宋史

列傳第十三 侯益 張從恩 扈彦珂 薛懷讓 趙贊 李繼勳 藥元福 趙晁

侯益

侯益は、汾州平遙の人である。祖父は農業を業としていた。唐の光化年中、李克用が太原を拠点とすると、益は拳勇をもってその麾下に隷した。荘宗に従って大名を攻め、先鋒として登城し、軍校を生け捕りにし、馬前直副兵馬使に抜擢された。劉守光を征討し、先鋒として登城し、軍使に遷った。洺州を破った際、投石器で足を傷つけられると、荘宗は自ら薬をその傷口に塗布した。癒えた後、護衛指揮使に改めた。梁の小将李立・李建はぎょう勇をもって知られ、軍中で恐れられていた。時に荘宗が梁軍と河上で戦うと、益は身を挺して出闘し、その二将を生け捕りにし、馬前直指揮使に遷った。荘宗が汴に入ると、本直副都校となった。明宗に従って鄴で趙在禮を討った。諸軍が推戴して明宗を立てると、益は身を脱して洛に帰り、荘宗はその背を撫でて涙を流した。

明宗が立つと、益は縛り首になって請罪した。明宗は言った、「汝は忠節を尽くした、また何の罪があろうか」と。本直左廂都校に改めた。天成初年、朱守殷が夷門に拠って叛くと、益は配下を率いて関門を斬り破って先に入城した。左右馬前従馬直都校に転じ、潘州刺史を領した。王都が定州に拠って叛くと、益は王晏球に従って攻討した。契丹が来援すると、益はこれを迎撃し、その軍勢を唐河北で破り、その城を落とし、寧州刺史を授かった。入朝して羽林軍五十指揮都校となり、費州刺史を領した。

時に夏の帥李仁福が卒し、子の彜超が命を擅にして自立し、節鉞を求めたので、益に師を帥いて討たせようとした。明宗が病に伏せると、急ぎ召還された。

応順初年、潞王が鳳翔で挙兵すると、益を西面行営都虞候とした。益は軍情が必ず変ずることを知り、病と称して詔に奉じず、執政は怒り、商州刺史として出させた。しょく軍が金州を寇すと、益は鎮兵を率いて襲撃し、これを大破した。詔して襲衣・名馬を賜い、西面行営都巡検使を加えた。

晋の初め、召されて奉国都校となり、光州防禦使を領した。范延光が大名で反し、張従賓が河陽に拠って声援とした。晋祖は益を召し、謂って言った、「宗社の危うきこと綴旒の若し、卿は朕のために死ぬことができるか」と。益は言った、「鋭卒五千人を仮すことを願います、賊を破ることは必ずです」と。益を西面行営副都部署とし、禁兵数千人を率い、虎牢に駐屯させた。従賓の軍一万余人が、汜水を挟んで陣を布いた。益は自ら鼓を鳴らし、士卒にこれを乗じさせ、その軍勢を大敗させ、撃ち殺して殆ど尽き、汜水はこれによって流れず、従賓は馬に乗って水に入り溺死した。京観を築き、石に刻んで功を紀し、晋祖は大いに喜び、河陽三城節度使に拝し、鄴都行営都虞候を充てた。延光が城を以て降ると、鎮を移して潞州とした。

天福四年、晋祖は虎牢の功を追念し、武寧軍節度使・同平章事に遷し、中使を遣わして益に謂って言った、「朕は卿の前年七月九日の大いに戦功を立てたことを思い、故にまたこの月この日をもって卿の鎮を彭門に徙し、相印を領せしめる」と。仍って門戟を賜い、郷里を将相郷勲賢里と改めた。九月、徐州に大火があり、益は金・粟を出してこれを賑った。

明年、鎮を移して秦州とし、西面都部署を充てた。階州の義軍校王君懷がその刺史の暴虐に苦しみ、数千の衆を率いて蜀に投じ、先鋒となって秦・成の諸州を下すことを請うた。益はこれを聞いて懼れ、朝廷に援を請うた。また密かに蜀の将に書を遺わし、誠意を達した。少帝はこれを聞き、辺患となると疑い、内地に移すことを議した。時に蒲の帥安審琦が鎮を移して許下としたので、益を河中尹・護国軍節度使とした。

契丹が汴に入ると、益は僚属を率いて京師に帰り、契丹主に詣で、自ら北伐の謀に預からなかったことを陳べた。契丹はこれに鳳翔節度使を授けた。

漢祖が即位すると、兼侍中を加えた。益は自ら嘗て契丹の命を受けたことを以て、漢兵が洛に入ったと聞き、これを憂い、城隍を浚って備えとした。孟昶は益の親しい掌樞密王処回を遣わして書を齎し益を招き、また綿州刺史呉崇惲を遣わして厚くこれを遺わした。崇惲は元は秦州の押衙で、益の故吏であった。及び何重建が帥となって崇惲に表を奉じさせ階・秦を以て蜀に帰すると、刺史を授けられたので、故に昶はこれを遣わしたのである。益は遂にその子と共に蜀に帰した。昶は重建に命じて川兵数万を率い大散関を出てこれに応ぜしめた。漢祖はその事を知り、客省使王景崇を遣わし禁軍数千を率い、倍道して岐下に趨らせ、益を召し入朝させた。時に漢祖は既に病に伏しており、臥内に召し至り、これに謂って言った、「侯益は貌は朝廷に順うも、心は携貳を懐く。汝が彼の地に至り、もし益が来れば、即ち置いて問うなかれ。もし遅疑して決せずば、即ち便宜を以て事に従え」と。景崇が京兆に至ると、岐・雍・邠・涇の師を合わせて蜀軍を破った。益は懼れ、即ち入朝を謀った。時に漢祖の崩御を聞き、景崇は益を誅しようとしたが、隠帝が先朝の密旨を知らぬことを慮った。従事の程渥は、景崇の里人である。益は因ってこれを遣わし景崇を説かせて言った、「君は位を通顕に致した、また少しく止足を知るべし、何ぞ必ずしも人を禍する心を懐き、已甚しき事を行わんや。況んや侯君の親戚爪牙甚だ衆く、事もし妄りに発すれば、禍また踵を旋らして至らん」と。景崇は怒って言った、「汝去れ、遊説するなかれ、吾将に爾を族せんとす」と。益は渥の言を用いられぬと知り、即ち数十騎を率いて奔り入朝した。隠帝は侍臣を遣わし益が蜀軍と結連した由を問うと、益は対えて言った、「臣はこれを誘い出関し、掩い殺さんと欲したのみです」と。隠帝はこれを笑った。益は史弘肇らに厚く賂し、景崇の横恣を言った。諸権貴は深くこれを庇護し、乃ち開封尹兼中書令を授けた。俄かに魯国公に封じた。景崇はこれを聞き、遂に城に拠って叛き、益の親属で城中にいた残り七十口は悉く景崇に害された。

及び周祖が起兵すると、隠帝は師を出してこれを禦することを議し、益は計を献じて言った、「王者は天下に敵無し、兵は軽々しく出すべからず、況んや大名の戍卒の家属は尽く京城に在り、関を閉めてその鋭気を挫き、その母妻を遣わして降を発してこれを招くに如かず、戦わずして定まるべし」と。慕容彦超は益が衰老し、懦夫の計を作してこれを沮すと以為った。隠帝は益と彦超及び張彦超・閻晋卿・呉虔裕を遣わし澶州を守らせた。赤岡に至り、周師が奄かに至り、留子陂で戦い、漢軍は利あらず。益は陣に臨み、士卒に闘志無きを見、また占候が不祥であると、乃ち焦継勲らと共に夜に周祖に謁し、周祖は慰労して還らせた。

広順初年、楚国公に封じ、太子太師に改め、俄かにまた斉国公に改封した。顕徳元年冬、老を告げ、本官のまま致仕して洛に帰った。使者を遣わし茶薬銭帛を賜い、就いてこれを撫問した。

太祖が即位すると、器幣を賜うことを遣わし、歳一回来朝し、太祖は耆旧として厚くこれを遇した。乾徳初年、郊祀し、詔して中書門下班に綴し、礼は丞相等とした。三年、卒す。年八十。中書令を贈られた。

五人の子あり:仁願、仁矩、仁寶、仁遇、仁興。仁願は左金吾衛大将軍・蓬州刺史に至る。仁遇は西京内園使。仁興は右屯衛将軍。仁願の子延済は、西京作坊使・康州刺史。

子 仁矩

仁矩は従兄の張益に従い商州の牙校となる。張益が張従賓を討った時、仁矩は真っ先に賊の鋒鋩を犯し、功により蓬州刺史を領し、河南の牙職を充てられた。張益に従い潞・徐・秦の三鎮を歴任。開運初年、入朝して氈毯使となり、出て天平行軍司馬となる。

漢が興ると、隰州刺史を授けられ、郡に至って滞った訴訟を裁決し、一日に拘禁された囚人百余人を釈放し、獄はこれがために空となり、民情は喜んで服した。周に仕え、左羽林将軍を歴任し、出て泗州刺史となり、通州に改め、兼ねて屯田塩鉄監使を兼ねる。

宋の初め、祁・雄の二州刺史を歴任。軍を治めるに方略あり、数郡を歴任し、皆善政があった。開宝二年、卒す。享年五十六。太祖は大いにこれを惜しみ、特に中使に命じて喪を護らせた。子に延広・延之あり、咸平二年に進士及第。

子 仁寶

仁寶は蔭により太子中允に遷り、趙普の妹婿である。盧多遜は趙普と不和があり、趙普が宰相を罷められると、直ちに仁寶をして邕州知州とす。州の右江に毒薬樹が生え、宣化県の民が常にこれを採って売っていた。仁寶はこれを上聞し、詔して全て伐ち去らしむ。九年間交代なし。太平興国年中、上書して交州を取る策を陳べ、太宗大いに喜び、駅伝を馳せて召し還すよう命じた。多遜は急ぎ奏上して曰く、「もし仁寶を召せば、その謀は必ず漏れ、蛮夷が備えを増し、容易には取れません。仁宝に兵糧輸送の任を授け、且つ計画させ、別に偏将を遣わして荊湖の士卒一二万人を発し、長駆して往かせれば、勢い必ず万全です」と。帝はこれを然りとす。遂に仁寶を交州水陸計度転運使とす。前軍が出発し、賊の鋒勢が甚だ盛んなのに遇い、援兵が続かず、害に遇い江中にて死す。太宗これを聞き、甚だ悼み惜しみ、特に工部侍郎を追贈し、その子延齢・延世を録用してともに斎郎とした。延齢は殿中丞に至る。延世は太子中舎に至る。

孫 延広

延広は、初め襁褓の中にあり、王景崇の難に遭い、乳母の劉氏が己が子を以て延広に代え死なしむ。劉氏は物乞いをしながら延広を抱き持って京師に至り張益に還す。延広の父は通・祁・雄の三州刺史を歴任し、悉く彼を以て牙職に補す。仁矩が雄州に在った日、ちょうど飲宴していると、虜の数十騎が白昼に州城に入り、居民は驚き騒ぐ。延広は親信数騎を引き連れて馳せ出で衙門を出、その酋長一人を射殺し、数級を斬首し、その余党を悉く擒らえる。延広は首級を持って献上し、仁矩は喜び、その背を撫でて曰く、「我が門を興す者は必ず汝であろう」と。監軍の李漢超はその事を上聞し、詔書をもって褒め称え、錦袍銀帯を賜う。

仁矩が卒すと、西頭供奉官に補せられる。党進に従い太原を討つ。太平興国初年、永昌陵の修築に預かり、出て延州軍を護り兼ねて縁辺巡検を務め、士卒を善く撫で、下吏は喜んで用いられ、戎人は畏れて服し、閣門祗候に遷る。時に西北の戎が寇し、辺人が擾乱し、辺境巡察に使える者を求む。近臣が言うには、「延広は将家の子、辺事に習熟して彼の右に出る者なし」と。延広は時に病を患っていたが、強いて起用し、崇儀副使に遷し、同・鄜・坊・延・丹縁辺都巡検使を充てる。延広は病を押して入朝し辞し、太宗は名薬と処方を賜い、太醫を随従させ、その病もやがて癒える。戎人は延広の到着を聞き、再び寇乱することを敢えてせず。

叛卒の劉渥が亡命者数百人を嘯聚し、耀州富平県を寇し、京兆に入らんと謀り、その勢いは甚だ盛ん。過ぎ行く所で居民を殺し、財物を奪い、放火して去り、関右は騒然となる。延広は兵数百を率い、間道よりこれを追い、富平西十五里で劉渥に会す。劉渥の衆は既に千余人、持久戦となる。劉渥は平素より延広を憚り、伝言して曰く、「我は草間に生きんことを求むるのみ、死を見ること鴻毛の如し。侯公は家世富貴なれば、何ぞ保守を思わずして、亡卒と一旦の命を鋒鏑の下に争わんや」と。延広怒り、これに撃ちかかり、身を挺して劉渥と大樹の下で闘い、劉渥の右腕を断ち、劉渥は脱走し、勢いに乗じてその衆を大破す。劉渥は創が甚だしく、谷中に止まり、後数日にして追兵に獲らる。劉渥は平素より驍勇無敵と号せられ、ここに至り延広に殺され、群盗は気を喪い、余党は次第に自ら帰順し、関右は以て平定す。上これを嘉し、抜擢して崇儀使に拝す。

淳化二年、李継遷が初めて夏台を擾乱す。即ち命じて延広に獎州刺史を領せしめ霊州知州とし、金帯名馬を賜う。時に趙保忠が密かに李継遷と結ぶ。朝廷は騎将李継隆に命じて兵を率い問罪せしめ、延広にその軍を護らしむ。既にして夏台平定し、保忠は縛に就く。手詔をもって褒め称え、賜賚甚だ厚し。師の還るとき、留めて延州鈐轄とす。時に節帥の田重進が老耄し、郡中治まらず、延広を以て同知州事兼縁辺都巡検使とす。

先に、延広が霊州を知った時、部下は厳整し、戎人は喜んで服し、李継遷は平素よりその鋒鋩を避けていた。監軍の康賛元はその功を妬み、誣って延広が虜情を得て、後々強情で制し難からんことを恐れると奏上す。急ぎ詔して還し、慕容徳豊を以て代えしむ。部内は甚だ治まらず。至道年間、李継遷が霊州を寇す。朝廷は帥を謀り、同知枢密院事の銭若水が延広を使い得ると称す。就いて寧州団練使・霊州知州兼兵馬都部署に拝す。白金二千両を賜い、歳ごとに給する銭を二百万増やす。戎人が道を塞ぎ、郵伝や糧秣の輸送も皆通ぜず。延広は独り数十騎を率いて鎮に赴く。戎人は平素よりその威名に服し、皆相率いて引き避く。

二年春、病に罹る。上は御醫を駅伝に馳せて視察せしむ。醫の到着した時、病は既に急なり。延広は中使の李知信に謂いて曰く、「延広自ら必ず起たざるを度る。家世国恩を受け、今日死する所を得たり。ただ恨むらくは、未だ尺寸の功を立てて上に報いざるのみ」と。言い終えて卒す。享年五十。上これを聞き、涙を流し、賵賻甚だ厚く、その子を六品正員官とす。子の紹隆は、東染院使・帯御器械。紹隆の子の宗亮は、右侍禁・閣門祗候。

張従恩

張従恩は、幷州太原の人である。父の存信は、振武軍節度使であった。後唐の明宗が微賤の時、嘗て存信の麾下に隷属した。時に従恩は尚幼く、頗る無頼であり、明宗は甚だこれを軽んじた。即位すると、散秩を授けるに止めた。従恩は志を得ず、乃ち退いて太原に帰った。

晋の高祖こうそが河東を鎮守した時、少帝のために従恩の女を娶った。晋の初め、外戚として抜擢されて右金吾衛将軍となり、間もなく貝州刺史に改め、北京副留守に遷り、澶州防禦使を移授された。枢密副使・宣徽南院使・権西京留守を歴任し、俄かに三司を判じた。安従進が襄陽で叛くと、従恩を行営兵馬都監とした。

少帝が位を嗣ぐと、襄陽が平定され、検校太尉・開封尹に遷り、東京留守を充てた。少帝が鄴より汴に帰ると、鄴都留守に改めた。錫賚は等を加え、仍て銀装肩輿二つを賜い、其の家を迎えさせた。明年、契丹が河朔を擾し、従恩は僅かに守りを全うするのみであった。尋ねて同中書門下平章事を加えられた。是の歳、契丹の将趙延昭が甘陵を占拠したので、従恩を貝州行営都部署に命じた。従恩が至ると、延昭は遁走した。詔して杜重威と兵三万を合して北伐させた。

開運初年、天平軍節度使に改めた。契丹が再び辺境を擾したので、十五将に北征を命じ、従恩を北面行営都監に充てた。二年、晋州に移鎮し、又潞州に改めた。契丹が汴に入ると、従恩は降伏しようとした。従事の高防が諫めて曰く、「公は晋室の親戚なり、臣節を尽くすべし」と。従恩は聴かず、乃ち城を棄てて去った。巡検使王守恩が其の家財を悉く取り、城を以て漢の高祖に帰した。漢の高祖が汴に至ると、従恩は惶懼して出でようとしなかった。漢の高祖は召して襲衣・金帯・鞍勒馬・器幣を賜い、以て之を慰安した。尋ねて右衛上将軍を拝し、奉朝請とした。

周の初め、左金吾衛上将軍に迂任した。周の高祖が兗州を征した時、従恩は従軍した。世宗が位を嗣ぐと、検校太師を加えられ、褒国公に封ぜられた。宋の初め、許国公に改封され、久しくして病を以て免ぜられた。乾徳四年、卒去、年六十九。

扈彦珂

扈彦珂は、代州雁門の人である。幼くして王建立に仕え、謹厚を以て称された。晋の天福年中、建立が潞州を節制し、卒去した。遺表して彦珂を推薦し、河東節度左都押衙に補せられた。漢の高祖が太原より建号した時、宣徽南院使に抜擢された。間もなく、鎮国軍節度使、華商等州観察処置等使を授けられた。

乾祐初年、河中の李守貞・永興の趙思綰・鳳翔の王景崇が並びに城に拠って叛いた。周の高祖が枢密使として、兵を総べて出征し、道中華州に出た。時に議する者多くは先ず景崇・思綰を討つのを便とすとしたが、周の高祖の意は未だ決せず、彦珂曰く、「三叛連衡し、守貞を主と推す。宜しく先ず河中を撃つべし。河中平らげば、則ち永興・鳳翔勢を失う。今近きを捨てて遠きを図るは、若し景崇・思綰前もって逆戦し、守貞其の後を兵せば、腹背敵を受く、之を奈何せん」と。周の高祖其の言に従い、河中平定すると、功を以て護国軍節度使に遷った。時に蒲人は凋弊し、良帥を得て鎮撫せんことを思った。彦珂は暗弱であり、朝議之を少なくした。

広順初年、就いて同平章事を加えられ、滑州に移鎮した。歳余りして代わり帰朝した。鳳翔の趙暉と共に緡帛を献じ、宴を開くことを請うたが、納れられず、滑州の李守貞の宅を以て之に賜った。世宗が位を嗣ぐと、左衛上将軍を授けられた。顕徳三年、老疾を以て上章して退くことを求め、開府儀同三司・太子太師を以て致仕し、西京に帰った。太祖即位すると、使者を遣わして就いて器幣を賜い、数月にして卒去、年七十五。

薛懐譲

薛懐譲、其の先祖は戎人であり、太原に徙居した。少より勇敢にして、戦闘を喜んだ。後唐の荘宗が鎮に在った時、帳下に隷するを得、累ねて軍職を歴任した。明宗の時、神武右廂都校に改め、奨州刺史を領した。東川の董璋が懐譲を遣わし本軍を率いさせ、晋の高祖に従って賊を討たせた。賊平らぎ、絳州刺史に遷った。清泰初年、申州に移った。明年、表して郡を罷め代北軍に赴くことを乞うたが、力陳して允されず。

晋の天福年中、范延光が鄴で叛くと、懐譲を招收使とした。戦うに及び、流矢に中り、詔して湯薬を賜い存問した。又沂・遼・密・懐の四州刺史を歴任し、至る所善政無く、頗る誅斂を事とした。楊光遠が青州で反すると、懐譲を召して闕に至らせ、襲衣・玉帯を賜い、行営先鋒都指揮使とし、功を以て宿州団練使に改めた。

契丹が南侵すると、少帝は澶州に幸し、懐譲を遣わし李守貞・皇甫遇・梁漢璋と兵万人を率いて河に沿って下り、以て汶陽を守らせた。時に契丹は歳々辺陲を擾し、朝廷は驍将を択んで要郡を守らせ、懐譲を洺州団練使に命じた。符彦卿が北して契丹を討つに会い、懐譲を馬軍左廂排陣使とした。又北面都招討杜重威に従って先鋒都指揮使となった。重威が中渡橋で契丹に降ると、懐譲も亦籍中に在ったが、其の志に非ざる所であった。

契丹主が北帰し、麻答を留めて鎮州を守らせた。麻答は歩健を遣わし洺州の供運を督させた。懐譲は漢の高祖が晋陽に挙義したと聞くや、即ち歩健を殺し、表を奉じて漢に帰した。漢の高祖は郭従義を遣わし兵万余を分け、懐譲と共に邢州を取らせた。時に偽帥劉鐸が邢臺を守り、堅壁して之を拒ぎ、克たずして還った。麻答は副将楊安を遣わし八百騎を以て懐譲を攻め、又剛鉄に三百騎を将いて之に継がせた。懐譲は戦いて勝たず、本州に退保し、契丹は大いに其の封内を掠めた。麻答が鎮軍に逐われるに及び、楊安は急ぎ遁走し、鐸は又漢の高祖に款を納れた。懐譲は其の不虞に乗じ、人を遣わし鐸を紿いて云く、「我詔を奉じて邢州帥と為る。今衆を率いて契丹を襲わんとす。請う郡に頓を置かん」と。鐸に拒む心無く、輒ち門を開いて之を迎え、懐譲は鐸を殺し、其の城を奪った。漢の高祖は即ち以て安国軍節度使を授けた。

隠帝が即位すると、同州に移鎮した。楊邠等を殺すに及び、急ぎ懐譲を召して闕に至らせた。北郊の兵敗に会い、懐譲は周の高祖に降った。

周祖が即位すると、襲衣・金帯・鞍勒馬を賜り、任地に還らせ、同平章事を加えた。劉崇が侵入すると、懐譲は上表して西征を求め、詔で褒められた。夏陽の富人張廷徽が趙隠ら五人を盗賊で人を殺したと誣告し、かつ懐譲の子有光に多額の賄賂を贈った。懐譲はこれを知ると、すぐに吏に諷して隠らを拷問させ、強いて自白させ、掌書記李炳・親校賈進蒙追・判官劉震らを遣わし、その罪状を捏造させ、隠らは皆棄市に処せられた。家人が朝廷に訴えて冤罪を訴えると、懐譲も自ら入朝し、急いで銭百万を献上し、宴を開くことを請うたが、受け取られなかった。まもなく本物の賊が捕獲され、御史台に下して審問させると、懐譲は恐れ、馬十匹を献上したが、また受け取られなかった。有司が懐譲を捕らえて獄に繋ぐことを請うたが、周祖は宿将であるとして釈放して問わず、震らを杖罰して流罪にした。まもなく懐譲を左屯衛上將軍とした。

世宗が即位すると、左武衛上將軍を加えた。顕徳五年、老齢を理由に致仕を請い、太子太師を拝命して致仕した。恭帝が即位すると、杞国公に封じられた。建隆元年、卒去。六十九歳。侍中を追贈された。

懐譲は馬や駱駝を飼育することを好み、馬には大烏・小烏というものがおり、特に優れた駿馬であった。漢の隠帝がこれを求めさせたが、惜しんで献上しなかった。節度使を罷めて環衛の職に就き、禄が薄くなっても、なお馬百匹・駱駝三十頭を持ち、資産を傾けて飼料を供給し、朝夕に見回りして楽しみとした。家人がたびたび売って費用に充てるよう勧めたが、懐譲は聞き入れなかった。死ぬと、童僕が顔を傷つけて哭した。これはその地の風俗である。

趙贊

趙贊は、字を元輔といい、本名は美、後に改めた。幽州薊県の人。祖父は徳鈞、後唐の盧龍節度使となり、北平王に封ぜられた。父は延寿、明宗の娘興平公主を娶り、枢密使・忠武軍節度使に至った。

贊は幼くして聡明で、明宗は大変これを愛し、諸子や外孫の石氏と共に六宅で養育された。暇な日に、諸孫数十人を遍く見て回り、贊を見て言った、「この児は立派な器である」。贊は七歳で書物二十七巻を誦し、神童挙に応じた。明宗は詔して言った、「都尉の子、太尉の孫、幼くして書を誦し、弱くして遊戯を好まず、よく庭訓を顕わす。科名を賜うべきである。特に童子及第を賜う。なお長興三年の礼部春榜に附せよ」。久しくして、延寿が宣武軍に出鎮することとなり、よって奏して牙内都校に任じた。

清泰末、晋祖が幷門で挙兵し、延寿に枢密使として兵を率いて上党に駐屯させ、徳鈞が本軍を率いて幽州から来て合流するよう命じた。時に晋祖は契丹の援けを得て、兵を率いて南下し、徳鈞父子は晋に降り、契丹主は彼らをことごとく拘束して北へ連れ去ったが、贊だけは母の公主と共に西洛に留まった。天福三年、晋祖は贊に命じて母を奉じて薊門に帰らせ、契丹は金吾將軍に任じた。数年後、契丹は延寿を范陽節度使とし、また贊を牙内都校に任じた。開運末、契丹主が南侵を謀り、政務を延寿に委ねた。平原が陥落すると、贊はまた契丹に任ぜられて河中節度使となった。延寿が契丹に従って北帰すると、贊は留まって河中を鎮守した。

まもなく、漢祖が晋陽で挙兵すると、贊は上表して即位を勧め、漢祖は検校太尉を加え、なお河中を鎮守させた。京兆尹・晋昌軍節度使に改めた。贊は漢が己を疑うことを恐れ、密かに親吏趙仙を遣わして上表を奉じて蜀に帰順しようとした。判官李恕という者は、もと延寿の賓佐で、深く信頼され、家事にも参与していた。贊が出鎮すると、上介として従った。この時、恕は贊に言った、「燕王(延寿)が遼に入ったのは、本意ではなかった。漢は今建国したばかりで、必ずや懐柔に務めるでしょう。公が泥首して朝廷に帰順すれば、必ず富貴を保てます。狼狽して蜀に入れば、道理上万全とは言えません。もしまた受け入れられなければ、後悔しても及ばないでしょう。公が聞き入れられるなら、私が先に入朝し、公のために申し開きをいたします」。贊はすぐに恕を朝廷に遣わした。漢祖は恕に会い、贊がなぜ蜀に附こうとするのかと問うと、恕は言った、「贊の家は燕薊にあり、身は契丹の命を受け、自ら憂い恐れを抱き、陛下がついに容れられないと思い、西軍を招き寄せたのは、ひとまず免れようと図ったからです。臣の考えでは、国家はようやく定まったばかりで、臣民を安んずることに務めるべきであり、それゆえ臣に命じて哀願し、謁見を乞わせたのです」。漢祖は言った、「贊の父子も我が同類である。契丹に仕えたのは不幸によるものだ。今、延寿が陥穽に落ちたと聞く。我がどうして贊を容れられないことがあろうか」。恕がまだ戻らないうちに、贊はすでに鎮を離れて入朝し、すぐに左驍衛上將軍に任じ、恕を邠州判官に転任させた。

贊は周に仕え、左右羽林・左龍武の三統軍を歴任した。世宗が南征した時、初めに贊に命じて師を率いさせ寿州城外を巡警させ、まもなく淮南道行営左廂排陣使に任じた。世宗が京に帰ると、贊を留めて諸将と共に兵を分けて寿春を包囲させ、贊は単独で東面を担当した。諸将の戦いは多く不利であったが、贊だけは慎重を保ち、秋から冬にわたり、一度も敗北しなかった。詔を受けて軍を移動する時には、尺の椽や片の瓦までもことごとく車で運び去り、城中の人で敢えて睥睨する者はいなかった。時に呉が驍将魯公綰に十余万の兵を率いさせ淮を遡って急に到来し、山に跨って柵を築き、肥水を阻み、城中を見下ろした。時に大軍はすでに包囲を解いており、贊は大将楊承信と共に軽騎を率いて呉人の糧道を断ち、また単独で配下の兵を率いて公綰の軍を襲撃して破ったが、流れ矢に当たった。

世宗が再び寿春を征した時、渦口に橋を造り、濠・泗を通じさせるよう命じた。騎帥韓令坤にその工事を監督させ、贊をその副とした。霖雨が続いて淮水が漲り溢れ、濠の者が軽舟に乗じて急にその橋を焼こうと謀った。贊はこれを偵知し、橋の下に伏兵を設けた。濠の者は果たして来襲し、贊は強弩を乱発させ、多くを殺傷・捕獲した。世宗が兵を移して濠に赴いた時、牛革で大盾を覆って城を攻めさせ、贊は自ら工事を監督し、矢が冑に集まり、重傷を負ったが、なお力戦し、ついにその羊馬城を陥落させ、刺史唐景思はそこで死に、団練使郭廷請は城を降伏させた。世宗は詔を下してこれを褒め称えた。また配下の兵を率いて滁・和の間を巡撫し、石潭橋で呉人五百を破った。淮南が平定され、戦功が多かったため、保信軍節度使を授けられた。贊が職務を視ると、苛政をことごとく去り、寛大簡素な政治に務めたので、住民はこれを便利とした。恭帝が即位すると、開府の階を加えられた。

宋初、検校太師を加えられ、忠正軍節度使に移り、維揚平定に参与した。一年余りして、延州に移鎮し、密旨を受けて便宜行事を許された。州境に近づくと、前後に歩騎を分置し、綿々として絶えず、林莽の間に遠く旌旗が見え、配下の羌・渾が迎えに来て、慴服しない者はなかった。

乾徳六年、建雄軍節度使に移った。秋、将を命じて太原を征し、贊を邠州路部署とした。開宝二年、太祖が晋陽を討たんとし、またこれを河東道行営前軍馬歩軍都虞候とした。車駕が城下に迫り、軍を四面に分けると、贊はその西側を扼した。幷人が闇に乗じて突門から密かに贊の陣営を襲ったが、贊は衆を率いてこれを撃ち、久しくしてようやく退き、弩の矢が足を貫いた。太祖はたびたび労問し、良薬を賜って塗布させた。四年、鄜州に鎮することを議した。

太宗が即位すると、衛国公に進封された。太平興国二年、来朝したが、謁見しないうちに卒去。五十五歳。侍中を追贈された。

贊はかなり書物に通じ、詩を作ることを好み、容姿・挙動は閑雅で、士大夫には礼をもって接し、衆を統御する方略があった。その政治には特に際立った事跡はなかったが、吏民は畏服し、これも近代の賢い将帥であった。

李継勲

李繼勳は、大名府元城県の人である。周の太祖が節鎮を領した時、選ばれてその麾下に隷した。広順初年、禁軍の列校に補せられ、累遷して虎捷左廂都指揮使・永州防禦使を領するに至った。顕徳初年、侍衛歩軍都指揮使に遷り、昭武軍節度使を領した。一年余りして、曹州を領するよう改められた。

世宗が自ら淮上に親征した時、李繼勳に命じて兵を率い寿州城の南に駐屯させ、洞屋や雲梯を進めてその城を攻撃させた。李繼勳は守備を怠り、敵に敗れて、数万の死者を出し、雲梯や洞屋はことごとく焼かれた。召還されて朝廷に帰ると、河陽三城節度使として出された。議論する者は、責任ある将帥を処罰する道理を失ったと見なした。世宗が再び寿春に幸して帰還した後、李繼勳は左遷されて右武衛大将軍とされ、またその掌書記陳南金が補佐に功績がなかったとして、ともに罷免された。

顕徳四年の冬、再び世宗に従って南征し、迎鑾に到着すると、すぐに李繼勳に命じて黒龍船三十艘を率いて江口の灘におり、呉の兵数百を破り、戦船二艘を獲た。功により左領軍衛上将軍に遷った。七月、右羽林統軍に改められた。六年の春、世宗が滄州に幸した時、李繼勳を戦棹左廂都部署とし、前澤州刺史劉洪をその副とし、まもなく邢州の権知事とした。恭帝が即位すると、安国軍節度使を授けられ、検校太傅を加えられた。

宋の初年、検校太尉を加えられた。太祖が沢州・潞州を平定した時、李繼勳は行在所に朝し、すぐに昭義軍節度使とされた。この秋、軍を率いて河東に入り、平遥県を焼き払い、多くの捕虜と鹵獲品を得た。建隆二年の冬、またへい州軍千余人を破り、百級余りを斬首し、その遼州刺史傅延彦と弟の延勳を捕らえて献上した。

乾徳二年、詔により康延沼・尹訓とともに歩騎万余りを率いて遼州を攻撃し、太原の将郝貴超が兵を率いて来援したが、城下で戦い、李繼勳はこれを大破した。州の将杜延韜は危急に陥り、拱衛都指揮使冀進・兵馬都監供奉官侯美とともに部下の兵三千を率いて李繼勳に降伏した。すぐに内供奉官都知慕容延忠を遣わして入奏させ、詔でこれを褒めた。まもなく、并州人が契丹の歩騎六万人を誘って遼州を奪おうとしたため、再び李繼勳と羅彦瓌・郭進・曹彬らに六万の兵を率いて赴かせ、城下で契丹及び太原軍を大破した。五年、同平章事を加えられた。

開宝初年、河東を征討しようとした時、李繼勳を行営前軍都部署とし、渦河で并州軍を破った。二年、太祖が河東に親征し、李繼勳を行営前軍都部署に命じた。車駕が城下に至り、軍を四面に分けると、李継勳はその南に柵を設けた。三年の春、節鎮を大名府に移した。太平興国初年、侍中を兼ねて加えられた。まもなく病気を理由に洛陽らくように帰ることを求め、許され、千万の銭と一万両の白金を賜った。この秋、上表して致仕を乞い、太子太師を拝命して致仕し、朝会では中書門下の班に連なることを許された。まもなく卒去、六十二歳、中書令を追贈された。

李繼勳は累代藩鎮を歴任したが、赴任した先々で善政はなく、しかし質朴で率直であると称された。仏教を信奉した。太祖と旧知の間柄であったため、特に寵遇を受けた。

弟の継偓もまた武勇があり、周の顕徳末年、内殿直に補せられた。宋の初年、累代軍職を歴任した。開宝年間、歩軍副都軍頭となった。太平興国三年、内外馬歩軍副都軍頭に遷った。事に坐して右衛率府率に改められた。六年、本衛の将軍を加えられ、奨州刺史を領した。累進して龍衛右廂都指揮使・本州団練使を領するに至った。

李繼勳の子、守恩は如京使に至り、守元は北作坊使に至り、守徽は崇儀副使となった。

薬元福

薬元福は、并州晋陽県の人である。幼い頃から胆気があり、騎射に優れていた。初め邢州の帥王檀に仕えて廳頭軍使となり、勇敢さで知られた。後唐に仕え、拱衛・威和親従馬闘軍都校、天平軍内外馬軍都指揮使となった。晋の天福年間、深州刺史となった。

開運初年、契丹が甘陵を陥落させ、魏郡を包囲し、軍は黄河に駐屯した。少帝は澶淵に軍を駐め、契丹は城の北に陣を布き、東西に連なり、城の両隅を覆い、城壁に登って望むと、その際限が見えなかった。薬元福は左千牛衛将軍として兵を率い陣の東側に位置した。澶州の民に馬破龍という者が契丹に告げて言うには、「まずその東を攻めれば、浮橋を奪取できる」と。契丹はこれを信じ、全力で来戦した。薬元福は慕容鄴とともに各々二百騎を率いて一隊となり、躍り出て戦い、薬元福は鉄撾を奮って契丹を撃ち、数人を斃し、左右に馳突して、靡かない者はなく、契丹兵は潰走した。少帝は城に登り、薬元福が力戦するのを見て、召し寄せて労って言うには、「汝は命を顧みず奮戦し、古の忠烈にも過ぎることはない」と。薬元福の三頭の馬はいずれも流れ矢に当たり、少帝は名馬を選んで賜った。翌日戦おうとする時、面と向かって薬元福に鄭州刺史を授けたが、権臣に阻まれて、ただ原州刺史とされ、まもなく泰州に改められた。

翌年、契丹が再び侵入した。薬元福に命じて李守貞・符彦卿・皇甫遇・張彦澤らとともに陽城でこれを防がせ、右廂副排陣使とした。晋軍は方陣を布き、拒馬を設けて行砦とした。契丹は奇兵を出して陣の背後に回り、糧道を断った。晋人は水に乏しく、兵士と馬は飢え渇き、井戸を掘っても泉に至らず、土はすぐに崩れて塞がった。契丹は順風に塵を揚げ、諸将は皆言うには、「敵の勢いは甚だ鋭い。風向きが変わるのを待って戦えば、必ずこれを破ることができよう」と。李守貞が薬元福と謀って言うには、「軍中はすでに甚だしく飢え渇いている。もし風向きが変わるのを待って出戦すれば、我々は虜となるであろう。彼らは我々が逆風で戦えないと思っている。その不意を衝いて撃つべきであり、これが兵家の奇策である」と。薬元福はそこで麾下の騎兵を率い、拒馬を開いて出戦し、諸将も続いて到着し、契丹は大敗し、二十余里を追撃し、多くを殺傷・捕獲した。敵の将帥は百余騎で遁走した。薬元福を威州刺史とした。

時に霊武節度使王令温が漢法をもって蕃部を治めたため、西方の民はこれを苦しみ、共謀して乱を起こし、三族の酋長拓跋彦超・石存・乜廝褒が衆を率いて霊州を攻撃した。王令温は間道を通って使者を遣わし奏上させたため、河陽節度使馮暉を朔方に鎮め、関右の兵を召して進討させ、薬元福に行営騎兵を将帥させた。薬元福は馮暉とともに威州の土橋の西から出て、彦超の兵七千余りに出会い、馮暉の行李を遮った。薬元福は五十里にわたって転戦し、千級を斬首し、三十余人を生け捕りにし、また部校を遣わして王令温を救い出し、洛陽まで護送させた。

朔方は威州から七百里離れており、水草がなく、旱海と号され、軍は糧食を携えて行進しなければならず、耀徳に至って食糧は尽き、夜明けまでに四十里を行進した。彦超らの衆数万は、三つの陣を布いて要路を扼し、水泉を占拠して、馮暉軍を待ち受け、軍中は大いに恐れた。馮暉は人を遣わして金帛で賄賂し、和解を求めたところ、彦超はこれを許した。使者は四度往復したが、正午になっても陣列は元のままだった。薬元福は言うには、「彼らは我が軍が飢え渇いていることを知り、険しい地で我が軍を遮っている。すでに和解を許しながら正午になっても決着せず、これはどうして信じられようか。我々を困らせようとしているのである。引き延ばして日暮れになれば、我々は捕虜となるであろう」と。馮暉は驚いて言うには、「どうすればよいか」と。薬元福は言うには、「彼らは衆は多いが精兵は極めて少ない。西山に依って陣を布いている者たちがそれである。残りは患いとするに足らない。薬元福、麾下の騎兵を請うてまず西山の兵を撃ちます。公はただ厳しく陣を布いて動かず、敵が少し退いたのを見て、黄旗を挙げて合図とすべきです。旗が挙がれば、勢いを合わせて進撃し、必ずこれを敗るでしょう」と。馮暉はその策をよしとし、ついに衆を率いて進撃すると、敵衆は果たして潰走した。薬元福はすぐに黄旗を挙げて馮暉を招き、馮暉軍が続いて進むと、彦超は大敗し、横たわる屍が野を覆った。この夕方、清辺軍に入った。翌日、霊州に至った。薬元福は郡に帰還し、詔により馮暉・薬元福に衣帯・繒帛・銀器を賜った。

漢の乾祐年間(948年~950年)、趙暉に従って鳳翔において王景崇を討つ。当時兵力は寡弱で、一万人に満たず、蜀の兵数万が来援し、景崇は宝鶏に至り、山に依って柵を列ねた。都監李彦従が数千人を率いて蜀軍を撃つが、衆寡敵せず、漢軍は少し退却す。元福は数百騎を率いて後ろからこれを駆り、還り顧みる者は斬ると下令し、衆みな殊死に戦い、蜀兵を大いに破り、大散関まで追撃し、三千余人を殺し、残りはみな甲を棄てて遁走す。鳳翔平定し、功により淄州刺史に遷る。

周の広順初年(951年)、王彦超が徐州の叛将楊温を討つに当たり、元福を行営兵馬都監とする。数ヶ月でこれを克ち、師を率いて京に還り、陳州防禦使に改む。

未だ幾ばくもせず、劉崇が契丹を引きいて晋州を擾わす。枢密使王峻に兵を率いてこれを拒がしめ、元福を西北面都排陣使とする。軍が蒙坑を過ぎるや、崇は夜に営を焼いて遁走す。峻は元福と仇超・陳思譲に命じて霍邑まで追撃せしむるも、既に行かしめて、また遣わしてこれを止む。元福は思譲らに謂いて曰く、「劉崇が契丹を召して辺境を擾わすは、志すところは中国を疲弊せしむるにあり。今兵未だ交わらずして遁る。宜しく奔を追い深入して、その勢いを挫くべし」と。諸将畏懦にして、遂に止む。周祖その事を知り、明年、兵を調発して晋州を戍らしむるに因り、左右に謂いて曰く、「去年劉崇の遁走するや、もし薬元福の言に従わば、則ち辺患無かりしものを」と。

俄にして曹英・向訓とともに慕容彦超を兗州において討ち、元福を行営馬歩軍都虞候とする。詔して元福に晋州より所部を率いて入朝せしめ、即ち遣わして東行せしめ、六銖・袍帯・鞍馬・器仗を賜う。周祖謂いて曰く、「比来曹州防禦使鄭璋を用うるも、我は彦超の兇狡にして計謀多きを度り、璋の事を集め得ざるを恐る。選んで爾を以てこれに代う。已に曹英・向訓に勅して軍礼を以て汝に見えしめざるを令す」と。軍中に至るや、英・訓ともにこれを尊礼し、当時に宿将たりし者有り。連城を築いて以て兗を囲む。彦超昼夜出兵す。元福屡々これを撃破し、遂に壁を閉じて敢えて出でず。十余日、元福の営柵皆な就く。また地を穴ぐり及び土山を築き、百道を以てその城を攻む。会に周祖親征し、元福は所部を以て先んじて羊馬城に入り、諸軍鼓噪して角進し、これを抜く。功により建雄軍節度を授かる。

世宗の高平の戦い、劉崇敗走して太原に走る。遂に兵を縦ってその城を囲む。元福を同州節度とし、太原四面壕砦都部署を充てる。時に攻具悉く備わり、城中危急なり。糧運継がざるを以て、詔して師を班するを令す。元福上言して曰く、「進軍は甚だ易く、退軍は甚だ難し」と。世宗曰く、「一に卿に委ぬ」と。遂に卒伍を部分して方陣と為して南す。元福は麾下を以て後殿と為す。崇果たして出兵して来追す。元福これを撃ち走らす。師還り、検校太尉を加えられ、鎮を陝州に移す。また定・廬・曹の三鎮を歴任す。

宋初、検校太師を加えらる。九月卒す。年七十七。侍中を贈らる。

元福は老いたりと雖も、筋骨衰えず。人或いはその気貌益々壮んなるを言えば、当に復た兵を領すべしと、必ず大いに喜び、曲くして礼待を致し、或いは贈遣を加えらる。時に驍将と称す。

趙晁

趙晁、真定の人。初め杜重威に事えて列校と為る。重威誅せられ、周祖の鄴中に鎮するに属し、晁因って麾下に委質す。周祖開国し、擢でて作坊副使と為す。慕容彦超兗州に拠りて叛く。晁を行営歩軍都監と為す。兗州平らぎ、転じて作坊使と為す。晁自ら以て、府に事え逮し、復た軍功有りと為すも、而して遷拜その望みに満たず、居常怏怏たり。時に枢密使王峻政を秉る。晁その己を軋するを疑う。一日酒に使いてその第に詣り、峻を毀る。峻これを責めず。世宗位を嗣ぎ、控鶴左廂都指揮使・賀州刺史を領するに改む。

劉崇征伐に従い、転じて虎捷右廂都指揮使・本州団練使を領し兼ねて行営歩軍都指揮使と為る。軍河内に至る。世宗の意は速戦に在り、晁に倍道兼行せしむ。晁私かに通事舍人鄭好謙に語りて曰く、「賊勢方に盛んなり、未だ易く敵すべからず。宜しく持重してその鋭気を挫くべし」と。好謙その言うところを以て入りて白す。世宗怒りて曰く、「汝安んぞこの言を得ん、必ず他人の教うる所なり。その人を言わば、則ち爾を捨てん。言わざれば、当に死すべし」と。好謙懼れ、遂に実を以て対う。世宗即ち命して晁とともに州獄に械し、軍回りて始めてこれを赦す。

及び淮南を征し、虎捷左廂に改め、閬州防禦使を領し、前軍行営歩軍都指揮使を充て、また縁江歩軍都指揮使と為る。時に李重進正陽において呉人を破り、降卒三千人を晁に付す。晁一夕にして尽くこれを殺す。世宗これを罪せず。寿春平らぎ、検校太保・河陽三城節度・孟懐等州観察措置等使を拝す。恭帝即位し、検校太傅を加えらる。

宋初、検校太尉を加えらる。未だ幾ばくもせず、疾を以て京師に帰り、卒す。年五十二。太祖甚だこれを悼み、太子太師を贈り、再び侍中を贈る。

晁身長七尺、儀貌雄偉、聚斂を好み、方鎮に処するに賄をもって聞こゆ。周初に宣祖と分かって禁軍を掌り、宗盟の分有りしを以て、故に太祖常に優礼を以てこれに接し、再び贈典を加えらる。子に延溥有り。

子 延溥

延溥、周の顕徳年中(954年~959年)、父の任により補われて左班殿直と為る。宋初、鉄騎指揮使と為る。開宝初年(968年)、太祖親征して晋陽を征し、太宗京邑を守る。延溥は所部を以て帳下牙軍と為し、転じて殿前散員指揮使と為る。九年(976年)、鉄騎都虞候に改む。

太宗が即位すると、散指揮都虞候に遷り、思州刺史を兼ねた。太平興国二年、内殿直都虞候に転じた。三年、馬歩軍都虞候に改めた。太原平定に従い、燕薊の地を攻略した。六軍の扈従のうち後期して到着した者があり、帝は怒り、法に処そうとした。延溥は進み出て言うには、「陛下は辺境を巡行され、外敵の防禦をなさる。今、契丹は未だ滅びず、将士を誅罰せば、後の図らいを挙げるに、誰が陛下のために力を尽くしましょうか」と。帝はこれを嘉して受け容れた。軍が還ると、内外馬歩軍都軍頭に遷り、本州防禦使を兼ねた。

五年、殿前の白進超が卒す。即日に延溥を日騎・天武左右廂都指揮使とし、殿前都虞候事を兼ねて権知せしめた。親しい吏を遣わして竹木を市するに、過ぎる関渡において制を称して算を免ぜしめた罪に坐し、登州団練使に責授され、任に赴くことを命ぜられた。この冬、帝が北巡して大名に至ると、再び延溥を本州防禦使とし、即時に幽州東路行営壕砦都監に命じた。詔して縁辺の城塁を修築せしむ。一年を過ぎ、涼州観察使を加え、なお登州を判した。また鎮州兵馬都部署となり、まもなく霸州を判した。

雍熙二年、蔚州観察使に改め、冀州を判した。時に曹彬らを北征に命ずるに及び、また内衣庫使張紹勍・引進副使董愿とともに幽州西北道行営都監となった。軍が還ると、貝州知州を命ぜられ、滑州部署に改めた。四年、再び貝州を知り、病を以て代わることを求めた。代わりの者が未だ至らぬうちに卒す。享年五十。天徳軍節度使を追贈された。

子の承彬は、内殿崇班に至った。承彬の子の咸一は、虞部員外郎となり、宗正丞事を知った。咸熙は、天聖八年に進士及第した。

論ずるに、侯益は晋・漢の時にあって、たびたび反覆をなした。その契丹に命を受け、偽蜀と私交を結び、赤岡の戦いにおいて、また夜に周祖に謁したことを観る。宗族の長幼は、景崇の鯨鯢に遭い、ほとんど噍類なきに至った。その心跡を推すに、豈に二心を懐くことの罰ではなかろうか。薛懐讓・趙晁は将となるに、皆、降を殺すことを忍んだ。晁の子の延溥は、後至の誅を救うことができた。父子の親といえども、仁と暴とが相い戾ること、かくの如き者あり。その余は皆、時に逢って武を奮い、身を栄顕に致した。扈彦珂が河中を撃つことを請い、ついにその策を用いたのは、愚者の一慮というべきか。