宋史

列傳第八 范質 王溥 魏仁浦

范質

後唐の長興四年、進士に挙げられ、忠武軍節度推官となり、封丘令に遷る。晉の天福年中、文章をもって宰相桑維翰に干謁し、深く器重され、即座に監察御史に奏任された。維翰が相州に出鎮するに及び、泰寧・晉昌の二節度を歴任し、いずれも質を従事として請うた。維翰が再び宰相となると、質は主客員外郎・直史館に遷る。歳余して、召されて翰林學士となり、比部郎中・知制誥を加えられる。契丹が辺境を侵すと、少帝は漢祖ら十五将に出征を命じた。この夜、質は直宿に入り、少帝は諸學士を召して制書を分かち草するよう命じた。質は言う、「宮城は既に閉ざされ、機事が漏れるのを恐れます」と。独り草稿を作って進め、文辞道理に優れ豊かであり、当時に称えられた。漢の初め、中書舍人・戸部侍郎を加えられる。周祖が反乱を征討するに当たり、朝廷が使者を遣わして詔を齎し軍事を処分するたび、いずれも機宜に合っていた。周祖は誰がこの文辞を作ったかと問うと、使者は質と答えたので、歎じて言う、「宰相の器なり」と。

周祖が鄴より兵を起こして宮闕に向かうと、京城は擾乱し、質は民間に匿れたが、探し出されて、大いに喜ばれた。時に大雪、袍を解いてこれを着せ、かつ太后の誥及び湘陰公を迎える儀注の議を草するよう命じた。質は慌てて論撰し、旨に叶ったので、乃ち太后に申し上げ、質を兵部侍郎・樞密副使とした。周の廣順初年、中書侍郎・平章事・集賢殿大學士を加えて拝された。翌日、參知樞密院事を兼ねる。郊祀が終わり、位を進めて左僕射兼門下侍郎・平章事・監修國史となる。高平に従征して還り、司徒しと・弘文館大學士を加えられる。顯德四年夏、壽州に従征して還り、爵邑を加えられる。質は律條が繁冗で、軽重の拠る所なく、吏がこれに因縁して奸をなすことを得ると建議した。世宗は特に詳定を命じ、これが『刑統』である。六年夏、世宗が北征すると、質は病み京師に留まり、銭百万を賜わり、医薬を買わせた。関南が平定され、瀛州に至ると、質は路左で謁見した。師が還ると、樞密使魏仁浦を宰相とし、質と王溥に並び參知樞密院事を命じた。世宗が不となると、入って顧命を受けた。恭帝が位を嗣ぐと、開府儀同三司を加えられ、蕭國公に封ぜられる。

太祖が北征するに及び、六師に推戴され、陳橋より府署に還った。時に質はちょうど閣中で食事をしていた。太祖が入ると、王溥・魏仁浦を率いて府に就き謁見した。太祖はこれに対し嗚咽して流涕し、擁逼の状を具に述べた。質らが未だ答えざるに、軍校羅彥瓌が刃を挙げて質に擬え言う、「我らに主なし、今日は天子を得ねばならぬ」と。太祖は彥瓌を叱したが退かず、質は措く所を知らず、乃ち溥らと階を降りて命を受けた。

宋初、兼侍中を加えられ、參知樞密を罷められる。俄かに疾を患う。太祖が澤・潞を征するに当たり、その第を幸し、黄金器二百両・銀器千両・絹二千匹・銭二百万を賜う。太祖は即位の初め、諸事謙抑し、藩戚に至るまで未だ幕府を崇建せず、賓佐も位に列せられていなかった。質は因って上奏して言う、「古より帝王が基を開き業を創むや、子弟を封建し、磐維を樹立し、宗戚既に隆んでは社稷永く固し。伏して見るに皇弟泰寧軍節度使光義は、戎職に居るより、特に将材を負い、藩維を領するに及び、時に望みを積むこと尤も厚し。嘉州防禦使光美は、雄俊にして老成、身を修め善を楽しみ、嘉誉日々聞こゆ。併せて封冊を行い、命書を錫することを乞う。皇子皇女は繈褓の中にある者も、亦た有司に下して恩制を行わしむることを乞う。これ臣の願いなり。臣また聞く、宰相たる者は、賢能を挙げて以て天子を輔佐すべしと。窃かに端明殿學士呂餘慶・樞密副使趙普は治道に精通し、府に事を経、歳月を歴て深く、その公忠を睹るに、誠に毗倚に堪えたり。臺司を授け、才用を申ししむることを乞う」と。帝は嘉してこれを納れた。

先に、宰相が天子に謁して大政事を議するには、必ず座を命じて面議し、従容として茶を賜わりて退く。唐及び五代は猶この制を遵っていた。質らが帝の英睿を憚り、毎事輒ち劄子を具して進呈し、具に言う、「かくの如くして庶くは稟承の方尽くし、妄庸の失を免れん」と。帝はこれに従う。ここにより奏御漸く多く、始めて坐論の礼は廃された。

乾德初年、帝が圜丘に事あらんとし、質を大禮使とした。質は鹵簿使張昭・儀仗使劉溫叟と旧典を討論し、『南郊行禮圖』を定めて上進した。帝は特に嘉獎した。ここにより礼文始めて備わり、質自ら序を作った。礼が畢わり、魯國公に進封される。質は表を奉って固く辞したが、許されず。二年正月、罷めて太子太傅となる。九月、卒す。年五十四。将に終わらんとし、その子旻に戒めて謚を請わず、墓碑を刻まずと。太祖はこれを聞き悲惋し、朝を罷む。中書令を贈られ、絹五百匹・粟麦各百石を賜う。

質は力學強記、性明悟なり。進士に挙げられた時、和凝が翰林學士として貢部を典し、質の試した文字を覧てこれを重んじ、自ら登第の名が十三であったので、亦その数をもって処した。貢闈中これを「衣鉢を伝う」と謂う。その後質が相位に登り、太子太傅となり、魯國公に封ぜられること、皆凝と同じなり。初め、質は既に朝に登りながら、猶手を巻から釋さず、或人はこれを労うると、質は言う、「善相する者有り、我が異日宰輔の位に至ると謂う。誠にその言の如くならば、学ばずして何の術を以てこれに処せん」と。後に世宗に従い淮南を征し、詔令多くその手に出づ。吳中の文士、驚伏せざる者なし。質が制敕を下す毎に、未だ律を破ることなく、刺史縣令を命ずるには、必ず戸口版籍を急務とした。朝廷が使者を遣わして民田を視察し、獄訟を按ずるには、皆延見し、天子の憂勤の意を述べて、然る後にこれを遣わした。

世宗が初めて淮南を征し、壽・濠に駐屯し、鋭意攻取し、且つ揚州に行幸することを議した。質は師老いたるを以て、王溥と泣いて諫め、乃ち止む。再び揚州に駕するに及び、事に因り竇儀を怒り、罪不測に在り。質が入謁して請見す。世宗はその儀を救わんとする意を察し、起ちてこれを避けんとした。質は前に趨って言う、「儀は近臣なり。過ち小にして誅すべからず」と。因って冠を免じ叩頭して泣下し、言う、「臣宰相の位を備え、豈に人主をして暴怒せしめ、近臣を死地に致すを得んや。願わくは儀の罪を寛めよ」と。世宗の意遂に解け、復た坐し、即ち赦して儀を遣わす。

質の性は卞急にして、人の面を折るを好む。廉介を以て自ら持し、未だ四方の饋遺を受けず、前後得たる祿賜多く孤遺に給す。閨門の中、食うに異品あらず。身没するに、家に余貲なし。太祖は輔相を論ずるに当たり、侍臣に謂いて言う、「朕聞く、范質は居第あるのみにて、生産を事とせず、真の宰相なり」と。太宗も亦た嘗てこれを称えて言う、「宰輔中、規矩に循い、名器を慎み、廉節を持するもの、質の右に出づる者なし。但だ世宗に一死を欠くこと、惜しむべし爾」と。從子校書郎杲が奏して秩を遷さんことを求むると、質は詩を作ってこれを曉し、時人伝誦して以て勸戒と為す。集三十巻有り、又朱梁より周に至る五代を述べて『通錄』六十五巻と為し、世に行わる。子に旻有り。

子 旻

旻、字は貴參、十歳にして文を属すことを能くす。父の任により右千牛備身・太子司議郎となり、累遷して著作佐郎となる。

宋初、度支員外郎・判大理正事となり、俄かに開封縣を知る。太宗が京尹を領する時、数度召して語り、頗る器重した。

嶺南が平定されると、知邕州兼水陸轉運使に転じた。当地の風俗は淫祀を好み、醫藥を輕んじて鬼神を重んじたため、旻は禁令を下した。また自らの俸給を割いて藥物を買い求め病人に與え、治癒した者は千を數え、さらに方書を石に刻んで廳壁に置くと、民は感化された。時に南漢の知廣州官鄧存忠が土人二萬の衆を糾合し、州城を七十餘日にわたって攻撃した。旻はたびたび自ら出陣して戰い、胸に矢を受けたが、なお將卒を激勵して死力を盡くして戰わせたので、賊はやや退いた。旻は創が日に日に重くなりながらも堅く城壁を守り、使者を十五度も派遣して救援を求めた。廣州の救兵が到着し包囲が解けると、璽書を賜わってこれを賞した。旻の病が重くなったため、詔して有司に肩輿に載せて歸闕させるよう命じた。病が癒えると、通判鎮州となり、有能の聲があり、錢二百萬を賜わり、庫部員外郎に遷った。

開寶九年、淮南轉運事を管掌した。太祖は旻に言った、「朕は今卿に方面の重任を委ねる。民の隱れたる苦しみを除き、軍需の急務を處理するに當たっては、すべて便宜を以て事を行い、逐一覆奏する必要はない」。毎年百餘萬石の米を京師に運送して供給し、當時、心計有りと稱された。

太平興國初年、召されて水部郎中となった。錢俶が地を獻上すると、旻を考功郎中とし、權知兩浙諸州軍事とした。旻は上言した、「俶が國に在った時、徭役賦稅は煩雑苛酷で、薪粒・蔬果・箕帚の類に至るまで全て算賦を徴収していた。これらを全て釋放して徴収せず、その弊害を除去したい」。これに從った。車駕が晉陽を征するに當たり、上書して従軍を求め、召されて右諫議大夫・三司副使となり、行在三司を判じ、さらに吏部選事を兼ねた。師が還ると、給事中を加えられた。人の請託を受け、擅かに竹木を買い入れて官に納めた罪により、王仁贍に告發され、房州司戶に貶された。詳細は『仁贍傳』にある。量移されて唐州となった。六年、卒去。四十六歳。文集二十巻、『邕管記』三巻がある。その後、子の貽孫が上言し、詔して舊官に復した。貽孫は主客員外郎に至った。

兄の子 杲

杲、字は師回、父は正、青州從事であった。杲は幼くして孤となり、質が己が子の如く養育した。學問に志を刻み、姑臧の李均・汾陽の郭昱と齊名し、文章は深く僻んで理解し難く、後進の多くが慕い倣った。蔭補により太廟齋郎となり、再遷して國子四門博士となった。

嘗て文章を携えて陶穀・竇儀に謁見し、皆大いに稱賞し、杲に言った、「もし進士に舉げられれば、甲科をもって汝を待遇すべきである」。秋試の際、上書する者があり、閥閲の家は寒士と科第を爭うべきではないと言ったので、杲は遂に應舉しなかった。稍く遷って著作佐郎となり、出て許・鄧二州の從事となったが、事に坐して免官された。太平興國初年、著作郎・直史館に遷り、右拾遺・左補闕を歷任した。雍熙二年、同知貢舉となった。俄かに上書して自らの才能を東方朔に比し、顯用を求めてその効果を見ようとした。太宗はその志を壯とし、知制誥に擢でた。

杲は家が貧しく、人から數百萬の錢を借りていた。母兄の晞は性吝嗇で、嘗て興元少尹となり、京兆に居住し、財貨を殖やして巨萬に及んだ。親故で長安ちょうあんから來た者が、杲を欺いて言った、「少尹はもはや財物を惜しまず、金を揮って數え切れないほどです」。杲はこれを聞いて喜び、兄が老いたことを理由に上言し、京兆を管轄して養いやすくすることを求めた。太宗はその請いに從った。工部郎中に改め、知制誥を罷免された。杲が到着すると、晞は相変わらず吝嗇で、かつ常に不法の事をもって公府に干渉した。杲は大いに後悔した。杲が職務を執って一年餘り、境內は治まらなかった。賊帥劉渥が屬縣を剽掠すると、吏卒は解散し、遂に驚悸して病を成した。

壽州知州に移され、上言した、「家は代々史官であり、直筆を執って國朝の大典を成したい」。召されて史館修撰となったが、固く誥詞を掌ることを求め、帝は從った。時に翰林學士宋白が鄜州に左遷され、賈黃中・李沆が參知政事となり、蘇易簡が承旨に轉じると、杲は相府に連ねて書を致し、學士となることを求め、かつ宰相李昉に言った、「先公が嘗て制誥一編を授け、杲の才能はこの職に堪えると言われました」。そこで昉に示すと、昉はたびたび諭し解いた。未幾、太宗が飛白體で「玉堂」の額を書いて翰林に賜うと、杲はまた『玉堂記』を上呈し、職を備えることを請うた。太宗はその躁競を嫌い、右諫議大夫・知濠州に改め、再び召して史館修撰とした。

初め、太宗は太祖朝の典策が未だ備わっていないと考え、杲を召すことを議した。杲は命を聞いて大いに喜び、優れた抜擢が加えられると考え、朝夜を分かたず急ぎ進んだ。宋州に至り、朗州通判錢熙に會い、杲は「朝議は僕を何の官に任じようとしているか」と問うた。熙は言った、「『太祖實錄』を重修するだけです」。杲は默然とした。久しくして病を感じ、京師に至り、旬月にして卒去。五十六歳。太宗はこれを哀れみ、その二子を錄用した。

杲の性質は虛誕で、人と交わるに、面では譽め背いては非とし、ただ柳開と善くし、互いに引き立て尊重し、終始間隙がなかった。生計を治めるのが不得手で、家はますます貧しくなり、杲は終日端坐して、どうしたらよいか計らず、人皆これを笑った。子の坦も進士第に登った。

王溥

父の祚は、郡の小吏となり、心計有り、晉祖に從って洛に入り、鹽鐵案を掌り、母老のため解職して歸郷した。漢祖が幷門を鎮守し、行營兵を統率して契丹に抵抗する時、祚に芻粟の經度を委ねた。即位すると、三司副使に擢でた。周に歷任して隨州刺史となった。漢の法は牛革を禁じ、車で京師に送ると、暑雨に遇って多く腐壞したので、祚は鎧甲の樣式を諸州に頒布し、裁斷して輸送させるよう請うた。民は大いに便利とした。商州刺史に移され、俸錢を以て人を募り大秦山の巖梯路を開鑿し、行旅はその恩惠に感じた。顯德初年、華州節度を置き、祚を刺史とした。未幾、潁州に移鎮し、部内の租稅を均し、流徙の民を補實して舊籍に復させた。州境に舊く通商渠があり、淮から三百里の距離であったが、年久しく湮塞していた。祚が疏導すると、遂に舟楫が通じ、郡に水患がなくなった。鄭州團練使を歷任した。宋初、宿州を防禦に昇格させ、祚をその使とし、民に課して井戸を鑿り防火設備を整えさせ、城北の堤を築いて水災を防がせた。やがて致政を求め、闕下に至り、左領軍衛上將軍致仕を拝命した。

溥は、漢の乾祐年間、進士甲科に舉げられ、秘書郎となった。時に李守貞が河中に據り、趙思綰が京兆で反し、王景崇が鳳翔で反した。周祖が兵を將いて討つに當たり、溥を從事として辟召した。河中が平定され、賊中の文書を得ると、多くは朝貴及び藩鎮との交結の言葉であった。周祖はその名を記録し、取り調べようとしたが、溥は諫めて言った、「魑魅の形は夜を伺って出るもので、日月既に照らせば、氛沴自ずから消えます。願わくば一切これを焚き、反側の心を安んじたい」。周祖はこれに從った。師が還ると、太常丞に遷った。周祖に從って鄴を鎮守した。廣順初年、左諫議大夫・樞密直學士を授けられた。二年、中書舍人・翰林學士に遷った。三年、戶部侍郎を加えられ、端明殿學士に改めた。周祖の病が重くなり、學士を召して制を草させ、溥を中書侍郎・平章事とした。制が宣べられ終わると、周祖は言った、「我に憂い無し」。即日崩御した。

世宗が親征して沢州・潞州を討たんとしたとき、馮道は強く諫めて止めさせようとしたが、王溥ひとりがこれを賛成した。凱旋してから、兼礼部尚書を加えられ、国史監修を命ぜられた。世宗がかつて王溥にゆるやかに尋ねて言うには、「漢の宰相李崧が蠟書を契丹に送ったというが、なおその文句を記している者がある。本当にあったことか」と。王溥は言った、「李崧は大臣として、もしこのような謀りごとがあったなら、軽々しく外部の者に見せましょうか。蘇逢吉が誣いたのでしょう」。世宗は初めて悟り、詔してその官を贈った。世宗が秦州・鳳州を討とうとして、王溥に元帥を求めたところ、王溥は向拱を推薦した。事が平定されると、世宗は宴席で酒を酌んで王溥に賜り言った、「我のために元帥を選んで辺境の功を成し遂げさせたのは、卿である」。寿春平定に従い、制を下して階爵を加えた。顕徳四年、父の喪に服した。起復を命ぜられたが、四度上表して喪に終わりを乞うたので、世宗は大いに怒り、宰相范質が奏上してこれを解いた。王溥は恐れて入朝し謝罪した。六年夏、参知枢密院事を命ぜられた。

恭帝が位を嗣ぐと、右僕射を加えられた。この冬、表を上して『世宗実録』の編修を請うた。そこで史館修撰・都官郎中・知制誥の扈蒙、右司員外郎・知制誥の張淡、左拾遺の王格、直史館・左拾遺の董淳を奏上し、ともに修纂を加えることとし、従われた。

宋の初め、司空しくうに進み、参知枢密院を罷免された。乾徳二年、太子太保に罷免された。旧制では、一品の班列は台省の後ろにあったが、太祖は王溥に会った際、左右の者に言った、「王溥は旧宰相である。寵愛して異遇を与えるべきである」。すぐに台省の班を東西に分けるよう命じ、これが定制となった。五年、母の喪に服した。喪が明けると、太子太傅を加えられた。開宝二年、太子太師に遷った。中謝の日、太祖は左右の者を顧みて言った、「王溥は十年宰相を務め、三度遷って一品となった。福禄の盛んなことは、近世にその比を見ない」。太平興国の初め、祁国公に封ぜられた。七年八月、卒去した。享年六十一。二日間朝を停め、侍中を贈られ、諡は文献といった。

王溥は性質寛厚で、風度が美しく、後進を引き立てることを好み、その推薦によって顕位に至った者は非常に多かった。やや吝嗇であった。父の王祚は頻繁に牧守を領し、財貨を殖やすことができ、赴任する所ごとに田宅を持ち、家の財産は万金に累なった。

王溥が宰相の位にあったとき、王祚は宿州防禦使として家に居た。公卿が来るたびに、必ずまず王祚を謁見し、酒を設けて寿を祝うと、王溥は朝服を着て左右に走り侍った。座客が席を安んじず、すぐに引き下がろうとすると、王祚は言った、「これは豚犬のような者です。諸君が起たれるには及びません」。王溥は王祚に致政を求めるようほのめかした。王祚は朝廷がまだ許さないだろうと思っていたが、請いが聞き届けられると、王祚は王溥を大いに罵って言った、「我が筋力はまだ衰えていない。汝は自らの名位を固めようとして、我を幽閉するのか」と。大棍を挙げて打とうとしたので、親戚が諭してやっと止めた。

王溥は学問を好み、手から書物を離さず、かつて蘇冕の『会要』と崔弦の『続会要』を集め、その欠漏を補って百巻とし、『唐会要』と称した。また、後梁から後周までを採って三十巻とし、『五代会要』と称した。文集二十巻がある。

子に貽孫・貽正・貽慶・貽序がいた。貽正は国子博士に至った。貽慶は比部郎中となった。貽序は、景德二年の進士で、後に名を貽矩と改め、司封員外郎に至った。貽正の子の克明は、太宗の女鄭国長公主に尚し、名を貽永と改め、その父と同行させるよう命じられた。『外戚伝』に見える。

王貽孫は、字を象賢といい、若くして周の太祖に従って商州・潁州を治め、衙内都指揮使に任ぜられた。顕徳年間、父が中書に在ったため、朝散大夫・著作佐郎に改めた。宋の初め、金部員外郎に遷り、紫を賜い、累遷して右司郎中となった。淳化年間、卒去した。太祖が呉・しょくを平定したとき、得た文史の副本を大臣に分け賜った。王溥は書物を集めることを好み、一万余巻に至り、王貽孫はこれを遍く覧めた。また多くの法書名画を蔵した。太祖がかつて趙普に、拝礼はなぜ男子は跪き婦人は跪かないのかと問うた。趙普が礼官に問うたが、答えることができなかった。王貽孫が言うには、「古詩に『長跪して故夫に問う』とある。これは婦人も跪くのである。唐の太后の朝に婦人が初めて拝して跪かなくなった」。趙普がその出典を問うと、答えて言うには、「太和年間、幽州従事の張建章が『渤海国記』を著し、詳しくその事を述べている」。趙普は大いにこれを称賞した。端拱年間、右僕射の李昉が郡省の百官に旧儀を集議するよう求めたとき、王貽孫は詳しく答えた。事は『礼志』に見え、当時の論はその諳練を称えたという。

魏仁浦

時に周の太祖が枢密を掌ると、魏仁浦を召して闕下の兵数を問うた。魏仁浦はすべてこれを記憶しており、手ずから六万人を書き記した。周の太祖は喜んで言った、「天下の事は憂うるに足らぬ」。兵房主事に遷り、周の太祖に従って鄴に鎮した。

乾祐の末、隠帝は武徳使李鄴らの謀を用い、大臣の楊邠・史弘肇らを誅し、密詔を下して澶州の帥李洪義に騎将の王殷を殺させ、郭崇に周の太祖を害するよう命じた。李洪義は事の成就しないことを知り、王殷と謀り、副使の陳光穂に詔を持たせて周の太祖に見せた。周の太祖は恐れ、魏仁浦を召し入れて計をめぐらし、かつ詔を示して言った、「朝廷が我を殺そうとしている。我は死を恐れないが、ただ麾下の将士を思わぬわけにはいかぬ」。魏仁浦は言った、「侍中は強兵を握り重鎮に臨み、朝廷に功績があり、君上が讒言を信じて忠良を害そうとされている。たとえ心を割いて自ら明らかにしようとしても、どうしてできましょう。事をどうなさいますか。今、詔が下ったばかりで、外部に知る者はおりません。将士をことごとく誅するという名目に詔を書き換えて、その怒りの心を激発させるのがよろしいでしょう。ただ自ら免れるだけでなく、楊・史の冤罪を雪ぐこともできます」。周の太祖はその言を容れ、留守の印を倒用して、詔書を書き換えて諸将に見せた。衆は恐れかつ怒り、ついに長駆して河を渡った。即位すると、魏仁浦を枢密副承旨とし、まもなく右羽林将軍に遷り、承旨を充てた。

周の太祖がかつて魏仁浦に諸州の屯兵の数および将校の名氏を問い、簿を検べて見るよう命じた。魏仁浦は言った、「臣はこれを記憶しております」。そこで手ずから紙に書き記すと、簿と照らして違いがなかった。周の太祖は特にこれを倚重した。広順の末、太原の劉崇が晋州に寇したとき、魏仁浦は母の喪に服していたが、宅が宮城に近かったので、周の太祖は歩いて寛仁門に登り、密かに小黄門を遣わして魏仁浦を召し、事を計らせた。翌日、旧職に起復した。周の太祖が危篤に陥り、世宗に言った、「李洪義には長く節鎮を与えよ。魏仁浦には禁中の機密を違わせるな」。

世宗が即位すると、右監門衛大將軍・枢密副使を授けられた。高平征伐に従い、周の軍は不利で、東側はすでに潰えていたが、魏仁浦は世宗に出陣して西で決死戦を勧め、ついにこれを攻克した。軍が還ると、検校太保・枢密使に拝された。故事では、宰相の誕生日にのみ器幣・鞍馬を賜うが、世宗は特に魏仁浦にこれを賜った。寿春平定に従い、検校太傅を加えられ、爵邑を進められ、中書侍郎・平章事・集賢殿大学士兼枢密使に遷った。世宗が魏仁浦を宰相に任じようとしたとき、議者が科第によるものではないと言うと、世宗は言った、「古人で宰相となった者は、みな科第によるものだったのか」。そこで決意して用いた。恭帝が位を嗣ぐと、刑部尚書を加えられた。

宋の初め、右僕射に進んだが、病のため在告していた。太祖がその第に幸し、黄金の器二百両・銭二百万を賜った。再び表を上って骸骨を乞うたが、許されなかった。乾徳の初め、本官を守ることを罷免された。開宝二年、春の宴で、太祖は笑って魏仁浦に言った、「どうして我一杯の酒を勧めぬのか」。魏仁浦は觴を奉じて寿を祝うと、帝は密かにこれに言った、「朕は親征して太原を討とうと思うが、どうか」。魏仁浦は言った、「速やかにせんと欲すれば達せず。ただ陛下は慎重になさいますように」。宴が終わって、その第に赴き、さらに上尊酒十石・御膳の羊百口を賜った。太原征伐に従い、途中で病に遇った。還り、梁侯駅に至って卒去した。享年五十九。侍中を贈られた。

仁浦の性格は寛厚であり、士大夫に接するには礼を尽くし、徳をもって怨みに報いることを務めた。後漢の乾祐年間、鄭元昭という者がいた。開封浚儀の人で、安邑・解県両池の榷塩使となり、解州刺史に遷った。ちょうど詔により仁浦の婦翁(妻の父)李溫玉を榷塩使として両池を管轄させることとなり、元昭はその利を専有できなくなった。仁浦はちょうど枢密院主事であったが、元昭は仁浦が必ず溫玉を庇うと考え、時に李守貞が河中で叛いた際、溫玉の子が城中にいたので、元昭はただちに溫玉を拘束して変事として上聞した。当時、周祖(郭威)が枢務を総べていたが、その間に隙(不和)のあることを知り、放置して問わなかった。顕徳年間、仁浦が枢密使となると、元昭は自ら安んじられなかった。交代して帰京する際、洛都を通り、その心情を仁浦の弟仁滌に告げると、仁滌は言った、「貴公はどうか行かれよ、憂えることはない。我が兄はもとより寛仁で度量があり、公事であっても人を傷つけようとはせず、まして私的な遺恨を気にかけようか」。元昭が京師に至ると、仁浦は果たして意に介さず、周祖に上言して元昭を慶州刺史に任じさせた。後漢の隠帝は作坊使賈延徽を寵愛し、延徽は仁浦と隣り合わせに住んでいたが、その邸宅を併せようと欲し、しばしば仁浦を讒言し、危うく不測の事態に至らんとした。周祖が汴に入城した時、延徽を捕らえて仁浦に引き渡す者がいたが、仁浦は謝して言った、「兵戈(戦乱)に乗じて怨みを報いることは、忍びないことである」。力を尽くして彼を保全した。当時、その長者ぶりを称えられた。世宗の朝では、近侍で帝に逆らい死罪に至った者がいたが、仁浦は力を尽くして救い、全うして生かされた者は多かった。淮南の役では、賊を数千人捕らえたが、仁浦は従容として上言し、諸軍に隷属させたので、軍中で濫殺する者はなかった。

景德四年、その子咸信が諡を宣懿と請うた。

子に咸美・咸熙・咸信がいた。咸美は左司禦率府率の官で致仕した。咸熙の性格は仁孝であり、かつて賓客を会した時、家童数人が食案を覆し器物を壊したが、客は皆驚愕した。咸熙は顔色を変えず、ただ改めて饌具を設けるよう命じた。その寛厚さはこのようなものであった。父の任により累遷して屯田郎中となり、後に太僕少卿に至り、四十九歳で卒した。子に昭慶(駕部員外郎)、昭文(西染院使)、昭素(供奉官・閣門祗候)がいた。

子 咸信

咸信、字は國寶。建隆初年、朝散大夫・太子右坊通事舎人を授かり、供奉官に改めた。

初め、太祖が潜邸(即位前の邸宅)におられた時、昭憲太后がかつて仁浦の邸宅に至られた。咸信はまだ幼く、母の側に侍っていたが、あたかも成人のようであった。太后はこれを奇とし、姻戚関係を結ぼうと欲された。開宝年間、太宗が京尹(開封府の長官)であった時、昭憲太后の意を成し遂げ、便殿で咸信を引見し、御帯の党進らと射技を較べるよう命じ、善しと称された。そこで永慶公主に選尚させ、右衛将軍・駙馬都尉を授けた。一年余りして、出て吉州刺史を領した。

太平興国初年、真に本州防禦使に拝された。四年、詔により俸給の外に銭十万を賜う。五年、親吏を遣わして西辺で木材を買わせ、制をいつわって通過地の税算を免じた罪に坐し、一季分の俸給を罰せられた。まもなく慎州観察使に遷る。雍熙三年冬、契丹が辺境を擾乱し、王師が出討することとなり、諸主婿(公主の婿)をことごとく要地に鎮守させた。王承衍は大名を知り、石保吉は河陽を知り、咸信は澶州を知った。四年、本郡で黄河の水が清くなったので、咸信はこれを上聞し、詔で褒め答えられた。籍田の礼が終わると、そのまま彰徳軍節度使に拝された。八月、帰って治所に赴くよう遣わされた。

淳化四年、黄河が澶淵で決壊し、北城が陥落した。再び州事を知るよう命じられた。太宗はみずから方略を諭し、駅伝を設けて行かせた。時に閻承翰を遣わして河橋を修築させたが、咸信は流水がまだ下らないうちに舟を造るのが便宜であると請うた。承翰が入奏して、「今は冬で難成であり、しばらくその役を罷めるよう請う」と言った。咸信はその去ったのを機に、工を集めて完成させた。奏上が至ると、上は大いに喜んだ。河が平らかになると、役兵を還すよう遣わしたが、まもなく詔で堤防を築くよう留め置かれた。咸信は天寒地涸(天は寒く地は乾き)で、決溢の憂いがないと考え、再び上奏してこれを罷めさせた。

真宗が即位すると、定国軍節度使に改めた。咸平年間、東郊で大閲兵を行い、旧城内都巡検に任じた。車駕が北征する時、貝冀路行営都統署とし、詔で師を督せしめた。貝州に至ると、敵人が退いたので、行在所に召還された。景德初年、澶州への行幸に従い、石保吉と李継隆が排陣使となった。契丹が和を請うと、帝は行宮で酒宴を設け、面と向かって継隆・保吉を賞した。咸信は席を避け、自ら功のないことを愧じた。上は笑って慰撫した。二年、武成軍節度使に改め、曹州を知った。秋の長雨で水が溜まり、咸信は広済河の堤を決壊させてこれを導き、民田に害がなかった。陵墓への行幸に扈駕して還ると、先人の墳墓が洛にあることを上言し、碑を立てたいと願い、盟津(河陽)を治めることを求めてその事を便ならしめようとした。ただちに河陽を知るよう改めた。大中祥符初年、東封に従い、検校太尉を加えられた。汾陰を祀ろうとする時、澶州を知るよう命じ、入内副都知張継能に旨を諭させた。忠武軍節度使に移領した。

まもなく召還されたが、年はすでに昏眊(目がかすみぼんやりする)しており、上に謁見し、旨に迎合して寵渥を求めた。七年、表を奉って任用を乞うた。上は中書の向敏中に示して言った、「咸信は戚里(外戚の家)に連なり栄え、位は節制に居る。さらに何を望むというのか」。この冬、新建の南京(応天府)を機に、太祖の旧臣を奨励し、同平章事を加えた。まもなく天雄軍を判した。天禧初年、陜州大都督ととく府長史・保平軍節度使に改めた。感風疾(中風)の苦しみがあり、帰った。真宗はかつて宰相に言った、「咸信は老病で、諸子はよく承順することができず、その身の後、さらにその家業を保守することができようか」。まもなく卒した。六十九歳。中書令を贈られた。その諸子孫・甥の官を録し、遷官した者は七人であった。

咸信はかなり書を読み、士を善く遇したが、性格は吝嗇で利を喜び、仁浦が営んだ邸宅をすべてほしいままに有していた。卒すると、諸甥に訴訟され、当時の人はこれを恥じた。

子に昭易・昭亮・昭侃がいた。昭易は西京作坊使、隰州を知った。昭侃は名を昭昺と改め、崇儀使となった。

孫 昭亮

昭亮、字は克明、公主の生んだ子である。幼くして名がなく、太宗が禁中に召し入れ、賞花詩を賦するよう命じた。詩が成って上ると、太宗は大いに喜び、上尊酒を酌んで飲ませ、筆を取って「従訓」「昭亮」の二名を題し、自ら選ばせた。如京副使に拝し、如京使・洛苑使に遷り、翰林司を掌った。公主の喪に服し(丁憂)、起復して六宅使を授かり、富州刺史を領し、内蔵庫副使に遷った。まもなく、西上閣門使に拝し、進んで東上閣門使の位に至った。上言して閣門の旧儀制が妥当でないとし、そこで詔して龍図閣学士陳彭年・待制張知白・引進使白文肇を昭亮とともに詳定させ、成ると、白金千両を賜った。また内殿に儀石を設けるよう建議し、恩州団練使を加領した。時に咸信が大名におり、その誕生日に当たったので、昭亮に命じて就いて礼物を賜わしめた。この日、告命(任命の文書)が至り、軍府はこれを栄誉とした。父が卒すると、四方館使に遷り、なお客省を兼掌し、多く群官の失儀者を糾弾した。昭亮は病多くして告(休暇)をとっていたが、詔でその俸給を与えた。天禧二年、卒した。

昭亮の未だ死なざる日、数度人を遣わして謁見を求め、進用を求め、端州防禦使を兼ねるよう加えられた。拝命に及ばずして死んだが、なお制書をその家に賜り、貝州観察使を贈られた。弟の昭侃を供備庫使とし、子の餘慶を内殿崇班とした。

昭亮は陳彭年と親密に交わり、彭年はしばしばその才能を称えた。昭亮は官に在っては務めて細かく察し、多く人を遣わして同僚たちを偵察させた。枢密承旨の尹徳潤はかつて彼を軽んじた。たまたま閣門副使の焦守節・内殿崇班の郭盛が役卒を使って徳潤の邸宅を造営した際、昭亮はこれを察知し、その事を発覚させ、皆これに坐して罷免・削官された。李維は即ち王曾の妻の叔父であり、ともに翰林に在ったが、曾が詔を受けて挙人を試験する際、家事を維に託した。昭亮は曾が請託を受けたと疑い、その密談を奏上した。中使を遣わして尋問させたが、他に事実はなく、曾は初めて釈放された。昭亮の陰険なことは多くこの類であり、当時の人々は彼を憎んだ。余慶は名を成徳と改め、供備庫副使となった。

賛して曰く、五代より周の世宗に至るは、天下将に定まらんとする時なり。范質・王溥・魏仁浦は、世宗の抜擢したる所にして、而して皆宰相の器有り。宋の太祖命を受く、遂に佐命の元臣と為る、天の置く所、果たして人の能く測る所に非ざるか。質は儒者を以て軍事に通暁し、其の相と為るに及び、廉慎にして法を守る。溥は刀筆の家の子にして、而も好学終始倦まず。仁浦嘗て小史と為りしも、溥と皆寛厚長者を以て称せらる、豈に絶人の資に非ずや。質臨終に、其の後に戒めて謚を請ひ碑を立つる勿からしむ、自ら悔むこと深し。太宗質を評して其の世宗に一死を欠くを惜しむ。嗚呼、『春秋』の法は賢者に責備す、質免るることを得んや。