李瓊
郭瓊
晉の天福中、警州に移刺す。羌・渾の騒動に属し、朔方節度張希崇、表して瓊を部署と為し、兵を将いて共に討ち平らぐ。連ねて滑・坊・虢・衛の四州を領す。開運の初め、北面騎軍排陣使と為る。陽城の役、戦功居多し。沂州刺史に改め、荊口砦主兼東面行営都虞候を充てる。莫州刺史趙思を擒えて以て献じ、懐州に刺を改む。俄にして北面先鋒都監と為る。契丹中原を陥し、盗賊蜂起し、山東甚だし。契丹主、瓊に命じて復た沂州に刺して以て盗を禦がしむ。瓊即日単騎郡に赴く。盗、瓊の威名を聞き、相率い遁去す。
漢の乾祐中、淮人密州を攻む。行営都部署と為すを以てす。未だ至らざるに、淮人解き去る。会に平盧節度劉銖、佐命の旧を恃み、疾を称して朝せず。将相大臣、其の制し難きを懼れ、先ず瓊と衛州刺史郭超を遣わし、以て所部の兵を率い青州に屯せしむ。銖自ら安からず、酒を置き瓊を召し、壮士を幕下に伏せ、瓊を害せんと欲す。瓊其の謀を知り、従者を屏い去り、従容として席に就き、略として懼色無し。銖発すること敢えず。瓊因りて禍福を陳ぶ。銖其の言に感じ、遂に装を治む。俄にして詔至り、即日上道す。瓊潁州団練使に改め、又防禦使を加う。時に朗州荊・淮・広南と結び兵を合して湖南を攻む。詔して瓊に州兵を以て王令溫の大軍に合し光州を攻めしむ。尋いで内難を以て果たさず。罷めて朝に帰し、河北に遣わし兵甲芻糧を計度せしむ。
周祖南郊に祀り、権知宗正卿事を召す。世宗劉崇を征し、北面行営都監と為り、絳・蔡・齊の三州防禦使を歴任す。齊州に在りて、民饑う。瓊己が俸を以て之を賑う。人其の恵を懐き、相率い闕に詣で其の徳政を頌す。詔して碑を立つるを許す。
陳承昭
李萬超
契丹中原に入る。時に萬超本部を以て潞州に屯す。主帥張従恩城を棄て契丹に帰せんと将う。会に前驍衛将軍王守恩喪に服し私第にあり。従恩即ち後事を委ねて遁去す。及び契丹の使至り、専ら郡務を領す。守恩遂に預ること無し。萬超奮然として其の部下に謂ひて曰く、「我輩虎口に餌を垂れ、苟くも旦夕の命を延ぶ。今使を殺し、其の城を保たんと欲す。止だ逃生のみに非ず、亦た勲業を建つるに足る。汝曹能くせんか」と。衆皆躍然として喜びて曰く、「敢へて命に唯ぜざらんや」と。遂に率いる所部をして大いに噪ぎ府署に入り、其の使を殺し、守恩を推して帥と為し、状を列ね以て聞かしむ。漢祖其の請に従ひ、仍て史弘肇に命じ兵を統へ先づ河を渡り潞に至らしむ。萬超を見て之に語ひて曰く、「此の州を得て復するは、公の力なり。吾守恩を殺し、公を以て帥と為さんと欲す。可ならんか」と。萬超対へて曰く、「契丹の使を殺して以て守恩を推すは、蓋し社稷の為に計るのみ。今若し人を賊害し、自ら其の利を取らば、宿心に非ず」と。弘肇大いに之を奇とし、表して先鋒馬歩軍都指揮使と為す。路沢州を経る。刺史翟令奇壁を堅くして命を拒む。萬超馳せて城下に至り、之を諭して曰く、「今契丹北に遁れ、天下主無し。并州の劉公大義に杖き、中土を定む。向ふ所風靡し、後に服する者は族す。盍ぞ早く之を図らざる」と。令奇乃ち門を開き迎へ納る。弘肇即ち萬超を留めて権に州事をせしむ。漢祖遂に以て刺史と為す。及び李守貞を征し、萬超を行営壕砦使と為す。河中平らぎ、懐州刺史に拝す。
周祖国を開き、慕容彦超に従征し、又都壕砦使と為り、功を以て洺州団練使を授けられ、秦・鳳を収むるに預かり、萊州に改む。淮南を平げるに従ひ、連ねて蘄・登の二州を移り、至る所善政有り。属に詔有りて重ねて田租を均す。前牟平令馬陶、籍文登県に隷し、苗を隠して通ぜず。命じて之を係し、将に斬りて後に聞かんとす。陶懼れ遁去す。是より境内粛然たり。宋初、入りて右武衛大将軍と為り、左驍衛大将軍に遷る。開宝八年、卒す。年七十二。
白重讚
世宗が劉崇を征討するに当たり、重讃を河東道行営馬軍都指揮使とし、重讃は李重進と共に陣の西側に、樊愛能・何徽は陣の東側に居た。合戦が始まると、愛能と徽は共に逃走したが、重讃と重進のみが率いる部隊を以て奮戦し、世宗自ら親軍を督いて勢いを合わせてこれを攻め、幷州軍は大敗した。愛能らを誅した後、重讃は功により保大軍節度使を授かった。世宗が太原を征討した際、河陽の劉詞を随駕都部署とし、重讃をその副と命じた。忻州の監軍が刺史趙皋及び契丹の大将楊耨姑を殺し、城を以て降伏したが、契丹兵はなお勢い盛んであったため、重讃及び符彦卿に命じてこれを撃退させた。世宗が京に還ると、重讃は河陽三城節度・検校太尉に改めた。淮南を征討する際、重讃に親兵三千を率いて潁上に駐屯させた。間もなく、淮南道行営馬歩軍都虞候に改めた。まもなく彰義軍節度使に遷った。
王仁鎬
周祖が鄴を鎮守した時、仁鎬を副留守に推挙した。挙兵の際、仁鎬はその謀議に参与した。周祖が即位すると、仁鎬は王峻に忌まれ、唐州刺史として出され、棣州団練使に遷り、入朝して右衛大将軍となり、宣徽北院使兼枢密副使を充任した。顕徳初年、永興軍節度使として出された。世宗が嗣位すると、河中に移った。殿中丞上官瓚が河中からの使いを終えて帰還し、河中の民が多く田租を隠していると上言したため、瓚を派遣して検視し均定させた。百姓はこれを苦しみ、多くが他郡に逃亡したので、仁鎬は強くこれを論じ、やめさせた。継母の喪に服し、官を去った。
五年、安国軍節度使に拝され、制書に「襄国を顧みれば、実に卿が故郷なり。我が龍節の権を分かち、爾が錦衣の美を成さん」とあった。郡民が老幼を携えて境上で出迎え、錦袍を献じる者が四人おり、仁鎬は皆それを重ねて着用し、金帛を厚く酬いた。政務を執った翌日、父祖の墓を省み、松や檟を巡り見て涕泗嗚咽し、親しい者に「仲由が負米の楽しみに及ばずと言ったのは、誠にその通りだ」と言った。当時の人はこれを称えた。郡に群盗がいたが、仁鎬は使者を遣わして束帛を贈り、諭したところ、皆逃げ去り、再び盗賊とならなかった。恭帝が嗣位すると、山南東道節度使に移った。
仁鎬は性質が端正謹厳で倹約を旨とし、仏教を篤く信奉し、得た俸禄の多くを仏に供え僧に施し、毎朝仏経五巻を誦し、あるいは日が高くなるまで出仕せず、従事の劉謙が仁鎬を責めて「貴公は藩侯として貴くありながら、百姓を勤め労わることができず、孜々として仏事に励むのは何故か」と言うと、仁鎬は顔を引き締めて遜り謝し、怒りの色を見せなかった。当時、長者と称された。
陳思譲
八年冬、契丹が侵入を謀り、思譲に澶州軍を監察させ、鞍勒馬・器帛を賜った。青州で楊光遠を討った時も、行営右廂兵馬都監となり、兵が罷むと磁州刺史に改めた。符彦卿が契丹を北征する際、思譲は上表して従軍を求めた。間もなく衛州に改めた。続けて父母の喪に服した。当時武臣で喪礼を執る者は稀であったが、思譲は詔を待たず、郡を去って喪に赴き、聞いた者はこれを称えた。喪中に起復され随州刺史となった。
漢初、淄州に移り、任を罷めて帰朝した。淮南が朗州の馬希灊と合兵して淮南と組み、湖南を攻め、馬希広が援軍を乞うた時、直ちに内難が起こり、また周祖が北征したため、兵を分けて思譲に命じ郢州へ赴援させたが、兵が渡らないうちに希広は敗れた。思譲は郢州に留まった。
周祖が即位すると、供奉官邢思進を遣わし思譲及びその部下の兵を召還した。劉崇が太原で僭号すると、周祖は方略の士を得て辺備に当たらせようとし、思譲に兵を率いて磁州に赴き、沢州・潞州を押さえさせた。間もなく磁州刺史を授け、北面兵馬巡検を充任した。赴任せず、磁州を団練に昇格させ、即座に思譲をその使に充てた。
六年春、世宗が北征しようとし、先ず冀州に赴いて命令を待たせた。瓦橋関を得て雄州とすると、思譲を都部署とし、兵を率いて戍守させた。世宗が病を得て京に還り、思譲を関南兵馬都部署として留めた。恭帝が嗣位すると、広海軍節度使を授かった。
思譲は累ねて方鎮を歴任し、敗政は無かったが、酷く釈氏を信じ、赴任先では多く屠殺を禁じ、俸禄は悉く僧に飯を供し、人々は「陳仏子」と目した。身没した後、家に余財無し。弟の思誨は、六宅使に至る。子の欽祚は、累遷して香薬庫使・長州刺史に至る。欽祚の子は若拙。
孫 若拙
入朝して塩鉄判官となり、工部郎中に転じた。三司使陳恕と協わず、他局への転任を求め、主判開拆司に改めた。車駕北巡し、李沆を留守東京と命じ、若拙を判官とした。河が鄆州で決壊し、朝議は城を徙して水患を避けんとし、若拙と閻承翰を往きて規度せしめ、尋いで権京東転運使を命じ、因って卒を発して王陵口を塞ぎ、又斉州に於いて水勢を浚導し、采金山に巨堤を設け、六州に科した梢木五百万を免ずるを奏し、民甚だ便とした。河平ぎ、真に転運使を授けた。召還され、刑部郎中・潭州知州を拝した。時に三司使欠け、若拙自ら得たりと謂う。及んで大いに失望し、因って対請し、父母年老し、遠適を願わず、制命を納れんと求むと言上した。上怒り、宰相に謂いて曰く、「士子の操修は、必ず名実相副わねばならぬ。頗る若拙に能幹有りと聞く、特だ秩を遷し藩任を委ねたるに、而して進を貪り禄を択ぶこと此の如し。往に黄観有り、或いは其の能を称し、西川転運使に選ぶと、輒ち免れんと訴え、当時に遠郡を守らしめて黜せり。今若拙復た爾り、亦た譴降を須うべし。凡そ人を用うるに、豈に親疏を以て間と為さんや、苟くも能く瘁を尽くし公に奉じ、樹立する所有らば、何ぞ名位の至らざるを患えん」と。乃ち若拙の授けたる告敕を追い、処州知州に黜し、温州に徙せしめた。代わり還り、復た刑部郎中を授け、再び塩鉄判官と為り、兵部郎中・河東転運使に改め、金紫を賜う。
焦継勲
西人が辺を寇し、朝議師を発して討致せんとし、継勲は疏を抗して請い行かんとし、秦州観察使兼諸蕃水陸転運使を拝した。既に至り、恩信を推し、方略を設けて招誘すと、諸郡の酋長相率い玉帛・牛酒を奉り盟を乞い、辺境以て安んず。俄に陝州知事に徙せられ、就いて保義軍兵馬留後に遷る。
漢初、鳳翔軍校陽彦昭城に拠りて叛き、継勳に師を率いて之を討せしめ、功により保大軍節度を授く。召入され、漢祖の大名に幸するに会し、留めて京城右廂巡検使と為し、俄に右羽林統軍に改む。隠帝末、継勳に兵を領して北征せしむ。周祖の兵を挙げて闕に向うに及び、継勳は隠帝に奉じ留子陂に於いて逆戦す。戦利せず、遂に周祖に帰す。
広順初、右龍武統軍に改む。世宗淮南を征し、左廂排陣使と為し、又右羽林統軍・左屯衛上将軍に改め、戦功により彰武軍節度を拝す。
継勳は史伝に渉猟し、頗る治道に達し、所至善政有り。然れども性吝嗇にして、多く公府の用度を省み、時論之を少くす。子に守節。
子 守節
守節は、字を秉直といい、初め左班殿直を補し、選ばれて江・淮南路采訪と為る。還り奏し旨に称し、擢て閣門祗候と為る。李順の余党西川を擾し、上官正と共に之を討平せしむ。高・溪州蛮内寇し、又往きて方略を図らしむ。守節言う、「山川回険にして、我が師の利に非ず」と。詔して招納を許す。
咸平中、江淮南・荊湖路兵馬都監を置き、首に選擢せらる。又施・夔州の叛蛮を討ち、大義を以て其の酋長に諭すと、皆悔過し内附し、因って之が為に界を画し約を定む。還り遷りて閣門通事舎人となり、香薬榷易院を監す。三司言う、歳課八十余万増すと。時に守節已に衣庫副使と為り、当に閣門副使に遷るべし。真宗輔臣に謂いて曰く、「守節は財利の羨余に縁りて横行者に遷らば、何を以て辺陲に命を效する者を勧めん」と。止めて宮苑副使と為す。
契丹に使いとして赴き、館伴の丁求説が遠山を指さして言うには、「これが黄龍府である」と。守節は即座に応えて言うには、「燕然山はここからどれほど離れているか」と。求説は恥じて服した。久しくして、皇城副使に遷り、軍頭引見司を管勾した。白直を以て枢密院副承旨尹徳潤の邸宅を造営するのに貸し出した罪により、現職を免ぜられた。三度の遷転を経て東上閣門使となり、栄州刺史を加えられた。しばしば外任を補うことを請い、襄・鄧・汝の三州の知州を歴任し、四方館使に遷り、右神武大将軍の官をもって致仕し、卒した。
劉重進
漢の初め、鄧州に移鎮した。漢の法では、牛革の禁令が甚だ厳しく、州民の崔彦・陳宝選ら八人が本鎮から革を持って漢祖の廟に赴き鼓を張ろうとしたので、重進は杖罰を加えて追放した。判官の史在徳は重進が法を善く用いていないと言い、極刑に処すべきだと主張した。大理寺・刑部が詳しく覆審したところ、重進の判断が正しいことが分かった。在徳は故意に罪を重くした罪により、杖罰に処されて死んだ。
袁彦
太祖が滁陽を下し、皇甫暉・姚鳳を捕らえた時、彦は皆功績があり、詔で褒められた。また下蔡に師を率いて屯し、寿春を脅かすよう命ぜられた。劉仁贍が降伏すると、世宗に従って濠・泗を攻め、また南唐の将許文績・辺鎬らを捕らえて献上した。師が還ると、真に歩軍都指揮使を授けられ、彰信軍節度使を領した。六年春、近畿の丁壮を発して五丈河を浚渫させ、彦にその役を監督させた。恭帝が嗣位すると、保義軍節度使に移った。
景德四年、特に詔してその孫の昭慶を録用し借職とした。大中祥符八年、昭慶が彦の周朝で受けた告敕の中に二聖(太祖・太宗)の名諱があるものを上奏したので、特に殿直に遷した。
祁廷訓
廷訓は体躯が魁偉であったが、才略がなく、事に臨んで多く回避したので、当時の人は「祁駱駝」とあだ名し、その巨大で取るに足らない様を言った。
張鐸
孫禹珪
景德初め、高陽関行営副都部署を授かる。契丹、既に和を請うや、帝は守臣に武幹ありて辺郡を鎮静し得る者を思い、親ら十余人の名を録して中書に付す、禹珪これに預かる。遂に石州を知り、代・兗州に徙り、又澶州に移る。政治に頗る勤め、瑞麥生じ・獄空なるにより、詔を連ねて嘉獎す。会に河堤決溢す、禹珪は徒を率いてこれを塞ぐ、宰相王旦、兗州より還り、その状を言う、優詔を以てこれを褒む。就いて洺州団練使を拝し、尋いで広信軍を知る。天禧初め、復た高陽関副都部署兼知瀛州となる。明年召還され、将に四廂の職を授けんとす、卒す、年五十九。その二子を録す。
李萬全 田景咸 王暉
景咸は性鄙吝にして、務めて聚斂を為し、使命至る毎に、惟だ肉一器を設け、賓主共に食す。後ち鎮を罷め、常に忽忽として楽しまず。妻その意を識り、景咸を引きて遍く囊儲を閲せしむ、景咸方に自ら釈る。邢州に在る日、使者王班至る、景咸、班に酒を勧めて曰く「王班、満飲を請う」と。典客曰く「是れ使者の姓名なり」と。景咸悟りて曰く「我れ意うに『王班』は官なる爾、何ぞ早く我に諭さざる」と。聞く者これを笑う。
暉も性吝嗇にして、貲甚だ富み、而るに妻子は疏糲を飯し、部曲を縦して誅求せしめ、民甚だこれを苦しむ。世宗、先朝の功臣を以て、知りて問わず、右神武統軍に至る。建隆四年、終に右領軍衛上将軍にて卒す。
論じて曰く、太祖、漢・周に事え、同時の将校多く兵間に聯事し、及び藩を分ち朝に立ちしとき、位或いは相亜る。宋国建つや、皆その猛悍にして屈すべからざるの気を折り、俯首して改めて事え、且つ力を尽くす。揚雄に言有り「之を御するに其の道を得れば、則ち狙詐咸く使を作す」と。これ太祖の英武にして創業の君たる所以か。