宋史

列傳第二十四 李昉 呂蒙正 張齊賢 賈黃中

李昉

周の顯德二年、宰相李穀が淮南を征したとき、李昉は記室となった。世宗が軍中の章奏を閲覧し、その文辞と道理が明白なのを愛で、すでに李昉の作であることを知っていたが、『相國寺文英院集』を見ると、李昉と扈蒙、崔頌、劉袞、竇儼、趙逢及び李昉の弟の載が題したものであり、ますます李昉の詩を善しとして称賞し、「我は久しくこの人のあることを知っていた」と言った。軍が還ると、主客員外郎、知制誥、集賢殿直學士に抜擢した。四年、史館修撰を加え、館事を判じた。この年の冬、世宗が南征し、高郵に至るに従ったが、ちょうど陶穀が使節として出ており、内署の書詔が山積みとなったので、屯田郎中、翰林學士に任じた。六年春、母の喪に服した。恭帝が位を嗣ぐと、金紫を賜った。

宋の初め、中書舍人を加えられた。建隆三年、罷免されて給事中となった。四年、湖湘を平定し、詔を受けて南嶽を祀り、そのまま衡州知州に任じられ、一年余りして代わって帰還した。陶穀が李昉が親しい者のために京畿の令を求めたと誣って上奏したので、上は怒り、吏部尚書張昭を召して面と向かってこの事を質した。張昭は老儒で気性が直く、冠を免じて上前に進み、声を張り上げて「陶穀は上を欺く」と言った。上は疑いを解かず、李昉を出して彰武軍行軍司馬とし、延州に居住させ、生業を営んで老いさせた。三年で内徙すべきところであったが、李昉は望まなかった。宰相が大用に堪えると推薦したので、開宝二年、召還され、再び中書舍人を拝した。間もなく、直學士院となった。三年、貢挙を管掌した。五年、再び貢挙を管掌した。秋、大明殿の宴に預かり、上は李昉が盧多遜の下に座っているのを見て、宰相に問うたところ、「多遜は学士であり、李昉はただ殿に直しているだけです」と答えた。すぐに真に学士を拝するよう命じ、盧多遜の上に座らせた。李昉が貢挙を管掌したとき、その郷人の武済川が選に預かったが、やがて奏対で順序を失い、李昉は左遷されて太常少卿となり、まもなく国子監を判じた。翌年五月、再び中書舍人、翰林學士を拝した。冬、吏部銓を判じた。時に趙普が盧多遜に陥れられ、しばしばその短所を上に聞かせていたが、上が李昉に尋ねると、「臣の職務は書詔を司ることであり、普の行いは、臣の知るところではありません」と答えた。趙普はまもなく出鎮し、盧多遜は参知政事となった。

太宗が即位すると、李昉に戸部侍郎を加え、詔を受けて扈蒙、李穆、郭贄、宋白とともに『太祖實録』を修撰した。太原征伐に従い、車駕が常山に駐まった。常山は李昉の故里であったため、羊酒を賜い、公侯を召して相ともに宴飲して歓を尽くさせ、里中の父老及びかつて遊従した者を皆預からせた。七日で罷め、人は栄誉とした。軍が還ると、労により工部尚書兼承旨を拝した。太平興国年中、文明殿學士に改めた。時に趙普、宋琪が相位に久しく居り、その後を継ぐ者を求めたが、宿旧で李昉に及ぶ者はなく、遂に参知政事に命じた。十一月、趙普が出鎮すると、李昉と宋琪はともに平章事を拝した。間もなく、監修國史を加えられ、また時政記を先に御前に進めて後に有司に付すことは、李昉の議より始まった。

雍熙元年の郊祀に、李昉と宋琪をともに左右僕射に任じようとしたが、李昉は固辞したので、中書侍郎を加えた。王師が幽薊を討って利あらず、使者を分けて河南、河東に詣でさせ、民を籍して兵とし、凡そ八丁ごとに一人を取った。李昉らは相率いて奏上して言った、「近ごろ使者を分遣して河南、河東四十余郡の民を籍し辺備とすることは、已むを得ざる所です。しかし河南の民は平素農桑に習い、戦闘を知らず、一旦かき集めれば必ず動揺を来たし、もしこれに乗じて嘯聚すれば、更に剪除を要します。このようであれば、河北の閭閻は既に戎馬に困しめられ、河南の生聚はまた萑蒲に擾らされ、まして春の和らぎの時に当たり、農作を妨げます。陛下もし明詔が既に頒布された以上、撤回し難いとされるならば、続けて使臣を遣わし、厳しく戒飭させ、至る所で点募し、人情に不安があれば、即ち少し緩めるべきで、密かに上奏して裁断を請い、後患を免れるようにすべきです」。上はこれを嘉して受け入れた。

端拱初め、布衣の翟馬周が登聞鼓を打ち、李昉が宰相位に居ながら、北方に事ある時に辺備を為さず、ただ詩を賦し宴楽するのみであると訟えた。耤田の礼が終わったばかりであったので、詔して学士賈黄中に制を草させ、李昉を罷めて右僕射とし、かつ厳しく責めた。黄中は言った、「僕射は百僚の師長であり、実に宰相の任です。今、工部尚書からこの職に遷るのは、罷黜責罰ではありません。もし文昌の務めが簡素であることを以て、労逸を均しくすることを言うならば、これは得体を得ます」。上はこれを然りとした。ちょうど辺境の警報がますます急となり、詔して文武群臣に各々策を進めて備禦させたが、李昉はまた漢、唐の故事を引き、深く己を屈して修好し、兵を止め民を休めることを言い、時の論はこれを称えた。

淳化二年、再び本官をもって中書侍郎、平章事を兼ね、國史を監修した。三年夏、旱魃と蝗害があり、やがて雨が降った。時に李昉は張齊賢、賈黄中、李沆とともに宰輔に同居し、燮理の才なくして上表して罪を待ったが、上はこれを罪としなかった。四年、李昉は私門で連続して憂戚に遭い、機務を解くことを請うたが、詔して允さず、齊賢らを遣わして旨を諭させ、再び起きて視事した。数か月後、罷免されて右僕射となった。先に、上は張洎を召して制を草させ、李昉に左僕射を授け、宰相を罷めようとしたが、張洎は言った、「李昉は燮理の任に居ながら、陰陽が乖戾しているのに、決意して引退することができず、百僚の師長の任に居らせるのは、どうして勧めを示せましょうか」。上は奏を覧て、乃ち本官を守るのを罷めるよう命じた。

晉の侍中崧は、李昉と同宗でかつ同里であり、時人は崧を東李家、李昉を西李家と呼んだ。漢の末、崧は誅殺された。この時、その子の璨が蘇州常熟県令から赴調したが、李昉はその父の冤罪を訟え、かつ言った、「周の太祖が既に昭雪して官を贈り、その田宅を還し、璨を録して官としました。しかし璨は年齢五十に近く、なお州県の職に淹留しています。臣は昔、彼とともに難に遭いましたが、どうして聖明の世に叨り遇うことができましょう。もし一視の仁を推し、衰微の祚に恩沢が及べば、已往の冤罪は下に伸べられ、絶えた者を継ぐ恩は永遠に簡冊を光らせましょう」。詔して璨に著作佐郎を授け、後に官は右讚善大夫に至った。

翌年、李昉は七十歳となり、特進、司空しくうをもって致仕し、朝会宴饗には宰相の班に綴らせ、歳時の賜与はますます厚くされた。至道元年正月の望、上は乾元楼で燈を観、李昉を召して側に座を賜い、御樽の酒を酌んで飲ませ、自ら果餌を取って賜った。上は京師の繁盛を観、前朝の坊巷省署を指して近臣に諭し、通衢長廊に拓くよう命じ、因って論じて言った、「晉、漢の君臣は昏暗で猜貳し、善良を枉げて陥れ、時に人は聊生せず、たとえ営繕を欲しても、その暇があるだろうか」。李昉は言った、「晉、漢の事は、臣が備えて経てきた所で、どうして聖朝と同日に語ることができましょう。今日の四海清晏、民物阜康は、皆陛下の恭勤による所です」。上は言った、「政に勤め民を憂うるは、帝王の常事である。朕は繁華を楽しみとせず、民の安んずることを楽しみとするのみである」。因って侍臣を顧みて言った、「李昉は朕に事え、二度中書に入ったが、未だ嘗て人を傷つけ物を害する事がなかった。宜しく今日の享うる所がこのようであるべきで、善人君子と言えよう」。

二年、南郊の祀りに陪し、礼が終わって入賀し、因って拝舞して地に仆れた。臺吏がこれを掖き出し、数日臥病して薨じ、七十二歳であった。司徒しとを贈られ、諡は文正。

李昉は温和で寛厚、多くを恕し、旧悪を念わず、在位中は小心に循謹にして、赫々たる称は無し。文章を為すに白居易を慕い、特に浅近にして易く曉しむ。賓客を接するを好み、江南平定後、士大夫で帰朝する者は多く彼と交遊した。張洎を雅に厚くし張佖を薄くす。李昉が罷相すると、張洎は制を草して深くこれを攻詆したが、張佖は朔望必ず李昉を詣でた。或る者が張佖に言うには、「李公は君を待つこと素より厚からず、何ぞ数えこれに詣づるや」と。張佖曰く、「我が廷尉たりし日、李公方に政を秉るも、未だ嘗て一たび請求有らず、これ吾の重んずる所以なり」と。

李昉の居所には園亭別墅の勝あり、多く故人親友を召してその中で宴楽した。致政した後、洛中の九老故事を尋ねんと欲し、時に吏部尚書宋琪年七十九、左諫議大夫楊徽之年七十五、郢州刺史魏丕年七十六、太常少卿致仕李運年八十、水部郎中朱昂年七十一、廬州節度副使武允成年七十九、太子中允致仕張好問年八十五、呉僧賛寧年七十八、集まらんと議したが、しょく寇の起こるに会して罷めた。

李昉は素より盧多遜と善くし、これを疑わず、盧多遜はしばしば李昉を上に譖す。或る者これを李昉に告ぐるも、信ぜず。入相した時、太宗盧多遜の事に言及す。李昉頗るこれを解釈す。帝曰く、「多遜は居常卿を毀りて一銭の値せずとす」と。李昉始めてこれを信ず。上ここにより益々李昉を重んず。

李昉が中書に在る日、進用を求むる者あり。その材取るべきを知るといえども、必ず正色してこれを拒絶し、後に擢用す。或いは用いるに足らざれば、必ず和顔温語をもってこれに待つ。子弟その故を問う。曰く、「賢を用うるは人主の事なり。その請けを受くれば、これ私恩を市うなり。故に峻絶して、恩を上に帰せしむ。用いざる者は、既にその望みを失い、また善き辞無ければ、怨みを取るの道なり」と。

初め、李超に子無く、李昉の母謝氏方に娠す。腹を指して伯母張氏に謂いて曰く、「男を生まば当に伯母の子と為さん」と。故に李昉は李超に出継ぐ。李昉再相し、因ってその事を表し、生みの父母の官を贈るを求む。詔してその祖李温に太子太傅を、祖母権氏に莒国太夫人を、父李超に太子太師を、母謝氏に鄭国太夫人を贈る。

李昉は素より心悸の病あり、数歳に一発し、発すれば必ず弥年にして後愈ゆ。蓋し典誥命三十余年、労役思慮の致す所なり。相位に居るに及び、益々憂畏を加う。文集五十巻あり。子四人:宗訥、宗誨、宗諤、宗諒。宗誨は右賛善大夫。宗諒は主賓客員外郎。

李昉の子 宗訥

宗訥、字は大辨。蔭により太廟斎郎に補せられ、第四室長に遷る。吏部銓に代謁す。辺光範その年少を意とし、未だ属辞能わざるべしとし、これに語って曰く、「苟も筆を援げて六韻詩を成せば、書判を試みずとも、等に入るべし」と。宗訥これを易しとす。辺光範詩賦を試みれば、立ちどころに就く。明日、遂に秘書省正字を擬授す。また明日、上命して国子監丞に擢でる。蓋し上藩邸に居る時、毎に篇詠有り、李昉に属和せしむ。前後数百章、皆宗訥の繕写する所。上その楷麗を愛し、問いて知るに宗訥の書する所と為す。故にこの命有り。太平興国初年、詔して賈黄中に『神医普救方』を集めしむ。宗訥及び劉錫、呉淑、呂文仲、杜鎬、舒雅皆これに預かる。雍熙初年、李昉相位に在り。上宗訥を尚書郎に命ぜんと欲す。李昉懇ろに辞し、承平の故事に非ずと以為い、ただ秘書丞に改め、太常博士を歴任す。

宗訥は頗る典礼に習熟す。淳化年中、呂端礼院を掌る。宗訥を引いて同判と為し、累遷して比部郎中に至る。咸平六年、卒す。年五十五。子昭迴、大中祥符五年に文を献じ、召試されて進士第を賜い、後に屯田員外郎と為る。昭遜は太子中舎。

李昉の子 宗諤

宗諤、字は昌武。七歳にして文を属する能くし、父蔭により官を得るを恥じ、独り郷挙により、進士に第し、校書郎を授かる。明年、文を献じて自薦し、秘書郎、集賢校理、同修起居注に遷る。先に、後苑陪宴には校理官は与からず、京官は馬に乗じて禁門に入るを得ず。ここに至り、皆宗諤の請いによりてこれを復し、遂に故事と為る。

真宗即位し、起居舎人を拝し、『太祖実録』重修に預かる。大名に幸従し、上疏して曰く、「国家辺を馭するの術、勝を制するの謀、将帥の短長、兵衛の衆寡、宸算廟謨、尽く吾が術中に在り。今事を言う者は、陛下に兵を益し糧を貯え、道を分かち掩殺せんことを請うに過ぎず。これを言うは甚だ易く、これを行なうは則ち難し。始め命を受くるには、攻堅陷陣を壮図と為さざるは無く、敵に遇うに及びては、ただ壘を閉じ関を塞ぐを上計と為す。君父の重委を孤にし、生霊の重困を致す。言を興してこれに及べば、誠に歎息すべし。古より行軍出師するも、将帥を首に択ばざるは無し。夫れ将帥は材に随い任使し、一郡を守り、一城を控え、ぎょう勇を分領し、要害を争拠す。また豈に直ちに三路主帥の名有りて、然る後に能く六師生死の命を制せんや。今陛下選任すること至らざるに非ず、権位重からざるに非ず、告戒丁寧ならざるに非ず、処置専一ならざるに非ず。然るに外敵塞を犯せば、車駕親征す。曾て一人一騎を出だしてこれが救助と為すを聞かず。深溝高壘し、馬に秣し兵を厲するも、安くにか用いんと欲するを知らず。臣以為うらくは、軍に臨み帥を易え、卒を抜きて将と為すは、この時に在り。功有る者は朝に抜き、用いざる者は市に戮すも、またこの時に在り。惟うらくは陛下これを図らんことを。然る後に哀痛の詔を下し、蠲復の恩を行なう。鸞を上都に回し、衣を垂れて寧に当たる。豈に盛ならずや」と。

知制誥に遷り、集賢院を判じ、『西垣集制』を纂し、石に刻み名氏を記す。嘗て御史台に牒し平空せず。中丞呂文仲文を移してこれを詰る。往復再三。宗諤両省の故事、台司と相統摂せざるもの凡そ八つと執言す。事聞こえ、卒に宗諤の議の如し。

景德二年、翰林学士に召さる。この秋、郊祀せんとし、太常大楽、鼓吹二署を判ぜしむ。先に、楽工は率ね年労により遷補し、その器を抱えて声を知らざる者有りに至る。宗諤は素より音律に曉る。遂に審定を加え、謬濫なる者五十人を奏斥す。因って器具を修完し、職名を更に署し、利病二十事を条上す。帝省閲してこれを賞歎す。事は『楽志』に具わる。また『楽纂』を著して献じ、命じて史館に付す。ここより月に再び肄習す。

時に諸神祠壇多く外壝の制を闕く。深塹を因り樹を列ねてこれを表し、斎室を営葺す。旧典ここにより振起す。契丹使いを遣わし来たりて承天節を賀するに属す。詔して宗諤を館伴使と為す。郊労より飲餞に至るまで、皆その儀を刊定す。

大中祥符の初年、泰山への封禅に従い、工部郎中に改める。二年、初めて昭応宮を建て、丁謂の副として同修宮使を命ぜられる。三年、審官院を管轄す。汾陰后土の祭祀に属し、経度制置副使を命ぜられ、同権河中府事を兼ねる。礼儀成りて、優に右諫議大夫を拝す。

嘗て玉宸殿に侍宴し、上これに謂ひて曰く、「卿の至孝なるを聞く、宗族頗る多く、長幼雍睦なり。朕二聖の基業を嗣ぎ守るも、亦卿の門戸を保守するが如し」と。又曰く、「翰林は清華の地なり、前賢の歴任する所、多く故事有り、卿父子之を為すに、必ず周知せん」と。宗諤嘗て『翰林雑記』を著して国朝の制度を紀す、明日之を上る。

宗諤は典礼に心を究め、凡そ創制損益するに、与りて聞かざるは無し。皇親故事・武挙武選の入官資叙・閣門儀制・臣僚の導従・貢院条貫を修定し、余は多く裁正す。

五年、真州の聖像を迎へ、丁謂の副として迎奉使と為る。五月、疾を以て卒す、年四十九。帝甚だ之を悼み、宰相に謂ひて曰く、「国朝の将相の家、能く声名を以て自立し、門閥を墜さざるは、唯昉と曹彬の家のみ。宗諤方に大用を期す、不幸短命なり、深く惜しむべし」と。既に其の家を厚く賻ひ、白金を以て其の継母に賜ひ、又其の子若しくは弟を録して官を以てす。

初め、昉は三館・両制の職に居り、宗諤は数年を経ずして、皆其の地を践む。風流儒雅、蔵書万巻。内行淳至、継母符氏に事へて孝を以て聞こゆ。二兄早世し、嫂を奉じ孤を字ひ、恩礼兼ねて尽くす。弟宗諒と友愛尤も至り、覃恩の及ぶ所、必ず群従を先にし、歿するに及びて己が子に未だ仕へざる者有り。程宿早く卒し、弟有りて依る所無し、宗諤為に表して朝に請ひて之に官す。士類を勤めて接し、賢不肖無く、恂恂として礼を尽くし、後進を奨抜して、唯及ばざるを恐る、是を以て士人皆之を帰仰す。

宗諤は隷書に巧みなり。文集六十巻、『内外制』三十巻有り。嘗て『続通典』・『大中祥符封禅汾陰記』・『諸路図経』を修するに預り、又『家伝』・『談録』を作り、並びに行はるる於世。子昭遹・昭述・昭適。

宗諤の子 昭述

昭述、字は仲祖、父の蔭を以て秘書省校書郎と為る。召されて学士院に試みられ、進士出身を賜ひ、刑部詳覆官と為り、累遷して秘書丞に至る。群牧制置使曹利用薦めて判官と為し、鄆州の牧地民に侵さるる者凡そ数千頃、昭述悉く之を復す。太常博士を以て開封県を知り、特に尚書屯田員外郎・開封推官に遷る。嘗て曹利用に薦められしに坐し、出でて常州を知り、遷りて三司度支判官と為り、河北転運使に改む。江陵の屯兵倉粟の陳腐なるを讙言し、以て衆を動かさんと欲す。昭述取りて以て奉と為し、且つ其の僚属に飯す、衆遂に定まる。

湖南潭州に徙す、戍卒監軍の酷暴を憤り、乱を構へんと欲す、或る者昭述を指して謂ひて曰く、「李公の長者の如き、何ぞ負くべけんや」と。其の謀遂に寝す。昭述之を聞き、以て監軍を戒む。監軍是より復た暴を為さず。去るに比し、衆道を遮り羅拝し、妻子を指して曰く、「嚮ひて公に非ずんば、噍類無からん」と。

淮南転運使兼発運使に徙し、直史館を加ふ。陝西転運使に徙し、在京刑獄を糾察し、三司戸部副使と為り、累遷して刑部郎中に至る。陝西兵を用ふるに、陝西計置糧草を提点し、還りて度支・塩鉄副使を授けられ、右諫議大夫を以て河北都転運使と為る。

河澶淵に決し、久しく塞がず。会ひて契丹劉六符を遣はす、乃ち昭述に命じて澶州を城せしめ、堤を治むるを名と為し、兵農八万を調べ、旬を踰えて而して就る。初め、六符之を過ぎ、真に堤と為す、還りて而して城具はり、甚だ駭愕す。初めて義勇軍を置き、人情洶洶たり、昭述疾置に乗じ日数舎を行き、父老を開諭し、衆始めて安んず。宣撫使其の能を表し、龍図閣直学士・澶州知事を除き、又枢密直学士・陝西都転運使と為る。

河北初めて四路を置き、真定府路安撫使・成徳軍知事と為る。大水、民多く流亡す、僧舎の積粟を籍して粥糜と為し、飢民数万を活かす。龍図閣学士・秦州知事に改む。諫官・御史昭述の庸懦なるを言ひ、重鎮を負ふべからずとし、真定府に留む。四年居り、入りて三班院を領し、翰林侍読学士を以て鄭州を知る。未だ幾ばくもあらず、通進銀台司を知り、太常寺を判じ、復た三班を領し、累遷して尚書右丞に至る。祫享に従ひ朝堂に致斎し、暴疾を得て卒す。礼部尚書を贈り、諡して恪と曰ふ。

李氏京城北崇慶里に居り、凡そ七世爨を異にせず、昭述に至り稍々自ら豊殖し、族人の望む所と為るも、然れども家法亦隳さず。

宗諤の従子 昭遘

昭遘、字は逢吉、宗諤の従子なり、蔭を以て将作監主簿と為る。幼時、楊億嘗て其の家を過ぎ、出でて拝す、億命じて賦を為さしむ、既に成りて、億曰く、「桂林の下に雑木無し、虚言に非ず」と。其の後之を薦め、召して試みられ、館閣校勘を授けられ、集賢院校理に改む。失誤に坐して秩を落とす。未だ幾ばくもあらず、復た塩鉄判官と為る。

初め、天下の職田及び公使銭を廃止する議論があったが、昭遘は不可と為した。三司使姚仲孫はその己に異なるを悪み、何を以て利を興す実なりの所以を詰問するを請う。昭遘争って屈せず、遂に判官を罷め、白波発運使と為る。因って奏事に入るに、仁宗之に謂ひて曰く、「前に論じたる職田等を罷むる事、卿の言是なり」と。直史館に遷り、陝州を知る。諫官欧陽修言ふ、「陝府は関中の要地、昭遘に劇を治むる材無し、遣はすべからず」と。三司理欠司を判するを改め、度支判官に徙る。

契丹に使いして還り、道中にて陝西転運使を除す。家僮が遼人の銀酒杯を盗みたるに坐し、澤州に降りて知る。陽城にて鉄銭を鋳造す。民、山険を冒して鉱炭を輸送し、其の役に苦しむ。為に奏して銭を鋳るを罷む。又言ふ、「河東の鉄銭は真偽淆雑す、革めざるべからず」と。

後に復た直史館に、陝州を知る。城中旧に井無し。唐の武徳中、刺史長孫操始めて広済渠の水を疏きて城に入れ、衆其の利に頼る。昭遘至り、廟を立てて之を祠る。帰りて三司戸部判官と為り、在京刑獄を糾察し、直龍図閣に進み、集賢殿修撰に改め、累遷して尚書工部郎中に至る。歴て鳳翔・河中府・晉州を知り、管勾登聞検院に遷る。天章閣待制に擢げられ、滄州を知る。諫官呉及の言を用ひ、復た改めて陝州を知り、鄭州に徙りて卒す。昭遘性温和にして物に忤はず、能く家法を守る。

呂蒙正

初め、龜圖多く内寵有り、妻劉氏と睦まず、並びに蒙正を出だす。頗る淪躓窘乏す。劉は誓ひて復た嫁がず。及て蒙正仕に登り、二親を迎へ、堂を同じくして室を異にし、奉養備はり至る。龜圖旋に卒す。詔して起復す。未だ幾ばくもせず、都官郎中に遷り、入りて翰林学士と為り、左諫議大夫・参知政事に擢げられ、第を麗景門に賜ふ。上之に謂ひて曰く、「凡そ士未だ達せざる時は、当世の務め理に戾るを見れば、則ち心に怏怏たり。及んで位に列り、献可替否するを得ば、当に其の蘊む所を尽くすべし。言必ずしも尽く中らずと雖も、亦た僉議して之を更へ、道に協はしむべし。朕固より崇高を以て自ら恃み、人をして敢へて言はしめざるに非ず」と。蒙正初めて朝堂に入るに、朝士有りて之を指して曰く、「此の子亦た参政か」と。蒙正陽に聞かざるが如くして之を過ぐ。同列平らかならず、其の姓名を詰む。蒙正遽に之を止めて曰く、「若し一たび其の姓名を知らば、則ち終身忘るる能はず。知らざるを為すに若かず」と。時に皆其の量に服す。

李昉相を罷む。蒙正中書侍郎兼戸部尚書・平章事を拝し、国史を監修す。蒙正質厚く寛簡、重望有り、正道を以て自ら持す。事に遇ひて敢へて言ひ、毎に時政を論ずるに、未だ允ならざる者有れば、必ず固より不可と称す。上其の隠れ無きを嘉す。趙普は開国の元老、蒙正は後進、歴官一紀にして遂に相位を同じくす。普甚だ之を推許す。俄に内艱に丁り、起復す。

是に先立ち、盧多遜相と為り、其の子雍は起家するより即ち水部員外郎を授けられ、後遂に以て常と為す。是に至り、蒙正奏して曰く、「臣甲科に忝くし及第し、褐を釈くるに止めて九品京官を授かる。況んや天下の才能、巌穴に老ひて寸禄をも霑がざる者多し。今臣男始めて襁褓を離れ、此の寵命に膺る。恐らくは陰譴に罹らん。乞ふらくは臣が褐を釈くる時の官を以て之を補はしめん」と。是より宰相の子は止めて九品京官を授け、遂に定制と為る。

朝士に古鏡を蔵する者有り、自ら言ふ能く二百里を照らすと。蒙正に献じて知を求めんと欲す。蒙正笑ひて曰く、「吾が面は楪子大に過ぎず。安んぞ二百里を照らすを用ひん」と。聞く者歎服す。

淳化中、左正言宋沆疏を上して旨に忤ふ。沆は蒙正の妻族なり。是に坐して吏部尚書に罷められ、復た李昉を相とす。四年、昉罷む。蒙正復た本官を以て相に入る。因りて対し、征伐に論及す。上曰く、「朕比来征討するは、蓋し民の為に暴を除くに在り。苟も功を好み武を黷らば、則ち天下の人熸亡して尽きん」と。蒙正対へて曰く、「隋・唐数十年の中、四たび遼碣を征し、人命に堪へず。煬帝は全軍陷没し、太宗は自ら土木を運びて城を攻む。此の如くして卒に済ふ所無し。且つ治国の要は、内に政事を修むるに在り。則ち遠人来り帰し、自ら安静を致す」と。上之を韙とす。

嘗て燈夕に宴を設け、蒙正侍ふ。上之に語りて曰く、「五代の際、生靈凋喪す。周太祖鄴より南帰するに、士庶皆剽掠に罹る。下は則ち火災、上は則ち彗孛、観る者恐懼し、当時復た太平の日無からんと謂へり。朕躬より庶政を覧み、万事粗く理まる。毎に上天の貺を念ひ、此の繁盛を致す。乃ち理乱は人に在るを知る」と。蒙正席を避けて曰く、「乗輿の在る所、士庶走り集まる。故に繁盛此の如し。臣嘗て都城の外数里ならずして、饑寒して死する者衆しと見る。必ずしも尽く然らず。願くは陛下近きを視て以て遠きに及ぼし給へ。蒼生の幸ひなり」と。上色を変へて言はず。蒙正侃然として復た位に就く。同列其の直諒を多とす。

上嘗て人を遣はして朔方に使はさんと欲し、中書に諭して才有りて事を以て責むべき者を選ばしむ。蒙正退きて名を上る。上許さず。他日、三たび問ひ、三たび其の人を以て対ふ。上曰く、「卿何ぞ執するや」と。蒙正曰く、「臣執するに非ず。蓋し陛下未だ諒らざるのみ」と。固より称して「其の人使ふべく、余人及ばず。臣媚道を用ひて妄りに人の主意に随ひ、以て国事を害せんと欲せず」と。同列悚息して敢へて動かず。上退きて左右に謂ひて曰く、「蒙正の気量、我及ばず」と。既にして卒に蒙正の薦むる所を用ひ、果たして職に称す。

至道初め、右僕射を以て出でて河南府を判じ、兼ねて西京留守と為る。蒙正洛に至り、多く親旧を引いて歓宴し、政は寛静を尚び、僚属に委任し、事多く総裁するのみ。

真宗即位し、左僕射に進む。会ひて熙陵を営奉するに、蒙正先朝の次ならざる遇ひを追感し、家財三百餘万を奉りて以て用ひを助く。葬の日、伏して哭きて哀を尽くす。人以為へらく大臣の体を得たりと。咸平四年、本官を以て同平章事・昭文館大学士と為る。国朝以来三たび相に入る者は、惟だ趙普と蒙正のみ。郊祀の礼成り、司空兼門下侍郎を加ふ。六年、太子太師を授けられ、萊国公に封ぜられ、徐に改封し、又た許に封ぜらる。

景德二年春、表を上して洛に帰らんことを請ふ。陛辞の日、肩輿にて東園門に至り、命じて二子に掖かしめて以て殿に升らしむ。因りて言ふ、「遠人請和し、兵を弭め財を省くは、古今の上策なり。惟願くは陛下百姓を念ひ給へ」と。上嘉して之を納れ、因りて従簡を太子洗馬に遷し、知簡を奉礼郎と為す。蒙正洛に至り、園亭花木有り、日々親旧と宴会し、子孫環列し、迭りて寿觴を奉り、怡然として自得す。大中祥符而後、上永熙陵に朝し、泰山を封じ、后土を祠り、洛を過ぎ、両たび其の第に幸し、錫賚加ふること有り。上蒙正に謂ひて曰く、「卿が諸子孰れか用ふべき」と。対へて曰く、「諸子皆用ふるに足らず。侄夷簡有り、潁州推官に任ず。宰相の才なり」と。夷簡是より上に見知らる。

富言なる者は、蒙正の客なり。一日白して曰く、「兒子十許歳、令めて書院に入れ、廷評・太祝に事へしめんと欲す」と。蒙正之を許す。及て見るに、驚きて曰く、「此の児他日の名位吾に相似たり。而して勲業は吾を遠く過ぐ」と。令めて諸子と同学せしめ、供給甚だ厚し。言が子、即ち弼なり。後弼両たび相に入り、亦た司徒を以て致仕す。其の人を知る類此の如し。

許国の任命が下ったばかりで卒去した。享年六十八。中書令を追贈され、諡は文穆といった。

蒙正が初めて宰相となった時、張紳は蔡州知州であったが、贓罪に坐して免官された。ある者が上に言うには、「張紳の家は富裕であり、ここまで(贓を貪る)ことはない。ただ蒙正が貧しい時に請い求めて意にかなわず、今報復しているのである」と。上は命じて即座に張紳の官を復したが、蒙正は弁明しなかった。後に考課院が張紳の実状を得て、再び罷免し絳州団練副使とした。蒙正が再び宰相に入った時、太宗は言った、「張紳は果たして贓があった」と。蒙正は弁明もせず、また謝罪もしなかった。西京にいた時、上はたびたび中貴人を遣わして命を伝えさせたが、蒙正は彼らを宰相の位にいた時と同じように待遇し、少しも貶めることがなく、当時の人はこれを重んじた。

子の從簡は、再び国子博士となった。惟簡は太子中舍、承簡は司門員外郎、行簡は比部員外郎、務簡もまた国子博士、居簡は殿中丞、知簡は太子右賛善大夫であった。蒙正の弟蒙休は咸平年間の進士で、殿中丞に至った。

龜圖の弟龜祥は、殿中丞・寿州知州であった。子の蒙亨は進士の高等に挙げられたが、廷試の後、蒙正が中書に在ったため、取り消されて罷免された。後に下蔡・武平の主簿を歴任した。至道初年、州県官を考課する際、蒙亨が引見に対し、文学・政事ともに優れていたため、光禄寺丞に任じられ、後に大理寺丞に改め、卒去した。次子の蒙巽は虞部員外郎、蒙周は淳化年間の進士及第であった。蒙亨の子がすなわち夷簡である。次子の宗簡もまた進士及第であった。

慶曆年間、居簡が京東刑獄を提点した時、夏竦は石介に恨みを抱いており、石介が死ぬと、竦は上に言った、「石介は死んでおらず、北へ走って隣国に入った」と。そこで中使を遣わして棺を発き検証させた。居簡は言った、「万一石介が果たして死んでいたならば、朝廷は故なくして人の墓を発くことになりましょう。どうしますか」と。中使は言った、「あなたはどうするか」と。居簡は言った、「石介が死んだ時、必ず内外の親族及び門生が会葬したはずです。彼らに問えばよいでしょう」と。中使はそこで保証状を結ばせて報告させ、石介の事はようやく明らかとなった。居簡は長者であり、その行う事多くこの類であった。

徐州の妖人孔直溫が左道をたずさえて軍士を誘い変乱を起こそうとした。ある者が転運使に告げ出たが、訴状を受け付けなかった。居簡は命じてその牒を書き換えさせ、一味をことごとく捕らえ追究し、誤って連座した者は赦し、朝廷に請うて直溫らを斬った。濮州で再び叛乱が起こり、都の民は驚き潰走した。居簡は馳せ往き、首謀者を捕らえて誅した。そこで大いに兵を閲し犒労したため、奸計は発動できなかった。この二事により、塩鉄判官に昇進し、集賢院学士・梓州知州・応天府知事に任じられ、荊南に転じ、龍図閣直学士・広州知事に進み、陶甓で城を甃き、人々は便利とした。兵部侍郎として西京御史台を判じ、卒去した。享年七十二。

張齊賢

太宗は進士を抜擢し、齊賢を高第に置こうとしたが、役所がたまたま選抜を誤り、上は悦ばず、一榜ことごとく京官を与え、ここにおいて齊賢は大理評事・衡州通判となった。当時、州では強盗を訊問し、みな死刑と論じていたが、齊賢が到着し、誤って入罪された者五人を生かした。荊渚から桂州に至るまで、水遞鋪の夫数千戸が郵役に困り、衣食多く給せず、上奏してその半減を論じた。四年、代わって還朝し、ちょうど親征して晋陽に向かう際、齊賢が謁見し、秘書丞に遷った。忻州が新たに降下したため、州事を知ることを命じられた。翌年召還され、著作佐郎に改め、史館に直し、左拾遺に改めた。冬、車駕が北征する際、議者はみな幽薊を速やかに取るべきと言ったが、齊賢は上疏して言った。

「今、海内は一家となり、朝野に事なきが、聖慮を関わらせるものは、まさに河東が新たに平定され、屯兵なお多く、幽燕は未だ下らず、輦運が労となることではあるまいか。臣愚かには、これは慮るに足らぬと思う。河東が初めて下った時、臣は忻州を知り、契丹の米を納める典吏を捕らえたが、皆、山後から転般して河東に授けたと言う。臣が推し量るに、契丹が自ら軍食を備えることができるならば、太原に対して力を尽くさなかったわけではないが、結局我が有するところとなったのは、力が足りなかったからである。河東が初めて平定された時、人心未だ固まらず、嵐・憲・忻・代には軍砦がなく、侵入寇掠すれば田牧は頓失し、辺境を擾せば守備は憂うべきであった。国家が要害を守り、壁壘を増し、左を控え右を扼して、辺境の事厳しく、恩信すでに行き渡り、民心すでに定まってから、雁門の陽武谷で小利を争いに来た。これがその知力のほどであり、推し量って知ることができる。聖人が事を挙げるには、動くこと万全に在り、百戦百勝は、戦わずして勝つに如かず。もしこれを重んじ慎めば、契丹は吞むに足らず、燕薊は取るに足らぬ。

古より疆埸の難は、すべて敵国によるのではなく、また多くは辺吏の擾乱によって致されるものである。もし縁辺の諸砦が撫御に人を得て、ただ峻壘深溝を築き、力を蓄え鋭気を養い、安逸を以て自ら処し、我を寧んじて人を致すならば、これこそ李牧が趙を用いた所以である。いわゆる卒を択ぶは将を択ぶに如かず、力を任ずるは人を任ずるに如かず。かくの如くすれば辺鄙は寧かになり、辺鄙が寧かになれば輦運は減じ、輦運が減ずれば河北の民は休息を得る。民が休息を得れば、田業は増え蚕績は広がり、農に務めて穀を積み、以て辺用を実にする。かつ敵人の心も固より利を択び害を避けるもので、どうして諸々の死地に投じて寇となることを肯んじようか。

臣は聞く、六合を家とする者は天下を心とし、ただ尺寸の事を争い、強弱の勢を角するのみではない、と。是の故に聖人は本を先にして末を後とし、内を安んじて以て外を養う。人民は本なり、疆土は末なり。五帝三王、未だ先ず根本にせざる者はない。堯・舜の道に他はなく、民を安んじてこれを利するに在るのみ。民すでに安んじ利せられれば、遠人も衽を斂めて至るであろう。陛下の民人を愛し、天下を利する心は、真に堯・舜である。臣が慮るには、群臣多くは繊微の利、下を克するの術を以て、窮民を侵し苦しめ、以て功能と為す。生民の疾苦に至っては、これを見ること見ざるが如く、これを聞くこと聞かざるが如く、怨を斂め尤を速めるは、これより大なるはない。伏して望むらくは、慎んで通儒を択び、路を分かちて両浙・江南・荊湖・西川・嶺南・河東を采訪し、凡そ前日賦斂の苛重なるものを改めて正し、これに因って利し、賦税課利を通済せしめ、経久して行うことができ、聖朝の定法と為し、旧弊を除去し、天下諸州に民に不便なるものあれば、長吏に委ねて以て聞かしめ、敢えて故常に循う者は、法を重ねて置く。天下の耳目をして皆陛下の心を知らしめ、陛下の恵を戴かしめ、徳を以て遠方を懐け、恵を以て民を利すれば、則ち遠人の帰すること、立って待つべし。」

六年、江南西路転運副使となり、冬、右補闕に改め、正使を加えられた。齊賢が官に至り、尋ね知ったところ、饒・信・虔州の土産は銅・鉄・鉛・錫の産地であり、前代の鋳法を推求し、饒州永平監の鋳たるものを取って定式とし、歳に五十万貫を鋳、凡そ銅八十五万斤、鉛三十六万斤、錫十六万斤を用い、闕に詣でて面と向かってその事を陳べ、敷奏詳細確実で、議者も奪うことができなかった。

先に、諸州の罪人は多く錮して闕下に送られ、路死する者は十に常に五六であった。齊賢は道で南剣・建昌・虔州の送る所の者に出逢い、牒を索めて視ると、率ね首犯ではなく、悉くその冤抑を伸べた。そこで朝廷に力を尽くして言い、後に凡そ囚を京に送る者は、強明の吏に委ねて慮問させ、実しくなければ、原問の官属に罪が及ぶようにした。ここより江南の罪人を送る者は大半減じた。

先に、江南諸州の小民で、官地に居する者は地房銭があり、吉州の縁江の地はたとえ淪没しても、なお勾欄地銭を納め、木を編んで浮かび居る者は水場銭と名付け、これらは皆前代の弊政であったが、齊賢はことごとく論じてこれを免じた。

初め、李氏が江南を占拠していた時、民戸の税銭三千以上に当たる戸は、戸ごとに壮丁一人を出し、顔に墨刑を施し、自ら器甲を備えて官庫に納め、出征の際にはこれを給付され、日々糧食二升を支給され、義軍と称した。内附した後は、皆放免されて農耕に帰した。この時、言上する者が、この輩は久しく行伍にあって、耕農を喜ばず、と、使者を派遣して選抜し軍伍に充て、その家属と共に闕下に送ることを請うた。齊賢は上言して、「江南の義軍は、例えて良民であり、横にげい配に遭い、逃避する所無し。克復の後、直ちに放免して農に帰し、久しく皇風に被り、皆楽業す。もし戸ごとに搜索せば、驚擾無からず。法は常あるを貴び、政は清浄を尚ぶ。前の勅命は既に営農を放免したので、旧貫に仍るが如し」と述べた。齊賢は使職に在り、民弊を勤めて究め、寛大を行うことを務め、江左の人々はこれを思い忘れなかった。召還されて、樞密直學士を拝し、右諫議大夫・簽書樞密院事に擢げられた。

雍熙初年、左諫議大夫に遷った。三年、大挙して北伐し、代州の楊業が戦没した。上は近臣に策を訪ね、齊賢は行くことを請い、直ちに給事中・知代州を授けられ、部署の潘美と共に縁辺の兵馬を領した。この時、遼兵が湖谷より入寇し、城下に迫った。神衛都校の馬正が配下を率いて南門外に列したが、衆寡敵せず、副部署の盧漢贇は畏懦して、壁を保ち自ら固守した。齊賢は廂軍二千を選び、馬正の右に出て、衆に誓って慷慨し、一をもって百に当たり、遼兵は遂に退いた。

先に、潘美と併師を以て会戦することを約したが、間もなく、間使が遼人に捕らえられた。齊賢は師期が既に漏れたことを以て、且つ潘美の衆が遼に乗ぜられることを憂えた。既にして潘美の使者が至り、云うには、師はへい州を出て、柏井に至り、密詔を得て、東師が君子館で敗績し、并州の全軍は出戦を許されず、既に州に還ったと。この時、遼兵が川を塞いだ。齊賢は曰く、「賊は美の来るを知りて、美の退くを知らず」と。乃ちその使者を密室に閉じ、夜中に兵二百を発し、人ごとに一幟を持ち、一束の芻を負い、州城の西南三十里に距り、幟を列ね芻を燃やした。遼兵は遥かに火光の中に旗幟あるを見て、意に併師の至れるを謂い、駭いて北に走った。齊賢は先に歩兵二千を土磴砦に伏せ、掩撃して大いにこれを破り、その北大王の子一人を擒え、帳前の錫利一人を獲、数百級を斬り、馬二千・器甲甚だ衆を獲た。捷を奏し、且つ功を漢贇に帰した。

端拱元年冬、工部侍郎を拝した。遼人はまた大石路より南侵し、齊賢は予め廂兵千人を簡びて二部と為し、分かれて繁畤・崞縣に屯した。下令して曰く、「代の西に寇あれば、則ち崞縣の師これに応じ、代の東に寇あれば、則ち繁畤の師これに応ず。戦に接すれば、則ち郡兵集まる」と。この時、果たして繁畤の兵に敗られた。

二年、屯田を置き、河東制置方田都部署を領し、入朝して刑部侍郎・樞密副使を拝した。淳化二年夏、參知政事となり、数月にして、吏部侍郎・同中書門下平章事を拝した。齊賢の母孫氏は年八十余り、晉國太夫人に封ぜられ、毎に禁中に入謁するに、上はその福壽・令子あるを歎じ、多く手詔を以て存問し、賜与を加え、搢紳これを栄とした。

初め、王延德と朱貽業が同しく京庾を掌り、外補を求めんと欲し、貽業は參政の李沆と姻婭あり、これを託して沆に請わしめ、沆は齊賢に請うた。齊賢はこれを聞した。太宗は延德が嘗て晉邸に事えたことを以て、その自ら陳せずして執政に干祈するを怒り、召見して詰責した。延德・貽業は皆実を以て対せず、齊賢は沆を累わすを欲せず、独りその責を任じた。四年六月、尚書左丞に罷められた。十月、知定州を命ぜられたが、母老いて往くを願わず、間もなく、丁内艱に遭い、水漿を口にせざること七日、ここより日ごとに粥一器を啖い、喪終わるまで酒肉蔬果を食さず。尋いで復た禮部尚書・知河南府に転じた。時に獄に大辟将決する者あり、齊賢至り、立ってこれを弁じて釈した。三日にして、知永興軍に徙った。時に閣門祗候の趙讚が言事を以て幸を得、關中芻糧を提点し、為す所多く豪横なり。齊賢はその罪を論列し、遂に法に抵した。俄かに襄州に徙り、荊南に移り、また安州に徙った。年を逾えて、刑部尚書を加えられた。

真宗即位し、召して兵部尚書・同中書門下平章事を拝した。嘗て従容として上に皇王の道を言い、而してその所以然るを推本し、且つ言うには、「臣は陛下の非常の恩を受く、故に非常を以て報いんとす」と。上曰く、「朕は皇王の道は跡有るに非ずと為す、但だ庶事治道に適えば則ちこれに近し」と。時に戚里に財を分けて均しからざる者あり、更に相訟し、また宮中に入り自ら訴えた。齊賢曰く、「是れ臺府の能く決する所に非ず、臣請う自らこれを治めん」と。上これを俞した。齊賢は相府に坐し、訟者を召して問うて曰く、「汝は彼の分くる財多く、汝の分くる少なきを以て然るに非ずや」と。曰く、「然り」と。款を具するを命じた。乃ち両吏を召し、甲家をして乙舍に入らしめ、乙家をして甲舍に入らしめ、貨財は動かすを得ず、分書は則ちこれを交易せしめた。明日奏聞し、上大いに悦びて曰く、「朕固より君に非ざれば定むること能わざるを知れり」と。郊祀し、門下侍郎を加えられた。李沆と同事し、相得ず。冬至朝会に坐して酒に失儀し、相を免ぜられた。

四年、李繼遷が清遠軍を陥落させ、涇・原等州軍安撫經略使を命ぜられ、右司諫の梁顥をその副と為した。齊賢は上言して謂う、「清遠軍陥没以来、青岡砦焼棄の後、霊武一郡は、援隔れ勢孤なり、これ繼遷の覬覦して必ず至らんとする所なり。事勢を以て言えば、討を加うれば則ち足らず、防遏すれば則ち余りあり。その計他に無し、蕃部の大族首領で素より繼遷と隙ある者、若し官爵を以て啖い、貨利を以て誘い、恩信を以て結び、而して利害を以て激すれば、則ち山西の蕃部族帳は、朝廷に傾心せざる無からん。臣の領する十二州軍は、現に二万余人を見る、若し縁辺の料柬本城等の軍を、更に五万余人を得て、蕃部を招致すれば、その数また十数万を逾えん。但だ彼出ずれば則ち我帰り、東に備えれば則ち西を撃ち、之をして奔走暇あらしめず、何ぞ能く我が患いと為さんや。今霊武の軍民は六七万に翅らず、危亡の地に陥り、若し繼遷来春我が兵未だ挙げざる前に、兵を発して霊武を救援し、その衆を尽く駆り、力を併せて攻囲すれば、則ち霊州孤城は必ず固守難し。万一失陥すれば、賊勢益々増し、縦え多く甲兵を聚め、広く財貨を積むとも、亦た必勝を保ち難し。臣の潘羅支を六谷王に封じ厚く金帛を以てするを乞う所以は、繼遷の旦暮に兵を用いて彼の売馬の路を断たんことを恐るるなり。苟も朝廷の信使潘羅支に達するを得ば、則ち泥埋等の族・西南の遠蕃は、招集難からず。西南既に命を禀すれば、而して縁辺の勢張り、則ち鄜・延・環・慶の浅蕃、原・渭・鎮戎の熟戸は、自然に帰化せん。然る後に之をして対替の甲兵及び駐泊の軍馬と互いに声援と為さしめれば、則ち萬山これを聞き、必ず霊州・河西に兵を頓えることを敢えざらん。萬山既に退けば、則ち賀蘭の蕃部も亦た稍稍として繼遷に叛かん。若し曰く、名器は以て人に仮すべからず、爵賞は以て濫及すべからずと、これ乃ち聖人の治を為す常道なり、時に随いて変易するの義に非ず」と。

齊賢はまた江淮・荊湘の丁壮八万を調発して防禦を益さんことを請うたが、朝議は動揺を為すとし、兼ねて澤国の人民、遠く西鄙に戍するは亦た便ならずとし、計遂に寝た。

齊賢また言う、「霊州は孤立した一隅にあり、城鎮が完全で、砂漠の道が塞がれていない時でさえ、朝廷内外は既に放棄すべしと言い、継遷が患いとなって以来、危険困窮はますます甚だしい。南は鎮戎より約五百余里、東は環州より僅か六七日の行程、かくの如き危険な道程は、攻め奪わずとも、城中の民は何によって出で、城中の兵は何によって帰らんや?軍民を全うせんと欲すれば、理として応接すべきなり。今の計りとして、もし精兵を増益し、以て西辺に屯駐し、交代する兵と合わせ、原・渭・鎮戎の師を従え、山西の熟戸を率いて東界より入り、師期を厳しく約し、両路より交えて進む。もし継遷が分兵して敵に応ずれば、我は勢いに乗じて攻め易からん。かつ奔命する途道は、首尾衛り難く、千里の利に趨くは、敗れざれば則ち擒らるるなり。臣は謂う、兵鋒未だ交わらずして、霊州の囲み自ずから解けん。然る後に霊州の軍民を取り、蕭関・武延川の険要の処に砦を置きて僑寓せしめん。かくの如くすれば、蕃漢の士人の心に依頼する所あらん。裁ちて平寧を待ち、却って旧貫に帰し、然る後に蕃漢の兵を縦ち、時に乗じて進退を為さしめば、則ち成功難からざるなり。」時に用いる能わず。未だ幾ばくもせず、霊武果たして陥つ。

閏十二月、右僕射・判邠州を拝す。行かず、改めて判永興軍兼馬歩軍部署と為す。時に薛居正の子惟吉の妻柴氏、子無くして早く寡なり、その貨産及び書籍論告を尽く蓄え、斉賢に改めて適せんと欲す。惟吉の子安上、その事を上訴す。上、理に置かんと欲せず、司門員外郎張正倫を命じて就きて訊わしむ。柴氏の対する所、安上の状と異なり。その事を御史に下す。乃ち斉賢の子太子中舎宗誨、柴氏に教えて詞と為す。斉賢坐して責められ太常卿・分司西京と為り、宗誨は海州別駕に貶せらる。

景德初、起用されて兵部尚書・知青州と為る。上澶淵に幸す。青・淄・濰州安撫使を兼ねしむ。二年、吏部尚書に改む。上疏して言う、「臣、先朝に在りし時、常に霊・夏の両鎮が終には継遷に併呑されんことを憂え、言事者、臣の慮る所を以て過ぎたりと為し、略々既往の事を挙げて本末を明らかにせん。当時臣下皆、継遷はただ父祖の旧地を懐恋するのみにて、他の心無しと為し、先帝、銀州廉察を以て与え、庶幾くはその意を満たさんとす。爾来攻劫已まず、遂に麟・府州界の八部族蕃酋を降し、又賀蘭山下の帳族を脅制す。言事者猶、封奨厚からずと謂う。陛下、銀・夏の土壤を賜い、節旄を以て寵するに及び、ここより姦威愈々滋く、逆志尤も暴なり。屡々霊州の糧路を断ち、又縁辺の城池を撓ます。数年之間、霊州終に吞ぜいせらる。霊池・清遠軍垂く陷没せんと欲する時、臣方に経略の命を受く。臣、継遷は須らく一両処の強大なる蕃族を得て之と敵を為さしむべしと思う。此れ乃ち蛮夷を以て蛮夷を攻むる、古今の上策なり。遂に六谷の名目を以て潘羅支を封ぜんことを請い、その展効を俾かしむ。其の時近臣の見る所、全く臣の謀と異なり、多く沮撓と為る。継遷、潘羅支に射殺せらるるに及び、辺患少しく息むべしと謂う。今その子徳明、前に依りて攻劫し、析逋遊龍缽等尽くその部下に在り、その志又似た小さからず。臣、徳明が大駕東幸の際に乗じ、六谷を攻め去らんことを慮る。則ち瓜・沙・甘・肅・于闐諸処漸く控制せらるるに至らん。向使潘羅支尚在せば、則ち徳明未だ虞るに足らず。今潘羅支已に亡び、廝鐸督恐らくはその敵に非ざらん。大臣を委ねて其事を経制せんことを望む。」

東封より還り、復た右僕射を拝す。時に玉清昭応宮を建つ。斉賢、絵画符瑞は謙徳を損ない、又奉天の意に違うと言い、屡々その役を罷めんことを請う。

三年、出でて判河陽と為り、汾陰に従祀して還り、左僕射に進む。五年、代わりて還り、老いを請い、司空を以て致仕す。便坐に入り辞す。方に拝して仆す。上遽かに之を止め、二子に扶掖して殿に昇らしむるを許し、座茵を益して三と為すを命ず。

洛に帰り、裴度の午橋荘を得る。池榭松竹の盛んなり有り、日々親旧と其の間で觴詠し、意甚だ曠適なり。七年夏、薨ず。年七十二。司徒を贈られ、諡して文定と曰う。

斉賢は姿儀豊碩にして、議論慷慨、大略有り、以て君を致すを自ら負う。刑獄に心を留め、多く全活す。寒雋を提奨するを喜ぶ。少時家貧しく、父死して以て葬る無し。河南県吏其の事を弁ず。斉賢深く之に徳し、兄の礼を以て事え、貴しと雖も替えず。仲兄昭度嘗て斉賢に経を授く。及び卒す、表して光禄寺丞を贈る。又嘗て太子少師李肅の家に依る。肅死す、葬事を営み、歳時之を祭る。趙普嘗て斉賢を太宗に薦む。未だ用いられず。普即ち前の列事を具し、以て謂う、「陛下若し斉賢を進めば、則ち斉賢他日感恩、此れに過ぎん。」上大いに悦び、遂に大用す。种放の起つは、斉賢の薦むる所なり。斉賢四たび両府を践み、九たび八座に居り、三公を以て第に就き、康寧福寿、時に其の比罕なり。相に居る日、数たび大獄を起こし、又寇準と相傾く。人或いは此れを以て之を少くす。

斉賢の諸子皆能く立つ有り:宗信は内殿崇班、宗理は大理寺丞、宗諒は殿中丞、宗簡は閣門祗候、宗訥は太子中舎、宗礼最も賢し。累資朝に登るも、羈束を畏れ、故に多く田里に居る。

斉賢の次子 宗誨

宗誨、字は習之、斉賢の第二子なり。少くして兵法を学ぶを喜び、陰陽・象緯の書通究せざる無し。父蔭を以て秘書省正字と為り、太子中舎に遷り、海州別駕に貶せらる。嘗て河陽を通判し、徙めて富順監を知る。会うに夷人斗郎春叛き、群獠皆騒動す。宗誨郡兵を将いて之を攻破す。開封府判官・三司度支勾院に擢でらる。宗誨開封に在る日、御史王沿其の酒を嗜み事を廃するを劾す。及び河北転運使と為り、乃ち沿が喪に居り官舟を仮りて賈販するを発す。朝論之を悪む。会うに調発民を擾ますを以て、徙めて徐州を知る。累遷して太常少卿と為り、後永興軍兵馬鈐轄と為り、又徙めて鄜延路兼知鄜州と為る。元昊延安を寇す。劉平・石元孫敗没す。鈐轄黄徳和遁れて還る。延州納れず、又鄜州に走る。宗誨曰く、「軍奔れて将帰る所無からば、之を激すれば則ち乱を為さん。」乃ち之を納れ、徳和を拘えて以て聞す。是の時鄜城完からず、且つ備え無し。寇兵至ると伝言し、人心安からず。宗誨乃ち斥候を厳にし、入るを籍し出づるを禁じ、老幼をして倂力して之を守禦せしむ。敵亦自ら引き去る。興州防禦使を領し、復徙めて永興鈐轄兼知邠州と為り、秘書監を以て致仕す。

嘗て干謁に事う。其の子曰く、「昔賀秘監道士の服を以て東帰して会稽に至り、明皇鑒湖を賜いて以て休老の地と為す。今洛下に鑑湖無しと雖も、嵩・少・伊、天下の佳処、朝廷の賜う所に非ざるも、皆閑逸の人の所有する所なり。大人何ぞ羽服を衣て以て優遊せざる、必ずしも更に事を請謁するを須いんや。」宗誨曰く、「吾れ白頭の老監秘書として眠らん、何を以て賀老の流沙の服を為さんや。」時に名言と為す。

初め、斉賢代州を守る。宗誨嘗て計画に預かる。其の保任する親族は疏近を問わず、年を以て先後と為す。然れども性貪にして、謝事すと雖も、猶貨殖に事え、以て卒するに至る。子二人。

宗誨の子 子皋

子皋は字を叔謨といい、若くして才名があったが自ら誇らず、人々は喜んで彼と交遊した。最も尹洙と親しく、洙は言った、「私は天下の士と多く交わったが、通達するか否かによって意を変えない者は、子皋である」と。進士に挙げられ、秘書郎・新鄭県知事を試みた。斉賢が宰相となったため、校書郎に遷り、館閣に頌を献じて著作佐郎に抜擢され、直史館に進み、累官して尚書司封員外郎に至った。

宗誨の子に子憲あり。

子憲は字を彦章といい、蔭により将作監主簿となり、文を献じて同進士出身を賜り、累遷して尚書刑部郎中・光化軍知軍となった。戍卒がその帥韓綱を逐い、余党が乱を起こしたが、子憲はこれを招降した。徴税が重く、多くが租税を滞納していたので、子憲はこれを除くよう上奏した。太常少卿・三司塩鉄判官・直史館・洪州知州を歴任した。右諫議大夫・桂州知州に遷ったが赴任せず、御史に弾劾され、秘書監に降格した。再び光禄卿となり、直秘閣を加えられ廬州知州となり、秘書監に遷り、累職して揚州に移り、卒した。

賈黃中

黃中は幼くして聡明で悟りが早く、わずか五歳の時、毎朝立たせて書巻をその身長と比べ、「等身書」と称し、その誦読を課した。六歳で童子科に挙げられ、七歳で文を作ることができ、触類して詩賦を詠んだ。父は常に野菜食を命じ、「学業が成るのを待って、初めて肉を食べさせる」と言った。十五歳で進士に挙げられ、校書郎・集賢校理を授かり、著作佐郎・直史館に遷った。

建隆三年、左拾遺に遷り、左補闕を歴任した。開宝八年、定州通判となり、太常礼院を判じた。黃中は典故に詳しく、礼文を詳定する毎に損益が適中し、称職と号された。

嶺南が平定されると、黃中を采訪使とし、廉直で平恕であり、遠方の民はこれを便利とした。還って利害数十事を奏上し、いずれも旨にかなった。江表を平定するに及び、宣州知州に選ばれた。凶年に、民多く盗賊となったが、黃中は己の俸禄を出して糜粥を作り、頼って全活する者が数千に及び、さらに盗賊を鎮める法を設けたため、ついに皆解散して去った。

太宗が即位すると、礼部員外郎に遷った。太平興国二年、昇州知州となった。当時金陵は帰附したばかりで、黃中の行政は簡易であり、管内はよく治まった。ある日、府署の中を巡視し、一室の鍵が非常に堅固なのを見て、開けて見るよう命じたところ、金宝数十櫃を得、その価は数百万に相当し、これは李氏の宮閣中の遺物であったので、ただちに表を奉ってこれを献上した。上は表を覧て侍臣に言った、「黃中の廉恪でなければ、亡国の宝は法を汚し人を害するところであった」と。銭三十万を賜った。父の喪に服したが、起復して職務に就いた。五年、召されて朝廷に帰った。

黃中の文学が高第であると推薦する者があり、召されて中書で試され、駕部員外郎・知制誥に拝された。八年、宋白・呂蒙正らとともに貢挙を同知し、司封郎中に遷り、翰林学士を充てた。雍熙二年、また貢挙を同知し、まもなく吏部選を掌った。端拱初年、中書舎人を加えられた。二年、史館修撰を兼ねた。二度貢挙を典し、多く寒俊を柬抜し、官吏を除擬するに品藻精当であった。淳化二年秋、李沆とともに給事中・参知政事に拝された。太宗はその母王氏を召見し、座を命じ、「子をこのように教えるのは、真の孟母である」と言った。詩を作ってこれを賜り、頒賜は甚だ厚かった。

黃中は平素より呂端の人柄を重んじ、端が襄陽に出鎮するに際し、黃中は力を込めて上に推薦したため、留めて枢密直学士とし、ついに参知政事となった。当世の文行ある士は、多く黃中が推薦引き立てたが、一度も言わず、人はこれを知らなかった。しかし畏慎が過ぎ、中書の政事は多く留まって決断されなかった。

四年冬、沆とともに罷免され本官を守った。翌年、襄州知州となり、母が老いていることを上言して京師に留まることを乞うたため、澶州知州に改められた。辞去の日、上は戒めて言った、「小心翼翼たるは、君臣ともに当然である。もし過ぎれば、大臣の体を失う」と。黃中は頓首して謝した。上は侍臣に言った、「朕はその母に賢徳があり、七十余年にして未だ老いを覚えず、毎に語るに甚だ明敏であることを思う。黃中は終日憂畏しているが、必ずその母が老いたことを先に思っているのだろう」と。そこで参知政事蘇易簡を見て言った、「易簡の母もまたこのようである。古来賢母は多く得られない」と。易簡は進み出て謝して言った、「陛下は孝をもって天下を治め、人の親にまで褒賞が及びます。臣は何様者ぞ、この栄遇に当たるとは」と。

至道初年、黃中は疾に罹り、詔して朝廷に帰るよう命じた。ちょうど儲宮が建てられ、大臣で徳望ある者を賓友に選ぶこととなり、黃中はその選に入った。久しく病んでいたため、改めて李至・李沆に賓客を兼ねさせ、黃中もまた特に礼部侍郎に拝され、至に代わって秘書監を兼ねた。黃中は平素より文籍を嗜み、内閣に居ることを甚だ慰みとした。

二年、疾により卒した。享年五十六。その母はなお無事で、卒したのは上言の通りであった。礼部尚書を追贈された。上はその平素の貧しさを聞き、別に銭三十万を賜った。葬られた後、その母が入謝し、また白金三百両を賜った。上は彼女に言った、「諸孫のことを念うな。朕は必ず忘れない」と。

黃中は端謹で、よく家法を守り、廉白で私心がなかった。多く台閣の故事を知り、談論は娓娓として、聞く者は倦みを忘れた。翰林に在った日、太宗が召見し、時政の得失を訪ねたが、黃中はただ、「臣の職は書詔を典することにあり、思いは位を出ず。軍国の政事は、臣の知るところではありません」と言った。上はますますこれを重んじ、謹厚であると思った。政事を知るに及び、ついに建明するところなく、当時の論はこれを許さなかった。文集三十巻がある。

子に守謙あり、雍熙二年の進士。守正あり、文を献じて召試され、進士第を賜り、後に虞部員外郎となった。守約あり、国子博士。守文あり、殿中丞。守訥あり、右賛善大夫。

論じて曰く、『詩経』に云う、「まことに天子なり、卿士をくだし、実に阿衡あこうたり、実に商王を左右す」と。是の君有れば則ち是の臣有り、是の臣有れば則ち以て是の君をたすくるに足る、と言うなり。太宗は庶政を励精し、輔相に注意し、昉を以て旧徳とし、しばしばに進用を加え、継いで蒙正・斉賢をえらび、相次いで相位に居らしめ、復た黄中を進めて、大政に参ぜしむ。而して四臣はしたがって徳美をおさめ、庶政を修明し、以て承平の治を致す。君臣各々其の道を尽くせる者と謂うべし。君子は李昉は多遜にそしられて而もかえりみず、蒙正は張紳に汚されて而も弁ぜず、斉賢は同列にわずらわされて而も言わず、黄中は薦引する所多きも而も其の功を有せず、と謂う。此れもとより人の難くする所なり。而るに況んや四臣は皆賢宰輔にして、又能く進退礼有り、皆善終を以てす。盛徳の君子に非ずして、其れたれか能くれにあずからんや。