宋史

列傳第十 韓令坤 慕容延釗 符彦卿

列傳第十 韓令坤 慕容延釗 符彦卿

韓令坤

原文韓令坤

父の韓倫は、若くして勇敢をもって成徳軍の兵籍に隷し、累遷して徐州下邳鎮将兼守禦指揮使となった。世宗は令坤の貴いことを以て、韓倫を陳州行軍司馬に抜擢し、令坤が陳州を領するに及んで、韓倫を許州に移した。職を罷められ、再び宛丘に居住し、多く不法をもって郡政に干渉し、私的に酒を醸造して市利を求め、民財を掻き集めたので、公私ともにこれを患った。項城の民武郁が闕に詣でてその事を訴えたので、殿中侍御史の率汀に命じてこれを按問させた。韓倫は詐って率汀に詔を受けて闕に赴くと報告し、率汀はこれを奏上した。世宗は怒り、追及して弾劾し、その罪状を明らかにしたところ、法に照らせば棄市に当たった。令坤が世宗に泣いて請うたので、遂に死を免じて海島に流された。顕徳六年、左驍ぎょう衛中郎将となり、左監門衛将軍に遷った。宋の初め、磁州刺史に拝され、亳州団練使に転じた。乾徳四年、本州防禦使に改め、卒した。

原文父倫,少以勇敢隸成德軍兵籍,累遷徐州下邳鎮將兼守禦指揮使。世宗以令坤貴,擢陳州行軍司馬,及令坤領陳州,徙倫許州。罷職,復居宛丘,多以不法干郡政,私酤求市利,掊斂民財,公私患之。項城民武郁詣闕訴其事,命殿中侍御史率汀按之。倫詐報汀云被詔赴闕,汀奏之。世宗怒,追劾具狀,法當棄市。令坤泣請於世宗,遂免死流海島。顯德六年,為左驍衛中郎將,遷左監門衛將軍。宋初,拜磁州刺史,轉亳州團練使。乾德四年,改本州防禦使,卒。

令坤は若くして周の太祖の帳下に隷した。広順初年、鉄騎散員都虞候、控鶴右第一軍都校・和州刺史を歴任した。世宗が即位すると、殿前都虞候を授けられた。間もなく高平の功を賞され、龍捷左廂都虞候・容州団練使となり、進んで本廂都指揮使・泗州防禦使となった。太原を征伐するに当たり、行営前軍馬軍都校となり、間もなく侍衛馬軍都指揮使・定武軍節度使を領した。

原文令坤少隸周祖帳下,廣順初,歷鐵騎散員都虞候,控鶴右第一軍都校、領和州刺史。世宗即位,授殿前都虞候。俄賞高平之功,為龍捷左廂都虞候、領容州團練使,進本廂都指揮使、領泗州防禦使。征太原,為行營前軍馬軍都校,未幾,為侍衛馬軍都指揮使、領定武軍節度。

世宗は宰相の李穀に命じて兵を将いて淮南を征伐させ、令坤ら十二将を従わせた。李穀が正陽に退いて守ると、呉人に乗ぜられた。令坤は宣祖・李重進と合兵してこれを撃ち、呉人を大いに破った。世宗が親征し、揚州に備えがないと聞くと、令坤及び宣祖・白延遇・趙晁らを遣わしてこれを襲撃させた。令坤は先に延遇に命じて精騎数百を率い、夜明け前に馳せ入らせたが、城中はこれを覚らなかった。令坤が続いて到着して民を撫でると、民は皆安堵した。南唐の東都副留守の馮延魯は僧となって寺に匿れていたが、令坤が求め捕らえ、行在所に送った。そこで令坤に州事を知らしめた。これにより泰州は恐れて城を以て降った。

原文世宗命宰相李穀將兵征淮南,俾令坤等十二將以從。穀退保正陽,為吳人所乘。令坤與宣祖、李重進合兵擊之,大敗吳人。世宗親征,聞揚州無備,遣令坤及宣祖、白延遇、趙晁等襲之。令坤先令延遇以精騎數百遲明馳入,城中不之覺。令坤繼至撫之,民皆按堵。南唐東都副留守馮延魯為僧匿寺中,令坤求獲之,送行在,遂以令坤知州事。由是泰州懼以城降。

時に呉越王の銭俶は詔を受けて常州・潤州を攻め、毗陵を包囲したが、かえって南唐に敗れた。南唐は乗勝して将の陸孟俊を遣わして泰州に迫り、周軍は守ることができず、孟俊は遂に蜀しょく岡に進軍し、揚州に迫ったので、令坤はその城を棄てた。世宗は怒り、太祖と張永徳に命じて兵を率い六合に趨りこれを救援させた。令坤は援軍が至ると聞き、再び城に入って守り、孟俊の兵と戦い、これを大いに破り、孟俊を生け捕りにし、その将の馬貴を楚州の湾頭堰で破り、漣州刺史の秦進崇を生け捕りにした。間もなく向拱を縁江招討使とし、令坤をその副使として、寿州を陥落させた。帰朝して、検校太尉を加えられ、鎮安軍節度使を領した。世宗は再び淮右に幸し、楚州に駐蹕し、令坤に兵を率いて先に揚州に入ることを命じ、軍府事を権知することを命じた。揚州城は呉人によって毀たれていたので、詔して丁壮を発して別に新城を築かせ、令坤を修城都部署に任じた。

原文時錢俶受詔攻常、潤,圍毗陵,反為南唐所敗。南唐乘勝遣將陸孟俊逼泰州,周師不能守,孟俊遂進軍蜀岡,逼揚州,令坤棄其城。世宗怒,命太祖與張永德領兵趨六合援之。令坤聞援至,復入城守,與孟俊兵戰,大敗之,擒孟俊,敗其將馬貴於楚州灣頭堰,擒漣州刺史秦進崇。俄命向拱為緣江招討使,以令坤副之,下壽州。歸朝,加檢校太尉、領鎮安軍節度使。世宗乃復幸淮右,次楚州,遣令坤率兵先入揚州,命權知軍府事。揚州城為吳人所毀,詔發丁壯別築新城,命令坤為修城都部署。

六年の春、令坤に命じて汴・亳の民をもって汴水を蔡に入れしめた。三月、世宗が北征しようとし、令坤に命じて龍捷・虎捷・驍武の兵を率いて先に大名に赴かせ、また王晏の副として益津関一路都部署とし、間もなく霸は州都部署として、率いる所の兵をもってこれを戍らせた。恭帝が即位すると、検校太尉・侍衛馬歩軍都虞候を加えられた。冬、詔して北辺を防がせた。

原文六年,春,命令坤以汴、亳民導汴水入於蔡。三月,世宗將北征,命率龍捷、虎捷、驍武兵先赴大名,又副王晏為益津關一路都部署,俄為霸州都部署,率所部兵戍之。恭帝即位,加檢校太尉、侍衛馬步軍都虞候。冬,詔防北邊。

宋の初め、天平軍を領することとなり、侍衛馬歩軍都指揮使・同平章事を加えられた。太祖が李筠を親征するに当たり、詔して令坤に兵を率いて河陽に屯させた。澤州・潞州が平定されると、京に還り、礼賢講武殿において令坤らに宴を賜い、襲衣・器幣・鞍勒馬を差等ありて賜い、功により侍中を兼ねて加えられた。また李重進討伐に従った。建隆二年、成徳軍節度使に改め、北面縁辺兵馬都部署を充任した。鎮に赴かんとするに当たり、上は別殿において酒を置いてこれを餞別し、その治めを励ました。

原文宋初,移領天平軍,加侍衛馬步軍都指揮使、同平章事。太祖親征李筠,詔令坤率兵屯河陽。及澤、潞平,還京,錫宴令坤等於禮賢講武殿,賜襲衣、器幣、鞍勒馬有差,以功加兼侍中。又從討李重進。建隆二年,改成德軍節度,充北面緣邊兵馬都部署。將赴鎮,上於別殿置酒餞之,因勖其為治。

乾徳六年、背中に疽が発して卒した。享年四十六。太祖は素服をもって講武殿において哀悼し、その子の慶朝を閑廄使に、慶雄を閑廄副使に録した。令坤は才略があり、治道を識り、太祖と共に周室に事え、情誼は親密であった。常山を鎮すること凡そ七年、北辺は以て寧らかであった。その卒を聞き、甚だこれを悼惜した。

原文乾德六年,疽發背,卒,年四十六。太祖素服發哀於講武殿,錄其子慶朝為閑廄使,慶雄為閑廄副使。令坤有才略,識治道,與太祖同事周室,情好親密。鎮常山凡七年,北邊以寧。聞其卒,甚悼惜之。

初め、南唐は辺鎬を遣わして湖南を破り、馬希崇を分司として揚州に置いたが、令坤がこれを攻め取るに及んで、希崇は妓の楊氏を献じ、令坤は甚だこれを寵愛した。陸孟俊を生け捕りにし、械を付けて行在所に送らんとする時、楊氏が簾の間からこれを窺い見て、即ち胸を打って慟哭した。令坤が怪しんで問うと、楊氏は言った、「孟俊は往年潭州に入り、私の家の者二百人を殺し、ただ妾のみが希崇に匿われて免れました。どうかその意を遂げさせてください」。令坤は孟俊を詰問し、孟俊がその罪状を具にしたので、令坤はこれを殺した。

原文初,南唐遣邊鎬破湖南,以馬希崇分司揚州,及令坤克取之,希崇以妓楊氏獻,令坤甚嬖之。會擒陸孟俊,將械送行在所,楊氏於簾間窺見之,即拊膺慟哭。令坤怪,問之,楊氏曰:「孟俊往年入潭州,殺我家二百口,惟妾為希崇所匿得免,願甘心焉。」令坤以詰孟俊,孟俊具狀,令坤乃殺之。

慕容延釗

原文慕容延釗

慕容延釗は太原の人である。父の章は、襄州馬歩軍都校・開州刺史を領した。延釗は若くして勇幹をもって聞こえた。漢の高祖こうそが興るに当たり、周の太祖がその佐命となり、延釗を帳下に隷させた。周の広順初年、西頭供奉官に補され、尚食副使・鉄騎都虞候を歴任した。

原文慕容延釗,太原人。父章,襄州馬步軍都校、領開州刺史。延釗少以勇幹聞。漢祖之興也,周祖為其佐命,以延釗隸帳下。周廣順初,補西頭供奉官,歷尚食副使、鐵騎都虞候。

世宗が即位すると、殿前散指揮使都校・溪州刺史を領した。高平の戦いにおいて、左先鋒を督し、功により虎捷左廂都指揮使・本州団練使を授けられた。殿前都虞候・睦州防禦使に遷った。淮南征伐に従い、龍捷左廂都校・沿江馬軍都部署に改められた。帰朝して、再び殿前都虞候となり、出て鎮淮軍都部署となった。顕徳五年、世宗が迎鑾江口におられた時、呉人の舟数艘が東㳍洲に泊していると聞き、即ち延釗と右神武統軍の宋延渥に命じてこれを討たせた。延釗は驍騎をもって陸路より進み、延渥は舟師を督いて江に沿って進み、これを大いに破った。淮南が平定されると、殿前副都指揮使・淮南節度使に遷った。恭帝が即位すると、鎮寧軍節度使に改め、殿前副都点検を充任し、再び北面行営馬歩軍都虞候となった。

原文世宗即位,為殿前散指揮使都校、領溪州刺史。高平之戰,督左先鋒,以功授虎捷左廂都指揮使、領本州團練使;遷殿前都虞候、領睦州防禦使。從征淮南,改龍捷左廂都校、沿江馬軍都部署。歸朝,復為殿前都虞候,出為鎮淮軍都部署。顯德五年,世宗在迎鑾江口,聞吳人舟數艘泊東㳍洲,即命延釗與右神武統軍宋延渥討之。延釗以驍騎由陸進,延渥督舟師沿江繼進,大破之。淮南平,遷殿前副都指揮使、領淮南節度。恭帝即位,改鎮寧軍節度,充殿前副都點檢,復為北面行營馬步軍都虞候。

太祖が即位した時、延釗は重兵を握って真定に屯していた。帝は使者を遣わして旨を諭し、便宜を以て事を行うことを許した。延釗は韓令坤と共に率いる所の兵をもって辺境を按治し、鎮静をもって聞こえた。太祖はこれを嘉し、殿前都点検・同中書門下三品を加えられた。これは父の名を避けたためである。李筠が叛くと、初め王全斌と共に東路より会兵して進討することを命じられ、間もなく行営都部署・潞州行府事を知ることを命じられた。平定されると、侍中を兼ねて加えられ、詔して澶州に還った。

原文太祖即位,延釗方握重兵屯真定,帝遣使諭旨,許以便宜從事。延釗與韓令坤率所部兵按治邊境,以鎮靜聞。太祖嘉之,加殿前都點檢、同中書門下三品,避其父名故也。李筠叛,初命與王全斌由東路會兵進討,俄為行營都部署、知潞州行府事;及平,加兼侍中,詔還澶州。

建隆二年、長春節に来朝し、邸宅一区を賜う。表を奉って軍職を解くことを請い、山南東道節度使・西南面兵馬都部署に転ず。この冬大いに寒く、中使を遣わして貂裘・百子氈帳を賜う。四年春、師を命じて南征せしめ、延釗を湖南道行營前軍都部署とす。時に延釗病を帯び、詔して肩輿に乗せて軍務に就かしむ。賊将汪端、衆数千を率いて朗州を擾わす。延釗これを擒え、市にて磔く。荊・湘既に平らぎ、検校太尉を加う。この冬、卒す。年五十一。

原文建隆二年,長春節來朝,賜宅一區。表解軍職,徙為山南東道節度、西南面兵馬都部署。是冬大寒,遣中使賜貂裘、百子氈帳。四年春,命師南征,以延釗為湖南道行營前軍都部署。時延釗被病,詔令肩輿即戎事。賊將汪端與眾數千擾朗州,延釗擒之,磔於市。荊、湘既平,加檢校太尉。是冬,卒,年五十一。

初め、延釗は太祖と親しく交わり、顕徳末、太祖殿前都点検に任ぜられ、延釗はその副となり、常に兄として事う。即位に及び、毎度使者を遣わして労問し、猶兄と呼びし。病臥に及び、御封の薬を以て賜い、その卒を聞き、慟哭すること久し。中書令を贈り、河南郡王を追封し、その子弟で官を授けられたる者四人を録す。

原文初,延釗與太祖友善,顯德末,太祖任殿前都點檢,延釗為副,常兄事延釗;及即位,每遣使勞問,猶以兄呼之。洎寢疾,御封藥以賜,聞其卒,慟哭久之。贈中書令,追封河南郡王,錄其子弟授官者四人。

子に徳業・徳豊・徳鈞あり。徳業は衛州刺史に至り、徳鈞は尚食副使に至る。延釗の弟延忠は、内殿直・供奉西頭官都知を歴任し、磁州刺史に至る。延卿は虎捷軍都指揮使に至る。延卿の子に徳琛あり。

原文子德業、德豐、德鈞。德業至衛州刺史;德鈞至尚食副使。延釗弟延忠,歷內殿直、供奉西頭官都知,至磁州刺史;延卿至虎捷軍都指揮使。延卿子德琛。

子 徳豊

原文子 德豐

徳豊、字は日新。幼くして聡悟、延釗これを愛し、嘗て曰く、「吾が門を興す者は必ずこの子ならん」と。八歳、山南東道衙内指揮使に補せらる。延釗卒し、如京使を授かる。

原文德豐,字日新,幼聰悟,延釗愛之,嘗曰:「興吾門者必此子。」八歲,補山南東道衙內指揮使。延釗卒,授如京使。

開宝中、太原征伐に従い、御砦南面巡検を領す。また揚州都監となる。南唐征伐に、洞子都監となる。城既に下り、昇州都監を命ぜらる。市廛安静、沢国富饒、使者多く金帛を裒聚すれども、徳豊独り廉潔を以て聞こゆ。俄かに蔚州刺史を領す。

原文開寶中,從征太原,領禦砦南面巡檢。又為揚州都監。征南唐,為洞子都監。城既下,命為昇州都監,市廛安靜,澤國富饒,使者多裒聚金帛,德豐獨以廉潔聞。俄領蔚州刺史。

太平興国二年、慶州知州兼邠・寧都巡検となる。嘗て小遇族を破り、名馬数十匹を奪い、詔書を以て褒諭さる。任に居ること九年、簡静を以て治め、辺鎮これを安んず。

原文太平興國二年,知慶州兼邠、寧都巡檢。嘗破小遇族,奪名馬數十匹,詔書褒諭。居任九年,以簡靜為治,邊鎮安之。

雍熙四年、登・萊に使して強壮を閲し、還りて西上閣門使に拝す。この冬、出でて定遠軍鈐轄となり、後陣中隊を領し、別に万騎を将いて辺害を禦がしむ。

原文雍熙四年,使登、萊閱強壯,及還,拜西上閣門使。是冬,出為定遠軍鈐轄,命領後陣中隊,別將萬騎以禦邊害。

淳化二年、進みて東上閣門使となり、邢州知州となる。三年、四方館事を判じ改め、出でて延州知州となる。時に侯延広霊武を知る。或いはその西夏の情を得、倔強にして制し難しと言う。徳豊を命じてこれに代え、就いて白金三千両を賜う。使名を建つるに会い、四方館使と改む。未だ幾ばくもせず、部を治めざるを以て、慶州知州に徙め、俄かにまた霊州知州兼部署に改む。穀価湧貴す。徳豊私廩を出だして饑民を賑い、全活する者衆し。引進使に転ず。賊境に入る。徳豊兵を率いて撃ち走らせ、羊馬を獲ること甚だ衆し。

原文淳化二年,進秩東上,知邢州。三年,改判四方館事,出知延州。時侯延廣知靈武,或言其得西夏情,倔強難制,命德豐代之,就賜白金三千兩。會建使名,改為四方館使。未幾,以所部不治,徙知慶州,俄又改靈州兼部署。穀價湧貴,德豐出私廩賑饑民,全活者眾。轉引進使。賊入境,德豐率兵擊走,獲羊馬甚眾。

咸平二年、客省使に遷り、鎮州知州となる。便坐に召対し、撫慰ことのほか甚だし。この冬、遼人南侵す。徳豊兵を繕い固く守り、餉饋絶えず、詔してこれを奨む。三年、滄州に改む。徳豊は財を軽んじ施すことを好み、将士を厚く享く。西辺に在りし時、母は京師に留まり、妻子は長安ちょうあんに寓し、貧しきこと甚だし。真宗これを憫み、特詔して団練使の俸を給す。年を逾え、潁州団練使に進み、貝・瀛二州を知る。五年、卒す。年五十五。家に余財無し。談ずる者これを善しとす。

原文咸平二年,遷客省使,知鎮州,召對便坐,撫慰甚至。是冬,遼人南侵,德豐繕兵固守,餉饋不絕,詔獎之。三年,改滄州。德豐輕財好施,厚享將士。在西邊時,母留京師,妻孥寓長安,貧甚,真宗憫之,特詔給團練使奉。逾年,進潁州團練使,知貝、瀛二州。五年,卒,年五十五。家無餘財,談者善之。

子惟素、殿内承制に至る。

原文子惟素,至殿內承制。

従子 徳琛

原文從子 德琛

徳琛は延釗の蔭により供奉官に補せられ、累遷して内殿崇班・夔州知州となる。李順の乱、賊酋張余、衆十万余・舟千艘を領して来寇す。順と龍山に戦い、首級千余を斬る。また白継贇と賊を撃ち、二万余を斬り、その舟を悉く焚く。賊開州を剽し、雲安を囲む。徳琛往きてこれを援け、また百余級を斬る。累詔して褒諭さる。西京作坊副使・左蔵副使を歴任す。

原文德琛以延釗蔭補供奉官,累遷內殿崇班、知夔州。李順之亂,賊酋張餘領眾十萬餘、舟千艘來寇,與順戰龍山,斬首千餘級;又與白繼贇擊賊,斬二萬餘,悉焚其舟。賊剽開州,圍雲安,德琛往援之,又斬百餘級。累詔褒諭。歷西京作坊、左藏二副使。

咸平二年、崇儀副使・荊湖北路鈐轄に転ず。蛮、澧・鼎の境上を擾わす。徳琛北氵義に戦い、耕牛・鎧甲を奪い、斬馘して帰る。峽路鈐轄に徙む。未だ至らざるに、復た夔州知州となる。景德中、梧州刺史を領し、復た峡路に任じ、再び遷りて庄宅使となり、また并へい・代鈐轄、憲州知州となる。天禧初、右監門衛大将軍に改む。

原文咸平二年,轉崇儀副使、荊湖北路鈐轄。蠻擾澧、鼎境上,德琛戰於北氵義,奪耕牛、鎧甲,斬馘以歸。徙峽路鈐轄,未至,復知夔州。景德中,領梧州刺史,復任峽路,再遷莊宅使,又為並、代鈐轄,知憲州。天禧初,改右監門衛大將軍。

符彦卿

原文符彥卿

少帝は幼少より彦卿と親しく、即位すると召還し、河陽三城の鎮守に出した。遼人が南侵すると、詔して彦卿に率いる所部をして澶州にて拒戦せしむ。契丹の騎兵数万が高行周を鉄邱に囲み、諸将はその鋒に当たる者なく、彦卿独り数百騎を率いてこれを撃ち、遼人は遁走し、行周は免れた。また李守貞に副えて青州の楊光遠を討平し、許州に移鎮し、祁国公に封ぜられた。

原文少帝幼與彥卿狎,即位,召還,出鎮河陽三城。遼人南侵,詔彥卿率所部拒戰澶州。契丹騎兵數萬圍高行周於鐵邱,諸將莫敢當其鋒,彥卿獨引數百騎擊之,遼人遁去,行周得免。又副李守貞討平青州楊光遠,移鎮許州,封祁國公。

開運二年、杜重威・李守貞とともに北辺を経略す。契丹主は十余万の衆を率いて晋師を陽城に囲み、軍中水乏しく、井を穿てば即ち壊れ、争って泥を絞りてこれを啜り、人馬多く渇死す。時に晋師は下風に居り、将に戦わんとすれども弓弩施すべからず。彦卿、張彦澤・皇甫遇に謂いて曰く、「束手して擒えらるるに若かず、死戦すべし、然れども必ずしも死せず」と。彦澤等然りとす。遂に潜かに兵をしてその後に尾し、順風にこれを撃てば、契丹大敗し、その主は橐駝に乗じて遁れ、その器甲・旗仗数万を獲て帰る。少帝これを嘉し、武寧軍節度・同平章事に改む。

原文開運二年,與杜重威、李守貞經略北鄙。契丹主率眾十餘萬圍晉師於陽城,軍中乏水,鑿井輒壞,爭絞泥吮之,人馬多渴死,時晉師居下風,將戰,弓弩莫施。彥卿謂張彥澤、皇甫遇曰:「與其束手就擒,曷若死戰,然未必死。」彥澤等然之。遂潛兵尾其後,順風擊之,契丹大敗,其主乘橐駝以遁,獲其器甲、旗仗數萬以歸。少帝嘉之,改武寧軍節度、同平章事。

左右の間にせられ、会に河朔に出師するに及び、彦卿は預からず、その行伍を易え、羸師数千を配して荊州口を戍らしむ。杜重威が大軍を以て滹水に降るに及び、急ぎ詔して彦卿と高行周に禁兵を領せしめて澶淵に屯せしむ。会に彦澤が遼兵を引きて汴に入るに及び、彦卿と行周は遂に遼に帰す。遼主は陽城の敗を以て彦卿を詰む。彦卿対えて曰く、「臣は晋王に事え、敢えて死を愛せず、今日の事、死生唯命に在り」と。遼主笑いてこれを釈す。

原文為左右所間,會再出師河朔,彥卿不預,易其行伍,配以羸師數千,戍荊州口。及杜重威以大軍降於滹水,急詔彥卿與高行周領禁兵屯澶淵。會彥澤引遼兵入汴,彥卿與行周遂歸遼。遼主以陽城之敗詰彥卿,彥卿對曰:「臣事晉王,不敢愛死,今日之事,死生唯命。」遼主笑而釋之。

会に徐・宋の寇盗蜂起す。遼主は即ち帰鎮を遣わす。行きて甬橋に次ぐ。賊魁李仁恕、衆数万を擁して徐州を攻む。彦卿、数十騎を領して遽かに城下に至る。仁恕、その徒を遣わして彦卿の馬を執らしめ、随いて城に入らんことを請う。俄頃、彦卿の子昭序、城中より軍校陳守習を遣わし縋りて出で、賊中に大呼して曰く、「相公は国為に賊を討つべし、何ぞ故に自ら虎口に入り、乃ち賊を助けて城を攻むや。我父子と雖も、今は讎敵たり、当に死戦すべし、城に入るべからず」と。賊惶愧し、羅拜して彦卿の前にし、罪を免れんことを乞う。彦卿為に誓いを設け、乃ち解き去る。

原文會徐、宋寇盜蠭起,遼主即遣歸鎮。行次甬橋,賊魁李仁恕擁眾數萬攻徐州。彥卿領數十騎遽至城下,仁恕遣其徒執彥卿馬,請隨入城,俄頃,彥卿子昭序自城中遣軍校陳守習縋而出,大呼賊中曰:「相公當為國討賊,何故自入虎口,乃助賊攻城?我雖父子,今為讎敵,當死戰,城不可入!。」賊惶愧,羅拜彥卿前,乞免罪,彥卿為設誓,乃解去。

漢祖の汴に入るに及び、彦卿は徐州より来朝し、兗州に移鎮し、兼侍中を加う。乾祐中、兼中書令を加え、魏国公に封ぜられ、守太保を拝し、青州に移鎮す。楊邠輩を誅するに及び、促かに闕下に赴かんことを召す。

原文漢祖入汴,彥卿自徐州來朝,改鎮兗州,加兼侍中。乾祐中,加兼中書令,封魏國公,拜守太保,移鎮青州。及殺楊邠輩,召促赴闕下。

周祖即位し、淮陽王に封ず。劉銖誅せられ、その京城の第宅を以て彦卿に賜う。兗州を征するに及び、彦卿は行在に朝し、馬及び錦綵・軍糧万石を献じ、連ねて賜賚を被る。俄かに鄆州に移鎮す。会に魏府の王殷を召し、彦卿を以て代鎮せんと欲す。俄かに遼人兵を起こし、殷を留めて扼せしむ。故に彦卿は朝せず。殷罪を得、即ち彦卿を大名尹・天雄軍節度と為し、衛王に進封す。

原文周祖即位,封淮陽王。劉銖誅,以其京城第宅賜彥卿。及征兗州,彥卿朝行在,獻馬及錦綵、軍糧萬石,連被賜賫。俄移鎮鄆州。會召魏府王殷,欲以彥卿代鎮。俄遼人起兵,留殷控扼,故彥卿不入朝。殷得罪,即以彥卿為大名尹、天雄軍節度,進封衛王。

世宗の初め、幷人が潞州を擾わす。潞兵敗れ、命じて彦卿に兵を領せしめ磁州固鎮路よりその背を圧さしむ。帝の親征するに及び、行営一行都部署兼知太原行府事を命じ、歩騎二万を領して進討せしむ。

原文世宗初,幷人擾潞州,潞兵敗,命彥卿領兵從磁州固鎮路壓其背。及帝親征,命為行營一行都部署兼知太原行府事,領步騎二萬進討。

初め、彦卿の行くや、世宗は幷人は敗れたりと雖も、朝廷の饋運継がず、未だ攻撃を議せず、且つ兵を城下に観し、徐に進取を図らしむ。周師の境に入るに及び、汾・晋の吏民は風を望みて款接し、皆久しく虐政に罹り、軍須を輸して以て兵力を資せんことを願う。世宗これに従う。而して連ねて数州を下す。彦卿等は皆芻糧備わらず、軍を旋さんと欲す。世宗これを省みず、乃ち山東近郡を調べて軍食を輓きてこれを済す。世宗の城下に至るに及び、郭従義・向訓・白重賛・史彦超とともに万騎を率いて忻口に屯し、以て北援を拒ぎ、又盂県を下す。

原文初,彥卿之行也,世宗以幷人雖敗,朝廷饋運不繼,未議攻擊,且令觀兵城下,徐圖進取。及周師入境,汾、晉吏民望風款接,皆以久罹虐政,願輸軍須以資兵力,世宗從之。而連下數州,彥卿等皆以芻糧未備,欲旋軍。世宗不之省,乃調山東近郡輓軍食濟之。及世宗至城下,命與郭從義、向訓、白重贊、史彥超率萬騎屯忻口,以拒北援,又下盂縣。

遼人は忻北に駐し、遊騎は近郊に及ぶ。史彦超は二千騎を以てその鋒に当たり、左右に馳撃す。彦超これに死す。遼衆二千余を敗り、遼騎遁走す。先鋒は遼人に掩われ、重傷数百人。諸将の論議矛盾し、師故に振わず。世宗は乃ち師を班し、数え彦卿に繒綵・鞍勒馬を賜い、本鎮に帰遣す。京に還り、彦卿に太傅を拝し、魏王に改封す。恭帝即位し、守太尉を加う。

原文遼人駐忻北,遊騎及近郊,史彥超以二千騎當其鋒,左右馳擊,彥超死之;敗遼眾二千餘,遼騎遁走。先鋒為遼人所掩,重傷數百人,諸將論議矛盾,師故不振。世宗乃班師,數賜彥卿繒綵、鞍勒馬,遣歸本鎮。還京,拜彥卿太傅,改封魏王。恭帝即位,加守太尉。

太祖即位し、守太師を加う。建隆四年春、来朝し、襲衣・玉帯を賜う。金鳳園に宴射し、太祖七発皆的に中る。彦卿は名馬を貢して賀す。

原文太祖即位,加守太師。建隆四年春,來朝,賜襲衣、玉帶。宴射於金鳳園,太祖七發皆中的,彥卿貢名馬稱賀。

開宝二年六月、鳳翔節度に移す。病を被り肩輿にて鎮に赴く。西京に至り、上言して疾亟なり、洛陽らくように就医せんことを請う。これに従う。仮満百日、猶その俸を請う。御史に劾せられ、留司御史台に下る。太祖は姻旧を以て特に関鞠を免し、止だその節制を罷む。八年六月、卒す。年七十八。喪事は官に給す。

原文開寶二年六月,移鳳翔節度,被病肩輿赴鎮,至西京,上言疾亟,請就醫洛陽,從之。假滿百日,猶請其奉,為御史所劾,下留司御史臺。太祖以姻舊特免推鞫,止罷其節制。八年六月,卒,年七十八。喪事官給。

彦卿は将家の子、勇略謀有り、兵を用いるに善し。存審の第四子、軍中これを『符第四』と謂う。前後賞賜巨万、悉く帳下に分給す。故に士卒は死を効するを楽む。遼人は陽城の敗より、特に彦卿を畏れ、或いは馬病みて飲齕せずば、必ず唾して呪いて曰く、「此の中に豈に符王有りや」と。晋少主の既に契丹に陷るや、徳光の母、左右に問いて曰く、「彦卿は安在ぞ」と。或いは対えて曰く、「其の已に徐州に遣帰せられしを聞く」と。徳光の母曰く、「此人を中原に留むるは、何ぞ失策の甚だしきや」と。其の威名かくの如し。

原文彥卿將家子,勇略有謀,善用兵。存審之第四子,軍中謂之『符第四』。前後賞賜鉅萬,悉分給帳下,故士卒樂為效死。遼人自陽城之敗,尤畏彥卿,或馬病不飲齕,必唾而咒曰:「此中豈有符王邪?」晉少主既陷契丹,德光之母問左右曰:「彥卿安在?」或對曰:「聞其已遣歸徐州矣。」德光母曰:「留此人中原,何失策之甚!」其威名如此。

大名を鎮すること余り十年、政委は牙校劉思遇にす。思遇は貪黠、勢を怙て貨財を斂め、公府の利多く其の家に入る。彦卿これを覚えず。時に藩鎮は率ね親吏を遣わして民租を受けしめ、概量を増溢し、公は其の余羨を取る。而して魏郡は特に甚だし。太祖これを聞き、常参官を遣わして其の事を主せしむ。是より斛量始めて平らかなり。詔して羨余の粟を以て彦卿に賜い、以て其の心を愧じしむ。

原文鎮大名餘十年,政委牙校劉思遇。思遇貪黠,怙勢斂貨財,公府之利多入其家,彥卿不之覺。時藩鎮率遣親吏受民租,概量增溢,公取其餘羨,而魏郡尤甚。太祖聞之,遣常參官主其事,由是斛量始平。詔以羨餘粟賜彥卿,以愧其心。

彦卿は鷹犬を酷好し、吏卒過有れば、名鷹犬を求めて以て献ぜば、盛怒と雖も必ずこれを赦す。性酒を飲まず、頗る謙恭下士し、賓客に対し終日談笑し、世務に及ばず、戦功を伐たず。洛陽に居ること七八年、毎春月、小駟に乗じ家僮一二を従えて僧寺名園に遊び、優遊自適す。

原文彥卿酷好鷹犬,吏卒有過,求名鷹犬以獻,雖盛怒必貰之。性不飲酒,頗謙恭下士,對賓客終日談笑,不及世務,不伐戰功。居洛陽七八年,每春月,乘小駟從家僮一二遊僧寺名園,優遊自適。

周世宗宣懿皇后・太宗懿徳皇后、皆彦卿の女なり。恭帝及び太祖の両朝より、詔書を賜いて名を称せず。子に昭信・昭愿・昭寿有り。

原文周世宗宣懿皇后、太宗懿德皇后,皆彥卿女也。自恭帝及太祖兩朝,賜詔書不名。子昭信、昭愿、昭壽。

昭信は、天雄軍衙内都指揮使・賀州刺史を兼ねた。周の顕徳初年に卒去し、検校太保・閬州防禦使を追贈された。

原文昭信,天雄軍衙內都指揮使、領賀州刺史。周顯德初,卒,贈檢校太保、閬州防禦使。

子に昭愿あり。

原文子 昭愿

昭愿は字を致恭といい、謹厚で謙虚・倹約であり、よく書を読み士を好んだ。周の広順年間、蔭補により天雄軍の牙職に補され、まもなく興州刺史を兼ねた。

原文昭愿,字致恭,謹厚謙約,頗讀書好士。周廣順中,以蔭補天雄軍牙職,俄領興州刺史。

開宝年間、恩州刺史を兼ねるよう改められた。彦卿が療養のため洛陽に居たとき、供奉官に補されて入朝した。四年、羅州刺史を兼ねるよう改められた。七年、西京作坊副使に遷った。まもなく尚食使を授かり、陳・許・蔡・潁等州の巡兵を護るため出向した。太原征伐に従い、御営四面巡検使となった。幽州を攻撃する際には、定国軍節度使の偓とともに兵一万余を率い、城南に砦を置くことを命じられた。軍が帰還すると、真に蔡州刺史に任じられ、幷州・澶州の二州を知った。一ヶ月も経たず、また幷門に移り副部署を兼ねた。母の喪に服したが、起復され、本州団練使となり、続けて永興軍・梓州・滑州の二州を知った。

原文開寶中,改領恩州。彥卿養疾居洛,入補供奉官。四年,改領羅州刺史。七年,遷西京作坊副使。俄授尚食使,出護陳、許、蔡、潁等州巡兵。從征太原,為御營四面巡檢使。及攻幽州,命與定國軍節度偓率兵萬餘,置砦城南。師還,真拜蔡州刺史,知幷澶二州。不逾月,復移幷門兼副部署。丁內艱,起復,為本州團練使,連知永興軍、梓滑二州。

咸平初年、また天雄軍・邢州の二鈐轄となった。三年、病を理由に京師への帰還を求め、詔により中使と尚医が駅伝で駆けつけ診察した。帰還すると、帝は名方と御薬を賜い、本州防禦使に任じた。四年、卒去。五十七歳。車駕が臨んで哭し、鎮東軍節度使を追贈した。子の承煦は左千牛衛将軍となった。

原文咸平初,又為天雄軍、邢州二鈐轄。三年,以疾求歸京師,詔遣中使、尚醫馳傳診視。既還,帝賜以名方御藥,拜本州防禦使。四年,卒,年五十七。車駕臨哭,贈鎮東軍節度。子承煦,為左千牛衛將軍。

子に昭寿あり。

原文子 昭壽

昭寿は、初め供奉官に補された。開宝七年、西京作坊副使に改められた。歴任して六宅副使・蘭州刺史を兼ねた。雍熙二年冬、劉知信とともに鎮州の屯兵を護ることを命じられた。将を遣わして北征する命があり、また知信とともに押隊都監となり、尚食使に転じ、真に光州刺史に任じられた。端拱二年、洪州を知った。淳化四年、定州に改められた。咸平初年、鳳州団練使・益州鈐轄に遷った。

原文昭壽,初補供奉官。開寶七年,改西京作坊副使。歷遷六宅副使、領蘭州刺史。雍熙二年冬,命與劉知信護鎮州屯兵。命遣將北征,又與知信為押隊都監,轉尚食使,真拜光州刺史。端拱二年,知洪州。淳化四年,改定州。咸平初,遷鳳州團練使、益州鈐轄。

昭寿は貴家の子として日々遊宴に事とし、簡慢で傲慢で自らほしいままにし、常に紗帽に素の氅衣を着て、後園に横たわり休息し、軍務を治めず、裁決すべきことがあれば、即ち家人に命じて伝達させた。多くの錦工を集めて官舎で繊麗な綺帛を織らせ、必要なものは毎回市場から調達し、代金は半年後にようやく支払い、また部下に命じて私的にこれを取り立てさせた。広く黍や稲を買い占め、未成熟のものも取り上げ、すべて寺観の中に貯蔵し、久しくして損敗すると、即ち道士や僧侶に賠償させた。その下の者に軍校を陵辱・軽視させることを放任した。

原文昭壽以貴家子日事遊宴,簡倨自恣,常紗帽素氅衣,偃息後圃,不理戎務,有所裁決,即令家人傳道。多集錦工就廨舍織纖麗綺帛,每有所須,取給於市,餘半歲方給其直,又令部曲私邀取之。廣糴黍稻,未及成熟者亦取之,悉貯寺觀中,久之損敗,即勒道釋償之。縱其下淩忽軍校。

剣南は李順平定後より、人心が騒然としており、知州の牛冕は緩み弛んで政務がなく、昭寿はまた軍を統御できず、人々は皆怨憤を抱いた。神衛の卒趙延順ら八人が謀り、昭寿を害そうとしたが、まだ敢えて発しなかった。三年の元旦、中使が峨眉山から京師に還るにあたり、昭寿は馭吏に命じて鞍馬を整え送ろうとしたところ、延順らは厩中の馬の手綱をすべて解き放ち、庭下に奔り出て、陽に追いかけ騒ぎ呼び、廳に登って昭寿を捕らえ殺害し、二名の僕も殺し、甲仗庫を占拠し、兵器を奪った。都監の王澤がこれを聞き、急いで本軍の都虞候王均を召し兵を率いて捕縛させた。延順は左手に昭寿の首を執り、右手に剣を操り、彷徨して行くところを知らず、ついに均が来るのを見て、即ち衆とともに均を推して帥とし、驍猛・威武の兵を合わせて乱を起こした。牛冕および転運使の張適は漢州に奔った。この秋、官兵が討伐して平定した。『雷有終伝』に見える。

原文劍南自李順平後,人心洶洶,知州牛冕緩馳無政,昭壽又不能御軍,人皆怨憤。神衛卒趙延順等八人謀,欲害昭壽,未敢發。三年正旦,中使自峨眉山還京,昭壽戒馭吏具鞍馬將送之,延順等悉解廄中馬韁,奔逸庭下,陽逐喧呼,登廳執昭壽殺之,並殺二僕,據甲仗庫,取兵器。都監王澤聞之,急召本軍都虞候王均率兵擒捕。延順左執昭壽首,右操劍,仿徨無所適,卒見均至,即與眾推均為帥,合驍猛、威武兵為亂。牛冕洎轉運使張適奔漢州。是秋,官兵討平之。見《雷有終傳》。

昭寿の子承諒は、斉王の娘嘉興県主を娶り、内殿承制に至った。

原文昭壽子承諒,娶齊王女嘉興縣主,至內殿承制。

論じて曰く、五代の乱世は、内には権臣が命を擅にし、外には藩鎮が兵を握った。宋が興ると、内外は廓清され、天がその疾を取り去ったかのようであり、ある者は節を納めて宿衛に備え、ある者は老いを請うて朝請に奉じた。太祖の善く御する所あり、諸臣の機を知る所あれども、要はまた否極まって泰に至る象であった。彦卿は一門にして二后を出し、累朝にわたって寵を襲い、謀略に優れ戦に善く、名声は異俗に振るい、時とともに進退し、これ名将の賢者であろうか。令坤・延釗は素より太祖と親善し、荊・湘を平定しては南服を底定し、常山に鎮まっては北辺を載寧せしめ、旧縁と功績を恃んで嫌隙を啓くことはなかった。創業の君臣に人に過ぐる者あるは、多くこのようであった。

原文論曰:五季之亂,內則權臣擅命,外則藩鎮握兵。宋興,內外廓清,若天去其疾,或納節以備宿衛,或請老以奉朝請。雖太祖善禦,諸臣知機,要亦否極而泰之象也。彥卿一門二后,累朝襲寵,有謀善戰,聲振殊俗,與時進退,其名將之賢者歟?令坤、延釗素與太祖親善,平荊、湘則南服底定,鎮常山則北邊載寧,未嘗恃舊與功以啟嫌隙。創業君臣有過人者,類如是夫。