宋史

列傳第十二 折德扆 馮繼業 王承美 李繼周 孫行友

折徳扆

折徳扆は、代々雲中に居住し、大族であった。父の従阮は、晋・漢以来、単独で府州を拠点とし、西北を押さえ、中国はこれに頼った。周に仕えて静難軍節度使に至った。その府州鎮守の時、徳扆を馬歩軍都校に任命した。広順年間、周の世宗が府州を永安軍に昇格させ、徳扆を節度使とした。時に従阮は邠寧を鎮守し、父子ともに節度使の任を帯び、当時の人はこれを栄誉とした。

顕徳年間、徳扆は軍を率いて河市鎮を攻め落とし、幷州軍五百余級を斬首した。朝廷に入朝し、その弟の徳愿に州の事務を代行させた。時に世宗が南征し、帰途に通許橋に駐留した際、徳扆は迎えて謁見し、さらに内地への移住を請うた。世宗は彼が平素より蕃族の情を得ているとして、許さず、手厚く賜物を与えて帰還させた。徳扆が未だ到着しないうちに、徳愿がまた沙谷砦において幷州軍五百余を破り、その将の郝章・張釗を斬った。

宋の初め、徳扆はまた河東の沙谷砦を破り、五百級を斬首した。建隆二年に来朝し、待遇を加増され、帰鎮を命じられた。乾徳元年、城下において太原軍を破り、その将の楊璘を生け捕りにした。二年、卒去。享年四十八。侍中を追贈された。子に御勳・御卿あり。

子 御勳

御勳は、字を世隆といい、徳扆が府州を鎮守していた時、上表して右職に任じられた。徳扆が卒去すると、御勳を以て汾州団練使を領せしめ、府州の事務を代行させた。開宝二年、太祖が太原を征伐した際、御勳は行在所に赴いて謁見し、永安軍留後とされた。四年、郊祀のため来朝し、礼が終わると帰鎮した。九年、西洛において郊祀が行われ、再び来朝したが、途中で病を得て期日に遅れ、泰寧軍節度使に改任され、京師に留め置かれた。太平興国二年、卒去。享年四十。侍中を追贈された。

子 御卿

御卿は、幼くして節院使に補任され、御勳が州事を掌る時、兵馬都校に任命された。御勳が転鎮すると、召されて閑廄副使・知府州となった。太宗が河東を征伐した時、御卿に尹憲と共に屯兵を率いて嵐州を攻撃させ、また岢嵐軍を破り、その軍使の折令図を生け捕りにして献上させた。ついに嵐州を陥落させ、またその憲州刺史の霍翊を殺し、さらにその将の馬延忠ら七人を生け捕りにした。崇儀使に昇進した。

淳化三年、凡そ四度の昇進を経て府州観察使となった。五年、永安軍節度使に任じられた。やがて契丹の兵一万余が侵入したが、御卿はこれを子河汊において大いに破り、五千級を斬首し、千匹の馬を鹵獲した。契丹の将で突厥太尉・司徒しと・舍利と号する者二十余人が戦死し、その吐渾一人を生け捕りにした。これより契丹は畏怖する所を知った。太宗はこれにより使者を遣わして御卿に問うて曰く、「西北の要害には皆精兵を駐屯させているのに、戎人はどうしてここまで来られたのか」と。御卿は対して曰く、「敵は山峡の小径を伝って侵入し、略奪を謀りました。臣が諜報によってこれを知り、人を遣わしてその帰路を遮断し、そこで兵を放って大いに撃ち、敗走させました。人馬が崖谷に墜ちて死んだ者は互いに枕し、その大将の韓徳威は僅かに身一つで免れたのみです。これらは皆、聖なる威光の及ぶところであり、臣の功績ではございません」と。上はこれを称賛した。

一年余り後、御卿は病に罹った。徳威が諜報でこれを知り、かつ李継遷に唆され、兵を率いて侵入し、子河汊の戦いの報復をしようとした。御卿は病をおして出戦した。徳威は彼が来たと聞き、進むことを敢えなかった。時に病が甚だしくなり、その母が密かに人を遣わして帰還を促したが、御卿は曰く、「代々国恩を受け、辺境の敵寇が未だ滅びないのは、御卿の罪である。今、敵に臨んで士卒を棄てて自分だけ楽をすることはできない。軍中に死ぬのが本分である。太夫人に申し上げよ、我を思うなかれ、忠と孝は両全し難い」と。言い終えて涙を流した。翌日卒去。享年三十八。上はこれを聞き、長く悼み惜しみ、侍中を追贈し、その子の惟正を洛苑使・知州事とした。惟正が帰朝すると、その弟の惟昌がこれを継いだ。

咸平二年、河西の黄女族長の蒙異保および惟昌の配下の啜訛が趙保吉の兵を引きいて麟州の万戸谷に侵入し、松花砦まで進んだ。惟昌は従叔の同巡検使の海超、弟の供奉官の惟信と共に兵を率いて戦いに向かった。保吉の兵が多く、官軍は敵わず、惟昌は腕に流れ矢を受け落馬したが、弓を握り直して立ち上がり、副将の馬を得て包囲を突破した。海超と惟信は戦死した。九月、保吉の党の万私保移埋がまた来寇した。惟昌は宋思恭・劉文質と埋井峰で合戦し、これを敗走させた。また言泥族の抜黄砦を破り、その武器・甲冑・車・帳幕を焼き、多くの者を捕虜・斬首した。功により富州刺史を領し、文思使に改めた。景德元年、王万海らと賊の砦を破り、秣糧を護送して麟州に届けた。秋、朔州の境界に入り、狼水砦を破った。時に契丹がちょうど岢嵐軍を包囲していたが、敗報を聞いて遁走した。翌年、興州刺史に任じられた。

大中祥符二年、上表して赴闕を求めた。真宗は近臣に命じて苑中で彼と射をさせ、宴席と賜物を大変手厚くした。上言して曰く、「先臣の御卿は軍容を壮んにするため旗三十竿を賜りました。別途で賜与を請います」と。これを許した。七年、河東の民に命じて糧食を麟州へ運送させたが、兵を出して援護すべきところ、惟昌は病をおして歩騎を率いて寧遠砦に駐屯し、風砂を冒して進んだ。時に病は既に重篤であったが、なお賓客や参謀と宴飲し、談笑自若としていた。明日卒去。享年三十七。その弟の惟忠がこれを継いだ。

惟忠は、字を藎臣といい、初め兄の惟信が戦死したため、西頭供奉官に補任され、閣門祗候に抜擢された。惟昌が卒去すると、惟忠を六宅使・知府州兼麟府路都巡検使とし、普州刺史を領せしめた。再び左蔵庫使に昇進し、真に嘉州刺史に任じられ、資州刺史に改め、簡州団練使に進んだ。母の喪に服したが、起復して雲麾将軍となり、卒去した。

惟忠は軍事に通じていた。天聖年間、契丹と夏国が国境で兵を合わせ、婚姻を口実としたが、惟忠はその実情を探り、配下を率いて備えに行き、士卒に軽挙妄動を戒めた。ある夕方、風塵が立ち込め、騎兵が営中に走り込んできたので、敵の襲来と思われたが、惟忠は堅く臥して動かず、ゆるゆると命じてこれを捕らえさせると、数頭の駄馬を得た。これは敵が放ったものであった。死後、その弟・甥・子孫七人を登用し、その子・継宣に州の政務を嗣がせた。後年、特に惟忠を耀州観察使に追贈した。

宝元年間、継宣は苛酷な搾取により、部族が怨嗟した罪で、左監門衛将軍・楚州都監に降格され、その弟・右侍禁の継閔が西京作坊使に抜擢され、州の政務を嗣いだ。

継閔は字を広孝という。慶暦年間、元昊の兵が麟州を攻めて落とせず、州城を包囲した。城は険阻で堅固であり、東南に水門があり、崖壁が切り立って河を隔てていた。賊は崖腹の細道を伝って魚貫として進み、城中から矢石が乱れ飛んだ。賊は転じて城北を攻めたが、士卒がまた力戦し、賊の死傷者は甚だ多く、ついに引き揚げて豊州を包囲し、豊州はついに陥落した。継閔は城を守った功労により、特に宮苑使・普州刺史に転じた。間もなく、麟州の戍卒の冬服を護送したところ、賊が伏兵を設けて邀撃し、携行した物資をすべて掠奪したが、継閔は身を脱して間道より帰還した。恩赦に遇い、宮苑使を剥奪されるにとどまり、後に官を復し、果州団練使を領した。元昊の反乱以来、継閔は帰農する者三千余戸を招集した。皇祐二年、卒去し、その弟・継祖に州の政務を嗣がせた。

継祖は字を応之といい、右侍禁より西染院使に遷り、累転して皇城使・成州団練使となった。政務に臨むこと二十余年。書籍を賜るよう奏上すると、仁宗は『九経』を賜った。韓絳が河東兵を発して囉兀に城を築く際、継祖は先鋒となり、敵陣深く入り、部落八百戸を降した。解州防禦使を加えられ、卒去した。継祖には州事を嗣ぐべき子がいたが、兄の子・克柔に授けるよう請うた。詔してこれに従い、その三子の官を進め、二孫を借職に登用した。

弟の継世は、若くして軍に従い、延州東路巡検となった。嵬名山が内附する際、継世は事前にこれを知り、その子・克懃を遣わして种諤に報せた。諤はこれにより綏州を取った。継世は騎兵・歩兵一万を率いて懐寧砦に軍し、晋祠谷に入り、銀川に向かい、名山の衆一万五千戸を大理河に居住させた。夏人が来攻し、再戦してともに勝利した。諤が罪に問われ獄に繋がれると、兵を継世に託して行き、ついに名山とともに綏州を守り、功績により忠州刺史を領した。韓絳に囉兀に城を築いて横山を撫し、これにより河南を取る策を図上して説くと、絳はこれをよしとした。左騏驥使・果州団練使のまま卒去した。諸司使には賻礼の規定がなかったが、詔して継世を蕃官として、辺境を守り功績があったため、特にこれを給した。従子に克行がいる。

曾孫 克行

克行は字を遵道といい、継閔の子である。初め軍府に仕え、名を知られていなかった。夏人が環慶を寇した際、种諤がこれを防ぎ、詔して河東に出師して援護させた。克行は行くことを請うた。諤は兵三千をもって糧道を護衛させ、葭蘆川で戦い、先鋒として敵の首級四百を斬り、千戸を降し、馬畜は万を数えた。諸老将は驚いて言った、「真の折太尉の子である」と。知府州に抜擢された。

秦兵が夏国を討つ際、張世矩が河外の軍民を率い、克行もこれに従った。朝廷の議論では守臣が自ら行くのは難しいとし、詔して克行に兵を選んで世矩に隷属させた。克行は抗疏し、部落を率いて先駆けたいと願ったが、返答がないうちに、管鑰を委ねて西進した。大酋の咩保呉良が一万騎をもって追跡してきた。克行は後衛となり、賊の半数が隘路を渡ったところで、攻撃を放ち大破し、咩保呉良を殺した。軍が還ると自らを弾劾したが、問わずに釈放された。王中正が塞外に出ると、克行は先に宥州を抜き、出撃するごとに必ず勝ち、夏人はこれを畏れ、左廂兵を増強し、専ら折氏に対抗させた。

太原の孫覧が葭蘆に城を築くことを議し、諸将の議論は多く合わなかった。克行を召して策を問うと、直ちに吐渾河に兵を駐め、部隊を規律し、深く窮追討伐する態勢をとった。敵は疑って動かなかった。工事が完了すると、また津慶・龍横川に入り、三千の首級を斬った。

詔して河東に八砦を進めて築き、鄜延への通路を開かせた。延州の帥臣が秦希甫を遣わして共に議した。克行は両路が併力し、遠い所を先にすべきと請うた。希甫は言った、「近きより遠きに及ぶは、法なり」と。克行は言った、「然らず、事には奇正あり。今、士気の鋭きに乗じ、利は速やかなるにあり。故に遠き役を先にして、その不意に出ず。もし徐々に図れば、士心はかつて怠らん」と。希甫は認めず、二つの意見をともに上奏したが、ついに克行の策を用いた。城が完成すると、間者が敵の来襲を報じ、軍中は皆戒厳したが、克行はこれを止めて言った、「彼ら自ら騒いでいるだけである」と。やがてその通りであった。

克行は辺境に三十年、士卒をよく撫で、戦功が最も多く、羌人は彼を『折家父』と呼んだ。官は秦州観察使に至り、卒去し、武安軍節度使を追贈された。子の可大は栄州団練使・知府州となった。従子に可適がいる。

可適はまだ元服せずして勇気があり、馳射は習わずして能くした。鄜延の郭逵がこれを見て、歎じて言った、「真の将種なり」と。朝廷で試すよう推薦し、殿侍に補され、延州に隷属した。种諤に従って塞外に出ると、敵の騎兵が彼を年少と侮り、可適は進んで戦いを求め、その首を斬り、馬を取って還り、ますます名を知られた。米脂の役では、夏人と三角嶺で戦い、多くの首級を得、また蒲桃谷の東でこれを破った。兵が長く食を得られず、千人が集まり、軍門で騒ぎ立てた。ある者はこれを討ち取って功としようとしたが、可適は言った、「これは飢えにより逃げただけで、反乱ではない」と。単騎で出て詰問して言った、「お前たちはどうしてここまでしたのか、父母妻子を思わず、異境の鬼となることを甘んじるのか」と。皆、顔を向け直して声を上げて承諾し、涙を流して再生を謝し、それぞれ帰還させた。

羌・夏人十万が侵入した。可適は先にその烽火台の守卒の姓名を得て、首領に偽装して巡視し、呼び出して塞外で斬ったため、烽火が伝わらなかった。そこで甲を巻き急行し、尾丁磑でこれを大破した。帰途、檉楊溝に駐屯し、正午に営を駐め、騎兵を分けて西山を占拠し、言った、「もし彼らが我が後を追えば、腹背に敵を受けて必ず敗れる」と。果たして全軍が来襲した。可適の率いる兵はわずか八千であったが、転戦して高嶺に至り、間道より洪徳に向かい、帰路を遮る伏兵を設けた。敵が至ると、伏兵が発起してこれを衝き、その国母は山を越えて遁走し、輜重を焼き棄て、帷帳や首飾りの類すらも取り戻さず、衆は互いに踏み躙られ、崖や澗に赴いて死ぬ者が積み重なった。前後の功績により、皇城使・成州団練使・岷蘭州鎮戎軍知事に至った。

渭州の帥臣・章楶が熙・秦・慶三道の兵を合わせて好水川に城を築き、総管の王文振にこれを統率させ、可適は将軍として副将となった。熙州兵千人が道に迷って全滅した。文振はその罪を可適に帰し、楶は直ちにこれを官吏に下した。宰相の章惇は軍法により処断しようとしたが、哲宗は許さず、なお十三官を削って免職とした。楶は留めて功績を挙げさせるよう請うたため、権第十二将とした。

嵬名阿埋・昧勒都逋は、ともに夏人の傑出して狡猾な実力者であった。詔して可適に密かにこれを図らせた。ちょうど二酋が畜牧を名目に国境で会おうとした。可適は間者によりこれを知り、兵を遣わして夜襲し、ともにその族属三千人を俘虜とし、ついに天都山を取った。帝は文徳殿に臨んで賀を受け、その地を西安州とし、可適を東上閤門使・洺州防禦使・涇原鈐轄・知州事に遷し、真に和州防禦使を拝し、明州観察使に進め、副都総管とした。

帥たる鐘傳が辺境を行き、敵に隔てられたが、軽騎を率いてこれを救い出し、帰還した。傳が霊武を取ることを議し、環慶も出師を請うたので、可適に命じて万騎を将いて往かせ、ただちに霊州川に迫った。夏人は老幼を扶け抱え、夜中に州城に入り、翌日には捕虜・鹵獲が甚だ多かったが、慶の兵は至らず、引き返した。詔して人をして覲見せしめ、帝は傳の策を以て訪うた。対えて曰く、「得るは易く、守るは難し。先ずその地を侵して弱らせ、我が藩籬既に固まりて後、図るべし」。帝曰く、「卿の言、是なり」。武安軍節度観察留後・歩軍都虞候に進む。

大いに蕭関を築城し、傳と議して齟齬す。踏口にて数百の師を覆すに会い、傳これを劾し、鄭州観察使に貶す。俄かに衛州を知り、淮康軍節度使を拝す。転運使が平夏・通峡・鎮戎・西安の四砦に分かち場圃を築き、芻粟五百万を置くことを請う。可適は費大なるを以て難しとし、また車牛を借りて運ばんと欲し、及び十万斛を熙河に致さんとす。皆その意に背き、乃ち疑謗を中にして、佑神観使に召す。明年、復た渭州と為すを以てし、その子彦質に命じて直秘閣参軍事と為し、数月にして卒す。年六十一。彦質は、紹興中に簽書枢密院と為り、別に傳あり。

馮繼業

馮繼業、字は嗣宗、大名の人。父は暉、朔方節度、衛王に封ぜらる。継業は幼くして敏慧、度量あり、父の任により補せられて朔方軍節院使と為り、父に随いて邠・孟を歴任し、及び再び朔方を領するに及び、皆牙職を補す。周の広順初、暉疾あり、継業はその兄継勲を殺さんと図る。暉卒し、遂にその父に代わりて朔方軍留後と為る。郊祀の恩を以て、霊州大都督ととく府長史を加え、朔方節度・霊環観察・処置・度支・温池榷税等使に遷る。

恭帝の時、継業は既に兄を殺し父に代わりて鎮を領し、頗る驕恣にして、時に兵を出して羌夷を劫略す。羌夷附かず、また士卒を撫するに恩少なく、継業はその変を為さんことを慮り、太祖が鎮に居る時常に給事を得たるを以て、乃ち予めその妻子を闕下に徙す。

建隆初、来朝し、連ねて駝馬・宝器を献ず。開宝二年、詔を賜いて奨諭し、静難軍節度使を拝す。三年、鎮を改めて定国軍と為し、吏民碑を立ててその遺愛を頌す。太平興国初来朝し、梁国公に封ぜられ、京師に留まる。明年、卒す。年五十一、侍中を贈らる。

王承美

王承美、豊州の人、本は河西藏才族の都首領。その父は契丹に事え、左千牛衛将軍と為り、開宝二年、衆を率いて来帰す。承美は豊州牙内指揮使を授けられ、父卒し、天徳軍蕃漢都指揮使・知州事に改め、豊州刺史に移る。軍校を闕に詣らせ、退渾・突厥を誘いて内附せしめんことを願うと言う。上その意を嘉す。

太平興国七年、契丹と戦い、斬獲万計を以てし、その天徳軍節度使韋太を禽えて献ず。明年、契丹来寇し、またその衆万余を撃破し、北に追いて青冢百余里に至り、斬獲益々衆し。功を以て本州団練使を授く。乞党族の次首領弗香克浪買を帰徳郎将と為し、没細の大首領越移を懐化大将軍と為し、瓦窯を帰徳大将軍と為す。淳化二年冬来朝し、帰ってその部を控えしめ、子河汊を左にす。是より諸蕃歳ごとに貢礼を修め、頗る忠順に效う。

景德初来朝し、その辺を守る歳久しきを以て、本州防禦使に遷して還す。承美の内属より以来、給奉は蕃官の例に同じ。是に至り、特詔して月に五万を増す。尋いて州城に孔子廟を置くことを請う。詔してこれを可とす。未幾疾に被り、中使を遣わして医を挟みてこれを視る。大中祥符五年、卒す。恩州観察使を贈らる。六年、その子文宝・孫懐筠を録して官を以てす。

初め、承美はその長孫文玉を養いて子と為し、奏して殿直に署す。及び卒し、その本族の首領上言して、文玉は軍政に暁達す、請う令して承美の任を襲わしめんと。蕃漢に下して議せしむ。議同じく、侍禁・知州事と為す。文玉の父文恭は時に侍禁と為り、沂州に在り、表してその事を訴う。詔して文恭を供奉宮に改む。九年、承美葬る。詔して帛緡・米麴・羊酒を以てその家に賜う。

李継周

李継周、延州金明の人。祖は計都、父は孝順、皆金明鎮使と為り、継周嗣いで本族を掌る。

太平興国三年、東山蕃落衆を集めて清化砦を寇す。継周衆を率いてこれを敗り、三千余人を殺し、殿前承旨を補す。雍熙中、また侯延広とともに未蔵・未腋等の族を渾州西山に敗る。淳化四年、殿直に遷り、介冑・戎器・茶綵を賜う。明年、李継遷を討ち、命じて塞門・鴉児の両路を開治せしめ、また族帳の首領二十余人を招降し、率いる所の部を以て夏州に入り、蕃兵数千を石堡砦に敗る。功を以て供奉官に転じ、復た恩賞を加え、仍って官第を賜う。

継周は阿都関・塞門・盧関等の砦最も辺要に居るを以て、遂に砦城を修築することを規る。磨盧家・媚咩・拽蔵等の族は盧関に近く居り、未だ嘗て内順せず。継周夜に率いる所の部を以て往き襲い、これを焚き、斬首俘獲甚だ衆し。至道二年、西京作坊副使を授け、袍帯・銀綵・彫戈を賜いてこれを寵す。大軍西夏を討つに、命じて延州路踏白先鋒と為す。継遷路に邀戦するに会い、継周戦いてこれを却く。咸平初、西京左蔵庫副使に改む。三年、復た先鋒と為り、賊境に入り、積聚を焚き、人畜を殺し、器甲凡そ六十余万を獲る。供備庫使を授け、金明県兵馬都監・新砦解家河盧関路都巡検を領す。五年、西京作坊使を授く。蕃騎入りて鈔す。継周これを逐いて境外に出す。景德元年、夏人麟州を囲む。継周詔を受けて兵を率いて李継福に会い、掩撃す。誠州刺史を領するを加う。

大中祥符二年に卒す、年六十七、詔して辺臣に命じ、その子の職を襲ぐべき者を選び名を以て聞かしむ、辺臣言う、その子殿直の士彬は遜愞なり、従子の士用は朴忠にして辺事に練れ、且つ部落の服する所と為る、乃ち詔して士彬に部族事を管勾せしめ、士用を巡検都監と為して以て之を左右せしむ。

士彬は後に至り供備庫副使・金明県都監・新砦解家河盧関路巡検に至る。康定元年、元昊反し、保安軍を攻め、潜かに兵を発して金明を襲い、士彬父子ともに禽せらる。士彬の兄士紹は内殿崇班に至り、士用は供奉官・閤門祗候に至る。

李継福なる者は、亦た継周と同時に帰順し、永平砦茭村軍主を授けられ、戦功を以て歴任し帰徳将軍に至り、順州刺史を領し、内殿崇班・新帰明諸族都巡検に至る。

孫行友

孫行友は、莫州清苑の人、世農を業とす。初め、定州の西二百里に狼山と云う者有り、易州の中路に当たり、旧より城堡有り、辺人寇を避くるに之を頼む。山中の蘭若に尼有り、姓は孫氏、名は深意、術有りて衆を惑わす。行友の兄の子方諫、之を名付けて姑帥と為し、事えて甚だ謹みたり。尼坐亡するに及び、行友益々其の事を神とし、因って其の術を以て香燈を然し、民を聚めて漸く衆と為る。晋の少帝契丹と好を絶つより、辺州転輸に困しみ、逋民往々方諫に依り、推して以て帥と為す。方諫は主帥の捕逐を懼れ、乃ち表して朝に帰し、因って署して東北面招收指揮使と為し、且つ院額を賜いて「勝福」と曰う。契丹軍来る毎に、必ず其の徒を率いて之を襲撃し、鎧仗・畜産得る所漸く多く、人益々依りて以て難を避く。易・定の帥朝に聞こゆ、因って方諫を以て辺界遊奕使と為し、行友之を副く。是より侵軼を捍禦し、多く殺獲有り。勝に乗じて祁溝関に入り、庸城を平らげ、飛狐砦を破り、契丹頗る之を畏る、辺民千餘家之に頼りて以て患無し。然れども亦た陰に両端を持し、以て自固を図る。已にして晋師律を失い、薊人契丹を道いて中原を陷るるは、方諫の密かに構うる所なり。契丹方諫に定州節度を授け、行友に易州刺史を授く。尋いで蕃将耶律忠を以て雲州に於て方諫に代わらしむ、方諫命を受けず、帰りて狼山を保つ。契丹北に帰り、山中を焚劫す、方諫狼山より衆を率いて復た定州を保ち、漢に帰命し、行友に易州刺史を授け、行義に泰州刺史を授く。弟兄掎角を以て居り、寇入る毎に、諸軍鎮壘を閉じて坐視し、一も得る所無し。

行友嘗て都校王友遇を遣わし石河に於て巡警せしむ、契丹と遇い、百余騎を殺し、又嘗て其の刺史蔡幅順・清苑令王璉を獲たり。乾祐中、契丹復た塞を犯す、行友之を禦ぎ、数百人を俘殺す。周の太祖北征し、行友道を献じ俘馘人馬を以て求めて見えんとし、且つ自ら効わんことを請う、廼ち厚く賜予を加え、之を軍門に留む。周祖命を受くるに及び、行友屢上言し契丹の離合を偵い得、勁兵三千を得て、間を乗じて幽州を平定せんことを願う、乃ち方諫を移して華州を鎮めしめ、行友を以て定州留後と為す。顕徳初、正に節鉞を授く。世宗河東より還り、検校太傅を加う。六年、世宗北征し、行友契丹の易州を攻め下し、其の刺史任欽を擒えて以て献ず。

宋初、同平章事を加う。狼山の仏舍妖妄愈甚だしく、衆之に趨ること禁ず可からず、行友自ら安からず、累表して官を解き山に帰らんことを乞う、詔して允さず。建隆二年、乃ち其の帑廩を徙し、丁壮を召集し、兵甲を繕治し、還りて狼山を以て自ら固めんと欲す。兵馬都監薬継能密かに表して其の事を上る、太祖閣門副使武懷節を遣わし騎を馳せて鎮・趙の兵を会せしめ、辺を巡ると称し、直ちに其の城に入る、行友之を覚えず。既にして詔を出して之を示し、族を挙げて闕に赴かしむ、行友蒼黄として命を聴く。既に至り、侍御史李維岳を命じて就第して之を鞫せしむ、実を得、詔を下して切責し、従前の官爵を削奪す。勒して私第に帰らしむ。仍って其の部下数人を戮し、使を遣わし馳せて狼山に詣らしめ、其の尼師の屍を輦して之を焚く。行友の弟易州刺史方進・兄の子保塞軍使全暉皆闕に詣りて罪を待つ、詔して之を釈す。

四年秋、詔して行友の禁錮を免ず。未だ幾ばくもせず、郊祀の恩を以て、起して右龍武軍将軍と為す。乾徳二年、右監門衛大将軍に遷り、又左龍武軍大将軍に改む。太平興国六年、卒す、年八十、左衛上将軍を贈る。方進は徳州刺史に至る。子全照。

子 全照

全照、字は継明、蔭を以て殿直を補う、雍熙中京南巡検を授けられ、俄に幽州部署曹彬の麾下に隷し、供奉官・閤門祗候に遷り、静戎・威虜二軍監軍を歴任す。田重進に従い賊を撃ち功有り、就いて西京作坊使を加えられ、兼ねて威虜軍を知り、連ねて広韶・鄜延二路都巡検使と為る。淳化五年、兵を率いて李継隆と綏州を克ち、因って張崇貴等と同しく之を戍守す。俄に屯兵を夏州に護り、兼ねて州事を知る。召還され、登萊路都巡検使と為り、左蔵庫使・延州監軍兼阿都関盧関路都巡検事に遷る。

咸平初、人りて軍頭引見司を掌る。二年、如京使を加えられ、涇原路鈐轄兼安撫都監と為り、是の冬幷・汾等州都巡検使に徙る。三年、順安軍知軍に改め、代還し、復た環慶路鈐轄と為り、李継和と霊州道路を規度す。四年、西上閤門使を加えられ、復た環慶路鈐轄と為る。五年、将に綏州を城せんとし、慕興を以て綏州路部署と為し、全照を鈐轄と為す。既にして又全照の素より剛執、興と協わざるを慮り、乃ち曹璨を以て之に代う。既に兵夫二萬餘を調う、全照其の便ならざるを言う、乃ち罷む。又嘗て河北に地を度ることを命ぜらる、全照言う、河に沿う高阜に城堡を分置し屯戍すべき者は、寧辺軍の南・武強県の側凡そ二処、上役を興すを重んじ、止めて安平の南に営せしめ、祁州に徙置す。俄に天雄軍府を知る。六年夏、上防秋禦戎の要を裁定し、寧辺軍部署を命ぜられ、兵八千を領して要害の路を扼せしむ。全照の人を陵ぐを好むを以て、其の嘗て保薦する所の者王徳鈞・裴自栄を取って共に事に与からしむ。

景德元年、上澶淵に幸し、駕前西面邢洺路馬歩軍鈐轄兼天雄軍駐泊を命ぜられ、兼ねて東南貝・冀等州鈐轄を管勾す。全照言う、「若し敵騎南に逼り魏城せば、但だ騎兵千百を得ば、必ず能く奇を設けて勝を取らん。」上其の忠果を賞し、乃ち詔を伝えて都部署周瑩に、若し全照賊を撃たんと欲せば、即ち兵を分けて之に給せしむ。既にして辺騎果たして府城に逼る、全照之を拒ぎ退く、真宗使を遣わし労慰す。時に契丹和を請い、朝廷曹利用を遣わし其の行帳に就き事を議せしむ、全照誠懇に非ざるを疑い、判府王欽若を勧めて留めて遣わさず、故に徳清軍守る能わず、吏民多く賊の害する所と為る。契丹境を出るに及び、北面の将帥師を還し並びに府城に至る、全照令して以て次に双行して門に入らしむ、魏能其の約に従わず、兵馬を率いて坌入す、全照城楼に坐して弓を引いて之を射る。欽若朝に入り就いて命を受け、全照軍府事を知り、城守の労を以て、検校工部尚書を加えられ、食邑三百戸を増す。鎮州に徙る。召還され、東上閤門使に進み、英州刺史を領す。

全照は体つきが短く精悍で、兵事に通じ、厳格にして毅然と衆を整えたが、性剛直で気性を任せ、専ら刑罰を用いた。中書が初め厳州刺史に擬進したところ、上(皇帝)は言った、「全照は深刻で、常に人が厳格な察しをもって己を議することを慮る。今この州を授けるのは、いささか譏誚に渉るようである」と。そこで改めた。三年、邠寧環慶都部署となった。趙徳明が帰順すると、朝議は西辺の戍兵を減らし、近地に屯させようとしたが、全照は辺防に備えなきべからずとして、直ちに詔に奉じなかった。上は言った、「全照は好勇で多言の者である。徳明の使者は既に闕下に至っている。また何を慮るというのか」と。そこで全照を徙めて永興軍府の知事とし、なお四方館使を拝した。西方の師が移屯して府に至ると、全照に兼ねて駐泊鈐轄を命じた。全照は許州に別荘があり、この州を管轄することを求めたので、これを許可した。大中祥符年中、引進使に遷った。一年余りして表を上して帰朝を求め、閣門・客省・四方館事を掌ることを命じられた。四年、車駕が西幸した際、留まって新城都巡検となったが、間もなく卒した。享年六十。

論じて曰く、五代の末、辺境の安まらざること久しかりき。太祖の興り、遠略に勤めざりしといえども、向の陸梁跋扈して制すべからざりし者は、ことごとく忠を竭くし節を效し、奔走僵仆するも避けざりき。豈に人心の異なる有らんや。まことに威徳の並用し、控御の道有るによるなり。折氏は府谷を拠有し、李彜興の夏州に居るに、初め異なること無かりき。太祖はその嚮化を嘉し、世襲を許す。世卿の嫌い無きにしも非ざれど、従阮より下、継いで名将を生み、世に忠貞を篤くし、足って西北の捍たり。宋に負うこと無しと謂うべし。承美・継周は、種落に分蒞し、また能くその職を世にしたる者なり。継業は賊叛の族より出でしといえども、循良の風有り。方諫・行友は遼・晉の間に介在し、両端を持して将相を取るも、終に首鼠をもって咎を獲たり。それ諸々の異端の害なるか。全照は職として禁衛に親しみ、素より厳果と称せられしも、兵を弭するの利に昧く、君子の与せざるところなり。