宋史

志第一百五十二 刑法一

天には五気ありて万物を育む。木徳は以て生じ、金徳は以て殺す。甚だもとるものの如しと雖も、而も始終の序、相成すの道なり。先王は刑罰有りて以て其の民を糾す。則ち必ず温慈恵和を以て之を行ふ。蓋し義を以て之を裁し、仁を以て之を推す。則ち震殺戮の威は、民の死を求むるに非ず、以て其の生を求めんとする所以なり。書に曰く、「士、百姓を刑の中に制し、以て祗徳を教ふ」と。刑を以て教をたすけ、之をして威を畏れ罪を遠ざけ、善に導くを言ふのみ。唐虞の治も、固より刑を廃すること能はざるなり。惟だ礼を以て之を防ぎ、及ばざる有らば、則ち刑を以て之を輔くるのみ。王道陵遅し、礼制隳廃す。始めて専ら法を任じ以て其の民をあざむく。是に於て刑書を作り為し、民の犯さざるを欲す。而して乱獄滋ますます豊なり。其の本末序無く、相成すに足らざるに由る故なり。

宋興り、五季の乱を承く。太祖・太宗は頗る重典を用ひ、以て姦慝をただす。歳時躬自ら獄を折り囚をおもんばかり、務めて明慎をいたし、而して忠厚を本と為す。海内悉く平らぎ、文教寖しだいに盛んなり。士初めて官に試みるや、皆律令を習ふ。其の君一に寛仁を以て治と為す。故に立法の制は厳にして、用法の情は恕なり。獄に小疑有らば、覆奏輒すなはち減宥を得。夫れ重熙累洽の際を観るに、天下の民咸みな其の生を楽しみ、法を犯すに重んじ、而して治を致すの盛、殆ど三代の懿にちかし。元豊以来、刑書益々繁し。已にして憸邪並び進み、刑政紊みだれり。国既に南遷し、威柄下におよぶ。州郡の吏も亦頗る専行し、而して刑の寛猛は其の人に係る。然れども累世猶ほ民を愛するを以て心と為すを知る。其の慈弱を失ふと雖も、而して祖宗の遺意蓋し未だほろびざるなり。今其の実をりて、『刑法志』を作る。

宋の法制は唐の律・令・格・式に因り、時に随ひて損益す。則ち編敕有り。一司・一路・一州・一県又別に敕有り。建隆初め、判大理寺竇儀等に詔し『編敕』四巻を上らしむ。凡そ百有六条。詔して新定の『刑統』三十巻と並びに天下に頒ち、軽重を参酌して詳ならしむ。世平允と称す。太平興国中、敕を増して十五巻に至る。淳化中、之を倍す。咸平中、万八千五百五十有五条に増す。給事中柴成務等に詔し其の繁乱をり、敕と為す可きを定めて二百八十有六条と為し、律に準じて十二門に分ち、総じて十一巻とす。又『儀制令』一巻を為す。当時其の簡易を便とす。大中祥符間、又三十巻を増し、千三百七十四条とす。又『農田敕』五巻有り、敕と兼ねて行ふ。

仁宗嘗て輔臣に問ひて曰く、「或は先朝の詔令は軽々しく改むべからずと謂ふ。信然るか」と。王曾曰く、「此れ憸人の上を惑はすの言なり。咸平の刪する所は、太宗の詔令十に一二を存す。其の繁密を去りて以て民に便ならしむ。何を以て不可と為さんや」と。是に於て中外に詔し敕の得失を言はしめ、官を命じて修定せしめ、咸平の儀制令及び制度約束の敕に在る者五百余条を取り、悉く令の後に附し、号して『附令敕』と曰ふ。天聖七年編敕成る。『農田敕』を合わせて一書と為し、祥符の敕にくらべて百余条を損ず。其の法にく者は、大辟の属十有七、流の属三十有四、徒の属百有六、杖の属二百五十有八、笞の属七十有六。又配隸の属六十有三、大辟以下奏して旨を聴く者七十有一。凡そ此れ皆律令の外に在る者なり。既に頒行し、因りて詔を下して曰く、「敕令は治世の経なり。而してしばしば動揺せば、則ち衆聴滋ますます惑ふ。何を以て天下を訓迪くんてきせんや。自今より有司輒みだりに刪改を請ふことかれ。未だ便ならざる者有らば、中書・枢密院以て聞せよ」と。然れども慶曆に至り又復た刪定し、五百条を増し、別に『総例』一巻を為す。後又一司敕二千三百十有七条、一路敕千八百二十有七条、一州・一県敕千四百五十有一条を修む。其の法に麗く者は、大辟の属総じて三十有一、流の属総じて二十有一、徒の属総じて百有五、杖の属総じて百六十有八、笞の属総じて十有二、又配隸の属総じて八十有一、大辟以下奏して旨を聴く者総じて六十有四。凡そ此れ又編敕の外に在る者なり。

嘉祐初め、枢密使韓琦の言に因り、内外の吏兵の俸禄に著令無きを以て、乃ち類次して禄令と為すことを命ず。三司は驛料の名数を以て、驛令と為すことを著す。琦又言ふ、「慶曆四年より、嘉祐二年にいたるまで、敕四千余条に増す。前後牴牾ていごす。請ふらくは中外に詔し、敕の得失を言はしめ、天聖の故事の如くせん」と。七年、書成る。総じて千八百三十四条。慶曆の敕に視れば大辟六十を増し、流五十を増し、徒六十有一を増し、杖七十有三を増し、笞三十有八を増し、又配隸三十を増し、大辟以下奏して旨を聴く者四十有六を増す。又別に『続附令敕』三巻を為す。

神宗は律以て事情をあまねくすに足らずと為し、凡そ律の載せざる所は一に敕を以て断ず。乃ち其の目を更めて敕・令・格・式と曰ひ、而して律は恒に敕の外に存す。熙寧初め、局を置きて敕を修め、中外に詔し法の便ならざる者を言はしめ、集議して更定し、其の采る可き者を択びて之を賞す。元豊中、始めて書二十有六巻を成す。復た二府に下して参訂せしめ、然る後に頒行す。帝は法令に留意し、毎に有司進擬するも、多く是正する所有り。嘗て謂ひて曰く、「法は道より出づ。人能く道を体すれば、則ち立法以て事を尽くすに足る」と。又曰く、「已に然るを禁むるを敕と謂ひ、未だ然らざるを禁むるを令と謂ひ、此れに設けて以て彼を待つを格と謂ひ、彼をして之にならはしむるを式と謂ふ。書を修むる者は要当に此れを識るべし」と。是に於て凡そ笞・杖・徒・流・死に入る、名例以下断獄に至るまで、十有二門、刑名軽重に麗く者は、皆敕と為す。品官以下断獄三十五門に至るまで、約束禁止する者は、皆令と為す。命官の等十有七、吏・庶人の賞等七十有七、又倍・全・分・釐の級凡そ五等有り、等級高下有る者は、皆格と為す。表奏・帳籍・関牒・符檄の類凡そ五巻、体制模楷有る者は、皆式と為す。

元祐初め、中丞劉摯言ふ、「元豊の編修敕令、旧に敕に載する者は多く之を令に移す。蓋し敕に違ふは法重く、令に違ふは罪軽し。此れ以て神宗の仁厚の徳を見るに足る。而して有司能く推広せず、条目を増多し、旧制を離析し、一言一事に因り、すなはち一法を立て、意苛く文晦くらく、以て事物の情をつくすに足らず。之を行ふこと幾時いくばくもせずして、蓋し已にしばしば変ず。宜しく慶曆・嘉祐以来の新旧の敕を参照し、去取刪正し、以て一代の典を成すべし」と。右諫議孫覺も亦煩細にして検用に難しと言ふ。乃ち摯等に詔し刊定せしむ。哲宗親政し、元祐の近例を専用せず、ようやく熙寧・元豊の制を復す。是より法を用ふるに後を以て前をく。改更紛然として、而して刑制紊みだれり。

崇寧元年(1102年)、臣僚が言上した。「役所が遵守すべきは法であり、法に記載されていない場合にのみ例を用いる。今、例を引いて法を破るのは道理に合わない。」そこで各曹に命じて前後で用いた例を類別に編修させ、法に妨げるものはこれを除去させた。まもなく詔を下して元豊の法制を追復し、凡そ元祐の条例は悉くこれを焼却した。徽宗はしばしば御筆手詔を降し、旧章を変乱させた。靖康初年(1126年)、群臣が言上した。「祖宗には一定の法があり、事に因って改める場合は、条ごとに貼説し、役所が奉行しやすいようにしていた。蔡京が国政を執った時、己の私意を快くせんがため、御筆の降下を請い、法令の外に出て、前後矛盾している。宜しく具に録して編修敕令所に付し、国初以来の条法を参用し、刪修して書を成すべし。」詔してその請いに従ったが、書は果たして成らなかった。

高宗が播遷し、断例が散逸した。建炎以前(1127年以前)、凡そ施行されたものは、類く人吏の省記(記憶・記録)に由来した。三年(1129年)四月、始めて嘉祐条法と政和敕令を取って対照し修訂して用いることを命じた。嘉祐法と現行法とが異なる場合、官制・役法の外は、賞格は重きに従い、条約は軽きに従う。紹興元年(1131年)、書が完成し、『紹興敕令格式』と号したが、吏胥の省記したものもまた引用された。監察御史劉一止が言上した。「法令は具わっているのに、吏はなおも姦を行うことができる。今、一切その省記を用いるならば、欺蔽することどこに至らざるがあろうか。」十一月、左右司・敕令所に命じて省記の文を刊定し頒布させた。時に在京通用敕の中に、既に衝改を嘗てて引用すべきでない文があったが、大理正張柄の言により、また詔して削除させた。十年(1140年)、右僕射秦檜がこれを上進した。然るに檜が専政して以来、率ね都堂批状・指揮を用いて事を行い、これが吏部の続降条冊の中に雑入され、修書者は畏忌するところがあり、敢えて削除せず、遂に成法と並立するに至った。吏部尚書周麟之が言上した。「天子にあらざれば礼を議せず、制度を制せず、文を考せず。」そこで詔してこれを削去させた。

乾道の時(1165-1173年)に至り、臣僚が言上した。「紹興以来、続降指揮は慮るに数千に及び、矛盾して考証し難い。」詔して大理寺官に詳しく難を定め、その可否を定め、類別に刑部に申し、所属する事目に分けて六部の長官・次官に参詳させた。六年(1170年)、刑部侍郎汪大猷らがその書を上進し、『乾道敕令格式』と号した。八年(1172年)、これを頒布した。当時、法令は具わっていたが、然るに吏は一切例によって事に従い、法は当然であるが例がなければ、事は皆泥んで行われず、甚だしきは例を隠して法を壊し、賄賂が行われてから、初めて例を具えるという有様であった。

淳熙初年(1174年)、詔して刑部に乾道の刑名断例を用いることを許し、司勲に盗賊捕獲の推賞例を用いることを許すほかは、乾道経置条例事指揮を除き、その余は並びに例を引くことを得ずとした。既にして臣僚が乾道新書は尚多く矛盾があると言上したため、詔して戸部尚書蔡洸にこれを詳定させ、凡そ九百余条を刪改し、『淳熙敕令格式』と号した。帝はまたその書が散漫で、用法の際に官が遍く閲覧する暇がなく、吏が因って姦を行うことを得るとして、敕令所に命じて門を分けて類編し一書とさせ、『淳熙条法事類』と名付けた。これはこれ以前の法令にはなかったものである。四年(1177年)七月、これを頒布した。淳熙末年、議者はなお新書に尚多く遺漏があり、役所が引用するに、時に人情に便なるものがあると論じた。再び刑部に詳定を命じたが、光宗の世に至るまで完成しなかった。慶元四年(1198年)、右丞相京鏜が初めてその書を上進し、百二十巻とし、『慶元敕令格式』と号した。

理宗宝慶初年(1225年)、敕令所が言上した。「慶元新書の施行以来、今二十九年を経て、前の指揮は殆ど一事にあらず、或いは旧法が該括し尽くさず、文意が明らかでなく、続降を用いて参酌すべきもの、或いは旧法に元々なく、後に事に因って成法として立てられたもの、或いは既に旧法がありながら、続降が必ずしも引用すべきでないもの、或いは一時の権宜であって常法とすべからざるものがある。条目が益々繁雑で遵守する所がない。これを考定することを乞う。」淳祐二年(1242年)四月、敕令所がその書を上進し、『淳祐敕令格式』と名付けた。十一年(1251年)、また慶元法と淳祐新書を取って刪潤した。その間、修改したもの百四十条、創入したもの四百条、増入したもの五十条、刪去したもの十七条、合わせて四百三十巻とした。度宗以後、これを遵奉して行い、更定することはなかった。その余の一司・一路・一州・一県の敕は、前後時に増損があり、勝って記すことができない。

五代の衰乱期には、禁令が煩瑣で細密であった。宋が興り、苛酷峻烈な法を削除し、累朝にわたって更定があった。法吏は次第に儒臣が用いられ、仁恕を存することを務め、凡そ用法が悖らず時宜に適うものを著した。太祖が禅を受けると、始めて折杖の制を定めた。凡そ流刑四等:加役流は脊杖二十、配役三年。流三千里は脊杖二十、二千五百里は脊杖十八、二千里は脊杖十七、いずれも配役一年。凡そ徒刑五等:徒三年は脊杖二十、徒二年半は脊杖十八、二年は脊杖十七、一年半は脊杖十五、一年は脊杖十三。凡そ杖刑五等:杖一百は臀杖二十、九十は臀杖十八、八十は臀杖十七、七十は臀杖十五、六十は臀杖十三。凡そ笞刑五等:笞五十は臀杖十下、四十・三十は臀杖八下、二十・十は臀杖七下。常行官杖は周の顕徳五年(958年)の制に従い、長さ三尺五寸、大頭の幅は二寸を過ぎず、厚さ及び小頭の径は九分を過ぎてはならない。徒・流・笞刑は通用して常行杖を用い、徒罪は決杖して役には服さない。

先に、藩鎮が跋扈し、専殺をもって威とし、朝廷は姑息し、率ねこれを置いて問わず、刑部の按覆の職は廃れていた。建隆三年(962年)、諸州に大辟(死刑)案を奏上するには、必ず刑部の詳覆を経ることを命じた。まもなく旧制のように、大理寺が詳断し、その後刑部が覆審することとした。凡そ諸州の獄訟は、録事参軍と司法掾が参断した。これより、内外の獄を断じ罪を蔽うに、皆官を以て相覆察するようになった。また刑部・大理寺の用法の誤りを懼れ、別に審刑院を置いてこれを讞定させた。吏は一度深く罪に坐せられると、或いは終身進用されないため、これにより皆持平を務めるようになった。

唐の建中令では、窃盗の贓が三匹に満ちる者は死罪とした。武宗の時、窃盗の贓が千銭に満ちる者は死罪とした。宣宗が立つと、これを廃止した。漢の乾祐以来、用法は益々峻烈となり、民が一銭を盗んでも極法に抵した。周の初め、その過失を深く懲戒し、再び建中の制に遵った。帝はなおその重きを以て、嘗て銭三千に増やし、陌(百銭)を八十を限りとした。既にして詔して曰く。「民が非を行うことを禁ずるは、乃ち法令を設くる所以なり。下に臨むには簡を以てし、必ず哀矜を務むべし。窃盗の生ずるは、本より巨悪にあらず。近朝の立てし制は、律文よりも重し。是れ人を愛するの旨に非ざるなり。今より窃盗の贓が五貫足陌に満ちる者は死罪とす。」

旧法では、強盗が杖を持つ者は、たとえ人を傷つけなくても、皆棄市(市中での斬首)とした。また詔して、但だ人を傷つけない者は、只贓を計って論ずるとした。諸州に盗賊を捕獲した場合、状験が明白でなければ、未だ掠治(拷問)してはならないと命じた。その訊問すべき者は、先ず長吏に白状し、判を得てからこれを訊問する。凡そ役所が擅かに囚人を掠治する者は、私罪として論ずる。時に天下は甫めて定まり、刑典は弛廃し、吏は律令を明らかに習熟せず、牧守は多く武人であり、率ね意のままに法を用いた。金州防禦使仇超らが故に死罪に入れた罪に坐し、除名され、海島に流された。これより人は法を奉ずることを知った。

開寶二年五月、帝は暑気盛んなるを以て、深く縲繫の苦しみを思い、乃ち手詔を下す:「両京諸州、長吏に令して獄掾を督め、五日毎に一たび検視し、獄戸を洒掃し、杻械を洗滯せしめよ。貧しくして自ら存する能わざる者には飲食を給し、病める者には医薬を給せよ。軽く繫がるる者は即時に決遣し、淹滯する毋れ。」是より、毎仲夏に官吏に申敕し、歳を以て常と為す。帝は毎に親しく囚徒を録し、専ら欽恤に事とす。凡そ御史・大理の官属は、特に厳選す。嘗て侍御史知雑の馮炳に謂ひて曰く:「朕は毎に『漢書かんじょ』を読み、張釋之・于定国の獄を治むるを見るに、天下に冤民無し、此れ卿に望む所なり。」金紫を賜ひて以て之を勉む。八年、広州言ふ:「前詔に竊盗贓死に至る者は奏裁すと有るも、嶺南遐遠にして、覆奏稽滯す、請ふ報を俟たずんと。」帝奏を覧て、惻然として曰く:「海隅の習俗、貪獷穿窬するは、固より其の常なり。」因りて詔す:「嶺南の民竊盗を犯し、贓五貫より十貫に満つる者は、決杖・げい面・配役し、十貫以上にして乃ち死す。」太宗御宇に在り、常に躬ら聴断し、京獄に疑ふる者有れば、多く臨決し、毎に能く隠微を燭見す。太平興国六年詔を下して曰く:「諸州の大獄、長吏親ら決せず、胥吏旁縁りて姦を為し、逮捕證佐し、滋蔓踰年して獄未だ具はらず。今より長吏は五日毎に一たび囚を慮り、情得る者は即ち之を決せよ。」復た獄を聴くの限を制し、大事は四十日、中事は二十日、小事は十日、他を逮捕せずして易く決する者は、三日を過ぐる毋れ。後又た令を定む:「獄を決するに限に違ふは、官書稽程の律に準じて論じ、四十日を踰ゆれば則ち奏裁す。事證逮を須ひて稽緩を致すは、其の所在其の事を以て聞せしむ。」然れども州県の禁繫は、往々猶ほ根窮を以て名と為し、追擾輒ち破家に至る。江西転運副使張齊賢の言に因り、外県の罪人に五日毎に一たび禁放の数を具して州に白せしむ。州獄別に歴を置き、長吏検察し、三五日毎に一たび引問疏理し、月毎に奏上せしむ。刑部其の禁多きを閲し、官を命じて即ち往き決遣せしめ、滯れば則ち州の官吏を降黜す。会に両浙運司も亦た言ふ:「部内の州囚を繫ぐこと獄に満つ、長吏輒ち隠落し、妄りに獄空と言ふ、蓋し朝廷其の淹滯を詰むるを懼るるなり。」乃ち詔す:「妄りに獄空を奏し及び囚数を隠落するは、必ず深譴を加へ、告ぐる者を募りて之を賞せよ。」

先んずるに、諸州の流罪人は皆、錮送して闕下に至らしめ、所在に於いて或いは寅縁して細微に及び、道路に非理に死する者、十に常に六七を占む。張齊賢また請う、「凡そ罪人京師に至る者は、清強の官を選びて慮問せしむ。若し顕かに沈屈を負う者は、官吏を罷免せしむ。且つ只だ正身を遣わし、家屬は旨を俟ち、其の干係する者は錮送を免ぜしむ」と。乃ち詔す、「諸の徒・流罪を犯す者は、並びに所在の牢城に配し、復た転送して闕下に至らしむること勿れ」と。雍熙元年、諸州に令して十日毎に囚帳及び所犯の罪名・繫禁の日数を具して以て聞かしめ、刑部をして専意に糾挙せしむ。帝、諸州の奏する獄状を閲し、三百人を繫ぐ者有り。乃ち門留・寄禁・取保在外並びに邸店に於いて疾を養う者を、咸く禁数を準じ、件ごとに析して以て聞かしむ。其の鞫獄違限及び断ず可くして断ぜず、事小にして禁繫する者は、有司駁奏す。

開封の女子李が嘗て登聞鼓を打ち、自ら言うに、児息無く、身且つ病に罹り、一旦死なば、家業を付する所無しと。詔して本府に随いて欲する所に裁置せしむ。李に他の親無く、独り父有り、有司因りて之を繫ぐ。李又た登聞に詣り、父の縶せらるるを訴う。帝駭いて曰く、「此事豈に禁繫すべきや、輦轂の下に尚ほ或いは此の如し。又た下りて広に至れば、安んぞ枉濫無からんや。朕四方の獄を親決せざるを恨む、固より労を辞せざる爾」と。即日殿中侍御史李範等十四人を遣わし、分かち江南・両浙・四川・荊湖・嶺南に往きて刑獄を審決せしむ。吏の怠る者は、其の罪を劾して以て聞かしめ、其の事に臨み明敏にして刑獄滞ること無き者は、亦た名を以て上らしむ。始めて諸州に十日に一たび囚を慮せしむ。

帝嘗て宰相に謂ひて曰く、「御史臺は閤門の前に在り、四方の綱準の地なり。頗る聞く、臺中に獄を鞫むるに、御史多く躬親せず、簾を垂れて雍容とし、以て自ら尊大す。鞫按の任、胥吏に委ね、濫り無きを求むるは、豈に得可けんや」と。乃ち詔して、御史の獄を決するには必ず躬親すべし、専ら胥吏に任ずる毋からしむ。又嘗て宰臣に諭して曰く、「毎に大理の奏案を閲するに、節目小に未だ備はらず、文を移して按覆すれば、動もすれば数千里外に渉り、禁繫淹久にして、甚だ憐れむ可し。卿等詳かに酌め、人命に係らざれば、即ち罪を量り区分し、須ふるに再び鞫むる毋からしめよ」と。始めて諸州に令す、笞・杖の罪は證逮を須ひざる者は、長吏即ち之を決し、復た所司に付す勿れ。羣臣詔を受けて獄を鞫むるに、獄既に具はれば、騎置して来上せしめ、有司断じ已り、復た騎置して之を州に下す。凡そ疑獄を上るは、之を詳覆して疑状無くんば、官吏並びに違制の坐に同じ。其の応に疑案を奏すべきも、亦た騎置して以て聞かしむ。

二年、窃盗が十貫に満たぬ者は、奏上して裁決を請うべし。七貫の者は、杖刑を決し、顔面に墨を入れ、牢城に隷属せしむ。五貫の者は、三年の配役。三貫の者は、二年。一貫の者は、一年。その他は旧制の如し。八月、再び使臣を分遣して諸道を巡察せしむ。帝曰く、「朕は獄犴の任に寄せて、夙夜焦労し、滞りあるを慮るのみ」と。十月、親しく京城の繫囚を録し、遂に日旰に至る。近臣或いは諫めて労苦過甚なりとす。帝曰く、「もし無告の者に恵み及び、獄訟を平允にし、枉橈に致らざらしむれば、朕の意深く以て適と為し、何の労かあらん」と。因りて宰相に謂ひて曰く、「中外の臣僚、若し皆政務に心を留むれば、天下安んぞ治まらざる者あらん。古人は一邑を宰し、一郡を守りて、飛蝗をして境を避けしめ、猛虎をして河を渡らしむ。況んや能く黎庶を恵養し、滞を申理すれば、豈に和気を感召せざらんや。朕は毎に自ら勤めて怠らず、此の志必ず改易無し。或いは云ふ、有司の細故は、帝王親ら決すべからずと。朕の意は則ち是に異なり。若し尊極を以て自ら居らば、則ち下情上達する能はざるなり」と。是より祁寒盛暑或いは雨雪稍々愆あれば、輒ち親しく繫囚を録し、多く原減す。諸道には則ち官を遣わして按決せしめ、率ね以て常と為し、後世遵行して廃せず、各帝の《紀》に見ゆ。

先に、太祝の刁衎が上疏して言うには、「古は姦人を四裔に投ずるが、今は遠方の囚人を尽く象闕に帰し、務役に配す。神京は天子の居所なり、豈に流囚を此に聚めて役せしむべけんや。礼に曰く、『刑人は市に於て、衆と之を棄つ』と。則ち知る、黄屋紫宸の中は、法を行ひ刑を用ふる所に非ざるを。望むらくは、今より外処の罪人を、上京に解送するを許さず、亦諸務に留めて役に充つることなからんことを。御前には決罰の刑を行はず、殿前引見司の鉗黥の法具・敕杖は、皆以て御史・廷尉・京府に付すべし。或は中使を出だし、或は法官を命じ、礼を具へて監科し、以て明刑謹法の意を重んずべし」と。帝疏を覧て甚だ悦び、詔を降して褒答す、然れども従ふこと能はざりき。

三年(太平興国三年)、初めて儒士を用いて司理判官とし、諸州に囚人を訊問するに当たり、必ずしも多くの官吏が共に見ることを要せず、長吏に申し出て判決を得てから囚人を訊問することを命じた。刑部の張佖が言上した:「官吏がげて死罪を断ずる者については、条章をやや峻厳にし、その明察慎重を責めることを請う。」初めて定制を定めた:獄を断ずるに当たり、死刑に失入しつにゅうした者は、官をもって減贖げんしょくすることができず、検法官・判官は皆一任を削り、しかも検法官はなお銅十斤を贖い、長吏は停任とする。まもなく刑部に詳覆官六員を置き、専ら天下の上申する案牘あんとくを閲し、再び獄吏を遣わして審理させないこととした。御史台に推勘官二十人を置き、皆京朝官をもってこれに充てた。凡そ諸州に大獄あるときは、駅伝に乗って就き審理する。陛辞へいじの日、帝は必ず臨んで遣わし諭して言う:「蔓延をくすなかれ、滞留をとどめるなかれ。」皆装銭そうせんを賜う。還れば、必ず召して問い推問した事状を、定令として著す。これより、大理寺の杖罪以下の案件は、必ず刑部の詳覆を要する。また、天下の案牘で未だそなわらざるをはくしたものも、詳覆を経てから奏上するよう命じた。判刑部李昌齡が言上した:「旧制では、大理寺が刑を定めて部(刑部)に送り、詳覆官が法状に入れ、主判官が断語を下し、乃ち具えて奏上する。開宝六年に至り、法直官が欠けたため、両司が共に断じて覆詞ふくしを定めた。今は大理寺の断じた案牘を、寺官が印署して詳覆に送るべきである。妥当を得れば、寺に送って共に奏上し、否ならば疏駁そはくして上聞に達する。」

凡そ大理寺が天下の案牘を決するは、大事は二十五日を限り、中事は二十日、小事は十日とする。審刑院が詳覆するは、大事は十五日、中事は十日、小事は五日とする。三年(淳化三年)、詔して御史台に徒罪以上の罪を審理せしめ、獄が具われば、尚書丞郎・両省の給舎以上の者一人に親しく往き慮問りょもんさせる。まもなくまた詔した:「獄の大小を問わず、中丞以下、皆臨んで審理し問い、専ら所司に責め負わせてはならない。」端拱たんきょう以来、諸州の司理参軍は、皆帝自ら選択し、民がけつに詣でて称訴する者があれば、また台使を遣わし駅伝に乗って按問審理させ、数年之間に刑罰は清くみ了った。既にして諸路の提点刑獄司が未だ嘗て平反する所なく、詔して悉くこれを罷め、その事を転運司に帰属させた。

至道二年、帝は諸州の断じた大辟たいびゃくで、情状に疑わしいものがあるが、有司に駁されることを懼れ、その獄を上申しないことを聞いた。乃ち詔して、死罪の事に疑わしいものがある場合は、獄を具えて転運司に申し、部内の格律に詳練なる者を選んでこれを決せしめ、奏すべきものは乃ち奏上させる。

真宗は性寛慈にして、特に刑辟けいへきを慎んだ。嘗て宰相に謂いて言う:「執法の吏は、軽々しく授けるべからず。職に称わざる者あれば、当に挙主を責め、その濫りを懲らしむべし。」審刑院が詳議官を挙げるには、就きて刑部で断案三十二道を試し、引用詳明なる者を取る。審刑院が毎回案を奏するには、先ず事状を具えさせ、親しくこれを覧み、翌日、乃ち進止を候い、軽重を裁処し、必ずその罪に当てる。咸平四年、黄州守王禹偁おううしょうの請いに従い、諸路に病囚院を置き、徒・流以上の疾ある者をここに処し、余りは外で保証を責める。景德元年、詔す:「諸道州軍が獄を断ずるに、内に宣勅で刑名を定めず、ただ当に極断を行うべしと言うのみのものは、所在即ち大辟を置くは、頗る平允にそむく。今より凡そ処断・重断・極断・決配・朝典の類を言うものは、未だ論決せず、獄を具えて上聞に達すべし。」四年、再び諸路に提点刑獄官を置く。先に、帝は筆記六事を出し、その一に曰く:「民隠を勤恤し、庶官を遴柬りんかんするは、朕日に念わざる日なし。慮う所は四方の刑獄官吏、未だ人を得尽くさず、一夫冤を受くれば、即ち災沴さいれいを召す。今軍民事務は、転運使有りと雖も、且つ地遠くして由りて周知する無し。先帝嘗て朝臣を選び諸路の提点刑獄と為す、今復た置く可く、なお使臣を以てこれに副え、中書・枢密院に命じて官を択ばしむ。」また曰く:「河北・陝西は、地辺要を控え、特に必ず人を得、性度平和にして執守有る者をもちう。」親しく太常博士陳綱・李及を選び、自余は名を擬して上聞に達し、皆長春殿に引対してこれを遣わす。内より御前の印紙を出して歴と為し、その績效を書き、代還すれば、功を議し賞を行なう。もし刑獄枉濫にして挙げることができず、官吏曠怠にして弾奏できず、畏避に務むる者は、深罪に置く。知審刑院朱巽が上言した:「官吏が公事に因り財を受け、証左明白なるは、枉法を以て論ずるを望み、その罪死に至る者は、役流を加う。」これに従う。御史台が嘗て人を殺した賊を審理し、獄が具わると、知雑王随が臠咼れんかいすることを請うた。帝曰く:「五刑自ら常制有り、何ぞ惨毒を為さんや。」入内供奉官楊守珍が陝西に使いし、盗賊の督捕に因り、「強盗を擒獲して死に至る者は、臣に付して凌遲りょうちにし、以て凶悪を戒めんことを望む」と請うた。詔す:「賊を捕えて所属に送り、法に依り論決し、凌遲を用いるなかれ。」凌遲とは、先ずその肢体を断ち、乃ちそののどえぐる、当時の極法である。蓋し真宗は仁恕にして、惨酷の刑は、祖宗も未だ嘗て用いざるなり。

初め、殿中侍御史趙湘が嘗て建言した:「聖王は法を行なうに、必ず天道に順う。漢制では大辟の科は、冬月を尽くして乃ち断ず。これは古の善政にして、当に行なうべきである。且つ十二月は承天節と為し、万方祝頌の時なるに、大辟の決断は故の如し。況んや十一月は一陽始めて出で、その気尚微なり、獄を議し刑を緩むるは、以て陽を助け陰を抑うる所以なり。十一月・十二月の内に、天下の大辟で未だ結正せざる者は、更に詳覆を令し、已に結正した者は、未だ決断を令せざるを望む。所在厚く矜恤を加え、獄房を掃除し、飲食・薪炭の属を供給し、防護して他故を致さざらしむ。情憫れむべき者は、奏して敕裁を聴く。法に合する者は、冬月を尽くして乃ち断ず。京師の大辟人は、春孟の月に当たり、また慶を行ない恵を施す時なり。伏して万幾の暇に、臨軒躬みずから覧み、情憫れむべき者は、特たる末減に従わんことを望む、また以て聖沢を無窮に布く所以なり。況んや愚民の罪に抵する未だ断ぜざるは、両月も亦た淹延に非ず。若し用刑陰陽に順えば、則ち四時の気和し、気和すれば則ち百穀豊かに実り、水旱作らず。」帝奏を覧みて曰く:「これは誠に嘉事なり!然れども古今異制、沿革同じからず、これを行なえば慮うに淹滞有り、或いは因縁として姦を為さん。」天禧四年、乃ち詔す:「天下十悪・劫殺・謀殺・故殺・闘殺・放火・強劫・正枉法贓・偽造符印・厭魅咒詛・妖書妖言を造る・妖術を伝授する・毒薬を合造する・禁軍諸軍逃亡して盗と為り罪死に至る者を犯すは、毎回十二月に遇えば、かりに区断を住め、天慶節を過ぎれば即ちこれを決す。余り罪死に至るを犯す者は、十二月及び春夏未だ区遣を得ず、禁錮して奏裁す。」

仁宗の御代には、四方に事なく、戸口は繁栄し、自らを抑制して畏れ、刑罰の運用には特に慎重であった。即位の初めに、内外の官司に対し、獄を聴き罪を決するには、必ず自ら実情を閲覧し、冤罪や濫刑・滞獄をしてはならないと詔した。刑部がかつて詳覆官を推薦した際、帝はその姓名を覚えており、「これはかつて人を誤って罪に陥れて遷官できなかった者である。どうして法吏の任に就かせられようか」と言い、推薦した者たちは皆罰金を科された。獄事に疑いのあるものは讞議(上奏して審議を請う)する慣例は、古くからあった。漢代には「讞議した後に不当であっても、讞議自体は過失としない」と詔しており、これは広く聴察し、誤りや濫刑を防ぐためであった。当時、奏讞の法は廃れていた。初め、真宗が囚人名簿を閲覧し、天下で死罪を断じた者が八百人いるのを見て、憮然として表情を動かし、宰執に語って言った、「雑犯死罪の条項は極めて多い。官吏がもし心を尽くさなければ、冤罪や濫刑がないと言えようか。故事によれば、死罪の獄案が整うと、三度覆奏した。これは非常に重んじて慎重にしたものである。いつの代に廃止されたのか」。そこで検討して改革するよう命じたが、有司は結局滞獄を懸念し、実行されなかった。ここに至り、刑部侍郎燕肅が上奏して言った、「唐代の大辟の罪は、尚書・九卿に讞議させた。死刑を決するには、京師では五度覆奏し、諸州では三度覆奏した。貞観四年に死罪を断じたのは二十九人、開元二十五年にはわずか五十八人であった。今、天下の生歯(人口)は唐代より増えていないのに、天聖三年に大辟を断じたのは二千四百三十六人で、唐代に比べてほぼ百倍に及んでいる。京師の大辟は一覆奏ではあるが、州郡で獄事に疑いがあれば上請し、法寺(大理寺・刑部)が多く挙駁するため、大抵は奏すべきでない罪に問われ、往々にして事状を飾り立て、情状を曲げて法に合わせ、朝廷の欽恤(慎み慈しむ)の意を失っている。唐代の故事に準じて、天下の死罪は皆覆奏を得られるように願う。議者は必ず、回答を待つと滞延すると言うであろう。漢律では皆季秋に囚人を論じ、唐代は立春から秋分まで死刑を決せず、漢・唐の治世を害するほどの滞留は聞かない」。その上奏文を中書に下すと、王曾が言った、「天下が皆一覆奏とすれば、必ず死罪となる者たちが、徒らに獄舎に満ちて長く決断を得られないであろう。諸々の獄事で疑いがあり、情状に憫れむべきものがある場合は、上請することを許すべきである」。天聖四年、遂に詔を下して言った、「朕は生歯の繁栄を思い、法に抵触する者が多いことを考える。法には高低があり、情状には軽重があるのに、有司が微細な条文を巧みに避け、一切を重辟に致している。どうして朕の好生(生命を慈しむ)の志にかなうと言えようか。天下の死罪で、情理に憫れむべきもの及び刑名に疑慮のあるものは、案を具えて奏聞せよ。有司は挙駁してはならない」。その後は、法上奏すべきでなく、吏が坐罪すべき場合でも、審刑院が貼奏(付箋を付けて上奏)し、大抵は恩赦によって釈放するのを例とし、「貼放」と称した。吏は初めて牽制を受けることがなくなり、讞議を請う者は多く減死を得るようになった。

先に、天下は旬ごとに獄状を奏上し、杖罪・笞罪であっても皆申覆していたが、徒罪・流罪で獄に繋がれていないものは、奏聞しなかった。六年、集賢校理聶冠卿が杖・笞の覆奏を廃止し、徒罪以上は獄に繋がれていなくても、皆付奏するよう請うた。詔してその説に従った。折杖の制を定めて以来、杖の長短広狭には皆尺度があったが、軽重に基準がなく、官吏が任情にできた。ここに至り、有司がこれを言上したため、詔して十五両を超えてはならないとした。

初め、真宗の時、京師の刑獄に滞りが多いため、糾察司を置き、御史臺獄もまたこれに報告させた。八年、御史が非体であると論じたため、遂に詔して報告させないこととした。祖宗の時代、桑柘を盗んで剥ぐ禁令を重んじ、枯れたものは尺で計算し、四十二尺を一功と積み、三功以上は死罪に当たった。殿中丞于大成が減死をもって論ずることを得るよう請うたが、法官に議わせると、旧の如くすべきと言った。帝はこれを寛大にしたい意向で、詔して死罪の場合は上請させた。刑部は四つの按(担当部署)に分かれ、大辟はその一つを占め、月に覆奏する大辟は二百件を下らず、しかも詳覆官はわずか一人であった。明道二年、四按に分かれて大辟を覆奏させ、死罪を駁正できる者が五人以上いれば、年満(任期満了)で改官させることとした。法直官と詳覆官が分かれて天下の旬奏を詳しく審査し、獄に重辟があれば、獄官は宴遊や迎送に預かってはならない。凡そ上具する獄案は、大理寺が詳断し、大事は三十日を期とし、小事は順次十日を減ずる。審刑院が詳議するのはまたそれぞれ半減する。期満を待たずに断ずるものを「急按」と称した。凡そ集断(合議して判決)する急按では、法官と議者は共に姓名を記し、刑を議するのに過失があれば、皆これに坐した。景祐二年に至り、判大理寺司徒しと昌運が言うには、「断獄には期日があるが、炎熱の時、囚人が長く繋がれる。四月から六月までは期日を半減し、両川・広南・福建・湖南では急按のように上奏することを請う」。その後もなお断獄の滞りを憂い、また詔して月ごとに断獄数を上奏させ、大・中・小事の期日を列記して、互いに参考にさせた。この年、強盗法を改めた。杖を持たず、財物を得ず、徒二年。財物を得て一万錢に及び、人を傷つけた者は、死罪。杖を持って財物を得ない者は、流三千里。財物を得て五千錢の者は、死罪。人を傷つけた者は、殊死(斬刑)。杖を持たずに財物を得て六千錢、あるいは杖を持ち罪が死に至らない者は、なお刺字して千里外の牢城に隷属させる。強盗が人を殺害したことを告発できる者には等級に応じて賞を与え、十人に及べば錢十万を与える。既にして有司が言うには、「窃盗は威力を用いず、財物を得て五千錢であれば、即ち兵士に刺配するのは、かえって強盗より重い。減ずることを請う」。遂に詔して十千に至って初めて兵士に刺配することとし、京城で杖を持って窃盗し、財物を得て四千錢の者も、兵士に刺配することとした。ここより盗法は京城のみを加重し、その他は旧より益々寛大になった。

慶曆五年、詔して殊死の罪人で、祖父母・父母が八十歳あるいは篤疾で期親(近親)のいない者は、その犯した罪を列記して奏聞せよとした。

太平の世が長く続き、天下の生歯は益々繁栄し、法を犯す者が多く、年に断ずる大辟は甚だ多く、有司はその数を上奏したことがなかった。嘉祐五年、判刑部李綖が言うには、「一年のうち、死刑はおおよそ二千余りに及ぶ。風俗の薄さは、骨肉が相残すことに甚だしいものはなく、衣食の窮乏は盗賊に急ぐものはない。今、法を犯す者が多いのは、果たして刑罰が姦を止めるに足らず、教化が彼らを善に導くことができなかったためであろうか。刑部に命じて天下の断じた大辟を分類し、年に朝廷に上奏させ、観察と省察の助けとされることを願う」。これに従った。

凡そ在京の班直諸軍が糧食を請うると、斗斛が不足し、出戍している家は特に甚だしかった。倉吏は官に在って禄がないことを理由に、恣意に侵漁していた。神宗は将兵を愛養する意に適わないと考え、ここに詔して三司に対し、初めて諸倉の丐取(強請・収賄)に関する法を立てさせた。中書は主典役人の歳禄を一万八千九百余緡まで増額するよう請うた。凡そ丐取が百錢に満たない者は、徒一年、百錢ごとに一等を加える。千錢で流二千里、千錢ごとに一等を加え、罪は流三千里で止める。その行貨(賄賂を贈る者)及び過致(仲介する者)は、首犯の罪より二等を減ずる。徒罪の者は皆五百里に配流し、その賞は百千。流罪の者は皆千里に配流し、賞は二百千。満十千になれば、首謀者は沙門島に配流し、賞は三百千。自首すればその罪を除く。凡そ更に約束十条を定めて施行した。その後、内では政府、外では監司が、多くこの法を倣った。内外で歳に増やす吏禄は百余万緡に及び、皆坊場、河渡、市利、免行錢・役剩息錢から取った。久しくして、議臣が倉法を少し緩めようとし、編敕所が告発・捕獲による倉法の給賞条を修立し、一百千から三百千まで等級を分け、按問(取り調べ)した者は半額を与えるとした。中書はその定めに従うよう請うたが、詔して旧の如く全賞を与え、按問した場合でも全額を与えることとした。呂嘉問がかつて請うた、行貨者は宜しく不応為(不相当な行為)の罪に坐するのみとすべきだと、刑部が初めてその罪を減じた。哲宗の初めに至り、かつて重祿法を廃止したが、紹聖年間に復旧した。

熙寧四年、盗賊重法を立てる。凡そ盗罪死に当たる者は、その家財を籍没して告発者に賞し、妻子は千里に編置す。赦に遇い若しくは災傷により減等する者は、遠悪の地に配す。罪徒・流に当たる者は、嶺表に配す。流罪降に会する者は、三千里に配し、その家財の半を籍没して賞とし、妻子は次第に降等して差有り。応に編配すべき者は、赦に会うと雖も、移さず釈かず。凡そ囊橐の家、劫盗死罪、情重き者は斬に処し、余は皆遠悪の地に配し、その家財の半を籍没して賞とす。盗罪徒・流に当たる者は、五百里に配し、その家財の三の一を籍没して賞とす。窃盗三犯は、杖を加え五百里或いは州に配す。重法の地に非ざると雖も、重法の人を囊橐する者は、重法を以て論ず。その知県・捕盗官は皆挙者を用い、或いは武臣を尉と為す。盗発十人以上、限内に半を捕え獲ざれば、罪を劾して旨を取る。若し復た官吏を殺し、及び累ねて三人を殺し、舎屋百間を焚き、或いは州県の内に?行し、江海船櫂の中を劫掠するは、重地に非ざるも、亦た重を以て論ず。凡そ重法地、嘉祐中、開封府諸県に始まり、後稍々諸州に及ぶ。開封府東明・考城・長垣県、京西滑州、淮南宿州、河北澶州、京東応天府・濮・斉・徐・済・単・兗・鄆・沂州・淮陽軍を以て、亦た重法を立て、令と為して著す。元豊時に至り、河北・京東・淮南・福建等路皆重法を用い、郡県漸く益々広し。元豊の敕、重法地分、劫盗五人以上、凶悪なる者のみ、方に重法を以て論ず。紹聖後、犯有れば即ち坐し、人数を計わず。復た妻孥編管法を立てる。元符三年に至り、刑部の請有るに因り、詔して旧敕に依り改む。是に先立ち、曾布建言す、「盗情に重軽有り、贓に多少有り。今贓を以て罪を論ずれば、則ち貧家を劫うは情重きと雖も、贓少きを以て減免し、富室を劫うは情軽きと雖も、贓重きを以て死を論ず。是れ盗の生死、主の貧富に係るなり。傷人に至りては、情状亦た殊なり。手足を以て人を毆い、偶々肌体を傷つくるは、夫れ兵刃湯火と、固より間有り、而して均しく之を傷と謂う。朝廷は奏裁を許すと雖も、州郡或いは奏し或いは否み、死生の分、特だ幸と不幸のみ。旧法を一変するに若かず、凡そ贓を以て罪を定め及び傷人の情状切害に至らざる者は、皆罪止の法に従う。其れ兵刃湯火を用い、情状酷毒にして、乃ち良家を汚辱し、或いは州県鎮砦に入り行劫し、若しくは官吏巡防人等を駆虜するは、傷くと傷かざるとを以てせず、凡そ情貸すべからざる者は、皆死刑に処し、則ち軽重其の当を失わざるべし」と。及び布相と為り、始めて其の議に従い、詔して有司に法を改めしむ。未だ幾ばくもあらず、侍御史陳次升言す、「祖宗の仁政、天下に加うる者甚だ広し。刑法の重き、改めて軽きに従う者至って多し。惟だ強盗の法、特だ重くする者は、蓋し姦宄を禁じて良民を恵むに以てなり。近く朝廷法を改め、詔して強盗贓を計り応に絞すべき者を、並びに一倍を増し、贓満ちて人を傷つけず、及び人を傷つくると雖も情軽き者は奏裁すと。法行わるる後、民其の弊を受く。被害の家、盗必ず死すべきの理無きを以て、敢えて官に告げず、而して隣里亦た之が為に擒捕せず、怨仇報復を恐る。故に賊益々逞しく、重法地分尤も甚だし。大寇を養い成して、以て国家の患を貽すを恐る、請う旧法を行い復せん」と。布罷相し、翰林学士徐勣復た其の不便を言う、乃ち詔して旧法の如くし、前詔行うる勿れと。

是に先立ち、諸路経略・鈐轄、便宜に百姓を斬配するを得ず。趙抃嘗て成都を知り、乃ち言う当に独り成都四路を許すべしと。王安石執りて不可とし、而して中書・枢密院法を立て同く之を許す。其の後、謝景初奏す、「成都妄りに便宜を以て誅釈し、多く当たらず」と。是に於いて中書復た敕文を刪定し、惟だ軍士犯罪及び辺防機速に限り、特断を許す。及び抃成都に移り、又立法を請い、御史劉孝孫亦た之が為に請う旧に依り便宜に事に従わんと、安石其の奏を寝す。

武臣贓を犯し、赦を経て叙復したる後、更に年考を立てて升遷す。帝曰く、「若し此くの如くせば、何を以て貪吏を戒めん」と。故に命じて法を改めしむ。熙寧六年、枢密都承旨曾孝寬等議を定めて之を上る、大概文臣叙法に倣いて少しく増損するのみ。七年、詔す、「品官犯罪するは、按察の官並びに奏劾して旨を聴く。擅りに捕繫し、其の職奉を罷むるを得ず」と。

元豊二年、成都府・利路鈐轄言う、「往時川峡絹匹を銭二千六百と為し、此を以て贓を估す、両鉄錢銅錢の一に比するを得たり。近く絹匹千三百に過ぎず、贓を估す二匹にして乃ち一匹の罪を得、多く重法に至らず」と。法寺に令して一銭半を以て銅錢の一に当てしむ。

元祐二年、刑部・大理寺定制を定む、「凡そ断讞獄を奏するは、毎に二十緡以上を大事と為し、十緡以上を中事と為し、十緡に満たざるを小事と為す。大事は十二日を以て、中事九日、小事四日を限と為す。若し在京・八路は大事十日、中事五日、小事三日。台察及び刑部挙劾約法状並びに十日、三省・枢密院再送は各半減す。故有れば量りて展べ、五日を過ぐるを得ず。凡そ公案の日限、大事は三十五日を以て、中事二十五日、小事十日を限と為す。在京・八路は大事三十日を以て、中事其の半、小事三の一。台察及び刑部並びに三十日。毎十日、断に七日を用い、議に三日を用う」と。

五年、詔す命官犯罪し、事辺防軍政に干るは、文臣は尚書省に申し、武臣は枢密院に申すべしと。中丞蘇轍言う、「旧制、文臣・吏民断罪公案は中書に帰し、武臣・軍士は枢密に帰し、而して断例の軽重、悉く相知らず。元豊官制を更定し、断獄公案並びに大理・刑部を由りて尚書省に申し、然る後中書省に上り旨を取る。是より断獄軽重比例、始めて一に帰し、天下明なりと称す。今復た枢密に分隷せば、必ず罪同じくして断異なり、元豊の本意を失わん、請う並びに三省に帰せしめん。其の事辺防軍政に干る者は、枢密院に令して同く進み旨を取らしめば、則ち事体一に帰し、而して兵政大臣各其の職を得ん」と。六年、乃ち詔す、「文武官犯有り同く按ずるに辺防軍政に干る者は、刑部定断し、仍て三省・枢密院同く旨を取るべし」と。

刑部論ず、「佃客主を犯せば、凡人より一等を加う。主之を犯せば、杖以下は論ぜず、徒以上は凡人より一等を減ず。謀殺盗詐、規求避免する所有りて而して犯す者は、減ぜず。毆に因りて死を致す者は面を刺さず、鄰州に配し、情重き者は奏裁す。凡そ命士官に死し或いは位を去り、其の徒を送りて道に亡うれば、則ち部轄将校・節級と首めて衆を率いる者は徒一年、情軽ければ則ち杖百、自首すると雖も免れず」と。

政和年間、詔して曰く、「品官が罪を犯し、三度問うて承服せざれば、即ち奏請して追捕すべし。若し情理重害にして拒み隠すときは、方に枷訊を許す。近来有司法を廃し、軽重を弁ぜず、枷訊すること常人と異ならず、将に人をして吾が爵禄を軽んずるの心あらしめんとす。条令を申明して、以て欽恤の意に称すべし」と。また詔して曰く、「宗子罪を犯すときは、庭訓して辱しめを示す。比来衣を去り杖を受くるあり、膚を傷つけ体を敗り、朕が懐を惻む有り。其れ大宗正司に令して条制を恪守せしめ、違う者は御筆に違うを以て論ずべし」と。また曰く、「其の情理重害なる者は、別に処分を受く。若し徒・流に至る罪は、方に制勘を許す。余は止だ衆証を以て定めと為し、仍て伏辨を取り、輒に捶考を加うること無きべし。其の庭訓に合する者は、並びに大宗正司に送り、以て朕が九族を敦睦するの意に副わしむべし」と。中書省言う、「律に『官に在りて罪を犯し、官を去れば論ずること勿れ』と。蓋し命官の為に文を立てしなり。其の後相因み、掌典官を去るも、亦た官を去るを以て罪を免れ、犯有れば則ち役を解きて農に帰し、重罪を幸いに免る」と。詔して政和の敕を改め、掌典の役を解く者は官を去るの法に従わしむ。

左道は法を乱し、妖言は衆を惑わす、先王の赦さざる所にして、宋に至りては尤も其の禁を重んず。凡そ妖教を伝習し、夜に聚り暁に散ずる類、及び人を殺して祭祀するの類は、皆法に著し、訶察甚だ厳なり。故に姦軌不逞の民、以て愚俗を動揺する無し。間に之を為す者有りと雖も、随いて輒に報敗し、其の事紀するに足らず。