張美
世宗が即位すると、召されて枢密承旨となった。時に宰相の景範が三司を判じていたが、病に罹り、世宗は張美を右領軍衛大将軍とし、三司を権判させた。世宗が淮南を征した時は、張美を大内部署として留めた。ある日、仮寐していると、突然心臓が動悸し、慌てて驚き起きて宮城中を巡視した。しばらくして、内醞署で火災が起こったが、既に備えがあったので、直ちにこれを消し止めた。間もなく正式に三司使を授けられた。
顕徳四年、世宗が再び淮上に行幸した際、皆大内都点検となった。北征の時は、また大内都部署となった。軍が帰還すると、左監門衛上将軍となり、宣徽北院使を充て、三司を判じた。張美は強力で心計があり、その利害を詳細に知り、条奏して改革する度に、上は多くこれを認可し、常に幹敏と称された。世宗が連年征討するも、糧食の補給に不足がなく、深く委任信頼された。しかし澶淵において求め借りたことがあったので、頗る軽んじられ、張美もまた自ら慚じた。恭帝が嗣位すると、検校太傅を加えられた。
宋の初め、検校太尉を加えられた。初め、李筠が上党を鎮めると、亡命者を募り、多く不法を行い、次第に倔強で制し難くなった。張美は李筠が必ず叛くと推し量り、密かに粟を懐州・孟州の間に蓄積した。後に李筠が果たして叛くと、太祖は親征し、大軍十万が太行山を出て、経費に欠けることがなく、張美の力があった。定国軍節度使に拝された。県官が関中で木材を買う時、同州は毎年緡銭数十万を出して民に貸し、長吏はその十分の一を取ったが、これを率分銭と言い、年に数百万に至ったが、張美のみは取らなかった。間もなく、他の郡で長吏が率分銭を受けたことを訴えて闕下に至る者があり、皆これを償うよう命じられた。
子の守瑛は、供備庫使に至る。孫の士宗は、内殿承制に至る。士宗が卒すると、士禹は崇班となり、士安は閤門祗候に至り、士宣は礼賓副使となった。
郭守文
宋の初め、西頭供奉官に遷る。蜀が平定されると、簡州知事に遷った。時に剣外に寇賊多く、守文は悉く招き来たりて帰附させた。潘美に従って嶺南を征し、劉鋹を擒えると、守文を駅伝に乗せて捷報を告げさせ、翰林副使に遷った。曹彬らに従って金陵を平定し、李煜を護送して闕下に帰した。時に李煜は命に抵抗したことを頗る自ら慚じ、生きて太祖に会うことを望まなかった。守文はこれを察知し、李煜に謂って曰く「国家はただ疆土を恢復し、太平を致すことを務めるのみで、豈に後至の責めを復た有らんや」と。李煜の心は遂に安んじた。西京作坊使に改め、翰林司事を領した。間もなく党進に従って并州の寇を団柏谷で破った。
太原を征するに及び、守文は四方館事を判ずる梁迥と分かれて行営の馬歩軍を護った。劉継元が降伏すると、その弟の継文が代州に拠り、遼人の援けに依って命に抵抗したので、守文を遣わして討平させた。間もなく詔を受けて定州の屯兵を護り、蒲城で遼人を大破した。功により東上閤門使に遷り、澶州刺史を領した。召還され、内客省使に拝された。八年、滑州房村の河が決壊し、卒を発してこれを塞ぎ、守文にその役を監督させた。遼人が雄州を擾したので、守文に禁兵数万人を率いて赴援させた。既に至ると、遼人は遁去した。
守文は沈厚で謀略有り、頗る書を知り、毎朝退くと、書を百行習い、出言は温雅で、未だ嘗て人の意に忤うことはなかった。先に、辺境を戍る将臣は多く寇を招いて戦功を邀え、河朔諸州は殆ど寧歳無かりしが、岐溝関に敗れた後、乃ち守文に内職をもって総兵し常山に鎮めてこれを経略させた。
守文が没して一月余りが過ぎた頃、中使が北辺より来て言うには、「守文が死んだ時、軍士は皆涙を流した」と。帝が「どうしてこのようなことが起こったのか」と問うと、答えて言うには、「守文は俸禄や賜り物をことごとく士卒に分け与えて労い、死んだ日には家に余財がなかったからです」と。帝は長く嘆息し、その家に銭五百万を賜い、真宗のためにその娘を娶って夫人とし、これが即ち章穆皇后である。
子の崇德は、太子中舎に至り、崇信は、西京左蔵庫使・同知皇城司に至り、福州観察使を追贈され、崇儼は崇儀使・全州刺史に至り、潤州観察使を追贈された。
諸司使には廃朝や贈官の例はないが、崇信と崇儼は皆、皇后の兄である故をもって、特に優れた礼遇を示された。崇德の子の承寿は、虞部員外郎に至った。天禧五年、承寿の子の若水を太常寺奉礼郎に、崇仁を解州団練使に任用した。
尹崇珂
宋の初め、淄州刺史として出向し、善政があり、民が宮廷に赴き石碑を刻んで徳を称えることを請うたので、太祖は殿中侍御史の李穆に撰文させてこれを賜った。湖南を討伐するに当たり、行営前軍馬軍都指揮使となった。荊湘が平定されると、朗州団練使を授かった。また潘美・丁德裕とともに郴州を攻略した。
乾徳年間、嶺表を征討するに当たり、崇珂を行営馬歩軍副部署とした。広州を攻略し、劉鋹を擒らえると、即日に詔して潘美とともに広州同知兼市舶転運等使とし、功績を記録して保信軍節度使に昇進させた。間もなく、南漢の開府楽範・容州都指揮使の鄧存忠・韶州の賊帥周思瓊・春恩道都指揮使の麦漢瓊らが五州の地を占拠して叛いた。崇珂がこれを討伐すると、太祖は中使の李神祐を派遣して督戦させ、数ヶ月でその徒党をことごとく平定し、治所に帰還した。
六年、卒去、四十二歳であった。侍中を追贈された。中使を派遣してその喪を護り、洛陽に帰葬させた。その子の昭吉と弟の崇珪をともに西京作坊使とし、昭吉に会州刺史を、崇珪に歙州刺史を領させた。
初め、太宗が周朝に在った時、崇珂の妹を娶り、後に淑徳皇后と追諡された。昭吉は洛苑使に至った。次子の昭輯は、供奉官・閤門祗候に至った。
劉廷譲
初め、夔州には鎖江に浮橋をかけ、その上に敵棚を三重に設け、両岸に砲具を並べていた。廷譲らが出征する際、太祖は地図を示し、鎖江を指して言った、「我が軍がここに至ったら、流れを遡って上るが、慎んで水軍で勝負を争ってはならない。まず歩騎で陸行し、不意を突いてこれを撃ち、その勢いが退いたら、直ちに戦艦で挟み撃ちにすれば、必ずこれを取れるであろう」と。師が到着すると、鎖江から三十里の地点で船を捨てて歩兵で進み、先ずその橋を奪い、再び船を牽引して上り、州城を破ると、守将の高彦儔は自ら焼死し、全て太祖の計画の通りであった。遂に進んで万・施・開・忠の四州を攻略し、峡中の郡県はことごとく降った。
初め、廷譲が宮廷に赴いて罪を待ったが、太宗は李継隆に誤らせられたことを知り、これを責めなかった。四年、再び命じて張永徳に代わって雄州知州兼兵馬部署とした。この秋、病気であると聞こえたので、帝は内医を派遣して診察させたが、これに乗じて京師への帰還を上言し、返答を待たずに駐屯地を離れた。帝は怒り、御史に命じて取り調べさせ、獄が決した。詔を下して言うには、「右驍衛上将軍劉廷譲は、朕はその旧臣として、かつて軍政を統べさせ、環尹より抜擢し、師団を付託し、辺関を統制させ、寇鈔を防がせた。しかるに病を理由とし、返命を待たず、軍の重任を放棄し、軽装で上道した。ましてや万旅の集まる所は、実に中権に制せられ、烽火が相望むのは、外侮を憂うる所以である。事機を一度失えば、咎責はどこに帰すべきか。有司が刑を議するに、まさに赦すべからざるにある。その平素の功績を記録し、特に寛大な処分に従い、在身の官爵を削奪し、商州に配流すべし」と。またその子の如京使の永徳を濠州団練副使に、崇儀副使の永和を唐州刺史に貶めた。廷譲は既に貶黜され、鬱々として食を進めず、華州に至って卒去した。五十九歳であった。帝はその旧勲を記録し、太師を追贈した。
子の永徳は、内殿崇班に至り、永恭は、西京作坊副使に至り、永和は、内殿承制となり、永錫は、崇班に至り、永保・永昌・永規は共に閤門祗候に至り、永崇は、崇班となり、永寧及び孫の允忠は共に閤門祗候となった。
袁繼忠
太宗即位の時、閤門祗候と為し、梅山洞の賊を撃たしめ、これを破る。また唐龍鎮にて辺部を巡遏す。太宗太原を征するに、繼忠は鷹揚軍を破るに預かり、先登して陣を陥とす。契丹代の境に入る、繼忠兵を率いてこれを撃ち走らす。功により通事舍人に遷り、高陽関の屯兵を護る。崔彥進とともに契丹を長城口に破り、殺獲すること数万衆、璽書を以て褒美す。時に繼忠の功を自ら論ずるを勧むる者有り、繼忠答えず。会に趙保忠来朝して其の地を献ず、綏州刺史李克憲偃蹇として詔を奉ぜず、繼忠を遣わして旨を諭さしむ、竟に克憲を率いて入朝す。西上閤門副使に遷る。詔して田仁朗とともに兵を率いて河西諸州を定め、西人を葭蘆州に大破し、引進副使に遷り、定州の屯兵を護る。
繼忠は長厚忠謹にして、士多く之と遊び、前後賜賚すること鉅万計、悉く以て士卒を犒賞す。身死の日、家に余財無く、搢紳之を称す。子用成、雍熙初進士第に登り、太常博士に至る。
崔彥進
彥進は頻りに戦功を立て、然れども財貨を聚むるを好み、至る所善政無し。没後、諸子家財を争い、有司摂治す。太宗召見し、之を決し、左右に謂ひて曰く「此れ細務、朕親臨すべからず、但だ彥進嘗て節制を任じ、其の子をして父に辱しめんと欲せざるのみ」と。
子懷遵、内殿崇班に至る。懷清、崇儀副使に至る。
懷遵の子上賢、鎮王の女崇安県主を娶る。懷清の子從湜、岐王の女永寿県主を娶り、西京左蔵庫副使と為り、後事に坐して名を除かる。
張廷翰
皇甫繼明
張瓊
寿春を攻めた時、太祖は皮船に乗って城の濠に入った。城上の車弩が急に発射し、矢は椽のように大きかった。瓊は急いで身をもって太祖を蔽い、矢は瓊の股に当たり、死んでからまた蘇った。鏃が大腿骨に食い込み、堅くて抜けなかった。瓊は杯の酒を求め満たして飲み、骨を破ってそれを取り出した。血流は数升に及び、神色は自若としていた。太祖はこれを壮とした。即位すると、禁軍を統率するよう抜擢し、累遷して内外馬歩軍都軍頭・愛州刺史を領した。数日後、太宗が殿前都虞候から開封尹となった。太祖は言った、「殿前の衛士で狼虎の如き者は万人に止まらず、瓊でなければ統制できない。」即座に瓊を命じて代わりに都虞候とし、嘉州防禦使に遷任させた。
瓊の性質は暴虐で機略がなく、多く凌轢することがあった。当時、史珪と石漢卿がちょうど権勢を振るっており、瓊は彼らを軽侮し、巫媼(巫女の老婆)と見なした。二人はこれを切歯して恨んだ。瓊が官馬を擅りに乗り、李筠の隷僕を受け入れ、部曲百余人を養い、恣に威福をなして禁軍が皆恐れたこと、また太宗が殿前都虞候であった時のことを誣いて毀ったことを告発した。建隆四年(963年)秋、郊祀の制が下り、ちょうど京師を粛清しようとしたところで、瓊を召して訊問した。瓊は服さず、太祖は怒り、打つことを命じた。漢卿は即座に奮って鉄撾を乱打し、気息が絶えんとしたところで引きずり出し、遂に御史に下して取り調べさせた。瓊は免れられぬと知り、明徳門まで行き、身に付けていた帯を解いて母に遺した。獄が決し、城西の井亭で死を賜った。太祖は後に、家に余財がなく、ただ僕三人がいるのみと聞き、甚だこれを悔いた。そこで漢卿を責めて言った、「汝は瓊に僕百人があると言ったが、今どこにいるのか。」漢卿は言った、「瓊が養っていた者は、一人で百人に匹敵する者です。」太祖は遂にその家を優しく恤んだ。その子がまだ幼かったため、その兄の進を龍捷副指揮使に抜擢した。
論じて曰く、崔彦進は王全斌とともに蜀を征し、貨を黷し降を殺して、以て蜀の乱を致した。ただ劉廷譲の一軍のみが秋毫も犯さず、紀律の厳否はここにおいて別である。尹崇珂は斤斤として謹厚であり、臨淄における攻守の績、嶺嶠を廓清した労は、事に瘁めるに至った。皇甫継明は病を押して軍を護り行き、純誠勇節は皆嘉尚するに足る。張廷翰の西征は、未だ奇効を見ず。張美は幹敏と称されるも、初めに自ら愧ずる行いがあった。郭守文は詩を敦め礼を閲し、財を軽んじ施しを好み、封疆を慎んで保ち、士卒は用いることを楽んだ。終いに勲旧として眷を受け、戚里に姻を聯ねた。宋初の諸将を、要終して論ずれば、臧否の趣きを異にし、何ぞ昭昭たること此の如きや。