宋史

列傳第十四 郭崇 楊廷璋 宋偓 向拱 王彦超 張永德 王全斌 康延澤 王繼濤 高彦暉

列傳第十四 郭崇 楊廷璋 宋偓 向拱 王彦超 張永德 王全斌 康延澤 王繼濤 高彦暉

郭崇

原文郭崇

晉祖が雲州・應州の地を割いて契丹に与えると、崇はこれに仕えることを恥じ、奮い立って南帰し、鄆州・河中・潞州の三鎮の騎軍都校を歴任した。開運年中、太原を守備した。漢祖が挙兵すると、崇を前鋒とした。汴に入り、護聖左第六軍都校に改め、郢州刺史を兼ね、さらに富州刺史を兼ねた。

原文晉祖割雲應地入爲契丹,崇恥事之,奮身南歸,曆鄆、河中、潞三鎮騎軍都校。開運中,戍太原。會漢祖起義,以崇爲前鋒。入汴,改護聖左第六軍都校、領郢州刺史,改領富州。

周祖に従って河中を平定し、功により果州防禦使に昇進し、護聖右廂都指揮使を兼ねた。周祖が鄴を鎮守すると、崇に行営騎軍を兼ねさせ、天雄軍都巡檢使とした。

原文從周祖平河中,以功遷果州防禦使、領護聖右廂都指揮使。周祖鎮鄴,以崇領行營騎軍兼天雄軍都巡檢使。

乾祐三年の冬、崇は周祖に従って国難を平定し、李筠とともに劉子陂で慕容彥超を防ぎ、これを敗走させ、崇を侍衛馬軍都指揮使に補任した。馮道らを徐州に遣わして湘陰公劉贇を迎え、これを立てようとした。契丹が南侵したため、周祖は北征し、澶州に駐屯し、六軍に推戴された。枢密使王峻が京師で変事を聞き、崇に七百騎を率いて東へ向かい劉贇を防がせ、睢陽で遭遇した。崇は牙門の外に陣を敷き、劉贇は恐れて門楼に登り崇を呼んで言った、「汝らはどうして急にここまで来たのか」。崇は言った、「澶州で軍変があり、崇らを遣わして乗輿を護衛させたのであり、他意はない」。劉贇は崇を呼んで楼に上がらせようとしたが、崇は登ることを敢えなかった。劉贇はすぐに馮道を下ろして崇と語らせ、崇はようやく登楼し、軍情が帰属する所あり、天命すでに定まったことを詳しく述べた。劉贇は崇の手を握って泣き、しばらくうつむいていた。やがて劉贇が率いる衛兵の都校張令超が兵を率いて崇に帰順した。劉贇の親将の賈氏・王氏ら数人が怒目して馮道を見つめ、害そうとした。劉贇は言った、「汝らは軽率にするな、これは令公(馮道)に関わることではない」。崇はただちに劉贇を館舎に送り届けた。

原文乾祐三年冬,崇從周祖平國難,與李筠拒慕容彥超於劉子陂,走之,以崇補侍衛馬軍都指揮使。遣馮道等迎湘陰公贇於徐州,將立之。會契丹南侵,周祖北征,次於澶州,爲六軍推戴。樞密使王峻在京師聞變,遣崇率七百騎東拒贇,遇於睢陽。崇陣於牙門外,贇懼,登門樓呼崇曰:「汝等何遽至此?」崇曰:「澶州軍變,遣崇等來衛乘輿,非有他也。」贇召崇升樓,崇未敢登,即遣道下與語,崇乃登,具言軍情有屬,天命已定,贇執崇手泣,俯首久之。俄而贇所領衛兵都校張令超以眾歸崇,贇親將賈、王等數怒目視道,將害之。贇曰:「汝輩勿草草,此非關令公事。」崇即送贇就館舍。

廣順初年、定武軍節度使を兼ね、また京城都巡檢使・修城都部署兼歩軍公事知事となった。まもなく、陳州を節度使鎮に昇格させ、潁州をこれに隷属させ、崇を節度使に任命した。周祖が親しく郊祀を行うと、同平章事を加えられ、出鎮して澶州に赴いた。周祖が病に伏すと、急いで鎮所に戻るよう促された。

原文廣順初,領定武軍節度,又爲京城都巡檢使、修城都部署兼知步軍公事。未幾,復升陳州爲節鎮,以潁州隸焉,命崇爲節度。周祖親郊,加同平章事,出鎮澶州。周祖不豫,促還鎮所。

世宗が即位すると、幷州の軍が潞州に侵攻したため、崇と符彥卿を固鎮に出撃させて防がせた。世宗が親征し、また符彥卿の副として行営都部署となった。軍が帰還すると、兼侍中を加えられた。冬、真定尹・成徳軍節度使に移った。顕徳四年、世宗が淮南を征討すると、契丹が騎兵一万余騎を出して辺境を掠奪したため、崇は軍を率いて束鹿県を攻め落とし、数百級を斬首し、捕虜と鹵獲は甚だ多かった。五年、天清節に崇が来朝し、致政(引退)を求める上表をしたが、許されず、襲衣・金帯・器幣・鞍勒馬を賜り、帰任させた。世宗が関南を平定し、静安軍に至ると、崇が来朝した。恭帝が位を継ぐと、検校太師を加えられた。

原文世宗立,幷人侵潞州,命崇與符彥卿出固鎮以禦之。世宗親征,又副彥卿爲行營都部署。師還,加兼侍中。冬,移真定尹、成德軍世度。四年,世宗征淮南,契丹出騎萬乘餘掠邊,崇率師攻下束鹿縣,斬數百級,俘獲甚眾。五年,天清節,崇來朝,表求致政,不允,賜襲衣、金帶、器幣、鞍勒馬,遣之。世宗平關南,至靜安軍,崇來朝。恭帝嗣位,加檢校太師。

宋の初め、兼中書令を加えられた。崇は周室の恩遇を追憶して感激し、時に涙を流した。監軍陳思誨が密かにその様子を上奏し、ついでに言った、「常山は辺境に近く、崇に異心があります。慎んで備えるべきです」。太祖は言った、「私はかねてより崇が恩義に厚いことを知っている。おそらく何か感慨を催したのであろう」。人を遣わして偵察させると、戻って報告して言うには、崇はちょうど賓客や僚属に対し池のほとりの小亭に座って飲み博打をしており、城中は平穏であるとのことであった。太祖は笑って言った、「果たして朕の言うとおりであった」。まもなく来朝した。時に李重進を平盧軍節度使に任命したが、重進が叛いたため、改めて崇を節度使に任命した。乾徳三年、卒去。享年五十八。太祖はこれを聞いて震悼し、太師を追贈した。

原文宋初,加兼中書令。崇追感周室恩遇,時復泣下。監軍陳思誨密奏其狀,因言:「常山近邊,崇有異心,宜謹備之。」太祖曰:「我素知崇篤於恩義,蓋有所激發爾。」遣人覘之,還言崇方對賓屬坐池潭小亭飲博,城中晏然。太祖笑曰:「果如朕言。」未幾來朝。時命李重進爲平盧軍節度,重進叛,改命崇爲節制。乾德三年,卒,年五十八。太祖聞之震悼,贈太師。

子の守璘は洛苑副使に至り、妻は明徳皇后の姉である。子の允恭は父の任により殿直に任じられ、崇儀副使・常州知事の任に至って卒去した。次女は仁宗の皇后となった。天聖三年、詔して郭崇に尚書令しょうしょれい兼中書令を追贈し、守璘に太尉・寧国軍節度使を、允恭に太傅・安徳軍節度使を追贈した。六年、また詔して郭崇を追封して英国公とし、守璘に康清軍節度使兼中書令を、允恭に忠武軍節度使兼侍中を加贈した。允恭の子の中庸は左侍禁・閣門祗候・副使となった。中和は潁川郡王趙徳彝の女を娶り、西染院副使となった。

原文子守璘至洛苑副使,妻即明德皇后之姊也。子允恭,以父任授殿直,至崇儀副使、知常州卒。次女爲仁宗皇后。天聖三年,詔贈崇尚書令兼中書令,守璘太尉、寧國軍節度,允恭太傅、安德軍節度。六年,又詔追封崇英國公,加贈守璘康清軍節度兼中書令,允恭忠武軍節度兼侍中。允恭子中庸,左侍禁、閣門祗候、副使;中和,娶潁川郡王德彝女,爲西染院副使。

楊廷璋

原文楊廷璋

周祖が漢祖に従って太原を鎮守した時、廷璋はしばしば姉(周祖の妻)を訪ね、周祖はその純朴で謹直なところを愛した。姉が亡くなると、廷璋を留めて側に仕えさせた。周祖が三叛を討伐に出、入って国難を平定する際、廷璋はしばしば奇計を献じた。即位すると、廷璋の姉を追冊して淑妃とし、廷璋を右飛龍使に抜擢したが、廷璋は固辞して拝命せず、その恩を父の洪裕に推し及ぼすことを願った。すぐに洪裕を召し出して闕に赴かせようとしたが、洪裕は老病を理由に辞退したため、そのまま金紫光禄大夫・真定少尹に任じた。廷璋は皇城使・昭義兵馬都監・澶州巡検使を歴任した。

原文周祖從漢祖鎮太原,廷璋屢省其姊,周祖愛其純謹。姊卒,留廷璋給事左右。及出討三叛,入平國難,廷璋數獻奇計。即位,追冊廷璋姊爲淑妃,擢廷璋爲右飛龍使,廷璋固辭不拜,願推恩其父洪裕。即令召洪裕赴闕,以老病辭,就拜金紫光祿大夫、真定少尹。廷璋曆皇城使、昭義兵馬都監、澶州巡檢使。

世宗が澶淵から還京し、廷璋に幹才があると言い、客省使に昇進させた。まもなく河陽巡検・州事知事となった。涇州の帥史懿が病気と称して朝見せず、周祖は廷璋を遣わして代わらせようとした。出発に際し、廷璋に言った、「懿が命令に従わなければ、すぐにこれを謀れ」。廷璋が到着すると、左右を退け、詔書を史懿に示し、禍福を諭したので、史懿は即日に出発した。まもなく周主(周祖)が崩じたと聞き、廷璋は数日間、吐血して食事をとらなかった。

原文世宗自澶淵還京,言廷璋有幹材,遷客省使。俄爲河陽巡檢、知州事。涇帥史懿稱疾不朝,周祖命廷璋往代之。將行,謂之曰:「懿不就命,即圖之。」廷璋至,屏左右,以詔書示懿,諭以禍福,懿即日載路。俄聞周主崩,廷璋嘔血不食者數日。

世宗が即位すると、左驍ぎょう衛大将軍に任じ、宣徽北院使を充任した。劉崇を征討する際、建雄軍節度使とした。鎮所で数年、多くの恵みと慈愛を行った。前後して兵を率いて太原の境内に入り、仁義・高壁などの砦を陥とし、刺史・軍校数十人を捕らえ、その民数千戸を俘虜とし、兵器・羊馬数万を鹵獲した。幷州の軍は沁州を二百里棄て、新城に退いて守ったため、廷璋は保安・興同・白壁など十余りの砦を設置した。

原文世宗立,拜左驍衛大將軍,充宣徽北院使。征劉崇,以爲建雄軍節度。在鎮數年,頗有惠愛。前後率兵入太原境,拔仁義、高壁等砦,獲刺史、軍校數十人,俘其民數千戶,獲兵器羊馬數萬計。幷人棄沁州二百里,退保新城,廷璋遂置保安、興同、白壁等十餘砦。

ちょうど隰州刺史孫議が卒去したため、廷璋は監軍李謙溥を遣わして州事を執らせた。謙溥が到着すると、幷州の軍がその城を攻撃しに来た。議論する者は速やかに救援すべきだと言った。廷璋は言った、「隰州の城壁は堅固で完備しており、幷州の軍が急に来襲しても、攻城の具を整えることはできない。奇計をもってこれを破るべきである」。そこで敢死の士百余りを募り、重賞を約束し、間道から人を遣わして謙溥と内応を約束させた。到着すると、すぐに枚を銜えて夜襲し、城中は鬨の声をあげて出撃し、幷州の軍は大敗し、数十里追撃して千余級を斬首し、器甲一万余りを鹵獲した。奏上が届くと、世宗は喜んで言った、「我が舅は真に寇を防ぐことができる」。詔を下してこれを褒めた。

原文會隰州刺史孫議卒,廷璋遣監軍李謙溥領州事。謙溥至,幷人來攻其城,議者以爲宜速救之。廷璋曰:「隰州城壁堅完,幷人奄至,未能爲攻城具,當出奇以破之。」乃募敢死士百餘人,許以重賞,由間道遣人約謙溥爲內應。既至,即銜枚夜擊,城中鼓噪以出,幷人大潰,追北數十里,斬首千餘級,獲器甲萬計。奏至,世宗喜曰:「吾舅真能禦寇。」詔褒之。

世宗が河東より還り、加えて檢校太保となす。顯德六年夏、率いる所部を以て河東界に入り、堡砦十三を下し、巡檢使靳漢晁等三人を降す。恭帝即位し、加えて檢校太傅となす。

原文世宗自河東還,加檢校太保。顯德六年夏,率所部入河東界,下堡砦十三,降巡檢使靳漢晁等三人。恭帝即位,加檢校太傅。

宋初、加えて檢校太尉となす。吏民闕に詣で、碑を立て功徳を頌することを請う。太祖命じて盧多遜に文を撰せしめて之を賜う。李筠叛き、密かに親信の使を遣わし蠟書を齎して隣境に援を求めしむ。廷璋之を獲、械して京師に送り、因りて攻取の策を上る。即ち詔を下して以て經略を委ぬ。及車駕親征し、詔して廷璋に所部を率い陰地に入り、賊勢を分からしむ。賊平ぎ、鎮に帰る。是の秋來朝し、改めて邠州に鎮す。乾德四年、鄜州に移る。開寶二年、召されて右千牛衛上將軍となす。四年、卒す。年六十。賻帛二百匹。

原文宋初,加檢校太尉。吏民詣闕,請立碑頌功德。太祖命盧多遜撰文賜之。李筠叛,潛遣親信使齎蠟書求援鄰境,廷璋獲之,械送京師,因上攻取之策,即下詔委以經略。及車駕親征,詔廷璋率所部入陰地,分賊勢。賊平,歸鎮。是秋來朝,改鎮邠州。乾德四年,移鄜州。開寶二年,召爲右千牛衛上將軍。四年,卒,年六十。賻帛二百匹。

廷璋は美髯にして、上長く下短く、容儀を修めるを好み、小吏を見るも、未だ嘗て懈惰せず。士を善く待ち、幕府に知名の人多し。晉州に在る日、太祖命じて荊罕儒を鈐轄と為す。罕儒は廷璋を周朝の近親と為し、異志有るを疑い、府中に入る毎に、従者は皆刀劍を持ち、廷璋を図らんとす。廷璋は誠を推して之を待ち、殊に設備せず、罕儒も亦敢えて発せず、終に亦患無し。議者は廷璋の涇州に在りて史懿を保全せしを以て、陰德の報いなりとす。

原文廷璋美髯,長上短下,好修容儀,雖見小吏,未嘗懈惰。善待士,幕府多知名人。在晉州日,太祖命荊罕儒爲鈐轄。罕儒以廷璋周朝近親,疑有異志,每入府中,從者皆持刀劍,欲圖廷璋。廷璋推誠待之,殊不設備,罕儒亦不敢發,終亦無患。議者以廷璋在涇州保全史懿,陰德之報也。

洪裕少時、嘗て境の貂裘陂に漁す。忽ち馳騎至る者有り、二石の雁を洪裕に授け、一は翼を左に掩い、一は翼を右に掩いて曰く、「吾は北嶽の使者也」と。言い訖りて、忽ち見えず。是歳淑妃を生み、明年廷璋を生む。家遂に昌盛す。

原文洪裕少時,嘗漁於境貂裘陂,忽有馳騎至者,以二石雁授洪裕,一翼掩左,一翼掩右,曰:「吾北嶽使者也。」言訖,忽不見。是年生淑妃,明年生廷璋,家遂昌盛。

廷璋子七人、皆官を求めしめず、惟だ其の孤甥安崇勳を表して西頭供奉官を得しむ。崇勳は、後唐の樞密使重誨の子なり。廷璋の子坦・塤皆進士及弟。坦は屯田員外郎、鹽鐵副使・判官に至り、塤は都官郎中と為る。

原文廷璋子七人,皆不爲求官,惟表其孤甥安崇勳得西頭供奉官。崇勳,後唐樞密使重誨子也。廷璋子坦、塤皆進士及弟。坦至屯田員外郎,鹽鐵副使、判官,塤爲都官郎中。

宋偓

原文宋偓

晉祖嘗て莊宗に事え、偓の母の入見する毎に、詔して拝せしめず、因りて従容として之に謂いて曰く、「朕は主家に誠に靳く所無し。但だ朝廷多事、府庫空竭、主の知る所なり。今主は輦下に居り、薪米を憂いと為す。当に主を奉じて西洛に居らしめ、以て豐泰に就かしむべし」と。命じて偓に分司して就養せしめ、敕して有司に供給せしめ、醯醢に至るまで、率ね加等有り。

原文晉祖嘗事莊宗,每偓母入見,詔令勿拜,因從容謂之曰:「朕於主家誠無所靳,但朝廷多事,府庫空竭,主所知也。今主居輦下,薪米爲憂,當奉主居西洛以就豐泰。」命偓分司就養,敕有司供給,至於醯醢,率有加等。

漢祖晉陽に在り、其の子承訓を遣わして洛に至らしめ、書を偓の母に奉り、偓と昏を結ぶ。即ち永寧公主なり。累ねて北京皇城使を授く。漢の乾祐初、拝して右金吾衛大將軍・駙馬都尉と為す。隱帝即位し、昭武軍節度を授け、鎮を滑州に移す。

原文漢祖在晉陽,遣其子承訓至洛,奉書偓母,與偓結昏,即永寧公主也。累授北京皇城使。漢乾祐初,拜右金吾衛大將軍、駙馬都尉。隱帝即位,授昭武軍節度,移鎮滑州。

周祖兵を挙げて闕に向かう。時に偓は鎮に在り、門を開き迎え謁す。周祖深く之を徳とす。偓、率いる所部の兵を従えて周祖に従い、劉子陂に至る。隱帝の衛兵悉く走りて周祖に投ず。周祖、偓に謂いて曰く、「至尊危し。公は近親、急ぎ去りて擁衛し、驚動せしむる無かれ」と。偓、馬を策して御営に及びしに、軍已に乱る。廣順初、内艱に丁し、服除け、左監門衛上將軍を授かる。

原文周祖舉兵向闕,時偓在鎮,開門迎謁,周祖深德之。偓率所部兵從周祖,至劉子陂,隱帝衛兵悉走投周祖。周祖謂偓曰:「至尊危矣,公近親,可亟去擁衛,無令驚動。」偓策馬及御營,軍已亂矣。廣順初,丁內艱,服除,授左監門衛上將軍。

世宗淮南を征し、偓を令して左龍武統軍趙讚・右神武統軍張彥超・前景州刺史劉建と共に壽州の四面を巡檢せしむ。師還り、偓を以て右神武統軍と為し、行營右廂都排陣使を充て、又廬州城下の副部署と為す。吳人大いに舟師を発す。次で東氵布洲に、蘇・杭の路を断つ。世宗、偓を遣わして戰艦数百艘を領いて之を襲わしめ、又遣わし大将慕容延釗に歩騎を率いて進ませ、水陸勢を合して大いに之を破る。

原文世宗征淮南,令偓與左龍武統軍趙讚、右神武統軍張彥超、前景州刺史劉建於壽州四面巡檢。師還,以偓爲右神武統軍,充行營右廂都排陣使,又爲廬州城下副部署。吳人大發舟師。次東氵布洲,斷蘇、杭之路。世宗遣偓領戰艦數百艘襲之,又遣大將慕容延釗率步騎而進,水陸合勢大破之。

世宗嘗て野に次す。虎有りて乘輿に逼る。偓、弓を引きて之を射れば、一発にして斃る。江北の諸州悉く平ぎ、江を画して界と為す。世宗、迎鑾に駐まり、偓を命じて舟師三千を率い江を溯りて上り、諸郡を巡警せしむ。師還り、復た滑州の節制を授け、又鎮を鄧州に移す。恭帝即位し、開府儀同三司を加う。

原文世宗嘗次於野,有虎逼乘輿,偓引弓射之,一發而斃。及江北諸州悉平,畫江爲界。世宗駐迎鑾,命偓率舟師三千溯江而上,巡警諸郡。師還,復授滑州節制,又移鎮鄧州。恭帝即位,加開府儀同三司。

宋初、檢校太師を加え、舟師を領して江徼を巡撫せしめ、舒州團練使司超之を副えしむ。李重進謀りて揚州を以て叛かんとす。偓其の状を察し、章を飛ばして以て聞かしむ。太祖、偓を令して海陵に屯し、以て重進の去就を観せしむ。遂に揚州征従し、行營排陣使と為る。及平ぎ、功を以て保信軍節度に改む。來朝し、鎮を華州に徙す。会に池を都城南に鑿く。偓を命じて舟師数千を率い以て水戰を習わしむ。東駕数たび臨み観る。五年、忠武軍節度に改む。

原文宋初,加檢校太師,遣領舟師巡撫江徼,舒州團練使司超副之。李重進謀以揚州叛,偓察其狀,飛章以聞。太祖令偓屯海陵,以觀重進去就。遂從征揚州,爲行營排陣使。及平,以功改保信軍節度。來朝,徙鎮華州。會鑿池都城南,命偓率舟師數千以習水戰,東駕數臨觀焉。五年,改忠武軍節度。

開寶初、太祖、偓の長女を納れて后と為す。偓、本名は延渥、父の名下の字「水」に従う。開寶初、上言して偓に改む。三年、邠州に徙す。太平興國初、同平章事を加う。二年、定國軍節度に移す。四年、太原平定に従い、又幽州征伐に従う。詔して偓と尚食使侯昭願に兵万余を領し、城南面を攻めしむ。師還り鎮に帰る。

原文開寶初,太祖納偓長女爲后。偓本名延渥,以父名下字從「水」,開寶初,上言改爲偓。三年,徙邠州。太平興國初,加同平章事。二年,移定國軍節度。四年,從平太原,又從征幽州。詔偓與尚食使侯昭願領兵萬餘,攻城南面。師還歸鎮。

五年冬、車駕大名に幸し、偓を召して行在に詣らしめ、詔して滄州を知らしむ。六年、邢國公に封ず。俄に同州に遷す。九年、又右衛上將軍と為る。雍熙中、曹彬等北伐し、班師し、偓を命じて霸は州を知らしめ、闕に帰る。端拱二年、卒す。年六十四。朝を廃し、侍中を贈り、諡して莊惠と曰う。中使葬を護る。

原文五年冬,車駕幸大名,召偓詣行在,詔知滄州。六年,封邢國公。俄遷同州。九年,又爲右衛上將軍。雍熙中,曹彬等北伐,班師,命偓知霸州,歸闕。端拱二年,卒,年六十四。廢朝,贈侍中,諡莊惠,中使護葬。

偓は、莊宗の外孫、漢祖の婿、女は即ち孝章皇后、近代貴盛にして、其の比有ること鮮し。子元靖は供備庫使に至り、元度は供備庫副使に至り、元載・元亨は並びに左侍禁・閣門祗候に至る。初め、孝章寢疾し、晉國長公主に語りて曰く、「我瞑目して他に憂い無し。惟だ族属の敦睦せざるを慮り、人に笑を貽すを慮る」と。景德中、偓の幼子元翰果たして京府に詣で、家財を析かんことを求む。

原文偓,莊宗之外孫,漢祖之婿,女即孝章皇后,近代貴盛,鮮有其比。子元靖至供備庫使,元度至供備庫副使,元載、元亨並至左侍禁、閣門祗候。初,孝章寢疾,語晉國長公主曰:「我瞑目無他憂,惟慮族屬不敦睦,貽笑於人。」景德中,偓幼子元翰果詣京府,求析家財。

真宗はこれを聞き、詔して釈放して問わず、なおその族属に先後の遺戒を遵守するよう諭した。元度の子惟簡は殿直となり、惟易は奉職となった。

原文真宗聞之,詔釋勿問,仍諭其族屬務遵先後遺戒焉。元度子惟簡,爲殿直,惟易爲奉職。

向拱

原文向拱

周祖が即位すると、宮苑使を授かった。広順年間、皇城使に遷り、出て昭義屯軍を監した。幷人が馬歩十五都を率いて侵攻してきたので、拱は巡検陳思讓とともに虒亭の南で迎え撃ち、三百余人を殺し、百人を生け捕り、その帥王璠・曹海金を捕らえ、また壺関でその軍を破った。軍が帰還すると、慕容彦超征討に合わせて都監に任じ、六銖・袍帯・鞍勒馬・器仗を賜り、即日派遣された。賊が平定されると、陝州巡検に任じられた。間もなく、客省使・知陝州に改めた。

原文周祖即位,授宮苑使。廣順中,遷皇城使,出監昭義屯軍。幷人領馬步十五都來侵,拱與巡檢陳思讓逆戰於虒亭南,殺三百餘人,擒百人,獲其帥王璠、曹海金,又敗其軍於壺關。師還,會征慕容彥超,命爲都監,賜以六銖、袍帶、鞍勒馬、器仗,即日遣行。賊平,命爲陝州巡檢。未幾,改客省使、知陝州。

折しも延州の高允権が卒去し、その子の紹基が継承を求めて自ら使務を領した。朝廷はさらに禁兵を増派して戍守させ、拱に権知州事を命じ、まもなく内客省使に遷った。かつて州民が軍装兵器を西人に売ることを禁ずるよう請い、従われた。所属部落に漢戸を侵盗する者がいたので、拱はその酋帥を招いて犒労し、侵犯しないよう誓わせた。召されて左神武大将軍・宣徽南院使に拝された。

原文會延州高允權卒,其寺紹基欲求繼襲,即自領使務。朝廷益禁兵戍守,命拱權知州事,俄遷內客省使。嘗請禁州民賣軍裝兵器於西人,從之。所屬部落有侵盜漢戶者,拱招其酋帥犒之,令誓不敢侵犯。召拜左神武大將軍、宣徽南院使。

劉崇が侵入したので、馬軍の樊愛能・歩軍の何徽を沢州に派遣し、拱にその監護を命じた。世宗が親征すると、拱は精騎を率いて陣中に居た。高平の戦勝で、功により義成軍節度・河東行営前軍都監を兼ねた。軍が帰還すると、出鎮して陳州に赴いた。

原文劉崇入寇,遣馬軍樊愛能、步軍何徽赴澤州,令拱監護之。世宗親征,拱以精騎居陣中。高平之捷,以功兼義成軍節度、河東行營前軍都監。師還,出鎮陳州。

先に、晋末に秦州節度使何建が秦・成・階の三州を以て蜀しょくに入り、蜀人はさらに鳳州を取った。この時、宰相王溥が拱を推薦して討たせようとし、そこで拱を召し鳳翔の王景とともに兵を率いて大散関を出撃させ、城砦を連続して陥落させた。さらに拱を西南面行営都監に任じた。蜀人は鳳州の危急を聞き、兵卒五千余を発して鳳州北の堂倉鎮路に出て、黄花谷に至り、周軍の糧道を断たんとした。拱と王景はこれを偵知し、排陣使張建雄に兵二千を率いて直ちに黄花谷に至らせ、また別将に勁卒千人を率いて敵の背後に出て、その帰路を遮断させた。敵は果たして建雄に敗れ、堂倉に奔り、また勁卒に迫られ、両軍が合勢して掩撃し、その監軍王巒・孫韜ら千五百余人を生け捕りにした。これにより剣門の下の州邑営砦は、風を望んで夜遁し、秦・鳳・階・成は平定された。召還されて金祥殿で宴を賜り、襲衣・金帯・銀器・繒帛・鞍勒馬を賜った。

原文先是,晉末,秦州節度何建以秦、成、階三州入蜀,蜀人又取鳳州。至是,宰相王溥薦拱討之,乃召拱與鳳翔王景並率兵出大散關,連下城砦。復命拱爲西南面行營都監。蜀人聞鳳州急,發卒五千餘出鳳州北堂倉鎮路,行至黃花谷,將絕周師糧道。拱與王景偵知之,命排陣使張建雄領兵二千直抵黃花谷,又遣別將領勁卒千人出敵後,截其歸路。敵果爲建雄所敗,奔堂倉,又爲勁卒所逼,合勢掩擊,擒其監軍王巒、孫韜等千五百餘。由是劍門之下,州邑營砦,望風宵遁,秦、鳳、階、成平。召歸,宴於金祥殿。賜襲衣、金帶、銀器、繒帛、鞍勒馬。

顕徳二年、世宗が淮南に親征するに当たり、拱に権東京留守兼判開封府事を命じた。当時揚州は初めて平定されたばかりで、南唐は境上に出師し、回復を謀った。韓令坤に城を棄てる意向があったので、駅伝で拱を行在所に召し、淮南節度使に拝し、前のまま宣徽使兼縁江招討使とし、令坤を副使とした。当時周軍は淮陽に久しく駐屯し、都将の趙晁・白廷遇らは驕恣横暴で、互いに稟従せず、ただ貪濫を務め、人妻女を劫掠する者さえあった。拱が至ると、法を奉じない者数名を誅戮し、軍中は粛然とした。六月、秦・鳳の功を追叙し、検校太尉を加えた。

原文顯德二年,世宗親征淮南,以拱權東京留守兼判開封府事。時揚州初平,南唐令境上出師,謀收復。韓令坤有棄城之意,即驛召拱赴行在,拜淮南節度,依前宣徽使兼緣江招討使,以令坤爲副。時周師久駐淮陽,都將趙晁、白廷遇等驕恣橫暴,不相稟從,惟務貪濫,至有劫人妻女者。及拱至,戮其不奉法者數輩,軍中肅然。六月,追敘秦、鳳功,加檢校太尉。

当時周軍は寿春を包囲して一年経っても陥落せず、江・淮には草寇が充満し、呉の援兵は紫金山に柵を築き、城中と烽火で相応じた。また舒・蘄・和・泰は再び呉人の占拠するところとなった。拱は上言して、揚州の軍を暫く移して力を合わせて寿春を攻め、その城が陥落した後、改めて進取を図るべきだと述べた。世宗はこれに従った。拱はそこで庫を封じ、揚州の主管者に交付し、また本府の牙将を分遣して部を按巡させ城中を巡回させた。秋毫も犯さず、軍民は感悦した。軍が行く時には、呉人に糗糧を負って送る者さえあった。寿春に至り、李重進と合勢してその城を攻め、淮南道招討都監に改め、黄蓍砦で淮南軍二千を破った。

原文時周師圍壽春經年未下,江、淮草寇充斥,吳援兵柵於紫金山,與城中烽火相應。而舒、蘄、和、泰復爲吳人所據。拱上言欲且徙揚州之師並力攻壽春,俟其城下,然後改圖進取。世宗從之。拱乃封庫,付揚州主者;復遣本府牙將分部按巡城中。秋毫不犯,軍民感悅。及師行,吳人有負糗糧以送者。至壽春,與李重進合勢以攻其城,改淮南道招討都監,敗淮南軍二千於黃蓍砦。

世宗が再び寿州に行幸し、拱を召して宴を賜り甚だ厚く、武寧軍節度使とし、その属を率いて鎮淮軍に駐屯するよう命じた。寿州を攻克すると、功により同平章事を加え、武寧軍節度使を領した。四年、帰徳軍節度使に移った。淮南が平定されると、山南東道節度使に改め、まもなく西南面水陸発運招討使を充てた。恭帝が即位すると、検校太師・河南尹・西京留守を加えた。

原文世宗再幸壽州,召拱宴賜甚厚,以爲武寧軍節度,命領其屬駐鎮淮軍。及克壽州,以功加同平章事、領武寧軍節度。四年,徙歸德軍節度。淮南平,改山南東道節度,俄充西南面水陸發運招討使。恭帝即位。加檢校太師、河南尹、西京留守。

宋初、兼侍中を加えた。太祖が李筠を征討する時、拱は汜水まで迎謁し、上に言った、「筠の逆節は久しく著しく、兵力は日増しに盛んです。陛下は急ぎ大河を渡り、太行を越え、その未だ集まらざるに乗じてこれを誅すべきです。緩やかならば勢いは張り、力を為し難くなります。」帝はその言に従い、甲を巻き道を倍して急行した。筠は果たして兵を率いて南向し、車駕の至るを聞き、惶駭して沢州城に走って守り、遂に捕らえられた。乾徳初、郊祀に従い畢わり、譙国公に封じられた。

原文宋初,加兼侍中。太祖征李筠,拱迎謁至汜水,言於上曰:「筠逆節久著,兵力日盛,陛下宜急濟大河,逾太行,乘其未集而誅之,緩則勢張,難爲力矣。」帝從其言,卷甲倍道趨之。筠果率兵南向,聞車駕至,惶駭走澤州城守,遂見擒。乾德初,從郊祀畢,封譙國公。

拱は河南尹を十余年務め、専ら園林第舎を治め、声妓を好み、酒を縦にして楽しみ、府政は廃弛し、群盗が昼間に劫掠した。太祖はこれを聞いて怒り、安州に移鎮させ、左武衛上将軍焦継勲を代わりに任じ、継勲に謂って言った、「洛は久しく治まらず、卿を選んで代わらせる。再び拱の如きを行わぬように。」

原文拱尹河南十餘年,專治園林第舍,好聲妓,縱酒爲樂,府政廢弛,群盜晝劫。太祖聞之怒,移鎮安州,命左武衛上將軍焦繼勳代之,謂繼勳曰:「洛久不治,選卿代之,無復效拱爲也。」

太平興国初、進んで秦国公に封じられ、来朝し、左衛上将軍を授かった。八年、王彦超に代わって左金吾街仗事を判じた。表を奉って西京長夏門北園を献上し、詔して銀五千両を以て償った。雍熙三年、卒去、七十五歳。中書令を贈られた。

原文太平興國初,進封秦國公,來朝,授左衛上將軍。八年,代王彥超判左金吾街仗事。表獻西京長夏門北園,詔以銀五千兩償之。雍熙三年,卒,年七十五。贈中書令。

咸平初、真宗は拱の後裔に寒餒流離する者がいると聞き、その孫の懌を録用して国子助教とした。拱の子徳明は洛苑使に至り、昱は大中祥符八年の進士出身である。徳明の子悦は虞部郎中となった。

原文咸平初,真宗聞拱之後有寒餒流離者,錄其孫懌爲國子助教。拱子德明,至洛苑使;昱,大中祥符八年進士出身。德明子悅,爲虞部郎中。

王彦超

原文王彥超

当時晋祖が陝を帥い、そこで帳下に召し、心腹として委ねた。太原に移鎮し、兵を率いて南下しようとする時、従事桑維翰を遣わして契丹に援を求め、彦超を行従させた。天福初、累遷して奉徳軍校となり、再転して殿前散指揮都虞候・蒙州刺史を領した。漢初、岳州防禦使兼護聖左廂都校を領し、出て復州防禦使となった。

原文時晉祖帥陝,乃召至帳下,委以心腹。及移鎮太原,將引兵南下,遣從事桑維翰求援契丹,以彥超從行。天福初,累遷奉德軍校,再轉殿前散指揮都虞候、領蒙州刺史。漢初,領岳州防禦使兼護聖左廂都校,出爲復州防禦使。

周祖が内乱を平定した後、契丹を北征するに当たり、彦超を行営馬歩左廂都排陣使とし、周祖に従って汴に入った。時に彭門から湘陰公を迎えて帝位を継承させようとしたが、軍の変事に遭い、周祖が革命を起こすと、直ちに彦超を権知徐州節度に任じた。未だ赴任せず、湘陰公の旧校である鞏廷美が州に拠って叛いたため、真に彦超を武寧軍節度使に任じ、討伐を命じた。彦超は戦艦を督してその水砦を破り、勝に乗じてこれを陥落させた。

原文周祖平內難後,北征契丹,以彥超爲行營馬步左廂都排陣使,從周祖入汴。時自彭門迎湘陰公入纘位,會軍變,周祖革命,即命彥超權知徐州節度。未行,湘陰公舊校鞏廷美據州叛,真拜彥超武寧軍節度,命討之。彥超督戰艦破其水砦,乘勝拔之。

また枢密使王峻と共に劉崇を晋州で防ぎ、彦超は騎兵を進めて、劉崇を遁走させ、建雄軍節度使を授けられた。さらに配下の兵を率いて賊を霍邑まで追撃し、賊の歩兵騎兵が崖谷に墜ちて、死者は甚だ多かった。彦超が鎮所に帰還すると、間もなく河陽三城節度使に改められ、河中に移鎮した。

原文又與樞密使王峻拒劉崇於晉州,彥超以騎兵進,崇遁去,授建雄軍節度。復以所部追賊至霍邑,賊步騎墮崖谷,死者甚眾。彥超歸鎮所,俄改河陽三城節度,移鎮河中。

顕徳初年、同平章事を加えられた。劉崇が南寇すると、彦超に命じて兵を率いて晋州路を取って東に向かい邀撃させ、高平の戦いに従った。彦超は陰地関から符彦卿と兵を合わせて汾州を包囲し、諸将は急攻を請うたが、彦超は言った、「城は既に危うい。朝夕のうちに降伏するであろう。我が士卒は精鋭であるが、もしも先登を駆り立てれば、必ず死傷者が多いであろう。少し待つがよい。」翌日、州将の董希顏は果たして降伏した。そこで兵を率いて石州に向かい、彦超は自ら鼓を打って士卒を城壁に登らせ、身を矢石に冒し、数日でこれを陥落させ、その守将安彦進を擒らえ、行在所に献じた。軍が帰還すると、忠武軍節度使に改められ、兼侍中を加えられた。詔により配下の兵を率いて胡蘆河を浚渫し、李晏口に城を築いた。工事が未だ完了せず、遼人の一万余騎が来侵したので、彦超はこれを撃破し、殺傷すること甚だ多かった。

原文顯德初,加同平章事。劉崇南寇,命彥超領兵取晉州路東向邀擊,從戰高平。彥超自陰地關與符彥卿會兵圍汾州,諸將請急攻,彥超曰:「城已危矣,旦暮將降,我士卒精銳,儻驅以先登,必死傷者眾,少待之。」翌日,州將董希顏果降。遂引兵趣石州,彥超親鼓士乘城,躬冒矢石,數日下之,擒其守將安彥進,獻行在。師還,改忠武軍節度,加兼侍中。詔率所部浚胡蘆河,城李晏口。工未畢,遼人萬餘騎來侵,彥超擊敗之,殺傷甚眾。

宰相李穀が淮南を征討するに当たり、彦超を前軍行営副部署とし、寿州城下で淮南軍二千を破った。呉兵が水陸より来援し、李穀は正陽に退いて守り、呉人はその後を追った。時に李重進の兵が到着し、勢いを合わせて急撃し、呉人三万余人を大破し、敗走を二十余里追撃した。帰還後、京兆尹・永興軍節度使に改められた。六年夏、鳳翔に移鎮した。恭帝が位を嗣ぐと、検校太師・西面縁辺副都部署を加えられた。

原文宰相李穀征淮南,以彥超爲前軍行營副部署,敗淮南軍二千於壽州城下。吳兵水陸來援,穀退保正陽,吳人躡其後。會李重進兵至,合勢急擊,大敗吳人三萬餘眾,追北二十餘里。還,改京兆尹、永興軍節度。六年夏,移鎮鳳翔。恭帝嗣位,加檢校太師、西面緣邊副都部署。

宋初、兼中書令を加えられ、任を代えられて帰還した。太祖は彦超と旧知であり、因みに作坊に行幸し、従臣を召して宴射し、酒が酣になると、彦超に言った、「卿は昔、復州にいた時、朕が卿のもとに身を寄せようとしたが、何故朕を受け入れなかったのか。」彦超は階を降りて頓首し言った、「勺の水でどうして神龍を止められましょうか。当日、陛下が小郡に留まられなかったのは、天がそうさせたのでございます。」帝は大笑した。彦超は翌日、表を奉って待罪し、帝は中使を遣わして慰諭し、朝謁に赴くよう命じた。

原文宋初,加兼中書令,代還。太祖與彥超有舊,因幸作坊,召從臣宴射,酒酣,謂彥超曰:「卿昔在復州,朕往依卿,何不納我?」彥超降階頓首曰:「勺水豈能止神龍耶!當日陛下不留滯於小郡者,蓋天使然爾。」帝大笑。彥超翌日奉表待罪,帝遣中使慰諭,令赴朝謁。

未だ幾ばくもなく、また永興軍節度使とした。またその父で光禄卿致仕の重覇を太子少傅致仕とした。乾徳二年、再び鳳翔に鎮した。三年、父の喪に服し、起復した。開宝二年、右金吾衛上將軍判街仗事となった。

原文未幾,復以爲永興軍節度。又以其父光祿卿致仕重霸爲太子少傅致仕。乾德二年,復鎮鳳翔。三年,丁外艱,起復。開寶二年,爲右金吾衛上將軍判街仗事。

太平興国六年、邠国公に封じられた。七年、彦超は人に語って言った、「人臣は七十で致仕するのが、古の制度である。私は六十九歳、自ら止まるべきことを知らねばならぬ。」翌年、表を上して致仕を求め、太子太師を加えられ、金吾上將軍の禄を給された。彦超は請いが叶うと、冗食の僕妾を全て斥け去り、居処や服用は、ことごとく倹約に従った。雍熙三年、卒去した。七十三歳であった。尚書令を贈られた。

原文太平興國六年,封邠國公。七年,彥超語人曰:「人臣七十致仕,古之制也。我年六十九,當自知止。」明年,表求致仕,加太子太師,給金吾上將軍祿。彥超既得請,盡斥去僕妾之冗食者,居處服用,咸遵儉約。雍熙三年,卒,年七十三。贈尚書令。

開宝初年、彦超が鳳翔より来朝し、武行徳・郭従義・白重賛・楊廷璋と共に曲宴に侍した。太祖は従容として言った、「卿等は皆国家の旧臣であり、久しく劇鎮に臨み、王事に鞅掌している。これは朕が賢を優遇する意ではない。」彦超はその旨を知り、即ち前に進み出て奏上して言った、「臣は勲労なく、久しく栄寵を冒し、今は既に衰朽しました。願わくは骸骨を乞いて丘園に帰りたい、これが臣の願いです。」行徳らは竟に自ら昔の戦功や履歴の艱苦を陳べた。帝は言った、「これは異代の事柄であり、どうして論ずるに足りようか。」翌日、皆行徳らの節鎮を罷免した。当時の議論はこれによって彦超を称えた。

原文開寶初,彥超自鳳翔來朝,與武行德、郭從義、白重讚、楊廷璋俱侍曲宴。太祖從容謂曰:「卿等皆國家舊臣,久臨劇鎮,王事鞅掌,非朕所以優賢之意。」彥超知旨,即前奏曰:「臣無勳勞,久冒榮寵,今已衰朽,願乞骸骨歸丘園,臣之願也。」行德等竟自陳夙昔戰功及履歷艱苦,帝曰:「此異代事,何足論?」翌日,皆罷行德等節鎮。時議以此許彥超。

初め、彦超が致政しようとする時、常に諸子を戒めて言った、「私は累ねて統帥となり、人を多く殺した。身死して免れることが出来れば幸いであり、必ずや陰徳が後世に及ぶことはないであろう。汝らは善事を勉めて自らを庇うようにせよ。」そして卒去すると、諸子は果たして顕達する者はなかった。宣化門内に大きな邸宅があり、園林は甚だ盛んであったが、十余年も経たず、その家は既にこれを売り払ってしまった。孫の克従は、咸平元年に進士及第したが、州県官に止まった。

原文初,彥超將致政,每戒諸子曰:「吾累爲統帥,殺人多矣,身死得免爲幸,必無陰德以及後,汝曹勉爲善事以自庇。」及卒,諸子果無達者。宣化門內有大第,園林甚盛,不十餘年,其家已鬻之矣。孫克從,咸平元年進士及第,亦止於州縣。

張永徳

原文張永德

永徳は四歳の時、母の馬氏が離縁され、祖母に育てられ、継母の劉氏に孝行をもって知られた。周祖が初め侍衛吏であった時、穎と親しく、そこで娘を永徳に娶せた。永徳はその母と妻を迎えて宋州に赴いた。時に寇賊が充満し、そこで粗末な衣に着替え、容儀を毀ち、陋巷に住んだ。賊が通りかかると、即ち請い乞い、欺いて言った、「これは悲田院でございます。」賊は即ち去り、これによって禍を免れた。周祖が枢密使となると、表を上って永徳を供奉官押班に任じた。

原文永德生四歲,母馬氏被出,育於祖母,事繼母劉以孝聞。周祖初爲侍衛吏,與穎善,乃以女妻永德。永德迎其母妻詣宋州。時寇賊充斥,乃易弊衣,毀容儀,居委巷中。有賊過,即邀乞焉,紿曰:「此悲田院耳。」賊即舍去,繇是免禍。周祖爲樞密使。表永德授供奉官押班。

乾祐年中、命じて潞帥の常遇に生辰の礼幣を賜うこととなった。常遇は、周祖の外兄弟である。時に周祖は鄴に鎮していたが、讒言を受け、その家を族誅されようとしていた。永徳は潞州におり、密詔が常遇に授けられたと聞き、永徳はその意を探り知り、常遇に言った、「永徳を泣いて殺すというのではございませんか。永徳は即ち死んでも怨みはありませんが、君侯の家に累いすることを恐れます。」常遇は愕然として言った、「どういうことか。」永徳は言った、「奸邪が政を蝕んでいます。郭公は君側を清めんと誓っておられます。願わくは暫く永徳を吏に属させてください。事が成れば以て徳と為すに足り、成らなければ死ぬのも遅くはありません。」常遇は然りとし、ただ壮士に厳しく警衛させたが、しかし饋る所は甚だ厚かった。親しく問うて言った、「君は丈人の事が成るかどうかどう見るか。」永徳は言った、「おそらく必ず成るでしょう。」未だ幾ばくもなく、周祖の使者が到り、常遇は賀し且つ謝して言った、「老夫はほとんど大事を誤るところであった。」

原文乾祐中,命賜潞帥常遇生辰禮幣。遇,周祖之外兄弟也。時周祖鎮鄴,被讒,族其家。永德,在潞州,聞有密詔授遇,永德探知其意,謂遇曰:「得非泣殺永德耶?永德即死無怨,恐累君侯家耳。」遇愕然曰:「何謂也?」永德曰:「奸邪蠹政,郭公誓清君側,願且以永德屬吏,事成足以爲德,不成死未晚。」遇以爲然,止令壯士嚴衛,然所以饋之甚厚。親問之曰:「君視丈人事得成否?」永德曰:「殆必成。」未幾,周祖使至,遇賀且謝曰:「老夫幾誤大事。」

初め、魏人の柴翁が経義を里中で教えていた。娘がおり、後唐荘宗の時に掖庭に備えられたが、明宗が洛に入ると、宮中から出された。柴翁夫妻が迎えに行き、鴻溝に至り、雨が甚だしく降り、十日を過ぎても前に進めなかった。娘は装具を全て取り出し、その価値千万を計り、その半分を父母に与え、魏に帰るよう命じ、言った、「娘は溝の傍の郵舎の隊長で、項に黒い雀の形の黵がある者が、極めて貴い人であるのを見ました。願わくは彼に仕えたい。」尋ねると、それは周祖であった。父母は大いに恥じたが、終に奪うことが出来なかった。ある日、周祖に語って言った、「君は貴くて言い表せません。妾には緡銭五百万の資産がありますので、君に資します。時を失ってはなりません。」周祖はその資によって、軍司となることが出来た。

原文初,魏人柴翁以經義教里中,有女,後唐莊宗時備掖庭,明宗入洛,遣出宮。柴翁夫妻往迎之,至鴻溝,遇雨甚,逾旬不能前。女悉取裝具,計直千萬,分其半以與父母,令歸魏,曰:「兒見溝旁郵舍隊長,項黵黑爲雀形者,極貴人也,願事之。」問之,乃周祖也。父母大愧,然終不能奪。他日,語周祖曰:「君貴不可言,妾有緡錢五百萬資君,時不可失。」周祖因其資,得爲軍司。

柴翁は独り寝を好み、人が冥間の事を司ることが出来ると伝えた。一日、朝起きて、大笑いして止まなかった。妻が問うても答えなかった。翁は酒を好み、その妻が飲むよう強いて、極めて酔ったため、言葉を漏らして言った、「花項の漢が天子となる。」その妻は少し漏らし、常遇も微かに聞き及んだが、深くは言わなかった。ここに至り、永徳は故にこれをもって常遇を諷し、常遇は永徳を周祖のもとに送り返した。

原文柴翁好獨寢,人傳其能司冥間事。一日晨起,大笑不已,妻問之,不對。翁好飲,其妻逼令飲,極醉,因漏言曰:「花項漢作天子矣。」其妻頗露之,遇亦微有聞,未深言。至是,永德故以此諷遇,遇送永德歸周祖。

周祖が帝位に登ると、永徳の妻を晋国公主に封じ、永徳を左衛将軍・内殿直小底四班都知に任じ、駙馬都尉・和州刺史を兼ねさせた。一年余りして、殿前都虞候・恩州団練使に抜擢し、間もなく殿前都指揮使・泗州防禦使に遷った。時に二十四歳であった。

原文周祖登位,封永德妻爲晉國公主,授永德左衛將軍、內殿直小底四班都知,加駙馬都尉、領和州刺史。逾年,擢爲殿前都虞候、領恩州團練使,俄遷殿前都指揮使、泗州防禦使,時年二十四。

顕徳元年、幷州の劉崇が契丹を引き連れて侵攻してきた。世宗は親征し、高平で戦い、大将の樊愛能・何徽は戦いながら退却し敗北した。当時、太祖と永徳はそれぞれ牙兵二千を率い、永徳の部下は左射に長けていた。太祖と永徳は兵を奮い立たせ分かれて進撃し、大勝し、劉崇の軍七千余りを降伏させた。上党に駐屯した時、世宗は昼間に帳中で臥し、永徳を召して言った、「先日の高平の戦いでは、主将がまったく命令に従わず、樊愛能以下、私は法によって処断しようと思う」。永徳は言った、「陛下が封疆を固守したいのであればそれまでですが、必ずや疆宇を開拓し、威を四海に加えようとなさるなら、その過失を厳しく懲らしめるべきです」。世宗は枕を地に投げつけ、大声で善しと称えた。翌日、二将を誅して示し、軍威は大いに振るった。太原に進攻し、軍勢は城下に迫り、永徳は符彦卿・史彦超とともに北の忻口を押さえて契丹の援軍の通路を断った。太原城から四十里、周軍は城から三百歩離れ、二重に包囲した。四月から六月にかけて、攻撃したが陥落させられなかった。契丹の援兵が果たして到着し、彦超は戦死したが、続いてその兵二千を破り、残りは逃げ去った。永徳を武信軍節度使に任じた。軍が帰還すると、義成軍節度使に転任した。

原文顯德元年,幷州劉崇引契丹來侵。世宗親征,戰於高平,大將樊愛能、何徽方戰退衄。時太祖與永德各領牙兵二千,永德部下善左射,太祖與永德厲兵分進,大捷,降崇軍七千餘眾。及駐上黨,世宗晝臥帳中,召永德語曰:「前日高平之戰,主將殊不用命,樊愛能而下,吾將案之以法。」永德曰:「陛下欲固守封疆則已,必欲開拓疆宇,威加四海,宜痛懲其失。」世宗擲枕於地,大呼稱善。翌日,誅二將以徇,軍威大振。進攻太原,師薄城下,永德與符彥卿、史彥超北控忻口以斷契丹援路。太原城四十里,周師去城三百步,圍之二匝。自四月至六月,攻之不克。契丹援兵果至,彥超戰沒,繼敗其眾二千,餘眾遁去。以永德領武信軍節度。師還,徙義成軍節度。

当時、永徳の父の穎は隷人曹澄らに害され、それゆえ南唐に奔った。ちょうど南征が議され、永徳は自ら行って功を立てることを請い、許された。軍が寿春に至ると、劉仁贍は堅壁を守って降伏しなかった。永徳は疲弊した兵を出して誘い、傍らに精鋭の騎兵を伏せさせ、毎戦わざと不利を装い、北に三十里退却し、伏兵が突然起き上がって挟撃し、大いにこれを破り、仁贍はただ身一つで逃れたのみであった。

原文時永德父穎爲隸人曹澄等所害,因奔南唐。會議南征,永德請行自效,許之。師至壽春,劉仁瞻堅壁不下。永德出疲兵誘之,傍伏精騎,每戰陽不利,北退三十里,伏兵突起夾攻,大敗之,仁贍僅以身免。

三年、世宗は親征し、寿州城下に至ると、仁贍は澄ら三人を檻車に乗せて行在所に送り、軍の緩和を求める意図を示した。詔により永徳に賜り、その思いのままにさせた。太祖と永徳は前軍を率いて紫金山に至り、呉人は十八の砦を並べ、戦備は厳重であった。敵の砦の西側に高い丘があり、その営中を見下ろしていた。永徳は強弓・強弩を選んで丘の傍らに伏せさせ、太祖は兵を指揮して直ちに第一砦を攻撃し、戦いわざと勝たず、淮人は果たして砦を空にして出て戦った。永徳は急いで丘に登り、伏兵を発して馳せ入りこれを占拠した。敵の兵は散り散りに逃げた。翌日、また第二砦を攻撃し、鬨の声を上げて進み、始め北門を攻めると、淮人は南門を開いて逃げた。当時、韓令坤は揚州にいたが、再び呉人に逼迫され、退却しようとした。世宗は怒り、永徳に軍を率いて救援させ、また曲溪堰で泗州軍千余りを破り、まもなく下蔡に駐屯した。

原文三年,世宗親征,至壽州城下,仁贍執澄等三人檻送行在,意求緩師,詔賜永德,俾其甘心。太祖與永德領前軍至紫金山,吳人列十八砦,戰備嚴整。敵壘西偏有高隴,下瞰其營中,永德選勁弓強弩伏隴旁,太祖麾兵直攻第一砦,戰陽不勝,淮人果空砦出鬥,永德亟登隴,發伏馳入據之,敵眾散走。翌日,又攻第二砦,鼓噪而進,始攻北門,淮人開南門而遁。時韓令坤在揚州。復爲吳人所逼,欲退師。世宗怒,遣永德率師援之,又敗泗州軍千餘於曲溪堰,俄屯下蔡。

当時、呉人は周軍が寿春で攻囲を日に日に急にしているのを見て、また水戦を恃み、大いに楼船を発して江を蔽い下り、濠・泗に停泊し、周軍はかなり不利であった。呉将の林仁肇が兵千余りを率い、水陸ともに進み、また船数艘に薪を積み、風に乗って火を放ち、周の浮橋を焼こうとしたので、周人はこれを憂えた。まもなく風向きが逆転し、呉人は少し退却した。永徳は進軍してこれを破った。また夜に水に習熟した者を使い、その船の下に潜り、鉄鎖で繋ぎ、軽舟を引いて急襲した。呉人はすでに進むことができず、溺死者は甚だ多く、その巨艦数十艘を奪った。永徳は金帯を解き、水に習熟した者を賞した。そこで浮橋から十余歩離れた所に、鉄索千余尺で長淮を横断して遮り、また巨木を繋ぎ止め、これより備えの防御はますます堅固となった。まもなくまた淮北岸で千余りの兵を破り、戦船数十艘を獲、呉人は多く溺死した。詔によりこれを褒め称えた。

原文時吳人以周師在壽春攻圍日急,又恃水戰,乃大發樓船蔽江而下,泊於濠、泗,周師頗不利。吳將林仁肇帥眾千餘,水陸齊進,又以船數艘載薪,乘風縱火,將焚周浮梁,周人憂之。俄而風反,吳人稍卻,永德進兵敗之。又夜使習水者沒其船下,縻以鐵鎖,引輕舠急擊。吳人既不得進,溺者甚眾,奪其巨艦數十艘。永德解金帶,賞習水者。乃距浮梁十餘步,以鐵索千餘尺橫截長淮,又維巨木,自是備禦益堅矣。俄又敗千餘眾於淮北岸,獲戰船數十艘,吳人多溺死。詔褒美之。

冬、殿前都点検に抜擢された。四年、寿州を陥落させて帰還し、制により検校太尉・鎮寧軍節度使を授けられた。五年夏、契丹が辺境を侵したので、永徳に歩騎二万を率いてこれを防がせた。世宗に従って北伐し、帰還して澶淵に駐屯し、兵権を解かれ、検校太尉・同中書門下平章事を加えられた。恭帝が嗣位すると、忠武軍節度使に移った。

原文冬,擢爲殿前都點檢。四年,從克壽州還,制授檢校太尉、領鎮寧軍節度。五年夏,契丹擾邊,命永德率步騎二萬拒之。從世宗北伐,還駐澶淵,解兵柄,加檢校太尉、同中書門下平章事。恭帝嗣位,移忠武軍節度。

太祖が即位すると、兼侍中を加えられた。永徳が入朝すると、武勝軍節度使を授けられた。入朝して拝謁し、後苑に召して対面し、旧交を語り、巨觥で酒を飲ませ、毎度駙馬と称して名を呼ばなかった。当時、幷州・汾州はまだ陥落しておらず、太祖は密かにその策を訪ねた。永徳は言った、「太原の兵は少ないが悍猛で、これに契丹が援軍となるので、容易に取ることはできません。臣は毎年多く遊兵を設け、その農事を撹乱し、なお間使を発して契丹を諜報し、その援軍を絶って、その後で陥落させることができると考えます」。帝はこれをよしとした。まもなく本鎮に帰った。

原文太祖即位,加兼侍中。永德入朝,授武勝軍節度。入覲,召對後苑,道舊故,飲以巨觥,每呼駙馬不名。時幷、汾未下,太祖密訪其策。永德曰:「太原兵少而悍,加以契丹爲援,未易取也。臣以每歲多設遊兵,擾其農事,仍發間使以諜契丹,絕其援,然後可下也。」帝然之。俄歸本鎮。

ちょうど金陵討伐の軍を出すことになり、永徳は自らの資産で戦船数十艘を造り、糧万斛を運び、順陽から漢水に沿って下った。富民の高進という者は、豪横で誰も禁じることができなかったが、永徳はその奸を暴き、法に処した。高進は密かに宮廷に赴き、永徳が険阻な地に固く十余の砦を置き、不軌を図っていると誣告した。太祖は枢密都承旨の曹翰に騎兵を率いてこれを察させ、その砦の場所を詰問すると、高進は言った、「張侍中は我が宗族をことごとく誅し尽くし、法に中ることを望み、私憤を報いるだけです」。曹翰は高進を永徳に引き渡した。永徳は急いで縄を解いて市に就き、笞打って釈放した。当時、彼を長者と称えた。

原文會出師討金陵,永德以己資造戰船數十艘,運糧萬斛,自順陽沿漢水而下。富民高進者,豪橫莫能禁,永德乃發其奸,置於法。進潛詣闕,誣永德緣險固置十餘砦,圖爲不軌。太祖命樞密都承旨曹翰領騎兵察之,詰其砦所,進曰:「張侍中誅我宗黨殆盡,希中以法,報私憤爾。」翰以進授永德,永德遽解縛就市,笞而釋之。時稱其長者。

太平興国二年に入朝し、左衛上将軍に拝された。五年、秦・隴の竹木を市する際に過所で矯製して関市の算を免れた罪に坐し、本衛大将軍に降格された。数か月後、旧秩に復した。六年、鄧国公に進封された。雍熙年間、連続して滄州・雄州・定州の知事を務めた。

原文太平興國二年來朝,拜左衛上將軍。五年,坐市秦、隴竹木所過矯製免關市算,降爲本衛大將軍。數月,復舊秩。六年,進封鄧國公。雍熙中,連知滄、雄、定三州。

端拱元年、安化軍節度使に拝された。召還され、河北両路排陣使となり、定州に駐屯した。かつて契丹と戦い、斬獲甚だ多かった。二年、母の喪に服し、起復した。淳化初年、また田重進に代わって鎮州知事となった。二年、泰寧軍節度使兼侍中に改められ、出て幷州を判し、兼ねて并へい代都部署となった。

原文端拱元年,拜安化軍節度。召還,爲河北兩路排陣使,屯定州。嘗與契丹戰,斬獲甚眾。二年,丁內艱,起復。淳化初,又代田重進知鎮州。二年,改泰寧軍節度兼侍中,出判幷州兼並代都部署。

永徳は天文術に明るく、かつて僚佐と会食していた時、遼兵が州境を寇したと報せがあり、永徳は『太白万勝訣』を用いて占い、座客に語って言った、「彼らは年月の便利に乗じて、金に乗じて来るが、反って歳星に対逆する値となり、兵家の大忌であり、必ず敗れる」。間もなく、折御卿の捷報が届き、衆はようやく歓喜して服した。

原文永德明天文術,嘗與僚佐會食,有報遼兵寇州境者,永德用《太白萬勝訣》占之,語坐客曰:「彼雖以年月便利,乘金而來,反值歲星對逆,兵家大忌,必敗。」未幾,折禦卿捷報至,眾始歡伏。

五代以来の用兵は多くが姑息であり、藩鎮は頗る部下に販売を恣にさせた。宋初、功臣はなお旧事に習っていた。太宗が即位した初め、詔して群臣が駅伝で出入りする際、貨を携えて利を邀え、また人を諸処に遣わして回らせ、民と利を争うことを禁じた。永徳は太原にいた時、かつて親吏に茶を販売させて利を図り、関所の外に密かに出て羊を市したことがあり、転運使の王嗣宗に発覚され、左衛上将軍に罷免された。

原文自五代用兵,多姑息,藩鎮頗恣部下販鬻。宋初,功臣猶習舊事。太宗初即位,詔群臣乘傳出入,不得齎貨邀利,及令人諸處圖回,與民爭利。永德在太原,嘗令親吏販茶規利,闌出徼外市羊,爲轉運使王嗣宗所發,罷爲左衛上將軍。

真宗が即位すると、衛国公に進封された。間もなく、左金吾街仗事を判じた。咸平初年、たびたび上表して老齢を理由に退職を請い、太子太師を授けられ、西京に分司し、なおその孫の大理寺丞の文蔚に洛下で事務を執らせ、養老の便とした。

原文真宗即位,進封衛國公。未幾,判左金吾街仗事。咸平初,屢表請老,授太子太師,分司西京,仍以其孫大理寺丞文蔚厘務洛下,以便就養。

二年冬、契丹が辺境に侵入した。帝は北巡しようとし、永徳を宿将として、便殿に召入れて対面させ、座を賜り、辺境の要務について訪ねた。老齢で従行できないため、東京内外都巡検使として留めた。三年、制により検校太師・彰徳軍節度使・天雄軍知事を授けられた。まもなく衰耄のため、本鎮に還るよう命じられた。この秋に卒去した。七十三歳であった。内園使の馮守規を遣わして柩を護って京師に還らせ、中書令を追贈した。諸孫で官位を遷された者は五人であった。

原文二年冬,契丹入邊,帝將北巡,以永德宿將,召入對便殿,賜坐,訪以邊要。以老不可從行,留爲東京內外都巡檢使。三年,制授檢校太師、彰德軍節度、知天雄軍。俄以衰耄,命還本鎮。是秋卒,年七十三。遣內園使馮守規護柩還京師、贈中書令。諸孫遷秩者五人。

永徳の出母は、後に安邑の劉祚に再嫁した。永徳が南陽を鎮守した時、劉祚はすでに死去しており、母を迎えて州の官舎に帰し、二つの堂を建て、継母の劉氏と並んで住まわせた。劉氏が卒去すると、馬氏(永徳の出母)は中参に預かり、当時八十一歳で、太宗は労い、冠帔を賜い、莒国太夫人に封じた。同母弟の劉再思は、子城使に任じられ、市の西里に大邸を建て、劉氏の一族を集めた。

原文永德出母,後適安邑劉祚。及永德鎮南陽,祚已卒,迎母歸州廨,起二堂,與繼母劉並居。劉卒,馬預中參,時年八十一,太宗勞之,賜冠帔,封莒國太夫人。同母弟劉再思,署子城使,於市西里起大第,聚劉族。

初めに、永徳が睢陽に寓居していた時、書生が隣家に臥病しており、永徳が治療して癒した。ある日、書生は永徳の許に来て水銀五両を求め、得るとすぐに鼎に入れて煮ると、中金となった。この日より毎日永徳と交遊し、ある日、淮上に行くことを告げ、永徳に言うには、「後に必ず彼の地で再会しよう」と。永徳は言う、「呉の境は通じていない、どうして行けようか」と。書生は言う、「私には術がある」と。永徳は数舎まで送り、薬法を懇願すると、書生は言う、「君は大貴に至るであろう、私はこれを惜しむものではないが、君の福を損なうことを慮る」と。言い終わって去った。永徳が下蔡に屯した時、牙帳の前後の隊部曲八百人は、皆金銀の刀槊、繍の旗幟を備えていた。永徳は騎射に長け、左右に十的を分けて掛け、十矢を握り、疾駆して互いに発し、発すれば必ず中てた。淮の民が周りを取り囲んで見物する中、一人の僧が睥睨していたので、永徳が急いで召すと、それは睢陽の書生であった。夜、帳中に宿し、再び水銀の法を求めた。僧は言う、「初めに君の貴きを語ったが、今も誤りではなかった。終わりよく節を謹めば、五十年の富貴を保つであろう、どうしてこれを用いようか。然しながら志を降ろして賢を礼すれば、別に君に薬法を授ける者があるであろう」と。永徳はこれより益々家資を尽くして方士を招致したので、故に太祖は方外の士として遇した。

原文初,永德寓睢陽,有書生鄰居臥疾,永德療之獲愈。生一日就永德求汞五兩,既得,即置鼎中煮之,成中金。自是日與永德遊,一日,告適淮上,語永德曰:「後當相遇於彼。」永德曰:「吳境不通,子何可去?」生曰:「吾自有術。」永德送行數舍,懇求藥法,生曰:「君當大貴,吾不吝此,慮損君福。」言訖而去。及永德屯下蔡,牙帳前後隊部曲八百人,皆金銀刀槊,繡旗幟。永德善騎射,左右分掛十的,握十矢,疾馳互發,發必中。淮民環觀,有一僧睥睨,永德遽召之,乃睢陽書生也。夜宿帳中,復求汞法。僧曰:「始語君貴,今不謬矣。終能謹節,當保五十年富貴,安用此爲?然能降志禮賢,當別有授公藥法者。」永德由此益罄家資,延致方士,故太祖以方外待之。

初めに、睢陽の書生が太祖の受命の兆を語ったことがあり、この故に永徳は密かに心を寄せて奉じた。太祖が孝明皇后を聘わんとする時、永徳は緡銭金帛数千を出してこれを助けたので、太祖の朝が終わるまで恩沢は衰えなかった。孫の文蔚は虞部員外郎、文炳は殿中丞となった。

原文初,睢陽書生嘗言太祖受命之兆,以故永德潛意拱向。太祖將聘孝明皇后也,永德出緡錢金帛數千以助之,故盡太祖朝而恩渥不替。孫文蔚虞部員外郎,文炳殿中丞。

王全斌

原文王全斌

荘宗が洛に入ると、累ねて内職を歴任した。同光の末、国に内難があり、兵が宮城に入ると、近臣宿将は皆甲を棄てて遁走したが、全斌のみ符彦卿ら十数人と共に中に居て拒戦した。荘宗が流矢に中り、絳霄殿に扶掖されると、全斌は慟哭して去った。明宗が即位すると、禁軍の列校を補した。晋の初め、侯益に従って張従賓を汜水で破り、功により護聖指揮使に遷った。周の広順の初め、護聖を龍捷と改め、全斌を右廂都指揮使とした。兗州で慕容彦超を討つ時は、行営馬歩都校となった。顕徳中、向訓に従って秦・鳳を平らげ、恩州団練使を領した。間もなく泗州防禦使を領して遷った。世宗に従って淮南を平らげ、瓦橋関を得て、相州留後に改めた。

原文及莊宗入洛,累曆內職。同光末,國有內難,兵入宮城,近臣宿將皆棄甲遁去,惟全斌與符彥卿等十數人居中拒戰。莊宗中流矢,扶掖至絳霄殿,全斌慟哭而去。明宗即位,補禁軍列校。晉初,從侯益破張從賓於汜水,以功遷護聖指揮使。周廣順初,改護聖爲龍捷,以全斌爲右廂都指揮使。及討慕容彥超於兗州,爲行營馬步都校。顯德中,從向訓平秦、鳳,遂領恩州團練使。俄遷領泗州防禦使。從世宗平淮南,得瓦橋關,改相州留後。

宋の初め、李筠が潞州で叛くと、全斌は慕容延釗と共に東路より大軍に会して進討し、功により安国軍節度使に拝された。詔して西山の堡砦を完葺せしめると、時を逾えずして成った。建隆四年、洺州防禦使郭進らと兵を率いて太原の境に入り、数千人を俘虜として帰り、進んで楽平を克った。

原文宋初,李筠以潞州叛,全斌與慕容延釗由東路會大軍進討,以功拜安國軍節度。詔令完葺西山堡砦,不逾時而就。建隆四年,與洺州防禦使郭進等率兵入太原境,俘數千人以歸,進克樂平。

乾徳二年冬、また忠武軍節度使となった。即日に詔して蜀を伐ち、全斌を西川行営前軍都部署と命じ、禁軍の歩騎二万、諸州の兵一万人を率いて鳳州路より進討させた。川峡の地図を示して召し、方略を授けた。

原文乾德二年冬,又爲忠武軍節度。即日下詔伐蜀,命全斌爲西川行營前軍都部署,率禁軍步騎二萬、諸州兵萬人由鳳州路進討。召示川峽地圖,授以方略。

十二月、兵を率いて乾渠渡・万仞燕子の二砦を抜き、遂に興州を下すと、蜀の刺史藍思綰は西県に退いて保った。蜀軍七千人を破り、軍糧四十余万斛を獲た。進んで石圌・魚関・白水の二十余砦を抜き、先鋒の史延徳が三泉に進軍して蜀軍数万を破り、招討使韓保正・副使李進を擒にし、糧三十余万斛を獲た。既にして崔彦進・康延沢らが蜀軍を三泉まで逐い、遂に嘉陵に至り、多くを殺虜した。蜀人が閣道を断つと、軍は進めず、全斌は羅川路を取って入ることを議し、延沢は密かに彦進に謂う、「羅川路は険しく、軍は並進し難い、兵を分けて閣道を治め、大軍と深渡で会するに如かず」と。彦進が全斌に白すると、全斌はこれを然りとした。彦進・延沢に命じて閣道の治めを督せしめ、数日で成り、遂に進撃して金山砦を破り、小漫天砦を破った。全斌は羅川より深渡に趣き、彦進と会した。蜀人は江に依って陣を列べて待ち、彦進は張万友らを遣わしてその橋を奪わしめた。暮夜に会し、蜀人は大漫天砦に退いて保った。詰朝、彦進・延沢・万友が三道に分かれてこれを撃つと、蜀人はその精鋭を悉くして来て逆戦し、また大いにこれを破り、勝に乗じてその砦を抜くと、蜀の将王審超・監軍崇渥は遁去し、また三泉監軍劉延祚・大将王昭遠・趙崇韜と兵を引いて来戦し、三戦三敗し、利州の北まで追った。昭遠は遁去し、桔柏江を渡り、梁を焚いて、剣門に退いて守った。遂に利州を克ち、軍糧八十万斛を得た。

原文十二月,率兵拔乾渠渡、萬仞燕子二砦,遂下興州,蜀刺史藍思綰退保西縣。敗蜀軍七千人,獲軍糧四十餘萬斛。進拔石圌、魚關、白水二十餘砦,先鋒史延德進軍三泉,敗蜀軍靈數萬,擒招討使韓保正、副使李進,獲糧三十餘萬斛。既而崔彥進、康延澤等逐蜀軍過三泉,遂至嘉陵,殺虜甚眾。蜀人斷閣道,軍不能進,全斌議取羅川路以入,延澤潛謂彥進曰:「羅川路險,軍難並進,不如分兵治閣道,與大軍會於深渡。」彥進以白全斌,全斌然之。命彥進、延澤督治閣道,數日成,遂進擊金山砦,破小漫天砦。全斌由羅川趣深渡,與彥進會。蜀人依江列陣以待,彥進遣張萬友等奪其橋。會暮夜,蜀人退保大漫天砦。詰朝,彥進、延澤、萬友分三道擊之,蜀人悉其精銳來逆戰,又大破之,乘勝拔其砦,蜀將王審超、監軍崇渥遁去,復與三泉監軍劉延祚、大將王昭遠、趙崇韜引兵來戰,三戰三敗,追至利州北。昭遠遁去,渡桔柏江,焚梁,退守劍門。遂克利州,得軍糧八十萬斛。

利州より剣門に趨き、益光に次ぐ。全斌は諸将を会して議して言う、「剣門は天険、古より『一夫戈を荷い、万夫前に莫し』と称す、諸君宜しく各々進取の策を陳ぶべし」と。侍衛軍頭向韜が言う、「降卒の牟進が言うには、『益光の江東、大山数重を踰えて、来蘇と名づくる狭径あり、蜀人は江西に砦を置き、対岸に渡しあり、ここより出でて剣関の南二十里、清強店に至れば、大路と合す。ここに於いて兵を進むべく、すなわち剣門恃むに足らず』と」と。全斌らは即ち甲を巻いてこれに赴かんとしたが、康延沢が言う、「来蘇の細径、主帥親しく往くを須いず。且つ人は屡敗し、兵を併せて剣門に退守す、もし諸帥協力して進攻し、一偏将を命じて来蘇に趨かしめ、もし清強に達すれば、北より剣関を撃ちて大軍と夾攻すれば、これを破ること必せり」と。全斌はその策を納れ、史延徳に命じて兵を分かち来蘇に趨かせ、江上に浮梁を造らせると、蜀人は梁の成るを見て、砦を棄てて遁れた。昭遠は延徳の兵が来蘇に趨き、清強に至ると聞き、即ち兵を引いて退き、漢源坡に陣し、その偏将を留めて剣門を守らせた。全斌らがこれを撃破すると、昭遠・崇韜は皆遁走し、軽騎を遣わして進んで獲し、闕下に伝送し、遂に剣州を克ち、蜀軍一万余人を殺した。

原文自利州趨劍門,次益光。全斌會諸將議曰:「劍門天險,古稱‘一夫荷戈,萬夫莫前’,諸君宜各陳進取之策。」待衛軍頭向韜曰:「降卒牟進言:‘益光江東,越大山數重,有狹徑名來蘇,蜀人於江西置砦,對岸有渡,自此出劍關南二十里,至清強店,與大路合。可於此進兵,即劍門不足恃也。’」全斌等即欲卷甲赴之,康延澤曰:「來蘇細徑,不須主帥親往。且人屢敗,並兵退守劍門,若諸帥協力進攻,命一偏將趨來蘇,若達清強,北擊劍關與大軍夾攻,破之必矣。」全斌納其策,命史延德分兵趨來蘇,造浮梁於江上,蜀人見梁成,棄砦而遁。昭遠聞延德兵趨來蘇,至清強,即引兵退,陣於漢源坡,留其偏將守劍門。全斌等擊破之,昭遠、崇強,即引隻退,陣於漢源坡,留其偏將守劍門。全斌等擊破之,昭遠、崇韜皆遁走,遣輕騎進獲,傳送闕下,遂克劍州,殺蜀軍萬餘人。

四年正月十三日、師は魏城に次ぐ。孟昶は使を遣わして表を奉じて来降し、全斌らは成都に入った。旬余りして、劉廷譲らが始めて峡路より至った。昶は廷譲らに饋遺し及び師を犒うこと、並びに全斌の至りたるに同じ。詔書が頒賞するに及んで、諸軍にも差降が無かった。ここより両路の兵は相嫉み、蜀人もまた構え、主帥遂に協せず。全斌らは先に詔を受けて、毎に製置するには必ず諸将の僉議を須うべしとあり、この時に至り、小事といえども即時に決することができなかった。

原文四年正月十三日,師次魏城,孟昶遣使奉表來降,全斌等入成都。旬餘,劉廷讓等始自峽路至。昶饋遺廷讓等及犒師,並同全斌之至。及詔書頒賞,諸軍亦無差降。由是兩路兵相嫉,蜀人亦構,主帥遂不協。全斌等先受詔,每製置必須諸將僉議,至是,雖小事不能即決。

間もなく詔して蜀兵を発して闕に赴かしめ、人ごとに銭十千を与え、未だ行かざる者は、両月の廩食を加うとす。全斌らは即時に奉命せず、ここより蜀軍は憤怨し、人々乱を思う。両路の随軍使臣は常に数十百人あり、全斌・彦進及び王仁贍らは各々これを保庇し、部送して蜀兵を行かしめず、ただ諸州の牙校を分遣した。蜀軍は綿州に至って果たして叛き、属邑を劫し、衆は十余万に至り、自ら「興国軍」と号した。蜀の文州刺史全師雄という者あり、嘗て将となり、威恵あり、士卒畏服していた。時にその一族を以て闕下に赴かんとしていた。綿州で乱に遇い、師雄は脅かされることを恐れ、乃ちその家を江曲の民舎に匿した。後数日にして乱兵に獲られ、主帥に推された。

原文俄詔發蜀兵赴闕,人給錢十千,未行者,加兩月廩食。全斌等不即奉命,由是蜀軍憤怨,人人思亂。兩路隨軍使臣常數十百人,全斌、彥進及王仁贍等各保庇之,不令部送蜀兵,但分遣諸州牙校。蜀軍至綿州果叛,劫屬邑,眾至十餘萬,自號「興國軍」。有蜀文州刺史全師雄者,嘗爲將,有威惠,士卒畏服。適以其族赴闕下。綿州遇亂,師雄恐爲所脅,乃匿其家於江曲民舍。後數日爲亂兵所獲,推爲主帥。

全斌は都監の米光緒を派遣してこれを招撫せしめたが、光緒は師雄の一族をことごとく滅ぼし、その愛娘と財貨を奪い取った。師雄これを聞き、ついに帰順の志を失い、衆を率いて急ぎ綿州を攻撃したが、横海指揮使劉福・龍捷指揮使田紹斌に敗れた。そこで彭州を攻め、刺史王継濤を追い払い、都監李徳栄を殺害し、その城を占拠した。成都の十県は皆挙兵して師雄に呼応し、師雄は自ら「興蜀大王」と号し、幕府を開き、僚属を置き、節帥二十余人を任命して、灌口・導江・郫・新繁・青城などの県を分かち守らせた。彦進は張万友・高彦暉・田欽祚とともにこれを討ったが、師雄に敗れ、彦暉は戦死し、欽祚は辛うじて免れ、賊の勢力はますます盛んとなった。全斌はまた張廷翰・張煦を派遣してこれを撃たせたが、利あらず、成都に退却した。師雄は兵を分かって綿州・漢州の間に配置し、閣道を断ち切り、江沿いに砦を築き、成都を攻撃せんと声言した。これより、邛・蜀・眉・雅・東川・果・遂・渝・合・資・簡・昌・普・嘉・戎・栄・陵の十七州が、ことごとく師雄に従って乱を起こした。郵伝が通じないこと一か月余り、全斌らは甚だ恐れた。当時、城中の蜀兵はなお二万を残しており、全斌は彼らが賊に呼応することを憂慮し、諸将と謀り、彼らを夾城中におびき寄せ、ことごとく殺害した。

原文全斌遣都監米光緒往招撫之,光緒盡滅師雄之族,納其愛女及橐裝。師雄聞之,遂無歸志,率眾急攻綿州,爲橫海指揮使劉福、龍捷指揮使田紹斌所敗;遂攻彭州,逐刺史王繼濤,殺都監李德榮,據其城。成都十縣皆起兵應師雄,師雄自號「興蜀大王」,開幕府,置僚屬,署節帥二十餘人,令分據灌口、導江、郫、新繁、青城等縣。彥進與張萬友、高彥暉、田欽祚同討之,爲師雄所敗,彥暉戰死,欽祚僅免,賊眾益盛。全斌又遣張廷翰、張煦往擊之,不利,退入成都。師雄分兵綿、漢間,斷閣道,緣江置砦,聲言欲攻成都。自是,邛、蜀、眉、雅、東川、果、遂、渝、合、資、簡、昌、普、嘉、戎、榮、陵十七州,並隨師雄爲亂。郵傳不通者月餘,全斌等甚懼。時城中蜀兵尚餘二萬,全斌慮其應賊,與諸將謀,誘致夾城中,盡殺之。

まもなく、劉廷譲・曹彬が師雄の衆を新繁で破り、一万余人を捕虜とした。師雄は郫県に退いて守りを固め、全斌・仁贍がまたこれを攻め破った。師雄は灌口砦に逃れて守りを固めた。賊の勢力がすでに挫かれると、残党は州県に散らばって守りを固めた。陵州指揮使の元裕という者がおり、師雄に刺史に任命され、衆一万余りを擁していたが、仁贍がこれを生け捕りにし、成都市で磔刑に処した。

原文未幾,劉廷讓、曹彬破師雄之眾於新繁,俘萬餘人。師雄退保郫縣,全斌、仁贍又攻破之。師雄走保灌口砦。賊勢既衄,餘黨散保州縣。有陵州指揮使元裕者,師雄署爲刺史,眾萬餘,仁贍生擒之,磔於成都市。

やがて虎捷指揮使の呂翰が主将に礼遇されず、これに憤って嘉州知州客省使の武懐節・戦棹都監の劉漢卿を殺害し、師雄の党である劉沢と合流し、衆五万に達し、普州刺史の劉楚信を追い払い、通判の劉沂および虎捷都校の馮紹を殺害した。また果州指揮使の宋徳威が知州八作使の王永昌および通判の劉渙・都監の鄭光弼を殺害し、遂州牙校の王可尞が州民を率いて乱を起こした。仁贍らは嘉州において呂翰を討ち、翰は敗れて雅州に逃げ込んだ。師雄は金堂で病死し、謝行本を主に推戴し、羅七君を佐国令公とし、賊将の宋徳威・唐陶鱉とともに銅山を占拠したが、まもなく康延沢に破られた。仁贍はまた雅州において呂翰を破り、翰は黎州に逃れたが、配下に殺害され、屍は水中に棄てられた。後に丁徳裕らが兵を分けて招撫・鎮撫にあたり、賊衆はようやく鎮静した。

原文俄虎捷指揮使呂翰爲主將所不禮,因殺知嘉州客省使武懷節、戰棹都監劉漢卿,與師雄黨劉澤合,眾至五萬,逐普州刺史劉楚信,殺通判劉沂及虎捷都校馮紹。又果州指揮使宋德威殺知州八作使王永昌及通判劉渙、都監鄭光弼,遂州牙校王可尞率州民爲亂。仁贍等討呂翰於嘉州,翰敗走入雅州。師雄病死於金堂,推謝行本爲主,羅七君爲佐國令公,與賊將宋德威、唐陶鱉據銅山,旋爲康延澤所破。仁贍又敗呂翰於雅州,翰走黎州,爲下所殺,棄屍水中。後丁德裕等分兵招輯,賊眾始息。

全斌が蜀に入ったとき、ちょうど冬の末で、京城には大雪が降り、太祖は講武殿に氈帷を設け、紫貂の裘と帽を着けて政務を執っていたが、ふと左右の者に言った。「朕がこのような衣装を着けていても、なお体に寒さを覚える。西征の将兵が霜雪を冒すことを思えば、どうして耐えられようか。」ただちに裘と帽を解き、中黄門に命じてこれを全斌に馳せ賜り、なお諸将に諭して、行き渡らないことを告げさせた。全斌は拝受して感激の涙を流した。

原文全斌之入蜀也,適屬冬暮,京城大雪,太祖設氈帷於講武殿,衣紫貂裘帽以視事,忽謂左右曰:「我被服若此,體尚覺寒,念西征將衝犯霜雪,何以堪處!」即解裘帽,遣中黃門馳賜全斌,仍諭諸將,以不遍及也。全斌拜賜感泣。

初め、成都が平定されると、参知政事の呂余慶に命じて府事を治めさせ、全斌はただ軍旅を統率することのみを担当した。全斌はかつて親しい者に語って言った。「朕は古の将帥が多く功名を全うできなかったと聞く。今、西蜀はすでに平定されたので、病と称して東に帰り、悔いを免れたいと思う。」ある者が言った。「今なお寇盗が多いので、詔旨がなければ軽々しく去ることはできません。」全斌は躊躇して決断できなかった。

原文初,成都平,命參知政事呂餘慶知府事,全斌但典軍旅。全斌嘗語所親曰:「我聞古之將帥,多不能保全功名,今西蜀既平,欲稱疾東歸,庶免悔吝。」或曰:「今寇盜尚多,非有詔旨,不可輕去。」全斌猶豫未決。

ちょうど全斌および彦進が蜀を平定した日に、民家の子女や玉帛を奪い取るなど不法な事を行ったと訴える者がおり、諸将とともに同時に召還された。太祖は全斌らが初めに功を立てたことを考慮し、たとえ法を犯しても獄吏によって辱しめることを望まず、ただ中書に命じて事情を尋ねさせたところ、全斌らはことごとく服罪した。詔して言った。「王全斌・王仁贍・崔彦進らは堅甲鋭兵を帯び、全蜀に出征し、彼らは威を畏れて降伏し、朕は速やかに詔を馳せて恩を述べた。哀憐を示し、綏撫を厚くすることを務め、孟昶の宗族・官吏・将卒・士民はことごとく安んじて存置せしめ、驚擾させてはならないと命じた。しかるに彼らは約束に背き、憲章を侵侮し、専ら降兵を殺害し、勝手に公帑を開き、婦女を豪奪し、貨財を広く納め、万民の怨嗟を集め、群盗の充満を招いた。ついには再び兵を調発する労をかけ、ようやく平定を得た。帰還を命じた後もなお忍んでいたが、冤罪を訴える声が日に日に国門に集まり、隠匿した金銀・犀玉・銭帛が十六万七百余貫に及ぶと称し、また勝手に豊徳庫を開いて、銭二十八万一千余貫を失わせたという。そこで中書門下に命じて訴え出た者と対質させて事実を確かめさせたところ、全斌らは皆服罪した。御史台に命じて朝堂に文武百官を集めてその罪を議させよ。」

原文會有訴全斌及彥進破蜀日,奪民家子女玉帛不法等事,與諸將同時召還。太祖以全斌等初立功,雖犯法,不欲辱以獄吏,但令中書問狀,全斌等具伏。詔曰:「王全斌、王仁贍、崔彥進等被堅執銳,出征全蜀,彼畏威而納款,尋馳詔以申恩。用示哀矜,務敦綏撫,應孟昶宗族、官吏、將卒、士民悉令安存,無或驚擾;而乃違戾約束,侵侮憲章,專殺降兵,擅開公帑,豪奪婦女,廣納貨財,斂萬民之怨嗟,致群盜之充斥。以至再勞調發,方獲平寧。洎命旋歸,尚欲含忍,而銜冤之訴,日擁國門,稱其隱沒金銀、犀玉、錢帛十六萬七百餘貫。又擅開豐德庫,致失錢二十八萬一千餘貫。遂令中書門下召與訟者質證其事。而全斌等皆引伏。其令御史臺於朝堂集文武百官議其罪。」

ここにおいて百官が定議し、全斌らの罪は大辟に当たるとして、律に準じて処分するよう請うた。そこで詔を下して言った。「征伐あれど戦闘なしとは、王師の挙げるところであるが、暴を禁じ兵を戢めることは、武徳を尊ぶべきである。愚かなるこの庸蜀は、自ら奸謀を敗り、罪を伐って威を宣べるや、たちまち風望んで帰命した。急ぎ安堵を命じ、秋毫も犯すなと告げ、徳沢を浸潤せしめ、生聚を寧息させんとした。しかるに忠武軍節度使王全斌・武信軍節度使崔彦進はこの鋭旅を統率し、朕の成謀を奉じ、すでに平定の全功を収めた以上、輯柔の深意を体すべきであった。近ごろは間もなく平定され、即時に凱旋し、賞を厚くし勲を策する、これには常典があると思っていた。しかるに畏敬の念を忘れ、速やかにこの悔いと過ちを招き、貪残飽くことなく、罪なき者を殺戮し、戦争を止めることに背き、専ら兵を弄んだ。前の功労を思い、特に寛大に貸し、ただ旄鉞を停めるのみで、なお藩宣の任に委ねる。朕に恩なきにあらず、汝ら自ら省みよ。全斌は責めて崇義軍節度観察留後を授け、彦進は責めて昭化軍節度観察留後を授ける。特に随州を崇義軍とし、金州を昭化軍として彼らを処遇する。仁贍は責めて右衛大将軍を授ける。」開宝年間、車駕が洛陽らくように幸して郊祀を行い、全斌を召して祠に侍らせ、武寧軍節度使とした。彼に言った。「朕は江左が未だ平定されていないことを慮り、征南諸将が紀律を尊ばぬことを憂えたので、卿を数年抑えて、朕のために法を立てさせた。今すでに金陵を平定したので、卿に節鉞を還す。」なお銀器一万両・帛一万匹・銭一千万を賜った。全斌は鎮に赴いて数か月で卒去した。享年六十九。中書令を追贈された。天禧二年、その孫の永昌を三班奉職に任用した。

原文於是百官定議,全斌等罪當大辟,請準律處分。乃下詔曰:「有征無戰,雖舉於王師;禁暴戢兵,當崇於武德。蠢茲庸蜀,自敗奸謀,爰伐罪以宣威,俄望風而歸命。遽令按堵,勿犯秋毫,庶德澤之涵濡,俾生聚之寧息。而忠武軍節度王全斌、武信軍節度崔彥進董茲銳旅,奉我成謀,既居克定之全功,宜體輯柔之深意。比謂不日清謐,即時凱旋,懋賞策勳,抑有彝典。而罔思寅畏,速此悔尤,貪殘無厭,殺戮非罪,稽於偃革,職爾玩兵。尚念前勞,特從寬貸,止停旄鉞,猶委藩宣。我非無恩,爾當自省。全斌可責授崇義軍節度觀察留後,彥進可責授昭化軍節度觀察留後,特建隨州爲崇義軍、金州爲昭化軍以處之。仁贍責授右衛大將軍。」開寶開,車駕幸洛陽郊祀,召全斌侍祠,以爲武寧軍節度。謂之曰:「朕以江左未平,慮征南諸將不尊紀律,故抑卿數年,爲朕立法。今已克金陵,還卿節鉞。」仍以銀器萬兩、帛萬匹、錢千萬賜之。全斌至鎮數月卒,年六十九。贈中書令。天禧二年,錄其孫永昌爲三班奉職。

全斌は財を軽んじ士を重んじ、声譽を求めず、寛厚で衆を容れ、軍旅は喜んで彼のために用いられた。山郡に左遷されて十余年、怡然として自得し、識者はこれを称えた。

原文全斌輕財重士,不求聲譽,寬厚容眾,軍旅樂爲之用。黜居山郡十餘年,怡然自得,識者稱之。

子:審鈞、崇儀使・富州刺史・広州兵馬鈐轄。審鋭、供奉官・閤門祗候。

原文子:審鈞,崇儀使、富州刺史、廣州兵馬鈐轄;審鋭,供奉官、閤門祗候。

曾孫 凱

原文曾孫 凱

凱、字は勝之。祖父の審鈞はかつて永興軍駐泊都監を務め、賊を撃って戦死したため、京兆に家を定めた。財に富み、凱はこれを散施して客を結び、日々南山の下を馳せて狩猟し、民田を踏み荒らしたため、捕らえられて府に連行された。当時、寇準が長安ちょうあんを守っており、その状貌を見て奇異に思い、言上した。「全斌は蜀を取るに功労があり、審鈞は忠義をもって死んだ。その孤児を任用すべきである。」そこで三班奉職・鳳翔盩厔税監に任じた。左右班殿直・益州市買院監・慶州合水鎮兵馬監押・在京草場監を歴任した。

原文凱,字勝之。祖審鈞,嘗爲永興軍駐泊都監,以擊賊死,遂家京兆。饒於財,凱散施結客,日馳獵南山下,以踐蹂民田,捕至府。時寇準守長安,見其狀貌奇之。爲言:「全斌取蜀有勞,而審鈞以忠義死,當錄其孤。」遂以爲三班奉職、監鳳翔盩厔稅。曆左右班殿直、監益州市買院、慶州合水鎮兵馬監押、監在京草場。

先に、守卒が残った藁を掃き集めて私物としていたが、凱はこれを禁絶したため、従卒が彼を害そうとした。事が発覚し、他の監官は皆故意に放任した罪に問われたが、凱だけは免れた。右侍禁・雄州兵馬監押から、閤門祗候・定邢趙都巡検使に抜擢された。

原文先是,守卒掃遺稈自入,凱禁絕,而從欲害之。事覺,他監官皆坐故縱,凱獨得免。自右侍禁、雄州兵馬監押,擢閤門祗候、定邢趙都巡檢使。

元昊が反乱を起こすと、麟州都監に転任した。かつて雙烽橋・染枝谷に出て、夏人と遭遇し、これを撃破した。また龐青・黄羅部を破り、伺候烽で再び戦い、前後して三百余級を斬首し、部落の馬牛・駱駝・器械を数千にのぼる数で鹵獲した。夏人が麟州を包囲すると、城に登って防戦し、昼夜三十一日に及び、ようやく解囲して去った。特に西頭供奉官に昇進した。

原文元昊反,徙麟州都監。嘗出雙烽橋、染枝谷,遇夏人,破之。又破龐青、黃羅部,再戰於伺候烽,前後斬首三百餘級,獲區落馬牛、橐駝、器械以數千計。夏人圍麟州,乘城拒鬥,晝夜三十一日,始解去。特遷西頭供奉官。

任期を終えて交代したが、辺境の寇はなおも掠奪を繰り返し、内殿崇班・麟州路縁辺都巡検使に任じられ、同巡検の張岊とともに青眉浪で糧道を護衛したところ、寇が突然大挙して到来し、張岊とはぐれた。そこで兵を分けてその背後に出て挟撃した。再び張岊と合流し、百余級を斬首した。また兔毛川に入ると、賊の軍勢三万に対し、張凱は六千の兵を率いて包囲に陥り、流れ矢が顔面に当たったが、戦闘をやめず、さらに百余級を斬首し、賊は自ら踏み躙り合い、死者は千を数えた。南作坊副使に昇進し、後に幷州・代州鈐轄となり、麟府軍馬事を管勾した。夏人二万が青塞堡を寇掠すると、張凱は鞋邪谷から出撃し、四十里にわたって転戦し、杜〓古川に至ってこれを大破し、奪われた馬牛を奪還して帰還した。

原文代遷,邊寇猶鈔掠,以爲內殿崇班、麟州路緣邊都巡檢使,與同巡檢張岊護糧道於青眉浪,寇猝大至,與岊相失。乃分兵出其後夾擊之。復與岊合,斬首百餘級。又入兔毛川,賊眾三萬,凱以後六千陷圍,流矢中面,鬥不解,又斬首百餘級,賊自蹂踐,死者以千數。遷南作坊副使,後爲幷、代州鈐轄,管勾麟府軍馬事。夏人二萬寇青塞堡,凱出鞋邪谷,轉戰四十里,至杜〓古川,大敗之,復得所掠馬牛以還。

経略使の明鎬が、張凱が河外に九年いて功績があると上言したため、資州刺史を兼ねた。久しくして召還されたが、拝謁する前に、甘陵で盗賊が蜂起したため、直ちに兵を率いて城下に赴くよう命じられた。賊が平定されると、澤州刺史・邠州知州に任じられた。間もなく、神龍衛四廂都指揮使・澤州団練使となり、環慶・並代・定州路副都総管、捧日天武四廂・綿州防禦使を歴任し、累進して侍衛親軍歩軍副都指揮使・涇州観察使となった。さらに秦鳳路に転任となり、辞去の際、皇帝は唃氏の木征について、交易が阻絶され、かなり寇掠の兆しがあるので、静穏に処すべきであると諭した。張凱が着任すると、主帥とともに恩信をもって撫接し、遂に常時の朝貢を回復させた。召されて武勝軍節度観察留後・侍衛親軍馬軍副都指揮使に任じられた。死去、享年六十六。彰武軍節度使を追贈され、諡は莊恪。

原文經略使明鎬言凱在河外九年,有功,遂領資州刺史。久之召還,未及見,會甘陵盜起,即命領兵赴城下。賊平,拜澤州刺史、知邠州。未幾,爲神龍衛四廂都指揮使、澤州團練使,曆環慶、並代、定州路副都總管,捧日天武四廂、綿州防禦使,累遷侍衛親軍步軍副都指揮使、涇州觀察使。又徙秦鳳路,辭日,帝諭以唃氏木征,交易阻絕,頗有入寇之萌,宜安靜以處之。凱至,與主帥以恩信撫接,遂復常貢。召拜武勝軍節度觀察留後、侍衛親軍馬軍副都指揮使。卒,年六十六。贈彰武軍節度使,諡莊恪。

張凱は軍を治めるに紀律があり、士卒を撫循することに長け、平時は彼らと飲食を共にし、臨陣して鼓槌を取るに至っては、毅然として少しも寛容でなかった。故に士卒は畏敬信服し、戦うに力の限りを尽くし、前後して敵と遭遇しても、一度も敗北しなかった。兔毛川の戦いでは、内侍の宋永誠が軍中で泣いたため、張凱は弾劾して罷免させた。特に故旧を篤く好んだ。

原文凱治軍有紀律,善撫循士卒,平居與均飲食,至臨陣援枹鼓,毅然不少假。故士卒畏信,戰無不力,前後與敵遇,未嘗挫衄。兔毛川之戰,內侍宋永誠哭於軍中,凱劾罷之。尤篤好於故舊。

子に張緘。張緘の子に張詵、字は晉卿、詩を能くし画を善くし、蜀国長公主に尚し、官は留後に至った。

原文子:緘。緘子:詵,字晉卿,能詩善畫,尚蜀國長公主,官至留後。

康延澤

原文康延澤

宋初、慕容延釗・李処耘に従って湖湘を平定した。時に荊南の高保融が卒去し、その子の継冲が軍事を嗣いで統領していたため、康延澤に命じて書状と幣帛を携え先に赴きこれを慰撫させた。かつてその情偽を探らせた。帰還すると、その機密の事柄をことごとく把握し、先導して大軍を国境に入らせ、遂に荊峡を陥落させた。功労により正使に任じられた。

原文宋初,從慕容延釗、李處耘平湖湘。時荊南高保融卒,其子繼冲嗣領軍事,命延澤齎書幣先往撫之。且察其情偽。及還,盡得其機事,因前導大軍入境,遂下荊峽。以勞授正使。

乾徳年中、蜀を征討し、鳳州路馬軍都監となり、白水・合子の二砦を破り、西県・三泉を進撃し、韓保正を捕らえた。来蘇路から大軍と合流し、剣門を攻略した。孟昶が降伏すると、康延澤は百騎を率いて先に成都に入城し、軍民を安撫し、府庫をことごとく封印して帰還した。そのまま命を受けて成都府都監となった。全師雄が再び乱を起こすと、普州刺史に転任となった。時に降兵二万七千があり、諸将は内応されることを恐れ、ことごとく殺そうとした。康延澤は老幼・疾病の者七千人を選び出して釈放し、残りは兵で護衛して還送し、江を浮かび下らせ、賊がもし劫奪に来たら、その時に殺しても遅くはないと請うた。諸将は用いなかった。間もなく出兵し、賊党の劉沢の三万人を撃破した。さらに王可尞が数郡の賊兵を率いて来戦したが、康延澤はこれを撃退し、敗走を追って合州に至った。また王可尞の余党の謝行本らを破り、羅七君を生け捕りにした。事態が平定されると、優詔をもって嘉奨され、そのまま東川七州招安巡検使に任じられた。

原文乾德中,征蜀,爲鳳州路馬軍都監,破白水、合子二砦,進擊西縣、三泉,獲韓保正。由來蘇路會大軍,克劍門。及孟昶降,延澤以百騎先入成都,安撫軍民,盡封府庫而還。就命爲成都府都監。會全師雄復亂,徙爲普州刺史。時有降兵二萬七千,諸將懼爲內應,欲盡殺之。延澤請簡老幼疾病七千人釋之,餘以兵衛還,浮江而下,賊若來劫奪,即殺之未晚。諸將不能用。俄出兵。敗賊黨劉澤三萬人。復有王可尞率數郡賊兵來戰,延澤擊走之,追北至合州。又破可尞餘黨謝行本等,擒羅七君。事平,優詔嘉獎,就命爲東川七州招安巡檢使。

全斌らが罪を得ると、康延澤も連座して唐州教練使に貶謫された。開宝年中、起用されて供奉官となり、左蔵庫副使に昇進した。諸々の甥と家財を争った罪で官を失い、西洛に居住して死去した。

原文全斌等得罪,延澤亦坐貶唐州教練使。開寶中,起爲供奉官,遷左藏庫副使。坐與諸侄爭家財失官,居西洛卒。

兄に康延沼

原文兄 延沼

兄の康延沼は、幼くして後唐の明宗の帳下に隷属した。晋の高祖こうそに仕え、尚食使となり、散指揮使都虞候・興聖軍都指揮使に改められ、出向して随・沢二州刺史となった。

原文兄延沼,幼隸後唐明宗帳下。仕晉祖,爲尚食使,改散指揮使都虞候、興聖軍都指揮使,出爲隨、澤二州刺史。

周の太祖が北征すると、康延沼は白文遇・李彦崇・曹奉金とともに従軍した。広順年中、侍衛馬歩軍都頭・信州刺史を兼ねた。世宗に従って劉崇を征討し、兵を率いて遼州を攻撃し、龍捷右廂都校・岳州防禦使を兼ねるよう転じ、真に蔡斉鄭楚四州防禦使・晋潞二州兵馬鈐轄に任じられた。

原文周祖北征,延沼與白文遇、李彥崇、曹奉金並從。廣順中,爲侍衛馬步軍都頭、領信州刺史。從世宗征劉崇,率兵攻遼州,轉龍捷右廂都校、領岳州防禦使,真拜蔡齊鄭楚四州防禦使、晉潞二州兵馬鈐轄。

宋初、李重進が叛くと、康延沼を前軍馬軍都指揮使とした。建隆四年、懐州防禦使に改めた。乾徳六年、李継勲らに命じて河東を征討させ、康延沼を先鋒都監とした。太祖が親征して太原を攻めると、康延沼が宿将で辺境の事情に熟練しているとして、詔して兵を率いて潞州に駐屯させたが、病気のため帰郡した。開宝二年、死去、享年五十八。

原文宋初,李重進叛,以延沼爲前軍馬軍都指揮使。建隆四年,改懷州防禦使。乾德六年,命李繼勳等征河東,以延沼爲先鋒都監。太祖親征太原,以延沼宿將,熟練邊事,詔領兵屯潞州,會以疾歸郡。開寶二年,卒,年五十八。

王継濤

原文王繼濤

王継濤は河朔の人、若くして漢の高祖に近侍した。乾祐初年、供奉官に補され、諸司副使を歴任した。周に仕え、右武衛大将軍となった。淮南が平定されると、天長軍使となった。顕徳五年、和州刺史に昇進した。

原文王繼濤,河朔人,少給事漢祖左右。乾祐初,補供奉官,曆諸司副使。仕周,爲右武衛大將軍。淮南平,爲天長軍使。顯德五年,遷和州刺史。

宋初、左驍騎大將軍となり、再び左神武大將軍に遷る。乾德二年、安陵の隧道を護り徒治することを命ぜられる。

原文宋初,爲左驍騎大將軍,再遷左神武大將軍,乾德二年,命護徒治安陵隧道。

大軍蜀を伐つに当たり、鳳州路砦使となる。興元降るや、王全斌は継濤に府事を権攝せしむ。孟昶降るや、全斌はまた継濤を遣わし、供奉官王守訥とともに昶を部送して闕に帰らしむ。守訥全斌に白し、継濤が昶に宮妓・金帛を求むと言う。全斌遂に継濤を留め、ただ守訥に昶を送らしむ。俄に詔して継濤を以て彭州刺史となす。

原文大軍伐蜀,爲鳳州路砦使。興元降,王全斌命繼濤權府事。孟昶降,全斌又遣繼濤與供奉官王守訥部送昶歸闕。守訥白全斌,言繼濤問昶求宮妓、金帛,全斌遂留繼濤,止令守訥送昶,俄詔以繼濤爲彭州刺史。

綿州軍乱を起こし、全師雄を劫いて帥とし、衆を率いて彭州を攻む。継濤は都監李徳栄とともに之を拒ぐ。徳栄戦死し、継濤は身に八槍を受け、単騎にて成都に走り至る。

原文綿州軍亂,劫全師雄爲帥,率眾攻彭州,繼濤與都監李德榮拒之,德榮戰死,繼濤身被八槍,單騎走至成都。

平素より通事舍人田欽祚と隙あり。会に欽祚朝に入るや、乃ち他事を以て継濤を誣奏す。太祖駅に継濤を召し、将に面質せんとす。道に病み卒す。詔して曰く、「故彭州刺史王継濤は、先登して賊を撃ち、身に重創を受け、優典未だ加えられず、志を齎して歿す。故階州刺史高彦暉は、師を帥いて賊を討ち、奮いて命を顧みず、垂老の年、身を鋒鏑に殞す。永く言うに痛悼し、懐に忘れず。宜しく各々其の家に粟帛を賜うべし」と。

原文素與通事舍人田欽祚有隙,會欽祚入朝,乃誣奏繼濤以他事。太祖驛召繼濤,將面質之,道病卒。詔曰:「故彭州刺史王繼濤,先登擊賊,身被重創,優典未加,齎志而歿。故階州刺史高彥暉,帥師討賊,奮不顧命,垂老之年,殞身鋒鏑。永言痛悼,不忘於懷。宜各賜其家粟帛。」

高彦暉

原文高彥暉

高彦暉は、薊州漁陽の人なり。初め契丹に仕えて瀛州守将となる。世宗北征するや、城を以て来降し、耀・階二州刺史に遷る。

原文高彥暉,薊州漁陽人。仁契丹爲瀛州守將。世宗北征,以城來降,遷耀、階二州刺史。

王師蜀を伐つに当たり、帰州路先鋒都指揮使となる。全師雄の乱に、崔彦進は彦暉を遣わし、田欽祚とともに之を討たしむ。導江に至り、賊と遇う。賊は隘路に拠り、竹箐の中に伏を設く。官軍至り、伏発するに遇い、遂に利あらず。彦暉欽祚に謂ひて曰く、「賊勢張大し、日将に暮れんとす。兵を収め、詰朝に戦はんことを請ふ」と。欽祚遁れんと欲すれども、賊其の後を曳くを慮り、乃ち之を紿して曰く、「公は厚禄を食み、賊に遇ひて畏縮す、何ぞや」と。彦暉復た兵を麾して進む。欽祚潜かに遁去す。彦暉独り部下十余騎と力を戦ひ、皆之に死す。時に年七十余なり。

原文王師伐蜀,爲歸州路先鋒都指揮使。全師雄之亂,崔彥進遣彥暉與田欽祚共討之。至導江,與賊遇,賊據隘路,設伏竹箐中,官軍至,遇伏發,遂不利。彥暉謂欽祚曰:「賊勢張大,日將暮,請收兵,詰朝與戰。」欽祚欲遁,慮賊曳其後,乃紿之曰:「公食厚祿,遇賊畏縮,何也?」彥暉復麾兵進。欽祚潛遁去。彥暉獨與部下十餘騎力戰,皆死之,時年七十餘。

彦暉は老将にして、辺事に練習す。上其の歿するを聞き、甚だ痛惜す。故に並びに優恤することを命ず。

原文彥暉老將,練習邊事,上聞其歿,甚痛惜,故並命優恤之。

論じて曰く、郭崇は昔の遇に感激し、垂涕より発す。太祖其の忠厚なるを察し、亟に思誨の奏を焚く。魏文の楊彪に強ひざるも、宋武の徐廣に猜なきも、何を以て之に加へん。廷璋は懐を開きて以て罕孺を待ち、宋偓は章を抗して以て重進を察し、向拱は謀を献じて以て上党を平らぐ。時に乗じて功を立て、各々其の長を奮ひ、尚ぶに足る者有り。王彦超は戎昭より起り、歴て藩服を典とし、年を引きて高蹈す。武夫の貞なり。多殺を自悔し、後裔に戒めを垂るるに至りては、仁人の用心に近し。張永德は前朝の勳伐にして、夙に太祖を識り、潜かに尊奉を懐く。橋公祖の知有りと雖も、而して人臣の二心なき者に非ず。乾德蜀を伐つ師は、七旬に未だ至らざるに降款至る。諸将の功、何ぞ泯すべけんや。王全斌は貨を黷し降を殺し、尋で禍変を啓く。太祖之を罪すれども、八議の貸に従ふ。斯れ功臣を馭するの道を得たり。延澤は地の険を相する能くし、豫よめ屯備を謀る。継濤・彦暉は、先登重傷し、殞没して避けず。咸に称すべし。

原文論曰:郭崇感激昔遇,發於垂涕。太祖察其忠厚,亟焚思誨之奏。雖魏文不強於楊彪,宋武無猜於徐廣,何以加之。廷璋開懷以待罕孺,宋偓抗章以察重進,向拱獻謀以平上黨,乘時建功,各奮所長,有足尚者。王彥超起自戎昭,曆典藩服,引年高蹈,武夫之貞;至於自悔多殺,垂戒後裔,近乎仁人之用心。張永德前朝勳伐,夙識太祖,潛懷尊奉,雖有橋公祖之知,而非人臣之不二心者矣。乾德伐蜀之師,未七旬而降款至,諸將之功,何可泯也。王全斌黷貨殺降,尋啟禍變,太祖罪之,而從八議之貸,斯得馭功臣之道。延澤能相地險,豫謀屯備。繼濤、彥暉,先登重傷,殞沒無避,咸可稱焉。