宋史

列傳第七 公主 秦國大長公主 太祖六女 太宗七女 眞宗二女 仁宗十三女 英宗四女 神宗十女 哲宗四女 徽宗三十四女 孝宗二女 光宗三女 魏惠獻王一女 寧宗一女 理宗一女

列傳第七 公主 秦國大長公主 太祖六女 太宗七女 眞宗二女 仁宗十三女 英宗四女 神宗十女 哲宗四女 徽宗三十四女 孝宗二女 光宗三女 魏惠獻王一女 寧宗一女 理宗一女

秦國大長公主

原文秦國大長公主

秦國大長公主は、太祖の同母妹である。初め米福德に嫁したが、福德は卒去した。太祖が即位し、建隆元年、燕國長公主に封ぜられ、再び忠武軍節度使高懷德に嫁し、興寧坊に邸宅を賜った。開寶六年十月に薨去し、太祖は臨哭し、五日間朝政を廃し、諡して恭懿と賜う。真宗は大長公主を追封した。元符三年、秦國に改封。政和四年、恭懿大長帝姬に改封。

原文秦國大長公主,太祖同母妹也。初適米福德,福德卒。太祖即位,建隆元年,封燕國長公主,再適忠武軍節度使高懷德,賜第興寧坊。開寶六年十月薨,太祖臨哭,廢朝五日,賜諡恭懿。真宗追封大長公主。元符三年,改秦國。政和四年,改封恭懿大長帝姬。

姉一人あり、笄を加えずして夭逝した。建隆三年、陳國長公主を追封。元符に荊國大長公主に改封。政和に恭獻大長帝姬に改封。

原文有姊一人,未笄而夭。建隆三年,追封陳國長公主。元符改封荊國大長公主。政和改封恭獻大長帝姬。

太祖六女

原文太祖六女

太祖に六女あり。申國、成國、永國の三公主は、皆早世した。

原文太祖六女。申國、成國、永國三公主,皆早亡。

魏國大長公主は、開寶三年、昭慶公主に封ぜられ、左衛將軍王承衍に降嫁し、景龍門外に邸宅を賜った。太宗即位後、鄭國に進封。淳化元年、秦國に改封。真宗至道三年、長公主に進む。大中祥符元年に薨じ、諡して賢肅を賜う。元符に魏國大長公主に改封。政和に賢肅大長帝姬に改む。

原文魏國大長公主,開寶三年,封昭慶公主,下嫁左衛將軍王承衍,賜第景龍門外。太宗即位,進封鄭國。淳化元年,改封秦國。真宗至道三年,進長公主。大中祥符元年薨,賜諡賢肅。元符改封魏國大長公主。政和改賢肅大長帝姬。

魯國大長公主は、開寶五年、延慶公主に封ぜられ、左衛將軍石保吉に降嫁した。太宗即位後、許國に進封。淳化元年、晉國に改封。真宗の初め、長公主に進む。大中祥符二年、大長公主に進む。薨じ、諡して賢靖を賜う。元符に魯國に改封。政和に賢靖大長帝姬に改む。

原文魯國大長公主,開寶五年,封延慶公主,下嫁左衛將軍石保吉。太宗即位,進封許國。淳化元年,改晉國。真宗初,進長公主。大中祥符二年,進大長公主。薨,賜諡賢靖。元符改封魯國。政和改賢靖大長帝姬。

陳國大長公主は、開寶五年、永慶公主に封ぜられ、右衛將軍魏咸信に降嫁した。太宗即位後、虢國に進封。淳化元年、齊國に改封。真宗の初め、許國長公主に進む。咸平二年に薨じ、諡は貞惠、後に恭惠と改む。景祐三年、大長公主を追封。元符に陳國に改封。政和に賢惠大長帝姬に改む。

原文陳國大長公主,開寶五年,封永慶公主,下嫁右衛將軍魏咸信。太宗即位,進封虢國。淳化元年,改齊國。真宗初,進許國長公主。咸平二年薨,諡貞惠,後改恭惠。景祐三年,追封大長公主。元符改封陳國。政和改賢惠大長帝姬。

太宗七女

原文太宗七女

太宗に七女あり。長女の滕國公主は早世した。

原文太宗七女。長滕國公主,早亡。

徐國大長公主は、太平興國九年、蔡國に封ぜられ、左衛將軍吳元扆に降嫁した。淳化元年、魏國に改封。薨じ、諡は英惠。至道三年、燕國長公主を追封。景祐三年、大長公主に進む。元符に徐國に改封。政和に英惠大長帝姬に改む。

原文徐國大長公主,太平興國九年,封蔡國,下嫁左衛將軍吳元扆。淳化元年,改魏國。薨,諡英惠。至道三年,追封燕國長公主。景祐三年,進大長公主。元符改徐國。政和改英惠大長帝姬。

邠國大長公主は、太平興國七年に尼となり、號して員明大師という。八年に卒す。至道三年、曹國長公主を追封。景祐三年、大長公主に進む。元符に邠國に改封。

原文邠國大長公主,太平興國七年為尼,號員明大師。八年卒。至道三年,追封曹國長公主。景祐三年,進大長公主。元符改邠國。

揚國大長公主は、至道三年、宣慈長公主に封ぜられる。咸平五年、魯國に進み、左衛將軍柴宗慶に降嫁し、普寧坊に邸宅を賜う。宗慶は禹錫の孫なり、帝は主に命じて婦禮をもって禹錫の邸に謁せしむ。歴て韓、魏、徐、福の四國に移封。仁宗立つや、鄧國大長公主に進む。明道二年に薨じ、晉曙を追封し、諡して力靖という。元符に揚國に封ず。政和に和靖大長帝姬に改む。主は性、嫉妬深く、宗慶に子なく、兄の子を以て後とす。

原文揚國大長公主,至道三年,封宣慈長公主。咸平五年,進魯國,下嫁左衛將軍柴宗慶,賜第普寧坊。宗慶,禹錫之孫,帝命主以婦禮謁禹錫第。曆徙韓、魏、徐、福四國。仁宗立,進鄧國大長公主。明道二年薨,追封晉曙,諡力靖。元符封揚國。政和改和靖大長帝姬。主性妒,宗慶無子,以兄子為後。

雍國大長公主は、至道三年に賢懿長公主に封ぜられた。咸平六年、右衛將軍王貽永に降嫁し、鄭國に進封され、邸宅を賜った。景德元年に薨じ、懿順と諡された。景祐三年、大長公主を追封された。皇祐三年、韓國に改封された。徽宗が雍國に改封した。政和年間に懿順大長帝姬と改めた。

原文雍國大長公主,至道三年,封賢懿長公主。咸平六年,下嫁右衛將軍王貽永,進封鄭國,賜第。景德元年薨,諡懿順。景祐三年,追封大長公主。皇祐三年,改韓國。徽宗改封雍國。政和改懿順大長帝姬。

衛國大長公主は、至道三年に壽昌長公主に封ぜられた。大中祥符二年、陳國に進封され、吳國に改封され、報慈正覺大師の號を賜った。楚國に改め、さらに邠國に改めた。天禧二年、建國に改封された。乾興元年、申國大長公主に封ぜられた。天聖二年に薨じ、慈明と諡を賜った。徽宗が衛國に改封した。政和年間に慈明大長帝姬と改めた。

原文衛國大長公主,至道三年,封壽昌長公主。大中祥符二年,進封陳國,改吳國,號報慈正覺大師。改楚國,又改邠國。天禧二年,改建國。乾興元年,封申國大長公主。天聖二年薨,賜諡慈明。徽宗改衛國。政和改慈明大長帝姬。

荊國大長公主は、幼い頃から遊戯を好まず、一度も閨房の外に出たことがなかった。太宗がたまたま寶藏を開き、諸女に選び取らせようとしたが、その志を観ようとしたのである。公主はただ一人、何も取らなかった。真宗が即位すると、萬壽長公主に封ぜられ、隨國に改封され、駙馬都尉の李遵勗に降嫁した。舊制では尚主する者はその父を兄弟の行輩に降すのであったが、時に遵勗の父・繼昌は健在であった。公主は繼昌の誕生日に舅としての禮をもって謁見した。帝はこれを聞き、密かに衣類、寶帶、器物、幣帛を送ってその壽を助けた。遵勗の賓客は皆、一時の賢士であり、宴會があるたびに、公主は必ず自ら饗饌を監督した。かつて盜賊が公主の邸宅に入ったことがあり、帝は役人に訊問・捕縛を命じた。公主は捕らえられた者を釈放するよう請い、私財を出して告げる者を募ったところ、果たして真の盜賊を得た。法に照らせば死罪であったが、またその罪を赦すよう請うた。越、宿、鄂、冀の四國に歴封された。明道元年、魏國に進封された。

原文荊國大長公主,幼不好弄,未嘗出房闥。太宗嘗發寶藏,令諸女擇取之,欲以觀其志,主獨無所取。真宗即位,封萬壽長公主,改隨國,下嫁附馬都尉郴遵勖。舊制選尚者降其父為兄弟行,時遵勖父繼昌亡恙,主因繼昌生日以舅禮謁之。帝聞,密以兼衣、寶帶、器模式幣助其為壽。遵勖賓客皆一昌賢士,每燕集,主必親視饔饎。嘗有盜入主第,帝命有司訊捕。主請出所逮系人,以私錢募告者,果得真盜,法當死,復請貰之。曆封越、宿、鄂、冀四國。明道元年,進魏國。

初め、遵勗が許州の守として出向した時、急に病を得た。公主は急いで馳せ参じて見舞おうとしたが、左右の者が「上奏して返答を得てからでなければ行けません」と言った。公主は返答を待たずに行き、従者はわずか五六人であった。帝はこれを聞き、急いで内侍に命じて諸縣の巡邏兵を督させ、公主の車を護衛させた。その後、夫の喪に服した時、喪服を身から離さず、喪が明けても、再び華麗な服を着ることはなかった。かつて禁中で宴があり、帝が自ら花を挿そうとしたが、辞して言った。「もう長くこれをしないと誓っています」。かつて入浴中に倒れて右腕を傷つけたことがあり、帝は内侍を遣わして侍女を責めたが、公主は言った。「早くに衰えて力が弱く、歩くのに耐えられないのであって、左右の者の過ちではありません」。これによって皆が免責された。

原文初,遵勖出守許州,暴得疾,主亟欲馳視之,左右白:須奏得報乃可行,主不待報而往,從者裁五六人。帝聞,遽命內侍督諸縣邏兵以衛主車。其後居夫喪,衰麻未嘗去身,服除,不復禦華麗。嘗燕禁中,帝親為簪花,辭曰:「自誓不復為此久矣。」嘗因浴僕地,傷右肱,帝遣內侍責侍者,主曰:「早衰力弱,不任步趨,非左右之過。」由是悉得免。

公主は筆札に巧みで、圖史を好み、歌詩を作ることができ、特に女工の事に長じていた。かつて諸子に「忠義をもって自らを守り、私を恃んで速やかに悔いを招くことなかれ」と戒め、他の子を自分の子と同等に見た。目を病んだ時、帝は医者を連れて診察し、后妃以下が皆、邸宅に候問した。帝は自らその目を舐め、左右の者は皆、感泣し、帝もまた悲慟して言った。「先帝の兄弟姉妹の籍は十四人であったが、今は大主ただ一人が存命である。どうしてこの病にかかるのか」。さらに子孫の望むことを顧みて問うと、公主は言った。「どうして母の病によって賞を邀えるでしょうか」。白金三千両を賜ったが、辞して受けなかった。帝は従臣に言った。「大主の病が、もし朕に移すことができるならば、朕も避けはしない」。公主は目が見えなくなった後も、平素は机に寄りかかり、淡泊として自ら泰然としていた。諸子に戒めて言った。「汝らの父の遺言には、柩の中に金玉を蔵めず、その時の衣数襲だけだとある。私が亡くなった後も、同じようにせよ」。

原文主善筆劄,喜圖史,能為歌詩,尤善女工之事。嘗誡諸子以「忠義自守,無恃吾以速悔尤」,視他子與己出均。及病目,帝挾醫診視,自后妃以下皆至第候問。帝親舐其目,左右皆感泣,帝亦悲慟曰:「先帝伯仲之籍十有四人,今獨存大主,奈何嬰斯疾!」復顧問子孫所欲,主曰:「豈可以母病邀賞邪?」齎白金三千兩,辭不受。帝因謂從臣曰:「大主之疾,倘可移於朕,亦所不避也。」主雖喪明,平居隱几,沖淡自若。誡諸子曰:「汝父遺令:柩中無藏金玉,時衣數襲而已。吾歿後當亦如是。」

皇祐三年に薨じ、六十四歳であった。帝は臨奠し、五日間の視朝を輟んだ。齊國大長公主を追封し、獻穆と諡した。徽宗が荊國に改封した。政和年間に獻穆大長帝姬と改めた。

原文皇祐三年薨,年六十四。帝臨奠,輟視朝五日。追封齊國大長公主,諡獻穆。徽宗改封荊國。政和改獻穆大長帝姬。

真宗の二人の娘

原文真宗二女

真宗の二人の娘。長女は惠國公主で、早世した。

原文真宗二女。長惠國公主,早亡。

升國大長公主は、初め入道した。明道二年、衛國長公主に封ぜられ、清虛靈照大師の號を賜った。慶曆七年、魯國を追封され、昭懷と諡された。徽宗が升國大長公主に改封した。政和年間に昭大長帝姬と改めた。

原文升國大長公主,初入道。明道二年,封衛國長公主,號清虛靈照大師。慶曆七年,追封魯國,諡昭懷。徽宗改封升國大長公主。政和改昭大長帝姬。

仁宗の十三人の娘

原文仁宗十三女

仁宗の十三人の娘。徐國、鄧國、鎮國、楚國、商國、魯國、唐國、陳國、豫よ國の九人の公主は、皆、早世した。

原文仁宗十三女。徐國、鄧國、鎮國、楚國、商國、魯國、唐國、陳國、豫國九公主,皆早亡。

周、陳國大長公主は、帝の長女である。寶元二年、福康公主に封ぜられた。嘉祐二年、兗國公主に進封された。公主は幼い頃から聡明で慧く、性質は純孝であった。帝がかつて不豫であった時、公主は左右に侍し、跣足で天に呼びかけ、身をもって代わることを乞うた。帝は深くこれを愛した。

原文周、陳國大長公主,帝長女也。寶元二年,封福康。嘉祐二年,進封兗國。主幼警慧,性純孝。帝嘗不豫,主侍左右,徒跣籲天,乞以身代。帝隆愛之。

帝は章懿太后が天下の孝養を受けるに及ばなかったことを思い、その兄の子・李瑋を選んで公主に尚せしめた。李瑋は質朴で風采が上がらず、公主とは次第に相容れなくなった。公主は夜中に皇城門を叩いて入り訴え出たので、李瑋は恐れおののいて自らを劾した。諫官の王陶が宮門が夜に開かれたことを論じ、護衛を処罰するよう求め、御史たちもまた公主の邸宅の内臣の多くが謹みを欠いていると論じたので、帝は都監の梁懷一ら十余人を罷免した。その後数年経っても仲は修復せず、詔して李瑋を外任に出し、公主は沂國公主に降封され、内廷に屏居した。久しくして、再び李瑋を召し返し、以前のように駙馬都尉とした。英宗が立つと、越國長公主に進封された。神宗の治平四年、楚國大長公主に進封された。

原文帝念章懿太后不及享天下養,故擇其兄子李瑋使尚主。瑋樸陋,與主積不相能。主中夜扣皇城門入訴,瑋皇懼自劾。諫官王陶論宮門夜開,乞繩治護衛,御史又共論主第內臣多不謹,帝為黜都監梁懷一輩十餘人。後數年不復協,詔出瑋於外,主降封沂,屏居內廷。久之,復召瑋,使為附馬都尉如初。英宗立,進越國長公主。神宗治平四年,進楚國大長公主。

熙寧三年に薨じ、三十三歳であった。李瑋が公主に奉仕するに非なるありさまであったため、陳州に貶された。輔臣が諡を議したが、帝は公主が仁祖(仁宗)に孝事したことを以て、莊孝と命じ、秦國を追封した。徽宗が周、陳國を加えた。政和年間に莊孝明懿大長帝姬と改封した。

原文熙寧三年薨,年三十三。以瑋奉主無狀,貶陳州。輔臣議諡,帝以主事仁祖孝,命曰莊孝,追封秦國。徽宗加周、陳國。政和改封莊孝明懿大長帝姬。

秦、魯國賢穆明懿大長公主は、仁宗皇帝の第十女である。母は周貴妃という。嘉祐五年、慶壽公主に封ぜられ、惠國公主に進封された。治平四年、許國大長公主に進封された。呉越忠懿王の曾孫で、右領軍衛大將軍の錢景臻に降嫁した。韓、周燕國に改封された。徽宗の朝に、秦、魏の両國に進封された。政和三年、令德景行大長帝姬に改封された。

原文秦、魯國賢穆明懿大長公主,仁宗皇帝第十女也。母曰周貴妃。嘉祐五年,封慶壽,進惠國。治平四年,進許國大長公主。下嫁吳越忠懿王之曾孫、右領軍衛大將軍錢景臻。改韓、周燕國。徽宗朝,進秦、魏兩國。政和三年,更封令德景行大長帝姬。

靖康二年、諸帝姫は北へ移され、姫は先朝の女であったため、金人は知らず、汴に留まった。建炎初年、再び公主の号を復し、秦魯国に改封された。避地して南渡し、賊の張遇がその家を掠め、中子の愕が害された。公主は揚州に至り朝謁し、再び避地して閩に赴いた。

原文靖康二年,諸帝姬北徙,姬以先朝女,金人不知,留於汴。建炎初,復公主號,改封秦魯國。避地南渡,賊張遇掠其家,中子愕被害。公主至揚州朝謁,復避地之閩。

紹興三年、閩より会稽に至り、入見を請い、因って留まって居住した。後に台州に移った。上は公主が行尊く年高きを以て、甚だこれを敬い、毎に内に入れば、見るに必ず先ず揖した。靖康中、戚裏は例として節を納めたが、この時、公主はその子の忱のために旧官を還すことを請い、上は忱を滬川節度使とし、仍詔して戚裏は例を援ることを得ざらしめた。久しくして、又忱のために優賜推恩を請い、上は重ねてこれに違えず、忱に開府儀同三司を加えた。時に主に三子あり、愐、愷は己の出でざる所なり、故に独り忱に厚くした。上これを戒めて曰く、「長主の寿考かくの如しは、乃ち仁宗皇帝四十二年深仁厚沢の故に、是を以て慶を長主に鐘す。長主諸子を待遇するに、宜しく仁宗の用心の均一を法とすべし。」主感服した。

原文紹興三年,自閩至會稽,請入見,因留居焉。後徙台州。上以公主行尊年高,甚敬之,每入內,見必先揖。靖康中,戚裏例納節,至是,公主為其子忱請還舊官,上以忱為滬川節度使,仍詔戚裏不得援例。久之,又為忱請優賜推恩,上重違之,加忱開府儀同三司。時主有三子,愐、愷非己所出,故獨厚於忱。上戒之曰:「長主壽考如此,乃仁宗皇帝四十二年深仁厚澤,是以鐘慶於長主。長主待遇諸子,宜法仁宗用心之均一。」主感服。

薨じ、年八十六。上は朝を輟むこと五日、幸にその第に臨奠し、詔して子孫皆進官一等せしむ。諡して賢穆と曰う。二十九年、諡を加えて明懿とす。

原文薨,年八十六。上輟朝五日,幸其第臨奠,詔子孫皆進官一等。諡曰賢穆。二十九年,加諡明懿。

袞国大長公主は、帝の第十一女なり。嘉祐六年、永寿と封ぜらる。進んで栄国長公主となる。治平四年、進んで邠国大長公主となる。熙寧九年、魯国に改む。左領軍衛大将軍曹詩に下嫁す。主は性倹節にして、池台苑囿に於いて一無所増飭せず。十年夏、旱魃あり、曹族は主の生日を以て将に盛具を為して寿せんとす、主曰く、「上方に膳を損じ楽を徹す、吾何の心か能く安んぜん。」悉くこれを屏う。

原文袞國大長公主,帝第十一女也。嘉祐六年,封永壽。進榮國長公主。治平四年,進邠國大長公主。熙寧九年,改魯國。下嫁左領軍衛大將軍曹詩。主性儉節,于池台苑囿一無所增飭。十年夏,旱,曹族以主生日將盛具為壽,主曰:「上方損膳徹樂,吾何心能安。」悉屏之。

元豊六年薨じ、年二十四、追封して荊国とし、諡して賢懿とす。その二子曄、旼を遷して皆団練使を領せしむ。徽宗追封して袞国とし、又賢懿恭穆大長帝姫と改む。

原文元豐六年薨,年二十四,追封荊國,諡賢懿。遷其二子曄、旼皆領團練使。徽宗追封袞國,又改賢懿恭穆大長帝姬。

燕・舒国大長公主は、帝の第十二女なり。嘉祐六年、宝寿と封ぜらる。八年、進んで順国長公主となる。治平四年、進んで冀国大長公主となる。元豊五年、魏国に改め、開州団練使郭献卿に下嫁す。上り、楚国に進む。徽宗呉国に改め、進んで呉・越国とし、秦・袞国に改む。政和二年薨じ、追封して燕・舒国とし、諡して懿穆とす、復た懿物大長帝姫と改む。

原文燕、舒國大長公主,帝第十二女也。嘉祐六年,封寶壽。八年,進順國長公主。治平四年,進冀國大長公主。元豐五年,改魏國,下嫁開州團練使郭獻卿。上,進楚國。徽宗改吳國,進吳、越國,改秦、袞國。政和二年薨,追封燕、舒國,諡懿穆,復改懿物大長帝姬。

英宗四女

原文英宗四女

英宗四女。舒国公主は、早く亡ぶ。

原文英宗四女。舒國公主,早亡。

魏・楚国大長公主は、帝の長女なり。嘉祐八年、徳寧と封ぜらる。治平三年、進封して徐国とし、左衛将軍王師約に下嫁す。四年、進んで陳国長公主となる。元豊八年薨じ、追封して燕国大長公主とし、諡して恵和とす。元祐四年、追封して秦国とす。徽宗追封して魏国とし、韓・魏国を加え、又恵和大長帝姫と改む。

原文魏、楚國大長公主,帝長女。嘉祐八年,封德寧。治平三年,進封徐國,下嫁左衛將軍王師約。四年,進陳國長公主。元豐八年薨,追封燕國大長公主,諡惠和。元祐四年,追封秦國。徽宗追封魏國,加韓、魏國,又改惠和大長帝姬。

魏国大長公主は、帝の第二女、母は宣仁聖烈皇后と曰う。嘉祐八年、宝安公主と封ぜらる。神宗立ち、進んで舒国長公主となり、蜀しょく国に改め、左衛将軍王詵に下嫁す。詵の母盧寡居す、主これを近舎に処し、日ごとに膳羞を致す。盧病めば、自ら湯剤を和して進む。帝は姉妹に厚く、故に主の第池籞服玩は其の華縟を極む。主は宝慈宮に於いて宣仁に日侍することを得ざるを以て、居常悒然たり。間旱暵に遇えば、帝は降損して以て禱り、主もまたこれに如く、曰く、「我が奉賜は皆公上より出づ、固より其の傈戚に同じくすべし。」帝は慈聖光献皇后の喪に居り、毀甚だし、主曰く、「吾は上と同体なり、此れを視るも亦復た何をか聊かならん!」立ちまち歌舞三十輩を散遣す。

原文魏國大長公主,帝第二女,母曰宣仁聖烈皇后。嘉祐八年,封寶安公主。神宗立,進舒國長公主,改蜀國,下嫁左衛將軍王詵。詵母盧寡居,主處之近舍,日致膳羞。盧病,自和湯劑以進。帝厚于姊妹,故主第池籞服玩極其華縟。主以不得日侍宣仁于寶慈宮,居常悒然。間遇旱暵,帝降損以禱,主亦如之,曰:「我奉賜皆出公上,固應同其傈戚。」帝居慈聖光獻皇后喪,毀甚,主曰:「吾與上同體,視此亦復保聊!」立散遣歌舞三十輩。

元豊三年、病篤し。主は性妒忌せず、王詵は是を以て自恣し、嘗て官を貶せらる。この時に至り、帝は命じて詵の官を還し、以て主の意を慰む。太后臨問す、已に省みず、后慟哭し、久しくして稍く能く言い、自ら訴えて必ず起たず、相い持して泣く。帝継いて至り、自ら脈を診し、親しく粥を持してこれを食わしむ、主は強いて帝のために尽く食す。金帛六千を賜い、且つ須う所を問う、但だ詵の官を復するを謝するのみ。明日薨じ、年三十。帝は未だ食に上らざるに即ち駕して往き、第門を望みて哭し、朝を輟むこと五日。追封して越国とし、諡して賢慧とす。後進封して大長公主となり、累ねて秦・荊・魏の三国に改む。

原文元豐三年,病篤。主性不妒忌,王詵以是自恣,嘗貶官。至是,帝命還詵官,以慰主意。太后臨問,已不省,后慟哭,久稍能言,自訴必不起,相持而泣。帝繼至,自為診脈,親持粥食之,主強為帝盡食。賜金帛六千,且問所須,但謝復詵官而已。明日薨,年三十。帝未上食即駕往,望第門而哭,輟朝五日。追封越國,諡賢慧。後進封大長公主,累改秦、荊、魏三國。

主は古文を読むを好み、筆札を喜び、族党を賙恤し、中外賢を称す。詵は細行を矜まず、至っては妾と主の傍らで姦し、妾は数たび主に抵戾す。薨じたる後、乳母これを訴う、帝は命じて窮治せしめ、八妝を杖して以て兵に配す。既に葬り、詵を謫して均州とす。子の彦弼は、生れて三歳にして卒す。

原文主好讀古文,喜筆劄,賙恤族黨,中外稱賢。詵不矜細行,至與妾奸主旁,妾數抵戾主。薨後,乳母訴之,帝命窮治,杖八妝以配兵。既葬,謫詵均州。子彥弼,生三歲卒。

韓・魏国大長公主は、帝の第三女、魏国と同生なり。始め寿康公主と封ぜられ、祁国・衛国に改め、張敦礼に下嫁す。進んで冀国大長公主となり、秦・越・楚国に改め、今の封を加う。政和三年、賢徳懿行大長帝姫と改む。宣和五年薨ず。

原文韓、魏國大長公主,帝第三女,與魏國同生。始封壽康公主,改祁國、衛國,下嫁張敦禮。進冀國大長公主,改秦、越、楚國,加今封。政和三年,改賢德懿行大長帝姬。宣和五年薨。

神宗十女

原文神宗十女

神宗十女。楚国・鄆国・潞国・刑国・邠国・袞国の六公主は、皆早く薨ず。

原文神宗十女。楚國、鄆國、潞國、刑國、邠國、袞國六公主,皆早薨。

周國長公主は、皇帝の長女である。母は欽聖憲肅皇后という。延禧公主に封ぜられた。生まれつき聡明で、幼少の頃から嗜みを習い、あたかも成人の如くであった。十二歳で卒去し、皇帝と皇后はともに喪服を改めて哀悼のうちに見送った。燕國を追贈された。元符の末、周國に改封された。

原文周國長公主,帝長女也。母曰欽聖憲肅皇后。封延禧公主。生而警悟,自羈丱習嗜宛如成人。年十二卒,帝后皆變服哀送。追贈燕國。元符末,改封周國。

唐國長公主は、皇帝の第三女である。初め淑壽公主に封ぜられた。かつて皇帝は韓琦の功徳を思い、婚姻を結ぼうと欲したので、哲宗は先帝の意を継ぎ、公主を琦の子嘉彥に降嫁させた。温・曹・冀・雍・越・燕の六國を歴封した。政和元年に薨じ、唐國長公主を追封された。

原文唐國長公主,帝第三女也。始封淑壽公主。初,帝念韓琦功德,欲與為婚姻,故哲宗緣先帝,以主降琦之子嘉彥。曆封溫、曹、冀、雍、越、燕六國。政和元年薨,追封唐國長公主。

潭國賢孝長公主は、皇帝の第四女である。母は宋貴妃という。初め康國に封ぜられた。紹聖四年、王遇に降嫁した。韓・魯・陳・鄆の四國を歴封した。大観二年に薨じ、封號と諡號を追加された。

原文潭國賢孝長公主,帝第四女也。母曰宋貴妃。始封康國。紹聖四年,下嫁王遇。曆韓、魯、陳、鄆四國。大觀二年薨,追加封諡。

徐國長公主は、皇帝の幼女である。母は欽成皇后という。初め慶國に封ぜられ、益・冀・蜀・徐の四國に進封された。年齢が笄を過ぎても、なお聖瑞宮に留まっていた。母の病に侍り、昼夜暫しも離れず、薬餌は自ら手を経なければ進めなかった。病が重篤に及ぶと、慟哭して幾度も気絶し、左右の者は見るに忍びなかった。

原文徐國長公主,帝幼女也。母曰欽成皇后。始封慶國,進益、冀、蜀、徐四國。年及笄,猶處聖瑞宮。侍母疾,晝夜不暫去,藥餌非經手弗以進。迨疾革,號慟屢絕,左右不忍視。

崇寧三年、鄭王潘美の曾孫意に降嫁した。姑に仕えて婦道を修めた。潘氏はもと大族であり、夫の一族は数千百人に及び、賓客への接遇はことごとく礼を尽くし、内々の非難の言葉はなかった。志は沖淡を好み、服飾や玩好は華美を求めず、歳時の遊楽も簡素にし、十年の間にただ一度西池に赴いたのみであった。再び子を生んだが、成育せずに死に、滕妾が得た女を、自らの子の如く慈しみ養った。政和三年、柔惠帝姬と改称された。五年に薨じ、三十一歳、賢靜長帝姬を追封された。

原文崇寧三年,下嫁鄭王潘美之曾孫意。事姑修婦道。潘故大族,夫黨數千百人,賓接皆盡禮,無裏外言。志向沖淡,服玩不為紛華,歲時簡嬉遊,十年間惟一適西池而已。再生子,不成而死,滕妾得女,拊視如己出。政和三年,改稱柔惠帝姬。五年薨,年三十一,追封賢靜長帝姬。

哲宗四女

原文哲宗四女

哲宗四女。鄧國・揚國の二公主は、早くに亡くなった。

原文哲宗四女。鄧國、揚國二公主,早亡。

陳國公主は、初め德康公主に封ぜられ、瀛國・榮國に進封された。大観四年、石端禮に降嫁し、陳國に徙封された。淑和帝姬と改称された。政和七年に薨じた。

原文陳國公主,始封德康公主,進瀛國、榮國。大觀四年,下嫁石端禮,徙陳國。改淑和帝姬。政和七年薨。

秦國康懿長公主は、皇帝の第三女である。初め康懿に封ぜられ、嘉國・慶國に進封された。政和二年、韓國公主と改め、潘正夫に降嫁した。淑慎帝姬と改称された。靖康の末、賢德懿行大長公主とともに先朝の皇女として汴京に留まった。建炎初め、再び公主の號に復し、吳國に改封された。越の地で上(高宗)に拝謁し、玉管筆・小玉山・奇畫を献上したが、上は穏やかな言葉でこれを退けた。婺州に避地した。

原文秦國康懿長公主,帝第三女也。始封康懿,進嘉國、慶國。政和二年,改韓國公主,出降潘正夫。改淑慎帝姬。靖康末,與賢德懿行大長公主俱以先朝女留於汴。建炎初,復公主號,改封吳國。覲上於越,以玉管筆、小玉山、奇畫為獻,上溫辭卻之。避地至婺州。

紹興四年に入朝して拝謁し、その子堯卿ら五人それぞれが官位一等を進められた。公主が上奏して言うには、「祖宗以来、駙馬都尉の石保吉・魏咸信・柴宗慶はいずれも使相に除されている。今、正夫は四朝に歴事し、汴京においては陛下を迎えることを建議し、杭州に至ってはまた禁衛が未だ集まらず、予め変事を防ぐべきであると建言した。開府儀同三司を除することを乞う」と。上は許さなかった。八年、再び入朝して拝謁した。宮中に三日留まった。時は酷暑であったが、上は常に正衣冠してこれに対し飲食し、また正夫のために恩典を求めたが、上は言った、「官爵をどうして私的に人に与えられようか、況んや今日は多事であり、このことに暇がない」と。時に趙鼎が国政を執り、まさに群臣の紹述の奸を論じており、正夫をかなり抑えていた。鼎が去位すると、正夫は初めて開府の命を得た。給事中劉一正がこれは旧制に非ず、先例を援用する者が多くなることを恐れると上言したので、詔して「哲宗の近親は正夫のみとし、他の者は援用することを許さない」とした。顯仁太后が帰還すると、公主は秦・魯國大長公主とともに道中で迎えた。十九年、また入朝した。子の長卿・粹卿・端卿はいずれも團練使から觀察使に昇進したが、これはその請いに従ったものである。孝宗が即位すると、秦國大長公主に進封された。隆興二年に薨じ、諡して康懿といった。

原文紹興四年入見,其子堯卿等五人各進官一等。主奏言:「祖宗以來,駙馬都尉石保吉、魏咸信、柴宗慶皆除使相。今正夫曆事四朝,在汴京曾建議迎陛下,至杭州又言禁衛未集,預宜防變,乞除開府。」上不許。八年再入見。留宮中三日。時極暑,上每正衣冠對之飲食,又為正夫求恩數,上曰:「官爵豈可私與人,況今日多事,未暇及此。」時趙鼎當國,方論群臣紹述之奸,頗抑正夫。鼎去位,正夫始得開府之命。給事中劉一正言其非舊制,恐援例者多,乃詔:「哲宗惟正夫為近親,余人毋得援。」顯仁太后歸,主同秦、魯國大長公主迎于道。十九年,又入朝。子長卿、粹卿、端卿皆自團練使升觀察使,從所請也。孝宗即位,進封秦國大長主。隆興二年薨,諡康懿。

公主の在世中、正夫の官は少傅に至り、和國公に封ぜられ、溫卿は甯國軍承宣使、長卿は甯江軍承宣使、端卿は昭信軍承宣使、清卿は容州觀察使、墨卿・才卿はともに團練使を帯び、その盛んなりしことかくの如し。正夫は紹興二十二年に薨じ、太傅を贈られた。

原文主在日,正夫官至少傅,封和國公;溫卿甯國軍承宣使,長卿甯江軍承宣使,端卿昭信軍承宣使,清卿容州觀察使,墨卿、才卿並帶團練使,其盛如此。正夫薨於紹興二十二年,贈太傅。

徽宗三十四女

原文徽宗三十四女

徽宗三十四女。政和三年、公主の號を帝姬と改め、國號を美名に易え、二字とした。

原文徽宗三十四女。政和三年,改公主號為帝姬,國號易以美名,二字。

嘉德帝姬は、建中靖國元年六月、德慶公主に封ぜられた。嘉福に改封され、まもなく帝姬と改號し、再び嘉德に封ぜられた。左衛將軍曾夤に降嫁した。

原文嘉德帝姬,建中靖國元年六月,封德慶公主。改封嘉福,尋改號帝姬,再封嘉德。下嫁左衛將軍曾夤。

榮德帝姬は、初め永慶公主に封ぜられ、榮福に改封された。まもなく帝姬と改號し、再び榮德に封ぜられた。左衛將軍曹晟に降嫁した。

原文榮德帝姬,初封永慶公主,改封榮福。尋改號帝姬,再封榮德。下嫁左衛將軍曹晟。

順淑帝姫は、初め順慶公主に封ぜられた。薨去し、益國を追封された。帝姫号に改めた際、順淑を追封された。

原文順淑帝姬,初封順慶公主。薨,追封益國。及改帝姬號,追封順淑。

安德帝姫は、初め淑慶公主に封ぜられ、安福に改封された。まもなく帝姫号に改め、再び安德に封ぜられた。左衛將軍邦光に降嫁した。

原文安德帝姬,初封淑慶公主,改封安福。尋改號帝姬,再封安德。下嫁左衛將軍邦光。

茂德帝姫は、初め延慶公主に封ぜられ、康福に改封された。まもなく帝姫号に改め、再び茂德に封ぜられた。宣和殿待制蔡鞗に降嫁した。

原文茂德帝姬,初封延慶公主,改封康福。尋改號帝姬,再封茂德。下嫁宣和殿待制蔡鞗。

壽淑帝姫は、初め壽慶公主に封ぜられた。薨去し、豫國を追封された。帝姫号に改めた際、壽淑を追封された。

原文壽淑帝姬,初封壽慶公主。薨,追封豫國。及改帝姬號,追封壽淑。

安淑帝姫は、初め安慶公主に封ぜられ、隆福に改封された。薨去し、蜀國を追封された。帝姫号に改めた際、安淑を追封された。

原文安淑帝姬,初封安慶公主,改封隆福。薨,追封蜀國。及改帝姬號,追封安淑。

崇德帝姫は、初め和慶公主に封ぜられ、崇福に改封された。まもなく帝姫号に改めた。左衛將軍曹湜に降嫁した。再び崇德に封ぜられた。宣和二年に薨去した。

原文崇德帝姬,初封和慶公主,改封崇福。尋改帝姬號。下嫁左衛將軍曹湜。再封崇德。宣和二年薨。

柔福(帝姫)は五國城にて、徐還に嫁ぎて薨去した。静善は遂に誅殺された。柔福の薨去は紹興十一年であり、梓宮に従って来た者がその遺骨を持ち帰り、葬って、和國長公主を追封した。

原文柔福在五國城,適徐還而薨。靜善遂伏誅。柔福薨在紹興十一年,從梓宮來者以其骨至,葬之,追封和國長公主。

孝宗の二女

原文孝宗二女

孝宗の二女:長女は嘉國公主、紹興二十四年に碩人に封ぜられ、永嘉郡主に進み、三十二年に卒した。詔して医官李師克らを吏に属させようとしたが、孝宗は当時東宮に居り、奏上して「臣が女は幼くして病多く、医師を罪すべからず」と言った。そこで取りやめとなった。乾道二年、嘉國公主を贈られた。次女は生後五月で夭折し、封を受けるに及ばなかった。

原文孝宗二女:長嘉國公主,紹興二十四年,封碩人,進永嘉郡主,三十二年卒。詔以醫官李師克等屬吏,孝宗時居東宮,奏:「臣女幼而多疾,不宜罪醫。」遂寢。乾道二年,贈嘉國公主。次女生五月而夭,未及封。

光宗の三女

原文光宗三女

文安郡主は光宗の長女である。次女は和政郡主に封ぜられ、三女は齊安郡主に封ぜられた。皆早世した。紹熙元年、いずれも公主を追贈された。

原文文安郡主,光宗長女也;次女封和政郡主;季女封齊安郡主。皆早卒。紹熙元年,並追贈公主。

魏惠獻王の一女

原文魏惠獻王一女

安康郡主は魏惠獻王の女である。初め永寧郡主に封ぜられ、通義に改封された。父の遺表により、安康に昇格した。殿前司前軍統領羅忠信の子良臣に嫁いだ。詔して王府主管鄧從義に旨を諭させた。「皇女孫たる郡主は婦道を執り、必ず肅雍の徳を成し、敢えて違うことなかれ」と。申第を賜って住まわせた。良臣は恩により秉義郎に転じ、閣門祗候の官を除かれた。開禧元年、郡主は薨去し、三十九歳であった。

原文安康郡主,魏惠獻王女也。初封永寧郡主,改封通義。以父遺表,遂升安康。歸殿前司前軍統領羅忠信子良臣。詔王府主管鄧從義諭旨:「皇女孫郡主宜執婦道,務成肅雍之德,毋敢或違。」賜申第居之。良臣以恩轉秉義郎,除閣門祗候官。開禧元年,郡主薨,年三十九。

甯宗の一女

原文甯宗一女

祁國公主は甯宗の女である。生後六月で薨去し、祁國を追封された。

原文祁國公主,甯宗女也。生六月而薨,追封祁國。

理宗の一女

原文理宗一女

周・漢国公主は、理宗の女なり。母は賈貴妃、早く薨ず。帝に子なく、公主は生まれながらにして甚だ鍾愛せらる。初め瑞国公主に封ぜられ、升国と改む。開慶初め、公主は年及び笄し、詔して尚を選ぶを議す。宰臣、唐太宗の士人に降す故事を用いんことを請い、進士第一人を以て主を尚せしめんと欲し、遂に周震炎を取る。廷謝の日、公主、屏内より窺見するに適い、意頗る懌ばず、帝微かに之を知る。

原文周、漢國公主,理宗女也。母賈貴妃,早薨。帝無子,公主生而甚鍾愛。初封瑞國公主,改升國。開慶初,公主年及笄,詔議選尚。宰臣請用唐太宗降士人故事,欲以進士第一人尚主,遂取周震炎。廷謝日,公主適從屏內窺見,意頗不懌,帝微知之。

景定二年四月、帝、楊太后の擁立の功を以て、乃ち太后の姪孫鎮を選び主を尚せしむ。鎮を右領軍衛将軍・駙馬都統に擢で、公主を周国公主に進封す。帝、俗俚の時之を見んと欲し、乃ち主の為に第を嘉会門に起し、飛楼閣道、宮苑に密邇す。帝常に小輦に御し宮人に従ひて公主の第を過ぐ。特ちに董役官に三年の磨勘を減ずるを賜ひ、工匠に犒賞有差。明年、周・漢国公主に進封し、鎮を慶遠軍承宣使に拝す。鎮の宗族娣姪は皆推官加封せられ、寵異甚だ渥し。

原文景定二年四月,帝以楊太后擁立功,乃選太后侄孫鎮尚主。擢鎮右領軍衛將軍、駙馬都統,進封公主為周國公主。帝俗俚時見之,乃為主起第嘉會門,飛樓閣道,密邇宮苑,帝常御小輦從宮人過公主第。特賜董役官減三年磨勘,工匠犒賞有差。明年,進封周、漢國公主,拜鎮慶遠軍承宣使。鎮宗族娣姒皆推官加封,寵異甚渥。

七月、主病む。九首の鳥有り、箕の如く大にして、主家の擣衣石の上に集る。是の夕薨ず、年二十二。子無し。帝之を哭すること甚だ哀しみ、端孝と諡す。鎮の官は節度使なりと云ふ。

原文七月,主病。有鳥九首大如箕,集主家擣衣石上,是夕薨,年二十二。無子,帝哭之甚哀,諡端孝。鎮官節度使云。