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宋史
列傳第三 宗室一 魏王 燕王 秦王
昔、周の初めに興り、大いに宗室を封建せしが、その東遷に及びて、晋・鄭に同奨の功あり。然れどもその衰うるや、幹弱くして枝強し。後世ここにその失いを矯ぐる者ありて、封建は古に復せず。宋は唐の制を承け、宗王は繈褓にして即ち土を裂きてこれを爵す。然れども名は存して実は亡び、事に補うことなし。疏属に降るに及び、宗正に籍あり、玉牒に名あり、宗学に教えあり、郊祀・明堂、国慶の典に遇うては、皆禄秩あり。寓する州県、月に廩餼あり。宗女の適人するに至りても、また恩数あり。然れども国祚既に長く、世代浸く遠く、恒産の豊約、士庶の家を去ること甚だ相遠からざる者あり。靖康の乱、諸王駢首として金人の虐に弊ゆ。論者はその封建の実なきを咎め、故に維城の助けを獲ざりしとなす。
然りと雖も、東都の仁宗、南渡の高・寧、元良虚位にして、継を小宗に立て、大策一定して、卒に動揺なく、磐石の固き、また知るべし。且つ宋の宗室に於けるや、稍々過差あれば、君臣の間、改むるに吝からず、特に言うを憚らざること尤もなり。涪陵・武功、真宗即位し、尋いで追復改葬を議し、その子孫を封ず。濮邸の尊称、言者はただ非を格するを務め、少も避忌せず。宋末の済邸、国事将に亡ばんとするに、諫疏息まず、必ず褒恤して後に止む。これ歴代の得難き者なるか。表してこれを出だし、『宗室伝』を作る。
太祖の弟 魏悼王 廷美
魏悼王廷美、字は文化、本名は光美、太平興国初年に今の名に改む。太祖兄弟五人:兄光済は早く亡び、宋興りて追封して邕王とし、曹王に改む。弟光義、即ち太宗。次に廷美。次に光贊、幼くして亡び、追封して夔王とし、岐王に改む。
建隆元年、廷美を授けて嘉州防禦使とす。二年、興元尹・山南西道節度使に遷す。乾徳二年、同中書門下平章事を加う。開宝六年、検校太保・侍中・京兆尹・永興軍節度使を加う。太宗即位し、中書令・開封尹を加え、斉王に封じ、また検校太師を加う。太原に従征し、進んで秦王に封ぜらる。
七年三月、或る者秦王廷美の驕恣にして、将に陰謀窃発せんとすと告ぐ。上その事を暴くに忍びず、遂に廷美の開封尹を罷め、西京留守を授け、襲衣・通犀帯を賜い、銭千万緡、絹・彩各万匹、銀万両、西京の甲第一区を賜う。詔して枢密使曹彬に廷美を瓊林苑に餞せしむ。太常博士王遹を以て河南府事を判せしめ、開封府判官閻矩を留守事を判せしむ。如京使柴禹錫を宣徽北院使兼枢密副使とし、楊守一を東上閣門使充馮枢密都承旨とす。廷美の陰謀を苦しめたる功を賞するなり。左衛将軍・枢密承旨陳従龍を左衛将軍とし、皇城使劉知信を右衛将軍とし、弓箭庫使惠延真を商州長史とし、禁軍列校皇甫継明を責めて汝州馬歩軍都指揮使とし、定人王栄を濮州教練使とす。皆廷美と交通し及びその燕犒を受けたるに坐す。栄未だ行かず、或る者また栄が嘗て廷美の親吏と狂言せし「我まもなく当に節帥を得べし」と告ぐ。坐して籍を削り、海島に流す。
会に趙普再び相たり、廉めて盧多遜の廷美と交通せる事を得て上聞す。上怒り、多遜を責めて兵部尚書を授け、御史獄に下す。中書守当官趙白・秦府孔目官閻密・小吏王継勲・樊徳明・趙懐禄・閻懐忠等を搏きて繫ぎ、翰林学士承旨李昉・学士扈蒙・衛尉卿崔仁冀・膳部郎中兼御史知雑滕中正に命じて雑治せしむ。多遜自ら言う:累ねて趙白を遣わし中書の機事を以て密かに廷美に告ぐ。去年九月中、また趙白に令して廷美に言わしむ云く「願わくは宮車晏駕し、力を尽くして大王に事えん」と。廷美樊徳明を遣わし多遜に報ぜしむ云く「承旨の言まさに我が意に会す、我もまた宮車の早く晏駕せんことを願う」と。私に多遜に馬箭等を遺わし、多遜これを受く。
閻密初め廷美に給事し、上即位し、殿直に補し、仍って秦王府に隷し、恣横不法にして、言多く指斥す。王継勲は特に廷美の親信たり、嘗て声妓を求訪せしめ、勢いを怙て貨を取り、贓汚狼藉たり。樊徳明は素より趙白と遊処し、多遜これに因りて以て廷美を結ぶ。廷美また趙懐禄を遣わし私かに同母弟軍器庫副使趙廷俊を召して語らしむ。閻懐忠は嘗て廷美のために淮海王銭俶に詣りて犀玉帯・金酒器を求めしむ。懐忠は俶の私に遺わす白金百両・金器・絹扇等を受く。廷美また嘗て懐忠を遣わし銀碗・錦彩・羊酒を齎し、その妻の父御前忠佐馬軍都軍頭開封潘潾の営に詣りて軍校を燕す。ここに至り、皆罪に伏す。
詔して文武常参官に朝堂に集議せしむ。太子太師王溥等七十四人奏す:「多遜及び廷美は顧望呪詛し、大逆不道、誅滅を行い以て刑章を正すべし。趙白等は斬に処すべし」と。詔して多遜の官爵を削奪し、併せて家属を崖州に流す。廷美は勒して私第に帰らしむ。趙白・閻密・王継勲・樊徳明・趙懐禄・閻懐忠は皆都門外に斬り、その家財を籍す。詔す:「秦王廷美の男女等宜しく名称を正すべし、貴州防禦使徳恭等は仍って皇侄たり。皇侄女韓氏に適する者は雲陽公主の号を去れ。右監門将軍韓崇業は降して右千牛衛率府率とし、仍って駙馬都尉の号を去れ。併せて発遣して西京に就き、廷美の居止に就かしめよ」と。五月、西京留守判官閻矩を貶して涪州司戸参軍とし、前開封推官孫嶼を融州司戸参軍とす。皆秦王廷美の官属、輔導無状に坐す。
趙普は廷美の西洛に謫居するは便ならずとし、復た開封府知事李符を教えて上言せしむ:「廷美悔い改めず、怨望す、遠郡に徙すを乞い、以て他の変を防がん」と。詔して廷美を降して涪陵県公とし、房州に安置す。妻楚国夫人張氏は国封を削る。崇儀使閻彦進に命じて房州を知らしめ、監察御史袁廓を通判州事とし、各白金三百両を賜う。八年正月、涪陵県公廷美の母陳国夫人耿氏卒す。雍熙元年、廷美房州に至り、憂悸のため疾を成して卒す。年三十八。上これを聞き、嗚咽流涕し、宰相に謂いて曰く「廷美は少より剛愎、長じて益々兇悪なり。朕は同気の至親を以て、法に置くに忍びず、房陵に居らしめ、その過ちを思わんことを冀う。方に恩を推して旧に復せんと欲するに、遽かに茲に殞逝す。痛傷奈何」と。因りて悲泣し、左右を感動せしめ、遂に詔して廷美を追封して涪王とし、諡して悼と曰い、哀を発して服を成す。
その後、太宗はゆったりと宰相に言った。「廷美の母の陳国夫人耿氏は、朕の乳母であるが、後に趙氏に嫁ぎ、廷俊を生んだ。朕は廷美の縁故により、廷俊を左右に近侍させたが、廷俊は禁中の事を廷美に漏らした。近ごろ、西池を開鑿し、水心殿が完成したが、橋梁は未だ整わず、朕は舟を浮かべて行こうとした。廷美は左右と謀り、この時に乗じてひそかに挙兵しようとしたが、果たせず、すぐに邸において病気と偽り、朕が見舞いに臨んだ時に、それに乗じて変事を起こそうとした。その事を告げる者があった。もし役所に命じて徹底的に追究させれば、廷美の罪は誅罰に値しないものではなかった。朕はその醜態を暴露したくなく、また盧多遜との交通事件が発覚したので、ただ西洛に居守させるにとどめた。しかし廷美は悔い改めず、ますます怨望を抱き、不遜な言葉を口にしたので、初めて房陵に移して寛大に処置したのである。廷俊についても、深く罪を問わず、ただ貶謫して許したに過ぎない。朕が廷美に対して負うところはないと言えよう!」言葉が終わらないうちに、そのことを悲しんだ。李昉が答えて言った。「涪陵(廷美)の悖逆は、天下に知れ渡っております。西池のことは禁中の事であり、陛下がごく一部をお示しにならなければ、臣らがどうして知ることができましょうか。」
初め、昭憲太后が病に伏せた時、太祖に命じて太宗に位を伝えさせ、その際に趙普を顧みて言った。「そなたは共にわが言葉を記せ、違えてはならぬ。」と。趙普に命じて寝台の前で誓約書を作らせ、趙普は紙の末尾に「臣普書く」と書き、それを金櫃に蔵め、謹厳で秘密を守る宮人にこれを管理させた。ある説によれば、昭憲および太祖の本意は、太宗が廷美に伝え、廷美がさらに徳昭に伝えることであったという。それ故に太宗が即位すると、すぐに廷美を開封尹とし、徳昭は実際に皇子と称された。徳昭は非業の死を遂げ、徳芳も相次いで夭折したので、廷美は次第に不安を抱き始めた。やがて柴禹錫らが廷美の陰謀を告発すると、皇帝は趙普を召して問い、趙普は答えて言った。「臣は枢軸の任に備えて奸変を察したい。」退いてさらに密奏して言った。「臣は旧臣の身でありながら、権勢を握る者に阻まれております。」その際に昭憲太后の顧命および先朝(太祖)の自愬の事を述べた。皇帝は宮中で趙普が以前に上奏した章疏を探し出し、併せて金櫃を開けて誓書を得て、大いに悟り、感ずるところがあった。趙普を召して言った。「人に過ちのない者があろうか。朕は五十歳を待たずして、すでに四十九年の非を知り尽くした。」辛亥に、趙普を司徒兼侍中とした。ある日、太宗は伝国の意について趙普に諮問した。趙普は言った。「太祖はすでに誤りました。陛下はどうして再び誤られることがありましょうか。」これによって廷美は罪を得ることとなった。およそ廷美が罪を得るに至ったのは、趙普の仕業であった。
至道初年、司門員外郎孫蠙を皇侄・諸孫教授とし、廷美の諸子で在京の者をそこで学ばせた。真宗が即位すると、皇叔涪王廷美を追復して西京留守・検校太師兼中書令・河南尹・秦王とした。張氏は楚国夫人とした。咸平二年閏三月、詔して汝州・鄧州の地を選び、汝州梁県の新豊郷に改葬した。仁宗が即位すると、太師・尚書令を追贈した。徽宗が即位すると、魏王に改封した。
子は十人:徳恭、徳隆、徳彝、徳雍、徳鈞、徳欽、徳潤、徳文、徳願、徳存。故事により、皇族で王に封ぜられた者が物故すると、その本宮の最年長者が国公に封ぜられ、その後は順次封を受けることとなっていた。この時、徳鈞の子承簡が最も年長であったので、徐国公を襲封し、官は保康軍留後に至った。彰化軍節度使・安定郡王を追贈され、諡は和懿。承簡が薨じた後、徳雍の子承亮が昌国公を襲封した。神宗が即位すると、感徳軍節度使に拝し、栄国公に改封された。
熙寧二年、詔して宣祖・太祖・太宗の子は、皆その後裔の一人を選んで宗とし、代々公に封じてその祭祀を奉ぜしめ、服属の縁が尽きても恩礼を減じないこととした。三年、太常礼院が言う。「本朝の近制では、諸王の後裔は皆、その本宮の最年長者一人を用いて公を継承襲封しております。昨年の詔では祖宗の子は皆その後裔一人を選んで宗とし、代々公に封ずるとあり、旧制と異なります。礼文によれば、諸王・公・侯・伯・子・男は、皆子孫で嫡子が承継して伝襲します。もし嫡子がおらず、あるいは罪や疾がある場合は、嫡孫を立てる。嫡孫がなければ、順次に嫡子の同母弟を立てる。同母弟がなければ、庶子を立てる。庶子がなければ、嫡孫の同母弟を立てる。同母弟がなければ、庶孫を立てる。曾孫以下これに準ずる。礼令に依り、嫡子を伝えて承襲させるのが妥当です。」詔してこれを許可した。そこで承亮を秦国公とし、秦王廷美の祭祀を奉ぜしめた。翌年に薨じ、楽平郡王を追贈し、諡は恭静。子の克愉が嗣いだ。克愉が卒すると、子の叔牙が嗣いだ。元符三年、現在の封に改めた。
廷美の子 徳恭
徳恭、字は復礼。太平興国四年、皇子として出閣し、貴州防禦使に拝された。廷美が房陵に移されると、諸子は皆これに従い、それによって官を免ぜられた。廷美が卒すると、再び徳恭を峰州刺史とし、弟の徳隆を瀼州刺史韓崇業とし、静難行軍司馬とした。雍熙元年十二月、詔して徳恭を左武衛大将軍とし、安定郡侯に封じて済州を判らせ、徳隆を右武衛大将軍とし、長寧郡侯に封じて沂州を判らせた。諸弟は皆治所に赴任した。高品の衛紹欽を命じて州まで送らせ、常禄の外に毎年銭三百万を給した。起居舎人韓検・右補闕劉蒙叟を命じてそれぞれ二州の通判を分任させた。皇帝は彼らを派遣するに臨んで言った。「徳恭らは初めて郡を治める。よく補佐せよ。もし欠失があって力強く正さないならば、そなたらのみを罪とする。」
端拱元年、徳恭を進めて安定郡公に封じた。淳化四年、左驍衛大将軍に改めた。至道二年、左神武大将軍を加えた。真宗が位を嗣ぐと、そのまま左武衛大将軍に転じた。咸平二年に召されて闕に赴き、楽平郡公に改封され、虢州を判った。奉朝請を乞うたので、これに従った。勝州団練使に遷った。景德初年、衡州防禦使に改めた。三年、病に罹り、子の承慶が腿の肉を切り取って食べさせた。五月、卒した。年四十五。皇帝は臨んで慟哭し、三日間朝政を停めた。保信軍節度使を追贈し、申国公を追封した。天禧二年、承慶の請いに従い、護国軍節度兼侍中を加贈した。明道二年、高密郡王を追封し、諡は慈恵。子に承慶・承寿。
徳恭の子 承慶
承慶は、官は和州団練使に至り卒し、武信軍節度使・循国公を追贈された。子は六人。克継は楷書を善くし、特に篆書・隷書に巧みであった。宗正がこれを推薦し、仁宗が自ら臨んで試し、蔡邕の古文の法に則って『論語』・『詩』・『書』を書写させた。さらに詔して朝士と分かれて『石経』を隷書で書かせた。帝は言った。「李陽冰は唐室の秀才である。今の克継は、朕の陽冰である。」子弟を訓戒して学問に励ませ、一門で儒科に登った者は十二人に及んだ。嘗て編集した『広韻字源』を進呈したところ、帝は善しと称し、秘閣に蔵めた。元祐五年、定武軍節度観察留後として卒し、開府儀同三司・建国公を追贈され、諡は章靖。
徳恭の子 承寿
承壽は、終南作坊使に至り、徳州刺史・武當侯を追贈された。子は四人、克己は音律に通じ、かつて『雅樂圖』樂曲を作って献上した。大清樓に侍宴し、学んだ虞世南の書を進めると、器物を賜り位階を加増された。右千牛衛大將軍に至り、深州防禦使・饒陽侯を追贈された。子の叔韶は字を君和といい、慶曆六年、諸宗子とともに帝前で真宗の御書を臨書し、第一に選ばれた。皇祐初め、自らの文章を進め、召されて學士院で試験を受け中等となり、進士及第を賜った。太子右監門率府副率から右領軍衛將軍に遷り、入謝した際、命じて座らせ茶を賜った。仁宗は「宗子で好学の者は多いが、ただ爾のみが文章で進士に及第した。これ以前にはなかったことである。朕は天下に属籍に賢者がいることを知らしめたい。宜しく学んだことを忘れるな。」と言われた。叔韶は頓首して謝し、退出した後、また『九經』を賜った。右屯衛大將軍に遷る。至和年間、上書して煩劇な職務を試みることを求め、賀州刺史を加領され、和州防禦使に至り、鎮東節度觀察留後・會稽郡公を追贈された。克脩は字を子莊といい、仁宗が皇子であった時、禁中に出入りして侍学することができたので、仁宗の待遇は殊に厚かった。帝がかつて大清樓に臨み宗室を召して書を試みた際、克脩を善しとした。右神武軍大將軍・成州團練使に至り、同州觀察使・馮翊侯を追贈された。子の叔充は、父が早世し、異母弟の叔瑁が甚だ幼かったので、叔充は撫で養い教え導いて成人させた。先に、継母には敘封の法がなかったが、叔充が朝廷に請うたところ、詔してこれに従い、遂に定制となった。蔵書は万巻に及んだ。子は九人、科挙に登第した者は三人。唐州防禦使の官で卒し、崇信軍節度使・尹国公を追贈され、諡は孝齊。遺表で任子を求めると、有司が格をもって下さず、子の撫之が抗章して自ら列を立て、外官の法の如くすることを乞うた。朝廷はその請いに従った。宗室の正任に遺恩があるのはこれより始まる。
廷美の子 德隆
德隆は字を日新という。雍熙三年、沂州守の官で卒し、年二十三、寧遠軍節度を追贈され、臨沂郡公を追封された。天禧二年、その子承訓の請いに従い、崇信軍節度・同平章事を加贈された。承訓は順州刺史に至り、卒して深州團練使を追贈された。
廷美の子 德彝
德彝は字を可久といい、太祖が宮中に召し養育された。德降が卒すると、右千牛衛大將軍を授かり、長寧郡侯に封ぜられ、兄德隆に代わって沂州を判じた。時に年十九。飛蝗が境内に入ると、吏民は坎を掘って埋め火で焼くことを請うたが、德彝は「上天が災いを降すのは、守臣の罪である。」と言い、躬を責めて咎を引き受け、斎戒して禱った。既にして蝗は自ら死んだ。儒生の乙恕という者は、郊外に住み学業に励んでいたが、ある日、屍が舎の下に横たわっているのを、所司が恕を捕らえて獄に抵し、法に置かんとした。德彝はその冤罪を疑い、他の司に命じてこれを按問させたが異状なく、因って刑を緩めて待つことを命じた。未だ幾ばくもせず、果たして人を殺した者を捕らえ、恕は遂に釈放された。郡公に進封された。淳化四年、右監門衛大將軍となり、左武衛大將軍に遷り、広平に改封された。部民が闕に詣でて留任を乞うたので、詔して嘉獎した。真守初め、召還された。咸平二年、滁州を判ずることを命じられたが、德恭とともに留められて遣わされなかった。三年、徐州刺史を授かり、累遷して保信軍節度觀察留後に至った。大中祥符八年に卒し、年四十九。上は臨奠し、三日間朝を廃した。昭信軍節度使を追贈され、信都郡王を追封され、諡は安簡。明道二年、潁川に改封された。
德彝の諸子
子は承謨(先に卒す)、承矩(莊宅使に至り、博州刺使を追贈)、承勖(供奉官に至り、六宅副使を追贈)、承節・承拱(ともに西京作坊使)、承街(内殿崇班)、承錫(供奉官)。
廷美の子 德雍
德雍は字を仲達といい、淳化初め、右驍衛將軍を授かり、右羽林・龍武の二將軍を歴任し、累遷して蔡州觀察使・咸寧郡公となり、天平軍節度觀察留後に至り、宣德軍節度・同中書門下平章事を追贈され、諡は康簡。明道年間、広陵郡王を追封された。
德雍の諸子
子は承睦・承亮。承睦は左領軍衛大將軍・彭州團練・虔州觀察使・南康侯に至り、承亮は秦國公に封ぜられ、事は上に見える。
廷美の子 德鈞
德鈞は字を子正といい、性質は和雅で、書翰を善くし、篇什を作ることを好んだ。淳化初め、右武衛將軍を拝し、四遷して右衛將軍に至った。景德二年、右監門衛大將軍を加えられた。四年、卒し、河州觀察使を追贈され、安郷侯を追封された。時に妻も卒し、男女十四人皆幼かったので、上は甚だ嗟悼された。
德鈞の諸子
子は承震(早世)、承緒(供奉官)、承偉・承雅・承裔・承鑒・承則(ともに西京作坊使)、承裕(禮賓副使)、承翊(内殿崇班)、承簡(徐國公を襲封)、承幹(懐州防禦使に至り、保靜軍節度使・蕭國公を追贈)。子の克敦は経術を好み、宗正の推薦により、召されて試験を受け中選し、銭三十万を賜った。元豊年間、父承幹の遺文を集めて進めると、神宗はこれを嘉し、詔して「承幹父子は藝文儒學をもって宗藩に名を成した。宜しく褒賞すべし。」と言われた。ここにおいて承幹を追封して東平王とし、克敦には敕書を賜って獎諭した。宣州觀察使として卒し、開府儀同三司・和國公を追贈された。
廷美の子に德欽あり。
德欽は字を丕從という。淳化元年、右屯衛將軍を授かり、四度遷って右羽林將軍となった。景德元年六月に卒す。年三十一。雲州觀察使を贈られ、追封して雲中侯とされた。子に承遵あり、西京作坊使となった。
廷美の子に德潤あり。
德潤は字を溫玉といい、頗る學を好み、詩を善くした。淳化元年、初めて右領軍衛將軍を授かり、四度遷って右羽林將軍となった。咸平六年二月に卒す。年三十九。應州觀察使を贈られ、追封して金城侯とされた。
廷美の子に德文あり。
德文は字を子矼といい、淳化の初め、右監門衛將軍を授かり、累遷して滑州觀察使・馮翊郡公となった。少より學を好み、凡そ經史百家の書、手ずから抄撮し、辭章を工みとした。真宗はその刻勵なること諸生の如きを以て、嘗て進見に因り、戯れてこれを「五秀才」と呼び、宮中これによりて悉く稱した。德文は本より廷美の第八子、その兄三人早く卒し、故に德文は次第に於いて第五となる。帝の泰山に封じ、汾陰を祀り、亳に幸するに、德文必ず賦頌を奏す。帝每たび詩を賜うときは、輒ち和するを令す。數たび名士を師友と得んことを願い言い、特命して翰林學士楊億と之と遊ばしむ。億卒すや、詩十章を為ってこれを悼む。天聖中、橫海軍節度觀察留後に遷り、昭武軍節度使を拝し、感德・武勝の二軍に易え、同中書門下平章事を加う。仁宗嘗て「五相公」と稱して名を呼ばず。慶曆四年、宗室の王たる者四人、德文の尊屬にして且つ賢なるを以て、漢の東平王蒼に方し、進めて東平郡王に封じ、兼侍中を加う。德文老いたりと雖も、學を嗜み倦まず。晩年足疾を被り、朝す能わず。六年、薨ず。年七十二。初め疾を得しとき、仁宗臨み視し、親しく薬を調えて之を飲ます。及び訃聞に及び、復た臨み哭し、太尉・中書令・申王を贈り、諡して恭裕という。子六人、承顯は王后を以て襲封し康國公となり、官は昭化軍節度使に至る。薨ず。年七十四、太尉・樂平郡王を贈られる。
廷美の子に德願あり。
德願は字を公謹といい、淳化元年、右千牛衛大將軍を授かり、三たび進秩して左武衛大將軍となった。咸平二年閏三月に卒す。年二十四。涼州觀察使を贈られ、追封して姑臧侯とされた。
廷美の子に德存あり。
德存は字を安世といい、九歳にして右千牛衛將軍を授かり、監門を歴て驍衛に至る。泰山の祠に従い、獎州刺史を領す。汾陰を祀り、恩によりて右羽林將軍に遷る。大中祥符四年六月に卒す。年三十。洮州觀察使を贈られ、追封して洮陽侯とされた。子に承衍あり、禮賓副使となった。
太祖に四子あり。長は滕王德秀、次は燕懿王德昭、次は舒王德林、次は秦康惠王德芳。德秀・德林は皆早く亡ぶ。徽宗の時、名及び王封を追賜される。
太祖の次子 燕懿王 德昭
燕懿王德昭は字を日新といい、母は賀皇后。乾德二年に出閣す。故事に、皇子出閣すれば即ち王に封ず。太祖は德昭の沖年なるを以て、其の漸くして進むを欲し、貴州防禦使を授く。開寶六年、興元尹・山南西道節度使・檢校太傅・同中書門下平章事を授かる。太祖の世を終えるまで、竟に王爵を以て封ぜず。太宗太平興國元年、京兆尹に改め、鎮を永興に移し、侍中を兼ね、始めて武功郡王に封ぜらる。詔して齊王廷美と共に今より朝會は宜しく宰相の上に班すべしとす。三年二月、太子太傅王溥の女を娶り、韓國夫人に封ぜらる。是の冬郊祀し、檢校太尉を加う。
四年、幽州征伐に従う。軍中嘗て夜驚き、上(太宗)の在り所を知らず、德昭を立てんと謀る者有り。上聞きて悦ばず。及び帰り、北征の不利を以て、久しく太原の賞を行わず。德昭以て言う。上大いに怒りて曰く、「汝自ら之を為すを待たん、賞は未だ晩しからず」と。德昭退きて自刎す。上聞き驚き悔い、往きて其の屍を抱き、大哭して曰く、「癡兒何ぞ此に至らんや」と。中書令を贈り、追封して魏王とし、諡を賜う。後、吳王に改め、又た越王に改む。德昭は喜慽色に形せず。真宗即位し、太傅を贈る。乾興初め、加贈して太師とす。子五人、惟正、惟吉、惟固、惟忠、惟和。
慶曆四年、詔して十王の後を封じ、惟忠の子從藹を以て潁國公に襲封せしむ。而して惟吉の子守巽は冀王の後として最長なるを以て、從藹と同封せらる。守巽は官和州防禦使に至り、武成軍節度使・楚國公を贈られる。從藹は齊州防禦使に至り、武勝軍節度觀察留後・韓國公を贈られる。守巽・從藹卒すや、惟忠の子從信を以て榮國公に襲封せしむ。官は雄州防禦使に至り、保寧軍節度使・楚國公を贈られる。從信卒すや、惟忠の孫、從恪の子世規を以て崇國公に襲封せしむ。官は右龍武大將軍・沂州防禦使に至りて卒す。守巽の子世清は、累官して茂州防禦使となる。本宮の長たるを以て、申國公に封ぜらるるを得る。熙寧中、上書して曾祖越懿王の封を襲うことを請うが不當なるに坐し、一官を奪わる。既にして議者其の説を是とし、乃ち越州觀察使に遷し、越國公に襲封し、會稽郡王に進み、保信軍留後に至る。諸弟を愛し、棣萼會を邸中に作る。會うに元豐、四后を升祔するに、命を受けて廟に告ぐ。方に疾に属すと雖も、自力して事に就く。未幾にして薨ず。安化軍節度使・開府儀同三司・虢王を贈られ、諡して恭安という。子令廓嗣ぐ。元符三年、今の封に改む。
先に、熙寧年間に、詔して楚康惠王の孫従式を安定郡王に封じ、太祖の祭祀を奉ぜしめた。従式が薨ずると、乃ち懿王の曾孫世准を以て安定郡王を襲封せしめた。世准は、従藹の子なり。人となり内は恕し外は厳にして、綺羅金玉の好み無く、凡そ天子の郊廟には必ず従祀した。金州観察使より保静軍節度使に拝す。薨年六十八、開府儀同三司を贈られ、成王を追封された。世開が襲封した。
徳昭の曾孫惟和の孫、従誨の子 世開
世開は、従誨の子、惟和の孫なり。七八歳にして、日に万言を誦し、既に長ずるに及び、学問該治なり。後母に事えて孝、孤なる姪を撫すること己が子の如し。宮官の呉申が御史となり、其の学行を薦め、命じて学士院に試みしむるも、累召に応ぜず。神宗其の異を褒め、便殿に召して対せしめ、事を論ずること甚だ衆し。時に宮僚に欠員有りと雖も、即時に請わずして、他官を以て摂せしむ、故に私謁公行す。宗女嫁すべきときは、皆富家大姓貨を以て取り、復た銓択を事とせず。世開悉く之を言上し、帝嘉納し、以て宗正と為さんと欲すれども、固辞し、乃ち一官を進む。其の列挙する所を以て令と為す。官は奉国軍留後に至る。薨じ、開府儀同三司を贈られ、信王を追封され、諡して献敏と曰う。世雄が嗣いだ。
徳昭の曾孫惟忠の孫、従藹の子 世雄
世雄も亦た従藹の子、少より力学して知名なり。熙寧年間に、詔して宗子に材能自ら表見する者あれば、官長及び学官名を以て上らしむ。世雄の子令鑠選中に在り。嘗て都宅を営みて以て疏属を処し、三舎を立てて以て学者を訓ぜんことを請う。詔して其の議を用い、両京に敦宗院を置き、六宮各学を建つ。徽宗即位し、世雄が太祖の宗に於いて最も行尊きを以て、崇信軍節度使に拝し、安定郡王を襲封し、大宗正事を知る。崇寧四年薨ず、年七十五。太尉を贈られ、淄王を追封され、諡して恭憲と曰う。世福が襲封した。
徳昭の曾孫惟忠の孫、従信の子 世福
世福は、従信の子。官は集慶軍節度使に至る。薨じ、儀王を贈られる。令蕩が爵を襲ぐ。令蕩は、秦康恵王の曾孫なり。
徳昭の子 惟正
惟正は、天聖七年、久病を以て、帝安んぜんと欲し、保信軍節度観察留後・楽安郡公より特拜して建寧軍節度使と為す。卒し、侍中を贈られ、同安郡王を追封され、諡して僖靖と曰う。子無く、弟惟忠の子従讜を以て嗣と為し、官は左龍武大将軍・温州団練使に至る。親事官を射殺したるに坐し官爵を削られ、別宅に幽せらる。従讜は少より好学、剛褊を以て廢せられ、遂に自剄して死す。帝甚だ之を悼む。済州防禦使・済南侯を贈る。
徳昭の子 惟吉
惟吉は字を国祥と為し、母は鄭国夫人陳氏。惟吉生まれて甫弥月、太祖命じて輦を以て内廷に至らしめ、二女媼を択び養視せしむ。或は中夜号啼すれば、必ず自ら起きて撫抱す。三歳にして弱弓軽矢を作り、金銭を植えて的と為し、之をして戯射せしむるに、十発八中、帝甚だ之を奇とす。五歳にして日に書を読み詩を誦す。帝嘗て飛鳶を射るに、一発にして中つ。惟吉旁より雀躍し、喜び甚だし。帝亦喜び、黄金を鋳て奇獣・瑞禽と為し之を賜う。常に小乗輿及び小鞍鞁馬に乗じ、黄門に命じて擁抱せしめ、出入常に従う。太祖崩ず。惟吉裁六歳、昼夜哀号す。孝章皇后慰諭再三し、始めて饘粥を進む。太宗即位し、猶禁中に在り、日に中食に侍す。太平興国八年、始めて出でて東宮に居り、左監門衛将軍を授けられ、平陽郡侯に封ぜられ、左驍衛大将軍を加えられ、安定郡公に進封さる。淳化四年、左羽林軍大将軍に遷る。至道二年、閬州観察使を授かる。凡そ邸第の供億、車服の賜与は、皆諸王に埒し、自余の王子は偕にすべからず。真宗即位し、武信軍節度を授けられ、同平章事を加えらる。時に石保吉先づ使相と為る。詔して惟吉其の上に班せしむ。大中祥符初め、泰山に封ずるに、疾を以て従行せず。詔して疾愈え行在に馳せ詣るを許す。還りて鄆州に頓す。惟吉迎謁す。上労問再三し、感徳軍節度に改む。明年、疾復た作る。上屡臨みて之を省み、親しく灼艾を視、日に御膳を給し、為に仏事を営む。三年五月薨ず、時に年四十五。朝を廢すること五日、中書令を贈られ、南陽郡王を追封され、諡して康孝と曰う。
惟吉は好学、善く文を属し、性至孝なり。孝章皇后は撫養備至、親しく櫛沐を為す。咸平初め、太祖孝章の画像・服玩・器用を以て惟吉に賜い、歳時奠享し、哀慕甚だ至れり。毎に《詩》を誦するに《蓼莪》の篇に至れば、涕泗交下す。宗室其の賢孝を推す。雅に草隷飛白を善くす。真宗次第して七巻と為し、御制の序を加え、命じて秘閣に蔵せしむ。其の子守節、父の書する所の《真草千文》を以て献ず。詔書褒答し、仍て史館に付す。太尉を追贈され、明道二年冀王に封ぜらる。子に守節・守約・守巽・守度・守廉・守康有り。
惟吉の子 守節
守節は、累遷して彰化軍節度観察留後・同知大宗正事と為る。卒して鎮江軍節度使を贈られ、丹陽郡王を追封され、諡して僖穆と曰う。子に世永・世延有り。世永は、邢国公を襲ぎ、官は鎮南軍留後に至り、熙寧元年薨じ、昭信軍節度使・南康郡王を贈られ、諡して修孝と曰う。世延は、終に右武衛大将軍・絳州防禦使と為り、武寧軍節度観察留後・彭城郡公を贈らる。
惟吉の子 守約
寧約は、ついに内園使・康州刺史となり、没後に沂州団練使を贈られた。子に世静・世長がある。世静は、左武衛大将軍・均州防禦使に至り、卒して鎮海軍節度観察留後・北海郡公を贈られた。世長は、ついに左武衛大将軍・解州防禦使となり、没後に張信軍節度観察留後・済陽郡公を贈られた。守巽およびその子世清の事は、上に見える。守度は、ついに左領軍衛大将軍・英州団練使となり、没後に広州観察使・盧江侯を贈られた。守廉は、ついに供備庫副使となり、没後に内蔵庫使を贈られた。守康は、供奉官に至った。
徳昭の子 惟固
惟固は字を宗幹といい、本名は元扆、太平興国八年に改めて名を賜わり左千牛衛将軍に授けられた。この冬に卒した。
徳昭の子 惟忠
惟忠は字を令徳といい、初名は文起、太平興国八年に今の名を賜わる。右千牛衛将軍に授けられ、四遷して右龍武軍となった。真宗が即位すると、右千牛衛大将軍に改める。大中祥符二年、左監門衛大将軍・叙州刺史に進む。五年、昌州団練使に進む。八年に卒し、鄂州観察使を贈られ、江夏侯に追封された。明道二年、彰化軍節度使を加贈され、舒国公に追封された。子に従恪・従藹・従秉・従穎・従謹・従質・従信・従讜がある。
惟忠の子 従恪
従恪は、累官して西染院使となり、卒して磁州刺史・東萊侯を贈られた。子の世規は、崇国公の封を襲いだ。従藹は、ついに左衛大将軍・齊州防禦使となり、没後に武勝軍節度観察留後を贈られ、韓國公に追封された。子の世豊は、ついに太子右衛率となり、没後に進士及第を追贈された。世准・世雄は、ともに安定郡王となった。従信は、栄国公に封ぜられ、官は雄州防禦使に至り、没後に保寧軍節度使・楚国公を贈られ、諡して安僖といった。子の世福は、安定郡王を襲いだ。従秉・従穎・従謹は、ともに礼賓使となった。従質は、内殿崇班となった。従讜は、惟正の後を継いだ。
徳昭の子 惟和
惟和は字を子禮といい、端拱元年に右武衛将軍に授けられ、右驍衛・神武龍武軍・右衛将軍を歴任した。大中祥符元年、澄州刺史を領す。四年、右千牛衛大将軍に遷る。六年に卒し、享年三十六。汝州防禦使・臨汝侯を贈られた。明道二年、永清軍節度観察留後を加贈され、清源郡公に追封された。
惟和は風雅で学問を好み、詩は頗る清麗で、筆札に巧みに典籍を優遊し、礼法を以て自ら処し、宗室より推重された。嘗て御製詩に和し、上はその理致あるを称した。及び卒すると、上は宰相の王旦らに謂って「惟和は文を好み力学し、これに謹願を加え、皇族の秀でたる者なり、不幸にして短命なり!」と、嗟悼すること久しく、涙を流すに至った。その稿二十二軸を録し、上は親しく序を製し、秘閣に蔵した。子に従審・従誨がある。
惟和の子 従審
従審は、ついに復州防禦使となり、没後に寧国軍節度観察留後・宣城郡公を贈られた。嘗て人と姦通した罪に坐して除名されたが、後に復官した。
惟和の子 従誨
従誨は、ついに左金吾衛大将軍・台州団練使となり、没後に襄州観察使・襄陽侯を贈られた。子の世開は、安定郡王となり、事は上に見える。
紹興元年、詔して曰く、「太祖皇帝は創業垂統し、その徳は万世に被わる。神祖(神宗)は詔して子孫一人を安定郡王に封じ、世々絶えざるべしとせり。今その封が挙げられず、朕甚だこれを憫む。有司はその合封すべき人名を上し、故事に遵って施行せよ。」時に燕王・秦王の二王の後裔が襲封を争い、礼部員外郎王居正が上言して「燕王は親しく、太祖の長子なり、その後裔たるべきなり襲封すべし。」と。議遂に定まる。紹興より嘉定に至るまで、襲封する者十五人、惟だ令畤・令SK・令詪・令衿の跡は頗る著しく、余は皆継嗣に過ぎず、娖娖として称すべきものなし。」
徳昭の玄孫に令畤あり。
令畤、字は徳麟、燕懿王の玄孫なり。早くより才敏を以て聞こゆ。元祐六年、潁州公事を簽書す。時に蘇軾守たり、其の才を愛し、因りて朝に薦む。宣仁太后曰く「宗室の聡明なる者は豈に少なからんや。顧みるに德行如何なるのみ。」竟に許さず。軾竄せられ、令畤蘇軾と交通せし罪に坐し罰金す。已にして内侍譚稹に附き以て進む。紹興初、官は右朝請大夫に至る。呂頤浩、令畤を以て行在大宗正司を主たしめんことを請う。帝、環衛官に易うるを命ず。頤浩言う「令畤は書を読み文を能くす。易うるを須いざるべし。」帝曰く「令畤、昔譚稹に事え、頗る清議に違う。」右監門衛大将軍・栄州防禦使に改め、権に行在大宗正事を行う。洪州観察使に遷り、安定郡王を襲封す。尋いで寧遠軍承宣使に遷り、同知行在大宗正事たり。四年に薨ず。貧しくして殮するに為す無く、帝、戸部に命じ銀絹を賜い、開府儀同三司を贈らる。
徳昭の玄孫に令矼あり。
令矼、紹興五年、邵武軍兵馬都監より襲封し、華州観察使を授けられ、尋いで同知大宗正事を除かる。一年を踰えて薨ず。
徳昭の玄孫に令懬あり。
令懬、字は深之。初め、懿王は昌州団練使惟忠を生み、惟忠は楚安僖王従信を生み、従信は益公世逢を生み、世逢は令懬を生む。右班殿直を授かり、東頭供奉官に遷り、累ねて州県の場庫を監す。監司薛昂其の才を薦め、資を易えて承事郎とし、潁州簽判に調じ、綿州通判を歴任し、累ねて蜀州・閬州・慶源府を知り、召されて衛尉少卿を除かれ、秘閣修撰に擢てられ、再び慶源府を知る。建炎二年、西外宗子を泰州に分ち、令懬に西外宗正事を知らしめ、禦営使司参賛軍事を除く。宗子を挈き福州に避地し、因りて司を焉に置く。元懿太子薨じ、帝、令懬に命じ藝祖の後を選ばしめ、三四人を得たり。寺に集英殿修撰に擢てられ、南外宗正を知る。再び宗子を選び、伯琮・伯浩を得て宮中に養い、後に伯玖を選び得たり。性も亦聡恵なり。高宗喜び、令懬を転じて泉州を知らしめ、尋いで祠を與えて帰らしむ。令矼薨じ、令懬は閬州観察使に改め、襲封し、同知大宗正事を除かる。一年を踰え、鎮東軍承宣使を授かり、再び保平軍節度使に遷る。紹興十三年に薨ず。年七十五。少師を贈られ、後に追封して恵王と為し、諡して襄靖と曰う。子の子遊、官は湖北提刑に至り、戸部侍郎王俁の薦を用い、直秘閣を加う。会に建寧節度使士𠞯が南外宗正司を知り、事に坐して官を去る。言者、宗室の文臣にして廉正なる者を選びて之に代うるを請う。遂に子遊を以て命ず。西・南外の宗官に文臣を用いるは、子遊より始まる。
徳昭の玄孫に令詪あり。
令詪、字は君序、父の任により右班殿直を補す。政和中、成忠郎に遷り、召されて試みられ、従事郎を授かる。宣和二年、貢士として試みられ舍選に合格し、宣教郎を授かり、信州永豊県丞に調ず。中興の初、累ねて福州運判に遷り、提点刑獄公事を兼ぬ。秦檜方に柄用せられ、安定郡王は封絶すること十余年。檜死し、次に令衿封を受くべしに当たるも、適た事に坐して拘えらる。遂に令詪に命じて襲封せしむ。已にして令詪、爵を以て令衿に遜る。乃ち令詪を升めて秘閣修撰と為し、台州を知らしめ、紹興府に移り知らしめ、召されて権戸部侍郎と為し、厳・饒二州の銭局を鑄せしむ。是に先立ち、諸州の銭監兵匠多く缺けて補わず、其の衣糧を積み、号して三分缺額銭と曰う。令詪、其の銭を請うて諸塩に付し、朝廷の銅本銭を省かしむ。又た建議す、州県官田を売り其の入の高下を計い、守令進秩し磨勘を減ずるに差有らしむ。州県の義倉多く紅腐す、歳に其の三の一を出だして以て新粟に易うるを請う。水旱災を為し、検放七分に及ばざる処所は、即ち振恤を許す。皆之に従う。令衿薨じ、令詪は崇慶軍承宣使より再び襲封す。隆興初、同知大宗正事を除かれ、生日の支賜並びに郊祀の賞給を減ずるを奏し、以て軍興を助く。詔して之を褒む。敷文閣直学士に遷り、特授に左中大夫・知紹興府、疾を引き祠を乞うて帰る。尋いで薨ず。年六十八。令詪は事に蒞り明敏にして風采有り。然れども広東に在りし日、嘗て副使章茇と協わず、陰に中りて法を以てし、茇を死に陷る。世、此を以て之を少くす。
徳昭の玄孫に令衿あり。
令衿は、嘉孝穆公世〈山失〉の子なり。博学にして能文の声有り、大観二年の舍選に中る。靖康初、軍器少監と為る。事を言いて旨に忤い、官を奪わる。紹興七年、都官員外郎を以て召さる。張浚罷めらる。令衿、対を請うて浚を留めんとす。言官石公揆、令衿が大臣に阿るを論ず。復た罷む。久しくして、事に坐して臨安に抵る。中丞李文会、令衿を劾す「昔は大臣の為めに緩頰し、今復た奔走して請托す。」と。詔して吏部に送る。吏部、令衿を直し、奏して徳安府通判を除き、泉州に遷り知らしむ。泉の属邑に隠士秦系の故廬有り、唐の相薑公輔邑の傍らに葬らる。令衿、堂を建て合せて之を祠る。郡人其の化に感ず。帰りて三衢に寓す。嘗て賓客を会し秦檜の家廟記を観、口に「君子の沢は、五世にして斬つ」の句を誦す。通守汪召錫は、檜の兄婿なり、頗る令衿を疑い、教官莫汲を諷して令衿が日月光無しと論じ、朝政を謗訕すと訴えしむ。侍御史董德元、風旨を承けて之を劾し、贓私を以て誣う。詔して令衿を獄に下す。案驗するに状無し。乃ち令衿を謗訕不遜と論じ、一官を追い勒停せしめ、南外宗正司に之を拘わしむ。檜、召錫を除いて湖南提挙と為し以て之に報ゆ。令衿を銜み、必ず死地に置かんとす。初め、趙鼎の子汾、帰りて衢を過ぐ。令衿之に贐す。侍御史徐嚞、檜の旨に希い、令衿と汾と密謀有り、朝廷の機事を伺うと誣う。汾を捕え大理寺に下し、汾をして自ら張浚・李光等と謀逆すと誣わしめ、而して令衿之に預かると為す。獄上る。檜病みて省みること能わず。乃ち免るることを獲たり。檜死し、復た爵す。二十六年、明州観察使を授かり襲封す。疾を引き燕王祠を奉ずるを乞う。之を許す。尋いで慶遠軍承宣使を加う。二十八年に薨ず。開府儀同三司を贈らる。
徳昭の玄孫に令話あり。
令話、建炎末、右武衛大将軍・信州防禦使と為る。熙寧初、首めて秦王の孫従式を封じ、已にして更に燕王の曾孫世清を封ず。宣和中、又た秦王の元孫令蕩を封ず。令蕩卒す。令庇は年最も長し。礼官、小宗は封ずるに当たらずと以為う。紹興元年六月、令話襲封を得、寧州観察使を授かる。二年七月に薨ず。開府儀同三司を贈らる。
徳昭の玄孫に令德あり。
令德は、乾道元年に武徳郎となった。時に安定郡王令詪が文階に換えたので、大宗正司が奏上して令徳を定武軍承宣使に任じ、襲封させた。令徳は貧しく、ほとんど蜀を出ることができなかった。七年、令徳が薨じ、令憉が封を受けるべきであったが、沈湎して声色にふけり、襲封に堪えなかった。詔して武徳郎令抬を襲封させ、金州観察使を除した。令抬が薨じた時、秦王の後には封を受けるべき者がなく、武翼郎子扌東は燕王の後に属し、年もまた最も長かったので、襲封を得た。子扌東が薨じ、九年九月、忠訓郎子肜が襲封し、容州観察使を授けられた。紹熙二年に薨じ、年八十余りであった。慶元元年十月、忠翊郎子恭が襲封し、利州観察使を授けられた。子恭が薨じ、嘉定二年七月、子覿が襲封し、金州観察使を授けられた。四年十一月、伯栩が襲封し、宣州観察使を授けられた。嘉定元年十月、伯柷が襲封し、福州観察使を授けられた。八年十一月、伯澤が襲封し、潭州観察使を授けられた。
太祖の四子 秦康惠王 徳芳
秦康惠王徳芳は、開宝九年に出閣し、貴州防禦使を授けられた。太平興国元年、興元尹・山南西道節度使・同平章事を授けられた。三年冬、検校太尉を加えられた。六年三月、寝疾して薨じ、年二十三であった。車駕が臨哭し、朝を五日間廃した。中書令・岐王及び諡を贈られた。後に太師を加贈され、楚王に改められた。子三人:惟敘・惟憲・惟能。
慶暦四年、詔して十王の後を封じ、惟敘の子従照を以て安国公に封じ、終に左金吾衛大将軍・帰州団練使となった。同州観察使・斉国公を贈られた。従照が卒すると、惟能の子従古を以て安国公に封じ、終に延州観察使となり、保静軍節度使・同中書門下平章事・楚国公を贈られ、諡して恵恪といった。従古が卒すると、惟憲の子従式が舒国公を襲封した。
神宗が即位し、創業して統を垂れるは、実に太祖に始まるが、顧みるに称えるものがないと言った。乃ち詔を下して中書門下に太祖の籍を考へさせ、属近くして行尊き者一人を以て、土地を裂いて王とさせた。常に従って郊廟に献せしめ、世々絶えることなからしめた。ここにおいて有司が推択し、従式を以て詔に応じ、安定郡王に封じ、終に保康軍節度使となり、同中書門下平章事を贈られ、栄王を追封され、諡して安僖といった。従式が既に薨じると、詔して越王の曾孫世准を以て安定郡王を襲封させ、而して従式の子世恩を以て楚国公の爵を襲わせ、楚王徳芳の祀を主らせた。楚州防禦使に遷り、卒して奉国軍節度使を贈られ、諡して良僖といった。徽宗が即位し、楚王を秦王に改封した。
徳芳の子 惟敘
惟敘は字を懋功といい、性純謹で、頗る学を好んだ。端拱初め、左武衛将軍を授けられ、四遷して左衛将軍となり、勤州刺史を領した。大中祥符四年、汾陰に従祀し、左千牛衛大将軍に拝された。八月、卒し、年三十五であった。懐州防禦使を贈られ、河内侯を追封された。明道二年、保静軍節度観察留後・高平郡公を加贈された。子従照は、安国公に封じられた。従溥は、右侍禁内殿崇班に至った。
徳芳の子 惟憲
惟憲は字を有則といい、豊儀美しく、少時は頗る縦肆であったが、長じて修謹となり、善く射、吟詠を好み、多く道書を読んだ。端拱初め、左屯衛将軍を授けられ、累遷して左羽林将軍・演州刺史を領し、左衛大将軍・賀州団練使を加えられ、真に資州団練使に拝された。大中祥符九年五月卒し、年三十八であった。安德軍節度使兼侍中・英国公を贈られた。子従式は、始め安定郡王に封じられ、事は上に見える。従演は、礼賓副使。従戎・従戒・従湜は、並びに内殿崇班。従賁は、供奉官。
徳芳の子 惟能
惟能は字を若拙といった。端拱初め、右屯衛将軍を授けられ、累遷して右神武軍将軍となった。大中祥符元年五月卒し、年三十であった。蔡州防禦使・張掖侯を贈られた。明道二年、集慶軍節度観察留後・南康郡公を加贈された。子従古は、安国公を襲封した。従善は、内殿承制。従贄は、崇班。
徳芳の来孫 安僖秀王・孝宗の父 子侢
安僖秀王子侢は、秦康惠王の後で、高宗の族兄である。康恵は英国公惟憲を生み、惟憲は新興侯従郁を生み、従郁は華陰侯世将を生み、世将は東頭供奉官令儈を生み、令儈は子侢を生んだ。宣和元年、舎試に合格し、嘉興丞に調された。この年、子伯琮が生まれ、後に選ばれて宮中に入り、これが孝宗である。
子侢は召されて都堂の審察に赴き、宣教郎に改められ、湖州通判となり、尋ねて直秘閣を除され、五品服を賜った。孝宗が既に建国公に封ぜられ、傅に就くと、子侢は召対して言う、「外に寓する宗室は、官舎に聚居させ、尊長を選んで鈐束すべきである。年十五に満たない者は州の小学に附入し、十五歳で大学に入り、進士に依って挙に就くことを許す。未だ官に出ざる者も亦た入学して聴読することを許し、一年に及んだら、参選を聴すべし」。高宗はその説を納れた。朝奉郎・秘閣修撰に遷り、処州知州となった。已にして祠を乞い、これを許された。累官して左朝奉大夫となった。紹興十三年秋致仕し、明年春、秀州に卒した。時に孝宗は普安郡王であり、服すべきところを疑い、詔して侍従・台諫に議させた。秦熺等は南班の故事の如く解官を請い、普安も亦た自ら持服を請うたので、これを許した。普安が節を建つるに及び、子侢は恩を以て太子少師を贈られた。既に太子となると、太師・中書令を加贈され、秀王に封じられ、諡して安僖といった。配の張氏は、王夫人に封じられた。
孝宗が禅を受け、皇伯と称したが、園廟の制は未だ備わらなかった。紹熙元年、始めて湖州の秀園に廟を立て、神主を奉じ、臨安府に祠を建て、以て神貌を蔵し、濮王の故事の如くした。仍って班偉
子は侢子、伯圭。
嗣秀王伯圭、字は禹錫、孝宗の同母兄なり。初め、恩により将仕郎に補せられ、秀州華亭尉に調せられ、累官して浙西提刑司幹辦公事に至り、明州添差通判を除せらる。孝宗、禅を受けしに、上皇詔して集英殿修撰・知台州を除す。
伯圭、郡に在りて、頗る政績著しく、敷文閣待制を除せられ、明州知事に改められ、沿海制置使を充てらる。蕃商境内に死し、遺貲巨万、吏没入を請うも、伯圭不可とし、その徒に喪及び貲を護りて帰らしむるを戒む。敷文閣直学士に昇り、憂により去り、服闋し、再び明州を知る。学宮を新たにし、宗子をして入学せしめ、規矩を以て閑かにす。詔して定海の兵を許浦に戍せしむ。伯圭奏す:「定海は控扼の衝に当たり、備えを撤すべからず、制司の軍を摘み以てその地を実にするを請う。」これに従う。
海寇猖獗す、伯圭人を遣わしてその豪葛明を諭降し、又明を遣わしてその党倪徳を禽す。二人素より桀黠と号す、伯圭悉く撫して之を用い、賊党遂に散ず。功により一官を進め、累ねて顕謨閣・龍図閣学士に昇る。郡に十年在り、政寛和、湖陂を浚い、水利を均しくし、冤獄を弁ず。嘗て銅を鑄する者を獲たり、諸法に置くに忍びず、業を易えしむるを諭し、民是によりて再犯無し。
淳熙三年、安德軍節度使を授けられ、尋いで開府儀同三司を加えられ、万寿観使を充つ。徳寿宮に朝し、上皇玉帯を賜い、少保を加えられ、滎陽郡王に封ぜらる。高宗崩じ、入臨し、攅宮総護使を充て、少傅を除せらる。光宗即位し、少師に昇る。年を踰えて召見せられ、太保に遷り、嗣秀王に封ぜられ、安僖祠の側に甲第を賜う。
臣僚上言す:「治平中、濮邸を追崇し、王の子孫幾二十人、皆自ら環衛より序を遷して其の官とす。今南班に居る者は師夔一人に止まり、本支を強くし磐石を固くする所以に非ず。前に未だ秀邸を建てざりし時、禄を賦せんと欲すれば、則ち吏事を責むるを免れず。今已に邸を建つるに、而も猶ほ吏事を責む、他日或いは議を免れざるべし。治すれば則ち恩を傷い、治せざれば則ち法を廃す。何ぞ之を南班に帰し、吏責無くして富貴を享けしめざる。」遂に詔して伯圭の諸子班を換うるを得しむ。
紹熙二年、判大宗正事を除せられ、別に宗学を立て、以て宗子を教うるを建請す。超えて太師に拝せられ、奉朝請を免ぜらる。尋いで崇信軍節度使を兼ね、第を賜い湖州に還り、尋いで家に薨ず。訃聞き、帝為に朝を三日輟め、崇王を追封し、諡して憲靖と曰う。
伯圭、性謙謹、近属を以て自ら居せず。毎日見え、家人の礼を行い、宴私隆洽と雖も、臣節を執ること愈恭し。一日、孝宗潜龍の時事を問う、伯圭辞して曰く:「臣老いたり、復た能く記せず。」問うこと再三に至るも、終に言わず。帝笑いて曰く:「何ぞ太だ謹なる。」益々之を愛重す。嘗て其の居を広め、湖に並びて復閣と為さんと欲す。有司既に材を度るも、伯圭固く辞して止む。阜陵成り、中書令に遷る。凡そ五たび譲る。寧宗其の志を嘉し、詔して別に褒崇の礼を議せしめ、賛拝して名を称せず、肩輿殿門に至るを贈る。子九人:師夔、師揆、師垂、師禼、師禹、師皋、師岩、師弥、師貢。
伯圭の子、師夔。
師夔、字は汝一、初め祖恩により官に補せられ、太平州蕪湖簿に調せらる。隆興元年、右承務郎に改め、台州・秀州通判を歴、直秘閣。尋いで徽州を知り、学舎を新たにし、直徽猷閣に進み、湖州を知る。時に帰附して軍に従い湖に廩する者衆く、給する能わず、師夔廩を増すを請い、仍別に僦屋銭を給し、以て其の心を安んず。帝善しと称し、詔して諸郡之を行わしむ。直龍図閣を除せられ、浙西提刑に遷り、江東運判に改む。
建康の務場、往々民利を奪い、害を為すこと滋甚だし、師夔首めて之を罷む。守臣郡計の資とする所を以て、師夔に詣り旧に復するを請うも、従わず。池州軍帥霍政と守臣、交わりて上書し相攻む。詔して師夔曲直を究めしむ。政密かに人を遣わして庇を求めしも、師夔之を斥け、状を具言し、政坐して罷め去る。
秘閣修撰・知明州兼沿海制置使に改め、敷文閣待制を加えられ、永慶軍承宣使に転ず。紹熙元年、父に侍して入覲し、興寧軍節度使を除せらる。寧宗即位し、検校少保を加えられ、阜陵橋道頓遞使を充つ。阜陵成り、開府儀同三司に遷る。父に侍して帰り、父薨ずること未だ月を踰えざるに、師夔亦卒す。年六十一。少師を贈られ、新安郡王を追封せらる。
伯圭の子、師揆。
師揆、字は元輔、初め右承務郎に補せられ祠を奉ず。添差湖州簽判を除せられ、婺州通判に改め、直秘閣を加う。守臣韓元吉其の材を薦む。上以て史浩に問う、浩其の聡爽任に堪う可きを言う。召対し、江東提挙を除す。失陷常平の人に償を責むる毋きを奏免す。淮南漕に改め、尋いで淮西提刑兼提挙に遷り、屯田事を領す。荒圩を以て軍士に給し、其の屯田民の世業と為る者を奪う勿からしむるを奏し、之に従う。及び代わり去らんとす、吏羨銭二十万を献ぜんと請う。師揆曰く:「後将に民を病まん。」直秘閣を除せられ、江東転運副使に改め、秘閣修撰を加えられ、明州を知る。
紹熙元年、観察使を授けらる。寧宗即位し、奉国軍承宣使を除せられ、尋いで節度使に昇る。召見せられ、肩輿を賜い、超えて検校太保・開府儀同三司に至り、万寿観使を充て、封を襲ぐ。開禧元年奉朝請し、嘉定七年薨ず。太傅を贈られ、澧王を追封し、諡して恭恵と曰う。
伯圭の子、師禹。
弟の師禹は、保康軍節度使より除して開府儀同三司となり、封を襲ぐ。十六年、薨ず。太傅を贈られ、和王を追封され、諡して端肅という。