宋史

列傳第一 后妃上

列傳第一 后妃上

周人が祖を尊ぶ詩に曰く、「厥初生民、時は維れ姜嫄」と。蓋し后稷の出づる所を推し本とし、以て王跡の基づく所となすなり。宋の興りは、先世の積累に由るとは雖も、然れども宣祖に至りて功業始めて大なり。昭憲杜后は実に太祖・太宗を生み、内助の賢、母範の正、蓋し宋世の基業を開く者有らしむる所以なり。其の太祖を訓えて『無逸』を以て天下を治めしむるを観、太宗の神器の伝を予め定むるに至り、宗社の為に慮る、蓋し益々遠し。其の後、慈聖光献曹后は両朝を擁佑し、宣聖烈高后は簾を垂れて政を聴き、而して元祐の治有り。南渡して後、若し高宗の母道を以て隆祐に事へしむる、孝宗の明慈を奉じて怡愉の楽をなすは、皆以て百王の法程と為すに足る。宋三百餘年、外に漢の王氏の患無く、内に唐の武・韋の禍無し、豈に卓然として尚ぶ可からざらんや。昭憲の垂裕の功、是に至りて茂し。旧史は昭憲の性厳毅、礼法有りと称す。『易』の『家人』上九に曰く、「孚有り、威如く、終に吉」と。其れ是れ之を謂ふか。『后妃傳』を作す。

原文周人尊祖之詩曰:「厥初生民,時維姜嫄。」蓋推本后稷之所自出,以為王跡之所由基也。宋之興,雖由先世積累,然至宣祖功業始大。昭憲杜后實生太祖、太宗,內助之賢,母範之正,蓋有以開宋世之基業者焉。觀其訓太祖以《無逸》治天下,至於豫定太宗神器之傳,為宗社慮,蓋益遠矣。厥後慈聖光獻曹后擁佑兩朝,宣聖烈高后垂簾聽政,而有元祐之治。南渡而後,若高宗之以母道事隆祐,孝宗奉明慈怡愉之樂,皆足以為百王法程。宋三百餘年,外無漢王氏之患,內無唐武、韋之禍,豈不卓然而可尚哉。昭憲垂裕之功,至是茂矣。舊史稱昭憲性嚴毅,有禮法。《易》之《家人》上九曰:「有孚,威如,終吉。」其是之謂歟。作《后妃傳》。

太祖母 昭憲杜太后

原文太祖母 昭憲杜太后

太祖母昭憲杜太后は、定州安喜の人なり。父は爽、太師を贈らる。母は範氏、五子三女を生み、太后は長に居る。既に笄して宣祖に帰る。家を治むるに厳毅にして礼法有り。邕王光済・太祖・太宗・秦王廷美・夔王光贊・燕国陳国二長公主を生む。

原文太祖母昭憲杜太后,定州安喜人也。父爽,贈太師。母範氏,生五子三女,太后居長。既笄歸於宣祖。治家嚴毅有禮法。生邕王光濟、太祖、太宗、秦王廷美、夔王光贊、燕國陳國二長公主。

周の顕徳中、太祖は定国軍節度使と為り、南陽郡太夫人に封ぜらる。及び太祖の陳橋より京師に還るに及び、人走りて報じて太后に曰く、「点検已に天子と作る」と。太后曰く、「吾が児素より大志有り、今果然り」と。太祖即位し、尊びて皇太后と為す。太祖堂上に於て太后に拝し、衆皆賀す。太后愀然として楽しまず、左右進みて曰く、「臣聞く『母は子を以て貴しと為す』と、今子は天子と為る、何を為して楽しまざる」と。太后曰く、「吾聞く『君と為るは難し』と、天子は身を兆庶の上に置く、若し治め其の道を得ば、則ち此の位は尊ぶ可し;苟くも或は馭を失はば、匹夫を求むるも得可からず、是れ吾の憂ふる所以なり」と。太祖再拝して曰く、「謹んで教を受く」と。

原文周顯德中,太祖為定國軍節度使,封南陽郡太夫人。及太祖自陳橋還京師,人走報太后曰:「點檢已作天子。」太后曰:「吾兒素有大志,今果然。」太祖即位,尊為皇太后。太祖拜太后于堂上,眾皆賀。太后愀然不樂,左右進曰:「臣聞『母以子貴』,今子為天子,胡為不樂?」太后曰:「吾聞『為君難』,天子置身兆庶之上,若治得其道,則此位可尊;苟或失馭,求為匹夫不可得,是吾所以憂也。」太祖再拜曰:「謹受教。」

建隆二年、太后豫せず、太祖楽餌を侍して左右を離れず。疾亟しく、趙普を召し入れて遺命を受く。太后因りて太祖に問ひて曰く、「汝は天下を得る所以を知るか」と。太祖嗚噎して対ふる能はず。太后固より之を問ふ。太祖曰く、「臣の天下を得る所以は、皆祖考及び太后の積慶なり」と。太后曰く、「然らず、正に周の世宗の幼児をして天下を主たらしむるに由るのみ。周氏に長君有らしめば、天下豈に汝が有と為らんや。汝百歳の後は当に位を汝の弟に伝ふべし。四海至って広く、万機至って衆し、能く長君を立てば、社稷の福なり」と。太祖頓首して泣きて曰く、「敢へて教の如くせざらんや」と。太后顧みて趙普に謂ひて曰く、「爾は吾が言を同じく記し、違ふ可からず」と。普をして榻前において約誓の書を為らしむ。普は紙尾に「臣普書す」と書す。之を金匱に蔵し、謹密なる宮人をして之を掌らしむ。

原文建隆二年,太后不豫,太祖侍樂餌不離左右。疾亟,召趙普入受遺命。太后因問太祖曰:「汝知所以得天下乎?」太祖嗚噎不能對。太后固問之,太祖曰:「臣所以得天下者,皆祖考及太后之積慶也。」太后曰:「不然,正由周世宗使幼兒主天下耳。使周氏有長君,天下豈為汝有乎?汝百歲後當傳位於汝弟。四海至廣,萬幾至眾,能立長君,社稷之福也。」太祖頓首泣曰:「敢不如教。」太后顧謂趙普曰:「爾同記吾言,不可違也。」命普於榻前為約誓書,普於紙尾書「臣普書」。藏之金匱,命謹密宮人掌之。

太后滋徳殿に崩ず、年六十、諡して明憲と曰ふ。安陵に葬り、神主は太廟に祔享す。乾徳二年、更に諡して昭憲とし、安陵に合祔す。

原文太后崩于滋德殿,年六十,諡曰明憲。葬安陵,神主祔享太廟。乾德二年,更諡昭憲,合祔安陵。

太祖

原文太祖

孝惠賀皇后

原文孝惠賀皇后

太祖孝惠賀皇后は、開封の人なり。右千牛衛率府率景思の長女なり。性溫柔恭順、動くに礼法を以てす。景思常に軍校と為り、宣祖と護聖営に同居す。晉の開運初、宣祖は太祖の為に聘す。周の顕徳三年、太祖は定国軍節度使と為り、会稽郡夫人に封ぜらる。秦國晉國二公主・魏王徳昭を生む。五年、寝疾して薨ず、年三十。建隆三年四月、詔して追冊して皇后と為す。乾徳二年三月、有司諡を上りて孝惠と曰ふ。四月、安陵西北に葬り、神主は別廟に享く。神宗の時、孝章・淑徳・章懷と並びに太廟に祔す。

原文太祖孝惠賀皇后,開封人。右千牛衛率府率景思長女也。性溫柔恭順,動以禮法。景思常為軍校,與宣祖同居護聖營。晉開運初,宣祖為太祖聘焉。周顯德三年,太祖為定國軍節度使,封會稽郡夫人。生秦國晉國二公主、魏王德昭。五年,寢疾薨,年三十。建隆三年四月,詔追冊為皇后。乾德二年三月,有司上諡曰孝惠。四月,葬安陵西北,神主享於別廟。神宗時,與孝章、淑德、章懷並祔太廟。

孝明王皇后

原文孝明王皇后

孝明王皇后は、邠州新平の人なり。彰徳軍節度使饒の第三女なり。孝惠崩じ、周の顕徳五年、太祖は殿前都点検と為り、后を聘して継室と為す。后は恭勤懈まず、仁慈を以て下を禦ふ。周の世宗は冠帔を賜ひ、琅邪郡夫人に封ず。

原文孝明王皇后,邠州新平人。彰德軍節度饒第三女。孝惠崩,周顯德五年,太祖為殿前檢點校,聘后為繼室。后恭勤不懈,仁慈禦下。周世宗賜冠帔,封琅邪郡夫人。

太祖即位し、建隆元年八月、冊して皇后と為す。常に寛衣を服し、禦膳を佐け、箏鼓琴を弾くに善し。晨に起き、仏書を誦す。杜太后に事へて驩心を得。子女三人を生む、皆夭す。乾徳元年十二月崩ず、年二十二。有司諡を上る。翰林学士竇儀哀冊文を撰す。二年四月、安陵の北に葬る。神主は別廟に享く。太平興國二年、太廟に祔享す。

原文太祖即位,建隆元年八月,冊為皇后。常服寬衣,佐禦膳,善彈箏鼓琴。晨起,誦佛書。事杜太后得驩心。生子女三人,皆夭。乾德元年十二月崩,年二十二。有司上諡,翰林學士竇儀撰哀冊文。二年四月,葬安陵之北。神主享於別廟。太平興國二年,祔享太廟。

孝章宋皇后

原文孝章宋皇后

孝章宋皇后は、河南洛陽の人、左衛上將軍宋偓の長女である。母は漢の永寧公主。后は幼時に母に従い入朝して拝謁し、周の太祖より冠帔を賜う。乾徳五年、太祖は召見し、再び冠帔を賜う。時に宋偓は華州節度使に任ぜられ、后は母に従って鎮所に帰る。孝明后が崩じ、再び母に従って長春節を賀しに来る。開宝元年二月、遂に納れて宮中を皇后と為し、年十七。性柔順にして礼を好み、帝が毎朝を視て退くごとに、常に冠帔を具えて候接し、御饌を佐けた。太祖崩じ、開宝皇后と号す。

原文孝章宋皇后,河南洛陽人,左衛上將軍偓之長女也。母漢永甯公主。后幼時隨母入見,周太祖賜冠帔。乾德五年,太祖召見,復賜冠帔。時偓任華州節度,后隨母歸鎮。孝明后崩,復隨母來賀長春節。開寶元年二月,遂納入宮為皇后,年十七。性柔順好禮,每帝視朝退,常具冠帔候接,佐禦饌。太祖崩,號開寶皇后。

太平興国二年、西宮に居す。雍熙四年、東宮に移り居す。至道元年四月崩じ、年四十四。有司が諡を上る。普済仏舎に権殯す。三年正月、永昌陵の北に祔葬す。吏部侍郎李至に命じて哀冊文を撰せしめ、神主は別廟に享けしむ。神宗の時、太廟に升祔す。

原文太平興國二年,居西宮。雍熙四年,移居東宮。至道元年四月崩,年四十四。有司上諡,權殯普濟佛舍。三年正月,祔葬永昌陵北。命吏部侍郎李至撰哀冊文,神主享於別廟。神宗時,升祔太廟。

太宗

原文太宗

淑徳尹皇后

原文淑德尹皇后

太宗の淑徳尹皇后は、相州鄴の人。滁州刺史尹廷勳の女。兄は尹崇珂、保信軍節度使。太宗が周に在りし時に娶る。早く薨ず。及び帝即位し、詔して追冊して皇后と為し、並びに諡し、孝明陵の西北に葬る。神主は別廟に享けしめ、后は太廟に升祔す。

原文太宗淑德尹皇后,相州鄴人。滁州刺史廷勳之女。兄崇珂,保信軍節度。太宗在周時娶焉。早薨。及帝即位,詔追冊為皇后,並諡,葬孝明陵西北。神主享於別廟,后升祔太廟。

懿徳符皇后

原文懿德符皇后

懿徳符皇后は、陳州宛丘の人。魏王符彦卿の第六女なり。周の顕徳年中、太宗に帰す。建隆初め、汝南郡夫人に封ぜられ、進んで楚国夫人に封ぜらる。太宗が晋王に封ぜられし時、越国に改む。開宝八年薨じ、年三十四。安陵の西北に葬る。帝即位し、追冊して皇后と為し、諡して懿徳と曰い、別廟に享く。至道三年十一月、詔して有司に太宗の配を議せしむ。宰相、后を以て配と為さんことを請い、詔してこれに従う。神主を奉じて太廟に升祔す。后の姉は、周の世宗の后なり、淳化四年に殂す。

原文懿德符皇后,陳州宛丘人。魏王彥卿第六女也。周顯德中,歸太宗。建隆初,封汝南郡夫人,進封楚國夫人。太宗封晉王,改越國。開寶八年薨,年三十四。葬安陵西北。帝即位,追冊為皇后,諡懿德,享於別廟。至道三年十一月,詔有司議太宗配,宰相請以后配,詔從之。奉神主升祔太廟,后姊,周世宗后也,淳化四年殂。

明徳李皇后

原文明德李皇后

明徳李皇后は、潞州上党の人。淄州刺史李処耘の第二女。開宝年中、太祖が太宗の為に聘して妃と為す。既に幣を納れしも、太祖崩ずるに会い、太平興国三年に至りて始めて宮中に入り、年十九。雍熙元年十二月、詔して立って皇后と為す。后は性恭謹荘粛にして、諸子及び嬪禦を撫育すること甚だ厚し。嘗て皇子を生むも、育たず。至道二年、后の嫡母呉氏を衛国太夫人に封じ、後に楚国に改封し、及び后の母陳氏を韓国太夫人に封ず。

原文明德李皇后,潞州上黨人。淄州刺史處耘第二女。開寶中,太祖為太宗聘為妃。既納幣,會太祖崩,至太平興國三年始入宮,年十九。雍熙元年十二月,詔立為皇后。后性恭謹莊肅,撫育諸子及嬪禦甚厚。嘗生皇子,不育。至道二年,封后嫡母吳氏為衛國太夫人,後改封楚國,及封后母陳氏為韓國太夫人。

太宗崩じ、真宗即位す。至道三年四月、后を尊んで皇太后と為し、西宮の嘉慶殿に居す。咸平二年、宰相別に宮を建て名を立てんことを請い、これに従う。四年宮成り、移り居す。仍って宮名を万安と上る。景德元年崩じ、年四十五。諡して明徳と曰う。沙台に権殯す。三年十月、永熙陵に祔葬す。礼官、懿徳・明徳を以て同じく太宗廟室に祔し、先後を以て次と為さんことを請い、これに従う。

原文太宗崩,真宗即位。至道三年四月,尊后為皇太后,居西宮嘉慶殿。咸平二年,宰相請別建宮立名,從之。四年宮成,移居之,仍上宮名曰萬安。景德元年崩,年四十五。諡明德。權殯沙台。三年十月,祔葬永熙陵。禮官請以懿德、明德同祔太宗廟室,以先後為次,從之。

元徳李皇后

原文元德李皇后

李賢妃は、真定の人、乾州防禦使李英の女なり。

原文李賢妃,真定人,乾州防禦使英之女也。

太祖、妃に容徳有るを聞き、太宗の為にこれを聘す。開宝年中、隴西郡君に封ぜらる。太宗即位し、夫人に進む。皇女二人を生むも、皆早く亡ぶ。次いで楚王元佐を生む。妃嘗て日輪が己に逼るを夢み、裾を以てこれを承け、光耀体に遍くし、驚いて覚め、遂に真宗を生む。太平興国二年薨じ、年三十四。

原文太祖聞妃有容德,為太宗聘之。開寶中,封隴西郡君。太宗即位,進夫人。生皇女二人,皆早亡,次生楚王元佐。妃嘗夢日輪逼己,以裾承之,光耀遍休,驚而悟,遂生真宗。太平興國二年薨,年三十四。

真宗即位し、賢妃を追封し、又上尊号して皇太后と為す。有司諡を上りて元徳と曰う。咸平三年、永熙陵に祔葬す。中書侍郎・平章事李沆を以て園陵使と為す。車駕普安院の攢宮に詣り、素服して礼を行い、拝伏して嗚咽す。駕部郎中・知制誥梁周翰に命じて哀冊を撰せしむ。神主は別廟に祔す。

原文真宗即位,追封賢妃,又進上尊號為皇太后。有司上諡曰元德。咸平三年,祔葬永熙陵。以中書侍郎、平章事李沆為園陵使。車駕詣普安院攢宮,素服行禮,拜伏嗚咽。命駕部郎中、知制誥梁周翰撰哀冊。神主祔別廟。

大中祥符元年、后の父李英を追贈して検校太尉・安国軍節度・常山郡王と為し、母を魏国太夫人と為す。大中祥符三年、礼官趙湘、后を以て太宗廟室に祔さんことを請う。真宗曰く、「此れ重事なり、礼官をして議せしめ俟てん」と。六年秋、宰相王旦と群臣、表を上りて后の尊号より「太」の字を去り、太廟の明徳の次に升祔せんことを請い、これに従う。

原文大中祥符元年,追贈后父英檢校太尉、安國軍節度、常山郡王,母魏國太夫人。大中祥符三年,禮官趙湘請以后祔太宗廟室。真宗曰:「此重事也,俟令禮官議之。」六年秋,宰相王旦與群臣表請后尊號中去「太」字,升祔太廟明德之次,從之。

真宗

原文真宗

章懷潘皇后

原文章懷潘皇后

真宗の章懷潘皇后は、大名の人であり、忠武軍節度使潘美の第八女である。真宗が韓王の邸にあった時、太宗が聘してこれを娶り、莒國夫人に封じた。端拱二年五月に薨じ、年二十二。真宗即位後、追冊して皇后とし、諡を壯懷とし、永昌陵の側に葬り、陵名を保泰とした。神主は別廟に享けられた。旧制では后の諡は帝の諡を冠する。慶曆年間、礼官が「孝」の字は太祖の諡に連なり、「德」の字は太宗の諡に連なると言上した。そこで「壯」を「章」に改め、真宗の諡に連ねさせた。

原文真宗章懷潘皇后,大名人,忠武軍節度美第八女。真宗在韓邸,太宗為聘之,封莒國夫人。端拱二年五月薨,年二十二。真宗即位,追冊為皇后,諡壯懷,葬永昌陵之側,陵名保泰。神主享於別廟,舊制后諡冠以帝諡。慶曆中,禮官言,「孝」字連太祖諡,「德」字連太宗諡。遂改「壯」為「章」,以連真宗諡云。

章穆郭皇后

原文章穆郭皇后

章穆郭皇后は、太原の人であり、宣徽南院使郭守文の第二女である。淳化四年、真宗が襄王の邸にあった時、太宗が聘してこれを娶った。魯國夫人に封じ、進んで秦國夫人に封じられた。真宗が帝位を嗣ぐと、皇后に立てられた。景德四年、西京への行幸に従い帰還する途中、病により崩じ、年三十二。

原文章穆郭皇后,太原人,宣徽南院便守文第二女。淳化四年,真宗在襄邸,太宗為聘之。封魯國夫人,進封秦國。真宗嗣位,立為皇后。景德四年,從幸西京還,以疾崩,年三十二。

后は謙虚で倹約し、下に恵みを施し、性奢靡を憎んだ。族属が禁中に入謁する時、服飾が華美で奢侈であれば、必ず戒め諭した。家事について上に言上することを求める者がいても、后は終に許さなかった。兄の子が嫁ぐ時、貧しいことを理由に恩賜を祈願したが、ただ装具を出して与えただけであった。上は特に礼遇して重んじた。

原文后謙約惠下,性惡奢靡。族屬入謁禁中,服飾華侈,必加戒勖。有以家事求言於上者,后終不許。兄子出嫁,以貧欲祈恩賚,但出裝具給之。上尤加禮重。

崩御すると、上は深く嘆き悼んだ。礼官が皇帝は七日で喪服を脱ぐと奏上したが、特詔で十三日に増やされた。太常が上諡して壯穆と称した。霊駕が発引する際、翰林学士楊億に哀冊を撰させた。永熙陵の西北に葬り、神主は別廟に享けられた。后の弟崇儀副使郭崇仁を壮宅使・康州刺史とし、甥の郭承慶・郭承寿はいずれも官を遷した。大中祥符年間、后の母高唐郡太夫人梁氏を萊國太夫人に封じた。仁宗即位後、真宗廟室に升祔し、諡を章穆に改めた。

原文及崩,上深嗟悼。禮官奏皇帝七日釋服,特詔增至十三日。太常上諡曰壯穆。靈駕發引,命翰林學士楊億撰哀冊。葬永熙陵之西北,神主享於別廟。以后弟崇儀副使崇仁為壯宅使、康州刺史,侄承慶、承壽皆遷官。大中祥符中,封后母高唐郡太夫人梁氏萊國太夫人。仁宗即位,升祔真宗廟室,改諡章穆。

章獻明肅劉皇后

原文章獻明肅劉皇后

章獻明肅劉皇后、その先祖は太原に家し、後に益州に移り、華陽の人となった。祖父劉延慶は、晉・漢の間に右驍衛大将軍を務めた。父劉通は、虎捷都指揮使・嘉州刺史となり、太原征伐に従軍し、途中で卒した。后は劉通の第二女である。

原文章獻明肅劉皇后,其先家太原,後徙益州,為華陽人。祖延慶,在晉、漢間為右驍衛大將軍;父通,虎捷都指揮使、嘉州刺史,從征太原,道卒。后,通第二女也。

初め、母の龐氏が月が懐に入る夢を見、やがて懐妊し、遂に后を生んだ。后は襁褓のうちに孤となり、外戚の家で育てられた。鞀を播くのが巧みであった。蜀人の龔美という者が、銀鍛冶を業としており、彼を連れて都に入った。后は十五歳で襄王の邸に入った。王の乳母秦國夫人は性質が厳格で、太宗にこのことを言上し、王に斥け去らせた。王は已むなく、后を王宮指使張耆の家に置いた。太宗が崩御し、真宗が即位すると、宮中に入り美人となった。宗族がいないため、龔美を兄弟とし、姓を劉に改めさせた。大中祥符年間、修儀となり、進んで德妃となった。

原文初,母龐夢月入懷,已而有娠,遂生后。后在繈褓而孤,鞠於外氏。善播鞀。蜀人龔美者,以鍛銀為業,摧之入京師。后年十五入襄邸,王乳母秦國夫人性嚴整,因為太宗言之,令王斥去。王不得已,置之王宮指使張耆家。太宗崩,真宗即位,入為美人。以其無宗族,乃更以美為兄弟,改姓劉。大中祥符中,為修儀,進德妃。

章穆皇后が崩じて後、真宗は彼女を皇后に立てようとしたが、大臣の多くは不可とし、帝は遂にこれを立てた。李宸妃が仁宗を生んだが、后はこれを己が子とし、楊淑妃と共に礼を尽くして養育した。后は性質聡明で悟りが早く、書史に通じ、朝廷の事を聞けば、その本末を記憶することができた。真宗が退朝し、天下の封奏を閲覧する時、多くは夜中に及び、后は皆これを預かって聞いた。宮中の事について問われると、常に故事を引き合いに出して答えた。

原文自章穆崩,真宗欲立為皇后,大臣多以為不可,帝卒立之。李宸妃生仁宗,后以為己子,與楊淑妃撫禮甚至。后性警悟,曉書史,聞朝廷事,能記其本末。真宗退朝,閱天下封奏,多至中夜,后皆預聞。宮圍事有問,輒傅引故實以對。

天禧四年、帝は久しく病み宮中に居り、事の多くは后によって決せられた。宰相寇凖が密議を上奏し、皇太子に国政を監させようとしたが、謀が漏れて宰相を罷免され、丁謂が代わりに用いられた。その後、入内都知周懷政が后を廃し丁謂を殺し、再び寇凖を用いて太子を輔けようと謀った。客省使楊崇勳・内殿承制楊懷吉が丁謂の許に赴き告げた。謂は夜、犢車に乗り、崇勳・懷吉を伴って枢密使曹利用の許に至り謀った。翌日、懷政を誅し、寇凖を衡州司馬に貶した。ここにおいて詔して皇太子に資善堂を開かせ、大臣を引見して天下の事を決せしめ、后は内で裁断した。

原文天禧四年,帝久疾居宮中,事多決於后。宰相上寇凖密議奏請皇太子監國,以謀泄罷相,用丁謂代之。既而,入內都知周懷政謀廢后殺謂,復用凖以輔太子。客省使楊崇勳、內殿承制楊懷吉詣謂告,謂夜乘犢車,挾崇勳、懷吉造樞密使曹利用謀。明日,誅懷政,貶准衡州司馬。於是詔皇太子開資善堂,引大臣決天下事,后裁制於內。

真宗が崩御し、遺詔で后を皇太后と尊び、軍国の重事は、暫く彼女の処分に委ねた。丁謂らは太后に別殿に御するよう請うたが、太后は張景宗・雷允恭を遣わして諭して言った、「皇帝が政務を見る時、朝夕側にいるべきであり、どうして別に一殿に御する必要があろうか」。そこで帝と太后が五日に一度承明殿に御し、帝は左に位し、太后は右に位し、簾を垂れて事を決するよう請うた。議が既に定まった時、太后は突然手書を出し、ただ禁中で章奏を閲覧し、大事に遇えば即ち輔臣を召し対せしめたいと望んだ。この謀は丁謂の出したものであり、太后の本意ではなかった。謂が既に貶されると、馮拯らが三度奏上し、初めの議の通りにするよう請うた。帝もまたこれを言上し、ここにおいて初めて共に承明殿に御した。百官が表を奉って賀し、太后は哀慟した。有司が令を制して「吾」と称し、誕生日を長寧節とし、出入りに大安輦に御し、鳴鞭や侍衛を乗輿の如くにするよう請うた。天下に太后の父の諱を避けさせた。群臣が尊号を上って「応元崇徳仁寿慈聖太后」とし、文徳殿に御して冊を受けた。

原文真宗崩,遺詔尊后為皇太后,軍國重事,權取處分。謂等請太后御別殿,太后遣張景宗、雷允恭諭曰:「皇帝視事,當朝夕在側,何須別御一殿?」於是請帝與太后五日一御承明殿,帝位左,太后位右,垂簾決事。議已定,太后忽出手書,第欲禁中閱章奏,遇大事即召對輔臣。其謀出於丁謂,非太后意也。謂既貶,馮拯等三上奏,請如初議。帝亦以為言,於是始同御承明殿。百官表賀,太后哀慟。有司請制令稱「吾」,以生日為長寧節,出入御大安輦,鳴鞭侍衛如乘輿。令天下避太后父諱。群臣上尊號曰「應元崇德仁壽慈聖太后」,御文德殿受冊。

天聖五年正月元日、太后は会慶殿に御した。群臣及び契丹の使者が廷中に班列し、帝は再拝跪して寿を上った。この年郊祀の前、手書を出して百官に諭し、尊号を加えることを請うなと命じた。礼が成ると、帝は百官を率いて元日の如く恭しく謝した。七年冬至、天子はまた百官を率いて寿を上ったが、范仲淹が強くその非を言上したが、聞き入れられなかった。九月、詔して長寧節に百官に衣を賜い、天下に宴を賜うこと、皆乾元節の如くとした。

原文天聖五年正旦,太后御會慶殿。群臣及契丹使者班廷中,帝再拜跪上壽。是歲郊祀前,出手書諭百官,毋請加尊號。禮成,帝率百官恭謝如元日。七年冬至,天子又率百官上壽,范仲淹力言其非,不聽。九月,詔長寧節百官賜衣,天下賜宴,皆如乾元節。

明道元年冬至、再び文徳殿に御した。有司が黄麾仗を陳列し、宮架・登歌・二舞を設けた。翌年、帝が親耕籍田し、太后もまた太廟に謁し、玉輅に乗り、禕衣・九龍花釵冠を服し、廟に斎した。夜明けに、袞衣を服し、十二章のうち宗彝・藻を減じ、剣を除き、儀天の冠を戴き、前後に珠翠十旒を垂れた。七室に薦献し、皇太妃が亞献し、皇后が終献した。尊号を加えて「応天斉聖顕功崇徳慈仁保寿太后」とした。

原文明道元年冬至,復禦文德殿。有司陳黃麾仗,設宮架、登歌、二舞。明年,帝親耕籍田,太后亦謁太廟,乘玉輅,服禕衣、九龍花釵冠,齋於廟。質明,服袞衣,十章,減宗彝、藻,去劍,冠儀天,前後垂珠翠十旒。薦獻七室,皇太妃亞獻,皇后終獻。加上尊號曰「應天齊聖顯功崇德慈仁保壽太后」。

この年に崩御し、年六十五。諡して章獻明肅と曰い、永定陵の西北に葬られた。旧制では皇后は皆二諡であったが、称制したため、四諡を加えることは后から始まった。三世を追贈し、皆太師・尚書令・兼中書令に至り、父は魏王に封ぜられた。

原文是歲崩,年六十五。諡曰章獻明肅,葬於永定陵之西北。舊制皇后皆二諡,稱制,加四諡自后始。追贈三世皆至太師、尚書令、兼中書令,父封魏王。

初め、仁宗が即位した時はまだ幼少であり、太后が称制した。政令は宮闈より出でたが、号令は厳明で、恩威は天下に加わった。左右の近習にも少なからず仮借せず、宮掖の間で妄りに改作することはなかった。内外への賜与には節度があり、柴氏・李氏の二人の公主が入見した時も、なお髲鬀を服していた。太后は「姑は老いた」と言い、左右に命じて珠璣の帕首を賜わった。時に潤王元份の婦である安国夫人李氏は老いて、髪がかつて落ちそうであり、太后に謁見し、やはり帕首を請うた。太后は「大長公主は太宗皇帝の女で、先帝の諸妹である。趙家の老婦など、どうして比べられようか」と言った。旧来、大臣に茶を賜う時、龍鳳の飾りがあるものがあり、太后は「これはどうして人臣が得るべきものか」と言い、有司に命じて別に香京挺を製してこれを賜わった。族人に御食を賜う時は、必ず釦器に換え、「尚方の器を吾が家に入れるな」と言った。常服は絁繻の練裙であり、侍者が仁宗の左右の簪珥が珍麗なのを見て、これを真似ようとした。太后は戒めて「あれは皇帝の嬪御の飾りである。汝らがどうして学ぶことができようか」と言った。

原文初,仁宗即位尚少,太后稱制,雖政出宮闈,而號令嚴明,恩威加天下。左右近習亦少所假借,宮掖間未嘗妄改作。內外賜與有節,柴氏、李氏二公主入見,猶服髲鬀。太后曰:「姑老矣。」命左右賜以珠璣帕首。時潤王元份婦安國夫人李氏老,髮且落,見太后,亦請帕首。太后曰:「大長公主,太宗皇帝女,先帝諸妹也;若趙家老婦,寧可比耶?」舊賜大臣茶,有龍鳳飾,太后曰:「此豈人臣可得?」命有司別制入香京挺以賜之。賜族人御食,必易以釦器,曰:「尚方器勿使入吾家也。」常服絁繻練裙,侍者見仁宗左右簪珥珍麗,欲效之。太后戒曰:「彼皇帝嬪御飾也,汝安得學。」

先に、小臣の方仲弓が上書し、武后の故事に依って劉氏の廟を立てることを請うた。また程琳も『武后臨朝図』を献じたが、后はその書を地に擲って「吾はこの祖宗に負うことを為さない」と言った。漕臣の劉綽という者がおり、京西より還り、倉庫に出剩の糧千余斛があると言い、三司に付することを乞うた。后は問うて「卿は王曾・張知白・呂夷簡・魯宗道を知っているか。この四人はどうして羨余を献じて進んだであろうか」と言った。

原文先是,小臣方仲弓上書,請依武后故事,立劉氏廟,而程琳亦獻《武后臨朝圖》,后擲其書於地曰:「吾不作此負祖宗事。」有漕臣劉綽者,自京西還,言在庾有出剩糧千餘斛,乞付三司。后問曰:「卿識王曾、張知白、呂夷簡、魯宗道乎?此四人豈因獻羨餘進哉!」

后が称制すること凡そ十一年、仁宗が即位してから、輔臣に諭して「皇帝が聴断の暇に、名儒を宣詔して経史を講習せしめ、その徳を輔けよ」と言った。ここにおいて幄を崇政殿の西廡に設け、日に近臣を命じて講読に侍らせた。

原文后稱制凡十一年,自仁宗即位,乃諭輔臣曰:「皇帝聽斷之暇,宣詔名儒講習經史,以輔其德。」於是設幄崇政殿之西廡,而日命近臣侍講讀。

丁謂・曹利用は既に権を侮って貶竄されたが、天下は惕然としてこれを畏れた。晩年には外家を少し進め、内宮の羅崇勳・江徳明らに外事を訪わせ、崇勳らはこれによって勢い中外を傾けた。兄の子の従徳が死ぬと、姻戚・門人・厮役で官に拜する者数十人に及んだ。御史の曹脩古・楊偕・郭勧・段少連が論奏すると、太后は悉くこれを逐った。

原文丁謂、曹利用既以侮權貶竄,而天下惕然畏之。晚稍進外家,任內宮羅崇勳、江德明等訪外事,崇勳等以此勢傾中外。兄子從德死,姻戚、門人、廝役拜官者數十人。御史曹脩古、楊偕、郭勸、段少連論奏,太后悉逐之。

太后は帝を保護すること既に力を尽くし、仁宗が太后に奉ずることもまた甚だ備わっていた。上は春秋長じてなお、宸妃の出であることを知らず、太后の世が終わるまで毫髪の間隙もなかった。病に伏すに及んで、帝は大赦を行い、天下の医者を悉く召して馳伝して京師に詣らせた。諸嘗て太后のために謫せられた者は皆内徙し、死者はその官を復した。その後、言う者が多く太后の時の事を追って詆毀したが、范仲淹がこれを言上すると、上は「これは朕の忍びて聞くところにあらず」と言い、詔を下して中外に戒め、妄りに言うなからしめた。

原文太后保護帝既盡力,而仁宗所以奉太后亦甚備。上春秋長,猶不知為宸妃所出,終太后之世無毫髮間隙焉。及不豫,帝為大赦,悉召天下醫者馳傳詣京師。諸嘗為太后謫者皆內徙,死者復其宮。其后言者多追詆太后時事,范仲淹以為言,上曰:「此朕所不忍聞也。」下詔戒中外毋輒言。

ここにおいて泰寧軍節度使の錢惟演が、章献・章懿を章穆と並べて真宗の廟室に祔することを請うた。詔して三省と礼院に議させたが、皆、章穆皇后は中壺の位崇く、既に真宗廟室に祔しており、自ら一帝一后の文に協う。章献明肅は坤元の尊に処り、章懿は日符の貴を感じ、功德これに比ぶるものなし。新廟を崇建し、同殿異室とし、歳時に薦饗し、一に太廟の儀を用い、仍って別に廟名を立て、以て世享を崇むべしと言った。翰林学士の馮元らは奉慈を以て名とすべく請うたので、詔してこれに依らしめた。慶暦五年、礼院が言うには、章献・章懿の二后は、国朝の懿徳・明徳・元徳の三后が太宗廟室に同祔した故事に遵い、真宗廟に遷祔すべしと請うた。詔して両制に議させ、翰林学士の王堯臣らが議し、二后を遷祔し、章穆の次に序すべく請うたので、これに従った。

原文於是泰甯軍節度使錢惟演請以章獻、章懿與章穆並祔真宗室。詔三省與禮院議,皆以謂章穆皇后位崇中壺,已祔真宗廟室,自協一帝一后之文;章獻明肅處坤元之尊,章懿感日符之貴,功德莫與為比,謂宜崇建新廟,同殿異室,歲時薦饗,一用太廟之儀,仍別立廟名,以崇世享。翰林學士馮元等請以奉慈為名,詔依。慶曆五年,禮院言章獻、章懿二后,請遵國朝懿德、明德、元德三后同祔太宗廟室故事,遷祔真宗廟。詔兩制議,翰林學士王堯臣等議,請遷二后祔,序于章穆之次,從之。

李宸妃

原文李宸妃

李宸妃は、杭州の人である。祖父の延嗣は銭氏に仕え、金華県主簿となった。父の仁徳は終わりに左班殿直となった。初め宮に入り、章献太后の侍児となり、荘重で寡言であった。真宗は司寝と為した。既に娠り、帝に従って砌台に臨んだ時、玉釵が墜ちた。妃はこれを悪んだ。帝は心に卜して、釵が完うすれば男子とならんと言った。左右が取って進めると、釵は果たして毀れず、帝は甚だ喜んだ。已にして仁宗を生み、崇陽県君に封ぜられた。また一女を生んだが、育たなかった。才人に進み、後に婉儀となった。仁宗が即位すると、順容となり、永定陵を守るに従った。章献太后は劉美・張懐徳を使わしてその親属を訪わせ、その弟の用和を得て、三班奉職に補した。

原文李宸妃,杭州人也。祖延嗣,仕錢氏,為金華縣主簿;父仁德,終左班殿直。初入宮,為章獻太后侍兒,莊重寡言,真宗以為司寢。既有娠,從帝臨砌臺,玉釵墜,妃惡之。帝心卜:釵完,當為男子。左右取以進,釵果不毀,帝甚喜。已而生仁宗,封崇陽縣君;復生一女,不育。進才人,後為婉儀。仁宗即位,為順容,從守永定陵。章獻太后使劉美、張懷德為訪其親屬,得其弟用和,補三班奉職。

初め、仁宗が繈褓にある時、章献はこれを己が子と為し、楊淑妃に保視させた。仁宗が即位すると、妃は黙然として先朝の嬪御の中に処り、自ら異なることをしなかった。人は太后を畏れ、また敢えて言う者もなかった。太后の世が終わるまで、仁宗は自ら妃の出であることを知らなかった。

原文初,仁宗在繈褓,章獻以為己子,使楊淑妃保視之。仁宗即位,妃嘿處先朝嬪御中,未嘗自異。人畏太后,亦無敢言者。終太后世,仁宗不自知為妃所出也。

明道元年(1032年)、疾革まり、位を進めて宸妃と為し、薨じた。年四十六。

原文明道元年(1032年),疾革,進位宸妃,薨,年四十六。

初め、章献太后は宮人の礼を以て外で喪を治めようとしたが、丞相の呂夷簡が奏して礼は厚きに従うべしと言った。太后は遽かに帝を引き起し、しばらくして、独り簾下に坐し、夷簡を召して問うて「一宮人の死に、相公が云々するとは、何ぞや」と言った。夷簡は「臣は宰相に待罪し、事の内外無く、預からざるはなし」と言った。太后は怒って「相公は吾が母子を離間せんとするか」と言った。夷簡は従容として対えて「陛下が劉氏を念わざれば、臣は敢えて言わず。尚お劉氏を念わば、この喪礼は厚きに従うべし」と言った。太后は悟り、遽かに「宮人は李宸妃である。且つ奈何」と言った。夷簡は乃ち一品の礼を以て治め、洪福院に殯することを請うた。夷簡はまた入内都知の羅崇勳に謂って「宸妃は后服を以て殮り、水銀を以て棺を実くべし。異時に夷簡が未だ嘗て言及せざりしと謂うなかれ」と言った。崇勳はその言の如くにした。

原文初,章獻太后欲以宮人禮治喪于外,丞相呂夷簡奏禮宜從厚。太后遽引帝起,有頃,獨坐簾下,召夷簡問曰:「一宮人死,相公云云,何歟?」夷簡曰:「臣待罪宰相,事無內外,無不當預。」太后怒曰:「相公欲離間吾母子耶!」夷簡從容對曰:「陛下不以劉氏為念,臣不敢言;尚念劉氏,是喪禮宜從厚。」太后悟,遽曰:「宮人,李宸妃也,且奈何?」夷簡乃請治用一品禮,殯洪福院。夷簡又謂入內都知羅崇勳曰:「宸妃當以后服殮,用水銀實棺,異時勿謂夷簡未嘗道及。」崇勳如其言。

後に章献太后が崩ずると、燕王が仁宗に言って「陛下は李宸妃の生みたまうところなり。妃は非命にて死せり」と言った。仁宗は号慟して頓に毀え、累日朝を視ず、哀痛の詔を下して自ら責めた。宸妃を尊んで皇太后と為し、諡して荘懿と曰うた。洪福院に幸して祭告し、梓宮を易え、親しく哭してこれを視ると、妃の玉色は生けるが如く、冠服は皇太后の如く、水銀を以て養った故に壊れなかった。仁宗は歎じて「人の言、その信ずべきかな」と言った。劉氏に対し厚く遇した。永定陵に陪葬し、廟を奉慈と曰うた。また即ち景霊宮に神御殿を建て、広孝と曰うた。慶暦年中、諡を改めて章懿と為し、太廟に升祔した。用和を拜して彰信軍節度使・検校侍中と為し、寵賚甚だ渥かった。既にして追念して已まず、顧みてその家を厚くするに以て無く、乃ち福康公主をして用和の子の瑋に下嫁せしめた。

原文後章獻太后崩,燕王為仁宗言:「陛下乃李宸妃有所生,妃死以非命。」仁宗號慟頓毀,不視朝累日,下哀痛之詔自責。尊宸妃為皇太后,諡莊懿。幸洪福院祭告,易梓宮,親哭視之,妃玉色如生,冠服如皇太后,以水銀養之,故不壞。仁宗歎曰:「人言其可信哉!」遇劉氏加厚。陪葬永定陵,廟曰奉慈。又即景靈宮建神御殿,曰廣孝。慶曆中,改諡章懿,升祔太廟。拜用和為彰信軍節度使、檢校侍中,寵賚甚渥。既而追念不已,顧無以厚其家,乃以福康公主下嫁用和之子瑋。

楊淑妃

原文楊淑妃

楊淑妃は、益州郫県の人である。祖父は瑫、父は知儼、知儼の弟は知信、禁軍に隷し、天武副指揮使となった。

原文楊淑妃,益州郫人。祖瑫,父知儼,知儼弟知信,隸禁軍,為天武副指揮使。

妃は十二歳で皇子の宮に入る。真宗が即位すると、才人に拝され、また婕妤に拝され、婉儀に進み、なお詔して婉儀を従一品に昇進させ、位は昭儀の上とした。帝が東封・西祀を行い、凡そ巡幸する時は皆従った。章献太后が修儀であった時、妃は彼女と位がほぼ等しかった。しかるに妃は聡明敏捷で知恵があり、章献に奉順して忤うところなく、章献は彼女を親愛した。故に妃は貴幸であっても、終に己の間隙とせず、後に淑妃を加えられた。真宗が崩ずると、遺制により皇太后と為す。

原文妃年十二入皇子宮。真宗即位,拜才人,又拜婕妤,進婉儀,仍詔婉儀升從一品,位昭儀上。帝東封、西祀,凡巡幸皆從。章獻太后為修儀,妃與之位幾埒。而妃通敏有智思,奉順章獻無所忤,章獻親愛之。故妃雖貴幸,終不以為己間,后加淑妃。真宗崩,遺制以為皇太后。

初め、仁宗が乳褓にある時、章献は妃に護視させ、凡そ起居飲食は必ずこれとともにし、擁佑扶持する所以、恩意は勤めて備わった。帝が即位すると、嘗てその甥の永徳を召して禁中に見せ、諸司副使に授けようとした。妃は辞して曰く、「小児豈に大恩に勝えんや、小官たるべし」と。更に命じて右侍禁と為す。

原文始,仁宗在乳褓,章獻使妃護視,凡起居飲食必與之俱,所以擁佑扶持,恩意勤備。及帝即位,嘗召其侄永德見禁中,欲授以諸司副使。妃辭曰:「小兒豈勝大恩,小官可也。」更命為右侍禁。

章献の遺誥により尊んで皇太后と為し、宮中に居し、皇帝とともに軍国事を議す。閣門は百僚に賀せしむるを促すが、御史中丞蔡齊は台吏に目して班を追うなかれとし、乃ち入って執政に白して曰く、「上春秋長く、天下の情偽を習知す。今始めて親しく政事す、豈に女后相継いで称制するを宜しとすべきや」と。乃ち詔して遺誥の「同議軍国事」の語を刪去し、第に后号を存す。緡銭二万を奉じて湯沐を助け、后はその居る宮を保慶と名付け、保慶皇太后と称す。

原文章獻遺誥尊為皇太后,居宮中,與皇帝同議軍國事。閣門趣百僚賀,御史中丞蔡齊目臺吏毋追班,乃入白執政曰:「上春秋長,習知天下情偽,今始親政事,豈宜使女后相繼稱制乎?」乃詔刪去遺誥「同議軍國事」語,第存后號。奉緡錢二萬助湯沐,后名其所居宮曰保慶,稱保慶皇太后。

景祐三年、疾なくして薨じ、年五十三。皇儀殿に殯す。帝はその保護の恩を思い、礼官に命じて小功の服を加えることを議せしむ。

原文景祐三年,無疾而薨,年五十三。殯於皇儀殿。帝思其保護之恩,命禮官議加服小功。

初め、仁宗に嗣子無く、后は毎に帝を勧めて宗子近属にして賢なる者を択び、宮中に養わしむ。その選は即ち英宗なり。英宗が立つと、言者礼に慈母は子に祭り、孫に至りて止むと謂い、后廟を廃し、その主を園陵に瘞することを請う。英宗は急に欲せず、下して有司に議せしむ。未だ上らざるに、会に帝崩ずるに遭い、遂に罷む。后の父祖は皆累贈して一品に至り、知信は節度使を贈られる。知信の子景宗は『外戚伝』に見ゆ。

原文初,仁宗未有嗣,后每勸帝擇宗子近屬而賢者,養于宮中,其選即英宗也。英宗立,言者謂禮慈母于子祭,于孫止,請廢后廟,瘞其主園陵。英宗弗欲遽也,下有司議,未上,會帝崩,遂罷。后父祖皆累贈至一品,知信贈節度使。知信子景宗,見《外戚傳》。

沈貴妃

原文沈貴妃

沈貴妃は、宰相倫の孫、父は継宗、光禄少卿。大中祥符初年、将相の家の子として選ばる。初め才人と為り、美人・婕妤・充媛を歴て、徳妃に至る。人となり淑やかで倹約し華美ならず、帝もまた妃の家世の故を以て、これを待つこと衆に異なり。長秋虚位なりし時、帝はこれを立てんと欲すれど、中よりこれを沮む者有り、果たさず。嘉祐末、貴妃に進む。熙寧九年に薨じ、年八十三。家に殯することを許し、車駕臨奠し、視朝を三日輟め、諡して昭静と曰う。

原文沈貴妃,宰相倫之孫,父繼宗,光祿少卿。大中祥符初,以將相家子被選。初為才人,曆美人、婕妤、充媛,至德妃。為人淑儉不華,帝亦以妃家世故,待之異眾。長秋虛位,帝欲立之,有從中沮之者,不果。嘉祐末,進貴妃。熙寧九年薨,年八十三。許出殯其家,車駕臨奠,輟視朝三日,諡昭靜。

仁宗

原文仁宗

郭皇后

原文郭皇后

仁宗郭皇后、その先は応州金城の人。平盧軍節度使崇の孫なり。天聖二年、立てて皇后と為す。

原文仁宗郭皇后,其先應州金城人。平盧軍節度使崇之孫也。天聖二年,立為皇后。

初め、帝は張美人を寵し、以て后と為さんと欲すれど、章献太后これを難ず。后既に立つも、頗る疎んぜらる。その後尚美人・楊美人俱に幸せられ、数たび后と忿争す。一日、尚氏が上前において后を侵す語有り、后忿に勝えず、その頬を批る。上自ら起ちてこれを救うに、誤って上頸を批る。上大いに怒る。入内都知閻文応因って上と謀り后を廃し、且つ帝に爪痕を執政に示すことを勧む。上以て呂夷簡に示し、且つその故を告ぐ。夷簡も亦前に罷相して后を怨み、乃ち曰く、「古にもこれ有り」と。后遂に廃せらる。詔して封じて淨妃・玉京沖妙仙師と為し、名を清悟と賜い、長楽宮に居らしむ。

原文初,帝寵張美人,欲以為后,章獻太后難之。后既立,而頗見疏。其后尚美人、楊美人俱幸,數與后忿爭。一日,尚氏於上前有侵后語,后不勝忿,批其頰,上自起救之,誤批上頸,上大怒。入內都知閻文應因與上謀廢后,且勸帝以爪痕示執政。上以示呂夷簡,且告之故,夷簡亦以前罷相怨后,乃曰:「古亦有之。」后遂廢。詔封為淨妃、玉京沖妙仙師,賜名清悟,居長樂宮。

ここにおいて中丞孔道輔・諫官御史范仲淹・段少連等十人、閣に伏して言う、「后に過ち無し、廃すべからず」と。道輔等俱に黜責せらる。景祐元年、瑤華宮に出居し、而して尚美人も亦洞真宮に廃せられ入道し、楊美人は別宅に安置す。又た后に号を金庭教主・沖静元師と賜う。后に帝頗るこれを念い、使を遣わして存問し、楽府を賜う。后和答す、その辞甚だ愴惋たり。帝嘗て密かに召し入るることを令すれど、后曰く、「若し再び召さるる者は、須らく百官立班して冊を受くるを可とすべし」と。小疾に属し、文応を遣わして医を挟み診視せしむ。数日にして、乃ち后の暴薨を言う。中外閻文応の毒を進めたるを疑うも、その実を得ず。上深くこれを悼み、皇后を追復すれど、諡冊祔廟の礼を停む。

原文於是中丞孔道輔、諫官御史范仲淹、段少連等十人伏閣言:「后無過,不可廢。」道輔等俱被黜責。景祐元年,出居瑤華宮,而尚美人亦廢于洞真宮入道,楊美人別宅安置。又賜后號金庭教主、沖靜元師。后帝頗念之,遣使存問,賜以樂府,后和答之,辭甚愴惋。帝嘗密令召入,后曰:「若再見召者,須百官立班受冊方可。」屬小疾,遣文應挾醫診視,數日,乃言后暴薨。中外疑閻文應進毒,而不得其實。上深悼之,追復皇后,而停諡冊祔廟之禮。

慈聖光献曹皇后

原文慈聖光獻曹皇后

慈聖光献曹皇后、真定の人、枢密使周武恵王彬の孫なり。明道二年、郭后廃せられ、詔して聘い宮に入る。景祐元年九月、冊して皇后と為す。性慈儉、稼穡を重んじ、常に禁苑に穀を種え、親しく蠶し、飛帛書を善くす。

原文慈聖光獻曹皇后,真定人,樞密使周武惠王彬之孫也。明道二年(1033年),郭后廢,詔聘入宮。景祐元年九月,冊為皇后。性慈儉,重稼穡,常于禁苑種穀、親蠶,善飛帛書。

慶暦八年閏正月、帝将に望夕に再び燈を張らんとす。后諫めて止む。后三日、衛卒数人乱を為し、夜屋を越えて寝殿を叩く。后方に帝に侍し、変を聞き遽かに起つ。帝出でんと欲すれど、后閤を閉じて擁持し、急ぎ都知王守忠を呼びて兵を引き入るるをさせむとす。賊宮嬪を殿下に傷つけ、声帝の所に徹く。宦者乳嫗が小女子を殴るを以て始めて奏す。后これを叱して曰く、「賊近くに在りて人を殺す、敢えて妄言せんや」と。后賊必ず火を放つを度り、陰かに人を遣わして水を挈きてその後に踵らしむ。果たして炬を挙げて簾を焚くも、水随いてこれを滅す。この夕、遣わしし宦侍、后皆その髪を親しく剪り、これを諭して曰く、「明日賞を行わば、これを以て験と為せ」と。故に争って死力を尽くし、賊即ち禽滅せらる。閤内の妾卒と乱を為し誅さるべく、幸姫に哀れみを祈る。姫これを帝に言い、その死を貸す。后衣冠を具えて見え、法の如く論ずることを請い、曰く、「是の如くせざれば、以て禁掖を粛清すること無し」と。帝命じて坐せしむれど、后可とせず、立ちて請う。数刻を移すも、卒にこれを誅す。

原文慶曆八年閏正月,帝將以望夕再張燈,后諫止。后三日,衛卒數人作亂,夜趙屋叩寢殿。后方侍帝,聞變遽起。帝欲出,后閉閤擁持,趣呼都知王守忠使引兵入。賊傷宮嬪殿下,聲徹帝所,宦者以乳嫗歐小女子始奏,后叱之曰:「賊在近殺人,敢妄言耶!」后度賊必縱火,陰遣人挈水踵其后,果舉炬焚簾,水隨滅之。是夕,所遣宦侍,后皆親剪其發,諭之曰:「明日行賞,用是為驗。」故爭盡死力,賊即禽滅。閤內妾與卒亂當誅,祈哀幸姬,姬言之帝,貸共死。后具衣冠見,請論如法,曰:「不如是,無以肅清禁掖。」帝命坐,后不可,立請,移數刻,卒誅之。

張妃は寵愛を恃みに上僭し、皇后の蓋を借りて出遊せんと欲す。帝、自ら来りて請わしむ。后、之を与え、吝む色なし。妃喜び、還りて以て告ぐ。帝曰く、「国家の文物儀章は、上下に秩有り、汝之を張りて出でば、外廷汝を置かざらん」と。妃不懌として輟む。

原文張妃怙寵上僭,欲假后蓋出遊。帝使自來請,后與之,無靳色。妃喜,還以告,帝曰:「國家文物儀章,上下有秩,汝張之而出,外廷不汝置。」妃不懌而輟。

英宗方に四歳、禁中に育つ。后、拊鞠して周尽す。迨いて入りて嗣子と為るに及び、策を賛する事多し。帝夜暴疾にて崩ず。后、諸門の鑰を悉く斂めて前に置き、皇子を召して入らしむ。明に及び、宰臣韓琦等至り、英宗を奉じて即位せしめ、后を尊びて皇太后と為す。

原文英宗方四歲,育禁中,后拊鞠周盡;迨入為嗣子,贊策居多。帝夜暴疾崩,后悉斂諸門鑰置於前,召皇子入。及明,宰臣韓琦等至,奉英宗即位,尊后為皇太后。

帝疾を感ず。権に軍国事を同処分するを請い、内東門小殿に御して政を聴く。大臣日々に事を奏するに疑いて未だ決せざる有れば、則ち曰く、「公輩更に之を議せよ」と。未だ己が意を出ださず。頗る経史に渉り、多く之を援りて以て事を決す。中外の章奏日数十、一一能く綱要を紀す。曹氏及び左右の臣僕を検柅し、毫分も以て仮借せず、宮省粛然たり。

原文帝感疾,請權同處分軍國事,御內東門小殿聽政。大臣日奏事有疑未決者,則曰:「公輩更議之。」未嘗出己意。頗涉經史,多援以決事。中外章奏日數十,一一能紀綱要。檢柅曹氏及左右臣僕,毫分不以假借,宮省肅然。

明年夏、帝の疾益々癒ゆ。即ち命じて簾を撤き政を還す。帝書を持久しく下さず、秋に及びて始めて之を行ふ。有司を敕して典礼を崇峻せしむ。弟佾を以て同中書門下平章事と為す。神宗立ち、尊びて太皇太后と為し、宮の名を慶寿と曰ふ。帝極めて誠孝を致し、以て承迎娛悦する所以は、尽くさざる無し。従行登玩する毎に、毎に先ず后を策掖す。后亦慈愛天至し、或は退朝稍く晩ければ、必ず自ら屏扆に至り候矚し、間には親しく饍飲を持ちて以て帝に食はしむ。外家の男子、旧より謁に入るを得ざる毋し。后春秋高く、佾も亦老ゆ。帝数言す、宜しく入見せしむべしと。輒ち許さず。他日、佾帝に侍す。帝復た請うを為す。乃ち之を許す。因りて偕に后の閤に詣る。少焉、帝先ず起つ。若し佾をして親親の意を伸べしめんが若し。后遽かに曰く、「此れ汝の当に得て留まるべき所に非ず」と。趣に遣り出ださしむ。

原文明年夏,帝疾益愈,即命撤簾還政,帝持書久不下,及秋始行之。敕有司崇峻典禮,以弟佾同中書門下平章事。神宗立,尊為太皇太后,名宮曰慶壽。帝致極誠孝,所以承迎娛悅,無所不盡,從行登玩,每先后策掖。后亦慈愛天至,或退朝稍晚,必自至屏扆候矚,間親持饍飲以食帝。外家男子,舊毋得入謁。后春秋高,佾亦老,帝數言宜使入見,輒不許。他日,佾侍帝,帝復為請,乃許之,因偕詣后閤。少焉,帝先起,若令佾得伸親親意。后遽曰:「此非汝所當得留。」趣遣出。

晩く水疾を得る。侍医治むる能わず。元豊二年冬、疾甚だし。帝疾を寝門に視、衣帯を解かず。旬日に崩ず。年六十四。帝恩を曹氏に推し、佾を拝して中書令と為し、官を進むる者四十余人。

原文晚得水疾,侍醫莫能治。元豐二年冬,疾甚,帝視疾寢門,衣不解帶。旬日崩,年六十四。帝推恩曹氏,拜佾中書令,進官者四十餘人。

初め、王安石国に当たり、旧章を変乱す。后間を乗じて神宗に語り、祖宗の法度は軽く改むべからずと謂ふ。熙甯宗祀の前数日、帝后の所に至る。后曰く、「吾昔民間の疾苦を聞けば、必ず仁宗に告げ、因りて赦を行ひて之を行へり。今も亦た爾るべし」と。帝曰く、「今他事無し」と。后曰く、「吾聞く、民間甚だ青苗・助役に苦しむと。之を罷むる宜し。安石誠に才学有りと雖も、然れども之を怨む者衆し。帝愛惜保全せんと欲せば、若し暫く之を外に出だすに若かず」と。帝悚然として聴き、垂くに止まんと欲す。復た安石に持せられ、遂に果たさず。

原文初,王安石當國,變亂舊章,后乘間語神宗,謂祖宗法度不宜輕改。熙甯宗祀前數日,帝至后所,后曰:「吾昔聞民間疾苦,必以告仁宗,因赦行之,今亦當爾。」帝曰:「今無他事。」后曰:「吾聞民間甚苦青苗、助役,宜罷之。安石誠有才學,然怨之者甚眾,帝欲愛惜保全之,不若暫出之於外。」帝悚聽,垂欲止,復為安石所持,遂不果。

帝嘗て燕薊に意有り。已に大臣と議を定め、乃ち慶寿宮に詣りて其の事を白す。后曰く、「儲蓄賜与備はれるか。鎧仗士卒精かなるか」と。帝曰く、「固より已に之を弁へたり」と。后曰く、「事体至って大なり。吉凶悔吝は動に生ず。之を得るも南面して賀を受くるに過ぎず。万一諧わざれば、則ち生霊の係る所、以て言い易きに非ず。苟くも之を取るべくんば、太祖・太宗収復すること久し。何ぞ今日を待たん」と。帝曰く、「敢えて教を受けざらんや」と。

原文帝嘗有意于燕薊,已與大臣定議,乃詣慶壽宮白其事。后曰:「儲蓄賜予備乎?鎧仗士卒精乎?」帝曰:「固已辦之矣。」后曰:「事體至大,吉凶悔吝生乎動,得之不過南面受賀而已;萬一不諧,則生靈所系,未易以言。苟可取之,太祖、太宗收復久矣,何待今日。」帝曰:「敢不受教。」

蘇軾詩を以て罪を得、御史の獄に下る。人必ず死すと以為ふ。后違預中に之を聞き、帝に謂ひて曰く、「嘗て憶ふ、仁宗制科を以て軾兄弟を得、喜びて曰く『吾子孫の為に両宰相を得たり』と。今軾の詩を作して獄に係るを聞く。仇人の中傷するに非ずや。詩に捃するは、其の過微かなり。吾が疾勢已に篤し。冤濫を以て中和を傷つく致すべからず。宜しく熟く之を察すべし」と。帝涕泣す。軾此に由りて免る。崩に及び、帝哀慕毀瘠し、殆ど喪に勝えず。有司諡を上る。永昭陵に葬る。

原文蘇軾以詩得罪,下御史獄,人以為必死。后違預中聞之,謂帝曰:「嘗憶仁宗以制科得軾兄弟,喜曰:『吾為子孫得兩宰相。』今聞軾以作詩繫獄,得非仇人中傷之乎?捃至於詩,其過微矣。吾疾勢已篤,不可以冤濫致傷中和,宜熟察之。」帝涕泣,軾由此得免。及崩,帝哀慕毀瘠,殆不勝喪。有司上諡,葬於永昭陵。

張貴妃

原文張貴妃

張貴妃は、河南永安の人なり。祖穎、進士第に及第し、終に建平令。父堯封、亦た進士を挙げ、石州推官として卒す。時に堯封の兄堯佐蜀官を補す。堯封の妻銭氏、孤幼を挈きて之に随ひ官に就かんことを求む。堯佐収恤せず、道遠きを以て辞す。妃幼くして依る所無し。銭氏遂に之を章恵皇后の宮寢に納る。長じて幸を得、盛寵有り。妃巧慧にして智数多く、善く承迎し、勢中外を動かす。慶暦元年、清河郡君に封ぜられ、歳中に才人と為り、修媛に遷る。忽ち疾に被りて曰く、「妾が姿薄く、寵名に勝えず。願くは美人と為らん」と。之を許す。皇祐初、貴妃に進む。后五年に薨ず。年三十一。仁宗之を哀悼し、追冊して皇后と為し、諡して温成と曰ふ。堯封を追封して清河郡王と為し、諡して景思と曰ふ。而して堯佐は因縁僥倖に因り、位を通顕に致すと云ふ。

原文張貴妃,河南永安人也。祖穎,進士第,終建平令。父堯封,亦舉進士,為石州推官卒。時堯封史堯佐補蜀官,堯封妻錢氏求挈孤幼隨之官,堯佐不收恤,以道遠辭。妃幼無依,錢氏遂納于章惠皇后宮寢。長得幸,有盛寵。妃巧慧多智數,善承迎,勢動中外。慶曆元年,封清河郡君,歲中為才人,遷修媛。忽被疾,曰:「妾姿薄,不勝寵名,原為美人。」許之。皇祐初,進貴妃。后五年薨,年三十一。仁宗哀悼之,追冊為皇后,諡溫成。追封堯封清河郡王,諡景思。而堯佐因緣僥倖,致位通顯云。

苗貴妃

原文苗貴妃

苗貴妃は、開封の人なり。父継宗。母許、先づ仁宗の乳保と為り、嫁いで継宗に嫁ぐ。帝位に登り、復た籍を通ずるを得。妃容徳を以て入侍し、唐王昕・福康公主を生む。仁寿郡君に封ぜられ、才人・昭容・徳妃を拝す。英宗禁中に育つ。妃擁佑して頗る恩有り。践祚に既にして、其の前労を疇い、貴妃に進む。其の父を贈りて太師・呉国公に至らしめ、母陳・楚国夫人と為す。福康下嫁するに当たり、恩を外家に貤すべしと雖も、抑えて言うことを肯せず。元祐六年に薨ず。年六十九。哲宗朝を輟き、出でて奠し、哀を苑中に発す。諡して昭節と曰ふ。

原文苗貴妃,開封人。父繼宗。母許,先為仁宗乳保,出嫁繼宗。帝登位,得復通籍。妃以容德入侍,生唐王昕、福康公主。封仁壽郡君,拜才人、昭容、德妃。英宗育於禁中,妃擁佑頗有恩。既踐阼,疇其前勞,進貴妃。贈其父至太師、吳國公,母陳、楚國夫人。福康下嫁,當貤恩外家,抑不肯言。元祐六年薨,年六十九。哲宗輟朝,出奠,發哀苑中,諡曰昭節。

周貴妃

原文周貴妃

周貴妃は、開封の人なり。四歳を生みて、其の姑に従ひて宮に入り、張貴妃之を育して女と為す。稍く長じ、遂に仁宗に侍するを得、両公主を生む。帝崩ず。妃日々に一疏食し、一室に屏処し、仏書を誦す。困すれば則ち仮寐し、覚れば則ち復た誦し、昼夜衣を解かざること四十年。公主は銭景臻・郭献卿に下嫁す。連ねて進みて賢妃に至る。徽宗立ち、貴妃を加ふ。五朝を歴て、勤約一致す。寿蔵を周氏の塋南に啓き、傍らに僧屋を建つ。費す所緡銭六万、皆貯儲の奉賜なり。郭公主先づ亡ぶ。詔して外第に出づるを許し、親戚と相往来せしむ。年九十三にて薨ず。諡して昭淑と曰ふ。

原文周貴妃,開封人。生四歲,從其姑入宮,張貴妃育為女。稍長,遂得侍仁宗,生兩公主。帝崩,妃日一疏食,屏處一室,誦佛書,困則假寐,覺則復誦,晝夜不解衣者四十年。公主下嫁錢景臻、郭獻卿。連進至賢妃,徽宗立,加貴妃。曆五朝,勤約一致。啟壽藏于周氏塋南,傍建僧屋,費緡錢六萬,皆貯儲奉賜。郭公主先亡,詔許出外第,與親戚相往來。年九十三薨,諡昭淑。

楊徳妃

原文楊德妃

楊德妃は定陶の人である。天聖年間(1023-1032)、章獻太后の姻戚として選ばれて御侍となり、原武郡君に封ぜられ、美人に進んだ。端麗で機敏、音律に妙であり、組紃(刺繍)や書芸は一度目を通せば習い慣れたかのようであった。父の楊忠は侍禁であったが、仁宗が褒賞し抜擢しようとすると、彼女は辞して言った、「外官は労を積んで貴を取るべきであり、今恩沢によって僥倖を得るならば、左右の偏った請託の端を開く恐れがあります」。帝は喜び、彼女に肅儀殿に移り住むよう命じた。その祖父に貴州刺史を追贈し、叔父と弟五人に官職を与えた。積年の間に郭后と折り合いが悪くなり、后が廃された後、妃もまた遣り出された。後に再び召されて婕妤となり、修媛、修儀を歴任した。熙寧五年(1072)に薨去、五十四歳。徳妃を追贈された。

原文楊德妃,定陶人。天聖中,以章獻太后姻連,選為御侍,封原武郡君,進美人。端麗機敏,妙音律,組紃、書藝一過目如素習。父忠為侍禁,仁宗欲加獎擢,辭曰:「外官當積勞以取貴,今以恩澤徼幸,恐啟左右詖謁之端。」帝悅,命徙居肅儀殿。贈其祖貴州刺史,而官其叔弟五人。積與郭后不相能,后既廢,妃亦遣出。后復召為婕妤,曆修媛、修儀。熙寧五年薨,年五十四。贈德妃。

馮賢妃

原文馮賢妃

馮賢妃は東平の人である。曾祖父の馮炳は知雜御史、祖父の馮起は兵部侍郎であった。妃は良家の娘として九歳で宮中に入った。成長して仁宗に侍るようになり、邢国公主と魯国公主の二人の公主を生んだ。始平郡君に封ぜられた。帝がその品秩を上げようとしたが、力辞して拝受しなかった。養女の林美人が神宗の寵愛を得て二人の王を生んだが没し、王たちはまだ幼かったので、妃は己が子のように養育保護した。累進して才人、婕妤、修容となった。禁掖(後宮)に在ること凡そ六十年、五朝にわたり終始し、行動は礼度に循った。薨去、七十七歳。賢妃を追贈された。

原文馮賢妃,東平人。曾祖炳,知雜御史;祖起,兵部侍郎。妃以良家女,九歲入宮。及長,得侍仁宗,生邢、魯國二公主。封始平郡君。帝將登其品秩,力辭不拜。養女林美人得幸神宗,生二王而沒,王尚幼,妃保育如己子。累加才人、婕妤、修容。在禁掖幾六十年,始終五朝,動循禮度。薨,年七十七,贈賢妃。

英宗

原文英宗

宣仁聖烈高皇后

原文宣仁聖烈高皇后

英宗宣仁聖烈高皇后は、亳州蒙城の人である。曾祖父の高瓊、祖父の高継勲はいずれも王室に勲功があり、節度使に至った。母の曹氏は慈聖光献皇后(仁宗曹皇后)の姉であるため、后は幼少時宮中で養育された。当時英宗もまた帝(仁宗)の御所におり、后と同年齢であったので、仁宗は慈聖(曹皇后)に言い、いつの日か必ず配偶とすべきだとされた。成長すると、濮邸(英宗の邸宅)で婚儀を成した。神宗皇帝、岐王趙顥、嘉王趙頵、寿康公主を生んだ。治平二年(1065)に皇后に冊立された。

原文英宗宣仁聖烈高皇后,亳州蒙城人。曾祖瓊,祖繼勳,皆有勳王室,至節度使。母曹氏,慈聖光獻后姊也,故后少鞠宮中。時英宗亦在帝所,與后年同,仁宗謂慈聖,異日必以為配。既長,遂成昏濮邸。生神宗皇帝、岐王顥、嘉王頵、壽康公主。治平二年冊為皇后。

后の弟の内殿崇班高士林は供奉が久しく、帝がその官を昇進させようとしたが、后は謝して言った、「士林が朝籍に昇ることを得たのは、その分限を既に過ぎております。どうして先の皇后の家の例を引き合いに出して比べることができましょうか」。これを辞退させた。神宗が即位すると、皇太后として尊ばれ、宝慈宮に居住した。帝は累次にわたり高氏のために大邸宅を営もうとしたが、后は許さなかった。久しくして、ただ望春門外の空地を取り上げて賜うのみとし、すべての営繕の諸役の費用は悉く宝慈宮から出し、大農(国庫)の一銭も調達しなかった。

原文后弟內殿崇班士林,供奉久,帝欲遷其官,后謝曰:「士林獲升朝籍,分量已過,豈宜援先后家比?」辭之。神宗立,尊為皇太后,居寶慈宮。帝累欲為高氏營大第,后不許。久之,但斥望春門外隙地以賜,凡營繕百役費,悉出寶慈,不調大農一錢。

元豊八年(1085)、帝が病に伏せ、次第に重篤となった。宰執の王珪らが入内して病状を問い、延安郡王(後の哲宗)を皇太子に立て、太后が権限をもって共に聴政することを乞うた。帝はうなずいた。王珪らは太后の簾の下で拝謁した。后は泣きながら王を撫でて言った、「この子は孝順で、官家(皇帝)が服薬されて以来、左右を離れず、仏経を書写して福を祈り、書を学ぶことを好み、既に『論語』七巻を誦し、全く遊戯を好みません」。そこで王を簾の外に出して王珪らに会わせた。王珪らは再拝して謝し、かつ賀した。この日に制を降し、皇太子に立てた。初め、岐王・嘉王の二王は日々起居を問うていたが、この時になって、みだりに入ることを禁じた。またひそかに中人梁惟簡に命じ、その妻に十歳児用の黄袍を一つ作らせ、懐中して来させた。これは践祚の倉卒の備えを密かにしたものである。

原文元豐八年,帝不豫,浸劇,宰執王珪等入問疾,乞立延安郡王為皇太子,太后權同聽政,帝頷之。珪等見太后簾下。后泣,撫王曰:「兒孝順,自官家服藥,未嘗去左右,書佛經以祈福,喜學書,已誦《論語》七卷,絕不好弄。」乃令王出簾外見珪等,珪等再拜謝且賀。是日降制,立為皇太子。初,岐、嘉二王日問起居,至是,令毋輒入。又陰敕中人梁惟簡,使其妻制十歲兒一黃袍,懷以來,蓋密為踐阼倉卒備也。

哲宗が位を嗣ぐと、太皇太后として尊ばれた。駅伝で司馬光と呂公著を召し、未だ到着しないうちに、今日施すべき施設の優先事項を迎えて問うた。条上を待たずして、既に京城修築の役夫を散遣し、皇城の偵察兵を減らし、禁庭の工技を止め、導洛司を廃し、近侍の中でも特に不行跡な者を出した。内外に苛斂を禁じ、民間の保戸馬を寛めた。事は中旨(太后の直接命令)により行われ、王珪らは予め知らされなかった。また文彦博を既に老いた状態から起用し、途上で使者を遣わして労い、祖宗の法度を復することを先務とせよと諭し、かつ速やかに任用すべき者を疏上するよう命じた。

原文哲宗嗣位,尊為太皇太后。驛召司馬光、呂公著,未至,迎問今日設施所宜先。未及條上,已散遣修京城役夫,減皇城覘卒,止禁庭工技,廢導洛司,出近侍尤亡狀者。戒中外毋苛斂,寬民間保戶馬。事由中旨,王珪等弗預知。又起文彥博於既老,遣使勞諸途,諭以復祖宗法度為先務,且令亟疏可用者。

従父の高遵裕は西征で軍律を失い罪に当たったが、蔡確が諂って地位を固めようとし、その官を復することを乞うた。后は言った、「遵裕の霊武の役は、百万の民を塗炭の苦しみに陥れ、先帝(神宗)は夜中に報せを得て、床の周りを起きて歩き、夜明けまで眠れなかった。聖情はこれより驚悸し、次第に大故(神宗の崩御)に至った。禍は遵裕に由るのであり、刑誅を免れたのは幸いである。先帝の肉も未だ冷えやらぬうちに、どうして私恩を顧みて天下の公議に背くことができようか」。蔡確は慄然として止めた。

原文從父遵裕坐西征失律抵罪,蔡確欲獻諛以固位,乞復其官。后曰:「遵裕靈武之役,塗炭百萬,先帝中夜得報,起環榻行,徹旦不能寐,聖情自是驚悸,馴致大故,禍由遵裕,得免刑誅,幸矣。先帝肉未冷,吾何敢顧私恩而違天下公議!」確悚慄而止。

司馬光と呂公著が到着すると、ともに宰相に任命し、心を合わせて政を輔けるよう命じ、一時の知名の士が朝廷に集まって進用された。熙寧以来の政事で不便なものは、次第にこれを罷めた。そこで常平の旧式をもって青苗法を改め、嘉祐の差役法をもって募役法を参酌し、市易法を除き、茶塩の禁を緩め、辺境の砦の不毛の地を挙げて西戎に賜い、宇内は再び安寧となった。契丹の主はその臣下に戒め、再び疆場に事を生じさせぬよう言った、「南朝(宋)は尽く仁宗の政を行っている」。

原文光、公著至,並命為相,使同心輔政,一時知名士匯進于廷。凡熙寧以來政事弗便者,次第罷之。於是以常平舊式改青苗,以嘉祐差役參募役,除市易之法,逭茶鹽之禁,舉邊砦不毛之地以賜西戎,而宇內復安。契丹主戒其臣下,復勿生事於疆場,曰:「南朝盡行仁宗之政矣。」

蔡確は『車蓋亭詩』の件で嶺表に貶謫されたが、后は大臣に言った、「元豊の末、私は今皇帝(哲宗)の書かれた仏経を人に示した。この時、ただ王珪のみが曾て奏賀し、遂に儲君(皇太子)が定まった。かつ子が父を継ぐことに、何の間言があろうか。しかるに蔡確は自ら定策の大功があると称し、妄りに事端を扇動し、異時の眩惑の地(将来の混乱の種)を図った。私は明言するに忍びず、姑く上を誹謗することを名目としてこれを逐いたのみである。これは宗社の大計であり、奸邪の怨謗は顧みる暇もない」。

原文蔡確坐《車蓋亭詩》謫嶺表,后謂大臣曰:「元豐之末,吾以今皇帝所書佛經出示人,是時惟王珪曾奏賀,遂定儲極。且以子繼父,有何間言?而確自謂有定策大功,妄扇事端,規為異時眩惑地。吾不忍明言,姑托訕上為名逐之耳。此宗社大計,奸邪怨謗所不暇恤也。」

廷試(殿試)で挙人を試すに当たり、有司が天聖の故事に循い、帝と后がともに御殿されることを請うたが、后はこれを止めた。また文徳殿で冊宝を受けることを請うたが、后は言った、「母后が陽(表)に立つことは、国家の美事ではなく、まして天子の正衙(正殿)は、どうして当に御すべき所であろうか。崇政殿で足りる」。上元の灯宴で、后の母が入観すべきところであったが、これを止めて言った、「夫人が楼に登れば、上(皇帝)は必ず礼を加えられるであろう。これは私の故をもって黄制(皇室の制度)を越えることであり、心甚だ安んじられない」。ただ灯燭を賜うことを命じ、以後これを歳例とした。

原文廷試舉人,有司請循天聖故事,帝后皆御殿,后止之。又請受冊寶於文德,后曰:「母后當陽,非國家美事,況天子正衙,豈所當御?就崇政足矣。」上元燈宴,后母當入觀,止之曰:「夫人登樓,上必加禮,是由吾故而越黃制,於心殊不安。」但令賜之燈燭,遂歲以為常。

甥の高公繪と高公紀が観察使に転ずべきところであったが、力を抑えてこれを止めた。帝が再三請うたが、僅かに一秩を遷すのみとし、后の在世中は敢えて改めさせなかった。また官が冗多で淘汰すべきとして、詔を下して外戚(高氏)への恩典を四分の一削減し、宮掖(後宮)の先駆けとした。政に臨むこと九年、朝廷は清明となり、華夏は安定した。

原文侄公繪、公紀當轉觀察使,力遏之。帝請至再,僅遷一秩,終后之世不敢改。又以官冗當汰,詔損外氏恩四之一,以為宮掖先。臨政九年,朝廷清明,華夏綏定。

宋用臣らが既に斥けられた後、神宗の乳母に頼んで入内して言上させ、再び任用されることを望んだ。后はその来るのを見て言った、「汝は何しに来たのか。もしかして宋用臣らのために遊説するためではないか。かつて汝は尚お内降(宮中の直接命令)を求めて国政を干撓したが、またそのようにするつもりか。もし再びそうするならば、私は即座に汝を斬るぞ」。乳母は大いに懼れ、一言も発することができなかった。これより内降は遂に絶え、故事を力行し、外戚の私恩を抑え絶った。文思院が奉上する物は、巨細を問わず、終身その一つも取らなかった。

原文宋用臣等既被斥,祈神宗乳媼入言之,冀得復用。后見其來,曰:「汝來何為?得非為用臣等遊說乎?且汝尚欲如曩日,求內降干撓國政耶?若復爾,吾即斬汝!」媼大懼,不敢出一言。自是內降遂絕,力行故事,抑絕外家私恩。文思院奉上之物,無問巨細,終身不取其一。