宋史

列傳第九 石守信 王審琦 高懷德 韓重贇 張令鐸 羅彦瓌 王彦昇

列傳第九 石守信 王審琦 高懷德 韓重贇 張令鐸 羅彦瓌 王彦昇

石守信

原文石守信

太祖が即位すると、侍衛馬歩軍副都指揮使に遷り、帰徳軍節度使を領するよう改めた。李筠が叛くと、守信は高懐徳とともに前軍を率いて進討し、長平において李筠の軍を破り、三千級を斬首した。またその軍三万を沢州で破り、偽河陽節度使范守図を捕らえ、太原からの援軍数千を降伏させ、皆これを殺した。沢州・潞州が平定され、功により同平章事を加えられた。李重進が揚州で反すると、守信を行営都部署兼知揚州行府事とした。帝が親征して大儀頓に至ると、守信は馳せて奏上した、「城は旦夕に破れましょう。大駕が親臨されれば、一鼓の下に平定できます。」帝は急ぎ赴き、果たしてその城を攻克した。建隆二年、鄆州に移鎮し、兼侍衛親軍馬歩軍都指揮使となり、詔して本州に邸宅一区を賜った。

原文太祖即位,遷侍衛馬步軍副都指揮使,改領歸德軍節度。李筠叛,守信與高懷德率前軍進討,破筠眾于長平,斬首三千級。又敗其眾三萬於澤州,獲偽河陽節度范守圖,降太原援軍數千,皆殺之。澤、潞平,以功加同平章事。李重進反揚州,以守信為行營都部署兼知揚州行府事。帝親征至大儀頓,守信馳奏:「城破在朝夕,大駕親臨,一鼓可平。」帝亟赴之,果克其城。建隆二年,移鎮鄆州,兼侍衛親軍馬步軍都指揮使,詔賜本州宅一區。

乾徳初年、帝は晩朝の後に守信らと酒を飲み、酒酣の頃、帝は言った、「我は汝らがなければここまで至らなかった。しかし我が天子たるは、節度使たる楽しみに全く及ばず、我は終夜未だ嘗て安枕して臥したことがない。」守信らは頓首して言った、「今天命已に定まり、誰か再び敢えて異心を抱く者がありましょう。陛下何ぞこの言葉を出されるのですか。」帝は言った、「人孰れか富貴を欲せざる者があろうか。一旦黄袍を汝の身に加うる者あらば、たとえ欲せざるとも、それ叶うことがあろうか。」守信らは謝して言った、「臣ら愚かでこの点に及びません。惟うに陛下の哀れみを乞います。」帝は言った、「人生は駒の隙を過ぐるが如し。多く金を積み、田宅を買い求めて子孫に遺し、歌児舞女を以て天年を終えるに如かず。君臣の間に猜嫌無きは、また善からずや。」守信は謝して言った、「陛下がこのことをお考えくださるのは、いわゆる死せるを生かし骨に肉をつけるものです。」明日、皆病気と称し、兵権を解くことを乞うた。帝はこれに従い、皆散官として邸宅に就かせ、賞賜は甚だ厚かった。

原文乾德初,帝因晚朝與守信等飲酒,酒酣,帝曰:「我非爾曹不及此,然吾為天子,殊不若為節度使之樂,吾終夕未嘗安枕而臥。」守信等頓首曰:「今天命已定,誰復敢有異心,陛下何為出此言耶?」帝曰:「人孰不欲富貴,一旦有以黃袍加汝之身,雖欲不為,其可得乎?」守信等謝曰:「臣愚不及此,惟陛下哀矜之。」帝曰:「人生駒過隙爾,不如多積金、市田宅以遺子孫,歌兒舞女以終天年。君臣之間無所猜嫌,不亦善乎?」守信謝曰:「陛下念及此,所謂生死而肉骨也。」明日,皆稱病,乞解兵權,帝從之,皆以散官就第,賞齎甚厚。

その後、太祖は符彦卿に軍を管轄させようとした。趙普はたびたび諫め、彦卿の名位は既に盛んであり、再び兵権を委ねるべきではないとし、太祖は従わなかった。任命の宣旨が既に出されたが、普は再びそれを懐中にしまった。太祖は迎えて言った、「まさか符彦卿の件ではないか。」答えて言った、「違います。」そして他の事を奏上した。奏事が終わると、ようやく彦卿の宣旨を取り出して進呈した。太祖は言った、「果たしてそうか。宣旨はどうしてまた卿の所にあるのか。」普は言った、「臣は処分の言葉に不明瞭な点があると託言し、再び留めました。惟うに陛下には利害を深くお考えいただき、再び悔やまれませんように。」太祖は言った、「卿は苦しんで彦卿を疑うのは、何故か。朕は彦卿を厚く遇している。彦卿がどうして朕に背くことがあろうか。」普は答えて言った、「陛下はどうして周世宗に背くことができたのですか。」太祖は黙然とし、事は遂に中止された。

原文已而,太祖欲使符彥卿管軍,趙普屢諫,以為彥卿名位已盛,不可復委以兵權,太祖不從。宣已出,普復懷之,太祖迎謂之曰:「豈非符彥卿事耶?」對曰:「非也。」因奏他事。既罷,乃出彥卿宣進之,太祖曰:「果然,宣何以復在卿所?」普曰:「臣託以處分之語有侏㒧者,復留之。惟陛下深思利害,勿復悔。」太祖曰:「卿苦疑彥卿,何也?朕待彥卿厚,彥卿豈負朕耶!」普對曰:「陛下何以能負周世宗?」太祖默然,事遂中止。

開宝六年秋、守信に兼侍中を加えた。太平興国初年、兼中書令を加えた。二年、中書令に拝し、河南尹を行い、西京留守を充任した。三年、検校太師を加えた。四年、范陽征討に従い、前軍を督して軍律を失い、責められて崇信軍節度使・兼中書令に授けられ、まもなく衛国公に進封された。七年、陳州に移鎮し、中書令を守ることを復した。九年、卒去。五十七歳。尚書令しょうしょれいを贈られ、威武郡王を追封され、諡は武烈。

原文開寶六年秋,加守信兼侍中。太平興國初,加兼中書令。二年,拜中書令,行河南尹,充西京留守。三年,加檢校太師。四年,從征范陽,督前軍失律,責授崇信軍節度、兼中書令,俄進封衛國公。七年,徙鎮陳州,復守中書令。九年,卒,年五十七,贈尚書令,追封威武郡王,諡武烈。

守信は累任して節度使を務め、専ら聚斂に務め、財を積んで巨万に及んだ。特に釈氏を信奉し、西京に崇徳寺を建立し、民を募って瓦木を運搬させたが、駆り立ては甚だ急で、雇い賃を与えず、人多くこれを苦しんだ。子に保興・保吉あり。

原文守信累任節鎮,專務聚斂,積財鉅萬。尤信奉釋氏,在西京建崇德寺,募民輦瓦木,驅迫甚急,而傭直不給,人多苦之。子保興、保吉。

子 保興

原文子 保興

保興、字は光裔、本名は保正。太祖が興宗の意味を取って改めた。建隆初年、十四歳で、蔭により供奉官に補せられた。明年、尚食副使に遷った。太祖が嘗て功臣の子弟を召して時事を問うたところ、保興は最も年少であったが、応対が明白で、太祖はこれを奇とし、如京使に拝した。開宝年中、順州刺史を領した。太宗が河東を征した時、御砦四面都巡検使となった。太平興国八年、高陽関監軍として出向した。守信が卒去すると、起復し、本州団練使を領した。雍熙初年、契丹が辺境を擾した時、戴興・楊守一とともに澶州前軍駐泊となった。

原文保興,字光裔,本名保正,太祖取興宗之義改之。建隆初,年十四,以蔭補供奉官。明年,遷尚食副使。太祖嘗召功臣子弟詢以時事,保興年最少,應對明白,太祖奇之,拜如京使。開寶中,領順州刺史。太宗征河東,為御砦四面都巡檢。太平興國八年,出為高陽關監軍。守信卒,起復,領本州團練使。雍熙初,契丹擾邊,與戴興、楊守一並為澶州前軍駐泊。

李継遷が侵入し掠奪すると、銀・夏・綏府都巡検使に転じた。嘗て罨子砦を巡按し、黒水河に沿って谷中に趣いたところ、夏人がこれを知り、数千騎で険阻を占め、河を渡って戦いを求めた。保興の率いる部衆は二千人に満たず、そこで短兵を分けて河辺に伏せ、その半ば渡るを俟ち、急にこれを撃ち、百余級を斬首し、敗走を追って数十里に及び、優詔をもって褒め称えられた。

原文李繼遷入鈔,徙銀、夏、綏府都巡檢使。嘗巡按罨子砦,並黑水河,趣谷中,夏人知之,以數千騎據險,渡河求戰。保興所部不滿二千人,乃分短兵伏於河滸,俟其半渡,急擊之,斬首百餘級,追北數十里,優詔褒美。

端拱年中、平戎軍知軍となり、莫州に転じ、まもなく西京都巡検使となった。淳化五年、真に蘄州団練使に拝し、永興軍鈐轄となり、夏・綏・麟・府州鈐轄に改めた。至道二年、延州都巡検使兼署州事に転じ、本路副都部署に改め、范重召らと五路で賊を討った。岌伽羅膩数族が衆を率いて来て抵抗したので、保興は敢死の士数百人を選び枚を銜ませて夜襲し、これを殲滅した。ここより呉移・越移諸族が帰降した。還るに当たり、烏・白池に至ると、賊がまた方陣をなして来て抵抗した。保興は衆を指揮して陣中を出入りしたが、ちょうど乗馬が流れ矢に当たり、身を挺して弓を引き満たし、馬を乗り換えて奮呼し、且つ行き且つ戦い、凡そ三日に四十二戦し、賊は遂に引き去った。

原文端拱中,知平戎軍,徙莫州,俄為西京都巡檢使。淳化五年,真拜蘄州團練使,為永興軍鈐轄,改夏、綏、麟、府州鈐轄。至道二年,徙延州都巡檢使兼署州事,改本路副都部署,與范重召等五路討賊。有岌伽羅膩數族率眾來拒,保興選敢死士數百人銜枚夜擊,殲之。自是吳移、越移諸族歸降。還,至烏、白池,賊又為方陣來拒。保興麾眾出入陣中,會乘馬中流矢,挺身持滿,易騎奮呼,且行且鬥,凡三日四十二戰,賊遂引去。

咸平二年、威虜軍知軍となった。時に夏人が侵入掠奪すると、保興は官庫の銭数万緡を発して戦士に分け与えようとしたが、主管の者が固執して不可とした。保興は言った、「城がこのように危ういのに、どうして中央への覆奏に暇があろうか。事が定まり、覆奏して允されなければ、家財を以て償うことを願う。」夏人が退くと、駅伝を以て上聞し、真宗はこれを許して問わなかった。

原文咸平二年,知威虜軍。會夏人入鈔,保興發官帑錢數萬緡分給戰士,主者固執不可。保興曰:「城危如此,安暇中覆,事定,覆而不允,願以家財償之。」夏人退,驛置以聞,真宗貸而不問。

三年、そのまま棣州防禦使に拝した。邢州知州に転じ、澶州に改めた。郡において刑罰を頗る峻烈にし、人を捶つ毎に、杖をゆるやかに施すよう命じ、日影が移るほど時間をかけてようやく終えた。五年、病気を理由に京師への帰還を求めた。まもなく卒去。五十八歳。子に元孫あり。

原文三年,就拜棣州防禦使。徙知邢州,改澶州。在郡頗峻刑罰,每捶人,令緩施其杖,移晷方畢。五年,以疾求歸京師。未幾卒,年五十八。子元孫。

保興は代々豪貴であり、財を累積して巨万に及んだが、全て末弟の保従の子によって費やされてしまった。

原文保興世豪貴,累財鉅萬,悉為季弟保從之子所廢。

子に保吉あり。

原文子 保吉

保吉は字を祐之とし、初め蔭補により天平軍衙內都指揮使に補せられる。開寶四年、召見され、襲衣・玉帯・金鞍勒馬を賜う。選ばれて太祖の第二女延慶公主に尚し、左衛將軍・駙馬都尉に拝され、まもなく愛州刺史を領す。太平興國初年、本州防禦使に遷る。五年、親吏を遣わして秦・隴の間に竹木を市し、制を矯って関を度るに坐し、王仁贍に発せられ、一季の俸を罰せらる。七年、朔州觀察使に改む。守信卒し、起復して威塞軍節度使となる。雍熙三年、出でて河陽を知る。四年、召し入れて、復た命せられ大名府を知り兵馬都部署を兼ね、連ねて横海・安國二鎮節度使を改む。

原文保吉,字祐之,初以蔭補天平軍衙內都指揮使。開寶四年,召見,賜襲衣、玉帶、金鞍勒馬。選尚太祖第二女延慶公主,拜左衛將軍、駙馬都尉,俄領愛州刺史。太平興國初,遷本州防禦使。五年,坐遣親吏市竹木秦、隴間,矯制度關,為王仁贍所發,罰一季俸。七年,改朔州觀察使。守信卒,起復,為威塞軍節度。雍熙三年,出知河陽。四年,召入,復命知大名府兼兵馬都部署,連改橫海、安國二鎮節度。

真宗即位し、檢校太尉・保平軍節度使を加えらる。車駕北巡し、命ぜられて河北諸路行營都部署と為り、定州に屯す。景德初年、武寧軍節度使・同平章事に改む。冬、澶淵に幸し、命ぜられて李繼隆と分かち駕前東西面都排陣使と為り、軍を北門外にす。遼騎数万驟然として城下に至る、保吉介馬せずして馳せその鋒に当たり、遼人引き去る。まもなく盟を請う、行宮後苑において宴射を錫う。帝、繼隆らに謂いて曰く、「古より北辺患いと為る、今その威を畏れ義に服し、戦を息め民を安んず、卿らの力なり」と。保吉進みて曰く、「臣命を受けて患を禦ぎ、上成算を稟く。布列行陣し、方略を指授するに至りては、皆繼隆に出づ」と。繼隆曰く、「力を宣べ心を用い、躬ら将士を率るは、臣保吉に及ばず」と。帝曰く、「卿ら協和し、共に太平を致す、軍旅の事、朕復た何をか憂えん」と。歓甚だしく、襲衣・金帯・鞍勒馬を以て賜う。

原文真宗即位,加檢校太尉、保平軍節度。車駕北巡,命為河北諸路行營都部署,屯定州。景德初,改武寧軍節度、同平章事。冬,幸澶淵,命與李繼隆分為駕前東西面都排陣使,軍於北門外。遼騎數萬驟至城下,保吉不介馬而馳當其鋒,遼人引去。俄而請盟,錫宴射于行宮後苑。帝謂繼隆等曰:「自古北邊為患,今其畏威服義,息戰安民,卿等力也。」保吉進曰:「臣受命禦患,上稟成算。至於布列行陣,指授方略,皆出於繼隆。」繼隆曰:「宣力用心,躬率將士,臣不及保吉。」帝曰:「卿等協和,共致太平,軍旅之事,朕復何憂。」歡甚,賜以襲衣、金帶、鞍勒馬。

二年、鎮安軍節度使に改む。未だ幾ばくもあらざるに、治所より来朝し、朝請を奉ぜんことを願い、これに従う。四年、部民上りて治状を治め、鎮所に還ることを乞う、詔してこれを獎諭し、仍おその請いに従う。大中祥符初年、東封に従い、司徒しとを摂し、封祀壇にて俎を奉じ、檢校太師を加えられ鎮に還る。冬、公主疾あり、詔して帰視せしめ、主薨ず。明年、保吉卒す、年五十七、中書令を贈られ、諡して莊武と曰う。

原文二年,改鎮安軍節度。未幾,自治所來朝,願奉朝請,從之。四年,部民上治狀,乞還鎮所,詔獎諭之,仍從其請。大中祥符初,從東封,攝司徒,封祀壇奉俎,加檢校太師還鎮。冬,公主疾,詔歸視,主薨。明年,保吉卒,年五十七,贈中書令,諡莊武。

保吉は姿貌環碩にして、頗る武幹あり。累世将相たり、家多く財あり、所在に邸舍・別墅あり、饌品と雖も彩繢を以て飾る。生を治め利を射るを好み、性特に驕倨、至る所峻暴にして殺を好み、属吏を待つに礼を以てせず。大名を鎮むるや、葉齊・查道皆知名士たり、嘗て械して以て糧を運ばしむ。初め、程能京西轉運使たりしとき、保吉その私負を治むるを託す、能従わず。ここに至り、その子宿属邑の吏たり、将にこれを辱めんとす、会に辟召ある有りて乃ち止む。又、染家銭を貸し、息尽く入らず、その女を質とす、その父上訴す、真宗亟に命して遣還せしむ。嘗て僕私積を侵盗す、時に求め対せず、配隷を懇請す、帝曰く、「是れ常法有り、不可なり」と。保吉請うて已まず、帝これを戒勖す。

原文保吉姿貌環碩,頗有武幹。累世將相,家多財,所在有邸舍、別墅,雖饌品亦飾以彩繢。好治生射利,性尤驕倨,所至峻暴好殺,待屬吏不以禮。鎮大名也,葉齊、查道皆知名士,嘗械以運糧。初,程能為京西轉運,保吉託治其私負,能不從。至是,其子宿為屬邑吏,將辱之,會有辟召乃止。又染家貸錢,息不盡入,質其女,其父上訴,真宗亟命遣還。嘗有僕侵盜私積,不時求對,懇請配隸,帝曰:「是有常法,不可。」保吉請不已,帝戒勖之。

弋獵を善くし、鷙禽獣数百を畜い、官健に令して鳥雀を羅し之を飼わしむ、人規勸する者有れば輒ち之を怒る。陳州に在り、盛んに廨舎を飾りて以て貴主を迓う。因りて城壘を完葺し、牖を上に疏かにして、以て衢路を瞰る、箭窗の状の如し。未だ嘗て上聞せず、賓佐諫むるも聴かず、頗る衆議に渉る。初め、守信陳を鎮め、五十七年にして卒す、及び保吉この鎮を継ぎ、寿も亦た此れに止まる、談者之を異とす。

原文善弋獵,畜鷙禽獸數百,令官健羅鳥雀飼之,人有規勸者輒怒之。在陳州,盛飾廨舍以迓貴主。因完葺城壘,疏牖於上,以瞰衢路,如箭窗狀。未嘗上聞,賓佐諫之不聽,頗涉眾議。初,守信鎮陳,五十七年卒,及保吉繼是鎮,壽亦止是,談者異之。

保吉の子貽孫は、崇儀使・帯御器械に任ぜられ、事に坐して官を免ぜらる。孝孫は、西京左蔵庫使なり。

原文保吉子貽孫,任崇儀使、帶御器械,坐事免官。孝孫,西京左藏庫使。

孫に元孫あり。

原文孫 元孫

元孫は字を善長とし、始め名を慶孫とす、章獻太后の祖諱を避けて之を易う。守信の蔭により東頭供奉官・閣門祗候と為り、累遷して如京副使となる。

原文元孫,字善長,始名慶孫,避章獻太后祖諱易之。以守信蔭為東頭供奉官、閣門祗候,累遷如京副使。

仁宗即位し、文思副使・勾當法酒庫に改む。吏酒を盗み、失察に坐し、二官を追われ、復た如京副使と為る。澶州巡検となり、徙めて莫州を知り、治跡有り、礼賓使を以て再任す。又た保州に徙め、廉州刺史を領し、広信・安粛軍縁辺都巡検を兼ぬ。時に屯田を開き、塘水を鑿つ、元孫民田を擅に汚すを訟うる者あり、官を遣わして按視せしむ、訟うる者誣服を以てす、即ち白金五百両を賜い、詔して之を褒諭す。再び遷りて西上閣門使・並代州兵馬鈐轄となり、歴て侍衛親軍歩軍殿前都虞候・鄜延副都総管・縁辺安撫使を経、邕州觀察使に遷る。

原文仁宗即位,改文思副使、勾當法酒庫。吏盜酒,坐失察,追二官,復如京副使。為澶州巡檢,徙知莫州,有治跡,以禮賓使再任。又徙保州,領廉州刺史,兼廣信、安肅軍緣邊都巡檢。時開屯田,鑿塘水,有訟元孫擅汚民田者,遣官按視,訟者以誣服,即賜白金五百兩,詔褒諭之。再遷西上閣門使、並代州兵馬鈐轄,歷侍衛親軍步軍殿前都虞候、鄜延副都總管、緣邊安撫使,遷邕州觀察使。

康定初年、夏人延州を寇す、元孫之と三川口に戦い、軍敗れて執わる。傳うる者已に死せりと為す、忠正軍節度使兼太傅を贈られ、その子孫七人を録す。及び元昊款を納れ、元孫を帰らしむ。諫官御史元孫軍敗れて死せず、国を辱むと奏し、斬って塞下にせんことを請う。賈昌朝独り言いて曰く、「春秋の時に在り、晉楚の将穀臣を獲、楚晉の将知罃を獲るも、亦たその国に還して誅せず」と。因りて入対し、袖を探りて《魏志于禁傳》を出だして以て奏して曰く、「前代の将臣、敗覆して還るも、多く罪を加えず」と。帝乃ち元孫を貸し、全州に安置す。升祔の赦を以て、内徙して襄州にす。侍御史劉湜言う、「元孫軍を失い命を辱む、朝廷之を貸して誅せず、若し例に従いて量移せば、命を用いるの士を勧むる無し」と。元孫遂に徙らず。後に許州に徙め、京師に還りて卒す。

原文康定初,夏人寇延州,元孫與戰于三川口,軍敗見執。傳者以為已死,贈忠正軍節度使兼太傅,錄其子孫七人。及元昊納款,縱元孫歸。諫官御史奏元孫軍敗不死,辱國,請斬塞下。賈昌朝獨言曰:「在春秋時,晉獲楚將穀臣,楚獲晉將知罃,亦還其國不誅。」因入對,探袖出《魏志于禁傳》以奏曰:「前代將臣,敗覆而還,多不加罪。」帝乃貸元孫,安置全州。以升祔赦,內徙襄州。侍御史劉湜言:「元孫失軍辱命,朝廷貸而不誅,若例從量移,無以勸用命之士。」元孫遂不徙。後徙許州,還京師卒。

王審琦

原文王審琦

親征して淮南に至り、舒州堅壁未だ下らず、詔して郭令図に刺史を領せしめ、審琦及び司超に命じて精騎を以てその城を攻めしむ、一夕にしてこれを抜き、その刺史を擒え、鎧仗軍儲数十万計を獲る。令図既に城に入る、審琦等遂に黄州を救う、数日、令図舒人に逐わる。審琦軽騎を選び銜枚して夜発し、信宿して城下に至り、大いに舒人を敗り、令図復た治所に還るを得しむ。世宗之を嘉し、散員都指揮使を授く。又た南唐軍を紫金山に破り、先登し、流矢に中り、転じて控鶴右廂都校・虔州団練使を領す。世宗濠州を囲む、審琦敢死士数千人を率いてその水砦を抜き、月城を奪い、濠州遂に降る。及び楚州を攻むるに及び、南面巡検と為り、城将に陥らんとするや、審琦淮人必ず遁るるを意え、伏を設けて之を待つ。少頃、城中の兵果たして南門を鑿ちて潰る、伏兵之を撃ち、数千級を斬り、五千余人を繫ぎ、行在に献じ、名馬・玉帯・錦彩数百匹を賜う。淮南平ぎ、鉄騎右廂都校に改む。又た従いて瓦橋関を平ぐ。恭帝即位し、殿前都虞候・睦州防禦使を領して遷る。

原文親征淮南,舒州堅壁未下,詔以郭令圖領刺史,命審琦及司超以精騎攻其城,一夕拔之,擒其刺史,獲鎧仗軍儲數十萬計。令圖既入城,審琦等遂救黃州,數日,令圖為舒人所逐。審琦選輕騎銜枚夜發,信宿至城下,大敗舒人,令圖得復還治所。世宗嘉之,授散員都指揮使。又破南唐軍於紫金山,先登,中流矢,轉控鶴右廂都校、領虔州團練使。世宗圍濠州,審琦率敢死士數千人拔其水砦,奪月城,濠州遂降。及攻楚州,為南面巡檢,城將陷,審琦意淮人必遁,設伏待之。少頃,城中兵果鑿南門而潰,伏兵擊之,斬數千級,繫五千餘人,獻於行在,賜名馬、玉帶、錦彩數百匹。淮南平,改鐵騎右廂都校。又從平瓦橋關。恭帝即位,遷殿前都虞候、領睦州防禦使。

宋初、擢て殿前都指揮使・泰寧軍節度使を領す。李筠を征するに従い、御営前洞屋都部署と為り、飛石に傷つけられ、車駕臨みて視る。澤・潞平ぎ、武成軍節度使を領するを改む。李重進叛く、石守信に副えて前軍部署と為りて之を討つ。

原文宋初,擢為殿前都指揮使、領泰寧軍節度。從征李筠,為御營前洞屋都部署,為飛石所傷,車駕臨視。澤、潞平,改領武成軍節度。李重進叛,副石守信為前軍部署討之。

建隆二年、出でて忠正軍節度使と為る。鎮に在ること八年、政を為すに寛簡なり。所部の邑令罪を以てその録事吏を停む、幕僚令先づ府に咨らずと白し、之を按ずるを請う。審琦曰く、「五代以来、諸侯強横にして、令宰県事を専らにすること得ず。今天下治平たり、我忝くも藩維を守るに、而して部内の宰能く黠吏を斥去す、誠に嘉すべきのみ、何の按ずるか之有らん」と。聞く者歎服す。

原文建隆二年,出為忠正軍節度。在鎮八年,為政寬簡。所部邑令以罪停其錄事吏,幕僚白令不先咨府,請按之。審琦曰:「五代以來,諸侯強橫,令宰不得專縣事。今天下治平,我忝守藩維,而部內宰能斥去黠吏,誠可嘉爾,何按之有?」聞者歎服。

開寶二年(969年)、太原征討に従軍し、御営四面都巡檢となった。三年、許州鎮守に改められ、甲第を賜り、京師に留まった。太祖はかつて審琦を苑中に召して宴射し、連続して的を射当てたので、御馬・黄金の鞍勒を賜った。六年、高懷德とともに同平章事を加えられた。七年、卒去、享年五十。

原文開寶二年,從征太原,為御營四面都巡檢。三年,改鎮許州,賜甲第,留京師。太祖嘗召審琦宴射苑中,連中的,賜御馬、黃金鞍勒。六年,與高懷德並加同平章事。七年,卒,年五十。

初め、審琦が急病に倒れ、言葉を発することができなくなると、帝は自ら見舞いに行き、その死に際してはまたその邸に臨み、慟哭した。中書令を追贈し、琅琊郡王に追封し、賻贈は等を加えた。葬儀の日には、また朝参を廃した。

原文初,審琦暴疾,不能語,帝親臨視,及卒,又幸其第,哭之慟。賜中書令,追封琅琊郡王,賻贈加等。葬日,又為廢朝。

審琦は重厚にして方略あり、特に騎射を得意とした。壽春を鎮守した時、毎年得る租税は、収入を量って支出し、かつて恣意的な徴発をしなかった。元来酒が飲めなかったが、かつて宴に侍した時、太祖は酒酣に仰いで祝して言った、「酒は天の美禄である。審琦は朕が布衣の時の交わりである。今朕と共に富貴を享けようとしているのに、どうしてそれを惜しんで飲ませないのか」。祝い終わると、振り返って審琦に言った、「天は必ず卿に酒量を賜うであろう。試みに飲んでみよ、恐れるな」。審琦は詔を受けて、十杯を飲んでも苦しむ様子がなかった。これより後、宴に侍する時は常に杯を満たして飲んだが、私宅に帰ると飲めず、あるいは無理に飲むとすぐに病気になった。

原文審琦重厚有方略,尤善騎射。鎮壽春,歲得租課,量入為出,未嘗有所誅求。素不能飲,嘗侍宴,太祖酒酣仰祝曰:「酒,天之美祿;審琦,朕布衣交也。方與朕共享富貴,何靳之不令飲邪?」祝畢,顧謂審琦曰:「天必賜卿酒量,試飲之,勿憚也。」審琦受詔,飲十杯無苦。自此侍宴常引滿,及歸私家即不能飲,或強飲輒病。

子に承衍・承衎・承德・承祐・承俊・承偓・承僎・承僅・承休がいた。承德は西上閣門使・會州刺史に至り、承祐は如京使に至り、承俊・承僎は内殿崇班に至り、承偓は閣門祗候に至り、承僅は左神武將軍で致仕し、承休は内殿承制に至った。

原文子承衍、承衎、承德、承祐、承俊、承偓、承僎、承僅、承休。承德至西上閣門使、會州刺史;承祐至如京使;承俊、承僎至內殿崇班;承偓至閣門祗候;承僅至左神武將軍致仕;承休至內殿承制。

子 承衍

原文子 承衍

承衍、字は希甫、幼少より端謹であった。審琦が袞・滑・寿春を鎮守した時、いずれも牙職に任じた。開寶初年、内殿供奉官都知に補された。三年、太祖の娘昭慶公主を尚し、右衛將軍・駙馬都尉を授けられ、引き続き都知を充てた。一年余りして、恩州刺史を領し、本州防禦使を加えられた。太平興國初年、応州観察使に遷った。二年春、太宗がその邸に臨み、宴を賜い、承衍は金器・名馬を寿ぎとして献じたので、詔して銀一万両・錦彩五千匹を賜った。三年、検校太保を加えられた。秦・隴で竹木を買い付け、制を矯って税算を免じた罪に坐し、一季の俸を罰せられた。七年、彰国軍節度使を授けられた。

原文承衍,字希甫,幼端謹。審琦鎮袞、滑、壽春,皆署以牙職。開寶初,補內殿供奉官都知。三年,尚太祖女昭慶公主,授右衛將軍、駙馬都尉,仍充都知。逾年,領恩州刺史,加本州防禦使。太平興國初,遷應州觀察使。二年春,太宗幸其第,賜宴,承衍以金器、名馬為壽,詔賜銀萬兩、錦彩五千匹。三年,加檢校太保。坐市竹木秦、隴,矯制免稅算,罰一季俸。七年,授彰國軍節度。

雍熙年中、出て天雄軍府を知り、兼ねて都部署となった。時に契丹が鎮陽を擾し、斥候騎兵が冀州に至り、魏を去ること二百余里であった。隣境は戒厳し、城中は大いに恐れたが、上元節に当たっていたので、承衍は市中及び仏寺に灯を点け楽を設けるよう命じ、賓客や僚佐と宴遊して夜明けまで過ごし、人々はこれによって安堵した。翌年召還され、再び貝冀都部署となった。端拱初年、永清軍節度使に換えられ、再び天雄軍を知った。吏民千余人が監軍の下に詣で、本道の節度使として留任するよう請願し、詔してこれを褒めた。

原文雍熙中,出知天雄軍府兼都部署。時契丹擾鎮陽,候騎至冀州,去魏二百餘里。鄰境戒嚴,城中大恐,屬上元節,承衍下令市中及佛寺然燈設樂,與賓佐宴游達旦,人賴以安。明年召還,復為貝冀都部署。端拱初,換永清軍節度,再知天雄軍。吏民千餘詣監軍,請為本道節帥,詔褒之。

真宗即位の後、河中尹・護国軍節度使に改められ、検校太尉を加えられた。咸平六年、病を理由に節鉞の罷免を求め、三度抗表したが許されなかった。帝は自ら見舞いに行き、臥内に至って長く慰勉し、賜与は甚だ厚く、尚医数人を選んで交替でその邸に宿直させた。卒去、享年五十二。車駕が臨み、中書令を追贈し、鹵簿を給して葬り、諡して恭肅といった。その後、公主が守塚五戸を置くことを請い、従った。

原文真宗即位,改河中尹、護國軍節度,加檢校太尉。咸平六年,以疾求罷節鉞,三抗表不許。帝自臨問,至臥內慰勉久之,賜予甚厚,擇尚醫數人迭宿其第。卒,年五十二。車駕臨,贈中書令,給鹵簿葬,諡恭肅。其後公主請置守塚五戶,從之。

承衍は騎射に長け、音律に通暁し、学芸に広く渉猟し、吟詠を好んだ。功臣の子として公主を尚し貴顕となり、富財を擁し、自らの生活は甚だ豊かであった。

原文承衍善騎射,曉音律,頗涉學藝,好吟詠。以功臣子尚主貴顯,擁富貲,自奉甚厚。

子に世安・世隆・世雄・世融がいた。世安は崇儀副使・通事舎人に至った。世隆、字は本支、公主の子として如京副使となり、洛苑使・六宅使を歴任し、平州刺史を領した。性驕恣で、毎度諸叔の上座に坐り、人々は皆これを嗤った。景德初年に卒去し、特旨により泰州防禦使を追贈された。その三子を召見し、克基・克緒・克忠と名を賜い、皆面して供奉官を授けた。世雄は内殿崇班に至った。世融は内殿承制となった。世安の子克正は殿中丞となった。克基・克忠はともに西染院副使兼閣門通事舎人となった。克緒は内殿承制に至った。世隆の幼子克明は西上閣門副使となった。

原文子世安、世隆、世雄、世融。世安至崇儀副使、通事舍人。世隆,字本支,以公主子為如京副使,歷洛苑、六宅二使、領平州刺史。性驕恣,每坐諸叔之上,人皆嗤之。景德初卒,特贈泰州防禦使。召見其三子,賜名克基、克緒、克忠,皆面授供奉官。世雄至內殿崇班。世融為內殿承制。世安子克正殿中丞。克基、克忠並為西染院副使兼閣門通事舍人。克緒至內殿承制。世隆幼子克明為西上閣門副使。

子 承衎

原文子 承衎

承衎、字は希悅、開寶年中、閑廄使を授けられ、面して紫袍・金帯を賜い、わずか十二歳であった。太平興國年中、出て徐州軍を監し、また西京水南巡検使となり、如京使に改められた。表を上って郡を治めて自ら効を挙げることを求め、潭州知州を命じられ、六宅使に遷り昭州刺史を領し、まもなく澶州知州となり、莊宅使を加えられた。咸平年中、二度にわたり川峽伝詔を賜り、官吏を慰撫し、蛮洞を経略した。連続して延・代・幷の三州を知り、いずれも兵馬鈐轄を兼ね、尚食使に改められた。鳳翔の張雍が病んだので、承衎を代わりに命じ、涇州に移し、下閣門使を授け、永州刺史を領するよう改めた。景德年中、真宗は天水が辺境に近く、蕃漢雑居することを以て、守臣を選んで撫治させようと、承衎を抜擢して秦州知州とし、天雄軍知軍に移した。大中祥符初年、東上閣門使に進秩した。承衎は足を病み、大名では騎乗できず、政務は多く廃弛した。交代の際、告身を賜って家居し、表を上って職の解除を求めたが、許されなかった。長く朝請しないことを理由に近郡を求め、左武衛大将軍に改め、寿州知州となった。二年、卒去、享年四十九。詔してその弟承僎を馳せ往って喪を護らせた。

原文承衎,字希悅,開寶中,授閑廄使,面賜紫袍、金帶,才十二歲。太平興國中,出監徐州軍,又為西京水南巡檢使,改如京使。表求治郡自效,命知潭州,遷六宅使、領昭州刺史,俄知澶州,加莊宅使。咸平中,兩賜川峽傳詔,慰撫官吏,經略蠻洞。連知延、代、幷三州,皆兼兵馬鈐轄,改尚食使。鳳翔張雍病,命承衎代之,徙涇州,授下閣門使,改領永州刺史。景德中,真宗以天水近邊,蕃漢雜處,擇守臣撫治,擢承衎知秦州,徙知天雄軍。大中祥符初,進秩東上閣門使。承衎病足,在大名不能騎,政多廢馳,及代,賜告家居,表求解職,不允。以久不朝請,求近郡,改左武衛大將軍,知壽州。二年,卒,年四十九。詔遣其弟承僎馳往護喪。

承衎は学問に広く渉猟し、詩を作ることを好み、赴任地ごとに一つの詩集を編んだ。音律に通暁し、多く士大夫と交遊し、意豁如であった。初め、審琦が寿春を鎮守した時、承衎は郡廨で生まれ、死ぬ時もまたその地であったので、人々は皆これを異とした。

原文承衎頗涉學,喜為詩,所至為一集。曉音律,多與士大夫游,意豁如也。初,審琦鎮壽春,承衎生於郡廨,至卒亦於其地,人咸異之。

子の世京は閣門祗候となり、世文は内殿崇班となった。

原文子世京為閣門祗候,世文內殿崇班。

孫 克臣 等

原文孫 克臣 等

克臣、字は子難。祖父の承衍は秦國賢穆公主を尚めとる。克臣は景祐年間の進士に及第し、仁宗がその文章を御覧になり、侍臣を顧みて言われた、「賢穆に孫ありて科挙に登第す、喜ばしきことなり」と。官を歴て通判壽州に至る。鼓角卒が夜に州廨に侵入し、郡将を撃つ。既に捕縛されたが、監兵使が配下の者に甲冑を着せ刃を執らせて庭中に立たせたので、官吏は驚いて見守った。克臣は徐おもむろに言う、「これは盗賊に過ぎぬ」と。直ちに甲冑の者を去らせ、凶悪な兵卒に他人を妄りに引き合いに出すなと戒めると、衆は服して喧噪を止めた。この日は天貺節であったが、掾属を率いて朝謁することを常の儀式の如く行い、人々はこれにより安堵した。しかしながら、なおも罪に坐して監潭州稅に貶せられる。

原文克臣,字子難。祖承衍尚秦國賢穆公主。克臣第景祐進士,仁宗閱其文,顧侍臣曰:「賢穆有孫登科,可喜也。」仕累通判壽州。鼓角卒夜入州廨,擊郡將,既就擒,而監兵使所部被甲操刃立庭中,官吏駭觀。克臣徐言曰:「此不過為盜耳。」立遣甲者去,戒兇卒勿妄引他人,眾讙服,是日天貺節,率掾屬朝謁如常儀,人賴以安,猶坐貶監潭州稅。

熙寧年間、開封・度支の二判官となり、塩鉄副使に遷る。時に鄭俠が上書して嶺表に流罪となったが、克臣はかつて俠を推薦し、かつ白金を饋おくったことがあったため、またも官を奪われる罪に坐した。再び戸部副使となり、集賢殿修撰を以て鄆州知事となる。京東路に盗賊多く、克臣は便宜処断を請う。そこで諸郡に命じて特に凶悪な者を械送して斬り、衆に示し、盗賊は少し衰えた。黄河が曹村で決壊すると、克臣は急いで城下に堤防を築いた。ある者が言う、「黄河は澶淵で決壊し、鄆州からは遠く、かつ州城は高所に移って八十年、水害を知らず、何ぞこの工事を急ぐ必要があろうか」と。克臣は聞かず、工事をますます急がせた。堤防が完成すると、大水が到来し、水没しなかったのは僅か尺余であった。さらに甬道を築き、東平王陵埽に連ね、人々はこれに趨はしって水を避けることができた。事が収まると、皆その像を描いて祀った。

原文熙寧中,為開封、度支二判官,遷鹽鐵副使。時鄭俠以上書竄嶺表,克臣嘗薦俠,且饋之白金,又坐奪官。復為戶部副使,以集賢殿修撰知鄆州。京東多盜,克臣請以便宜處決,遂下諸郡使械送尤桀者斬以徇,盜為少衰。河決曹村,克臣亟築堤城下,或曰:「河決澶淵,去鄆為遠,且州徙于高,八十年不知有水患,安事此。」克臣不聽,役愈急,堤成,水大至,不沒者才尺餘。復起甬道,屬之東平王陵埽,人得趨以避水。事寧,皆繪像祀之。

天章閣侍制に進み、瀛州知事に転ず。外部より敵の間者が入国したと告げる者あり、密旨により速やかに獄案を整えるよう促された。株連する者甚だ多かったが、克臣は密かにこれを緩め、後に他の道で間者を捕らえた。太原知事に転ず。王中正が西方を討って功なく、かえって克臣が士卒を姑息し、固き志を持たせなかったと誣しいたてたため、単州に左遷される。翌年、工部侍郎を拝す。この時、神宗が尚書省に行幸し、工部の官舎に至って輦を止め、その治績を賞賛し、若い者でも及ばないとされた。その子の駙馬都尉師約を顧みて入覲させた。元祐四年、龍圖閣直学士・太中大夫の官で卒す。享年七十六。

原文進天章閣侍制,徙知瀛州,有告外間入境,密旨趣具獄,株連甚眾,克臣陰緩之,已而得為間者於他道。徙知太原,王中正西討罔功,而誣克臣姑息士卒,使無固志,黜為單州。明年,拜工部侍郎。至是,神宗幸尚書省,至部舍止輦,獎其治力,以為雖少者不及。顧其子駙馬都尉師約使入覲。元祐四年,以龍圖閣直學士、太中大夫卒,年七十六。

師約、字は君授。若くして進士の業を習う。英宗が儒生を求めて主婿としようとし、宰相に命じて克臣を召し諭旨を伝え、師約にその為したる文章を持って邸宅に来させた。翌日、賦一編を献上し、その座中で即座に『大人繼明詩』を賦し、遂に対面を賜り、選ばれて駙馬都尉となり、徐國公主を尚る。左衛將軍を授けられ、面して玉帯を賜り、また九経・筆硯を賜り、学問に進むことを勉められた。

原文師約,字君授,少習進士業。英宗欲求儒生為主婿,命宰相召克臣諭旨,令師約持所為文至第。明日,獻賦一編,即坐中賦《大人繼明詩》,遂賜對,選為駙馬都尉,尚徐國公主。授左衛將軍,面賜玉帶,又賜九經、筆硯,勉之進學。

神宗即位、嘉州刺史を拝し、成州團練使に遷る。国朝の故事では、主婿は未だ職に就いたことがなかったが、帝は初めて師約に三班院を同管當させ、その才を試みた。翌年、公主が産屋に入るとこれを罷め、汝州防禦使に遷る。初めて駙馬都尉の七年考績法を制定す。晉州觀察使に転ず。

原文神宗即位,拜嘉州刺史,遷成州團練使。國朝故事,主婿未嘗居職,帝始令師約同管當三班院,試其才。明年,主就館乃罷,遷汝州防禦使。始制駙馬都尉七年考績法。轉晉州觀察使。

哲宗立つ、鎮安軍節度觀察留後に遷る。宣仁后が臨朝すると、師約は屡々上書して事を言う。元符初年、議者より職分に当たらず上言すべからずとされ、その官秩を褫はく奪される。徽宗即位、乃ち保平軍留後に復し、また樞密都承旨となるが、間もなくまた罷免される。崇寧元年、卒す。享年五十九。

原文哲宗立,遷鎮安軍節度觀察留後。宣仁后臨朝,師約屢上書言事。元符初,議者以為職不當上言,褫其秩。徽宗即位,乃復保平軍留後,又為樞密都承旨,未幾復罷。崇甯元年,卒,年五十九。

師約は射術に優れ、嘗て遼使に陪して玉津園で燕射に臨み、一発で鵠まとに中て、発する毎に必ず的を破り、屡々金帯及び鞍勒馬の賜を受けた。

原文師約善射,嘗陪遼使燕射玉津園,一發中鵠,發必破的,屢受金帶及鞍勒馬之賜。

子の殊は、公主の生んだ子で、閬州觀察使に至る。

原文子殊,主所生,至閬州觀察使。

高懷德

原文高懷德

晉末、契丹が南侵し、行周を邢趙路都部署としてこれを防がせ、懷德を留めて睢陽を守らせた。会たまたま杜重威が契丹に降り、京東諸州に群盗大いに起こる。懷德は堅壁清野し、敵は侵入できなかった。行周が兵を率いて帰鎮すると、敵は遂に去った。漢の初め、行周が魏博に移鎮し、また天平を領した時、懷德を忠州刺史とし、職務は従前の如く領させた。周祖が慕容彥超を征伐し、還る途上汶上を過ぎた時、行周に寵賜甚だ厚く、併せて懷德にも衣帯・彩繒・鞍勒馬を賜った。

原文晉末,契丹南侵,以行周為邢趙路都部署禦之,留懷德守睢陽。會杜重威降契丹,京東諸州群盜大起,懷德堅壁清野,敵不能入。行周率兵歸鎮,敵遂解去。漢初,行周移鎮魏博,及再領天平,以懷德為忠州刺史領職如故。周祖征慕容彥超,還過汶上,寵賜行周甚厚,並賜懷德衣帶、彩繒、鞍勒馬。

行周卒す。懷德を召して東西班都指揮使・吉州刺史領とし、鐵騎都指揮使に改む。太原の劉崇が侵入し、世宗がこれを討つに、懷德を先鋒都虞候とする。高平にて勝利し、功により鐵騎右廂都指揮使・果州團練使領に遷る。

原文行周卒,召懷德為東西班都指揮使、領吉州刺史,改鐵騎都指揮使。太原劉崇入寇,世宗討之,以懷德為先鋒都虞候。高平克捷,以功遷鐵騎右廂都指揮使、領果州團練使。

淮南征伐に従い、廬州行府事を掌り、招安使を充てる。廬州城下に戦い、七百余級を斬首す。尋まもなく龍捷左廂都指揮使・岳州防禦使領に遷り、駿馬七匹を賜る。南唐の将劉仁贍が壽春を占拠し、舒元が紫金山を占拠し、連珠砦を置いて援護とし、周師に抗した。世宗は懷德に命じ、麾下の親信数十騎を率いてその営壘を偵察させた。懷德は夜に淮水を渡り、夜明け近くになって賊は初めて気付き戦いを挑んできた。懷德は寡兵をもって衆を撃ち、その裨将を生け捕りにして還り、その形勢強弱を悉く偵知して世宗に報告した。世宗大いに喜び、襲衣・金帯・器幣・銀鞍勒馬を賜う。世宗ある日轡を押さえて淮水のほとりに至り賊勢を観察していた時、一将が賊衆を追撃し、槊を奪って還るのを見、左右に命じて問わせると、それは懷德であった。行在所に召して慰労し、節度使の地位を与えることを許諾した。

原文從征淮南,知廬州行府事,充招安使。戰廬州城下,斬首七百餘級。尋遷龍捷左廂都指揮使、領岳州防禦使,賜駿馬七匹。南唐將劉仁贍據壽春,舒元據紫金山,置連珠砦為援,以抗周師。世宗命懷德率帳下親信數十騎覘其營壘。懷德夜涉淮,遲明,賊始覺來戰,懷德以少擊眾,擒其裨將以還,盡偵知其形勢強弱,以白世宗。世宗大喜,賜襲衣、金帶、器幣、銀鞍勒馬。世宗一日因按轡淮壖以觀賊勢,見一將追擊賊眾,奪槊以還,令左右問之,乃懷德也。召至行在慰勞,許以節鋮。

世宗北征に際し、韓通と共に兵を率いて先ず滄州に抵いたるよう命じられる。初めに関南を得ると、また陳思讓の副として雄州兵馬都部署とされ、瓦橋関を陥とし、姚内斌を降伏させて帰還した。恭帝嗣位、侍衛馬軍都指揮使・江寧軍節度使領に抜擢され、また北面行營馬軍都指揮使となる。

原文世宗北征,命與韓通率兵先抵滄州。初得關南,又命副陳思讓為雄州兵馬都部署,克瓦橋關,降姚內斌以歸。恭帝嗣位,擢為侍衛馬軍都指揮使、領江寧軍節度,又為北面行營馬軍都指揮使。

太祖即位、殿前副都點檢を拝し、滑州に移鎮し、関南副都部署を充て、宣祖の女燕國長公主を尚り、駙馬都尉を加えられる。李筠が上党で叛くと、帝は親征しようとし、先ず懷德に命じて配下の兵を率い石守信と共に進攻させ、澤州の南で筠の軍勢を破った。事平らぎ、功により忠武軍節度使・檢校太尉に遷る。揚州平定に従う。建隆二年、帰徳軍節度使に改む。開宝六年秋、同平章事を加えられる。冬、長公主薨じ、駙馬都尉の称号を除かれる。

原文太祖即位,拜殿前副都點檢,移鎮滑州,充關南副都部署,尚宣祖女燕國長公主,加駙馬都尉。李筠叛上黨,帝將親征,先令懷德率所部與石守信進攻,破筠眾于澤州南。事平,以功遷忠武軍節度、檢校太尉。從平揚州。建隆二年,改歸德軍節度。開寶六年秋,加同平章事;冬,長公主薨,去駙馬都尉號。

太宗即位、兼侍中を加えられ、また檢校太師を加えられる。太平興国三年春、病に罹り、詔して太醫王元佑・道士馬志を邸宅に赴かせて治療させた。四年、太原平定に従い、曹州に移鎮し、冀國公に封ぜられる。七年、武勝軍節度使に改む。是年七月、卒す。享年五十七。中書令を贈られ、渤海郡王を追封され、諡は武穆。

原文太宗即位,加兼侍中,又加檢校太師。太平興國三年春,被病,詔太醫王元佑、道士馬志就第療之。四年,從平太原,改鎮曹州,封冀國公。七年,改武勝軍節度。是年七月,卒,年五十七,贈中書令,追封渤海郡王,諡武穆。

懷德は将家の子として、軍事に熟練し、読書を好まず、性質は簡略で率直、小節に拘らなかった。音律に長じ、自ら新声を作り、曲を度するに極めて精妙であった。狩猟を好み、かつて三五日野営し、狐兎を数百も獲た。ある時は客に対し揖せずに立ち上がり、別門より数十騎を率いて郊外に狩りに出た。

原文懷德將家子,練習戎事,不喜讀書,性簡率,不拘小節。善音律,自為新聲,度曲極精妙。好射獵,嘗三五日露宿野次,獲狐兔累數百,或對客不揖而起,由別門引數十騎從禽於郊。

子の處恭は、莊宅使を歴任し、右監門衛大將軍に至り致仕した。處俊は西京作坊使に至った。

原文子處恭,歷莊宅使至右監門衛大將軍致仕。處俊至西京作坊使。

韓重贇

原文韓重贇

宋の初め、翊戴の功により、龍捷左廂都校・永州防禦使を擬せられた。澤・潞征討に従い帰還し、張光翰に代えて侍衛馬步軍都指揮使・江寧軍節度使に命ぜられた。李重進討伐に、行營馬步軍都虞候となった。建隆二年、殿前都指揮使・義成軍節度使に改めた。三年、京畿の丁壮数千を発し、皇城の東北隅を築かせ、かつ有司に洛陽らくようの宮殿を描かせ、図に按じてこれを修め、重贇にその役を監督させた。乾德三年秋、河が澶州で決壊し、重贇に丁壮数十万を督せてこれを塞がせた。

原文宋初,以翊戴功,擬為龍捷左廂都校、領永州防禦使。從征澤、潞還,命代張光翰為侍衛馬步軍都指揮使、領江寧軍節度。討李重進,為行營馬步軍都虞候。建隆二年,改殿前都指揮使、領義成軍節度。三年,發京畿丁壯數千,築皇城東北隅,且令有司繪洛陽宮殿,按圖修之,命重贇董其役。乾德三年秋,河決澶州,命重贇督丁壯數十萬塞之。

四年、太祖が郊祀を行い、儀仗都部署とした。時に重贇が私に親兵を取って腹心としたと讒言する者があり、太祖は怒り、これを誅せんとした。趙普が諫めて言うには、「親兵は、陛下必ず自ら将とはなさらず、人を選んでこれを付さねばなりません。もし重贇が讒言によって誅せられれば、すなわち人々は罪を恐れ、誰が再び陛下のために親兵を将いるでしょうか」と。太祖はその言を容れ、重贇は誅を免れた。後に普がかつて己を救ったと聞き、すなわち普に詣でて謝したが、普は会おうとしなかった。

原文四年,太祖郊祀,以為儀仗都部署。時有譖贇私取親兵為腹心者,太祖怒,欲誅之。趙普諫曰:「親兵,陛下必不自將,須擇人付之。若重贇以讒誅,即人人懼罪,誰復為陛下將親兵者?。」太祖納其言,重贇得不誅。後聞普嘗救己,即詣普謝,普拒不見。

五年二月、彰徳軍節度使として出された。開宝二年、太祖が太原を征し、その郡を過ぎると、重贇は王橋頓で迎謁し、燕飲に赴くよう召された。帝は言った、「契丹は我がこの行を知れば、必ず衆を率いて来援するであろう。彼らは鎮・定に備えなしと思い、必ずこの路より入る。卿、我がために兵を領し倍道兼行し、その不意に出で、これを破ることは必ずできるであろう」と。すなわち北面都部署に命じた。重贇は軍士に枚を銜ませ夜発させ、果たして定州で契丹兵に遇い、重贇の旗幟を見て大いに驚き退去せんとし、重贇はこれに乗じ、その衆を大破し、馬数百匹を獲た。太祖は大いに喜び、優詔を以て褒め称えた。七年、卒し、侍中を贈られた。

原文五年二月,出為彰德軍節度。開寶二年,太祖征太原,過其郡,重贇迎謁于王橋頓,召赴燕飲。帝曰:「契丹知我是行,必率眾來援,彼意鎮、定無備,必由此路入。卿為我領兵倍道兼行,出其不意,破之必矣。」乃命為北面都部署。重贇令軍士銜枚夜發,果遇契丹兵於定州,見重贇旗幟,大駭欲引去,重贇乘之,大破其眾,獲馬數百匹。太祖大喜,優詔褒美。七年,卒,贈侍中。

重贇は釈氏を信奉し、安陽にて六七年、民に課して木を採り寺を建て、郡内これを苦しめた。子に崇訓・崇業あり。

原文重贇信奉釋氏,在安陽六七年,課民采木為寺,郡內苦之。子崇訓、崇業。

重贇は張光翰・趙彦徽と諸軍節度を分領したのは、その翊戴の功を嘉したのである。光翰は、後唐山南節度使虔剣の兄の子であり、卒すると侍中を贈られた。彦徽は真定安喜の人で、太祖とともに世宗に仕え、太祖は兄事し、卒すると侍中を贈られた。

原文重贇與張光翰、趙彥徽分領諸軍節度,嘉其翊戴功也。光翰,後唐山南節度使虔劍兄子,及卒,贈侍中。彥徽,真定安喜人,與太祖同事世宗,太祖兄事之,及卒,贈侍中。

子 崇訓

原文子 崇訓

崇訓は、字は知禮、乾徳中、蔭により供奉官に補せられ、西京作坊副使に遷り、出て澶州河南北都巡検使となった。太宗に従い河東を征し、還り、貝・冀等州都巡検使として麟州を権知した。

原文崇訓,字知禮,乾德中,以蔭補供奉官,遷西京作坊副使,出為澶州河南北都巡檢使。從太宗征河東,還,以貝、冀等州都巡檢使權知麟州。

雍熙中、李継遷が夏州を寇すと、崇訓は兵を領して赴援し、これを大敗させた。監夏州軍に徙めた。越・泉・登・莫の四州を知り、威虜軍知軍に徙め、如京使に改めた。咸平初、出て石州知州となった。継遷が境を犯すに属し、崇訓はこれを追襲し、賀蘭山に至って還った。二年、再び麟州を知り、また継遷を城下で敗った。

原文雍熙中,李繼遷寇夏州,崇訓領兵赴援,大敗之。徙監夏州軍。歷知越、泉、登、莫四州,徙知威虜軍,改如京使。咸平初,出知石州。屬繼遷犯境,崇訓追襲之,至賀蘭山而還。二年,再知麟州,又敗繼遷於城下。

崇訓は河西より閩・越に徙り、再び北辺に移り、凡そ二十五年、労により西上閣門使・邠甯環慶清遠軍都巡検使に擢られた。鎮・定・高陽関行営鈐轄に徙め、鎮州に屯し、河北都転運使事を兼ねた。契丹兵が方順河に至り、威虜軍を寇さんとしたので、崇訓は唐河に兵を陳べ、その要路を扼した。敵は別騎を遣わして赤堠驛を寇したが、崇訓は兵を分けてこれを擒え戮した。既にして霖雨に値し、敵兵は飢乏して進まず、遂に遁去した。幷・代鈐轄に移り、幷州を権知した。部署張進に従い兵を領して土門より出て大将王超と会し、契丹を定州で襲破した。六年、四方館使・枢密都承旨を授けられた。また鎮・定・高馬歩軍都鈐轄に命ぜられ、定州に屯した。

原文崇訓由河西徙閩、越,再移北邊,凡二十五年,以勞擢西上閣門使、邠甯環慶清遠軍都巡檢使。徙鎮、定、高陽關行營鈐轄,屯鎮州,兼河北都轉運使事。契丹兵至方順河,將寇威虜軍,崇訓陳兵唐河,扼其要路。敵遣別騎寇赤堠驛崇,崇訓分兵擒戮之。既而值霖雨,敵兵饑乏不敢進,遂遁去。移幷、代鈐轄,權知幷州。從部署張進領兵由土門會大將王超,襲破契丹於定州。六年,授四方館使、樞密都承旨。又命為鎮、定、高馬步軍都鈐轄,屯定州。

景德初、契丹が入寇して唐河に至ると、崇訓は河南に兵を陳べた。翌日、また王超とともに追襲して鎮州に至った。既にして都部署桑贊が逗留して進まず、崇訓は兵を帥いて独り往った。時に車駕が澶州に幸し、崇訓を召したので、乃ち還った。三年春、検校太傅を拝した。大中祥符二年、右龍武軍大将軍を授けられ、韶州防禦使を領し、本官のまま西京分司にて卒した。年五十六。

原文景德初,契丹入寇至唐河,崇訓陳兵河南。翌日,又與王超追襲至鎮州。既而都部署桑贊逗留不進,崇訓帥兵獨往。時車駕幸澶州,召崇訓,乃還。三年春,拜檢校太傅。大中祥符二年,授右龍武軍大將軍,領韶州防禦使,以本官分司西京卒,年五十六。

崇訓は人となり長厚で謙遜畏慎、未だ物に忤らなかった。

原文崇訓為人長厚謙畏,未嘗忤物。

子の允恭は、礼賓副使であり、謀略あり、学を好み、人々はその家を能く継ぐものと為したという。

原文子允恭,禮賓副使,有謀略,好學,人以為能世其家云。

子に崇業あり。

原文子 崇業

崇業は字を継源といい、蔭補により供奉官となり、選ばれて秦廷美の娘雲陽公主に尚し、左臨門衛将軍・駙馬都尉を授かった。廷美が罪を得ると、右千牛衛率府率に降格され、西京に分司し、まもなく官秩を削られ、駙馬の号を奪われ、廷美に従って房陵に貶された。廷美が卒すると、静難軍行軍司馬に起用された。雍熙三年、寧州刺史を授かった。公主が卒すると、州境に葬った。真宗の初年、ようやく入朝することができた。咸平四年、左屯衛大将軍に改め、高州団練使を領し、公主を追封して虢国長公主とした。五年十月、卒す。年四十一。

原文崇業,字繼源,以蔭補供奉官,選尚秦廷美女雲陽公主,授左臨門衛將軍、駙馬都尉。廷美得罪,降為右千牛衛率府率,分司西京,俄削秩,去駙馬之號,從貶房陵。廷美卒,起為靜難軍行軍司馬。雍熙三年,授甯州刺史。公主卒,葬州境。真宗初,始得入朝。咸平四年,改左屯衛大將軍、領高州團練使,追封公主為虢國長公主。五年十月,卒,年四十一。

子の允升は内殿承制・閣門祗候となった。

原文子允升為內殿承制、閣門祗候。

張令鐸

原文張令鐸

令鐸は本名を鐸といったが、河中の張鐸と姓名が同じであったため、今の名を賜った。

原文令鐸本名鐸,以與河中張鐸同姓名,故賜今名。

宋初、馬歩軍都虞候に遷り、陳州節度使を領した。太祖が李筠を征したとき、令鐸を東京旧城内都巡検とした。建隆二年、出て鎮寧軍節度使となった。帝は皇弟の興元尹光美にその第三女を娶らせた。開宝二年、来朝して病にかかり、車駕が臨問し、帛五千匹・銀五千両を賜り、その家人にも甚だ厚く賜った。明年の春、京師にて卒す。年六十。帝は甚だ悲悼し、侍中を贈った。

原文宋初,遷馬步軍都虞候、領陳州節制。太祖征李筠,以令鐸為東京舊城內都巡檢。建隆二年,出為鎮寧軍節度。帝為皇弟興元尹光美娶其第三女。開寶二年,來朝被病,車駕臨問,賜帛五千匹、銀五千兩,並賜其家人甚厚。明年春,卒于京師,年六十。帝甚悲悼,贈侍中。

令鐸は性質仁恕にして、嘗て人に語って曰く、「我が軍に従うこと三十年、大小四十余戦、多くは堅を摧き敵を陥とすも、未だ嘗て妄りに一人を殺さず」と。卒するに及び、人多くこれを惜しんだ。

原文令鐸性仁恕,嘗語人曰:「我從軍三十年,大小四十餘戰,多摧堅陷敵,未嘗妄殺一人。」及卒,人多惜之。

子の守正は内園使に至った。守恩は、淳化中、累進して崇儀副使となり、やや遷って崇儀使となり、錦州刺史を領した。景德初年、原州知州となり、就いて西上閣門使を加えられ、泰州知州となり、卒した。その子の奉礼郎永安を録用して大理評事とし、後には殿中丞に至った。

原文子守正,至內園使。守恩,淳化中,累至崇儀副使,稍遷崇儀使,領錦州刺史,。景德初,知原州,就加西上閣門使、知泰州,卒,。錄其子奉禮郎永安為大理評事,後至殿中丞。

羅彦瓌

原文羅彥瓌

少帝が澶州に在ったとき、大名府に使を遣わして宣慰せんと欲し、時に河北は契丹の騎兵が充満していたので、遂に軍中の驍ぎょう勇士十人を募って従行させ、彦瓌はその選に備わった。枚を銜みて夜発し、往復期の如く、これにより興順指揮使に補せられた。開運末、契丹主が汴に至り、彦瓌を遣わして厩馬千匹を幽薊に送らせたが、彦瓌は元氏に至り、漢祖が太原にて建号したと聞き、馬を以て漢に帰した。漢祖はこれを嘉した。汴に入ると、護聖指揮使に抜擢された。周初、散員都虞候に遷ったが、枢密使王浚の党に坐し、出て鄧州教練使となった。世宗が位を嗣ぐと、召されて伴飲指揮使とされ、馬歩軍都軍頭に改められた。向訓に従って秦・鳳を収めるに功あり、散指揮都虞候に遷った。

原文少帝在澶州,欲命使宣慰大名府,時河北契丹騎充斥,遂募軍中驍勇士十人從行,彥瓌備選。銜枚夜發,往返如期,由是補興順指揮使。開運末,契丹主至汴,遣彥瓌送廄馬千匹赴幽薊,彥瓌至元氏,聞漢祖建號太原,以馬歸漢,漢祖嘉之。及入汴,擢為護聖指揮使。周初,遷散員都虞候,坐樞密使王浚黨,出為鄧州教練使。世宗嗣位,召為伴飲指揮使,改馬步軍都軍頭。從向訓收秦、鳳有功,遷散指揮都虞候。

顕徳末、太祖が陳橋より公署に帰入し、宰相范質らに会ったが、未だ言わざるに、彦瓌が剣を挺えて前に進み曰く、「我ら輩に主無し、今日須らく天子を要す」と。質らはこれにより階を降りて命を聴いた。控鶴左廂都指揮使に抜擢され、内外馬軍都軍頭に改められ、眉州防禦使を領した。沢・潞を平らげて還り、趙彦徽に代わって侍衛歩軍都指揮使・武信軍節度使を領することを命ぜられた。建隆二年、出て彰徳軍節度使となった。乾徳二年、安国軍節度使に改まり、昭義軍節度使李継勲と共に契丹を大破した。四年春、また閣門使田欽祚と共に静陽において太原軍千余人を殺し、その将鹿英らを禽え、馬三百匹を獲た。明年、鎮を華州に移した。開宝二年、卒す。年四十七。

原文顯德末,太祖自陳橋入歸公署,見宰相范質等,未及言,彥瓌不挺劍而前曰:「我輩無主,今日須天子。」質等由是降階聽命。擢為控鶴左廂都指揮使,改內外馬軍都軍頭、領眉州防禦使。從平澤、潞還,命代趙彥徽為侍衛步軍都指揮使、領武信軍節度。建隆二年,出為彰德軍節度。乾德二年,改安國軍節度,與昭義軍節度李繼勳大破契丹。四年春,又與閣門使田欽祚殺太原軍千餘人于靜陽,禽其將鹿英等,獲馬三百匹。明年,移鎮華州。開寶二年,卒,年四十七。

王彦昇

原文王彥昇

太祖が北征し、陳橋に至り、衆に推戴された。彦昇は配下部隊を率いて先に入京し、路において韓通に遇い、その邸に逐って至りこれを殺した。初め、太祖は軍を誓って入京の際秋毫も犯すことなからんとしたが、通の死を聞き、意甚だ楽しまず。建国の始めであることを以て、彦昇を罪せず、恩州団練使・鉄騎左廂都指揮使を拝した。

原文太祖北征,至陳橋,為眾推戴。彥昇以所部先入京,遇韓通于路,逐至第殺之。初,太祖誓軍入京不得有秋毫犯,及聞通死,意甚不樂。以建國之始,不及罪彥昇,拜恩州團練使、領鐵騎左廂都指揮使。

後に京城巡検となったが、夜中に王溥の邸に詣でた。溥は驚悸して出で、坐すや、乃ち曰く、「此の夕巡警甚だ困す、聊か公に就いて一酔せんのみ」と。彦昇の意は賄を求むるに在ったが、溥は佯って悟らぬふりをし、酒を置き数行して罷めた。翌日、溥は密かにその事を奏し、乃ち出て唐州刺史となった。

原文後為京城巡檢,中夜詣王溥第,溥驚悸而出,既坐,乃曰:「此夕巡警甚困,聊就公一醉耳。」彥昇意在求賄,溥佯不悟,置酒數行而罷。翌日,溥密奏其事,乃出為唐州刺史。

乾徳初年、申州団練使に遷った。開宝二年、防州防禦使に改まり、是の冬、また原州に移った。西人で漢法を犯す者があれば、彦昇は刑を加えず、僚属を召して飲宴し、犯者を引いて手を以てその耳を捽ぎ断ち、大いに嚼み、卮酒を以てこれを下した。その人は流血体に被り、股慄して敢えて動かず。前後啖う者数百人。西人はこれを畏れ、敢えて塞を犯さず。七年、病を以て代わりて還る途中、乾州に次いで卒す。年五十八。太祖はその韓通を奪殺したことを以て、終身節鉞を授けなかった。

原文乾德初,遷申州團練使。開寶二年,改防州防禦使,是冬,又移原州。西人有犯漢法者,彥昇不加刑,召僚屬飲宴,引所犯以手捽斷其耳,大嚼,卮酒下之。其人流血被體,股慄不敢動。前後㗖者數百人。西人畏之,不敢犯塞。七年,以病代還,次乾州卒,年五十八。太祖以其奪殺韓通,終身不授節鋮。

論ずるに、石守信以下は皆、顕徳の旧臣にして、太祖は懐を開き信任し、その忠力を得たり。一日、黄袍の喩えをもって、自らその兵柄を解かしめ、以てその富貴を保たしめ、以てその子孫に遺す。漢の光武の功臣に対するがごとき、豈に是れに過ぎんや。然れども守信の貨殖鉅万、懐徳の馳逐敗度、豈に亦た是れを以て自ら晦ます者に非ずや。審琦の政下蔡に成り、重贇の功広陵に宣ぶるに至りては、卓乎として称すべきなり。令鐸は身四十余戦にして、未だ妄りに殺すことなく、勇者の仁と謂うべし。彦瓌は革命の日に当たり、首めて剣を挺てて范質に語り、宋に於いては必ずしも功衆に先んずるに在らずと雖も、周に於いてはその過人後に在らず。王彦昇が韓通を殺すや、太祖は罪を加えずと雖も、終身節鉞を授けず、是れ以て後人に訓を垂るるに足れり。保吉・承衍は咸に帝婿を以て藩鎮の位に致る。その駆策せられ、戎功を著すは、則ち保吉優れり。況や功を李継隆に推すは、尤も伐らずして譲り有るなり。然れども名士を械役し、意を縦にして禽荒にふけり、徳を累すること多し。

原文論曰:石守信而下,皆顯德舊臣,太祖開懷信任,獲其忠力。一日以黃袍之喻,使自解其兵柄,以保其富貴,以遺其子孫。漢光武之于功臣,豈過是哉!然守信之貨殖鉅萬,懷德之馳逐敗度,豈非亦因以自晦者邪?至於審琦之政成下蔡,重贇之功宣廣陵,卓乎可稱。令鐸身四十餘戰,未嘗妄殺,可謂勇者之仁矣。彥瓌於革命之日,首挺劍以語范質,于宋則未必功在眾先,于周則其過不在人後矣。王彥昇殺韓通,太祖雖不加罪,而終身不授節鋮,是足垂訓後人矣。保吉、承衍咸以帝婿致位藩鎮,其被驅策、著戎功,則保吉為優,況推功李繼隆,尤為不伐而有讓,然械役名士,縱意禽荒,累德多矣。