子淔
子淔、字は正之、燕王の五世孫なり。父は令鑠、官は宝文閣待制に至る。子淔は蔭により承務郎を補し、累遷して少府監主簿となり、河南少尹に改む。
時に西内を治むるに、子淔は幹才あり、漕使宋昪これを器す。或いは事便ならざるあれば、子淔は輒ち力争し、昪は毎に容を改めてこれに謝す。蔡河撥発綱運官を除す。夏の旱に会し、河水涸れ、転餉期に後るるにより、秩一級を貶す。三門・白波輦運事を提挙し、直秘閣を除す。内艱に丁し、起復す。累進して龍図閣・秘閣修撰となり、陝西転運副使を除す。
初め、蔡京は夾錫銭を鋳るも、民は壅滞を病み、子淔は小鉄銭を鋳て以てこれに権えんことを請い、因って範格を以て進む。徽宗大いに悦び、御書「宣和通宝」の四字を銭文と為す。既に成るや、子淔は民に旧銅銭を官に入れ、新鉄銭に易えしむるを奏す。旬日の間に、百余万緡を得る。帝、手札を以て新銭百万緡を五路に付し、細麦を均糴せしめ、子淔をしてその事を領せしむ。民は限迫を苦しみ、子淔に訴うる者日に数百人、子淔はその期を寛にせんことを奏請し、民これを便とす。蔡京の再び相となるに会い、言者は京の意を希い、子淔の銭法を乱すを論じ、職を落として祠を奉ぜしむ。
靖康初め、秘閣修撰に復す。金人洛を侵すや、子淔は荊南に奔る。潰兵の祝靖・盛德、荊南城を破る。子淔は民家に匿るるも、靖等これを知り、来謁し、京城已に破れたりと言う。子淔泣き、これを説きて曰く「君輩は宜しく亟に都城に還り、社稷を護り、功名を取り、財を貪りて州県を擾すことなかれ」と。皆応えて曰く「諾」と。子淔、因って檄を草してこれを趣す。翌日、靖等遂に北行す。
子淔幼にして警悟、蘇軾その家を過ぎ、抱いて膝上に置き、その父に謂いて曰く「此れ公家の千里駒なり」と。長ずるに及び、談論を善くし、詩に工なり。然れども崇寧・大観の間、土木繁興するに、子淔は毎にその役を董む。識者これを鄙む。
子崧
子崧、字は伯山、燕懿王の後五世孫なり。崇寧五年の進士第に登る。宣和の間、官は宗正少卿に至り、徽猷閣直学士・淮寧府知事を除す。
汴京守りを失うや、兵を起こして王に勤めんとすれど、道阻みて進むを得ず。張邦昌の位を僭するを聞き、書を以て康王に白す:宜しく師を遣わして金人を河上に邀え、両宮を迎請し、僭逆に罪を問い、若し江を渡らんことを議せば、恐らくは大計を誤らんと。遂に潁昌府知事何志同等と盟し、檄を中外に伝う。已にして金人の退くを聞き、兵を襄邑に引き、范塤・徐文中を済州に詣らせ、王に南京に進兵せんことを請い、且つ言う「国家の制、王の在外するを視ること無し、主上特ち大王に元帥の権を付す、此れ殆ど天意なり。亟に制を承けて四方の豪傑を号召すべし、然らば中原は檄を伝えて定まるべし」と。王、子崧を大元帥府参議官・東南道都総管に充てしむ。邦昌の家は廬州に在り、子崧は檄して通守趙令儦に幾察せしめ、且つその母子を捕誅せんことを請い、以て奸心を絶たんとす。
又言す「城を囲まれて以来、朝命隔絶す。諸路に下し、凡そ事宜有るは、並びに大元帥府の裁決を取り、偽檄は輒ち行うことなからしめんことを乞う。宣撫使范訥は逗撓して私を営み、宜しく罪を加うべし。兵を被れる州県の租を蠲し、淮南・荊・浙の形勢の地を經理し、群盗に拠らるることなからしむべし」と。
檄して諸路に邦昌の偽赦を受くることなからしめ、書を移して邦昌を責めて曰く「人臣は危きを見て命に致すべし。今、議者籍籍として、劫請傾危の計は実に閣下に由ると謂う。然らずんば、金人何ぞ孫傅の請を堅く拒み、而して卒に閣下に帰せしむるや。敵既に遠去せり、宜しく速やかに反正すべし。若し少しく猶予せば、則ち天下共に逆節を誅し、悔ゆるも及ばざるべし」と。又、書を王時雍に遺して曰く「諸公相与に人の国を亡ぼし、方且に佐命功臣と為さんとす。平素の所学何事なるかを知らず」と。
会に邦昌、使を遣わして王を迎え、次第に子崧に白す。子崧即ち王に書を貽して曰く「聞くに似たり、京師の残破を以て復た入るべからずと謂い、止だ軍中に即位し、便ち遷徙を図らんと欲すと。臣窃かに惑う。夫れ中興を致さんと欲せば、挙措を謹むべく、宜しく先ず宗廟を謁し、母后を覲し、誅賞を正しく明らかにし、四方に霈沢を降すべし。若し京師果たして都すべからずとせば、然る後に徐ろに向かう所を議すべし」と。
かくて京師に檄を伝え、隆祐太后に奏上して曰く、「諸路は先に二聖(徽宗・欽宗)の北遷を聞き、易姓改国(金による王朝交代)あり、恐らくは間に逆を討つ名を仮り、以て州郡を窃拠する者あらん。速やかに明詔を下し、四方に康王を迎え立てんとするの意を諭し、庶幾くは人心慰安し、奸宄自ら消えん」と。尋いで以て所部の兵を率い済州に会す。
康王即位す。子崧、諸路の常平積欠銭を放免するを請い、又言す、「台諫は人主の耳目なり。近年其人に非ざるを用い、率ね旨を取りて事を言う。旧制を尊び、学士・中丞の互いに挙ぐるを聴かんことを請う。范祖禹・常安民・上官均は先朝に事を言い尽く忠なり。其の子を録するを請う」と。帝皆其の奏を可す。因りて三屯の議を建つ。一は澶淵に屯し、一は河中・陝・華に屯し、一は青・鄆の間に屯し、以て声勢を張らんと。万一敵騎南侵せば、則ち三道並び進み、大功を成すべしと。
延康殿学士・知鎮江府・両浙路兵馬鈐轄を除す。上章して王時雍・徐秉哲・吳開・莫儔・范瓊・胡思・王紹・王及之・顔博文・余大均等が上皇を逼遷し、太子を取り、六宮を辱しめ、宗室を捕え、禁物を窃むを論ず。都人は指して国賊と為す。伏して望む、諸を市朝に肆し、以て臣子の戒めと為さんことを。時に滑州両度残破を経る。子崧、傅亮の任に堪うるを薦む。亮を除して滑州通判と為す。黄潜善之を沮み、命遂に寝す。
賊趙萬鎮江を犯す。子崧、将を遣わし趙萬を丹徒に撃たしめ、郷兵を調発し城に乗り備えと為す。頃くして官軍敗れて帰り、郷兵驚潰す。子崧、親兵を率い焦山寺を保つ。賊鎮江を拠る。
子櫟
子櫟は燕懿王の後五世孫なり。元祐六年進士第に登る。靖康中、汝州太守と為る。金人再び盟を渝え、荊湖諸州を破る。独り子櫟能く境土を保つ。李綱朝に言ひ、宝文閣直学士に遷り、尋いで万寿観を提挙す。紹興七年卒す。
子砥
子晝
子晝、字は叔問、燕王の五世孫なり。少より警敏強記、書翰に工なり。累官して憲州通判と為る。宣和初、詳定『九域図志』編修官を充てる。出でて沢州を知り、密州に改む。詔して刑部員外郎と為り、憂ひに因り去る。
建炎四年、吏部員外郎に遷る。尋いで大宗正士㒟の薦を用い、尚書左司員外郎に遷り、兼ねて権貨務を領す。歳に茶・塩・香銭六百九万余緡を収め、功を以て秩一階を進む。太常少卿を試み、『太常因革礼』八十篇を集め、二十七巻と為す。上言して春分に高禖を祀る礼を復すことを請う。権礼部侍郎を除し、徽猷待制・枢密都承旨に遷る。公族を以て侍従と為り、及び官制を改めたる後都承旨に文臣を用ふるは、皆子晝に始まる。
子潚
子潚、字は清卿、秦康惠王の後、孝靖公令奧の子なり。七歳にして孤と為り、家貧しく力学す。宣和中進士第に登る。真州刑曹掾に調じ、守と獄事を争ひ、官を解き去る。衢州推官に改む。胡唐老其の才を奇とし、之を任ず。時に属して多故なるに、子潚唐老を佐け城具を繕完す。苗・劉の兵城下に至るも、攻むる能はず。功を以て一秩を進む。累官して吏部郎中に至り、外補を求め、戸部郎中に遷り、江・淮軍馬銭糧を総領す。諸司饋礼、月に千緡を以てす、悉く之を公帑に帰す。直秘閣・両浙転運副使を除す。朝廷人を遣わし沙田蘆場を検し、概ね租額を増さんと欲す。子潚承買と冒占は異なるを以て、力めて之を止む。
時に議者言う、太湖に並ぶ田は水害を受け、諸浦を分道して江に注ぐべきであると。詔して子潚を遣わし往きて案視せしむ。還りて言う、「太湖は数州の巨浸たるに当たり、豈に松江一川のみの能く独り泄すべきや。昔の人、常熟の北に浦二十四を開きて大江に達し、又浦十を昆山の東南に開きて海に入る。今皆湮塞す、宜しく疏浚を加うべし」と。之に従う。遂に常熟東柵より雉浦に至り涇穀に入るを浚い、又福山塘を疏鑿し、尚市橋の北に至り大江に注ぎ、其の勢を分殺し、水患用て息む。
明州守趙善繼、郡を治むるに残酷にして、子潚諸監司を率いて之を劾罷す。直敷文閣を除し、臨安府を知る。吏欺く能わず、権家の子女を僦いて僕妾と為すを禁ず。詔して権戸部侍郎とし、敷文閣待制に升め、復た臨安府を知る。三衙の卒を調して都城を修築し、擾わずして辦ず。金主亮盟を渝え、子潚軍を助けるに十五万銭を献じ、特に一秩を遷す。帝建康に幸し、行宮留守参謀官を充てる。蹕に扈従して還り、復た臨安府を知る。金人来たりて和を議す、子潚謂う、事情は測るべからず、宜しく軍礼を以て之を待つべしと。
孝宗位を嗣ぎ、恢復を志図す。子潚兵を練り、「鵝鸛魚麗の陣」を習わしむ。上便殿において之を観、之を嘉し、金帯を賜う。敷文閣直学士に擢げ、移りて明州を知り、沿海制置使と為す。台諫王十朋・王大宝疏を抗して之を留む。帝曰く、「朕海を防ぐに委ぬ、行くに召還せん」と。初め、海寇賂を以て郡胥吏に通じ、吏反って之を用い、其の蹤跡を匿す。賊遂に大いに熾え、商舶通ぜず。子潚礼を以て土豪を延き、俾くに郡胥を率いて分道海に入らしめ、之に告げて曰く、「命を用うる者は厚賞有り、然らずんば殺して貸さず」と。胥衆震恐し、争って賊の処を指し、悉く禽獲す。凡そ豪猾にして賊の囊橐と為る者は、窮治す。海道遂に平ぐ。
師𢍰
師𢍰、字は従善。系は燕懿王に出づ。王、彰化軍節度使惟忠を生む。惟忠、宣城侯従謹を生む。従謹、崇国公世恬を生む。世恬、嘉国公令晙を生む。中興の初め、韓世清令晙を挟みて変を為す。黄旗を裂きて其の身に被るも、固く拒みて免る。令晙、朝奉郎子笈を生む。子笈、和州防禦使伯驌を生む。伯驌少くより高宗に康邸に従い、文芸を以て左右に侍す。
師𢍰は伯驌の子なり。進士第に挙がり、司農簿を除し、金部郎中に遷る。孝宗其の才を奇とし、顧遇頗る厚し。師𢍰奏す、左右曹・度支・倉部は宜しく総計を立て、財物の数を帰併し、以て吏奸を絶つべしと。制可す。吉州を知り、即ち山に銅を煉り、冶の欠額二十万を足す。戸部郎官・淮東総領に進む。
光宗初め、太府少卿に擢げられ、秀州を知り、淮南運判に改む。時に郡に鉄錢行わず、塩商至らず。師𢍰度牒を発し、倉粟を出し、以て鉄錢を収むるを請う。塩利遂に通ず。累遷して司農卿・臨安府知府に至る。僧号して散聖と為す者あり、妖術を以て衆を惑わす。師𢍰捕え治めて之を黥す。
韓侂胄事を用う。師𢍰之に附き、遂に京尹を得。侂胄の誕生日、百官争って珍異を貢ぐ。師𢍰最後に至り、小合を出だして曰く、「願わくは少果核を献じて觴を侑えん」と。之を啓くに、乃ち粟金蒲萄の小架にして、上に大珠百余を綴る。衆慚沮す。侂胄に愛妾十四人あり。或る人北珠の冠四枚を侂胄に献ず。侂胄之を以て四妾に遺す。其の十人も亦之を欲す。侂胄未だ以て応うる所なし。師𢍰之を聞き、亟に銭十万緡を出だして北珠を市い、十冠を製して献ず。妾之が為に官を遷すを求め、工部侍郎に転ずるを得。侂胄嘗て南園に飲み、山莊を過ぐ。竹籬茅舎を顧みて師𢍰に謂う、「此れ真に田舎の気象なり。但だ犬吠鶏鳴を欠くのみ」と。俄に犬の嗥ゆるを叢薄の間に聞く。之を視るに乃ち師𢍰なり。侂胄久しく大笑す。工部尚書を以て臨安府知府と為る。
侂胄将に兵を用いんとす。師𢍰侂胄の材疎く意広きを度り、必ず禍を召さんと、乃ち異論を持す。侍御史鄭友龍之を劾罷す。侂胄死し、其の党多く坐して謫せらる。師𢍰嘗て侂胄と異なりしを以て、故に用いらる。宝謨閣直学士を除し、鎮江府知府と為る。
会に荊湖始めて制閫を置く。以て師𢍰を命ず。給事中蔡幼学其の命を繳す。遂に罷めて帰る。未だ幾ばくもせず、詔して兵部尚書・臨安府知府と為す。幼学時に学士と為り、亦詔を草せず。留元剛之を草す。時に楮軽く糴貴し。師𢍰京を尹すること未だ数月ならずして、楮価浸く昂り、糴亦稍く平らぐ。執政愈々之を賢とす。会に武学士柯子沖・盧宣德事を以て府に至る。師𢍰擅に之を撻ち遣わす。衆尽く讙く。文武二学の士交わって牒を投ず。師𢍰乃ち罷免せられ、祠と与えらる。家に卒す。年七十。
師𢍰四たび臨安を尹し、能声有り。嘗て民の罪を鉤致し、其の家貲を没し、権貴に謅事す。人此を以て之を鄙む。
希言
希言、字は若訥。恵王令懬の元孫なり。淳熙十四年第に登る。衢州司戸に調ず。郡民を合計し、其の坊を表し、其の戸数を標し、図を為して守に献ず。守之を才とす。西安令職をせず。守檄して希言に邑を摂せしむ。漕令を善しとす。会に厳州烏龍嶺税場を復すを請う。檄して希言を往かしめて之を訪わしめ、俾くに令を得て復職せしむ。希言力めて烏龍場復すべからざるを陳う。漕怒りて曰く、「衢已に孔歩・章戴の二場を復せり。何ぞ烏龍独り復すべからざるや」と。希言謂う、二場当に並び罷去すべしと。漕奪う能わず。二場竟に亦廃す。吉州司理に改む。属邑に人を誣いて殺人の罪と為す者あり。吏之を治むるに急にして、囚誣服す。希言鞠して実を得、檄して県に他捕せしむ。乃ち真盗を得。
楊万里・周必大の薦を用い、臨安府司法を授けられ、淮西総所幹弁に改む。書を移して諸郡に約す、綱は必ず時に発し、至れば即ち受納し、滞留無からしむ。初めて至る時、軍庫の見銭千緡に満たず。去るに比し、庫銭充溢す。
臨安府仁和県の知県事となった。学宮の敷地を四百余畝に拡張した。ちょうど大旱魃が起こり、蝗が御前の蘆場に数里にわたって群集した。希言は蘆を除去して害を除こうとしたが、宦官がその策を阻んだので、希言は兵卒を駆ってこれを焼き払った。臨平の塘堤が決壊すると、希言は工事を監督し、自ら土を捧げ石を投じたので、兵士と民衆が争ってこれに従い、堤防は完成し、さらに重堤を築いたため、後には再び決壊することはなかった。民衆は和買絹の代金折納の負担が重いことを苦しんでいたので、希言は公費を節減し、代わって納入した。
太社令に任ぜられ、枢密院編修官兼右司に転じた。上奏して言うには、「諸将はただ城守に務めるのみで、敵が来てもこれを拒まず、去っても再び追わず、将来の憂いは、たんに江を保つのみに止まらないであろう。諸将に諭すべきである。一軍が包囲を受ければ、諸軍が共に守り、敵が淮を渡らなければ均しく賞を受け、戦をもって守りとし、守りをもって守りとすべきではない」と。宗正丞に転じ、南班の者も順番に対応できるよう請うたところ、許された。累遷して秘書丞、著作郎、軍器少監となり、いずれも右司を兼ね、さらに枢密院検詳を充てられ、宰相の属官、枢密院の掾として凡そ六年を経て、宮観官となって去った。嘉定十七年に卒去。六十一歳。資政殿大学士を追贈され、越国公に封ぜられ、諡は忠憲といった。
子の与権は、進士に及第し、さらに刑法科に合格した。官は開府儀同三司に至った。
希懌
希懌は字を伯和といい、燕王の八世の孫である。淳熙十四年に進士に及第した。趙汝愚が福建を帥とすると、希懌はその属吏となり、かつて言ったことがある。「人を治めることは修身の如く、政を治めることは家を理めるが如く、民を愛することは兄弟を処するが如し」と。古今の官で恵愛を著わした者を取って一編にまとめ、「これがわが師である」と言った。汝愚はこれを賞賛し、憲司の辛棄疾に推薦した。棄疾は気性を尊び、僚吏は敢えて可否を言えなかったが、希懌のみは言うべきことを全て言って避けるところがなかった。属邑の候官は税の重さに苦しみ、毎年定額に達しなかったので、希懌は公庫の余剰銭を査定してこれを補った。棄疾もその才能を推薦した。汝愚が国政を執ると、江東運司幹辦に転じた。
同僚に韓侂冑の党に連座した者がいたが、諸司は敢えて推薦する者なく、希懌はその人の賢を認め、自分を推薦した者にその人を推薦するよう請うた。太平州通判に改めた。先に、盗みを犯して入墨の刑を受け逃亡した者を捕らえると処死としていた。希懌は言った。「強盗は特に命を貸してやったのに逃亡した者は斬るが、今、入墨の罪で死に至らしめるのは、法の公平ではない」と。これ以後は皆、死罪を減じて論じられるようになった。
江西茶塩提挙に遷った。凶年に、悪少年が集まって強奪し、希懌は自ら臨んで取り調べようとしたが、幕属が力説して止めたが、聞き入れず、言った。「希懌が出向かなければ、飢えた民はついに食を得られず、しかも乱を招くであろう」と。遂に行き、粟を発して賑給し、首謀者を捕らえてこれを処断したので、その徒党は散じた。本路の安撫使兼転運使に昇進した。黒風峒の羅世伝が郴陽を寇掠し、奸民がひそかに賊と通じ、密かに糧食を供給していた。希懌はこれを捕らえて処断したので、賊は食糧に窮し、去った。間もなく、李元礪が郴を寇し、陳廷佐が南安を寇し、さらに羅世伝を誘って合流し、劫掠して龍泉に至った。何光世という者がおり、賊の動静を知ることができたので、希懌は光世に計略を授け、世伝を誘って元礪を誅殺し、自ら贖罪させるようにした。功は未だ成らぬうちに、平江府知府に移知となった。その後、世伝は果たして元礪を縛って献上し、廷佐は勢い孤となり、降伏した。
太平州知州に移知となった。希懌が通判であった頃、その地の民の利害に習熟していたので、折帛の価格を引き下げ、専売酒の額を減らして、民力を蘇らせた。やがて宮観官を請い、端明殿学士に遷り、昭信軍節度使、開府儀同三司に換えられ、致仕した。嘉定五年に卒去。五十八歳。少保を追贈され、成国公に封ぜられた。
士珸
士珸は字を公美といい、濮王懿王の曾孫である。天資は聡敏で、幼少時より厳然として成人のようであった。弱冠に及ぶと、右監門衛大将軍、貴州団練使となった。上皇に従って北遷し、洺州の東に至り、諸宗室と議して、遁れて還り城を占拠しようとした。謀は未だ成らぬうちに金人が包囲を完了し、皆散走した。士珸は驢馬に乗って西に逃亡し、夜半に盗賊が驢馬を奪い去ったので、徒歩で疾走し、夜明けに武安の酒家に着き、人に告げて「我は皇叔なり」と言った。邑官がこれを聞いて来謁し、衣冠と鞍馬を資した。そこで百余りの壮健な者を募り、これに従って磁州に至り、義兵を招集して洺の包囲を解こうとした。十日ほどの間に、精兵五千人を得、帰附する者は数万に及んだ。
時に洺州の守臣王麟が叛いて敵に降らんとしたので、軍民は怒ってこれを殺し、統制の韓一を推して主とした。士珸は夜半に城下に迫り、力戦して包囲を破った。翌日、城に入り、守備を部署した。敵は壕塁を修め、鹿角を立てて持久を示した。士珸は将兵を励まして死守させ、飛火炮でその攻城具を粉砕し、計略をもってその首領を生け捕りにしたので、敵は包囲を解いて去った。功により権知洺州に遷り、なお防禦使を兼ねた。
紹興五年、泉州観察使に遷り、さらに平海軍承宣使、南外宗正事知事に転じた。時に泉州の宗室邸が新たに建てられ、学問を志す者は少なかったので、士珸は宗子の善軫が文芸卓絶で衆人の推誉するところであると奏上し、文解の試験免除を乞うた。これにより人々は奮励を知るようになった。節度使に遷ったが、拝命せずに卒去した。四十六歳。少師を追贈され、和義郡王を追封された。淳熙年間に、諡を忠靖といった。子の不流は、臨安、紹興の帥を歴任し、治績に名声があった。
士㒟
光山軍節度使を除せられ、扈蹕して南幸す。黄潛善等が権を握り、士㒟はその国を誤るを論ず。潛善これを斥け、南外宗正事を出知す。時に苗傅・劉正彥の乱あり、士㒟は服を易えて杭に入り、蠟書を以て張浚に遺し、その勤王を促す。また呂頤浩に書を遺し、浚と共に国難を済わすを勉む。苗傅等、浚を怒り、浚坐して謫せらる。また浚に書を遺し、朝廷に他意無きを謂い、賊に疑わしめざらしむ。事平ぎ、検校少保を加えられ、同知大宗正事を除せらる。
母憂に服し、起復して、知大宗正事を除せらる。序位を安定郡王の下にせんことを請い、これに従う。累ねて祠を乞うも、許されず。定策の功により、詔してその子不議を文秩に改め、不怞を環衛官に易えしむ。士㒟に検校少師を加う。まもなく開府儀同三司を加えられ、判大宗正事を判ず。入覲し、帝に留意して民を恤れむを勧む。
金人、既に河南・陝西の地を帰し、士㒟に命じて陵寢を謁せしむ。すなわち柏城に入り、榛莽を披歴し、宜しきに随い葺治し、礼畢えて還る。特ちに齊安郡王に封ぜられ、その労を旌す。
まもなく権て濮安懿王の祠事を主奉す。軍興にて、宗室の賜与を罷む。喪ありて斂むること能わざる者あるに至り、士㒟以て聞す。詔して、緦麻・袒免の親にして環衛官に任じ身歿する者は、賜銭等差あり。
長子不几、方に苗傅の乱の時、股を刲て蠟書を納め、持して張浚に告ぐ。功により両官を転じ、文資に易う。趙哲に従い建州を収復し、葉濃を殺す。功により爵二級を賜う。
士𡸕
士𡸕、字は仰夫、太宗の五世孫。初め蔭を以て官を補し、累転して太子率府副率となる。建炎初、隆祐太后洪州に幸す。敵奄かに至り、百司散走す。士𡸕一大船の中に至り、二帝の御容を見て、負いて走る。潰兵数百に遇い、同行して山中に至る。衆、聚まって盗と為らんと欲す。士𡸕御容を出して示し曰く、「盗は食を求めて朝夕の計と為すに過ぎず、州県に仰給するに若かずや。士𡸕近属を以てこれを諭せば、必ず従わん。かくの如くせば、則ち今日飢餓せず、後日賞を失わず、是れ一举にして両得なり。」衆命を聴く。すなわち走り謁して太后に虔州に至る。
時に虔民乱を為し、郷兵外に在りて応じ、官軍と相持す。士𡸕執政に詣り、謂うに当に太后に請いて急に赦を肆すべし、人死を免るるを知り、庶幾く安集すべし。また急に城中を諭すべし、城中定まれば、則ち外寇弭ぐべし、譬えば薬を服するが如く、心腹已に安んずれば、外に風湿を禦ぐは乃ち余事なりと。赦既に下り、城中遂に定まる。右監門衛大將軍・惠州防禦使に遷る。紹興二十一年卒す。建甯軍承宣使を贈られ、建安郡王を追封せらる。
士皘
士皘は、太宗の後、商王・濮王の裔なり。上皇に従い俱に北遷し、間を乗じて姓名を変え僧寺の中に入り、落髮し、僧衣を衣て行き、会稽に抵る。駕に扈し循に幸し、覃恩を以て千牛衛將軍奉朝請に転じ、而して卒す。
不群
不群、字は介然、太宗の六世孫。宣和中、量試して承事郎を授かる。靖康初、済南章丘県を宰む。県は山東・河北の衝に当たり、不群效用五千人を募り、城を増し濠を浚い、戦守の備えと為す。敵攻囲すること両月、下すこと能わず。
維州通判に遷り、直秘閣に陞り、鎮江府を通判し、辟せられて両浙宣撫司主管機宜文字を充つ。高宗越に在り、詔して郴州に改む。時に群盗湖・湘の間に出没し、不群備禦を厳にし、盗犯すこと能わず。直顯謨閣に進み、鼎州知事に移り、湖北兵馬副鈐轄を充つ。既にして朝廷郴の失守を慮り、復た不群を郴に留む。岳飛の曹成を破り、成遁ぐるに坐し、因りて郴を犯す。不群城に乗り固く守り、これを拒ぎ却く。
直寶文閣に進み、宣州知事に移る。軍需時を以て弁じ、而して民擾されず。秩二階を進む。廬州を知る。酈瓊叛き、不群を擁して北去す。まもなくこれを釈して帰す。帝召見し、瓊叛くの故を問う。不群曰く、「劉錡制置を除くより、瓊等以て己を図るとなし、兼ねて撫諭後時なるにより、故に叛く。」帝これを悔ゆ。荊南府知事を除せられ、累遷して両浙路転運副使となり、官にて卒す。
不棄
不棄は字を德夫といい、太宗の末裔である。紹興年間に、江東轉運判官となった。秦檜が四川宣撫使鄭剛中を忌み、不棄がこれを制することができると考え、太府少卿・四川宣撫司總領官に任じた。初め、趙開が蜀の賦を総管した時、宣撫司の文書はすべて申状を用いたが、不棄が官に就くと、張憲成の故事を用い、平牒で剛中に接した。剛中は愕然とし、久しくしてようやく彼が自分の隷下にないことを悟り、やがて隙が生じた。不棄は宣撫司の貯蔵をことごとく取り上げようとしたが、剛中は与えず、不棄は怒った。剛中が利州轉運使王陟を本司參議に兼務させると、不棄はこれを弾劾して罷免させた。二人はますます相容れず、檜はともに召還した。剛中は蜀にいて、服用がかなり制を越えていたので、不棄はさらに事を文飾して奏上した。檜はついに剛中を罷免し、不棄を昇進させて敷文閣待制とし、臨安府知府に任じた。
一年余りして工部侍郎に改め、まもなく敷文閣直學士・紹興府知府に任じられた。当時、浙東は旱魃に見舞われ、飢えた民は多く流亡していた。提挙の秦昌時は、檜の兄の子であるが、不棄は彼が心を尽くして救恤し、多くを全活させたと上言し、昌時は昇進を得た。かくのごとく檜に媚びたのである。まもなく卒した。
不尤
不尤は武力を有していた。靖康の難に際し、王明と義兵を募り、金軍と戦い、河南・河北に威勢を振るった。盗賊は皆その鋒を避け、「これは小使軍だ」と言った。高宗が即位すると、衆を率いて帰順し、武翼郎に補された。岳飛に従って湖の寇を平定した。飛が死ぬと、檜はその兵を奪い、横州を守らせて卒した。
子の善悉は、進士に及第した。累官して敷文閣直學士・兩浙轉運副使となった。
不𢙯
不𢙯は字を仁仲といい、嗣濮王宗暉の曾孫である。父の士圃は、上皇に従って北遷し、遙かに集慶軍節度使を拝された。不𢙯は初め保義郎に補され、紹興二十七年に及第し、左宣義郎に換えられ、婺州金華丞に転じた。県の豪族である河汝翼を治め、械で郡に請い、他州に編隷させると、邑人は畏服した。
永州通判に任じられた。郡は毎年米を輸送し、その余剰を倍徴していたので、民はこれを苦しんでいた。不𢙯は太守に言上してその数を減らさせた。帥司が不𢙯に靖州の獄を記録させるよう檄を飛ばすと、冤罪の者数十百人を弁明して出し、靖の人はその徳を慕い、その像を描いて祠った。
夔州に至ると、民は上供銀を苦しんでいた。当時、部使者が親戚故旧の者に大寧塩場を摂行させ、その利を専有していた。不𢙯はこれを斥けて去らせ、塩は余剰を得た。そこで出銭して余剰の塩数十万斤を買い、米三万余斛に換え、湖北まで運んで銀を買い戻し、諸郡に代わって上供銀を納め、緡銭十五万余を省いた。
成都路轉運判官に改められた。ちょうど凶年にあたり、不𢙯は瀘南に行き着き、官銭五万緡を借りて、吏を分遣して買い集めさせた。到着すると、下令して「米が到った」と言った。富民が競って粟を放出し、米価は平らかになった。ただ流の朱氏だけが買い占めを閉ざし、邑民が群れをなしてその倉庫を開いた。不𢙯は朱氏を法に照らし、その米を没収し、米を盗んだ者に黥刑を施すと、民はついに落ち着いた。
永康軍は毎年都江堰を修治し、籠に石を詰めた蛇(蛇籠)で江を遮り水を堰き止め、数郡の田を灌漑していた。吏が金を盗み、役夫を減らしたので、堰は堅固でなく崩れ、田は水を失い、したがって毎年しばしば飢饉に見舞われた。不𢙯は自ら視察し、板築を執り、吏を法によって糾した。そこで令を出した。民で農業に従事する者には田主が貸し与え、末業に従事する者には富民が救済し、老幼病弱者には官が粥を与えて看護する、と。数百万人を全活させた。
黎州の青羌の奴兒結が反乱した。制司が兵を調発して駐屯させ、不𢙯に糧秣の供給を命じた。故事では、富人が糧を出し、下戸は力を出して辺境まで運んだ。不𢙯は「民は飢えている。擾乱してはならない」と言い、買い集めた余剰の米を用いて兵卒に運ばせた。やがて朝廷は不𢙯に制司を摂行するよう命じた。初め、官兵が敗れた時、前の制使が人を遣わして奴兒結に賄賂を贈り和を結んだ。不𢙯は「奴兒結は吐蕃の小種族である。今これと和すれば、大族に対してどうするのか」と言ったが、聞き入れられなかった。
ちょうど酋豪の夢束畜列が数千人を率いて漢地に二百余里侵入し、成都は大いに恐れた。不𢙯は静謐をもってこれを鎮め、僚属を召して酒を飲んだ。夜、歩将に飛山軍を率いさせて直ちに沉黎に赴かせ、さらに綿州の兵を移して邛州に駐屯させ後詰めとし、「堅く守って動くな」と戒めた。密かに諸蕃部に檄を飛ばし、吐蕃を一人生け捕りにした者には十縑を賞し、一人殺した者には二縑を賞するとした。そこで邛部川の首領崖襪が諸部落と合流し、漢源において吐蕃を大破し、夢束畜列の首を斬って献上した。わずか十六日で平定したのである。嘉州の虚恨蠻が侵入した時、不𢙯は吐蕃の首を境上に標示すると、蠻は恐れ、一夜のうちに遁走した。不𢙯はそこで辺境沿いの家ごとに丁夫一人を出させ、諸堡に分かれて駐屯させ、その家の賦役を免除した。不𢙯が罷免されて帰るとき、蜀人が見送る者は成都から双流に至るまで道を遮り、行くことができなかった。
間もなく、成都提刑に任ぜられ、江西路転運判官に改める。朝廷の臣僚がその賢を推薦し、詔して右監門衛大將軍・惠州防禦使・知大宗正事を授く。常制にあらず。吏が承受の奏請には必ず中貴人を用いねばならぬと申すと、不𢙯曰く「有司が存在しないのか」と。罷めて用いず。中貴人が謁見を請うことがあれば、輒ち謝してこれを出だす。
明州観察使に進み、俄かに昭慶軍承宣使に昇る。金人の完顔烈が来聘し、館伴副使を充てる。金使の従者は旧例として館使に謁見する時、皆対揖するが、不𢙯は礼を為さず。玉津園に宴し、不𢙯連射して皆中つ。使者驚き服す。
不𢙯は文行をもって族属を訓勉し、その秀傑なる者を推薦し、新たに学宮を奏し、弟子員を増広し、大学の校定法に倣う。自訟斎を置き、過ちある者をして其中に読書せしめ、人人感勵す。淳熙十四年に卒す。年六十七。開府儀同三司を贈られ、崇国公に封ぜらる。
不𢙯は性篤孝にして、生まれて戒厳の歳、父の北遷に遭い、毎に思慕して涕泣す。長じて力學し、母曹氏これを止むるも、答えて曰く「君父の仇未だ報いず、敢えて富貴を志すに非ず」と。登第の時すでに仕に入り、法は二秩を超えるべしとすれども、請うてその母に回授す。母の封は法にて令人に止まるも、高宗その志を嘉し、特に関郡夫人に封ず。
居官する所至に声有り、朝に立ちては天下の事を言うを好む。蜀中の武帥は重権を操る。不𢙯は安撫司を復置し、相維いで治むるを請う。その論ずる所、王抃を諸路軍の揀選に宜しからずとし、王友直を副都指揮使とすべからずとは、尤も人の言い難き者なり。大旱に遇い、一日に九疏し、上に直言を求め、下情を通ずるを勧め、退いてその稿を燔く。時に布衣上書して狂悖なるもの多く罪に抵る。不𢙯謂う、太上皇帝は言者を罪せず、此れ宜しく御座の右にこれを書くべしと。帝悚然としてこれを可とす。既にその忠諒を嘉し、毎に禁中に宴すれば、帝これに酒を飲ませ、顧みて皇太子に謂いて曰く「此れ賢き宗室なり」と。一日、待漏院に坐す。給事中ありて英国公が撃球の馬を借らんと白す。不𢙯正色して曰く「上に唯一の皇孫有り、万一馬驚きて墮つれば、汝輩を斬るも益無し」と。馬竟に得べからず。敬する者は朱熹・張栻なり。栻の死して諡を請い、又熹を用いるを請う。その好尚此の如し。
善俊
善俊、字は俊臣、太宗の七世孫なり。父は不衰、閩路兵馬鈐轄。善俊初め承節郎を補す。紹興二十七年に登第す。左承務郎に換え、南城丞に調じ、昭信軍に改め、簽判これを奇とす。虞允文もまたその辺帥の才有るを薦め、幹辦諸司審計司を除く。郴州を知り、敷奏旨に称し、留めて太府寺丞とす。
尋いで帥を摂り、廬州を知る。歳旱に会し、江・浙饑え、民麋至す。善俊は境内の官田を括り均しくこれを給し、牛種を貸し、屋を僦いて以て居らしめ、死者は槥を給す。人至るに帰するが如し。州城旧く兵に毀たる。善俊これを葺き完うし、因りて言う「異時に焦湖を恃みて以て饋餫を通ず。今既に堙涸す。宜しく郷兵を募りて孤・姥の二山を保ち、屋を治めて以て粟を儲うべし。敵或いは盟を敗らば、則ち吾が城守余有り、餉道乏しきこと無からん」と。又学舎を増築し、新たに包拯祠し、春秋これを祀る。人その化に感ず。
累遷して龍図閣直学士となり、移りて建州を知る。建の俗は子を生むこと往々にして挙げず。善俊痛くこれを繩し、金穀を給し、己の奉を捐てて以てその費を助く。
再び廬州を知る。首めて和好恃むべからずと言い、当に城を高くし池を浚いて以て備えと為すべしとす。芍陂・七門堰を復し、農政用いて修まる。属邑の坊場・河渡の羨銭を責むるを免じ、百姓これに徳す。
父憂に以て去り、服闋し、起きて鄂州を知る。適に南市火す。善俊亟に往きて視事し、竹木の税を弛め、粟を発して民を振い、古溝を開き、火巷を創りて以て後患を絶つ。僚属争って言う用度将に足らざるべしと。善俊曰く「吾将に己を瘠せて人を肥やさん」と。乃ち燕游車騎鼓吹の費を省み、郡計用いて饒かにし、民の役銭を代えて輸す。
再び建州を知る。歳饑え、民群り趨りて富家のその廩を発く。監司兵を調えて掩捕するを議す。善俊曰く「是れ乱を趣くるなり」と。自新を許すを諭し、米価を平らかにし、民乃ち定まる。邑尉盗十三人を入れて死罪とし、以て賞を希う。善俊その冤を弁ず。
徙めて隆興府を知り、移りて江西転運副使とす。時に朝廷月樁銭を減ずるを議す。善俊言う「州に及びて県に及ばざれば、則ち県仍く民に迫りて取り、猶減ぜざるが如し。宜しく一路通じてその額を裁し、これを漕臣に下し、郡県の軽重を科して均しくこれを減ずべし」と。又奏す「和買は已に白科なり。従って折変すれば、益々糜費を加え、その数反って正絹に重し。併せて蠲減を乞う。黥卒赦に遇いて還る者は、刺して鋪兵に充て、以て民害を除くべし」と。言う所多く用いらる。
転じて湖南の帥とす。郴・桂の地絶遠にして、守多く才に非ず。善俊謂う宜しくその選を精にすべしと。潭州の経・総制銭を代えて輸し、醴陵淥水の渡銭を停む。秘閣修撰を加え、移りて鎮江府を知る。母憂に丁し、喪を終えて卒す。年六十四。
善俊は風儀秀整にして、功名を喜び、尤も事を論ずるを好む。孝宗の時、日中に黒子有り、地屡震う。毎に辺備を飭るを戒めと為す。孝宗英武独り運らすも、相者を缺くこと累年。善俊極言す相位人無きべからずと。尤も人の言い難き者なり。
善譽
常州の添差通判に転じた。史浩がその賢さを言上したので、詔により吏部の堂審を受けることとなり、累進して大理丞、湖北常平茶塩提挙となった。大旱魃に遭ったとき、善譽は諸郡の常平倉を融通し、戸数に応じて救済貸付を行った。翌年は麦や禾が倍収となり、民は争って負債を返済した。税場十余箇所、渡し場四十五箇所を廃止するよう上奏し、民は便利とした。諸郡に田地を売却させ、郡の文学にその収入を管理させ、計吏(上京する官吏)の費用に充てさせた。
潼川路提刑、転運判官に転任した。遂寧の太守徐詡は廉潔の名声に乏しかったが、監察官は彼が元御史であったことを理由に寛大に扱っていた。善譽が遂寧を通りかかると、徐詡が出迎えたが、善譽は彼を廊下に沿って歩かせ(威厳を示し)、徐詡は大いに落胆した。郡の者がこれを聞き、争って彼の過失を訴えた。善譽は朝廷に弾劾したが、宰相の王淮は徐詡と親しく、その上奏文を留め置いた。善譽は直接上聞し、徐詡を罷免させた。また余剰の資金を諸郡に与えて荘園を設置し、民が子を産んだ者や妊娠した者にいずれも米を与え、威厳と恩恵をともに信服させた。蜀に寓居する宗室の子弟は、儒を業とする者が少なかったので、善譽は郡の学校に学舎を立てて彼らを教育し、人々は初めて感奮激励した。年老いて祠官を請い、帰って一室に住み、図書を以て自ら楽しんだ。病気なくして卒去、年四十七、時は淳熙十六年であった。
善譽は早くに父母を失い、諸弟を撫育して至れり尽くせりであった。官に在っては廉潔で静粛に自らを律し、多くの著述があり、郭雍や朱熹がかつてその『易説』を採用したという。
汝述
汝述は字を明可といい、太宗の八世孫である。曾祖父の士説は、二帝に従って北遷し、河畔で敵を罵って死んだ。汝述は淳熙十一年の進士に及第した。南剣州順昌の尉に任じられた。嘉定六年、詔により官告院を主管し、これより常に宰士を兼ね、累進して将作少監、権侍立修注官となった。八年、起居郎兼枢密院都承旨に任じられ、まもなく兵部侍郎に遷った。母の喪に服して去り、喪明けの後、刑部侍郎に改められ、尚書に遷り、平江府の知府となり、卒去した。
汝述が尉であったとき、詔に応じて封事を上奏し、議論は懇切で痛切であった。朝廷に立って推薦引き立てた人物は、多く知名の士であった。しかし時の宰相に親しまれ、急速に高位に昇ったため、人々はこの点で彼を軽んじた。
叔近
叔近が秀州に戻ると、やがて王淵の軍が杭州に到着し、偽って「趙秀州が来た」と叫んだ。陳通が郊外に出迎えると、王淵は彼を誅殺した。初め、王淵は汴京で娼婦の周氏と親しくしていたが、周氏は後に叔近に嫁いだ。王淵はこれを恨み、叔近が賊と通じていると誣告し、官職を奪って州に拘禁し、朱芾を後任とした。朱芾は残忍な暴政をほしいままにし、軍民は怨み憤った。小卒の徐明が衆を率いて朱芾を囚え、叔近を迎えて郡の事務を執らせようとした。叔近は辞することができず、そこで民を慰撫平定し、朝廷に太守を選任するよう請願した。
上奏が届かないうちに、朝廷は張俊に討伐を命じた。張俊は王淵の部下であった。出発に際し、王淵は「叔近がそこにいる」と告げた。張俊はその意を悟った。兵を率いて郡に至ると、叔近が出迎えたが、張俊は叱責して取り調べるよう命じた。まさに筆を執ろうとしたとき、群がる刀が急に前に迫り、その右腕を断った。叔近は叫んだ。「我は宗室である。」張俊は言った。「汝は既に賊に従ったのに、何を宗室などと言うか!」言葉が終わらぬうちに、首を地に折り伏せた。徐明らは叔近の死を見て、矛先を変えて城に拠り、火を放ち略奪を働いた。翌日、張俊は城門を破って入り、徐明らを捕らえて誅殺した。周氏を奪って王淵に帰した。紹興九年、御史が叔近の冤罪を上言し、集英殿修撰を追贈された。
叔向
叔向は、魏王の血筋である。汴京が陥落したとき、叔向は密かに脱出し、京西に赴いた。金軍が退くと、衆を率いて青城に駐屯し、都堂に入って王時雍らを叱責し、速やかに政権を返上するよう迫り、救駕の義兵を組織した。その後、部将の于渙が変事を上告し、叔向が乱を謀っていると告発したので、詔により劉光世が捕らえて誅殺した。
彥倓
彦倓は字を安卿といい、彭城侯叔褧の曾孫である。父は公広、饒州太守であった。彦倓は初め溧陽尉に任じられ、邑民の潘氏兄弟が邑内で横暴を極め、「三虎」と号し、僮僕数百を養い、邑官も誰もこれをどうすることもできなかった。彦倓はその寧に報告してこれを処断させ、潘氏の弟を縛り、その罪を正した。
揚州司戸に改め、獄掾を兼任した。主蔵吏が銭余千万を有すると告げる者があり、急ぎこれを取り調べると、吏は泣いて死を請うた。彦倓はその情を察し、人を退けて問うと、諸人が共に貸し付けたものであった。宜興県の知事を兼任した。県は中興以後、民の来年の税を前借りし、民はこれに依拠してその命令を軽んじていた。彦倓は前借りの禁止を請い、邑はついに治めやすくなった。
臨安府于潜県の知事となった。県の胥吏はしばしば台省の吏と通じ、その奸計をほしいままにしていた。彦倓はその狡猾な者を捕らえ、枷をはめて府に送った。台省の吏が中からこれを救おうとしたが、彦倓は力爭し、ついに胥吏に罪を科した。浮橋はしばしば水害で破損したが、彦倓は石で橋を架け、民は溺死を免れた。臨安府通判に任じられた。
開禧初年、興国軍の知事となった。歳は旱魃と蝗害に見舞われ、軍需は逼迫していた。属邑の令である呉格は上供銀の負担が特に多く、彦倓は連座して位階を貶められた。格は恥じて謝罪した。彦倓は言った、「時に艱難が多い折、民力を寛げて根本を崇めるべきであり、何を謝ろうか」。潰卒が外城を占拠して変を起こした。彦倓は斬捕できる者を募って賞を与えた。やがて各々首を斬って献上し、残党を散じた。
累進して湖南運判となった。徭人(ヤオ族)の羅孟伝が反乱を起こし、数年平定できなかった。彦倓は帥臣に言った、「徭人の仇殺は、その常情である。ましてや裁断が公平でなければ、これに叛くよう仕向けるようなものだ。諜者を遣わしてその党与を離間させ、互いに仇敵として争わせれば、破るのは容易である」。帥はその計に従い、ついに隈伝を降した。
まもなく紹興府の知事となった。紙幣(楮幣)の価値が下落していたので、彦倓は法によってこれを調整し、民は便利とした。鹿鳴の礼を復活させ、興賢荘を設けてその費用を賄った。海を防ぐ石塘を築き、また荘を設けて増築に備えた。時に、飢民が陂湖の中に集まった。彦倓は死囚を捕らえ、その首を覆い、足を切り、衆に示して言った、「これは蓤藕(菱や蓮根)を奪った者である」。そこで衆は散った。そして民を等級に分け、その税を差等に従って減免し、湖籍田の米の納入を免除し、四十万緡の銭を挙げて荒政を助け、民はこれによって救済された。詔により太府少卿に改められ、顕謨閣に遷り、太平州の知事となり、江西転運使に転じた。嘉定十一年、官において卒した。年六十四。
彦橚
慶元初年、晉陵県の知事となった。歳は飢饉であり、彦橚は救済恤民の方策に優れ、救った者はほぼ二十万に及んだ。また余剰の銭をもって五等戸の代わりに納税した。
登聞検院の監察官に抜擢された。時に韓侂冑が権勢を握り、朝士は皆その門に趨った。彦橚は深く歎き惜しんだ。出て汀州の知事となった。州民の葉某という者が、汀・贛の間に嘯聚していた。彦橚は将を遣わしてこれを捕らえ誅殺した。広西提刑に遷った。諸郡は官塩を売り、その利子の六分を漕司に奉じていたが、しだいに八分に増加していた。彦橚は旧に復して民力を蘇らせようとし、朝廷はこれに従った。
侂冑が死ぬと、詔により戸部侍郎兼枢密院検詳となった。以前に兵議に関与した士大夫は、侂冑の党として連座し、皆追放されようとしていた。彦橚は歎いて言った、「士は偽学によって既に廃された。今また兵端によって斥けられようとしている。もし士を閉じ込めようとするなら、名目に事欠くことがあろうか」。帝に拝謁するたびに、必ず人材の難しさを言上した。
平江府の知事となった。郡の昆山は大海に面し、盗賊が出没し、その跡を追うことができた。彦橚はその半分を分けて嘉定県を置き、兵を屯させて守らせるよう上奏した。宝謨閣待制に転じた。官において卒した。年七十一。
彦逾
彦逾は字を徳先といい、魏悼王の後裔、崇簡国公叔寓の曾孫である。紹興三十年に及第した。淳熙五年、秀州の知事となった。累進して太府少卿、四川総領となった。将に国境に入らんとする時、利西路の帥である呉挺が属吏の安丙を遣わして出迎えさせた。彦逾は彼を見るや即ちその人を気に入り、穏やかに尋ねて言った、「太尉は六万の衆を統べているが、虚籍はないのか」。丙は実情を告げた。彦逾は挺に書を送り、虚籍数千を減らして四川の賦を軽くするよう求めた。挺は隠すことができなかった。鎮江府の知事に改められた。郡はちょうど旱魃と飢饉に見舞われていた。彦逾は無駄な費用を節減し、穀物を放出して救済と平価販売を行い、民はこれによって救済された。
戸部侍郎・工部尚書に遷る。孝宗崩御の際、光宗は病のため喪を執ることができず、枢密趙汝愚は嘉王を立てて皇帝とすべく議し、殿帥郭杲を頼みとしようとし、中郎将范任を遣わして告げたが、杲は応じなかった。当時、内外騒然たる中、彦逾が汝愚に会い、対して泣き、汝愚は密かに翊戴の議を告げた。彦逾は大いに喜び、その決断を力強く賛成した。郭杲はかつて誣告を受けたことがあり、彦逾が帝に弁明したので、杲はその恩を感じており、彦逾は急ぎ杲に告げて言った、「彦逾と枢密(趙汝愚)はただ謀るのみ、太尉は国の虎臣、その責を任ずべきである」と。杲が未だ答えないうちに、彦逾は急いで責め、杲は承諾し、遂に兵を率いて衛護した。寧宗即位の後、汝愚は彦逾に言った、「我らは宗臣、功を言うべからず」と。
ちょうど留正が宰相を免ぜられ、汝愚が右僕射に登った際、彦逾は端明殿学士として出向し建康府知事となり、江東安撫使を兼ねた。赴任せず、撫制置使に改められ、成都府知府を兼ねた。彦逾は政を煩わさず、蜀人は安んじた。定策の功により、累遷して資政殿大学士となった。嘉泰年間、明州知州兼沿海制置使となった。嘉定年間、祠官を請いて帰り、まもなく卒した。
彦逾は初め汝愚と協力して大計を成し、汝愚が己を引き共に政務を執ることを望んだが、外任となったので、大いに失望し、当時の名臣を列挙して上疏し、汝愚の党と目した。帝はこれにより汝愚を疑うようになった。
彼は二度蜀に入り、いずれも名声があった。しかし呉氏は代々武興を守り、利西安撫を兼ね、重権を握っていた。呉挺が卒すると、朝廷は丘宗の議を用い、利西安撫を東路に併せ、世将の弊を革めようとした。ところが彦逾は利西安撫は武帥をもって領すべきと奏した。その後、呉曦はこれにより変を生じ、人々はこれをもって彦逾を咎めたという。