宋史

列傳第二十二 張昭 竇儀 呂餘慶 劉熙古 石熙載 李穆

張昭

祖父は楚平、壽張の令であった。楚平の子は直、これが昭の父である。初め、楚平は長安ちょうあんに赴いて調に預かったが、ちょうど黄巣の賊の乱に遭い、行方知れずとなった。直は幼くして河朔に避難し、元服した後、父の所在が分からないまま、時に盗賊が蜂起し、道路は草木が生い茂って塞がっていたので、自ら秦からしょくに至り、徒歩で食を乞い、父の所在を求めたが、十年を積んでも得ることができなかった。そこで哀悼の意を表して喪に服し、海辺で自ら耕作した。青州の王師範が学館を開き、儒士を招き寄せ、再び書状と幣帛をもって直を招き、賓客の職に任じた。師範が梁に降ると、直は難を逃れて北に帰り、『周易』・『春秋』を教授し、学者は遠方から来て集まり、当時「逍遙先生」と号された。

昭は十歳にして、古楽府・詠史詩百余篇を誦することができた。元服前には『九経』を遍く読み、その義を尽くして通じた。同輩の中にあって、緩歩し広く視野を巡らせ、馬融・鄭玄も己に及ばないと思った。後に贊皇に至り、程生という者に遇った。彼は史学を専らとし、経旨を専ら究めるだけでは今古に通ぜず、多くは拘泥して滞り、繁雑にして要を得ず、とし、王覇の道を極論し、治乱を経緯するには、史なくしてはならぬ、と説いた。そこで班固・范曄の『漢書かんじょ』十余条を出して論議し、昭に荀悦の『漢紀』・陳寿の『三国志』などを授けた。後にまた十三史を尽く得て、五七年の間に、上下数千年の事を縦横に論じられるようになった。また『十代興亡論』に注を加えた。乱世にあり、自ら耕作し米を背負って親を養った。

後唐の荘宗が魏に入ると、河朔の遊士は多く自ら軍門に赴いて効力を尽くした。昭はこれにより魏に至り、文数十巻を携えて興唐尹の張憲に謁見した。憲の家は文籍に富み、しばしば昭と宴席で語り、経史の要事を講論し、相見えるのが遅かったことを恨んだ。すぐに府推官に任じた。同光の初め、奏上して真の官位を授け、監察御史裏行を加えた。憲が北京留守となると、昭もまた従って晉陽に至った。荘宗が難に遭い、鄴中の兵士が明宗を推戴し、憲の部将符彥超が戍将と合流してこれに応じたと聞くと、昭は憲に言った。「上表して勧進し、自らの安泰を図ることはないのか。」憲は言った。「私はもと書生であり、主上に知られ、位は保釈に至った。これは布衣の極みである。もし恥を忍んで生き延びようとすれば、何の面目あって地下で主上に会えようか。」昭は言った。「これは古人の志である。公がこれを行えば、死してなお朽ちずである。」互いに泣いて別れ、憲は遂にそのために死んだ。当時の論は、昭が憲の節を成し遂げさせたことを重んじた。

時に昭を害そうとする者がいた。昭は言った。「誠の至るところ、再び生を期せず。主辱しめば臣亡ぶ、死して悔いなし。」衆は彼を捕らえて彥超に送った。彥超は言った。「推官は正人である。害してはならぬ。」また昭に迫って、軍民を安撫するための榜文を作らせた。事が鎮まると、昭を北京留守推官とし、殿中侍御史・内供奉官を加え、緋を賜った。天成三年、安義軍節度掌書記に改めた。

時に武皇・荘宗の実録が未修撰であったため、詔して正国軍節度使盧質・西川節度副使何瓚・秘書監韓彥輝に事跡を纘録させた。瓚が上言して言った。「昭には史才があり、かつて私的に『同光実録』十二巻を撰し、また三祖の志を撰ぼうとしていると聞く。さらに昭宗朝が武皇に賜った制詔九十余篇を蔵している。昭の撰したものを史館に送ることを請う。」昭を左補闕・史館修撰に拝し、撰録を委ねた。昭は懿祖・献祖・太祖はいずれも帝位に即かなかったため、なお『紀年録』二十巻を補い、また『荘宗実録』三十巻を撰して上進した。優詔をもって褒め称え、都官員外郎に遷した。

時に皇子たちが競って奢侈を尚んだ。昭が上疏して諫めて言った。

「帝王の子は、深宮に育ち、安逸楽しみに安んじ、華美な玩好、絲竹の音声が日々耳目に接し、驕りを期さずして驕り自ら至る。もし天資が英敏でなく、本質が清明でなければ、これによって心を蕩かされ、どうして惑わされないことがあろうか。もしあらかじめ教え導くことをせず、どうして盤石の地に置くことができようか。臣は先帝の時を見るに、皇子・皇弟はみな根拠のない玩物の言を喜び、治を致し邦を経る論を聞くことを厭い、内ではひたすら姫姜を飾り、外では広く僕馬を増やした。親賓は座に満ち、食客は門に盈ち、箴規する者は少なく、諧謔する者は多かった。このような状態で主鬯を託そうとするのは、また難しくはないか。臣は請う、諸皇子それぞれに師傅を置き、陛下は皇子に身を屈めて師事させ、道徳を講論させられたい。一日のうちに、ただ一事を記すのみとさせ、一年のうちに、記すことが次第に多くなるようにする。毎月の終わりに、師傅に具録して奏聞させる。あるいは皇子が謁見する時、陛下はさらに侍臣に命じて面と向かって質問させ、十中五を得るならば、益するところ大いに多く、安危の理を博く識り、成敗の由を深く知るであろう。

臣はまた聞く、古の人君は即位すると太子を封じ諸王を拝したが、その由を究めれば、深い旨がある。それは庶をして嫡を乱さず、疏をして親を間わしめず、礼秩に常があり、邪慝が起こらないようにするためである。近代の人君はこの道を失い、ついに国家に患いを構え、釁隙が萌し生じた。昔、隋の高祖こうそは聡明であったが、煬帝はまた楊勇を傾けた。太宗は斉聖であったが、魏王はついに承乾を覆した。臣は古書を読むごとに、深くその事を悲しむ。聖代において、この悪しき階梯を杜絶されることを願う。卜貳封宗のことについては、臣は軽々に議することを敢えてしない。臣は請う、諸皇子の恩沢賜与の間、婚姻省侍の際に、嫡庶によって礼秩を定め、親疏によって節文を定め、等威を示し、その僥倖を絶たれたい。宗を保つ道は、これより大なるはない。」

明宗は疏を覧て用いなかった。

四年、『武王以来功臣列伝』三十巻を上進し、本官のまま知制誥を兼ねた。明宗は畋猟を好んだ。昭が上疏して諫めて言った。

「太祖が初めて太原を鎮守した時、毎年北鄙で鹿を打たれた。先帝が在位された時、暇日に近郊で雁を射られた。これは軍務の余暇に、畋遊して自ら適するものであった。先帝が図によって祚を啓き、明に向かって宇を御するに及んでからは、宜しくあの諸侯の事を改め、万乗の儀を厳粛にすべきであった。しかるになお旧風に因習し、その威重を失い、原獣を駆逐すること、殆ど虚日がない。

臣愚かながら考えるに、畏るべき事四つがある。洛都の旧制では、宮城と禁苑は相連なり、人君の宴遊は苑囿を離れず、御馬の往来する輦路は平坦で、荒郊に渉らず、どうして蹶失を憂えようか。今は驂服を駆り馳せ、榛蕪を渉り歴る。これから節気は厳寒となり、径路は凍えて滑らかになる。万一にも銜橛の変があれば、陛下はたとえ自らを軽んじられても、宗廟社稷はどうなさるのか。畏るべきこと、その一である。また陛下は新たに四海を有し、宜しく徳をもって万邦を服すべきである。今は江・嶺未だ平らかでなく、淮夷なお梗んでいる。彼らは初め、陛下が先朝の失政を革め、太古の淳風に還り、物を御するに慈をもってし、財を節するに倹をもってし、典則があり、矜らず驕らずと聞けば、必ずや三苗が率いて服する心、七旬にして来格する意を持つであろう。もし陛下が暫く近郊に遊ばれると聞けば、彼らはまた畋遊を好まれると思い込むであろう。畏るべきこと、その二である。臣はまた聞く、『法を涼に作れば、その弊なお貪る。法を貪に作れば、弊将に如何。』かつ打鹿射雁の事は新しく、敗軌傾輈の轍は在り、常に取って鑑とすべきで、因循すべきではない。畏るべきこと、その三である。臣はまた聞く、『事を作して法とすべく、厥の孫に謀を貽す。』もし陛下が斉聖広淵の機、聰明神武の量をもってすれば、宴遊蒐狩の事によって、少しでも聖明を累わすことがあってよいだろうか。いわゆる『城中好く広眉す、城外半額を加う』、法の弊は、これによらぬはない。畏るべきこと、その四である。

伏して望む、陛下には高きに居りて遠きを慮い、始めを慎みて終わりを図り、創業の艱難を思い、守成の不易を知り、老氏の馳騁の戒めを念い、文王の忠厚の基を樹て、三驅の旧章を約し、四時の遊幸を定められんことを。出で始めに節有りて、後は敢えて違わざらん。」

疏が奏上されると、明宗は嘉してこれを納れた。

長興二年、母の喪に服す。賻として絹布五十匹、米麥五十石を賜う。昭は性至孝にして、明宗その居喪の哀毀を聞き、また銭幣を賜う。服除け、職方員外郎・知制誥に改め、史館修撰を充てる。上言して本朝の故事を復し、観察使を置いて民の疾苦を察せしめ、御史に事を弾劾せしめ、諫官に月ごとに諫紙を給することを乞う。並びにこれに従う。また農耕を勧め及び常平倉を置く等数事を奏請す。

明宗はまさに聴納に務めし折、昭はまた上疏して曰く、「臣聞く、『安にして危うきを忘れず、治にして乱れを忘れず』とは、先儒の丕訓なり。『初め有らざるは莫く、克く終わりを全うするは鮮なし』とは、前経の至戒なり。列辟を究観するに、驕矜怠惰を以てせざるは莫く、盛徳を虧く有り。恭しく惟うに、太宗貞観の初、玄宗開元の際は、庶政に焦労して太平を致せり。国富み兵消え、年高く志逸するに及びて、乃ち守約の道を忽せにし、或いは執簡の譏を貽す。陛下は慈儉を以て天下を化し、礼法を以て臣隣を検し、奸邪の党を絀け、正直の論を延べ、純儉に遵うことを務め、浮費を節し、賞を信じ罰を必し、至公私無し。其の創業垂統の基は、貞観・開元の始の如し、然れども陛下は始め有り終わり有り、荒むこと無く怠ること無し。臣また伏して念う、邦を保つ道に、八つの審有り。願わくは陛下の為にこれを陳ぜん。夫れ委任は材器に審にし、聴受は忠邪に審にし、出令は煩苛に審にし、興師は徳力に審にし、賞罰は喜怒に審にし、毀誉は愛憎に審にし、議論は賢愚に審にし、嬖寵は奸佞に審にす。是の八審を推して以て万機を決すれば、庶幾くは至治に臻すべし。」明宗これを見て善しと称す。

清泰初、駕部郎中・知制誥に改め、皇后冊文を撰し、中書舎人に遷り、金紫を賜う。二年、判史館を加え、兼ねて三館の書籍を点閲し、校正添補す。《明宗実録》の修撰に預かり、三十巻を成して献ず。三年、礼部侍郎に遷り、御史中丞に改む。

晋の天福初、汴州に幸するに従う。昭は宮闕の名額を創め及び朝綱を振挙し、百司の廨舎を条疏することを請う。二年、戸部侍郎に改め、宰相桑維翰が翰林学士に薦む。内署の故事は、先後に入るを以て次と為し、官序に繋がらず。特詔して昭の立位を承旨崔棁の次とす。晋祖嘗て内署に幸し、昭と語り幷・魏の旧事に及び、甚だこれを重んじ、錫賚頗る厚し。直は昭の故を以て、著作佐郎を授け致仕せしむ。是に至りて卒す。西洛に帰り、賻賜等を加う。五年、服闋し、召されて戸部侍郎と為る。唐史未だ成らず、詔して呂琦・崔棁等とこれを続成せしめ、別に史院を置き、昭に命じて兼ねて判院事を判ぜしむ。昭はまた《唐朝君臣正論》二十五巻を撰して上る。兵部侍郎に改む。八年、吏部に遷り、東銓を判じ、兼ねて史館修撰・判館事。開運二年秋、《唐書》二百巻成り、金紫階を加え、爵邑を進む。三年、尚書右丞を拝し、流内銓を判じ、権知貢挙。

漢の初、また吏部侍郎と為る。時に六廟を追尊し、諡号・楽章・舞曲を定む。昭に命じて権判太常卿事と為し、月余にして即真す。乾祐二年、検校礼部尚書を加う。少帝年十九、猶童心有り、群小に昵比す。昭上言して聴政の暇に、数たび儒臣を召して経義を講論せしむることを請う。

周の広順初、戸部尚書を拝す。子の秉陽、陽翟主簿と為り、罪に抵る。昭自ら失教を以て、表を奉り咎を引き、太子賓客に左遷さる。歳余、旧官に復す。嘗て制挙を興すことを奏請し、賢良方正能直言極諫・経学優深可為師法・詳閑吏治達於教化の三科を設け、職官・士流・黄衣・草澤並びに詔に応ずるを許す。諸州は貢挙の体式に依り、策論三道を量試し、共に三千字以上を以て準と為し、其の文理俱に優るを考へ、尚書吏部に解送し、其の朝に登るの官も亦自ら挙ぐるを聴す。これに従う。

顕徳元年、兵部尚書に遷る。世宗は昭の旧徳を以て、甚だこれを重んず。二年、表して致仕を求め、優詔して允さず、其の入謁を促す。嘗て詔して《制旨兵法》十巻を撰せしめ、又《周祖実録》三十巻及び梁の郢王・均帝・後唐の閔帝・廃帝・漢の隠帝の五朝実録を撰す。梁の二主は年祀浸く遠く、事皆遺失し、遂に修むる克わず。余の三帝実録は、皆史閣に蔵す。

世宗は奇俊を抜くを好み、布衣及び下位より上書して事を言う者有れば、多く次を不にして進用す。昭疏を上て諫めて曰く、「昔、唐初、劉洎・馬周は歩行より起り、太宗擢用して相と為す。其の後、柳璨・朱朴方に下僚に居るも、昭宗も亦大用を加う。此の四士は、明主に知を受く。然れども太宗之を用いて国興り、昭宗之を用いて国亡ぶ。士の知り難き、此の如し。臣願わくは陛下には旧法を存して人を用い、当に此の四士を以て鑒戒と為さんことを。」世宗これを善しとす。詔して《經典釈文》・《九経文字》・《制科条式》を詳定せしめ、及び六璽の出づる所を問い、並びに《三礼図》の祭玉及び鼎釜等を議せしむ。昭は経拠を援引し、時に其の該博を称す。恭帝即位し、舒国公に封ず。

宋の初、吏部尚書を拝す。乾徳元年の郊祀に、昭は鹵簿使と為り、宮闕・廟門・郊壇の夜警晨厳の制を復すを奏す。礼畢みて、鄭国公に進封せられ、翰林承旨陶穀と同選を掌る。穀嘗て事を誣奏し、昭を引いて証と為す。昭は冠を免じ抗論す。太祖悦ばず、遂に三たび章を拝して老を告げ、本官を以て致仕し、陳国公に改封さる。開宝五年、卒す。年七十九。

昭は学術に博通し、書に覧ざる無く、兼ねて天文・風角・太一・卜相・兵法・釈老の説を善くし、蔵書数万巻。尤も纂述を好み、唐・晋より宋に至るまで、専ら筆削典章の任に当たる。嶺南平ぎ、劉鋹を擒にし、将に俘を献せんとすれども、其の礼を知る者莫し。時に昭は已に致政す。太祖近臣を遣わし其の家に就いて之を問わしむ。昭方に臥病し、口占して以て使者に授く。《嘉善集》五十巻、《名臣事跡》五巻を著す。

子の秉図は進士及第す。秉謙は尚書郎に至る。

竇儀

曾祖は遜、玉田令。祖は思恭、媯州司馬。父は禹鈞、兄の禹錫と皆詞学を以て名有り。禹鈞は、唐の天祐末に起家して幽州掾と為り、沂・鄧・安・同・鄭・華・宋・澶州の支使判官を歴任す。周の初、戸部郎中と為り、金紫を賜う。顕徳中、太常少卿・右諫議大夫に遷り致仕す。

竇儀は十五歳にして文を作ることを能くし、晉の天福年間に進士に挙げられた。侍衛軍帥の景延廣が夔州節度を領すると、表して記室とした。延廣は後に滑・陝・孟・鄆の四鎮を歴任し、儀は並びに従事となった。

開運年間、楊光遠が青州に拠って叛き、時に契丹が南侵し、博州刺史の周儒が城を以て降った。光遠と儒は人を遣わして契丹の軽騎を馬家渡に導き河を渡らせた。時に延廣は衛兵を掌り、顏衎は州事を知った。即ち儀を遣わして入奏させた。儀は執政に謂いて曰く、「昨、衎と事勢を論じ、預め慮る所あり。故に駅を乗りて昼夜息まずして来たるなり。国家もし良将重兵を以て博州の渡りを控えざれば、必ずや儒が契丹を導き東岸を逾えて光遠の兵と合わんことを恐る。然らば河南危うからん」と。俄にして儒は果たして契丹を導き河を渡り、壘柵を増置した。少帝は河上に軍し、即ち李守貞等を遣わして兵万人を率い、水陸並びに進み、汶陽を守り要害を拠らしめた。契丹は果たして大いに至り、之を撃ち走らせた。漢の初め、召されて左補闕・礼部員外郎となった。

周の広順初年、倉部員外郎・知制誥に改めた。未だ幾ばくもせず、召されて翰林学士となった。周祖が南御荘に幸して宴射し、坐中にて金紫を賜う。駕部郎中・給事中を歴任し、並びに職を充てた。

劉温叟が貢挙を知り、取った士に覆落する者あり。儀を礼部侍郎に加え、権知貢挙とした。儀上言して曰く、「晉の天福五年の制に依り、明経・童子科を廃せんことを請う。進士の省巻は、五軸以上を納めしむべく、神道碑誌の類あるべからず。帖経対義は、三通を以て合格とす。却って復た尽く試すべし。其の落第する者は、五等に分つ。詞理紕繆の甚だしきを以て第五等とし、五挙を殿す。其の次を第四等とし、三挙を殿す。次第に稍々可なる者を第三・第二・第一等とし、並びに次年に赴挙するを許す。其の学究は、請うらくは並びに『周易』『尚書』を一科とし、各墨義三十道に対す。『毛詩』は旧に依り一科とし、亦墨義六十道に対す。及第後、並びに七選集に減ず。諸科挙人は、第一場十否は五挙を殿し、第二・第三場十否は三挙を殿す。三場内に九否あれば、一挙を殿す。解試の官は其の罪に坐す。進士の解を請うには、論一首を加試し、五百言以上を以て準とす」と。奏聞して可とされた。

俄かに父の病を以て、上表して官を解く。世宗親しく慰撫を加え、手ずから金丹を封じ、其の父に賜わしむ。父卒し、帰葬して洛陽らくように葬る。詔して銭三十万、米麦三百斛を賜う。喪終わり、召されて端明殿学士を拝す。淮南に従征し、行在三司を判る。世宗其の餉饋継がざるを以て、将に之を罪せんとす。宰相范質救解して免る。淮南平らぎ、河南府を判り兼ねて西京留守事を知る。恭帝即位し、兵部侍郎に遷り職を充す。俄かに南唐に使いし、既に至り、将に詔を宣せんとす。会して雨雪あり、李景廡下に於いて拝受せんことを請う。儀曰く、「儀国命を将うるを得て、旧礼を失わざるなり。儻いに沾服して容を失わば、請う他日を俟たん」と。景即ち庭に於いて命を拝す。

建隆元年秋、工部尚書に遷り、学士を罷め、兼ねて大理寺を判る。詔を奉じて『刑統』を重定し、三十巻と為す。会して翰林学士王著酒失を以て官を貶せらる。太祖宰相に謂いて曰く、「深厳の地は、当に宿儒を待ち之に処すべし」と。范質等対えて曰く、「竇儀清介重厚なり。然れども已に自ら翰林より端明に遷れり」と。太祖曰く、「斯人に非ざれば禁中に処すべからず。卿当に朕が意を以て諭し、勉めて職に就かしむべし」と。即日再び翰林に入り学士と為る。

乾徳二年、范質等三相並びに罷む。三日を越え、始めて趙普を平章事に命ず。制書既に下る。太祖翰林学士に問いて曰く、「質等已に罷む。普の勅は何の官当に署すべきや」と。承旨陶穀時に尚書に任ず。乃ち建議して曰く、相位は久しく虚しうべからず。今尚書は乃ち南省六官の長なり。以て勅を署すべしと。儀曰く、「穀の陳ぶる所は承平の制に非ず。皇弟開封尹・同平章事は、即ち宰相の任なり」と。太祖曰く、「儀の言是なり」と。即ち太宗に命じて勅を署し之を賜う。俄かに礼部尚書を加う。

時に御史臺議し、左右僕射を以て表首と為さんと欲す。太常礼院は東宮三師を以て表首と為す。儀典故を援けり。僕射を以て表首と為すこと六たるを援け、而して三師は拠る所無しと謂う。朝議之を是とす。四年秋、貢挙を知る。是の冬卒す。年五十三。右僕射を贈る。

儀学問優博、風度峻整。弟儼・侃・偁・僖、皆相継いで科に登る。馮道禹鈞と旧あり、嘗て詩を贈り、「霊椿一株老い、丹桂五枝芳し」の句あり。縉紳多く之を諷誦し、当時「竇氏五龍」と号す。

初め、周祖兗州を平らぐ。議して将に脅従の者を尽く誅せんとす。儀馮道・范質に白し、同しく周祖に請う。皆得て全活せしむ。顕徳年中、太祖滁州を克つ。世宗儀を遣わして其の府庫を籍す。太祖復た親吏を令して蔵中の絹を取らしめ麾下に給す。儀曰く、「太尉初め城を下す。蔵を傾けて以て軍士に給うと雖も、誰か敢えて言わん。今既に籍を著す。乃ち公帑の物なり。詔に非ざれば取るべからず」と。後、太祖屡々大臣に対し儀に執守有るを称し、相たらんと欲す。趙普儀の剛直を忌み、乃ち薛居正を引いて参知政事と為す。及び儀卒す。太祖憫然として左右に謂いて曰く、「天何ぞ我が竇儀を奪うことの速きや」と。蓋し其の未だ大用せられざるを惜しむなり。

侃は漢の乾祐初年に及第し、起居郎に至る。僖は周の広順初年に及第し、左補闕に至る。

子諲・諹・誥、倶に進士第に登る。諲は都官員外郎に至り、諹は秘書丞に至る。

弟 儼

儼は字を望之とす。幼にして文を作ることを能くす。既に冠し、晉の天福六年の進士に挙げられ、滑州従事に辟せらる。府罷み、著作佐郎・集賢校理を授かり、出でて天平軍掌書記と為り、母憂を以て職を去る。服除け、左拾遺を拝す。開運年中、諸鎮恣に酷刑を用う。儼上疏して曰く、「名例律を案ずるに、死刑二、絞・斬之を謂うなり。絞は筋骨相連じ、斬は頭頸異処す。大辟の目、両端を出でず。淫刑の興る、近く聞く数等、蓋し外地通規を守らざるに縁り、或いは長釘を以て人手足を貫き、或いは短刀を以て人肌膚を臠にし、遷延信宿し、令して就死せしめず。冤声上達し、和気傷つく有り。望むらくは禁止を加えん」と。之に従う。

儼漢に仕えて史館修撰と為る。周の広順初年、右補闕に遷り、賈緯・王伸と同しく晉高祖・少帝・漢祖の三朝実録を修す。主客員外郎・知制誥に改む。時に儀閤下より翰林に入る。兄弟同日に命を拝し、両制に分居す。時人之を栄しむ。俄かに金部郎中を加え、中書舎人を拝す。

顕徳元年、集賢殿学士を加えられ、院事を判じた。父の喪により職を去り、服喪が終わると、旧官に復した。時に世宗は治道に切に励んでおり、儼は上疏して曰く、「歴代の治を致すには、六綱を首とす。一に曰く礼を明らかにすること。礼明らかならざれば則ち彝倫叙せず。二に曰く楽を崇くすること。楽崇からざれば則ち二儀和せず。三に曰く政をひろむること。政熙まざれば則ち群務整わず。四に曰く刑を正すこと。刑正しからざれば則ち巨奸慴おそれず。五に曰く農を勧むること。農勧めざれば則ち資沢流れず。六に曰く武をおさむること。武経まざれば則ち軍功盛ならず。故に礼は紀有り、人の衣冠の若し。楽は章有り、人の喉舌の若し。政は統有り、人の情性の若し。刑は制有り、人の呼吸の若し。農は本と為し、人の飲食の若し。武は用と為し、人の手足の若し。この六者は、斯須しばらくも身を去るべからざるなり。陛下は帝猷を思服し、寤寐献納し、しばしばに方正の詔を下し、芸能の路を廓開せらる。士は一技有れば、必ず自ら効するを得たり。故に小臣ははからず、すなわち礼・楽・刑・政・勧農・経武の言を陳ず」と。世宗は多くこれを見て聴き入れられた。

南征より還る。詔して儼に雅楽を考正せしめ、やがて権知貢挙に任ず。未だ幾ばくもなく、翰林学士に拝され、太常寺を判ず。儼は鐘磬筦龠の数をきょうし、清濁上下の節を辨じ、更に律呂旋相為宮の法を挙げ、今に至るまで遵用される。

時に詔して中外の臣僚に、聞見する所あるものは、並びに上章して論議することを許す。儼は疏を上して曰く、「官を設け職を分ち、政を授け功を任ずるは、政の倫有らんことを欲し、位に在る官のむなしからんことを欲するなり。今朝廷には多士あり、省寺には華資あり、事無くして員有り、十にして六七に至り、ただ月を計って俸を待ち、年を計って遷を待つのみ。其中廉幹の人、愧恥の意無きにしも非ず。もし歴試せずんば、何をもって公才をべん。請うらくは両畿諸県の令及び外州府五千戸以上の県令を県大夫と改め、従五品下に昇せんことを。畿大夫は府尹に謁見するに赤令の儀の如くし、その諸州府県大夫は本部長に謁見するに賓従の礼の如くせん。郎中・員外郎・起居・補闕・拾遺・侍御史・殿中侍御史・監察御史・光禄少卿以下四品、太常丞以下五品等は、並びに朱紫を衣ることを得しめよ。満日の日は、朝に在る一任に準じ、旧官に約して二等を遷せん。拾遺・監察より除授され回日の日より、即ち起居・侍御史・中行員外郎と為せ。もし前官三署に非ざれば、即ち罷後の一年を経て方に仕を求むるを得しめよ。かくの如くすれば、則ち士大夫は力を陳ずるに足り、賢不肖は肩をならぶる無く、各否臧に係り、明らかに黜陟を行い、民に利し国に益する、これ実に良規なり」と。又以為く、「家国ののりは、穀帛を守るのみ。この二者は国より出でずして民より出づ。その道は天に在り、その利は地に在り、その理を得る者は蕃阜し、その理を失う者は耗嗇もうしょくす。民の顓蒙せんもうなる、宜しく勧教有るべし。請うらくは『斉民要術』及び『四時纂要』・『韋氏月録』の中に、田蠶園囿に関することについてこれを采り、一卷に集め、板をちゅうして頒行し、これをして流布せしめん」と。疏を奏すれども報いられず。

宋初、就いて礼部侍郎に転じ、儀に代わって貢挙を知る。当の時、祀事の楽章・宗廟の諡号は多く儼の撰定するところ、議者はその該博なるに服す。車駕、沢・潞を征するに、疾を以て従わず。卒す。年四十二。

儼の性は夷曠いこうにして、賢を好み善を楽しみ、策府に優遊すること凡そ十余年。撰する所の『周正楽』成ること一百二十卷、詔して史閣に蔵す。その『通礼』は未だ編纂に及ばずして卒す。文集七十卷有り。儼と儀は特に才俊たり、景に対し古を覧るに、皆諷詠に形し、更迭倡和すること二百篇に至り、多く道義を以て相敦励し、並びに集に著す。

儼は顕徳中に荊南に奉使す。荊南は唐季以来、高氏その地を拠有し、藩臣と名乗りながらも、車服多く僭侈にして制を逾え、以て司賓の賤隷・候館の小胥に至るまで、皆盛服彯纓ひょうえいし、王人と亢礼す。儼は天子上に在り、諸侯は各々法度を守るべしと諷し、悉くこれを去らしめ、然る後に君命を宣達す。

特に推歩星暦を善くし、吉凶を逆知す。盧多遜・楊徽之、同じく諫官に任ず。儼嘗てこれに謂いて曰く、「丁卯の歳五星奎に聚まる、これより天下太平なり。二拾遺これを見ん、儼は与せず」と。又曰く、「儼家の昆弟五人、皆進士第に登る、盛なりと謂うべし。然れども相輔に及ぶ者無し。ただ偁稍々これに近し、亦久しくその位に居らず」と。卒にその言の如し。儼には子早く卒す、侄の説を以て嗣と為す。

弟 偁

偁、字は日章、漢の乾祐二年に進士に挙げらる。周の広順初め、単州軍事判官を補し、秘書郎に遷り、出でて絳州防禦判官と為る。宋初、武寧軍掌書記・西京留守判官・天雄帰徳軍節度判官を歴任す。開宝六年、右補闕に拝され、宋州を知る。嘗て『遂命賦』を作りて以て自ら悼む。太宗、開封尹を領す。偁を選びて判官と為す。時に賈琰は推官と為る。偁はその人を楽しまず。太宗嘗て諸王を宴す。偁・琰会す。琰の言は矯誕きょうたんなり。偁これを叱して曰く、「巧言令色、心独り愧じざらんや」と。上愕然たり。因って会を罷め、偁を出して彰義軍節度判官と為す。

太平興国五年、車駕大名府に幸す。行在所に召し至り、比部郎中に拝す。時に北征を議す。偁は兵を休め馬を牧し、以てしずかにこれを図らんことを請う。上その言に従う。帰り、偁を以て枢密直学士と為し、第一区を賜う。六年、左諫議大夫に遷り、職を充す。

七年、参知政事となる。上偁に謂いて曰く、「汝何ぞ能くここにいたる」と。偁曰く、「陛下旧臣を忘れ給わざればなり」と。太宗曰く、「然らず。卿能く公正を以て賈琰を責めしを、朕は直臣をむるのみ」と。是の秋卒す。年五十八。車駕臨みて哭し、工部尚書を贈る。

初め、偁は涇州に在りし時、丁顥と同官たり。顥の子の謂、方に幼し。偁これを見て曰く、「この児必ず遠く到らん」と。女を以てこれに妻せしむ。後、宰相・三公と為る。太祖嘗て宰相に謂いて曰く、「近朝の卿士、竇儀は質重厳整にして家法有り、閨門敦睦、人に讕語無し。諸弟及ばず。僖は亦中人材のみ。偁は操尚有り、嘉むべし」と。

呂餘慶

太祖、滑・許・宋の三鎮を歴任す。餘慶並びに賓佐と為る。即位に及び、宋・亳観察判官より召されて給事中に拝され、端明殿学士を充す。清泰中、琦も亦この職に居り、官秩皆同じく、時人これを栄しとす。未だ幾ばくもなく、開封府を知る。太祖、潞及び揚を征するに、並びに上都副留守を領す。建隆三年、戸部侍郎に遷る。母の憂に服す。荊湖平らぎ、出でて潭州を知り、襄州に改め、兵部侍郎・江陵府知事に遷る。召し還され、本官を以て参知政事となる。

蜀平らぐ。命じて成都府を知らしむ。時に盗賊四起し、軍士は功を恃みて驕恣し、大将王全斌等は下をしずむること能わず。一日、薬市始めて集まる。街吏馳せて報じて軍校酒に被り刃を持ちて賈人の物を奪う有りと。餘慶立ってこれを捕え斬りて以てみせしめす。軍中畏伏し、民は按堵す。就いて吏部侍郎を加えらる。朝に帰り、剣南・荊南等道都提挙・三司水陸発運等使を兼ぬ。開宝六年、宰相と更に政事印を知り、まもなく疾を以て表を上し機務を解くことを請う。尚書左丞に拝す。九年、卒す。年五十。鎮南軍節度使を贈る。

呂餘慶は重厚で簡易、太祖が藩鎮を継領するより、餘慶は元僚たり。禅を受くるに及び、趙普・李處耘は皆先進用せられ、餘慶は恬として意とせず。未だ幾ばくもせず、處耘は黜せられて淄州を守り、餘慶は江陵より還る。太祖は委曲として處耘の事を問ひ、餘慶は理を以て辨釋す。上以て實と為し、遂に參知政事を命ず。會ふに趙普旨に忤ひ、左右爭ひて普を傾けんとす。餘慶獨り之を辨明し、太祖の意稍く解く。時に其の長者を稱す。至道中、弟の端を宰相と為すに及び、特詔して侍中を贈る。

劉熙古

清泰中、ぎょう將孫鐸は戰功を以て金州防禦使を授けられ、表して熙古を從事と為す。晉天福初、鐸汝州に移り、又辟して隨はしむ。熙古は騎射に善く、一日、鶚戟門の槐樹に集る。高さ八尺、鐸之を惡み、瓦石を投げて去らず。熙古弓を引きて一發、鶚を樹に貫く。鐸喜び、矢を拔く勿れと令し、以て其の能を旌ぐ。後二歲、鐸卒し、調補して下邑令と為る。俄に三司戶部出使巡官と為り、永興・渭橋・華州諸倉制置發運を領す。漢に仕へ、盧氏令と為る。周廣順中、改めて亳州防禦推官と為り、澶州支使を歷る。秦・鳳平らぎ、以て秦州觀察判官と為す。

太祖宋州を領するに及び、節度判官と為る。即位し、召して左諫議大夫と為し、青州を知る。車駕維揚を征し、行在に赴くを追ふ。建隆二年、詔を受けて晉州の榷礬を制置し、課を八十餘萬緡増す。乾德初、刑部侍郎に遷り、鳳翔府を知る。未だ幾ばくもせず、秦州に移る。州境接する所多く寇患有り、熙古至り、朝廷の恩信を以て諭し、蕃部の酋豪の子弟を取りて質と為し、邊鄙以て寧し。兵部侍郎に轉じ、徙めて成都府を知る。六年、就きて端明殿學士を拜す。丁母憂。開寶五年、詔して本官を以て參知政事と為し、名馬・銀鞍を選びて賜ふ。歲餘、足疾を以て解くを求め、戶部尚書を拜して致仕す。九年、卒す。年七十四。右僕射を贈る。

熙古は兼ねて陰陽象緯の術に通じ、『續聿斯歌』一卷・『六壬釋卦序例』一卷を作る。性淳謹、顯貴と雖も寒素を改めず。歷官十八、朝に登ること三十餘年、未だ嘗て過有ること無し。嘗て古今の事跡を集めて『歷代紀要』十五卷と為す。頗る小學に精しく、『切韻拾玉』二篇を作り、摹刻して獻じ、詔して國子監に付して頒行せしむ。子に蒙正・蒙叟有り。

子 蒙正

蒙正は字は頤正、騎射に善し。乾德中、蔭を以て殿直に補し、供奉官に遷る。王師江南を征し、命じて傳に乘り軍中に承奉事せしむ。盧絳舟師を以て潤州に來援す。蒙正部署の丁德裕に白し、精甲百人を分ち、出でて絳と戰はんことを請ふ。矢左肋に中るも、戰ひ愈々力む。潤州を下すに及び、知州劉澄・監軍崔亮を獲て、部して闕下に送る。

嶺南陸運して香藥を京に入るるに、詔して蒙正をして往きて規畫せしむ。蒙正請ふ、廣・韶の江より流れを溯りて南雄に至り、大庾嶺より步運して南安軍に至る。凡そ三鋪、鋪に卒三十人を給し、復た水路より輸送せんと。

又朝服法物庫を掌り、會ふに繡衣・鹵簿を重ねて製す。其の規式多し。太平興國四年、内藏庫副使に轉じ、崇儀使に進む。内藏庫を創むるより、即ち詔して蒙正に典領せしめ、凡そ二十餘年。

真宗初、如京使に改め、出でて滄・冀・磁の三州を知る。戎人境を犯す。蒙正丁男を調べて城に乘り固く守り、勞有り。未だ幾ばくもせず、驛馬に擅に乘ずるを以て、責めて亳州團練副使を授く。咸平四年、卒す。年七十二。

子 蒙叟

蒙叟は字は道民、乾德中、進士甲科。岳・宿二州推官を歷り、知る所を以て論薦せられ、太子中允を授けられ、乾興を知り、監察御史を拜し、徙めて濟州を知る。俄に秦王の子德恭州事を判ずるを以て、就きて命じて通判と為し、郡事皆蒙叟に決す。右補闕に遷り、起居舍人・戶部鹽鐵判官に轉ず。再び屯田郎中に遷り、廬・濠・滁・汝の四州を知り歷り、都官に遷る。

咸平中、上疏して曰く、「陛下已に諒闇を周り、方に萬務に勤む。儉德を崇げ、前規を守り、自ら能を矜ること無く、奢縱を作すこと無く、三軍の賜を厚くし、萬姓の徭を輕くし、化育を生靈に被らしめ、聲教を中外に加へよ。且つ萬國已に其の始を觀る。惟ふに陛下其の終を慎み守り、鮮克の言を思ひ、性習の漸を戒めよ。則ち天下幸甚なり」と。上之を嘉し、本官を以て直史館と為す。

車駕北巡し、令して中宮の名を知らしむ。表して『宋都賦』を獻じ、國家の命を受け號を建つるの地を述べ、宜しく都を建て宗廟を立つべしとす。時は未だ遑あらざりしも、後卒に之に從ふ。會ふに詔して直史館に、各舊文を獻ぜしむ。蒙叟の著する所を以て嘉と為し、職方郎中に改む。景德中、足疾を以て、太常少卿を拜して致仕す。卒す。年七十三。

蒙叟は學を好み、屬辭に善く、『五運甲子編年曆』三卷を著す。子に宗儒は太子中書、宗弼・宗誨は並びに進士及第。

石熙載

太平興国四年、帝は河東に親征し、給事中を以て枢密副使を充て従駕せしめ、還御の後、刑部侍郎に遷す。五年、戸部尚書・枢密使を拝し、足病のため告暇し、臥病久しくして癒えず。八年、上表して職の解除を請う。詔して慰撫を加え、尚書右僕射を授く。九年、卒す。年五十七。侍中を贈られ、諡して元懿と曰う。上は悲歎すること数日に及び、且つ其の君に事うる心、純正にして他無く、まさに任用に委ぬべきに、奄忽として此くの如きに至るは、深く惜しむべしと謂う。国朝大臣にして職を謝して卒し、車駕臨視する者は、唯熙載のみなり。

熙載は性質忠実にして、事に遇えば言を尽くし、是非好悪、顧み避くる所無し。人に善有れば、即ち之を推薦し、時論其の長者を称す。初め、遊学の時、養いの為に米を負う。嘗て嵩陽の道中を行くに、一叟に遇い、熟視して熙載に曰く、「真人将に興らんとす、子まさに輔弼の位に居るべし」と。言い訖って見えず。及て太宗の幕下に居り、頗る誠節を尽くす。枢務を典むる日、上眷注甚だ篤く、まさに相と為さんと倚らんとするに、俄に疾に遭いて起たず。

熙載は継母牛氏に事えて孝を以て聞こゆ。弟熙導は、牛氏の前夫子にして、母に随い石氏に帰る。熙載の故を以て、奏して殿直に補す。従弟熙古・幼弟熙政は、皆進士第に登り、熙載は之を撫すること一の如し。熙載卒する時、子中孚・中立皆幼く、熙政は熙導が異姓にして己の上に居るを患い、乃ち詐りて上旨を伝え、己に熙導の家財を籍せしめ、是より交訟す。有司罪を熙導に帰す。上は中孚・中立を召し問い、有司に再び鞫せしめて実を得さしむ。熙導は本姓に還り、中孚も養子は問わず、熙政は坐して除名せらる。上は素より熙載が母の故を以て、熙導を育むこと甚だ厚きを知り、還宗せしむと雖も、其の官を奪わず、復た財産を以て量りて之に給す。

咸平二年八月、熙載は太宗廟庭に配饗せらる。熙政は後に至り供備庫副使となる。中孚は尚書虞部員外郎に至り、子行簡は大中祥符の進士なり。

子 中立

中立は、字を表臣と為し、年十三にして孤と為る。性質疎曠にして、諧謔を好み、人も以て怒と為さず。初め西頭供奉官に補せられ、後五年、光禄寺丞に改む。家財は悉く諸父に推し与え、愛する所無し。直集賢院に擢でられ、李宗諤・楊億・劉筠・陳越と相厚く善し。秘書を校讎し、凡そ中立を更ふる者は、人皆之を伝う。三司理欠・憑由司を判す。

帝亳に幸す。命じて過ぐる所の図経を修めしむ。塩鉄判官と為り、累遷して尚書礼部侍郎に至り、吏部南曹を判す。御集を注釈し、検閲官と為る。戸部勾院を判するを改め、戸部郎中・史館修撰に遷り、在京刑獄を糾察す。吏部郎中・知制誥を以て審官院を領す。又礼部貢挙を同知し、集賢院を判す。挙官当らざるに坐し、史館修撰を落とし、審官院を罷む。頃くして、復た刑獄を糾察し、三班院を領す。右諫議大夫・給事中を歴て、入りて翰林学士と為り、秘閣を判す。知制誥並びに知貢挙と為り、詔して中立と張観に外制を兼ねて行わしめ、尚書礼部侍郎に遷し、学士承旨兼龍図閣学士と為る。景祐四年、参知政事を拝す。明年、災異数見す。諫官韓琦言う、「中立位に在りて、詼笑を喜び、大臣の体に非ず」と。王随・陳堯佐・韓億と皆罷めらる。戸部侍郎を以て資政殿学士と為り、通進銀台司を領し、尚書都省を判し、大学士に進む。吏部侍郎に遷り、祥源観を提挙し、太子少傅を以て致仕し、少師に遷る。卒し、太子太傅を贈られ、諡して文定と曰う。

中立は台閣の故事に練習し、近名に汲汲せず。賓客を喜び、客至れば必ず之と飲酒し、酔いて乃ち去るを得しむ。初め、家産歳入百万銭、末年費やし幾くんぞ尽きんとす。帝其の病を聞き、白金三百両を賜う。既に死し、其の家喪を弁ずるに至らざるに至る。子居簡、太子中允・集賢校理に至る。

李穆

周の顕徳初め、進士を以て郢・汝二州の従事と為り、右拾遺に遷る。宋初、殿中侍御史を以て選ばれ洋州通判と為る。既に至り、滞訟を剖決し、留獄無し。陝州通判に移る。有司郡租を調べて河南に輸せしむ。穆は本鎮の軍食欠くを以て、即時に命に応ぜず、坐して免ぜらる。又挙官に坐し、前資を削らる。時に弟粛は博州従事たり。穆は母を将いて粛に就き居る。貧甚だしと雖も、兄弟相与に講学し、意泊如たり。

開宝五年、太子中允を以て召さる。明年、左拾遺・知制誥を拝す。五代以来、詞令は華靡を尚ぶ。穆に至りて独り雅正を用い、悉く其の弊を矯う。穆は盧多遜と同門生たり。太祖嘗て多遜に謂う、「李穆は性仁善、辞学の外はる所無し」と。対えて曰く、「穆は操行端直、事に臨み生死を以て節を易えず、仁にして勇有る者なり」と。上曰く、「誠に是の如くならば、吾まさに之を用いん」と。時に将に江南に事有らんとし、已に諸将を部分すと雖も、未だ発兵の端無し。乃ち先ず李煜を召し入朝せしめ、穆を以て使と為す。穆至りて旨を諭す。煜は疾を以て辞し、且つ言う、「大朝に事えて以て全済を望む、今若し此くの如くんば、死有るのみ」と。穆曰く、「朝するか否かは、国主自ら之を処すべし。然れども朝廷の甲兵精鋭、物力雄富、恐らく其の鋒に当たり易からず、宜しく之を熟思すべく、自ら後悔を貽す無かれ」と。使い還り、状を具に言う。上以て諭す所の要切なりと為す。江南も亦其の言誠実なりと謂う。

太平興国初め、左補闕に転ず。三年冬、史館修撰・判館事を加えられ、面して金紫を賜う。四年、太原に従征して還り、中書舎人を拝す。『太祖実録』の修撰に預かり、衣帯・銀器・繒彩を賜う。七年、盧多遜と款狎し、又秦王廷美の為に朝辞笏記を草するを以て、言者に劾せられ、責めて司封員外郎を授けらる。

八年春、宋白等と同知貢挙し、及び上崇政殿に御し親しく進士を試すに侍す。上其の顔貌臒瘁なるを憫れみ、即日復た中書舎人・史館修撰・判館事を拝す。五月、翰林学士として召さる。六月、開封府を知る。剖判精敏にして、奸猾仮貸する所無く、是より豪右跡を屏い、権貴私を以て干うるを敢えてせず、上益々其の才を知る。十一月、擢でて左諫議大夫・参知政事を拝す。月余り、母憂に丁る。未だ幾からず、本官に起復す。穆三たび表を上して終制を乞う。詔して強いて之を起す。穆益々哀毀礼を尽くす。九年正月、晨起ち将に朝せんとす。風眩し暴卒す。年五十七。

穆は員外郎を責授せられしより、中書舎人に復し、翰林に入り、参知政事に至り、以て卒するに及び、周歳に及ばず。上其の死を聞き、近臣に哭して謂う、「穆は国の良臣、朕まさに倚用せんとす。遽かに茲に淪没す。斯人の不幸に非ず、乃ち朕の不幸なり」と。工部尚書を贈る。

穆は性至孝にして、母嘗て臥疾す。動止轉側する毎に、皆自ら扶掖し、乃ち母意に稱す。初め、穆は秦王の事に坐して吏に屬せられ、其の子惟簡は祖母に紿して穆が詔を奉じて臺中に獄を鞫すと云ふ。及て責授して省郎と為り、家に還るも、亦以て母に白せず。隔日毎に、陽に入直と為し、即ち親友を訪ひ、或は僧寺に遊ぶ。免歸し、牽復に及ぶまで、母終に之を知らず。及て喪に居り、思慕して以て性を滅すに至る。

穆は篆隸に善く、又畫を工にす。常に其の事を晦ます。質厚忠恪にして、言を謹み行ひを慎む。為す所純至にして、矯飾有ること無し。深く釋典を信じ、名理を談ずるに善く、後進を接引し、薦達すること多し。尤も寬厚にして、家人未だ嘗て其の喜慍を見ず。著す所の文章は、隨ひて即ち之を毀ち、多く稿を留めず。

子 惟簡

子惟簡は、父の任に以て將作監丞と為り、才藝多く、性冲澹にして、仕進を樂しまず。官を去り家に居ること三十餘年、人多く之を稱す。真宗素より其履行有るを聞き、景德三年、詔して惟簡の子郯を將作監主簿に授く。大中祥符七年冬、惟簡を召して入對せしめ、特拜して太子中允致仕と為し、後に太常丞を加ふ。天禧四年、卒す。其の家に錢十萬を賜ひ、仍て郯に月奉を給して制を終らしむ。郯後太子中舍と為る。

弟 肅

肅、字は季雍、七歳にして書を誦し大義を知り、十歳にして詩を為す。往々にして警語有り。進士に舉げられ、甲科に登る。性酒を嗜む。歷て濮・博二州の從事に任じ、遷りて保靜軍節度推官と為る。詔方に下る。一夕親友と會飲し、酣に寢て卒す。年三十三。嘗て『大宋樂章』九首を作り、九成・九夏の義を取り、以て國家の盛德を頌す。其の文甚だ工なり。又『代周顒答北山移文』・『吊幽憂子文』・『病雞賦』を作り、意皆規る所有り。

論じて曰く、張昭は五季の末に居り、專ら典章撰述を以て事と為し、文史に博洽し、旁ら治亂に通ず。君違有れば必ず諫め、時の君是れを嘉尚すと雖も從ふこと能はざりき。宋興り、碩儒を敦獎し、詢訪すること多く、庶幾くは稽古の效を得んとす。竇氏の弟昆は儒學を以て進み、並びに時望を馳す。儀は剛方清介にして、應務の才あり、將に大用せんと試みるに遽かに淪亡す。儼は文藝に優遊し、禮樂を修起す。太宗京を尹するに、偁實に元僚たり。冲淡回翔し、晚に忠讜を著す。若し其の門族宦業の盛なるは、世或は陰德の報と以為ひ、其れ亦義方の效なり。餘慶は太祖潛居するに當り、歷任幕府し、名は趙普・李處耘に亞ぐ。及て二人登用せらるるに、一も介意せず。其の後相繼いで衆の傾く所と為るも、乃ち能く之が爲に辯釋す。熙古は大任に居り、自ら處ること寒素の如し。熙載は朝に立ち、言に顧避無く、善人を薦むるを喜ぶ。穆は文學孝行を以て時に稱せらる。數賢は創業の始に當ると雖も、進退の際、藹然として承平多士の風有り。宜しく宋治の日に盛に進むべきなり。