韓令坤
父の韓倫は、若くして勇敢をもって成徳軍の兵籍に隷し、累遷して徐州下邳鎮将兼守禦指揮使となった。世宗は令坤の貴いことを以て、韓倫を陳州行軍司馬に抜擢し、令坤が陳州を領するに及んで、韓倫を許州に移した。職を罷められ、再び宛丘に居住し、多く不法をもって郡政に干渉し、私的に酒を醸造して市利を求め、民財を掻き集めたので、公私ともにこれを患った。項城の民武郁が闕に詣でてその事を訴えたので、殿中侍御史の率汀に命じてこれを按問させた。韓倫は詐って率汀に詔を受けて闕に赴くと報告し、率汀はこれを奏上した。世宗は怒り、追及して弾劾し、その罪状を明らかにしたところ、法に照らせば棄市に当たった。令坤が世宗に泣いて請うたので、遂に死を免じて海島に流された。顕徳六年、左驍衛中郎将となり、左監門衛将軍に遷った。宋の初め、磁州刺史に拝され、亳州団練使に転じた。乾徳四年、本州防禦使に改め、卒した。
世宗は宰相の李穀に命じて兵を将いて淮南を征伐させ、令坤ら十二将を従わせた。李穀が正陽に退いて守ると、呉人に乗ぜられた。令坤は宣祖・李重進と合兵してこれを撃ち、呉人を大いに破った。世宗が親征し、揚州に備えがないと聞くと、令坤及び宣祖・白延遇・趙晁らを遣わしてこれを襲撃させた。令坤は先に延遇に命じて精騎数百を率い、夜明け前に馳せ入らせたが、城中はこれを覚らなかった。令坤が続いて到着して民を撫でると、民は皆安堵した。南唐の東都副留守の馮延魯は僧となって寺に匿れていたが、令坤が求め捕らえ、行在所に送った。そこで令坤に州事を知らしめた。これにより泰州は恐れて城を以て降った。
時に呉越王の銭俶は詔を受けて常州・潤州を攻め、毗陵を包囲したが、かえって南唐に敗れた。南唐は乗勝して将の陸孟俊を遣わして泰州に迫り、周軍は守ることができず、孟俊は遂に蜀岡に進軍し、揚州に迫ったので、令坤はその城を棄てた。世宗は怒り、太祖と張永徳に命じて兵を率い六合に趨りこれを救援させた。令坤は援軍が至ると聞き、再び城に入って守り、孟俊の兵と戦い、これを大いに破り、孟俊を生け捕りにし、その将の馬貴を楚州の湾頭堰で破り、漣州刺史の秦進崇を生け捕りにした。間もなく向拱を縁江招討使とし、令坤をその副使として、寿州を陥落させた。帰朝して、検校太尉を加えられ、鎮安軍節度使を領した。世宗は再び淮右に幸し、楚州に駐蹕し、令坤に兵を率いて先に揚州に入ることを命じ、軍府事を権知することを命じた。揚州城は呉人によって毀たれていたので、詔して丁壮を発して別に新城を築かせ、令坤を修城都部署に任じた。
六年の春、令坤に命じて汴・亳の民をもって汴水を蔡に入れしめた。三月、世宗が北征しようとし、令坤に命じて龍捷・虎捷・驍武の兵を率いて先に大名に赴かせ、また王晏の副として益津関一路都部署とし、間もなく霸州都部署として、率いる所の兵をもってこれを戍らせた。恭帝が即位すると、検校太尉・侍衛馬歩軍都虞候を加えられた。冬、詔して北辺を防がせた。
乾徳六年、背中に疽が発して卒した。享年四十六。太祖は素服をもって講武殿において哀悼し、その子の慶朝を閑廄使に、慶雄を閑廄副使に録した。令坤は才略があり、治道を識り、太祖と共に周室に事え、情誼は親密であった。常山を鎮すること凡そ七年、北辺は以て寧らかであった。その卒を聞き、甚だこれを悼惜した。
初め、南唐は辺鎬を遣わして湖南を破り、馬希崇を分司として揚州に置いたが、令坤がこれを攻め取るに及んで、希崇は妓の楊氏を献じ、令坤は甚だこれを寵愛した。陸孟俊を生け捕りにし、械を付けて行在所に送らんとする時、楊氏が簾の間からこれを窺い見て、即ち胸を打って慟哭した。令坤が怪しんで問うと、楊氏は言った、「孟俊は往年潭州に入り、私の家の者二百人を殺し、ただ妾のみが希崇に匿われて免れました。どうかその意を遂げさせてください」。令坤は孟俊を詰問し、孟俊がその罪状を具にしたので、令坤はこれを殺した。
慕容延釗
慕容延釗は太原の人である。父の章は、襄州馬歩軍都校・開州刺史を領した。延釗は若くして勇幹をもって聞こえた。漢の高祖が興るに当たり、周の太祖がその佐命となり、延釗を帳下に隷させた。周の広順初年、西頭供奉官に補され、尚食副使・鉄騎都虞候を歴任した。
世宗が即位すると、殿前散指揮使都校・溪州刺史を領した。高平の戦いにおいて、左先鋒を督し、功により虎捷左廂都指揮使・本州団練使を授けられた。殿前都虞候・睦州防禦使に遷った。淮南征伐に従い、龍捷左廂都校・沿江馬軍都部署に改められた。帰朝して、再び殿前都虞候となり、出て鎮淮軍都部署となった。顕徳五年、世宗が迎鑾江口におられた時、呉人の舟数艘が東㳍洲に泊していると聞き、即ち延釗と右神武統軍の宋延渥に命じてこれを討たせた。延釗は驍騎をもって陸路より進み、延渥は舟師を督いて江に沿って進み、これを大いに破った。淮南が平定されると、殿前副都指揮使・淮南節度使に遷った。恭帝が即位すると、鎮寧軍節度使に改め、殿前副都点検を充任し、再び北面行営馬歩軍都虞候となった。
太祖が即位した時、延釗は重兵を握って真定に屯していた。帝は使者を遣わして旨を諭し、便宜を以て事を行うことを許した。延釗は韓令坤と共に率いる所の兵をもって辺境を按治し、鎮静をもって聞こえた。太祖はこれを嘉し、殿前都点検・同中書門下三品を加えられた。これは父の名を避けたためである。李筠が叛くと、初め王全斌と共に東路より会兵して進討することを命じられ、間もなく行営都部署・潞州行府事を知ることを命じられた。平定されると、侍中を兼ねて加えられ、詔して澶州に還った。
初め、延釗は太祖と親しく交わり、顕徳末、太祖殿前都点検に任ぜられ、延釗はその副となり、常に兄として事う。即位に及び、毎度使者を遣わして労問し、猶兄と呼びし。病臥に及び、御封の薬を以て賜い、その卒を聞き、慟哭すること久し。中書令を贈り、河南郡王を追封し、その子弟で官を授けられたる者四人を録す。
子に徳業・徳豊・徳鈞あり。徳業は衛州刺史に至り、徳鈞は尚食副使に至る。延釗の弟延忠は、内殿直・供奉西頭官都知を歴任し、磁州刺史に至る。延卿は虎捷軍都指揮使に至る。延卿の子に徳琛あり。
子 徳豊
徳豊、字は日新。幼くして聡悟、延釗これを愛し、嘗て曰く、「吾が門を興す者は必ずこの子ならん」と。八歳、山南東道衙内指揮使に補せらる。延釗卒し、如京使を授かる。
開宝中、太原征伐に従い、御砦南面巡検を領す。また揚州都監となる。南唐征伐に、洞子都監となる。城既に下り、昇州都監を命ぜらる。市廛安静、沢国富饒、使者多く金帛を裒聚すれども、徳豊独り廉潔を以て聞こゆ。俄かに蔚州刺史を領す。
雍熙四年、登・萊に使して強壮を閲し、還りて西上閣門使に拝す。この冬、出でて定遠軍鈐轄となり、後陣中隊を領し、別に万騎を将いて辺害を禦がしむ。
子惟素、殿内承制に至る。
従子 徳琛
徳琛は延釗の蔭により供奉官に補せられ、累遷して内殿崇班・夔州知州となる。李順の乱、賊酋張余、衆十万余・舟千艘を領して来寇す。順と龍山に戦い、首級千余を斬る。また白継贇と賊を撃ち、二万余を斬り、その舟を悉く焚く。賊開州を剽し、雲安を囲む。徳琛往きてこれを援け、また百余級を斬る。累詔して褒諭さる。西京作坊副使・左蔵副使を歴任す。
符彦卿
少帝は幼少より彦卿と親しく、即位すると召還し、河陽三城の鎮守に出した。遼人が南侵すると、詔して彦卿に率いる所部をして澶州にて拒戦せしむ。契丹の騎兵数万が高行周を鉄邱に囲み、諸将はその鋒に当たる者なく、彦卿独り数百騎を率いてこれを撃ち、遼人は遁走し、行周は免れた。また李守貞に副えて青州の楊光遠を討平し、許州に移鎮し、祁国公に封ぜられた。
左右の間にせられ、会に河朔に出師するに及び、彦卿は預からず、その行伍を易え、羸師数千を配して荊州口を戍らしむ。杜重威が大軍を以て滹水に降るに及び、急ぎ詔して彦卿と高行周に禁兵を領せしめて澶淵に屯せしむ。会に彦澤が遼兵を引きて汴に入るに及び、彦卿と行周は遂に遼に帰す。遼主は陽城の敗を以て彦卿を詰む。彦卿対えて曰く、「臣は晋王に事え、敢えて死を愛せず、今日の事、死生唯命に在り」と。遼主笑いてこれを釈す。
会に徐・宋の寇盗蜂起す。遼主は即ち帰鎮を遣わす。行きて甬橋に次ぐ。賊魁李仁恕、衆数万を擁して徐州を攻む。彦卿、数十騎を領して遽かに城下に至る。仁恕、その徒を遣わして彦卿の馬を執らしめ、随いて城に入らんことを請う。俄頃、彦卿の子昭序、城中より軍校陳守習を遣わし縋りて出で、賊中に大呼して曰く、「相公は国為に賊を討つべし、何ぞ故に自ら虎口に入り、乃ち賊を助けて城を攻むや。我父子と雖も、今は讎敵たり、当に死戦すべし、城に入るべからず」と。賊惶愧し、羅拜して彦卿の前にし、罪を免れんことを乞う。彦卿為に誓いを設け、乃ち解き去る。
漢祖の汴に入るに及び、彦卿は徐州より来朝し、兗州に移鎮し、兼侍中を加う。乾祐中、兼中書令を加え、魏国公に封ぜられ、守太保を拝し、青州に移鎮す。楊邠輩を誅するに及び、促かに闕下に赴かんことを召す。
周祖即位し、淮陽王に封ず。劉銖誅せられ、その京城の第宅を以て彦卿に賜う。兗州を征するに及び、彦卿は行在に朝し、馬及び錦綵・軍糧万石を献じ、連ねて賜賚を被る。俄かに鄆州に移鎮す。会に魏府の王殷を召し、彦卿を以て代鎮せんと欲す。俄かに遼人兵を起こし、殷を留めて扼せしむ。故に彦卿は朝せず。殷罪を得、即ち彦卿を大名尹・天雄軍節度と為し、衛王に進封す。
世宗の初め、幷人が潞州を擾わす。潞兵敗れ、命じて彦卿に兵を領せしめ磁州固鎮路よりその背を圧さしむ。帝の親征するに及び、行営一行都部署兼知太原行府事を命じ、歩騎二万を領して進討せしむ。
初め、彦卿の行くや、世宗は幷人は敗れたりと雖も、朝廷の饋運継がず、未だ攻撃を議せず、且つ兵を城下に観し、徐に進取を図らしむ。周師の境に入るに及び、汾・晋の吏民は風を望みて款接し、皆久しく虐政に罹り、軍須を輸して以て兵力を資せんことを願う。世宗これに従う。而して連ねて数州を下す。彦卿等は皆芻糧備わらず、軍を旋さんと欲す。世宗これを省みず、乃ち山東近郡を調べて軍食を輓きてこれを済す。世宗の城下に至るに及び、郭従義・向訓・白重賛・史彦超とともに万騎を率いて忻口に屯し、以て北援を拒ぎ、又盂県を下す。
遼人は忻北に駐し、遊騎は近郊に及ぶ。史彦超は二千騎を以てその鋒に当たり、左右に馳撃す。彦超これに死す。遼衆二千余を敗り、遼騎遁走す。先鋒は遼人に掩われ、重傷数百人。諸将の論議矛盾し、師故に振わず。世宗は乃ち師を班し、数え彦卿に繒綵・鞍勒馬を賜い、本鎮に帰遣す。京に還り、彦卿に太傅を拝し、魏王に改封す。恭帝即位し、守太尉を加う。
太祖即位し、守太師を加う。建隆四年春、来朝し、襲衣・玉帯を賜う。金鳳園に宴射し、太祖七発皆的に中る。彦卿は名馬を貢して賀す。
大名を鎮すること余り十年、政委は牙校劉思遇にす。思遇は貪黠、勢を怙て貨財を斂め、公府の利多く其の家に入る。彦卿これを覚えず。時に藩鎮は率ね親吏を遣わして民租を受けしめ、概量を増溢し、公は其の余羨を取る。而して魏郡は特に甚だし。太祖これを聞き、常参官を遣わして其の事を主せしむ。是より斛量始めて平らかなり。詔して羨余の粟を以て彦卿に賜い、以て其の心を愧じしむ。
彦卿は鷹犬を酷好し、吏卒過有れば、名鷹犬を求めて以て献ぜば、盛怒と雖も必ずこれを赦す。性酒を飲まず、頗る謙恭下士し、賓客に対し終日談笑し、世務に及ばず、戦功を伐たず。洛陽に居ること七八年、毎春月、小駟に乗じ家僮一二を従えて僧寺名園に遊び、優遊自適す。
周世宗宣懿皇后・太宗懿徳皇后、皆彦卿の女なり。恭帝及び太祖の両朝より、詔書を賜いて名を称せず。子に昭信・昭愿・昭寿有り。
昭信は、天雄軍衙内都指揮使・賀州刺史を兼ねた。周の顕徳初年に卒去し、検校太保・閬州防禦使を追贈された。
子に昭愿あり。
昭愿は字を致恭といい、謹厚で謙虚・倹約であり、よく書を読み士を好んだ。周の広順年間、蔭補により天雄軍の牙職に補され、まもなく興州刺史を兼ねた。
開宝年間、恩州刺史を兼ねるよう改められた。彦卿が療養のため洛陽に居たとき、供奉官に補されて入朝した。四年、羅州刺史を兼ねるよう改められた。七年、西京作坊副使に遷った。まもなく尚食使を授かり、陳・許・蔡・潁等州の巡兵を護るため出向した。太原征伐に従い、御営四面巡検使となった。幽州を攻撃する際には、定国軍節度使の偓とともに兵一万余を率い、城南に砦を置くことを命じられた。軍が帰還すると、真に蔡州刺史に任じられ、幷州・澶州の二州を知った。一ヶ月も経たず、また幷門に移り副部署を兼ねた。母の喪に服したが、起復され、本州団練使となり、続けて永興軍・梓州・滑州の二州を知った。
子に昭寿あり。
昭寿は貴家の子として日々遊宴に事とし、簡慢で傲慢で自らほしいままにし、常に紗帽に素の氅衣を着て、後園に横たわり休息し、軍務を治めず、裁決すべきことがあれば、即ち家人に命じて伝達させた。多くの錦工を集めて官舎で繊麗な綺帛を織らせ、必要なものは毎回市場から調達し、代金は半年後にようやく支払い、また部下に命じて私的にこれを取り立てさせた。広く黍や稲を買い占め、未成熟のものも取り上げ、すべて寺観の中に貯蔵し、久しくして損敗すると、即ち道士や僧侶に賠償させた。その下の者に軍校を陵辱・軽視させることを放任した。
昭寿の子承諒は、斉王の娘嘉興県主を娶り、内殿承制に至った。
論じて曰く、五代の乱世は、内には権臣が命を擅にし、外には藩鎮が兵を握った。宋が興ると、内外は廓清され、天がその疾を取り去ったかのようであり、ある者は節を納めて宿衛に備え、ある者は老いを請うて朝請に奉じた。太祖の善く御する所あり、諸臣の機を知る所あれども、要はまた否極まって泰に至る象であった。彦卿は一門にして二后を出し、累朝にわたって寵を襲い、謀略に優れ戦に善く、名声は異俗に振るい、時とともに進退し、これ名将の賢者であろうか。令坤・延釗は素より太祖と親善し、荊・湘を平定しては南服を底定し、常山に鎮まっては北辺を載寧せしめ、旧縁と功績を恃んで嫌隙を啓くことはなかった。創業の君臣に人に過ぐる者あるは、多くこのようであった。