宋史

列傳第九 石守信 王審琦 高懷德 韓重贇 張令鐸 羅彦瓌 王彦昇

石守信

太祖が即位すると、侍衛馬歩軍副都指揮使に遷り、帰徳軍節度使を領するよう改めた。李筠が叛くと、守信は高懐徳とともに前軍を率いて進討し、長平において李筠の軍を破り、三千級を斬首した。またその軍三万を沢州で破り、偽河陽節度使范守図を捕らえ、太原からの援軍数千を降伏させ、皆これを殺した。沢州・潞州が平定され、功により同平章事を加えられた。李重進が揚州で反すると、守信を行営都部署兼知揚州行府事とした。帝が親征して大儀頓に至ると、守信は馳せて奏上した、「城は旦夕に破れましょう。大駕が親臨されれば、一鼓の下に平定できます。」帝は急ぎ赴き、果たしてその城を攻克した。建隆二年、鄆州に移鎮し、兼侍衛親軍馬歩軍都指揮使となり、詔して本州に邸宅一区を賜った。

乾徳初年、帝は晩朝の後に守信らと酒を飲み、酒酣の頃、帝は言った、「我は汝らがなければここまで至らなかった。しかし我が天子たるは、節度使たる楽しみに全く及ばず、我は終夜未だ嘗て安枕して臥したことがない。」守信らは頓首して言った、「今天命已に定まり、誰か再び敢えて異心を抱く者がありましょう。陛下何ぞこの言葉を出されるのですか。」帝は言った、「人孰れか富貴を欲せざる者があろうか。一旦黄袍を汝の身に加うる者あらば、たとえ欲せざるとも、それ叶うことがあろうか。」守信らは謝して言った、「臣ら愚かでこの点に及びません。惟うに陛下の哀れみを乞います。」帝は言った、「人生は駒の隙を過ぐるが如し。多く金を積み、田宅を買い求めて子孫に遺し、歌児舞女を以て天年を終えるに如かず。君臣の間に猜嫌無きは、また善からずや。」守信は謝して言った、「陛下がこのことをお考えくださるのは、いわゆる死せるを生かし骨に肉をつけるものです。」明日、皆病気と称し、兵権を解くことを乞うた。帝はこれに従い、皆散官として邸宅に就かせ、賞賜は甚だ厚かった。

その後、太祖は符彦卿に軍を管轄させようとした。趙普はたびたび諫め、彦卿の名位は既に盛んであり、再び兵権を委ねるべきではないとし、太祖は従わなかった。任命の宣旨が既に出されたが、普は再びそれを懐中にしまった。太祖は迎えて言った、「まさか符彦卿の件ではないか。」答えて言った、「違います。」そして他の事を奏上した。奏事が終わると、ようやく彦卿の宣旨を取り出して進呈した。太祖は言った、「果たしてそうか。宣旨はどうしてまた卿の所にあるのか。」普は言った、「臣は処分の言葉に不明瞭な点があると託言し、再び留めました。惟うに陛下には利害を深くお考えいただき、再び悔やまれませんように。」太祖は言った、「卿は苦しんで彦卿を疑うのは、何故か。朕は彦卿を厚く遇している。彦卿がどうして朕に背くことがあろうか。」普は答えて言った、「陛下はどうして周世宗に背くことができたのですか。」太祖は黙然とし、事は遂に中止された。

開宝六年秋、守信に兼侍中を加えた。太平興国初年、兼中書令を加えた。二年、中書令に拝し、河南尹を行い、西京留守を充任した。三年、検校太師を加えた。四年、范陽征討に従い、前軍を督して軍律を失い、責められて崇信軍節度使・兼中書令に授けられ、まもなく衛国公に進封された。七年、陳州に移鎮し、中書令を守ることを復した。九年、卒去。五十七歳。尚書令しょうしょれいを贈られ、威武郡王を追封され、諡は武烈。

守信は累任して節度使を務め、専ら聚斂に務め、財を積んで巨万に及んだ。特に釈氏を信奉し、西京に崇徳寺を建立し、民を募って瓦木を運搬させたが、駆り立ては甚だ急で、雇い賃を与えず、人多くこれを苦しんだ。子に保興・保吉あり。

子 保興

保興、字は光裔、本名は保正。太祖が興宗の意味を取って改めた。建隆初年、十四歳で、蔭により供奉官に補せられた。明年、尚食副使に遷った。太祖が嘗て功臣の子弟を召して時事を問うたところ、保興は最も年少であったが、応対が明白で、太祖はこれを奇とし、如京使に拝した。開宝年中、順州刺史を領した。太宗が河東を征した時、御砦四面都巡検使となった。太平興国八年、高陽関監軍として出向した。守信が卒去すると、起復し、本州団練使を領した。雍熙初年、契丹が辺境を擾した時、戴興・楊守一とともに澶州前軍駐泊となった。

李継遷が侵入し掠奪すると、銀・夏・綏府都巡検使に転じた。嘗て罨子砦を巡按し、黒水河に沿って谷中に趣いたところ、夏人がこれを知り、数千騎で険阻を占め、河を渡って戦いを求めた。保興の率いる部衆は二千人に満たず、そこで短兵を分けて河辺に伏せ、その半ば渡るを俟ち、急にこれを撃ち、百余級を斬首し、敗走を追って数十里に及び、優詔をもって褒め称えられた。

端拱年中、平戎軍知軍となり、莫州に転じ、まもなく西京都巡検使となった。淳化五年、真に蘄州団練使に拝し、永興軍鈐轄となり、夏・綏・麟・府州鈐轄に改めた。至道二年、延州都巡検使兼署州事に転じ、本路副都部署に改め、范重召らと五路で賊を討った。岌伽羅膩数族が衆を率いて来て抵抗したので、保興は敢死の士数百人を選び枚を銜ませて夜襲し、これを殲滅した。ここより呉移・越移諸族が帰降した。還るに当たり、烏・白池に至ると、賊がまた方陣をなして来て抵抗した。保興は衆を指揮して陣中を出入りしたが、ちょうど乗馬が流れ矢に当たり、身を挺して弓を引き満たし、馬を乗り換えて奮呼し、且つ行き且つ戦い、凡そ三日に四十二戦し、賊は遂に引き去った。

咸平二年、威虜軍知軍となった。時に夏人が侵入掠奪すると、保興は官庫の銭数万緡を発して戦士に分け与えようとしたが、主管の者が固執して不可とした。保興は言った、「城がこのように危ういのに、どうして中央への覆奏に暇があろうか。事が定まり、覆奏して允されなければ、家財を以て償うことを願う。」夏人が退くと、駅伝を以て上聞し、真宗はこれを許して問わなかった。

三年、そのまま棣州防禦使に拝した。邢州知州に転じ、澶州に改めた。郡において刑罰を頗る峻烈にし、人を捶つ毎に、杖をゆるやかに施すよう命じ、日影が移るほど時間をかけてようやく終えた。五年、病気を理由に京師への帰還を求めた。まもなく卒去。五十八歳。子に元孫あり。

保興は代々豪貴であり、財を累積して巨万に及んだが、全て末弟の保従の子によって費やされてしまった。

子に保吉あり。

保吉は字を祐之とし、初め蔭補により天平軍衙內都指揮使に補せられる。開寶四年、召見され、襲衣・玉帯・金鞍勒馬を賜う。選ばれて太祖の第二女延慶公主に尚し、左衛將軍・駙馬都尉に拝され、まもなく愛州刺史を領す。太平興國初年、本州防禦使に遷る。五年、親吏を遣わして秦・隴の間に竹木を市し、制を矯って関を度るに坐し、王仁贍に発せられ、一季の俸を罰せらる。七年、朔州觀察使に改む。守信卒し、起復して威塞軍節度使となる。雍熙三年、出でて河陽を知る。四年、召し入れて、復た命せられ大名府を知り兵馬都部署を兼ね、連ねて横海・安國二鎮節度使を改む。

真宗即位し、檢校太尉・保平軍節度使を加えらる。車駕北巡し、命ぜられて河北諸路行營都部署と為り、定州に屯す。景德初年、武寧軍節度使・同平章事に改む。冬、澶淵に幸し、命ぜられて李繼隆と分かち駕前東西面都排陣使と為り、軍を北門外にす。遼騎数万驟然として城下に至る、保吉介馬せずして馳せその鋒に当たり、遼人引き去る。まもなく盟を請う、行宮後苑において宴射を錫う。帝、繼隆らに謂いて曰く、「古より北辺患いと為る、今その威を畏れ義に服し、戦を息め民を安んず、卿らの力なり」と。保吉進みて曰く、「臣命を受けて患を禦ぎ、上成算を稟く。布列行陣し、方略を指授するに至りては、皆繼隆に出づ」と。繼隆曰く、「力を宣べ心を用い、躬ら将士を率るは、臣保吉に及ばず」と。帝曰く、「卿ら協和し、共に太平を致す、軍旅の事、朕復た何をか憂えん」と。歓甚だしく、襲衣・金帯・鞍勒馬を以て賜う。

二年、鎮安軍節度使に改む。未だ幾ばくもあらざるに、治所より来朝し、朝請を奉ぜんことを願い、これに従う。四年、部民上りて治状を治め、鎮所に還ることを乞う、詔してこれを獎諭し、仍おその請いに従う。大中祥符初年、東封に従い、司徒しとを摂し、封祀壇にて俎を奉じ、檢校太師を加えられ鎮に還る。冬、公主疾あり、詔して帰視せしめ、主薨ず。明年、保吉卒す、年五十七、中書令を贈られ、諡して莊武と曰う。

保吉は姿貌環碩にして、頗る武幹あり。累世将相たり、家多く財あり、所在に邸舍・別墅あり、饌品と雖も彩繢を以て飾る。生を治め利を射るを好み、性特に驕倨、至る所峻暴にして殺を好み、属吏を待つに礼を以てせず。大名を鎮むるや、葉齊・查道皆知名士たり、嘗て械して以て糧を運ばしむ。初め、程能京西轉運使たりしとき、保吉その私負を治むるを託す、能従わず。ここに至り、その子宿属邑の吏たり、将にこれを辱めんとす、会に辟召ある有りて乃ち止む。又、染家銭を貸し、息尽く入らず、その女を質とす、その父上訴す、真宗亟に命して遣還せしむ。嘗て僕私積を侵盗す、時に求め対せず、配隷を懇請す、帝曰く、「是れ常法有り、不可なり」と。保吉請うて已まず、帝これを戒勖す。

弋獵を善くし、鷙禽獣数百を畜い、官健に令して鳥雀を羅し之を飼わしむ、人規勸する者有れば輒ち之を怒る。陳州に在り、盛んに廨舎を飾りて以て貴主を迓う。因りて城壘を完葺し、牖を上に疏かにして、以て衢路を瞰る、箭窗の状の如し。未だ嘗て上聞せず、賓佐諫むるも聴かず、頗る衆議に渉る。初め、守信陳を鎮め、五十七年にして卒す、及び保吉この鎮を継ぎ、寿も亦た此れに止まる、談者之を異とす。

保吉の子貽孫は、崇儀使・帯御器械に任ぜられ、事に坐して官を免ぜらる。孝孫は、西京左蔵庫使なり。

孫に元孫あり。

元孫は字を善長とし、始め名を慶孫とす、章獻太后の祖諱を避けて之を易う。守信の蔭により東頭供奉官・閣門祗候と為り、累遷して如京副使となる。

仁宗即位し、文思副使・勾當法酒庫に改む。吏酒を盗み、失察に坐し、二官を追われ、復た如京副使と為る。澶州巡検となり、徙めて莫州を知り、治跡有り、礼賓使を以て再任す。又た保州に徙め、廉州刺史を領し、広信・安粛軍縁辺都巡検を兼ぬ。時に屯田を開き、塘水を鑿つ、元孫民田を擅に汚すを訟うる者あり、官を遣わして按視せしむ、訟うる者誣服を以てす、即ち白金五百両を賜い、詔して之を褒諭す。再び遷りて西上閣門使・並代州兵馬鈐轄となり、歴て侍衛親軍歩軍殿前都虞候・鄜延副都総管・縁辺安撫使を経、邕州觀察使に遷る。

康定初年、夏人延州を寇す、元孫之と三川口に戦い、軍敗れて執わる。傳うる者已に死せりと為す、忠正軍節度使兼太傅を贈られ、その子孫七人を録す。及び元昊款を納れ、元孫を帰らしむ。諫官御史元孫軍敗れて死せず、国を辱むと奏し、斬って塞下にせんことを請う。賈昌朝独り言いて曰く、「春秋の時に在り、晉楚の将穀臣を獲、楚晉の将知罃を獲るも、亦たその国に還して誅せず」と。因りて入対し、袖を探りて《魏志于禁傳》を出だして以て奏して曰く、「前代の将臣、敗覆して還るも、多く罪を加えず」と。帝乃ち元孫を貸し、全州に安置す。升祔の赦を以て、内徙して襄州にす。侍御史劉湜言う、「元孫軍を失い命を辱む、朝廷之を貸して誅せず、若し例に従いて量移せば、命を用いるの士を勧むる無し」と。元孫遂に徙らず。後に許州に徙め、京師に還りて卒す。

王審琦

親征して淮南に至り、舒州堅壁未だ下らず、詔して郭令図に刺史を領せしめ、審琦及び司超に命じて精騎を以てその城を攻めしむ、一夕にしてこれを抜き、その刺史を擒え、鎧仗軍儲数十万計を獲る。令図既に城に入る、審琦等遂に黄州を救う、数日、令図舒人に逐わる。審琦軽騎を選び銜枚して夜発し、信宿して城下に至り、大いに舒人を敗り、令図復た治所に還るを得しむ。世宗之を嘉し、散員都指揮使を授く。又た南唐軍を紫金山に破り、先登し、流矢に中り、転じて控鶴右廂都校・虔州団練使を領す。世宗濠州を囲む、審琦敢死士数千人を率いてその水砦を抜き、月城を奪い、濠州遂に降る。及び楚州を攻むるに及び、南面巡検と為り、城将に陥らんとするや、審琦淮人必ず遁るるを意え、伏を設けて之を待つ。少頃、城中の兵果たして南門を鑿ちて潰る、伏兵之を撃ち、数千級を斬り、五千余人を繫ぎ、行在に献じ、名馬・玉帯・錦彩数百匹を賜う。淮南平ぎ、鉄騎右廂都校に改む。又た従いて瓦橋関を平ぐ。恭帝即位し、殿前都虞候・睦州防禦使を領して遷る。

宋初、擢て殿前都指揮使・泰寧軍節度使を領す。李筠を征するに従い、御営前洞屋都部署と為り、飛石に傷つけられ、車駕臨みて視る。澤・潞平ぎ、武成軍節度使を領するを改む。李重進叛く、石守信に副えて前軍部署と為りて之を討つ。

建隆二年、出でて忠正軍節度使と為る。鎮に在ること八年、政を為すに寛簡なり。所部の邑令罪を以てその録事吏を停む、幕僚令先づ府に咨らずと白し、之を按ずるを請う。審琦曰く、「五代以来、諸侯強横にして、令宰県事を専らにすること得ず。今天下治平たり、我忝くも藩維を守るに、而して部内の宰能く黠吏を斥去す、誠に嘉すべきのみ、何の按ずるか之有らん」と。聞く者歎服す。

開寶二年(969年)、太原征討に従軍し、御営四面都巡檢となった。三年、許州鎮守に改められ、甲第を賜り、京師に留まった。太祖はかつて審琦を苑中に召して宴射し、連続して的を射当てたので、御馬・黄金の鞍勒を賜った。六年、高懷德とともに同平章事を加えられた。七年、卒去、享年五十。

初め、審琦が急病に倒れ、言葉を発することができなくなると、帝は自ら見舞いに行き、その死に際してはまたその邸に臨み、慟哭した。中書令を追贈し、琅琊郡王に追封し、賻贈は等を加えた。葬儀の日には、また朝参を廃した。

審琦は重厚にして方略あり、特に騎射を得意とした。壽春を鎮守した時、毎年得る租税は、収入を量って支出し、かつて恣意的な徴発をしなかった。元来酒が飲めなかったが、かつて宴に侍した時、太祖は酒酣に仰いで祝して言った、「酒は天の美禄である。審琦は朕が布衣の時の交わりである。今朕と共に富貴を享けようとしているのに、どうしてそれを惜しんで飲ませないのか」。祝い終わると、振り返って審琦に言った、「天は必ず卿に酒量を賜うであろう。試みに飲んでみよ、恐れるな」。審琦は詔を受けて、十杯を飲んでも苦しむ様子がなかった。これより後、宴に侍する時は常に杯を満たして飲んだが、私宅に帰ると飲めず、あるいは無理に飲むとすぐに病気になった。

子に承衍・承衎・承德・承祐・承俊・承偓・承僎・承僅・承休がいた。承德は西上閣門使・會州刺史に至り、承祐は如京使に至り、承俊・承僎は内殿崇班に至り、承偓は閣門祗候に至り、承僅は左神武將軍で致仕し、承休は内殿承制に至った。

子 承衍

承衍、字は希甫、幼少より端謹であった。審琦が袞・滑・寿春を鎮守した時、いずれも牙職に任じた。開寶初年、内殿供奉官都知に補された。三年、太祖の娘昭慶公主を尚し、右衛將軍・駙馬都尉を授けられ、引き続き都知を充てた。一年余りして、恩州刺史を領し、本州防禦使を加えられた。太平興國初年、応州観察使に遷った。二年春、太宗がその邸に臨み、宴を賜い、承衍は金器・名馬を寿ぎとして献じたので、詔して銀一万両・錦彩五千匹を賜った。三年、検校太保を加えられた。秦・隴で竹木を買い付け、制を矯って税算を免じた罪に坐し、一季の俸を罰せられた。七年、彰国軍節度使を授けられた。

雍熙年中、出て天雄軍府を知り、兼ねて都部署となった。時に契丹が鎮陽を擾し、斥候騎兵が冀州に至り、魏を去ること二百余里であった。隣境は戒厳し、城中は大いに恐れたが、上元節に当たっていたので、承衍は市中及び仏寺に灯を点け楽を設けるよう命じ、賓客や僚佐と宴遊して夜明けまで過ごし、人々はこれによって安堵した。翌年召還され、再び貝冀都部署となった。端拱初年、永清軍節度使に換えられ、再び天雄軍を知った。吏民千余人が監軍の下に詣で、本道の節度使として留任するよう請願し、詔してこれを褒めた。

真宗即位の後、河中尹・護国軍節度使に改められ、検校太尉を加えられた。咸平六年、病を理由に節鉞の罷免を求め、三度抗表したが許されなかった。帝は自ら見舞いに行き、臥内に至って長く慰勉し、賜与は甚だ厚く、尚医数人を選んで交替でその邸に宿直させた。卒去、享年五十二。車駕が臨み、中書令を追贈し、鹵簿を給して葬り、諡して恭肅といった。その後、公主が守塚五戸を置くことを請い、従った。

承衍は騎射に長け、音律に通暁し、学芸に広く渉猟し、吟詠を好んだ。功臣の子として公主を尚し貴顕となり、富財を擁し、自らの生活は甚だ豊かであった。

子に世安・世隆・世雄・世融がいた。世安は崇儀副使・通事舎人に至った。世隆、字は本支、公主の子として如京副使となり、洛苑使・六宅使を歴任し、平州刺史を領した。性驕恣で、毎度諸叔の上座に坐り、人々は皆これを嗤った。景德初年に卒去し、特旨により泰州防禦使を追贈された。その三子を召見し、克基・克緒・克忠と名を賜い、皆面して供奉官を授けた。世雄は内殿崇班に至った。世融は内殿承制となった。世安の子克正は殿中丞となった。克基・克忠はともに西染院副使兼閣門通事舎人となった。克緒は内殿承制に至った。世隆の幼子克明は西上閣門副使となった。

子 承衎

承衎、字は希悅、開寶年中、閑廄使を授けられ、面して紫袍・金帯を賜い、わずか十二歳であった。太平興國年中、出て徐州軍を監し、また西京水南巡検使となり、如京使に改められた。表を上って郡を治めて自ら効を挙げることを求め、潭州知州を命じられ、六宅使に遷り昭州刺史を領し、まもなく澶州知州となり、莊宅使を加えられた。咸平年中、二度にわたり川峽伝詔を賜り、官吏を慰撫し、蛮洞を経略した。連続して延・代・幷の三州を知り、いずれも兵馬鈐轄を兼ね、尚食使に改められた。鳳翔の張雍が病んだので、承衎を代わりに命じ、涇州に移し、下閣門使を授け、永州刺史を領するよう改めた。景德年中、真宗は天水が辺境に近く、蕃漢雑居することを以て、守臣を選んで撫治させようと、承衎を抜擢して秦州知州とし、天雄軍知軍に移した。大中祥符初年、東上閣門使に進秩した。承衎は足を病み、大名では騎乗できず、政務は多く廃弛した。交代の際、告身を賜って家居し、表を上って職の解除を求めたが、許されなかった。長く朝請しないことを理由に近郡を求め、左武衛大将軍に改め、寿州知州となった。二年、卒去、享年四十九。詔してその弟承僎を馳せ往って喪を護らせた。

承衎は学問に広く渉猟し、詩を作ることを好み、赴任地ごとに一つの詩集を編んだ。音律に通暁し、多く士大夫と交遊し、意豁如であった。初め、審琦が寿春を鎮守した時、承衎は郡廨で生まれ、死ぬ時もまたその地であったので、人々は皆これを異とした。

子の世京は閣門祗候となり、世文は内殿崇班となった。

孫 克臣 等

克臣、字は子難。祖父の承衍は秦國賢穆公主をめとる。克臣は景祐年間の進士に及第し、仁宗がその文章を御覧になり、侍臣を顧みて言われた、「賢穆に孫ありて科挙に登第す、喜ばしきことなり」と。官を歴て通判壽州に至る。鼓角卒が夜に州廨に侵入し、郡将を撃つ。既に捕縛されたが、監兵使が配下の者に甲冑を着せ刃を執らせて庭中に立たせたので、官吏は驚いて見守った。克臣はおもむろに言う、「これは盗賊に過ぎぬ」と。直ちに甲冑の者を去らせ、凶悪な兵卒に他人を妄りに引き合いに出すなと戒めると、衆は服して喧噪を止めた。この日は天貺節であったが、掾属を率いて朝謁することを常の儀式の如く行い、人々はこれにより安堵した。しかしながら、なおも罪に坐して監潭州稅に貶せられる。

熙寧年間、開封・度支の二判官となり、塩鉄副使に遷る。時に鄭俠が上書して嶺表に流罪となったが、克臣はかつて俠を推薦し、かつ白金をおくったことがあったため、またも官を奪われる罪に坐した。再び戸部副使となり、集賢殿修撰を以て鄆州知事となる。京東路に盗賊多く、克臣は便宜処断を請う。そこで諸郡に命じて特に凶悪な者を械送して斬り、衆に示し、盗賊は少し衰えた。黄河が曹村で決壊すると、克臣は急いで城下に堤防を築いた。ある者が言う、「黄河は澶淵で決壊し、鄆州からは遠く、かつ州城は高所に移って八十年、水害を知らず、何ぞこの工事を急ぐ必要があろうか」と。克臣は聞かず、工事をますます急がせた。堤防が完成すると、大水が到来し、水没しなかったのは僅か尺余であった。さらに甬道を築き、東平王陵埽に連ね、人々はこれにはしって水を避けることができた。事が収まると、皆その像を描いて祀った。

天章閣侍制に進み、瀛州知事に転ず。外部より敵の間者が入国したと告げる者あり、密旨により速やかに獄案を整えるよう促された。株連する者甚だ多かったが、克臣は密かにこれを緩め、後に他の道で間者を捕らえた。太原知事に転ず。王中正が西方を討って功なく、かえって克臣が士卒を姑息し、固き志を持たせなかったといたてたため、単州に左遷される。翌年、工部侍郎を拝す。この時、神宗が尚書省に行幸し、工部の官舎に至って輦を止め、その治績を賞賛し、若い者でも及ばないとされた。その子の駙馬都尉師約を顧みて入覲させた。元祐四年、龍圖閣直学士・太中大夫の官で卒す。享年七十六。

師約、字は君授。若くして進士の業を習う。英宗が儒生を求めて主婿としようとし、宰相に命じて克臣を召し諭旨を伝え、師約にその為したる文章を持って邸宅に来させた。翌日、賦一編を献上し、その座中で即座に『大人繼明詩』を賦し、遂に対面を賜り、選ばれて駙馬都尉となり、徐國公主を尚る。左衛將軍を授けられ、面して玉帯を賜り、また九経・筆硯を賜り、学問に進むことを勉められた。

神宗即位、嘉州刺史を拝し、成州團練使に遷る。国朝の故事では、主婿は未だ職に就いたことがなかったが、帝は初めて師約に三班院を同管當させ、その才を試みた。翌年、公主が産屋に入るとこれを罷め、汝州防禦使に遷る。初めて駙馬都尉の七年考績法を制定す。晉州觀察使に転ず。

哲宗立つ、鎮安軍節度觀察留後に遷る。宣仁后が臨朝すると、師約は屡々上書して事を言う。元符初年、議者より職分に当たらず上言すべからずとされ、その官秩をはく奪される。徽宗即位、乃ち保平軍留後に復し、また樞密都承旨となるが、間もなくまた罷免される。崇寧元年、卒す。享年五十九。

師約は射術に優れ、嘗て遼使に陪して玉津園で燕射に臨み、一発でまとに中て、発する毎に必ず的を破り、屡々金帯及び鞍勒馬の賜を受けた。

子の殊は、公主の生んだ子で、閬州觀察使に至る。

高懷德

晉末、契丹が南侵し、行周を邢趙路都部署としてこれを防がせ、懷德を留めて睢陽を守らせた。たまたま杜重威が契丹に降り、京東諸州に群盗大いに起こる。懷德は堅壁清野し、敵は侵入できなかった。行周が兵を率いて帰鎮すると、敵は遂に去った。漢の初め、行周が魏博に移鎮し、また天平を領した時、懷德を忠州刺史とし、職務は従前の如く領させた。周祖が慕容彥超を征伐し、還る途上汶上を過ぎた時、行周に寵賜甚だ厚く、併せて懷德にも衣帯・彩繒・鞍勒馬を賜った。

行周卒す。懷德を召して東西班都指揮使・吉州刺史領とし、鐵騎都指揮使に改む。太原の劉崇が侵入し、世宗がこれを討つに、懷德を先鋒都虞候とする。高平にて勝利し、功により鐵騎右廂都指揮使・果州團練使領に遷る。

淮南征伐に従い、廬州行府事を掌り、招安使を充てる。廬州城下に戦い、七百余級を斬首す。まもなく龍捷左廂都指揮使・岳州防禦使領に遷り、駿馬七匹を賜る。南唐の将劉仁贍が壽春を占拠し、舒元が紫金山を占拠し、連珠砦を置いて援護とし、周師に抗した。世宗は懷德に命じ、麾下の親信数十騎を率いてその営壘を偵察させた。懷德は夜に淮水を渡り、夜明け近くになって賊は初めて気付き戦いを挑んできた。懷德は寡兵をもって衆を撃ち、その裨将を生け捕りにして還り、その形勢強弱を悉く偵知して世宗に報告した。世宗大いに喜び、襲衣・金帯・器幣・銀鞍勒馬を賜う。世宗ある日轡を押さえて淮水のほとりに至り賊勢を観察していた時、一将が賊衆を追撃し、槊を奪って還るのを見、左右に命じて問わせると、それは懷德であった。行在所に召して慰労し、節度使の地位を与えることを許諾した。

世宗北征に際し、韓通と共に兵を率いて先ず滄州にいたるよう命じられる。初めに関南を得ると、また陳思讓の副として雄州兵馬都部署とされ、瓦橋関を陥とし、姚内斌を降伏させて帰還した。恭帝嗣位、侍衛馬軍都指揮使・江寧軍節度使領に抜擢され、また北面行營馬軍都指揮使となる。

太祖即位、殿前副都點檢を拝し、滑州に移鎮し、関南副都部署を充て、宣祖の女燕國長公主を尚り、駙馬都尉を加えられる。李筠が上党で叛くと、帝は親征しようとし、先ず懷德に命じて配下の兵を率い石守信と共に進攻させ、澤州の南で筠の軍勢を破った。事平らぎ、功により忠武軍節度使・檢校太尉に遷る。揚州平定に従う。建隆二年、帰徳軍節度使に改む。開宝六年秋、同平章事を加えられる。冬、長公主薨じ、駙馬都尉の称号を除かれる。

太宗即位、兼侍中を加えられ、また檢校太師を加えられる。太平興国三年春、病に罹り、詔して太醫王元佑・道士馬志を邸宅に赴かせて治療させた。四年、太原平定に従い、曹州に移鎮し、冀國公に封ぜられる。七年、武勝軍節度使に改む。是年七月、卒す。享年五十七。中書令を贈られ、渤海郡王を追封され、諡は武穆。

懷德は将家の子として、軍事に熟練し、読書を好まず、性質は簡略で率直、小節に拘らなかった。音律に長じ、自ら新声を作り、曲を度するに極めて精妙であった。狩猟を好み、かつて三五日野営し、狐兎を数百も獲た。ある時は客に対し揖せずに立ち上がり、別門より数十騎を率いて郊外に狩りに出た。

子の處恭は、莊宅使を歴任し、右監門衛大將軍に至り致仕した。處俊は西京作坊使に至った。

韓重贇

宋の初め、翊戴の功により、龍捷左廂都校・永州防禦使を擬せられた。澤・潞征討に従い帰還し、張光翰に代えて侍衛馬步軍都指揮使・江寧軍節度使に命ぜられた。李重進討伐に、行營馬步軍都虞候となった。建隆二年、殿前都指揮使・義成軍節度使に改めた。三年、京畿の丁壮数千を発し、皇城の東北隅を築かせ、かつ有司に洛陽らくようの宮殿を描かせ、図に按じてこれを修め、重贇にその役を監督させた。乾德三年秋、河が澶州で決壊し、重贇に丁壮数十万を督せてこれを塞がせた。

四年、太祖が郊祀を行い、儀仗都部署とした。時に重贇が私に親兵を取って腹心としたと讒言する者があり、太祖は怒り、これを誅せんとした。趙普が諫めて言うには、「親兵は、陛下必ず自ら将とはなさらず、人を選んでこれを付さねばなりません。もし重贇が讒言によって誅せられれば、すなわち人々は罪を恐れ、誰が再び陛下のために親兵を将いるでしょうか」と。太祖はその言を容れ、重贇は誅を免れた。後に普がかつて己を救ったと聞き、すなわち普に詣でて謝したが、普は会おうとしなかった。

五年二月、彰徳軍節度使として出された。開宝二年、太祖が太原を征し、その郡を過ぎると、重贇は王橋頓で迎謁し、燕飲に赴くよう召された。帝は言った、「契丹は我がこの行を知れば、必ず衆を率いて来援するであろう。彼らは鎮・定に備えなしと思い、必ずこの路より入る。卿、我がために兵を領し倍道兼行し、その不意に出で、これを破ることは必ずできるであろう」と。すなわち北面都部署に命じた。重贇は軍士に枚を銜ませ夜発させ、果たして定州で契丹兵に遇い、重贇の旗幟を見て大いに驚き退去せんとし、重贇はこれに乗じ、その衆を大破し、馬数百匹を獲た。太祖は大いに喜び、優詔を以て褒め称えた。七年、卒し、侍中を贈られた。

重贇は釈氏を信奉し、安陽にて六七年、民に課して木を採り寺を建て、郡内これを苦しめた。子に崇訓・崇業あり。

重贇は張光翰・趙彦徽と諸軍節度を分領したのは、その翊戴の功を嘉したのである。光翰は、後唐山南節度使虔剣の兄の子であり、卒すると侍中を贈られた。彦徽は真定安喜の人で、太祖とともに世宗に仕え、太祖は兄事し、卒すると侍中を贈られた。

子 崇訓

崇訓は、字は知禮、乾徳中、蔭により供奉官に補せられ、西京作坊副使に遷り、出て澶州河南北都巡検使となった。太宗に従い河東を征し、還り、貝・冀等州都巡検使として麟州を権知した。

雍熙中、李継遷が夏州を寇すと、崇訓は兵を領して赴援し、これを大敗させた。監夏州軍に徙めた。越・泉・登・莫の四州を知り、威虜軍知軍に徙め、如京使に改めた。咸平初、出て石州知州となった。継遷が境を犯すに属し、崇訓はこれを追襲し、賀蘭山に至って還った。二年、再び麟州を知り、また継遷を城下で敗った。

崇訓は河西より閩・越に徙り、再び北辺に移り、凡そ二十五年、労により西上閣門使・邠甯環慶清遠軍都巡検使に擢られた。鎮・定・高陽関行営鈐轄に徙め、鎮州に屯し、河北都転運使事を兼ねた。契丹兵が方順河に至り、威虜軍を寇さんとしたので、崇訓は唐河に兵を陳べ、その要路を扼した。敵は別騎を遣わして赤堠驛を寇したが、崇訓は兵を分けてこれを擒え戮した。既にして霖雨に値し、敵兵は飢乏して進まず、遂に遁去した。幷・代鈐轄に移り、幷州を権知した。部署張進に従い兵を領して土門より出て大将王超と会し、契丹を定州で襲破した。六年、四方館使・枢密都承旨を授けられた。また鎮・定・高馬歩軍都鈐轄に命ぜられ、定州に屯した。

景德初、契丹が入寇して唐河に至ると、崇訓は河南に兵を陳べた。翌日、また王超とともに追襲して鎮州に至った。既にして都部署桑贊が逗留して進まず、崇訓は兵を帥いて独り往った。時に車駕が澶州に幸し、崇訓を召したので、乃ち還った。三年春、検校太傅を拝した。大中祥符二年、右龍武軍大将軍を授けられ、韶州防禦使を領し、本官のまま西京分司にて卒した。年五十六。

崇訓は人となり長厚で謙遜畏慎、未だ物に忤らなかった。

子の允恭は、礼賓副使であり、謀略あり、学を好み、人々はその家を能く継ぐものと為したという。

子に崇業あり。

崇業は字を継源といい、蔭補により供奉官となり、選ばれて秦廷美の娘雲陽公主に尚し、左臨門衛将軍・駙馬都尉を授かった。廷美が罪を得ると、右千牛衛率府率に降格され、西京に分司し、まもなく官秩を削られ、駙馬の号を奪われ、廷美に従って房陵に貶された。廷美が卒すると、静難軍行軍司馬に起用された。雍熙三年、寧州刺史を授かった。公主が卒すると、州境に葬った。真宗の初年、ようやく入朝することができた。咸平四年、左屯衛大将軍に改め、高州団練使を領し、公主を追封して虢国長公主とした。五年十月、卒す。年四十一。

子の允升は内殿承制・閣門祗候となった。

張令鐸

令鐸は本名を鐸といったが、河中の張鐸と姓名が同じであったため、今の名を賜った。

宋初、馬歩軍都虞候に遷り、陳州節度使を領した。太祖が李筠を征したとき、令鐸を東京旧城内都巡検とした。建隆二年、出て鎮寧軍節度使となった。帝は皇弟の興元尹光美にその第三女を娶らせた。開宝二年、来朝して病にかかり、車駕が臨問し、帛五千匹・銀五千両を賜り、その家人にも甚だ厚く賜った。明年の春、京師にて卒す。年六十。帝は甚だ悲悼し、侍中を贈った。

令鐸は性質仁恕にして、嘗て人に語って曰く、「我が軍に従うこと三十年、大小四十余戦、多くは堅を摧き敵を陥とすも、未だ嘗て妄りに一人を殺さず」と。卒するに及び、人多くこれを惜しんだ。

子の守正は内園使に至った。守恩は、淳化中、累進して崇儀副使となり、やや遷って崇儀使となり、錦州刺史を領した。景德初年、原州知州となり、就いて西上閣門使を加えられ、泰州知州となり、卒した。その子の奉礼郎永安を録用して大理評事とし、後には殿中丞に至った。

羅彦瓌

少帝が澶州に在ったとき、大名府に使を遣わして宣慰せんと欲し、時に河北は契丹の騎兵が充満していたので、遂に軍中のぎょう勇士十人を募って従行させ、彦瓌はその選に備わった。枚を銜みて夜発し、往復期の如く、これにより興順指揮使に補せられた。開運末、契丹主が汴に至り、彦瓌を遣わして厩馬千匹を幽薊に送らせたが、彦瓌は元氏に至り、漢祖が太原にて建号したと聞き、馬を以て漢に帰した。漢祖はこれを嘉した。汴に入ると、護聖指揮使に抜擢された。周初、散員都虞候に遷ったが、枢密使王浚の党に坐し、出て鄧州教練使となった。世宗が位を嗣ぐと、召されて伴飲指揮使とされ、馬歩軍都軍頭に改められた。向訓に従って秦・鳳を収めるに功あり、散指揮都虞候に遷った。

顕徳末、太祖が陳橋より公署に帰入し、宰相范質らに会ったが、未だ言わざるに、彦瓌が剣を挺えて前に進み曰く、「我ら輩に主無し、今日須らく天子を要す」と。質らはこれにより階を降りて命を聴いた。控鶴左廂都指揮使に抜擢され、内外馬軍都軍頭に改められ、眉州防禦使を領した。沢・潞を平らげて還り、趙彦徽に代わって侍衛歩軍都指揮使・武信軍節度使を領することを命ぜられた。建隆二年、出て彰徳軍節度使となった。乾徳二年、安国軍節度使に改まり、昭義軍節度使李継勲と共に契丹を大破した。四年春、また閣門使田欽祚と共に静陽において太原軍千余人を殺し、その将鹿英らを禽え、馬三百匹を獲た。明年、鎮を華州に移した。開宝二年、卒す。年四十七。

王彦昇

太祖が北征し、陳橋に至り、衆に推戴された。彦昇は配下部隊を率いて先に入京し、路において韓通に遇い、その邸に逐って至りこれを殺した。初め、太祖は軍を誓って入京の際秋毫も犯すことなからんとしたが、通の死を聞き、意甚だ楽しまず。建国の始めであることを以て、彦昇を罪せず、恩州団練使・鉄騎左廂都指揮使を拝した。

後に京城巡検となったが、夜中に王溥の邸に詣でた。溥は驚悸して出で、坐すや、乃ち曰く、「此の夕巡警甚だ困す、聊か公に就いて一酔せんのみ」と。彦昇の意は賄を求むるに在ったが、溥は佯って悟らぬふりをし、酒を置き数行して罷めた。翌日、溥は密かにその事を奏し、乃ち出て唐州刺史となった。

乾徳初年、申州団練使に遷った。開宝二年、防州防禦使に改まり、是の冬、また原州に移った。西人で漢法を犯す者があれば、彦昇は刑を加えず、僚属を召して飲宴し、犯者を引いて手を以てその耳を捽ぎ断ち、大いに嚼み、卮酒を以てこれを下した。その人は流血体に被り、股慄して敢えて動かず。前後啖う者数百人。西人はこれを畏れ、敢えて塞を犯さず。七年、病を以て代わりて還る途中、乾州に次いで卒す。年五十八。太祖はその韓通を奪殺したことを以て、終身節鉞を授けなかった。

論ずるに、石守信以下は皆、顕徳の旧臣にして、太祖は懐を開き信任し、その忠力を得たり。一日、黄袍の喩えをもって、自らその兵柄を解かしめ、以てその富貴を保たしめ、以てその子孫に遺す。漢の光武の功臣に対するがごとき、豈に是れに過ぎんや。然れども守信の貨殖鉅万、懐徳の馳逐敗度、豈に亦た是れを以て自ら晦ます者に非ずや。審琦の政下蔡に成り、重贇の功広陵に宣ぶるに至りては、卓乎として称すべきなり。令鐸は身四十余戦にして、未だ妄りに殺すことなく、勇者の仁と謂うべし。彦瓌は革命の日に当たり、首めて剣を挺てて范質に語り、宋に於いては必ずしも功衆に先んずるに在らずと雖も、周に於いてはその過人後に在らず。王彦昇が韓通を殺すや、太祖は罪を加えずと雖も、終身節鉞を授けず、是れ以て後人に訓を垂るるに足れり。保吉・承衍は咸に帝婿を以て藩鎮の位に致る。その駆策せられ、戎功を著すは、則ち保吉優れり。況や功を李継隆に推すは、尤も伐らずして譲り有るなり。然れども名士を械役し、意を縦にして禽荒にふけり、徳を累すること多し。