郭崇
周祖に従って河中を平定し、功により果州防禦使に昇進し、護聖右廂都指揮使を兼ねた。周祖が鄴を鎮守すると、崇に行営騎軍を兼ねさせ、天雄軍都巡檢使とした。
廣順初年、定武軍節度使を兼ね、また京城都巡檢使・修城都部署兼歩軍公事知事となった。まもなく、陳州を節度使鎮に昇格させ、潁州をこれに隷属させ、崇を節度使に任命した。周祖が親しく郊祀を行うと、同平章事を加えられ、出鎮して澶州に赴いた。周祖が病に伏すと、急いで鎮所に戻るよう促された。
世宗が即位すると、幷州の軍が潞州に侵攻したため、崇と符彥卿を固鎮に出撃させて防がせた。世宗が親征し、また符彥卿の副として行営都部署となった。軍が帰還すると、兼侍中を加えられた。冬、真定尹・成徳軍節度使に移った。顕徳四年、世宗が淮南を征討すると、契丹が騎兵一万余騎を出して辺境を掠奪したため、崇は軍を率いて束鹿県を攻め落とし、数百級を斬首し、捕虜と鹵獲は甚だ多かった。五年、天清節に崇が来朝し、致政(引退)を求める上表をしたが、許されず、襲衣・金帯・器幣・鞍勒馬を賜り、帰任させた。世宗が関南を平定し、静安軍に至ると、崇が来朝した。恭帝が位を継ぐと、検校太師を加えられた。
楊廷璋
周祖が漢祖に従って太原を鎮守した時、廷璋はしばしば姉(周祖の妻)を訪ね、周祖はその純朴で謹直なところを愛した。姉が亡くなると、廷璋を留めて側に仕えさせた。周祖が三叛を討伐に出、入って国難を平定する際、廷璋はしばしば奇計を献じた。即位すると、廷璋の姉を追冊して淑妃とし、廷璋を右飛龍使に抜擢したが、廷璋は固辞して拝命せず、その恩を父の洪裕に推し及ぼすことを願った。すぐに洪裕を召し出して闕に赴かせようとしたが、洪裕は老病を理由に辞退したため、そのまま金紫光禄大夫・真定少尹に任じた。廷璋は皇城使・昭義兵馬都監・澶州巡検使を歴任した。
世宗が澶淵から還京し、廷璋に幹才があると言い、客省使に昇進させた。まもなく河陽巡検・州事知事となった。涇州の帥史懿が病気と称して朝見せず、周祖は廷璋を遣わして代わらせようとした。出発に際し、廷璋に言った、「懿が命令に従わなければ、すぐにこれを謀れ」。廷璋が到着すると、左右を退け、詔書を史懿に示し、禍福を諭したので、史懿は即日に出発した。まもなく周主(周祖)が崩じたと聞き、廷璋は数日間、吐血して食事をとらなかった。
世宗が即位すると、左驍衛大将軍に任じ、宣徽北院使を充任した。劉崇を征討する際、建雄軍節度使とした。鎮所で数年、多くの恵みと慈愛を行った。前後して兵を率いて太原の境内に入り、仁義・高壁などの砦を陥とし、刺史・軍校数十人を捕らえ、その民数千戸を俘虜とし、兵器・羊馬数万を鹵獲した。幷州の軍は沁州を二百里棄て、新城に退いて守ったため、廷璋は保安・興同・白壁など十余りの砦を設置した。
ちょうど隰州刺史孫議が卒去したため、廷璋は監軍李謙溥を遣わして州事を執らせた。謙溥が到着すると、幷州の軍がその城を攻撃しに来た。議論する者は速やかに救援すべきだと言った。廷璋は言った、「隰州の城壁は堅固で完備しており、幷州の軍が急に来襲しても、攻城の具を整えることはできない。奇計をもってこれを破るべきである」。そこで敢死の士百余りを募り、重賞を約束し、間道から人を遣わして謙溥と内応を約束させた。到着すると、すぐに枚を銜えて夜襲し、城中は鬨の声をあげて出撃し、幷州の軍は大敗し、数十里追撃して千余級を斬首し、器甲一万余りを鹵獲した。奏上が届くと、世宗は喜んで言った、「我が舅は真に寇を防ぐことができる」。詔を下してこれを褒めた。
世宗が河東より還り、加えて檢校太保となす。顯德六年夏、率いる所部を以て河東界に入り、堡砦十三を下し、巡檢使靳漢晁等三人を降す。恭帝即位し、加えて檢校太傅となす。
廷璋は美髯にして、上長く下短く、容儀を修めるを好み、小吏を見るも、未だ嘗て懈惰せず。士を善く待ち、幕府に知名の人多し。晉州に在る日、太祖命じて荊罕儒を鈐轄と為す。罕儒は廷璋を周朝の近親と為し、異志有るを疑い、府中に入る毎に、従者は皆刀劍を持ち、廷璋を図らんとす。廷璋は誠を推して之を待ち、殊に設備せず、罕儒も亦敢えて発せず、終に亦患無し。議者は廷璋の涇州に在りて史懿を保全せしを以て、陰德の報いなりとす。
洪裕少時、嘗て境の貂裘陂に漁す。忽ち馳騎至る者有り、二石の雁を洪裕に授け、一は翼を左に掩い、一は翼を右に掩いて曰く、「吾は北嶽の使者也」と。言い訖りて、忽ち見えず。是歳淑妃を生み、明年廷璋を生む。家遂に昌盛す。
廷璋子七人、皆官を求めしめず、惟だ其の孤甥安崇勳を表して西頭供奉官を得しむ。崇勳は、後唐の樞密使重誨の子なり。廷璋の子坦・塤皆進士及弟。坦は屯田員外郎、鹽鐵副使・判官に至り、塤は都官郎中と為る。
宋偓
晉祖嘗て莊宗に事え、偓の母の入見する毎に、詔して拝せしめず、因りて従容として之に謂いて曰く、「朕は主家に誠に靳く所無し。但だ朝廷多事、府庫空竭、主の知る所なり。今主は輦下に居り、薪米を憂いと為す。当に主を奉じて西洛に居らしめ、以て豐泰に就かしむべし」と。命じて偓に分司して就養せしめ、敕して有司に供給せしめ、醯醢に至るまで、率ね加等有り。
漢祖晉陽に在り、其の子承訓を遣わして洛に至らしめ、書を偓の母に奉り、偓と昏を結ぶ。即ち永寧公主なり。累ねて北京皇城使を授く。漢の乾祐初、拝して右金吾衛大將軍・駙馬都尉と為す。隱帝即位し、昭武軍節度を授け、鎮を滑州に移す。
周祖兵を挙げて闕に向かう。時に偓は鎮に在り、門を開き迎え謁す。周祖深く之を徳とす。偓、率いる所部の兵を従えて周祖に従い、劉子陂に至る。隱帝の衛兵悉く走りて周祖に投ず。周祖、偓に謂いて曰く、「至尊危し。公は近親、急ぎ去りて擁衛し、驚動せしむる無かれ」と。偓、馬を策して御営に及びしに、軍已に乱る。廣順初、内艱に丁し、服除け、左監門衛上將軍を授かる。
世宗淮南を征し、偓を令して左龍武統軍趙讚・右神武統軍張彥超・前景州刺史劉建と共に壽州の四面を巡檢せしむ。師還り、偓を以て右神武統軍と為し、行營右廂都排陣使を充て、又廬州城下の副部署と為す。吳人大いに舟師を発す。次で東氵布洲に、蘇・杭の路を断つ。世宗、偓を遣わして戰艦数百艘を領いて之を襲わしめ、又遣わし大将慕容延釗に歩騎を率いて進ませ、水陸勢を合して大いに之を破る。
世宗嘗て野に次す。虎有りて乘輿に逼る。偓、弓を引きて之を射れば、一発にして斃る。江北の諸州悉く平ぎ、江を画して界と為す。世宗、迎鑾に駐まり、偓を命じて舟師三千を率い江を溯りて上り、諸郡を巡警せしむ。師還り、復た滑州の節制を授け、又鎮を鄧州に移す。恭帝即位し、開府儀同三司を加う。
宋初、檢校太師を加え、舟師を領して江徼を巡撫せしめ、舒州團練使司超之を副えしむ。李重進謀りて揚州を以て叛かんとす。偓其の状を察し、章を飛ばして以て聞かしむ。太祖、偓を令して海陵に屯し、以て重進の去就を観せしむ。遂に揚州征従し、行營排陣使と為る。及平ぎ、功を以て保信軍節度に改む。來朝し、鎮を華州に徙す。会に池を都城南に鑿く。偓を命じて舟師数千を率い以て水戰を習わしむ。東駕数たび臨み観る。五年、忠武軍節度に改む。
偓は、莊宗の外孫、漢祖の婿、女は即ち孝章皇后、近代貴盛にして、其の比有ること鮮し。子元靖は供備庫使に至り、元度は供備庫副使に至り、元載・元亨は並びに左侍禁・閣門祗候に至る。初め、孝章寢疾し、晉國長公主に語りて曰く、「我瞑目して他に憂い無し。惟だ族属の敦睦せざるを慮り、人に笑を貽すを慮る」と。景德中、偓の幼子元翰果たして京府に詣で、家財を析かんことを求む。
真宗はこれを聞き、詔して釈放して問わず、なおその族属に先後の遺戒を遵守するよう諭した。元度の子惟簡は殿直となり、惟易は奉職となった。
向拱
周祖が即位すると、宮苑使を授かった。広順年間、皇城使に遷り、出て昭義屯軍を監した。幷人が馬歩十五都を率いて侵攻してきたので、拱は巡検陳思讓とともに虒亭の南で迎え撃ち、三百余人を殺し、百人を生け捕り、その帥王璠・曹海金を捕らえ、また壺関でその軍を破った。軍が帰還すると、慕容彦超征討に合わせて都監に任じ、六銖・袍帯・鞍勒馬・器仗を賜り、即日派遣された。賊が平定されると、陝州巡検に任じられた。間もなく、客省使・知陝州に改めた。
折しも延州の高允権が卒去し、その子の紹基が継承を求めて自ら使務を領した。朝廷はさらに禁兵を増派して戍守させ、拱に権知州事を命じ、まもなく内客省使に遷った。かつて州民が軍装兵器を西人に売ることを禁ずるよう請い、従われた。所属部落に漢戸を侵盗する者がいたので、拱はその酋帥を招いて犒労し、侵犯しないよう誓わせた。召されて左神武大将軍・宣徽南院使に拝された。
劉崇が侵入したので、馬軍の樊愛能・歩軍の何徽を沢州に派遣し、拱にその監護を命じた。世宗が親征すると、拱は精騎を率いて陣中に居た。高平の戦勝で、功により義成軍節度・河東行営前軍都監を兼ねた。軍が帰還すると、出鎮して陳州に赴いた。
先に、晋末に秦州節度使何建が秦・成・階の三州を以て蜀に入り、蜀人はさらに鳳州を取った。この時、宰相王溥が拱を推薦して討たせようとし、そこで拱を召し鳳翔の王景とともに兵を率いて大散関を出撃させ、城砦を連続して陥落させた。さらに拱を西南面行営都監に任じた。蜀人は鳳州の危急を聞き、兵卒五千余を発して鳳州北の堂倉鎮路に出て、黄花谷に至り、周軍の糧道を断たんとした。拱と王景はこれを偵知し、排陣使張建雄に兵二千を率いて直ちに黄花谷に至らせ、また別将に勁卒千人を率いて敵の背後に出て、その帰路を遮断させた。敵は果たして建雄に敗れ、堂倉に奔り、また勁卒に迫られ、両軍が合勢して掩撃し、その監軍王巒・孫韜ら千五百余人を生け捕りにした。これにより剣門の下の州邑営砦は、風を望んで夜遁し、秦・鳳・階・成は平定された。召還されて金祥殿で宴を賜り、襲衣・金帯・銀器・繒帛・鞍勒馬を賜った。
当時周軍は寿春を包囲して一年経っても陥落せず、江・淮には草寇が充満し、呉の援兵は紫金山に柵を築き、城中と烽火で相応じた。また舒・蘄・和・泰は再び呉人の占拠するところとなった。拱は上言して、揚州の軍を暫く移して力を合わせて寿春を攻め、その城が陥落した後、改めて進取を図るべきだと述べた。世宗はこれに従った。拱はそこで庫を封じ、揚州の主管者に交付し、また本府の牙将を分遣して部を按巡させ城中を巡回させた。秋毫も犯さず、軍民は感悦した。軍が行く時には、呉人に糗糧を負って送る者さえあった。寿春に至り、李重進と合勢してその城を攻め、淮南道招討都監に改め、黄蓍砦で淮南軍二千を破った。
世宗が再び寿州に行幸し、拱を召して宴を賜り甚だ厚く、武寧軍節度使とし、その属を率いて鎮淮軍に駐屯するよう命じた。寿州を攻克すると、功により同平章事を加え、武寧軍節度使を領した。四年、帰徳軍節度使に移った。淮南が平定されると、山南東道節度使に改め、まもなく西南面水陸発運招討使を充てた。恭帝が即位すると、検校太師・河南尹・西京留守を加えた。
宋初、兼侍中を加えた。太祖が李筠を征討する時、拱は汜水まで迎謁し、上に言った、「筠の逆節は久しく著しく、兵力は日増しに盛んです。陛下は急ぎ大河を渡り、太行を越え、その未だ集まらざるに乗じてこれを誅すべきです。緩やかならば勢いは張り、力を為し難くなります。」帝はその言に従い、甲を巻き道を倍して急行した。筠は果たして兵を率いて南向し、車駕の至るを聞き、惶駭して沢州城に走って守り、遂に捕らえられた。乾徳初、郊祀に従い畢わり、譙国公に封じられた。
拱は河南尹を十余年務め、専ら園林第舎を治め、声妓を好み、酒を縦にして楽しみ、府政は廃弛し、群盗が昼間に劫掠した。太祖はこれを聞いて怒り、安州に移鎮させ、左武衛上将軍焦継勲を代わりに任じ、継勲に謂って言った、「洛は久しく治まらず、卿を選んで代わらせる。再び拱の如きを行わぬように。」
咸平初、真宗は拱の後裔に寒餒流離する者がいると聞き、その孫の懌を録用して国子助教とした。拱の子徳明は洛苑使に至り、昱は大中祥符八年の進士出身である。徳明の子悦は虞部郎中となった。
王彦超
当時晋祖が陝を帥い、そこで帳下に召し、心腹として委ねた。太原に移鎮し、兵を率いて南下しようとする時、従事桑維翰を遣わして契丹に援を求め、彦超を行従させた。天福初、累遷して奉徳軍校となり、再転して殿前散指揮都虞候・蒙州刺史を領した。漢初、岳州防禦使兼護聖左廂都校を領し、出て復州防禦使となった。
周祖が内乱を平定した後、契丹を北征するに当たり、彦超を行営馬歩左廂都排陣使とし、周祖に従って汴に入った。時に彭門から湘陰公を迎えて帝位を継承させようとしたが、軍の変事に遭い、周祖が革命を起こすと、直ちに彦超を権知徐州節度に任じた。未だ赴任せず、湘陰公の旧校である鞏廷美が州に拠って叛いたため、真に彦超を武寧軍節度使に任じ、討伐を命じた。彦超は戦艦を督してその水砦を破り、勝に乗じてこれを陥落させた。
また枢密使王峻と共に劉崇を晋州で防ぎ、彦超は騎兵を進めて、劉崇を遁走させ、建雄軍節度使を授けられた。さらに配下の兵を率いて賊を霍邑まで追撃し、賊の歩兵騎兵が崖谷に墜ちて、死者は甚だ多かった。彦超が鎮所に帰還すると、間もなく河陽三城節度使に改められ、河中に移鎮した。
顕徳初年、同平章事を加えられた。劉崇が南寇すると、彦超に命じて兵を率いて晋州路を取って東に向かい邀撃させ、高平の戦いに従った。彦超は陰地関から符彦卿と兵を合わせて汾州を包囲し、諸将は急攻を請うたが、彦超は言った、「城は既に危うい。朝夕のうちに降伏するであろう。我が士卒は精鋭であるが、もしも先登を駆り立てれば、必ず死傷者が多いであろう。少し待つがよい。」翌日、州将の董希顏は果たして降伏した。そこで兵を率いて石州に向かい、彦超は自ら鼓を打って士卒を城壁に登らせ、身を矢石に冒し、数日でこれを陥落させ、その守将安彦進を擒らえ、行在所に献じた。軍が帰還すると、忠武軍節度使に改められ、兼侍中を加えられた。詔により配下の兵を率いて胡蘆河を浚渫し、李晏口に城を築いた。工事が未だ完了せず、遼人の一万余騎が来侵したので、彦超はこれを撃破し、殺傷すること甚だ多かった。
宰相李穀が淮南を征討するに当たり、彦超を前軍行営副部署とし、寿州城下で淮南軍二千を破った。呉兵が水陸より来援し、李穀は正陽に退いて守り、呉人はその後を追った。時に李重進の兵が到着し、勢いを合わせて急撃し、呉人三万余人を大破し、敗走を二十余里追撃した。帰還後、京兆尹・永興軍節度使に改められた。六年夏、鳳翔に移鎮した。恭帝が位を嗣ぐと、検校太師・西面縁辺副都部署を加えられた。
宋初、兼中書令を加えられ、任を代えられて帰還した。太祖は彦超と旧知であり、因みに作坊に行幸し、従臣を召して宴射し、酒が酣になると、彦超に言った、「卿は昔、復州にいた時、朕が卿のもとに身を寄せようとしたが、何故朕を受け入れなかったのか。」彦超は階を降りて頓首し言った、「勺の水でどうして神龍を止められましょうか。当日、陛下が小郡に留まられなかったのは、天がそうさせたのでございます。」帝は大笑した。彦超は翌日、表を奉って待罪し、帝は中使を遣わして慰諭し、朝謁に赴くよう命じた。
開宝初年、彦超が鳳翔より来朝し、武行徳・郭従義・白重賛・楊廷璋と共に曲宴に侍した。太祖は従容として言った、「卿等は皆国家の旧臣であり、久しく劇鎮に臨み、王事に鞅掌している。これは朕が賢を優遇する意ではない。」彦超はその旨を知り、即ち前に進み出て奏上して言った、「臣は勲労なく、久しく栄寵を冒し、今は既に衰朽しました。願わくは骸骨を乞いて丘園に帰りたい、これが臣の願いです。」行徳らは竟に自ら昔の戦功や履歴の艱苦を陳べた。帝は言った、「これは異代の事柄であり、どうして論ずるに足りようか。」翌日、皆行徳らの節鎮を罷免した。当時の議論はこれによって彦超を称えた。
張永徳
永徳は四歳の時、母の馬氏が離縁され、祖母に育てられ、継母の劉氏に孝行をもって知られた。周祖が初め侍衛吏であった時、穎と親しく、そこで娘を永徳に娶せた。永徳はその母と妻を迎えて宋州に赴いた。時に寇賊が充満し、そこで粗末な衣に着替え、容儀を毀ち、陋巷に住んだ。賊が通りかかると、即ち請い乞い、欺いて言った、「これは悲田院でございます。」賊は即ち去り、これによって禍を免れた。周祖が枢密使となると、表を上って永徳を供奉官押班に任じた。
乾祐年中、命じて潞帥の常遇に生辰の礼幣を賜うこととなった。常遇は、周祖の外兄弟である。時に周祖は鄴に鎮していたが、讒言を受け、その家を族誅されようとしていた。永徳は潞州におり、密詔が常遇に授けられたと聞き、永徳はその意を探り知り、常遇に言った、「永徳を泣いて殺すというのではございませんか。永徳は即ち死んでも怨みはありませんが、君侯の家に累いすることを恐れます。」常遇は愕然として言った、「どういうことか。」永徳は言った、「奸邪が政を蝕んでいます。郭公は君側を清めんと誓っておられます。願わくは暫く永徳を吏に属させてください。事が成れば以て徳と為すに足り、成らなければ死ぬのも遅くはありません。」常遇は然りとし、ただ壮士に厳しく警衛させたが、しかし饋る所は甚だ厚かった。親しく問うて言った、「君は丈人の事が成るかどうかどう見るか。」永徳は言った、「おそらく必ず成るでしょう。」未だ幾ばくもなく、周祖の使者が到り、常遇は賀し且つ謝して言った、「老夫はほとんど大事を誤るところであった。」
初め、魏人の柴翁が経義を里中で教えていた。娘がおり、後唐荘宗の時に掖庭に備えられたが、明宗が洛に入ると、宮中から出された。柴翁夫妻が迎えに行き、鴻溝に至り、雨が甚だしく降り、十日を過ぎても前に進めなかった。娘は装具を全て取り出し、その価値千万を計り、その半分を父母に与え、魏に帰るよう命じ、言った、「娘は溝の傍の郵舎の隊長で、項に黒い雀の形の黵がある者が、極めて貴い人であるのを見ました。願わくは彼に仕えたい。」尋ねると、それは周祖であった。父母は大いに恥じたが、終に奪うことが出来なかった。ある日、周祖に語って言った、「君は貴くて言い表せません。妾には緡銭五百万の資産がありますので、君に資します。時を失ってはなりません。」周祖はその資によって、軍司となることが出来た。
柴翁は独り寝を好み、人が冥間の事を司ることが出来ると伝えた。一日、朝起きて、大笑いして止まなかった。妻が問うても答えなかった。翁は酒を好み、その妻が飲むよう強いて、極めて酔ったため、言葉を漏らして言った、「花項の漢が天子となる。」その妻は少し漏らし、常遇も微かに聞き及んだが、深くは言わなかった。ここに至り、永徳は故にこれをもって常遇を諷し、常遇は永徳を周祖のもとに送り返した。
周祖が帝位に登ると、永徳の妻を晋国公主に封じ、永徳を左衛将軍・内殿直小底四班都知に任じ、駙馬都尉・和州刺史を兼ねさせた。一年余りして、殿前都虞候・恩州団練使に抜擢し、間もなく殿前都指揮使・泗州防禦使に遷った。時に二十四歳であった。
当時、永徳の父の穎は隷人曹澄らに害され、それゆえ南唐に奔った。ちょうど南征が議され、永徳は自ら行って功を立てることを請い、許された。軍が寿春に至ると、劉仁贍は堅壁を守って降伏しなかった。永徳は疲弊した兵を出して誘い、傍らに精鋭の騎兵を伏せさせ、毎戦わざと不利を装い、北に三十里退却し、伏兵が突然起き上がって挟撃し、大いにこれを破り、仁贍はただ身一つで逃れたのみであった。
当時、呉人は周軍が寿春で攻囲を日に日に急にしているのを見て、また水戦を恃み、大いに楼船を発して江を蔽い下り、濠・泗に停泊し、周軍はかなり不利であった。呉将の林仁肇が兵千余りを率い、水陸ともに進み、また船数艘に薪を積み、風に乗って火を放ち、周の浮橋を焼こうとしたので、周人はこれを憂えた。まもなく風向きが逆転し、呉人は少し退却した。永徳は進軍してこれを破った。また夜に水に習熟した者を使い、その船の下に潜り、鉄鎖で繋ぎ、軽舟を引いて急襲した。呉人はすでに進むことができず、溺死者は甚だ多く、その巨艦数十艘を奪った。永徳は金帯を解き、水に習熟した者を賞した。そこで浮橋から十余歩離れた所に、鉄索千余尺で長淮を横断して遮り、また巨木を繋ぎ止め、これより備えの防御はますます堅固となった。まもなくまた淮北岸で千余りの兵を破り、戦船数十艘を獲、呉人は多く溺死した。詔によりこれを褒め称えた。
冬、殿前都点検に抜擢された。四年、寿州を陥落させて帰還し、制により検校太尉・鎮寧軍節度使を授けられた。五年夏、契丹が辺境を侵したので、永徳に歩騎二万を率いてこれを防がせた。世宗に従って北伐し、帰還して澶淵に駐屯し、兵権を解かれ、検校太尉・同中書門下平章事を加えられた。恭帝が嗣位すると、忠武軍節度使に移った。
太祖が即位すると、兼侍中を加えられた。永徳が入朝すると、武勝軍節度使を授けられた。入朝して拝謁し、後苑に召して対面し、旧交を語り、巨觥で酒を飲ませ、毎度駙馬と称して名を呼ばなかった。当時、幷州・汾州はまだ陥落しておらず、太祖は密かにその策を訪ねた。永徳は言った、「太原の兵は少ないが悍猛で、これに契丹が援軍となるので、容易に取ることはできません。臣は毎年多く遊兵を設け、その農事を撹乱し、なお間使を発して契丹を諜報し、その援軍を絶って、その後で陥落させることができると考えます」。帝はこれをよしとした。まもなく本鎮に帰った。
ちょうど金陵討伐の軍を出すことになり、永徳は自らの資産で戦船数十艘を造り、糧万斛を運び、順陽から漢水に沿って下った。富民の高進という者は、豪横で誰も禁じることができなかったが、永徳はその奸を暴き、法に処した。高進は密かに宮廷に赴き、永徳が険阻な地に固く十余の砦を置き、不軌を図っていると誣告した。太祖は枢密都承旨の曹翰に騎兵を率いてこれを察させ、その砦の場所を詰問すると、高進は言った、「張侍中は我が宗族をことごとく誅し尽くし、法に中ることを望み、私憤を報いるだけです」。曹翰は高進を永徳に引き渡した。永徳は急いで縄を解いて市に就き、笞打って釈放した。当時、彼を長者と称えた。
永徳は天文術に明るく、かつて僚佐と会食していた時、遼兵が州境を寇したと報せがあり、永徳は『太白万勝訣』を用いて占い、座客に語って言った、「彼らは年月の便利に乗じて、金に乗じて来るが、反って歳星に対逆する値となり、兵家の大忌であり、必ず敗れる」。間もなく、折御卿の捷報が届き、衆はようやく歓喜して服した。
五代以来の用兵は多くが姑息であり、藩鎮は頗る部下に販売を恣にさせた。宋初、功臣はなお旧事に習っていた。太宗が即位した初め、詔して群臣が駅伝で出入りする際、貨を携えて利を邀え、また人を諸処に遣わして回らせ、民と利を争うことを禁じた。永徳は太原にいた時、かつて親吏に茶を販売させて利を図り、関所の外に密かに出て羊を市したことがあり、転運使の王嗣宗に発覚され、左衛上将軍に罷免された。
真宗が即位すると、衛国公に進封された。間もなく、左金吾街仗事を判じた。咸平初年、たびたび上表して老齢を理由に退職を請い、太子太師を授けられ、西京に分司し、なおその孫の大理寺丞の文蔚に洛下で事務を執らせ、養老の便とした。
永徳の出母は、後に安邑の劉祚に再嫁した。永徳が南陽を鎮守した時、劉祚はすでに死去しており、母を迎えて州の官舎に帰し、二つの堂を建て、継母の劉氏と並んで住まわせた。劉氏が卒去すると、馬氏(永徳の出母)は中参に預かり、当時八十一歳で、太宗は労い、冠帔を賜い、莒国太夫人に封じた。同母弟の劉再思は、子城使に任じられ、市の西里に大邸を建て、劉氏の一族を集めた。
初めに、永徳が睢陽に寓居していた時、書生が隣家に臥病しており、永徳が治療して癒した。ある日、書生は永徳の許に来て水銀五両を求め、得るとすぐに鼎に入れて煮ると、中金となった。この日より毎日永徳と交遊し、ある日、淮上に行くことを告げ、永徳に言うには、「後に必ず彼の地で再会しよう」と。永徳は言う、「呉の境は通じていない、どうして行けようか」と。書生は言う、「私には術がある」と。永徳は数舎まで送り、薬法を懇願すると、書生は言う、「君は大貴に至るであろう、私はこれを惜しむものではないが、君の福を損なうことを慮る」と。言い終わって去った。永徳が下蔡に屯した時、牙帳の前後の隊部曲八百人は、皆金銀の刀槊、繍の旗幟を備えていた。永徳は騎射に長け、左右に十的を分けて掛け、十矢を握り、疾駆して互いに発し、発すれば必ず中てた。淮の民が周りを取り囲んで見物する中、一人の僧が睥睨していたので、永徳が急いで召すと、それは睢陽の書生であった。夜、帳中に宿し、再び水銀の法を求めた。僧は言う、「初めに君の貴きを語ったが、今も誤りではなかった。終わりよく節を謹めば、五十年の富貴を保つであろう、どうしてこれを用いようか。然しながら志を降ろして賢を礼すれば、別に君に薬法を授ける者があるであろう」と。永徳はこれより益々家資を尽くして方士を招致したので、故に太祖は方外の士として遇した。
初めに、睢陽の書生が太祖の受命の兆を語ったことがあり、この故に永徳は密かに心を寄せて奉じた。太祖が孝明皇后を聘わんとする時、永徳は緡銭金帛数千を出してこれを助けたので、太祖の朝が終わるまで恩沢は衰えなかった。孫の文蔚は虞部員外郎、文炳は殿中丞となった。
王全斌
荘宗が洛に入ると、累ねて内職を歴任した。同光の末、国に内難があり、兵が宮城に入ると、近臣宿将は皆甲を棄てて遁走したが、全斌のみ符彦卿ら十数人と共に中に居て拒戦した。荘宗が流矢に中り、絳霄殿に扶掖されると、全斌は慟哭して去った。明宗が即位すると、禁軍の列校を補した。晋の初め、侯益に従って張従賓を汜水で破り、功により護聖指揮使に遷った。周の広順の初め、護聖を龍捷と改め、全斌を右廂都指揮使とした。兗州で慕容彦超を討つ時は、行営馬歩都校となった。顕徳中、向訓に従って秦・鳳を平らげ、恩州団練使を領した。間もなく泗州防禦使を領して遷った。世宗に従って淮南を平らげ、瓦橋関を得て、相州留後に改めた。
宋の初め、李筠が潞州で叛くと、全斌は慕容延釗と共に東路より大軍に会して進討し、功により安国軍節度使に拝された。詔して西山の堡砦を完葺せしめると、時を逾えずして成った。建隆四年、洺州防禦使郭進らと兵を率いて太原の境に入り、数千人を俘虜として帰り、進んで楽平を克った。
十二月、兵を率いて乾渠渡・万仞燕子の二砦を抜き、遂に興州を下すと、蜀の刺史藍思綰は西県に退いて保った。蜀軍七千人を破り、軍糧四十余万斛を獲た。進んで石圌・魚関・白水の二十余砦を抜き、先鋒の史延徳が三泉に進軍して蜀軍数万を破り、招討使韓保正・副使李進を擒にし、糧三十余万斛を獲た。既にして崔彦進・康延沢らが蜀軍を三泉まで逐い、遂に嘉陵に至り、多くを殺虜した。蜀人が閣道を断つと、軍は進めず、全斌は羅川路を取って入ることを議し、延沢は密かに彦進に謂う、「羅川路は険しく、軍は並進し難い、兵を分けて閣道を治め、大軍と深渡で会するに如かず」と。彦進が全斌に白すると、全斌はこれを然りとした。彦進・延沢に命じて閣道の治めを督せしめ、数日で成り、遂に進撃して金山砦を破り、小漫天砦を破った。全斌は羅川より深渡に趣き、彦進と会した。蜀人は江に依って陣を列べて待ち、彦進は張万友らを遣わしてその橋を奪わしめた。暮夜に会し、蜀人は大漫天砦に退いて保った。詰朝、彦進・延沢・万友が三道に分かれてこれを撃つと、蜀人はその精鋭を悉くして来て逆戦し、また大いにこれを破り、勝に乗じてその砦を抜くと、蜀の将王審超・監軍崇渥は遁去し、また三泉監軍劉延祚・大将王昭遠・趙崇韜と兵を引いて来戦し、三戦三敗し、利州の北まで追った。昭遠は遁去し、桔柏江を渡り、梁を焚いて、剣門に退いて守った。遂に利州を克ち、軍糧八十万斛を得た。
利州より剣門に趨き、益光に次ぐ。全斌は諸将を会して議して言う、「剣門は天険、古より『一夫戈を荷い、万夫前に莫し』と称す、諸君宜しく各々進取の策を陳ぶべし」と。侍衛軍頭向韜が言う、「降卒の牟進が言うには、『益光の江東、大山数重を踰えて、来蘇と名づくる狭径あり、蜀人は江西に砦を置き、対岸に渡しあり、ここより出でて剣関の南二十里、清強店に至れば、大路と合す。ここに於いて兵を進むべく、すなわち剣門恃むに足らず』と」と。全斌らは即ち甲を巻いてこれに赴かんとしたが、康延沢が言う、「来蘇の細径、主帥親しく往くを須いず。且つ人は屡敗し、兵を併せて剣門に退守す、もし諸帥協力して進攻し、一偏将を命じて来蘇に趨かしめ、もし清強に達すれば、北より剣関を撃ちて大軍と夾攻すれば、これを破ること必せり」と。全斌はその策を納れ、史延徳に命じて兵を分かち来蘇に趨かせ、江上に浮梁を造らせると、蜀人は梁の成るを見て、砦を棄てて遁れた。昭遠は延徳の兵が来蘇に趨き、清強に至ると聞き、即ち兵を引いて退き、漢源坡に陣し、その偏将を留めて剣門を守らせた。全斌らがこれを撃破すると、昭遠・崇韜は皆遁走し、軽騎を遣わして進んで獲し、闕下に伝送し、遂に剣州を克ち、蜀軍一万余人を殺した。
四年正月十三日、師は魏城に次ぐ。孟昶は使を遣わして表を奉じて来降し、全斌らは成都に入った。旬余りして、劉廷譲らが始めて峡路より至った。昶は廷譲らに饋遺し及び師を犒うこと、並びに全斌の至りたるに同じ。詔書が頒賞するに及んで、諸軍にも差降が無かった。ここより両路の兵は相嫉み、蜀人もまた構え、主帥遂に協せず。全斌らは先に詔を受けて、毎に製置するには必ず諸将の僉議を須うべしとあり、この時に至り、小事といえども即時に決することができなかった。
間もなく詔して蜀兵を発して闕に赴かしめ、人ごとに銭十千を与え、未だ行かざる者は、両月の廩食を加うとす。全斌らは即時に奉命せず、ここより蜀軍は憤怨し、人々乱を思う。両路の随軍使臣は常に数十百人あり、全斌・彦進及び王仁贍らは各々これを保庇し、部送して蜀兵を行かしめず、ただ諸州の牙校を分遣した。蜀軍は綿州に至って果たして叛き、属邑を劫し、衆は十余万に至り、自ら「興国軍」と号した。蜀の文州刺史全師雄という者あり、嘗て将となり、威恵あり、士卒畏服していた。時にその一族を以て闕下に赴かんとしていた。綿州で乱に遇い、師雄は脅かされることを恐れ、乃ちその家を江曲の民舎に匿した。後数日にして乱兵に獲られ、主帥に推された。
全斌は都監の米光緒を派遣してこれを招撫せしめたが、光緒は師雄の一族をことごとく滅ぼし、その愛娘と財貨を奪い取った。師雄これを聞き、ついに帰順の志を失い、衆を率いて急ぎ綿州を攻撃したが、横海指揮使劉福・龍捷指揮使田紹斌に敗れた。そこで彭州を攻め、刺史王継濤を追い払い、都監李徳栄を殺害し、その城を占拠した。成都の十県は皆挙兵して師雄に呼応し、師雄は自ら「興蜀大王」と号し、幕府を開き、僚属を置き、節帥二十余人を任命して、灌口・導江・郫・新繁・青城などの県を分かち守らせた。彦進は張万友・高彦暉・田欽祚とともにこれを討ったが、師雄に敗れ、彦暉は戦死し、欽祚は辛うじて免れ、賊の勢力はますます盛んとなった。全斌はまた張廷翰・張煦を派遣してこれを撃たせたが、利あらず、成都に退却した。師雄は兵を分かって綿州・漢州の間に配置し、閣道を断ち切り、江沿いに砦を築き、成都を攻撃せんと声言した。これより、邛・蜀・眉・雅・東川・果・遂・渝・合・資・簡・昌・普・嘉・戎・栄・陵の十七州が、ことごとく師雄に従って乱を起こした。郵伝が通じないこと一か月余り、全斌らは甚だ恐れた。当時、城中の蜀兵はなお二万を残しており、全斌は彼らが賊に呼応することを憂慮し、諸将と謀り、彼らを夾城中におびき寄せ、ことごとく殺害した。
まもなく、劉廷譲・曹彬が師雄の衆を新繁で破り、一万余人を捕虜とした。師雄は郫県に退いて守りを固め、全斌・仁贍がまたこれを攻め破った。師雄は灌口砦に逃れて守りを固めた。賊の勢力がすでに挫かれると、残党は州県に散らばって守りを固めた。陵州指揮使の元裕という者がおり、師雄に刺史に任命され、衆一万余りを擁していたが、仁贍がこれを生け捕りにし、成都市で磔刑に処した。
やがて虎捷指揮使の呂翰が主将に礼遇されず、これに憤って嘉州知州客省使の武懐節・戦棹都監の劉漢卿を殺害し、師雄の党である劉沢と合流し、衆五万に達し、普州刺史の劉楚信を追い払い、通判の劉沂および虎捷都校の馮紹を殺害した。また果州指揮使の宋徳威が知州八作使の王永昌および通判の劉渙・都監の鄭光弼を殺害し、遂州牙校の王可尞が州民を率いて乱を起こした。仁贍らは嘉州において呂翰を討ち、翰は敗れて雅州に逃げ込んだ。師雄は金堂で病死し、謝行本を主に推戴し、羅七君を佐国令公とし、賊将の宋徳威・唐陶鱉とともに銅山を占拠したが、まもなく康延沢に破られた。仁贍はまた雅州において呂翰を破り、翰は黎州に逃れたが、配下に殺害され、屍は水中に棄てられた。後に丁徳裕らが兵を分けて招撫・鎮撫にあたり、賊衆はようやく鎮静した。
全斌が蜀に入ったとき、ちょうど冬の末で、京城には大雪が降り、太祖は講武殿に氈帷を設け、紫貂の裘と帽を着けて政務を執っていたが、ふと左右の者に言った。「朕がこのような衣装を着けていても、なお体に寒さを覚える。西征の将兵が霜雪を冒すことを思えば、どうして耐えられようか。」ただちに裘と帽を解き、中黄門に命じてこれを全斌に馳せ賜り、なお諸将に諭して、行き渡らないことを告げさせた。全斌は拝受して感激の涙を流した。
初め、成都が平定されると、参知政事の呂余慶に命じて府事を治めさせ、全斌はただ軍旅を統率することのみを担当した。全斌はかつて親しい者に語って言った。「朕は古の将帥が多く功名を全うできなかったと聞く。今、西蜀はすでに平定されたので、病と称して東に帰り、悔いを免れたいと思う。」ある者が言った。「今なお寇盗が多いので、詔旨がなければ軽々しく去ることはできません。」全斌は躊躇して決断できなかった。
ちょうど全斌および彦進が蜀を平定した日に、民家の子女や玉帛を奪い取るなど不法な事を行ったと訴える者がおり、諸将とともに同時に召還された。太祖は全斌らが初めに功を立てたことを考慮し、たとえ法を犯しても獄吏によって辱しめることを望まず、ただ中書に命じて事情を尋ねさせたところ、全斌らはことごとく服罪した。詔して言った。「王全斌・王仁贍・崔彦進らは堅甲鋭兵を帯び、全蜀に出征し、彼らは威を畏れて降伏し、朕は速やかに詔を馳せて恩を述べた。哀憐を示し、綏撫を厚くすることを務め、孟昶の宗族・官吏・将卒・士民はことごとく安んじて存置せしめ、驚擾させてはならないと命じた。しかるに彼らは約束に背き、憲章を侵侮し、専ら降兵を殺害し、勝手に公帑を開き、婦女を豪奪し、貨財を広く納め、万民の怨嗟を集め、群盗の充満を招いた。ついには再び兵を調発する労をかけ、ようやく平定を得た。帰還を命じた後もなお忍んでいたが、冤罪を訴える声が日に日に国門に集まり、隠匿した金銀・犀玉・銭帛が十六万七百余貫に及ぶと称し、また勝手に豊徳庫を開いて、銭二十八万一千余貫を失わせたという。そこで中書門下に命じて訴え出た者と対質させて事実を確かめさせたところ、全斌らは皆服罪した。御史台に命じて朝堂に文武百官を集めてその罪を議させよ。」
全斌は財を軽んじ士を重んじ、声譽を求めず、寛厚で衆を容れ、軍旅は喜んで彼のために用いられた。山郡に左遷されて十余年、怡然として自得し、識者はこれを称えた。
子:審鈞、崇儀使・富州刺史・広州兵馬鈐轄。審鋭、供奉官・閤門祗候。
曾孫 凱
凱、字は勝之。祖父の審鈞はかつて永興軍駐泊都監を務め、賊を撃って戦死したため、京兆に家を定めた。財に富み、凱はこれを散施して客を結び、日々南山の下を馳せて狩猟し、民田を踏み荒らしたため、捕らえられて府に連行された。当時、寇準が長安を守っており、その状貌を見て奇異に思い、言上した。「全斌は蜀を取るに功労があり、審鈞は忠義をもって死んだ。その孤児を任用すべきである。」そこで三班奉職・鳳翔盩厔税監に任じた。左右班殿直・益州市買院監・慶州合水鎮兵馬監押・在京草場監を歴任した。
先に、守卒が残った藁を掃き集めて私物としていたが、凱はこれを禁絶したため、従卒が彼を害そうとした。事が発覚し、他の監官は皆故意に放任した罪に問われたが、凱だけは免れた。右侍禁・雄州兵馬監押から、閤門祗候・定邢趙都巡検使に抜擢された。
元昊が反乱を起こすと、麟州都監に転任した。かつて雙烽橋・染枝谷に出て、夏人と遭遇し、これを撃破した。また龐青・黄羅部を破り、伺候烽で再び戦い、前後して三百余級を斬首し、部落の馬牛・駱駝・器械を数千にのぼる数で鹵獲した。夏人が麟州を包囲すると、城に登って防戦し、昼夜三十一日に及び、ようやく解囲して去った。特に西頭供奉官に昇進した。
任期を終えて交代したが、辺境の寇はなおも掠奪を繰り返し、内殿崇班・麟州路縁辺都巡検使に任じられ、同巡検の張岊とともに青眉浪で糧道を護衛したところ、寇が突然大挙して到来し、張岊とはぐれた。そこで兵を分けてその背後に出て挟撃した。再び張岊と合流し、百余級を斬首した。また兔毛川に入ると、賊の軍勢三万に対し、張凱は六千の兵を率いて包囲に陥り、流れ矢が顔面に当たったが、戦闘をやめず、さらに百余級を斬首し、賊は自ら踏み躙り合い、死者は千を数えた。南作坊副使に昇進し、後に幷州・代州鈐轄となり、麟府軍馬事を管勾した。夏人二万が青塞堡を寇掠すると、張凱は鞋邪谷から出撃し、四十里にわたって転戦し、杜〓古川に至ってこれを大破し、奪われた馬牛を奪還して帰還した。
経略使の明鎬が、張凱が河外に九年いて功績があると上言したため、資州刺史を兼ねた。久しくして召還されたが、拝謁する前に、甘陵で盗賊が蜂起したため、直ちに兵を率いて城下に赴くよう命じられた。賊が平定されると、澤州刺史・邠州知州に任じられた。間もなく、神龍衛四廂都指揮使・澤州団練使となり、環慶・並代・定州路副都総管、捧日天武四廂・綿州防禦使を歴任し、累進して侍衛親軍歩軍副都指揮使・涇州観察使となった。さらに秦鳳路に転任となり、辞去の際、皇帝は唃氏の木征について、交易が阻絶され、かなり寇掠の兆しがあるので、静穏に処すべきであると諭した。張凱が着任すると、主帥とともに恩信をもって撫接し、遂に常時の朝貢を回復させた。召されて武勝軍節度観察留後・侍衛親軍馬軍副都指揮使に任じられた。死去、享年六十六。彰武軍節度使を追贈され、諡は莊恪。
張凱は軍を治めるに紀律があり、士卒を撫循することに長け、平時は彼らと飲食を共にし、臨陣して鼓槌を取るに至っては、毅然として少しも寛容でなかった。故に士卒は畏敬信服し、戦うに力の限りを尽くし、前後して敵と遭遇しても、一度も敗北しなかった。兔毛川の戦いでは、内侍の宋永誠が軍中で泣いたため、張凱は弾劾して罷免させた。特に故旧を篤く好んだ。
子に張緘。張緘の子に張詵、字は晉卿、詩を能くし画を善くし、蜀国長公主に尚し、官は留後に至った。
康延澤
宋初、慕容延釗・李処耘に従って湖湘を平定した。時に荊南の高保融が卒去し、その子の継冲が軍事を嗣いで統領していたため、康延澤に命じて書状と幣帛を携え先に赴きこれを慰撫させた。かつてその情偽を探らせた。帰還すると、その機密の事柄をことごとく把握し、先導して大軍を国境に入らせ、遂に荊峡を陥落させた。功労により正使に任じられた。
乾徳年中、蜀を征討し、鳳州路馬軍都監となり、白水・合子の二砦を破り、西県・三泉を進撃し、韓保正を捕らえた。来蘇路から大軍と合流し、剣門を攻略した。孟昶が降伏すると、康延澤は百騎を率いて先に成都に入城し、軍民を安撫し、府庫をことごとく封印して帰還した。そのまま命を受けて成都府都監となった。全師雄が再び乱を起こすと、普州刺史に転任となった。時に降兵二万七千があり、諸将は内応されることを恐れ、ことごとく殺そうとした。康延澤は老幼・疾病の者七千人を選び出して釈放し、残りは兵で護衛して還送し、江を浮かび下らせ、賊がもし劫奪に来たら、その時に殺しても遅くはないと請うた。諸将は用いなかった。間もなく出兵し、賊党の劉沢の三万人を撃破した。さらに王可尞が数郡の賊兵を率いて来戦したが、康延澤はこれを撃退し、敗走を追って合州に至った。また王可尞の余党の謝行本らを破り、羅七君を生け捕りにした。事態が平定されると、優詔をもって嘉奨され、そのまま東川七州招安巡検使に任じられた。
全斌らが罪を得ると、康延澤も連座して唐州教練使に貶謫された。開宝年中、起用されて供奉官となり、左蔵庫副使に昇進した。諸々の甥と家財を争った罪で官を失い、西洛に居住して死去した。
兄に康延沼
兄の康延沼は、幼くして後唐の明宗の帳下に隷属した。晋の高祖に仕え、尚食使となり、散指揮使都虞候・興聖軍都指揮使に改められ、出向して随・沢二州刺史となった。
周の太祖が北征すると、康延沼は白文遇・李彦崇・曹奉金とともに従軍した。広順年中、侍衛馬歩軍都頭・信州刺史を兼ねた。世宗に従って劉崇を征討し、兵を率いて遼州を攻撃し、龍捷右廂都校・岳州防禦使を兼ねるよう転じ、真に蔡斉鄭楚四州防禦使・晋潞二州兵馬鈐轄に任じられた。
王継濤
王継濤は河朔の人、若くして漢の高祖に近侍した。乾祐初年、供奉官に補され、諸司副使を歴任した。周に仕え、右武衛大将軍となった。淮南が平定されると、天長軍使となった。顕徳五年、和州刺史に昇進した。
大軍蜀を伐つに当たり、鳳州路砦使となる。興元降るや、王全斌は継濤に府事を権攝せしむ。孟昶降るや、全斌はまた継濤を遣わし、供奉官王守訥とともに昶を部送して闕に帰らしむ。守訥全斌に白し、継濤が昶に宮妓・金帛を求むと言う。全斌遂に継濤を留め、ただ守訥に昶を送らしむ。俄に詔して継濤を以て彭州刺史となす。
綿州軍乱を起こし、全師雄を劫いて帥とし、衆を率いて彭州を攻む。継濤は都監李徳栄とともに之を拒ぐ。徳栄戦死し、継濤は身に八槍を受け、単騎にて成都に走り至る。
平素より通事舍人田欽祚と隙あり。会に欽祚朝に入るや、乃ち他事を以て継濤を誣奏す。太祖駅に継濤を召し、将に面質せんとす。道に病み卒す。詔して曰く、「故彭州刺史王継濤は、先登して賊を撃ち、身に重創を受け、優典未だ加えられず、志を齎して歿す。故階州刺史高彦暉は、師を帥いて賊を討ち、奮いて命を顧みず、垂老の年、身を鋒鏑に殞す。永く言うに痛悼し、懐に忘れず。宜しく各々其の家に粟帛を賜うべし」と。
高彦暉
高彦暉は、薊州漁陽の人なり。初め契丹に仕えて瀛州守将となる。世宗北征するや、城を以て来降し、耀・階二州刺史に遷る。
王師蜀を伐つに当たり、帰州路先鋒都指揮使となる。全師雄の乱に、崔彦進は彦暉を遣わし、田欽祚とともに之を討たしむ。導江に至り、賊と遇う。賊は隘路に拠り、竹箐の中に伏を設く。官軍至り、伏発するに遇い、遂に利あらず。彦暉欽祚に謂ひて曰く、「賊勢張大し、日将に暮れんとす。兵を収め、詰朝に戦はんことを請ふ」と。欽祚遁れんと欲すれども、賊其の後を曳くを慮り、乃ち之を紿して曰く、「公は厚禄を食み、賊に遇ひて畏縮す、何ぞや」と。彦暉復た兵を麾して進む。欽祚潜かに遁去す。彦暉独り部下十余騎と力を戦ひ、皆之に死す。時に年七十余なり。
彦暉は老将にして、辺事に練習す。上其の歿するを聞き、甚だ痛惜す。故に並びに優恤することを命ず。
論じて曰く、郭崇は昔の遇に感激し、垂涕より発す。太祖其の忠厚なるを察し、亟に思誨の奏を焚く。魏文の楊彪に強ひざるも、宋武の徐廣に猜なきも、何を以て之に加へん。廷璋は懐を開きて以て罕孺を待ち、宋偓は章を抗して以て重進を察し、向拱は謀を献じて以て上党を平らぐ。時に乗じて功を立て、各々其の長を奮ひ、尚ぶに足る者有り。王彦超は戎昭より起り、歴て藩服を典とし、年を引きて高蹈す。武夫の貞なり。多殺を自悔し、後裔に戒めを垂るるに至りては、仁人の用心に近し。張永德は前朝の勳伐にして、夙に太祖を識り、潜かに尊奉を懐く。橋公祖の知有りと雖も、而して人臣の二心なき者に非ず。乾德蜀を伐つ師は、七旬に未だ至らざるに降款至る。諸将の功、何ぞ泯すべけんや。王全斌は貨を黷し降を殺し、尋で禍変を啓く。太祖之を罪すれども、八議の貸に従ふ。斯れ功臣を馭するの道を得たり。延澤は地の険を相する能くし、豫め屯備を謀る。継濤・彦暉は、先登重傷し、殞没して避けず。咸に称すべし。