趙普
周の顯德初年、永興軍節度使劉詞が彼を従事として召し、劉詞が卒すると、遺表を以て趙普を朝廷に推薦した。世宗が淮上に用兵した時、太祖が滁州を抜くと、宰相范質が趙普を軍事判官に奏上した。宣祖が滁州で病臥すると、趙普は朝夕薬餌を奉じ、宣祖はこれにより宗族の分として遇した。太祖が嘗て彼と語り、その才を奇とした。時に盗賊百余人を捕らえ、棄市に処すべきところ、趙普は無辜の者があるかと疑い、太祖に啓上して訊問させたところ、全活を得る者が多かった。淮南が平定されると、渭州軍事判官に補任された。太祖が同州節度使を領すると、推官として召し;宋州に移鎮すると、掌書記に上表して任じた。
太祖が北征して陳橋に至り、酒に酔って帳中に臥していた時、衆軍が推戴し、趙普と太宗が扉を押し開けて入り告げた。太祖は欠伸しながら徐かに起き上がり、衆軍は甲を擐ぎ刃を露わし、喧噪して麾下に擁した。禅を受けるに及び、佐命の功を以て、右諫議大夫を授け、樞密直學士を充任させた。
太祖は数度微行して功臣の家を訪れたが、趙普は毎度退朝すると、軽易に衣冠を改めなかった。ある日、大雪が夜に迫り、趙普は帝が出ないだろうと思った。久しくして、叩門の声を聞き、趙普は急いで出ると、帝が風雪の中に立ち、趙普は惶恐して迎え拝した。帝は曰く、「既に晉王と約した」。やがて太宗が至り、重ねた敷物を地に設けて堂中に座し、炭を熾して肉を焼いた。趙普の妻が酒を行くと、帝は嫂と呼んだ。因って趙普と太原攻略を謀った。趙普は曰く「太原は西北二面に当たり、太原が既に下れば、則ち我が独りこれを当たる。諸国を削平するを待つに如かず。然らば則ち弾丸黒子の地、将に安くか逃れん」。帝は笑って曰く、「吾が意正に此の如し。特ち卿を試みたるのみ」。
五年春、右僕射・昭文館大學士を加えられた。俄かに母の喪に遭い、詔して起復して視事させた。遂に帝を勧めて使者を諸道に分詣させ、丁壮を徴発し名籍に載せて京師に送り、守衛に備えさせた;諸州に通判を置き、銭穀を主掌させた。これにより兵甲は精鋭となり、府庫は充実した。
趙普は政を行うこと頗る専にして、廷臣多くこれを忌んだ。時に官は秦・隴の大木の私販を禁じていたが、趙普は嘗て親吏を遣わして屋材を市わせ、巨大な筏を連ねて京師に至らせ邸第を造営した。吏はこれに乗じて密かに大木を盗み、趙普が市った貨と偽称し、都下で売った。権三司使趙玭が廉察して得てこれを上聞した。太祖は大怒し、追班を促して令し、将に制を下して趙普を逐わんとしたが、王溥の奏上で解かれた。
故事として、宰相・樞密使は毎度長春殿で候対し、同じ廬中に止まった。上は趙普の子承宗が樞密使李崇矩の女を娶ったと聞き、即ち別れさせよと命じた。趙普はまた隙地を私的に尚食の蔬圃と交換してその居宅を広め、また邸店を営んで利を図った。盧多遜が翰林學士となり、召対に因って屡々その短を攻撃した。時に雷有鄰が登聞鼓を叩き、堂後官胡贊・李可度が賄賂を受け法を曲げたこと及び劉偉が偽りの攝牒を作って官を得たこと、王洞が嘗て賄賂を李可度に納めたこと、趙孚が西川の官を授かりながら病気と称して上らないこと、これらは皆趙普が庇ったとを訟えた。太祖は怒り、御史府に下して按問させ、悉く罪に当て、雷有鄰を秘書省正字とした。趙普への恩寵は益々替わり、始めて参知政事が趙普と交替で印を知り、押班し、奏事することを詔し、以てその権を分かたせた。未だ幾ばくもせず、河陽三城節度・檢校太傅・同平章事として出された。
太平興國初年に入朝し、太子少保に改め、太子太保に遷った。頗る盧多遜に毀謗され、奉朝請数年、鬱々として志を得ず。時に柴禹錫・趙鎔らが秦王廷美が驕恣で、陰謀を窃かに発そうとしていると告発した。帝が召して問うと、趙普は枢軸に備えて姦変を察したいと願い、退いてまた上書し、自ら太祖・昭憲皇太后の顧託の事を預かって聞いたことを陳べ、言葉甚だ切至であった。太宗は感悟し、召見して慰諭した。俄かに司徒兼侍中を拝し、梁國公に封じられた。先に、秦王廷美の班は宰相の上にあったが、ここに至り、趙普が勲旧であり、再び元輔に登ったことを以て、表を上ってその下に居ることを乞い、従われた。及び涪陵公(廷美)の事が敗れ、盧多遜が南遷したのは、皆趙普の力によるものであった。
八年、武勝軍節度・檢校太尉兼侍中として出された。帝は詩を作ってこれを餞い、趙普は奉じて泣いて曰く、「陛下臣に詩を賜う、石に刻み、臣が朽骨と共に泉下に葬らん」。帝はこれに動容した。翌日、宰相に謂って曰く、「趙普は国家に功あり、朕昔と共に遊びしが、今や歯髪衰えたり、枢務をもって煩わすに容れず、善地を択びて処し、詩什を以て意を導けり。趙普感激して泣下し、朕も亦た之が為に堕涙せり」。宋琪対えて曰く、「昨日趙普中書に至り、御製の詩を執り涕泣し、臣に謂いて曰く『此生の余年、上答する階無し、庶幾くは来世に犬馬の力を効うことを得ん』と。臣昨趙普の言を聞き、今復た宣諭を聞く。君臣始終の分、両全と謂うべし」。
伏して拝見するに、今春出師し、以て関外を収復せんとし、屡克捷を聞き、深く輿情を快くす。然れども晦朔屡更し、薦しく炎夏に臻り、飛輓日繁く、戦闘未だ息まず、師老い財費え、誠に益無きなり。
伏して惟うに、陛下自ら太原を翦平し、閩・浙を懐徠し、諸夏を混一し、大いに英声を振るい、十年の間、遂に広済に臻る。遠人服せざるは、古より聖王これを度外に置く、何ぞ介するに足らん。窃かに慮る、邪諂の輩、睿聡を蒙蔽し、無名の師を致し興し、深く不測の地に蹈むを。臣載典籍を披き、頗る前言を識り、窃かに見る、漢武の時主父偃・徐樂・嚴安の上書する所及び唐の相姚元崇の明皇に献ずる十事、忠言至論、挙げて行うべし。伏して望む、万機の暇に、一たび賜い観覧せられんことを、其の失未だ遠からず、悔ゆると雖も追うべし。
臣窃かに念う、大いに驍雄を発し、百万の衆を動揺せしめ、得る所少なく、喪う所多し。又聞く、戦う者は危事、其の必勝を保ち難く、兵は兇器、不虞を深く戒むと。繫る所甚だ大、思わざるべからず。臣又聞く、上古の聖人、心に固必無く、事凝滞せず、理は変通を貴ぶと。前書に「兵久しくして変を生ず」の言有り、深く慮るべし、苟くも或いは更に稽緩を図らば、転じて機宜を失わん。旬朔の間、時秋序に渉り、辺庭早く涼しく、弓勁く馬肥え、我が軍久しく困しむ、切に此の際を慮る、或いは指蹤を誤らんことを。臣方に寵を冒して藩を守る、何ぞ敢えて言を興して衆を沮がんや。蓋し臣已に日西山に薄く、余光幾ば無し、恩に酬い国に報ゆるは、正に此の時に在り。伏して望む、速やかに詔して班師せしめ、敵を玩ぶことを容れざらんことを。
臣復た全策有り、聖聡に達せんことを願う。望むらくは陛下精しく御膳を調え、聖躬を保養し、彼の疲氓を挈き、之を富庶に転ぜしめんことを。将に見ん、辺烽警めず、外戸扃がず、率土仁に帰し、殊方異俗、相率いて化に嚮かん、契丹独り将に焉くにか往かん。陛下の計此に出でず、乃ち邪謅の徒を信じ、契丹主少なく事多しと謂い、以て武を用い、以て陛下の意に中らんとす。陛下禍を楽み功を求め、以て万全と為す、臣窃かに以て不可と為す。伏して願わくは陛下其の虚実を審らかにし、其の妄謬を究め、奸臣の国を誤るの罪を正し、将士の燕を伐つ師を罷めしめんことを。非特多難王を興すのみに非ず、抑も諫に従えば則ち聖なり。古の人尚お屍諫を聞く、老臣未だ死せず、豈に百諛して安身の計と為し、言わざらんや。
帝手詔を賜いて曰く、
朕昨者師を興し将を選び、只だ曹彬・米信等をして雄・霸に頓せしめ、糧を裹み甲を坐して軍声を張らしむ。一両月の間山後の平定を俟ち、潘美・田重進等兵を会して進み、直ちに幽州に抵り、然る後に険固を控扼し、旧疆を恢復せん、此れ朕の志なり。奈何ぞ将帥等成算に遵わず、各其の見る所を騁し、十万の甲士を領いて塞を出で遠く闘い、速やかに其の郡県を取り、更に師を還して輜重を援け、往復労弊し、遼人の襲う所と為る、此れ責は主将に在り。
況んや朕百王の末に踵き、粗く承平を致す、蓋し彼の民の辺患に陷るを念い、将に焚を救い溺を拯わんとし、武を黷して兵を佳とするに匪ず、卿当に之を悉くすべし。疆場の事は、已に之を備えたり、卿憂うる勿れ。卿は社稷の元臣、忠言苦口、三たび来奏を復し、嘉愧実に深し。
普表を上げて謝して曰く、
昨天兵の久しく塞外に駐し、未だ恢復克わず、漸く炎蒸に及び、事危く勢迫るに及び、輙ち狂狷を陳べ、甘んじて憲章を俟つ。陛下特ち衷誠を鑒み、親しく宸翰を紆め、密かに聖謀を諭す。臣窃かに命師して罪を討つを審らかにす、信に上策と為し、将帥能く成算に遵わば、必ず平定すべし。惟だ其の天心に副わざるを以て、茲に敗事す。今既に辺鄙に備え有り、更に何をか虞れん。況んや陛下登極十年、坐して大業を隆くし、一物の失する所無く、万国の咸く寧きを見る。宜しく端拱穆清し、神を嗇し志を和し、自ら遠く九皇を継ぎ、俯して五帝を観るべし。豈に必ずしも辺を窮め武を極め、契丹と勝負を較べんや。臣素より壮志を虧き、況んや衰齢に在り、功伐無きと雖も、忠純を竭さんことを願う。
観る者咸く其の忠を嘉す。四年、山南東道節度に移り、梁国公より改めて許国公に封ぜらる。会に詔下りて親耕籍田す、普表を上げて入覲を求め、辞甚だ懇切なり。上惻然として宰相に謂いて曰く、「普は開国の元臣、朕の尊礼する所、宜しく其の請に従うべし。」既に至り、数四慰撫す、普嗚咽流涕す。陳王元僖上言して曰く、
臣伏して見る、唐の太宗に魏玄成・房玄齢・杜如晦有り、明皇に姚崇・宋璟・魏知古有り、皆以て輔弼に任じ、心膂に委ね、帝道を財成し、九区を康済し、宗祀延洪し、史策昭煥す、良く登用其の人を得るに由るなり。今陛下万方に君臨し、庶政に焦労し、宵衣旰食、民を以て心と為す。歴考前王、誠に譲る所無し、而るに輔相の重き、未だ曩賢に偕わず。況んや邦を為むは人に任ずるに在り、人を任ずるは公正に在り、公正の道は賞罰に先んずる莫く、斯れ政の大柄なり。苟くも賞罰匪当なれば、淑慝分かたず、朝廷の紀綱、漸く隳紊に致らん。須らく公正の人をして衡軸を典めさせ、躬を直くして敢えて言い、以て得失を弁ぜしめ、然る後に彝倫式序し、庶務用て康からん。
伏して見る、山南東道節度使趙普は、開国の元老、参謀締構し、厚重識有り、妄りに恩顧を希求して禄位を全うせず、私に人情に徇いて名望を邀えず、此れ真に聖朝の良臣なり。窃かに聞く、憸巧の輩、朋党比周し、衆口嗷嗷、直を悪み正を醜し、遐徼に斥逐せざらんことを恨み、以て其の心を快くせんとす。何者ぞ、蓋し陛下の再び普を用いんことを慮るなり。然れども公讜の人、咸く願わくは陛下復た以て政を委ね、君心を啓沃し、聖化を羽翼せしめんことを。国に大事有らば、之をして之を謀らしめ、朝に宏綱有らば、之をして之を挙げしめ、四目未だ察せざれば、之をして之を明らかにし、四聡未だ至らざれば、之をして之を達せしめん。人を官するに材を以てすれば、則ち禄を窃む無く、君を致すに道を以てすれば、則ち苟くも容るる無し。賢愚洞分し、玉石殊致し、当に朋党を結び以て声勢に馳騁する者をして気索せしめ、巧佞を縦え以て儕類を援引する者をして道消せしむべし。沈冥廃滞進むを得、名儒懿行顕わるを得、大政何をか挙げざるを患えん、生民何をか康からざるを患えん、期月の間を窬えず、清静の治に臻る可し。臣知慮庸浅、発言魯直なり。伏して望む、陛下旁ら群議を采り、俯して物情を察し、苟くも用うるに失わざれば、実に邦国の大幸なり。
耤田の礼畢り、太宗呂蒙正を相とせんと欲し、其の新進を以て、普の旧徳を藉りて之が表率と為し、冊を以て太保兼侍中に拝す。帝之に謂いて曰く、「卿は国の勲旧、朕の毗倚する所、古人其の君の堯・舜に及ばざるを恥づ、卿其れ念えよ。」普頓首して謝す。
時に枢密副使趙昌言は胡旦・陳象輿・董儼・梁顥と厚く善し。会に旦翟馬周をして封事を上せしめ、時政を排毀す、普深く之を嫉み、馬周を流し、昌言等を黜くことを奏す。鄭州団練使侯莫陳利用驕肆僭侈し、大いに不法を為す、普廉めて之を得、尽く条奏を以てす、利用坐して商州に流さる、普固く之を誅せんことを請う。其の悪を嫉み強直なる皆此の類なり。
李継遷の辺を擾ますや、普趙保忠を以て復た夏台の故地を領せしめ、因って之を図らしむるを建議す。保忠反って継遷と同謀して辺患と為る、時論普に帰咎し、頗る同列に窺わるる所と為り、専決を得ず。
旧制では、宰相は未の刻に邸宅に帰るが、この年は大変暑かったので、特に趙普に限り夏の間は午の刻に私邸に帰ることを許した。翌年、朝謁を免じ、ただ毎日中書に赴いて政務を視るのみとし、重大な政事があれば召し出して対面させた。冬、病にかかり休暇を請うと、皇帝はたびたびその邸に臨んで見舞い、賜与を加増した。趙普はついに病が重いと称し、三度上表して致仕を求めたので、皇帝はやむなくこれを許し、趙普を西京留守・河南尹とし、前同様に太保兼中書令を守らせた。趙普は三度上表して懇ろに辞譲した。皇帝は手詔を賜って言うには、「開国の旧勲は、卿ただ一人のみ、他の者とは異なる。固く辞譲することなかれ。出発の日が定まったなら、まさに邸に臨んで卿と別れを交わさん」と。趙普は詔を捧げて涙を流し、ついに病をおして対面を請うた。座を賜わり日影が移るほど長く、多く国家の事に言及したので、皇帝はこれを嘉して受け入れた。趙普が出発せんとする時、皇帝はその邸に臨んだ。
卒去する前の年、趙普の誕生日に、皇帝はその子の承宗を遣わして器幣・鞍馬を賜わったが、承宗が復命して間もなく卒去した。翌年、趙普はすでに中書令を罷めていたので、故事により誕生日の賜与はなかったが、特に趙普の甥婿である左正言・直昭文館の張秉を遣わして礼物を賜わった。趙普はこれを聞き、承宗を追悼したため、張秉が到着しないうちに趙普の病は重篤になった。先だって、趙普は親しい吏の甄潜を上清太平宮に遣わして祈祷させたところ、神が降りて語って言うには、「趙普は宋朝の忠臣である。久しく病に罹っているが、また冤累もあるのだ」と。甄潜が帰ると、趙普は病をおして冠帯し、中庭に出て神の言葉を受け、涕泗して感咽した。この夜に卒去した。
皇帝はこれを聞いて震悼した。近臣に言うには、「趙普は先帝に仕え、朕とは旧知であり、大事を断ずることができた。以前、朕と嘗て不和があったことは、衆人の知るところである。朕が君臨して以来、常に優礼を以て接したが、趙普もまた傾き竭くして自ら効し、国家に尽くして忠を尽くした。真に社稷の臣である。朕は甚だこれを惜しむ」と。よって涙を流すと、左右の者も感動した。五日間朝政を廃し、出次して哀悼の意を表した。尚書令を贈り、真定王を追封し、諡して忠献と賜い、皇帝自ら神道碑銘を撰し、親しく八分書で書いてこれを賜わった。右諫議大夫の范杲を遣わして鴻臚卿を摂行させ、喪事を護らせた。賻として絹・布をそれぞれ五百匹、米・麺をそれぞれ五百石賜わった。葬儀の日、有司は式の如く鹵簿鼓吹を設けた。二人の娘は皆笄年であり、趙普の妻の和氏が尼となることを願うと言ったので、太宗は再三諭したが、その志を奪うことができなかった。長女に志願の名を賜い、智果大師の号を賜い、次女に志英の名を賜い、智圓大師の号を賜った。
初め、太祖が微賤であった時、趙普はこれに従って交遊した。天下を有するに至ってから、趙普はたびたび微時の間に不足していた事を言上した。太祖は豁達であり、趙普に言うには、「もし塵埃の中に天子・宰相を識別できるなら、人は皆それを探し求めるであろう」と。この後は再び言わなかった。趙普は若くして吏事に習熟し、学術には乏しかったが、宰相となってから、太祖は常に読書を勧めた。晚年には手から書巻を離さず、毎日私邸に帰ると、戸を閉めて篋を開けて書を取り出し、終日これを読んだ。そして翌日政務に臨むと、処断は流れる如くであった。薨去した後、家人が篋を開けて中を見ると、『論語』二十篇であった。
趙普の性格は深沈として岸谷があり、多く忌み嫉むところがあったが、天下の事を以て己が任とすることができた。宋初、宰相の位にある者は多く齷齪として循黙であったが、趙普は剛毅果断であり、比する者なかった。嘗てある者を某官に推薦して奏上したが、太祖は用いなかった。趙普は明日またその者を奏上したが、やはり用いられなかった。明日、趙普はまたその者を以て奏上すると、太祖は怒り、奏牘を引き裂いて地に投げつけた。趙普は顔色を変えず、跪いてこれを拾い集めて帰った。後日、古い紙を補綴して、初めの如く再び奏上したので、太祖はようやく悟り、ついにその者を用いた。また、群臣で官を遷すべき者があったが、太祖は平素その者を憎んでおり、与えようとしなかった。趙普は堅くこれを請うたので、太祖は怒って言うには、「朕は固より官を遷さぬ。卿はどうするのか」と。趙普は言うには、「刑は悪を懲らしめるため、賞は功に酬いるためであり、古今を通ずる道である。かつ刑賞は天下の刑賞であり、陛下の刑賞ではない。どうして喜怒を以てこれを専断できようか」と。太祖は大いに怒り、立ち上がった。趙普もまたこれに従った。太祖が宮中に入ると、趙普は宮門に立ち、久しく去らなかった。ついに許可を得た。
太宗は弭徳超の讒言に入り、曹彬に不軌の疑いをかけたが、趙普が再び宰相となった時、曹彬のために弁明し雪冤を保証し、事状は明白となった。太宗は歎じて言うには、「朕の聴断明らかならず、ほとんど国事を誤らんとした」と。即日に徳超を竄逐し、曹彬には旧の如く遇した。
祖吉が郡を守って姦利を為し、事が発覚して獄に下され、案劾の爰書が未だ整わないうちに、郊祀の礼が近づいた。太宗はその貪墨を憎み、中使を遣わして執政に諭旨を伝えさせ、「郊赦において特に祖吉を赦すな」と言った。趙普は奏上して言うには、「官に敗れて罪に当たる者は、正しく刑辟に処すべきである。しかし国家が郊祀を卜し、類を肆して、天地に対越し、神明に告げるのに、どうして祖吉のために陛下の赦令を廃することができようか」と。太宗はその言葉を善しとし、やめて取りやめた。
趙普の子の承宗は、羽林大将軍となり、潭州・鄆州の二州を知り、皆名声があった。承煦は成州団練使となった。弟に趙固・趙安易がいる。趙固は都官郎中に至った。
弟の趙安易。
安易は、字を季和という。建隆初年、府州録事参軍を摂行し、節度使の折徳扆がその清幹を言上したので、遂に真除を命じられた。再び遷って河南府推官となった。時に趙普が宰相の位にあったため、十年間赴任しなかった。太平興国年間、華州・邢州の二鎮の掌書記を歴任した。芻糧を部送して太原城下に至り、監察御史に拝し、興元府を知った。殿中侍御史に転じ、緋魚袋を賜わった。先だって、両川の民で税を納める者は鉄銭で銅銭に替えていた。安易はその不便を言上し、鉄銭の納入を許すよう請うたので、詔してこれに従った。九年、起用されて宗正少卿に拝し、定州を知った。時に曹璨を以て州知事とすることとなり、安易を通判に徙めたが、間もなく代わって帰京した。また上表して外任を求めたので、耀州知事を命じたが、留めて派遣せず、北辺の事を按視するよう命じた。
淳化年間(990-994年)、かつて蜀地において鉄銭を用い、銅銭の数倍に相当し、庶民の商取引が甚だ不便であることを理由に、劉備の時代に西川で大銭を鋳造し、十を以て百に当てた例に倣うよう建議した。都省に下して集議させたところ、吏部尚書宋琪らが言うには、「劉備の時代は銭が少ないことを患い、それ故に改鋳したのである。今、安易の請うところは、かえって銭が多いことを患うもので、永続の計ではない」と。しかし安易は論請して止まず、なお工人を募って大銭百余りを鋳造して進上した。極めて精巧優美であったが、間もなく殿の階段に落ちて皆砕けた。これは熔鑠してその精液を尽くしてしまったためである。太宗は彼を詰問せず、かえってその用心を嘉し、金紫(金魚袋と紫袍)を賜い、かつ彼に鋳造を主管させた。やがて大いに欠損消耗が生じ、一年間に得るのはわずか三千余緡に過ぎず、衆議が喧然となり、遂にこれを罷めた。事は『食貨志』に詳しい。
襄州、廬州の二州の知事を歴任し、そのまま宗正卿に昇進した。朝廷に帰還し、再び卿の職務を管轄した。当時、宗室の属籍が整備されていなかったため、纂録を奏請した。咸平初年(998年)、梁周翰と安易に同修を命じた。安易は書伝に少しばかり渉猟したが、性質は強情で狠く、世務を談ずることを好んだが、疎闊で用いるに足らなかった。初め、太宗が農政について問うた時、安易は井田の制を復活するよう請うた。また、その家が本来燕薊の地であったため、辺境の事について多く諮問された。
景德初年(1004年)、礼官が明徳皇太后の霊駕発引について詳定し、京師の壬の地に仮に攢宮(仮埋葬所)を設け、礼に依って懸重を埋め、神主を升祔(祖廟に合祀)することとした。安易が上言した。
『礼記』に云う、『既に虞祭をして主を作す』と。虞とは、既に葬った後に吉祭を設けることである。未だ葬らざれば、則ち未だ虞主及び神主を立てざることを明らかにする。それ故に周の制度では、ただ木を穿ちて懸重と為し、以て神霊を主とす。王后は七月にして葬る。則ち懸重を埋め、玄堂(墓室)を掩い、凶仗・轀輬車・龍輴の類を柏城で焚き終わって後、始めて虞主を立てることができる。吉仗は京に還り、九祭を備え、再び虞主を埋めて、然る後に神主を立て、廟室に升る。曠古より皇朝に至るまで、祖宗の陵廟を奉じてこの礼を行ってきた。何ぞ今日に至りて典章に違い、苟且にも升祔し、方や権攢に妄りに神主を立て、未だ大葬せざるに輒ち懸重を埋めんとするや。且つ棺柩未だ園陵に帰せざれば、則ち神霊豈に太廟に入らんや。柰何ぞ柏城未だ凶仗を焚かざるに、則ち凶穢を以て祖宗に唐突せんとする。孝章皇后の近例に約し、但だ壬の地に権攢し、未だ神主を立てて升祔せず、凶儀一切を祗奉することを望む。丙午年(1006年)を俟ち、霊駕西へ園陵に去り、東へ回って廟に祔するに及ぶ。斯くの如くすれば、則ち顛倒を免れ、国家に不利ならざらん。
乃ち詔して有司に再加詳定せしめた。判礼院孫何らが上言した。
安易又云う、『昔日、群官の尽く公を奉じ、二帝諸后を奉じて、並びに先ず山陵し、後に廟に祔するを見る。今日、群官の顛倒し、明徳皇太后を奉じて、独り先ず廟に祔し、後に園陵するを見る』と。今詳らかにするに、当時先に山陵し後に廟に祔したのは、正に年月便順なるが為め、別に陰陽の拘忌無きなり。今は則ち年月未だ便ならず、理として宜に従うに合う。未だ重を埋めざれば則ち礼文備わらず、未だ升祔せざれば則ち廟祭猶お闕く。須らく変礼に従い、以て聖情に合すべし。兼ねて明徳皇太后将に権攢に赴かんとす。而るに安易の称する所の『柏城未だ凶仗を焚かざれば、則ち凶穢を以て祖宗に唐突す』とは、『檀弓』を按ずるに云う、『喪の朝するは、死者の孝心に順うなり』と。鄭玄の注に云う、『柩を廟に遷すを謂う』と。又云う、『其の哀其の室を離るるなり、故に祖考の廟に至りて後に行う。商は朝して祖に殯し、周は朝して遂に葬る』と。今亦た遥かに宗廟に辞して後に行う。豈に『礼経』の出づる所を以て顛倒と目し、吉凶の儀を具えるを以て唐突と謂うべけんや。
況んや安易は訐直を以て自ら負い、詆毀する所は良善に非ざる無く、清要を以て自ら高しとし、尚ぶ所は鄙俗に非ざる無し。名宦の志は、老いて益々堅く、詩書の文は、懵として習わず。本院の議する所は、並びに明らかに典故を称し、旁ら時宜を考う。権に従うと曰うと雖も、粗く亦た古を稽う。議無きに依り施行を請う。
論じて曰く、古より創業の君、其の潜居の旧臣、策を定め命を佐け、事を樹て功を建つるは、一代に一代の才あり、未だ嘗て乏しきこと無し。其の始終一心、休戚同体、貴きは国卿たり、親しきは家相の若きを求むるに、宋太祖の趙普に於けるが若きは、謂うべし難きかな。陳橋の事、人謂う、普及び太宗先ず其の謀を知ると、理勢或いは然らん。事定まった後、普は一の枢密直学士を以て新朝に立ち数年、范・王・魏の三人相を罷め、始めて其の位を継ぐ。太祖功に酬いるに亟せず、普政を得るに亟せず。其の揆に当るに及び、献可替否、惟だ義に従い、未だ嘗て勲旧を以て自ら伐たず。武を偃げて文を修め、罰を慎みて斂を薄くす。三百余年の宏規、平昔素より定めたるが若く、一旦挙げて之を措く。太原・幽州の役、終身軽動を以て戒めと為し、後皆其の言の如し。家人其の国大議を断ずるを見るに、門を閉じて書を観、方冊に取决す。他日窃かに視るに、乃ち『魯論』(論語)なり。昔傅説が商の高宗に告げて曰く、「古訓に学びて乃ち獲有り。事古に師わずして、以て永世に克つは、説の攸に聞く所に匪ず」と。普は謀国の元臣たり。乃ち能く往哲を矜式し、聖模を蓍龜す。宋の治を為す、気象醇正、此れ豈に助け無からんや。晚年の廷美・多遜の獄、大いに太宗の盛徳の累と為り、而して普之と力を与う。豈に其の学力の有限にして猶ほ患失の心有るか。君子之を惜しむ。