宋史

列傳第十九 曹翰 楊嗣 党進 李漢瓊 劉遇 李懷忠 米信 田重進 劉廷翰 崔翰

列傳第十九 曹翰 楊嗣 党進 李漢瓊 劉遇 李懷忠 米信 田重進 劉廷翰 崔翰

曹翰

原文曹翰

世宗が即位すると、供奉官に補任され、高平征討に従軍し、謀画に参与した。まもなく枢密承旨に遷り、黄河の堤防決壊を護衛した。世宗が淮南を征した時、千余りの鎧甲を正陽に留め置き、後に降伏兵八百を得て、部を率いて京師に送還した。時に曹翰は丁度京師から来ており、正陽を過ぎて十余里の所で彼らと遭遇し、兵器を奪われて反乱されることを慮り、詔を偽って彼らを殺した。世宗に謁見し、事の次第を詳しく述べると、世宗は快く思わなかった。曹翰は言った。「賊は困窮して我に帰順したのであり、心服したのではない。得た器甲は全て正陽にある。もし奪われれば、これまた一つの淮南を生むことになる。」そこで罪に問わなかった。瓦橋関征討に従軍し、班師の際に会し、雄州知州として留め置かれた。世宗の病が篤くなり、范質らに王著を宰相とし、曹翰を宣徽使とするよう諭した。質は、著が酒を嗜み、翰が詐りを飾って専断するとして、共に取りやめにした。徳州刺史に改めた。

原文及世宗即位,補供奉官,從征高平,參豫謀畫。尋遷樞密承旨,護塞決河。世宗征淮南,留鎧甲千數在正陽,既而得降卒八百,部送歸京師。時翰適從京師來詣,過正陽十數里許遇之,慮劫兵器為叛,矯殺之。及見世宗,具言其事,世宗不悅。翰曰:「賊以困歸我,非心服也,所得器甲,盡在正陽,苟為所劫,是復生一淮南矣。」因不之罪。從征瓦橋關,會班師,留知雄州。世宗大漸,諭范質等以王著為相,翰為宣徽使。質以著嗜酒,翰飾詐而專,並寢之。改德州刺史。

宋の初年、沢州・潞州征討に従軍し、帰還後、済州刺史に改めた。乾徳二年、太祖が西蜀しょくを親征し、均州刺史に移った。澗谷が深く険しく、曹翰は石を穿って通路を開かせ、軍が帰還する際にこれを利用した。詔により西南諸州転運使を兼ね、石門から帰州へ直行し、糧秣の輸送に不足なく、夔州・万州から王全斌の軍と合流し、成都は平定された。時に全師雄が十万余りの兵を擁して郫県に拠り反乱し、成都を窺うことを謀った。曹翰は兵を率いて劉光毅・曹彬らと合流し、これを討平した。間もなく、軍校の呂翰が武懐節を殺し、嘉州を拠って反乱した。曹翰と諸将はその城を奪った。間者により賊が三鼓に再び攻めて来ると約束したことを知り、曹翰は時を知らせる者に遅らせるよう戒め、夜明け近くになってもまだ二鼓のままにした。賊の兵は集まらずに潰走し、これによって賊を破り、剣南は遂に平定された。軍が帰還すると、蔡州団練使に遷った。

原文宋初,從征澤、潞,還,改濟州刺史。乾德二年,太祖親征西蜀,移刺均州,澗谷深險,翰令鑿石通道,師旋以濟;詔兼西南諸州轉運使,自石門徑趨歸州,餉運不乏,由夔、萬入會王全斌軍,成都以平。時全師雄擁眾十萬餘據郫縣叛,謀窺成都,翰率兵會劉光毅、曹彬等討平之。未幾,軍校呂翰殺武懷節,據嘉州以叛,翰及諸將奪其城。諜知賊約三鼓復來攻,翰戒知更使緩,向晨猶二鼓,賊眾不集而潰,因而破之,劍南遂平。師還,遷蔡州團練使。

開宝二年、太原征討に従軍し、再び行営都壕砦使となった。班師した後、澶州で黄河が決壊したため、曹翰にその工事を監督させた。曹翰は銀器を出して工事を助け、乗っていた白馬を沈めて祭祀した。再び陽武で決壊し、再び工事を護衛したが、いずれも成果があった。江南を征討することになり、曹翰に兵を率いて先に荊南へ赴かせ、行営先鋒使に改め、池州を陥落させた。金陵が平定されると、江州の軍校胡徳・牙将宋徳明が城に拠って命令に従わなかった。曹翰は兵を率いてこれを攻め、凡そ五ヶ月で陥落させ、城中を屠り生き残る者はなく、兵八百を殺した。略奪した金帛は億万を数え、廬山東林寺の鉄羅漢像五百体を京師に運びたいと偽って言い、百艘の巨艦を調達し、得たものを載せて帰還した。功績を記録して桂州観察使・潁州判官に遷った。

原文開寶二年,從征太原,復為行營都壕砦使。既班師,會河決澶州,令翰董其役,翰出銀器助役,沉所乘白馬以祭;復決陽武,再護役,皆有成績。將征江南,命翰率兵先赴荊南,改行營先鋒使,進克池州。金陵平,江州軍校胡德、牙將宋德明據城拒命。翰率兵攻之,凡五月而陷,屠城無噍類,殺兵八百。所略金帛以億萬計,偽言欲致廬山東林寺鐵羅漢像五百頭於京師,因調巨艦百艘,載所得以歸。錄功遷桂州觀察使、判潁州。

太平興国四年、太原征討に従軍し、攻城南面都部署となった。崔彦進・李漢瓊・劉遇の三節度使と分かれて城攻めを担当し、曹翰は東北を攻め、劉遇は西北を攻めた。劉遇の担当は劉継元の正面に当たり、城は特に険固であったため、劉遇は曹翰と場所を替えようとした。曹翰は言った。「観察使の班次は下である。東北部を担当すべきである。」劉遇は固く替えようとし、数日決まらなかった。上は諸将の不和を慮り、曹翰に諭して言った。「卿の智勇は並ぶ者なく、西北面は卿でなければ当たれない。」曹翰は詔を奉じ、土山を築いて城中を見下ろし、数日で完成させると、継元は甚だ恐れた。軍中に水が乏しく、城西十余里の谷中に娘子廟があった。曹翰は往って祈り、渠を穿って水を得、人馬の用を給した。また幽州征討に従軍し、配下を率いて城の東南隅を攻めた。兵卒が土を掘って蟹を得て献上した。曹翰は諸将に言った。「蟹は水の物であるのに陸に居るのは、在所を失っている。かつ足が多いのは、彼の援軍が来る兆しであり、攻め落とせない象である。況や蟹は解(和らぐ)である。班師するのではないか。」既にして果たしてその通りであった。

原文太平興國四年,從征太原,為攻城南面都部署。與崔彥進、李漢瓊、劉遇三節度分部攻城,翰攻東北,而劉遇攻西北,與劉繼元直,城尤險固,遇欲與翰易處,翰言:「觀察使班次下,當部東北。」遇堅欲易之,數日不決。上慮諸將不協,遣諭翰曰:「卿智勇無雙,西北面非卿不能當也。」翰乃奉詔,築土山瞰城中,數日而就,繼元甚恐。軍中乏水,城西十餘里谷中有娘子廟,翰往禱之,穿渠得水,人馬以給。又從征幽州,率所部攻城東南隅,卒掘土得蟹以獻。翰謂諸將曰:「蟹水物而陸居,失所也。且多足,彼援將至,不可進拔之象,況蟹者解也,其班師乎?」已而果驗。

五年、大名に行幸に従い、威塞軍節度使に拝され、依然として潁州判官を務め、再び命を受けて幽州行営都部署となった。詔により南河開削の工事を監督し、雄州から莫州に至り、漕運を通じさせ、大堤を築いて防ごうと議した。曹翰は数万の役夫を派遣し、漢の境内で巨木を伐採させた。騎兵五騎を派遣し、五色の旗を与えて斥候とし、前に丘陵・水沢・寇賊・煙火に遇えば、それぞれその旗を挙げて応じさせた。また境上に烽燧を起こすと、敵は疑って塞に近づかず、巨木数万を得て用を済ませ、事を終えて鎮に帰った。

原文五年,從幸大名,拜威塞軍節度,仍判潁州,復命為幽州行營都部署。詔督役開南河,自雄達莫,以通漕運,議築大堤以捍之。翰遣徒數萬,伐巨木於漢境,遣騎五,授五色旗為斥候,前遇丘陵、水澤、寇賊、煙火,則各舉其旗以為應,又起烽燧於境上,敵疑不敢近塞,得巨木數萬以濟用,訖事歸鎮。

曹翰は郡に在任すること久しく、徴収は苛酷で、政はこれによって弛んだ。上はその功績があるため、常に優しく容赦した。汝陰県令孫崇望が宮闕に詣で、曹翰が私的に兵器を売買し、行い多く法に背くと訴えた。詔により御史滕中正を駅伝で派遣して審問させた。獄が決し、棄市に当たるとされたが、上はその罪を赦し、官爵を削り、登州に流して禁錮した。雍熙二年、右千牛衛大将軍として起用され、西京に分司した。四年、召されて左千牛衛上将軍となり、銭五百万、白金五千両を賜った。淳化三年、卒去。六十九歳。太尉を追贈した。上は命じてその四子、守謙・守能・守節・守貴の官を遷し、その六子、守譲・守贄・守澄・守恩・守英・守吉は皆、殿直に補任された。

原文翰在郡歲久,征斂苛酷,政因以弛。上以其有功,每優容之。會汝陰令孫崇望詣闕,訴翰私市兵器,所為多不法。詔遣御史滕中正乘傳鞫之,獄具,當棄市,上貸其罪,削官爵,流錮登州。雍熙二年,起為右千牛衛大將軍、分司西京。四年,召入為左千牛衛上將軍,賜錢五百萬,白金五千兩。淳化三年,卒,年六十九,贈太尉。上命遷其四子守謙、守能、守節、守貴官,其六子守讓、守贄、守澄、守恩、守英、守吉皆補殿直。

曹翰は陰険で狡知に富み、数に長け、大言を好み、貨賂を貪り、酒を数斗飲んでも乱れなかった。毎度、上面前で奏事する際、数十条に及んでも、皆暗記して少しも誤りがなかった。かつて『退将詩』を作って言った。「曾て国難に因りて金甲を披き、家貧しきを恥じて宝刀を売る。」曹翰が禁中に直する日、この話に及んだ。上はその心情を憐れみ、故に銀銭を賜ったのである。咸平元年、武毅と諡を賜った。

原文翰陰狡多智數,好誇誕,貪冒貨賂,飲酒至數斗不亂。每奏事上前,雖數十條,皆默識不少差。嘗作《退將詩》曰:「曾因國難披金甲,恥為家貧賣寶刀。」翰直禁日,因語及之。上憫其意,故有銀錢之賜。咸平元年,賜諡武毅。

楊信

原文楊信

太祖はかつて御龍直に後池で水戦を習わせた。鼓噪の声があり、楊信は玄武門外に居て、これを聞くと、急ぎ入り、黒い綈の袍を着て謁見した。上は言った。「我は水戦を教えているだけであり、他意はない。」退出する時、上は目で送り、左右に言った。「真の忠臣である。」九年、義成軍節度使を授かった。太平興国二年、鎮寧軍に改め、共に殿前都指揮使を領した。三年春、瘖疾のため休暇を取っていたが、俄かに卒去した。侍中を追贈された。

原文太祖嘗令御龍直習水戰於後池,有鼓噪聲,信居玄武門外,聞之,遽入,服皂綈袍以見。上謂曰:「吾教水戰爾,非有他也。」出,上目送之,謂左右曰:「真忠臣也。」九年,授義成軍節度。太平興國二年,改鎮寧軍,並領殿前都指揮使。三年春,以瘖疾在告,俄卒,贈侍中。

楊信は瘖疾ながらも質実で自らを律し、士卒の配置に長け、指顧の間に申し戒め、動きに紀律があった。故に信任を受け、終始疑われることがなかった。童奴の田玉という者がおり、その意を推し量ることができた。毎度、上面前で奏事する際や、賓客と談論する時、あるいは部下を指揮する時は、必ず振り返って田玉を見、掌に字を書いた。田玉はそれによって直ちにその意を伝達して誤りがなかった。楊信が死ぬ前日、瘖疾が忽然として癒えた。上は聞いて驚き、急ぎその邸に行幸した。楊信は自ら両朝に遇い、恩寵が隆厚であったことを述べ、感謝と感慨を叙し、涕泗が横に集まった。上は慰勉を加え、賜り物に差等をつけた。楊信の弟は嗣・贊である。

原文信雖瘖疾而質實自將,善部分士卒,指顧申儆,動有紀律,故見信任,而終始無疑焉。有童奴田玉者,能揣度其意,每上前奏事,及與賓客談論,或指揮部下,必回顧玉,書掌為字,玉因直達其意無失。信未死前一日,瘖疾忽愈,上聞而駭之,遽幸其第。信自言遭遇兩朝,恩寵隆厚,敘謝感慨,涕泗橫集。上加慰勉,錫賚有差。信弟嗣、贊。

弟 嗣

原文弟 嗣

嗣は、建隆初年に楊信の推薦により殿直となり、三度遷って崇儀副使・大山軍監軍となった。雍熙四年、そのまま命を受けて軍事を知った。代わって帰還する際、吏民が留任を請うたため再任し、俄かに高陽関戦櫂都監に遷った。淳化二年、保州知州に改め、門に私的な謁見がなかった。転運使がその治績を上言し、優遇して威虜軍に遷し、崇儀使に改め、曹思進と共に静戎軍・保州・長城・蒲城縁辺都巡検使となった。如京使に改め、再び保州知州となり、戦功があった。

原文嗣,建隆初以信薦為殿直,三遷崇儀副使、大山軍監軍。雍熙四年,就命知軍事。代還,以吏民借留再任,俄遷高陽關戰櫂都監。淳化二年,改知保州,門無私謁。轉運使言其治狀,優遷威虜軍,改崇儀使,與曹思進同為靜戎軍、保州、長城、蒲城緣邊都巡檢使。改如京使,再知保州,有戰功。

真宗が即位すると、洛苑使を加えられた。咸平初年、奨州刺史を領す。三年、敵と廉良で戦い、二千級を斬首し、戦馬や輜重を多く獲た。功により保州刺史を真に拝命。召還されて本州団練使を授けられた。時に楊延昭が刺史であったが、嗣は言う、「かつて延昭と同官であり、急にその上に立つことはできぬ。旧官を守りたい」と。上はその譲りを嘉し、延昭の官を遷した。嗣と延昭は久しく北辺に在り、ともに善戦で知られ、時に「二楊」と称された。嗣は武人として郡を治め、細務を顧みず、また巡徼を兼ねて郡にいる日少なく、城壁が崩壊して未だ修繕せざるあり。詔して供備庫副使趙彬に代わらせ、深州団練都巡検使兼保州鈐轄に改めた。

原文真宗即位,加洛苑使。咸平初,領獎州刺史。三年,與敵人戰於廉良,斬首二千級,獲戰馬輜重甚眾,以功真拜保州刺史。召還,授本州團練使。時楊延昭方為刺史,嗣言:「嘗與延昭同官,驟居其上,不可,願守舊官。」上嘉其讓,乃遷延昭官。嗣與延昭久居北邊,俱以善戰聞,時謂之「二楊」。嗣以武人治郡,不屑細務,又兼領巡徼,在郡日少,城堞圮壞,有未葺者,詔供備庫副使趙彬代之,改深州團練都巡檢使兼保州鈐轄。

五年、辺人が保州を寇す。嗣と楊延昭がこれを防ぐが、部伍整わず、襲撃される。士馬多く亡失し、代還して、特にその罪を宥された。明年、防秋の策を上奏し、北面の利害を条陳す。辺事に練達するをもって、鎮・定・高陽関三路後陣鈐轄として出され、定州副都部署に移り、その家を京師に留め、官第を仮りて居住させた。

原文五年,邊人寇保州,嗣與楊延昭禦之,部伍不整,為所襲。士馬多亡失,代還,特宥其罪。明年,與防秋之策,條陳北面利害,以其練達邊事,出為鎮、定、高陽關三路後陣鈐轄,移定州副都部署,留其家京師,假官第以居。

景德初年、鎮州路副都部署に改む。上は嗣が耄年にして軍政を総べるを以て、廃闕あるを慮り、直ちに代えるを命ず。連ねて趙・貝・深三州部署となる。大中祥符五年、再び出て天雄軍副都部署となる。六年、左龍武大将軍を以て致仕す。明年卒す。年八十一。その子承憲を侍禁に録す。

原文景德初,改鎮州路副都部署。上以嗣耄年總軍政,慮有廢闕,旋命代之。連為趙、貝、深三州部署。大中祥符五年,復出為天雄軍副都部署。六年,以左龍武大將軍致仕。明年卒,年八十一。錄其子承憲為侍禁。

贊は稍々書を知るも、異能無く、兄の故をもって禁旅を掌るを得、累資して著しく牧守に至る。

原文贊稍知書,無異能,以兄故得掌禁旅,累資朝著至牧守焉。

党進

原文党進

開宝元年、太原を征せんとし、進を以て河東行営前軍の将とす。開宝二年、太祖師を晋陽に臨み、砦を四面に置き、進にその東偏を主たるを命ず。師未だ列を成さず、太原の驍ぎょう将楊業、突騎数百を領して来犯す。進奮身して数人に従い業を逐う。業急ぎ隍中に入る。会に援兵至り、縁りて縋りて城に入り獲免す。上これを激賞す。六年、侍衛馬軍都指揮使・鎮安軍節度使を領すに改む。九年、また河東行営兵を将いて太原を征し、その境に入り、太原軍を城北に敗る。太祖崩じ、召還さる。太平興国二年、出でて忠武軍節度使となる。鎮に在ること歳余、一日外より帰るに、大蛇臥榻上に寝衣中にあり。進怒り、烹てこれを食らう。疾に遇い卒す。年五十一。侍中を贈らる。

原文開寶元年,將征太原,以進將河東行營前軍。開寶二年,太祖師臨晉陽、置砦四面,命進主其東偏。師未成列,太原驍將楊業領突騎數百來犯,進奮身從數人逐業;業急入隍中,會援兵至,緣縋入城獲免。上激賞之。六年,改侍衛馬軍都指揮使、領鎮安軍節度。九年,又命將河東行營兵征太原,入其境,敗太原軍於城北。太祖崩,召還。太平興國二年,出為忠武軍節度。在鎮歲餘,一日自外歸,有大蛇臥榻上寢衣中,進怒,烹食之。遇疾卒,年五十一,贈侍中。

進は戎行より出で、形貌魁岸たり。居常は恂恂たり。毎に甲冑を擐くれば、毛髪皆豎つ。進、名は進、自ら暉と称す。人これを問えば、則ち曰く、「吾れ吾が便に従わんと欲するのみ」と。先ず是れ、禁中の軍校、都虞候已上、悉く掌る所の兵数を梃上に書き、笏記の如くす。太祖一日進の掌る所幾何なるかを問う。進字を識らず、但だ梃を挙げて上に示し曰く、「尽く是れに在り」と。上その朴直を以て、益々これを厚くす。嘗て詔を受けて京師を巡る。閭里の間に禽獣を畜養する者有れば、見れば必ず取りてこれを放ち、罵りて曰く、「肉を買いて父母に供せず、反って以て禽獣に飼うか」と。太宗嘗て親吏に令して鷹雛を市に臂せしむ。進亟ぎてこれを放たんと欲す。吏曰く、「此れ晋王の鷹なり」と。進乃ちこれを戒めて曰く、「汝謹んで養い視よ」と。小民伝えて以て笑いと為す。その変詐また此の如し。杜重威の子孫に貧困なる者有れば、進月俸を分かちてこれを給す。士大夫或いは愧ずる者有り。子崇義は閑廄使、崇貴は閤門祗候。

原文進出戎行,形貌魁岸,居常恂恂,每擐甲胄,毛發皆豎。進名進,自稱曰暉,人問之,則曰:「吾欲從吾便耳。」先是,禁中軍校,自都虞候已上,悉書所掌兵數於梃上,如笏記焉。太祖一日問進所掌幾何,進不識字,但舉梃以示於上曰:「盡在是矣。」上以其樸直,益厚之。嘗受詔巡京師,閭里間有畜養禽獸者,見必取而縱之,罵曰:「買肉不將供父母,反以飼禽獸乎。」太宗嘗令親吏臂鷹雛於市,進亟欲放之,吏曰:「此晉王鷹也。」進乃戒之曰:「汝謹養視。」小民傳以為笑,其變詐又如此。杜重威子孫有貧困者,進分月俸給之,士大夫或有愧焉。子崇義閑廄使,崇貴閤門祗候。

李漢瓊

原文李漢瓊

王師江南を征し、行営騎軍兼戦櫂左廂都指揮使を領するを命ぜられ、蘄春より岐口砦を攻め、数千級を斬首し、楼船数百艘を獲、流れに沿いて池州を抜き、銅陵を破り、当塗を取り、牛渚に浮梁を作りて大軍を済す。金陵を分囲し、率いる所の部をして秦淮を度らしめ、巨艦を取りて葦を其中に実し、火を放ちてその水砦を攻め、これを抜く。江南平ぐ。功により振武軍節度使を領す。

原文王師征江南,命領行營騎軍兼戰櫂左廂都指揮使,自蘄春攻岐口砦,斬首數千級,獲樓船數百艘,沿流拔池州,破銅陵,取當塗,作浮梁於牛渚以濟大軍。分圍金陵,率所部度秦淮,取巨艦實葦其中,縱火攻其水砦,拔之。江南平,以功領振武軍節度。

太平興国二年、出でて彰徳軍節度使となる。四年、太宗親しく太原を征し、攻城都部署に改む。漢瓊と牛思進は城南偏を攻むるを主とす。漢瓊先ず登る。矢その脳に集まり、並びに中指す。傷甚だしきも猶力疾して戦う。上これを幄殿に召し、良薬を賜いて以てこれを慰労す。先ず是れ、攻城する者、牛革を以て木上に冒し、士卒これを蒙りて進む。これを洞子と謂う。上その中に幸せんと欲す。漢瓊極諫し、矢石の下は、万乗の尊の軽く往くに宜しからざるを以てす。上乃ち止む。太原平ぐ。鎮州兵馬鈐轄に改む。

原文太平興國二年,出為彰德軍節度。四年,太宗親征太原,改攻城都部署。漢瓊與牛思進主攻城南偏,漢瓊先登,矢集其腦,並中指,傷甚猶力疾戰。上召至幄殿,賜良藥以慰勞之。先是,攻城者以牛革冒木上,士卒蒙之而進,謂之洞子。上欲幸其中,以勞士卒,漢瓊極諫,以為矢石之下,非萬乘之尊所宜輕往,上乃止。太原平,改鎮州兵馬鈐轄。

契丹数万騎中山を寇す。漢瓊これと満城に戦い、大いにこれを敗り、遂城に逐い、俘斬万計す。検校太尉を加えらる。車駕大名に幸す。漢瓊上謁し、辺事を陳べて旨に称す。滄州都部署を命ぜられ、戦馬・金甲・宝剣・戎具を加賜して以てこれを寵す。六年、病を以て京に還る。白金万両を賜う。月余にして卒す。年五十五。中書令を贈らる。

原文契丹數萬騎寇中山,漢瓊與戰於滿城,大敗之,逐至遂城,俘斬萬計,加檢校太尉。車駕幸大名,漢瓊上謁,陳邊事稱旨,命為滄州都部署,加賜戰馬、金甲、寶劍、戎具以寵之。六年,以病還京,賜白金萬兩,月餘卒,年五十五,贈中書令。

漢瓊は性質木強にして、酒に使って近づき難し。然れども善戦して功有り。子無し。弟漢贇・漢彬。太平興国初年、漢贇は供奉官に補せられ、嘗て高陽関・平戎軍を監し、伝に乗り衢・婺二州に至り、劇賊程白眉数十人を捕え、悉くこれを殲す。累仕して崇儀使・寧州知州に至る。大中祥符七年卒す。漢彬は礼賓副使に至る。

原文漢瓊性木強,使酒難近,然善戰有功。無子,弟漢贇、漢彬。太平興國初,漢贇補供奉官,嘗監高陽關、平戎軍,乘傳衢、婺二州,捕劇賊程白眉數十人,悉殲焉。累仕崇儀使、知寧州,大中祥符七年卒。漢彬至禮賓副使。

劉遇

原文劉遇

太平興国二年、出でて彰信軍節度使となる。四年、太原を征し、史珪と城北面を攻め、これを平ぐ。范陽を攻む。師還り、部する所の律を失うに坐し、責めて宿州観察使を授く。五年、大名に幸すに従い、保静軍節度使・幽州行営都部署に復し、保州・威虜・静戎・平塞・長城の五城を築くを護る。八年、鎮を滑州に徙す。晨興方に客に対す。足に灸瘡痛む。その医、火毒去らず、故に痛み止まずと謂う。遇即ち衣を解き、刀を取りて瘡を骨に至るまで割りて曰く、「火毒去れり」と。談笑平常の時の如し。旬余にして乃ち差ゆ。遇は性質淳謹にして、士を待つに礼有り。尤も射を善くす。太宗これを待つこと甚だ厚し。雍熙二年卒す。年六十六。侍中を贈り、京師に帰葬す。

原文太平興國二年,出為彰信軍節度。四年,征太原,與史珪攻城北面,平之。進攻范陽,師還,坐所部失律,責授宿州觀察使。五年,從幸大名,復保靜軍節度、幽州行營都部署,護築保州、威虜、靜戎、平塞、長城五城。八年,徙鎮滑州。晨興方對客,足有灸瘡痛,其醫謂火毒不去,故痛不止。遇即解衣,取刀割瘡至骨,曰:「火毒去矣。」談笑如常時,旬餘乃差。遇性淳謹,待士有禮,尤善射,太宗待之甚厚。雍熙二年,卒,年六十六,贈侍中,歸葬京師。

李懷忠

原文李懷忠

帝が西京に行幸し、その地形が天下の正中を得た勢いを愛で、留都としようとの意向を抱かれた。懷忠は隙に乗じて進言して言う、「東京には汴渠の水運があり、毎年江・淮の米数百万斛を運び、禁衛数十万人がこれに仰ぎ給し、倉庫や重兵も皆ここにあります。根本は安固にして久しく、一旦急に遷都を望まれますが、臣は実にその利を見出せません」。帝はこれを嘉納した。

原文上幸西京,愛其地形勢得天下中正,有留都之意。懷忠乘間進曰:「東京有汴渠之漕,歲致江、淮米數百萬斛,禁衛數十萬人仰給於此,帑藏重兵皆在焉。根本安固已久,一旦遽欲遷徙,臣實未見其利。」上嘉納之。

太宗が即位すると、本州防禦使に改めて領し、次第に侍衛歩軍都虞候・大同軍節度使を領す。三年、歩軍都指揮使に改め、五月に卒す。侍中を贈られる。その子紹宗ら三人を録して供奉官とした。大中祥符三年、またその子德鈞を録して借職とした。

原文太宗即位,改領本州防禦使,稍遷侍衛步軍都虞候、領大同軍節度。三年,改步軍都指揮使,五月,卒,贈侍中。錄其子紹宗等三人為供奉官。大中祥符三年,又錄其子德鈞為借職。

米信

原文米信

太宗が即位すると、散都頭指揮使に転じ、引き続き高州團練使を領す。太平興國三年、洮州觀察使を領すべく遷る。四年、太原を征伐するに当たり、行営馬歩軍指揮使に命じ、田重進と分かって行営諸軍を督す。幷人が密かに軍を率いて来襲したが、信はこれを撃破し、その将裴正を殺す。幷州平定後、兵を移して范陽を攻める。軍が帰還すると、功により保順軍節度使に抜擢される。時に信の一族多くは塞外に在り、その兄の子全が朔州より奮身して帰順したので、召見し、伝駅を乗り継いで代州に赴かせ、隙を窺ってその親属を迎えさせ、精鋭の兵卒を発して護送させた。しかし全が宿留すること一年余り、辺境の斥候が厳重で、遂に迎えることができなかった。信は慷慨して嘆き、「忠孝両立せずと聞く。今まさに身を以て国に殉ぜんと考えるに、安んぞ再び親戚を顧みられようか」と。北を望んで号慟し、子や甥に再び言うなと戒めた。五年、郭守贇らと共に定州の屯兵を護ることを命じられる。六年秋、定州駐泊部署に遷る。八年、彰化軍節度使を領すべく改める。

原文太宗即位,轉散都頭指揮使,繼領高州團練使。太平興國三年,遷領洮州觀察使。四年,征太原,命為行營馬步軍指揮使,與田重進分督行營諸軍。幷人潛師來犯,信擊敗之,殺其將裴正。幷州平,遂移兵攻范陽。師還,以功擢保順軍節度使。時信族屬多在塞外,會其兄子全自朔州奮身來歸,召見,俾乘傳詣代州,伺間迎致其親屬,發勁卒護送之。既而全宿留逾年,邊境斥候嚴,竟不能致。信慷慨歎曰:「吾聞忠孝不兩立,方思以身徇國,安能復顧親戚哉!」北望號慟,戒子侄勿復言。五年,命與郭守贇等同護定州屯兵。六年秋,遷定州駐泊部署。八年,改領彰化軍節度使。

雍熙三年、幽薊を征伐するに当たり、信を幽州西北道行営馬歩軍都部署とし、新城において契丹を破る。契丹が衆を率いて再び来戦し、王師はやや退却したが、信は独り麾下の龍衛卒三百を率いて敵を防ぎ、敵はこれを数重に囲み、矢は雨のように降り注いだ。信は数人を射当てたが、麾下の兵士多くは死す。暮れに及んで、信は大刀を執り、従騎を率いて大呼し、数十人を殺すと、敵は遂にやや退却し、信は百余騎で包囲を突破して免れた。軍律を失した罪により、死に当たると議されたが、詔により特にこれを原諒し、右屯衛大将軍に責授した。翌年、再び彰武軍節度使を授かる。

原文雍熙三年,征幽薊,命信為幽州西北道行營馬步軍都部署,敗契丹於新城。契丹率眾復來戰,王師稍卻,信獨以麾下龍衛卒三百禦敵,敵圍之數重,矢下如雨,信射中數人,麾下士多死。會暮,信持大刀,率從騎大呼,殺數十人,敵遂小卻,信以百餘騎突圍得免。坐失律,議當死,詔特原之,責授右屯衛大將軍。明年,復授彰武軍節度。

端拱初年、詔して方田を設置し、信を邢州兵馬都部署としてこれを監督させる。二年、横海軍に鎮を改める。信は書を識らず、行い多くは暴横であり、帝は何承矩をその副とし、州の事を決せしめた。承矩が屯田を護領するに及んで、信は遂に専横に不法を為し、軍人への宴犒は甚だ薄く、かつて私的に絹を買い上計吏に託し、官物と称して関税を免れようとした。帝はこれを察知した。四年、右武衛上将軍として召される。翌年、左右金吾街仗事を判ず。一月も経たぬうちに、吏卒で無罪のまま鞭打たれた者が甚だ多かった。人物を強引に買い取り、妻が死ぬと地を買って葬りを営み、妄りに居民の塚墓を発掘した。家奴の陳贊が老病であったが、これを鞭打って死なせ、その家人に訴えられた。御史に下してこれを鞫問させると、信はことごとく服罪した。獄が上奏される前に卒す。六十七歳。横海軍節度使を贈られる。子の継豊は内殿崇班・閤門祗候。

原文端拱初,詔置方田,以信為邢州兵馬都部署以監之。二年,改鎮橫海軍。信不知書,所為多暴橫,上命何承矩為之副,以決州事。及承矩領護屯田,信遂專恣不法,軍人宴犒甚薄,嘗私市絹附上計吏,稱官物以免關征,上廉知之。四年,召為右武衛上將軍。明年,判左右金吾街仗事。未逾月,吏卒以無罪被捶撻者甚眾。強市人物,妻死買地營葬,妄發居民塚墓。家奴陳贊老病,箠之致死,為其家人所告。下御史鞫之,信具伏。獄未上而卒,年六十七。贈橫海軍節度。子繼豐,內殿崇班、閤門祗候。

田重進

原文田重進

雍熙年中、出師して北征するに当たり、重進は兵を率いて飛狐城下に迫り、袁継忠の計を用い、飛狐南口に伏兵を置き、契丹の驍将大鵬翼及びその監軍馬贇・副将何萬通並びに渤海軍三千余人を擒え、数千級を斬首し、俘獲は万を数え、四十里を逐北し、飛狐・霊州等の城を連下した。蔚州を進攻すると、その牙校李存璋らが酋帥蕭啜理を殺し、耿紹忠を執えて、吏民を率いて来附した。曹彬の軍が不利に会したので、乃ち重進に命じて師を督し定州に駐屯させ、定州駐泊兵馬都部署に遷す。三年、師を率いて遼境に入り、岐溝関を攻め下し、守城兵千余を殺し牛馬輜重を獲て還る。四年春、彰信軍節度使に改める。

原文雍熙中,出師北征,重進率兵傅飛狐城下,用袁繼忠計,伏兵飛狐南口,擒契丹驍將大鵬翼及其監軍馬贇、副將何萬通並渤海軍三千餘人,斬首數千級,俘獲以萬計,逐北四十里,連下飛狐、靈州等城。進攻蔚州,其牙校李存璋等殺酋帥蕭啜理、執耿紹忠,率吏民來附。會曹彬之師不利,乃命重進董師駐定州,遷定州駐泊兵馬都部署。三年,率師入遼境,攻下岐溝關,殺守城兵千餘及獲牛馬輜重以還。四年春,改彰信軍節度。

淳化三年、真定尹・成徳軍節度使に改める。間もなく、京兆尹・永興軍節度使に移る。五年、延州知州に改め、再び鎮に還る。至道三年、卒す。六十九歳。侍中を贈られる。

原文淳化三年,改真定尹、成德軍節度。未幾,移京兆尹、永興軍節度。五年,改知延州,復還鎮。至道三年,卒,年六十九,贈侍中。

重進は学問を事とせず、太宗が藩邸におられた時、その忠勇を愛で、嘗て酒炙を贈ったが受け取らなかった。使者が「これは晋王の賜り物である。何故受け取らぬのか」と言うと、重進は「我がために晋王に謝せよ。我は天子のみを知るのみである」と言い、遂に受け取らなかった。帝はその忠朴を知り、故に終始委遇したのである。子の守信は六宅使、守吉は閤門祗候。

原文重進不事學,太宗居藩邸時,愛其忠勇,嘗遺以酒炙不受,使者曰:「此晉王賜也,何為不受?」重進曰:「為我謝晉王,我知有天子爾。」卒不受。上知其忠樸,故終始委遇焉。子守信六宅使,守吉閤門祗候。

劉廷翰

原文劉廷翰

劉廷翰は、開封浚儀の人。父の紹隱は、後唐末に兵籍に隷した。晋の天福年中、隊長として魏博に戍る。范延光が反すると、紹隱は力戦して死す。周の世宗が澶淵に鎮した時、廷翰は膂力をもって帳下に隷し、即位すると、殿前指揮使に補され、累ねて征伐に従い、戦功により再遷して散指揮第一直都知に至る。

原文劉廷翰,開封浚儀人。父紹隱,後唐末隸兵籍。晉天福中,以隊長戍魏博。范延光反,紹隱力戰死焉。周世宗鎮澶淵,廷翰以膂力隸帳下;即位,補殿前指揮使,累從征伐,以戰功再遷至散指揮第一直都知。

宋初、上党・維揚平定に預かり、鉄騎都指揮使・廉州刺史を領すべく遷る。太宗即位、右廂都指揮使・本州團練使を領すべく遷り、雲州觀察使に遷る。太平興國四年、太原征伐に従い、鎮州駐泊都鈐轄を領す。

原文宋初,預平上黨、維揚,遷鐵騎都指揮使、領廉州刺史。太宗即位,遷右廂都指揮使、領本州團練使,遷雲州觀察使。太平興國四年,從征太原,領鎮州駐泊都鈐轄。

太宗が北伐し、既に班師した後、帝は辺備は人を得るに在るとし、乃ち廷翰・李漢瓊に命じて兵を率いて真定に屯し、崔彥進を関南に屯し、崔翰を定州に屯させた。冬、契丹は果たして兵を縦って南侵した。廷翰は先ず徐河に陣し、彥進は師を率いて黒蘆堤の北より出で、枚を銜んで契丹の後を躡い、崔翰・漢瓊の兵が続いて至り、合撃して、その衆を満城において大いに敗った。廷翰は功により大同軍節度使・殿前都虞候を領す。八年、彰信軍節度使を領すべく改める。雍熙四年春、滑・邢に鎮を改める。端拱年中、鎮州駐泊馬歩軍都部署郭守文が卒すると、帝は特に廷翰に命じてこれを代わらせた。淳化三年、大名尹・天雄軍節度使に改める。三年、病により官の解任を求め、闕に還ると、帝は親しく臨問し、賜賚を加えた。間もなく卒す。七十歳。侍中を贈られる。

原文太宗北伐,既班師,上以邊備在於得人,乃命廷翰、李漢瓊率兵屯真定,崔彥進屯關南,崔翰屯定州。冬,契丹果縱兵南侵。廷翰先陣於徐河,彥進率師出黑蘆堤北,銜枚躡契丹後,崔翰、漢瓊兵繼至,合擊之,大敗其眾於滿城。廷翰以功領大同軍節度、殿前都虞候。八年,改領彰信軍節度。雍熙四年春,改鎮滑、邢。端拱中,鎮州駐泊馬步軍都部署郭守文卒,上特命廷翰代之。淳化三年,改大名尹、天雄軍節度。三年,以病求解官,還闕,上親臨問,賜賚有加。未幾卒,年七十,贈侍中。

廷翰は衛士より上将に至るまで、頗る武勇を以て自ら任じ、寛厚に衆を容れ、威厳を事とせずとも、下を御するに長じていた。殿前都指揮使として、入朝する時、常に衆の中を行き、宮殿の門を過ぎる毎に、彼を識る者は少なかった。嘗て郊祀の恩に与り、三世を追封すべき時、廷翰は幼くして孤となり、その大父以上は皆事に逮わず、家諱を忘れていたので、帝が名を撰んで親書して賜った。子の贊元は宮苑使・澄州刺史、贊明は皇城使・勤州團練使。

原文廷翰自衛士至上將,頗以武勇自任,寬厚容眾,雖不事威嚴,而長於御下。為殿前都指揮使,入朝,常行眾中,每歷宮殿門,少識之者。嘗與郊祀恩,當追封三世,廷翰少孤,其大父以上皆不逮事,忘其家諱,上為撰名親書賜之。子贊元,宮苑使、澄州刺史;贊明,皇城使、勤州團練使。

崔翰

原文崔翰

太宗即位の際、本州団練使に進む。太平興国二年秋、西郊にて武事を議す。時に殿前都指揮使楊信は病みて瘖す。命じて翰に代わらしむ。翰は士伍を分布し、南北に綿亘すること二十里、五色の旗を建てて号令す。将卒はその挙ぐる所を望み、以て進退と為し、六師周旋すること一の如し。上、台に御して臨観し、大いに悦び、藩邸の時の金帯を以て之を賜い、左右に謂ひて曰く、「晋朝の将、必ずや崔翰の如きは無からん」と。

原文太宗即位,進本州團練使。太平興國二年秋,議武於西郊,時殿前都指揮使楊信病瘖,命翰代之。翰分布士伍,南北綿亘二十里,建五色旗號令,將卒望其所舉,以為進退,六師周旋如一。上御臺臨觀,大悅,以藩邸時金帶賜之,謂左右曰:「晉朝之將,必無如崔翰者。」

四年、太原征従に従ひ、命じて侍衛馬歩諸軍を総べしめ、率先して城を攻む。流矢その頰に中るも、神色変はらず、戦を督すること益急なり。上、即ち軍帳にて之を撫問す。太原平らぐ。時に上将幽薊に事有らんとす。諸将、晋陽の役を以て、師罷み餉匱し、劉継元降り、賞賚未だ且つ給はざるを、遽かに平燕の議有りと為し、敢へて言はざるも、翰独り奏して曰く、「乗ずべき所は勢なり。失ふべからざるは時なり、之を取ること易し」と。上然りと謂ひ、北伐の議を定む。既にして師を班し、諸将に命じて整暇を以て還らしむ。金台驛に至り、大軍南に向ひて潰ゆ。上、翰に命じて衛兵千余を率ひて之を止めしむ。翰、単騎往かんことを請ふ。至れば則ち師律を以て諭し、衆徐ろに定まる。一人も戮せず。既に命を復するや、上喜び、因りて定州を知らしめ、便宜に事に従ふを得しむ。縁辺諸軍並びに節制を受け、軍市の租儲、専用するを得しむ。

原文四年,從征太原,命總侍衛馬步諸軍,率先攻城,流矢中其頰,神色不變,督戰益急,上即軍帳撫問之。太原平,時上將有事幽薊,諸將以為晉陽之役,師罷餉匱,劉繼元降,賞賚且未給,遽有平燕之議,不敢言。翰獨奏曰:「所當乘者勢也。不可失者時也,取之易。」上謂然,定議北伐。既而班師,命諸將整暇以還。至金臺驛,大軍南向而潰,上令翰率衛兵千餘止之。翰請單騎往,至則諭以師律,眾徐以定,不戮一人。既復命,上喜,因命知定州,得以便宜從事,緣邊諸軍並受節制,軍市租儲,得以專用。

冬、契丹兵数万蒲城を寇す。翰、李漢瓊の兵と徐河に会し、河陽節度崔彦進の兵は高陽関より継ぎて至る。因りて合撃す。契丹、西山の坑谷に投じて死する者算ふるに勝へず、俘馘数万、獲る所の他物又十倍す。功を以て武泰軍節度使に擢でらる。

原文冬,契丹兵數萬寇蒲城,翰會李漢瓊兵於徐河,河陽節度崔彥進兵自高陽關繼至,因合擊之。契丹投西山坑谷中死者不可勝計,俘馘數萬,所獲他物又十倍焉。以功擢武泰軍節度使。

初め、劉継元降るや、上、翰に命じて往きて撫慰せしめ、俘略城を出づる無からしむ。時に秦王廷美、数十騎を以て将に禁を冒して出でんとす。翰嗬して之を止む。是に至り、上に構ふ。明年夏、出でて感徳軍節度使と為る。鎮に至る時、盗賊充斥す。翰、其の渠魁を誘ひ、禍福を以て戒む。群盗感悟し、散じて農畝に帰す。境内肅然たり。

原文初,劉繼元降,上令翰往撫慰,俘略無得出城。時秦王廷美以數十騎將冒禁出,翰嗬止之。至是,構於上。明年夏,出為感德軍節度使。至鎮時,盜賊充斥,翰誘其渠魁,戒以禍福,群盜感悟,散歸農畝,境內肅然。

雍熙二年、滑州に移り知る。三年、北伐利あらず。上、徐河の功を追念し、翰を召して威虜軍行営兵馬都部署と為す。四年春、鎮定国軍に改む。二年、鎮安軍に移鎮す。淳化三年召還さる。疾を以て京師に留まる。稍く間有りて、入りて上に見え、曰く、「臣既に身を以て国に許す。家に死するを願はず、馬革に屍を裹むを得て足れり」と。上之を壮とし、復た鎮に赴かしむ。月余にして卒す。年六十三。侍中を贈らる。

原文雍熙二年,移知滑州。三年,北伐不利,上追念徐河之功,召翰為威虜軍行營兵馬都部署。四年春,改鎮定國軍。二年,移鎮鎮安軍。淳化三年召還,以疾留京師。稍間,入見上曰:「臣既以身許國,不願死於家,得以馬革裹屍足矣。」上壯之,復令赴鎮,月餘卒,年六十三,贈侍中。

翰は驍勇にして謀有り。至る所多く功を立てる。財を軽んじ施しを好む。死するの日、家に余貲無し。晚年酷く釈氏を信ず。子継顒は虞部員外郎。孫承業は内殿承制・閣門祗候。承佑は内殿崇班。

原文翰驍勇有謀,所至多立功。輕財好施,死之日家無餘貲。晚年酷信釋氏。子繼顒,虞部員外郎。孫承業,內殿承制、閣閤門祗候;承佑,內殿崇班。

論じて曰く、曹翰以下、嘗て将帥を任じ節鎮に居る者凡そ十人。其の初め率ね拳勇より起りて戎行に家す。学を問ふ事無きも、皆精白一心にして、以て事功を立てる。終始匹休し、韓・彭の禍無きは、制御保全する有道なるに由るなり。楊信は篤実を以てし、重進は忠朴を以てし、劉遇は淳謹を以てし、廷翰は武勇を以て称せらる。故に皆終始委遇されて替はらず。漢瓊は木強にして酒を使ふも、米信の為す所多く暴横なるも、党進は恂恂として姦詐を懐くに類し、懷忠の遷を論ずるは大體を昧くするに似たり。然れども太原を征し、江南を平げ、徐河に戦ふを観れば、皆其の驍果たるを害せず。至りて謀を好み戦を善くし、財を軽んじ施しを好み、至る所功を立てるは、則ち曹翰・崔翰に優る者無し。然れども古の良将と同日に語るべからざるは、崔の平燕を論奏するは、率爾に出づる免れず。而して曹の降卒を殺し、江州を屠るは、則ち又忍なるに過ぐるなり。君子謂ふ、功は二子に優る莫く、過も亦二子に先んずる莫しと。信なるかな。

原文論曰:自曹翰而下,嘗任將帥居節鎮者凡十人,其初率由拳勇起家戎行,雖不事問學,而皆精白一心,以立事功。始終匹休,而無韓、彭之禍者,由制御保全之有道也。楊信以篤實,重進以忠樸,劉遇以淳謹,廷翰以武勇稱,故皆終始委遇而不替。漢瓊雖木強使酒,米信所為雖多暴橫,党進恂恂類懷姦詐,懷忠論遷似昧大體;然以征太原、平江南、戰徐河觀之,皆不害其為驍果也。至於好謀善戰,輕財好施,所至立功,則未有優於曹翰、崔翰者也。然不可與古之良將同日而語者,崔之論奏平燕,未免出於率爾;而曹之殺降卒,屠江州,則又過於忍者也。君子謂功莫優於二子,而過亦莫先於二子,信矣。