宋史

列傳第十三 侯益 張從恩 扈彦珂 薛懷讓 趙贊 李繼勳 藥元福 趙晁

列傳第十三 侯益 張從恩 扈彦珂 薛懷讓 趙贊 李繼勳 藥元福 趙晁

侯益

原文侯益

侯益は、汾州平遙の人である。祖父は農業を業としていた。唐の光化年中、李克用が太原を拠点とすると、益は拳勇をもってその麾下に隷した。荘宗に従って大名を攻め、先鋒として登城し、軍校を生け捕りにし、馬前直副兵馬使に抜擢された。劉守光を征討し、先鋒として登城し、軍使に遷った。洺州を破った際、投石器で足を傷つけられると、荘宗は自ら薬をその傷口に塗布した。癒えた後、護衛指揮使に改めた。梁の小将李立・李建は驍ぎょう勇をもって知られ、軍中で恐れられていた。時に荘宗が梁軍と河上で戦うと、益は身を挺して出闘し、その二将を生け捕りにし、馬前直指揮使に遷った。荘宗が汴に入ると、本直副都校となった。明宗に従って鄴で趙在禮を討った。諸軍が推戴して明宗を立てると、益は身を脱して洛に帰り、荘宗はその背を撫でて涙を流した。

原文侯益,汾州平遙人。祖父以農為業。唐光化中,李克用據太原,益以拳勇隸麾下。從莊宗攻大名,先登,擒軍校,擢為馬前直副兵馬使。征劉守光,先登,遷軍使。破洺州,為機石傷足,莊宗親以藥傅其瘡。及愈,改護衛指揮使。梁小將李立、李建以驍勇聞,軍中憚之。會莊宗與梁人戰河上,益挺身出鬥,擒其二將,遷馬前直指揮使。莊宗入汴,為本直副都校。從明宗討趙在禮於鄴。會諸軍推戴明宗,益脫身歸洛,莊宗撫其背出涕。

明宗が立つと、益は縛り首になって請罪した。明宗は言った、「汝は忠節を尽くした、また何の罪があろうか」と。本直左廂都校に改めた。天成初年、朱守殷が夷門に拠って叛くと、益は配下を率いて関門を斬り破って先に入城した。左右馬前従馬直都校に転じ、潘州刺史を領した。王都が定州に拠って叛くと、益は王晏球に従って攻討した。契丹が来援すると、益はこれを迎撃し、その軍勢を唐河北で破り、その城を落とし、寧州刺史を授かった。入朝して羽林軍五十指揮都校となり、費州刺史を領した。

原文明宗立,益面縛請罪,明宗曰:「爾盡忠節,又何罪也。」改本直左廂都校。天成初,朱守殷據夷門叛,益率所部斬關先入。轉左右馬前從馬直都校、領潘州刺史。王都據定州叛,益從王晏球攻討。會契丹來援,益逆擊之,破其眾唐河北,克其城,授寧州刺史。入為羽林軍五十指揮都校、領費州刺史。

時に夏の帥李仁福が卒し、子の彜超が命を擅にして自立し、節鉞を求めたので、益に師を帥いて討たせようとした。明宗が病に伏せると、急ぎ召還された。

原文時夏帥李仁福卒,子彜超擅命自立,以邀節鋮,命益帥師討之。明宗不豫,遽追還。

応順初年、潞王が鳳翔で挙兵すると、益を西面行営都虞候とした。益は軍情が必ず変ずることを知り、病と称して詔に奉じず、執政は怒り、商州刺史として出させた。蜀しょく軍が金州を寇すと、益は鎮兵を率いて襲撃し、これを大破した。詔して襲衣・名馬を賜い、西面行営都巡検使を加えた。

原文應順初,潞王舉兵鳳翔,以益為西面行營都虞侯。益知軍情必變,稱疾不奉詔,執政怒,出為商州刺史。蜀軍寇金州,益率鎮兵襲擊,大破之。詔賜襲衣、名馬,加西面行營都巡檢使。

晋の初め、召されて奉国都校となり、光州防禦使を領した。范延光が大名で反し、張従賓が河陽に拠って声援とした。晋祖は益を召し、謂って言った、「宗社の危うきこと綴旒の若し、卿は朕のために死ぬことができるか」と。益は言った、「鋭卒五千人を仮すことを願います、賊を破ることは必ずです」と。益を西面行営副都部署とし、禁兵数千人を率い、虎牢に駐屯させた。従賓の軍一万余人が、汜水を挟んで陣を布いた。益は自ら鼓を鳴らし、士卒にこれを乗じさせ、その軍勢を大敗させ、撃ち殺して殆ど尽き、汜水はこれによって流れず、従賓は馬に乗って水に入り溺死した。京観を築き、石に刻んで功を紀し、晋祖は大いに喜び、河陽三城節度使に拝し、鄴都行営都虞候を充てた。延光が城を以て降ると、鎮を移して潞州とした。

原文晉初,召為奉國都校、領光州防禦使。范延光反大名,張從賓據河陽為聲援。晉祖召益,謂曰:「宗社危若綴旒,卿能為朕死耶?」益曰:「願假銳卒五千人,破賊必矣。」以益為西面行營副都部署,率禁兵數千人,次虎牢。從賓軍萬餘人,夾汜水而陣。益親鼓,士乘之,大敗其眾,擊殺殆盡,汜水為之不流,從賓乘馬入水溺死。築京觀,刻石紀功,晉祖大喜,拜河陽三城節度,充鄴都行營都虞候。會延光以城降,移鎮潞州。

天福四年、晋祖は虎牢の功を追念し、武寧軍節度使・同平章事に遷し、中使を遣わして益に謂って言った、「朕は卿の前年七月九日の大いに戦功を立てたことを思い、故にまたこの月この日をもって卿の鎮を彭門に徙し、相印を領せしめる」と。仍って門戟を賜い、郷里を将相郷勲賢里と改めた。九月、徐州に大火があり、益は金・粟を出してこれを賑った。

原文天福四年,晉祖追念虎牢之功,遷武寧軍節度、同平章事,遣中使謂益曰:「朕思卿前年七月九日大立戰功,故復以此月此日徙卿鎮彭門,領相印。」仍賜門戟,改鄉里為將相鄉勳賢里,九月,徐州大火,益出金、粟振之。

明年、鎮を移して秦州とし、西面都部署を充てた。階州の義軍校王君懷がその刺史の暴虐に苦しみ、数千の衆を率いて蜀に投じ、先鋒となって秦・成の諸州を下すことを請うた。益はこれを聞いて懼れ、朝廷に援を請うた。また密かに蜀の将に書を遺わし、誠意を達した。少帝はこれを聞き、辺患となると疑い、内地に移すことを議した。時に蒲の帥安審琦が鎮を移して許下としたので、益を河中尹・護国軍節度使とした。

原文明年,徙鎮秦州,充西面都部署。階州義軍校王君懷苦其刺史暴虐,率眾數千投蜀,請為先鋒,下秦、成諸州。益聞之懼,請援於朝;又潛遺書於蜀將,以達誠意。少帝聞之,疑為邊患,議徙於內地。會蒲帥安審琦移鎮許下,以益為河中尹、護國軍節度。

契丹が汴に入ると、益は僚属を率いて京師に帰り、契丹主に詣で、自ら北伐の謀に預からなかったことを陳べた。契丹はこれに鳳翔節度使を授けた。

原文契丹入汴,益率僚屬歸京師,詣契丹主,自陳不預北伐之謀。契丹授以鳳翔節度。

漢祖が即位すると、兼侍中を加えた。益は自ら嘗て契丹の命を受けたことを以て、漢兵が洛に入ったと聞き、これを憂い、城隍を浚って備えとした。孟昶は益の親しい掌樞密王処回を遣わして書を齎し益を招き、また綿州刺史呉崇惲を遣わして厚くこれを遺わした。崇惲は元は秦州の押衙で、益の故吏であった。及び何重建が帥となって崇惲に表を奉じさせ階・秦を以て蜀に帰すると、刺史を授けられたので、故に昶はこれを遣わしたのである。益は遂にその子と共に蜀に帰した。昶は重建に命じて川兵数万を率い大散関を出てこれに応ぜしめた。漢祖はその事を知り、客省使王景崇を遣わし禁軍数千を率い、倍道して岐下に趨らせ、益を召し入朝させた。時に漢祖は既に病に伏しており、臥内に召し至り、これに謂って言った、「侯益は貌は朝廷に順うも、心は携貳を懐く。汝が彼の地に至り、もし益が来れば、即ち置いて問うなかれ。もし遅疑して決せずば、即ち便宜を以て事に従え」と。景崇が京兆に至ると、岐・雍・邠・涇の師を合わせて蜀軍を破った。益は懼れ、即ち入朝を謀った。時に漢祖の崩御を聞き、景崇は益を誅しようとしたが、隠帝が先朝の密旨を知らぬことを慮った。従事の程渥は、景崇の里人である。益は因ってこれを遣わし景崇を説かせて言った、「君は位を通顕に致した、また少しく止足を知るべし、何ぞ必ずしも人を禍する心を懐き、已甚しき事を行わんや。況んや侯君の親戚爪牙甚だ衆く、事もし妄りに発すれば、禍また踵を旋らして至らん」と。景崇は怒って言った、「汝去れ、遊説するなかれ、吾将に爾を族せんとす」と。益は渥の言を用いられぬと知り、即ち数十騎を率いて奔り入朝した。隠帝は侍臣を遣わし益が蜀軍と結連した由を問うと、益は対えて言った、「臣はこれを誘い出関し、掩い殺さんと欲したのみです」と。隠帝はこれを笑った。益は史弘肇らに厚く賂し、景崇の横恣を言った。諸権貴は深くこれを庇護し、乃ち開封尹兼中書令を授けた。俄かに魯国公に封じた。景崇はこれを聞き、遂に城に拠って叛き、益の親属で城中にいた残り七十口は悉く景崇に害された。

原文漢祖即位,加兼侍中。益自以嘗受契丹命,聞漢兵入洛,憂之,浚城隍為備,孟昶遣益所親掌樞密王處回賫書招益,復遣綿州刺史吳崇惲厚遺之。崇惲本秦州押衙,益故吏也,及何重建為帥遣崇惲奉表以階、秦歸蜀,授刺史,故昶遣之。益遂與其子歸蜀,昶令重建率川兵數萬出大散關以應之。漢祖知其事,遣客省使王景崇率禁軍數千,倍道趨岐下,召益入朝。時漢祖已不豫,召至臥內,謂之曰:「侯益貌順朝廷,心懷攜貳。爾往至彼,如益來,即置勿問;茍遲疑不決,即以便宜從事。」景崇至京兆,合岐、雍、邠、涇之師以破蜀軍。益懼,即謀入朝。會聞漢祖崩,景崇欲誅益,慮隱帝不知先朝密旨。從事程渥,景崇里人也,益因遣之說景崇曰:「君致位通顯,亦可少知止足,何必懷禍人之心,為已甚之事乎。況侯君親戚爪牙甚眾,事若妄發,禍亦旋踵至矣。」景崇怒曰:「子去,勿為遊說,吾將族爾!」益知不用渥言,即率數十騎奔入朝。隱帝遣侍臣問益結連蜀軍之由,益對曰:「臣欲誘之出關,掩殺之耳。」隱帝笑之。益厚賂史弘肇輩,言景崇之橫恣。諸權貴深庇護之,乃授以開封尹兼中書令。俄封魯國公。景崇聞之,遂據城叛,益親屬在城中餘七十口悉為景崇所害。

及び周祖が起兵すると、隠帝は師を出してこれを禦することを議し、益は計を献じて言った、「王者は天下に敵無し、兵は軽々しく出すべからず、況んや大名の戍卒の家属は尽く京城に在り、関を閉めてその鋭気を挫き、その母妻を遣わして降を発してこれを招くに如かず、戦わずして定まるべし」と。慕容彦超は益が衰老し、懦夫の計を作してこれを沮すと以為った。隠帝は益と彦超及び張彦超・閻晋卿・呉虔裕を遣わし澶州を守らせた。赤岡に至り、周師が奄かに至り、留子陂で戦い、漢軍は利あらず。益は陣に臨み、士卒に闘志無きを見、また占候が不祥であると、乃ち焦継勲らと共に夜に周祖に謁し、周祖は慰労して還らせた。

原文及周祖起兵,隱帝議出師禦之,益獻計曰:「王者無敵於天下,兵不宜輕出,況大名戍卒家屬盡在京城,不如閉關以挫其銳,遣其母妻發降以招之,可不戰而定。」慕容彥超以為益衰老,作懦夫計,沮之。隱帝遣益與彥超及張彥超、閻晉卿,吳虔裕守澶州。至赤岡,周師奄至,戰留子陂,漢軍不利。益臨陣,見士卒無鬥志,又占候不祥,乃與焦繼勳等夜謁周祖,周祖慰勞遣還。

広順初年、楚国公に封じ、太子太師に改め、俄かにまた斉国公に改封した。顕徳元年冬、老を告げ、本官のまま致仕して洛に帰った。使者を遣わし茶薬銭帛を賜い、就いてこれを撫問した。

原文廣順初,封楚國公,改太子太師,俄又改封齊國公。顯德元年冬,告老,以本官致仕歸洛。遣使賜茶藥錢帛,就撫問之。

太祖が即位すると、器幣を賜うことを遣わし、歳一回来朝し、太祖は耆旧として厚くこれを遇した。乾徳初年、郊祀し、詔して中書門下班に綴し、礼は丞相等とした。三年、卒す。年八十。中書令を贈られた。

原文太祖即位,遣賜器幣,歲一來朝,太祖以耆舊厚待之。乾德初,郊祀,詔綴中書門下班,禮與丞相等。三年,卒,年八十,贈中書令。

五人の子あり:仁願、仁矩、仁寶、仁遇、仁興。仁願は左金吾衛大将軍・蓬州刺史に至る。仁遇は西京内園使。仁興は右屯衛将軍。仁願の子延済は、西京作坊使・康州刺史。

原文五子:仁愿、仁矩、仁寶、仁遇、仁興。仁愿至左金吾衛大將軍、蓬州刺史;仁遇,西京內園使;仁興,右屯衛將軍。仁願子延濟,西京作坊使、康州刺史。

子 仁矩

原文子 仁矩

仁矩は従兄の張益に従い商州の牙校となる。張益が張従賓を討った時、仁矩は真っ先に賊の鋒鋩を犯し、功により蓬州刺史を領し、河南の牙職を充てられた。張益に従い潞・徐・秦の三鎮を歴任。開運初年、入朝して氈毯使となり、出て天平行軍司馬となる。

原文仁矩從益為商州牙校。益之討張從賓也,仁矩首犯賊鋒,以功領蓬州刺史,充河南牙職。從益歷潞、徐、秦三鎮。開運初,入為氈毯使,出為天平行軍司馬。

漢が興ると、隰州刺史を授けられ、郡に至って滞った訴訟を裁決し、一日に拘禁された囚人百余人を釈放し、獄はこれがために空となり、民情は喜んで服した。周に仕え、左羽林将軍を歴任し、出て泗州刺史となり、通州に改め、兼ねて屯田塩鉄監使を兼ねる。

原文漢妝,授隰州刺史,至郡決滯訟,一日釋繫囚百餘,獄為之空,民情悅服。仕周,歷左羽林將軍,出為泗州刺史,改通州,兼屯田鹽鐵監使。

宋の初め、祁・雄の二州刺史を歴任。軍を治めるに方略あり、数郡を歴任し、皆善政があった。開宝二年、卒す。享年五十六。太祖は大いにこれを惜しみ、特に中使に命じて喪を護らせた。子に延広・延之あり、咸平二年に進士及第。

原文宋初,歷祁、雄二州刺史。治軍有方略,歷數郡,咸有善政。開寶二年,卒年五十六。太祖甚惜之,特命中使護喪。子延廣、延之、咸平二年進士及弟。

子 仁寶

原文子 仁寶

仁寶は蔭により太子中允に遷り、趙普の妹婿である。盧多遜は趙普と不和があり、趙普が宰相を罷められると、直ちに仁寶をして邕州知州とす。州の右江に毒薬樹が生え、宣化県の民が常にこれを採って売っていた。仁寶はこれを上聞し、詔して全て伐ち去らしむ。九年間交代なし。太平興国年中、上書して交州を取る策を陳べ、太宗大いに喜び、駅伝を馳せて召し還すよう命じた。多遜は急ぎ奏上して曰く、「もし仁寶を召せば、その謀は必ず漏れ、蛮夷が備えを増し、容易には取れません。仁宝に兵糧輸送の任を授け、且つ計画させ、別に偏将を遣わして荊湖の士卒一二万人を発し、長駆して往かせれば、勢い必ず万全です」と。帝はこれを然りとす。遂に仁寶を交州水陸計度転運使とす。前軍が出発し、賊の鋒勢が甚だ盛んなのに遇い、援兵が続かず、害に遇い江中にて死す。太宗これを聞き、甚だ悼み惜しみ、特に工部侍郎を追贈し、その子延齢・延世を録用してともに斎郎とした。延齢は殿中丞に至る。延世は太子中舎に至る。

原文仁寶以蔭遷太子中允,即趙普妹婿。盧多遜與普有隙,普罷相,即以仁寶知邕州。州之右江生毒藥樹,宣化縣人常采貨之。仁寶以聞,詔盡伐去。九年不代。太平興國中,上言陳取交州之策,太宗大喜,令馳驛召歸。多遜遽奏曰:「若召仁寶,其謀必泄,蠻夷增備,未易取也。不如授仁寶飛輓之任,且經度之,別遣偏將發荊湖士卒一二萬人,長驅而往,勢必萬全。」帝以為然。遂以仁寶為交州水陸計度轉運使。前軍發,遇賊鋒甚盛,援兵不繼,遇害死江中。太宗聞之,甚悼惜,特贈工部侍郎,錄其子延齡、延世並為齋郎。延齡至殿中丞。延世至太子中舍。

孫 延広

原文孫 延廣

延広は、初め襁褓の中にあり、王景崇の難に遭い、乳母の劉氏が己が子を以て延広に代え死なしむ。劉氏は物乞いをしながら延広を抱き持って京師に至り張益に還す。延広の父は通・祁・雄の三州刺史を歴任し、悉く彼を以て牙職に補す。仁矩が雄州に在った日、ちょうど飲宴していると、虜の数十騎が白昼に州城に入り、居民は驚き騒ぐ。延広は親信数騎を引き連れて馳せ出で衙門を出、その酋長一人を射殺し、数級を斬首し、その余党を悉く擒らえる。延広は首級を持って献上し、仁矩は喜び、その背を撫でて曰く、「我が門を興す者は必ず汝であろう」と。監軍の李漢超はその事を上聞し、詔書をもって褒め称え、錦袍銀帯を賜う。

原文延廣,初在繈褓中,遭王景崇之難,乳母劉氏以己子代延廣死。劉氏行丐抱持延廣至京師還益。延廣父歷通、祁、雄三州刺史,悉以補牙職。仁矩在雄州日,方飲宴,虜數十騎白晝入州城,居民驚擾。延廣引親信數騎馳出衙門,射殺其酋長一人,斬首數級,悉禽其餘黨。延廣持首級以獻,仁矩喜,拊其背曰:「興吾門者必汝也。」監軍李漢超以其事聞,詔書褒美,賜錦袍銀帶。

仁矩が卒すと、西頭供奉官に補せられる。党進に従い太原を討つ。太平興国初年、永昌陵の修築に預かり、出て延州軍を護り兼ねて縁辺巡検を務め、士卒を善く撫で、下吏は喜んで用いられ、戎人は畏れて服し、閣門祗候に遷る。時に西北の戎が寇し、辺人が擾乱し、辺境巡察に使える者を求む。近臣が言うには、「延広は将家の子、辺事に習熟して彼の右に出る者なし」と。延広は時に病を患っていたが、強いて起用し、崇儀副使に遷し、同・鄜・坊・延・丹縁辺都巡検使を充てる。延広は病を押して入朝し辞し、太宗は名薬と処方を賜い、太醫を随従させ、その病もやがて癒える。戎人は延広の到着を聞き、再び寇乱することを敢えてせず。

原文仁矩卒,補西頭供奉官。從党進討太原。太平興國初,預修永昌陵,出護延州軍兼緣邊巡檢,善撫士卒,下樂為用,戎人畏服,遷閣門祗候。會西北戎入寇,邊人擾亂,求可使徼巡者。近臣言:「延廣將家子,習邊事無出其右。」延廣時被病,強起之,遷崇儀副使,充同、鄜、坊、延、丹緣邊都巡檢使。延廣力疾入辭,太宗賜以名藥及方,遣太醫隨侍,其疾亦尋愈。戎人聞延廣之至,不敢復為寇亂。

叛卒の劉渥が亡命者数百人を嘯聚し、耀州富平県を寇し、京兆に入らんと謀り、その勢いは甚だ盛ん。過ぎ行く所で居民を殺し、財物を奪い、放火して去り、関右は騒然となる。延広は兵数百を率い、間道よりこれを追い、富平西十五里で劉渥に会す。劉渥の衆は既に千余人、持久戦となる。劉渥は平素より延広を憚り、伝言して曰く、「我は草間に生きんことを求むるのみ、死を見ること鴻毛の如し。侯公は家世富貴なれば、何ぞ保守を思わずして、亡卒と一旦の命を鋒鏑の下に争わんや」と。延広怒り、これに撃ちかかり、身を挺して劉渥と大樹の下で闘い、劉渥の右腕を断ち、劉渥は脱走し、勢いに乗じてその衆を大破す。劉渥は創が甚だしく、谷中に止まり、後数日にして追兵に獲らる。劉渥は平素より驍勇無敵と号せられ、ここに至り延広に殺され、群盗は気を喪い、余党は次第に自ら帰順し、関右は以て平定す。上これを嘉し、抜擢して崇儀使に拝す。

原文叛卒劉渥嘯聚亡命數百人,寇耀州富平縣,謀入京兆,其勢甚盛。所過殺居民,奪財物,縱火而去,關右騷然。延廣率兵數百,自間道追之,會渥於富平西十五里,渥眾已千餘人,相持久之。渥素憚延廣,傳言:「我草間求活,觀死如鴻毛耳;侯公家世富貴,奈何不思保守,而與亡卒爭一旦之命於鋒鏑之下?」延廣怒,因擊之,挺身與渥鬥大樹下,斷渥右臂,渥脫走,乘勢大破其眾。渥創甚,止谷中,後數日為追兵所獲。渥素號驍勇無敵,至是為延廣所殺,群盜喪氣,餘黨稍稍自歸,關右以定。上嘉之,擢拜崇儀使。

淳化二年、李継遷が初めて夏台を擾乱す。即ち命じて延広に獎州刺史を領せしめ霊州知州とし、金帯名馬を賜う。時に趙保忠が密かに李継遷と結ぶ。朝廷は騎将李継隆に命じて兵を率い問罪せしめ、延広にその軍を護らしむ。既にして夏台平定し、保忠は縛に就く。手詔をもって褒め称え、賜賚甚だ厚し。師の還るとき、留めて延州鈐轄とす。時に節帥の田重進が老耄し、郡中治まらず、延広を以て同知州事兼縁辺都巡検使とす。

原文淳化二年,李繼遷始擾夏臺,即命延廣領獎州刺史、知靈州,賜金帶名馬。會趙保忠陰結繼遷,朝廷命騎將李繼隆率兵問罪,以延廣護其軍。既而夏臺平,保忠就縛。手詔褒美,錫賚甚厚。師還,留為延州鈐轄。會節帥田重進老耄,郡中不治,以延廣同知州事兼緣邊都巡檢使。

先に、延広が霊州を知った時、部下は厳整し、戎人は喜んで服し、李継遷は平素よりその鋒鋩を避けていた。監軍の康賛元はその功を妬み、誣って延広が虜情を得て、後々強情で制し難からんことを恐れると奏上す。急ぎ詔して還し、慕容徳豊を以て代えしむ。部内は甚だ治まらず。至道年間、李継遷が霊州を寇す。朝廷は帥を謀り、同知枢密院事の銭若水が延広を使い得ると称す。就いて寧州団練使・霊州知州兼兵馬都部署に拝す。白金二千両を賜い、歳ごとに給する銭を二百万増やす。戎人が道を塞ぎ、郵伝や糧秣の輸送も皆通ぜず。延広は独り数十騎を率いて鎮に赴く。戎人は平素よりその威名に服し、皆相率いて引き避く。

原文先是,延廣知靈州,部下嚴整,戎人悅服,李繼遷素避其鋒。監軍康贊元害其功,誣奏延廣得虜情,恐後倔強難制。遽詔還,以慕容德豐代之,部內甚不治。至道間,繼遷寇靈州,朝廷謀帥,同知樞密院事錢若水稱延廣可使,就拜寧州團練使、知靈州兼兵馬都部署。賜白金二千兩,歲增給錢二百萬。戎人塞道,郵傳饋餫皆不通,延廣獨引數十騎之鎮,戎人素服其威名,皆相率引避。

二年春、病に罹る。上は御醫を駅伝に馳せて視察せしむ。醫の到着した時、病は既に急なり。延広は中使の李知信に謂いて曰く、「延広自ら必ず起たざるを度る。家世国恩を受け、今日死する所を得たり。ただ恨むらくは、未だ尺寸の功を立てて上に報いざるのみ」と。言い終えて卒す。享年五十。上これを聞き、涙を流し、賵賻甚だ厚く、その子を六品正員官とす。子の紹隆は、東染院使・帯御器械。紹隆の子の宗亮は、右侍禁・閣門祗候。

原文二年春,被病,上遣御醫馳驛視之。醫至,疾已亟,延廣謂中使李知信曰:「延廣自度必不起,家世受國恩,今日得死所矣,但恨未立尺寸功以報上耳。」言訖而卒,年五十。上聞之為出涕,賵賻甚厚,以其子為六品正員官。子紹隆,東染院使、帶御器械。紹隆子宗亮,右侍禁、閣門祗候。

張従恩

原文張從恩

張従恩は、幷州太原の人である。父の存信は、振武軍節度使であった。後唐の明宗が微賤の時、嘗て存信の麾下に隷属した。時に従恩は尚幼く、頗る無頼であり、明宗は甚だこれを軽んじた。即位すると、散秩を授けるに止めた。従恩は志を得ず、乃ち退いて太原に帰った。

原文張從恩,幷州太原人。父存信,振武軍節度。後唐明宗微時,嘗隸存信麾下。時從恩尚幼,頗無賴,明宗甚薄之,及即位,止授散秩。從恩不得志,乃退歸太原。

晋の高祖こうそが河東を鎮守した時、少帝のために従恩の女を娶った。晋の初め、外戚として抜擢されて右金吾衛将軍となり、間もなく貝州刺史に改め、北京副留守に遷り、澶州防禦使を移授された。枢密副使・宣徽南院使・権西京留守を歴任し、俄かに三司を判じた。安従進が襄陽で叛くと、従恩を行営兵馬都監とした。

原文晉祖鎮河東,為少帝娶從恩女。晉初,以外戚擢為右金吾衛將軍,未幾,改刺貝州,遷北京副留守,移授澶州防禦使。歷樞密副使、宣徽南院使、權西京留守,俄判三司。安從進叛於襄陽,以從恩為行營兵馬都監。

少帝が位を嗣ぐと、襄陽が平定され、検校太尉・開封尹に遷り、東京留守を充てた。少帝が鄴より汴に帰ると、鄴都留守に改めた。錫賚は等を加え、仍て銀装肩輿二つを賜い、其の家を迎えさせた。明年、契丹が河朔を擾し、従恩は僅かに守りを全うするのみであった。尋ねて同中書門下平章事を加えられた。是の歳、契丹の将趙延昭が甘陵を占拠したので、従恩を貝州行営都部署に命じた。従恩が至ると、延昭は遁走した。詔して杜重威と兵三万を合して北伐させた。

原文少帝嗣位,襄陽平,遷檢校太尉、開封尹,充東京留守。少帝自鄴歸汴,改鄴都留守。錫賚加等,仍賜銀裝肩輿二,俾迎其家。明年,契丹擾河朔,從恩僅能完守。尋加同中書門下平章事。是歲,契丹將趙延昭據甘陵,命從恩為貝州行營都部署。從恩至,延昭遁去。詔與杜重威合兵三萬北伐。

開運初年、天平軍節度使に改めた。契丹が再び辺境を擾したので、十五将に北征を命じ、従恩を北面行営都監に充てた。二年、晋州に移鎮し、又潞州に改めた。契丹が汴に入ると、従恩は降伏しようとした。従事の高防が諫めて曰く、「公は晋室の親戚なり、臣節を尽くすべし」と。従恩は聴かず、乃ち城を棄てて去った。巡検使王守恩が其の家財を悉く取り、城を以て漢の高祖に帰した。漢の高祖が汴に至ると、従恩は惶懼して出でようとしなかった。漢の高祖は召して襲衣・金帯・鞍勒馬・器幣を賜い、以て之を慰安した。尋ねて右衛上将軍を拝し、奉朝請とした。

原文開運初,改天平軍節度。契丹復擾邊,命十五將北征,以從恩充北面行營都監。二年,移鎮晉州,又改潞州。及契丹入汴,從恩欲降,從事高防諫曰:「公晉室之親,宜盡臣節。」從恩不聽,乃棄城而去。巡檢使王守恩悉取其家財,以城歸漢祖。漢祖至汴。從恩惶懼不敢出。漢祖召賜襲衣、金帶、鞍勒馬、器幣以安慰之。尋拜右衛上將軍,奉朝請。

周の初め、左金吾衛上将軍に迂任した。周の高祖が兗州を征した時、従恩は従軍した。世宗が位を嗣ぐと、検校太師を加えられ、褒国公に封ぜられた。宋の初め、許国公に改封され、久しくして病を以て免ぜられた。乾徳四年、卒去、年六十九。

原文周初,迂左金吾衛上將軍。周祖征兗州,從恩從行。世宗嗣位,加檢校太師,封褒國公。宋初,改封許國公,久之,以病免。乾德四年,卒,年六十九。

扈彦珂

原文扈彥珂

扈彦珂は、代州雁門の人である。幼くして王建立に仕え、謹厚を以て称された。晋の天福年中、建立が潞州を節制し、卒去した。遺表して彦珂を推薦し、河東節度左都押衙に補せられた。漢の高祖が太原より建号した時、宣徽南院使に抜擢された。間もなく、鎮国軍節度使、華商等州観察処置等使を授けられた。

原文扈彥珂,代州雁門人。幼事王建立,以謹厚稱。晉天福中,建立節制潞州,卒,遺表薦彥珂,得補河東節度左都押衙。會漢祖自太原建號,擢為宣徽南院使。未幾,授鎮國軍節度,華商等州觀察、處置等使。

乾祐初年、河中の李守貞・永興の趙思綰・鳳翔の王景崇が並びに城に拠って叛いた。周の高祖が枢密使として、兵を総べて出征し、道中華州に出た。時に議する者多くは先ず景崇・思綰を討つのを便とすとしたが、周の高祖の意は未だ決せず、彦珂曰く、「三叛連衡し、守貞を主と推す。宜しく先ず河中を撃つべし。河中平らげば、則ち永興・鳳翔勢を失う。今近きを捨てて遠きを図るは、若し景崇・思綰前もって逆戦し、守貞其の後を兵せば、腹背敵を受く、之を奈何せん」と。周の高祖其の言に従い、河中平定すると、功を以て護国軍節度使に遷った。時に蒲人は凋弊し、良帥を得て鎮撫せんことを思った。彦珂は暗弱であり、朝議之を少なくした。

原文乾祐初,河中李守貞、永興趙思綰、鳳翔王景崇並據城叛,周祖為樞密使,總兵出征,道出華州。時議多以先討景崇、思綰為便,周祖意未決,彥珂曰:「三叛連衡,推守貞為主,宜先擊河中;河中平,則永興、鳳翔失勢矣。今舍近圖遠,若景崇、思綰逆戰於前,守貞兵其後,腹背受敵,為之奈何?」周祖從其言,及平河中,以功遷護國軍節度。時蒲人雕弊,思得良帥鎮撫。彥珂暗弱,朝議少之。

広順初年、就いて同平章事を加えられ、滑州に移鎮した。歳余りして代わり帰朝した。鳳翔の趙暉と共に緡帛を献じ、宴を開くことを請うたが、納れられず、滑州の李守貞の宅を以て之に賜った。世宗が位を嗣ぐと、左衛上将軍を授けられた。顕徳三年、老疾を以て上章して退くことを求め、開府儀同三司・太子太師を以て致仕し、西京に帰った。太祖即位すると、使者を遣わして就いて器幣を賜い、数月にして卒去、年七十五。

原文廣順初,就加同平章事,移鎮滑州。歲餘代歸。與鳳翔趙暉俱獻緡帛,請開宴,不納,以滑州李守貞宅賜之。世宗嗣位,授左衛上將軍。顯德三年,以老疾上章求退,授開府儀同三司、太子太師致仕,歸西京。太祖即位,遣使就賜器幣,數月卒,年七十五。

薛懐譲

原文薛懷讓

薛懐譲、其の先祖は戎人であり、太原に徙居した。少より勇敢にして、戦闘を喜んだ。後唐の荘宗が鎮に在った時、帳下に隷するを得、累ねて軍職を歴任した。明宗の時、神武右廂都校に改め、奨州刺史を領した。東川の董璋が懐譲を遣わし本軍を率いさせ、晋の高祖に従って賊を討たせた。賊平らぎ、絳州刺史に遷った。清泰初年、申州に移った。明年、表して郡を罷め代北軍に赴くことを乞うたが、力陳して允されず。

原文薛懷讓,其先戎人,徙居太原。少勇敢,喜戰鬥。後唐莊宗在鎮,得隸帳下,累歷軍職。明宗時,改神武右廂都校、領獎州刺史。東川董璋遣懷讓率本軍從晉祖討賊,賊平,遷絳州刺史。清泰初,移申州。明年,表乞罷郡赴代北軍,力陳不允。

晋の天福年中、范延光が鄴で叛くと、懐譲を招收使とした。戦うに及び、流矢に中り、詔して湯薬を賜い存問した。又沂・遼・密・懐の四州刺史を歴任し、至る所善政無く、頗る誅斂を事とした。楊光遠が青州で反すると、懐譲を召して闕に至らせ、襲衣・玉帯を賜い、行営先鋒都指揮使とし、功を以て宿州団練使に改めた。

原文晉天福中,范延光叛於鄴,以懷讓為招收使。及戰,中流矢,詔賜湯藥存問。又歷沂、遼、密、懷四州刺史,所至無善政,頗事誅斂。楊光遠反青州,召懷讓至闕,賜襲衣、玉帶,為行營先鋒都指揮使,以功改宿州團練使。

契丹が南侵すると、少帝は澶州に幸し、懐譲を遣わし李守貞・皇甫遇・梁漢璋と兵万人を率いて河に沿って下り、以て汶陽を守らせた。時に契丹は歳々辺陲を擾し、朝廷は驍将を択んで要郡を守らせ、懐譲を洺州団練使に命じた。符彦卿が北して契丹を討つに会い、懐譲を馬軍左廂排陣使とした。又北面都招討杜重威に従って先鋒都指揮使となった。重威が中渡橋で契丹に降ると、懐譲も亦籍中に在ったが、其の志に非ざる所であった。

原文會契丹南侵,少帝幸澶州,遣懷讓與李守貞、皇甫遇、梁漢璋率兵萬人緣河而下,以守汶陽。時契丹歲擾邊陲,朝廷擇驍將守要郡,命懷讓為洺州團練使。會符彥卿北討契丹,以懷讓為馬軍左廂排陣使。又從北面都招討杜重威為先鋒都指揮使。及重威降契丹於中渡橋,懷讓亦在籍中,非其志也。

契丹主が北帰し、麻答を留めて鎮州を守らせた。麻答は歩健を遣わし洺州の供運を督させた。懐譲は漢の高祖が晋陽に挙義したと聞くや、即ち歩健を殺し、表を奉じて漢に帰した。漢の高祖は郭従義を遣わし兵万余を分け、懐譲と共に邢州を取らせた。時に偽帥劉鐸が邢臺を守り、堅壁して之を拒ぎ、克たずして還った。麻答は副将楊安を遣わし八百騎を以て懐譲を攻め、又剛鉄に三百騎を将いて之に継がせた。懐譲は戦いて勝たず、本州に退保し、契丹は大いに其の封内を掠めた。麻答が鎮軍に逐われるに及び、楊安は急ぎ遁走し、鐸は又漢の高祖に款を納れた。懐譲は其の不虞に乗じ、人を遣わし鐸を紿いて云く、「我詔を奉じて邢州帥と為る。今衆を率いて契丹を襲わんとす。請う郡に頓を置かん」と。鐸に拒む心無く、輒ち門を開いて之を迎え、懐譲は鐸を殺し、其の城を奪った。漢の高祖は即ち以て安国軍節度使を授けた。

原文契丹主北歸,留麻答守鎮州,麻答遣步健督洺州供運。懷讓聞漢祖舉義晉陽。即殺步健,奉表歸漢,漢祖遣郭從義分兵萬餘,與懷讓取邢州。時偽帥劉鐸守邢臺,堅壁拒之,不克而還。麻答遣副將楊安以八百騎攻懷讓,又命剛鐵將三百騎繼之。懷讓戰不勝,退保本州,契丹大掠其封內。及麻答為鎮軍所逐,楊安亟遁,鐸又納款漢祖。懷讓乘其不虞,遣人紿鐸云:「我奉詔為邢州帥,今率眾襲契丹,請置頓於郡。」鐸無拒心,輒開門迎之,懷讓殺鐸,奪其城。漢祖即授以安國軍節度。

隠帝が即位すると、同州に移鎮した。楊邠等を殺すに及び、急ぎ懐譲を召して闕に至らせた。北郊の兵敗に会い、懐譲は周の高祖に降った。

原文隱帝即位,移鎮同州。及殺楊邠等,急召懷讓至闕。會北郊兵敗,懷讓降於周祖。

周祖が即位すると、襲衣・金帯・鞍勒馬を賜り、任地に還らせ、同平章事を加えた。劉崇が侵入すると、懐譲は上表して西征を求め、詔で褒められた。夏陽の富人張廷徽が趙隠ら五人を盗賊で人を殺したと誣告し、かつ懐譲の子有光に多額の賄賂を贈った。懐譲はこれを知ると、すぐに吏に諷して隠らを拷問させ、強いて自白させ、掌書記李炳・親校賈進蒙追・判官劉震らを遣わし、その罪状を捏造させ、隠らは皆棄市に処せられた。家人が朝廷に訴えて冤罪を訴えると、懐譲も自ら入朝し、急いで銭百万を献上し、宴を開くことを請うたが、受け取られなかった。まもなく本物の賊が捕獲され、御史台に下して審問させると、懐譲は恐れ、馬十匹を献上したが、また受け取られなかった。有司が懐譲を捕らえて獄に繋ぐことを請うたが、周祖は宿将であるとして釈放して問わず、震らを杖罰して流罪にした。まもなく懐譲を左屯衛上將軍とした。

原文周祖登位,賜襲衣、金帶、鞍勒馬,遣還任,加同平章事。劉崇入寇,懷讓表求西征,詔褒之。夏陽富人張廷徽誣告趙隱等五人為盜殺人,且厚賂懷讓子有光。懷讓知之,即諷吏掠治隱等,強伏之,遣掌書記李炳、親校賈進蒙追、判官劉震等,鍛成其獄,隱等皆棄市。家人詣闕訴冤,懷讓亦自入朝,遽獻錢百萬,請開宴,不納。俄捕獲本賊,下御史臺鞫問,懷讓懼,獻馬十匹,復不納。有司請逮懷讓繫獄,周祖以宿將,釋不問,杖流震等。俄以懷讓為左屯衛上將軍。

世宗が即位すると、左武衛上將軍を加えた。顕徳五年、老齢を理由に致仕を請い、太子太師を拝命して致仕した。恭帝が即位すると、杞国公に封じられた。建隆元年、卒去。六十九歳。侍中を追贈された。

原文世宗即位,加左武衛上將軍。顯德五年,請老,拜太子太師致仕。恭帝即位,封杞國公。建隆元年,卒,年六十九。贈侍中。

懐譲は馬や駱駝を飼育することを好み、馬には大烏・小烏というものがおり、特に優れた駿馬であった。漢の隠帝がこれを求めさせたが、惜しんで献上しなかった。節度使を罷めて環衛の職に就き、禄が薄くなっても、なお馬百匹・駱駝三十頭を持ち、資産を傾けて飼料を供給し、朝夕に見回りして楽しみとした。家人がたびたび売って費用に充てるよう勧めたが、懐譲は聞き入れなかった。死ぬと、童僕が顔を傷つけて哭した。これはその地の風俗である。

原文懷讓好畜馬駝,馬有大烏小烏者,尤奇駿。漢隱帝使求之,吝而不獻。及罷節鎮,環衛祿薄,猶有馬百匹、橐駝三十頭,傾資以給芻粟,朝夕閱視為娛。家人屢勸鬻以供費,懷讓不聽。及死,童僕剺面以哭,蓋其俗也。

趙贊

原文趙贊

趙贊は、字を元輔といい、本名は美、後に改めた。幽州薊県の人。祖父は徳鈞、後唐の盧龍節度使となり、北平王に封ぜられた。父は延寿、明宗の娘興平公主を娶り、枢密使・忠武軍節度使に至った。

原文趙贊,字元輔,本名美,後改焉。幽州薊人。祖德鈞,後唐盧龍節度,封北平王。父延壽,尚明宗女興平公主,至樞密使、忠武軍節度。

贊は幼くして聡明で、明宗は大変これを愛し、諸子や外孫の石氏と共に六宅で養育された。暇な日に、諸孫数十人を遍く見て回り、贊を見て言った、「この児は立派な器である」。贊は七歳で書物二十七巻を誦し、神童挙に応じた。明宗は詔して言った、「都尉の子、太尉の孫、幼くして書を誦し、弱くして遊戯を好まず、よく庭訓を顕わす。科名を賜うべきである。特に童子及第を賜う。なお長興三年の礼部春榜に附せよ」。久しくして、延寿が宣武軍に出鎮することとなり、よって奏して牙内都校に任じた。

原文贊幼聰慧,明宗甚愛之,與諸子、外孫石氏並育於六宅。暇日,因遍閱諸孫數十人,目贊曰:「是兒令器也。」贊七歲誦書二十七卷,應神童舉。明宗詔曰:「都尉之子,太尉之孫,幼能誦書,弱不好弄,克彰庭訓,宜錫科名,可特賜童子及弟。仍附長興三年禮部春榜。」久之,延壽出鎮宣武軍,因奏署牙內都校。

清泰末、晋祖が幷門で挙兵し、延寿に枢密使として兵を率いて上党に駐屯させ、徳鈞が本軍を率いて幽州から来て合流するよう命じた。時に晋祖は契丹の援けを得て、兵を率いて南下し、徳鈞父子は晋に降り、契丹主は彼らをことごとく拘束して北へ連れ去ったが、贊だけは母の公主と共に西洛に留まった。天福三年、晋祖は贊に命じて母を奉じて薊門に帰らせ、契丹は金吾將軍に任じた。数年後、契丹は延寿を范陽節度使とし、また贊を牙内都校に任じた。開運末、契丹主が南侵を謀り、政務を延寿に委ねた。平原が陥落すると、贊はまた契丹に任ぜられて河中節度使となった。延寿が契丹に従って北帰すると、贊は留まって河中を鎮守した。

原文清泰末,晉祖起幷門,命延壽以樞密使將兵屯上黨,德鈞將本軍自幽州來會。時晉祖以契丹之援,引兵南下,德鈞父子降晉,契丹主盡錮之北去,贊獨與母公主留西洛。天福三年,晉祖命贊奉母歸薊門,契丹署為金吾將軍。數年,契丹以延壽為范陽節度,又署贊為牙內都校。開運末,契丹主將謀南侵,委政延壽。及平原陷,贊復受契丹署為河中節度。延壽從契丹北歸,贊得留鎮河中。

まもなく、漢祖が晋陽で挙兵すると、贊は上表して即位を勧め、漢祖は検校太尉を加え、なお河中を鎮守させた。京兆尹・晋昌軍節度使に改めた。贊は漢が己を疑うことを恐れ、密かに親吏趙仙を遣わして上表を奉じて蜀に帰順しようとした。判官李恕という者は、もと延寿の賓佐で、深く信頼され、家事にも参与していた。贊が出鎮すると、上介として従った。この時、恕は贊に言った、「燕王(延寿)が遼に入ったのは、本意ではなかった。漢は今建国したばかりで、必ずや懐柔に務めるでしょう。公が泥首して朝廷に帰順すれば、必ず富貴を保てます。狼狽して蜀に入れば、道理上万全とは言えません。もしまた受け入れられなければ、後悔しても及ばないでしょう。公が聞き入れられるなら、私が先に入朝し、公のために申し開きをいたします」。贊はすぐに恕を朝廷に遣わした。漢祖は恕に会い、贊がなぜ蜀に附こうとするのかと問うと、恕は言った、「贊の家は燕薊にあり、身は契丹の命を受け、自ら憂い恐れを抱き、陛下がついに容れられないと思い、西軍を招き寄せたのは、ひとまず免れようと図ったからです。臣の考えでは、国家はようやく定まったばかりで、臣民を安んずることに務めるべきであり、それゆえ臣に命じて哀願し、謁見を乞わせたのです」。漢祖は言った、「贊の父子も我が同類である。契丹に仕えたのは不幸によるものだ。今、延寿が陥穽に落ちたと聞く。我がどうして贊を容れられないことがあろうか」。恕がまだ戻らないうちに、贊はすでに鎮を離れて入朝し、すぐに左驍衛上將軍に任じ、恕を邠州判官に転任させた。

原文未幾,漢祖起晉陽,贊奉表勸進,漢祖加檢校太尉,仍鎮河中。改京兆尹、晉昌軍節度。贊懼漢疑已,潛遣親吏趙仙奉表歸蜀。判官李恕者,本延壽賓佐,深所委賴,至家事亦參之。及贊出鎮,從為上介。至是,恕語贊曰:「燕王入遼,非所願也,漢方建國,必務懷柔,公若泥首歸朝,必保富貴,狠狽入蜀,理難萬全。儻復不容,後悔無及。公能聽納,請先入朝,為公申理。」贊即遣恕詣闕。漢祖見恕,問贊何以附蜀,恕曰:「贊家在燕薊,身受契丹之命,自懷憂恐,謂陛下終不能容,招引西軍,蓋圖茍免。臣意國家甫定,務安臣民,所以令臣乞哀求覲。」漢祖曰:「贊之父子亦吾人也,事契丹出於不幸。今聞延壽落於陷穽,吾忍不容贊耶?」恕未還,贊已離鎮入朝,即命為左驍衛上將軍,徙恕邠州判官。

贊は周に仕え、左右羽林・左龍武の三統軍を歴任した。世宗が南征した時、初めに贊に命じて師を率いさせ寿州城外を巡警させ、まもなく淮南道行営左廂排陣使に任じた。世宗が京に帰ると、贊を留めて諸将と共に兵を分けて寿春を包囲させ、贊は単独で東面を担当した。諸将の戦いは多く不利であったが、贊だけは慎重を保ち、秋から冬にわたり、一度も敗北しなかった。詔を受けて軍を移動する時には、尺の椽や片の瓦までもことごとく車で運び去り、城中の人で敢えて睥睨する者はいなかった。時に呉が驍将魯公綰に十余万の兵を率いさせ淮を遡って急に到来し、山に跨って柵を築き、肥水を阻み、城中を見下ろした。時に大軍はすでに包囲を解いており、贊は大将楊承信と共に軽騎を率いて呉人の糧道を断ち、また単独で配下の兵を率いて公綰の軍を襲撃して破ったが、流れ矢に当たった。

原文贊仕周,歷左右羽林、左龍武三統軍。世宗南征,初遣贊率師巡警壽州城外,俄命為淮南道行營左廂排陣使。世宗歸京,留贊與諸將分兵圍壽春,贊獨當東面。諸將戰多不利,贊獨持重,自秋涉冬,未嘗挫衄。及受詔移軍,尺椽片瓦,悉輦而行,城中人無敢睥睨者。會吳遣驍將魯公綰帥十餘萬眾泝淮奄至,跨山為柵,阻肥水,俯瞰城中。時大軍已解圍,贊與大將楊承信將輕騎斷吳人饟路,又獨以所部襲破公綰軍,為流矢所中。

世宗が再び寿春を征した時、渦口に橋を造り、濠・泗を通じさせるよう命じた。騎帥韓令坤にその工事を監督させ、贊をその副とした。霖雨が続いて淮水が漲り溢れ、濠の者が軽舟に乗じて急にその橋を焼こうと謀った。贊はこれを偵知し、橋の下に伏兵を設けた。濠の者は果たして来襲し、贊は強弩を乱発させ、多くを殺傷・捕獲した。世宗が兵を移して濠に赴いた時、牛革で大盾を覆って城を攻めさせ、贊は自ら工事を監督し、矢が冑に集まり、重傷を負ったが、なお力戦し、ついにその羊馬城を陥落させ、刺史唐景思はそこで死に、団練使郭廷請は城を降伏させた。世宗は詔を下してこれを褒め称えた。また配下の兵を率いて滁・和の間を巡撫し、石潭橋で呉人五百を破った。淮南が平定され、戦功が多かったため、保信軍節度使を授けられた。贊が職務を視ると、苛政をことごとく去り、寛大簡素な政治に務めたので、住民はこれを便利とした。恭帝が即位すると、開府の階を加えられた。

原文世宗再征壽春,命造橋渦口,以通濠、泗。令騎帥韓令坤董其役,俾贊副之。屬霖雨淮水漲溢,濠人謀乘輕舟奄焚其橋,贊覘知之,設伏橋下。濠人果至,贊令強弩亂發,殺獲甚眾。及世宗移兵趣濠,以牛革蒙大盾攻城,贊親督役,矢集於胄,中被重傷,猶力戰,遂拔其羊馬城,刺史唐景思死焉,團練使郭廷請以城降。世宗詔褒美之。又以所部兵巡撫滁、和之間,破吳人五百於石潭橋。淮南平,以戰功多,授保信軍節度。贊入視事,盡去苛政,務從寬簡,居民便之。恭帝即位,加開府階。

宋初、検校太師を加えられ、忠正軍節度使に移り、維揚平定に参与した。一年余りして、延州に移鎮し、密旨を受けて便宜行事を許された。州境に近づくと、前後に歩騎を分置し、綿々として絶えず、林莽の間に遠く旌旗が見え、配下の羌・渾が迎えに来て、慴服しない者はなかった。

原文宋初,加檢校太師,移忠正軍節度,預平維揚。歲餘,改鎮延州,受密旨許以便宜行事。將及州境,乃前後分置步騎,綿綿不絕,林莽之際,遠見旌旗,所部羌、渾來迎,無不懾服。

乾徳六年、建雄軍節度使に移った。秋、将を命じて太原を征し、贊を邠州路部署とした。開宝二年、太祖が晋陽を討たんとし、またこれを河東道行営前軍馬歩軍都虞候とした。車駕が城下に迫り、軍を四面に分けると、贊はその西側を扼した。幷人が闇に乗じて突門から密かに贊の陣営を襲ったが、贊は衆を率いてこれを撃ち、久しくしてようやく退き、弩の矢が足を貫いた。太祖はたびたび労問し、良薬を賜って塗布させた。四年、鄜州に鎮することを議した。

原文乾德六年,移建雄軍節度。秋,命將征太原,以贊為邠州路部署。開寶二年,太祖將討晉陽,又以為河東道行營前軍馬步軍都虞候。車駕薄城下,分軍四面,贊扼其西偏。幷人乘晦自突門潛犯贊壘,贊率眾擊之,久而方退,弩矢貫足。太祖勞問數四,賜良藥傅之。四年,議鎮鄜州。

太宗が即位すると、衛国公に進封された。太平興国二年、来朝したが、謁見しないうちに卒去。五十五歳。侍中を追贈された。

原文太宗即位,進封衛國公。及平興國二年,來朝,未見而卒,年五十五。贈侍中。

贊はかなり書物に通じ、詩を作ることを好み、容姿・挙動は閑雅で、士大夫には礼をもって接し、衆を統御する方略があった。その政治には特に際立った事跡はなかったが、吏民は畏服し、これも近代の賢い将帥であった。

原文贊頗知書,喜為詩,容止閑雅,接士大夫以禮,馭眾有方略。其為政雖無異跡,而吏民畏服,亦近代賢帥也。

李継勲

原文李繼勳

李繼勳は、大名府元城県の人である。周の太祖が節鎮を領した時、選ばれてその麾下に隷した。広順初年、禁軍の列校に補せられ、累遷して虎捷左廂都指揮使・永州防禦使を領するに至った。顕徳初年、侍衛歩軍都指揮使に遷り、昭武軍節度使を領した。一年余りして、曹州を領するよう改められた。

原文李繼勳,大名元城人。周祖領鎮,選隸帳下。廣順初,補禁軍列校,累遷至虎捷左廂都指揮使、領永州防禦使。顯德初,遷侍衛步軍都指揮使、領昭武軍節度。歲餘,改領曹州。

世宗が自ら淮上に親征した時、李繼勳に命じて兵を率い寿州城の南に駐屯させ、洞屋や雲梯を進めてその城を攻撃させた。李繼勳は守備を怠り、敵に敗れて、数万の死者を出し、雲梯や洞屋はことごとく焼かれた。召還されて朝廷に帰ると、河陽三城節度使として出された。議論する者は、責任ある将帥を処罰する道理を失ったと見なした。世宗が再び寿春に幸して帰還した後、李繼勳は左遷されて右武衛大将軍とされ、またその掌書記陳南金が補佐に功績がなかったとして、ともに罷免された。

原文世宗親征淮上,令繼勳領兵屯壽州城南,進洞屋、雲梯,以攻其城。繼勳怠於守禦,為其所敗,死者數萬,梯、屋悉皆被焚。召歸闕,出為河陽三城節度。議者以為失責帥之義。及再幸壽春回,左授繼勳右武衛大將軍,又以其掌書記陳南金裨贊無狀,並黜之。

顕徳四年の冬、再び世宗に従って南征し、迎鑾に到着すると、すぐに李繼勳に命じて黒龍船三十艘を率いて江口の灘におり、呉の兵数百を破り、戦船二艘を獲た。功により左領軍衛上将軍に遷った。七月、右羽林統軍に改められた。六年の春、世宗が滄州に幸した時、李繼勳を戦棹左廂都部署とし、前澤州刺史劉洪をその副とし、まもなく邢州の権知事とした。恭帝が即位すると、安国軍節度使を授けられ、検校太傅を加えられた。

原文顯德四年,冬,復從世宗南征,及次迎鑾,即命繼勳帥黑龍船三十艘於江口灘,敗吳兵數百,獲戰船二艘,以功遷左領軍衛上將軍。七月,改右羽林統軍。六年春,世宗幸滄州,以繼勳為戰棹左廂都部署,前澤州刺史劉洪副之,俄權知邢州。恭帝即位,授安國軍節度,加檢校太傅。

宋の初年、検校太尉を加えられた。太祖が沢州・潞州を平定した時、李繼勳は行在所に朝し、すぐに昭義軍節度使とされた。この秋、軍を率いて河東に入り、平遥県を焼き払い、多くの捕虜と鹵獲品を得た。建隆二年の冬、また并へい州軍千余人を破り、百級余りを斬首し、その遼州刺史傅延彦と弟の延勳を捕らえて献上した。

原文宋初,加檢校太尉。太祖平澤、潞,繼勳朝於行在,即以為昭義軍節度。是秋,率師入河東,燔平遙縣,俘獲甚眾。建隆二年,冬,又敗幷軍千餘人,斬首百餘級,獲其遼州刺史傅延彥及弟延勳來獻。

乾徳二年、詔により康延沼・尹訓とともに歩騎万余りを率いて遼州を攻撃し、太原の将郝貴超が兵を率いて来援したが、城下で戦い、李繼勳はこれを大破した。州の将杜延韜は危急に陥り、拱衛都指揮使冀進・兵馬都監供奉官侯美とともに部下の兵三千を率いて李繼勳に降伏した。すぐに内供奉官都知慕容延忠を遣わして入奏させ、詔でこれを褒めた。まもなく、并州人が契丹の歩騎六万人を誘って遼州を奪おうとしたため、再び李繼勳と羅彦瓌・郭進・曹彬らに六万の兵を率いて赴かせ、城下で契丹及び太原軍を大破した。五年、同平章事を加えられた。

原文乾德二年,詔與康延沼、尹訓率步騎萬餘攻遼州,太原將郝貴超領兵來援,戰於城下,繼勳大敗之。州將杜延韜危蹙,與拱衛都指揮使冀進、兵馬都監供奉官侯美籍部下兵三千送欵於繼勳。即遣內供奉官都知慕容延忠入奏,詔褒之。未幾,幷人誘契丹步騎六萬人來取遼州,復遣繼勳與羅彥瓌、郭進、曹彬等領六萬眾赴之,大破契丹及太原軍於城下。五年,加同平章事。

開宝初年、河東を征討しようとした時、李繼勳を行営前軍都部署とし、渦河で并州軍を破った。二年、太祖が河東に親征し、李繼勳を行営前軍都部署に命じた。車駕が城下に至り、軍を四面に分けると、李継勳はその南に柵を設けた。三年の春、節鎮を大名府に移した。太平興国初年、侍中を兼ねて加えられた。まもなく病気を理由に洛陽らくように帰ることを求め、許され、千万の銭と一万両の白金を賜った。この秋、上表して致仕を乞い、太子太師を拝命して致仕し、朝会では中書門下の班に連なることを許された。まもなく卒去、六十二歳、中書令を追贈された。

原文開寶初,將征河東,以繼勳為行營前軍都部署,敗幷人於渦河。二年,太祖親征河東,命繼勳為行營前軍都部署。駕至城下,分軍四面,繼勳柵其南。三年春,移鎮大名。太平興國初,加兼侍中。俄以疾求歸洛陽,許之,賜錢千萬、白金萬兩。是秋,上表乞骸骨,拜太子太師致仕,朝會許綴中書門下班。尋卒,年六十二,贈中書令。

李繼勳は累代藩鎮を歴任したが、赴任した先々で善政はなく、しかし質朴で率直であると称された。仏教を信奉した。太祖と旧知の間柄であったため、特に寵遇を受けた。

原文繼勳累歷藩鎮,所至無善政,然以質直稱。信奉釋氏。與太祖有舊,故特承寵遇。

弟の継偓もまた武勇があり、周の顕徳末年、内殿直に補せられた。宋の初年、累代軍職を歴任した。開宝年間、歩軍副都軍頭となった。太平興国三年、内外馬歩軍副都軍頭に遷った。事に坐して右衛率府率に改められた。六年、本衛の将軍を加えられ、奨州刺史を領した。累進して龍衛右廂都指揮使・本州団練使を領するに至った。

原文弟繼偓,亦有武勇,周顯德末,補內殿直。宋初,累歷軍職。開寶中,為步軍副都軍頭。太平興國三年,遷內外馬步軍副都軍頭。坐事改右衛率府率。六年,加本衛將軍、領獎州刺史。累至龍衛右廂都指揮使、領本州團練使。

李繼勳の子、守恩は如京使に至り、守元は北作坊使に至り、守徽は崇儀副使となった。

原文繼勳子守恩至如京使;守元至北作坊使;守徽為崇儀副使。

薬元福

原文藥元福

薬元福は、并州晋陽県の人である。幼い頃から胆気があり、騎射に優れていた。初め邢州の帥王檀に仕えて廳頭軍使となり、勇敢さで知られた。後唐に仕え、拱衛・威和親従馬闘軍都校、天平軍内外馬軍都指揮使となった。晋の天福年間、深州刺史となった。

原文藥元福,幷州晉陽人。幼有膽氣,善騎射。初事邢帥王檀為廳頭軍使,以勇敢聞。事後唐,為拱衛、威和親從馬鬥軍都校,天平軍內外馬軍都指揮使。晉天福中,為深州刺史。

開運初年、契丹が甘陵を陥落させ、魏郡を包囲し、軍は黄河に駐屯した。少帝は澶淵に軍を駐め、契丹は城の北に陣を布き、東西に連なり、城の両隅を覆い、城壁に登って望むと、その際限が見えなかった。薬元福は左千牛衛将軍として兵を率い陣の東側に位置した。澶州の民に馬破龍という者が契丹に告げて言うには、「まずその東を攻めれば、浮橋を奪取できる」と。契丹はこれを信じ、全力で来戦した。薬元福は慕容鄴とともに各々二百騎を率いて一隊となり、躍り出て戦い、薬元福は鉄撾を奮って契丹を撃ち、数人を斃し、左右に馳突して、靡かない者はなく、契丹兵は潰走した。少帝は城に登り、薬元福が力戦するのを見て、召し寄せて労って言うには、「汝は命を顧みず奮戦し、古の忠烈にも過ぎることはない」と。薬元福の三頭の馬はいずれも流れ矢に当たり、少帝は名馬を選んで賜った。翌日戦おうとする時、面と向かって薬元福に鄭州刺史を授けたが、権臣に阻まれて、ただ原州刺史とされ、まもなく泰州に改められた。

原文開運初,契丹陷甘陵,圍魏郡,師次於河。少帝駐軍澶淵,契丹陣於城北,東西連亙,掩城兩隅,登陴望之,不見其際。元福以左千牛衛將軍領兵居陣東偏。澶民有馬破龍者告契丹曰:「先攻其東,即浮梁可奪。」契丹信之,盡銳來戰。元福與慕容鄴各領二百騎為一隊,躍出而鬥,元福奮鐵撾擊契丹,斃者數人,左右馳突,無不披靡,契丹兵潰。少帝登城,見元福力戰,召撫之曰:「汝奮不顧命,雖古之忠烈無以過之。」元福三馬皆中流矢,少帝擇名馬賜之。明日將戰,面授元福鄭州刺史,為權臣所沮,止刺原州,俄改泰州。

翌年、契丹が再び侵入した。薬元福に命じて李守貞・符彦卿・皇甫遇・張彦澤らとともに陽城でこれを防がせ、右廂副排陣使とした。晋軍は方陣を布き、拒馬を設けて行砦とした。契丹は奇兵を出して陣の背後に回り、糧道を断った。晋人は水に乏しく、兵士と馬は飢え渇き、井戸を掘っても泉に至らず、土はすぐに崩れて塞がった。契丹は順風に塵を揚げ、諸将は皆言うには、「敵の勢いは甚だ鋭い。風向きが変わるのを待って戦えば、必ずこれを破ることができよう」と。李守貞が薬元福と謀って言うには、「軍中はすでに甚だしく飢え渇いている。もし風向きが変わるのを待って出戦すれば、我々は虜となるであろう。彼らは我々が逆風で戦えないと思っている。その不意を衝いて撃つべきであり、これが兵家の奇策である」と。薬元福はそこで麾下の騎兵を率い、拒馬を開いて出戦し、諸将も続いて到着し、契丹は大敗し、二十余里を追撃し、多くを殺傷・捕獲した。敵の将帥は百余騎で遁走した。薬元福を威州刺史とした。

原文明年,契丹復入。命元福與李守貞、符彥卿、皇甫遇、張彥澤等禦之於陽城,為右廂副排陣使。晉師列方陣,設拒馬為行砦。契丹以奇兵出陣後,斷糧道,晉人乏水,士馬饑渴,鑿井未及泉,土輒壞塞,契丹順風揚塵,諸將皆曰:「彼勢甚銳,俟風反與戰,破之必矣。」守貞與元福謀曰:「軍中饑渴已甚,若俟風反出戰,吾屬為虜矣!彼謂我不能逆風以戰,宜出其不意以擊之,此兵家之奇也。」元福乃率麾下騎,開拒馬出戰,諸將繼至,契丹大敗,追北二十餘里,殺獲甚眾,敵帥與百餘騎遁去。以元福為威州刺史。

時に霊武節度使王令温が漢法をもって蕃部を治めたため、西方の民はこれを苦しみ、共謀して乱を起こし、三族の酋長拓跋彦超・石存・乜廝褒が衆を率いて霊州を攻撃した。王令温は間道を通って使者を遣わし奏上させたため、河陽節度使馮暉を朔方に鎮め、関右の兵を召して進討させ、薬元福に行営騎兵を将帥させた。薬元福は馮暉とともに威州の土橋の西から出て、彦超の兵七千余りに出会い、馮暉の行李を遮った。薬元福は五十里にわたって転戦し、千級を斬首し、三十余人を生け捕りにし、また部校を遣わして王令温を救い出し、洛陽まで護送させた。

原文會靈武節度王令溫以漢法治蕃部,西人苦之,共謀為亂,三族酋長拓跋彥超、石存、乜廝褒率眾攻靈州。令溫遣人間道入奏,乃以河陽節度馮暉鎮朔方,召關右兵進討,以元福將行營騎兵。元福與暉出威州土橋西,遇彥超兵七千餘,邀暉行李。元福轉戰五十里,殺千級,禽三十餘人,又遣部校援出令溫,護送洛下。

朔方は威州から七百里離れており、水草がなく、旱海と号され、軍は糧食を携えて行進しなければならず、耀徳に至って食糧は尽き、夜明けまでに四十里を行進した。彦超らの衆数万は、三つの陣を布いて要路を扼し、水泉を占拠して、馮暉軍を待ち受け、軍中は大いに恐れた。馮暉は人を遣わして金帛で賄賂し、和解を求めたところ、彦超はこれを許した。使者は四度往復したが、正午になっても陣列は元のままだった。薬元福は言うには、「彼らは我が軍が飢え渇いていることを知り、険しい地で我が軍を遮っている。すでに和解を許しながら正午になっても決着せず、これはどうして信じられようか。我々を困らせようとしているのである。引き延ばして日暮れになれば、我々は捕虜となるであろう」と。馮暉は驚いて言うには、「どうすればよいか」と。薬元福は言うには、「彼らは衆は多いが精兵は極めて少ない。西山に依って陣を布いている者たちがそれである。残りは患いとするに足らない。薬元福、麾下の騎兵を請うてまず西山の兵を撃ちます。公はただ厳しく陣を布いて動かず、敵が少し退いたのを見て、黄旗を挙げて合図とすべきです。旗が挙がれば、勢いを合わせて進撃し、必ずこれを敗るでしょう」と。馮暉はその策をよしとし、ついに衆を率いて進撃すると、敵衆は果たして潰走した。薬元福はすぐに黄旗を挙げて馮暉を招き、馮暉軍が続いて進むと、彦超は大敗し、横たわる屍が野を覆った。この夕方、清辺軍に入った。翌日、霊州に至った。薬元福は郡に帰還し、詔により馮暉・薬元福に衣帯・繒帛・銀器を賜った。

原文朔方距威州七百里,無水草,號旱海,師須賫糧以行,至耀德食盡,比明,行四十里。彥超等眾數萬,布為三陣,扼要路,據水泉,以待暉軍,軍中大懼。暉遣人賂以金帛,求和解,彥超許之。使者往復數四,至日中,列陣如故。元福曰:「彼知我軍饑渴,邀我於險,既許和解而日中未決,此豈可信哉?欲困我耳。遷延至暮,則吾黨成禽矣。」暉驚曰:「奈何?」元福曰:「彼雖眾而精兵絕少,依西山為陣者是也,餘不足患。元福請以麾下騎先擊西山兵,公但嚴陣不動,俟敵少卻,當舉黃旗為號;旗舉則合勢進擊,敗之必矣。」暉然其策,遂率眾進擊,敵眾果潰。元福即舉黃旗以招暉,暉軍繼進,彥超大敗,橫屍蔽野。是夕,入清邊軍。明日,至靈州。元福還郡,詔賜暉、元福衣帶繒帛銀器。

漢の乾祐年間(948年~950年)、趙暉に従って鳳翔において王景崇を討つ。当時兵力は寡弱で、一万人に満たず、蜀の兵数万が来援し、景崇は宝鶏に至り、山に依って柵を列ねた。都監李彦従が数千人を率いて蜀軍を撃つが、衆寡敵せず、漢軍は少し退却す。元福は数百騎を率いて後ろからこれを駆り、還り顧みる者は斬ると下令し、衆みな殊死に戦い、蜀兵を大いに破り、大散関まで追撃し、三千余人を殺し、残りはみな甲を棄てて遁走す。鳳翔平定し、功により淄州刺史に遷る。

原文漢乾祐中,從趙暉討王景崇於鳳翔。時兵力寡弱,不滿萬人,蜀兵數萬來援,景崇至寶雞,依山列柵。都監李彥從以數千人擊蜀軍,眾寡不敵,漢軍少卻。元福領數百騎自後驅之,下令還顧者斬,眾皆殊死戰,大敗蜀兵,追至大散關,殺三千餘人,餘皆棄甲遁去。鳳翔平,以功遷淄州刺史。

周の広順初年(951年)、王彦超が徐州の叛将楊温を討つに当たり、元福を行営兵馬都監とする。数ヶ月でこれを克ち、師を率いて京に還り、陳州防禦使に改む。

原文周廣順初,王彥超討徐州叛將楊溫,以元福為行營兵馬都監。數月克之,率師還京,改陳州防禦使。

未だ幾ばくもせず、劉崇が契丹を引きいて晋州を擾わす。枢密使王峻に兵を率いてこれを拒がしめ、元福を西北面都排陣使とする。軍が蒙坑を過ぎるや、崇は夜に営を焼いて遁走す。峻は元福と仇超・陳思譲に命じて霍邑まで追撃せしむるも、既に行かしめて、また遣わしてこれを止む。元福は思譲らに謂いて曰く、「劉崇が契丹を召して辺境を擾わすは、志すところは中国を疲弊せしむるにあり。今兵未だ交わらずして遁る。宜しく奔を追い深入して、その勢いを挫くべし」と。諸将畏懦にして、遂に止む。周祖その事を知り、明年、兵を調発して晋州を戍らしむるに因り、左右に謂いて曰く、「去年劉崇の遁走するや、もし薬元福の言に従わば、則ち辺患無かりしものを」と。

原文未幾,劉崇引契丹擾晉州,命樞密使王峻率兵拒之,以元福為西北面都排陣使。軍過蒙坑,崇夜燒營遁。峻令元福與仇超、陳思讓追至霍邑,既行,又遣止之。元福謂思讓等曰:「劉崇召契丹擾邊,志在疲弊中國,今兵未交而遁,宜追奔深入,以挫其勢。」諸將畏懦,遂止。周祖知其事,明年,因調兵戍晉州,謂左右曰:「去年劉崇之遁,若從藥元福之言,則無邊患矣。」

俄にして曹英・向訓とともに慕容彦超を兗州において討ち、元福を行営馬歩軍都虞候とする。詔して元福に晋州より所部を率いて入朝せしめ、即ち遣わして東行せしめ、六銖・袍帯・鞍馬・器仗を賜う。周祖謂いて曰く、「比来曹州防禦使鄭璋を用うるも、我は彦超の兇狡にして計謀多きを度り、璋の事を集め得ざるを恐る。選んで爾を以てこれに代う。已に曹英・向訓に勅して軍礼を以て汝に見えしめざるを令す」と。軍中に至るや、英・訓ともにこれを尊礼し、当時に宿将たりし者有り。連城を築いて以て兗を囲む。彦超昼夜出兵す。元福屡々これを撃破し、遂に壁を閉じて敢えて出でず。十余日、元福の営柵皆な就く。また地を穴ぐり及び土山を築き、百道を以てその城を攻む。会に周祖親征し、元福は所部を以て先んじて羊馬城に入り、諸軍鼓噪して角進し、これを抜く。功により建雄軍節度を授かる。

原文俄與曹英、向訓討慕容彥超於兗州,元福為行營馬步軍都虞候。詔元福自晉州率所部入朝,即遣東行,賜六銖、袍帶、鞍馬、器仗。周祖謂曰:「比用曹州防禦使鄭璋,我度彥超兇狡,多計謀,恐璋不能集事,選爾代之。已敕曹英、向訓不令以軍禮見汝。」及至軍中,英、訓皆尊禮之,當時有為宿將。築連城以圍兗,彥超晝夜出兵,元福屢擊敗之,遂閉壁不敢出。十餘日,元福營柵皆就,又穴地及築土山,百道攻其城。會周祖親征,元福以所部先入羊馬城,諸軍鼓噪角進,拔之。以功授建雄軍節度。

世宗の高平の戦い、劉崇敗走して太原に走る。遂に兵を縦ってその城を囲む。元福を同州節度とし、太原四面壕砦都部署を充てる。時に攻具悉く備わり、城中危急なり。糧運継がざるを以て、詔して師を班するを令す。元福上言して曰く、「進軍は甚だ易く、退軍は甚だ難し」と。世宗曰く、「一に卿に委ぬ」と。遂に卒伍を部分して方陣と為して南す。元福は麾下を以て後殿と為す。崇果たして出兵して来追す。元福これを撃ち走らす。師還り、検校太尉を加えられ、鎮を陝州に移す。また定・廬・曹の三鎮を歴任す。

原文世宗高平之戰,劉崇敗走太原,遂縱兵圍其城。以元福為同州節度,充太原四面壕砦都部署。時攻具悉備,城中危急,以糧運不繼,詔令班師。元福上言曰:「進軍甚易,退軍甚難。」世宗曰:「一以委卿。」遂部分卒伍為方陣而南,元福以麾下為後殿,崇果出兵來追,元福擊走之。師還,加檢校太尉,移鎮陜州。又歷定、廬、曹三鎮。

宋初、検校太師を加えらる。九月卒す。年七十七。侍中を贈らる。

原文宋初,加檢校太師。九月卒,年七十七,贈侍中。

元福は老いたりと雖も、筋骨衰えず。人或いはその気貌益々壮んなるを言えば、当に復た兵を領すべしと、必ず大いに喜び、曲くして礼待を致し、或いは贈遣を加えらる。時に驍将と称す。

原文元福雖老,筋骨不衰,人或言其氣貌益壯,當復領兵,必大喜,曲致禮待,或加以贈遣,時稱驍將。

趙晁

原文趙晁

趙晁、真定の人。初め杜重威に事えて列校と為る。重威誅せられ、周祖の鄴中に鎮するに属し、晁因って麾下に委質す。周祖開国し、擢でて作坊副使と為す。慕容彦超兗州に拠りて叛く。晁を行営歩軍都監と為す。兗州平らぎ、転じて作坊使と為す。晁自ら以て、霸は府に事え逮し、復た軍功有りと為すも、而して遷拜その望みに満たず、居常怏怏たり。時に枢密使王峻政を秉る。晁その己を軋するを疑う。一日酒に使いてその第に詣り、峻を毀る。峻これを責めず。世宗位を嗣ぎ、控鶴左廂都指揮使・賀州刺史を領するに改む。

原文趙晁,真定人。初事杜重威為列校。重威誅,屬周祖鎮鄴中,晁因委質麾下。周祖開國,擢為作坊副使。慕容彥超據兗州叛,以晁為行營步軍都監。兗州平,轉作坊使。晁自以逮事霸府,復有軍功,而遷拜不滿所望,居常怏怏。時樞密使王峻秉政,晁疑其軋己。一日使酒詣其第,毀峻,峻不之責。世宗嗣位,改控鶴左廂都指揮使、領賀州刺史。

劉崇征伐に従い、転じて虎捷右廂都指揮使・本州団練使を領し兼ねて行営歩軍都指揮使と為る。軍河内に至る。世宗の意は速戦に在り、晁に倍道兼行せしむ。晁私かに通事舍人鄭好謙に語りて曰く、「賊勢方に盛んなり、未だ易く敵すべからず。宜しく持重してその鋭気を挫くべし」と。好謙その言うところを以て入りて白す。世宗怒りて曰く、「汝安んぞこの言を得ん、必ず他人の教うる所なり。その人を言わば、則ち爾を捨てん。言わざれば、当に死すべし」と。好謙懼れ、遂に実を以て対う。世宗即ち命して晁とともに州獄に械し、軍回りて始めてこれを赦す。

原文從征劉崇,轉虎捷右廂都指揮使、領本州團練使兼行營步軍都指揮使。軍至河內,世宗意在速戰,令晁倍道兼行。晁私語通事舍人鄭好謙曰:「賊勢方盛,未易敵也,宜持重以挫其銳。」好謙以所言入白,世宗怒曰:「汝安得此言,必他人所教。言其人,則舍爾;不言,當死!」好謙懼,遂以實對。世宗即命並晁械於州獄,軍回始赦之。

及び淮南を征し、虎捷左廂に改め、閬州防禦使を領し、前軍行営歩軍都指揮使を充て、また縁江歩軍都指揮使と為る。時に李重進正陽において呉人を破り、降卒三千人を晁に付す。晁一夕にして尽くこれを殺す。世宗これを罪せず。寿春平らぎ、検校太保・河陽三城節度・孟懐等州観察措置等使を拝す。恭帝即位し、検校太傅を加えらる。

原文及征淮南,改虎捷左廂、領閬州防禦使,充前軍行營步軍都指揮使,又為緣江步軍都指揮使。時李重進敗吳人於正陽,以降卒三千人付晁,晁一夕盡殺之。世宗不之罪。壽春平,拜檢校太保、河陽三城節度、孟懷等州觀察措置等使。恭帝即位,加檢校太傅。

宋初、検校太尉を加えらる。未だ幾ばくもせず、疾を以て京師に帰り、卒す。年五十二。太祖甚だこれを悼み、太子太師を贈り、再び侍中を贈る。

原文宋初,加檢校太尉。未幾,以疾歸京師,卒,年五十二。太祖甚悼之,贈太子太師,再贈侍中。

晁身長七尺、儀貌雄偉、聚斂を好み、方鎮に処するに賄をもって聞こゆ。周初に宣祖と分かって禁軍を掌り、宗盟の分有りしを以て、故に太祖常に優礼を以てこれに接し、再び贈典を加えらる。子に延溥有り。

原文晁身長七尺,儀貌雄偉,好聚斂,處方鎮以賄聞。以周初與宣祖分掌禁軍,有宗盟之分,故太祖常優禮之,再加贈典焉。子延溥。

子 延溥

原文子 延溥

延溥、周の顕徳年中(954年~959年)、父の任により補われて左班殿直と為る。宋初、鉄騎指揮使と為る。開宝初年(968年)、太祖親征して晋陽を征し、太宗京邑を守る。延溥は所部を以て帳下牙軍と為し、転じて殿前散員指揮使と為る。九年(976年)、鉄騎都虞候に改む。

原文延溥,周顯德中,以父任補左班殿直。宋初,為鐵騎指揮使。開寶初,太祖親征晉陽,太宗守京邑,延溥以所部為帳下牙軍,轉殿前散員指揮使。九年,改鐵騎都虞候。

太宗が即位すると、散指揮都虞候に遷り、思州刺史を兼ねた。太平興国二年、内殿直都虞候に転じた。三年、馬歩軍都虞候に改めた。太原平定に従い、燕薊の地を攻略した。六軍の扈従のうち後期して到着した者があり、帝は怒り、法に処そうとした。延溥は進み出て言うには、「陛下は辺境を巡行され、外敵の防禦をなさる。今、契丹は未だ滅びず、将士を誅罰せば、後の図らいを挙げるに、誰が陛下のために力を尽くしましょうか」と。帝はこれを嘉して受け容れた。軍が還ると、内外馬歩軍都軍頭に遷り、本州防禦使を兼ねた。

原文太宗即位,遷散指揮都虞候、領思州刺史。太平興國二年,轉內殿直都虞候。三年,改馬步軍都虞候。從平太原,略地燕薊。六軍扈從有後期至者,帝怒,欲置於法。延溥遂進曰:「陛下巡行邊陲,以防禦外侮,今契丹未殄,而誅譴將士,若舉後圖,誰為陛下戮力乎?」帝嘉納之。師還,遷內外馬步軍都軍頭、領本州防禦使。

五年、殿前の白進超が卒す。即日に延溥を日騎・天武左右廂都指揮使とし、殿前都虞候事を兼ねて権知せしめた。親しい吏を遣わして竹木を市するに、過ぎる関渡において制を称して算を免ぜしめた罪に坐し、登州団練使に責授され、任に赴くことを命ぜられた。この冬、帝が北巡して大名に至ると、再び延溥を本州防禦使とし、即時に幽州東路行営壕砦都監に命じた。詔して縁辺の城塁を修築せしむ。一年を過ぎ、涼州観察使を加え、なお登州を判した。また鎮州兵馬都部署となり、まもなく霸州を判した。

原文五年,殿前白進超卒,即日以延溥為日騎、天武左右廂都指揮使,兼權殿前都虞候事。坐遣親吏市竹木所過關渡稱制免算,責授登州團練使,令赴任。是冬,帝北巡至大名,復以延溥為本州防禦使,即命為幽州東路行營壕砦都監。詔修緣邊城壘。逾年,加涼州觀察使,仍判登州。又為鎮州兵馬都部署,俄判霸州。

雍熙二年、蔚州観察使に改め、冀州を判した。時に曹彬らを北征に命ずるに及び、また内衣庫使張紹勍・引進副使董愿とともに幽州西北道行営都監となった。軍が還ると、貝州知州を命ぜられ、滑州部署に改めた。四年、再び貝州を知り、病を以て代わることを求めた。代わりの者が未だ至らぬうちに卒す。享年五十。天徳軍節度使を追贈された。

原文雍熙二年,改蔚州觀察使,判冀州。會命曹彬等北征,又與內衣庫使張紹勍、引進副使董愿為幽州西北道行營都監。師還,命知貝州,改滑州部署。四年,再知貝州,以疾求代,代未至,卒,年五十。贈天德軍節度。

子の承彬は、内殿崇班に至った。承彬の子の咸一は、虞部員外郎となり、宗正丞事を知った。咸熙は、天聖八年に進士及第した。

原文子承彬,至內殿崇班。承彬子咸一,為虞部員外郎,知宗正丞事。咸熙,天聖八年進十及第。

論ずるに、侯益は晋・漢の時にあって、たびたび反覆をなした。その契丹に命を受け、偽蜀と私交を結び、赤岡の戦いにおいて、また夜に周祖に謁したことを観る。宗族の長幼は、景崇の鯨鯢に遭い、ほとんど噍類なきに至った。その心跡を推すに、豈に二心を懐くことの罰ではなかろうか。薛懐讓・趙晁は将となるに、皆、降を殺すことを忍んだ。晁の子の延溥は、後至の誅を救うことができた。父子の親といえども、仁と暴とが相い戾ること、かくの如き者あり。その余は皆、時に逢って武を奮い、身を栄顕に致した。扈彦珂が河中を撃つことを請い、ついにその策を用いたのは、愚者の一慮というべきか。

原文論曰:侯益在晉、漢時,數為反覆,觀其受命契丹,私交偽蜀,赤岡之戰,復夜謁周祖,宗屬長幼,遭景崇鯨鯢,殆無噍類,推其心跡,豈懷貳之罰歟?薛懷讓、趙晁為將,皆忍於殺降。晁子延溥,能救後至之誅,雖父子之親,仁暴相戾有若是者。餘皆逢時奮武,致身榮顯。扈彥珂請擊河中,卒用其策,愚者之一慮云。