宋史

列傳第十七 曹彬 潘美 李超

曹彬

顯德三年、潼關監軍に改め、西上閣門使に遷る。五年、呉越に使いし、使命を果たすや即ち還る。私覿の礼は、一切受けず。呉越の人々は軽舟で追ってこれを贈るも、数度に及ぶも、彬はなお受けず。既にして曰く、「吾れ終にこれを拒めば、是れ名に近づくなり」と。遂に受け、これを籍して帰り、悉く官に上送す。世宗強いてこれを還す、彬始めて賜を拝し、悉く親旧に分けて遺し、一銭も留めず。出でて晉州兵馬都監となる。一日、主帥及び賓従と野に環坐す、会に隣道の守将が走价を走らせ書を馳せて来詣す、使者は素より彬を識らず、潜かに人に問うて曰く、「孰れか曹監軍なる」と。彬を指してこれを示す者有り、使人は己を欺くものと思い、笑って曰く、「豈に国戚近臣にして、弋綈の袍を衣、素胡床に坐する者あらんや」と。審らかにこれを視て初めて信ず。引進使に遷る。

初め、太祖禁旅を典す、彬は中立して倚らず、公事に非ざれば未だ門を造らず、群居讌会も亦た預かる所罕なり、ここによりて器重せらる。建隆二年、平陽より召し帰り、謂いて曰く、「我れ疇昔常に汝を親しまんと欲す、汝何ぞ故に我を疎んずる」と。彬頓首して謝して曰く、「臣は周室の近親たり、復た内職を忝くし、靖恭に位を守るも、猶お過ちを獲んことを恐る、安んぞ敢えて妄りに交結せん」と。客省使に遷り、王全斌・郭進とともに騎兵を領いて河東平楽県を攻め、其の将王超・侯栄等千八百人を降し、俘獲千余人。既にして賊将蔚進兵を率いて来援す、三戦皆これを敗る。遂に平楽を建てて平晋軍と為す。乾徳初め、左神武将軍に改む。時に初めて遼州を克ち、河東契丹の兵六万騎を召して来たり平晋を攻む、彬は李継勲等とともに大いにこれを城下に敗る。俄かに枢密承旨を兼ぬ。

二年冬、しょくを伐つ、詔して劉光毅を帰州行営前軍副部署と為し、彬を都監とす。峡中の郡県悉く下る、諸将咸く城を屠りて其の欲を逞うさんと欲す、彬独り令を申して下を戢め、至る所悦服す。上聞き、詔を降してこれを褒む。両川平らぐ、全斌等昼夜宴飲し、軍士を恤れず、部下漁奪已む無く、蜀人これを苦しむ。彬屡に師を旋すことを請う、全斌等従わず。俄にして全師雄等乱を構え、衆十万を擁す、彬復た光毅とともにこれを新繁に破り、卒に蜀の乱を平ぐ。時に諸将多く子女玉帛を取り、彬の橐中唯だ図書・衣衾のみ。還るに及び、上尽く其の状を得、全斌等を吏に属す。彬の清介廉謹を謂い、宣徽南院使・義成軍節度使を授く。彬入見し、辞して曰く、「征西の将士俱に罪を得、臣独り賞を受く、恐らくは以て勧めを示す無からん」と。上曰く、「卿に茂功有り、又た矜伐せず、設い微累有らば、仁贍等豈に言を惜しまんや。懲勸は国の常典、譲る無かるべし」と。

六年、李継勳・党進を遣わし師を率いて太原を征し、前軍都監を命じ、洞渦河に戦い、二千余級を斬り、俘獲甚だ衆し。開宝二年、親征太原を議し、復た前軍都監を命じ、兵を率いて先往き、団柏谷に次ぎ、賊将陳廷山を降す。又た城南に戦い、濠橋に薄し、馬千余を奪う。太祖の至るに及びては、則ち已に砦を四面に分ち、而して自ら其の北を主る。六年、検校太傅に進む。

七年、将に江南を伐たんとす。九月、彬詔を奉じ李漢瓊・田欽祚と先ず荊南に赴き戦艦を発し、潘美歩兵を帥いて継いで進む。十月、詔して彬を升州西南路行営馬歩軍戦棹都部署と為し、兵を分かち荊南より順流して東し、峡口砦を破り、進んで池州を克ち、連ねて当塗・蕪湖二県を克ち、軍を採石磯に駐む。十一月、浮梁を作り、大江に跨りて以て師を済す。十二月、其の軍を白鷺洲に大破す。

八年正月、又た其の軍を新林港に破る。二月、師進みて秦淮に次ぐ、江南水陸十余万城下に陳す、大いにこれを敗り、俘斬数万を計る。浮梁成るに及び、呉人出兵して来たり禦ぐ、これを白鷺洲に破る。三月より八月に至るまで、連ねてこれを破り、進んで潤州を克つ。金陵囲まれを受く、是に至るまで凡そ三時、呉人樵採の路絶え、頻りに敗衄を経、李煜危急し、其の臣徐鉉を遣わし表を奉じて闕に詣り、師を緩めんことを乞う、上これを省みず。先に、大軍三砦を列ね、美は北偏に居り守り、其の形勢を図り来り上る。太祖北砦を指して使者に謂いて曰く、「呉人必ず夜出兵して来たり寇す、爾亟に去り、曹彬に令して速やかに深溝を成して以て自ら固くせしめ、其の計中に堕ちること無からしめよ」と。既に成る、呉兵果たして夜来たり襲う、美率いる所の部をして新溝に依りてこれを拒がしむ、呉人大いに敗る。奏至る、上笑って曰く、「果たして此の如し」と。

長囲の中、彬毎に師を緩め、煜の帰服を冀う。十一月、彬又た人をしてこれを諭さしめて曰く、「事勢此の如し、惜しむ所は一城の生聚、若し能く命に帰せば、策の上なり」と。城将に克たんとす、彬忽ち疾を称して事を視ず、諸将皆来たり疾を問う。彬曰く、「余が疾は薬石の能く愈す所に非ず、惟だ諸公の誠心を以て自ら誓い、城を克つ日の、妄りに一人を殺さざれば、則ち自ずから愈ゆるを須つ」と。諸将諾し、共に香を焚きて誓いを為す。明日、稍々愈ゆ。又た明日、城陥つ。煜と其の臣百余人力を軍門に詣りて罪を請う、彬慰安し、賓礼を以て待ち、煜を請いて宮に入り装を治めしむ、彬数騎を以て宮門外に待つ。左右密かに彬に謂いて曰く、「煜入りて或いは不測あらば、奈何」と。彬笑って曰く、「煜素より愞にして断無く、既に已に降れば、必ず自ら引決する能わざるべし」と。煜の君臣、卒に保全に頼る。師を出してより凱旋に至るまで、士衆畏服し、軽肆する者無し。入見するに及び、刺に「勅を奉じて江南の事を幹し回る」と称す、其の謙恭伐らざる此の如し。

初め、彬の師を総ぶるや、太祖謂いて曰く、「李煜を克つを俟ち、当に卿を以て使相と為さん」と。副帥潘美預め以て賀せんとす。彬曰く、「然らず、夫れ是の行は、天威に仗り、廟謨に遵いて、乃ち能く事を成す、吾何の功か有らん、況んや使相は極品なるをや」と。美曰く、「何をか謂う」と。彬曰く、「太原未だ平らかならざる爾」と。還るに及び、俘を献ず。上謂いて曰く、「本卿に使相を授けんとす、然れども劉継元未だ下らず、姑く少しくこれを待て」と。此の語を聞くに及び、美窃かに彬を視て微笑す。上覚り、遽に所以を詰む、美敢えて隠さず、遂に実を以て対う。上亦た大笑し、乃ち彬に銭二十万を賜う。彬退きて曰く、「人生何ぞ必ずしも使相たるを要せん、好官も亦た多く銭を得るに過ぎざる爾」と。未だ幾ばくもせず、枢密使・検校太尉・忠武軍節度使を拝す。

太宗即位し、同平章事を加う。太原征伐を議し、彬を召して問うて曰く、「周世宗及び太祖皆親征す、何を以てか能く克たざりし」と。彬曰く、「世宗の時、史彦超石嶺関に敗れ、人情驚擾し、故に師を班す。太祖甘草地に兵を頓え、会に歳暑雨、軍士多疾、ここによりて中止す」と。太宗曰く、「今吾れ北征せんと欲す、卿以て如何と為す」と。彬曰く、「国家の兵甲精鋭を以てし、太原の孤壘を剪るは、枯れ朽ちたるを摧くが如き爾、何を為してか不可ならん」と。太宗の意遂に決す。太平興国三年、検校太師に進み、太原に従征し、侍中を兼ぬるを加う。八年、弭徳超に誣えらるる所と為り、罷めて天平軍節度使と為る。旬余、上其の譖を悟り、魯国公に進封し、之を待つこと愈厚し。

雍熙三年、詔して彬に幽州行営前軍の馬歩水陸の師をひきい、潘美らとともに北伐し、分路して進討せしむ。三月、契丹を固安にて破り、涿州を陥とす。戎人援け来たり、大いにこれを城南にて破る。四月、また米信とともに契丹を新城にて破り、二百級を斬首す。五月、岐溝関に戦い、諸軍敗績し、退きて易州に屯し、易水に臨みて営す。上聞き、すみやかに辺城に分屯し、諸将をして帰闕せしむことを命ず。

先に、賀令図ら上に言いて曰く、「契丹の主幼く、母后政を専らにし、寵倖用事す。そのきっかけに乗じ、以て幽薊を取るを請う」と。ここにおいて彬と崔彦進・米信をして雄州より、田重進をして飛狐におもむかしめ、潘美をして雁門より出でしめ、期を約して斉しく挙げしむ。将に発せんとす、上これに謂いて曰く、「潘美の師はただ先ず雲・応に趣くべし。卿ら十万の衆を以て声言して幽州を取らんとし、かつ持重して緩行し、利を貪るべからず。彼大兵の至るを聞けば、必ず衆を悉くして范陽を救い、山後を援くる暇あらざるべし」と。既にして、美の師先ず寰・朔・雲・応等州を下し、重進また飛狐・霊丘・蔚州を取り、多く山後の要害の地を得、彬もまた州県を連ねて下し、勢い大いに振るう。奏至るごとに、上すでに彬の進軍の速きをいぶかりき。彬の涿州にやどるに及び、旬日にして食尽き、ここにおいて師を退き雄州にて糧餉をととのう。上これを聞きて曰く、「に敵前に在りて、反って軍を退きて芻粟を援うるあらんや、失策の甚だしきなり」と。亟に使いを遣わし彬をして前進せざるを止め、急ぎ師を引きて白溝河に沿い米信の軍と会し、兵をおさえて鋭を養い、以て西師の勢いを張らしめよ。美ら山後の地を尽く略するを俟ち、重進の師と会して東し、勢いを合して以て幽州を取らしむべし、と。時に彬の部下の諸将、美及び重進のしばしば功を建つるを聞き、しかるに己は重兵を握りながら攻取すべきところあらざるを以て、謀議蜂起す。彬已むことを得ず、ここにおいてまた糧をつつみ再び往きて涿州を攻む。契丹の大衆前に当たり、時に方に炎暑、軍士乏困し、糧将に尽きんとす。彬軍を退く、復た行伍ぎょうごなく、ここにおいて為にまれて敗る。

彬ら至る、詔して尚書省にてきくし、翰林学士賈黄中らをして雑治せしむ。彬らつぶさに詔に違ひ律を失えるの罪を伏す。彬は責授して右ぎょう衛上将軍と為し、彦進は右武衛上将軍、信は右屯衛上将軍と為し、余は次を以てちゅうせらる。四年、彬を起して侍中・武寧軍節度使と為す。淳化五年、平盧軍節度にうつす。真宗即位し、復た検校太師・同平章事と為す。数月、召して拝して枢密使と為す。

咸平二年、疾におかる。上駕を趣めて臨問し、手ずから薬を和し、なお白金万両を賜う。後事を問うに、対えて曰く、「臣言うべき事なし。臣が二子、材器取るべし。臣もし内挙せば、皆将と為るに堪えん」と。上その優劣を問うに、対えて曰く、「璨は瑋に如かず」と。六月薨ず、年六十九。上臨みて哭することいたみ、輔臣に対し語彬に及べば、必ず涕を流す。中書令を贈り、済陽郡王を追封し、諡して武惠と曰う。かつその妻高氏に韓国夫人を贈り、その親族・門客・親校十余人を官す。八月、詔して彬と趙普をして太祖廟庭に配饗せしむ。

彬、性仁敬和厚、朝廷に在りて未だ嘗て旨にさからわず、また未だ嘗て人の過失を言わず。二国を伐つに、秋毫も取るところなし。位将相を兼ね、等威を以て自ら異にせず。士夫に途に遇えば、必ず車を引いてこれを避く。下吏を名指しせず、事を白するごとに、必ず冠して後に見ゆ。官に居て奉入を宗族に給し、余積なし。蜀を平らげて回りしとき、太祖従容として官吏の善否を問う。対えて曰く、「軍政の外は、臣の聞くところに非ず」と。固くこれを問うに、ただ随軍転運使沈倫の廉謹なるを薦めて任に堪うべしとす。帥として徐州を知る日、吏犯罪有り、既に案を具にす、年をえて後にこれを杖つ。人その故を知る莫し。彬曰く、「吾この人の新たに婦を娶るを聞く。もしこれを杖たば、その舅姑必ず婦を以て不利と為し、朝夕これに笞詈して、自ら存する能わざらしめん。吾故にその事を緩くす。然れども法もまた未だ嘗て屈せざるなり」と。北征の律を失えるや、趙昌言表を上して行軍法を行わんことを請う。昌言の延安より還り、劾せられて、見るに入ること得ざるに及びて、彬右府に在り、上に請うて、ここにおいて朝謁を許さしむ。

子に璨・珝・瑋・玹・玘・珣・琮有り。珝は秦王の女興平郡主を娶り、昭宣使に至る。玹は左蔵庫副使、玘は尚書虞部員外郎、珣は東上閣門使、琮は西上閣門副使。玘の女は、すなわち慈聖光献皇后なり。芸は累贈して魏王。彬は韓王。玘は呉王、諡して安僖と曰う。玘の子に佾・傅有り。佾は『外戚伝』に見ゆ。傅は后の兄なり、栄州刺史、諡して恭懷。

子 璨

璨、字は韜光、性沈毅、射を善くし、蔭を以て供奉官に補わる。常に彬に従い征討し、計議にあずかるを得、彬以て己に類すと為し、特に鍾愛す。

宮苑副使に遷り、出でて高陽関及び鎮・魏・並・代・趙五州都監と為る。雍熙中、命じて定州を知らしめ、尚食使に改む。淳化二年、富州刺史を領し、代州知事に徙る。明年、きて鎮州行営鈐轄と為し、綏・銀・夏・麟・府等州鈐轄に徙る。契丹寇す、しばしば戦いて功有り。諸将多く窮追せんと欲す、璨伏有るを慮り、力を尽くしてこれを止む。至道初、四方館使・霊州知事に遷り、河西鈐轄に徙り、引進使に改む。范廷召兵を将いて塞を出づ、命じて璨をその副と為す。外艱にたり、起復し、鄜延路副都部署と為り、趙州刺史を拝し、武州団練使を領し、麟・府・濁輪副部署を充つ。蕃兵を出して継遷をむかえ、俘馘ふかく甚だ衆し。入りて枢密都承旨と為り、領することを改めて亳州団練使と為す。

契丹寇す、命じて鎮・定・高陽関三路行営都鈐轄と為し、康州防禦使を領し、再び定州を知る。明年冬、侍衛馬軍副都指揮使・天徳軍節度使を拝す。入りて東京旧城都巡検使と為り、連ねて彰国・保静・武寧・忠武等軍節度使を拝す。禁衛に在ること十余年、未だ嘗て旨に忤わず。天禧三年春、足疾を以て河陽節度使・同平章事を授かる。卒す、年七十、中書令を贈られ、諡して武懿と曰う。

璨は貴胄より起り、孝謹を以て称され、能く自ら奮厲し、以てその家をぐ。韜略を習知し、『左氏春秋』を読むを好み、士卒を撫するに善く、威愛兼ねて著る。軽財はその父に逮ばざるも、敬人和厚、また父風有り。子の儀、官は耀州観察使に至る。

子 瑋

瑋、字は宝臣。父の彬、武寧・天平軍節度使を歴任し、皆瑋を以て牙内都虞候と為し、西頭供奉官・閣門祗候に補わる。沈勇謀有り、読書を喜び、『春秋三伝』に通じ、『左氏』に於いて特に深し。李継遷叛く、諸将数え出でて功無し。太宗彬に問う、「誰か将と為すべき者」と。彬曰く、「臣が少子の瑋任に堪えん」と。即ち召見し、本官を以て渭州同知と為す。時に年十九。

真宗即位の後、内殿崇班に改められ、渭州知州となる。軍を統御すること厳明にして部署あり、賞罰は即時に決し、命令に違反する者は容赦なかりき。間諜を用いることに長け、虜の動静をくまなく知り、挙措は老将の如し。彬が卒すと、喪に服することを請うたが、許されず、閣門通事舍人に改められる。西上閣門副使に遷り、鎮戎軍知軍に移る。李継遷がその国人を虐げて用いるを、瑋はその下に怨み多きを知り、即ち諸部に移書し、朝廷の恩信を諭し、撫養に隔てなきを以て諸羌を動かす。これにより康奴等の族が内附を請う。継遷が西蕃を略して還るを、瑋は石門川に邀撃し、俘獲甚だ衆し。鎮戎軍が平地に拠り、騎戦に便なるは、中国の利に非ずとし、隴山より東、古の長城に沿って塹壕を築き以て限界とすべしと請う。また弓箭手は皆土人にして、障塞や蹊隧に習熟し、羌語に通じ、寒苦に耐うるも、官は未だ兵械や資糧を与えず、而して毎戦に輒ち先ず賊を拒がしむるは、死力を責むるに由なきを恐れ、遂に境内の閑田を与う。春秋の耕収には、州が兵を出して護作し、その租を蠲免す。

継遷死し、その子徳明が朝廷に命を請う。瑋言う、「継遷は河南の地を擅にすること二十年、兵は甲を解かず、中国に西顧の憂いを有たしむ。今国危く子弱し、即時に捕滅せざれば、後さらに強盛となり、制すべからず。願わくは臣に精兵を仮し、その不意に出で、徳明を禽えて闕下に送り、河西を郡県に復せしめよ、これ其の時なり」と。帝は方に恩を以て徳明を致さんとし、報いず。既にして西延家・妙俄・熟魏の数大族が帳を抜きて自ら帰らんと請うも、諸将は躊躇して敢えて応ぜず。瑋曰く、「徳明は野心なり、急ぎその翮を折らざれば、後必ず颺げ去らん」と。即日、その士を将いて大都山に迫り、降る者を内徙せしむ。徳明は敢えて拒まず。西上閣門使に遷り、環慶路兵馬都鈐轄となり、邠州知州を兼ぬ。泰山に封じ、東上閣門使に進む。

帝は瑋が河北の事に習知するを以て、乃ち真定路都鈐轄と為し、高州刺史を領せしむ。瑋嘗て涇原・環慶両道の図を上る。至是に及び、帝は左右に示し、曰く、「華夷の山川城郭、険固出入、戦守の要、挙げて是に在り」と。因りて別に二図を描かしめ、一つは枢密院に留め、一つは本道に付し、諸将をして図に按じて事を計らしむ。復た涇原路都鈐轄兼渭州知州と為り、秦翰と武延川にて章埋族を破り、兵を分けて平涼にて撥臧を滅ぼす。ここに於て隴山の諸族皆来たりて地を献ず。瑋は山外に堡を築き、籠竿城と為し、士兵を募りてこれを守らしむ。曰く、「異時に秦・渭に警あらば、これ必ず争うの地なり」と。汾陰に祀り、四方館使に進む。逾年、表を上りて州事を還し、専ら軍旅を督せんことを願う。帝は遽かに守臣を更えんと欲せず、密詔を以て敦諭す。引進使・英州団練使に改め、復た秦州知州となり、涇原儀渭鎮戎縁辺安撫使を兼ぬ。

時に唃廝嵒強盛にして、立遵これに輔佐す。立遵乃ち上書して「賛普」の号を求む。瑋言う、「賛普は可汗の号なり。立遵一言にしてこれを得ば、何を以て唃廝嵒を処せんや?且つ復た求むることあらば、漸く制すべからず」と。乃ち立遵を保順軍節度使と為し、恩は廝鐸督の如し。西羌は将に事を挙げんとすれば、必ず先ず約束を定め、「立文法」と号す。唃廝嵒その舅賞様丹をして廝敦と離王族に於て文法を立たしめ、内寇を謀る。瑋は密かに廝敦と結び、宝帯を解きてこれに与う。廝敦感激し、自ら効せんことを求め、間を窺いて瑋に謂いて曰く、「吾が父は何をか使わんとす?吾が首を欲せば、猶も断ちて献ずべし」と。瑋曰く、「我は賞様丹の時に汝が帳下に至るを知る。汝能く我が為に賞様丹の首を取らんや」と。廝敦愕然としてこれに応ず。後十余日、果たしてその首を断ちて来たる。廝敦因りて南市の地を献ず。南市は秦・渭の扼する所なり。瑋これに城を築き、廝敦を順州刺史と為すことを表す。

初め、張佶が秦州を知り、四門砦を置き、羌地を侵奪せしより、羌人多く叛き去り、罪を得るを畏れて敢えて出でず。瑋これを招き出だし、馬を入れて罪を贖わしめ、故地に還らしむ。至る者数千人、毎に馬六十匹を送れば、彩一端を与う。弓門・冶坊・床穰・静戎・三陽・定西・伏羌・永寧・小洛門・威遠の十砦を築き、壕三百八十里を浚い、皆属羌の廂兵を役し、工費は民に出さず。伏羌の首領廝鶏波・李磨論が私に文法を立てるを、瑋は潜かに兵を発してその帳を滅ぼす。其の年、唃廝嵒衆数万を率いて大いに寇す。瑋は三都谷に迎え戦い、三十里に奔を追い、千余級を斬首し、馬牛・雑畜・器仗三万余を獲る。客省使・康州防禦使に遷る。馬波叱臈が野呉谷に柵を立てるを、瑋は神武軍二百人を選募し、柵を斬り、生口・孳畜甚だ衆しきを獲る。

宗哥の大首領甘遵が任奴川に兵を治むるを、瑋は間を遣わして遵を殺し、及び吹麻城にて魚角蟬の立てし文法を破る。既にして河州・洮蘭・安江・妙敦・邈川・党逋の諸城皆質を納れて熟戸と為る。時に瑋は塹壕を拶嵒嚨に抵して作る。拶嵒嚨は西蕃の要害の地なり。先に、瑋は小吏楊知進を遣わし賜物を護りて甘州可汗王に通ぜしめ、還るに宗哥界を過ぐ。立遵は知進を邀え、語りて曰く、「秦州の大人直ちに兵を以て拶嵒嚨に入り来たる。幸いに我が為に言え、兵を罷め、歳に貢を入れ、蕃漢を一家と為さんことを願う」と。因りてその種人党失畢陵をして知進に従い来たりて馬を献ぜしむ。ここより唃廝嵒の勢い蹙り、磧中に退き保ちて出でず。秦人は石を刻みて功を紀せんことを請う。詔有りてこれを褒む。

天禧三年、徳明が柔遠砦を寇す。都巡検楊承吉戦いて利あらず。瑋を華州観察使・鄜延路副都総管・環慶秦等州縁辺巡検安撫使と為す。委乞・骨咩・大門等の族、瑋の至るを聞き、帰附する者甚だ衆し。宣徽北院使・鎮国軍節度観察留後・簽書枢密院事に拝す。

宰相丁謂が寇準を逐う。瑋が己に附かざるを悪み、準の党と指す。南院使・環慶路都総管安撫使に除す。乾興初め、左衛大将軍・容州観察使・萊州知州に謫せらる。瑋は宿将として謂に忌まれるを以て、即日上道し、弱卒十余りに従い、弓韔矢箙を以て自ら随えず。謂敗るるや、華州観察使に復し、青州知州となり、天雄軍に移り、彰化軍節度観察留後を以て永興軍を知る。昭武軍節度使・天雄軍知軍に拝す。疾を以て河陽を守り、数月、真定府定州都総管と為り、彰武軍節度使に改む。卒す。侍中を贈られ、武穆と諡す。

瑋は士を用うるに、その死力を得たり。平居は甚だ閑暇なりしも、師の出ずるに及びては、奇計多く、出入り神速にして測るべからず。一日、楽を張りて僚吏と飲む。中坐に瑋の所在を失う。明日、徐ろに出でて事を観るに、賊の首は既に庭下に擲たれり。嘗て疾を称し、砭艾を加え、閣内に臥して出でず。会に賊至る。瑋奮い起きて創を裹い、甲を被り馬に跨る。賊望み見て、皆遁げ去る。兵を将ること幾四十年、未だ少も利を失わず。唃廝嵒瑋の名を聞き、即ち瑋の所在を望み、東に向かい合掌して額を加う。契丹の使、天雄を過ぐるに、その下を部勒して曰く、「曹公ここに在り、騎を縦して馳駆するなかれ」と。真宗は兵事を慎み、凡そ辺事は必ず手詔を以て詰難すること十数反に至るも、瑋は初議を守り、卒に以て奪うこと無し。後に他の将の辺事を論ずる者あれば、往往密かに瑋に付してこれを処せしむ。

渭州に、戍卒が叛いて夏国に入ったと告げる者があった。曹瑋は客と碁を打っている最中で、急ぎ言うには、「我が彼を行かしめたのだ」と。夏人はこれを聞き、即座に叛者を斬り、その首を境上に投げた。羌が辺民を殺し、羊馬を入れて罪を贖おうとした。曹瑋は下令して言うには、「羌が自ら互いに犯すのは、その俗に従う。辺民を犯す者は、律に論ずる」と。これより後、敢えて犯す者はなかった。

環州・慶州に属する羌の田地は多く辺人に買い占められ、貧弱で自存できず、ついに彼の地に没していた。曹瑋はことごとくその旧田を返還させ、後に犯す者があれば、その家を内地に移した。募った弓箭手には、馳射させ、強弱を較べ、勝者に田二頃を与えた。さらに秋の収穫を経て、一馬を買うことを課し、その馬は必ず鎧に勝るものでなければならず、その後官がこれを籍に載せると、五十畝を加えた。三百人以上に至れば、一指揮として団とした。要害の地には堡を築き、自らその地を堀って方田とし、これを囲ませた。馬社を立て、一馬が死ねば、衆が銭を出して馬を買った。降る者が多くなったため、これに因って属羌で百帳以上の者は、その首領を本族の軍主とし、次を指揮使とし、またその次を副指揮使とし、百帳に及ばない者は本族の指揮使とした。その蕃落の将校は、本軍でのみ叙進し、彼らが羌の情実と地利に習熟しているため、他軍に移すことはできなかった。辺境の壕を開き、おおむね深さ広さ一丈五尺とさせた。山険で堀ることができない所は、その険絶な地形に因ってこれを治め、敵を阻むに足るようにし、後世みなこれを法とした。天雄の卒に盗みを犯した者がいた。衆は獄が具われば必ず殺すだろうと言ったが、曹瑋は常法で処した。ある人は疑うところがあったが、曹瑋は笑って言うには、「辺境に臨み敵に対する時、命令に従わぬ者を斬るのは、衆に我が命令を示すためであって、殺すことを好むのではない。内郡を治めるのに、どうしてこのようなことをする必要があろうか」と。

初めて辺境を守った時、山東の知名の士賈同が曹瑋を訪ね、外舎に客として泊まった。曹瑋が辺境を巡視しようとすると、すぐに賈同の舎に行き、ともに行くよう招いた。賈同が「従う兵はどこにいるのか」と問うと、「すでに具えている」と言った。出て騎乗すると、甲士三千が環列しているのを見たが、最初は人馬の声を聞かなかった。賈同は帰って人に語って言うには、「曹瑋はまさに名将である」と。曹瑋は将としてその父の寛大さには及ばなかったが、自ら一家を成した。嘉祐八年、詔して仁宗廟庭に配享せしめられた。

子に曹琮あり。

曹琮は、字を寶章という。兄の曹珝は、秦王の娘興平郡主を娶った。曹琮は幼い時、主(興平郡主)に従って禁中に入り、太宗は膝の上に置き、その背を撫でて言うには、「曹氏は我が家に功あり、これもまた佳児である」と。曹彬が鎮海軍節度使を領すると、衙内都指揮使に補された。曹彬が卒すると、時に西頭供奉官・閣門祗候・勾當騏驥院・群牧估馬司に遷り、市馬の課に余剰があり、再び西上閣門副使に遷った。曹利用と婚姻を結び、曹利用が貶されると、出されて河陽兵馬都監となり、内軍器庫を領し、東上閣門使・榮州刺史に遷った。仁宗が曹琮の兄の娘を皇后に冊立すると、礼儀はすべて曹琮が主として辦じ、衛州團練使に除かれた。曹琮は因って奏上して言うには、「陛下は今まさに至公をもって天下に属そうとしておられます。臣はすでに后族に備わっておりますので、恩沢を冒して朝廷の法を乱すべきではありません。族人が敢えて縁故を頼って請託する者があれば、理(法司)に致すことを願います」と。時の論はこれを称えた。

出されて環慶路馬步軍總管・邠州知州となり、秦州防禦使・秦鳳路副都總管兼秦州知州に遷った。余剰の材木を計って倉廩を造り、古渭・冀城に大量の穀物を蓄積した。生羌がたびたび侵入して辺境を掠奪したが、曹琮は恩信をもって懐柔し、牛を撃ち酒を濾してこれを犒い、多くは内属を請うた。

寶元の初め、南郊の祀りがあり、召されて入り侍祠した。ちょうど元昊が反すると、同州觀察使に拝され、再び秦州知州となり、攻・守・禦の三策を上奏した。久しくして、兼同管勾涇原路兵馬・定國軍節度觀察留後を兼ねた。劉平・石元孫が敗れると、関輔は震恐した。曹琮は民を籍して義軍とし、兵勢を張るよう請い、ここにおいて郷の弓手数万人を選抜した。賊が山外を寇し、天都に還り、儀州・秦州の属戸を劫掠した。曹琮は騎士を発し、伏兵を設けてこれを待ち、賊はついに引き去った。曹琮は吐蕃を誘って犄角の勢いで賊を図ろうとし、西川の旧い商人を得て、意を諭させた。すると沙州鎮王子が使者を遣わして書を奉り言うには、「我は本来唐の甥、天子は実に我が舅である。党項が甘州・涼州を破って以来、漢と隔たっていた。今、首領を率いて朝廷のために賊を撃たんことを願う」と。帝は曹琮の策を善しとし、陝西副都總管・經略安撫招討副使に改め、歩軍副都指揮使に拝した。夏竦とともに鄜州に屯し、還って馬軍副都指揮使となり、病により卒した。帝は臨奠し、皇后もともに出て喪に臨み、邸宅において喪服を着せた。安化軍節度使兼侍中を贈られ、諡して忠恪といった。

曹琮は小心謹畏で、謁見を補佐するのが巧みであり、軍を統御するのに整然として厳格で、死んだ時、家に余財がなかった。子の曹牷は、皇城使・嘉州防禦使となった。曹牷の子の曹詩は、魯國大長公主を尚った。

潘美

先に、太祖は潘美に遇すること素より厚く、禅を受けると、潘美に先んじて往きて執政に会い、中外に旨を諭すよう命じた。陝西の帥袁彥は兇悍で、群小を信任し、殺戮と財貨を貪り、かつ甲兵を繕っていた。太祖はその変を慮り、潘美を遣わしてその軍を監させてこれを図らせた。潘美は単騎で往き諭し、天命すでに帰すところ、臣たる職分を修めるべきであると説くと、袁彥はついに朝廷に入った。上は喜んで言うには、「潘美は袁彥を殺さず、来朝せしめることができ、我が志を成し遂げた」と。

李重進が叛くと、太祖は親征し、石守信を招討使とし、潘美を行營都監としてこれを副えさせた。揚州が平定されると、留まって巡檢とし、鎮撫を任じ、功により秦州團練使を授けられた。時に湖南の叛将汪端がすでに平定されたが、人心未だ寧かでなかったため、潘美を潭州防禦使に授けた。嶺南の劉鋹がたびたび桂陽・江華を寇したが、潘美はこれを撃退した。溪峒の蠻獠は唐以来、時を定めず侵略し、甚だ民の患いとなっていた。潘美はその巣穴を窮め、多くを殺戮捕獲し、残りは慰撫を加え、夷落はついに平定した。乾德二年、また兵馬都監丁德裕らに従い兵を率いて郴州を攻克した。

開寶三年、嶺南を征し、潘美を行營諸軍都部署・朗州團練使とし、尹崇珂を副えとした。進んで富川を攻克し、劉鋹が将を遣わし衆万余りを率いて来援したが、戦いに遇い大破し、ついに賀州を攻克した。十月、また昭州・桂州・連州の三州を下し、西江の諸州は順次降った。潘美は功により南面都部署に移り、進んで韶州に駐屯した。

韶州は、広州の北門である。賊衆十余万がここに集まっていた。潘美は兵を揮って進みこれを乗じ、韶州はついに抜かれ、斬獲は数万に及んだ。劉鋹は窮迫し、四年二月、その臣王珪を軍門に詣らせて通好を求め、またその左僕射蕭漼・中書舍人卓惟休を遣わし表を奉って降伏を乞うた。潘美は因って上の意を諭し、彼らが戦うことができればこれと戦い、戦うことができなければ守るよう勧め、守ることができなければ降るよう諭し、降ることができなければ死に、死ぬことができなければ逃亡せよ、この五つ以外は、他のものは受けられないとした。潘美はすでに殿直冉彥袞に命じて蕭漼らを部送して京に赴かせた。

劉鋹はまたその弟の保興を遣わして衆を率いて抗戦せしむるや、潘美は直ちに士卒を率い励まして倍道を以て柵頭に趨き、広州より百二十里の地に至る。劉鋹の兵十五万は山谷に依りて堅壁を築きて待つ。潘美は因りて壘を築き士卒を休め、諸将と計りて曰く、「彼は竹木を編みて柵となす。若し火を以て之を攻めば、彼必ず潰乱せん。因りて鋭師を以て挟撃せば、万全の策なり」と。遂に丁夫数千人を分遣し、人各二炬を持ち、間道より其の柵に至る。夜に及んで、万炬俱に発し、会うに天大風、火勢甚だ熾なり。劉鋹の衆驚擾して来犯す。潘美は兵を揮いて急撃し、劉鋹の衆大敗し、斬ること数万を数う。長駆して広州に至る。劉鋹は其の府庫を尽く焚き、遂に之を克ち、劉鋹を擒えて京師に送り、露布を以て聞こゆ。即日、潘美と尹崇珂に命じて広州同知兼市舶使と為す。五月、山南東道節度使に拝す。五年、嶺南道転運使を兼ぬ。土豪周思瓊が衆を聚めて海に負いて乱を為すや、潘美之を討平し、嶺表遂に安んず。

八年、江南征討を議す。九月、潘美と劉遇等を遣わし兵を率いて先ず江陵に赴かしむ。十月、潘美を升州道行営都監と為し、曹彬と偕に往かしめ、進んで秦淮に次ぐ。時に舟楫未だ具わらず、潘美下令して曰く、「美は詔を受け、驍果数万人を提げ、必勝を期す。豈に此の一衣帯水を限りて径度せざらんや」と。遂に麾して渉らしむ。大軍之に随う。呉師大敗す。採石磯の浮梁成るに及び、呉人は戦艦二十余を以て鼓を鳴らし流れを溯り来たりて利を趨く。潘美は兵を麾いて奮撃し、其の戦艦を奪い、其の将鄭賓等七人を擒え、又其の城南の水砦を破り、舟師を分かちて之を守る。奏至るや、太祖は使いを遣わし、亟に戦棹を徙置して以て他の変を防がしむ。潘美詔を聞きて即ち軍を徙す。是の夜、呉人果たして来たりて砦を攻むるも、克つこと能わず。進んで金陵に迫る。江南水陸十万城下に陳す。潘美は兵を率いて襲撃し、之を大破す。李煜危殆甚だし。徐鉉を遣わし来たりて師の緩むことを乞う。上之を省みず、仍て諸将に詔し、促して帰附せしむ。煜遷延して決すること能わず。夜に兵数千を遣わし、炬を持ち鼓噪して来たりて我が師を犯す。潘美は精鋭を率いて短兵を以て接戦し、因りて大将曹彬と士を率いて晨夜城を攻め、百道俱に進む。金陵平ぐ。功を以て宣徽北院使に拝す。

秋、党進に副えて太原を攻めしめ、汾上に戦いて之を破り、且つ多く擒獲す。太平興国初め、南院使に改む。三年、開府儀同三司を加う。四年、将を命じて太原を征せしむ。潘美は北路都招討と為り、太原行府事を判ず。諸将を部分して進討せしめ、へい州遂に平ぐ。継いて范陽を征す。潘美を以て幽州行府事を知らしむ。班師に及び、三交都部署を兼ねしめ、留屯して以て北辺を捍がしむ。三交西北三百里、地名を固軍と為す。其の地険阻にして、北辺の咽喉たり。潘美は潜師して之を襲い、遂に其の地を拠有す。因りて粟を積み兵を屯して以て之を守る。是より北辺以て寧んず。潘美嘗て巡撫して代州に至る。既に馬に秣し蓐食す。俄にして遼兵万騎来たり寇す。塞に近づく。潘美は衆に誓い枚を銜みて奮撃し、之を大破す。代国公に封ず。八年、忠武軍節度使に改め、韓国公に進封す。

雍熙三年、詔して潘美及び曹彬、崔彥進等をして北伐せしむ。潘美独り寰、朔、雲、応等州を抜く。詔して其の民を内徙せしむ。会うに遼兵奄に至り、陳家谷口に戦いて利あらず。驍将楊業之に死す。潘美は坐して秩三等を削られ、責めて検校太保を授く。明年、復た検校太師と為す。真定府を知る。未だ幾ばくもせず、都部署、并州判に改む。同平章事を加う。数月にして卒す。年六十七。中書令を贈り、諡して武惠と曰う。咸平二年、太宗廟庭に配饗す。

子の惟徳は宮苑使に至り、惟固は西上閣門使、惟正は西京作坊使、惟清は崇儀使、惟熙は秦王の女を娶り、平州刺史と為る。惟熙の女、即ち章懐皇后なり。潘美は後鄭王に追封せらる。章懐の故を以てなり。

惟吉は、潘美の従子なり。累資して天雄軍駐泊都監と為る。戚里に連なると雖も、能く礼法を以て自ら飭い、中外に歴揚し、人咸く其の勤敏を称う。

李超 附す

子の浚、字は徳淵。進士に中り、累擢して秘書、康州知と為る。咸平中、入りて刑部詳覆、御史臺推直官と為る。屡上書して事を言い、開封府推官に遷り、緋魚を賜う。景德初め、虞部員外郎兼侍御史知雑事に拝し、金紫を賜う。澶淵に幸するに従い、頗る上疏して便宜を言う。師還るや、陳堯咨と河北を安撫せしむ。年を逾え、吏部銓を判ず。浚は憲府に居り、再歳せずして、帝寵待し、枢密直学士に擢ず。宰相王旦言う、「浚は剸劇の才有ると雖も、然れども驟に清切を歴し、時望未だ允ならず」と。真宗曰く、「朕は業に之を許せり」と。尋いで開封を知る。能く隠微を検察し、京師之を称す。累遷して右司郎中に至り、出でて秦州を知り、暴疾に卒す。浚は李宗諤と同歳同月後一日に生まる。其の卒するや亦後一日なり。衆以て異と為す。

論じて曰く、曹彬は器識を以て太祖に知られ、遂に柄用を膺く。平居、百虫の蟄するに於て猶傷つくるに忍びず、呉越に出使し、上に籍する私饋は悉く施予に用いて、一錢をも留めず。則ち其の戎を総べ征を専にするに、而して秋毫も犯さず、妄りに一人をも戮さざるは、益々信ずべきなり。潘美は素より太祖に厚く、信任を得位の初めに於て、遂に征討の託を受く。劉鋹使いを遣わし乞降す。潘美の諭す所を観るに、辞義厳正にして、奉辞伐罪の体を得たり。則ち其の威名の重きは、豈に嶺表を平げ、江南を定め、太原を征し、北門を鎮むるを待ちて後見えんや。二人皆武惠と諡し、皆配饗に与り、両家の子孫皆能く樹立し、富貴を享く。而して光献、章懐皆賢后と称せらる。偶然に非ざるなり。君子仁恕清慎を謂い、能く功名を保ち、法度を守るは、唯だ彬を宋の良将第一と為す。豈に意無からんや。若し李浚の如きは、亦材幹を以て自ら主知に結び、遂に清顕を歴る。陰徳の致す所と謂うは、理或いは然らん。