英宗
英宗に四子あり。長は神宗、次は吳榮王顥、次は潤王顏、次は益端獻王頵、皆な宣仁聖烈高皇后の出なり。顏は早く亡ぶ。徽宗、名を賜ひ追封す。
吳榮王顥
宣仁疾有り、顥旦旦に入り問ひ、因りて亦病に被る。宣仁廟に祔せらるるや、太師を拜し、冀王に徙封せられ、入朝趨らざるを賜ふ。淮南・荊南節度使に改め、楚王に徙封す。病益々篤く、帝親しく醫を挾み視診し、晝夜起居の狀を具へて聞かしむるを令す。小愈すれば則ち喜ぶ。既にして薨ず、年四十七。帝即ち臨哭し、朝を輟むこと五日、苑中にて服を成す。尚書令兼中書令・揚荊冀三州牧・燕王を贈り、諡して榮と曰ふ。永厚陵に陪葬す。徽宗即位し、吳王に改封す。
顥天資穎異にして、尤も學を嗜み、始めて外傅に就くや、一經終る毎に、即ち講讀官に器幣服馬を遺す。飛白を工とし、射を善くし、圖書を好み、博く善本を求む。神宗其の志尚を嘉し、異書を得る毎に、亟に使を馳せて以て示す。嘗て方團玉帶を賜ひ、服して朝せしむ。顥辭す。乃ち玉魚を製して以て之を別つ。是より後、親王遂に踵いて故實と爲す。初め、英宗の喪に居り、官を解き終制せんことを丐ふも、至尊に厭はるるを以て、遂げることを克はせず。慈聖光獻太后の服を服し、月を易ふるに當りて除くべし。顥曰く、「身孫として情文缺然たり、是の若きは可ならんや。請ふ心喪の禮の如くし、上禫を須ち除き、即ち吉せん」と。詔して可とす。
子孝騫嗣ぐ。終に寧國軍節度使・晉康郡王。孝錫は終に嘉州團練使、永國公を贈らる。
益端獻王頵
頵端重明粹にして、少くより學を好み、長じて群書に博通し、飛白・篆籀を工とす。宮僚を賓接し、歲滿ちて當に去るべくとも、輙ち奏して留め、久しきは十餘年に至る。頗る醫書を好み、手づから『普惠集效方』を著し、且つ藥を儲けて以て病者を救ふ。
子九人。孝哲は右驍衛將軍、早く亡ぶ。孝奕は彰化軍節度觀察留後、司空・平原郡王を贈らる。孝參は奉國軍節度使、寧武・武勝に改め、豫章郡王に封ぜらる。孝永は邢州觀察使、司空・廣陵郡王を贈らる。孝詒・孝騭・孝悅・孝穎・孝願は皆な節度使に至る。
神宗
神宗に十四子あり。長は成王佾、次は惠王僅、次は唐哀獻王俊、次は褒王伸、次は冀王僴、次は哲宗、次は豫悼惠王價、次は徐衝惠王倜、次は吳榮穆王佖、次は儀王偉、次は徽宗、次は燕王俁、次は楚榮憲王似、次は越王偲。八王は皆早く薨ず。佾・僅・伸・偉は、徽宗が名を賜ひ追封し、俊・僴・倜・價は、徽宗が改めて封ず。
吳榮穆王佖
燕王俁
紹興の初、崔紹祖と云ふ者壽春府に至り、越王の次子を稱し、上皇の蠟詔を受けて天下兵馬大元帥となり、師を興して恢復せんとす。鎮撫使趙霖以て聞す。行在に召し赴かしむ。事敗れ、臺獄に送りて罪に伏し、越州市にて斬らる。
楚榮憲王似
左司諫江公望上疏して以爲く、「親たる者の隙は開くべからず、開けば則ち言離貳す可く、疑はしき跡は顯はすべからず、顯はせば則ち事磨滅し難し。陛下の天下を得るや、章惇嘗て異議を持せしことあり、既に隙跡あり。蔡王は無心より出で、年尚ほ幼小にして、未だ禍亂の萌を達せず、恬として以て恤ひみとせず。陛下一切包容し、已に開けたる隙を塗り、已に顯はれたる跡を泯す。恩意渥縟にして、歡然兄弟の情を失はず。若し曖昧にして根無きの語を以て、至親骨肉の間に加ふれば、則ち魏文の『相煎ること太急なり』の譏ありて、大舜親愛の道を忘れん。豈に治世の美事たるべけんや。臣願くは陛下密詔を有司に下し、凡そ根無きの言は案牘に形すこと勿らしめ、倘ひに瑕指す可き有らば、一人の胸次に入れば、則ち終身忘れず、跡は泯す可からず、隙は塗る可からず、則ち骨肉離る。一たび浸淫旁く蔡王に及ぶの語有らば、陛下將に何を以て之を處せんとするや識らず、陛下何の顏を以て神考に太廟に見えんや」と。疏入り、公望罷められ淮陽軍を知る。徽宗公望を出だすと雖も、然れども頗る其の言を思ひ、其の左右を治むるに止む。
崇寧中、鎮を荊南・武寧に徙す。崇寧五年に薨ず。太師・尚書令兼中書令・冀州牧・韓王を贈られ、改めて楚王に封ぜられ、諡して榮憲と曰ふ。子に有恭あり、定國軍節度使・永寧郡王。
哲宗
獻湣太子茂
徽宗
徽宗に三十一子あり。長は欽宗、次は袞王檉、次は鄆王楷、次は荊王楫、次は肅王樞、次は景王杞、次は濟王栩、次は益王棫、次は高宗、次は邠王材、次は祁王模、次は莘王植、次は儀王樸、次は徐王棣、次は沂王㮙、次は鄆王栱、次は和王栻、次は信王榛、次は漢王椿、次は安康郡王楃、次は廣平郡王楗、次は陳國公機、次は相國公梃、次は瀛國公樾、次は建安郡王楧、次は嘉國公椅、次は溫國公棟、次は英國公楒、次は儀國公桐、次は昌國公柄、次は潤國公樅。檉、楫、材、栱、椿、機の六王は早く薨ず。
鄆王楷
肅王樞
景王杞
濟王栩
景王杞と同しく賀金人正旦使と為る。既に還り、又何㮚と請命使と為る。金帥栩を紿いて曰く、「古より南有れば即ち北有り、相い無くすべからず。今の欲する所は地を割くのみ」と。栩回りて以て上に白し、且つ金帥上皇と相見えんことを請うと言う。上曰く、「豈に上皇をして蒙塵せしむべけんや」と。遂に自ら出で、栩を従えて行く。諸王家属を索むるに及び、栩の夫人曹氏は難を避けて他に出づ。徐秉哲捕えて之を拘え、遂に同しく北去す。
徐王棣
徐王棣は、初め鎮江軍節度使・検校太尉を授けられ、徐國公に封ぜらる。政和中、検校太保を授けらる。宣和中、鎮南軍節度使に改め、開府儀同三司を加えられ、高平郡王に封ぜらる。尋いで山南東道・河陽三城節度使に改め、徐王に進封せらる。後に淵聖に従い北去す。
沂王㮙
沂王趙㮙は、初め横海軍節度使・検校太尉・冀国公を授けられた。政和年間に検校太保を授かる。宣和年間に剣南西川節度使に改め、開府儀同三司を加えられ、河間郡王に封ぜられた。まもなく剣南東川・威武軍節度使に改め、太保に遷り、沂王に進封された。
後に淵聖(欽宗)に従って郊外に出、北方に至り、駙馬劉彥文とともに上皇(徽宗)の左右の者が謀叛を企てていると告発した。金が人を遣わして審問すると、上皇は莘王趙植・駙馬蔡鞗らを遣わして対弁させた。凡そ三日に及び、趙㮙・劉彥文は気勢が挫け、金人によって誅殺された。
和王趙栻
遺された女子一人があり、高宗の朝に楽平県主に封ぜられ、杜安石に嫁ぎ、大宗正司に命じて婚礼を主宰させた。
信王趙榛
後に淵聖(欽宗)に従って郊外に出、北行して慶源に至り、真定の境域内に逃亡潜伏した。時に馬広と趙邦傑が兵を集めて五馬山砦を守り、密かに趙榛を迎えて帰し、主として奉じた。両河の遺民は風聞してこれに呼応した。
趙榛は馬広を行在(高宗の所在)に遣わしてこれを奏上させた。その概略は、「趙邦傑と馬広は忠義の心、金石の如く堅固であります。臣は賊中に陥って以来、その虚実をよく知っております。賊は今やや堕ち、皆帰郷を懐いております。かつ西夏に累敗し、契丹もまたこれを攻撃しております。今、山西の諸砦の郷兵はおよそ十余万、力を合わせて賊に抗しておりますが、皆苦しみ窮乏し、兼ねて兵器を欠いております。臣は方々に存恤しておりますが、ただ朝廷が兵を遣わして来援されることを望むのみです。さもなければ、久しければ恐らく反って賊に用いられるでしょう。臣と陛下とは、礼を以て言えば君臣、義を以て言えば兄弟であり、その国を憂い親を思う心に異なることはありません。願わくは臣に大軍を委ね、諸砦の郷兵と期日を約して大挙し、必ずや成功を見ることを期します」というものであった。馬広が到着すると、黄潜善・汪伯彦はその真実を疑い、上(高宗)は趙榛の自筆を認めたので、ついに河外兵馬都元帥に任じた。黄潜善・汪伯彦は終にこれを疑い、馬広が発とうとする時、密かに朝旨を授け、趙榛を偵察させ、また馬広に諸路の節制に従うことを命じた。馬広は事の成らぬことを知り、ついに大名府に留まって進まなかった。時に趙榛が河を渡って京に入ろうとしているとの言があり、朝廷はこれにより詔して還京の日を選び、その謀を挫かんとした。
金人は馬広が援兵を率いて来ることを恐れ、急いで兵を発して諸砦を攻め、その水汲みの道を断ったので、諸砦はついに陥落した。趙榛は行方知れずとなり、あるいは後に上皇(徽宗)とともに五国城に同居したともいう。
欽宗
皇太子趙諶
訓
高宗
元懿太子 旉
信王 璩
信王璩は字を潤夫といい、初名は伯玖、藝祖(太祖)の七世孫、秉義郎子彥の子である。
生まれつき聡明であった。初め、伯琮(後の孝宗)が宗子として選ばれて宮中に入ると、高宗は婕妤張氏に養育させた。呉才人も帝に請うたので、伯玖を呉才人に養母とさせ、名を璩と賜い、和州防禦使に除した。時に生後七歳であった。伯琮が建国公として傅に就くと、璩はひとり禁中に居た。まもなく節度使に拝し、呉国公に封ぜられようとしたが、宰執の趙鼎・劉大中・王庶らが強くこれを諫めたので、命令は果たされなかった。時に秦檜が政を専断し、保大軍節度使に除し、崇国公に封ぜられた。まもなく詔して資善堂に赴かせて聴読させた。紹興十五年、検校少保を加えられ、恩平郡王に進封され、外第に出た。時に伯琮はすでに普安郡王に封ぜられており、璩の官属礼制はこれと同等で、東府・西府と号した。一年余りして、武昌軍節度使に改めた。
孝宗が即位すると、璩は表を奉って入朝を賀することを請い、許された。特授で少保とし、静江軍節度使に改めた。間もなく、紹興府の宗正事を省き、西外宗正司を判ずるよう改めた。璩は累章を奉って閑職を乞い、醴泉観使に改めた。淳熙年間、少傅を除した。高宗が崩ずると、奔赴して病を得、一年余りして薨じた。享年五十九。信王を追封し、累贈して太保・太師とした。
初め、璩が宮中に入った時、儲位(皇太子の地位)が定まらないこと三十年近くに及び、朝廷内外は大いに疑念を抱いた。孝宗が即位すると、天性友愛であり、璩が入朝するたびに内殿に召して宴を賜い、官名で呼び、名を呼ばず、賜与は数えきれなかった。
子は四人。師淳は歴任して忠州団練使・永州防禦使となり、師灝・師淪・師路はいずれも武翼大夫に補された。孫の希楙は、特補で保義郎となった。
孝宗
莊文太子 愭
莊文太子は諱を愭といい、孝宗の嫡長子である。母は郭皇后。初名は愉、右内率府副率に補され、まもなく名を愭と賜い、右監門衛大將軍・榮州刺史を除した。孝宗が皇子であった時、愭は蘄州防禦使に拝した。禅位を受けると、少保・永興軍節度使を除し、鄧王に封ぜられた。故事によれば、皇子が出閣する時は王に封じ、二鎮を兼ね、その後司空を加える。愭は防禦使から一躍して少保に拝したのは、格別の待遇であった。
太子は賢明で篤厚であり、上皇と皇帝は共にこれを愛した。皇帝は礼官の議に従い、喪服の期間を定め、日をもって月に代え、文武百官は衰服を着し、一日で除く。東宮の臣僚は斉衰三月、臨七日で除く。葬儀に際し、皇帝は再び東宮に至り、宰臣に命じて諡冊を奉じ、大小祥の祭りには皆執政官が礼を行った。
子の挺は、銭氏の生んだ子で、ちょうど満一歳の時、福州観察使に任じられ、栄国公に封ぜられ、乾道九年に卒し、武当軍節度使を追贈され、豫国公に追封された。
魏恵憲王 愷
魏恵憲王、諱は愷、莊文太子の同母弟である。初め右内率府副率に補され、転じて右監門衛大将軍・貴州団練使となった。孝宗が受禅すると、雄武軍節度使・開府儀同三司に拝され、慶王に封ぜられた。
莊文太子が薨じると、愷が次に立つべきであったが、皇帝の意向は未だ決まらなかった。後に恭王が英武にして己に類するとして、ついにこれを立てた。愷に雄武・保寧軍節度使を加え、魏王に進封し、寧国府の判に任じた。妻の華国夫人韋氏は、特に韓・魏両国夫人に封ぜられ、優礼を示した。黄金三千両・白金一万両を賜り、宰執に命じて玉津園に餞別の宴を設けさせた。王は車に登り、顧みて虞允文に言った、「更に相公の保全を望む」。鎮に至ると、天申節の朝賀を奏上し、これを許された。
府の長史が上言し、司馬と郡を分治し、王に成案を受けさせようとした。愷は奏上して言った、「臣は命を受けて府を判じます。今、専ら長史・司馬に委ねるのは、臣を無用の地に置くことです。況や一郡に三つの判府を置けば、吏民が紛争して一致せず、ただその煩わしさを見るのみでしょう。長史・司馬は銭穀・訟牒を主とし、草案を作って臣に呈し、臣がこれに依って判じさせれば、上下安んじ、事は治めやすくなるでしょう」。また士人の貢挙の定員を増やすよう請うた。朝廷は皆これに従った。愷は民事に心を尽くし、崩壊した圩田を修築した。皇帝は手詔を下してこれを嘉労した。
王は性質寛大で慈愛に富み、上皇は特にこれを愛した。宗社の大計により王を外に出したとはいえ、心は常にこれを思い、賜賚は絶えなかった。訃報を聞き、皇帝は涙を流して言った、「かつて順序を越えて儲君を立てたのは、まさにこの子の福気がやや薄いからであったのだ」。二郡を治めて仁政の名声があり、薨去の日、四明の父老は祠を建て碑を立てて遺愛を記念するよう請願した。
子の垓は、三歳で夭折した。詔して宗室の希瞿の子をその後継と定め、名を均と改め、右千牛衛将軍を領し、府に教授を置いた。まもなく福州観察使を加えられた。後に名を貴和と改め、すなわち鎮王竑である。
寧宗
景献太子 詢
鎮王趙竑
鎮王趙竑は、趙希瞿の子である。初め、沂靖惠王が薨じ、嗣子がなかったので、趙竑をその後とした。名を均と賜い、まもなく名を貴和と改めて賜った。太子趙詢が薨じたので、貴和を皇子に立て、名を竑と賜い、寧武軍節度使を授け、祁國公に封じた。嘉定十五年五月、檢校少保を加えられ、濟國公に封ぜられた。
十七年六月辛未、趙竑に子が生まれたので、詔して天地・宗廟・社稷・宮觀に告げた。八月癸未、趙竑の子に名を銓と賜い、左千牛衛大將軍を授けた。丁亥、趙銓が薨じたので、復州防禦使を贈られ、永寧侯を追封された。趙竑は上表して謝した。
趙竑は琴を弾くことを好んだ。丞相史彌遠は琴の巧みな美人を買い求め、これを御所に納れ、その家に厚く俸給を与え、美人に趙竑を間諜させ、動静は必ず報告させた。美人は書を読み知り聡明で、趙竑はこれを寵愛した。宮殿の壁に輿地図があり、趙竑は瓊厓を指して言った、「我れ他日志を得ば、史彌遠をここに置かん」。また嘗て彌遠を「新恩」と呼んだ。他日は新州か恩州に流すという意味である。彌遠はこれを聞き、嘗て七月七日に乞巧の奇玩を進めてこれを窺うと、趙竑は酒に乗じてこれを地に砕いた。彌遠は大いに懼れ、日夜趙竑を処分することを考えたが、趙竑は知らなかった。
時に沂王はなお後嗣がなく、宗室の趙希盧の子趙昀を選んでこれを継がせようとしていた。ある日、彌遠はその父のために淨慈寺で僧に斎食を施し、独り國子學錄鄭清之と惠日閣に登り、人を屏いて語って言った、「皇子は重任に堪えず、沂邸の後嗣たる者は甚だ賢いと聞く。今講官を選ぼうとしている。君は善くこれを訓導せよ。事が成れば、彌遠の座は即ち君の座である。然しこの言葉は彌遠の口より出で、君の耳に入る。もし一言でも漏らせば、我れと君は皆族誅される」。清之は拱手して言った、「敢えてしません」。そこで清之を兼ねて魏忠憲王府教授とした。清之は日ごとに趙昀に文を作ることを教え、また高宗の書を購い求めて習わせた。清之が彌遠に謁見すると、直ちに趙昀の詩文や筆跡を示し、彌遠は口を極めてこれを称賛した。彌遠は嘗て清之に問うた、「我れはその賢さを既に熟知しているが、大要は果たしてどうか」。清之は言った、「その人の賢さは、更僕して数え尽くせません。然し一言以ってこれを断ずれば、『非凡』と言うべきです」。彌遠は再三うなずき、策立の意思は益々固くなった。清之は初め小官を以て教授を兼ねたが、その後累遷し、兼官は元の如くであった。
寧宗が崩御すると、彌遠は初めて清之を遣わし、趙昀に将にこれを立てんとする意思を告げさせた。再三これを言うと、趙昀は黙然として応じなかった。最後に清之は言った、「丞相は清之が従遊すること久しい故に、足下に腹心を布かしめるのである。今足下一語も答えられぬならば、清之は将に何を以て丞相に覆命せんとするのか」。趙昀は初めて拱手して徐ろに答えて言った、「紹興に老母あり」。清之がこれを彌遠に告げると、益々共にその非凡さを歎じた。
趙竑は踵を上げて宣召を待ったが、久しくしても至らなかった。彌遠は禁中におり、快行を遣わして皇子を宣し、これに命じて言った、「今宣する所は沂靖惠王府の皇子であって、萬歳巷の皇子ではない。もし誤れば、汝らは皆処斬される」。趙竑は自らを抑えられず、壁の間を注視していると、快行がその府の前を通り過ぎて入らないのを見て、疑った。やがて一人を擁して通り過ぎたが、天は既に暮れており、それが誰であるか知らず、甚だ惑った。
趙昀が既に到着すると、彌遠はこれを引いて柩の前に至らせ、挙哀が終わってから、それから趙竑を召した。趙竑は命を聞いて急ぎ赴いたが、至るごとに宮門を過ぎるたび、禁衛がその従者を拒んだ。彌遠もまた趙竑を引いて柩の前に至らせ、挙哀が終わると、帷の外へ引き出し、殿帥夏震がこれを守った。やがて百官を召して班を立てて遺制を聴かせると、趙竑を引いて仍って旧班に就かせた。趙竑は愕然として言った、「今日の事、我れ豈に仍ってこの班に在るべきや」。震はこれを欺いて言った、「未だ制を宣する以前はここに在るべきであり、制を宣した後に即位するのである」。趙竑は然りと思った。未だ幾ばくもせず、遥かに燭影の中に一人が既に御座に在るのを見た。制を宣し終えると、閣門が讚呼し、百官が拜舞して、新皇帝の即位を賀した。趙竑は拝することを肯わず、震はその首を押さえて拝させた。皇后は遺詔を矯って、趙竑を開府儀同三司とし、濟陽郡王に進封して寧國府の判とせよと命じた。帝は因って趙竑に少保を加え、濟王に進封した。九月丁丑、趙竑を以て醴泉觀使とし、第宅を賜って就かせよと命じた。
帝は朝を輟み、銀絹各一千・會子一万貫を賻い、少師・保靜鎮潼軍節度使を贈った。給事中盛章・權直舍人院王塈が一再に奏を繳し、詔してこれに従った。右正言李知孝が累次奏上し、王爵を追奪して巴陵縣公に降封した。ここにおいて朝廷の臣たる真德秀・魏了翁・洪諮夔・胡夢昱らが毎に趙竑のことを言うと、彌遠は常にこれを憎んで斥け遠ざけた。