宋史

列傳第五 宗室三 英宗子 神宗子 哲宗子 徽宗子 欽宗子 高宗子 孝宗子 寧宗子

英宗

英宗に四子あり。長は神宗、次は吳榮王顥、次は潤王顏、次は益端獻王頵、皆な宣仁聖烈高皇后の出なり。顏は早く亡ぶ。徽宗、名を賜ひ追封す。

吳榮王顥

吳榮王顥、字は仲明、初め仲糺と名づく。右内率府副率より和州防禦使となり、安樂郡公に封ぜられ、明州觀察使に轉じ、祁國公に進む。治平元年、檢校太傅・保寧軍節度使・同中書門下平章事を加へられ、東陽郡王に封ぜらる。三年、出閣す。神宗立つ、昌王に進封せらる。官制行はるるや、司空しくうを冊拜し、雍王に徙封す。哲宗嗣位し、太保を加へられ、成德・橫海二鎮に換へ、揚王に徙封せられ、讚拜不名を賜ひ、五日に一度禁中に謁すことを許さる。帝、恭を致すこと家人の禮の如し。神宗廟に祔せらるるや、太傅を拜し、京兆・鳳翔に移鎮す。

熙寧以来、顥屢ひ外居を請ふも、章上るや輙ち卻けらる。元祐初に至り、乃ち咸宜坊第一區を賜ひ、榜して「親賢」と曰ひ、弟頵と邸を對はす。車駕三宮と偕に臨幸し、宴を留めて終日を盡す。太尉を拜し、諸子皆な命じて官を賜ふ。制に曰く、「先皇帝兄弟の好を篤くし、恩を以て義に勝ち、二叔の外に出で居るを許さず、蓋し武王周公を待つ意なり。太皇太后朝廷の禮を嚴にし、義を以て恩を制し、始めて其の請に從ひ、外宅に出で就く、孔子其の子を遠ざくる意を得たり。二聖同じからず、道に同じく歸す、皆な以て萬世の法と爲すべし。朕兩宮に承侍し、新第を按行し、顧み懷ひ思ひ、潸然として涕を出す。昔漢明帝東平王に問ひて曰く『家に在りて何を以て樂しむと爲す』と。王言ふ『善を爲すは最だ樂し』と。帝其の言を大とし、因りて列侯の印十九枚を送り、諸子五歳以上悉く之を佩かしむ、之を簡策に著す、天下以て私と爲さず。今王の諸子、性忠孝に於て、禮義に漸くし、勝衣以上より、頎然として皆な成人之風有り、朕甚だ之を嘉す。其れ各一官を進め、以て其の善を爲すの樂を助けよ、尚ほ之を勉めよ哉。父祖を忝かしむること毋れ、以て邦家の光と爲せ」と。徐王に徙封せられ、詔書に名を稱せず。

宣仁疾有り、顥旦旦に入り問ひ、因りて亦病に被る。宣仁廟に祔せらるるや、太師を拜し、冀王に徙封せられ、入朝趨らざるを賜ふ。淮南・荊南節度使に改め、楚王に徙封す。病益々篤く、帝親しく醫を挾み視診し、晝夜起居の狀を具へて聞かしむるを令す。小愈すれば則ち喜ぶ。既にして薨ず、年四十七。帝即ち臨哭し、朝を輟むこと五日、苑中にて服を成す。尚書令しょうしょれい兼中書令・揚荊冀三州牧・燕王を贈り、諡して榮と曰ふ。永厚陵に陪葬す。徽宗即位し、吳王に改封す。

顥天資穎異にして、尤も學を嗜み、始めて外傅に就くや、一經終る毎に、即ち講讀官に器幣服馬を遺す。飛白を工とし、射を善くし、圖書を好み、博く善本を求む。神宗其の志尚を嘉し、異書を得る毎に、亟に使を馳せて以て示す。嘗て方團玉帶を賜ひ、服して朝せしむ。顥辭す。乃ち玉魚を製して以て之を別つ。是より後、親王遂に踵いて故實と爲す。初め、英宗の喪に居り、官を解き終制せんことを丐ふも、至尊に厭はるるを以て、遂げることを克はせず。慈聖光獻太后の服を服し、月を易ふるに當りて除くべし。顥曰く、「身孫として情文缺然たり、是の若きは可ならんや。請ふ心喪の禮の如くし、上禫を須ち除き、即ち吉せん」と。詔して可とす。

子孝騫嗣ぐ。終に寧國軍節度使・晉康郡王。孝錫は終に嘉州團練使、永國公を贈らる。

益端獻王頵

益端獻王頵、初め仲恪と名づく。大寧郡公に封ぜられ、鄮國公・樂安郡王・嘉王に進む。歷める官賜は、略ね兄顥と同じ。武勝・山南西・保信・保靜・武昌・武安・武寧・鎮海・成德・荊南の十節度を更め、曹王・荊王に徙封す。位太尉に至る。元祐三年七月薨ず、年三十三。太師・尚書令・荊徐二州牧・魏王を贈り、諡して端獻と曰ふ。徽宗、益王に改封す。

頵端重明粹にして、少くより學を好み、長じて群書に博通し、飛白・篆籀を工とす。宮僚を賓接し、歲滿ちて當に去るべくとも、輙ち奏して留め、久しきは十餘年に至る。頗る醫書を好み、手づから『普惠集效方』を著し、且つ藥を儲けて以て病者を救ふ。

子九人。孝哲は右ぎょう衛將軍、早く亡ぶ。孝奕は彰化軍節度觀察留後、司空・平原郡王を贈らる。孝參は奉國軍節度使、寧武・武勝に改め、章郡王に封ぜらる。孝永は邢州觀察使、司空・廣陵郡王を贈らる。孝詒・孝騭・孝悅・孝穎・孝願は皆な節度使に至る。

神宗

神宗に十四子あり。長は成王佾、次は惠王僅、次は唐哀獻王俊、次は褒王伸、次は冀王僴、次は哲宗、次は豫悼惠王價、次は徐衝惠王倜、次は吳榮穆王佖、次は儀王偉、次は徽宗、次は燕王俁、次は楚榮憲王似、次は越王偲。八王は皆早く薨ず。佾・僅・伸・偉は、徽宗が名を賜ひ追封し、俊・僴・倜・價は、徽宗が改めて封ず。

吳榮穆王佖

吳榮穆王佖は、帝の第九子なり。初め山南東道節度使を授けられ、儀國公に封ぜらる。哲宗立つや、開府儀同三司・大寧郡王を加へられ、申王に進み、司空に拝す。帝崩御し、佖は諸弟の中最も長なるも、目疾ありて立つことを得ず。徽宗位を嗣ぎ、帝の兄として太傅に拝し、殊禮を加へられ、俄かに太師に拝す。京兆・真定尹、荊・揚・太原・興元牧を歴任し、國を陳に徙す。崇寧五年に薨じ、視朝を七日輟む。尚書令兼中書令・徐州牧・燕王を贈られ、諡して榮穆と曰ふ。又侍中を加贈し、改めて吳王に封ぜらる。子に有奕あり、武信軍節度使・和義郡王。

燕王俁

燕王俁は帝の第十子、越王偲は帝の第十二子なり。母は林婕妤と曰ふ。俁は初め定武軍節度使・檢校太尉を授けられ成國公に封ぜられ、偲は初め武成軍節度使・檢校太尉・祁國公を授けらる。哲宗の朝、俁は開府儀同三司を加へられ咸寧郡王に封ぜられ、偲は開府儀同三司を加へられ永寧郡王に封ぜらる。是より後累ねて節鉞を換へ、尹牧を歴任し、俁は莘王に進封せられ、偲は睦王に封ぜらる。徽宗の朝、俱に太保・太傅を歴任し、俁は衛王・魏王・燕王に進封せられ、偲は定王・鄧王・越王に進封せらる。靖康元年、同しく太師に遷り、俁は河東劍南西川節度使・成都牧を授けられ、偲は永興成德軍節度使・雍州真定牧を授けらる。

二年、上皇青城に幸す。父老邀へども及ばず、道にて二王に遇ひ、哭して曰く、「願くは王と俱に死せん」と。徐秉哲、首謀者を捕へて之を戮し、兵を益して二王を金營に衛送す。北行して慶源の境上に至り、俁は食乏しくして薨じ、偲は韓州に至りて薨ず。

紹興の初、崔紹祖と云ふ者壽春府に至り、越王の次子を稱し、上皇の蠟詔を受けて天下兵馬大元帥となり、師を興して恢復せんとす。鎮撫使趙霖以て聞す。行在に召し赴かしむ。事敗れ、臺獄に送りて罪に伏し、越州市にて斬らる。

楚榮憲王似

楚榮憲王似は、帝の第十三子なり。初め集慶軍節度使・和國公となり、普寧郡王に進む。元符元年に出閣し、簡王に封ぜらる。似は哲宗の母弟なり。哲宗崩御し、皇太后議して立つ所を定む。宰相章惇、似を以て對す。后曰く、「均しく是れ神宗の子なり、何ぞ必ずしも然らんや」と。乃ち端王を立てしむ。徽宗位を定め、司徒しとを加へ、鎮を武昌・武成に改め、封を蔡に徙し、太保に拝し、鎮を保平・鎮安に移し、又鳳翔・雄武に改む。王府の史の言語、指斥するを以て、大理寺に送りて驗治せしむ。似上表して罪を待つ。

左司諫江公望上疏して以爲く、「親たる者の隙は開くべからず、開けば則ち言離貳す可く、疑はしき跡は顯はすべからず、顯はせば則ち事磨滅し難し。陛下の天下を得るや、章惇嘗て異議を持せしことあり、既に隙跡あり。蔡王は無心より出で、年尚ほ幼小にして、未だ禍亂の萌を達せず、恬として以て恤ひみとせず。陛下一切包容し、已に開けたる隙を塗り、已に顯はれたる跡を泯す。恩意渥縟にして、歡然兄弟の情を失はず。若し曖昧にして根無きの語を以て、至親骨肉の間に加ふれば、則ち魏文の『相煎ること太急なり』の譏ありて、大舜親愛の道を忘れん。豈に治世の美事たるべけんや。臣願くは陛下密詔を有司に下し、凡そ根無きの言は案牘に形すこと勿らしめ、倘ひに瑕指す可き有らば、一人の胸次に入れば、則ち終身忘れず、跡は泯す可からず、隙は塗る可からず、則ち骨肉離る。一たび浸淫旁く蔡王に及ぶの語有らば、陛下將に何を以て之を處せんとするや識らず、陛下何の顏を以て神考に太廟に見えんや」と。疏入り、公望罷められ淮陽軍を知る。徽宗公望を出だすと雖も、然れども頗る其の言を思ひ、其の左右を治むるに止む。

崇寧中、鎮を荊南・武寧に徙す。崇寧五年に薨ず。太師・尚書令兼中書令・冀州牧・韓王を贈られ、改めて楚王に封ぜられ、諡して榮憲と曰ふ。子に有恭あり、定國軍節度使・永寧郡王。

哲宗

獻湣太子茂

哲宗に一子あり。獻湣太子茂、昭懷劉皇后賢妃たりし時に生まる。帝未だ子無く、中宮位虛しきに、后是に因りて立つことを得。然れども纔かに三月にして夭す。越王を追封し、諡して衝獻と曰ふ。崇寧元年、改めて獻湣と諡す。后の立つや、鄒浩凡そ三たび疏を上りて諫め、隨ひて其の稿を削る。是に至り、或は浩に「卓氏を殺して其の子を奪ふ、人を欺くは可なり、詎んぞ以て天を欺くべけんや」の語有りと謂ふ。徽宗昭かに其の事を暴き、復た浩を昭州に竄し、而して茂の典冊を峻す。後上表して謝す。然れども浩蓋し是の言無きなり。

徽宗

徽宗に三十一子あり。長は欽宗、次は袞王檉、次は鄆王楷、次は荊王楫、次は肅王樞、次は景王杞、次は濟王栩、次は益王棫、次は高宗、次は邠王材、次は祁王模、次は莘王植、次は儀王樸、次は徐王棣、次は沂王㮙、次は鄆王栱、次は和王栻、次は信王榛、次は漢王椿、次は安康郡王楃、次は廣平郡王楗、次は陳國公機、次は相國公梃、次は瀛國公樾、次は建安郡王楧、次は嘉國公椅、次は溫國公棟、次は英國公楒、次は儀國公桐、次は昌國公柄、次は潤國公樅。檉、楫、材、栱、椿、機の六王は早く薨ず。

鄆王楷

鄆王楷は、帝の第三子なり。初め名は煥と曰う。始め魏國公に封ぜられ、高密郡王・嘉王に進み、奉寧・鎮安・鎮東・武寧・保平・荊南・寧江・劍南西川・鎮南・河東・寧海の十一節度使を歴任す。政和八年、廷にて進士を策し、唱名第一となる。母王妃方寵有り、遂に超拜して太傅と為り、王を鄆に改め、仍て皇城司を提挙す。禁省に出入りし、朝暮を限らず、外第に飛橋復道を作りて往来を通ず。北伐の役、将に元帥と為さんとし、会に白溝に利を失いて止む。欽宗立ち、鎮を鳳翔・彰徳軍に改む。靖康初、諸王と皆北遷す。

肅王樞

肅王樞は、帝の第五子なり。初め吳國公に封ぜられ、建安郡王・肅王に進み、六鎮の節度使を歴任す。靖康初、金人京城を囲み、帝の子弟を質とし、且つ両河の輸を求む。ここに宰臣張邦昌を遣わし、樞に従いて斡離不の軍に使わしむ。金人に留められ、地を割き畢りて遣還すを俟つことを約す。而して挟みて北去す。

景王杞

景王杞は、初め武安軍節度使・検校太尉を授けられ、冀國公に封ぜらる。大観二年、山南東道節度使に改授せられ、開府儀同三司を加えられ、文安郡王に封ぜらる。政和中、検校太保を授けられ、尋いで太保に遷り、護國・武昌軍節度使に改授せられ、景王を追封せらる。靖康元年、荊南・鎮東軍節度使を授けられ、太傅に遷る。

二年、金営に遣わされて賀正旦使を充つ。既に帰り、又上に従い青城に幸す。上皇郊に出づるに及び、杞は日々左右に侍し、衣は帯を解かず、食は肉を食わず。上皇発願文を製し、天に祈り命を請うの意を述べて、以て杞に授く。杞頓首して泣く。北行に及び、鬚髪ことごとく白し。

濟王栩

濟王栩は、初め鎮洮軍節度使・検校太尉を授けられ、魯國公に封ぜらる。大観二年、彰武軍節度使に改授せられ、開府儀同三司を加えられ、安康郡王に封ぜらる。政和中、検校太保を授けられ、荊南・清海軍節度使に改め、濟王に進封せらる。靖康元年、護國・寧海軍節度使を授けられ、太傅に遷る。

景王杞と同しく賀金人正旦使と為る。既に還り、又何㮚と請命使と為る。金帥栩を紿いて曰く、「古より南有れば即ち北有り、相い無くすべからず。今の欲する所は地を割くのみ」と。栩回りて以て上に白し、且つ金帥上皇と相見えんことを請うと言う。上曰く、「豈に上皇をして蒙塵せしむべけんや」と。遂に自ら出で、栩を従えて行く。諸王家属を索むるに及び、栩の夫人曹氏は難を避けて他に出づ。徐秉哲捕えて之を拘え、遂に同しく北去す。

徐王棣

徐王棣は、初め鎮江軍節度使・検校太尉を授けられ、徐國公に封ぜらる。政和中、検校太保を授けらる。宣和中、鎮南軍節度使に改め、開府儀同三司を加えられ、高平郡王に封ぜらる。尋いで山南東道・河陽三城節度使に改め、徐王に進封せらる。後に淵聖に従い北去す。

紹興二年、万州の李勃なる者あり、偽りて祁王と称す。内侍楊公謹之と徐王の起居の状を言う。勃遂に改めて徐王と称す。宣撫使張浚行在に赴かしむ。上命じて王府の故吏に験視せしむ。真に非ずと言う。詔して大理に送る。情得たり、棄市す。

沂王㮙

沂王趙㮙は、初め横海軍節度使・検校太尉・冀国公を授けられた。政和年間に検校太保を授かる。宣和年間に剣南西川節度使に改め、開府儀同三司を加えられ、河間郡王に封ぜられた。まもなく剣南東川・威武軍節度使に改め、太保に遷り、沂王に進封された。

後に淵聖(欽宗)に従って郊外に出、北方に至り、駙馬劉彥文とともに上皇(徽宗)の左右の者が謀叛を企てていると告発した。金が人を遣わして審問すると、上皇は莘王趙植・駙馬蔡鞗らを遣わして対弁させた。凡そ三日に及び、趙㮙・劉彥文は気勢が挫け、金人によって誅殺された。

和王趙栻

和王趙栻は、初め静江軍節度使・検校太尉・広国公を授けられた。三年(宣和三年か)、検校太保を授かる。まもなく定武軍節度使に改め、開府儀同三司を加えられ、南康郡王に封ぜられた。靖康元年、瀛海・安化軍節度使・検校太傅を授かり、追封されて和王となった。後に淵聖(欽宗)に従って郊外に出た。

遺された女子一人があり、高宗の朝に楽平県主に封ぜられ、杜安石に嫁ぎ、大宗正司に命じて婚礼を主宰させた。

信王趙榛

信王趙榛は、初め建雄軍節度使・検校太尉を授かり、福国公に封ぜられた。三年(宣和三年か)、検校太保を授かる。宣和末年に安遠軍節度使に改め、開府儀同三司を加えられ、平陽郡王に封ぜられた。靖康元年、慶陽・昭化軍節度使を授かり、検校太傅に遷り、信王に進封された。

後に淵聖(欽宗)に従って郊外に出、北行して慶源に至り、真定の境域内に逃亡潜伏した。時に馬広と趙邦傑が兵を集めて五馬山砦を守り、密かに趙榛を迎えて帰し、主として奉じた。両河の遺民は風聞してこれに呼応した。

趙榛は馬広を行在(高宗の所在)に遣わしてこれを奏上させた。その概略は、「趙邦傑と馬広は忠義の心、金石の如く堅固であります。臣は賊中に陥って以来、その虚実をよく知っております。賊は今やや堕ち、皆帰郷を懐いております。かつ西夏に累敗し、契丹もまたこれを攻撃しております。今、山西の諸砦の郷兵はおよそ十余万、力を合わせて賊に抗しておりますが、皆苦しみ窮乏し、兼ねて兵器を欠いております。臣は方々に存恤しておりますが、ただ朝廷が兵を遣わして来援されることを望むのみです。さもなければ、久しければ恐らく反って賊に用いられるでしょう。臣と陛下とは、礼を以て言えば君臣、義を以て言えば兄弟であり、その国を憂い親を思う心に異なることはありません。願わくは臣に大軍を委ね、諸砦の郷兵と期日を約して大挙し、必ずや成功を見ることを期します」というものであった。馬広が到着すると、黄潜善・汪伯彦はその真実を疑い、上(高宗)は趙榛の自筆を認めたので、ついに河外兵馬都元帥に任じた。黄潜善・汪伯彦は終にこれを疑い、馬広が発とうとする時、密かに朝旨を授け、趙榛を偵察させ、また馬広に諸路の節制に従うことを命じた。馬広は事の成らぬことを知り、ついに大名府に留まって進まなかった。時に趙榛が河を渡って京に入ろうとしているとの言があり、朝廷はこれにより詔して還京の日を選び、その謀を挫かんとした。

金人は馬広が援兵を率いて来ることを恐れ、急いで兵を発して諸砦を攻め、その水汲みの道を断ったので、諸砦はついに陥落した。趙榛は行方知れずとなり、あるいは後に上皇(徽宗)とともに五国城に同居したともいう。

紹興元年、鄧州に楊某という者がおり、千余人を集めて自ら信王と称した。鎮撫使翟興は詐りと覚り、将を遣わしてこれを斬り、報告した。

欽宗

皇太子趙諶

欽宗の皇太子趙諶は、朱皇后の子である。政和七年に生まれ、嫡皇孫となり、祖宗以来かつてなかったことで、徽宗は喜んだ。蔡京が奏上して検校少保・常徳軍節度使を除し、崇国公に封ずることを請うと、従った。時に王黼が政権を得、蔡京を陥れようと謀り、東宮を人主に比したと上言したので、ついに高州防禦使に降格された。靖康元年、検校少保・昭慶軍節度使・大寧郡王に遷る。まもなく検校少傅・寧国軍節度使に進む。四月、詔して皇太子に立てられた。

二年、上(欽宗)が青城に行幸した時、密院同知孫傅に太子少傅を兼ねさせ、吏部侍郎謝克家に太子賓客を兼ねさせ、太子を輔けて国を監し、制を称して事を行わせた。まもなく、金人が二帝に請うて太子を城外に出させようとした。統制呉革は強く留めることを請い、募った兵士に微服させて太子を衛し、包囲を突破して出ようとした。孫傅は許さず、ついに民間に匿わせ、別に太子に容貌の似た者と宦官二人を求めて殺し、金人に送り、宦官が太子を窃いて投献しようとしたが、都人がこれを争い、太子も傷ついたと偽った。五日間、躊躇して決断できなかった。呉幵・莫儔が督促脅迫甚だ急であり、范瓊は変が生ずることを恐れ、危言をもって衛士を脅かしたので、ついに太子と皇后を同じ車に擁して出した。百官軍吏は奔走し号哭して従い、太学の諸生は車前に擁して拝した。太子は「百姓よ、我を救え」と呼んだ。哭声は天を震わし、やがて北へ去った。弟に趙訓がいる。

訓は北地に生まれた。碭山の人に留遇僧という者がおり、金人が彼を見て言うには、「趙家の少帝にそっくりだ」と。遇僧はひそかに喜んだ。紹興十年、三京の路が通じ、詔して宗室を求めた。遇僧は自ら少帝の第二子であると称し、守臣が行在に赴かせようと遣わした。泗州を過ぎると、州官の孫守信がこれを疑い、その守に白状し、朝廷に請うた。閣門が言うには、淵聖(欽宗)に第二子はないと。詔して孫守信に劾治させた。遇僧は罪に伏し、げい面の上、瓊州に隷した。後に北から来た者が言うには、「淵聖の小大王訓が、五国城に居るのを見た」と。

高宗

元懿太子 旉

元懿太子は諱を旉といい、高宗の子である。母は潘賢妃。建炎元年六月、南京に生まれた。検校少保・集慶軍節度使に拝し、魏国公に封ぜられた。金人が淮南に侵すと、帝は臨安に幸した。時に苗傅・劉正彥が乱を起こし、帝を逼って旉に禅位させ、元号を明受と改めた。やがて傅らが誅せられ、帝が復位すると、旉を皇太子とし、建康への行幸に従わせた。太子が立つと、病に罹った。宮人が誤って地上の金炉を蹴り音を立てたので、太子は驚悸し、病が転じて劇しくなり、薨去した。諡して元懿といった。

信王 璩

信王璩は字を潤夫といい、初名は伯玖、藝祖(太祖)の七世孫、秉義郎子彥の子である。

生まれつき聡明であった。初め、伯琮(後の孝宗)が宗子として選ばれて宮中に入ると、高宗は婕妤張氏に養育させた。呉才人も帝に請うたので、伯玖を呉才人に養母とさせ、名を璩と賜い、和州防禦使に除した。時に生後七歳であった。伯琮が建国公として傅に就くと、璩はひとり禁中に居た。まもなく節度使に拝し、呉国公に封ぜられようとしたが、宰執の趙鼎・劉大中・王庶らが強くこれを諫めたので、命令は果たされなかった。時に秦檜が政を専断し、保大軍節度使に除し、崇国公に封ぜられた。まもなく詔して資善堂に赴かせて聴読させた。紹興十五年、検校少保を加えられ、恩平郡王に進封され、外第に出た。時に伯琮はすでに普安郡王に封ぜられており、璩の官属礼制はこれと同等で、東府・西府と号した。一年余りして、武昌軍節度使に改めた。

二十二年、子彥が卒すると、璩は官を去り喪に服し、喪が終わると旧官に還った。顕仁太后が崩ずると、普安郡王が初めて皇太子に立てられ、璩は恩を加えられて皇侄と称し、名位が定まった。開府儀同三司に遷り、大宗正事を判じ、その司を紹興府に置いた。

孝宗が即位すると、璩は表を奉って入朝を賀することを請い、許された。特授で少保とし、静江軍節度使に改めた。間もなく、紹興府の宗正事を省き、西外宗正司を判ずるよう改めた。璩は累章を奉って閑職を乞い、醴泉観使に改めた。淳熙年間、少傅を除した。高宗が崩ずると、奔赴して病を得、一年余りして薨じた。享年五十九。信王を追封し、累贈して太保・太師とした。

初め、璩が宮中に入った時、儲位(皇太子の地位)が定まらないこと三十年近くに及び、朝廷内外は大いに疑念を抱いた。孝宗が即位すると、天性友愛であり、璩が入朝するたびに内殿に召して宴を賜い、官名で呼び、名を呼ばず、賜与は数えきれなかった。

子は四人。師淳は歴任して忠州団練使・永州防禦使となり、師灝・師淪・師路はいずれも武翼大夫に補された。孫の希楙は、特補で保義郎となった。

孝宗

莊文太子 愭

莊文太子は諱を愭といい、孝宗の嫡長子である。母は郭皇后。初名は愉、右内率府副率に補され、まもなく名を愭と賜い、右監門衛大將軍・榮州刺史を除した。孝宗が皇子であった時、愭は蘄州防禦使に拝した。禅位を受けると、少保・永興軍節度使を除し、鄧王に封ぜられた。故事によれば、皇子が出閣する時は王に封じ、二鎮を兼ね、その後司空を加える。愭は防禦使から一躍して少保に拝したのは、格別の待遇であった。

乾道元年、皇太子に立てられ、広国夫人銭氏を妃として冊立した。詔して東宮の従衛を増やすと、太子は謙譲した。及び月給の雑物を削減するよう奏上し、これに従った。三年秋、太子は暑気にあたり、医師が誤って薬を投じ、病状が重篤となった。上皇と皇帝は親しく病を見舞い、天下に赦令を下した。三日を経て薨去、二十四歳、諡して莊文という。

太子は賢明で篤厚であり、上皇と皇帝は共にこれを愛した。皇帝は礼官の議に従い、喪服の期間を定め、日をもって月に代え、文武百官は衰服を着し、一日で除く。東宮の臣僚は斉衰三月、臨七日で除く。葬儀に際し、皇帝は再び東宮に至り、宰臣に命じて諡冊を奉じ、大小祥の祭りには皆執政官が礼を行った。

子の挺は、銭氏の生んだ子で、ちょうど満一歳の時、福州観察使に任じられ、栄国公に封ぜられ、乾道九年に卒し、武当軍節度使を追贈され、豫国公に追封された。

寧宗の時、宗子の希璣を太子の後継と定めた。希璣は藝祖の九世孫であり、名を搢と賜り、右千牛衛将軍に補し、府に教授を置いた。開禧二年、忠州防禦使に任じられた。嘉定八年、名を思正と改めた。

魏恵憲王 愷

魏恵憲王、諱は愷、莊文太子の同母弟である。初め右内率府副率に補され、転じて右監門衛大将軍・貴州団練使となった。孝宗が受禅すると、雄武軍節度使・開府儀同三司に拝され、慶王に封ぜられた。

莊文太子が薨じると、愷が次に立つべきであったが、皇帝の意向は未だ決まらなかった。後に恭王が英武にして己に類するとして、ついにこれを立てた。愷に雄武・保寧軍節度使を加え、魏王に進封し、寧国府の判に任じた。妻の華国夫人韋氏は、特に韓・魏両国夫人に封ぜられ、優礼を示した。黄金三千両・白金一万両を賜り、宰執に命じて玉津園に餞別の宴を設けさせた。王は車に登り、顧みて虞允文に言った、「更に相公の保全を望む」。鎮に至ると、天申節の朝賀を奏上し、これを許された。

府の長史が上言し、司馬と郡を分治し、王に成案を受けさせようとした。愷は奏上して言った、「臣は命を受けて府を判じます。今、専ら長史・司馬に委ねるのは、臣を無用の地に置くことです。況や一郡に三つの判府を置けば、吏民が紛争して一致せず、ただその煩わしさを見るのみでしょう。長史・司馬は銭穀・訟牒を主とし、草案を作って臣に呈し、臣がこれに依って判じさせれば、上下安んじ、事は治めやすくなるでしょう」。また士人の貢挙の定員を増やすよう請うた。朝廷は皆これに従った。愷は民事に心を尽くし、崩壊した圩田を修築した。皇帝は手詔を下してこれを嘉労した。

淳熙元年、明州の判に転じた。所属の県の田租を停めて学の経費に充てた。二穂の麦を得て、図を描いて献上すると、皇帝は再び手詔を賜って言った、「汝が農耕を勧め励まし、農民が遊惰せず、瑞麦の応を得るのは当然である」。愷に荊南・集慶軍節度使を加え、江陵尹を行い、まもなく永興・成徳軍節度使・揚州牧に改めた。七年、明州において薨去、三十五歳。皇帝は素服を着て別殿で哀悼し、淮南武寧軍節度使・揚州牧兼徐州牧を追贈し、諡して恵寧といった。

王は性質寛大で慈愛に富み、上皇は特にこれを愛した。宗社の大計により王を外に出したとはいえ、心は常にこれを思い、賜賚は絶えなかった。訃報を聞き、皇帝は涙を流して言った、「かつて順序を越えて儲君を立てたのは、まさにこの子の福気がやや薄いからであったのだ」。二郡を治めて仁政の名声があり、薨去の日、四明の父老は祠を建て碑を立てて遺愛を記念するよう請願した。

子は二人。攄は早世した。抦は明州で生まれ、母は卜氏、信安郡夫人である。王が薨じると、行在に戻って居住した。抦は性質早熟で聡明であり、皇帝はこれを愛し、内禅を行おうとする時、耀州観察使に昇進させ、嘉国公に封じた。慶元年間、呉興郡王に封ぜられ、昭慶軍節度使を領した。開禧二年に薨じ、太保を追贈され、沂王に封ぜられ、諡して靖恵といった。

子の垓は、三歳で夭折した。詔して宗室の希瞿の子をその後継と定め、名を均と改め、右千牛衛将軍を領し、府に教授を置いた。まもなく福州観察使を加えられた。後に名を貴和と改め、すなわち鎮王竑である。

寧宗

景献太子 詢

景献太子、諱は詢、燕懿王の後裔、藝祖の十一世孫である。初名は与願。寧宗は袞王を失った後、宰執の京鏜らの請いに従い、与願を取って宮中で養育し、六歳の時、名を曮と賜り、福州観察使に任じた。嘉泰二年、威武軍節度使に拝され、衛国公に封ぜられ、資善堂で読書を聴講することを許された。

開禧元年、時に辺境の事態は益々切迫し、金人が兵を用いた首謀者を誅することを請うた。趙曮は翊善史彌遠の計を用い、韓侂胄が軽率に兵端を起こし、宗社を危うくしたことを奏上し、これを罷黜して辺境を安んずべきであるとした。帝はこれに従った。

趙曮は皇太子に立てられ、開府儀同三司を拝し、榮王に封ぜられ、名を幬と改めた。詔して御朝には太子を侍立させ、宰執は日ごとに資善堂に赴いて會議することを命じた。まもなく天禧の故事を用い、宰輔大臣はみな師傅・賓客を兼ね、太子は出て東宮に居し、名を詢と改めた。嘉定十三年に薨じ、年二十九、諡して景獻といった。

鎮王趙竑

鎮王趙竑は、趙希瞿の子である。初め、沂靖惠王が薨じ、嗣子がなかったので、趙竑をその後とした。名を均と賜い、まもなく名を貴和と改めて賜った。太子趙詢が薨じたので、貴和を皇子に立て、名を竑と賜い、寧武軍節度使を授け、祁國公に封じた。嘉定十五年五月、檢校少保を加えられ、濟國公に封ぜられた。

十七年六月辛未、趙竑に子が生まれたので、詔して天地・宗廟・社稷・宮觀に告げた。八月癸未、趙竑の子に名を銓と賜い、左千牛衛大將軍を授けた。丁亥、趙銓が薨じたので、復州防禦使を贈られ、永寧侯を追封された。趙竑は上表して謝した。

趙竑は琴を弾くことを好んだ。丞相史彌遠は琴の巧みな美人を買い求め、これを御所に納れ、その家に厚く俸給を与え、美人に趙竑を間諜させ、動静は必ず報告させた。美人は書を読み知り聡明で、趙竑はこれを寵愛した。宮殿の壁に輿地図があり、趙竑は瓊厓を指して言った、「我れ他日志を得ば、史彌遠をここに置かん」。また嘗て彌遠を「新恩」と呼んだ。他日は新州か恩州に流すという意味である。彌遠はこれを聞き、嘗て七月七日に乞巧の奇玩を進めてこれを窺うと、趙竑は酒に乗じてこれを地に砕いた。彌遠は大いに懼れ、日夜趙竑を処分することを考えたが、趙竑は知らなかった。

時に沂王はなお後嗣がなく、宗室の趙希盧の子趙昀を選んでこれを継がせようとしていた。ある日、彌遠はその父のために淨慈寺で僧に斎食を施し、独り國子學錄鄭清之と惠日閣に登り、人を屏いて語って言った、「皇子は重任に堪えず、沂邸の後嗣たる者は甚だ賢いと聞く。今講官を選ぼうとしている。君は善くこれを訓導せよ。事が成れば、彌遠の座は即ち君の座である。然しこの言葉は彌遠の口より出で、君の耳に入る。もし一言でも漏らせば、我れと君は皆族誅される」。清之は拱手して言った、「敢えてしません」。そこで清之を兼ねて魏忠憲王府教授とした。清之は日ごとに趙昀に文を作ることを教え、また高宗の書を購い求めて習わせた。清之が彌遠に謁見すると、直ちに趙昀の詩文や筆跡を示し、彌遠は口を極めてこれを称賛した。彌遠は嘗て清之に問うた、「我れはその賢さを既に熟知しているが、大要は果たしてどうか」。清之は言った、「その人の賢さは、更僕して数え尽くせません。然し一言以ってこれを断ずれば、『非凡』と言うべきです」。彌遠は再三うなずき、策立の意思は益々固くなった。清之は初め小官を以て教授を兼ねたが、その後累遷し、兼官は元の如くであった。

寧宗が崩御すると、彌遠は初めて清之を遣わし、趙昀に将にこれを立てんとする意思を告げさせた。再三これを言うと、趙昀は黙然として応じなかった。最後に清之は言った、「丞相は清之が従遊すること久しい故に、足下に腹心を布かしめるのである。今足下一語も答えられぬならば、清之は将に何を以て丞相に覆命せんとするのか」。趙昀は初めて拱手して徐ろに答えて言った、「紹興に老母あり」。清之がこれを彌遠に告げると、益々共にその非凡さを歎じた。

趙竑は踵を上げて宣召を待ったが、久しくしても至らなかった。彌遠は禁中におり、快行を遣わして皇子を宣し、これに命じて言った、「今宣する所は沂靖惠王府の皇子であって、萬歳巷の皇子ではない。もし誤れば、汝らは皆処斬される」。趙竑は自らを抑えられず、壁の間を注視していると、快行がその府の前を通り過ぎて入らないのを見て、疑った。やがて一人を擁して通り過ぎたが、天は既に暮れており、それが誰であるか知らず、甚だ惑った。

趙昀が既に到着すると、彌遠はこれを引いて柩の前に至らせ、挙哀が終わってから、それから趙竑を召した。趙竑は命を聞いて急ぎ赴いたが、至るごとに宮門を過ぎるたび、禁衛がその従者を拒んだ。彌遠もまた趙竑を引いて柩の前に至らせ、挙哀が終わると、帷の外へ引き出し、殿帥夏震がこれを守った。やがて百官を召して班を立てて遺制を聴かせると、趙竑を引いて仍って旧班に就かせた。趙竑は愕然として言った、「今日の事、我れ豈に仍ってこの班に在るべきや」。震はこれを欺いて言った、「未だ制を宣する以前はここに在るべきであり、制を宣した後に即位するのである」。趙竑は然りと思った。未だ幾ばくもせず、遥かに燭影の中に一人が既に御座に在るのを見た。制を宣し終えると、閣門が讚呼し、百官が拜舞して、新皇帝の即位を賀した。趙竑は拝することを肯わず、震はその首を押さえて拝させた。皇后は遺詔を矯って、趙竑を開府儀同三司とし、濟陽郡王に進封して寧國府の判とせよと命じた。帝は因って趙竑に少保を加え、濟王に進封した。九月丁丑、趙竑を以て醴泉觀使とし、第宅を賜って就かせよと命じた。

寶慶元年正月庚午、湖州の人潘壬とその弟潘丙が趙竑を立てようと謀った。趙竑は変を聞いて水竇の中に隠れたが、潘壬らはこれを見つけ出し、州治に擁し、黄袍を身にまとわせた。趙竑は号泣して従わなかったが、已むを得ず、これと約して言った、「汝らは太后・官家を傷つけぬことができるか」。衆は承諾した。そこで軍資庫の金帛・會子を発して軍を犒い、守臣謝周卿に命じて官属を率いて入賀させ、李全の榜文を偽って門に掲げ、彌遠の廃立の罪を数え上げ、「今精兵二十万を領し、水陸より進討す」と言った。夜明けになって見ると、皆太湖の漁人と巡尉の兵卒であり、百人に満たなかった。趙竑はその謀が成らぬと知り、州兵を率いてこれを討った。王元春を遣わして朝廷に告げさせると、彌遠は殿司の将彭任にこれを討たせたが、到着した時には既に事は平定されていた。彌遠は客の秦天錫に命じて医を召して趙竑の病を治すと託けさせたが、趙竑は本来病はなかった。丙戌、天錫が趙竑のもとに詣で、旨を諭して趙竑を州治において縊死に追い込んだ。

帝は朝を輟み、銀絹各一千・會子一万貫を賻い、少師・保靜鎮潼軍節度使を贈った。給事中盛章・權直舍人院王塈が一再に奏を繳し、詔してこれに従った。右正言李知孝が累次奏上し、王爵を追奪して巴陵縣公に降封した。ここにおいて朝廷の臣たる真德秀・魏了翁・洪諮夔・胡夢昱らが毎に趙竑のことを言うと、彌遠は常にこれを憎んで斥け遠ざけた。

端平元年、詔して官爵を復した。妻の吳氏は比丘尼と為り、惠淨法空大師を賜い、月ごとに缽錢百貫を給した。景定五年、度宗が詔を降し、元の贈られた節度使を追復した。德祐元年、提領戶部財用兼修國史常楙が趙竑の後を立てることを請い、試禮部侍郎兼中書舍人王應麟が更に大国に封じ、墓に表し諡を賜い、大宗正司に命じて議し後嗣を選んで立て、善気を迎え悪運を銷するには、これに先んずるはないと請うた。礼部に下して議させ、太師・尚書令を贈り、旧の如く節度使とし、鎮王に升封し、諡して昭肅といった。田一万畝をその家に賜い、應麟を遣わして祭らせた。