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宋史
列傳第四 宗室二 太宗子 真宗子 仁宗子
太宗
太宗に九人の子あり。長は楚王元佐、次は昭成太子元僖、次は真宗、次は商恭靖王元份、次は越文惠王元傑、次は鎮恭懿王元偓、次は楚恭惠王元偁、次は周恭肅王元儼、次は崇王元億。
漢王元佐
漢恭憲王元佐、字は惟吉、初めの名は德崇、母は元德皇后。幼少より聡明で機敏、容貌は太宗に似て、帝は特に寵愛した。十三歳の時、近郊の狩猟に従い、兎が乗輿の前を走った。太宗が元佐に射させると、一発で命中し、傍らにいた契丹の使者は驚き怪しんだ。太原・幽薊への征討に従軍。太平興国年間、内東門の別邸に出居し、檢校太傅・同中書門下平章事に拝され、衞王に封ぜられ、中書において赴上した。後に東宮に移り住み、今の名を賜り、檢校太尉を加えられ、楚王に進封された。
初め、秦王廷美が涪陵に遷された時、元佐ひとりが救いを請うた。廷美が死ぬと、元佐は発狂し、ついには些細な過ちで棒や刃物を持って侍人を傷つけるに至った。雍熙二年、病が少し癒え、帝は喜び、天下に赦令を下した。重陽の日の内宴で、元佐は病が癒えたばかりで参加せず、諸王が宴から帰り、夕方に元佐の邸を過ぎた。(元佐は)言った。「お前たちは上の宴に侍ったのに、私だけが加わらぬのは、私を見捨てたのだ。」そこで憤りを発し、酒に酔い、夜に火を放って宮殿を焼いた。詔して御史を遣わし元佐を捕えさせ、中書に詣でて弾劾・尋問させ、庶人に廃し、均州に安置した。宰相宋琪が百官を率いて三度上表し、元佐を京師に留めるよう請うた。黄山に至った時、召し還され、南宮に廃居し、使者が守護した。諮議趙齊王遹・翊善戴元が頓首して罪を請うたが、帝は赦して言った。「この子は朕が教えてもなお悔い改めぬ。汝らどうして輔導できようか。」
真宗が即位すると、左金吾衞上將軍として起用され、再び楚王に封ぜられ、病を養い朝参せぬことを許され、さらに檢校太師・右衞上將軍を加えられた。元佐の誕生日に、真宗は宝帯を賜った。平素は人と交わらなかったが、事柄を予知することがあった。帝がかつて術士の管帰真を遣わして醮禳を行わせようとした時、左右がまだ報告しないうちに、元佐は突然「管帰真が来た」と言った。帝はこれを聞いて言った。「これは物に憑かれたのではあるまいか。」泰山に封禅し、真に太傅を拝した。汾陰を祀り、太尉兼中書令に遷った。さらに太師・尚書令兼中書令を加えられ、ついに天策上將軍・興元牧を拝し、剣履上殿を賜り、詔書に名を称さぬこととなった。時に禁中で火災があり、元佐は上表して俸給を停止し宮闕の修復を助けようとしたが、許されなかった。兼雍州牧を加えられた。仁宗が皇太子となると、兼興元牧とした。仁宗が即位すると、兼江陵牧とした。薨去、六十二歳。河中・鳳翔牧を贈られ、齊王を追封され、諡は恭憲。宗室の子弟には特に七日間の休暇を与え、鹵簿鼓吹で永安まで導き、永熙陵に陪葬した。明道二年、潞王に改封。さらに魏王に改封。子三人、允升・允言・允成。
仁宗が王に封ぜられた後、允言の子の宗說が恭憲王の長孫であるとして、祁國公を嗣封した。皇祐年間、帷薄不修の罪で除名され、さらに女僕を坑殺した罪で、宮室外宅に鎖閉された。その子の仲旻は、右武衞大將軍・道州刺史の官にあったが、後に朝参の際、殿下で叩頭し泣き訴えて言った。「父は老いて病んでおります。身を官に納めて贖いたいと願います。」神宗も哀れに思ったが、その請いを聞き届けなかった。退出して馬に乗ろうとした時、気が塞がって言葉が発せず、家に着くと卒去した。同州觀察使・馮翊侯を贈られた。宗說は幽閉のまま死んだ。
熙寧三年、允升の子の宗惠をもって魏國公を襲封させようとした。中書が宗惠は封ぜられるべきではないと上言し、恭憲の庶長孫である允言の子の宗立をもって嗣がせた。
宗立は張揆に従い春秋を学んだ。太清楼の侍宴で、座に預かった者全員が祼玉の詩を賦すこととなり、宗立の詩が先に出来上がり、仁宗は善しと称賛した。たびたび飛白の書を賜い、その文雅を表彰された。この時に至って襲封し、ついに武寧軍節度觀察留後に至り、昭信軍節度使・同中書門下平章事・南康郡王を贈られた。子の仲來が嗣ぎ、ついに金州刺史に至った。子の不儻が嗣いだ。徽宗が立つと、魏王を漢王に改封した。不儻が卒去すると、子の彥清が父の爵を襲い、漢王の祭祀を奉ることを請い、詔してこれに従った。
允升
允升、字は吉先、乳離れの初め、明德太后の宮中で養育され、太后が自ら撫で世話をした。元佐が病気になった時、允升は初めて邸を出た。真宗は元中と名を賜い、右監門衞將軍に授け、さらに今の名を賜った。累遷して澶州觀察使となり、延安郡公に封ぜられ、武寧軍節度觀察留後に進み、安德・建雄・安国軍節度使を歴任した。景祐二年に卒去、太尉・平陽郡王を贈られ、諡は懿恭。子十三人、宗禮・宗旦・宗悌・宗惠が知られる。
宗禮
宗禮はかつて太清楼の侍宴に侍り、仁宗が詩を賦し、唱和を命じられ、苑中で侍射し、さらに詩を献じた。ついに虔州觀察使・成國公に至り、安遠軍節度使・同中書門下平章事・韓國公を贈られた。子に仲翹・仲髦あり。
宗旦
宗旦、字は子文、七歳にして成人の如く、選ばれて仁宗の伴読となる。帝即位の後、超選を得るも、衆の誹謗を受け、上書して状を言う。帝曰く「宗旦は朕の幼学に陪し、勤労最も多し、これは朕の意に出づるもの、豈に常格を以て訴うべきや」と。生母死し、別に葬域を択び、歳時に奠祀することを請う、後に遂に法として著わされる。治平年中、同知大宗正事。神宗即位、崇信軍節度使・同中書門下平章事を拝し、大宗正となり、方団金帯を賜い、朝会に非ざれば肩輿に乗ずることを得たり。元豊三年、華陰郡王に封ぜられ、開府儀同三司を加えられる。属籍を長ずること十六年、宗子に過ちあれば、優游として誨導し、一善必ず以て聞こゆ。異時に朝請に赴く者は、率ね私丁を以て侍給す、宗旦建請して、始めて官給に従うことを得たり。薨じ、太尉・滕王を贈られ、謚して恭孝と曰い、旌旗節印綬の葬に従うことを聴す。
宗悌
宗悌、字は元発、財を軽んじ施すを好む。故相王氏の子、父の服したる帯を持ちて質銭を求む、宗悌惻然として曰く「宰相の子も亦ここに至るか」と。帯を帰し而して之に銭を与う。親しむ者、詐りて蔵鏹を取るを用い、其の状を得たり、曰く「吾れ小故を以て骨肉の恩を傷つけず」と。竟に問わず。生母早世し、宗悌識らず、父の婢の平生を語るを聞き、輒ち泣きを掩う。継いで其の肖貌を得、絵して之を奉ずること生けるが如し。終に明州観察使、保寧軍節度使・同中書門下平章事・東陽郡王を贈られ、謚して孝憲と曰う。
宗惠
宗惠、魏国公に封ぜられ、尋いで旁支を以て黜せらる。終に武昌軍節度観察留後・江夏郡王、郯王を贈らる。
允言
允言、累官して左屯衛将軍に至る。嘗て疾を託して朝せず、太子左衛率府率に降り、歳中に官を復し、又侍婢を笞くに坐し、而して兄允升これを勧め止む、悖慢礼無く、副率に貶せられ、朝謁を絶ち、之を別第に出だす。汾陰を祀る恩を以て、率府率を復し、宮に還る。久しくして、復た朝謁し、左監門衛大将軍・黄州刺史を歴る。天聖七年卒し、明州観察使・奉化侯を贈らる。明道二年、安遠軍節度使を贈られ、密国公を追封す。子宗説・宗立の事並びに上に見ゆ。宗育、終に右屯衛将軍、潁州防禦使・汝陰侯を贈らる。
允成
允成、終に右神武将軍・濮州防禦使、安化軍節度使・郇国公を贈らる。明道二年、鎮江軍節度使兼侍中を加贈す。子宗顔・宗訥・宗鼎・宗厳・宗魯・宗儒・宗奭、皆環衛・刺史となる。
昭成太子元僖
昭成太子元僖、初名は徳明。太平興国七年出閤し、検校太保・同平章事を授けられ、広平郡王に封ぜられ、兄衞王徳崇と同日に封を受く。八年、陳王に進封し、名を元佑と改む。詔して自今宰相の班は宜しく親王の上に在るべしとす、宰相宋琪・李昉旧制に遵うことを請うも、允さず。宋琪等久しく懇請す、上曰く「宰相の任、実に百揆を総べ、羣司と礼絶す、藩邸の設けは、止だ朝請を奉ずるのみ。元佐等尚幼し、其の謙損の道を知らしめんと欲す、卿等固く譲ること無かれ」と。
雍熙二年、元佐疾に罹るを以て、元僖を開封尹兼侍中とし、今の名に改め、許王に進封し、中書令を加う。上為に隰州団練使李謙溥の女を娶りて夫人と為す、因りて宰相に謂いて曰く「朕嘗て諸子に語る、今姻偶皆将相大臣の家、六礼具備す、自ら重んぜざるを得んや」と。淳化元年、宰相呂蒙正復た上言し、諸王の下に班することを乞うも、詔して允さず。三年十一月己亥、元僖早く入朝し、方に殿廬中に坐すに、体中の佳からざるを覚え、径ちに府に帰る。車駕遽かに臨視す、疾已に亟し、上之を呼べば猶能く応う、少頃遂に薨ず。上之を哭すること慟く、朝を廃すること五日、皇太子を贈り、謚して恭孝と曰う。
元僖姿貌雄毅、沈静寡言、京を尹すること五年、政事失うこと無し。薨ずるに及び、上追念して已まず、悲泣して旦に達し寐ず、思亡子の詩を作りて近臣に示す。
未だ幾ばくもあらざるに、人有りて元僖が嬖妾張氏に惑わされ、張頗る専恣にして、婢僕を捶つこと死に至る者有り、而して元僖知らず。張又都城西の仏寺に於いて其の父母の為に招魂葬し、僭差踰制す。上怒り、昭宣使王継恩を遣わして験問せしむ、張縊死す。左右の親吏悉く杖を決し停免せられ、張氏の父母の塚墓を毀ち、親属皆配流す。開封府判官・右諫議大夫呂端、推官・職方員外郎陳載、並びに裨贊に失あるに坐し、端は衛尉少卿に黜せられ、載は殿中侍御史と為る。許王府諮議・工部郎中趙令図、侍講・庫部員外郎閻象、並びに輔道に状無きに坐し、両任を削り免ぜらる。詔して冊礼を停め、一品の鹵簿を以て葬る。真宗即位、始めて中外に太子の号を称することを詔す。乾興初、謚を改む。子無し、仁宗の時、詔して允成の子宗保を以て昭成太子の後に出だして孫と為す。
宗保は二歳の時、母が抱いて章獻后に拝謁させたところ、后は留めて側に置いた。宗保が七歳になると、左侍禁を授けられ、帝自らその頭に巾を着けた。久しくして本宮に帰り、詔により朔望に禁省への出入りを許された。累官して代州防禦使となり、燕国公の封を襲封した。性質は仁恕で、主蔵吏が米を千斛盗んでも、赦して問わなかった。嘗て「忍」の字を座右に書いて戒めとした。熙寧七年に卒去した。神宗が臨奠し、その子仲鞠が泣いて言うには、「先臣は幼くして宮中で養われ、終身自ら語りませんでした」と。帝は感悼し、遂に優贈して静難軍節度使・新平郡王とし、諡して恭静とした。仲鞠もまた好学で詩を能くし、親に事え居喪するに孝をもって聞こえた。
宗保が卒去すると、子の仲恕が嗣ぎ、官は忠州団練使に至り、諡して純僖とした。子の士盉が嗣いだ。
商王元份
商恭靖王元份は、初名を德嚴といった。太平興国八年に出閣し、名を元俊と改め、同平章事を拝し、冀王に封ぜられた。雍熙三年、今の名に改め、兼侍中・威武軍節度使を加えられ、越王に進封された。淳化年中、建寧軍を兼領し、鎮寧海・鎮東に改鎮した。真宗が即位すると、中書令を加えられ、鎮を永興・鳳翔に移し、雍王に改封された。永熙陵の復土に際し、山陵使となり、太傅を拝した。真宗の北征に際しては、東京留守となった。三十七歳で薨去し、太師・尚書令・鄆王を追贈された。後に陳王に改め、また潤王に改められた。治平年中、魯王に封ぜられた。
元份は寛厚で、言動は礼に中り、風采は立派であった。崇儀使李漢斌の女を娶った。李は悍妬惨酷で、宮中の女婢が少しでも意に沿わぬことがあれば、必ず鞭杖を加え、或いは死に至らしめた。上(皇帝)が恩賜を与える度に、詔令で均しく給するよう命じたが、李は全て取り上げた。元份が臥病した時、上は親しく見舞い、左右に侍者がいないのを見て、宮人を留めて湯薬の世話をさせた。初め、太宗が崩御した時、戚里の者は皆禁中に赴き、朝夕の臨哭に参じたが、李は多く病気と称して来なかった。元份の誕生日には、李が衣服器用を寿ぎとして贈ったが、皆龍鳳で飾られていた。元份の喪に服する間、悲しむ様子がなく、かえって上を謗る言葉があった。上はその行いを全て知っていたが、元份の故をもって優しく容赦していた。この時になって、またその罪状を顕わに究めようとはせず、ただ国封を削り、別の所に置いた。元份の子は三人:長子は允寧、次は允懷(後に允中と改め、早世)、次はすなわち濮王允讓である。
允讓が薨じると、允寧の子宗諤をして虢国公を襲封させた。熙寧三年に至り、宗肅をして魯国公を嗣封させた。宗肅もまた允寧の子である。子の仲先が嗣いだ。徽宗が即位し、魯王を商王に改封し、詔して曰く、「宗室諸王が大国を追封されているのに、その世襲する子孫が尚旧国のままであるのは、甚だ正名の意に称わない。例えば魯王が商王に改封されたのに、その子が尚魯国を襲封する類いである。大宗正司に改正させよ」と。制して寧遠軍節度使・魯国公仲先を商国公に改封させた。
允寧は字を德之といい、性質は至孝で、父の病に感じて恍惚として常を失った。後に学を嗜み、特に唐史を読むことを喜び、近朝の典故に通暁し、虞世南の楷法を能くし、真宗は詩を賜って激賞した。また射を善くし、嘗て後苑で侍射し、屡的に中て、金帯器幣を賜った。初め右千牛衞將軍を授かり、四遷して右武衞將軍となり、唐州団練使・潁州防禦使・同州觀察使を歴任し、彰信軍節度觀察留後・武定軍節度使に進んだ。景祐元年に卒去し、太尉・信安郡王を追贈され、諡して僖簡といった。子に宗諤・宗敏・宗孟・宗肅がいる。
宗諤は虢国公に封ぜられ、官は累進して集慶軍節度使・同中書門下平章事となり、豫章郡王に進封された。外使相に比して給俸を乞うたが、仁宗は侍中を兼ねていないとして、主吏に詰問させた。宗諤が上章して自ら陳べると、御史張商英がその招権立威等の罪を弾劾し、平章事を落とされた(宗諤が平章事を落とされたのは神宗熙寧元年である。琬琰集巻一六張少保商英傳によれば、張商英が熙寧五年に監察御史裏行に任じられたので、ここに記す経緯は疑わしい)。英宗が即位すると、奪われたものを還された。元豊五年に薨じ、太尉・韓王を追贈された。太常が諡を榮孝と擬したが、上(皇帝)が省集議でこれを駁し、榮恭に改めさせた。僕射王珪がまたこれを駁したので、遂に諡を榮思とした。
宗肅は魯国公に封ぜられた。兄の宗諤が嘗て宝器を亡くし、宗肅の家人の子が盗んだと思い込んだ。宗肅は「我が廉潔さが、兄弟をしてこのように信じさせないのか」と言い、直ちにその価を償った。宗諤は恥じて受け取らず、乃ちそれを僧に施した。久しくして器が見つかったが、宗肅は再び言わなかった。元豊五年、安化軍留後の任で終わり、嘗て英宗に従って慶寧に入った功により、優贈して鎮海軍節度使・開府儀同三司・北海郡王とされた。
宗敏は終官右千牛衞大將軍・文州刺史となり、越州觀察使・會稽侯を追贈された。頗る書傳に渉猟した。郊祀の恩典に縁り、生母范氏の封を建請し、宗室の子が生母の封を得るのは、宗敏から始まった。
越王元傑
越文惠王元傑は字を明哲といい、初名は德和といった。太平興国八年に出閣し、名を改めた。檢校太保・同平章事を授けられ、益王に封ぜられた。端拱初年、兼侍中・成都尹・劍南東西川節度使を加えられた。淳化年中、吳王に徙封され、揚潤大都督府長史・淮南鎮江軍節度使を領した。至道二年、揚州大都督・淮南忠正軍節度使に改められた。真宗が即位すると、檢校太尉兼中書令・徐州大都督・武寧泰寧等軍節度使を授けられ、兗王に改封された。咸平年中、再び郊祀が行われ、終献を務め、守太保を加えられた。六年七月に急逝し、三十二歳であった。
元傑は穎悟好学で、詞を属することを善くし、草書・隷書・飛白に巧みであり、楼を建てて二万巻の書を貯え、及び亭榭遊息の所とした。嘗て假山を作り、完成すると酒を置き僚属を召して観させた。翊善の姚坦だけが俯首して見ようとしなかった。元傑が強いるので、坦は言うには、「坦には血の山が見えます。どうして假山などありましょう」と。言うには、州県が微民を鞭撻して租税を取り立てる、假山は実にその租税で作られたものだ、と。語りは姚坦傳に見える。
薨去すると、真宗はこれを聞いて震悼し、朝を待たず、歩いて中禁門に至り、乃ち輦に乗って臨視し、哀しみは左右を動かし、五日間朝政を停めた。太尉・尚書令を追贈し、安王を追封し、諡して文惠とした。後に邢王に改め、また陳王に改められた。子がなかった。仁宗は恭憲王の孫で、允言の子である宗望を後嗣とした。
宗望
宗望は字を子國といい、右武衞大將軍・舒州防禦使を終え、安化軍節度使觀察留後・高密郡公を追贈された。仁宗は嘗て延和殿に臨み宗子の書を試み、宗望を第一とした。また常に自らの文を献じ、国子監の書を賜わり、また塗金紋羅に御書「好學樂善」の四字を賜うた。即ち居所に御書閣を建て、帝はその榜額を題した。
仲郃
子の仲郃が嗣いだ。熙寧三年、商恭靖王の孫宗肅らと同日に陳國公に封ぜられた。官は陳州觀察使に至った。卒し、謚して良僖といった。
士關
子の士關が嗣いだ。父が卒すると、徒歩で喪を護り数百里を行き、路人は嘆き哀しんだ。卒し、陳州觀察使を追贈された。徽宗が即位し、陳王を越王に改封した。
鎮王元偓
鎮恭懿王元偓は字を希道という。端拱元年に出閤し、檢校太保・左衞上將軍を授けられ、徐國公に封ぜられた。至道二年、洪州都督・鎮南軍節度使に拝された。真宗が即位し、同平章事を加えられ、彭城郡王に封ぜられた。まもなく檢校太傅を加えられ、鎮静難・彰化に改め、寧王に進封された。郊祀・東封には、悉く亞獻を務め、礼が成ると、檢校太尉兼侍中・護國鎮國等軍節度を授けられた。
三年、文武官が闕に詣で后土祠祀を請うと、元偓は節帥を領することから亦奏章を以て請い、詔してこれを許された。行将に際し、河・華管內橋道頓遞使に命ぜられた。明年、車駕が境に入ると、元偓は方物・酒餼・金帛・茗薬を貢として奏し、儀物は甚だ盛んであった。河中に至り、判府陳堯叟と分かれて乗輿を導き蒲津橋を渡った。上は鄈丘亭に登り、元偓を目して曰く、「橋道頓置は厳謹なり、爾が力なり」と。元偓は頓首して謝した。還ると、中書令を加えられ、成德・安國等軍節度を領し、相王に改封された。五年、守太傅を加えられた。
真宗は即位以来、屡に学術を以て宗子を勗めた。元偓は藩戚の首に冠り、益々自ら修励し、上は毎に篇什を製するに、必ず和することを令した。一日、宰相に謂いて曰く、「朕は毎に宗子に詩を作り射を習うことを戒むるに、聞くに頗る精習すと、将に臨観せんとす」と。因って元偓の邸第に幸し、従官を宴し、宮僚悉く会し、七言詩を賦した。元偓は觴を奉じて上寿し、襲衣・金帯・器幣・緡錢を賜わり、又宗室と西南亭に射た。日晡に、従官退き、上独り中官を従え、元偁・元儼の宮に幸し、復た元偓の宮に宴し、家人の礼の如くし、夜二鼓にして罷んだ。六年、太尉に進位した。
八年七月、栄王宮の火災により、元偓の宮を景龍門外に徙し、車駕臨幸した。是の冬、尚書令を兼ねて加えられた。天禧元年二月、成德・鎮寧の二鎮に換え、徐王に進封された。二年春、宮邸に遺燼あり、数区の舎を燔き、元偓は驚悸し、暴に中風眩を病み薨じ、年四十二。帝は臨哭し、五日間朝を廃し、太師・尚書令・鄧王を追贈し、謚して恭懿を賜うた。
元偓は姿表偉異にして、厚重寡言、音律に通暁した。後に密王に改封され、又蘇王に改封された。治平中、韓王を追封された。
允弼
子の允弼は、八歳で禁中に召し入れられ、皇子に拝せしめられたが、允弼は敢えて当たらなかった。御楼に臨み酺を観るに、皇子と並坐することを得た。皇子が即位し、是れ仁宗である。允弼は累遷して武寧軍節度使兼侍中となり、大宗正事を判じ、北海郡王に封ぜられた。英宗の時、中書令に拝され、東平王に徙封された。神宗が即位し、太保・鳳翔雄武軍節度使に拝され、朔望に朝した。熙寧二年、母の憂に服し、悲痛にして喪に勝えず、固より起復を辞した。母の葬る日有りて允弼病篤く、諸子を顧みて大事を終うるを得ざるを恨みとした。薨じ、帝は臨哭して慟し、三日間朝を輟み、太師・尚書令兼中書令を追贈し、相王を追封し、謚して孝定といった。
允弼は性質端重にして、時に然る後に言った。諸宮が学官員を増すと、允弼は既に貴かったが、猶日々講席に至り、伴読官を延いて孟子一節を読ませた。宗正を領すること三十年、濮安懿王と共事し、相友愛し、宗属に推敬された。
宗繢
子の宗繢は、祖の恭懿王の封を襲い韓國公となった。卒し、南康郡王を贈られ、諡は良孝。
宗景
宗繢の弟宗景は、相州觀察使として同知大宗正事となった。神宗はその父允弼が宗司に長く在ったゆえ、再び選んで用いた。宗景は母に孝事し、喪に服すること耐えがたきが如くであった。居宅が火に包まれた時、急いで家廟に赴き、他のことは顧みず、火もまた害をなさなかった。元祐年中、累遷して彰德軍節度・開府儀同三司・檢校司空となり、濟陰郡王に封ぜられた。宗景は夫人を喪い、妾を継室とせんとして、先ずこれを外に出し、良家の女と偽って納れた。これにより開府を奪われたが、後にこれを還された。紹聖四年に薨じ、年六十六、太師・循王を贈られ、諡は思。
宗繢
仲嗣
宗繢が既に卒すると、子の仲嗣は、平川節度使より劍南西川に移った。徽宗は韓王を改めて鎮王に封じた。
楚王元偁
楚恭惠王元偁、字は令聞、七歳にして檢校太保・右衞上將軍・涇國公を授かる。久しくして、鄂州都督・武昌軍節度使を領す。真宗即位の際、同平章事・安定郡王を加えられ、進んで檢校太傅となる。景德二年、郊祀に際し、宣德・保寧の両鎮に遷り、進んで舒王に封ぜられる。大中祥符初年、泰山封禅に際し、檢校太尉兼侍中を加えられ、平江・鎮江軍に移る。汾陰に従祀し、兼中書令を加えられ、鎮南・寧國軍節度使に改まる。五年、太保を拝す。景德以後、毎に大事あるごとに、皆終献を務めた。
元偁は体質元来病弱多く、上(真宗)が真源に行幸の時、既に病を患い、懇願して扈従を求めた。鹿邑に至り病篤く、肩輿にて先に帰った。車駕還御の後、数度見舞われた。七年、薨じ、年三十四。朝を五日間廃し、太尉・尚書令を贈り、曹王を追封し、諡は恭惠。後に華王・蔡王に改封される。文集三巻・筆札一巻あり、上(真宗)が序を製し、秘閣に蔵した。子の允則は、官は右千牛衞大將軍に至り卒す。
先んずるに、諸王子の官を授けるは、即ち諸衛將軍とし、その余は父の官及び族属の親疏により差等を付けた。天禧元年、宗正卿趙安仁に議して定制とせしむ。安仁は、宣祖・太祖・太宗の孫は初廕にて將軍を授け、曾孫は右侍禁を授け、玄孫は右班殿直を授け、内に父の爵高き者は高き廕に従うを聴し、その事特旨に縁る者は例とせざるを請う。詔して中書・門下・樞密院に参定して行わしむ。
允則に子なく、平陽懿恭王の子宗達を後とした。熙寧三年、蔡國公の封を襲ぐ。隣家の失火に乗じ、盗人が奸を為し、宗達の服する帯を窃む。既にこれを得て、且つその主の名を知るも、宥して問わず。井を浚い鏹(銭貨)を得るも、復たこれを投ず。官は累遷して武信軍留後となる。薨じ、安化軍節度使・開府儀同三司・高密郡王を贈られる。子の仲約が嗣ぐ。徽宗即位の際、蔡王を改めて楚王に封ず。
周王元儼
周恭肅王元儼は、幼少より奇穎で、太宗は特にこれを愛した。毎に朝会宴集すれば、多く左右に侍した。帝は元儼の早く宮を出るを欲せず、年二十をもって封に就くを期した。故に宮中では「二十八太保」と称した。蓋し元儼は兄弟中第八位に在ったからである。
真宗即位の際、檢校太保・左衞上將軍を授かり、曹國公に封ぜられる。明年、平海軍節度使となり、同中書門下平章事を拝し、檢校太傅を加えられ、廣陵郡王に封ぜられる。泰山封禅に際し、昭武・安德軍節度使に改まり、進んで榮王に封ぜられる。汾陰祭祀に際し、兼侍中を加えられ、鎮安静・武信に改まり、檢校太尉を加えられる。太清宮祠祭に際し、兼中書令を加えられる。侍婢の放火に坐し、禁中に延焼したため、武信節度使を奪われ、端王に降封され、故駙馬都尉石保吉の第に出居す。毎に帝に謁するごとに、痛く自ら過ちを引き、帝はこれを憫れみ憐れんだ。尋ねて鎮海・安化軍節度使を加えられ、彭王に封ぜられ、進んで太保となる。仁宗が皇子となるに及び、太傅を加えられる。横海・永清・保平・定國節度使・陝州大都督を歴任し、通王・涇王に改まる。仁宗即位の際、太尉・尚書令兼中書令を拝し、鎮安・忠武に節鎮を移し、定王に封ぜられ、贊拜不名を賜い、また詔書不名を賜う。天聖七年、鎮王に封ぜられ、また劍履上殿を賜う。明道初年、太師を拝し、河陽三城・武成節度使に換えられ、孟王に封ぜられ、永興鳳翔・京兆尹に改まり、荊王に封ぜられ、雍州・鳳翔牧に遷る。景祐二年、宗室を大封拝するに際し、荊南・淮南節度大使・行荊州・揚州牧を授かり、仍って入朝不趨を賜う。
元儼は広い額と豊かな頤を持ち、厳毅にして犯しがたく、天下これを崇め憚り、その名は外夷に聞こえた。母の王德妃に孝事し、妃が病むごとに、自ら薬を侍り、朝夕に身を清め香を焚きて祈り、憂慮して食を絶つに至った。母の喪には、哀戚人に過ぎた。平生嗜慾寡く、ただ書を集めるを喜び、文詞を好み、頗る二王(王羲之・王献之)の書法に善く、飛白体に巧みであった。
仁宗が即位すると、章獻皇后が朝政を臨み、自らは尊属で声望が高いことを以て、太后に忌まれることを恐れ、深く自ら沈潜晦匿した。そこで門を閉ざして人事を断ち、故意に狂言を吐いて狂気を装い、もはや朝謁に預からなかった。太后が崩御し、仁宗が親政すると、ますます尊寵を加えられ、凡そ請うところは必ず報可され、必ず手書の謝牘を奉った。ちょうど陝西で用兵があった時、上に給せられた公用銭年五十万を以て辺境の費用を助けようとし、帝は拒むことを欲せず、その半額を納れることを聴された。嘗て翊善王渙に問うて曰く、「元昊は平定されたか」と。対えて曰く、「未だなり」と。曰く、「かくの如くならば、宰相を用いて何を為すのか」と。聞く者はその言を畏れた。
慶暦三年の冬、大雨雪が降り、大氷が張り、陳・楚の地は特に甚だしかった。占者は曰く、「憂いは大臣に在り」と。既にして元儼は病甚だ篤し。上は憂いの色を形に現し、親しく臥内に至り、手ずから薬を調え、人を屏いて久しく語り、対する所多く忠言であった。白金五千両を賜うたが、固く辞して受けず、曰く、「臣は羸憊して将に死せんとし、家国を重く費やさんとす」と。帝は為に嗟泣した。明年正月に薨じ、天策上將軍・徐兗二州牧・燕王を贈られ、諡して恭肅と曰う。葬に臨む比、三たびその喪に臨まれた。詔して元儼の墨跡及び為す所の詩を以て宰臣に分賜し、余りは秘閣に蔵せしめた。
子十三人:允熙、允良、允迪、允初、余は皆早く卒した。熙寧年中、允良の子宗絳を以て嗣ぎ封じて吳國公と為す。徽宗、吳王を改封して周王と為す。
允熙
允熙は終に右監門衞將軍・滁州刺史に至り、博州防禦使・博平侯を贈られた。
允良
允良は五つの節度使を歴任し、寧海・平江の両軍を領し、華原郡王に封ぜられ、襄陽に改封され、同中書門下平章事・兼侍中より、太保・中書令に至った。酣寝を好み、日を以て夜と為し、これにより一宮の人皆昼睡し夕興えた。薨じ、定王を贈られ、有司はその晦明を反易するを以て、諡して榮易と曰う。
允迪
允迪は累官して耀州觀察使に至る。父の喪に居りて哀しまず、又嘗て宮中にて優戲を為し、妻の昭國夫人錢氏に告げられる。制して右監門衞大將軍に降し、朝謁を絶ち、錢氏も亦度せられて洞真道士と為る。
允初
允初は、初め名は允宗と曰い、朝會に勤め、風雨と雖も廃さず。未だ嘗て財物の厚薄を問わず、唯仏書を誦し、人以て慧ならずと為す。累遷して寧國軍節度使・同中書門下平章事に至る。治平元年に卒し、中書令・博平郡王を贈られる。子無し。英宗、奠に臨み、允初の後事をその兄允良に属し、乃ち允成の孫仲連を以てその後と為す。
崇王元億
崇王元億は、早く亡くなり、名を追賜され、代國公に封ぜられる。治平年中、安定郡王に封ぜられる。徽宗即位し、加封して崇王と為す。
真宗
真宗六子:長は溫王禔、次は悼獻太子祐、次は昌王祗、次は信王祉、次は欽王祈、次は仁宗。禔・祗・祈は皆早く亡くなり、徽宗名を賜い追封す。
悼獻太子祐
悼獻太子祐は、母を章穆皇后という。咸平初年、信國公に封ぜられる。生後九年にして薨じ、周王を追封され、諡して悼獻と賜う。仁宗即位のとき、太尉・中書令を贈られる。明道二年、皇太子を追冊す。
仁宗
濮王允譲
仁宗に三子あり。長は楊王昉、次は雍王昕、次は荊王曦、皆早く亡ぶ。徽宗の時、改めて封ぜらる。
濮安懿王允譲は字を益之と云い、商王元份の子なり。天資渾厚にして、外は荘重、内は寛大、喜慍色に見えず。初め右千牛衛将軍となる。周王祐の薨ずるや、真宗は緑車旄節をもって禁中に迎え養う。仁宗生誕のとき、簫韶部の楽を用いて邸に送還す。官は衞州刺史。仁宗即位のとき、汝州防禦使を授けられ、累ねて寧江軍節度使に拝す。上、睦親宅を建つるや、大宗正寺を知ることを命ぜらる。宗子に好學の者あれば、善を以て勉め進め、もし教えに率わざれば、これを戒め、ついに變ぜざるに至りて始めてその罪を正す。故に人畏服せざるは莫し。慶曆四年、汝南郡王に封ぜられ、同平章事を拝し、改めて大宗正司を判ず。嘉祐四年に薨ず。年六十五。太尉・中書令を贈られ、濮王を追封され、諡して安懿と曰う。仁宗在位久しくして子無く、乃ち王の第十三子宗實を以て皇子となす。仁宗崩ずるや、皇子即位す。是れ英宗なり。
治平元年、宰相韓琦等奏す。請う、有司をして濮安懿王及び譙國夫人王氏・襄國夫人韓氏・仙遊縣君任氏の合行すべき典禮を議せしむべしと。詔して大祥の後にこれを議するを須う。
二年、乃ち詔して禮官と待制以上の者に議せしむ。翰林學士王珪等奏して曰く、謹んで儀禮喪服を按ずるに、「人たる後と為る者」の傳に曰く、「何を以て三年なるや?重きを受くる者は必ず尊服を以て之に服す。」「後と為る所の者の祖父母・妻、妻の父母・昆弟、昆弟の子、子の若くす。」と。皆親子の如くなるを謂うなり。又「人たる後と為る者其の父母の為に」の傳に曰く、「何を以て期なるや?二斬せず、重きを大宗に持ちて、其の小宗を降すなり。」「人たる後と為る者其の昆弟の為に」の傳に曰く、「何を以て大功なるや?人たる後と為る者は其の昆弟を降すなり。」と。
先王禮を制するに、尊ぶに二上の無きを以てす。若し恭愛の心彼に分かれれば、則ち此に専らにすること得ざるが故なり。是れを以て秦・漢以来、帝王に旁支より入りて大統を承くる者あり。或いは其の父母を推尊して帝后と為すも、皆當時に見非され、後世に議を取る。臣等敢えて以て聖朝の法と為すに引かず。況んや前代入繼の者は、多く宮車晏駕の後、援立の策或いは臣下より出づ。仁宗皇帝の如く年齡未だ衰えず、深く宗廟の重きを惟い、祗ちに天地の意を承け、宗室衆多の中より簡び推して聖明を、大業に授くるに非ざるなり。陛下親しく先帝の子と為り、然る後に體を繼ぎ祧を承け、天下を光有す。
濮安懿王は陛下に於いて天性の親、顧復の恩有りと雖も、然れども陛下の負扆端冕し、四海を富有し、子子孫孫萬世相承する所以は、皆先帝の德なり。臣等竊かに以為う、濮王は宜しく先朝の期親尊屬を封贈する故事に準じ、高官大國を以て尊び、譙國・襄國・仙遊を並びに太夫人に封ずるは、古今に攷うるに宜稱たるを為すと。
ここにおいて中書奏す。王珪等の議する所、未だ濮王の何の親と稱すべきか、名づくると名づけざるとを詳定せざるを見ず。珪等議す。「濮安は仁宗に於いて兄なり。皇帝に於いて宜しく皇伯と稱して名づけず、楚王・涇王の故事の如くすべし。」と。
中書又た奏す。「禮と令及び五服年月の敕に出繼の子は繼ぐ所・生む所に皆父母と稱す。又漢の宣帝・光武皆父を皇考と稱す。今珪等の議は濮王を皇伯と稱すと云う。典禮に明據未だ有らず。請う、尚書省を下し、三省・御史臺を集めて議奏せしむべし。」と。
議するに方りて皇太后手詔を以て執政を詰責す。ここにおいて詔して曰く、「聞くに集議一ならずと。權宜に議を罷め、有司をして典故を博く求め以て聞かしむ。」と。禮官范鎮等又た奏す。「漢の皇考と稱し、帝と稱し、皇と稱し、寢廟を立て、昭穆を序するは、皆陛下の聖明の法とすべきに非ず。宜しく前議の如くするを便とす。」と。是より御史呂誨等彈奏して歐陽脩の首めて邪議を建て、韓琦・曾公亮・趙槩の不正に附會する罪を、固く王珪等の議の如くするを請う。
既にして内より皇太后の手詔出でて曰く、「吾羣臣の議請う、皇帝濮安懿王を封崇せんと。今に至るまで施行を見ず。吾前史を載せて閱するに、乃ち自ら故事有るを知る。濮安懿王・譙國夫人王氏・襄國夫人韓氏・仙遊縣君任氏は、可らく皇帝をして親と稱せしめ、濮安懿王を皇と稱し、王氏・韓氏・任氏を並びに后と稱すべし。」と。
事方に施行せんとし、而して英宗即日手詔して曰く、「親と稱するの禮は、謹んで慈訓に遵う。追崇の典は、豈に克く當たり易からんや。且つ塋を以て園と為し、即ち園に廟を立て、王子孫をして祠事を主奉せしめんと欲す。」と。
翌日、呂誨らは論列して弾奏したが聴用されず、御史の勅告を納めて家に居り罪を待つ。誨らの列挙したところは、おおむね前詔に『権めて集議を罷む』と称し、後詔にはまた『且つ塋を以て園と為さんと欲す』と称したのは、即ち追崇の意未だ已まざるを以てと為す。英宗は閤門に命じて告を以て之を還す。誨らは力を尽くして臺職を辞す。誨ら既に出で、而して濮議も亦寝む。神宗の元豊二年に至り、詔して濮安懿王の三夫人を以て並びに王夫人と称すべしと云う。
宗懿
王二十八子。長は宗懿、英宗の時に宿州団練使と為り、和国公に封ぜらる。神宗は宗懿を濮安懿王の元子と為し、舒王を追封す。
仲鸞
子仲鸞、常州防禦使。父薨ず、諸子皆官を進む、独り受くるを忍ばず。翰墨を喜び、施与を楽しみ、九族賢と称す。卒し、武康軍節度使・洋国公を贈られ、謚して良と曰う。
仲汾
仲鸞の弟仲汾、幼より書史を喜び、一読して誦す。父喪に居り、毀瘠に隣る。官に卒す萊州防禦使、昭化軍節度使・栄国公を贈らる。
宗樸
次は宗樸、隴州防禦使と為り、岐国公に封ぜらる。宗樸は英宗と友愛す。初め、詔して英宗をして慶寧宮に入居せしむ、固く辞す、宗樸近属を率いて敦め勧め、乃ち入る。治平中、濮王の園廟を建つ、宗樸遂に彰徳軍節度使を拝し、濮国公に封ぜられ、王後を奉ず。神宗即位し、同平章事兼侍中を加えられ、濮陽郡王に進封せらる。薨じ、太師・中書令を贈られ、定王を追封し、謚して僖穆と曰う。子仲佺、父歿し、数日食らわず。母葬の時、天大雪、泥中を歩み扶翼し、道路歎惻す。潤州観察使を以て卒し、開府儀同三司を贈らる。
宗樸既に薨じ、宗誨襲封す。官は昭化軍節度使・同中書門下平章事に至る。薨じ、太師・中書令・広陵郡王を贈られ、謚して荘孝と曰う。
宗暉
宗暉、元豊中、淮康軍節度使を以て濮国公を襲ぐ。安懿王及び三夫人改祔す、命じて誌を為し並びに神主を題せしめ、同中書門下平章事・開府儀同三司を加えられ、嗣濮王に進む。哲宗立ち、鎮南節度使・検校司徒に改む。紹聖元年薨じ、年六十七、太師を贈られ、懐王を追封し、謚して栄穆と曰う。
仲璲
子仲璲。是に先立ち、濮国嗣王は四孟に洛に詣で園廟を享け、河南府県官を以て亜献・終献に充つ。宗暉の封を襲ぐや、神宗始めて其の子を以て之を為さしめ、仲璲遂に終献を以て祠に侍し、凡そ十余年。父喪し、哀痛勝えず、纔に服除けて而して卒す。官は右監門衛大将軍・合州刺史。
宗晟
宗晟は、紹聖元年六月、武安軍節度使・判大宗正事として、検校司徒を加えられ、濮王を嗣いだ。翌年三月に薨去、六十五歳、太師・昌王を追贈され、諡は端孝。宗晟は古学を好み、数万巻の蔵書を有し、仁宗はこれを嘉して国子監の書を加賜した。治平年間、郊祀を行おうとして雨が降り、ある者は祫享に改めるよう議したが、英宗が宗晟に諮ると、対して曰く「陛下が初めて郊祀を行い上帝に謁するは、盛礼なり。どうして改めて卜すべきか。至誠が神を感ずるは、陛下の精意に在るのみ」と。帝は嘉納した。郊祀の時、雨は晴れた。帝は数度病に罹り、宗晟は密かに早く儲貳を立てて天下の望みを繋ぐよう請い、世はその忠を称えた。
宗愈
宗晟の薨去に際し、哲宗紹聖二年四月、宗愈は鎮安節度使・開府儀同三司・検校司徒として封を嗣いだ。故事により嗣王は四時に祠所に詣でるが、宗愈はちょうど病中であり、或る者は暑中に行くべからずと言ったが、曰く「吾が身は祭祀を主とし、往かざるは礼に非ず」と。強いて輿に乗せて行かせ、病は遂に重くなった。この年八月に薨去、六十五歳、太師を追贈され、襄王を追封、諡は恭憲。
宗綽
宗綽が嗣ぎ、官は河陽三城節度使・検校司徒に至る。紹聖三年二月に薨去、六十二歳、太師を追贈され、栄王を追封、諡は孝靖。
宗楚
宗楚は、累次拝して武勝軍節度使・開府儀同三司となり、南陽郡王に封ぜられた。紹聖三年三月、検校司徒として武昌節度使に改め、濮王を嗣いだ。爵を嗣いだ後、園廟に詣でて薦献すべきところ、病に罹り、弟の宗漢に代行させ、歎いて曰く「自ら籩豆を奉じて我先王に饗えず、浮食して厚禄に安んずる、安からずや」と。爵を弟に授けるよう請うたが、許されなかった。四年六月に薨去、太師・恵王を追贈され、諡は僖節。
宗祐
宗祐は己を克し自ら約し、蕭然として寒士の若く、読書を好み、特に易学を喜んだ。嘉祐年間、従父の允初が嗣子を立てず、皆その賢を推し、詔して宗祐を後とせんとしたが、泣いて曰く「臣不幸にして幼くして父母を失い、終身悲慕せんとす。どうして人の後たるを忍びようか、敢えて死を以て請う」と。仁宗は憐れんでこれに従った。累次遷って清海軍節度使・開府儀同三司となり、乗城郡王に封ぜられた。紹聖四年八月、検校司徒を加えられ、濮王を嗣いだ。時に既に病んでおり、園廟に祠るべきであったが、病を移すことを肯ぜず、秋より冬にわたり連続して往き来した。元符元年春、また急ぎ往き、遂に祠の下にて薨去した。太師を追贈され、欽王を追封、諡は穆恪。
宗漢
宗漢は、英宗の幼弟なり。累次拝して保寧軍留後・鄴国公・東陽安康郡王となる。元符初め、彰徳軍節度使・開府儀同三司・検校司空として濮王を嗣いだ。徽宗即位後、寧江・保平・泰寧の三鎮に移り、判大宗正事とし、検校司徒・太保・太尉を加えられた。帝が濮邸に幸すると、その子孫の官を進めた。時に安懿王の諸子の中で宗漢のみが存命であり、恩礼は隆く厚かった。大観三年八月に薨去、太師を追贈され、景王を追封、諡は孝簡。宗漢は画を善くし、嘗て八鴈図を作り、人はその巧みを称えた。仲増が嗣いだ。
仲増
仲増は、濮王の孫にして、属中において長である故に封ぜられた。官は彰徳軍節度使・開府儀同三司に至る。政和五年九月に薨去、少師を追贈され、簡王を追封、諡は穆孝。
仲御
仲御は、幼より群を抜き、経史に通じ、朝廷の典故を多く識った。父の宗晟の喪に服し、哲宗が宗正に起知せんとしたが、力辞し、詔して位を虚しくして終制を待った。累次遷って鎮寧・保寧・昭信・武安節度使となり、汝南・華原郡王に封ぜられた。政和中、検校少傅・泰寧軍節度使・開府儀同三司として封を嗣いだ。天寧節に遼使が朝廷にあり、宰相がちょうど謁告したので、仲御がこれを摂行し、百僚を率いて寿を上ること、平素より習熟しているが如かった。帝は会う毎に必ず優礼を加え、嗣王と称した。宣和四年五月に薨去、七十一歳、太傅を追贈され、郇王を追封、諡は康孝。
仲爰
仲爰が後を嗣いだ。徽宗が即位すると、建武節度使に拝され、大宗正となり、開府儀同三司を加えられ、江夏郡王に封ぜられ、節度使を泰寧・定武に移し、檢校少保・少傅となった。宣和五年六月に薨じ、七十歳、太保を贈られ、恭王を追封された。
仲理
仲理が後を嗣いだ。靖康の初め、安國軍節度使となり、檢校少保・開府儀同三司を加えられた。
嗣濮王とは、英宗の本生父(濮王允譲)の後裔である。治平三年、濮王の園廟を立てた。元豊七年、王子の宗暉を嗣濮王に封じ、世々封を絶やさなかった。高宗が南遷すると、濮王の神主を紹興府光孝寺に奉安した。
宗輔
仲湜
仲湜、字は巨源、楚榮王宗輔の子、安懿王(允譲)の孫なり、初名は仲泹。熙寧十年、右内率府副率を授けられた。累遷して密州觀察使・知西外宗正事・保大軍承宣使となった。欽宗が位を嗣ぐと、靖海節度使を授けられ、今の名に改めた。大宗正事を知るよう召されたが、行かず、汴京は失陥した。康王が南京で帝位に即くと、仲湜は漢上より衆を率いて直ちに謁見した。時に嗣濮王仲理は北遷していたので、詔して仲湜に襲封させ、開府儀同三司を加え、歴任して檢校少保・少傅となった。紹興元年、明堂の亞獻を務めた。七年、薨じ、帝は朝を輟み、その家に銀帛を賜い、儀王を追封し、謚して恭孝といった。仲湜は母に事えること孝行をもって聞こえ、図史を親しむことを好んだ。性、珊瑚を酷く嗜み、常に手から離さず把玩し、大きい一株は数百千まででこれを購った。高宗嘗て墜ちたらどうなるかと問うと、仲湜は「砕けましょう」と答えた。帝曰く、「民の膏血をもって無用の物と易えるは、朕の忍ぶところにあらず」。仲湜は慚じて答えることができなかった。
士從、士街、士籛、士衎、士歆
子に士從、士街、士籛、士衎、士歆あり。
士從は、靖康の末、洺州防禦使となった。建炎二年、同知西外宗正事となり、高郵軍の宗子を主管した。士從は潰走した兵卒を招き屯を置き、江・淮制置使を仮に奏請し、許された。賊の李在が楚州を犯すと、士從は部将を遣わして虚を乗じて掩襲させたが、小勝に慣れ、軍に紀律なく、敗績した。士從は司を衡・温二州に移した。臣僚がその弟の士籛が州県を撓乱し、士從がこれを制することができないとし、遂に罷免された。紹興四年、涇・洪二州觀察使に遷り、権知濮王園令となった。士從は利便の地を択び神位を奉安することを乞い、従われた。
六年、士街は象州防禦使を授けられ、華州觀察使・同知大宗正事・安慶軍承宣使に遷り、濮王祠事を主奉した。初め、軍興のため、南班の宗子は歳賜を権く罷められ、身歿して殮うること能わざる者さえあったので、士街は朝廷に言上し、詔して旧制に復させた。三十年、安德軍節度使に拝された。宗司を典すること凡そ十四年。
士籛は官は安慶軍節度使・同知大宗正事に至った。隆興元年、上言して曰く、「宗司の文移は官の叙の高下を視るが、令詪は臣の兄なり、位却って臣の下に居るは、尊卑の叙を失う。乞うらくはこれを易置せられんことを」。詔してその奏を可とした。
士衎は、官は崇慶軍節度使・知西外宗正事に至った。右諫議の何溥が士衎が海舟を強いて市したと論じ、官を罷免された。已にして詔して南班に帰し、朝請を奉じた。隆興年中、辺事未だ寧かならず、士籛と共に奉給恩賞の半を減じて軍興を助けることを奏した。詔して諭を加えられた。
宗漢
仲儡
仲儡は、景王宗漢の子なり。初め右内率府副率を授かり、右監門衛大将軍に転ず。建炎末、武功大夫・忠州防禦使を授かる。紹興中、済州に遷り、南外宗正事を知る。八年、検校少保・向徳軍節度使を加えられ、嗣濮王を襲封す。仲儡は生まれながらにして聡明ならず、順序によりて封を得たり。入見して榻前において慟哭す、帝驚きて故を問う、答語狂謬なりき、帝優しくこれを容る。九年、薨ず、上三日間朝を輟み、瓊王を追封し、諡して恭恵と曰う。
士俴
士俴は、安懿王の曾孫なり。紹興二十五年十一月、襲封し、崇慶軍節度使を除す。初め、仲儡の薨ずるや、秦檜政権を専らにし、襲封を罷む、檜死して後、始めて士俴を封ず。一年余りを経て薨ず、少師を贈られ、思王を追封し、諡して温靖と曰う。
士輵
士輵は、士俴の弟なり。紹興二十八年、建州観察使より襲封し、昭化軍節度使を授かる。初め、懿王の神貌は報恩寺西挟に奉安され、屋居隘陋なりき、士輵別に祠堂を営むことを請う、これを許す。久しくして、検校少保を加えられ、累ねて開府儀同三司を加えられ、嗣濮王居を賜いて世業と為す。知大宗正事を除し、累ねて三少を加えられ、醴泉観使を充てる。淳熙七年薨ず、太傅を贈られ、安王を追封す。
仲湜
士歆
士歆は、仲湜の第十一子なり。保康軍節度使より襲封し、開府儀同三司を加えられ、累ねて三少に陞る。慶元二年薨ず、太傅を贈られ、韶王を追封す。
不禾去
不禾去は、安懿王の玄孫なり。年七十六、累ねて武功郎に転ず。士歆既に薨じ、不禾去は年最も高く、襲封を得、福州観察使を除す。庶官より襲封するは不禾去より始まる。慶元五年、武安軍承宣使に転ず。俄かに薨ず、開府儀同三司を贈られ、蒋国公を追封す。
不璺
不璺は、武経大夫より利州観察使を授かり、襲封す。開禧初、寧遠軍承宣使に遷る。薨ず、開府儀同三司を贈られ、安国公を追封す。
不儔
不儔は、開禧二年、安遠軍承宣使より襲封し、昭慶軍節度使を除し、検校少保に遷る。嘉定十年薨ず、少師を贈られ、高平郡王を追封す。
不嫖
不嫖は、武翼大夫より襲封し、福州観察使を授けられた。時に嘉定十一年である。一年余りして薨じ、開府儀同三司を贈られ、恵国公を追封された。
臣僚が上言した。「嗣濮王の元降指揮には、高年で行い尊ぶ者を選ぶとの文があるが、しかし高宗朝に儀王仲湜は徳望ともに隆盛であったため、仲孮を越えて選任された。武徳郎の鼘は、次に襲封すべきであったが、官が卑しいため、士褭に祠事を奉じさせる権宜を命じ、十六年を経て初めて士俴の封を正した。これもまた定制に拘らなかった例である。願わくは今後、封ずるべき者については、大宗司に選考させ、都堂に審査させ、閤門に引見させた上で、奏上して進止を取るように。」寧宗はこれをよしとした。
士禾芻
不淩
不淩は、父は士禾芻である。不嫖が薨じた後、不淩は右千牛衛将軍より福州観察使を授かり、襲封した。嘉定十五年、奉国軍承宣使に遷った。十七年に薨じ、開府儀同三司を贈られ、恵国公を追封された。