折徳扆
折徳扆は、代々雲中に居住し、大族であった。父の従阮は、晋・漢以来、単独で府州を拠点とし、西北を押さえ、中国はこれに頼った。周に仕えて静難軍節度使に至った。その府州鎮守の時、徳扆を馬歩軍都校に任命した。広順年間、周の世宗が府州を永安軍に昇格させ、徳扆を節度使とした。時に従阮は邠寧を鎮守し、父子ともに節度使の任を帯び、当時の人はこれを栄誉とした。
顕徳年間、徳扆は軍を率いて河市鎮を攻め落とし、幷州軍五百余級を斬首した。朝廷に入朝し、その弟の徳愿に州の事務を代行させた。時に世宗が南征し、帰途に通許橋に駐留した際、徳扆は迎えて謁見し、さらに内地への移住を請うた。世宗は彼が平素より蕃族の情を得ているとして、許さず、手厚く賜物を与えて帰還させた。徳扆が未だ到着しないうちに、徳愿がまた沙谷砦において幷州軍五百余を破り、その将の郝章・張釗を斬った。
子 御勳
子 御卿
御卿は、幼くして節院使に補任され、御勳が州事を掌る時、兵馬都校に任命された。御勳が転鎮すると、召されて閑廄副使・知府州となった。太宗が河東を征伐した時、御卿に尹憲と共に屯兵を率いて嵐州を攻撃させ、また岢嵐軍を破り、その軍使の折令図を生け捕りにして献上させた。ついに嵐州を陥落させ、またその憲州刺史の霍翊を殺し、さらにその将の馬延忠ら七人を生け捕りにした。崇儀使に昇進した。
一年余り後、御卿は病に罹った。徳威が諜報でこれを知り、かつ李継遷に唆され、兵を率いて侵入し、子河汊の戦いの報復をしようとした。御卿は病をおして出戦した。徳威は彼が来たと聞き、進むことを敢えなかった。時に病が甚だしくなり、その母が密かに人を遣わして帰還を促したが、御卿は曰く、「代々国恩を受け、辺境の敵寇が未だ滅びないのは、御卿の罪である。今、敵に臨んで士卒を棄てて自分だけ楽をすることはできない。軍中に死ぬのが本分である。太夫人に申し上げよ、我を思うなかれ、忠と孝は両全し難い」と。言い終えて涙を流した。翌日卒去。享年三十八。上はこれを聞き、長く悼み惜しみ、侍中を追贈し、その子の惟正を洛苑使・知州事とした。惟正が帰朝すると、その弟の惟昌がこれを継いだ。
惟忠は、字を藎臣といい、初め兄の惟信が戦死したため、西頭供奉官に補任され、閣門祗候に抜擢された。惟昌が卒去すると、惟忠を六宅使・知府州兼麟府路都巡検使とし、普州刺史を領せしめた。再び左蔵庫使に昇進し、真に嘉州刺史に任じられ、資州刺史に改め、簡州団練使に進んだ。母の喪に服したが、起復して雲麾将軍となり、卒去した。
惟忠は軍事に通じていた。天聖年間、契丹と夏国が国境で兵を合わせ、婚姻を口実としたが、惟忠はその実情を探り、配下を率いて備えに行き、士卒に軽挙妄動を戒めた。ある夕方、風塵が立ち込め、騎兵が営中に走り込んできたので、敵の襲来と思われたが、惟忠は堅く臥して動かず、ゆるゆると命じてこれを捕らえさせると、数頭の駄馬を得た。これは敵が放ったものであった。死後、その弟・甥・子孫七人を登用し、その子・継宣に州の政務を嗣がせた。後年、特に惟忠を耀州観察使に追贈した。
継祖は字を応之といい、右侍禁より西染院使に遷り、累転して皇城使・成州団練使となった。政務に臨むこと二十余年。書籍を賜るよう奏上すると、仁宗は『九経』を賜った。韓絳が河東兵を発して囉兀に城を築く際、継祖は先鋒となり、敵陣深く入り、部落八百戸を降した。解州防禦使を加えられ、卒去した。継祖には州事を嗣ぐべき子がいたが、兄の子・克柔に授けるよう請うた。詔してこれに従い、その三子の官を進め、二孫を借職に登用した。
弟の継世は、若くして軍に従い、延州東路巡検となった。嵬名山が内附する際、継世は事前にこれを知り、その子・克懃を遣わして种諤に報せた。諤はこれにより綏州を取った。継世は騎兵・歩兵一万を率いて懐寧砦に軍し、晋祠谷に入り、銀川に向かい、名山の衆一万五千戸を大理河に居住させた。夏人が来攻し、再戦してともに勝利した。諤が罪に問われ獄に繋がれると、兵を継世に託して行き、ついに名山とともに綏州を守り、功績により忠州刺史を領した。韓絳に囉兀に城を築いて横山を撫し、これにより河南を取る策を図上して説くと、絳はこれをよしとした。左騏驥使・果州団練使のまま卒去した。諸司使には賻礼の規定がなかったが、詔して継世を蕃官として、辺境を守り功績があったため、特にこれを給した。従子に克行がいる。
曾孫 克行
克行は字を遵道といい、継閔の子である。初め軍府に仕え、名を知られていなかった。夏人が環慶を寇した際、种諤がこれを防ぎ、詔して河東に出師して援護させた。克行は行くことを請うた。諤は兵三千をもって糧道を護衛させ、葭蘆川で戦い、先鋒として敵の首級四百を斬り、千戸を降し、馬畜は万を数えた。諸老将は驚いて言った、「真の折太尉の子である」と。知府州に抜擢された。
秦兵が夏国を討つ際、張世矩が河外の軍民を率い、克行もこれに従った。朝廷の議論では守臣が自ら行くのは難しいとし、詔して克行に兵を選んで世矩に隷属させた。克行は抗疏し、部落を率いて先駆けたいと願ったが、返答がないうちに、管鑰を委ねて西進した。大酋の咩保呉良が一万騎をもって追跡してきた。克行は後衛となり、賊の半数が隘路を渡ったところで、攻撃を放ち大破し、咩保呉良を殺した。軍が還ると自らを弾劾したが、問わずに釈放された。王中正が塞外に出ると、克行は先に宥州を抜き、出撃するごとに必ず勝ち、夏人はこれを畏れ、左廂兵を増強し、専ら折氏に対抗させた。
太原の孫覧が葭蘆に城を築くことを議し、諸将の議論は多く合わなかった。克行を召して策を問うと、直ちに吐渾河に兵を駐め、部隊を規律し、深く窮追討伐する態勢をとった。敵は疑って動かなかった。工事が完了すると、また津慶・龍横川に入り、三千の首級を斬った。
詔して河東に八砦を進めて築き、鄜延への通路を開かせた。延州の帥臣が秦希甫を遣わして共に議した。克行は両路が併力し、遠い所を先にすべきと請うた。希甫は言った、「近きより遠きに及ぶは、法なり」と。克行は言った、「然らず、事には奇正あり。今、士気の鋭きに乗じ、利は速やかなるにあり。故に遠き役を先にして、その不意に出ず。もし徐々に図れば、士心はかつて怠らん」と。希甫は認めず、二つの意見をともに上奏したが、ついに克行の策を用いた。城が完成すると、間者が敵の来襲を報じ、軍中は皆戒厳したが、克行はこれを止めて言った、「彼ら自ら騒いでいるだけである」と。やがてその通りであった。
克行は辺境に三十年、士卒をよく撫で、戦功が最も多く、羌人は彼を『折家父』と呼んだ。官は秦州観察使に至り、卒去し、武安軍節度使を追贈された。子の可大は栄州団練使・知府州となった。従子に可適がいる。
可適はまだ元服せずして勇気があり、馳射は習わずして能くした。鄜延の郭逵がこれを見て、歎じて言った、「真の将種なり」と。朝廷で試すよう推薦し、殿侍に補され、延州に隷属した。种諤に従って塞外に出ると、敵の騎兵が彼を年少と侮り、可適は進んで戦いを求め、その首を斬り、馬を取って還り、ますます名を知られた。米脂の役では、夏人と三角嶺で戦い、多くの首級を得、また蒲桃谷の東でこれを破った。兵が長く食を得られず、千人が集まり、軍門で騒ぎ立てた。ある者はこれを討ち取って功としようとしたが、可適は言った、「これは飢えにより逃げただけで、反乱ではない」と。単騎で出て詰問して言った、「お前たちはどうしてここまでしたのか、父母妻子を思わず、異境の鬼となることを甘んじるのか」と。皆、顔を向け直して声を上げて承諾し、涙を流して再生を謝し、それぞれ帰還させた。
羌・夏人十万が侵入した。可適は先にその烽火台の守卒の姓名を得て、首領に偽装して巡視し、呼び出して塞外で斬ったため、烽火が伝わらなかった。そこで甲を巻き急行し、尾丁磑でこれを大破した。帰途、檉楊溝に駐屯し、正午に営を駐め、騎兵を分けて西山を占拠し、言った、「もし彼らが我が後を追えば、腹背に敵を受けて必ず敗れる」と。果たして全軍が来襲した。可適の率いる兵はわずか八千であったが、転戦して高嶺に至り、間道より洪徳に向かい、帰路を遮る伏兵を設けた。敵が至ると、伏兵が発起してこれを衝き、その国母は山を越えて遁走し、輜重を焼き棄て、帷帳や首飾りの類すらも取り戻さず、衆は互いに踏み躙られ、崖や澗に赴いて死ぬ者が積み重なった。前後の功績により、皇城使・成州団練使・岷蘭州鎮戎軍知事に至った。
嵬名阿埋・昧勒都逋は、ともに夏人の傑出して狡猾な実力者であった。詔して可適に密かにこれを図らせた。ちょうど二酋が畜牧を名目に国境で会おうとした。可適は間者によりこれを知り、兵を遣わして夜襲し、ともにその族属三千人を俘虜とし、ついに天都山を取った。帝は文徳殿に臨んで賀を受け、その地を西安州とし、可適を東上閤門使・洺州防禦使・涇原鈐轄・知州事に遷し、真に和州防禦使を拝し、明州観察使に進め、副都総管とした。
帥たる鐘傳が辺境を行き、敵に隔てられたが、軽騎を率いてこれを救い出し、帰還した。傳が霊武を取ることを議し、環慶も出師を請うたので、可適に命じて万騎を将いて往かせ、ただちに霊州川に迫った。夏人は老幼を扶け抱え、夜中に州城に入り、翌日には捕虜・鹵獲が甚だ多かったが、慶の兵は至らず、引き返した。詔して人をして覲見せしめ、帝は傳の策を以て訪うた。対えて曰く、「得るは易く、守るは難し。先ずその地を侵して弱らせ、我が藩籬既に固まりて後、図るべし」。帝曰く、「卿の言、是なり」。武安軍節度観察留後・歩軍都虞候に進む。
大いに蕭関を築城し、傳と議して齟齬す。踏口にて数百の師を覆すに会い、傳これを劾し、鄭州観察使に貶す。俄かに衛州を知り、淮康軍節度使を拝す。転運使が平夏・通峡・鎮戎・西安の四砦に分かち場圃を築き、芻粟五百万を置くことを請う。可適は費大なるを以て難しとし、また車牛を借りて運ばんと欲し、及び十万斛を熙河に致さんとす。皆その意に背き、乃ち疑謗を中にして、佑神観使に召す。明年、復た渭州と為すを以てし、その子彦質に命じて直秘閣参軍事と為し、数月にして卒す。年六十一。彦質は、紹興中に簽書枢密院と為り、別に傳あり。
馮繼業
馮繼業、字は嗣宗、大名の人。父は暉、朔方節度、衛王に封ぜらる。継業は幼くして敏慧、度量あり、父の任により補せられて朔方軍節院使と為り、父に随いて邠・孟を歴任し、及び再び朔方を領するに及び、皆牙職を補す。周の広順初、暉疾あり、継業はその兄継勲を殺さんと図る。暉卒し、遂にその父に代わりて朔方軍留後と為る。郊祀の恩を以て、霊州大都督府長史を加え、朔方節度・霊環観察・処置・度支・温池榷税等使に遷る。
恭帝の時、継業は既に兄を殺し父に代わりて鎮を領し、頗る驕恣にして、時に兵を出して羌夷を劫略す。羌夷附かず、また士卒を撫するに恩少なく、継業はその変を為さんことを慮り、太祖が鎮に居る時常に給事を得たるを以て、乃ち予めその妻子を闕下に徙す。
王承美
景德初来朝し、その辺を守る歳久しきを以て、本州防禦使に遷して還す。承美の内属より以来、給奉は蕃官の例に同じ。是に至り、特詔して月に五万を増す。尋いて州城に孔子廟を置くことを請う。詔してこれを可とす。未幾疾に被り、中使を遣わして医を挟みてこれを視る。大中祥符五年、卒す。恩州観察使を贈らる。六年、その子文宝・孫懐筠を録して官を以てす。
初め、承美はその長孫文玉を養いて子と為し、奏して殿直に署す。及び卒し、その本族の首領上言して、文玉は軍政に暁達す、請う令して承美の任を襲わしめんと。蕃漢に下して議せしむ。議同じく、侍禁・知州事と為す。文玉の父文恭は時に侍禁と為り、沂州に在り、表してその事を訴う。詔して文恭を供奉宮に改む。九年、承美葬る。詔して帛緡・米麴・羊酒を以てその家に賜う。
李継周
李継周、延州金明の人。祖は計都、父は孝順、皆金明鎮使と為り、継周嗣いで本族を掌る。
李継福なる者は、亦た継周と同時に帰順し、永平砦茭村軍主を授けられ、戦功を以て歴任し帰徳将軍に至り、順州刺史を領し、内殿崇班・新帰明諸族都巡検に至る。
孫行友
孫行友は、莫州清苑の人、世農を業とす。初め、定州の西二百里に狼山と云う者有り、易州の中路に当たり、旧より城堡有り、辺人寇を避くるに之を頼む。山中の蘭若に尼有り、姓は孫氏、名は深意、術有りて衆を惑わす。行友の兄の子方諫、之を名付けて姑帥と為し、事えて甚だ謹みたり。尼坐亡するに及び、行友益々其の事を神とし、因って其の術を以て香燈を然し、民を聚めて漸く衆と為る。晋の少帝契丹と好を絶つより、辺州転輸に困しみ、逋民往々方諫に依り、推して以て帥と為す。方諫は主帥の捕逐を懼れ、乃ち表して朝に帰し、因って署して東北面招收指揮使と為し、且つ院額を賜いて「勝福」と曰う。契丹軍来る毎に、必ず其の徒を率いて之を襲撃し、鎧仗・畜産得る所漸く多く、人益々依りて以て難を避く。易・定の帥朝に聞こゆ、因って方諫を以て辺界遊奕使と為し、行友之を副く。是より侵軼を捍禦し、多く殺獲有り。勝に乗じて祁溝関に入り、庸城を平らげ、飛狐砦を破り、契丹頗る之を畏る、辺民千餘家之に頼りて以て患無し。然れども亦た陰に両端を持し、以て自固を図る。已にして晋師律を失い、薊人契丹を道いて中原を陷るるは、方諫の密かに構うる所なり。契丹方諫に定州節度を授け、行友に易州刺史を授く。尋いで蕃将耶律忠を以て雲州に於て方諫に代わらしむ、方諫命を受けず、帰りて狼山を保つ。契丹北に帰り、山中を焚劫す、方諫狼山より衆を率いて復た定州を保ち、漢に帰命し、行友に易州刺史を授け、行義に泰州刺史を授く。弟兄掎角を以て居り、寇入る毎に、諸軍鎮壘を閉じて坐視し、一も得る所無し。
行友嘗て都校王友遇を遣わし石河に於て巡警せしむ、契丹と遇い、百余騎を殺し、又嘗て其の刺史蔡幅順・清苑令王璉を獲たり。乾祐中、契丹復た塞を犯す、行友之を禦ぎ、数百人を俘殺す。周の太祖北征し、行友道を献じ俘馘人馬を以て求めて見えんとし、且つ自ら効わんことを請う、廼ち厚く賜予を加え、之を軍門に留む。周祖命を受くるに及び、行友屢上言し契丹の離合を偵い得、勁兵三千を得て、間を乗じて幽州を平定せんことを願う、乃ち方諫を移して華州を鎮めしめ、行友を以て定州留後と為す。顕徳初、正に節鉞を授く。世宗河東より還り、検校太傅を加う。六年、世宗北征し、行友契丹の易州を攻め下し、其の刺史任欽を擒えて以て献ず。
子 全照
全照、字は継明、蔭を以て殿直を補う、雍熙中京南巡検を授けられ、俄に幽州部署曹彬の麾下に隷し、供奉官・閤門祗候に遷り、静戎・威虜二軍監軍を歴任す。田重進に従い賊を撃ち功有り、就いて西京作坊使を加えられ、兼ねて威虜軍を知り、連ねて広韶・鄜延二路都巡検使と為る。淳化五年、兵を率いて李継隆と綏州を克ち、因って張崇貴等と同しく之を戍守す。俄に屯兵を夏州に護り、兼ねて州事を知る。召還され、登萊路都巡検使と為り、左蔵庫使・延州監軍兼阿都関盧関路都巡検事に遷る。
論じて曰く、五代の末、辺境の安まらざること久しかりき。太祖の興り、遠略に勤めざりしといえども、向の陸梁跋扈して制すべからざりし者は、ことごとく忠を竭くし節を效し、奔走僵仆するも避けざりき。豈に人心の異なる有らんや。まことに威徳の並用し、控御の道有るによるなり。折氏は府谷を拠有し、李彜興の夏州に居るに、初め異なること無かりき。太祖はその嚮化を嘉し、世襲を許す。世卿の嫌い無きにしも非ざれど、従阮より下、継いで名将を生み、世に忠貞を篤くし、足って西北の捍たり。宋に負うこと無しと謂うべし。承美・継周は、種落に分蒞し、また能くその職を世にしたる者なり。継業は賊叛の族より出でしといえども、循良の風有り。方諫・行友は遼・晉の間に介在し、両端を持して将相を取るも、終に首鼠をもって咎を獲たり。それ諸々の異端の害なるか。全照は職として禁衛に親しみ、素より厳果と称せられしも、兵を弭するの利に昧く、君子の与せざるところなり。