宋史

列傳第十八 張美 郭守文 尹崇珂 劉廷讓 袁繼忠 崔彦進 張廷翰 皇甫繼明 張瓊

張美

世宗が即位すると、召されて枢密承旨となった。時に宰相の景範が三司を判じていたが、病に罹り、世宗は張美を右領軍衛大将軍とし、三司を権判させた。世宗が淮南を征した時は、張美を大内部署として留めた。ある日、仮寐していると、突然心臓が動悸し、慌てて驚き起きて宮城中を巡視した。しばらくして、内醞署で火災が起こったが、既に備えがあったので、直ちにこれを消し止めた。間もなく正式に三司使を授けられた。

顕徳四年、世宗が再び淮上に行幸した際、皆大内都点検となった。北征の時は、また大内都部署となった。軍が帰還すると、左監門衛上将軍となり、宣徽北院使を充て、三司を判じた。張美は強力で心計があり、その利害を詳細に知り、条奏して改革する度に、上は多くこれを認可し、常に幹敏と称された。世宗が連年征討するも、糧食の補給に不足がなく、深く委任信頼された。しかし澶淵において求め借りたことがあったので、頗る軽んじられ、張美もまた自ら慚じた。恭帝が嗣位すると、検校太傅を加えられた。

宋の初め、検校太尉を加えられた。初め、李筠が上党を鎮めると、亡命者を募り、多く不法を行い、次第に倔強で制し難くなった。張美は李筠が必ず叛くと推し量り、密かに粟を懐州・孟州の間に蓄積した。後に李筠が果たして叛くと、太祖は親征し、大軍十万が太行山を出て、経費に欠けることがなく、張美の力があった。定国軍節度使に拝された。県官が関中で木材を買う時、同州は毎年緡銭数十万を出して民に貸し、長吏はその十分の一を取ったが、これを率分銭と言い、年に数百万に至ったが、張美のみは取らなかった。間もなく、他の郡で長吏が率分銭を受けたことを訴えて闕下に至る者があり、皆これを償うよう命じられた。

乾徳五年、鎮を滄州に移した。太平興国初年に来朝し、左ぎょう衛上将軍に改めた。張美は都城西の河曲湾の果樹園二つ、蔬菜園六つ、亭舎六十余区を献上した。八年、老齢を理由に致仕を請い、本官のまま致仕した。雍熙二年、卒去。六十八歳。淳化初年、諡して恭惠と為す。

子の守瑛は、供備庫使に至る。孫の士宗は、内殿承制に至る。士宗が卒すると、士禹は崇班となり、士安は閤門祗候に至り、士宣は礼賓副使となった。

郭守文

宋の初め、西頭供奉官に遷る。しょくが平定されると、簡州知事に遷った。時に剣外に寇賊多く、守文は悉く招き来たりて帰附させた。潘美に従って嶺南を征し、劉鋹を擒えると、守文を駅伝に乗せて捷報を告げさせ、翰林副使に遷った。曹彬らに従って金陵を平定し、李煜を護送して闕下に帰した。時に李煜は命に抵抗したことを頗る自ら慚じ、生きて太祖に会うことを望まなかった。守文はこれを察知し、李煜に謂って曰く「国家はただ疆土を恢復し、太平を致すことを務めるのみで、豈に後至の責めを復た有らんや」と。李煜の心は遂に安んじた。西京作坊使に改め、翰林司事を領した。間もなく党進に従ってへい州の寇を団柏谷で破った。

太平興国初年、秦州が内附すると、蕃部が騒動したので、守文に駅伝に乗って撫諭させ、西夏は喜んで服した。三年、西上閤門使に遷る。この夏、汴水が寧陵で決壊し、宋・亳の丁壮四千五百人を発してこれを塞ぎ、守文にその役を監督させた。この冬、また閤門副使の王侁・西八作副使の石全振と共に霊河県の決河を護塞した。

太原を征するに及び、守文は四方館事を判ずる梁迥と分かれて行営の馬歩軍を護った。劉継元が降伏すると、その弟の継文が代州に拠り、遼人の援けに依って命に抵抗したので、守文を遣わして討平させた。間もなく詔を受けて定州の屯兵を護り、蒲城で遼人を大破した。功により東上閤門使に遷り、澶州刺史を領した。召還され、内客省使に拝された。八年、滑州房村の河が決壊し、卒を発してこれを塞ぎ、守文にその役を監督させた。遼人が雄州を擾したので、守文に禁兵数万人を率いて赴援させた。既に至ると、遼人は遁去した。

雍熙二年、詔して守文に兵を率いて三交に屯させ、間もなく武州団練使を領することを加えた。夏人の擾攘に属し、守文に師を帥いて討たせ、夏州塩城鎮の岌羅膩等十四族を破り、数千級を斬首し、生畜を万計で俘獲した。また咩嵬族を破り、殲滅した。諸部は畏懼し、相率いて来降し、凡そ銀・麟・夏の三州で帰附するもの百二十五族、一万六千余戸、西鄙は遂に寧んじた。五年春、大挙して北伐し、幽州道行営前軍歩軍水陸都監となった。遼人と遭遇し、流れ矢に中たるも、気色撓まず、督戦益々急にし、軍中その度量に服した。大軍が不利に会し、詔に違いて逗留退軍した罪に坐し、右屯衛大将軍に左遷された。事は『曹彬傳』に具わる。

翌年旧職に復し、僅か三月で、宣徽北院使に拝された。また田欽祚と並んで北面排陣使となり、鎮州に屯した。端拱初年、南院使に改め、鎮州路都部署となった。また北面行営都部署兼鎮定・高陽関両路排陣使となった。この冬、遼騎が南侵し、唐河でこれを大破した。端拱三年十月、卒去。五十五歳。太宗は悼惜し、侍中を贈った。諡して忠武と為し、譙王を追封し、中使を遣わして喪を護り、京師に帰葬させた。

守文は沈厚で謀略有り、頗る書を知り、毎朝退くと、書を百行習い、出言は温雅で、未だ嘗て人の意に忤うことはなかった。先に、辺境を戍る将臣は多く寇を招いて戦功を邀え、河朔諸州は殆ど寧歳無かりしが、岐溝関に敗れた後、乃ち守文に内職をもって総兵し常山に鎮めてこれを経略させた。

守文が没して一月余りが過ぎた頃、中使が北辺より来て言うには、「守文が死んだ時、軍士は皆涙を流した」と。帝が「どうしてこのようなことが起こったのか」と問うと、答えて言うには、「守文は俸禄や賜り物をことごとく士卒に分け与えて労い、死んだ日には家に余財がなかったからです」と。帝は長く嘆息し、その家に銭五百万を賜い、真宗のためにその娘を娶って夫人とし、これが即ち章穆皇后である。

子の崇德は、太子中舎に至り、崇信は、西京左蔵庫使・同知皇城司に至り、福州観察使を追贈され、崇儼は崇儀使・全州刺史に至り、潤州観察使を追贈された。

諸司使には廃朝や贈官の例はないが、崇信と崇儼は皆、皇后の兄である故をもって、特に優れた礼遇を示された。崇德の子の承寿は、虞部員外郎に至った。天禧五年、承寿の子の若水を太常寺奉礼郎に、崇仁を解州団練使に任用した。

尹崇珂

宋の初め、淄州刺史として出向し、善政があり、民が宮廷に赴き石碑を刻んで徳を称えることを請うたので、太祖は殿中侍御史の李穆に撰文させてこれを賜った。湖南を討伐するに当たり、行営前軍馬軍都指揮使となった。荊湘が平定されると、朗州団練使を授かった。また潘美・丁德裕とともに郴州を攻略した。

乾徳年間、嶺表を征討するに当たり、崇珂を行営馬歩軍副部署とした。広州を攻略し、劉鋹を擒らえると、即日に詔して潘美とともに広州同知兼市舶転運等使とし、功績を記録して保信軍節度使に昇進させた。間もなく、南漢の開府楽範・容州都指揮使の鄧存忠・韶州の賊帥周思瓊・春恩道都指揮使の麦漢瓊らが五州の地を占拠して叛いた。崇珂がこれを討伐すると、太祖は中使の李神祐を派遣して督戦させ、数ヶ月でその徒党をことごとく平定し、治所に帰還した。

六年、卒去、四十二歳であった。侍中を追贈された。中使を派遣してその喪を護り、洛陽らくように帰葬させた。その子の昭吉と弟の崇珪をともに西京作坊使とし、昭吉に会州刺史を、崇珪に歙州刺史を領させた。

初め、太宗が周朝に在った時、崇珂の妹を娶り、後に淑徳皇后と追諡された。昭吉は洛苑使に至った。次子の昭輯は、供奉官・閤門祗候に至った。

劉廷譲

宋の初め、江州防禦使に転じ、龍捷右廂を領した。李筠征討に従い、行営先鋒使となった。建隆二年、侍衛馬軍都指揮使に改め、江寧軍節度使を領した。乾徳二年春、詔により兵を率いて潞州に赴き、幷州の寇に備えた。冬、師を興して蜀を伐ち、四川行営前軍兵馬副都部署となり、禁兵の歩騎一万人、諸州の兵一万人を率い、帰州より進軍して討伐した。その境に入り、松木・三会・巫山などの砦を連破し、蜀の将の南光海ら五千余人を捕らえ、戦棹都指揮使の袁徳宏ら千二百人を擒らえ、戦艦二百余艘を奪った。また水軍三千人を捕らえ、南岸に渡り、三千余級を斬った。

初め、夔州には鎖江に浮橋をかけ、その上に敵棚を三重に設け、両岸に砲具を並べていた。廷譲らが出征する際、太祖は地図を示し、鎖江を指して言った、「我が軍がここに至ったら、流れを遡って上るが、慎んで水軍で勝負を争ってはならない。まず歩騎で陸行し、不意を突いてこれを撃ち、その勢いが退いたら、直ちに戦艦で挟み撃ちにすれば、必ずこれを取れるであろう」と。師が到着すると、鎖江から三十里の地点で船を捨てて歩兵で進み、先ずその橋を奪い、再び船を牽引して上り、州城を破ると、守将の高彦儔は自ら焼死し、全て太祖の計画の通りであった。遂に進んで万・施・開・忠の四州を攻略し、峡中の郡県はことごとく降った。

翌年正月、遂州に駐屯すると、州将の陳俞が吏民を率いて降伏した。府庫の金帛をことごとく出して将士に与えた。初めて出師する時、太祖は命じて言った、「得た郡県では、蔵を傾けて朕のために戦士を賞せよ。国家が収めるのはただ土疆のみである」と。故に人皆命を捧げ、至る所で成功した。蜀が平定されると、王全斌らは皆、部下が子女玉帛を掠奪するのを放任し、賄賂を納めた罪で左遷されたが、ただ廷譲だけは秋毫も犯さなかった。全師雄らが乱を起こすと、郡県はこれに呼応し、寇盗が蜂起した。廷譲はまた曹彬とともにこれを破り、功により鎮安軍節度使を領するよう改められ、太原征討に従った。開宝六年、鎮寧軍節度使として出向した。太平興国二年、入朝して右驍衛上将軍となった。

雍熙三年、曹彬が岐溝関で敗れ、諸将は軍律を失い、多くが罪に坐して免官された。間もなく契丹が辺境を擾乱させた時、将を派遣する議論があったが、上意に適う者はなかった。当時、廷譲と宋偓・張永徳はともに節鎮を罷められて環列に在ったが、帝は契丹を撃たせて功績を立てさせようとし、辺郡を分守させ、廷譲を雄州知州とし、さらに瀛州兵馬都部署に転任させた。この冬、契丹の数万騎が侵攻して来ると、廷譲は君子館で戦った。時に天候は大変寒く、兵士の弓弩は皆十分に引くことができず、契丹は廷譲を数重に包囲した。廷譲は先に精兵を分けて李継隆に属させ後詰めとし、危急の際には援護させた。この時、継隆は楽寿に退いて守り、廷譲の一軍は皆没し、死者は数万人に及び、僅かに数騎で免れることができた。先鋒将の賀令図・楊重進は共に契丹に捕らえられた。これより河朔の戍兵は闘志を失い、また郷民を徴兵して城を守らせたが、皆戦闘に慣れていなかった。契丹は遂に長駆して侵入し、深・祁・徳の数州を陥落させ、官吏を殺し、士民を捕虜とし、所在の地で金帛を車に積んで去った。博・魏の北は、民が特に苦しんだ。太宗はこれを聞き、哀痛の詔を下した。

初め、廷譲が宮廷に赴いて罪を待ったが、太宗は李継隆に誤らせられたことを知り、これを責めなかった。四年、再び命じて張永徳に代わって雄州知州兼兵馬部署とした。この秋、病気であると聞こえたので、帝は内医を派遣して診察させたが、これに乗じて京師への帰還を上言し、返答を待たずに駐屯地を離れた。帝は怒り、御史に命じて取り調べさせ、獄が決した。詔を下して言うには、「右驍衛上将軍劉廷譲は、朕はその旧臣として、かつて軍政を統べさせ、環尹より抜擢し、師団を付託し、辺関を統制させ、寇鈔を防がせた。しかるに病を理由とし、返命を待たず、軍の重任を放棄し、軽装で上道した。ましてや万旅の集まる所は、実に中権に制せられ、烽火が相望むのは、外侮を憂うる所以である。事機を一度失えば、咎責はどこに帰すべきか。有司が刑を議するに、まさに赦すべからざるにある。その平素の功績を記録し、特に寛大な処分に従い、在身の官爵を削奪し、商州に配流すべし」と。またその子の如京使の永徳を濠州団練副使に、崇儀副使の永和を唐州刺史に貶めた。廷譲は既に貶黜され、鬱々として食を進めず、華州に至って卒去した。五十九歳であった。帝はその旧勲を記録し、太師を追贈した。

子の永徳は、内殿崇班に至り、永恭は、西京作坊副使に至り、永和は、内殿承制となり、永錫は、崇班に至り、永保・永昌・永規は共に閤門祗候に至り、永崇は、崇班となり、永寧及び孫の允忠は共に閤門祗候となった。

袁繼忠

太宗即位の時、閤門祗候と為し、梅山洞の賊を撃たしめ、これを破る。また唐龍鎮にて辺部を巡遏す。太宗太原を征するに、繼忠は鷹揚軍を破るに預かり、先登して陣を陥とす。契丹代の境に入る、繼忠兵を率いてこれを撃ち走らす。功により通事舍人に遷り、高陽関の屯兵を護る。崔彥進とともに契丹を長城口に破り、殺獲すること数万衆、璽書を以て褒美す。時に繼忠の功を自ら論ずるを勧むる者有り、繼忠答えず。会に趙保忠来朝して其の地を献ず、綏州刺史李克憲偃蹇として詔を奉ぜず、繼忠を遣わして旨を諭さしむ、竟に克憲を率いて入朝す。西上閤門副使に遷る。詔して田仁朗とともに兵を率いて河西諸州を定め、西人を葭蘆州に大破し、引進副使に遷り、定州の屯兵を護る。

雍熙二年、西上閤門使に遷る。三年、大将田重進契丹を征し、繼忠を命じて定州路行営馬歩軍都監と為す。師を領して飛狐を取り、霊丘を下し、蔚州を平げ、其の帥大鵬翼を擒えて献ず、事は『重進傳』に見ゆ。師還るに、繼忠は後殿と為り、行列甚だ整う。定州に至り、重進は降卒にして後期して至る者を斬らんと欲す、繼忠は殺降は不祥なりと諭し、皆これを救い免す。判四方館事に遷り、播州刺史を領し、屯兵を護ること旧の如し。大将李繼隆は易州静塞の騎兵尤も驍果なるを以て、取りて麾下に隷し、其の妻子を城中に畜う。繼忠、繼隆に言う「此の精卒は、止だ城を守るべし、万一敵至らば、城中誰かこれと悍る者あらんや」と。繼隆従わず。既にして契丹寇に入り、城陥ち、卒の妻子皆俘えらる。繼隆は此の卒己を怨むかと疑い、諸軍に分隷せんと欲す。繼忠曰く「不可なり、但だ其の軍額を昇らしめ、廩給を優にして、之をして節を尽くさしむる可きなり」と。これに従い、衆皆感悦す。繼忠因みに自ら請うて以て麾下に隷せんとす。

会に契丹の騎大いに至り、唐河北に駐す、諸将壁を堅くしてこれを待たんと欲す。繼忠曰く「今強敵近くに在り、城中重兵を屯し剪滅すること能わず、長駆深入せしめ、他郡を侵略せしむ、自安の計を謀らんと雖も、豈に折衝禦侮の用たるべけんや?我将に身士卒に先んじ、寇に死せん」と。辞気慷慨、衆之を壮とす。静塞軍鋒を摧きて先に入り、契丹の兵大いに潰ゆ。太宗之を聞き、璽書を降して獎諭し、賜予甚だ厚し。淳化初、引進使に遷り、鎮定・高陽関両路の屯兵を護る。三年、病に被り、召して闕に赴かしむ、卒す、年五十五。

繼忠は長厚忠謹にして、士多く之と遊び、前後賜賚すること鉅万計、悉く以て士卒を犒賞す。身死の日、家に余財無く、搢紳之を称す。子用成、雍熙初進士第に登り、太常博士に至る。

崔彥進

宋初、控鶴右廂指揮使に改め、果州団練使を領す。李筠を征し、先鋒部署と為り、功により常州防禦使に遷る。李重進を平ぐるに従い、虎捷右廂に改む。建隆二年、侍衛歩軍都指揮使に遷り、武信軍節度を領す。大いに挙りて蜀を伐ち、鳳州路行営前軍副都部署と為る。蜀平らぎ、部下をして玉帛・子女を略し及び諸の不法の事を為さしめたるに坐し、左遷して昭化軍節度觀察留後と為る。太祖西洛に郊祀し、彥進來朝し、彰信軍節度を授かる。

太平興国二年、河陽に移鎮す。四年正月、将を遣わして太原を征し、命を分ちて城を攻め、彥進と郢州防禦使尹勳を以て其の東を攻め、彰徳軍節度李漢瓊・冀州刺史牛思進を以て其の南を攻め、桂州觀察使曹翰・翰林使杜彥圭を以て其の西を攻め、彰信軍節度劉遇・光州刺史史珪を以て其の北を攻む。彥進督戦甚だ急なり、太祖之を嘉す。晋陽平らぎ、幽州を征するに従い、また内供奉官江守鈞とともに兵を率いて城の西北を攻む。及び班師し、詔して彥進と西上閤門副使薛繼興・閤門祗候李守斌に兵を領して関南に屯せしめ、功により検校太尉を加う。是の秋、契丹遂城に侵し、彥進は劉廷翰・崔翰等とともにこれを撃ち破り、首級万を斬る。五年、車駕北巡し、彥進を以て関南都部署と為し、契丹を唐興口に敗る。

雍熙三年正月、将を命じて北伐し、兵を三路に分ち、詔して彥進を幽州道行営馬歩軍水陸副都部署と為し、曹彬・米信とともに雄州より出づ。大軍利あらず、彥進彬の節制に違ひ別道より軍を回し、敵に敗れたるに坐し、召還され、右武衛上将軍に貶せらる、事は『彬傳』に具す。四年春、保静軍節度を授かる。端拱元年、病に被り、召して帰闕せしむ、卒す、年六十七。侍中を贈る。

彥進は頻りに戦功を立て、然れども財貨を聚むるを好み、至る所善政無し。没後、諸子家財を争い、有司摂治す。太宗召見し、之を決し、左右に謂ひて曰く「此れ細務、朕親臨すべからず、但だ彥進嘗て節制を任じ、其の子をして父に辱しめんと欲せざるのみ」と。

子懷遵、内殿崇班に至る。懷清、崇儀副使に至る。

懷遵の子上賢、鎮王の女崇安県主を娶る。懷清の子從湜、岐王の女永寿県主を娶り、西京左蔵庫副使と為り、後事に坐して名を除かる。

張廷翰

皇甫繼明

太宗即位の時、累遷して捧日軍都指揮使に至り、檀州刺史を領す。太平興国七年、秦王廷美の事に坐し、出でて汝州馬歩軍都指揮使と為る。雍熙三年、召入して馬歩軍副都軍頭と為す。四年、復た捧日右廂第三軍都指揮使と為り、澶州刺史を領す。田重進北征するに、繼明は前鋒と為り、功により馬歩軍都軍頭を加う。端拱二年、転じて龍神衛四廂都指揮使と為り、羅州防禦使を領す。即日命じて高瓊を副え幷代部署と為す。淳化二年、また范廷召を副え平虜橋砦兵馬都部署と為し、高陽関部署に改む。

至道元年(995年)、洋州観察使を領するよう改め、環慶路馬歩軍都部署を充任した。継明は謹直で、部下を統御するに厳粛であり、士卒は大いに畏れ憚った。二年、詔を受けて輜重を霊州へ護送するにあたり、継明はあらかじめ霊州部署の田紹斌に軍を率いて迎え援護するよう約していたが、ちょうど病にかかり、裨将の白守栄が継明に言うには、「君の病は甚だ重い。行くことはできまい。期日に遅れることを恐れるなら、守栄が兵を率いて先に行こう。」継明は宿将であり、守栄らが軽率に戎人と交戦することを慮り、それゆえ彼に言うには、「我が病は少し良くなった。」そして矍鑠として甲冑を着て馬に上り、強いて清遠軍まで行き、そこで卒した。享年六十三。詔して彰武軍節度使を追贈した。その子の懐信を供奉官に遷任させた。

張瓊

寿春を攻めた時、太祖は皮船に乗って城の濠に入った。城上の車弩が急に発射し、矢はたるきのように大きかった。瓊は急いで身をもって太祖を蔽い、矢は瓊の股に当たり、死んでからまた蘇った。鏃が大腿骨に食い込み、堅くて抜けなかった。瓊は杯の酒を求め満たして飲み、骨を破ってそれを取り出した。血流は数升に及び、神色は自若としていた。太祖はこれを壮とした。即位すると、禁軍を統率するよう抜擢し、累遷して内外馬歩軍都軍頭・愛州刺史を領した。数日後、太宗が殿前都虞候から開封尹となった。太祖は言った、「殿前の衛士で狼虎の如き者は万人に止まらず、瓊でなければ統制できない。」即座に瓊を命じて代わりに都虞候とし、嘉州防禦使に遷任させた。

瓊の性質は暴虐で機略がなく、多く凌轢することがあった。当時、史珪と石漢卿がちょうど権勢を振るっており、瓊は彼らを軽侮し、巫おう(巫女の老婆)と見なした。二人はこれを切歯して恨んだ。瓊が官馬をみだりに乗り、李筠の隷僕を受け入れ、部曲百余人を養い、ほしいままに威福をなして禁軍が皆恐れたこと、また太宗が殿前都虞候であった時のことをいてそしったことを告発した。建隆四年(963年)秋、郊祀の制が下り、ちょうど京師を粛清しようとしたところで、瓊を召して訊問した。瓊は服さず、太祖は怒り、打つことを命じた。漢卿は即座に奮って鉄撾てっかを乱打し、気息が絶えんとしたところで引きずり出し、遂に御史に下して取り調べさせた。瓊は免れられぬと知り、明徳門まで行き、身に付けていた帯を解いて母に遺した。獄が決し、城西の井亭で死を賜った。太祖は後に、家に余財がなく、ただ僕三人がいるのみと聞き、甚だこれを悔いた。そこで漢卿を責めて言った、「汝は瓊に僕百人があると言ったが、今どこにいるのか。」漢卿は言った、「瓊が養っていた者は、一人で百人に匹敵する者です。」太祖は遂にその家を優しくめぐんだ。その子がまだ幼かったため、その兄の進を龍捷副指揮使に抜擢した。

論じて曰く、崔彦進は王全斌とともに蜀を征し、貨をけがし降を殺して、以て蜀の乱を致した。ただ劉廷譲の一軍のみが秋毫も犯さず、紀律の厳否はここにおいて別である。尹崇珂は斤斤きんきんとして謹厚であり、臨淄における攻守の績、嶺嶠れいきょうを廓清した労は、事につとめるに至った。皇甫継明は病を押して軍を護り行き、純誠勇節は皆嘉尚するに足る。張廷翰の西征は、未だ奇効を見ず。張美は幹敏と称されるも、初めに自らずる行いがあった。郭守文は詩をつとめ礼をけみし、財を軽んじ施しを好み、封疆を慎んで保ち、士卒は用いることを楽んだ。終いに勲旧としてけんを受け、戚里に姻を聯ねた。宋初の諸将を、要終ようしゅうして論ずれば、臧否ぞうひの趣きを異にし、何ぞ昭昭たること此の如きや。