吳廷祚
世宗が即位すると、右羽林將軍に遷り、内客省使を充てられた。間もなく、宣徽北院使を拝命した。世宗が劉崇を征討する際、北面都巡檢使となった。軍が帰還すると、澶州の判を権知した。帰闕して、右監門衛大將軍を加えられた。まもなく宣徽南院使・河南府判・西京留守事知に遷った。汴河が決壊すると、廷祚に命じて丁壮数万を督しこれを塞がせた。これにより堤防を増築し、京城から臨淮に至るまで、数十日で完工した。世宗が北征する際、東京留守を権知した。この夏、河が鄭州原武県で決壊し、廷祚に命じて近県の丁壮二万余りを発してこれを塞がせた。軍が帰還し、廷祚を左驍衛上將軍・檢校太傅とし、樞密使を充てた。恭帝が即位すると、檢校太尉を加えられた。
宋の初め、同中書門下三品を加えられたが、その父の名が璋であったため、これを避けた。時に李筠が叛くと、廷祚は太祖に申し上げて言った、「潞城は険阻で、かつ太行に阻まれております。賊がこれを拠れば、破るのは容易ではありません。筠は元来勇猛で軽率です。もし速やかにこれを撃てば、必ず上党を離れて来て我が戦いを邀い、獣がその藪を失い、魚が淵を脱するが如く、これにより擒らえることができましょう」。太祖は遂に親征し、廷祚を東京留守兼開封府判とした。筠は果たして兵を率いて来たり、澤州の南で戦い、その衆は敗走した。李重進を討つに及んでも、また東京留守となった。
廷祚は謹厚で寡言、性至孝であり、母の喪に居るとき、水漿を絶つこと累日であった。学を好み、書を万余巻聚めた。家を治めること厳肅で、特に釈氏を崇奉した。
子に元輔・元載・元範・元扆・元吉・元慶がいた。元範・元慶は仕えて皆礼賓副使に至った。元吉は閤門祗候であった。元吉の子昭允は太子中舎であった。元慶の子守仁は内殿崇班であった。
子 元輔
元輔は字を正臣といい、頗る学を好み、筆札に善かった。周の広順年中、父の任により供奉官に補された。世宗が嗣位すると、洛苑使に遷った。宋の初め、左驍衛將軍・澶州巡檢を授かり、累官して定州鈐轄に至った。卒去、年四十八。子に昭德・昭遜・昭普がおり、並びに閤門祗候であった。
子 元載
時に李仕衡が華州を通判しており、常に元載が事に因って其の父を殺したことを恨み、元載が闕に至るのを伺い、人を遣わして行装を検閲し、其の関市の税を収めしむ。元載之を拒み、仕衡章を抗して其の罪を疏し、坐して郢州団練副使に責めらる。単州に移り、疾を以て左衛将軍を授かり致政す。卒す、年五十三。
子の昭明は内殿崇班となり、昭矩は太子中舎となる。
子に元扆あり。
元扆性謹譲、藩鎮に在りて憂民の心有り、賓佐を礼を以て待つ。喜んで『春秋左氏』を読み、声色狗馬は一も介意せず。得る所の祿賜は即ち親族孤貧の者に給す。将に徐州に赴かんとして、対を請い言う「臣が族属至って多し、其の祿仕に堪うる者は皆表薦し、余は皆均しく奉贍す」と。公主に乳媼有り、宮禁に入り参ずるを得たり。元扆其の去りて後妄りに請托有らんことを慮り、上に白して之を拒む。真宗深く嘉歎し、帝婿の中に独り其の賢を称す。及び歿し、甚だ悼惜す。且つ元扆疾を得たるを、本州以て聞えざるを以て、詔して其の官属を劾す。
子の守礼は六宅使・澄州刺史に至り、帝甥を以て特に和州防禦使を贈られ、守厳は内殿崇班に至る。天禧中、守厳の子承嗣・承緒を録し並びに殿直と為し、守良を内殿崇班と為し、守譲を閤門祗候と為す。
李崇矩
周祖は弘肇と素より厚く善し、即位し、弘肇の親旧を訪求し、崇矩を得たり。之に謂いて曰く「我と史公は漢の厚恩を受け、戮力同心し、共に王室を奨む。奸邪の構うる所と為り、史公卒に大禍に罹り、我も亦僅かに免る。汝は史氏家の故吏なり、我が為に其の近属を求めよ、吾将に之を恤わん」と。崇矩其の母弟福を上る。崇矩素より其の家を主り、尽く財産を籍して以て福に付す。周祖之を嘉し、崇矩を以て世宗の帳下に隷す。顕徳初、供奉官を補す。高平に従征し、功を以て供備庫副使に転じ、作坊使に改む。恭帝嗣位し、命じて崇矩をして南唐に告哀せしむ。還りて四方館事を判ず。
宋初、李筠叛く。命じて崇矩をして龍捷・驍武左右射禁軍数千人を率い河陽に屯せしめ、以て所部をして大会砦を攻めしむ。之を抜き、首五百級を斬る。澤・潞南面行営前軍都監に改め、石守信・高懐徳・羅彦瓌と同く筠の衆を碾子谷に破る。及び澤・潞平ぐるに及び、崇矩を遣わして先ず城に入り、図籍を収め、府庫を視しむ。因りて上言して曰く「上党は臣が郷里なり。臣が父尚だ槀葬せり、願わくは櫬を護り京師に帰らん」と。之を許し、賜予甚だ厚し。師還り、会に判三司張美出鎮す。右監門衛大將軍を拝し、三司使を充す。李重進に従征し、還りて宣徽北院使と為り、仍りて三司を判ず。
開宝初、太原に従征す。会に班師し、命じて崇矩を後殿と為す。常山に次ぎ、病を被る。帝太醫を遣わして診視せしめ、命じて涼車に乗り京師に還らしむ。崇矩頭を叩きて言う「涼車は乃ち至尊の御する所、是れ臣を速やかに死なしむるのみ」と。固く辞して免るるを得たり。
時に趙普が宰相となると、崇矩は娘を普の子承宗に娶せ、互いに親密に交わったが、帝はこれを聞いて快く思わなかった。鄭伸という者がおり、崇矩の門下に客として十年近く身を寄せていたが、性質が邪険で行いが悪く、崇矩は次第に彼を疎んじるようになった。伸はこれを恨みに思い、上書して崇矩の密事を告発した。崇矩は自ら弁明することができなかった。太祖は問わずに釈放し、鎮国軍節度使として出向させ、伸には同進士出身を賜って酸棗主簿に任じた。さらに器幣・襲衣・銀帯を賜った。六年、崇矩は召されて左衛大將軍となった。
崇矩の性質は純朴で温厚、口数が少なく、特に約束を重んじた。かつて史弘肇に仕え、弘肇が亡くなると、その子孫に会うたびに必ず厚く礼遇し、困窮を救った。嶺南の地に四、五年在任したが、平然として炎熱の僻地であることを気にかけなかった。従来、海を渡る者は多く船を岸につなぎ順風を待ったが、十日余り、あるいは一ヶ月もかかることがあった。崇矩は往来ともに一日で渡海し、滞留したことはなく、士卒や僮僕で従った者も皆無事であった。仏教を信奉し、僧に施す飯食は七十万に及び、仏像を造り寺院を建てることも特に多かった。また黄白術を好み、遠方からその術者を迎え、家に館して師と仰いだ。その詐りを知りながらも、なお神仙と思い、自ら試しても終に悔やむことはなかった。子に継昌がいる。
子 継昌
開宝五年、魏咸信が駙馬都尉に選ばれると、継昌は同日に如京副使に昇進した。崇矩が華州に出向すると、鎮国軍の牙職に補された。召されて右班殿直・東頭供奉官となり、大名府の商税を監察し、歳課の増加と余剰を上げた。詔により朝廷の臣で功労ある者を選ぶこととなり、府がその名を上奏した。父の喪に服し、喪明け後、西京作坊副使を授けられた。淳化年中、斉州に飢饉が多く盗賊が起こったため、登州・萊州・沂州・密州など七州都巡検使に任じられた。
継昌の性質は謹直で温厚であり、士大夫は喜んで彼と交遊した。政治を行うには寛容を尊び、赴任する地の民は彼を慕った。峡路に任じた時、上官正と連署して職務に当たった。正は残忍で殺戮を好み、かつて県の胥吏が芻糧を護送したが、地が遠く期限に遅れたため、正はこれを斬らせようとした。継昌は徐々にこれを許し、罪を赦した。鄭伸は早くに死んだが、その母は貧しく飢えており、かつて継昌のもとに来て物乞いをした。家人は競って前に出て罵り追い払おうとしたが、継昌は召し出して会い、白金百両を与えた。当時の人はこれを称えた。
遵勖が初めて公主に尚った時、詔により崇矩の子に昇格させ、昭徳軍留後・駙馬都尉を授けた。
王仁贍
太平興国初年、北院使を拝命し、兼判は従前の通りとし、検校太保を加えられた。四年、親征して太原を攻め、大内部署を充て、引き続き判留守司・三司とし、裏外巡検司の公事を総轄した。師が還ると、検校太傅を加えられた。五年、仁贍は近臣や戚里(外戚)が人を遣わして秦・隴の間で竹木を買い付け、巨大な筏を連ねて京師に至り、通過する関や渡しで詔を偽称して税を免除させ、京師に着くと役人に厚く取り入って全て官が買い上げ、その価値を倍増させて収益を得ていることを廉得した。仁贍は密かにこれを上奏した。帝は怒り、三司副使范旻・戸部判官杜載・開封府判官呂端を官吏に付属させた。旻と載は、上を欺いて竹木を買い官に入れたことを具に伏した。端は秦府の親吏喬璉のために執事者に請託した。旻は房州司戸に、載は均州司戸に、端は商州司戸に貶された。判四方館事程徳玄・武徳使劉知信・翰林使杜彦圭・日騎・天武四廂都指揮使趙延溥・武徳副使竇神興・左衛上将軍張永徳・左領軍衛上将軍祁廷訓・駙馬都尉王承衎・石保吉・魏咸信らは、いずれも竹木を販売して官に入れた罪に連座し、責められて降格または俸給を罰せられた。この年、車駕が北巡し、仁贍を大内部署とした。
七年の春、政事において僚属と矛盾し、帝の前で争論したが、仁贍は言葉に窮し、右衛大将軍に責授された。翌日、唐州防禦使に改められ、月に俸銭三十万を給された。仁贍が罪を得た際、兵部郎中・判勾院宋琪及び三司判官らは皆位階を降格された。先に、仁贍が計司(三司)を掌ること殆ど十年、下吏の奸悪を恣にし、恩寵を恃んで敢えて発言する者はいなかった。以前に范旻らの事を発覚させて以来、朝廷内外は益々その口を畏れた。時に属吏の陳恕ら数人が、概ね明察で強権を畏れぬことを自任とし、本司の事について意見が合わないことがあった。朝参の日、恕が独り班を出て状を持ちその事を奏上した。帝が詰問すると、仁贍は屈服した。帝は大いに怒り、故に譴責に及んだが、恕らは悉く褒賞され抜擢された。琪は恕らと連事し、初めは合謀して共に奏上したが、帝の前では宋琪はなお仁贍に附会したため、左遷された。仁贍は権勢を失うと、鬱々として病となり、数日で卒去した。享年六十六。
後に帝が三司の財賦について言及し、宰相趙普らに言った、「王仁贍が邦計を領すること積年、吏の奸悪を恣にし、諸場院の官は皆官銭を隠没すること千万を数えた。朕は悉くこれを罷免し、使臣を命じて分掌させた。仁贍は再三、旧額が損なわれる恐れがあると言ったが、朕はこれを拒んだ。一年も経たぬうちに、旧来千緡を得ていたものが一二万緡に、万緡を得ていたものが六七万緡になり、その利益は数倍に上った。用度が既に充足したので、仮に水旱の災害があっても、直ちに民の租税を免ずることができる。仁贍は心の中でその非を知り、頗る慚愧と恐懼の色を示したが、朕はこれを優容した。」子の昭雍は、崇儀副使となった。
楚昭輔
宋初、軍器庫使となった。太祖が親征して沢・潞を討ち、及び淮揚を征した際、共に昭輔を京城巡検とした。建隆四年、権知揚州とし、江表に使わした。還ると、左蔵庫の金帛を鉤校することを命じ、数日で完了し、条に対して旨に称した。開宝四年、帝はその心計の能を以て、左驍衛大将軍・権判三司を拝した。六年、枢密副使に遷った。九年、権宣徽南院事を命じられた。
昭輔の性質は勤勉で廉潔であり、人は敢えて私事を干すことができなかった。しかし頗る吝嗇で、前後賜与された物は万を数えたが、悉く集めて蓄えた。嘗て賓客故旧を蔵中に引き入れて縦覧させ、且つ言った、「我に汗馬の労は無く、只時運に会ってこれを得たのだ。我は国家のためにこれを守っているのであり、後には必ず上に献上するであろう。」機務を罷めてからは、悉くこれを以て良田宅を買い求め、当時の論はこれを卑しんだ。
初め、詞(父の楚暁か)が卒すると、昭輔は京師に来て、瞽者劉悟に占いを問うた。悟が筮卜すると、言った、「汝は貴人に遇うであろう。奇表で下顎の豊かな者を見れば即ち汝の主である。謹んでこれに事えるがよい。汝は貴くなるであろう。」太祖に拝謁すると、その状貌は悟の言う通りであり、遂に委質した。
李処耘
漢の初年、折従阮が府州を帥い、召し置いて門下とし、軍務を委ねた。従阮は後に鄧・滑・陝・邠の四節度を歴任したが、処耘は皆これに従った。新平に在った時、折氏の甥が闕に詣でて処耘の罪を誣告した。周祖はこれを信じ、宜禄鎮将に貶した。従阮が上表してその冤罪を雪ぐと、詔して麾下に復属させた。
顕徳年中、従阮が遺表して処耘の可用を称えた。時に李継勲が河陽を鎮守しており、詔して右職に署した。継勲は初め礼を為さなかったが、将吏を会して宴射した際、処耘が連続四発的に命中させたので、継勲は大いにこれを奇とし、堂に昇らせて母を拝させ、漸く郡務を委ね、河津を掌らせた。処耘は継勲に申し出た、「この津は往来する者に奸細が混じる恐れがあり、察しないわけにはいきません。」数ヶ月居ると、果たして契丹の諜者を捕え、これを索めると、西川・江南との蠟書があった。直ちに処耘に部送させて闕下に送らせた。
太祖が殿前親軍を領していた時、継勲が鎮を罷めると、世宗は処耘を太祖の帳下に隷属させ、都押衙に補した。時に太祖が出征し、軍を陳橋に駐めた。処耘は軍中に推戴を謀ろうとするのを見て、急ぎ太宗に白上し、王彦升と謀り、馬仁瑀・李漢超らを召して議を定め、始めて太祖に白上した。太祖はこれを拒んだ。俄かに諸軍が大いに騒ぎ、駅門に入り、太祖は退けることができなかった。処耘は機に臨んで事を決し、謀ることに中らざるはなく、太祖はこれを嘉し、客省使兼枢密承旨・右衛将軍を授けた。
朗州に軍乱あり、詔して慕容延釗に師を率いてこれを討たしめ、処耘を以て都監とす。入朝して辞す。帝自ら方略を授け、漢上に兵を会するを令す。先に、朝廷は内酒坊副使盧懷忠を遣わして荊南に使わしめ、その勢いの強弱を覗わしむ。使い還り、取り得べきの状を具に言う。ここにおいて処耘にこれを図らしむ。処耘、襄州に至り、先に閤門使丁徳裕を遣わし、仮道を荊南に求め、薪水を具えて軍に給するを請う。荊人は民庶の恐懼を以て辞し、願わくは芻餼を百里の外に供せんとす。処耘また徳裕を遣わしてこれを諭す。ここにおいて命を聴く。すなわち軍中に令して曰く、「江陵城に入るに路によらず、及び擅に民舎に入る者は斬る」と。
師、荊門に次る。高継沖、その叔父保寅及び軍校梁延嗣を遣わし、牛酒を奉って師を犒い、かつ来たりて覗わしむ。処耘、これを持て成すこと有加え、翌日先に還るを諭す。延嗣大いに喜び、継沖に報じて虞無きを令す。荊門、江陵より百余里。この夕、保寅等を召して延釗の帳中に飲宴す。処耘、密かに軽騎数千を遣わし、道を倍して前進せしむ。継沖、ただ保寅・延嗣の還るを俟つのみ。たちまち大軍の奄ち至るを聞き、すなわち惶怖して出迎う。処耘に江陵北十五里で遇う。処耘、継沖に揖し、延釗を待つを令し、すなわち親兵を率いて先に入り北門に登る。継沖の還るに比するときは、すでに兵は城中を分かち据え、荊人は手を束ねて命を聴く。すなわち江陵の卒万余りを調発し、その師と併せ、晨夜朗州に趨る。また先に別将を遣わし、麾下及び江陵の兵を分かちて岳州に趨らしめ、賊を三江口に大破し、船七百余艘を獲、首四千級を斬る。また賊帥張従富に澧江で遇い、これを撃ち破る。北に逐って敖山砦に至り、賊は砦を棄てて走り、俘獲甚だ衆し。処耘、俘うるところの体肥える者数十人を釈し、左右をして分かち啖わしめ、少壮なる者に黥し、先に朗州に入るを令す。会して暮れ、砦中に宿す。遅明、延釗の大軍継いて至る。黥せられたる者先に入城して言う、擒えられたる者は悉く大軍に啖われたりと。朗人大いに懼れ、火を放ち城を焚いて潰走す。会して朗の帥周保権、年なお幼く、大将汪端に劫われて江南の砦僧寺中に匿わる。処耘、麾下の将田守奇に師を帥いて江を渡りこれを獲しめす。ここにおいて潭州に入り、荊湖の地を尽く得たり。
初め、師の襄州に至るや、衢肆に餅を鬻ぐ者、率ね減少し、軍人の直を倍して取る。処耘、その尤も甚だしき者二人を捕え得て延釗に送る。延釗怒りて受けず、往復すること三四、処耘すなわち命じて市に斬りて徇らしむ。延釗の所部の小校司義、荊州の客将王氏の家に舎す。酒をして凶恣ならしむ。王氏、処耘に愬う。処耘、義を召して嗬責す。義また処耘を延釗に譖す。白湖に至り、処耘、軍人の民舎に入るを見る。良久くして、舎中の人大いに呼びて救いを求む。遣わしてこれを捕えしむれば、すなわち延釗の圉人なり。ここにおいてその背を鞭つ。延釗怒りてこれを斬る。ここより大いに協わず、更に相い論奏す。朝議、延釗を宿将としてその過を貰い、処耘を貶して淄州刺史とす。処耘懼れ、敢えて自ら明かさず。州に在ること数年、乾徳四年、卒す。年四十七。朝を廃し、宣徳軍節度・検校太傅を贈り、地を賜い洛陽偏橋村に葬る。
処耘は度量有り、当世の務を談ずるに善く、居常に功名を以て己が任とす。荊湖の役、処耘は近臣として軍を護り、自ら太祖の遇を受けたるを以て、報いる所以あらんと思い、故に事に臨み専制し、群議を顧みず、遂に貶せらるるに至る。後、太祖頗るこれを追念す。及び開宝中、太宗のためにその次女を納れて妃とす。すなわち明徳皇后なり。
子に継隆・継和あり、自ら伝有り。継恂は官洛苑使・順州刺史に至り、左神武大将軍を贈らる。継恂の子昭遜は供備庫使となる。処疇は官作坊使に至り、子に継凝あり。
子 継隆
継隆、字は霸図。幼くして伯父処疇に養わる。長じて、父の蔭により供奉官に補せらる。処耘が淄州に貶せられしとき、継隆もまた籍を除かる。長春節に会し、その母とともに貢に入り、旧官に復す。時に権臣に処耘と宿憾有る者、継隆の才を忌みしめむ。継隆、因って落魄して産を治めず、遊猟を以て娯しみとす。
乾徳中、蜀を平らぐ。選ばれて果・閬の監軍と為る。年方に弱冠、母その未だ事を更えざるを憂い、将に処耘の左右を以て輔けんとす。継隆曰く、「この行、児自ら立つ所あり。豈にこの輩を須いんや。願わくは以て慮いと為さざらんことを」と。母慰めてこれを遣わす。代わり還る。夜、棧道を渉り、雨滑らかにして、馬とともに墜ちて絶澗に至る。深さ十余丈、大樹に絓る。騎卒数十里外に馳せ、火を取りて綆を引き以てこれを出だす。
江南征討に会し、雄武卒三百を領いて邵州を戍り、ただ刀盾を与えらるるのみ。蛮賊数千、長沙の南に陣し、その道を截つ。継隆衆を率いて力戦し、賊遁去す。手足ともに毒矢に中り、良薬を得て愈ゆ。部卒の死傷する者三分の一。太祖その勇敢を聞きてこれを器重す。また石曦とともに兵を率いて袁州を襲い、桃田砦を破り、賊を二十里追い、潭富砦に入り、その梯衝芻積を焚く。
また李符に従い荊湖の漕運を督し、征南諸軍に給す。呉人は王師の水戦に便ならざるを以て、多く舟師を出だして餉道を断つ。継隆屡々これと闘い、糧悉く善く達す。日に四五百里を馳せ、常に往来して覗候せしむ。一日中途に虎に遇い、これを射殺す。嘗て呉の将を獲、部して闕に赴かしめしむ。項県に至りて病む。その首を斬りて献ず。太祖益ますこれを嘉す。呉人と戦い、流矢額に中る。冠する所の胄堅厚なるを以て、傷つかず。
太祖その才を察し、かつその父を追念し、抜き用いんと欲し、これに謂いて曰く、「昇州平らぎなば、捷書を持ち来たらしむべし。当に厚く汝を賞せん」と。時に内侍軍中に使する者十数輩、皆城の陥ちて捷を献ぜんことを伺う。会して機事有りて当に入奏すべきも、皆行くを願わず。而して継隆独り闕に赴かんことを請う。太宗その来たるを見、時に城未だ下らず、甚だ訝る。継隆金陵の破るるは旦夕にあるを度り、因りて途に大風晦暝に遇いしは、城破の兆なりと言う。翌日、捷奏至る。太祖召して謂いて曰く、「汝の料る所の如し」と。呉将盧絳、衆万余りを聚め、州県を攻掠す。命じて継隆にこれを招来せしむ。江南平らぎ、功を録して庄宅副使に遷す。西洛に幸するに従い、御営前後巡検使に改む。
太原征討に従い、四面提挙都監と為り、李漢瓊とともに梯衝地道を領いて城の西面を攻む。機石その旁を過ぎ、従卒仆れ死す。継隆戦を督いて怠らず。幽州を討ち、郭守文とともに先鋒を領い、契丹数千の衆を破る。及び范陽を囲み、また守文とともに先鋒と為り、その衆を湖翟河南に大いに敗る。
後に鎮州都監となり、契丹が辺境を侵犯すると、崔翰ら諸将と共にこれを防いだ。初め、太宗は陣図を授けたが、臨戦の際に不便があり、諸将は上命に背くべからずとした。継隆は言う、「事には応変があり、どうして予め定められようか。もし詔に違う罪を得るならば、私が独りで引き受けよう」と。即ち便宜に従って行動し、徐河においてこれを破った。
四年、宮苑使に遷り、媯州刺史を兼ね、三交の屯兵を護った。潘美と共に北辺に出征し、霊丘県を破り、その人々をことごとく略奪して帰還した。定州駐泊都監に改めた。嘗て兵を率いて土鐙砦より出で、賊と戦い、牛羊・車帳を多く獲た。詔書をもって褒め称えられた。
李継遷が叛くと、継隆に命じて田仁朗・王侁と共に兵を率いてこれを撃たしめた。四月、銀州の北より出で、悉利諸族を破り、数十里を追撃し、三千余級を斬り、蕃漢の老幼千余人を捕虜とし、代州刺史折羅遇とその弟埋乞の首を梟し、牛馬・鎧仗の獲るところ特に多かった。また開光谷西の杏子坪より出で、保寺・保香族を破り、その副首領埋乜已ら五十七人を斬り、銀三族の首領析八軍ら三千余衆を降し、また没邵浪・悉訛諸族及び濁輪川の東・兎頭川の西を破り、七十八人を生擒し、五十九級を斬首し、捕虜数千を数えた。師を監城に引き至ると、呉移・越移の四族が降って来たが、ただ岌伽羅膩十四族はその衆を恃んで降らなかったので、尹憲と共にこれを襲撃し、その帳幕千余を夷し、捕斬七千余級に及んだ。間もなく環州団練使を兼ね、また高陽関の屯兵を護った。
曹彬に従い幽州を征し、兵を率いて先鋒薛継昭を助け、その衆数千を固安の南で破り、固安・新城を下し、進んで涿州を克ち、矢が左股に中り、血が踵にまで流れ、契丹の貴臣一人を獲た。彬はその功を上奏しようとしたが、継隆はこれを止めた。間もなく傅潜・米信の軍が敗れて衆が潰え、ただ継隆の率いる部衆のみが軍を整えて還った。即ち継隆に命じて定州を知らしめ、間もなく詔して諸軍を分屯せしめたが、継隆は書吏にその詔を全て記録させた。十余日後、敗卒が城下に集まったが、行くべき所を知らず、継隆は詔に照らして券を与え、各々所部に赴かしめた。太宗はますますその謀略を嘉した。
端拱初年、制により侍衛馬軍都指揮使に授けられ、保順節度を兼ねた。九月、出て定州都部署となった。初め、朝議では寇が至れば、堅壁清野して戦わざるべしとしていた。ある日、契丹が驟然として至り、満城を攻め、唐河に至った。護軍袁継忠が慷慨として出師を請うたが、中黄門林延寿ら五人は詔書を以てこれを止めた。継隆は言う、「閫外の事は、将帥が専断すべきである」と。乃ち継忠と共に出兵し、数度戦ってこれを撃退した。
淳化初年、上は使者を定州に遣わし、密かに継隆に諭した、「もし契丹が再び寇すならば、朕自ら討たん」と。継隆は上奏して言う、「北辺に妖孽が跋扈してより、辺邑は多虞であり、陛下は臣の不才を知らず、疆事を任せ給う。臣敢えて軍実を講求し、戎容を震耀し、天声を奉揚して外侮を遏えざらんや。然れども臣が辞を奉じし日、曾て愚衷を瀝し、誠に蜂蟻の妖は必ず鯨鯢の戮に就くべしと。臣子の分、死生を以てこれに当たる、親巡を議せず、天歩を労せしめざらんことを望む。今聖誨を聆けば、将に親征を決せんとす。且つ一人既に行けば、百司景従し、次舎は馳せ、郡県は供饋し、労費甚だ滋し。この微妖を殄することは、将帥に責むべきなり。臣雖だ駑弱なりとも、誓って死を期す」と。この年、契丹は辺境に入らず、議は遂に止んだ。
四年夏、召還され、太宗は面と向かってこれを褒め、静難軍節度を兼ねるよう改め、再び屯所に遣り返した。時に夏州の趙保忠が継遷と謀を連ね、朝廷これを患い、また綏州の牙校高文岯が城を挙げて効順したため、河外の蕃漢が大いに擾い、継隆を河西行営都部署とし、尚食使尹継隆を都監としてこれを討たしめた。既にして継遷は遁去し、保忠を擒えて献じた。初め、裨将侯延広・監軍秦翰が議して保忠を誅し、及び出兵してこれを追うことを請うたが、継隆は言う、「保忠は机上の肉に過ぎず、天子に請うべきである。今継遷は遁去し、千里の窮磧、転餉に艱しく、威を養い重きを持すべく、軽挙すべからず」と。延広らはその言に服した。
時に密詔があり夏州を廃し、その城を隳さんとした。継隆は秦翰と弟の継和及び高継勳を遣わし、共に入奏させ、朔方は古い鎮であり、賊の窺覦する所の地、これを存すれば賊を破るに依るべく、また銀・夏両州の南界山中に保戍を増置し、その衝を扼し、且つ内属蕃部の障蔽とし、賊の糧運を断つべしと請うた。皆報いられず。
先に、詔を受けて軍糧を霊州に送るには、必ず旱海路を経ねばならず、冬至より春に至って、芻粟が始めて集まった。継隆は古原州蔚茹河路によるの便を請うたが、衆議一せず、継隆は固く執りその事を論じ、太宗はこれを許した。遂に師を率いて進み、古原州に壁し、如京使胡守澄に命じてこれを城らしめ、これが鎮戎軍である。
継隆は貴胄の出であり、騎射に優れ、音律に通暁し、感慨をもって自らを立て、深沈として城府あり、下を御するに厳格であった。『春秋左氏伝』を読むことを好み、名誉を喜び、儒士を賓礼した。太宗の朝においては、特に親信され、征行のたびに必ず機要を委ねられた。真宗は元舅の親として、軍旅の煩わしきを欲せず、近藩に優遊させ、恩礼は甚だ篤かった。しかし智謀多く用い、謙譲謹慎して身を保つことができた。明徳太后が病臥し、面会を望んだとき、帝はその往くことを促したが、継隆はただ万安宮の門に詣でて書状を拝呈しただけで、終に入らなかった。また嘗て諸王に命じてその邸に候謁させたが、継隆は湯や茶を設けず、ただ王府の従者が携える茶炉を借りて烹じて飲ませた。昭慶は名を昭亮と改め、東上閤門使・高州刺史に至った。
子に継和あり。
継和、字は周叔、少時に蔭補により供奉官となり、三遷して洛苑使となった。淳化以後、継隆は多く辺境の任にあり、継和は常に従行し、友愛は特に篤く、しばしば機密事を奏上することを命じられた。継隆が兵権を罷めるとき、手ずから唐の李勣の遺戒を書き写して継和に授け、「我が家門の墜ちざるものは汝に在り」と言った。
初め、継隆が鎮戎軍に城を築くことを請うたとき、朝廷は遂に行わなかった。継和が面奏して言うには、「平涼の旧地は、山川険阻にして、傍ら夷落を扼し、中華の襟帯たり。城とすること便なり」と。太宗はようやくこれを許した。後にまた守られなかった。咸平年中、継和がまたこれを言上したので、版築を命じ、継和にその軍を知らしめ、兼ねて原・渭・儀都巡検使とした。城が完成すると、平州刺史を加領した。貧民及び弓箭手を募り、田を墾き粟を積むことを建議し、またしばしば兵を増やすことを請うたが、朝議は許さなかった。帝は言われた、「もし緩急あれば、部署は援軍を為さず、則ち或いは失援に至らん」。継和に涇・原・儀・渭鈐轄を兼ねさせた。当時、継遷が未だ鎮まらず、張斉賢・梁顥に経略させ、継和に辺事を訪ねた。継和は上言した。
「鎮戎軍は、涇・原・儀・渭の北面を捍蔽し、また環・慶・原・渭・儀・秦の熟戸の依る所であり、まさに回鶻・西涼・六穀・吐蕃・咩逋・賤遇・馬臧・梁家諸族の通路に当たる。軍を置いて以来、辺備を拡張し、至道年中に修復したものに比べ、今や数倍に及ぶ。誠に常に歩騎五千を用いてこれを守れば、涇・原・渭州に緩急あれば、この軍に会し、力を併せて戦守すれば、賊は必ずやこの軍を過ぎることを敢えず、而して辺境の民戸は耕織を廃さず、熟戸の老幼は帰宿する所あらん。
この軍をもし廃すれば、この新城を過ぎれば、ただ皆廃壘のみ。数路より来寇すべきあり。もし隴山の下より南へ去れば、則ち三百堡より儀州製勝関に入り、瓦亭路より南へ去れば、則ち弾箏峡より渭州安国鎮に入り、清石嶺より東南へ去れば、則ち小盧・大盧・潘谷より潘原県に入る。もし潘原に至りて西すれば渭州に入り、東すれば涇州に入る。もし東石嶺東の公主泉より南へ去れば、則ち東山砦・故彭陽城西より併せて原州に入る。その余の細路は尽くし難し。もし五千の歩騎を以て、四州に各々備禦せしめ、相会合せざれば、則ち兵勢分かれて力足らずして禦ぎ難し。故にこの城を置きて要路を扼す。
即ち今、霊・環・慶・鄜・延・石・隰・麟・府等州より外の河曲の地は、皆賊に属し、もしさらに霊州を攻め陷し、西に回鶻を取れば、則ち吐蕃震懼し、皆吞噬せられ、西北辺の民は、将に駆劫を受けん。もし惜しむべきの地を以て、甘んじて賊の攻撃を受け、便ち委棄を思うて良策と為さんは、是れ則ち尽きる地を以て、已むなき求めに供し能わざるなり。
臣は議者が芻糧の調発が民を擾わすと為すを慮る。然れどもこの軍の費は、上は四川より出で、地里遥かならず、輸送甚だ易し。又、劉琮まさに屯田を興さんとす。屯田若し成れば、積み中に備えあり、則ち四州の税物も、須いずして得べし。
況んや今、継遷強盛にして、曩日に逾えたり。霊州より原・渭・儀州の界に至り、次に棨子山以西を取って環州山内及び平夏に接し、次に黄河以東以南・隴山内外を併せて儀州界に接し、及び霊州以北の河外に至るまで、蕃部約数十万帳、賊来れば以て鬥敵するに足り、賊遷未だ盛ならざれば、敢えて深入せず。今や則ち霊州北河外、鎮戎軍、環州並びに北は霊武・平夏及び山外黄河以東の族帳に徹するまで、悉く継遷に吞噬せられ、仮に一二十族あれども、残破奔迸し、事力十に二三無し。
また霊州は遠く隔絶し、平時には王府に供する尺布斗粟さえなく、今や関西の老幼は、転餉に疲弊苦しんでいる。これを棄てられない所以は、誠に賊の勢いを増大させ、継遷に西は秦・成の群蕃を取らせ、北は回鶻の健馬を掠め取らせ、長駆して南牧せしめることを恐れるからであり、どうしてこれを支えられようか。先般朝廷が臣に芻糧の道路を問うたところ、臣は蕭関から鎮戎城砦に至り、西は胡盧河川に就いて運送しようと考えた。ただ霊州の食糧が尽き、あるいは守りを保てず、清遠もまた固く保ち難く、青岡・白馬ではどうして防禦できようか、そうなれば環州がすなわち極辺となる。もし賊が蕭関・武延・石門の路から鎮戎に入れば、たとえ五七千の兵があっても恐らく敵わず、すなわち回鶻・西涼の路も断絶するであろう。
また霊州の孤壘は、戍守が最も苦しく、他の州よりも特に存恤を加えることを望む。かつ守辺の臣は、内には家属の窘匱を憂え、外には奸邪の憎毀を憂える。家を憂えば則ち不廉をなすことを思い、身を憂えば則ち退跡をなすことを思う。不廉を思えば則ち官局は治まらず、退跡を思えば則ち諸事に心がなく、その奮いて身を顧みず、令出でて惟れ行わるることを欲することは、得られない。まことに賞が厚くなく恩が深くないによる。賞厚ければ則ち人に内を顧みる憂いがなく、恩深ければ則ち士に死を効する志がある。古の帝王は皆爵賞を懸けて英俊を抜き、ついに大功を成すことができた。
およそ君子は名を求め、小人は利に殉ず。臣が児童の時、嘗て斉州防禦使李漢超が関南を守り、斉州所属の州城の銭七八万貫を悉く与えられ、格別の賞賚は動もすれば千万に及んだと聞いた。漢超はなおも私的に榷場を販売し、商算を免れんことを図ったが、当時この事を太祖に達する者があった。太祖は即ち詔して漢超の私物の所在する所は悉く関征を免じた。故に漢超は居れば則ち生を営み、戦えば則ち死を誓い、資産厚ければ則ち心に係る所があり、必ず死戦すれば則ち動くに成績があった。故に太祖の世を終えるまで、一方はこれがために安静であった。今漢超の材に如くものも固より少なくない。もし皇祖の遺法を用い、英傑を選択して霊武を守らせ、高官厚賞を吝しまず先ず与え、往時のように、半ばは俸給をその家に給し、半ばは俸給をその用に資し、然る後に潔廉の節を責め、必勝の功を保つことができるであろう。
また軍事は内で制するため、時に権宜を失うことがある。漢の時、渤海に盗賊が起こり、龔遂が太守となったが、尚お便宜に従事することを聴いた。かつ渤海は漢の内地であり、盗賊は国の飢民である。況んや霊武は絶塞、西鄙の強戎であって、また渤海の比ではない。もしその専制を許せば、則ち事機を失わず、仮に営私して利を冒し、民政が挙がらなくても、これも問わないことを乞う。将を用いる術は、他の官と異なり、貪・勇・知・愚、全て皆録用するが、ただ法を寛にして人の慕う所あらしめれば、則ち久居する者は安心して体を展べ、材を竭くし慮を尽くし、どうして霊州の守れないことを患えようか。
また朝廷が青塩を禁じたのは、甚だ允当である。あるいは議者がその禁を開こうとしていると聞く。かつ塩が中土に入らないことは、賊を困窮させる良策である。今もし糧食が蕃界から来るからには、塩禁では賊を困窮させられないと言うなら、これは塩を売り賄を行った者の妄談である。蕃粟が賊境に入らず、辺廩に入ることは、その利が甚だ明らかである。況んや漢地は青塩を食さず、熟戸も蕃界に入って博易せず、禁じているのは単に糧食だけでなく、兵甲皮幹の物に至るまで、その名益々多い。朝廷の雄富をもってしても、なお山を摘み海を煮ると言い、一年商利が入らなければ、あるいは軍需を欠く。況んや蕃戎の頼るところは、ただ青塩に在り、これを禁じれば則ち彼ら自ら困窮するであろう。前詔を固く守ることを望み、便なりとす。」
五年、継和は兵を領いて天麻川において衛埋族を殺した。ここより壟山外の諸族は皆恐れおののき内附し、要害の処に族帳砦柵を置き、以て戍守としたいと願った。継和はこれにより涇原部署を鎮戎に移して軍勢を壮んにすることを請い、また環・延に道を開いて応援とすることを請うた。真宗はその戎事に精を込めることを甚だ嘉した。戎人は警巡の馳備を伺い、ある夜、長壕を塞ぎ、古長城を越えて城下に抵った。継和は都監史重貴と出兵してこれを防ぎ、賊は険を拠して再び城隍に突き、陣を列ねて接戦した。重貴は重創を中て、賊を敗走させ、甲騎を大いに獲た。詔有りて嘉獎し、別に良薬・縑帛・牢酒を出して賜う。
継和は武芸に習熟し、方略を談ずるを好み、頗る書を知り、至る所で幹治した。しかし性剛忍にして、下を御するに恩少なく、部兵は終日甲を擐え、常に寇の至るが如くし、及び較閲の際には、杖罰過当で、人多くこれを怨んだ。真宗は屡々勖励を加え、且つこれを覆護した。嘗て上言して曰く、「保捷軍は新たに屯所に到り、亡命する者多し。優に緡錢を賜うことを請う。苟くも亡逸あれば、即ち軍法に按ずる。」旧制では、凡そ軍中に賜うものは、奏請に縁るものであっても、特旨を以て給う。上は継和の峻酷なるを以て、軍士にその恵を感ぜしめんと欲し、特ちにその奏したる所を詔書中に著して加賜せしめた。且つ情状に計って罪を定むるには、自ら常制有り、その請を許さず。終に辺防の地を以て、人の用いられざるを慮り、張志言を遣わして代え還らしめた。既に路に就くと、軍中は皆その復来を恐れた。
六年、また出でて幷・代鈐轄となった。将に行かんとして請対し、兵を領いて去り辺壘を按度せんと欲した。上曰く、「河東は岩険にして、兵甲甚だ衆し。賊若し入寇すれば、ただその帰路を邀えば、自ら勝ちを致すべし、必ずしも兵を率いて往くには及ばず。」
弟の継恂は、洛苑使・順州刺史に至り、左神武大将軍を贈られた。子の昭遜は供備庫使となった。
論ずるに、風雲の会に乗じ、日月の光に依り、感慨発憤して忠を効し駿奔し、居ては要任に備わり、出でては重兵を握る、かくの如くにして令名を克く終うるは、斯れ固より偉とすべきなり。