宋史

列傳第二十 李瓊 郭瓊 陳承昭 李萬超 白重贊 王仁鎬 陳思讓 焦繼勳 劉重進 袁彦 祁廷訓 張鐸 李萬全 田景咸 王暉

李瓊

広順の初め、将作監に拝され、内作坊使を充て、金紫を賜う。連ねて亳・陝二州を知り、済州刺史に改む。世宗の初め、洺州団練使に遷り、安州防禦使に改む。郡を治むるに寛簡にして、民碑を立て徳を頌するを請う。詔して中書舎人竇儀に文を撰ばしめて之を賜う。宋初、召されて太子賓客と為る。建隆三年、章を上して老を請い、右ぎょう衛上將軍を改めて致仕す。瓊は釈氏を信じ、明年四月八日、仏寺に詣で、疾に遇い帰り、暮に至り卒す。年七十三。太子少師を贈られる。

郭瓊

晉の天福中、警州に移刺す。羌・渾の騒動に属し、朔方節度張希崇、表して瓊を部署と為し、兵を将いて共に討ち平らぐ。連ねて滑・坊・虢・衛の四州を領す。開運の初め、北面騎軍排陣使と為る。陽城の役、戦功居多し。沂州刺史に改め、荊口砦主兼東面行営都虞候を充てる。莫州刺史趙思を擒えて以て献じ、懐州に刺を改む。俄にして北面先鋒都監と為る。契丹中原を陥し、盗賊蜂起し、山東甚だし。契丹主、瓊に命じて復た沂州に刺して以て盗を禦がしむ。瓊即日単騎郡に赴く。盗、瓊の威名を聞き、相率い遁去す。

漢の乾祐中、淮人密州を攻む。行営都部署と為すを以てす。未だ至らざるに、淮人解き去る。会に平盧節度劉銖、佐命の旧を恃み、疾を称して朝せず。将相大臣、其の制し難きを懼れ、先ず瓊と衛州刺史郭超を遣わし、以て所部の兵を率い青州に屯せしむ。銖自ら安からず、酒を置き瓊を召し、壮士を幕下に伏せ、瓊を害せんと欲す。瓊其の謀を知り、従者を屏い去り、従容として席に就き、略として懼色無し。銖発すること敢えず。瓊因りて禍福を陳ぶ。銖其の言に感じ、遂に装を治む。俄にして詔至り、即日上道す。瓊潁州団練使に改め、又防禦使を加う。時に朗州荊・淮・広南と結び兵を合して湖南を攻む。詔して瓊に州兵を以て王令溫の大軍に合し光州を攻めしむ。尋いで内難を以て果たさず。罷めて朝に帰し、河北に遣わし兵甲芻糧を計度せしむ。

周祖南郊に祀り、権知宗正卿事を召す。世宗劉崇を征し、北面行営都監と為り、絳・蔡・齊の三州防禦使を歴任す。齊州に在りて、民饑う。瓊己が俸を以て之を賑う。人其の恵を懐き、相率い闕に詣で其の徳政を頌す。詔して碑を立つるを許す。

宋の建隆三年、老を告げ、右領軍衛上將軍を加えて致仕し、洛陽らくように帰る。乾徳二年、卒す。年七十二。瓊卒伍より起るも、至る所恵政有り、儒士を尊礼し、孜々として善を楽しむ。蓋し武臣の賢者なり。

陳承昭

四年春、大いに近甸の丁壮数万を発し、畿内の河堤を修め、承昭に命じて其の役を董せしむ。又諸軍の子弟数千を督め、朱明門外に池を鑿ち、以て水戦を習わしむ。太原に従征し、承昭計を献じ汾水を壅ぎて城を灌がんことを請う。城危うきこと甚だし。会に班師し、功克く就かず。乾徳五年、右龍武軍統軍に遷る。開宝二年、卒す。年七十四。太子太師を贈られ、中使喪を護る。大中祥符元年、其の孫宗義を録し三班借職と為す。

李萬超

契丹中原に入る。時に萬超本部を以て潞州に屯す。主帥張従恩城を棄て契丹に帰せんと将う。会に前驍衛将軍王守恩喪に服し私第にあり。従恩即ち後事を委ねて遁去す。及び契丹の使至り、専ら郡務を領す。守恩遂に預ること無し。萬超奮然として其の部下に謂ひて曰く、「我輩虎口に餌を垂れ、苟くも旦夕の命を延ぶ。今使を殺し、其の城を保たんと欲す。止だ逃生のみに非ず、亦た勲業を建つるに足る。汝曹能くせんか」と。衆皆躍然として喜びて曰く、「敢へて命に唯ぜざらんや」と。遂に率いる所部をして大いに噪ぎ府署に入り、其の使を殺し、守恩を推して帥と為し、状を列ね以て聞かしむ。漢祖其の請に従ひ、仍て史弘肇に命じ兵を統へ先づ河を渡り潞に至らしむ。萬超を見て之に語ひて曰く、「此の州を得て復するは、公の力なり。吾守恩を殺し、公を以て帥と為さんと欲す。可ならんか」と。萬超対へて曰く、「契丹の使を殺して以て守恩を推すは、蓋し社稷の為に計るのみ。今若し人を賊害し、自ら其の利を取らば、宿心に非ず」と。弘肇大いに之を奇とし、表して先鋒馬歩軍都指揮使と為す。路沢州を経る。刺史翟令奇壁を堅くして命を拒む。萬超馳せて城下に至り、之を諭して曰く、「今契丹北に遁れ、天下主無し。へい州の劉公大義に杖き、中土を定む。向ふ所風靡し、後に服する者は族す。盍ぞ早く之を図らざる」と。令奇乃ち門を開き迎へ納る。弘肇即ち萬超を留めて権に州事をせしむ。漢祖遂に以て刺史と為す。及び李守貞を征し、萬超を行営壕砦使と為す。河中平らぎ、懐州刺史に拝す。

周祖国を開き、慕容彦超に従征し、又都壕砦使と為り、功を以て洺州団練使を授けられ、秦・鳳を収むるに預かり、萊州に改む。淮南を平げるに従ひ、連ねて蘄・登の二州を移り、至る所善政有り。属に詔有りて重ねて田租を均す。前牟平令馬陶、籍文登県に隷し、苗を隠して通ぜず。命じて之を係し、将に斬りて後に聞かんとす。陶懼れ遁去す。是より境内粛然たり。宋初、入りて右武衛大将軍と為り、左驍衛大将軍に遷る。開宝八年、卒す。年七十二。

白重讚

世宗が劉崇を征討するに当たり、重讃を河東道行営馬軍都指揮使とし、重讃は李重進と共に陣の西側に、樊愛能・何徽は陣の東側に居た。合戦が始まると、愛能と徽は共に逃走したが、重讃と重進のみが率いる部隊を以て奮戦し、世宗自ら親軍を督いて勢いを合わせてこれを攻め、幷州軍は大敗した。愛能らを誅した後、重讃は功により保大軍節度使を授かった。世宗が太原を征討した際、河陽の劉詞を随駕都部署とし、重讃をその副と命じた。忻州の監軍が刺史趙皋及び契丹の大将楊耨姑を殺し、城を以て降伏したが、契丹兵はなお勢い盛んであったため、重讃及び符彦卿に命じてこれを撃退させた。世宗が京に還ると、重讃は河陽三城節度・検校太尉に改めた。淮南を征討する際、重讃に親兵三千を率いて潁上に駐屯させた。間もなく、淮南道行営馬歩軍都虞候に改めた。まもなく彰義軍節度使に遷った。

宋初、検校太師を加えられ、涇州に移鎮した。馬歩軍教練使の李玉という者がおり、元は燕人で凶暴狡猾であり、重讃と不和であった。遂に部下の閻承恕と謀り重讃を害そうとし、密かに人を遣わして馬纓を購入し、偽りの制書を作って「重讃が謀反を企てた」とし、その一族を誅滅せよと命じた。自ら偽の制書と馬纓を持ち、都校の陳延正に告げて「使者が届けて去った」と言った。延正は詳細を重讃に報告し、重讃はその書を封じて上聞した。太祖は大いに驚き、検証させたところ、全てが虚偽であったため、六宅使の陳思誨を馳せて涇州に赴かせ、李玉と承恕を捕らえて審問させ、罪を認めたので市で処刑した。延正は刺史に抜擢して賞とし、なお諸州に詔して、機密に関わる制書を受けた場合は、印文と筆跡を詳細に照合すべしとした。まもなく泰寧軍節度使に改めた。乾徳四年、また定国軍節度使となった。開宝二年、左千牛衛上将軍に改め、奉朝請となった。三年、卒去。六十二歳。

王仁鎬

周祖が鄴を鎮守した時、仁鎬を副留守に推挙した。挙兵の際、仁鎬はその謀議に参与した。周祖が即位すると、仁鎬は王峻に忌まれ、唐州刺史として出され、棣州団練使に遷り、入朝して右衛大将軍となり、宣徽北院使兼枢密副使を充任した。顕徳初年、永興軍節度使として出された。世宗が嗣位すると、河中に移った。殿中丞上官瓚が河中からの使いを終えて帰還し、河中の民が多く田租を隠していると上言したため、瓚を派遣して検視し均定させた。百姓はこれを苦しみ、多くが他郡に逃亡したので、仁鎬は強くこれを論じ、やめさせた。継母の喪に服し、官を去った。

五年、安国軍節度使に拝され、制書に「襄国を顧みれば、実に卿が故郷なり。我が龍節の権を分かち、爾が錦衣の美を成さん」とあった。郡民が老幼を携えて境上で出迎え、錦袍を献じる者が四人おり、仁鎬は皆それを重ねて着用し、金帛を厚く酬いた。政務を執った翌日、父祖の墓を省み、松や檟を巡り見て涕泗嗚咽し、親しい者に「仲由が負米の楽しみに及ばずと言ったのは、誠にその通りだ」と言った。当時の人はこれを称えた。郡に群盗がいたが、仁鎬は使者を遣わして束帛を贈り、諭したところ、皆逃げ去り、再び盗賊とならなかった。恭帝が嗣位すると、山南東道節度使に移った。

宋初、検校太師を加えられた。建隆二年、病により召還され、唐州に至った時、駅舎で卒去。六十九歳。

仁鎬は性質が端正謹厳で倹約を旨とし、仏教を篤く信奉し、得た俸禄の多くを仏に供え僧に施し、毎朝仏経五巻を誦し、あるいは日が高くなるまで出仕せず、従事の劉謙が仁鎬を責めて「貴公は藩侯として貴くありながら、百姓を勤め労わることができず、孜々として仏事に励むのは何故か」と言うと、仁鎬は顔を引き締めて遜り謝し、怒りの色を見せなかった。当時、長者と称された。

陳思譲

八年冬、契丹が侵入を謀り、思譲に澶州軍を監察させ、鞍勒馬・器帛を賜った。青州で楊光遠を討った時も、行営右廂兵馬都監となり、兵が罷むと磁州刺史に改めた。符彦卿が契丹を北征する際、思譲は上表して従軍を求めた。間もなく衛州に改めた。続けて父母の喪に服した。当時武臣で喪礼を執る者は稀であったが、思譲は詔を待たず、郡を去って喪に赴き、聞いた者はこれを称えた。喪中に起復され随州刺史となった。

漢初、淄州に移り、任を罷めて帰朝した。淮南が朗州の馬希灊と合兵して淮南と組み、湖南を攻め、馬希広が援軍を乞うた時、直ちに内難が起こり、また周祖が北征したため、兵を分けて思譲に命じ郢州へ赴援させたが、兵が渡らないうちに希広は敗れた。思譲は郢州に留まった。

周祖が即位すると、供奉官邢思進を遣わし思譲及びその部下の兵を召還した。劉崇が太原で僭号すると、周祖は方略の士を得て辺備に当たらせようとし、思譲に兵を率いて磁州に赴き、沢州・潞州を押さえさせた。間もなく磁州刺史を授け、北面兵馬巡検を充任した。赴任せず、磁州を団練に昇格させ、即座に思譲をその使に充てた。

広順元年九月、劉崇が大将李瑰に馬歩軍各五都、郷兵十都を率いさせ、団柏から窯子店に軍を置いた。思譲は都監の向訓・張仁謙等と共に龍捷・吐渾軍を率い、虒亭の西で瑰軍と遭遇し、三百余人を殺し、百人を生け捕り、劉崇の偏将王璠・曹海金を捕え、馬五十匹を得た。まもなく王峻が晋州を救援し、思譲と康延昭を左右廂排陣使とし、軍を率いて烏嶺路から絳州へ至り大軍と合流させた。劉崇は営を焼いて遁走し、思譲はまた薬元福と共にこれを襲った。間もなく権知絳州を命じられた。翌年春、絳州防禦使に遷った。

顕徳元年九月、亳州防禦使に改め、昭義軍兵馬鈐轄を充任し、しばしば幷州軍及び契丹の援兵を破り、安国軍節度観察留後に遷り、北面行営馬歩軍排陣使を充任した。五年、西山の下で幷州軍千余を破り、五百級を斬った。この秋、邢州の官吏・耆艾の邢銖等四十人が宮闕に赴き、思譲の留任を請うたため、詔を下してこれを褒めた。十二月、義成軍節度観察留後に改めた。

六年春、世宗が北征しようとし、先ず冀州に赴いて命令を待たせた。瓦橋関を得て雄州とすると、思譲を都部署とし、兵を率いて戍守させた。世宗が病を得て京に還り、思譲を関南兵馬都部署として留めた。恭帝が嗣位すると、広海軍節度使を授かった。

宋初、検校太傅を加えられた。乾徳二年、また保信軍節度使となった。時に皇子の興元尹徳昭が思譲の娘を夫人に迎えた。開宝二年夏、護国軍節度使・河中尹に改めた。七年、卒去。七十二歳。侍中を追贈された。

思譲は累ねて方鎮を歴任し、敗政は無かったが、酷く釈氏を信じ、赴任先では多く屠殺を禁じ、俸禄は悉く僧に飯を供し、人々は「陳仏子」と目した。身没した後、家に余財無し。弟の思誨は、六宅使に至る。子の欽祚は、累遷して香薬庫使・長州刺史に至る。欽祚の子は若拙。

孫 若拙

若拙は、字を敏之という。幼くして学を嗜み、思譲が嘗て書を持たせて晋邸に詣らせると、太宗はその応対の詳雅なるを嘉し、軍職に縻せんとしたが、若拙は懇ろに辞した。太平興国五年、進士甲科に及第し、初官は将作監丞・鄂州通判となり、太子右賛善大夫・単州知州に改めた。能政により、就いて太常丞に改め、監察御史に遷り、塩鉄判官を充てた。益州の係囚甚だ衆く、太宗は奏を覧て訝り、若拙を召して面諭し疏決を委ね、殿中侍御史・益州通判に遷した。淳化三年、就いて西川転運副使に命じられ、未だ幾ばくもなく、正使に改め、召還された。時に李至が洛都を守り、若拙を佐治せんと表し、度支員外郎に改め、西京留司通判となった。久しくして、柴禹錫が涇州を鎮め、復た通判に奏し、司封員外郎に遷り、芻糧を部送して塞外に至り、優詔を以て之を奨めた。

入朝して塩鉄判官となり、工部郎中に転じた。三司使陳恕と協わず、他局への転任を求め、主判開拆司に改めた。車駕北巡し、李沆を留守東京と命じ、若拙を判官とした。河が鄆州で決壊し、朝議は城を徙して水患を避けんとし、若拙と閻承翰を往きて規度せしめ、尋いで権京東転運使を命じ、因って卒を発して王陵口を塞ぎ、又斉州に於いて水勢を浚導し、采金山に巨堤を設け、六州に科した梢木五百万を免ずるを奏し、民甚だ便とした。河平ぎ、真に転運使を授けた。召還され、刑部郎中・潭州知州を拝した。時に三司使欠け、若拙自ら得たりと謂う。及んで大いに失望し、因って対請し、父母年老し、遠適を願わず、制命を納れんと求むと言上した。上怒り、宰相に謂いて曰く、「士子の操修は、必ず名実相副わねばならぬ。頗る若拙に能幹有りと聞く、特だ秩を遷し藩任を委ねたるに、而して進を貪り禄を択ぶこと此の如し。往に黄観有り、或いは其の能を称し、西川転運使に選ぶと、輒ち免れんと訴え、当時に遠郡を守らしめて黜せり。今若拙復た爾り、亦た譴降を須うべし。凡そ人を用うるに、豈に親疏を以て間と為さんや、苟くも能く瘁を尽くし公に奉じ、樹立する所有らば、何ぞ名位の至らざるを患えん」と。乃ち若拙の授けたる告敕を追い、処州知州に黜し、温州に徙せしめた。代わり還り、復た刑部郎中を授け、再び塩鉄判官と為り、兵部郎中・河東転運使に改め、金紫を賜う。

親しく汾陰を祀るに会し、若拙は所部の緡帛・芻粟十万を以て、河中に輸して費を助け、経度制置使陳堯叟其の職に幹ぶるを言い、右諫議大夫を拝し、永興軍府知事に徙せられた。時に隣郡歳饑し、前政は其の市糴を拒みしが、若拙至れば、則ち貿易を許し、民頼りて済う。又鳳翔府知事に移り、入朝して給事中・澶州知州を拝した。蝗旱の余り、政治に勤め、郡民状を列ねて留めんことを乞う。天禧二年、卒す。年六十四。其の子映を録し奉礼郎と為す。

若拙は誕妄多く、学術寡く、当時に第二人及第する者を榜眼と為すが、若拙は素より文無し、故に「瞎榜」と目す云う。

焦継勲

西人が辺を寇し、朝議師を発して討致せんとし、継勲は疏を抗して請い行かんとし、秦州観察使兼諸蕃水陸転運使を拝した。既に至り、恩信を推し、方略を設けて招誘すと、諸郡の酋長相率い玉帛・牛酒を奉り盟を乞い、辺境以て安んず。俄に陝州知事に徙せられ、就いて保義軍兵馬留後に遷る。

漢初、鳳翔軍校陽彦昭城に拠りて叛き、継勳に師を率いて之を討せしめ、功により保大軍節度を授く。召入され、漢祖の大名に幸するに会し、留めて京城右廂巡検使と為し、俄に右羽林統軍に改む。隠帝末、継勳に兵を領して北征せしむ。周祖の兵を挙げて闕に向うに及び、継勳は隠帝に奉じ留子陂に於いて逆戦す。戦利せず、遂に周祖に帰す。

広順初、右龍武統軍に改む。世宗淮南を征し、左廂排陣使と為し、又右羽林統軍・左屯衛上将軍に改め、戦功により彰武軍節度を拝す。

宋初、召されて右金吾衛上将軍と為り、右武衛上将軍に改む。乾徳三年、権延州知事。四年、右街仗を判す杜審瓊卒し、継勳を以て之に代わらしむ。時に向拱西京留守と為り、多く飲燕し、府事を省みず、群盗白日に都市に入り財を劫い、拱は酒に被られ出でて捕逐せず。太祖継勳を選びて之に代えしむ。月余、京城粛然たり。太祖将に洛に幸せんとし、庄宅使王仁珪・内供奉官李仁祚を遣わし部し洛陽宮を修め、継勳に其の役を董せしむ。車駕還り、其の幹力を嘉し、召見し褒賞し、彰徳軍節度と為し、仍留府事を知らしむ。仁珪は義州刺史を領し、仁祚は八作副使と為る。継勳は太平興国三年に卒す。年七十八。太尉を贈る。

継勳は史伝に渉猟し、頗る治道に達し、所至善政有り。然れども性吝嗇にして、多く公府の用度を省み、時論之を少くす。子に守節。

子 守節

守節は、字を秉直といい、初め左班殿直を補し、選ばれて江・淮南路采訪と為る。還り奏し旨に称し、擢て閣門祗候と為る。李順の余党西川を擾し、上官正と共に之を討平せしむ。高・溪州蛮内寇し、又往きて方略を図らしむ。守節言う、「山川回険にして、我が師の利に非ず」と。詔して招納を許す。

咸平中、江淮南・荊湖路兵馬都監を置き、首に選擢せらる。又施・夔州の叛蛮を討ち、大義を以て其の酋長に諭すと、皆悔過し内附し、因って之が為に界を画し約を定む。還り遷りて閣門通事舎人となり、香薬榷易院を監す。三司言う、歳課八十余万増すと。時に守節已に衣庫副使と為り、当に閣門副使に遷るべし。真宗輔臣に謂いて曰く、「守節は財利の羨余に縁りて横行者に遷らば、何を以て辺陲に命を效する者を勧めん」と。止めて宮苑副使と為す。

契丹に使いとして赴き、館伴の丁求説が遠山を指さして言うには、「これが黄龍府である」と。守節は即座に応えて言うには、「燕然山はここからどれほど離れているか」と。求説は恥じて服した。久しくして、皇城副使に遷り、軍頭引見司を管勾した。白直を以て枢密院副承旨尹徳潤の邸宅を造営するのに貸し出した罪により、現職を免ぜられた。三度の遷転を経て東上閣門使となり、栄州刺史を加えられた。しばしば外任を補うことを請い、襄・鄧・汝の三州の知州を歴任し、四方館使に遷り、右神武大将軍の官をもって致仕し、卒した。

劉重進

漢の初め、鄧州に移鎮した。漢の法では、牛革の禁令が甚だ厳しく、州民の崔彦・陳宝選ら八人が本鎮から革を持って漢祖の廟に赴き鼓を張ろうとしたので、重進は杖罰を加えて追放した。判官の史在徳は重進が法を善く用いていないと言い、極刑に処すべきだと主張した。大理寺・刑部が詳しく覆審したところ、重進の判断が正しいことが分かった。在徳は故意に罪を重くした罪により、杖罰に処されて死んだ。

乾祐の末、鎮を罷めて来朝した。周の太祖が兵を起こして封丘に至ると、詔により重進は左神武統軍の袁義と共に兵を率いてこれを防ぎ、重進は塵埃を望んで退走した。周の広順の初め、兗州征討に従軍した。間もなく、薛国公に封ぜられた。ほどなく右神武統軍に召され、累進して検校太師となった。世宗が南征した際、右廂排陣使となった。顕徳三年、世宗が揚州に備えがないと聞き、宣祖・韓令坤と重進らを派遣して襲撃させてこれを奪取し、さらに先鋒都部署となり、進んで泰州を陥れた。初め、楊行密の子孫が海陵に居住し、永寧宮と号していたが、周軍が淮を渡ると、ことごとく李景に殺された。重進がその家に入り、玉硯・玉杯盤・水晶盞・瑪瑙碗・翡翠瓶を得て献上した。ほどなく廬州行府事を判じ兼ねて行営都部署を命ぜられ、州境において淮兵千余を破り、また白城湖において五百の兵を破った。世宗が再び巡幸した時、呉軍は紫金山で潰走し、東山口に至った者を重進は三千余衆を殺した。寿州が陥ちると、功により武勝軍節度使を授けられた。淮南が平定されると、邠州に移鎮した。世宗が北征した際、先鋒都指揮使となった。恭帝が即位すると、開府儀同三司に封ぜられた。

宋の初め、燕国公に進封された。建隆二年秋、右羽林統軍を授けられた。乾徳五年、左領軍衛上将軍に改めた。重進はただ契丹語の通訳が得意なだけで、他に才能はなく、契丹が中原に入った時に乗じて方鎮に至った。環衛の職にあった時、たまたま玉津園に従幸し、太祖が召して語りかけた。退いた後、太祖は左右の者に言った、「重進の応対を見ると常人に及ばない。前朝が将帥としたのは、何を重んじたのか」と。六年、卒した。七十歳。

袁彦

太祖が滁陽を下し、皇甫暉・姚鳳を捕らえた時、彦は皆功績があり、詔で褒められた。また下蔡に師を率いて屯し、寿春を脅かすよう命ぜられた。劉仁贍が降伏すると、世宗に従って濠・泗を攻め、また南唐の将許文績・辺鎬らを捕らえて献上した。師が還ると、真に歩軍都指揮使を授けられ、彰信軍節度使を領した。六年春、近畿の丁壮を発して五丈河を浚渫させ、彦にその役を監督させた。恭帝が嗣位すると、保義軍節度使に移った。

宋の初め、検校太尉を加えられた。この秋来朝し、曹州に移鎮した。乾徳六年、静難軍節度使となった。開宝二年、鄜州に移った。五年、鎮を罷めて帰闕し、卒した。六十六歳。

景德四年、特に詔してその孫の昭慶を録用し借職とした。大中祥符八年、昭慶が彦の周朝で受けた告敕の中に二聖(太祖・太宗)の名諱があるものを上奏したので、特に殿直に遷した。

祁廷訓

宋の初め、安遠軍節度観察留後となり、この秋、河陽に改めた。乾徳二年、また彰徳軍節度留後に改め、ほどなく権知鄧州となった。五年、そのまま義武軍節度使に拝された。開宝二年、太祖が太原を征した時、廷訓を北面副都部署とした。太平興国元年来朝した。二年冬、左領軍衛上将軍に改めた。五年、竹木を私的に販売し高値で官に売りつけた罪により、本衛の大将軍に責められた。間もなく、旧官に復した。六年、卒した。五十八歳。

廷訓は体躯が魁偉であったが、才略がなく、事に臨んで多く回避したので、当時の人は「祁駱駝」とあだ名し、その巨大で取るに足らない様を言った。

張鐸

張鐸は河朔の人で、若くして武勇の才をもって募られ軍籍に属した。漢の初め、奉国右第六軍都指揮使となり、澧州刺史を領した。周の太祖が枢密使として鄴に鎮した時、鐸は配下の兵を率いて従い、兵を起こすと、鐸はこれに参与した。広順の初め、鐸は奉国左廂都指揮使となり、韓通は右廂都指揮使となった。ほどなく共に防禦使を兼ね、鐸は永州を領し、通は睦州を領した。奉国軍が虎捷軍に改められると、鐸はなおその職を領した。この冬、密州防禦使として出向し、亳州に改めた。三年、鎮国節度使を授けられた。郊祀が終わると、検校太傅を加えられた。世宗の初め、彰義軍に移り、間もなく検校太尉を加えられた。顕徳三年、また河中尹・護国軍節度使に移った。

宋の初め、検校太師を加えられ、ほどなくまた涇州に鎮した。州官が毎年馬を買う際、鐸はその価格を大幅に上乗せして私的に取り、累計十六万貫に及び、また勝手に公帑の銭一万余緡を借り、官曲六千四百餅を侵用した。事が発覚し、召還されて京師に帰り、本州はその子の保常と親吏の宋習を拘束した。太祖は鐸が旧臣であるため、問わずに釈放し、鎮を罷めて左屯衛上将軍とし、奉朝請するのみとした。その盗用した分は、なお免除し、保常・習も釈放された。鐸はまたかつて晋王邸(太宗)から百六十万の銭を借りていたが、太宗が即位すると、詔してこれを赦免した。ほどなく左金吾街仗を判ずることを命ぜられた。車駕が河東を征した時、鐸を京城内外都巡検とし、鄜州刺史の高継充・閑廄副使の張守明を分かって裏城左右廂巡検とした。雍熙三年、卒した。七十二歳。太傅を贈られた。子の熙載は左千牛衛大将軍に至った。

孫禹珪

熙載の子、禹珪、字は天錫、書を粗く知り、方略あり、幼くして太宗の藩邸に事え、即位すると、東西班承旨を補し、殿直に改め、帯禦器械を帯びる。材勇により擢て禁衛に居らしめ、殿前散祗候都虞候となる。咸平初め、内殿直都虞候を授かり、恩州刺史を領す。三年、出でて滁州刺史となり、洺・瀛・の三州を知る。並びに兵馬鈐轄を兼ね、嵐州に徙る。西人勒厥麻が衆を誘いて叛くや、禹珪は衆を率いてこれを討ち、六千余人を俘え、名馬・孳畜を獲ること甚だ多し。

景德初め、高陽関行営副都部署を授かる。契丹、既に和を請うや、帝は守臣に武幹ありて辺郡を鎮静し得る者を思い、親ら十余人の名を録して中書に付す、禹珪これに預かる。遂に石州を知り、代・兗州に徙り、又澶州に移る。政治に頗る勤め、瑞麥生じ・獄空なるにより、詔を連ねて嘉獎す。会に河堤決溢す、禹珪は徒を率いてこれを塞ぐ、宰相王旦、兗州より還り、その状を言う、優詔を以てこれを褒む。就いて洺州団練使を拝し、尋いで広信軍を知る。天禧初め、復た高陽関副都部署兼知瀛州となる。明年召還され、将に四廂の職を授けんとす、卒す、年五十九。その二子を録す。

李萬全 田景咸 王暉

田景咸・王暉、皆太原の人。景咸は漢に仕え、奉国右廂都校となり、周祖に従い汴に入り、龍捷左廂都校となり、安国軍留後に改む。俄かに真に拝せられ、本軍節度使に升本す。世宗の時、武勝軍節度使を拝す。宋初、左驍衛上将軍となる。開宝三年卒す。

景咸は性鄙吝にして、務めて聚斂を為し、使命至る毎に、惟だ肉一器を設け、賓主共に食す。後ち鎮を罷め、常に忽忽として楽しまず。妻その意を識り、景咸を引きて遍く囊儲を閲せしむ、景咸方に自ら釈る。邢州に在る日、使者王班至る、景咸、班に酒を勧めて曰く「王班、満飲を請う」と。典客曰く「是れ使者の姓名なり」と。景咸悟りて曰く「我れ意うに『王班』は官なる爾、何ぞ早く我に諭さざる」と。聞く者これを笑う。

暉も性吝嗇にして、貲甚だ富み、而るに妻子は疏糲を飯し、部曲を縦して誅求せしめ、民甚だこれを苦しむ。世宗、先朝の功臣を以て、知りて問わず、右神武統軍に至る。建隆四年、終に右領軍衛上将軍にて卒す。

論じて曰く、太祖、漢・周に事え、同時の将校多く兵間に聯事し、及び藩を分ち朝に立ちしとき、位或いは相亜る。宋国建つや、皆その猛悍にして屈すべからざるの気を折り、俯首して改めて事え、且つ力を尽くす。揚雄に言有り「之を御するに其の道を得れば、則ち狙詐咸く使を作す」と。これ太祖の英武にして創業の君たる所以か。