宋史

志第一百五十三 刑法二

志第一百五十三 刑法二

律令とは、役所の守るべきものである。太祖以来、自ら裁断したものは、軽重の取り扱いに、法の外の意図があった。しかしその末流の弊害として、専ら己の私情を用いて祖宗の定めた法を乱すことが多かった。

原文律令者,有司之所守也。太祖以來,其所自斷,則輕重取舍,有法外之意焉。然其末流之弊,專用己私以亂祖宗之成憲者多矣。

乾徳年間の蜀しょく征伐の役で、ある軍の大校が民の妻の乳房を切り取って殺した。太祖はこれを闕下に召し出し、その罪を数え上げた。近臣が懸命に助命を求めたが、帝は言った。「朕が師を興して罪を伐つのは、婦人が何の罪があろうか、これほどまでに残忍であるとは!」遂にこれを斬った。

原文乾德伐蜀之役,有軍大校割民妻乳而殺之,太祖召至闕,數其罪。近臣營求頗切,帝曰:「朕興師伐罪,婦人何辜,而殘忍至此!」遂斬之。

当時、郡県の官吏は五代の習わしを受け継ぎ、財貨を貪り民を苦しめたので、特に貪汚の罪を厳しくした。開宝四年、王元吉が英州を守っていたが、一月余りで賄賂を七十余万受け取った。帝は嶺表が初めて平定されたばかりであり、搾取する官吏を懲らしめようと、特に詔を下して棄市に処した。

原文時郡縣吏承五季之習,黷貨厲民,故尤嚴貪墨之罪。開寶四年,王元吉守英州 ,月餘,受贓七十餘萬,帝以嶺表初平,欲懲掊克之吏,特詔棄市。

陝州の民、范義超は、周の顕徳年間に私怨から同里の常古真の家十二人を殺害した。古真の末子の留留は幸いにも逃げ延び、この時になって義超を捕らえて役所に訴えた。陝州が上奏し、赦令を引き合いに出して原宥すべきとした。帝は言った。「一家十二人を殺しておき、赦令によって論ずることができようか?」命じてその罪を正させた。

原文陝州民范義超,周顯德中,以私怨殺同里常古真家十二口,古真小子留留幸脫走,至是,擒義超訴有司,陝州奏,引赦當原。帝曰:「豈有殺一家十二人,可以赦論邪?」命正其罪。

八年、役所が言上した。「三年から今に至るまで、詔によって死刑を免じられた者は合わせて四千百八人である。」帝は刑罰に留意し、無辜の者を哀れみ、かつて嘆じて言った。「堯・舜の時代、四凶の罪もただ流刑に処するに止まった。先王が刑を用いるのは、やむを得ないからである。どうして近代は法網がこれほどまでに密なのか!」故に開宝以来、死刑に当たる罪を犯しても、情理に照らして深刻な害がない者は、多く死刑を免じられた。

原文八年,有司言:「自三年至今,詔所貸死罪凡四千一百八人。」帝注意刑辟,哀矜無辜,嘗嘆曰:「堯、舜之時,四凶之罪止於投竄。先王用刑,蓋不獲已,何近代憲網之密耶!」故自開寶以來,犯大辟,非情理深害者,多得貸死。

太平興国六年、春から夏にかけて雨が降らず、太宗は訴訟が濫りに行われていると考えた。折しも帰徳節度推官の李承信が笞を買う際に園戸を鞭打ち、傷がもとで死なせた。帝はこれを聞き、承信を棄市に処した。

原文太平興國六年,自春涉夏不雨,太宗意獄訟濫。會歸德節度推官李承信因市笞園戶,病創死。帝聞之,坐承信棄市。

初め、太祖は囚人を裁決する際、多く寛大な処置をとった。しかし開封の婦人が夫の前妻の子を殺し、徒刑二年に当たるところ、帝はその凶悪残忍さから特に死刑に処した。この時、涇州安定の婦人が、夫の前妻の子の妻に怒り、その喉を絶って殺した。そこで詔を下して言った。「今後、継母が夫の前妻の子を殺傷し、また姑が嫁を殺す場合は、凡人と同様に論ずる。」雍熙元年、開封の寡婦劉が婢を遣わして府に訴え出て、夫の前妻の子である王元吉が自分を毒殺しようとしていると訴えた。右軍巡が推問しても事実を得られず、左軍巡に移して拷問にかけると、元吉は自ら誣服した。間もなく劉が死に、府で囚人を慮る際、司録司に移して審問させると、かなり誣告の状況が明らかになった。数ヶ月経っても決着せず、府が上奏した。毒殺の明確な証拠がないとして、命じて死刑を免じ、徒刑に処した。元吉の妻の張が登聞鼓を打ち鳴らして訴えた。帝は張を召し出して問いただし、すべての状況を把握すると、直ちに中使を遣わして当初の推問官吏を捕らえ、御史に審問させた。すると劉に姦通の事実があり、恥じ恐れて病気になり、その子(元吉)に発覚されるのを恐れて誣告したのであった。推官及び左・右軍巡使らは官職を削られ位階を下げられ、医工が毒を受けたと詐称した者、劉の母と弟が王氏の財物を欺いて隠した者、及び推吏で賄賂を受けた者は、いずれも海島に流罪とされ、その他はそれぞれ決罰を受けた。司録の主吏には賞として銭を賜り、束帛を賜った。初め元吉が拘束された時、左軍巡の兵卒が縛り上げ鞭打って拷問し、これを「鼠弾箏」と呼んだ。極めて惨毒であった。帝はその法で獄卒を縛らせたところ、もがきながら号叫して速やかな死を求め、縄を解かれた後も、両手はしばらく動かせなかった。帝は宰相に言った。「京師の内で、なおこのような残酷なことがある。四方ではなおさらであろう。」

原文初,太祖嘗決繫囚,多得寬貸。而開封婦人殺其夫前室子,當徒二年,帝以其凶虐殘忍,特處死;至是,有涇州安定婦人,怒夫前妻之子婦,絕其吭而殺之,乃下詔曰:「自今繼母殺傷夫前妻子,及姑殺婦者,同凡人論。」雍熙元年,開封寡婦劉使婢詣府,訴其夫前室子王元吉毒己將死,右軍巡推不得實,移左軍巡掠治,元吉自誣伏,俄劉死,及府中慮囚,移司錄司案問,頗得其侵誣之狀,累月未決,府白于上,以其毒無顯狀,令免死,決徒。元吉妻張擊登聞鼓稱,帝召問張,盡得其狀,立遣中使捕元推官吏,御史鞫問,乃劉有姦狀,慚悸成疾,懼其子發覺而誣之,推官及左、右軍巡使等削任降秩,醫工詐稱被毒,劉母弟欺隱王氏財物及推吏受贓者,並流海島,餘決罰有差。司錄主吏賞緡錢,賜束帛。初元吉之繫,左軍巡卒繫縛搒治,謂之「鼠彈箏」,極其慘毒。帝令以其法縛獄卒,宛轉號叫求速死,及解縛,兩手良久不能動。帝謂宰相曰:「京邑之內,乃復酷如此,况四方乎?」

端拱年間、虜が辺境の郡を侵犯した。北面部署が言上した。「文安・大城の二県の監軍である段重誨らが城を捨てて逃げた。軍法によって論ずるよう請う。」帝は中使を遣わしてその場で斬らせようとした。出発後、帝は言った。「これは管轄する州軍が召し寄せたのではあるまいか?行って訊問してから決せよ。」使節が到着し、訊問したところ、果たして乾寧からの牒で民を率いて城内に入居させるよう命じられており、勝手に管轄地を離れたのではないことが分かった。急いで釈放した。

原文端拱間,虜犯邊郡,北面部署言:「文安、大城二縣監軍段重誨等棄城遁,請論以軍法。」帝遣中使就斬之。既行,謂曰:「此得非所管州軍召之邪?往訊之乃決。」使至,果訊得乾寧牒令部送民入居城,非擅離所部,遽釋之。

咸平年間、三司軍将の趙永昌という者がいた。平素より凶暴で、江南で運送を監督し、多く姦悪な収賄を行った。饒州知事の韓昌齢はその状況を察知し、転運使の馮亮に移牒し、決杖の上停職に処した。そこで永昌は登聞鼓を打ち鳴らし、昌齢と亮が朝政を誹謗したと訴え、さらに印を偽刻して、亮らが釈放を求める文書を作成した。真宗はその詐偽を察知し、便殿で自ら臨んで訊問した。永昌は屈服したので、遂にこれを斬り、亮は問わずに釈放し、昌齢は別件で郢州団練副使に貶官された。曹州の民、蘇莊は兵器を蓄え、逃亡者を匿い、豪勢に民産を奪い、蓄えた贓物は四十万に達した。御史台がその家を没収するよう請うたが、帝は言った。「暴横な民には、国に常法がある。没収するのは、行き過ぎである。」律に照らして論じた。その赦免や軽重の判断は、必ず義に当たり、多くこのような類いであった。

原文咸平間,有三司軍將趙永昌者,素凶暴,督運江南,多為姦贓。知饒州韓昌齡廉得其狀,乃移轉運使馮亮,坐決杖停職 。遂撾登聞鼓,訟昌齡與亮訕謗朝政,仍偽刻印,作亮等求解之狀。真宗察其詐,於便殿自臨訊,永昌屈伏,遂斬之,釋亮不問,而昌齡以他事貶郢州團練副使。曹州民蘇莊蓄兵器,匿亡命,豪奪民產,積贓計四十萬。御史臺請籍其家,帝曰:「暴橫之民,國有常法,籍之,斯過也。」論如律。其縱捨輕重,必當於義,多類此。

凡そ凶年の際、強壮な民が相率いて杖を持ち、倉庫を襲って略奪する行為は、法に照らせば棄市に当たる。毎回獄案を上奏する度に、その死刑を免じた。真宗の時、蔡州の民三百十八人が罪を犯し、皆死刑に当たった。知州の張栄と推官の江嗣宗が議し、首謀者を脊杖に処し、残りは全て杖罪に論ずることにした。帝は詔を下してこれを褒めた。使者を諸道に巡撫させ、その際に諭して言った。「平民が食糧に窮し、強いて乾糧を奪って生き延びようとするだけである。盗賊の法に従って処罰してはならない。」天聖初年、役所がかつて盗賊が米を奪い主人を傷つけたと奏上した。仁宗は言った。「飢えて米を奪うのは哀れむべきであり、盗賊が主人を傷つけるのは憎むべきである。しかしながら、無知で食糧不足に迫られただけである。」命じてこれを赦免した。五年、陝西が旱魃に見舞われ、詔を下して言った。「民が倉庫を襲っても、主人を傷つけなければ死刑を減じ、他州に刺配する。首謀者でなければさらに一等減ずる。」これ以来、諸路で災害があれば即時に赦令を下し、飢民が盗賊となっても多く哀れみ減刑され、これによって全活する者が甚だ多かった。司馬光が当時諫院を管轄し、言上した。「臣は聞く、京東・西路の災害を受けた州軍に対し、貧戸が飢えのため穀物を盗み、それによって財物を盗んだ者は、減等して断罪・放免するとの赦令が下ったと。臣はひそかに不便であると考えます。周礼の荒政十二には、利益を分かち与え、徴税を軽くし、刑罰を緩め、労役を免じ、禁令を解き、関税を取り払うなど、全て民に利するために寛大な恩恵を推し広げるもので、ただ盗賊に対してのみ、かえって厳しく急な措置をとります。それは凶年の歳には盗賊が必ず多く、善良な民を残害するからで、これを除かざるを得ないからです。近年、州県の官吏が治体を知らず、小仁に務めるのを見かけました。凶年に遇うと、穀物を強奪する盗賊を寛大に放任するので、盗賊が公然と行い、互いに奪い合い、郷村が大いに擾乱し、広く捕縛せざるを得なくなり、重く刑罰を加え、死刑や流刑に処して、ようやく少し鎮まるのです。今もし朝廷が明らかに赦文を下し、前もって減等して断罪・放免すると言えば、これは民に盗みを勧めるものです。百姓が食糧に乏しい時は、軽い徭役と薄い賦税、倉を開いて救済貸付を行ってその死を救うべきであり、自ら互いに奪い合わせるべきではありません。今年、府界・京東・京西路で水害が極めて多い。厳刑峻法をもって盗賊を除いても、なお春冬の交わりに飢民が嘯聚して制御できなくなることを恐れているのに、まして赦令を下してこれを勧めるなど。臣は、国家が寛仁に始まりながら酷暴に終わり、人を生かそうとする意図がかえってより多くの人を殺すことになるのではないかと恐れます。」事は聞き届けられた。帝がかつて邇英閣の経筵に臨み、『周礼』の「大荒大札、薄征緩刑」を講じた時、楊安国が言った。「緩刑とは、過誤の民のことであり、凶年にはこれを赦し、その窮状を憐れむのです。今、衆が兵杖を持って糧倉を襲うのを一切寛大に扱うのは、姦悪を禁じるのに足りない恐れがあります。」帝は言った。「そうではない。天下の民は皆わが赤子である。ひとたび飢饉に遇い、州県が救済恤れんできず、餓死者の迫りに迫られて、遂に盗賊となる。それを捕らえて殺すとは、あまりにも甚だしいではないか。」

原文凡歲饑,強民相率持杖劫人倉廩,法應棄市,每具獄上聞,輒貸其死。真宗時,蔡州民三百一十八人有罪,皆當死。知州張榮、推官江嗣宗議取為首者杖脊,餘悉論杖罪。帝下詔褒之。遣使巡撫諸道,因諭之曰:「平民艱食,強取餱糧以圖活命爾,不可從盜法科之。」天聖初,有司嘗奏盜劫米傷主,仁宗曰:「饑劫米可哀,盜傷主可疾。雖然,無知迫於食不足耳。」命貸之。五年,陝西旱,因詔:「民劫倉廩,非傷主者減死,刺隸他州,非首謀又減一等。」自是,諸路災傷即降敕,饑民為盜,多蒙矜減,賴以全活者甚眾。司馬光時知諫院 ,言曰:「臣聞敕下京東、西災傷州軍,如貧戶以饑偷盜斛斗因而盜財者,與減等斷放,臣竊以為非便。周禮荒政十有二,散利、薄征、緩刑、力、舍禁、去幾,率皆推寬大之恩以利於民,獨於盜賊,愈更嚴急。蓋以饑饉之歲,盜賊必多,殘害良民,不可不除。頃年嘗見州縣官吏,有不知治體,務為小仁。遇凶年,劫盜斛斗,輒寬縱之,則盜賊公行,更相劫奪,鄉村大擾,不免廣有收捕,重加刑辟,或死或流,然後稍定。今若朝廷明降敕文,豫言與減等斷放,是勸民為盜也。百姓乏食,當輕徭薄賦、開倉振貸以救其死,不當使之自相劫奪。今歲府界、京東、京西水災極多,嚴刑峻法以除盜賊,猶恐春冬之交,饑民嘯聚,不可禁禦,又况降敕以勸之。臣恐國家始於寬仁,而終於酷暴,意在活人而殺人更多也。」事報聞。帝嘗御邇英閣經筵,講《周禮》「大荒大札,薄征緩刑 」,楊安國曰:「緩 刑者,乃過誤之民耳,當歲歉則赦之,憫其窮也。今眾持兵杖劫糧廩,一切寬之,恐不足以禁姦。」帝曰:「不然,天下皆吾赤子也。一遇饑饉,州縣不能振恤,饑莩所迫,遂至為盜,又捕而殺之,不亦甚乎?」

仁宗の聴断は、特に忠厚を主とした。隴安県の民が平民五人を劫盗と誣告し、県尉が悉くこれを捕らえ、一人は拷問で死に、四人は遂に罪を認めた。その家が州に訴えたが、州は取り合わず、悉く死刑に処した。未だ幾ばくもせず、秦州が真の盗賊を捕らえ、隴州の官吏は法に当たるべきところ、赦令に会い、帝は怒り、特に知州孫済を雷州参軍に貶し、その余は皆除名して嶺南に流した。五家に銭粟を賜い、その労役を三年間免除した。これにより詔を下して州県を戒飭した。広州司理参軍陳仲約が誤って人を死罪に陥れた。有司は仲約を公罪に当たるとし、贖銅すべきとした。帝は審刑院の張揆に言った、「死者は再び生を得ることはできず、獄吏は官を失っても、また叙官される。」命じて特にこれを処罰し、赦令に会っても叙用しないようにした。尚書比部員外郎師仲説が致仕を請い、恩典として任子を得たいと自ら言った。帝は仲説がかつて人を誤って死罪に陥れたことがあるとして、与えなかった。その人命を重んじることはこのようであった。

原文仁宗聽斷,尤以忠厚為主。隴安縣民誣平民五人為劫盜,尉悉執之,一人掠死,四人遂引服。其家辨于州,州不為理,悉論死。未幾,秦州捕得真盜,隴州吏當坐法而會赦,帝怒,特貶知州孫濟為雷州參軍,餘皆除名流嶺南。賜錢粟五家,復其役三年。因下詔戒敕州縣。廣州司理參軍陳仲約誤入人死,有司當仲約公罪,應贖。帝謂審刑院張揆曰:「死者不可復生,而獄吏雖廢,復得敘官。」命特治之,會赦勿敘用。尚書比部員外郎師仲說請老,自言恩得任子,帝以仲說嘗失入人死罪,不與。其重人命如此。

当時、近臣に罪があっても、多くは吏に下して劾実させず、有司に付して法を議させなかった。諫官王贄が言うには、「情状に軽重があり、道理に故失の別があるのに、一切が聖断から出て、前後で差異があり、政体を傷つけ、刑法の官は何を用いようか。請う、今後は悉く有司に付して正しく法によって処断させよ。」詔して可とした。近臣が間々請託をすると、直ちに言官に糾弾された。諫官陳升之がかつて言った、「有司が獄を断ずるに、事が権倖に連なることがあり、多くは中旨によって釈放される。請う、中旨によって釈放を得た者があれば、その請託の罪を劾し、違制の罪をもって論ぜよ。」これを許した。仁宗は賞罰に私することなく、特に貴近を以て法を廃することはなかった。屡々有司を戒めて、「内降を受けた者は、執奏せよ、軽々しく行うな。」と言った。未だ嘗て法を曲げて自らに従わせることはなかった。虢州知州周日宣が水災を偽って奏上した。有司が上書不実の法に照らして論請した。帝は言った、「州郡は多く符瑞を言い、水旱の災害に至っては、或いは抑えて聞こえさせない。今、守臣が自ら官私の廃屋が水没したと陳べたのは、その意は実に民にある。どうして罪を加えることができようか。」

原文時近臣有罪,多不下吏劾實,不付有司議法。諫官王贄言:「情有輕重,理分故失,而一切出於聖斷,前後差異,有傷政體,刑法之官安所用哉?請自今悉付有司正以法。」詔可。近臣間有干請,輒為言官所斥。諫官陳升之嘗言:「有司斷獄,或事連權倖,多以中旨釋之。請有緣中旨得釋者,劾其干請之罪,以違制論。」許之。仁宗於賞罰無所私,尤不以貴近廢法。屢戒有司:「被內降者,執奏,毋輒行。」未嘗屈法以自徇也。知虢州周日宣詭奏水災,有司論請如上書不實法。帝曰:「州郡多言符瑞,至水旱之災,或抑而不聞。今守臣自陳墊溺官私廬舍,意實在民,何可加罪?」

英宗の在位は日浅く、政令に及んで改制するには至らなかった。しかし、吏の習いが平穏を安んじて法を奉ずることに怠慢であることを以て、少しその怠惰を振り起こそうとした。三班奉職和欽が所管の綱運の銭を借用し、絞刑に当たった。帝は命じて死罪を免じて杖刑を免じ、刺字して福建路牢城に隷させた。知審刑院盧士宗がその罪を少し寛げるよう請うた。帝は言った、「故意の刑を寛げれば、死者がますます多くなる。『刑は期して刑無きを期す』の道ではない。過誤があった時に、寛げても害はない。」富国倉監官が湿って悪くなった米を受け取り、十八万石を腐敗させた。恩赦に会い減刑されるべきところ、帝は特に命じて官を奪い停職に処した。

原文英宗在位日淺,於政令未及有所更制。然以吏習平安,慢於奉法,稍欲振起其怠惰。三班奉職和欽貸所部綱錢,至絞,帝命貸死免杖,刺隸福建路牢城。知審刑院盧士宗請稍寬其罪,帝曰:「 刑故而得寬,則死者滋眾 ,非『刑期無刑』之道。俟有過誤,貸無傷也。」富國倉監官受米濕惡,壞十八萬石,會恩當減,帝特命奪官停之。

熙寧二年、内殿崇班鄭從易の母と兄が共に嶺外で亡くなり、一年余りして初めて知り、服喪を行いたいと請うた。神宗は言った、「父母が遠方にいるなら、朝夕思いを致すべきである。長い間安否を問わず、遂に一年を過ぎて存亡さえ知らなかったのか。」特に除名して勒停に処した。四年、王存立が言うには、「嘉祐年中、同学究出身として碭山県尉となり、かつて官に納めて父の配隷の罪を贖い、挙人の法と同じく、丁徭を免じられるよう請う。」帝はこれを哀れみ、再び出身を賜い、なお官に注することを許した。九年、桂州知州沈起が交趾を経略し、その慈恩州を取ろうとし、交趾人は遂に欽州を破り、邕管に侵犯した。詔して、辺境の民が横に屠戮に遭ったのは、寇を招いた職責にあり、罪は悉く沈起にあるとして、特に官爵を削り、遠悪州に編置した。

原文熙寧二年,內殿崇班鄭從易母、兄俱亡於嶺外,歲餘方知,請行服。神宗曰:「父母在遠,當朝夕為念。經時無安否之問,以至踰年不知存亡邪?」特除名勒停。四年,王存立言:「嘉祐中,同學究出身,為碭山縣尉,嘗納官贖父配隸罪,請同舉人法,得免丁徭。」帝憫之,復賜出身,仍與注官。九年,知桂州沈起欲經略交趾,取其慈恩州,交人遂破欽,犯邕管。詔邊人橫遭屠戮,職其致寇,罪悉在起,特削官爵,編置遠惡州。

復讐については、後世に法がない。仁宗の時、単州の民劉玉の父が王徳に毆打されて死に、王徳は赦令を受けた後、劉玉が私的に王徳を殺して父の讐を復した。帝はその義を認め、杖刑の上、編管に処した。元豊元年、青州の民王贇の父が人に毆打されて死に、王贇は幼く、復讐できなかった。成人に近づき、仇敵を刺し、四肢と首を断って父の墓に祭り、自首した。論ずれば斬刑に当たる。帝は、仇敵を殺して父を祭り、また自ら罪に帰したことは、その情状哀れむべきとして、詔して死罪を免じ、刺配して隣州に送った。宣州の民葉元に、同居の兄がその妻を犯し、葉元が兄を縊り殺し、また兄の子を殺し、父に強いて嫂との契約(不訟の約)を結ばせた。隣里がその事を発覚させ、州が上請した。帝は言った、「罪人は死に、姦乱の事は特に葉元の口から出ただけで、罪を定めるに足りない。また下民は無知とはいえ、確かに哀れむべきである。しかし、妻子への愛を以て、既にその父を欺き、またその兄を殺し、その甥を害した。道理に逆らい倫を敗る。兄を毆打して死に至らしめた律をもって論ずべきである。」

原文復讎,後世無法。仁宗時,單州民劉玉父為王德毆死,德更赦,玉私殺德以復父讎。帝義之, 杖、編管。元豐元年,青州民王贇父為人毆死,贇幼,未能復讎。幾冠,刺讎,斷支首祭父墓,自首,論當斬,帝以殺讎祭父,又自歸罪,其情可矜,詔貸死,刺配鄰州。宣州民葉元,有同居兄亂其妻,縊殺之,又殺兄子,強其父與嫂為約契不訟。鄰里發其事,州為上請,帝曰:「罪人以死,姦亂之事特出葉元之口,不足以定罪。且下民雖無知,固宜哀矜,然以妻子之愛,既罔其父,又殺其兄,戕其姪,逆理敗倫,宜以毆兄至死律論。」

紹聖以来、党獄が相次いで起こり、忠良は排斥され、国は空虚となった。徽宗が位を嗣ぐと、外では耳目の玩びに事とし、内では声色の欲を窮め、徴発は度を失い、号令は常ならず。ここにおいて蔡京・王黼の輩が、上を誣いて私を行い、法制を変乱することを得た。崇寧五年、詔して言う、「令を出し法を制するは、軽重予奪は上にある。比来特旨を降して処分するのに、三省が敕令を引用して、妨礙となすとし、沮抑して行わない。これは有司の常守を以て、人主の威福を格するものである。生殺を擅にするのを王と謂い、利害を能くするのを王と謂う。何ぞ格令あらんや。臣強の漸は、戒めざるべからず。今後、特旨処分に応ずるものがあり、間々利害があれば、明らかに具して論奏し、虚心に聴くべし。もし或いは常法を以て沮格して行わざる者は、大不恭を以て論ず。」翌年、詔す、「凡そ御筆断罪は、尚書省に詣り陳訴することを許さず。もし違えば、皆違御筆を以て論ず。」また令を定めて、「凡そ御筆を承受すべき官府は、稽滞一時は杖一百、一日は徒二年、二日は一等を加え、罪は流三千里に止め、三日は大不恭を以て論ず。」これにより吏が縁に乗じて姦を行い、法を用いるに巧みに文飾し、次第に深くなり、もはや祖宗の忠厚の志は無くなった。奢侈を窮め極めて、民力を竭きしめ、自ら禍機を速めた。靖康の時には、悔悟を知り、少し姦悪を誅したが、国を謀るに人を得ず、終いにはどうすることもできなかった。

原文紹聖以來,連起黨獄,忠良屏斥,國以空虛。徽宗嗣位,外事耳目之玩,內窮聲色之欲,徵發亡度,號令靡常。於是蔡京、王黼之屬,得以誣上行私,變亂法制。崇寧五年,詔曰:「出令制法,重輕予奪在上。比降特旨處分,而三省引用敕令,以為妨礙,沮抑不行,是以有司之常守,格人主之威福。夫擅殺生之謂王,能利害之謂王,何格令之有?臣強之漸,不可不戒。自今應有特旨處分,間有利害,明具論奏,虛心以聽;如或以常法沮格不行,以大不恭論。」明年,詔:「凡御筆斷罪,不許詣尚書省陳訴。如違,並以違御筆論。」又定令:「凡應承受御筆官府,稽滯一時杖一百,一日徒二年,二日加一等,罪止流三千里,三日以大不恭論。」由是吏因緣為姦,用法巧文寖深,無復祖宗忠厚之志。窮極奢侈,以竭民力,自速禍機。靖康雖知悔悟,稍誅姦惡,而謀國匪人,終亦末如之何矣。

高宗の性質は仁愛柔和にして、その法を用いるに当たっては、常に寛厚に従い、罪有る者を過って赦すことあれども、未だ過って殺すことはなかった。常州知州の周某が人を擅に殺したとき、帝は曰く、「朕は日々親しく聴断するも、豈に情に任せて誅戮する能わざらんや、顧みるに理に非ざるのみ」と。即ち命じて官籍を削除せしめた。大理寺は概ね儒臣を用いて法を平允に執行する者を以てこれに当たらしめた。獄官が入対するときは、即ち惨酷を以て戒めとした。台臣・士曹が平反することあれば、輒ちこれに転官を与えた。毎に軒に臨んで囚を慮るに、未だ送下する者あらず、曰く、「吾れは有司の観望し、鍛錬して以て軽重を為すを恐るるなり」と。吏部員外郎劉大中が江南に奉使して回り、左司諫に遷ったとき、帝は尋ねて秘書少監と為さんとし、宰臣朱勝非に謂いて曰く、「大中の奉使は、頗る多く獄を興す、今諫官と為さしむれば、四方の観望を恐るるなり」と。その用心忠厚なること此の如し。後に詔して曰く、「刑を用いるに惨酷なるを以て責降せられたる人は、堂除及び親民に及ぼさず、止だ遠小の監当差遣を与うべし」と。建炎・紹興の間に当たり、天下に盗賊起こり、往々にして城を攻め邑を屠り、遂に師を興してこれを討つに至れども、然れども赦免を得る者もまた衆し。同知枢密院事李回が嘗て強盗の数を奏したとき、帝は曰く、「皆吾が赤子なり、豈に一一これを誅すべけんや?その渠魁三両人を誅するは足る」と。貪吏を待つに至っては則ち極めて厳しく、贓を受くべき者は、堂除及び親民を許さず、枉法自盗を犯す者は、その名を中書に籍し、罪徒に至れば即ち叙用せず、死に至る者は、その資を籍す。諸文臣の寄禄官は並びに「左」「右」の字を帯び、贓罪人は則ちこれを去る。是の年、真決贓吏の法を申し厳にす。三省をして祖宗の故事を取り具えしむ。旧法を以て棄市の事を上る者有り、帝は曰く、「何ぞ爾るに至らんや?但だ断遣するは足る。貪吏の民を害するは、刑威を雑用するも、已むを得ざる有り、然れども豈に縉紳を死地に置くを忍びんや」と。徽宗の時に在りては、刑法已に峻なり、嘗て笞杖の制を裁定せしめども、有司猶お重比に従う。中興の初、詔して政和の遞減法を用い、是より嘉定に至るまで易えず。蔡京が国に当たりてより、凡そ御筆を請うて正法を壊す者は、悉くこれを釐正す。諸獄具は、当職官に令して式に依り検校せしむ。枷は乾木を以てこれを為し、軽重長短其上に刻識し、笞杖は節目を留めず、亦た釘飾及び筋膠の類を加うること不得、仍って官給の火印を用う。暑月は毎五日に一たび枷杻を洗濯し、刑部・大理寺は官一員を輪し、躬親監視す。諸獄司は並びに旬ごとに禁状を申し、品官・命婦の禁に在るは、別に単状を具す。奏案に合する者は、情款招伏を具して奏聞し、法司は朱書を以て検坐条例・推司録問・検法官吏の姓名を後にす。各州は毎年開収編配羈管奴婢の人及び断過編配の数を、各おき籍を置く。各路の提点刑獄司は、歳ごとに本路州軍の断過大辟を具し刑部に申し、諸州は提刑司に申す。その禁歴に書くべきにして書かず、所属に申すべきにして申さず、奏案は式に依らず、検坐開具は令に違い、回報は円ならずして詳覆を妨げ、及び提刑司が大辟を詳覆して稽留し、大辟を失覆して罪に出入有るに至らしむる者は、各おき罪に抵う。知州で兵を兼統する者は、師を出し陳に臨むに非ざれば、重刑を用いること無かれ。州県は月ごとに繫囚の存亡の数を具し提刑司に申し、歳終に比較し、死囚最も多き者は、当職官を黜責し、その最も少なき者は、これを褒賞す。旧は絹を以て贓を計る者は、千三百を一匹と為し、窃盗二貫に至る者は徒す。是に至り、又た優減を加え、二千を一匹と為し、盗三貫に至る者は一年を徒す。三年、復た詔して三千を一匹と為し、窃盗及び凡そ銭を以て罪を定むる者は、五分を遞増す。四年、又た詔して曰く、「特旨を以て処死するも、情法相応せざる者は、大理寺の奏審を許す」と。五年、歳終に比較し、宣州・衢州・福州は病死囚無く、当職官各おき一官を転じ、舒州は病死一分に及び、惠州は二分六厘に及び、当職官各おき一官を降す。六年、刑部に令して公事を体量せしむ。邵州・広州・高州は命官を勘して淹係すること久しくして報ぜず、詔して知州は一官を降し、当職官は二年の磨勘を展べ、当行吏は永く収叙せず。徳慶府は封川県令の事を勘し、七月報ぜず、詔して知州・勘官各おき罪に抵う。九年、大理寺朱伯文が広西に刑獄を催断し、還りて言うに、「雷州の海賊二獄は、並びに平人七人を係し、内五人已に死す」と。帝惻然とし、詔して本路提刑以下重ねて罰を致す。十二年、御史台が銭塘・仁和県の獄具を点検し、銭塘の大杖は、一つ多く五銭半、仁和の枷は、一つ多く一斤、一つ軽く半斤。詔して県官各おき一官を降す。十三年、詔して曰く、「禁囚に供飯無き者は、臨安は日ごとに銭二十文を支い、外路は十五文」と。十六年、詔して曰く、「諸獄を鞫して追到する干証人、罪無くして遣還する者は、毎程に米一升半、銭十五文を与う」と。二十一年、詔して官に病囚の薬物銭を支わしむ。旧法、刑部郎官四人、左右の廳に分かれ、或いは詳覆を以てし、或いは叙雪を以てす。同僚にして事を異にし、防閑考覆の意有り。南渡以来、務めて簡省に従い、大理少卿は止だ一員、刑部郎中は初め分異無く、獄その情を得ざる有り、法その理に当たらざる有りとも、平反追改する所無し。二十六年、右司郎中汪応辰之を言う。詔して刑部郎官は元豊の法に依り、左右廳を分けて事を治む。二十七年、詔して曰く、「四川にて銭引を以て科罪する者は、銅銭に準ず」と。

原文高宗性仁柔,其於用法,每從寬厚,罪有過貸,而未嘗過殺。知常州周擅殺人,帝曰:「朕日親聽斷,豈不能任情誅僇,顧非理耳。」即命削籍。大理率以儒臣用法平允者為之。獄官入對,即以慘酷為戒。臺臣、士曹有所平反,輒與之轉官。每臨軒慮囚,未嘗有送下者,曰:「吾恐有司觀望,鍛鍊以為重輕也。」吏部員外郎劉大中奉使江南回,遷左司諫,帝尋以為祕書少監。謂宰臣朱勝非曰:「大中奉使,頗多興獄,今使為諫官,恐四方觀望耳。」其用心忠厚如此。後詔:「用刑慘酷責降之人,勿堂除及親民,止與遠小監當差遣。」當建、紹間,天下盜起,往往攻城屠邑,至興師以討之,然得貸亦眾。同知樞密院事李回嘗奏強盜之數,帝曰:「皆吾赤子也,豈可一一誅之?誅其渠魁三兩人足矣。」至待貪吏則極嚴:應受贓者,不許堂除及親民;犯枉法自盜者,籍其名中書,罪至徒即不敘,至死者,籍其貲。諸文臣寄祿官並帶「左」、「右」字,贓罪人則去之。是年,申嚴真決贓吏法。令三省取具祖宗故事,有以舊法棄市事上者,帝曰:「何至爾耶?但斷遣之足矣。貪吏害民,雜用刑威,有不得已,然豈忍寘縉紳於死地邪?」在徽宗時,刑法已峻,雖嘗裁定笞杖之制,而有司猶從重比。中興之初,詔用政和遞減法,自是迄嘉定不易。自蔡京當國,凡所請御筆以壞正法者,悉釐正之。諸獄具,令當職官依式檢校。枷以乾木為之,輕重長短刻識其上,笞杖不得留節目,亦不得釘飾及加筋膠之類,仍用官給火印。暑月每五日一洗濯枷杻,刑、寺輪官一員,躬親監視。諸獄司並旬申禁狀,品官、命婦在禁,別具單狀。合奏案者,具情款招伏奏聞,法司朱書檢坐條例、推司錄問、檢法官吏姓名于後。各州每年開收編配羈管奴婢人及斷過編配之數,各置籍。各路提點刑獄司,歲具本路州軍斷過大辟申刑部,諸州申提刑司。其應書禁曆而不書,應申所屬而不申,奏案不依式,檢坐開具違令,回報不圓致妨詳覆,與提刑司詳覆大辟而稽留、失覆大辟致罪有出入者,各抵罪。知州兼統兵者,非出師臨陳,毋用重刑。州縣月具繫囚存亡之數申提刑司,歲終比較,死囚最多者,當職官黜責,其最少者,褒賞之。舊以絹計贓者,千三百為一匹,竊盜至二貫者徒 。至是,又加優減,以二千為一匹,盜至三貫者徒一年。三年 ,復詔以三千為一匹,竊盜及凡以錢定罪,遞增五分。四年,又詔:「特旨處死,情法不當者,許大理寺奏審。」五年,歲終比較,宣州、衢州、福州無病死囚,當職官各轉一官;舒州病死及一分,惠州二分六釐,當職官各降一官。六年,令刑部體量公事,邵州、廣州、高州勘命官淹係至久不報,詔知州降一官,當職官展二年磨勘,當行吏永不收敘。德慶府勘封川縣令事,七月不報,詔知州、勘官各抵罪。九年,大理寺朱伯文廣西催斷刑獄,還言:「雷州海賊兩獄,並係平人七人,內五人已死。」帝惻然,詔本路提刑以下重致罰。十二年,御史臺點檢錢塘、仁和縣獄具,錢塘大杖,一多五錢半;仁和枷,一多一斤,一輕半斤。詔縣官各降一官。十三年,詔:「禁囚無供飯者,臨安日支錢二十文,外路十五文。」十六年,詔:「諸鞫獄追到干證人,無罪遣還者,每程給米一升半,錢十五文。」二十一年,詔官支病囚藥物錢。舊法,刑部郎官四人,分左右廳,或以詳覆,或以敘雪 ,同僚而異事,有防閑考覆之意。南渡以來,務從簡省,大理少卿止一員,刑部郎中初無分異,獄有不得其情,法有不當於理者,無所平反追改。二十六年,右司郎中汪應辰言之。詔刑部郎官依元豐法,分左右廳治事。二十七年,詔:「四川以錢引科罪者,準銅錢。」

孝宗は諸般の訴訟に心を究め、毎年殿前に出て囚徒を慮囚するに当たり、数日前から役所に款案を進めて披閲し、その後で決断・放遣した。法司が律令を改定する時は、必ず自ら訂正した。丞相趙雄が『淳熙條法事類』を上進すると、帝は収騾馬・舟舡・契書稅の条に読み至り、「後世に舟車にまで算を及ぼすとの譏りを受ける恐れがある」と言った。『戸令』に「戸絶の家には、その家に三千貫を給することを許し、二万貫に及ぶ者は取旨する」とあるのに対し、帝は「その家が不幸にして絶えるのに、二万貫に至ってこれを取るのは、心を利してその財を図るものである」と言った。また『捕亡律』に「公人が盗賊を捕えられない者は、罰金とする」とあるのに対し、帝は「罰金だけで罪を加えないのは、これに財を受け取らせて盗賊を放縦させるものである」と言った。また「監司・知州で無額上供をした者は賞する」とあるのに対し、帝は「上供に既に定額がないのに、これは民から白く取るものであり、賞してこれを誘うことができようか」と言い、併せて削除するよう命じた。その明審はこのようであった。かつ刑を用いるに当たって、私情をもって法を廃したことはなかった。鎮江都統戚方が刻剝を理由に罪に問われた時、宰臣陳俊卿が内臣にこれを主導した者がいると言上すると、帝は「朕も聞いている」と言い、内侍陳瑜・李宗回らを大理獄に付して賄賂の情状を究めさせ、獄が成ると、決して配流した。乾道二年に詔を下して言った、「獄は重事である。用法が一旦傾けば、民は手足を措く所を知らない。比年以来、治獄の吏は巧みに多端を持し、随意に軽重を為し、朕は甚だこれを患う。今より玩習の弊を革め、審克の公を明らかにし、姦が情を容れず、罰必ず罪に当たらしめ、刑の中に迪わしめよ。勉めよ、忽せざるように」。三年、詔して言った、「獄は重事である。稽する者には律があり、当たる者には比があり、疑う者には讞がある。比年顧みて獄情を執政に白状し、旨意を探り取って軽重と為すのは、甚だ謂れのないことである。今よりその心を祗れ、刑を敬い、惟だ当たるを貴しとし、前非を習うな。吾が詔に如かざれば、吾将に大いに罰に寘き、赦す所なからん」。六年、詔した、「絹をもって贓を計る者は、更に一貫を増す。四千をもって一匹と為す」。議者また言う、「盗を犯す者は、敕をもって銭を計り罪を定め、律をもって絹を計る。今律は絹をもって罪を定める者は一千を遞増し、敕内は銭をもって罪を定めるも、亦た例に合せて一千を増すべし」。これに従った。臨安府左右司理・府院の三獄では、杖直獄子は給与がなく、無籍に至っていた。七年、詔した、「人月に銭十貫・米六斗を給し、毎院はただ十二人を置くことを許す」。時に州県の獄禁は淹延し、八年、詔した、「徒以上の罪で禁に入って三月になる者は、提刑司が類別して刑部に申し、籍を置き限を立ててこれを督す」。その後、また詔して中書に禁を置き、奏して籍を取り会わせ、大臣が按閲して、刑寺の稽違と、問難すべからざるに問難し、会すべからざるに会する者を察した。

原文孝宗究心庶獄,每歲臨軒慮囚,率先數日令有司進款案披閱,然後決遣。法司更定律令,必親為訂正之。丞相趙雄上《淳熙條法事類》,帝讀至收騾馬、舟舡、契書稅,曰:「恐後世有算及舟車之譏。」《戶令》:「戶絕之家,許給其家三千貫,及二萬貫者取旨。」帝曰:「其家不幸而絕,及二萬貫迺取之,是有心利其財也。」又《捕亡律》:「公人不獲盜者,罰金。」帝曰:「罰金而不加罪,是使之受財縱盜也。」又:「監司、知州無額上供者賞。」帝曰:「上供既無額,是白取於民也,可賞以誘之乎?」並令削去之。其明審如此。且於用刑 ,未嘗以私廢法。鎮江都統戚方以刻剝被罪,宰臣陳俊卿言內臣有主之者,帝曰:「朕亦聞之。」乃以內侍陳瑜、李宗回等付大理獄,究其賂狀,獄成,決配之。乾道二年下詔曰:「獄,重事也。用法一傾,則民無所措手足。比年以來,治獄之吏,巧持多端,隨意輕重之,朕甚患焉。其自今革玩習之弊,明審克之公,使姦不容情,罰必當罪,用迪於刑之中,勉之哉,毋忽!」三年,詔曰:「獄,重事也。稽者有律,當者有比,疑者有讞。比年顧以獄情白於執政,探取旨意,以為輕重 ,甚亡謂也。自今其祗乃心,敬於刑,惟當為貴,毋習前非。不如吾詔,吾將大寘於罰,罔攸赦。」六年,詔:「以絹計贓者,更增一貫。以四千為一匹。」議者又言:「犯盜,以敕計錢定罪,以律計絹。今律以絹定罪者遞增一千,敕內以錢定罪,亦合例增一千。」從之。臨安府左右司理、府院三獄,杖直獄子以無所給,至為無籍。七年,詔:「人月給錢十貫,米六斗,每院止許置一十二人。」時州縣獄禁淹延,八年,詔:「徒以上罪入禁三月者,提刑司類申刑部,置籍立限以督之。」其後,又詔中書置禁,奏取會籍,大臣按閱,以察刑寺稽違,與夫不應問難而問難,不應會而會者。

淳熙初年、浙西提刑鄭興裔が検驗格目を上進し、詔して諸路提刑司に頒布した。凡そ検覆するには必ず三本を与える、一つは所属に申し、一つは本司に申し、一つは被害の家に給する。紹興の法では、鞫獄官が推勘して実を得ず、故に不当がある者は、一案をもってこれを坐した。乾道の法では、また移替事故の者があると、即ち淹延を致すことを恐れ、乃ち先ず罪人の不当を決し、官吏は案後に収坐するよう命じた。ここに至り、所司が更に死罪は紹興法に依り、余りは乾道法を施行するよう請うと、これに従った。その後、有司が覆勘が同じでないと、前官に失入の罪があるため、往々にして前勘に雷同した。帝はその弊を知り、十四年、詔して特にある一案の推結を免することを一度許した。ここにおいて大小の獄は、多くその情を得た。二広の州軍の獄吏は、憲司の点検送勘の害を畏れ、凡そ重囚があると、多く獄中で斃れた。臣僚がこれを請うと、乃ち詔して二広提刑司は公事を詳覆し、若し小節が完わずとも、獄吏を追逮するを須いず、本州に委ねて実を究め保明させ、死者に遇う時は、必ずその致死した所以を根究させた。

原文淳熙初,浙西提刑鄭興裔上檢驗格目,詔頒之諸路提刑司。凡檢覆必給三本:一申所屬,一申本司,一給被害之家。紹興法,鞫獄官推勘不得實,故有不當者,一案坐之。乾道法,又恐有移替事故者,即致淹延,乃令先決罪人不當,官吏案後收坐。至是,所司請更定死罪依紹興法,餘依乾道施行,從之。其後,有司以覆勘不同,則前官有失入之罪,往往雷同前勘。帝知其弊,十四年,詔特免一案推結一次。於是小大之獄,多得其情。二廣州軍獄吏,畏憲司點檢送勘之害,凡有重囚,多斃於獄。臣僚以為請,乃詔二廣提刑司詳覆公事,若小節不完,不須追逮獄吏,委本州究實保明;遇有死者,必根究其所以致死。

三衙及び江上の諸軍には、それぞれ推獄があり、「後司」と称した。獄が成ると主帥に決し、属官を経由しないため、軍吏は多く財を受け取って奸を為した。光宗の時、乃ち詔して条制に通曉する属官に兼管させた。広東路は瘴癘が甚だしく、惟だ英徳府が最も甚だしく、「人間の生地獄」と称された。諸司の公事で速成を欲する者は、多くこれを送り、死罪でない者でも、至れば即ち誣伏し、急いで刑責に就いて出ようとした。五年、臣僚がこれを言上し、詔した、「本路諸司の公事で別州に送るべきものは、英徳府に送るな」。

原文三衙及江上諸軍,各有推獄,謂之「後司」。獄成決于主帥,不經屬官,故軍吏多受財為奸。光宗時,乃詔通曉條制屬官兼管之。廣東路瘴癘,惟英德府為最甚,謂之「人間生地獄」。諸司公事欲速成者,多送之,自非死罪,至即誣伏,亟就刑責以出。五年,臣僚言之,詔:「本路諸司公事應送別州者,無送英德府。」

寧宗の時に至り、刑獄は益々濫れた。嘉泰初年、天下が上申する死案は、一年で千八百十一人であったが、断じて死する者は僅か百八十一人で、余りは皆これを貸した。乃ち諸憲台に詔し、歳終に州軍で獄空あるいは禁人が少ない者を検挙し、省に申して旨を取らせた。嘉定四年に詔した、「絹をもって贓を計り罪を定める者は、江北の鉄銭は四川の法に依り、二を以て銅銭一に当てる」。江西提刑徐似道が言う、「検驗官が軽きを指して重きと為し、有るを以て無しと為し、差訛が交互し、故に吏の奸が人罪を出入する。湖南の正背人形を格目に随って給下し、傷損の去る処に依って様に朱紅で書画し、傷痕を唱喝し、衆に異詞無くして後に署押するよう乞う」。詔してこれに従い、天下に頒布した。五年、詔して三衙及び江上・四川の諸軍に、武挙人をもって後司公事を主管させた。

原文至寧宗時,刑獄滋濫。嘉泰初,天下上死案,一全年千八百一十一人,而斷死者纔一百八十一人,餘皆貸之。乃詔諸憲臺,歲終檢舉州軍有獄空?禁人少者,申省取旨。嘉定四年詔:「以絹計贓定罪者,江北鐵錢依四川法,二當銅錢一。」江西提刑徐似道言:「檢驗官指輕作重,以有為無,差訛交互,以故吏姦出入人罪。乞以湖南正背人形隨格目給下,令於傷損去處,依樣朱紅書畫,唱喝傷痕,眾無異詞,然後署押。」詔從之,頒之天下。五年,詔三衙及江上、四川諸軍,以武舉人主管後司公事。

理宗は民間より起り、刑獄の弊を具に知っていた。即位の初め、即ち天下に恤刑を詔し、また親しく『審刑銘』を制して有位を警めた。毎年大暑には、必ず殿前に臨んで慮囚した。謀殺・故殺・鬥殺で既に人を殺した者、符印・会子を偽造した者、放火、官員が入己贓を犯した者、将校軍人が枉法を犯した者を除く外、自余の死罪は情軽き者は流に降し、流は徒に降し、徒は杖に降し、杖以下はこれを釈した。大寒の慮囚及び祈晴・祈雪及び災祥の時も、亦たこのようであった。ある年には凡そ数度疏決した者もあった。後に建康も先朝の駐蹕の地であるため、罪人も亦た臨安の減降の法に視ることを得た。

原文理宗起自民間,具知刑獄之弊。初即位,即詔天下恤刑 ,又親制《審刑銘》以警有位。每歲大暑,必臨軒慮囚。自謀殺、故殺、鬥殺已殺人者,偽造符印、會子,放火,官員犯入己贓,將校軍人犯枉法外,自餘死罪,情輕者降從流,流降從徒,徒從杖,杖已下釋之。大寒慮囚,及祈晴祈雪及災祥,亦如之。有一歲凡數疏決者。後以建康亦先朝駐蹕之地,罪人亦得視臨安減降之法。

帝の刑罰の用い方は極めて寛厚であると言えようが、天下の獄はその残酷さに耐えられないほどであった。毎年冬夏、詔を下して提刑に諸郡を巡行させ囚人を処断させたが、提刑は巡行を憚り、全て副官に委ね、副官も行かず、また幕僚に委ねた。委ねられた者は、概ね威福を恣にし、賄賂を求めた。監司や郡守は、威福を擅にし、意のままに黥げい刑を加えたい者には、その黥刑に当たる理由を記入させ、意のままに殺したい者には、その死罪に当たる罪を立証させ、吏卒を呼び叱り、日時を厳しく制限し、招供を監視して強制し、判決文の作成を催促した。また、勝手に獄具を設け、法外の方法で民を傷つけ、薪を断ち切って杖とし、手足を打ち叩くのを「掉柴」と称し、あるいは木の枷を施し、両脛を挟むのを「夾幫」と称し、あるいは首に縄を巻き、木の楔を加えるのを「脳箍」と称し、あるいは逆さに縛って跪かせ、短く堅い木を立て、両股を交差させて縛り、獄卒にその上で跳躍させるのを「超棍」と称し、痛みは骨髄にまで及び、ほとんど命を落とすほどであった。富貴の家で、少しでも嫌疑があれば、たちまちその財産を没収した。また、月樁の調達や版帳の補助を名目として、罪の軽重を問わず、全て罰金を科した。大略、官が十を取れば、吏は百を漁った。諸々の重刑は、皆提刑司に申し上げて審査覆奏させ、あるいは事案を具えて奏上し裁断を請うのであって、州県が専断で殺す理はなく、往々にして殺してから待罪した。法には拘鎖の条項はなく、特に州県が一時的に盗賊や姦暴を弾圧するため、配流に至らない罪の者を拘鎖し、反省させるもので、一月、二月、あるいは一季、半年であり、永鎖の者にも期限があり、食糧が支給された。この時、州県は残忍で、拘鎖する者は終に期限がなく、食糧を支給せず、囚禁したまま滞らせ、死ぬまで放置した。また、私怨で手足を折り、尉や砦に拘鎖した。また、豪強が吏に賄賂して、平民を陥れ囚禁して殺すこともあった。甚だしきは、戸婚の訴訟までも皆収監した。飲食が足りず、飢餓で死ぬ者があり、請求する力がなく、吏卒の凌虐で死ぬ者があり、双方の当事者から賄賂を受け、苦痛で死ぬ者があった。発覚を恐れ、先に病気と申告し、「監医」と称するが、実は既に死んでおり、「病死」と称するが、実は殺したのである。度宗の時に至り、累次の詔で厳しく責め禁止したが、終に勝つことができず、国は滅亡した。

原文帝之用刑可謂極厚矣,而天下之獄不勝其酷。每歲冬夏,詔提刑行郡決囚,提刑憚行,悉委倅貳,倅貳不行,復委幕屬。所委之人,類皆肆行威福,以要餽遺。監司、郡守,擅作威福,意所欲黥,則令入其當黥之由,意所欲殺,則令證其當死之罪,呼喝吏卒,嚴限日時,監勒招承,催促結款。而又擅置獄具,非法殘民,或斷薪為杖,掊擊手足,名曰「掉柴」;或木索?施,夾兩脰,名曰「夾幫」;或纏繩於首,加以木楔,名曰「腦箍」;或反縛跪地,短豎堅木,交辮兩股,令獄卒跳躍於上,謂之「超棍」,痛深骨髓,幾於殞命。富貴之家,稍有 ,動籍其貲。又以趁辦月樁及添助版帳為名,不問罪之輕重,並從科罰。大率官取其十,吏漁其百。諸重刑,皆申提刑司詳覆,或具案奏裁,即無州縣專殺之理,往往殺之而待罪。法無拘鎖之條,特州縣一時彈壓盜賊姦暴,罪不至配者,故拘鎖之,俾之省愆,或一月、兩月,或一季、半年,雖永鎖者亦有期限,有口食。是時,州縣殘忍,拘鎖者竟無限日,不支口食,淹滯囚係,死而後已。又以己私摧折手足,拘鎖尉砦。亦有豪強賂吏,羅織平民而囚殺之。甚至戶婚詞訟,亦皆收禁。有飲食不充,飢餓而死者;有無力請求,吏卒凌虐而死者;有為兩詞賂遺,苦楚而死者。懼其發覺,先以病申,名曰「監醫」,實則已死;名曰「病死」,實則殺之。至度宗時,雖累詔切責而禁止之,終莫能勝,而國亡矣。

詔獄は、本来大姦悪を糾弾するためのもので、その事は常には見られない。初め、群臣が法を犯した場合、事体の大きいものは多く御史臺獄に下し、小さいものは開封府や大理寺で審理した。神宗以来、一時的に詔を受けて推問を設置するものを「制勘院」と称し、事が中書から出る場合は「推勘院」と称し、獄事が終われば廃止した。熙寧二年、尚書都官郎中沈衡に命じて、前杭州知事祖無擇を秀州で審理させ、内侍を駅馬で派遣して追捕した。御史張戩らが言上した、「無擇は三朝に仕えた近侍であり、突然牢獄に繋がれるのは、朝廷が廉恥をもって臣下を風化激励する意に適いません。就獄を免じ、審問のみに止めるよう請います」と。聞き入れられなかった。また、崇文院校書張載に命じて、前明州知事・光祿卿苗振を越州で審理させた。獄事が成り、無擇は官銭を貸し付け及び公使酒を借用した罪に坐し、忠正軍節度副使に貶謫され、振はかつて裴士堯に罪を故意に入れたこと及び不法な行いをした罪に坐し、復州團練副使に貶謫された。獄事は半年でようやく決し、供述に連座して逮縛された官吏は、勒停・衝替・編管に処せられた者がまた十余人おり、皆御史王子韶がこの事を発端とした。これより詔獄は屡々起こり、法に悖り及び国体に関わるものを記し、その他は記すに足りない。

原文詔獄,本以糾大姦慝,故其事不常見。初,羣臣犯法,體大者多下御史臺獄,小則開封府、大理寺鞫治焉。神宗以來,凡一時承詔置推者,謂之「制勘院」,事出中書,則曰「推勘院」,獄已迺罷。熙寧二年,命尚書都官郎中沈衡鞫前知杭州祖無擇于秀州,內侍乘驛追逮。御史張戩等言:「無擇三朝近侍,而驟繫囹圄,非朝廷以廉恥風厲臣下之意,請免其就獄,止就審問。」不從。又命崇文院校書張載鞫前知明州、光祿卿苗振于越州。獄成,無擇坐貸官錢及借公使酒,謫忠正軍節度副使,振坐故入裴士堯罪及所為不法,謫復州團練副使。獄半年乃決,辭所連逮官吏,坐勒停、衝替、編管又十餘人,皆御史王子韶啟其事。自是詔獄屢興,其悖于法及國體所繫者著之,其餘不足紀也。

八年、沂州の民朱唐が、前餘姚主簿李逢の謀反を告発した。提点刑獄王庭筠はその形跡がないと上言し、ただ謗り誹ることで、言葉が指斥に及び及び妄りに吉凶を説いたとして、編配を請うた。帝はこれを疑い、御史臺推直官蹇周輔を派遣して劾問させた。中書は庭筠の上奏が不当であるとして、?劾した。庭筠は恐れ、自縊死した。李逢の供述は宗室の秀州團練使世居、医官劉育ら、河中府觀察推官徐革に連座し、詔を下して臺獄に捕らえ繫ぎ、中丞鄧綰、同知諫院范百祿と御史徐禧に共同で審理させた。獄事が成り、世居に死を賜い、李逢、劉育及び徐革は共に凌遅処死とし、將作監主簿張靖、武進士郝士宣は皆腰斬とし、司天監學生秦彪、百姓李士寧は脊杖に処し、共に湖南に編管した。その他連座した者は官を追われ職を落とした。世居の子孫は死罪を赦され除名され、属籍を削られた。以前の審理官吏は皆罪を劾された。李士寧は、術を挟んで貴人の門に出入りし、かつて世居の母康氏に会い、仁宗の御製詩を献上した。百祿は、士寧が世居を惑わして不軌に至らせ、かつその逆謀を知っていたと疑い、推問したが服さなかった。禧は乃ち上奏した、「士寧が贈った詩は、実は仁宗の御製であり、今、獄官がこれを反逆の原因としていますが、臣は同意できません」と。百祿は、士寧がかつて王安石と親しかったため、鍛錬して妖言の死罪に附会しようとし、結局士寧を徒刑に論じ、そして「禧は故意にこれを軽くして、大臣に媚びた」と奏上した。詔を下して、理が曲がっている者を詳しく劾して奏聞させた。百祿は上奏が事実に合わない罪に坐し、職を落とした。

原文八年,沂州民朱唐告前餘姚主簿李逢謀反。提點刑獄王庭筠言其無迹,但謗讟,語涉指斥及妄說休咎,請編配。帝疑之,遣御史臺推直官蹇周輔劾治。中書以庭筠所奏不當, ?劾之。庭筠懼,自縊死。逢辭連宗室秀州團練使世居、醫官劉育等、河中府觀察推官徐革,詔捕繫臺獄,命中丞鄧綰、同知諫院范百祿與御史徐禧雜治。獄具,賜世居死,李逢、劉育及徐革並凌遲處死,將作監主簿張靖、武進士郝士宣皆腰斬,司天監學生秦彪、百姓李士寧杖脊,並湖南編管。餘連逮者追官落職。世居子孫貸死除名,削屬籍。舊勘鞫官吏並劾罪。李士寧者,挾術出入貴人門,常見世居母康,以仁宗御製詩上之。百祿謂士寧熒惑世居致不軌,且疑知其逆謀,推問不服。禧乃奏:「士寧贈詩,實仁宗御製,今獄官以為反因,臣不敢同。」百祿以士寧嘗與王安石善,欲鍛鍊附致妖言死罪,卒論士寧徒罪,而奏「禧故出之,以媚大臣」。詔詳劾理曲者以聞。百祿坐報上不實,落職。

もし凌遅・腰斬の法は、熙寧以前には未だ嘗て元凶巨悪に用いられず、而して是より以て口語狂悖の故に罪に致る者は、極法に麗せしむるなり。蓋し詔獄の興るは、始めに柄国の臣に由り、此を藉りて以て縉紳を威し、其の私憾を逞うし、朋党の禍遂に起こり、流毒已まず。紹聖の間、章惇・蔡卞用事し、既に再び呂公著・司馬光を追貶し、及び呂大防等を嶺外に謫すに及び、意猶未だ快からず、仍て黄履の高士京状を疏して王珪を追貶し、皆「上躬を図り危うくす」と誣う。其の言漸く宣仁に及び、上頗る之に惑う。最後に、同文館の獄を起こし、将に悉く元祐の旧臣を誅せんとす。時に太府寺主簿蔡渭奏す、「臣が叔父碩、嘗て邢恕の処に於て文及甫の元祐中に恕に寄せし書を見、姦臣の大逆不道の謀を具述す。及甫は彦博の子なり、必ず姦状を知らん」と。詔して翰林承旨蔡京・吏部侍郎安惇に同究問せしむ。初め、及甫が恕に与えし書に、自ら謂う、「畢禫当に外を求めんとす、入朝の計未だ必ずしも可からず、聞く已に逆に機を為し、以て其の塗を榛塞すと」と。又た謂う、「司馬昭の心は、路人の知る所なり」と。又た云う、「之を済すに粉昆を以てし、朋類錯立し、以て眇躬を甘心快意の地と為さんと欲す」と。及甫嘗て蔡碩に語り、司馬昭は劉摯を指し、粉昆は韓忠彦を指し、眇躬は及甫自らを謂うと謂う。蓋し俗に駙馬都尉を「粉侯」と称し、人の王師約の故を以て、其の父克臣を「粉父」と呼び、忠彦は嘉彦の兄なり。及甫都司を除せられ、劉摯の論列に為る。又た摯嘗て彦博の三省長官を除すべからざるを論じ、故に止めて平章重事と為す。及て彦博致仕し、及甫権侍郎より修撰を以て郡を守り、母喪除き、恕に書をして外を補わんことを請い、因りて躁忿詆毀の辞を為す。及て対を置くに及びては、則ち昭を以て摯に比すること旧の如く、眇躬は乃ち以て上を指し、而して粉昆は乃ち王巖叟の面傅粉の如きを謂い、故に「粉」と曰い、梁燾の字は况之、「况」を兄と為すを以て、故に「昆」と曰い、摯の将に謀りて廃立し、上躬に利あらざるを斥く。京・惇言う、「事不順に渉る、及甫は止だ其の父の言を聞くのみ、他に証佐無し、別に官を差して審問せんことを望む」と。乃ち詔して中書舍人蹇序辰に審問せしめ、仍て内侍一員を差して同往せしむ。蔡京・安惇等共に之を治め、将に大いに誅戮せんとす、然れども卒に其の要領を得ず。会に星変あり、上怒稍や息み、然れども京・惇極力鍛錬して少も置かず。既にして梁燾化州に於て卒し、劉摯新州に於て卒す、衆皆二人の其の死を得ざるを疑う。明年五月、詔す、「摯・燾は文及甫等の供する言語に拠る、偶々逐人皆亡し、考験に及ばず、明らかに典刑に正す。摯・燾の諸子並びに勒停し、永く収叙せず」と。先に、三省進呈し、帝曰く、「摯等已に遐方に謫せり、朕祖宗の遺志を遵い、未だ嘗て大臣を殺戮せず、其れ釈して治むる勿れ」と。

原文若凌遲、腰斬之法,熙寧以前未嘗用於元凶巨,而自是以口語狂悖致罪者,麗于極法矣。蓋詔獄之興,始由柄國之臣藉此以威縉紳,逞其私憾,朋黨之禍遂起,流毒不已。紹聖間,章惇、蔡卞用事,既再追貶呂公著、司馬光,及謫呂大防等嶺外,意猶未快,仍用黃履疏高士京狀追貶王珪,皆誣以「圖危上躬」,其言寖及宣仁,上頗惑之。最後,起同文館獄,將悉誅元祐舊臣。時太府寺主簿蔡渭奏:「臣叔父碩,嘗於邢恕處見文及甫元祐中所寄恕書,具述姦臣大逆不道之謀。及甫,彥博子也,必知姦狀。」詔翰林承旨蔡京、吏部侍郎安惇同究問。初,及甫與恕書,自謂:「畢禫當求外,入朝之計未可必,聞已逆為機,以榛塞其塗。」又謂:「司馬昭之心,路人所知。」又云:「濟之以粉昆,朋類錯立,欲以眇躬為甘心快意之地。」及甫嘗語蔡碩,謂司馬昭指劉摯,粉昆指韓忠彥,眇躬,及甫自謂。蓋俗稱駙馬都尉為「粉侯」,人以王師約故,呼其父克臣 為「粉父」,忠彥乃嘉彥之兄也。及甫除都司,為劉摯論列。又摯嘗論彥博不可除三省長官,故止為平章重事。及彥博致仕,及甫自權侍郎以修撰守郡,母喪除,與恕書請補外,因為躁忿詆毀之辭。及置對,則以昭比摯如舊,眇躬乃以指上,而粉昆乃謂指王巖叟面如傅粉,故曰「粉」,梁燾字况之,以「况」為兄,故曰「昆」,斥摯將謀廢立,不利於上躬。京、惇言:「事涉不順,及甫止聞其父言,無他證佐,望別差官審問。」乃詔中書舍人蹇序辰審問,仍差內侍一員同往。蔡京、安惇等共治之,將大有所誅戮,然卒不得其要領。會星變,上怒稍息,然京、惇極力鍛鍊不少置。既而梁燾卒於化州,劉摯卒於新州,眾皆疑二人不得其死。明年五月,詔:「摯、燾據文及甫等所供言語,偶逐人皆亡,不及考驗,明正典刑 。摯、燾諸子並勒停,永不收敘。」先時,三省進呈,帝曰:「摯等已謫遐方,朕遵祖宗遺志,未嘗殺戮大臣,其釋勿治。」

初め、元祐更政の時、嘗て訴理所を置き、濫を申理す。元符元年、中丞安惇言う、「神宗厲精図治し、庶獄を明審す、而して陛下未だ親政せざる時、姦臣訴理所を置き、凡そ熙寧・元豊の間に得罪する者、咸が除雪せられ、怨を先朝に帰し、恩を私室に収む。公案を取って看詳し、初めに加罪せし意に従い、復た元断に依り施行せんことを乞う」と。時に章惇猶豫よして未だ応ぜず、蔡卞即ち「相公二心」の言を以て之を迫る。惇懼れ、即日局を置き、蹇序辰に命じ安惇と同しく案内の文状陳述を看詳し、及び訴理所が先朝の言語不順を看詳する者を、名を具して以て聞かしむ。是より以て、伸雪復改正して重ねて得罪する者八百三十家。徽宗即位に及び、元祐訴理の人を改正す。右正言陳瓘言う、「訴理得罪は、言語不順の外より、改正する者七百余人。罪無き者既に昭雪を蒙る、則ち看詳の官蹇序辰・安惇の如きは、安んぞ以て罪を加えざるべけんや。序辰と惇は大臣の諷諭を受け、紹述の意に迎合し、因りて訴理の事は形迹先朝と謂い、遂に紛紛已まざらしむ。公議に考うるに、宜しく典刑に正すべし」と。会に中書省も亦た惇・序辰の罪を治めんことを請う、詔して蹇序辰・安惇並びに除名し、帰田里に放つ。

原文初,元祐更政,嘗置訴理所,申理濫。元符元年,中丞安惇言:「神宗厲精圖治,明審庶獄,而陛下未親政時,姦臣置訴理所,凡得罪熙寧、元豐之間者,咸為除雪,歸怨先朝,收恩私室。乞取公案,看詳從初加罪之意,復依元斷施行。」時章惇猶豫未應,蔡卞即以「相公二心」之言迫之。惇懼,即日置局,命蹇序辰同安惇看詳案內文狀陳述,及訴理所看詳於先朝言語不順者,具名以聞。自是,以伸雪復改正重得罪者八百三十家。及徽宗即位,改正元祐訴理之人。右正言陳瓘言:「訴理得罪,自語言不順之外,改正者七百餘人。無罪者既蒙昭雪,則看詳之官如蹇序辰、安惇者,安可以不加罪乎?序辰與惇受大臣諷諭,迎合紹述之意,因謂訴理之事,形迹先朝,遂使紛紛不已。考之公議,宜正典刑。」會中書省亦請治惇、序辰罪,詔蹇序辰、安惇並除名,放歸田里。

靖康初元、既に梁方平を戮し、太傅王黼を責授して崇信軍節度副使と為し、永州に安置す。言者論じて黼が君を欺き上を罔し、権を専らにし寵を怙い、財を害し民を蠹し、法を壊し国を敗ち、朔方の釁は黼其の謀を主とすとす。吏を遣わして雍丘に追い至りて之を殺し、其の首を取って以て献じ、仍て其の家を籍す。又た詔して拱衞えい大夫・安德軍承宣使李彦に死を賜う。彦は民田を根括し、民の常産を奪い、租課を重斂し、百姓失業し、愁怨路に溢れ、官吏稍や意に忤うれば、捃摭して獄に送り、多く憤死に至る、故に特り之を誅す。少保梁師成の王黼に朋比する罪を暴き、責めて彰化軍節度副使と為し、一日行きて、追い之を殺す。臺諫極めて朱が肆に姦悪を行い、花石綱を起こし、百姓の膏血を竭し、州県の帑蔵を罄き、子姪承宣・觀察する者数人、廝役横行為り、媵妾封号有り、園第器用悉く宮禁に擬すと論ず。三月、広南に竄し、尋ねて死を賜う。趙良嗣は、本燕人の馬植なり。政和初、童貫遼国に使し、植路に邀え、以て宗国を覆すの策を説き、貫之を挟みて以て帰り、卒に其の計を用い、以て南北の禍を基う。是に至り、誅に伏す。七月、童貫の十罪を暴き、人を遣わして即ち所至に斬らしむ。九月、言者論じて蔡攸が燕山の役を興し、禍天下に及び、驕奢淫佚、載籍未だ有らざるとす。詔して攸及び弟翛を誅す。

原文靖康初元,既戮梁方平,太傅王黼責授崇信軍節度副使,永州安置。言者論黼欺君罔上,專權怙寵,財害民,壞法敗國,朔方之釁,黼主其謀。遣吏追至雍丘殺之,取其首以獻,仍籍其家。又詔賜拱衞大夫、安德軍承宣使李彥死。彥根括民田,奪民常產,重斂租課,百姓失業,愁怨溢路,官吏稍忤意,捃摭送獄,多至憤死,故特誅之。暴少保梁師成朋比王黼之罪,責彰化軍節度副使,行一日,追殺之。臺諫極論朱肆行姦惡,起花石綱,竭百姓膏血,罄州縣帑藏,子姪承宣、觀察者數人,廝役為橫行,媵妾有封號,園第器用悉擬宮禁。三月,竄廣南,尋賜死。趙良嗣者,本燕人馬植。政和初,童貫使遼國,植邀於路,說以覆宗國之策,貫挾之以歸,卒用其計,以基南北之禍。至是,伏誅。七月,暴童貫十罪,遣人即所至斬之。九月,言者論蔡攸興燕山之役,禍及天下,驕奢淫佚,載籍所無。詔誅攸? 弟翛。

高宗は大乱の後に即位し、王時雍等の売国の罪を治め、洪芻・余大均・陳沖・張卿才・李彝・王及之・周懿文・胡思文を並びに御史台の獄に下した。獄が具わり、刑寺は芻が景王の寵姫を納れ、大均が喬貴妃の侍児を納れ、及び之が寧徳皇后の女弟を苦辱し、流に当たると論じ、沖が金銀を括って自ら盗み、宮人と飲み、絞に当たり、懿文・卿才・彝が宮人と飲み、卿才・彝は徒に当たり、懿文は杖に当たり、思文が張邦昌を推択する状内に諂奉の詞を添えたことを、銅十斤を罰し、並びに赦に該るとした。上は状を閲して大いに怒り、李綱等が共にこれを解き、上もまた新政にして、士大夫を殺すことを重んじ、乃ち詔して芻・大均・沖は各特命を貸し、沙門島に流し、永く放還せず、卿才・彝・及之・懿文・思文は並びに別駕として辺郡に安置すと。宋斉愈を台獄に下し、法寺は犯すこと五月一日の赦前に在りとして、裁を奏す。詔して斉愈は異姓を立てて謀り、以て宗社を危うくし、偽命の臣僚に受くるの比に非ず、特に赦さず、都市に腰斬すと。詔して東京及び行在の官に任を擅に離るる者は、並びに本処に就きて之を根勘すと。淮寧守の趙子崧は、靖康の末に四方に檄を伝え、語頗る遜らず。二年、詔して御史に京口に獄を置きて之を鞫わしむ。情を得て、帝は其の罪を暴くことを欲せず、鎮江を棄つるの罪を以て南雄州に貶す。建炎三年四月、苗傅等は閹宦の恣横を疾み、及び王淵が枢密となるを聞き、愈よ平らかならず、乃ち王世脩と謀りて逆をなす。詔して御史に世脩を捕えしめて之を鞫わしめ、市に斬る。七月、韓世忠は苗傅等を執り、之を建康に磔く。統制の王徳は軍将の陳彦章を擅に殺し、台は鞫いて死に当たるとす。帝は其の戦功有るを以て、特に之を貸す。慶遠軍節度使の范瓊は兵を領して入見し、面して対し遜らず。枢密院を知る張浚は瓊の大逆不道なるを奏し、之を大理寺に付して鞫わしむ。獄具わり、死を賜う。越州守の郭仲荀は、寇至りて城を棄て遁れ、行在を過ぎて朝せず。御史台・大理寺に付して雑治せしめ、広州に貶す。神武軍統制の魯珏は賊を坐して不辜を殺し、良家の子女を掠むるに坐す。帝は其の戦功有るを以て之を貸し、瑞州に貶す。紹興元年、監察御史の婁寅亮は宗社の大計を陳ぶ。檜之を悪む。十一月、言者をして其の父の死を匿して哀を挙げざるを論ぜしめ、大理寺に下して劾治せしむ。竟に得る所無く、詔して居る官を免ず。十一年、枢密使の張俊は人をして張憲を誣えしめ、岳飛の文字を収めて変を謀ると謂わしむ。秦檜は此に乗じて飛を誅せんと欲し、万俟 に命じて鍛錬して之を成さしむ。飛に死を賜い、其の子雲及び憲を市に誅す。汾州の進士智浹は上書して飛を訟う。杖を決し袁州に編管す。広西帥の胡舜陟は転運使の呂源と隙有り。源は舜陟の贓污僭擬を奏し、又以て書を檜に抵え、舜陟の朝政を訕笑するを言う。檜は素より舜陟を悪み、大理官を遣わして往きて之を治めしむ。十三年六月、舜陟は服せず、獄に死す。飛と舜陟の死するに及び、檜の権愈よ熾んに、屡々大獄を興して以て異己なる者を中て、名づけて詔獄と曰うも、実は詔旨に非ざるなり。其の後所謂る詔獄は、紛紛として此に類し、故に備録せずと云う。

原文高宗承大亂之後,治王時雍等賣國之罪,洪芻、余大均、陳沖、張卿才、李彝、王及之、周懿文、胡思文並下御史臺獄。獄具,刑寺論芻納景王寵姬,大均納喬貴妃侍兒,及之苦辱寧德皇后女弟,當流;沖括金銀自盜,與宮人飲,當絞;懿文、卿才、彝與宮人飲,卿才、彝當徒,懿文當杖;思文於推擇張邦昌狀內添諂奉之詞,罰銅十斤:並該赦。上閱狀大怒,李綱等共解之,上亦新政,重於殺士大夫,乃詔芻、大均、沖各特貸命,流沙門島,永不放還;卿才、彝、及之、懿文、思文並以別駕安置邊郡。宋齊愈下臺獄,法寺以犯在五月一日赦前,奏裁。詔齊愈謀立異姓,以危宗社,非受偽命臣僚之比,特不赦,腰斬都市。詔東京及行在官擅離任者,並就本處根勘之。淮寧守趙子崧,靖康末,傳檄四方,語頗不遜。二年,詔御史置獄京口鞫之。情得,帝不欲暴其罪,以棄鎮江罪貶南雄州。建炎三年四月,苗傅等疾閹宦恣橫,及聞王淵為樞密,愈不平,乃與王世脩謀逆。詔御史捕世脩鞫之,斬於市。七月,韓世忠執苗傅等,磔之建康。統制王德擅殺軍將陳彥章,臺鞫當死,帝以其有戰功,特貸之。慶遠軍節度使范瓊領兵入見,面對不遜。知樞密院張浚奏瓊大逆不道,付大理寺鞫之,獄具,賜死。越州守郭仲荀,寇至棄城遁,過行在不朝。付御史臺、大理寺雜治,貶廣州。神武軍統制魯珏坐賊殺不辜,掠良家子女,帝以其有戰功,貸之,貶瑞州。紹興元年,監察御史婁寅亮陳宗社大計,奏檜惡之。十一月,使言者論其父死匿不舉哀,下大理寺劾治,迄無所得,詔免所居官。十一年,樞密使張俊使人誣張憲,謂收岳飛文字謀為變。秦檜欲乘此誅飛,命万俟 鍛鍊成之。飛賜死,誅其子雲及憲于市。汾州進士智浹上書訟飛 ,決杖編管袁州。廣西帥胡舜陟與轉運使呂源有隙,源奏舜陟贓污僭擬,又以書抵檜,言舜陟訕笑朝政。檜素惡舜陟,遣大理官往治之。十三年六月,舜陟不服,死於獄。飛與舜陟死,檜權愈熾,屢興大獄以中異己者,名曰詔獄,實非詔旨也。其後所謂詔獄,紛紛類此,故不備錄云。