神宗
欽聖献粛向皇后
帝不豫の時、后は宣仁(太皇太后)を補佐す。后は皇太子を立てる議を定む。哲宗立ち、尊びて皇太后と為す。宣仁は慶寿の故宮を修繕して后に居らしめんと命ずるも、后辞して曰く、「姑が西に居りて婦が東に処する有るべからず、上下の分を瀆す」と。敢えて移らず、遂に慶寿後殿を以て隆祐宮と為し、之に居る。帝将に后を卜し及び諸王の婦を納れんとす、后は向族に勅して女を選中に置くこと勿からしむ。族党に恩を以て閤職に換えんと援例せんと欲する者、及び選人の京秩を求めんとする者有り、且つ特旨有りと言ふも、后曰く、「吾が族未だ此の例を用ひざるを省みず、何ぞ私情を以て公法を撓ぐるを庸ひん」と。一も与へず。帝倉卒に晏駕す、独り策を決して端王を迎ふ。章惇異議有れども、沮ぐること能はず。
徽宗立ち、権に軍国事を同処分せんことを請ふも、后は長君を以て辞す。帝泣拝し、時を移して乃ち聴す。凡そ紹聖・元符以還、惇の斥逐せし賢大夫士を、稍稍収用す。故事に御正殿の如き、家諱を避くる、誕節を立てるの類有るも、皆用ひず。賓を召して故老に聞き、徭を寛め兵を息め、民を愛し儉を崇むるの挙に至りては、則ち喜色に見ゆ。纔かに六月にして、即ち政を還す。
明年正月崩ず、年五十六。帝追念して已まず、乃ち数へて両舅に恩を加ふ、向宗良・向宗回、皆位は開府儀同三司に至り、郡王に封ぜらる。而して敏中より以上三世も、亦追ひて王爵を列ねしむ、常典に非ざるなり。
欽成朱皇后
欽成朱皇后は、開封の人。父は崔傑、早世す。母は李氏、更に嫁して朱士安に適す。后は親しき所の任氏に鞠てらる。熙寧初、宮に入りて御侍と為り、才人・婕妤に進み、哲宗及び蔡王趙似・徐国公主を生み、累進して徳妃と為る。
欽慈陳皇后
林賢妃
林賢妃は南劍の人、三司使林特の孫、司農卿林洙の娘である。幼くして宮中に選ばれ、成長すると寵愛を受け、永嘉郡君に封ぜられ、美人に昇進した。燕王趙俁・越王趙偲・邢國公主を生み、婕妤に進んだ。元祐五年に薨去した。詔して一品の礼をもって葬り、貴儀を追贈し、さらに賢妃を贈られた。
武賢妃
哲宗
昭慈聖獻孟皇后
哲宗昭慈聖獻孟皇后は、洺州の人、眉州防禦使・馬軍都虞候・太尉を贈られた孟元の孫娘である。
初め、哲宗が成長すると、宣仁高太后は代々の名家の娘百余りを選んで宮中に入れた。后は十六歳のとき、宣仁太后及び欽聖向太后に共に愛され、女儀を教えられた。元祐七年、宰執に諭して「孟氏の娘は婦礼を執ることができる、中宮に正位させるのが宜しい」とし、学士に制を草せしめた。また近世の礼儀が簡略であるとして、翰林・台諫・給舎と礼官に冊后の六礼を議して進めるよう詔した。ここに至り、尚書左僕射呂大防を太尉に摂せしめて奉迎使とし、同知樞密院韓忠彥を司徒に摂せしめて副使とした。尚書左丞蘇頌を太尉に摂せしめて発策使とし、簽書樞密院事王岩叟を司徒に摂せしめて副使とした。尚書右丞蘇轍を太尉に摂せしめて告期使とし、皇叔祖同知大宗正事趙宗景を宗正卿に摂せしめて副使とした。皇伯祖判大宗正事高密郡王趙宗晟を太尉に摂せしめて納成使とし、翰林学士范百禄を宗正卿に摂せしめて副使とした。吏部尚書王存を太尉に摂せしめて納吉使とし、権戸部尚書劉奉世を宗正卿に摂せしめて副使とした。翰林学士梁燾を太尉に摂せしめて納采・問名使とし、御史中丞鄭雍を宗正卿に摂せしめて副使とした。帝は親しく文徳殿に御して冊立し皇后とした。宣仁太后は帝に語って「賢内助を得ることは、些細な事ではない」といった。后の父閤門祗候孟在を宗儀使・栄州刺史に、母王氏を華原郡君に進めた。
時に后の娘福慶公主が病み、后に姉がおり医術をよく知り、かつて后の危篤を治したことがあり、故に禁掖に出入りしていた。公主の薬が効かず、道家の治病符水を持ち込んで治そうとした。后は驚いて「姉は宮中の禁が厳しく、外間と異なることを知らぬのか」といい、左右に命じてこれを蔵めさせた。帝の来られるのを待ち、ことの次第を詳しく言上した。帝は「これは人の常情である」といった。后は即座に符を帝の前で焼いた。宮禁で相伝え、厭魅の端緒が起こった。間もなく、后の養母聴宣夫人燕氏・尼法端と供奉官王堅が后のために祠を祷った。事が聞こえ、詔して入内押班梁従政・管当御薬院蘇珪に命じ、即座に皇城司でこれを鞫問し、宦官・宮妾三十人近くを捕らえ、鞭打ち拷問を極め、肢体を毀折し、舌を断たれる者さえあった。獄が決し、侍御史董敦逸に覆録を命じたが、罪人が庭下を過ぎるとき、息は僅かに続くばかりで、一人として声を出す者はなかった。敦逸は筆を執り疑って下さず、郝随らが言葉で脅した。敦逸は禍が己に及ぶことを畏れ、奏牘を上した。詔して后を廃し、瑤華宮に出居させ、華陽教主・玉清妙静仙師と号し、法名を沖真とした。
初め、章惇が宣仁太后に廃立の計りごとがあったと誣い、后が宣仁に事えたことを捉え、惇はまた密かに劉賢妃に附き、彼女を皇后に立てようと請うたいと考え、遂に郝随と謀ってこの獄を構成し、天下これを冤とした。敦逸は奏言して「中宮の廃せられたるは、事に因るところあり、情に察すべきところあり。詔下された日、天これがために陰翳し、これは天の后を廃せんと欲せざるなり。人これがために流涕し、これは人の后を廃せんと欲せざるなり」といい、かつ「かつて獄事を覆録し、天下後世に罪を得るを恐る」といった。帝は「敦逸は言路に在らしむべからず」といった。曾布が「陛下はもと皇城の獄が近習の推治によることを以て、故に敦逸に録問せしめられた。今録問官を貶すれば、何を以て中外を取信せしめん」といったので、やめた。帝は久しくしてこれを悔い、「章惇我を誤れり」といった。
元符の末、欽聖太后が后の位を復そうとしたとき、丁度布衣が上書し、后について言及した者がおり、即座に官を授けた。ここにおいて詔して后を内に還し、元祐皇后と号した。これは当時劉が元符皇后と号していたためである。崇寧初め、郝随が蔡京に唆して再び后を廃せしめ、昌州判官馮澥が上書して后を復すべからずと述べた。台臣銭遹・石豫・左膚らが相次いで上章し、韓忠彦らが一布衣の狂言を信じ、既に廃された后を復して虚美を掠めんとすることについて論じ、大義を以て断ずるを望んだ。蔡京と執政の許将・温益・趙挺之・張商英は皆その説を主張した。徽宗はこれに従い、詔して紹聖の詔旨に依り、再び瑤華宮に居し、希微元通知和妙静仙師の号を加賜した。
靖康初め、瑤華宮が火災に遭い、延寧宮に移り住んだ。また火災に遭い、相国寺前の私第に出居した。金人が汴京を囲み、欽宗は近臣と議して再び后を復し、元祐太后と尊称しようとした。詔が下らぬうちに京城は陥落した。時に六宮で位号ある者は皆北遷されたが、后は廃されていたために独り残った。張邦昌が僭位し、尊号を宋太后として、延福宮に迎え住まわせ、百官の朝謁を受けた。胡舜陟・馬伸がまた言い、政事は后の旨を取るべきだと述べた。邦昌は乃ち再び尊号を元祐皇后と上って、禁中に迎え入れ、垂簾して聴政した。
后は康王が済に在ると聞き、尚書左右丞馮澥・李回及び兄の子孟忠厚を遣わし、書を持たせて奉迎させた。副都指揮使郭仲荀に命じて配下の兵を率い扈衛させ、また御営前軍統制張俊に命じて途中で迎えさせた。まもなく手書を降し、天下に告げ知らせた。王が南京に至ると、后は宗室の趙士㒟及び内侍邵成章を遣わし、圭宝・乗輿・服御を奉じて迎えさせた。王は皇帝の位に即き、元号を改めた。后はこの日に簾を撤き、后を元祐太后と尊んだ。尚書省が言うには、「元」の字が后の祖父の名に犯すので、居られる宮名に易えるよう請うた。そこで隆祐太后と称した。
上将(高宗)が揚州に行幸せんとし、仲荀に命じて太后を護衛して先発させ、揚州の州治に駐屯させた。時に張浚が先に六宮の居所を定めることを請うたので、遂に詔して忠厚に太后を奉じて杭州に行幸させ、苗傅を扈従統制とした。一年を経て、傅と劉正彥が乱を起こし、太后に聴政を請うた。また皇子の立太子を請うた。太后は彼らに諭して言った、「蔡京・王黼が祖宗の法を改め、童貫が辺境の事を起こして、国家に禍乱を招いた。今、皇帝に失徳はなく、ただ黄潜善・汪伯彦に誤らされただけで、彼らは既に追放された」。傅らは必ず皇太子を立てよと言うので、太后は言った、「今、強敵が外にあり、我が婦人が三歳の小児を抱いて聴政すれば、どうして天下に令せんや」。傅らは泣いて請うたが、太后は強く拒絶した。帝は事態の急なるを聞き、詔して元子に禅位し、太后が垂簾聴政した。朱勝非が臣僚に独りで対して機密事を論じることを許し、なお毎日傅の党一人を引いて上殿させ、その疑いを解くことを請うた。太后はこれに従い、傅らに会うたびに、ことさらに慰撫を加えたので、傅らは皆喜んだ。韓世忠の妻梁氏が傅の軍中にいたが、勝非が計略をもってこれを脱せしめ、太后が召見し、世忠に速やかに来るよう励まし、以て朝廷を清めよと命じた。梁氏は世忠の軍に馳せ入り、太后の意を諭した。世忠らは遂に兵を引いて至り、逆党は懼れた。朱勝非らは復辟を誘い、王世修に草状を起草させて進呈させた。太后は喜んで言った、「我が責めは塞がれぬ」。再び手札をもって帝に還宮を促し、即座に簾を撤かんとした。帝は勝非に命じて太后に一度御殿に出御するよう請わせ、乃ち簾を撤くことを命じた。この日、上皇太后の尊号を上った。
太后は張浚の忠義を聞き、一度会いたいと思い、帝が浚を召して禁中に至らせた。承議郎馮楫がかつて苗傅に書を送って復辟を勧めたが、上はこれを知らず、太后がその事を白状したので、楫は官位を遷すことができた。
帝が建康に行幸し、簽書樞密院事鄭玨に命じて太后を護衛して後に発たせ、到着すると、帝は群臣を率いて郊外で迎えた。時に防秋が迫り、劉寧止に命じて江・浙を制置させ、太后を護衛して洪州に行かせ、軍事に関与しない百官は皆従わせた。なお滕康・劉玨に権知三省樞密院事として従行させ、四方の奏讞・吏部の差注・挙辟・功賞の類は、皆これに隷属させた。また四廂都指揮使楊惟忠に命じ、兵一万人を将いて護衛従行させた。帝は敵人が侵攻して来ることを慮り、密かに康・玨に諭し、緩急あれば太后の旨を取り、便宜を行わせた。落星寺を過ぎる時、舟が覆り、宮人十数人が溺死したが、ただ太后の舟は恙無かった。
洪州に至ると、議者が言うには、「金人が蘄・黄から江を渡り、陸路二百余里を行けば、即ち洪州に到る」。帝はこれを憂い、劉光世に命じて江州に屯させた。光世は備えをせず、金人は遂に大冶県から直ちに洪州に向かった。康・玨は太后を奉じて行き、吉州に次いだ。金人の追撃急なり、太后は舟に乗って夜行した。夜明けに、太和県に至ると、舟人景信が反逆し、楊惟忠の兵は潰え、宮人一百六十人を失い、康・玨は共に遁走し、兵衛は百に満たず、遂に虔州に行った。太后及び潘妃は農夫の肩輿に乗って行った。帝は太后が直ちに閩・広に入ることを慮り、使者を遣わして歴々に后の所在を尋ねさせ、虔州に在ると知ると、遂に中書舍人李正民を遣わして来朝謁させた。
時に虔州の府庫は皆空しく、衛軍に給するものは、ただ沙銭を得るのみで、市買に用いられず、百姓と交闘し、火を放って肆に掠奪した。土豪陳新が衆を率いて城を囲み、康・玨・惟忠はこれを禁じることができなかった。惟忠の歩将胡友が外から兵を引いて新を城下で破り、新は去った。帝はこれを聞き、康・玨を罷免し、盧益・李回に代えさせた。輔臣に諭して言った、「朕は初め太后を知らず、南京に迎えて以来、朕を愛すること己が出ずるに啻ならず。今、数千里の外に在り、兵馬驚擾す、当に亟に奉迎し、以て朕の朝夕慕念の意を愜わすべし」。遂に禦営司都統辛企宗・帯禦器械潘永思を遣わして迎え帰らせた。太后が越に至ると、帝は親ら行宮門外で迎え、過ぎし所の守臣の治状を遍く問うた。
宮禁中に入り、嘗て微かに風眩に苦しんだ。ある宮人が自ら符呪を善くすると言い、疾は良く癒えた。太后は驚いて言った、「仁(宣仁太后)のことを我豈に敢えて再びこの語を聞かんや」。直ちに命じてこれを出させた。太后の生辰に、宮中に酒宴を設け、従容として帝に謂って言った、「宣仁太后の賢は、古今の母后に其の比無し。昔、奸臣が肆に謗誣を為し、嘗て詔を下して明らかに弁じたが、国史は未だ刪定せず、豈に信を伝うるに足らんや。我が意は、天の霊、帝に望み無からざるにあらん」。帝はこれを聞いて悚然とした。后は乃ち更に『神宗実録』・『哲宗実録』を修し、始めて其の正を得、而して奸臣の情状益々著しくなった。
帝は太后に事えて極めて孝で、帷帳に至るまで皆親ら視た。或いは時果を得れば、必ず先ず太后に献じ、然る後に敢えて嘗めた。宣教郎范燾は忠厚と憾み有り、太后が密かに欽宗の子を養うと誣った。帝は言った、「朕と太后は母子の如し、安んぞ此れ有らんや」。即座に其の罪を治めた。紹興五年春、風疾に患い、帝は旦暮左右を離れず、衣を解かず帯すること連夕に及んだ。
后は性節倹謙謹、有司の月供は千緡にて止む。南昌に行幸し、私絹三千匹を斥売して費に充てた。尋いで詔して、文書で奏すべき者は后の父の名を避けよとせしめ、許さず。群臣が太皇太后の号を上ることを請うたが、亦許さず。忠厚を直顯謨閣とせしめると、台諫・給舍が交章して論列し、后は聞き、即ち武官に易えさせ、学士院に命じて詔を降し、忠厚らを戒敕して朝政に預かり聞かず、貴近に通ぜず、私第に至り宰執を謁見せざるべしと。恩沢に当たり官を得るべき者近く八十員、后は嘗て陳請せず。
初め、后が冊を受けた日、宣仁太后が歎じて言った、「この人は賢淑なり、惜しむらくは福薄きのみ。異日、国に事変有らば、必ずこの人当たるべし」。后は皆其の言う如くであった。
昭懷劉皇后
昭懷劉皇后、初め禦侍となり、明豔にして後庭に冠たり、且つ多才芸。美人・婕妤より賢妃に進む。一子二女を生む。盛寵有り、能く両宮の意に順い奉る。時に孟后が中宮に位す、后は列妾の礼に循わず、且つ陰に奇語を造りて以て謗を售り、内侍郝隨・劉友端がこれを用う。孟后既に廃せられ、后竟に代わる。右正言鄒浩が上疏して極諫し、坐して竄せらる。徽宗立ち、冊して元符皇后とす。明年、尊んで太后とし、宮を崇恩と名づく。帝は哲宗の故に縁り、曲く恩礼を加う、后は是を以て頗る外事に干預し、且つ不謹を以て聞こゆ。帝と輔臣議し、将にこれを廃せんとす、而して后は既に左右に逼せられ、即ち簾鉤にて自縊して崩ず、年三十五。
徽宗
顯恭王皇后
鄭皇后
鄭皇后は、開封の人である。父の鄭紳は、初め直省官であったが、后の貴きにより累ねて太師・楽平郡王に封ぜられた。
后はもと欽聖殿の押班であり、徽宗が端王であった時、毎日慈徳宮に朝謁するに当たり、欽聖は鄭・王二押班に供侍を命じた。即位すると、遂に二人を賜った。后は宮に入ってより、書を観ることを好み、章奏を自ら製することができ、帝はその才を愛した。崇寧初年、賢妃に封ぜられ、貴妃に進み異寵があった。徽宗は多く詞章を賜い、天下これを歌った。
欽宗が禅を受け、太上皇后と尊び、寧徳宮に遷居し、寧徳太后と称した。上皇に従い南京に幸し、金師退くと、先に帰った。時に用事者が言うには、上皇が鎮江にて復辟せんとし、人情危惧した。或いは后が端門より直ちに禁中に入らんと謂い、内侍輩は欽宗に厳備を勧めた。帝は従わず、郊に出て后を迎え、ここに於いて両宮の歓甚だ洽った。上皇これを聞き、即ち洛に行かんとする議を罷めた。
汴京破れ、上皇に従い青城に幸す。北遷し、五年留まり、五国城にて崩じ、五十二歳。紹興七年、何蘇等使還り、初めて上皇及び后の崩じたるを知り、高宗大いに慟した。詔して重成の服を立て、諡して顕肅と曰う。后の親族各官を遷すこと差等あり。主を徽宗室に祔し、哀を聞く日を大忌とした。梓宮帰り、境に入り、槨を以てこれを承け、翬衣をその中に納め、徽宗と各会稽の永佑陵に攅る。
先に、后が金営に至り、粘罕に訴えて「妾は罪を得て行くべし。但だ妾の家属は朝政に預からず、留めて遣わさざるを乞う」と言った。粘罕これを許し、故に鄭紳は帰ることができた。后既に行き、鄭紳もまたこの年に薨じ、諡して僖靖と曰う。家属は江南に流寓し、高宗これを憐れみ、詔して所在に尋訪し官を賜う。鄭藻という者有り、后の近属である。紹興年中、帯御器械として后の祔廟の恩により、隴州防禦使に拝す。凡そ四度金に使いし、歴官して保信軍節度使に至り、太尉を加えられた。卒し、追封して栄国公、諡して端靖と曰う。
王貴妃
王貴妃は、鄭后と共に押班であった。徽宗立ち、平昌郡君に封ぜられ、位を進めて貴妃に至る。鄆王楷・莘王植・陳王機・恵淑・康淑・順徳・柔福・沖懿の帝姫を生む。政和七年九月薨じ、諡して懿肅と曰う。
韋賢妃
韋賢妃は、開封の人であり、高宗の母である。初め宮に入り、侍御となった。崇寧末、平昌郡君に封ぜられる。大観初、婕妤に進み、累遷して婉容となる。高宗が康王邸より出使するに当たり、龍徳宮賢妃に進封された。上皇に従い北遷す。建炎改元、遥かに尊びて宣和皇后とす。その父の韋安道を郡王に封じ、親属三十人に官す。ここより使いを遣わすこと絶えず。
帝は后の久しく未だ帰らざるを以て、毎に顰蹙して「金人若し朕の請に従わば、余は皆問う所に非ざるなり」と言った。王倫使いより回り、金人后を帰すことを許すと言う。未だ幾ばくもなく、金人蕭哲を遣わし来たり、亦后将に帰らんとする状を言う。遂に予め慈寧宮を作り、莫将・韓恕を奉迎使とす。十年、金人未だ后を帰さざるを以て、乃ち遥かに皇太后の冊宝を慈寧殿に上る。是より後、生辰・至日・朔日、皆遥かに賀礼を行う。
洪皓燕に在り、后の書を求め得て、李微を遣わし持って帰らしむ。帝大いに喜びて「使いを百輩遣わすも、一書に如かず」と言い、遂に李微の官を加う。金人蕭毅・邢具瞻を遣わし来たり和を議す。帝曰く「朕天下を有ちて、養い親に及ばず。徽宗は及ぶ無し。今誓信を立てんには、当に明らかに我が太后を帰せと言うべし。朕は和を恥じず。然らずんば、朕兵を用いるを憚らざるなり」と。蕭毅等還るに当たり、帝又これに語して「太后果して還らば、自ら誓約を謹守すべし。若し其れ未だならば、誓約有りと雖も、徒らに虚文たるのみ」と言った。
何鑄・曹勛を命じて返礼の使者とし、内殿に召して諭して曰く、「朕は北の方の庭闈を望みて、揮うべき涙なし。卿ら金主に会う時は、必ず『慈親の上国に在るは、一老人に過ぎず。本国に在りては、則ち繫がる所甚だ重し』と説くべし。至誠を以てこれを説き、彼をして感ぜしめよ」と。何鑄ら金国に至り、まず太后の帰還を請う。金主曰く、「先朝既にこの如くに定めたれば、豈に軽々に改めんや」と。曹勛再三懇請し、金主漸くこれを許す。何鑄ら館舎に就くと、館伴の耶律紹文来りて告げるに、金主その請いに従うことを許すと。洪皓これを聞き、先に人を遣わして報ず。何鑄ら還り、実情を詳しく言上す。ここに参知政事王次翁を奉迎使に命ず。金人はその臣高居安・完顔宗賢らを遣わし、扈従して行かしむ。
先に、梓宮未だ還らずして、詔して中外に楽を輟む。ここに至り、太后の寿節を慶賀し、始めて楽を用いる。家廟に謁し、親属遷官すること凡そ二千人。
太后は聡明にして智慮有り。初め、金人が三つの梓宮を還すことを許した時、太后はその反覆を恐れ、役夫を呼び集めて畢りて、然る後に攢宮を発した。時に暑さ盛んなり。金人は行を憚る。太后は他変有らんことを慮り、乃ち偽って疾を称え、秋涼を待って進発すべしとす。已にして金使に借り、黄金三千両を得て以てその衆を犒い、これにより途上に間言無し。太后北方に在りし時、韓世忠の名を聞き、臨平に至り、世忠を呼び簾前まで至らせて慰労す。宮に還りて、帝太后に侍すこと、或は夜半に至っても去らず。太后曰く、「暫く休め。朝を聴くは早きに宜しく、恐らくは万機を妨げん」と。又嘗て謂う、「両宮の給使は、宜しく通用せしむべし。然らずんば、則ち彼我の分有りて、佞人の間言入り易し」と。
時に皇后未だ立たず。太后屡々帝に言う。帝手書を降すことを請う。太后曰く、「我はただ家事を知るのみ。外廷は預かるべき所に非ず」と。冊命を行わんとするに当たり、承平の典礼を悉く記憶す。帝は先意承志し、惟だ及ばざるを恐る。或は一食稍々減ずれば、輒ち憂懼に勝えず。常に宮人を戒めて曰く、「太后年既に六十、惟だ優遊無事、起居意に適い、即ち寿考康寧なり。事に闕有らば、母上に令して太后に知らしむるを懼るるな。第に朕に来たりて白せ」と。
十九年、太后年七十。正月朔、即ち宮中に慶寿の礼を行い、親属各官一等を遷す。太后微恙有り、累月殿門を出でず。会うに牡丹盛んに開く。帝入りて白す。太后欣然として歩みて花の所に至り、因りて宴を留め、竟日歓を尽くす。忌日に、宰執に諭す。后目疾に苦しむ。医の皇甫坦を募り得て、治すと即ち癒ゆ。
二十九年、太后の寿八十に登る。復た慶礼を行ふ。親属進官一等。庶人年九十・宗子女及び貢士以上の父母年八十の者、悉く官封す。九月、疾を得る。上朝を視ず。輔臣を敕して天地・宗廟・社稷に祈祷せしめ、天下を赦し、租税を減ず。俄に慈寧宮に崩ず。諡して顕仁と曰う。永佑陵の西に攢し、神主を太廟徽宗室に祔す。親属進秩する者十四人、官を授かる者三人。
太后は性質倹なり。有司金唾壺を進む。太后これを易え、塗金を用いしむ。宮中賜与は三数千を過ぎず。得たる供進の財帛、多く庫に積む。ここに至り、喪葬の費、皆これに仰ぎ給う。然れども仏・老を好む。初め、高宗出使の時、小妾言うに、四金甲人刀剣を執りて衛るを見たりと。太后曰く、「我四聖を祠ること謹み甚だし。必ず其の陰助なり」と。既に北遷して後、常に祭を設く。及び帰り、祠を西湖上に立つ。
喬貴妃
喬貴妃は、初め高宗の母韋妃と共に鄭皇后に侍し、姊妹と結び、先に貴き者は相忘れざるを約す。既にして貴妃徽宗の寵を得、遂に韋氏を引き入れ、二人愈々相得たり。二帝北遷するに及び、貴妃は韋氏と俱に行く。ここに至り、韋妃将に還らんとす。貴妃金五十両を以て高居安に贈りて曰く、「薄物礼と為すに足らず。願わくは好く姉を護送して江南に還らしめよ」と。復た酒を挙げて韋氏に酌みて曰く、「姉は善く重ねて保護せよ。帰れば即ち皇太后とならん。妹に還期無く、終に朔漠に死せん」と。遂に大いに慟哭して別る。
劉貴妃
先に、妃庭に芭蕉を手植えして曰く、「是の物長ずる時、吾及び見ざらん」と。已にして果たして然り。左右奔り走りて帝に告ぐ。帝初めその微疾を以て、意に経せず。趣いて幸せんとす。既に薨じたれば、始めて大いに悲惻す。特ちに四字の諡を加えて明達懿文と曰う。その平生を叙し、楽府に弦えしむ。又た温成の故事に踵いて追崇せんと欲し、皇后をして表請せしめ、因りて冊贈して后と為し、而して明達を以て諡す。
時に又た安妃劉氏有り。本は酒保の家の女なり。初め崇転宮に事え、宮罷みて、出でて宦者何聴の家に居る。内侍楊戩その美を誉め、復た召し入る。妃は同姓と為して養女とし、遂に寵有り。才人と為り、進みて淑妃に至る。建安郡王趙楧・嘉国公趙椅・英国公趙楒・和福帝姫を生む。政和四年、貴妃を加う。朝夕上に侍し得て、愛を擅にし席を顓にす。嬪禦これが為に稀に進む。その父劉宗元を抜擢して節度使と為す。
欽宗 朱皇后
兄二人:孝孫は、靖康年中に節鉞を換えて右金吾衛上将軍を授かり、卒して開府儀同三司を追贈された。孝章、一日孝莊、官は永慶軍承宣使に至り、卒して昭化軍節度使を追贈された。
高宗
憲節邢皇后
高宗の憲節邢皇后は、開封祥符の人である。父は煥、朝請郎であった。高宗が康王邸に居た時、帰聘してこれを娶り、嘉国夫人に封じた。王が使節として出発すると、夫人は人に留まって蕃衍宅に居住した。金人が京師を犯すと、夫人は三宮に従って北遷した。上皇が曹勳を帰還させた時、夫人は身に着けていた金環を外し、内侍に持たせて勳に付けて言わせた、「幸いに我が大王に伝えてくれ、願わくはこの環の如く、早く相見えんことを」と。王はこれを憐れんだ。即位すると、遙かに冊立して皇后とし、后の親属二十五人を官とした。
紹興九年、后は五国城において崩御した。年三十四。金人はこれを秘し、高宗は中宮を虚しくして待つこと十六年であった。顕仁太后が回鑾して、初めて崩御の報を得た。上は朝を輟め、釈服の祭を行い、諡を懿節とし、別廟に主を合祀した。
憲聖慈烈呉皇后
憲聖慈烈呉皇后は、開封の人である。父は近、后の貴いことにより累官して武翼郎に至り、太師を追贈され、呉王に追封され、諡は宣靖。
近は嘗て夢に一つの亭に至り、扁に「侍康」とあるのを見た。傍らに芍薬を植え、独り一つの花を咲かせ、殊に妍麗で可愛らしく、花の下に白羊一頭がいた。近は覚めてこれを怪しんだ。后は乙未の年に生まれ、産まれる時、紅光が戸外を徹した。年十四、高宗が康王であった時、選ばれて宮中に入り、人は「侍康」の徴であると言った。
王が帝位に即くと、后は常に戎服を以て左右に侍った。后は頗る書を知り、四明に従幸した時、衛士が謀叛を企て、入って帝の所在を問うたが、后がこれを欺いて難を免れた。未だ幾ばくもなく、帝が航海すると、魚が躍り上がって御舟に入った。后は言った、「これは周人の白魚の祥である」と。帝は大いに悦び、和義郡夫人に封じた。越に還ると、才人に進封した。后は益々書史に博習し、又翰墨を善くし、これにより寵遇日増しに加わり、張氏と並んで婉儀となり、尋いで貴妃に進んだ。
顕仁太后は性質厳肅であり、后は身を以て起居を承け、その意に順適した。嘗て『古列女図』を描き、座中に置いて鑑とし、又『詩序』の義を取り、その堂に「賢志」と扁した。
初め、伯琮が宗子として召されて宮中に入ると、命じて張氏にこれを育ませた。后は当時才人であったが、亦一子を育むことを得んことを請い、ここに伯玖を得、名を璩と改めた。中外の議は頗る籍籍たるものがあった。張氏が卒すると、並びに后に養育され、后はこれを見るに差別がなかった。伯琮は性質恭儉で、読書を喜び、帝と后は皆これを愛し、普安郡王に封じた。后は嘗て帝に語って言った、「普安は、まさに天日之表である」と。帝の意は決し、皇子に立て、建王とした。璩を出して紹興に居住させた。
潘賢妃
潘賢妃は開封の人で、元懿太子の母である。父の永寿は、直翰林医局官であった。高宗が康王邸に居た時にこれを納れ、邢后が北遷した後も、妃には位号がなかった。帝が即位し、后に立てようとしたが、呂好問が諫めて止めさせ、賢妃に立てた。太子が薨じると、隆祐太后に従って江西に赴き、一年余りして還った。紹興十八年に薨じた。永寿には、太子少師を追贈した。
張賢妃
劉貴妃
劉賢妃は臨安の人である。入宮して紅霞帔となり、才人に遷り、累遷して婕妤・婉容となり、紹興二十四年に賢妃に進んだ。頗る寵愛を恃んで驕侈であり、かつて盛夏に水晶で脚榻を飾ったことがあった。帝がこれを見て、枕に取るよう命じた。妃は恐れ、撤去した。淳熙十四年に薨じた。
父の懋は、累官して昭慶軍節度使となった。金人が南侵した時、軍興費を助けるため銭二万緡を献じた。懋の子允升は、紹興末年に和州防禦使・知閣門事となった。奉使から還り、蘄州防禦使・福州観察使に遷った。
劉婉儀
劉婉儀は、初め入宮して宜春郡夫人に封ぜられた。まもなく才人に進み、劉婉容と共に寵愛を受け、婉儀に進んだ。婉儀は頗る恩寵を恃んで権勢を招き、かつて人を遣わして広州の蕃商に明珠香薬を献上するようほのめかし、官爵をもって約束した。舶官林孝沢が朝廷に言上し、詔してその献上を止めさせた。金人が盟約に背こうとした時、劉錡が主戦を唱え、幸医王継先が中からこれを沮んだ。そこで錡を誅殺しようと謀ったが、帝は快く思わなかった。ある日、婉儀の居所で、帝は憂色を示した。婉儀は密かにその言葉を探り出し、帝の心を慰めようとした。帝は継先の言葉と合致するのを怪しみ、詰問した。婉儀は慌てて、実情を全て答えた。帝は大いに怒り、他の過失にかこつけてこれを廃した。兄の伉は、累官して和州防禦使・知閣門事となったが、婉儀が廃された後、祠官に任ぜられて罷め帰った。
張貴妃
美人馮氏、才人韓氏・呉氏・李氏・王氏は皆寵幸を受けたが、后は皆廃された。呉氏は中宮の近属である。紹興三十年、元の封号に復した。李氏・王氏は共に明豔であり、淳熙末年に上皇に愛された。上皇が崩御すると、憲聖后が二才人を見る度に感憤したため、孝宗は直ちに告命を追って、自便を許した。これは常制ではない。
孝宗
成穆郭皇后
孝宗の成穆郭皇后は、開封府祥符県の人である。奉直大夫郭直卿の孫娘で、その六世の祖は章穆皇后(真宗の皇后)の母方の外戚であった。孝宗が普安郡王であった時に郭氏を娶り、咸寧郡夫人に封じた。光宗と莊文太子、魏惠憲王趙愷、邵悼肅王趙恪を生んだ。紹興二十六年に薨去、三十一歳。淑國夫人を追封された。三十一年、明堂の恩典により、福國夫人を贈られた。太子が立てられた後、皇太子妃を追封された。そして受禪(即位)すると、皇后を追冊し、諡を恭懷としたが、まもなく安穆と改めた。阜陵(孝宗の陵)を営むに及び、さらに成穆と改め、孝宗廟に合祀された。
父の郭瑊は、累官して昭慶軍承宣使となり、榮王を追封された。孝宗は郭氏一族に恩禮を厚くしたが、外戚に官爵を濫りに与えることはしなかった。皇后の弟の郭師禹・郭師元は、官は承宣使を超えず、師元は節度使に至る前に卒した。内禪(譲位)の際に、師禹は初めて節度使に除せられた。光宗の朝に至り、官は太保に至り、永寧郡王に封ぜられた。
成恭夏皇后
初め、皇后が生まれた時、異様な光が部屋を貫き、父の夏協はこれを奇異に思った。成長すると、その容姿により宮中に入った。長くして、父の生活はますます困窮し、帰郷して袁州の僧舎に寄寓し、夏翁と号した。翁が亡くなって後、皇后はようやく貴くなった。弟の夏執中を訪ね出し、承信郎・閣門祗候に補した。まもなく、右武郎・閣門宣贊舍人に遷り、累遷して奉國軍節度使、萬壽觀提挙となった。寧宗が即位すると、少保を加えられた。一年余りして、家で卒した。
初め、執中は微賤の時の妻とともに上京した。宮人が彼に離縁するようそそのかし、貴族から配偶を選んで、皇后に媚びようとしたが、執中は動じなかった。ある日、皇后が親しく言い出したが、執中は宋弘の言葉を誦して答え、皇后はその意志を変えさせることができなかった。貴くなってから、初めて師に従って学び、大字を書くのがかなり巧みで、また騎射をよくした。高宗が慶壽の礼を行った時、近戚はこぞって珍しい玉環を献上したが、執中はただ「一人慶有り、萬壽疆り無し」と大書して献じた。高宗は喜び、賜り物を非常に厚くした。かつて館伴副使となり、連射して皆命中させたので、金人は驚き服した。孝宗はその才を聞き、召し用いようとしたが、謝して言った。「後日、陛下に累し無く、保全されるだけで十分です。」人々はこれにより一層彼を賢人と見なした。
成肅謝皇后
成肅謝皇后は、丹陽県の人である。幼くして孤児となり、翟氏に養育されたため、その姓を冒した。成長すると、選ばれて宮中に入った。憲聖太后が普安郡王に賜い、咸安郡夫人に封じた。王が即位すると、婉容に進んだ。一年余りして、貴妃に進んだ。
皇后は性質倹約で慈しみ深く、膳の羊を減らし、食事の度に必ずまず帝に進めた。洗い濯した衣を着用し、数年も取り替えないものもあった。弟の謝淵は、皇后の貴いことにより、武翼郎を授けられた。皇后はかつて戒めて言った。「主上は恭儉の徳化を行われ、私もまた洗い濯した衣を身につけている。お前は謙遜を尊び、驕り奢侈を遠ざけるべきである。」淵は累遷して閣門宣贊舍人・帯禦器械となった。光宗の朝に、果州団練使に遷った。寧宗が立つと、萊州防禦使に転じ、知閣門事に抜擢され、引き続き皇城司幹辦を兼ねた。三度遷って保信軍節度使に至り、まもなく太尉・開府儀同三司を加えられた。成肅皇后が崩じた時、遺誥により淵に銭十万緡・金二千両・田十頃を賜り、日々の賃銭を十千とされた。淵は累進して三少(少師・少傅・少保)に至り、和國公に封ぜられた。嘉定四年に薨じ、太保を贈られた。
蔡貴妃
李賢妃
李賢妃は、初め宮中に入り、典字となり、通義郡夫人に転じ、婕妤に進んだ。淳熙十年に卒し、賢妃を贈られた。時に李燾が経筵に在り、嘗て後宮の費用を省くよう諫めた。帝曰く、「朕は老いた、どうしてかくの如きことがあろうか。近頃李妃を葬るに三萬緡を用いたのみである」と。帝は在位久しきも、後宮の寵幸は、著しく聞こえる者無し。
光宗
慈懿李皇后
光宗慈懿李皇后は、安陽の人、慶遠軍節度使・太尉を贈られた李道の次女なり。初め、后が生まれた時、黒鳳が道の営前の石上に集まり、道は心に異とし、遂に后を字して鳳娘と曰う。道が湖北を帥く時、道士皇甫坦が人相を善くすると聞き、乃ち諸女を出して坦に拝謁せしむ。坦、后を見て驚き、敢えて拝を受けず、曰く、「此の女は天下の母と為るべし」と。坦、高宗に言上し、遂に聘して恭王妃と為し、栄国夫人に封じ、定国夫人に進む。乾道四年、嘉王を生む。七年、皇太子妃に立てらる。
性、妬み悍く、嘗て太子の左右の者を高・孝の二宮に訴え、高宗は悦ばず、呉后に謂ひて曰く、「是の婦は将種なり、吾れ皇甫坦に誤らる」と。孝宗も亦屡々后を訓戒し、「皇太后を法とすべし、然らずんば、行ひて汝を廃せん」と。后は其の説が太后に出づるを疑ふ。
太子の即位するに及び、冊立てて皇后と為す。光宗、宦者を誅せんと欲し、近習皆懼れ、遂に謀りて三宮を離間す。会に帝疾を得るや、孝宗良薬を購ひ得て、帝の宮に至るに因りて之を授けんと欲す。宦者遂に后に訴へて曰く、「太上は一大丸の薬を合はせ、宮車の過ぐるを俟ちて即ち薬を投ぜんとす。万一不虞有らば、其れ宗社を奈何せん」と。后、薬の実に有るを覘ひ、心に之を銜む。頃くして、内宴有り、后、嘉王を立てて太子と為さんことを請ふ。孝宗許さず。后曰く、「妾は六礼を以て聘はれ、嘉王は妾の親生なり、何を以て不可ならん」と。孝宗大いに怒る。后退き、嘉王を抱きて帝に泣訴し、寿皇に廃立の意有りと謂ふ。帝之に惑はされ、遂に太上に朝せず。
帝嘗て宮中にて手を洗ふ時、宮人の手の白きを睹て、之を悦ぶ。他日、后、人を遣はして食合を帝に送る。啓くれば、則ち宮人の両手なり。又、黄妃寵有り、帝の親しく郊祀し、斎宮に宿るに因り、后之を殺し、暴卒を以て聞こゆ。是の夕風雨大いに作し、黄壇の燭尽く滅し、礼を成す能はず。帝の疾は是より益々増劇し、朝を視ず、政事多く后に決す。后益々驕奢に、三代を封じて王と為し、家廟は制を踰え、衛兵は太廟より多し。后家廟に帰謁し、親族二十六人・使臣一百七十二人に推恩し、下って李氏の門客に至るまで、亦官に補するを奏す。中興以来未だ有らざるなり。
是の時、帝久しく太上に朝せず、中外疑駭す。紹熙四年九月重明節、宰執・侍従、台諫連章して帝の宮に過ぐるを請ふ。給事中謝深甫言上して曰く、「父子至親、天理昭然たり。太上の陛下を愛するは、亦猶陛下の嘉王を愛するが如し。太上春秋高し、千秋萬歳の後、陛下何を以て天下に見えん」と。帝感悟し、趣に命駕して重華宮に朝す。是日、百官班列して帝の出づるを俟つ。御屏に至るや、后、帝を挽き留めて入らしめ、曰く、「天寒し、官家暫く酒を飲め」と。百僚・侍衛相顧みて敢えて言ふ者無し。中書舎人陳傅良、帝の裾を引きて入る毋かれと請ひ、因りて屏後に至る。后叱して曰く、「此れ何の地ぞ、爾秀才頭を斬らんと欲するか」と。傅良殿下に下り慟哭す。后復た人を遣はして問はしめて曰く、「此れ何の理ぞ」と。傅良曰く、「子、父を諫めて聴かざれば、則ち号泣して之に随ふ」と。后益々怒り、遂に旨を伝へて還宮を罷む。其の後孝宗崩じ、帝親しく喪を執ること能はず。
宰相趙汝愚、内禅を謀り、寧宗を立て、后を尊びて太上皇后と曰ひ、上尊号して寿仁と曰ふ。慶元六年崩じ、年五十六、諡して慈懿と曰ふ。
黄貴妃
寧宗
恭淑韓皇后
寧宗恭淑韓皇后は、相州の人、其の六世祖は忠献王琦なり。初め、后は姉と俱に選ばれて宮中に入り、后能く両宮の意に順適し、遂に平陽郡邸に帰り、新安郡夫人に封ぜられ、崇国夫人に進む。王、禅を受くるとき、夫人を冊立てて皇后と為す。后の父同卿は、泰州知事より揚州観察使に昇り、母莊氏は安国夫人に封ぜらる。
慶元六年崩じ、諡して恭淑と曰ふ。同卿累遷して慶遠軍節度使に至り、太尉を加へらる。慶元五年卒し、太師を贈られ、諡して恭靖と曰ふ。
同卿の季父侂冑は、自らに定策の功ありとして、その勢威は赫灼たり。同卿は常に満盈を懼れ、敢えて政事に干渉せず。当時、天下皆侂冑が后族たるを知るも、同卿こそ后の父たるを知らざりき。同卿の没するより一年にして后崩御し、侂冑遂に敗亡す。人始めて其の権勢を遠ざけ熱中を去るの善きを服せり。同卿の子竢は、后の兄なり。官は承宣使に至る。
恭聖仁烈楊皇后
五年、婉儀に進む。六年、貴妃に進む。恭淑皇后崩御し、中宮未だ所属する所なし。貴妃と曹美人俱に寵愛を受く。韓侂冑は、妃が権術を任ずるを見て、曹美人の性柔順なるを以て、帝を勧めて曹を立てしむ。然るに貴妃は頗る書史に渉り、古今を知り、性復た機警なり。帝遂に之を立てしむ。
后侂冑を誅して後、弥遠日を逐うて貴用せられ政事を執る。嘉定十四年、帝国嗣未だ定まらざるを以て、宗室の子貴和を養ひ、皇子と為し立て、名を竑と賜ふ。弥遠丞相と為り、既に后に信任せられ、遂に国政を専らにす。竑漸く平らかならず。初め、竑琴を好む。弥遠美人にして琴を善くする者を買ひて之を納る。而して私に美人の家を厚くし、皇子の動静を窺はしむ。竑之を嬖す。一日、竑輿地図を指して美人に示し曰く、「此れ瓊崖州なり。他日必ず史弥遠を此の地に置かん」と。美人以て弥遠に告ぐ。竑又た几に字を書して曰く、「弥遠当に八千里に決配せらるべし」と。竑の左右皆弥遠の腹心、走りて弥遠に白す。弥遠大いに懼れ、陰に異志を蓄へ、他の宗室の子昀を立てて皇子と為さんと欲し、遂に陰に昀と通ず。
十七年閏八月丁酉、帝大漸す。弥遠夜に昀を召して宮中に入る。后未だ知らざりき。弥遠后の兄の子穀及び石を遣はし、以て廃立の事を后に白す。后不可として曰く、「皇子は先帝の立てし所なり。豈に敢えて擅に変へんや」と。是の夜、凡そ七度往反すれども、后終に聴かず。穀等乃ち拝泣して曰く、「内外の軍民皆已に帰心す。苟くも之を立たずんば、禍変必ず生ず。則ち楊氏に唯類無からん」と。后黙然として良久くして曰く、「其の人安在ぞ」と。弥遠等昀を召し入る。后其の背を拊して曰く、「汝今吾が子と為れ」と。遂に詔を矯めて竑を廃し済王と為し、昀を立てて皇子と為し、即ち帝位に即かしむ。皇后を尊びて皇太后と曰ひ、同しく聴政す。
次山の官は少保に至り、永陽郡王に封ぜらる。次山の二子、穀は新安郡王に封ぜられ、石は永寧郡王に封ぜらる。自ら傳あり。姪孫の鎮は、理宗の女周漢公主に尚し、官は左領軍衛将軍・駙馬都統に至る。宗族の鳳孫等、皆通顕の任に在りと云ふ。
理宗 謝皇后
理宗謝皇后は、諱を道清と曰ひ、天台の人なり。父は渠伯、祖父は深甫。后生まれながらにして黧黒く、目に瞖一つあり。渠伯早く卒す。家産益々破壊す。后嘗て躬親して汲飪す。
后既に立てらるるも、賈貴妃寵愛を専らにす。貴妃薨じ、閻貴妃又た色を以て進む。后之を処すること裕如として、略くも介懷せず。太后深く之を賢とし、而して帝の礼遇益々加はる。開慶初め、大元の兵江を渡る。理宗平江・慶元に遷都せんことを議す。后諫めて不可とし、民心を搖動するを恐れ、乃ち止む。
太后兵興に因り費用繁きを以て、痛く自ら裁節し、慈元殿提挙以下の官を汰し、泛索の錢緡月に万を省く。平章賈似道兵潰ゆ。陳宜中上疏して其の罪を正さんことを請ふ。太后曰く、「似道は三朝に勤労す。豈に一旦の罪を以てして大臣遇するの礼を失ふべきや」と。先づ其の官を削り、後に乃ち法を置きて貶死せしむ。
京朝官は難を聞き、往々にして避匿遁去す。太后は朝堂に榜を掲げて命じて曰く、「我が国家三百年、士大夫を待つこと薄からず。吾と嗣君は家に多難に遭う、爾ら小大臣は一策を出だして時艱を救う能わず、内に則ち官を畔き次を離れ、外に則ち印を委ね城を棄て、難を避け生を偸む、尚いずくんぞ人たるや。また何をもって先帝に地下に於いて見えんや。天命未だ改まらず、国法尚存す。凡そ官守に在る者は、尚書省即ち与に一次を転ず。国に負いて逃るる者は、御史覚察して以て聞かしむ」と。
是の月、大元の兵常州を破る、太后は陸秀夫等を遣わして和を請わしむ、従わず。宜中即ち公卿を率いて遷都を請う、太后許さず、宜中痛哭固く請う、已むを得ず之に従う。明日啓行すべし、而して宜中倉卒に奏を失う、ここに於いて宮車已に駕し、日且に暮れて宜中至らず、太后怒りて止む。明年正月、更に宜中をして軍中に使わしめ、臣礼を用いるを約す。宜中之を難しとす、太后涕泣して曰く、「苟くも社稷を存せば、臣たる、較ぶる所に非ざるなり」と。未幾、大元の兵皋亭山に迫る、宜中宵遁し、文武百官も亦潜かに相引き去る。
二月辛丑、大軍錢塘に駐す、宋亡ぶ。瀛国公と全后は朝に入り、太后は疾を以て杭に留まる。是の年八月、京師に至り、降封して寿眷郡夫人と為す。越えて七年にして終わる、年七十四、子無し。
兄奕、宋の時に郡王に封ぜらる。侄堂、両浙鎮撫大使、栄郡公主を尚ぶ。暨・𡌴並びに節度使、端平初、頗る国政に干与すと云う。
度宗
全皇后
度宗全皇后、会稽の人、理宗の母慈憲夫人の侄孫女なり。略書史に渉り、幼より父昭孫に従い岳州を知る。開慶初、秩満して帰り、道すがら潭州に至る。時に大元の兵羅鬼より入り全・衡・永・桂を破り、潭州を囲む、人に城を衛う神人を見る者有り、已にして潭独り下らず。逾年事平らぎ、臨安に至る。
会に忠王妃を納るを議す。初め、丁大全は臨安府知事顧嵓の女を選ぶを請い、已に聘を致す。大全敗れ、嵓も亦罷め去る。台臣嵓を論じて大全の党と為し、宜しく別に名族を選び以て太子に配すべしとす。臣僚遂に言う、全氏其の父昭孫に侍し、江湖を往返し、艱険を備嘗す。其れ貴富に処らば、必ず能く警戒相成の道を尽くさんと。理宗は母慈憲の故を以て、乃ち后を詔して宮に入らしめ、問いて曰く、「爾が父昭孫、昔宝祐の間に王事に没す、之を念う毎に、人をして哀しましむ」と。后対えて曰く、「妾が父は念う可し、淮・湖の民は尤も念う可しなり」と。帝深く之を異とし、大臣に詔して曰く、「全氏の女言辞甚だ令し、宜しく塚嫡に配し、以て祭祀を承くべし」と。
后子を生みて育たず、次に瀛国公を生む。十年、度宗崩じ、瀛国公立ち、冊して皇太后と為す。宋亡び、瀛国公に従い燕京に於いて朝に入る。后は尼と為り正智寺にて終わる。
楊淑妃
至元十四年、大軍は昰を海上に於いて囲む。明年四月、昰卒し、昺代わりて立つ。十六年春二月、昺海に投じて死す、妃之を聞き大いに慟し、曰く、「我艱関忍死するは、正に趙氏の祭祀尚望む可き有るが為なり、今天命此に至る、夫れ復何をか言わん」と。遂に海に赴きて死す。其の将張世傑之を海濱に葬る。