると、上奏して言った、「張堯佐は庸人であるが、妃の家縁故により、一日に四使を領し、賢士大夫に励みとする所がなくなっている」。返答がなかったため、挙正は留班して廷上で諍諫し、ついに宣徽使・景霊宮使の二使を奪った。また言った、「先朝の人材任用は、たとえ辺境を守ること累年であっても、官は遙郡刺史に止まっていた。今用いる者は未だ人を得ておらず、しかも期限を定めて昇進を待つ。後で功績のある者はどう励めばよいのか。かつ転運使は官吏の能否を察し、生民の休戚がこれに頼っている。任命が下って間もなく数度変更し、一年も経たずに再び替える。恩沢が未だ宣べられず、民の疾苦が未だ癒えないのは、この故である」。御史唐介が言事により春州に貶せられたが、挙正は力を尽くしてこれを言上し、介は英州に移ることができた。半年後、堯佐が再び宣徽使となると、家に居て凡そ七度上疏した。また狄青が枢密使となると、青は兵卒の出身で執政となってはならないと言い、力を尽くして争ったが改めさせることができず、そこで言職の解除を請うた。帝はその風憲の体を得ていると称し、使いを遣わして邸宅に賜り、白金三百両を賜い、観文殿学士・礼部尚書・河南府知事に任じ、入朝して翰林侍読学士を兼ねた。進読の度に、前代の治乱の際について、必ず再三諷諭した。

太子少傅をもって致仕し、卒去した。太子太保を追贈され、諡は安簡、黄金百両を賜った。文章は雅正で温厚、その人となりの如く、『平山集』・『中書制集』・『内制集』五十巻がある。

子に挙元あり。

挙元は、字を懿臣といい、上書の文章により進士出身を賜った。潮州知事となり、江水が堤防を破壊し、盗賊が隙に乗じて窃発した。挙正は夜に里の豪族を召して事を計り、盗賊を捕らえた後、堤防を修築した。河陰発運判官となり、ある者が大河が決壊して京師を犯すであろうと言ったが、挙元はちょうど入対しており、地形を詳しく論じてその妄りであることを証し、後に果たしてその通りであった。郡牧・戸部判官・京東転運使を歴任した。沙門島には流人が多く、守吏は賄賂を顧みて、密かに彼らを殺した。挙元は監を立てて賞罰を較べることを請うた。これにより全活する者が多かった。淮南・河東に移った。夏人が屈野の地を争いに来た。挙元は数騎を従えて河を渡り、幕を設けて彼らと議し、赤心を示した。夏人は感服した。

治平年間、また成都に移った。邙井の塩の歳入は二百五十万であったが、丹棱の卓箇に侵され、積んで売れなかった。禁令を下して止めさせると、塩の収入は旧に復した。提挙在京修造に召され、英宗は労って言った、「官舎が水害を受け、僅かに存するのみである。卿は公家に心を究め、その労を憚るな」。まもなく塩鉄副使に進み、天章閣待制に拝され、滄州知事となり、河北都転運使に改められ、永興軍知事となった。慶人・夏人が境上に屯し、我が国を窺う意図があった。挙元は二人の裨将に千騎をもってその要害を扼させた。長安ちょうあんから従事が派遣され涇原で兵を会しようとしたが、軽挙を戒めた。大将の竇舜卿は鋭意出撃を請うたが、聞き入れなかった。挙元は言った、「三日を過ぎず、虜は去るであろう」。期日になると果たして去った。神宗が細札をもって攻守の策を諮問した。挙元は官を省き戍を減らし、備えを増やして兵を去らせ、亭障を営まないよう請うた。輿論と合わず、そこで病を引いて職務の解除を求め、陳州に移ったが、赴任せずに卒去した。官は給事中に至り、六十二歳。子に詔あり。

孫に詔あり。

詔は、字を景献といい、蔭補により官に補され、広信軍の通判、博州知事となった。魏の地の風俗は椎埋・劫掠を尚び、姦盗が互いに嚢橐(庇い合う)していた。詔は反告殺および贖罪の法を開くことを請い、その徒党を離間させた。元祐初年、朝廷で回河の議が起こり、未決のうちに開河の役が急に興された。詔は言った、「河朔は秋の長雨で、水が溢れて災害となり、民人は流離し、倉を開いて賑済する恩恵により、かろうじてその生を蘇らせている。安んずべきであり、力役をもって傷つけるべきではない」。これに従った。開封府推官に抜擢された。富民が後に絶えた僧牒を借りて緡銭三十万とし、期限が過ぎてさらに倍額の納入を責め、身が死んで資産が没収され、さらにその妻子を拘禁した。詔はこれを免除するよう請うた。滑州に出向した。州の属県に退灘百余頃があり、毎年民を徴発して草を刈らせ河堤に供給していたが、民はその役を苦しんでいた。詔は人を募ってこれを佃作させ、その余剰を収めた。度支郎中となり、契丹に使いした。当時ちょうど西夏を討伐しており、出迎える者耶律誠が我が国を試そうとして言った、「河西(西夏)が礼を失しているが、大国はこれを容れることができようか」。詔は言った、「夏人が辺境を侮ったので、既にその罪を正した。どうして両朝の和好事に干渉することがあろうか」。入賀の際、故事では跪いて飲むが、誤って拝礼した者があったため、詔に強要した。詔は言った、「南北百年、守る所は礼である。どうして紛更できようか」。ついに跪いて飲んだ。

崇寧年間、大理少卿より卿に進み、司農に転じた。御史が、詔が滁州に在った時に蘇軾に『酔翁亭碑』の書を請うたことを論じ、崇福宮の主管を罷免された。まもなく汝州の知州となり、鋳銭の卒が大校を罵ったので、詔は斬って示しにし、上章して罪を待った。直秘閣を除され、言事者がまた滁州の事を抉って、罷免されて去った。起用されて深州・兗州の二州の知州となり、同州に転じ、闕下を過ぎる時、留められて左司郎中となり、衛尉・太府卿・刑部侍郎に遷り、勅令を詳定した。旧来、緋紫を借りる者は魚袋を佩ばなかったが、詔は言う、「章服は上下を弁ずる所以である。今、胥吏と異ならず」と。そこで皆魚袋を佩くようになった。工部・兵部・戸部の三部侍郎を歴任し、開封尹に転じた。時に子の璹が京西に使いし、洛の尹を摂った。父子が両京に相望み、人は栄えと為した。

刑部尚書に進み、延康殿学士を拝し、上清宝籙宮を提挙し、また工部尚書となった。徽宗はその老を憐れみ、拝礼せぬよう命じたが、詔は惶恐し、ここにただ朔望に朝するのみとなった。やがて銀青光禄大夫をもって致仕し、卒す。年七十九。

論じて曰く、昔より大政に参じ、機務を賛するは、明敏特達の士でなければ、その任に勝つことができない。もしまた文雅を飾り、治具をもって済せば、則ち尽善である。若水は機鑑明敏にして、儒にして兵を知り、李至は剛厳簡重にして、古を好み博雅なり、その柄用に宜しきは当然である。王沔は事に臨み精密にして、私謁を遠ざけることができたが、考課の議は頗る苛刻を傷つけ、仲甫は吏事をもって時に用いられ、苟容の誚を免れず、瑕瑜固より相い掩わず。仲舒は蒙正に挙げられて、反ってその短を攻め、易簡は光逢を周恤することができずして、これを死地に置く、その郭贄が曹彬の誣を弁じ、化基が禹錫の枉を伸べたるに同日に語るべからざるは明らかである。この純厚長者の称が、所以に独り二子に帰するか。挙正は台佐を継ぎ践み、風憲の体を得、挙元は辺郡に職を任じ、持重の称あり。況んや詔の父子は又並びて両京を尹し、よくその美を済せり、何ぞ王氏の子孫の多賢なるや。