宋史

列傳第十一 王景 王晏 郭從義 李洪信 武行德 楊承信 侯章

王景

天福初年、相州刺史を授かる。范延光が鄴に拠って叛くと、属郡は多く脅迫に従ったが、王景は独り兵を分けて拒み守り、晋の高祖こうそはこれを嘉し、耀州団練使に遷す。交代の時、晋の高祖が鄴に行幸し、留めて京城巡検使とし、洺州団練使に改める。開運初年、侍衛馬軍左廂都校を授かる。二年、契丹が南侵し、少帝が澶淵に行幸すると、王景は高行周らと共に戚城で契丹の軍勢を大破し、侍衛馬軍都指揮使・鄭州防禦使を兼ねて遷し、出て晋州巡検使・知州事となり、横海軍節度使に拝される。契丹が汴に至り、その党を以て王景に代える。王景は帰還し常山に滞在し、契丹主が欒城で崩じたと聞くと、即ち間道を経て帰鎮し、関を斬って入り、契丹は遁走した。

漢の乾祐初年、同平章事を加える。契丹が飢饉に遭い、幽州の民多くが関を越えて食を求めて来たが、滄州の境に至った者は五千余人、王景は善く懐撫し、詔して田を与えて処置した。

周の太祖は微時に王景と親善し、即位すると、兼侍中を加える。王景は行伍より身を起こし、元来智略はなかったが、政に臨んで苛酷を尚ばず、民に訴訟があれば必ず面詰し、大過に至らなければ諭して釈放し、胥吏に動揺させられず、これにより部民はこれを便利とした。広順初年に入朝し、民の周環ら数百人が道を遮って留めようとしたが果たせず、王景の馬鐙を截る者もあった。間もなく王景を護国軍節度使とし、歳余りして鳳翔に遷鎮する。顕徳初年、褒国公に封じ、開府の階を加える。世宗が即位し、兼中書令を加える。先に、秦・鳳がしょくに陥ち、州の傍らの蕃漢戸が闕に詣でて収復を請うたので、世宗は王景と向拱に命じて兵を率い大散関より出て進討させ、連続して砦柵を陥とし、遂に王景を西面行営都部署とし、上邽において蜀軍を大破し、数万級を斬首した。この秋、秦州は降伏した。翌年、王景を秦州に遷鎮させ、西面縁辺都部署を兼ねる。恭帝が即位し、涼国公に進封する。

宋の初年、守太保を加え、太原郡王に封ずる。建隆二年春来朝し、太祖は宴賜を加等し、また鳳翔節度使・西面縁辺都部署とする。四年、卒す。年七十五。太傅を贈り、岐王を追封し、諡して元靖という。

初め、王景が晋に奔った時、妻は坐して誅戮に遭い、二子は逃れて辛うじて免れた。晋の高祖はこれを厚く遇し、賞賜は万計に及び、嘗て王景に欲する所を問うと、対えて曰く「臣が国に帰して以来、恩を受くること隆厚、誠に欲する所無し」と。固く問うと、王景は稽顙して再拝し曰く「臣、昔卒たりし時、嘗て胡床を負って隊長に従い出入し、屡々官妓の侯小師の家を過ぎ、心甚だこれを慕う。今妻誅され、誠に小師を得て妻と為すに足れり」と。晋の高祖は大笑し、即ち小師を以て王景に賜う。王景は甚だこれを寵嬖し、後に累ねて楚国夫人に封ず。侯氏は嘗て王景の金数百両を盗み、旧人に私かに遺す。王景は知りながら責めず。

性謙退で、節を折りて士に下り、朝廷の使節が至る毎に、卑位であっても必ず階を降りて送迎し、周旋して礼を尽くした。左右或いは曰く「王の位は尊崇なり、自ら謙抑する無かれ」と。王景曰く「人臣は君命を重んず、固より是くの如くすべし、我は惟う、謹まざるを恐るるのみ」と。初めて郡王に封ぜられた時、朝廷は吏部尚書張昭を以て命を将う。王景は特に礼を加えて重んじ、一万余緡を以て張昭に遺す。左右或いはその過厚を言うと、王景曰く「我が行伍の間に在りし時、即ち張尚書の名を聞く。今我に使いするは、是れ朝廷の我を厚くするなり。豈に往例を以て限りと為すべきや」と。

王景の子は廷義、廷睿、廷訓。廷訓はぎょう衛大将軍に至り致仕す。

廷義は供奉官より起家し、如京副使に改め、騎射に善くするを以て、周の世宗に擢てられて虎捷都虞候と為り、龍捷右第二軍都校・珍州刺史を兼ねて遷る。宋初、内外馬歩軍副都軍頭に改む。乾徳四年、韓重贇と共に師を率いて滑州霊河の新堤を護治す。六年、京城の増治に当たり、また廷義に命じてその役を董む。開宝二年、横州団練使を兼ねて加えられ、太原征伐に従う。廷義は性勇敢にして、自ら鼓を鳴らして士を城に乗せ、独り冑を免れ、矢がその脳に中りて顛倒し、一宿を経て卒す。年四十七。太祖は甚だこれを惜しみ、優詔を以て建雄軍節度使を贈る。

廷睿は性驕傲にして、好んで誇誕し、毎に言う「我は当に王景の子に代わるべし」と。聞く者皆これを笑い、因って目して『王当代』と為す。

王晏

晋の開運末、本軍都校の趙暉・忠衛都校の侯章らと共に陝州を戍る。契丹が汴に至り、その将劉愿を遣わして陝を占拠させ、恣に暴虐を行わしむ。王晏は趙暉らと謀りて曰く「今契丹南侵し、天下洶洶たり。英雄豪傑は固より時乗じて自ら奮うべし。且つ太原の劉公(劉知遠)の威徳遠く被わり、人心帰服すと聞く。若し劉愿を殺し河東に款を送り、天下の倡首と為らば、則ち富貴を取ること反掌の如し」と。趙暉ら然りとす。王晏は乃ち敢死の士数人を率いて夜城を踰え、府署に入り、庫兵を劫掠してその徒に与え、遅明、劉愿の首を府門外に斬る。衆は趙暉を帥と請い、侯章を本城副指揮使・内外巡検使兼都虞候と為す。その子漢倫を遣わして表を奉じて晋陽に至らしむ。時に漢の高祖は号を建つれども、威声未だ振わず、王晏らの来帰を得て甚だ喜び、即日に趙暉を保平軍節度使とし、侯章を鎮国軍節度使とし、王晏を絳州防禦使とし、仍って旧職を領す。既にして趙暉ら表して王晏の始謀の功を第一と為す。建雄軍節度使に遷す。漢の高祖が汴に入り、同平章事を加う。

周の太祖即位し、兼侍中を加う。広順元年、劉崇が晋州を侵す。王晏は関を閉めて出ず、城上に伏兵を設く。幷人はこれを怯懦と為し、競って堞を攀じて登る。王晏は伏兵を麾してこれを撃ち、顛倒して死する者甚だ衆し。遂に橋を焚きて遁走す。漢倫を遣わして北を追わしめ数十里、百余級を斬首し、漢倫を擢てて濱州刺史と為す。八月来朝し、周の太祖は王晏の家が彭城なるを以て、武寧軍節度使を授け、其の郷里を栄えしむ。三年、周の太祖が兗州を征し、張康鎮に次ぐ。王晏来朝し、馬七匹を献じ、襲衣・金帯を賜う。親郊の礼畢り、滕国公に封じ、開府の階を加う。世宗即位し、兼中書令を加う。

初めに、王晏が鎮に至ると、かつて共に盗賊を為した者を悉く召し寄せて金帛を賜り、ゆったりと酒を設けて語って曰く、「我が郷里は元来盗賊多く、我と諸君は昔嘗て之を為せり。後来の者は固より諸君の下に出ずべし、我が為に告諭し、令して復た為さしむるなかれ。若し改むる能わざれば、吾必ず其の族を尽く滅ぼさん」と。是より境内安静たり、吏民闕に詣でて留任を挙請し、晏が為に衣錦碑を立てんことを請う。世宗の初め、復た徳政碑を立てんことを請う。世宗、比部郎中・知制誥張正に命じて文を撰せしめて之に賜い、詔して其の郷里を改めて使相郷勳德里と為し、私門に戟を立てしむ。未だ幾ばくもせず、河南尹・西京留守に改む。顕徳三年、鳳翔節度に移る。六年、世宗に従い北征し、益津関一路馬軍都部署と為り、韓令坤之に副う、遂に三関を平らぐ。

太祖即位し、趙国公に進封す。李筠征伐に従い、師還りて、安遠軍節度に改む。乾徳元年、韓国公に進封し、上章して老を請い、太子太師を拝して致仕す。毎たび朝会に、中書門下班に綴らしむ。俄かに洛陽らくようの別墅に帰る。四年冬、卒す、年七十七。朝を三日廃し、中書令を贈る。

初め、晏が軍校たりし時、平陸の人王興と善くし、其の妻も亦互いに娣姒たり。晏既に貴ぶに及びて、乃ち興を薄くし、興平らかならず。晏の妻病む、興人に語りて曰く、「吾能く之を治せん」と。晏遽かに興を訪う、興曰く、「我医たる能わず、但だ公が陜州に在りし時は只一妻のみ、今妓妾甚だ衆し、糟糠を待つこと薄きに得ずや、夫人をして怏怏として疾を成さしむるか。若し女侍を斥け去らば、夫人の疾は立って癒ゆべし」と。晏以て己を謗るとなし、乃ち他事を以て誣い、悉く案じて其の夫妻を誅す。

西洛を守る日、白重贊河陽に鎮す、時に世宗淮南を征し、重贊幷人の隙に乗じて寇と為らんことを慮り、因って城壘を葺き、且つ晏と約して援と為さんとす。晏意三城を兼ねんと欲し、即ち漢倫と同率兵して之に赴く。重贊其の来るを聞き、拒んで納れず、人を遣わして之に語りて曰く、「公陜州に在りて已に大功を立て、河陽小城は枉駕を煩わすに足らず」と。慚じて対する能わず、遂に兵を引いて還る。

郭従義

晋の天福初め、始めて姓を郭氏に復す。事に坐して出でて宿州団練副使と為る。内艱に丁し北帰し、遂に太原に家す。漢祖鎮に在り、表して馬歩軍都虞候と為し、屡ひ師を率いて代北に於て契丹を破り、及び大号を建つるに及び、従義首めて其の謀を賛し、鄭州防禦使に擢で、東南道行営都虞候を充て、首軍を領して太行路より河を渡る。

漢祖汴に入り、以て河北都巡検使と為す。杜重威大名に拠りて叛く、以て行営諸軍都虞候と為し、重威降り、鎮寧軍節度と為る。趙思綰の叛くや、行営都部署と為り、戎装・器仗・金帯を賜う。師永興に至り、其の城を囲み、即ち従義を以て永興軍節度と為す。思綰糧尽き、城中人相食う、従義書を矢に繫ぎ、射て城中に入れ、思綰を説きて降らしめ、仍て朝廷に表し、華州節制を以て許さんことを請う。隠帝其の計に従い、即ち使を遣わして思綰を諭し、思綰門を開きて款を納る。翌日、従義軍容を具えて城に入り、候館の中に憩う、思綰入り謁す、即ち武士に命じて之を執らしめ、並びに其の党三百余人を悉く市に斬り、功を以て同平章事を加う。周の広順初め、兼侍中を加え、許州に移鎮す。顕徳初め、親郊し、検校太師を加う。世宗将に劉崇を征せんとし、従義適来朝す、因って扈従を請う、世宗甚だ悦び、天平軍節度に改め、即ち従いて符彦卿に命じて忻口に於て契丹を破らしむ。師還り、功を以て兼中書令を加う。四年、淮南征伐に従い、徐州に移鎮す。及び世宗自ら迎鑾より泗州に至り、行在に見ゆ。恭帝即位し、開府階を加う。

宋初、守中書令を加う。太祖揚州を征し、従義路に於て迎謁し、願わくば扈従せんと請う、允さず。乾徳二年、又た河中尹・護国軍節度と為る。六年、疾を以て京師に帰る。開宝二年、左金吾衛上将軍に改む。年を逾ぎ、上章して老を請い、太子太師を拝して致仕す。四年、卒す、年六十三、中書令を贈る。

従義性重厚にして、謀略有り、技芸多し、尤も飛白書を善くす。初め、思綰の叛くや、巡検使喬守温遁去し、姬妾悉く思綰に入る、思綰敗れ、従義之を尽く取る。守温従義に詣でて其の愛妾を求む、拒む敢えざれども、而して心之を銜み、遂に守温の逃遁の事を発し、棄市に坐す、人皆之を冤とす。従義撃毬を善くし、嘗て便殿に於て太祖に侍し、命じて之を撃たしむ。従義衣を易え驢に跨り、殿庭に馳驟し、周旋撃拂して、曲く其の妙を尽くす。既に罷み、上坐を賜い、之に謂ひて曰く、「卿の技固より精し、然れども将相の為す所に非ず」と。従義大いに慚ず。

子に守忠・守信有り。守忠は閑廄副使に至る。守信は字を宝臣と為し、頗る書を知り、士大夫と遊び、東上閣門使・知邢州に至り、卒す。子の世隆は比部員外郎と為る。世隆の子に昭祐・承祐有り。昭祐は閣門祗候と為る。

曾孫 承祐

承祐は、字を天錫と為し、舒王元偁の女を娶り、西頭供奉官を授かる。仁宗皇太子と為り、承祐左清道率府率・春坊左謁者を補し、真宗玉石の小牌二を為し、銘を勒して之を戒飭す。帝即位し、西院副使兼閣道通事舎人・勾当翰林司に遷り、西上閣門副使に遷る。御酒を盗み及び尚方の金器を用うるに坐し名を除かれ、岳州に編管し、許州別駕に徙す。起きて率府率と為り、西京作坊使・勾当右騏驥院に遷る。院の大校路馬を試むる者、前に鞭を鳴らし御蓋を擁す、承祐代わって之を試む、其の狂僭此の如し。六宅使・象州団練使に進む。承祐性狡獪にして、東宮の恩に縁り、又た王邸の親を憑藉し、既に廢して復た用いられ、乃ち僭りて事を言い、或いは人の過失を指切し、同列之を『武諌官』と謂う。真に衛州刺史・知相州を授け、入りて群牧副使と為り、濰州団練使に改め、歴て曹・鄭・澶・鄆・貝州を知る。澶州兵馬総管に徙し、役卒に異謀有る者、廉得して奏を待たず、捕え斬る。再び澶州を知り、会に中使過ぐ、遽かに延び入れて管軍の闕補何人なるかを問う、使者曰く、「朝廷方に才武者を択ぶを聞く」と。承祐起ちて彊を挽きて自ら衒う、左右皆笑う。

入りて龍神衛四廂都指揮使と為る。父喪に以て、起復して真定府・定州等路副都総管と為る。諫官欧陽脩・余靖其の非才を論じ、知相州に改め、尋いで大名府副都総管に徙す。枢密使杜衍承祐の驕恣を悪み、奏して軍権を罷め、相州観察使・永興軍副都総管と為し、知邢州に改め、河陽兵馬総管に徙す。衍位を去り、復た進みて殿前都虞候・幷代州副都総管兼知代州と為り、邢州に徙す。諫官銭明逸承祐に廉守無きを言い、邢民素より之を厭苦す、相州に改め、秦鳳路副総管に徙す。累遷して建武軍節度使・殿前副都指揮使と為る。

まもなく宣徽南院使として応天府を判じた。府の城壁は完備せず、盗賊が来ても防ぐ術がなかったので、承祐は初めて南関を築き、沙・濉・盟の三河を浚渫した。亳州に移った。諫官が言うには、承祐は応天府において糧食を順序に従わずに支給し、かつ勝手に糧綱を留め置き、宣頭を批書し、戍還兵を発遣せず、法を越えて軽罪を杖配し、翰林の器物を借用し、出入りの際に旗槍を擁し、禁兵を以て周衛と同じくし、その行いは狂僭に渉り、人臣の礼を欠いている、と。宣徽南院使を罷免され、許州都総管となり、保静軍節度使に移鎮し、許州知州となった。

転運使蘇舜元が承祐に将帥の才があり、政事は龔遂・黄覇のようであると推薦した。帝は輔臣に言った、「あれは凡庸な人物である。監司が龔・黄に比するとは、何を根拠に信じるというのか」。鄭州知州に改められたが、赴任せず、急病で卒去した。太尉を追贈され、諡は密といった。承祐の赴任した所では、多く興作を行って煩擾を為し、百姓はこれを苦しんだ。

李洪信

晋の初め、興順左廂都指揮使となった。漢祖が禁軍を統率し、太原に移鎮すると、その麾下に隷属するよう奏上した。漢祖が陳州刺史・左護聖左廂都指揮使を領すると、まもなく岳州防禦使を加えられた。漢祖に従って鄴に降り、警扈の労により、侍衛馬軍都指揮使・武信軍節度使を授けられた。

乾祐年間、群小が権力を握り、心中憂懼を抱き、太后に軍職の解除を願い出て、鎮寧軍節度使として出鎮した。一年余りして、保義軍節度使に移った。初め、楊邠は元従功臣で方鎮となった者は政務に疎いとして、三司に命じて軍将を選び諸鎮の都押牙・孔目官に分補させたが、ある者は朝廷の選任を恃み、藩帥が制御し難かった。洪信は内難を聞くと、直ちに馬歩軍都校の聶召、奉国軍校の楊徳・王建・黄全武・楊進・翟本、右牙都校の任温・武徳、護聖都校の康審澄及び判官の路濤・掌書記の張洞・都押牙の楊昭𠡽・孔目官の魏守恭を召し寄せ、ことごとく殺し、謀反を誣奏した。

周の広順初年、同平章事を加えられた。洪信は常にこの妄殺を自ら悔い、革命の後は内心安からず、周祖はなお漢の太后の故をもって、京兆に移鎮させた。本城の兵は千に満たず、王峻が西征して陝州に至り、晋州救援を口実に、さらに数百人を取って行った。劉崇が北へ遁走すると、禁兵千余を派遣して京兆に駐屯させたので、洪信はますます懼れ、直ちに入朝を請い、藩鎮の任を懇願して辞し、左武衛上将軍に拝された。世宗が即位すると、左驍衛上将軍に遷った。顕徳五年、右龍武軍統軍に改め、世宗に従って北征し、合流口部署となった。

乾徳五年、左驍衛上将軍に改められた。開宝五年に致仕を請い、本官のまま致仕した。八年、卒去。享年七十四。

洪信には他に才術がなく、ただ外戚として将相の位に至った。財を斂めて巨万を累ねたが、吝嗇は特に甚だしかった。当時、節度使は皆広く帳下の親兵を置いたが、洪信のみが最も寡少であった。弟に洪義がいる。

弟 洪義

洪義、本名は洪威、周祖の諱を避けて改めた。漢祖が太原を鎮守した時、親校に補された。開国すると、護聖左廂都校・岳州防禦使を授けられ、侍衛馬軍都指揮使・武信軍節度使に遷った。

少帝が即位すると、鎮寧軍節度使に改められた。ちょうど楊邠・史弘肇らを誅殺する際、侍衛歩軍都指揮使の王殷が澶州に駐屯していたので、供奉官の孟業に密詔を持たせて洪義に命じてこれを殺させ、また護聖都指揮使の郭崇らに命じて鄴において周祖を害させようとした。洪義は元来怯懦であり、王殷に気付かれることを慮り、遷延して敢えて発せず、急いで孟業を引いて王殷に会わせた。王殷は孟業を拘禁し、密詔を周祖に送った。周祖が起兵すると、少帝はまた洪義に命じて河橋を扼させたが、周祖の兵が到着すると、洪義はそのまま降伏した。漢室の滅亡は、洪義によるものである。

広順初年、権知宋州節度使となり、まもなく正式に帰徳軍節度使に拝され、同平章事を加えられ、権知許州となった。一年余りして、安州に移鎮した。顕徳初年、検校太師を加えられた。世宗が即位すると、兼侍中を加えられ、まもなく青州に移った。六年夏、京兆尹・永興軍節度使に遷った。恭帝が嗣位すると、開府儀同三司の階を加えられた。

宋の初め、兼中書令を加えられ、鄜州に移った。乾徳五年、代わって帰京した。卒去。享年五十九。太師を追贈された。

武行徳

晋の天福初年、奉国都頭を授けられ、指揮使に遷り、控鶴指揮使・寧国軍都虞候に改められた。開運年間、契丹が汴に至り、行徳は捕らえられたが、契丹に偽って自ら効力を願い出た。契丹はこれを信じ、ちょうど数十艘の船に鎧甲を載せ、行徳に将校軍卒を率いて自国に送還させようとした。汴を遡って河陰に至ると、行徳は諸将に言った、「我らは国の厚恩を受けながら、契丹に制せられている。故郷を離れ辺塞に投じ、異域の鬼となるよりは、諸君と共に兇党を駆逐し、共に河陽を守り、暫く契丹の兵が退くのを待ち、天命の属する所に帰順し、功業を立て、禍乱を定め、富貴を図るのはどうか」。衆は平素より行徳の威名に服しており、皆言った、「向かう所は命のまま、死を惜しまぬ」。行徳は直ちに契丹の監使を殺し、器甲を分け与え、汜水から倍道で河陽に抵った。契丹の節度使崔廷勳が兵を出して来拒したので、行徳は衆を麾いて逆撃し、朝から午まで死力を尽くして戦い、廷勳は大敗し、城を棄てて逃走した。行徳は遂に河陽を占拠し、府庫の物をことごとく将士に分け与え、行徳を推して州事を知らしめた。当時、契丹の兵はなお充満していたが、行徳は士卒を励まし、甲兵を繕い、上流を押さえ、士気はますます奮い、人望は彼に帰した。

漢祖(劉知遠)が太原に挙兵したと聞くと、即座に自ら河陽都部署を称し、弟の行友を遣わして間道より表を奉じて即位を勧めた。漢祖は奏上を覧て大いに喜び、即座に行徳を河陽三城節度使に任じた。漢祖が晋・絳より洛陽に至ると、行徳は境上に出迎え、配下の兵を率いて翼衛して京師に至り、河陽に還った。

乾祐年間、同平章事を加えられ、真定尹・成徳軍節度使に移った。広順初年、兼侍中を加えられ、まもなく忠武軍節度使に改められ、河南尹・西京留守に遷った。当時、塩を城内に持ち込むことは禁じられ、犯者は死刑に処せられ、告発者には厚賞が与えられた。洛陽の民家の老女が野菜を売りに城に入ろうとしたところ、しばらくして僧が老女から野菜を買おうとし、籠をひっくり返して見て、密かに塩を籠の中に置き、わずかな代金を払い、買わずに去った。老女が持ち込もうとすると、城門の守衛が塩を捜し出し、捕らえて府に連行した。行徳は、塩を包んだ袱紗が村の老女の所有物ではないのを見て、疑いを抱いて詰問した。老女は言った。「さきほど僧が城外で野菜を買い、長い間見てから去りました。」即座に僧を捕らえて取り調べたところ、関吏と共に賞を求めて誣告したことを自白した。行徳は老女を釈放し、僧と城門の守衛数名を斬った。人々は彼を神明の如く畏れ、部下も凛然とした。三年、父の喪に服したが、起復した。

顕徳初年、開府階を加えられ、譙国公に進封された。世宗が即位すると、中書令を兼ねた。初め、世宗が河東より還り、河陽に駐留した際、洛陽の城壁に欠損があるのを見て、修繕を命じた。行徳は部民一万余りを率いて城を完成させ、邢国公に封じられた。この秋、王晏に代わって武寧軍節度使となり、晏と互いに任地を交換した。先に、唐末に楊氏が淮甸を占拠し、甬橋より東南の汴水を決壊させて沼沢地と化していた。二年、南征を議するに当たり、行徳を遣わして配下の壮丁を率いさせ、古い堤防を疏導させ、東は泗上しじょうにまで達した。親征に際しては、行徳を濠州行営都部署とし、郡境において淮軍二千余を破った。まもなく師を率いて定遠に駐屯させてその城を脅かしたが、呉に敗れ、死者数百人を出し、行徳は単身で免れ、右衛上将軍に左遷された。五年、淮南を平定すると、再び行徳を保大軍節度使兼中書令に任じた。恭帝が即位すると、宋国公に進封された。

宋の初年、中書令を加えられ、韓国公に進封され、再び忠武軍節度使に任じられ、魏国公に改封された。乾徳二年、冬、安州に移鎮し、開府儀同三司を加えられた。開宝二年、入朝して太子太傅となった。太平興国三年、本官のまま致仕した。四年、卒去。七十二歳。太師を追贈された。

楊承信

開運初年、光遠が青州で叛くと、少帝は李守貞らを遣わして討伐させた。食糧が尽きて窮地に陥り、承信の兄承勲が父を脅迫して降伏させた。青州が平定され、光遠は死んだ。承信と弟の承祚は宮門に赴いて死を請うたが、詔により赦免され、承信は右羽林将軍、承祚は右驍衛将軍に任じられ、帰宅を許されて私邸で喪に服し、まもなく鄭州に安置された。初め、光遠は契丹に降って援軍を求めたが、兵が到着する前に光遠は降伏した。契丹が来寇した際、承勲は当時鄭州防禦使であったが、召し出してその罪を数え上げて殺した。承信を平盧軍節度使とし、父の職を継がせた。漢に仕えて安州・鄜州の二鎮節度使を歴任し、累進して検校太師となった。

周の広順初年、同平章事を加えられた。諸将が西の劉崇を討つ際、承信は上表して従軍を求めた。郊祀の恩典により開府階を加えられ、杞国公に封じられた。世宗が即位すると、韓国公に進封された。顕徳初年、淮南を征討し、濠州攻城副都部署となり、寿州北砦都部署兼知行府事に改められた。寿州が平定され、累戦の功績により、忠正軍節度使・同平章事に抜擢された。当時、州治を下蔡に移したが、承信はその城を増築し、さらに監軍の薛友柔を遣わして廬州の北で淮兵六百余を破らせた。恭帝が即位すると、魯国公に進封された。

宋の初年、兼侍中を加えられ、来朝した。李筠征討に際会し、命を受けて沢州西面都部署となり、李筠が平定されると、河中に移鎮した。乾徳元年、趙国公に進封された。二年、卒去。四十四歳。中書令を追贈された。

承信は身長八尺、風采が美しく、議論を善くし、かつ多芸多能であった。叛臣の子ではあったが、累代藩鎮を歴任し、政治に励んで苛酷でなかったため、終始富貴を保つことができた。その卒去に際し、蒲の民は上表して祠を建てることを請うた。その遺愛が人々に残っていたことが、ここから知られる。景德四年、その孫の松を録用して奉職とした。

侯章

契丹が中原に入った際、趙暉・王晏と謀り、契丹の将劉愿を斬り、漢祖に降伏の意を伝えた。漢祖が汴に入ると、鎮国軍節度使に抜擢された。乾祐初年、同平章事を加えられ、まもなく邠州に移鎮した。章は鎮守として善政はなく、上に傲り下を剥ぎ、貪婪で卑猥なことで知られた。現存する戸を逃亡戸と偽り、その租賦を横領し、さらに偽って奏上し、数千戸の貧民が租税を負って久しく拘禁され納税できないので、自分の俸禄で代納したいと願い出た。当時は寛大な方針であったため、詔で褒められた。副使の趙彦鐸が良馬を持っていたが、章が欲しがっても与えなかったため、彦鐸が謀反を企てたと誣告して殺し、これも放置されて問われなかった。まもなく検校太師を加えられた。

周の初年、兼侍中を加えられた。広順二年に入朝し、銀帛を献上して宴会の開催を請うた。周祖は左右の者に言った。「諸侯が来朝すれば、天子自ら宴を賜い、和楽を表すべきである。どうして彼らの貢奉を待ってそれを行うことがあろうか。」使者を遣わして改めて賜った。なお、有司に命じて今後藩鎮が進奉するものは受け取らないようにさせた。まもなく広政殿で宴を賜い、章はさらに銀千両・馬七匹を献上して長寿を祝ったが、また受け取られなかった。三年、鄧州節度使に任じられた。周祖が親郊すると、開府階を加えられ、申国公に封じられた。世宗が即位すると、兼中書令を加えられた。世宗が寿陽に親征した際、章を攻城水砦都部署とし、右衛大将軍王璨を副将とした。まもなく西北水砦都部署に移り、再び武勝軍節度使となった。

建隆元年八月、太子太師に任じられ、楚国公に封じられた。節度使を罷免されてからは、常に怏怏としていた。ある日、朝堂で旧知と晋・漢の間のことを話していると、時に章を軽んじる者がいた。章は声を荒げて言った。「遼主が病に倒れて帰還を謀った時、嵩山に避暑するよう上書した者がいた。私は粗野な者で、戦闘で富貴を取った。このような諂いへつらうことは、かつてしたことがない!」座中に恥じ入る者がいた。乾徳五年、卒去した。

論じて言う。王景らは微賤の時、あるいは盗賊となり、あるいは薪を負うまでに至り、五代の乱に遭い、軍功に奮い立ち、辺境の要地を重んじて拠った。宋が興り、北に向かって稽首すると、太祖は誠信をもって待遇した。当然、自ら安んじない者はないはずである。王景は利に趨って図りを改め、ついに滅族に至った。王晏・郭従義は怒りを遷して憤りを肆にし、人を誣いて死に至らしめた。侯章は藩鎮にあっては下を剥ぐ名があり、李洪義は肺腑の親戚であることを恃んで、外敵に対する凛然たる志がなかった。咎、孰れかこれより甚だしいものがあろうか!これらは皆、乱世の習いであり、尽く去ることのできないものである。武行徳は洛邑を守り、欺瞞を弁明して追究し、民は畏服した。顧みれば、諸人に優れていると言えようか。