宋史

列傳第二十三 薛居正 沈倫 盧多遜 宋琪 宋雄

薛居正

晉の天福年間、華帥劉遂凝が彼を辟召して従事とした。遂凝の兄遂清が邦計を領すると、奏上して鹽鐵巡官に署した。開運初年、度支推官に改める。宰相李崧が鹽鐵を領すると、また奏上して推官に署し、大理寺直を加えられ、右拾遺に遷る。桑維翰が開封府尹となると、奏上して判官に署した。

漢の乾祐初年、史弘肇が侍衛親軍を領し、威権は主上を震わせ、残忍にして自ら恣にし、その意に逆らう者無し。その部下の吏が民が鹽禁を犯したと告げ、法により死に当たるとした。獄が決せんとするに当たり、居正はその事実に疑いを抱き、召して詰問したところ、吏が民と私怨有り、これに因り誣いたものであり、吏を逮えて鞫いたところ、ことごとく伏して法に抵した。弘肇は甚だ怒ったが、もって屈する術無し。周の廣順初年、比部員外郎に遷り、三司推官を領し、まもなく制誥を知る。周祖が兗州を征するに、詔して居正を行きに従わせ、労により都官郎中を加える。顯德三年、左諫議大夫に遷り、弘文館學士に擢て、館事を判ず。六年、滄州に使いして民租を定む。未だ幾ばくもせず、材幹を以て朝に聞こえ、刑部侍郎に擢て、吏部銓を判ず。

宋初、戶部侍郎に遷る。太祖が李筠及び李重進を親征するに当たり、並びに留司三司を判じ、俄に許州知州として出る。建隆三年、入朝して樞密直學士となり、権知貢挙を為す。初めて湖湘を平らげ、居正を以て朗州知州と為す。時に亡卒数千人が山沢に聚まり盗を為す有り、監軍使は城中の僧千余人皆その党なりと疑い、議して尽く捕え誅せんと欲す。居正は計を以てその事を緩め、因りて衆を率い群寇を剪滅し、賊帥汪端を擒え、これを詰むるに、僧は皆預からず、頼りて全活す。

乾德初年、兵部侍郎を加う。車駕将に太原を親征せんとし、大いに民を発して饋運せしむ。時に河南府飢饉有り、逃亡する者四萬家、上これを憂い、居正に命じて馳伝して招集せしむるに、浹旬の間に民尽く復業す。本官を以て參知政事となる。五年、吏部侍郎を加う。開寶五年、淮南、湖南、嶺南等道都提挙三司水陸発運使事を兼ね、また門下侍郎を判ずるを兼ね、國史を監修す。また《五代史》を監修し、年を逾えて畢り、器幣を以て賜う。六年、門下侍郎、平章事を拝す。八年二月、上、居正等に謂いて曰く、「年穀まさに登り、庶物豊盛なり、若し上天の垂祐に非ずんば、何を以てか斯くに及ばん。宜しく共に物を済うことを思い、或いは闕政有らば、当に振挙して、以て朕が志を成すべし」と。居正等益々政事を修め、以て上の意に副わんとす。

太平興國初年、左僕射、昭文館大學士を加う。晉陽平定に従い還り、司空しくうに進位す。丹砂を服して毒に遇い、方に奏事するに、疾の作るを覚え、遽に出づ。殿門外に至り、水を升余飲み、堂吏が中書に掖きて帰るや、已に言う能わず、ただ廡間に儲うる水器を指すのみ。左右水を取って至るも、飲む能わず、閣中に偃し、気を吐くこと煙焰の如く、輿にて私第に帰り卒す。六年六月の事なり、年七十。太尉、中書令を贈られ、諡して文惠と曰う。

居正は気貌瑰偉にして、酒を飲むこと数斗に至りても乱れず。性孝行純にして、家に居り儉約なり。相と為りては寛簡を任じ、苛察を好まず、士君子これをもって多くす。參政より相となるまで、凡そ十八年、恩遇終始替わらず。

先に、太祖嘗て居正に謂いて曰く、「古より君と為る者は鮮く克く己を正しうし、臣と為る者は多く遠略無し、顕位に居りながらも、後代に名を垂るる能わず、而して身は不義に陥り、子孫は殃に罹る、蓋し君臣の道尽くさるる所未だ有らざるなり。吾れ唐の太宗の諫疏を受け、直ちにその非を詆りて恥じざるを観る。朕の見る所に由れば、自らこれを為さざるに若かず、人をして異詞無からしむ。また古の人臣の多く終始せざるを観る、能く保全して厚福を享くる者は、忠正に由るなり」と。開寶中、居正と沈倫並びに相と為り、盧多遜は參知政事たり、九年冬、多遜もまた平章事と為る。居正の卒するに及び、沈倫は責授せられ、多遜は南流す。論ずる者、居正の道を守りて福を蒙るは、果たして太祖の言に符すとす。

居正は書を読むことを好み、文を為すに筆を落すや自ら休む能わず。子惟吉これを集めて三十巻と為し上る、賜い名づけて《文惠集》と曰う。咸平二年、詔して居正を以て太祖廟庭に配饗せしむ。

子 惟吉

惟吉、字は世康、居正の仮子なり。居正の妻は妒悍にして、子無く、婢妾皆側に侍するを得ず、故に惟吉を養い、これを愛すること甚だ篤し。少にして勇力有り、形質魁岸、京師の少年と追逐し、角抵蹴踘し、酒を縦にして謹まず。雅に音楽を好み、嘗て伶人と遊ぶ、居正知る能わず。蔭補により右千牛衛備身となり、太子通奉舍人を歴て、西頭供奉官に改む。

太宗即位す、三相の子は皆越次して抜擢せられ、沈倫、盧多遜の子は並びに尚書郎と為る。惟吉は文を習わざるを以ての故に、右千牛衛大將軍と為る。居正の卒するに及び、太宗親臨し、居正の妻は喪所に拝す、上は数四存撫し、因りて問うて曰く、「不肖の子何れの処にか在り、頗る行いを改めしや否や。恐らくは先業を負荷する能わざるべし、奈何」と。惟吉は喪側に伏し、窃かに上の語を聞き、懼れて赧し起つことを敢えず。是より已後故態を尽く革め、与に遊ぶ者を謝絶し、喪に居りて礼有り。既にして多く賢士大夫に接し、頗る書史に渉猟し、時論翕然としてこれを称す。上その行いを改むるを知り、澶州知州を令じ、揚州に改む。表を上りて自ら陳じ、左千牛衛大將軍に遷る。内艱に丁し、卒哭し、本官に起復すれども、懇求して終制せんとす、許さず。俄に詔して河南府知府と為し、また鳳翔府知府と為す。

淳化五年、秦州の溫仲舒が木を伐ることを以て蕃戸に攘奪せられ、その部落を駆りて渭北に徙居せしむるに、頗る騒動を致す。詔して守臣を択びてこれを安撫せしむ、乃ち惟吉と仲舒を命じてその任を対易せしむ。未だ幾ばくもせず、左領軍衛大將軍に遷る。至道二年、延州知州に移るも、未だ行かずして卒す、年四十二。

惟吉は既に非を悟り過ちを改め、節を屈して士に下り、財を軽んじて施しを好み、赴任する所には能吏の名声があった。しかし家を治める法なく、その死に及び、家人が財産を争って訴訟を起こし、妻子が公廷で対決したという。

沈倫

周の顕徳初年、太祖が同州節度使を領すと、宣徽使の昝居潤は倫と親しく、太祖に推薦し、幕府に留めた。太祖が引き続き滑・許・宋の三鎮を領すると、皆従事に任じ、留後の財貨を掌り、廉潔をもって知られた。周の禅譲を受けると、宋州観察推官から召されて戸部郎中となった。呉越に使いして帰り、便宜を奏上すること十数件、皆従われた。道すがら揚州・泗州に出て、凶年に属し、民多く死す。郡の長吏が倫に言うには、「郡中の軍糧はなお百余万斛あり、もし民に貸し付け、秋に至って新粟を収めれば、かくのごとくならば公私ともに利あり、公の言でなければならぬ」と。還って詳しくこれを上奏した。朝廷の議論はこれを阻み、「今軍糧をもって飢民を救済すれば、もし凶饉が重なって徴収できずば、誰がその咎を負うか」と言う。太祖が問うと、倫は言う、「国家が倉粟をもって民を救済すれば、自ずから和気を召し、豊作を致す、どうしてまた水旱があろうか。これは宸衷において決すべきである」と。太祖は即座に命じて倉を開き民に貸し付けた。

建隆三年、給事中に遷る。明年の春、陝西転運使となる。王師がしょくを伐つに、随軍水陸転運使に用いられる。先に、王全斌・崔彥進が成都に入った時、競って民家の玉帛子女を取り、倫のみは仏寺に住み粗食し、珍異奇巧の物を献ずる者あれば、倫は皆これを拒んだ。東に帰る時、篋中の所有は、ただ図書数巻のみであった。太祖これを知り、遂に全斌らを貶し、倫を以て戸部侍郎・枢密副使とした。親征して太原に至り、大内都部署を領し、留司三司事を判ず。

先に、倫の邸宅は低く粗末であったが、これを処して平然としていた。時に権要多くは禁を冒して秦・隴の間に巨木を買い、私宅を営み、事露顕するに及び、皆自ら上前に啓した。倫もまた嘗て母のために木材を買い仏舎を営み、因ってその事を奏上した。太祖笑ってこれに謂う、「汝は矩を踰える者にあらず」と。その居第をまだ修繕していないことを知り、因って中使を遣わし図面に按じて工を督めこれを治めさせた。倫は密かに使者に告げ、規模を狭小に得んことを願い、使者これを聞くに上す。上もまたその志に違わず。

開宝二年、母の喪に服す(丁母憂)。起復して視事す。六年、中書侍郎・平章事・集賢殿大学士兼提挙荊南・剣南水陸発運事を拝す。西洛において雩祀を行うに、倫を以て東京留守兼大内都部署とす。俄かに行在に召し赴かせ、大礼に預からしむ。

太平興国初年、右僕射兼門下侍郎を加え、国史監修を兼ねる。親征して太原に至り、また倫を以て留守・判開封府事とす。師還りて、左僕射を加う。五年、史官の李昉・扈蒙が『太祖実録』五十巻を撰す。倫は監修としてこれを献じ、襲衣・金帯を賜う。六年、開府儀同三司を加う。この年疾発し、ここより多く告暇を請う。

盧多遜の事発せんとするに、倫は既に上表して致仕を求めていた。明年多遜敗る。倫がこれと同列にありながら、察知できなかったことを以て、詔して切責を加え、工部尚書に降授す。その子の都官員外郎継宗は、本来父の蔭によるもので、更に朝列にあるべきにあらず、班簿より落とすべし。時に倫は病みて起つ能わず、上表して謝す。未だ幾ばくもなく、倫再び章を奉りて骸骨を乞う。左僕射を授けて致仕せしむ。上は倫が国初の旧臣なるを以て、遽かに継宗の官を復してその心を慰む。雍熙四年、卒す。年七十九。侍中を贈る。

倫は清介醇謹にして、車駕の出づる毎に、多く留守を命ぜらる。釈氏を好み、因果を信ず。嘗て盛夏に室中に坐し、恣に蚊蚋にその膚を噆ましめ、童子が箑を執り至れば、輒ちこれを叱り、以て福を徼さんことを冀う。相位に在る日、凶年に値い、郷人で粟を借りる者は皆これに与え、殆ど千斛に至り、歳余りてその券を尽く焼く。

微賤の時閻氏を娶り、子無し。妾の田氏が継宗を生む。貴くなるに及び、閻は封邑を固く田に譲らんとす。倫は乃ち閻のために太康に第宅を治め、田は遂に正室となる。搢紳これ非とす。

初め、有司が倫の諡を議して「恭恵」とす。継宗上言して曰く、「亡父は冠歳に始めて儒業に事え、賊に従う暇なく、遽かに賓招に赴き、明時に叨遇し、相位に陟る。伏して見るに国朝の故相、薛居正は諡『文恵』、王溥は諡『文献』、これらは近制ながら、実に典常たり。もし臣の父が起家、文学によらざるを以てするならば、即ち嘗て集賢・修史の職を歴任せり。伏して請う、諡を改めて『文』と曰わんことを」と。

判太常礼儀院の趙昂・判考功の張洎が駁して曰く、「沈倫は両朝に事え、早く台弼に昇り、祗畏謹守の美あり、矜恤周済の心有り。案ずるに『諡法』、位に懈かず、及び謹みて事え上に奉り、執事堅固、礼を執りて賓を御し、事を率いて信にし、下に接して驕らず、能く恥辱を遠ざけ、賢にして伐らず、賢を尊び譲を貴び、民を愛して悌を長じ、懈かずして徳と為し、過ちて能く改む、数者皆これを『恭』と謂う。又云う、民を慈しみ与うことを好む、及び質柔かにして民を慈しみ、民を愛して柔を好み、寛裕にして苛まず、質和らかにして諫を受く、数者皆これを『恵』と謂う。漢以来、皆美諡たり。唐の相たる温彦博の出納明允なるも、止めて『恭』と諡し、竇易直の公挙に避くるところ無きも、乃ち『恭恵』と諡す。而して沈倫は台衡の位を備え、際会より出で、徒に謹飭を能くして自ら保全するのみ。『恭』を以て『恵』に配すれば、その美居多し。又按ずるに『諡法』、道徳博聞を『文』と曰い、忠信礼に接するを『文』と曰い、寛にして慢せず廉にして劌せざるを『文』と曰い、堅強にして暴ならざるを『文』と曰い、敏にして学を好み下問を恥じざるを『文』と曰い、徳美才秀なるを『文』と曰い、修治班製するを『文』と曰う。昔、張説の諡は文正、楊綰の諡は文簡、人然りと謂わず。行義に充たざる所あるが故に、特賜を受けしも、誠に至公に非ざるなり。若し大臣の子孫、その父の為に陳請するを許さば、則ち曲臺・考功の司は虚器となり、善を彰し悪を癉すの義微し。継宗はその父が嘗て集賢殿学士及び国史監修の職に任ぜしを以て、輒ち薛居正・王溥を引きて比と為す。則ち彼らは皆辞場に奮跡し、誥命を歴典し、『文』を以て諡と為す、国章に允合す。集賢・国史に至りては、皆宰相の兼領する任にして、必ずしも文雅より登るに由らざるなり。その沈倫の諡は、伏して望むらくは故の如くせんことを」と。これに従う。

子 継宗

継宗、字は世卿。倫が枢密副使たりし時、蔭補により西頭供奉官となる。倫が相となると、水部員外郎を授け、朝散大夫を加う。都官・職方に遷り、浚儀県を知り、屯田郎中に転じ、出でて単州を知る。代わり帰り、命ぜられて京東に使いし財賦を計度す。濮州の土貢は銀、民に織造を課し、省税を折しない。鄆州節度使は属県に薬物の納入を配し、皆民の病と為る。継宗帰り、歴歴として上に言いてその弊を除く。至道末、淮南転運使を領す。

継宗は貴家の子、吏に従うに倦み、既に疾に因り、将作少監を以て致仕す。東封の歳、扈従を求め、再び職方郎中を授かる。礼畢りて、太僕少卿・判吏部南曹に改め、光禄少卿・判三司三勾院に遷る。

継宗は産業を営むことを善くし、養生に厚く、酒を飲まず、音律を嗜まず、賓客を接することを喜び、終日宴集して倦むことがなかった。大中祥符五年、卒す。年五十五。前後してその子惟温・惟清・惟恭を録し、並びに将作監主簿とした。惟温は後に秘書丞に至り、惟清は密王の女宜都県主を娶り、内殿承制に至った。

盧多遜 父 億

盧多遜は、懐州河内の人である。曾祖得一・祖貞啓は皆邑宰となった。父億は、字を子元といい、少より篤学で、孝悌をもって聞こえた。明経に挙げられ、新郷主簿に補せられた。任期満了後、進士に再試され、校書郎・集賢校理となった。晋の天福年中、著作佐郎に遷り、鄆州観察支使として出向した。節帥杜重威は驕慢で賄賂を貪り、幕府では賄賂が公然と行われたが、ただ億のみが清廉自持した。時に景延広が天平を鎮め、億を書記に表薦し、西洛を留守した時も、また判官に表薦した。当時国用が窮乏し、民財を取って軍を助けたが、河南府は二十万緡を算出した。延広はこれに便乗して余利を図り、三十七万緡に増やそうとした。億は諫めて言った、「公は将相を兼ね、既に富み且つ貴い。今国庫は空しく枯渇し、已むを得ずして民から資財を取るのに、公はどうしてこれに利を貪られようか」。延広は慚じて止めた。

漢の初め、魏王承訓を開封尹とし、億に水部員外郎を授け推官を充てた。時に侍衛諸軍が驕恣で、朝廷はこれを姑息し、軍士成美が驢に塩を負わせて都門に入ると、門番は敢えて捕えず、反って平民孟柔を捕えて侍衛司に送った。柔は自ら誣伏し、棄市に当たると論じられた。億はその冤罪を察し、漢祖に言ってこれを釈放させた。

周の初め、侍御史となった。漢末の兵乱で、法律の書物が亡失した。ここに至り、大理が律令格式を重ねて書き、統類編勅を奏上した。そこで詔して億と刑部員外郎曹匪躬・大理正段濤に同しく議定を加えさせた。旧本は京兆府を五府と同じに改め、開封・大名府を河南府と同じに改め、長安ちょうあん・万年を次赤県とし、開封・浚儀・大名・元城を赤県とした。また東京諸門の薫風等を京城門とし、明徳等を皇城門とし、啓運等を宮城門とし、昇龍等を宮門とし、崇元等を殿門と定めた。廟諱の字が書不成文のもの、凡そ点画及び義理の誤字二百十四字を改めた。また晋・漢及び周初の事で刑法勅条に関わるものを分けて二巻とし、編勅に附し、自ら『大周続編勅』とし、詔して施行させた。俄かに本官をもって雑事を知り、左司員外郎を加え、主客度支郎中に遷り、並びに弘文館直学士を兼ねた。世宗晏駕し、山陵判官となり、河南令として出向した。

宋の初め、少尹に遷った。億は性恬退で、その子多遜が知制誥となったと聞くと、即ち上章して官を解くことを請うた。乾徳二年、少府監をもって致仕した。

多遜は、顕徳初め、進士に挙げられ、秘書郎・集賢校理に解褐し、左拾遺・集賢殿修撰に遷った。建隆三年、本官をもって知制誥とし、祠部員外郎を歴任した。乾徳二年、権知貢挙となった。三年、兵部郎中を加えられた。四年、再び権知貢挙となった。六年、史館修撰・判館事を加えられた。

開宝二年、車駕が太原を征した時、多遜をして太原行府事を知らしめた。常山に幸を移すと、また権知鎮州を命じた。師が還ると、直学士院となった。三年春、再び貢挙を知った。四年冬、翰林学士に命ぜられた。六年、江南に使いして還り、江南が衰弱し図ることができる状況を言上した。詔を受けて『五代史』を同修し、中書舎人・参知政事に遷った。父の喪に服したが、数日で起復して視事した。時に史館修撰扈蒙が時政記の復修を請うたので、詔して多遜にその事を専らさせた。金陵平定後、吏部侍郎を加えられた。

太平興国初め、中書侍郎・平章事に拝された。四年、太原平定に従って還り、兵部尚書を加えられた。

多遜は経史に広く渉猟し、聡明で強力、文辞は敏給で、術数を好み任じ、謀略があり、発する言葉は多く奇中した。太祖は読書を好み、毎度書を史館から取ると、多遜は事前に吏に命じて自分に白状させ、取る書を知ると、必ず徹夜で閲覧し、太祖が書中の事を問うと、多遜は滞りなく応答し、同列は皆これに服した。

先に、多遜が知制誥の時、趙普と協わず、翰林に在った日も、毎度召対される度に、多く普の短所を攻撃した。未だ幾ばくもせず、普は河陽に出鎮した。太宗が践祚すると、普は入朝して少保となった。数年後、普の子承宗が燕国長公主の女を娶り、承宗が丁度潭州を知っていたが、詔を受けて帰闕し婚礼を挙げた。一ヶ月も経たぬうちに、多遜が任に帰らせるよう白上したので、普はこれにより憤怒した。

初め、普が河陽に出鎮した時、上言して自ら訴えて云う、「外人が臣が皇弟開封尹を軽く議論したと言いますが、皇弟は忠孝全徳で、豈に間然たる所がありましょうか。況や昭憲皇太后が大漸の際、臣は実に顧命を預け聞きました。臣を知る者は君です、願わくは昭鑒を賜わりますように」。太祖はその書を手ずから封じ、宮中に蔵した。ここに至り、普は再び密奏して、「臣は開国の旧臣、権幸に沮まれた」と。因って昭憲の顧命及び先朝の自訴の事を言上した。上は宮中で普の前に上った表を訪れ得て、因って感悟し、即ち承宗を京師に留めた。未だ幾ばくもせず、再び普を相として用い、多遜は益々自ら安んぜず。普は屡々多遜を諷し、引退するよう勧めたが、多遜は権位に貪り固執し、決断できなかった。

時に多遜が嘗て堂吏趙白を遣わして秦王廷美と交通した事があると聞こえ出し、太宗は怒り、詔を下してその不忠の罪を数え、守兵部尚書に責授した。明日、多遜を吏に属させ、翰林学士承旨李昉・学士扈蒙・衛尉卿崔仁冀・膳部郎中知雑事滕中正に雑治させた。獄が具すると、文武常参官を召して朝堂に集議し、太子太師王溥等七十四人が奏議して曰く、「謹んで案ずるに兵部尚書盧多遜は、身は宰司に処り、心に顧望を懐き、密かに堂吏を遣わし、親王と交結し、言語を通達し、君父を呪詛し、大逆不道、紀を干し常を乱し、上は国恩に負い、下は臣節を虧く、宜しく斧鉞に膏すべく、以て刑章を正すべし。その盧多遜は請う、有司の断ずる所に依り、在身の官爵を削奪し、法に準じて誅斬すべし。秦王廷美もまた請う、盧多遜と同じく処分し、その縁坐する所の者は、律文に準じて裁遣することを望む」と。

かくて詔を下して曰く、「臣の君に事ふる、貳すれば則ち辟有り、下の上を謀る、將にして必ず誅す。兵部尚書盧多遜、頃に先朝より擢て大政に參ぜしめ、予の臨御に及び、台衡を正せしむ。職は燮調に在り、任は輔弼に當る。深く倚毗に負ひ、補報を思はず、而るに乃ち姦宄を包藏し、君親を窺伺し、乘輿を指斥し、藩邸に交結す。大逆不道、言ふべからざる所なり。爰に近臣を遣はし、雜て其の事を治めしむ。醜跡盡く露はれ、具獄已に成る。有司刑を定め、外廷議を集む。僉に其の族を梟夷し、其の宮を汙瀦し、以て憲章を正し、經義に合はんことをす。尚ほ嘗て重位に居り、久しく明廷に事へしを念ひ、特寬に盡室の誅を寬め、止だ投荒の典を用ふ。實に汝負ふ有り、我恩無きに非ず。其の盧多遜、在身の官爵及び三代の封贈、妻子の官封、並びに用ひて削奪追毀す。一家の親屬、並びに崖州に配流す。所在馳驛して發遣す。縱ひ大赦を經るとも、量移の限に在らず。期周已上の親屬、並びに邊遠州郡に配隷す。部曲奴婢は之を縱す。餘は百官の議する所に依れ。中書吏趙白、秦王府吏閻密、王繼勳、樊德明、趙懷祿、閻懷忠、並びに都門外に斬る。仍て其の家を籍し、親屬は海島に流配す。」

閻密は初め廷美の左右に給事し、太宗即位し、殿直に補し、仍て秦邸に隷す。恣横にして法に不法。王繼勳は尤も廷美の親信する所、嘗て聲妓を求訪せしむるに使はし、繼勳因りて勢を怙て貨賄を取る。德明は素より趙白と遊處し、多遜之に因りて機事を傳達し、以て廷美を結ぶ。又累りて懷祿を遣はし、私に同母弟軍器庫副使趙廷俊を召して語らしむ。懷忠は嘗て廷美に使はれて淮海國王錢俶の許に詣り、白金・扣器・絹扇等を遺る。廷美又嘗て懷忠を遣はし、銀器・錦彩・羊酒を齎し、其の妻の父潘璘の營に詣り軍校を宴す。是に至り皆罪に伏す。多遜累世の墓は河内に在り、未だ敗れざる前、一夕震電有りて、盡く其の林木を焚く。聞く者之を異とす。

多遜海外に至り、部送者の還るに因り、表を上りて謝を稱す。雍熙二年、流所に卒す。年五十二。詔して其の家を容州に徙す。未だ幾ばくもあらず、復た荊南に移置す。端拱初め、其の子雍を錄して公安主簿と爲し、其の懷州籍沒の先塋を還す。雍卒す。諸弟皆特敕を以て州縣官を除す。

初め、億性儉素にして、自ら奉る甚だ薄し。多遜貴顯に及び、賜賚優厚にして、服用漸く侈にす。愀然として樂しまず、親友に謂ひて曰く、「家世儒素、一旦富貴暴に至る。吾未だ稅駕の所を知らず。」と。後多遜果たして敗る。人其の識を服す。

咸平五年、又た雍の弟寬を錄して襄州司士參軍と爲す。寬の弟察、景德の進士に中り、將に廷試せんとす。特詔を以て州掾を授く。大中祥符二年、始めて簿尉に改む。三年、察多遜の喪を奉じて歸り襄陽に葬る。又詔して本州に察に錢三十萬を賜ふ。四年、仍て其の孫又玄を錄して襄州司士と爲す。

宋琪

乾德四年、召して左補闕・開封府推官に拜す。太宗府尹と爲り、初め甚だ禮遇を加ふ。琪宰相趙普・樞密使李崇矩と善く、門下に出入し、遂に之を惡み、乃ち太祖に白して琪を出して龍州を知らしめ、閬州に移す。開寶九年、護國軍節度判官と爲る。

太宗即位し、闕に赴くを召す。時程羽・賈琰皆府邸より攀附して顯要に致る。琪を抑へて久しく調ふるを得ず。太平興國三年、太子洗馬を授け、召見して詰責す。琪拜謝し、悔過自新を請ふ。太常丞に遷り、出でて大通監を知る。五年、歸るを召し、將に擢用せんとす。盧多遜に沮らる。都官郎中に改め、出でて廣州を知らんとす。將に行かんとす。復た藩邸の舊僚を以て留め判三司勾院と爲す。七年、三司使王仁贍と廷に事を辯じて旨に忤ふ。責めて兵部員外郎を授け、俄に開封府事を通判す。京府通判を置くは琪より始まる。

八年春正月、擢て右諫議大夫・同判三司に拜す。三月、左諫議大夫・參知政事に改む。是の秋、上將に工部尚書李昉を以て國政に參預せしめんとす。琪先に入るを以て、乃ち琪を遷して刑部尚書と爲す。十月、趙普南陽に出鎮す。琪遂に昉と同く平章事に拜す。員外郎より歲中四遷して尚書に至り相と爲る。上謂ひて曰く、「世の治亂は、賞其の功に當り、罰其の罪に當れば、即ち治まらざる無し。喜怒の具を飾ると爲せば、即ち亂れざる無し。卿等之を慎め。」と。

九年九月、上景龍門外に幸して水磑を觀る。因りて侍臣に謂ひて曰く、「此の水は山源より出で、清冷甘美なり。凡そ河水に近きは味皆甘し。豈に餘潤の及ぶ所に非ざらんや。」と。琪等對へて曰く、「實に地脈潛通するに由りて然るなり。亦た猶人の善惡の染習を以て成るが如し。」と。其の年冬、郊祀禮畢り、門下侍郎・昭文館大學士を加ふ。

一日、上琪等に謂ひて曰く、「在昔帝王多く崇高を以て自ら處し、顏色嚴毅、左右敢へて質言する者無し。朕卿等と周旋款曲し、時事を商榷するは、蓋し上下の情を通じ、壅蔽有らしめざらんと欲するなり。卿等但だ直道を行ひ、顧避する所有ること無かれ。」と。琪謝して曰く、「臣等非才、相府に待罪す。陛下曲に溫顏を賜ひ、愚懇を盡くさしむ。敢へて傾竭して聖意に副はざらんや。」と。會す詔して宮城を廣む。宣徽使柴禹錫別第表識内に在り。上言して官邸を易へんことを願ふ。上奏を覽て悅ばず。禹錫陰に琪を結び、因りて白して盧多遜の舊第を請はんと欲す。上益之を鄙む。先づ是れ、簡州軍事推官王澣引對す。上其の雋爽を嘉し、面して朝官を授く。翼日、琪奏して澣は經學出身、一任幕職、例にて七寺丞を除く。上曰く、「吾已に之を許せり。東宮官と與ふべし。」と。琪執ひて從はず、大理丞告牒を擬して進入す。上批して曰く、「右讚善大夫とすべし。」と。琪勉めて命に從ふ。上滋に悅ばず。

初め、上琪をして馬仁瑀の寡妻高繼冲の女を娶らしめ、厚く賜與を加へて采を助く。廣南轉運王延範は高氏の親なり。廣州を知る徐休復密に其の不軌を奏し、且つ其の大臣に依附するを言ふ。上因りて琪と禹錫入對するに及び、延範何如なる人かを問ふ。琪未だ其の端を知らず、盛んに延範強明忠幹なるを言ふ。禹錫旁に奏して琪と同し。上琪の交通するを意ひ、其の狀を暴せんと欲せず、因りて琪素より詼諧を好み、大臣の體無きを以て、本官を守らしめて罷む。禹錫左ぎょう衛大將軍を授く。琪將に罷めらんとする前數日、異鳥有りて琪の待漏の所に集る。之を驅るも去らず。是に及び相を罷む。人以爲く先兆と云ふ。

端拱初め、上親ら籍田を耕す。舊相を以て位を進めて吏部尚書と爲す。二年、將に幽薊を討たんとす。詔して群臣各邊事を言はしむ。琪上疏して謂ふ。

精鋭の甲兵を大挙して討伐に当たらせ、霊旗の指すところ、燕城は必ず降伏するであろう。しかし進軍の経路には、険易の差がないわけではない。もし雄州・州の道を直進すれば、必ずや再び陽城の包囲のような事態を免れない。界河の北は、沼沢が平坦に広がり、北路を行軍するのは、我が方に利便ではない。況や軍の行進は輜重を離れず、賊の来襲はその深浅を測りがたい。願わくは車駕を回らし、西の山路に向かわせ、大軍を易州に会合させ、孤山の北、漆水の西に沿って山を挟み、糧秣を補給しながら進軍し、涿水を渡り、大房山を並行し、桑幹河に至り、安祖砦より出て、東に燕城を俯瞰すれば、わずか一舎(三十里)の距離である。これは周徳威が燕を平定した道筋である。

易水よりここまで二百余里、すべて山沿いであり、村々が連なり、溪谷が相接し、薪を採り水を汲むのに、我が方が上流を占める。東側は林や丘の平らな岡で、敵騎兵が突撃する地ではなく、内側に槍や弩の歩兵隊を配すれば、まさに王師の防備の方法であり、山上に白幟を立てて見張れば、敵騎の来襲は二十里外からことごとく数えられるであろう。

安祖砦の西北に盧師神祠があり、これは桑幹河が山を出る口で、東は幽州まで四十余里である。趙徳鈞が鎮守していた時、西からの衝撃を防ごうと、かつてこの水を堀り割った。況や河畔には半ば崖岸があり、直接渡ることはできず、平らな所に城を築いて守り、偏師をもって守備すれば、これは彼らの右腕を断つことになる。なお歩奚の寇掠を慮り、雄勇の兵士三五千人を分遣し、青白軍以東の山中で防遏させよ。北は新州・媯川の間、南は易州への大路に出る。その桑幹河水は燕城の北隅に属し、西壁を巡って流れる。大軍が城下に至れば、燕丹陵の東北でこの水を横に堰き止め、高梁河に灌漑すれば、高梁河の岸は狭く、桑幹の水は必ず溢れる。駐掞寺の東から郊亭澱に引き入れれば、三五日で百余里に瀰漫し、すなわち幽州は水の南に隔てられる。王師は州の北に浮橋を繋いで北路を通じさせ、賊騎が来援しても、すでに水に隔てられている。この孤塁を見れば、十日もあれば必ず陥落する。幽州管内および山後八軍は、薊門が守られないと聞けば、必ず尽く帰降するであろう。まさに勢いがそうさせるのである。

その後、国家は重臣を命じて鎮撫させ、恩沢を施して懐柔する。奚・霫の部落は、劉仁恭およびその子の劉守光の時代、皆顔に刺青をして義児となり、燕軍の指揮に服し、人馬・疆土は契丹より少し劣るが、脅迫されて従属・使役されて以来、常に骨髄の恨みを抱いている。渤海の兵馬・土地は、奚の帳(集団)より盛んであり、契丹に仕えることを強いられてはいるが、皆、主君を殺され国を破られた怨みを抱いている。その薊門および山後の雲州・朔州などは、沙陀・吐渾が元来割譲されたもので、すべて叛徒ではない。この蕃漢諸部の衆は、将来王師が討伐する際、たとえ陣前で生け捕りにしても、必ずその死を赦し、官職を与えて慰撫し、恩を懐かしませ、ただ契丹を罪とする名目とせよ。このようにすれば、蕃部の心は私怨を報いんと願い、契丹の小醜は期日を定めて殄滅平定されるであろう。その奚・霫・渤海の国には、それぞれ重望ある親族・嫡子を選び、冊封して王とし、さらに分器・鼓旗・軍服・戈甲を賜って手厚く送り出せば、必ず赤心を尽くし、永遠に皇化に服するであろう。

平定した後、守臣に宣布し、燕の境および山後の雲州・朔州諸州において、衣糧・料銭を厚く給し、別に禁軍の名目を作り、三五万人を募集し、騎射を教えて本州に隷属させよ。この者らは塞垣に生長し、戎事に熟練しており、機に乗じて戦えば、一をもって十に当たり、兼ねて奚・霫・渤海を外臣とすることができれば、まさに四夷を守る(四夷をもって守る)ことになる。

しかし阿保機の時から今日に至るまで、河朔の戸口は、虜掠されることが極めて多く、すべて錦帳(契丹の本営)にある。平盧もまた柳城に近く、遼海の編戸は数十万余、耕墾地は千余里に及び、異類を殄滅した後は、すべて王民となる。その衣冠を変え、声教を被せ、帰順を願う者は旧来の状態に復させ、安んじることを懐く者はそれに従って撫で、郊圻を画定し、州県を列ねれば、前代に建てられた松漠・饒落などの郡も、これほどの開拓の盛観ではなかったであろう。

趙琪はもと燕の人であり、この故に蕃部の兵馬・山川の形勢を究め知っていた。まもなくまた上奏して言うには、

「国家が燕薊を平定せんとするに当たり、臣はあえて十策を陳ずる。一、契丹の種族、二、賊の衆寡を量る、三、賊の来襲時の配置、四、辺境の備え、五、将を命ずる、六、陣を排し討伐する、七、蕃と和す、八、糧秣の輸送、九、幽州を収める、十、契丹を滅ぼす。

契丹は、蕃部の別種であり、代々遼沢の中に居住し、南は潢水を界とし、西は邢山に距たり、疆土の幅員は千里に近い。その主は阿保機より強盛となり、渤海を攻撃した際、遼陽で死んだ。妻の述律氏は三男を生んだ。長男は東丹、次男は徳光(徳光は南侵より還り、殺胡林で死んだ)、末子は自在太子。東丹は永康を生み、永康は徳光に代わって主となり、軍を起こして南侵を謀ったが、火神澱で殺された。徳光の子の述律が代わって立ち、「睡王」と号した。二年後、永康の子の明記にさんさんだつされた。明記が死ぬと、幼主が代わって立った。明記の妻の蕭氏は、蕃将の守興の娘であり、今の幼主は蕭氏が生んだのである。

晋の末年に、契丹主の頭下(直轄領)の兵を大帳と称し、皮室兵約三万あり、皆精鋭の甲兵で、その爪牙である。国母述律氏の頭下を属珊と称し、属珊には二万の衆があり、これは阿保機の牙将であったが、当時は半ば老いていた。南来する時、量を分けて三五千騎を借り受け、述律は常に余剰の兵を部族の根本として留め置く。その諸大首領には太子・偉王・永康・南北王・於越・麻答・五押などがある。於越とは、その国舅(皇后の兄弟)を謂う。大なるものは千余騎、次ぐものは数百騎で、皆私兵である。

別族には奚・霫があり、勝兵も一万余人、馬は少なく歩兵が多い。奚の王は阿保得という名で、往年、闕(朝廷)を犯した時、劉希・崔廷勳を河陽・洛陽らくように駐屯させた者である。また渤海の首領大舍利高模翰の歩騎一万余人あり、皆髪を剃り左衽とし、密かに契丹の風俗を真似ている。さらに近界の尉厥黒・室韋・女真・党項も脅迫されて従属し、各部とも千余騎に過ぎない。その三部落、吐渾・沙陀、および幽州管内・雁門以北の十余州軍の部落漢兵を合わせて二万余衆、これは石晋が蕃(契丹)に賄賂として割譲した地である。蕃漢諸族の数はこれで見ることができる。

蕃部が南侵する毎に、その衆は十万に及ぶ。契丹が国境に入る時、歩兵・騎兵・車・帳幕は阡陌(畦道)に従わず、東西一様に行進する。大帳の前および東西面には、大首領三人を差し、各々万騎を率いさせ、分かれて遊奕し、百十里外でも互いに偵察・巡邏する。これを欄子馬と謂う。契丹主が角笛を吹いて合図すると、衆は直ちに集合し、穹廬(テント)を環繞し、近くから遠くへと広がる。木の梢を折り曲げて弓子鋪とし、槍営・塹・柵の備えを設けない。毎回軍が行進する時は、鼓を三度打つのを聞き、昼夜を問わず、一巡りしたら直ちに出発する。大敵に逢わないうちは戦馬に乗らず、我が師団に近づいてから初めて乗るので、新たに繋いだ戦馬の蹄に余力があるのである。かつ用兵の術は、陣を成して戦わず、退却するのを待って乗じ、伏兵を多くして糧道を断ち、夜を冒して火を挙げ、土俗の風習で柴を曳き、糧秣は自ら携帯し、退敗しても恥じず、散ってまた集まり、寒さに遭ってますます堅固になる。これが彼らの長所である。中原の長所は、秋夏の長雨(天時の利)、山林と河川(地の利)、槍の突撃と剣弩(兵器の優位)、財が豊かで士衆が多い(力の強さ)である。時機に乗じて互いに用いれば、その優劣は明らかに知られる。

王師が辺境を守備し敵を破る計略は、毎年秋冬の時節にあり。河朔の州軍は辺境の砦柵に沿い、ただ専ら境を守り、侵掠を軽々に行わず、彼に戦端を開かせ、その言い分を立たせぬようにすべし。或いは戎馬が肥え、長駆して侵入する時は、契丹の主が行き、部落が集まり至り、寒雲は日を翳し、朔雪は空を迷わし、鞍馬相い対し、氈褐の利あり。守るべきは城壁に坐して甲を着け、逸をもって労を待ち、騎士を天雄軍・貝磁相州以来に併せて屯させ、もし辺城に分散すれば、緩急の際に会合し難し。辺境に近い州府は、ただ歩兵を用い、弩手を多く屯し、大なるは万卒、小なるは千人、壁を堅くし守りを固くし、出戦せしめざるべし。彼は全国の兵を以てし、此れは一郡の衆を以てす。勇懦の差はあれども、衆寡敵せざるを慮るなり。国家は別に大将を命じ、前軍を統率させ、侵軼を遏止せしめ、ただ天雄軍・刑洺貝州以来に、掎戎の備えを設くべし。陽春候を啓き、虜の計窮まり、新草未だ生ぜず、陳荄已に朽ち、蕃馬力無く、疲寇帰を思い、逼って之を逐えば、必ず自ら奔北す。

前軍の行陣の法は、馬歩の精卒十万を過ぎず、招討以下、更に三五人の藩侯を命じて都監・副戎・排陣・先鋒等の職に充て、事に臨み分布し、権有るを貴ぶ。戎を追うの陣は、前後を列すべく、其の前陣は一万五千騎、陣身は一万人、是れ四十指揮、左右の梢各十指揮、是れ二十将なり。毎指揮一隊を為し、軍主・都虞候・指揮使・押当より、毎隊は馬突或いは刃子槍百余を以てし、併せて弓剣・骨朵を用う。其の陣身は鐙を解きて之を排し、戎と相搏つ時を俟ち、厚薄を問わず、十分に気を作し、槍突交衝し、馳逐往来し、後陣更に進む。彼若し我が深入に乗ずれば、陣身の後、更に馬歩人五千有り、十頭に分ち、撞竿・鐙弩を以て俱に進み、回騎の舎と為す。陣哨は軽動すべからず、蓋し横騎の奔衝を防ぐなり。此の陣は都監之を主とし、進退賞罰、便ち裁決すべし。後陣は馬歩軍八万を以てし、招討之を董し、前陣と三五里を過ぎず、梢を展べ実心を布き、常山の勢を布き、左右排陣分押す。或いは前陣寇兵を撃破すれば、後陣も亦其の馳驟軽進を禁ず、蓋し師正の律なり。

『牧誓』に云う、「四伐五伐にして、乃ち止みて斉う」と。慎重の戒めなり。是を以て開運中、晋軍戎を掎し、未だ嘗て放散せず、三四年の間、徳光戎首と為り、計多く桀黠なれども、晋軍に勝つ処無く、蓋し力を併せて之を禦へしなり。厥の後、人を任ずる当たらずして、彦沢の誤る所と為る。如し将来殺獲驅攘の後、聖人は生を好むの徳を務め、兵を息ますの謀を設くれば、志を降すは難く甘んずれども、亦和戎便なりと為す。魏絳嘗て五利を陳べ、奉春僅かに中策を得、歴観載籍、前王皆然り。『易』は高宗の鬼方を伐つを用いるを称し、『詩』は宣王の玁狁を薄伐するを美とす、是れ戎狄の侵軼、其の来たる尚しきを知る。然らば則ち兵は凶器、聖人は已むを得ずして之を用う。若し使臣を精選し、君命を辱めず、盟を通じ好を継ぎ、戦を弭ぎ民を息ますは、此れ亦策の得る所なり。

臣は毎に見るに、国朝兵を発し、未だ屯戍の所に至らざるに、已に両河諸郡に於いて民を調し糧を運ばしめ、遠近騒然とし、煩費十倍す。臣は辺土に生まれ居り、事を習い知る。況んや幽州は国の北門、蕃を押える重鎮と為り、兵数万を養い、敵に応ずるは其の常事なり。毎たび調発に逢うに、惟だ糗糧の備えを作し、蕃に入ること旬浹すれば、軍糧自ら齎し、人毎に麫斗余を与え、之を囊に盛りて以て自ら随う。征馬毎匹に生穀二斗を与え、口袋を作り、飼秣日に二升を以て限と為し、旬日の間、人馬俱に饑色無し。更に牙官の子弟を以て、力を戮め津擎裹送せしめば、則ち一月の糧、饋運を煩さず。大軍既に至るを俟ち、取舍を定議し、然る後に転餉を図るも亦未だ晩しと為さず。臣が去年に平燕の策有り、燕に入るの路は前奏に具す、省覧を加えられんことを願う。

疏が奏上され、頗る之を採用す。

淳化二年、詔して百官に転対せしむ。琪首めて詔に応じ、明堂・辟雍の議を建つ。五年、李継遷霊武を寇す。侍衛馬軍都指揮使李継隆を河西兵馬都部署と為し以て之を討たしむ。西川の賊帥李順州県を攻劫す。昭宣使王継恩を剣南西川招安使と為す。琪又た上書し辺事を言う曰く、

「臣頃に延州節度判官を任じ、五年を経渉す。未だ嘗て夷落に躬く造らざれども、然れども常に蕃落の将に和断公事を令し、歳虚月無く、蕃部の事は、聞聴に熟す。大約党項・吐蕃の風俗相類し、其の帳族に生戸・熟戸有り、漢界に接連し州城に入る者を熟戸と謂い、深山僻遠に居し横過寇略する者を生戸と謂う。其の俗多く世仇有り、相往来せず、戦闘有るに遇えば、則ち同悪相済し、箭を伝え相率い、其の従うこと流の如し。各々鞍甲有れども魁首統摂無く、並びに皆山川に散漫し、居常之を患いと為さず。

党項の界は東は河西銀・夏より、西は霊・塩に至り、南は鄜・延に距り、北は豊・会に連なる。厥の土多く荒隙、是れ前漢の呼韓邪の処する所の河南の地、幅員千里。銀夏より青・白両池に至るまで、地は惟だ沙磧、俗に平夏と謂う。拓拔は蓋し蕃姓なり。鄜・延以北より、多くは土山柏林、之を南山と謂う。野利は蓋し羌族の号なり。

延州より平夏に入るに三路有り。一、東北は豊林県葦子驛より延川県に至り綏州に接し、夏州界に入る。一、正北は金明県より蕃界に入り、盧関に至るまで四五百里、方に平夏州南界に入る。一、西北は万安鎮を歴て永安城を経、洪門より出で宥州に至るまで四五百里、是れ夏州西境なり。我が師の如く夏州の境に入らば、宜しく先ず接界の熟戸を招致し、之を嚮導と為さしめ、其の強壮馬有る者は、官軍を去ること三五十里に踏白先行せしむべし。此の三路に縁り、土山柏林、溪谷相接し、而して復た隘狭にして列を成すを得ず、此の郷導を躡えば、歩卒に多く弓弩槍鋸を持たしめて之に随わしむるを得、三二千人を以て山に登り偵邏せしめ、坦途寧静なるを見るを俟ち、号を伝えて馬を勾し路に遵いて行わしむべし。我皆厳備し、虞無きを保つべし。

長興四年、夏州の李仁福死す。男彝超有り、擅に留後と称す。当時詔して延州の安従進と李彝超に鎮を換えしむ。彝超夏州に拠り、固より詔を奉ぜず。朝廷邠州の薬彦稠に命じ兵五万を総べ従進を送り赴任せしむ。時に兵を城下に頓し、攻取を議す。軍儲継がず、遽かに班師を命ず。而して旅を振うの時、厳整する能わず、戈を失い甲を棄て、遂に辺人の利と為る。

臣また聞く、党項は小蕃と号し、敵に非ず、もし山を出でて陣を布くを得ば、ただ一戦を労するのみにして、便ち蕩除すべし。深く入れば則ち饋運艱難にして、窮追すれば則ち窟穴幽隠なり、辺縁の州鎮に縁り、重兵を分屯し、其の界に入り侵漁するを俟ち、方に時に随ひ掩撃すべく、勇を養ふに非ざるも、亦た辺を安んずるに足れり。凡そ烏合の徒は、勢ひ久しからず、速闘に利あり、以て兵鋒を騁す。重きを守り疆を守り、以て其の鋭を挫くに若かず。彼に城守無く、衆は餱糧乏しく、威賞行はれず、部族分散し、然る後に密かに令して其の保聚の処を覘ひ、預め麟・府・鄜・延・寧・慶・霊・武等の州に於て期を約し兵を会し、四面斉しく進み、其の奔走の路を絶ち、勢を合して之を撃てば、剪除して噍類無からしむべし。仍て先づ諸軍に告諭し、賊を撃ちて獲る所の生口・資畜は、已が有と為すを許すべし、彼利に誘はれんか、則ち人百其の勇ならん。

霊武路は通遠軍より青岡峡に入るまで五百里、皆蕃部の熟戸なり。向来使人・商旅経由するに、並びに部族に安泊し、求むる所の賂遺幾ばくも無く、之を「打当」と謂ふ、亦た漢界の逆旅の家の宿食の直の如し。此時大軍或ひは其の境に入るを須ふれば、則ち向導踏白は、当に夏州の法の如くすべし。況んや彼の霊州は便ち吾が土なり、芻粟儲蓄、率ね皆備はり有り。縁路五七程、供饋を煩はさず、ただ逐都の兵騎を令し、糧を裹み軽く齎し、便ち足用たるべし。諺に所謂「鐮を磨ぎ馬を殺す」、一時の力を劫するなり、旬浹の余、固より闕乏無からん。

又臣嘗て西川に任を受け数年、江山を歴経し、形勢要害を備へ見る。利州は最も咽喉の地なり。西は桔柏江を過ぎ、剣門に去ること百里、東南は閬州に去ること、水陸二百余里、西北は白水・清川に通じ、是れ龍州の川に入る大路、鄧艾此に於て蜀を破り、今に至るまで廟貌存す。其の外三泉・西県、興・鳳等の州、並びに要衝と為り、武略ある重臣を選び之を鎮守せんことを請ふ。

奏入る、上其の奏を密かに写し、継隆に令して利に従ひて行はしむ。

至道元年春、含光殿に於て大宴し、上琪の年を問ふ、対へて曰く「七十有九」と。上因りて久しく慰撫す。二年春、右僕射に拝し、特に月に実奉一百千を給ふるを令し、又其の衰老を以て、詔して五日一朝を許す。是の年九月病に被り、其の子貽序に筆を秉せしめ、辞を授けて『多幸老民叙』を作らしむ、大抵『洪範』の五福は、人の全くす難き所なるに、而して己兼ねて之を有す、実に天幸なりと謂ふ。又口に遺表数百字を占めて卒す。司空を贈り、諡して惠安と曰ふ。貽序を起復して右賛善大夫と為し、貽庥を大理評事と為し、貽広を童子出身と為す。貽序表を上して喪制を終へんことを乞ふ、之に従ふ。天禧初、其の孫宗諒を録し秘書郎を試みしむ。

琪素より文学有り、頗る諧捷なり。使府に在ること前後三十年、人情に周知し、尤も吏術に通ず。相位に在る日、百執事求請有る所、多く面して之を折り、是を以て人に怨を取る。

貽序嘗て『冊府元亀』の修に預かり、筆劄遒勁なり。未だ幾ばくもあらず、事に坐して左遷され復州副使と為り、起てられて殿中丞に至り卒す。

宋雄

宋雄なる者は、亦た幽州の人なり。初め琪と燕・薊の間に斉しく名有り、「二宋」と謂はる。

雄契丹に仕へて応州従事と為る。雍熙三年、王師北伐し、雄其の節度副使艾正と城を以て降り、正を授けて本州観察使と為し、雄を以て鴻臚少卿同知州事と為す。光禄少卿に改め、均・唐二州を知ることを歴む。未だ幾ばくもあらず、河陰の屯兵を護り、河渠の利害を知るを以て、因りて命じて汴口を領護せしめ、水勢を均節し、以て転漕に達せしむ、京師之に頼る。太子詹事に改め、復た光禄少卿と為り、将作監に遷る。至る所職務修挙し、公私倚任す。

雄文史に渉猟し、談論を善くし、気節有り、士流多く之を推許す。景德元年、卒す、年七十六。其の子可久を録し太常寺奉礼郎と為し、賦禄して制を終へしむ。

論じて曰く、薛居正より下り、嘗て相位に居る者凡そ四人、其の始終出処は同じからずと雖も、然れども其の行事を観るに、概ね見るべし。初め、朗州の亡卒嘯聚して盗と為り、監軍使城中の僧千余人皆与に謀るを疑ひ、尽く之を殺さんと欲す、居正其の事を緩め、賊禽りて僧与せず、卒に之に頼りて活く。沈倫呉越に使い還り、揚・泗の軍儲百余万斛を以て饑民に貸さんことを請ふ、朝論之を難ず。倫曰く「国家廩粟を以て民を済はば、自ら和気を召し、豊稔を致すべし、豈復た水旱有らんや」と。請を得て乃ち已む。太祖毎に書を史館に取る、盧多遜預め吏を戒めて己に令し白せしめ、取る所を知り、必ず夕を通して閲覧し、是を以て答問多く中る。宋琪始め程羽・賈琰に抑へられ、継いで多遜に忌まれ、其の後員外郎より歳中四遷して尚書に至り、相位に居る。此に即ちて観れば、則ち道を守りて福を蒙る者は幸ひに致すに非ず、而して荒に投じ竄死する者は不幸に非ざるなり。宋雄論を善く持ち、気節有り、雖も琪と斉しく名有ると雖も、而して爵位侔はざるは、遇ふ所同じからざるのみ。嗚呼、昔より材を懐き藝を抱きて、抑鬱下僚に在りて其の身を終ふる者多し、豈に特だ宋雄を然らんや。