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宋史
列傳第十九 曹翰 楊嗣 党進 李漢瓊 劉遇 李懷忠 米信 田重進 劉廷翰 崔翰
曹翰
世宗が即位すると、供奉官に補任され、高平征討に従軍し、謀画に参与した。まもなく枢密承旨に遷り、黄河の堤防決壊を護衛した。世宗が淮南を征した時、千余りの鎧甲を正陽に留め置き、後に降伏兵八百を得て、部を率いて京師に送還した。時に曹翰は丁度京師から来ており、正陽を過ぎて十余里の所で彼らと遭遇し、兵器を奪われて反乱されることを慮り、詔を偽って彼らを殺した。世宗に謁見し、事の次第を詳しく述べると、世宗は快く思わなかった。曹翰は言った。「賊は困窮して我に帰順したのであり、心服したのではない。得た器甲は全て正陽にある。もし奪われれば、これまた一つの淮南を生むことになる。」そこで罪に問わなかった。瓦橋関征討に従軍し、班師の際に会し、雄州知州として留め置かれた。世宗の病が篤くなり、范質らに王著を宰相とし、曹翰を宣徽使とするよう諭した。質は、著が酒を嗜み、翰が詐りを飾って専断するとして、共に取りやめにした。徳州刺史に改めた。
宋の初年、沢州・潞州征討に従軍し、帰還後、済州刺史に改めた。乾徳二年、太祖が西蜀を親征し、均州刺史に移った。澗谷が深く険しく、曹翰は石を穿って通路を開かせ、軍が帰還する際にこれを利用した。詔により西南諸州転運使を兼ね、石門から帰州へ直行し、糧秣の輸送に不足なく、夔州・万州から王全斌の軍と合流し、成都は平定された。時に全師雄が十万余りの兵を擁して郫県に拠り反乱し、成都を窺うことを謀った。曹翰は兵を率いて劉光毅・曹彬らと合流し、これを討平した。間もなく、軍校の呂翰が武懐節を殺し、嘉州を拠って反乱した。曹翰と諸将はその城を奪った。間者により賊が三鼓に再び攻めて来ると約束したことを知り、曹翰は時を知らせる者に遅らせるよう戒め、夜明け近くになってもまだ二鼓のままにした。賊の兵は集まらずに潰走し、これによって賊を破り、剣南は遂に平定された。軍が帰還すると、蔡州団練使に遷った。
開宝二年、太原征討に従軍し、再び行営都壕砦使となった。班師した後、澶州で黄河が決壊したため、曹翰にその工事を監督させた。曹翰は銀器を出して工事を助け、乗っていた白馬を沈めて祭祀した。再び陽武で決壊し、再び工事を護衛したが、いずれも成果があった。江南を征討することになり、曹翰に兵を率いて先に荊南へ赴かせ、行営先鋒使に改め、池州を陥落させた。金陵が平定されると、江州の軍校胡徳・牙将宋徳明が城に拠って命令に従わなかった。曹翰は兵を率いてこれを攻め、凡そ五ヶ月で陥落させ、城中を屠り生き残る者はなく、兵八百を殺した。略奪した金帛は億万を数え、廬山東林寺の鉄羅漢像五百体を京師に運びたいと偽って言い、百艘の巨艦を調達し、得たものを載せて帰還した。功績を記録して桂州観察使・潁州判官に遷った。
太平興国四年、太原征討に従軍し、攻城南面都部署となった。崔彦進・李漢瓊・劉遇の三節度使と分かれて城攻めを担当し、曹翰は東北を攻め、劉遇は西北を攻めた。劉遇の担当は劉継元の正面に当たり、城は特に険固であったため、劉遇は曹翰と場所を替えようとした。曹翰は言った。「観察使の班次は下である。東北部を担当すべきである。」劉遇は固く替えようとし、数日決まらなかった。上は諸将の不和を慮り、曹翰に諭して言った。「卿の智勇は並ぶ者なく、西北面は卿でなければ当たれない。」曹翰は詔を奉じ、土山を築いて城中を見下ろし、数日で完成させると、継元は甚だ恐れた。軍中に水が乏しく、城西十余里の谷中に娘子廟があった。曹翰は往って祈り、渠を穿って水を得、人馬の用を給した。また幽州征討に従軍し、配下を率いて城の東南隅を攻めた。兵卒が土を掘って蟹を得て献上した。曹翰は諸将に言った。「蟹は水の物であるのに陸に居るのは、在所を失っている。かつ足が多いのは、彼の援軍が来る兆しであり、攻め落とせない象である。況や蟹は解(和らぐ)である。班師するのではないか。」既にして果たしてその通りであった。
五年、大名に行幸に従い、威塞軍節度使に拝され、依然として潁州判官を務め、再び命を受けて幽州行営都部署となった。詔により南河開削の工事を監督し、雄州から莫州に至り、漕運を通じさせ、大堤を築いて防ごうと議した。曹翰は数万の役夫を派遣し、漢の境内で巨木を伐採させた。騎兵五騎を派遣し、五色の旗を与えて斥候とし、前に丘陵・水沢・寇賊・煙火に遇えば、それぞれその旗を挙げて応じさせた。また境上に烽燧を起こすと、敵は疑って塞に近づかず、巨木数万を得て用を済ませ、事を終えて鎮に帰った。
曹翰は郡に在任すること久しく、徴収は苛酷で、政はこれによって弛んだ。上はその功績があるため、常に優しく容赦した。汝陰県令孫崇望が宮闕に詣で、曹翰が私的に兵器を売買し、行い多く法に背くと訴えた。詔により御史滕中正を駅伝で派遣して審問させた。獄が決し、棄市に当たるとされたが、上はその罪を赦し、官爵を削り、登州に流して禁錮した。雍熙二年、右千牛衛大将軍として起用され、西京に分司した。四年、召されて左千牛衛上将軍となり、銭五百万、白金五千両を賜った。淳化三年、卒去。六十九歳。太尉を追贈した。上は命じてその四子、守謙・守能・守節・守貴の官を遷し、その六子、守譲・守贄・守澄・守恩・守英・守吉は皆、殿直に補任された。
曹翰は陰険で狡知に富み、数に長け、大言を好み、貨賂を貪り、酒を数斗飲んでも乱れなかった。毎度、上面前で奏事する際、数十条に及んでも、皆暗記して少しも誤りがなかった。かつて『退将詩』を作って言った。「曾て国難に因りて金甲を披き、家貧しきを恥じて宝刀を売る。」曹翰が禁中に直する日、この話に及んだ。上はその心情を憐れみ、故に銀銭を賜ったのである。咸平元年、武毅と諡を賜った。
楊信
太祖はかつて御龍直に後池で水戦を習わせた。鼓噪の声があり、楊信は玄武門外に居て、これを聞くと、急ぎ入り、黒い綈の袍を着て謁見した。上は言った。「我は水戦を教えているだけであり、他意はない。」退出する時、上は目で送り、左右に言った。「真の忠臣である。」九年、義成軍節度使を授かった。太平興国二年、鎮寧軍に改め、共に殿前都指揮使を領した。三年春、瘖疾のため休暇を取っていたが、俄かに卒去した。侍中を追贈された。
楊信は瘖疾ながらも質実で自らを律し、士卒の配置に長け、指顧の間に申し戒め、動きに紀律があった。故に信任を受け、終始疑われることがなかった。童奴の田玉という者がおり、その意を推し量ることができた。毎度、上面前で奏事する際や、賓客と談論する時、あるいは部下を指揮する時は、必ず振り返って田玉を見、掌に字を書いた。田玉はそれによって直ちにその意を伝達して誤りがなかった。楊信が死ぬ前日、瘖疾が忽然として癒えた。上は聞いて驚き、急ぎその邸に行幸した。楊信は自ら両朝に遇い、恩寵が隆厚であったことを述べ、感謝と感慨を叙し、涕泗が横に集まった。上は慰勉を加え、賜り物に差等をつけた。楊信の弟は嗣・贊である。
弟 嗣
嗣は、建隆初年に楊信の推薦により殿直となり、三度遷って崇儀副使・大山軍監軍となった。雍熙四年、そのまま命を受けて軍事を知った。代わって帰還する際、吏民が留任を請うたため再任し、俄かに高陽関戦櫂都監に遷った。淳化二年、保州知州に改め、門に私的な謁見がなかった。転運使がその治績を上言し、優遇して威虜軍に遷し、崇儀使に改め、曹思進と共に静戎軍・保州・長城・蒲城縁辺都巡検使となった。如京使に改め、再び保州知州となり、戦功があった。
真宗が即位すると、洛苑使を加えられた。咸平初年、奨州刺史を領す。三年、敵と廉良で戦い、二千級を斬首し、戦馬や輜重を多く獲た。功により保州刺史を真に拝命。召還されて本州団練使を授けられた。時に楊延昭が刺史であったが、嗣は言う、「かつて延昭と同官であり、急にその上に立つことはできぬ。旧官を守りたい」と。上はその譲りを嘉し、延昭の官を遷した。嗣と延昭は久しく北辺に在り、ともに善戦で知られ、時に「二楊」と称された。嗣は武人として郡を治め、細務を顧みず、また巡徼を兼ねて郡にいる日少なく、城壁が崩壊して未だ修繕せざるあり。詔して供備庫副使趙彬に代わらせ、深州団練都巡検使兼保州鈐轄に改めた。
五年、辺人が保州を寇す。嗣と楊延昭がこれを防ぐが、部伍整わず、襲撃される。士馬多く亡失し、代還して、特にその罪を宥された。明年、防秋の策を上奏し、北面の利害を条陳す。辺事に練達するをもって、鎮・定・高陽関三路後陣鈐轄として出され、定州副都部署に移り、その家を京師に留め、官第を仮りて居住させた。
景德初年、鎮州路副都部署に改む。上は嗣が耄年にして軍政を総べるを以て、廃闕あるを慮り、直ちに代えるを命ず。連ねて趙・貝・深三州部署となる。大中祥符五年、再び出て天雄軍副都部署となる。六年、左龍武大将軍を以て致仕す。明年卒す。年八十一。その子承憲を侍禁に録す。
贊は稍々書を知るも、異能無く、兄の故をもって禁旅を掌るを得、累資して著しく牧守に至る。
党進
開宝元年、太原を征せんとし、進を以て河東行営前軍の将とす。開宝二年、太祖師を晋陽に臨み、砦を四面に置き、進にその東偏を主たるを命ず。師未だ列を成さず、太原の驍将楊業、突騎数百を領して来犯す。進奮身して数人に従い業を逐う。業急ぎ隍中に入る。会に援兵至り、縁りて縋りて城に入り獲免す。上これを激賞す。六年、侍衛馬軍都指揮使・鎮安軍節度使を領すに改む。九年、また河東行営兵を将いて太原を征し、その境に入り、太原軍を城北に敗る。太祖崩じ、召還さる。太平興国二年、出でて忠武軍節度使となる。鎮に在ること歳余、一日外より帰るに、大蛇臥榻上に寝衣中にあり。進怒り、烹てこれを食らう。疾に遇い卒す。年五十一。侍中を贈らる。
進は戎行より出で、形貌魁岸たり。居常は恂恂たり。毎に甲冑を擐くれば、毛髪皆豎つ。進、名は進、自ら暉と称す。人これを問えば、則ち曰く、「吾れ吾が便に従わんと欲するのみ」と。先ず是れ、禁中の軍校、都虞候已上、悉く掌る所の兵数を梃上に書き、笏記の如くす。太祖一日進の掌る所幾何なるかを問う。進字を識らず、但だ梃を挙げて上に示し曰く、「尽く是れに在り」と。上その朴直を以て、益々これを厚くす。嘗て詔を受けて京師を巡る。閭里の間に禽獣を畜養する者有れば、見れば必ず取りてこれを放ち、罵りて曰く、「肉を買いて父母に供せず、反って以て禽獣に飼うか」と。太宗嘗て親吏に令して鷹雛を市に臂せしむ。進亟ぎてこれを放たんと欲す。吏曰く、「此れ晋王の鷹なり」と。進乃ちこれを戒めて曰く、「汝謹んで養い視よ」と。小民伝えて以て笑いと為す。その変詐また此の如し。杜重威の子孫に貧困なる者有れば、進月俸を分かちてこれを給す。士大夫或いは愧ずる者有り。子崇義は閑廄使、崇貴は閤門祗候。
李漢瓊
王師江南を征し、行営騎軍兼戦櫂左廂都指揮使を領するを命ぜられ、蘄春より岐口砦を攻め、数千級を斬首し、楼船数百艘を獲、流れに沿いて池州を抜き、銅陵を破り、当塗を取り、牛渚に浮梁を作りて大軍を済す。金陵を分囲し、率いる所の部をして秦淮を度らしめ、巨艦を取りて葦を其中に実し、火を放ちてその水砦を攻め、これを抜く。江南平ぐ。功により振武軍節度使を領す。
太平興国二年、出でて彰徳軍節度使となる。四年、太宗親しく太原を征し、攻城都部署に改む。漢瓊と牛思進は城南偏を攻むるを主とす。漢瓊先ず登る。矢その脳に集まり、並びに中指す。傷甚だしきも猶力疾して戦う。上これを幄殿に召し、良薬を賜いて以てこれを慰労す。先ず是れ、攻城する者、牛革を以て木上に冒し、士卒これを蒙りて進む。これを洞子と謂う。上その中に幸せんと欲す。漢瓊極諫し、矢石の下は、万乗の尊の軽く往くに宜しからざるを以てす。上乃ち止む。太原平ぐ。鎮州兵馬鈐轄に改む。
契丹数万騎中山を寇す。漢瓊これと満城に戦い、大いにこれを敗り、遂城に逐い、俘斬万計す。検校太尉を加えらる。車駕大名に幸す。漢瓊上謁し、辺事を陳べて旨に称す。滄州都部署を命ぜられ、戦馬・金甲・宝剣・戎具を加賜して以てこれを寵す。六年、病を以て京に還る。白金万両を賜う。月余にして卒す。年五十五。中書令を贈らる。
漢瓊は性質木強にして、酒に使って近づき難し。然れども善戦して功有り。子無し。弟漢贇・漢彬。太平興国初年、漢贇は供奉官に補せられ、嘗て高陽関・平戎軍を監し、伝に乗り衢・婺二州に至り、劇賊程白眉数十人を捕え、悉くこれを殲す。累仕して崇儀使・寧州知州に至る。大中祥符七年卒す。漢彬は礼賓副使に至る。
劉遇
太平興国二年、出でて彰信軍節度使となる。四年、太原を征し、史珪と城北面を攻め、これを平ぐ。范陽を攻む。師還り、部する所の律を失うに坐し、責めて宿州観察使を授く。五年、大名に幸すに従い、保静軍節度使・幽州行営都部署に復し、保州・威虜・静戎・平塞・長城の五城を築くを護る。八年、鎮を滑州に徙す。晨興方に客に対す。足に灸瘡痛む。その医、火毒去らず、故に痛み止まずと謂う。遇即ち衣を解き、刀を取りて瘡を骨に至るまで割りて曰く、「火毒去れり」と。談笑平常の時の如し。旬余にして乃ち差ゆ。遇は性質淳謹にして、士を待つに礼有り。尤も射を善くす。太宗これを待つこと甚だ厚し。雍熙二年卒す。年六十六。侍中を贈り、京師に帰葬す。
李懷忠
帝が西京に行幸し、その地形が天下の正中を得た勢いを愛で、留都としようとの意向を抱かれた。懷忠は隙に乗じて進言して言う、「東京には汴渠の水運があり、毎年江・淮の米数百万斛を運び、禁衛数十万人がこれに仰ぎ給し、倉庫や重兵も皆ここにあります。根本は安固にして久しく、一旦急に遷都を望まれますが、臣は実にその利を見出せません」。帝はこれを嘉納した。
太宗が即位すると、本州防禦使に改めて領し、次第に侍衛歩軍都虞候・大同軍節度使を領す。三年、歩軍都指揮使に改め、五月に卒す。侍中を贈られる。その子紹宗ら三人を録して供奉官とした。大中祥符三年、またその子德鈞を録して借職とした。
米信
太宗が即位すると、散都頭指揮使に転じ、引き続き高州團練使を領す。太平興國三年、洮州觀察使を領すべく遷る。四年、太原を征伐するに当たり、行営馬歩軍指揮使に命じ、田重進と分かって行営諸軍を督す。幷人が密かに軍を率いて来襲したが、信はこれを撃破し、その将裴正を殺す。幷州平定後、兵を移して范陽を攻める。軍が帰還すると、功により保順軍節度使に抜擢される。時に信の一族多くは塞外に在り、その兄の子全が朔州より奮身して帰順したので、召見し、伝駅を乗り継いで代州に赴かせ、隙を窺ってその親属を迎えさせ、精鋭の兵卒を発して護送させた。しかし全が宿留すること一年余り、辺境の斥候が厳重で、遂に迎えることができなかった。信は慷慨して嘆き、「忠孝両立せずと聞く。今まさに身を以て国に殉ぜんと考えるに、安んぞ再び親戚を顧みられようか」と。北を望んで号慟し、子や甥に再び言うなと戒めた。五年、郭守贇らと共に定州の屯兵を護ることを命じられる。六年秋、定州駐泊部署に遷る。八年、彰化軍節度使を領すべく改める。
雍熙三年、幽薊を征伐するに当たり、信を幽州西北道行営馬歩軍都部署とし、新城において契丹を破る。契丹が衆を率いて再び来戦し、王師はやや退却したが、信は独り麾下の龍衛卒三百を率いて敵を防ぎ、敵はこれを数重に囲み、矢は雨のように降り注いだ。信は数人を射当てたが、麾下の兵士多くは死す。暮れに及んで、信は大刀を執り、従騎を率いて大呼し、数十人を殺すと、敵は遂にやや退却し、信は百余騎で包囲を突破して免れた。軍律を失した罪により、死に当たると議されたが、詔により特にこれを原諒し、右屯衛大将軍に責授した。翌年、再び彰武軍節度使を授かる。
端拱初年、詔して方田を設置し、信を邢州兵馬都部署としてこれを監督させる。二年、横海軍に鎮を改める。信は書を識らず、行い多くは暴横であり、帝は何承矩をその副とし、州の事を決せしめた。承矩が屯田を護領するに及んで、信は遂に専横に不法を為し、軍人への宴犒は甚だ薄く、かつて私的に絹を買い上計吏に託し、官物と称して関税を免れようとした。帝はこれを察知した。四年、右武衛上将軍として召される。翌年、左右金吾街仗事を判ず。一月も経たぬうちに、吏卒で無罪のまま鞭打たれた者が甚だ多かった。人物を強引に買い取り、妻が死ぬと地を買って葬りを営み、妄りに居民の塚墓を発掘した。家奴の陳贊が老病であったが、これを鞭打って死なせ、その家人に訴えられた。御史に下してこれを鞫問させると、信はことごとく服罪した。獄が上奏される前に卒す。六十七歳。横海軍節度使を贈られる。子の継豊は内殿崇班・閤門祗候。
田重進
雍熙年中、出師して北征するに当たり、重進は兵を率いて飛狐城下に迫り、袁継忠の計を用い、飛狐南口に伏兵を置き、契丹の驍将大鵬翼及びその監軍馬贇・副将何萬通並びに渤海軍三千余人を擒え、数千級を斬首し、俘獲は万を数え、四十里を逐北し、飛狐・霊州等の城を連下した。蔚州を進攻すると、その牙校李存璋らが酋帥蕭啜理を殺し、耿紹忠を執えて、吏民を率いて来附した。曹彬の軍が不利に会したので、乃ち重進に命じて師を督し定州に駐屯させ、定州駐泊兵馬都部署に遷す。三年、師を率いて遼境に入り、岐溝関を攻め下し、守城兵千余を殺し牛馬輜重を獲て還る。四年春、彰信軍節度使に改める。
淳化三年、真定尹・成徳軍節度使に改める。間もなく、京兆尹・永興軍節度使に移る。五年、延州知州に改め、再び鎮に還る。至道三年、卒す。六十九歳。侍中を贈られる。
重進は学問を事とせず、太宗が藩邸におられた時、その忠勇を愛で、嘗て酒炙を贈ったが受け取らなかった。使者が「これは晋王の賜り物である。何故受け取らぬのか」と言うと、重進は「我がために晋王に謝せよ。我は天子のみを知るのみである」と言い、遂に受け取らなかった。帝はその忠朴を知り、故に終始委遇したのである。子の守信は六宅使、守吉は閤門祗候。
劉廷翰
劉廷翰は、開封浚儀の人。父の紹隱は、後唐末に兵籍に隷した。晋の天福年中、隊長として魏博に戍る。范延光が反すると、紹隱は力戦して死す。周の世宗が澶淵に鎮した時、廷翰は膂力をもって帳下に隷し、即位すると、殿前指揮使に補され、累ねて征伐に従い、戦功により再遷して散指揮第一直都知に至る。
宋初、上党・維揚平定に預かり、鉄騎都指揮使・廉州刺史を領すべく遷る。太宗即位、右廂都指揮使・本州團練使を領すべく遷り、雲州觀察使に遷る。太平興國四年、太原征伐に従い、鎮州駐泊都鈐轄を領す。
太宗が北伐し、既に班師した後、帝は辺備は人を得るに在るとし、乃ち廷翰・李漢瓊に命じて兵を率いて真定に屯し、崔彥進を関南に屯し、崔翰を定州に屯させた。冬、契丹は果たして兵を縦って南侵した。廷翰は先ず徐河に陣し、彥進は師を率いて黒蘆堤の北より出で、枚を銜んで契丹の後を躡い、崔翰・漢瓊の兵が続いて至り、合撃して、その衆を満城において大いに敗った。廷翰は功により大同軍節度使・殿前都虞候を領す。八年、彰信軍節度使を領すべく改める。雍熙四年春、滑・邢に鎮を改める。端拱年中、鎮州駐泊馬歩軍都部署郭守文が卒すると、帝は特に廷翰に命じてこれを代わらせた。淳化三年、大名尹・天雄軍節度使に改める。三年、病により官の解任を求め、闕に還ると、帝は親しく臨問し、賜賚を加えた。間もなく卒す。七十歳。侍中を贈られる。
廷翰は衛士より上将に至るまで、頗る武勇を以て自ら任じ、寛厚に衆を容れ、威厳を事とせずとも、下を御するに長じていた。殿前都指揮使として、入朝する時、常に衆の中を行き、宮殿の門を過ぎる毎に、彼を識る者は少なかった。嘗て郊祀の恩に与り、三世を追封すべき時、廷翰は幼くして孤となり、その大父以上は皆事に逮わず、家諱を忘れていたので、帝が名を撰んで親書して賜った。子の贊元は宮苑使・澄州刺史、贊明は皇城使・勤州團練使。
崔翰
太宗即位の際、本州団練使に進む。太平興国二年秋、西郊にて武事を議す。時に殿前都指揮使楊信は病みて瘖す。命じて翰に代わらしむ。翰は士伍を分布し、南北に綿亘すること二十里、五色の旗を建てて号令す。将卒はその挙ぐる所を望み、以て進退と為し、六師周旋すること一の如し。上、台に御して臨観し、大いに悦び、藩邸の時の金帯を以て之を賜い、左右に謂ひて曰く、「晋朝の将、必ずや崔翰の如きは無からん」と。
四年、太原征従に従ひ、命じて侍衛馬歩諸軍を総べしめ、率先して城を攻む。流矢その頰に中るも、神色変はらず、戦を督すること益急なり。上、即ち軍帳にて之を撫問す。太原平らぐ。時に上将幽薊に事有らんとす。諸将、晋陽の役を以て、師罷み餉匱し、劉継元降り、賞賚未だ且つ給はざるを、遽かに平燕の議有りと為し、敢へて言はざるも、翰独り奏して曰く、「乗ずべき所は勢なり。失ふべからざるは時なり、之を取ること易し」と。上然りと謂ひ、北伐の議を定む。既にして師を班し、諸将に命じて整暇を以て還らしむ。金台驛に至り、大軍南に向ひて潰ゆ。上、翰に命じて衛兵千余を率ひて之を止めしむ。翰、単騎往かんことを請ふ。至れば則ち師律を以て諭し、衆徐ろに定まる。一人も戮せず。既に命を復するや、上喜び、因りて定州を知らしめ、便宜に事に従ふを得しむ。縁辺諸軍並びに節制を受け、軍市の租儲、専用するを得しむ。
冬、契丹兵数万蒲城を寇す。翰、李漢瓊の兵と徐河に会し、河陽節度崔彦進の兵は高陽関より継ぎて至る。因りて合撃す。契丹、西山の坑谷に投じて死する者算ふるに勝へず、俘馘数万、獲る所の他物又十倍す。功を以て武泰軍節度使に擢でらる。
初め、劉継元降るや、上、翰に命じて往きて撫慰せしめ、俘略城を出づる無からしむ。時に秦王廷美、数十騎を以て将に禁を冒して出でんとす。翰嗬して之を止む。是に至り、上に構ふ。明年夏、出でて感徳軍節度使と為る。鎮に至る時、盗賊充斥す。翰、其の渠魁を誘ひ、禍福を以て戒む。群盗感悟し、散じて農畝に帰す。境内肅然たり。
雍熙二年、滑州に移り知る。三年、北伐利あらず。上、徐河の功を追念し、翰を召して威虜軍行営兵馬都部署と為す。四年春、鎮定国軍に改む。二年、鎮安軍に移鎮す。淳化三年召還さる。疾を以て京師に留まる。稍く間有りて、入りて上に見え、曰く、「臣既に身を以て国に許す。家に死するを願はず、馬革に屍を裹むを得て足れり」と。上之を壮とし、復た鎮に赴かしむ。月余にして卒す。年六十三。侍中を贈らる。
翰は驍勇にして謀有り。至る所多く功を立てる。財を軽んじ施しを好む。死するの日、家に余貲無し。晚年酷く釈氏を信ず。子継顒は虞部員外郎。孫承業は内殿承制・閣門祗候。承佑は内殿崇班。
論じて曰く、曹翰以下、嘗て将帥を任じ節鎮に居る者凡そ十人。其の初め率ね拳勇より起りて戎行に家す。学を問ふ事無きも、皆精白一心にして、以て事功を立てる。終始匹休し、韓・彭の禍無きは、制御保全する有道なるに由るなり。楊信は篤実を以てし、重進は忠朴を以てし、劉遇は淳謹を以てし、廷翰は武勇を以て称せらる。故に皆終始委遇されて替はらず。漢瓊は木強にして酒を使ふも、米信の為す所多く暴横なるも、党進は恂恂として姦詐を懐くに類し、懷忠の遷を論ずるは大體を昧くするに似たり。然れども太原を征し、江南を平げ、徐河に戦ふを観れば、皆其の驍果たるを害せず。至りて謀を好み戦を善くし、財を軽んじ施しを好み、至る所功を立てるは、則ち曹翰・崔翰に優る者無し。然れども古の良将と同日に語るべからざるは、崔の平燕を論奏するは、率爾に出づる免れず。而して曹の降卒を殺し、江州を屠るは、則ち又忍なるに過ぐるなり。君子謂ふ、功は二子に優る莫く、過も亦二子に先んずる莫しと。信なるかな。