宋史

志第一百五十二 刑法一

志第一百五十二 刑法一

天には五気ありて万物を育む。木徳は以て生じ、金徳は以て殺す。甚だ盭もとるものの如しと雖も、而も始終の序、相成すの道なり。先王は刑罰有りて以て其の民を糾す。則ち必ず温慈恵和を以て之を行ふ。蓋し義を以て之を裁し、仁を以て之を推す。則ち震殺戮の威は、民の死を求むるに非ず、以て其の生を求めんとする所以なり。書に曰く、「士、百姓を刑の中に制し、以て祗徳を教ふ」と。刑を以て教を弼たすけ、之をして威を畏れ罪を遠ざけ、善に導くを言ふのみ。唐虞の治も、固より刑を廃すること能はざるなり。惟だ礼を以て之を防ぎ、及ばざる有らば、則ち刑を以て之を輔くるのみ。王道陵遅し、礼制隳廃す。始めて専ら法を任じ以て其の民を罔あざむく。是に於て刑書を作り為し、民の犯さざるを欲す。而して乱獄滋ますます豊なり。其の本末序無く、相成すに足らざるに由る故なり。

原文夫天有五氣以育萬物,木德以生,金德以殺,亦甚盭矣,而始終之序,相成之道也。先天有刑罰以糾其民,則必溫慈惠和以行之,蓋裁之以義,推之以仁,則震殺戮之威,非求民之死,所以求其生也。書曰:「士制百姓于刑之中,以教祗德。」言刑以弼教,使之畏威遠罪,導以之善爾。唐、虞之治,固不能廢刑也;惟禮以防之,有弗及,則刑以輔之而已。王道陵遲,禮制隳廢,始專任法以罔其民,於是作為 刑書,欲民無犯,而亂獄滋豐,由其本末無序,不足相成故也。

宋興り、五季の乱を承く。太祖・太宗は頗る重典を用ひ、以て姦慝を縄ただす。歳時躬自ら獄を折り囚を慮おもんばかり、務めて明慎を底いたし、而して忠厚を本と為す。海内悉く平らぎ、文教寖しだいに盛んなり。士初めて官に試みるや、皆律令を習ふ。其の君一に寛仁を以て治と為す。故に立法の制は厳にして、用法の情は恕なり。獄に小疑有らば、覆奏輒すなはち減宥を得。夫れ重熙累洽の際を観るに、天下の民咸みな其の生を楽しみ、法を犯すに重んじ、而して治を致すの盛、殆ど三代の懿に幾ちかし。元豊以来、刑書益々繁し。已にして憸邪並び進み、刑政紊みだれり。国既に南遷し、威柄下に逮およぶ。州郡の吏も亦頗る専行し、而して刑の寛猛は其の人に係る。然れども累世猶ほ民を愛するを以て心と為すを知る。其の慈弱を失ふと雖も、而して祖宗の遺意蓋し未だ泯ほろびざるなり。今其の実を摭とりて、『刑法志』を作る。

原文宋興,承五季之亂,太祖、太宗頗用重典,以繩姦慝,歲時躬自折獄慮囚,務底明慎,而以忠厚為本。海內悉平,文教寖盛,士初試官,皆習律令。其君一以寬仁為治,故立法之制嚴,而用法之情恕。獄有小疑,覆奏輒得減宥。觀夫重熙累洽之際,天下之民咸樂其生,重於犯法,而致治之盛幾乎三代之懿。元豐以來,刑書益繁,已而憸邪並進,刑政紊矣。國既南遷,威柄下逮,州郡之吏亦頗專行,而刑之寬猛繫乎其人。然累世猶知以愛民為心,雖其失慈弱,而祖宗之遺意蓋未泯焉。今摭其實,作《刑法志》。

宋の法制は唐の律・令・格・式に因り、時に随ひて損益す。則ち編敕有り。一司・一路・一州・一県又別に敕有り。建隆初め、判大理寺竇儀等に詔し『編敕』四巻を上らしむ。凡そ百有六条。詔して新定の『刑統』三十巻と並びに天下に頒ち、軽重を参酌して詳ならしむ。世平允と称す。太平興国中、敕を増して十五巻に至る。淳化中、之を倍す。咸平中、万八千五百五十有五条に増す。給事中柴成務等に詔し其の繁乱を芟かり、敕と為す可きを定めて二百八十有六条と為し、律に準じて十二門に分ち、総じて十一巻とす。又『儀制令』一巻を為す。当時其の簡易を便とす。大中祥符間、又三十巻を増し、千三百七十四条とす。又『農田敕』五巻有り、敕と兼ねて行ふ。

原文宋法制因唐律、令、格、式,而隨時損益,則有編敕,一司、一路、一州、一縣又別有敕。建隆初,詔判大理寺竇儀等上《編敕》四卷,凡一百有六條,詔與新定《刑統》三十卷並頒天下,參酌輕重為詳,世稱平允。太平興國中,增敕至十五卷,淳化中倍之。咸平中增至萬八千五百五十有五條,詔給事中柴成務等芟其繁亂,定可為敕者二百八十有六條,準律分十二門,總十一卷。又為《儀制令》一卷。當時便其簡易。大中祥符間。又增三十卷,千三百七十四條。又有《農田敕》五卷,與敕兼行。

仁宗嘗て輔臣に問ひて曰く、「或は先朝の詔令は軽々しく改むべからずと謂ふ。信然るか」と。王曾曰く、「此れ憸人の上を惑はすの言なり。咸平の刪する所は、太宗の詔令十に一二を存す。其の繁密を去りて以て民に便ならしむ。何を以て不可と為さんや」と。是に於て中外に詔し敕の得失を言はしめ、官を命じて修定せしめ、咸平の儀制令及び制度約束の敕に在る者五百余条を取り、悉く令の後に附し、号して『附令敕』と曰ふ。天聖七年編敕成る。『農田敕』を合わせて一書と為し、祥符の敕に視くらべて百余条を損ず。其の法に麗つく者は、大辟の属十有七、流の属三十有四、徒の属百有六、杖の属二百五十有八、笞の属七十有六。又配隸の属六十有三、大辟以下奏して旨を聴く者七十有一。凡そ此れ皆律令の外に在る者なり。既に頒行し、因りて詔を下して曰く、「敕令は治世の経なり。而して数しばしば動揺せば、則ち衆聴滋ますます惑ふ。何を以て天下を訓迪くんてきせんや。自今より有司輒みだりに刪改を請ふこと毋なかれ。未だ便ならざる者有らば、中書・枢密院以て聞せよ」と。然れども慶曆に至り又復た刪定し、五百条を増し、別に『総例』一巻を為す。後又一司敕二千三百十有七条、一路敕千八百二十有七条、一州・一県敕千四百五十有一条を修む。其の法に麗く者は、大辟の属総じて三十有一、流の属総じて二十有一、徒の属総じて百有五、杖の属総じて百六十有八、笞の属総じて十有二、又配隸の属総じて八十有一、大辟以下奏して旨を聴く者総じて六十有四。凡そ此れ又編敕の外に在る者なり。

原文仁宗嘗問輔臣曰:「或謂先朝詔令不可輕改,信然乎?」王曾曰:「此憸人惑上之言也。咸平之所刪,太宗詔令十存一二,去其繁密以便於民,何為不可?」於是詔中外言敕得失,命官修定,取咸平儀制令及制度約束之在敕者五百餘條,悉附令後,號曰《附令敕》。天聖七年編敕成,合《農田敕》為一書,視祥符敕損百有餘條。其麗于法者,大辟之屬十有七,流之屬三十有四,徒之屬百有六,杖之屬二百五十有八,笞之屬七十有六。又配隸之屬六十有三,大辟而下奏聽旨者七十有一。凡此,皆在律令外者也。既頒行,因下詔曰:「敕令者,治世之經,而數動搖,則眾聽滋惑,何以訓迪天下哉?自今有司毋得輒請刪改。有未便者,中書、樞密院以聞。」然至慶曆又復刪定,增五百條,別為《總例》一卷。後又修一司敕二千三百十有七條,一路敕千八百二十有七條,一州、一縣敕千四百五十有一條。其麗于法者,大辟之屬總三十有一,流之屬總二十有一,徒之屬總百有五,杖之屬總百六十有八,笞之屬總十有二,又配隸之屬總八十有一,大辟而下奏聽旨者總六十有四。凡此,又在編敕之外者也。

嘉祐初め、枢密使韓琦の言に因り、内外の吏兵の俸禄に著令無きを以て、乃ち類次して禄令と為すことを命ず。三司は驛料の名数を以て、驛令と為すことを著す。琦又言ふ、「慶曆四年より、嘉祐二年に距いたるまで、敕四千余条に増す。前後牴牾ていごす。請ふらくは中外に詔し、敕の得失を言はしめ、天聖の故事の如くせん」と。七年、書成る。総じて千八百三十四条。慶曆の敕に視れば大辟六十を増し、流五十を増し、徒六十有一を増し、杖七十有三を増し、笞三十有八を増し、又配隸三十を増し、大辟以下奏して旨を聴く者四十有六を増す。又別に『続附令敕』三巻を為す。

原文嘉祐初,因樞密使韓琦言,內外吏兵奉祿無著令,乃命類次為祿令。三司以驛料名數,著為驛令。琦又言:「自慶曆四年,距嘉祐二年,敕增至四千餘條,前後牴牾。請詔中外,使言敕得失,如天聖故事。」七年,書成。總千八百三十四條,視慶曆敕大辟增六十,流增五十,徒增六十有一,杖增七十有三,笞增三十有八,又配隸增三十,大辟而下奏聽旨者增四十有六。又別為《續附令敕》三卷。

神宗は律以て事情を周あまねくすに足らずと為し、凡そ律の載せざる所は一に敕を以て断ず。乃ち其の目を更めて敕・令・格・式と曰ひ、而して律は恒に敕の外に存す。熙寧初め、局を置きて敕を修め、中外に詔し法の便ならざる者を言はしめ、集議して更定し、其の采る可き者を択びて之を賞す。元豊中、始めて書二十有六巻を成す。復た二府に下して参訂せしめ、然る後に頒行す。帝は法令に留意し、毎に有司進擬するも、多く是正する所有り。嘗て謂ひて曰く、「法は道より出づ。人能く道を体すれば、則ち立法以て事を尽くすに足る」と。又曰く、「已に然るを禁むるを敕と謂ひ、未だ然らざるを禁むるを令と謂ひ、此れに設けて以て彼を待つを格と謂ひ、彼をして之に效ならはしむるを式と謂ふ。書を修むる者は要当に此れを識るべし」と。是に於て凡そ笞・杖・徒・流・死に入る、名例以下断獄に至るまで、十有二門、刑名軽重に麗く者は、皆敕と為す。品官以下断獄三十五門に至るまで、約束禁止する者は、皆令と為す。命官の等十有七、吏・庶人の賞等七十有七、又倍・全・分・釐の級凡そ五等有り、等級高下有る者は、皆格と為す。表奏・帳籍・関牒・符檄の類凡そ五巻、体制模楷有る者は、皆式と為す。

原文神宗以律不足以周事情,凡律所不載者一斷以敕,乃更其目曰敕、令、格、式,而律恆存乎敕之外。熙寧初,置局修敕,詔中外言法不便者,集議更定,擇其可采者賞之。元豐中,始成書二十有六卷,復下二府參訂,然後頒行。帝留意法令,每有司進擬,多所是正。嘗謂:「法出於道,人能體道,則立法足以盡事。」又曰:「禁於已然之謂敕,禁於未然之謂令,設於此以待彼之謂格,使彼效之之謂式。修書者要當識此。」於是凡入笞、杖、徒、流、死,自名例以下至斷獄,十有二門,麗刑名輕重者,皆為敕。自品官以下至斷獄三十五門,約束禁止者,皆為令。命官之等十有七,吏、庶人之賞等七十有七,又有倍、全、分、釐之級凡五等,有等級高下者,皆為格。表奏、帳籍、關牒、符檄之類凡五卷,有體制模楷者,皆為式。

元祐初め、中丞劉摯言ふ、「元豊の編修敕令、旧に敕に載する者は多く之を令に移す。蓋し敕に違ふは法重く、令に違ふは罪軽し。此れ以て神宗の仁厚の徳を見るに足る。而して有司能く推広せず、条目を増多し、旧制を離析し、一言一事に因り、輒すなはち一法を立て、意苛く文晦くらく、以て事物の情を該つくすに足らず。之を行ふこと幾時いくばくもせずして、蓋し已に屡しばしば変ず。宜しく慶曆・嘉祐以来の新旧の敕を参照し、去取刪正し、以て一代の典を成すべし」と。右諫議孫覺も亦煩細にして検用に難しと言ふ。乃ち摯等に詔し刊定せしむ。哲宗親政し、元祐の近例を専用せず、稍ようやく熙寧・元豊の制を復す。是より法を用ふるに後を以て前を衝つく。改更紛然として、而して刑制紊みだれり。

原文元祐初,中丞劉摯言:「元豐編修敕令,舊載敕者多移之令,蓋違敕法重,違令罪輕,此足以見神宗仁厚之德。而有司不能推廣,增多條目,離析舊制,因一言一事,輒立一法,意苛文晦,不足以該事物之情。行之幾時,蓋已屢變。宜取慶曆、嘉祐以來新舊敕參照,去取刪正,以成一代之典。」右諫議孫覺亦言煩細難以檢用,乃詔摯等刊定。哲宗親政,不專用元祐近例,稍復熙寧、元豐之制。自是用法以後衝前,改更紛然,而刑制紊矣。

崇寧元年(1102年)、臣僚が言上した。「役所が遵守すべきは法であり、法に記載されていない場合にのみ例を用いる。今、例を引いて法を破るのは道理に合わない。」そこで各曹に命じて前後で用いた例を類別に編修させ、法に妨げるものはこれを除去させた。まもなく詔を下して元豊の法制を追復し、凡そ元祐の条例は悉くこれを焼却した。徽宗はしばしば御筆手詔を降し、旧章を変乱させた。靖康初年(1126年)、群臣が言上した。「祖宗には一定の法があり、事に因って改める場合は、条ごとに貼説し、役所が奉行しやすいようにしていた。蔡京が国政を執った時、己の私意を快くせんがため、御筆の降下を請い、法令の外に出て、前後矛盾している。宜しく具に録して編修敕令所に付し、国初以来の条法を参用し、刪修して書を成すべし。」詔してその請いに従ったが、書は果たして成らなかった。

原文崇寧元年,臣僚言:「有司所守者法,法所不載,然後用例。今引例破法,非理也。」乃令各曹取前後所用例,以類編修,與法妨者去之。尋下詔追復元豐法制,凡元祐條例悉燬之。徽宗每降御筆手詔,變亂舊章。靖康初,羣臣言:「祖宗有一定之法,因事改者,則隨條貼說,有司易於奉行。蔡京當國,欲快己私,請降御筆,出於法令之外,前後牴牾,宜令具錄付編修敕令所,參用國初以來條法,刪修成書。」詔從其請,書不果成。

高宗が播遷し、断例が散逸した。建炎以前(1127年以前)、凡そ施行されたものは、類く人吏の省記(記憶・記録)に由来した。三年(1129年)四月、始めて嘉祐条法と政和敕令を取って対照し修訂して用いることを命じた。嘉祐法と現行法とが異なる場合、官制・役法の外は、賞格は重きに従い、条約は軽きに従う。紹興元年(1131年)、書が完成し、『紹興敕令格式』と号したが、吏胥の省記したものもまた引用された。監察御史劉一止が言上した。「法令は具わっているのに、吏はなおも姦を行うことができる。今、一切その省記を用いるならば、欺蔽することどこに至らざるがあろうか。」十一月、左右司・敕令所に命じて省記の文を刊定し頒布させた。時に在京通用敕の中に、既に衝改を嘗てて引用すべきでない文があったが、大理正張柄の言により、また詔して削除させた。十年(1140年)、右僕射秦檜がこれを上進した。然るに檜が専政して以来、率ね都堂批状・指揮を用いて事を行い、これが吏部の続降条冊の中に雑入され、修書者は畏忌するところがあり、敢えて削除せず、遂に成法と並立するに至った。吏部尚書周麟之が言上した。「天子にあらざれば礼を議せず、制度を制せず、文を考せず。」そこで詔してこれを削去させた。

原文高宗播遷,斷例散逸,建炎以前,凡所施行,類出人吏省記。三年四月,始命取嘉祐條法與政和敕令對修而用之。嘉祐法與見行不同者,自官制、役法外,賞格從重,條約從輕。紹興元年,書成,號《紹興敕令格式》,而吏胥省記者亦復引用。監察御史劉一止言:「法令具在,吏猶得以為姦,今一切用其所省記,欺蔽何所不至!」十一月,乃詔左右司、敕令所刊定省記之文頒之。時在京通用敕內,有已嘗衝改不該引用之文,因大理正張柄言,亦詔刪削。十年,右僕射秦檜上之。然自檜專政,率用都堂批狀、指揮行事,雜入吏部續降條冊之中,修書者有所畏忌,不敢刪削,至與成法並立。吏部尚書周麟之言:「非天子不議禮,不制度,不考文。」乃詔削去之。

乾道の時(1165-1173年)に至り、臣僚が言上した。「紹興以来、続降指揮は慮るに数千に及び、矛盾して考証し難い。」詔して大理寺官に詳しく難を定め、その可否を定め、類別に刑部に申し、所属する事目に分けて六部の長官・次官に参詳させた。六年(1170年)、刑部侍郎汪大猷らがその書を上進し、『乾道敕令格式』と号した。八年(1172年)、これを頒布した。当時、法令は具わっていたが、然るに吏は一切例によって事に従い、法は当然であるが例がなければ、事は皆泥んで行われず、甚だしきは例を隠して法を壊し、賄賂が行われてから、初めて例を具えるという有様であった。

原文至乾道時,臣僚言:「紹興以來,續降指揮無慮數千,牴牾難以考據。」詔大理寺官詳難,定其可否,類申刑部,以所隸事目分送六部長貳參詳。六年,刑部侍郎汪大猷等上其書,號《乾道敕令格式》,八年,頒之。當是時,法令雖具,然吏一切以例從事,法當然而無例,則事 皆泥而不行,甚至隱例以壞法,賄賂既行,乃為具例。

淳熙初年(1174年)、詔して刑部に乾道の刑名断例を用いることを許し、司勲に盗賊捕獲の推賞例を用いることを許すほかは、乾道経置条例事指揮を除き、その余は並びに例を引くことを得ずとした。既にして臣僚が乾道新書は尚多く矛盾があると言上したため、詔して戸部尚書蔡洸にこれを詳定させ、凡そ九百余条を刪改し、『淳熙敕令格式』と号した。帝はまたその書が散漫で、用法の際に官が遍く閲覧する暇がなく、吏が因って姦を行うことを得るとして、敕令所に命じて門を分けて類編し一書とさせ、『淳熙条法事類』と名付けた。これはこれ以前の法令にはなかったものである。四年(1177年)七月、これを頒布した。淳熙末年、議者はなお新書に尚多く遺漏があり、役所が引用するに、時に人情に便なるものがあると論じた。再び刑部に詳定を命じたが、光宗の世に至るまで完成しなかった。慶元四年(1198年)、右丞相京鏜が初めてその書を上進し、百二十巻とし、『慶元敕令格式』と号した。

原文淳熙初,詔除刑部許用乾道刑名斷例,司勳許用獲盜推賞例,?乾道經置條例事指揮,其餘並不得引例。既而臣僚言乾道新書,尚多牴牾,詔戶部尚書蔡洸詳定之,凡刪改九百餘條,號《淳熙敕令格式》。帝復以其書散漫,用法之際,官不暇徧閱,吏因得以容姦,令敕令所分門編類為一書,名曰《淳熙條法事類》,前此法令之所未有也。四年七月,頒之。淳熙末,議者猶以新書尚多遺闕,有司引用,間有便於人情者。復令刑部詳定,迄光宗之世未成。慶元四年,右丞相京鏜始上其書,為百二十卷,號《慶元敕令格式》。

理宗宝慶初年(1225年)、敕令所が言上した。「慶元新書の施行以来、今二十九年を経て、前の指揮は殆ど一事にあらず、或いは旧法が該括し尽くさず、文意が明らかでなく、続降を用いて参酌すべきもの、或いは旧法に元々なく、後に事に因って成法として立てられたもの、或いは既に旧法がありながら、続降が必ずしも引用すべきでないもの、或いは一時の権宜であって常法とすべからざるものがある。条目が益々繁雑で遵守する所がない。これを考定することを乞う。」淳祐二年(1242年)四月、敕令所がその書を上進し、『淳祐敕令格式』と名付けた。十一年(1251年)、また慶元法と淳祐新書を取って刪潤した。その間、修改したもの百四十条、創入したもの四百条、増入したもの五十条、刪去したもの十七条、合わせて四百三十巻とした。度宗以後、これを遵奉して行い、更定することはなかった。その余の一司・一路・一州・一県の敕は、前後時に増損があり、勝って記すことができない。

原文理宗寶慶初,敕令所言:「自慶元新書之行,今二十九年,前指揮殆非一事,或舊法該括未盡,文意未明,須用續降參酌者;或舊法元無,而後因事立為成法者;或已有舊法,而續降不必引用者;或一時權宜,而不可為常法者。條目滋繁,無所遵守,乞攷定之。」淳祐二年四月,敕令所上其書,名《淳祐敕令格式》。十一年,又取慶元法與淳祐新書刪潤。其間修改者百四十條,創入者四百條,增入者五十條,刪去者十七條,為四百三十卷。度宗以後,遵而行之,無所更定矣。其餘一司、一路、一州、一縣敕,前後時有增損,不可勝紀云。

五代の衰乱期には、禁令が煩瑣で細密であった。宋が興り、苛酷峻烈な法を削除し、累朝にわたって更定があった。法吏は次第に儒臣が用いられ、仁恕を存することを務め、凡そ用法が悖らず時宜に適うものを著した。太祖が禅を受けると、始めて折杖の制を定めた。凡そ流刑四等:加役流は脊杖二十、配役三年。流三千里は脊杖二十、二千五百里は脊杖十八、二千里は脊杖十七、いずれも配役一年。凡そ徒刑五等:徒三年は脊杖二十、徒二年半は脊杖十八、二年は脊杖十七、一年半は脊杖十五、一年は脊杖十三。凡そ杖刑五等:杖一百は臀杖二十、九十は臀杖十八、八十は臀杖十七、七十は臀杖十五、六十は臀杖十三。凡そ笞刑五等:笞五十は臀杖十下、四十・三十は臀杖八下、二十・十は臀杖七下。常行官杖は周の顕徳五年(958年)の制に従い、長さ三尺五寸、大頭の幅は二寸を過ぎず、厚さ及び小頭の径は九分を過ぎてはならない。徒・流・笞刑は通用して常行杖を用い、徒罪は決杖して役には服さない。

原文五季衰亂,禁罔煩密。宋興,削除苛峻,累朝有所更定。法吏寖用儒臣,務存仁恕,凡用法不悖而宜于時者著之。太祖受禪,始定折杖之制。凡流刑四:加役流,脊杖二十,配役三年;流三千里,脊杖二十,二千五百里,脊杖十八,二千里,脊杖十七,並配役一年。凡徒刑五:徒三年,脊杖二十;徒二年半,脊杖十八;二年,脊杖十七;一年半,脊杖十五;一年,脊杖十三。凡杖刑五:杖一百,臀杖二十;九十,臀杖十八;八十,臀杖十七;七十,臀杖十五;六十,臀杖十三。凡笞刑五:笞五十,臀杖十下;四十、三十,臀杖八下;二十、十,臀杖七下。常行官杖如周顯德五年制,長三尺五寸,大頭闊不過二寸,厚及小頭徑不得過九分。徒、流、笞通用常行杖,徒罪決而不役。

先に、藩鎮が跋扈し、専殺をもって威とし、朝廷は姑息し、率ねこれを置いて問わず、刑部の按覆の職は廃れていた。建隆三年(962年)、諸州に大辟(死刑)案を奏上するには、必ず刑部の詳覆を経ることを命じた。まもなく旧制のように、大理寺が詳断し、その後刑部が覆審することとした。凡そ諸州の獄訟は、録事参軍と司法掾が参断した。これより、内外の獄を断じ罪を蔽うに、皆官を以て相覆察するようになった。また刑部・大理寺の用法の誤りを懼れ、別に審刑院を置いてこれを讞定させた。吏は一度深く罪に坐せられると、或いは終身進用されないため、これにより皆持平を務めるようになった。

原文先是,藩鎮跋扈,專殺為威,朝廷姑息,率置不問,刑部按覆之職廢矣。建隆三年,令諸州奏大辟案,須刑部詳覆。尋如舊制,大理寺詳斷,而後覆于刑部。凡諸州獄,則錄事參軍與司法掾參斷之。自是,內外折獄蔽罪,皆有官以相覆察。又懼刑部、大理寺用法之失,別置審刑院讞之。吏一坐深,或終身不進,由是皆務持平。

唐の建中令では、窃盗の贓が三匹に満ちる者は死罪とした。武宗の時、窃盗の贓が千銭に満ちる者は死罪とした。宣宗が立つと、これを廃止した。漢の乾祐以来、用法は益々峻烈となり、民が一銭を盗んでも極法に抵した。周の初め、その過失を深く懲戒し、再び建中の制に遵った。帝はなおその重きを以て、嘗て銭三千に増やし、陌(百銭)を八十を限りとした。既にして詔して曰く。「民が非を行うことを禁ずるは、乃ち法令を設くる所以なり。下に臨むには簡を以てし、必ず哀矜を務むべし。窃盗の生ずるは、本より巨悪にあらず。近朝の立てし制は、律文よりも重し。是れ人を愛するの旨に非ざるなり。今より窃盗の贓が五貫足陌に満ちる者は死罪とす。」

原文唐建中令,竊盜贓滿三匹者死。武宗時,竊盜贓滿千錢者死。宣宗立,乃罷之。漢乾祐以來,用法益峻,民盜一錢抵極法。周初,深懲其失,復遵建中之制。帝猶以其太重,嘗增為錢三千,陌以八十為限。既而詔曰:「禁民為非,乃設法令,臨下以簡,必務哀矜。竊盜之生,本非巨 。近朝立制,重於律文,非愛人之旨也。自今竊盜贓滿五貫足陌者死。」

旧法では、強盗が杖を持つ者は、たとえ人を傷つけなくても、皆棄市(市中での斬首)とした。また詔して、但だ人を傷つけない者は、只贓を計って論ずるとした。諸州に盗賊を捕獲した場合、状験が明白でなければ、未だ掠治(拷問)してはならないと命じた。その訊問すべき者は、先ず長吏に白状し、判を得てからこれを訊問する。凡そ役所が擅かに囚人を掠治する者は、私罪として論ずる。時に天下は甫めて定まり、刑典は弛廃し、吏は律令を明らかに習熟せず、牧守は多く武人であり、率ね意のままに法を用いた。金州防禦使仇超らが故に死罪に入れた罪に坐し、除名され、海島に流された。これより人は法を奉ずることを知った。

原文舊法,強盜持杖,雖不傷人,皆棄市。又詔但不傷人者,止計贓論。令諸州獲盜,非狀驗明白,未得掠治。其當訊者,先具白長吏,得判乃訊之。凡有司擅掠囚者,論為私罪。時天下甫定,刑典弛廢,吏不明習律令,牧守又多武人,率意用法。金州防禦使仇超等坐故入死罪,除名,流海島,自是人知奉法矣。

開寶二年五月、帝は暑気盛んなるを以て、深く縲繫の苦しみを思い、乃ち手詔を下す:「両京諸州、長吏に令して獄掾を督め、五日毎に一たび検視し、獄戸を洒掃し、杻械を洗滯せしめよ。貧しくして自ら存する能わざる者には飲食を給し、病める者には医薬を給せよ。軽く繫がるる者は即時に決遣し、淹滯する毋れ。」是より、毎仲夏に官吏に申敕し、歳を以て常と為す。帝は毎に親しく囚徒を録し、専ら欽恤に事とす。凡そ御史・大理の官属は、特に厳選す。嘗て侍御史知雑の馮炳に謂ひて曰く:「朕は毎に『漢書かんじょ』を読み、張釋之・于定国の獄を治むるを見るに、天下に冤民無し、此れ卿に望む所なり。」金紫を賜ひて以て之を勉む。八年、広州言ふ:「前詔に竊盗贓死に至る者は奏裁すと有るも、嶺南遐遠にして、覆奏稽滯す、請ふ報を俟たずんと。」帝奏を覧て、惻然として曰く:「海隅の習俗、貪獷穿窬するは、固より其の常なり。」因りて詔す:「嶺南の民竊盗を犯し、贓五貫より十貫に満つる者は、決杖・黥げい面・配役し、十貫以上にして乃ち死す。」太宗御宇に在り、常に躬ら聴断し、京獄に疑ふる者有れば、多く臨決し、毎に能く隠微を燭見す。太平興国六年詔を下して曰く:「諸州の大獄、長吏親ら決せず、胥吏旁縁りて姦を為し、逮捕證佐し、滋蔓踰年して獄未だ具はらず。今より長吏は五日毎に一たび囚を慮り、情得る者は即ち之を決せよ。」復た獄を聴くの限を制し、大事は四十日、中事は二十日、小事は十日、他を逮捕せずして易く決する者は、三日を過ぐる毋れ。後又た令を定む:「獄を決するに限に違ふは、官書稽程の律に準じて論じ、四十日を踰ゆれば則ち奏裁す。事證逮を須ひて稽緩を致すは、其の所在其の事を以て聞せしむ。」然れども州県の禁繫は、往々猶ほ根窮を以て名と為し、追擾輒ち破家に至る。江西転運副使張齊賢の言に因り、外県の罪人に五日毎に一たび禁放の数を具して州に白せしむ。州獄別に歴を置き、長吏検察し、三五日毎に一たび引問疏理し、月毎に奏上せしむ。刑部其の禁多きを閲し、官を命じて即ち往き決遣せしめ、滯れば則ち州の官吏を降黜す。会に両浙運司も亦た言ふ:「部内の州囚を繫ぐこと獄に満つ、長吏輒ち隠落し、妄りに獄空と言ふ、蓋し朝廷其の淹滯を詰むるを懼るるなり。」乃ち詔す:「妄りに獄空を奏し及び囚数を隠落するは、必ず深譴を加へ、告ぐる者を募りて之を賞せよ。」

原文開寶二年五月,帝以暑氣方盛,深念縲繫之苦,乃下手詔:「兩京諸州,令長吏督獄掾,五日一檢視,洒掃獄戶,洗滌杻械。貧不能自存者給飲食,病者給醫藥,輕繫即時決遣,毋淹滯。」自是,每仲夏申敕官吏,歲以為常。帝每親錄囚徒,專事欽恤。凡御史、大理官屬,尤嚴選擇。嘗謂侍御史知雜馮炳曰:「朕每讀《漢書》,見張釋之、于定國治獄,天下無民,此所望於卿也。」賜金紫以勉之。八年,廣州言:「前詔竊盜贓至死者奏裁,嶺南遐遠,覆奏稽滯,請不俟報。」帝覽奏,惻然曰:「海隅習俗,貪獷穿窬,固其常也。」因詔:「嶺南民犯竊盜,贓滿五貫至十貫者,決杖、黥面、配役,十貫以上乃死。」太宗在御,常躬聽斷,在京獄有疑者,多臨決之,每能燭見隱微。太平興國六年下詔曰:「諸州大獄,長吏不親決,胥吏旁緣為姦,逮捕證佐,滋蔓踰年而獄未具。自今長吏每五日一慮囚,情得者即決之。」復制聽獄之限,大事四十日,中事二十日,小事十日,不他逮捕而易決者,毋過三日。後又定令:「決獄違限,準官書稽程律論,踰四十日則奏裁。事須證逮致稽緩者,所在以其事聞。」然州縣禁繫,往往猶以根窮為名,追擾輒至破家。因江西轉運副使張齊賢言,令外縣罪人五日一具禁放數白州。州獄別置曆,長吏檢察,三五日一引問疏理,月具奏上。刑部閱其禁多者,命官即往決遣,滯則降黜州之官吏。會兩浙運司亦言:「部內州繫囚滿獄,長吏輒隱落,妄言獄空,蓋懼朝廷詰其淹滯。」乃詔:「妄奏獄空及隱落囚數,必加深譴,募告者賞之。」

先んずるに、諸州の流罪人は皆、錮送して闕下に至らしめ、所在に於いて或いは寅縁して細微に及び、道路に非理に死する者、十に常に六七を占む。張齊賢また請う、「凡そ罪人京師に至る者は、清強の官を選びて慮問せしむ。若し顕かに沈屈を負う者は、官吏を罷免せしむ。且つ只だ正身を遣わし、家屬は旨を俟ち、其の干係する者は錮送を免ぜしむ」と。乃ち詔す、「諸の徒・流罪を犯す者は、並びに所在の牢城に配し、復た転送して闕下に至らしむること勿れ」と。雍熙元年、諸州に令して十日毎に囚帳及び所犯の罪名・繫禁の日数を具して以て聞かしめ、刑部をして専意に糾挙せしむ。帝、諸州の奏する獄状を閲し、三百人を繫ぐ者有り。乃ち門留・寄禁・取保在外並びに邸店に於いて疾を養う者を、咸く禁数を準じ、件ごとに析して以て聞かしむ。其の鞫獄違限及び断ず可くして断ぜず、事小にして禁繫する者は、有司駁奏す。

原文先是,諸州流罪人皆錮送闕下,所在或寅緣細微,道路非理死者十恆六七。張齊賢又請:「凡罪人至京,擇清強官慮問。若顯負沈屈,致罷官吏。且令只遣正身,家屬俟旨,其干繫者免錮送。」迺詔:「諸犯徒、流罪,並配所在牢城,勿復轉送闕下。」雍熙元年,令諸州十日一具囚帳及所犯罪名、繫禁日數以聞,俾刑部專意糾舉。帝閱諸州所奏獄狀,有繫三百人者。迺令門留、寄禁、取保在外?邸店養疾者,咸準禁數,件析以聞。其鞫獄違限及可斷不斷、事小而禁繫者,有司駁奏之。

開封の女子李が嘗て登聞鼓を打ち、自ら言うに、児息無く、身且つ病に罹り、一旦死なば、家業を付する所無しと。詔して本府に随いて欲する所に裁置せしむ。李に他の親無く、独り父有り、有司因りて之を繫ぐ。李又た登聞に詣り、父の縶せらるるを訴う。帝駭いて曰く、「此事豈に禁繫すべきや、輦轂の下に尚ほ或いは此の如し。又た下りて広に至れば、安んぞ枉濫無からんや。朕四方の獄を親決せざるを恨む、固より労を辞せざる爾」と。即日殿中侍御史李範等十四人を遣わし、分かち江南・両浙・四川・荊湖・嶺南に往きて刑獄を審決せしむ。吏の怠る者は、其の罪を劾して以て聞かしめ、其の事に臨み明敏にして刑獄滞ること無き者は、亦た名を以て上らしむ。始めて諸州に十日に一たび囚を慮せしむ。

原文開封女子李嘗擊登聞鼓,自言無兒息,身且病,一旦死,家業無所付,詔本府隨所欲裁置之。李無它親,獨有父,有司因繫之。李又詣登聞,訴父被縶,帝駭曰:「此事豈當禁繫,輦轂之下,尚或如此。又下至廣,安得無枉濫乎?朕恨不能親決四方之獄,固不辭勞爾!」即日遣殿中侍御史李範等十四人,分往江南、兩浙、四川、荊湖、嶺南審決刑獄。吏之怠者,劾其罪以聞;其臨事明敏、刑獄無滯者,亦以名上。始令諸州十日一慮囚。

帝嘗て宰相に謂ひて曰く、「御史臺は閤門の前に在り、四方の綱準の地なり。頗る聞く、臺中に獄を鞫むるに、御史多く躬親せず、簾を垂れて雍容とし、以て自ら尊大す。鞫按の任、胥吏に委ね、濫り無きを求むるは、豈に得可けんや」と。乃ち詔して、御史の獄を決するには必ず躬親すべし、専ら胥吏に任ずる毋からしむ。又嘗て宰臣に諭して曰く、「毎に大理の奏案を閲するに、節目小に未だ備はらず、文を移して按覆すれば、動もすれば数千里外に渉り、禁繫淹久にして、甚だ憐れむ可し。卿等詳かに酌め、人命に係らざれば、即ち罪を量り区分し、須ふるに再び鞫むる毋からしめよ」と。始めて諸州に令す、笞・杖の罪は證逮を須ひざる者は、長吏即ち之を決し、復た所司に付す勿れ。羣臣詔を受けて獄を鞫むるに、獄既に具はれば、騎置して来上せしめ、有司断じ已り、復た騎置して之を州に下す。凡そ疑獄を上るは、之を詳覆して疑状無くんば、官吏並びに違制の坐に同じ。其の応に疑案を奏すべきも、亦た騎置して以て聞かしむ。

原文帝嘗謂宰相曰:「御史臺,閤門之前,四方綱準之地。頗聞臺中鞫獄,御史多不躬親,垂簾雍容,以自尊大。鞫按之任,委在胥吏,求無 濫,豈可得也?」乃詔御史決獄必躬親,毋得專任胥吏。又嘗諭宰臣曰:「每閱大理奏案,節目小未備,移文按覆,動涉數千里外,禁繫淹久,甚可憐也。卿等詳酌,非人命所係,即量罪區分,勿須再鞫。」始令諸州笞、杖罪不須證逮者,長吏即決之,勿復付所司。羣臣受詔鞫獄,獄既具,騎置來上,有司斷已,復騎置下之州。凡上疑獄,詳覆之而無疑狀,官吏並同違制之坐。其應奏疑案,亦騎置以聞。

二年、窃盗が十貫に満たぬ者は、奏上して裁決を請うべし。七貫の者は、杖刑を決し、顔面に墨を入れ、牢城に隷属せしむ。五貫の者は、三年の配役。三貫の者は、二年。一貫の者は、一年。その他は旧制の如し。八月、再び使臣を分遣して諸道を巡察せしむ。帝曰く、「朕は獄犴の任に寄せて、夙夜焦労し、滞りあるを慮るのみ」と。十月、親しく京城の繫囚を録し、遂に日旰に至る。近臣或いは諫めて労苦過甚なりとす。帝曰く、「もし無告の者に恵み及び、獄訟を平允にし、枉橈に致らざらしむれば、朕の意深く以て適と為し、何の労かあらん」と。因りて宰相に謂ひて曰く、「中外の臣僚、若し皆政務に心を留むれば、天下安んぞ治まらざる者あらん。古人は一邑を宰し、一郡を守りて、飛蝗をして境を避けしめ、猛虎をして河を渡らしむ。況んや能く黎庶を恵養し、滞を申理すれば、豈に和気を感召せざらんや。朕は毎に自ら勤めて怠らず、此の志必ず改易無し。或いは云ふ、有司の細故は、帝王親ら決すべからずと。朕の意は則ち是に異なり。若し尊極を以て自ら居らば、則ち下情上達する能はざるなり」と。是より祁寒盛暑或いは雨雪稍々愆あれば、輒ち親しく繫囚を録し、多く原減す。諸道には則ち官を遣わして按決せしめ、率ね以て常と為し、後世遵行して廃せず、各帝の《紀》に見ゆ。

原文二年,令竊盜滿十貫者,奏裁;七貫,決杖、黥面、隸牢城;五貫,配役三年;三貫,二年;一貫,一年。它如舊制。八月,復分遣使臣按巡諸道。帝曰:「朕於獄犴之寄,夙夜焦勞,慮有滯耳。」十月,親錄京城繫囚,遂至日旰。近臣或諫勞苦過甚,帝曰:「儻惠及無告,使獄訟平允,不致枉橈,朕意深以為適,何勞之有?」因謂宰相曰:「中外臣僚,若皆留心政務,天下安有不治者。古人宰一邑,守一郡,使飛蝗避境,猛虎渡河。況能惠養黎庶,申理滯,豈不感召和氣乎?朕每自勤不怠,此志必無改易。或云有司細故,帝王不當親決,朕意則異乎是。若以尊極自居,則下情不能上達矣。」自是祁寒盛暑或雨雪稍愆,輒親錄繫囚,多所原減。諸道則遣官按決,率以為常,後世遵行不廢,見各帝《紀》。

先に、太祝の刁衎が上疏して言うには、「古は姦人を四裔に投ずるが、今は遠方の囚人を尽く象闕に帰し、務役に配す。神京は天子の居所なり、豈に流囚を此に聚めて役せしむべけんや。礼に曰く、『刑人は市に於て、衆と之を棄つ』と。則ち知る、黄屋紫宸の中は、法を行ひ刑を用ふる所に非ざるを。望むらくは、今より外処の罪人を、上京に解送するを許さず、亦諸務に留めて役に充つることなからんことを。御前には決罰の刑を行はず、殿前引見司の鉗黥の法具・敕杖は、皆以て御史・廷尉・京府に付すべし。或は中使を出だし、或は法官を命じ、礼を具へて監科し、以て明刑謹法の意を重んずべし」と。帝疏を覧て甚だ悦び、詔を降して褒答す、然れども従ふこと能はざりき。

原文先是,太祝刁衎上疏言:「古者投姦人於四裔,今乃遠方囚人,盡歸象闕,配務役。神京天子所居,豈可使流囚於此聚役。禮曰:『 刑 人于市,與眾棄之。』則知黃屋紫宸之中,非行法用刑之所。望自今外處罪人,勿許解送上京,亦不留於諸務充役。御前不行決罰之刑 ,殿前引見司鉗黥法具、敕杖,皆以付御史、廷尉、京府。或出中使,或命法官,具禮監科,以重明刑謹法之意。」帝覽疏甚悅,降詔褒答,然不能從也。

三年(太平興国三年)、初めて儒士を用いて司理判官とし、諸州に囚人を訊問するに当たり、必ずしも多くの官吏が共に見ることを要せず、長吏に申し出て判決を得てから囚人を訊問することを命じた。刑部の張佖が言上した:「官吏が枉まげて死罪を断ずる者については、条章をやや峻厳にし、その明察慎重を責めることを請う。」初めて定制を定めた:獄を断ずるに当たり、死刑に失入しつにゅうした者は、官をもって減贖げんしょくすることができず、検法官・判官は皆一任を削り、しかも検法官はなお銅十斤を贖い、長吏は停任とする。まもなく刑部に詳覆官六員を置き、専ら天下の上申する案牘あんとくを閲し、再び獄吏を遣わして審理させないこととした。御史台に推勘官二十人を置き、皆京朝官をもってこれに充てた。凡そ諸州に大獄あるときは、駅伝に乗って就き審理する。陛辞へいじの日、帝は必ず臨んで遣わし諭して言う:「蔓延を滋しくすなかれ、滞留を留とどめるなかれ。」皆装銭そうせんを賜う。還れば、必ず召して問い推問した事状を、定令として著す。これより、大理寺の杖罪以下の案件は、必ず刑部の詳覆を要する。また、天下の案牘で未だ具そなわらざるを駁はくしたものも、詳覆を経てから奏上するよう命じた。判刑部李昌齡が言上した:「旧制では、大理寺が刑を定めて部(刑部)に送り、詳覆官が法状に入れ、主判官が断語を下し、乃ち具えて奏上する。開宝六年に至り、法直官が欠けたため、両司が共に断じて覆詞ふくしを定めた。今は大理寺の断じた案牘を、寺官が印署して詳覆に送るべきである。妥当を得れば、寺に送って共に奏上し、否ならば疏駁そはくして上聞に達する。」

原文三年,始用儒士為司理判官,令諸州訊囚,不須眾官共視,申長吏得判乃訊囚。刑部張佖言:「官吏枉斷死罪者,請稍峻條章,以責其明慎。」始定制:應斷獄失入死刑者,不得以官減贖,檢法官、判官皆削一任,而檢法仍贖銅十斤,長吏則停任。尋置刑部詳覆官六員,專閱天下所上案牘,勿復遣鞫獄吏。置御史臺推勘官二十人,皆以京朝官為之。凡諸州有大獄,則乘傳就鞫。陛辭日,帝必臨遣諭之曰:「無滋蔓,無留滯。」咸賜以裝錢。還,必召問所推事狀,著為定令。自是,大理寺杖罪以下,須刑部詳覆。又所駁天下案牘未具者,亦令詳覆乃奏。判刑部李昌齡言:「舊制,大理定刑送部,詳覆官入法狀,主判官下斷語,乃具奏。至開寶六年,闕法直官,致兩司共斷定覆詞。今宜令大理所斷案牘,寺官印署送詳覆。得當,則送寺共奏,否即疏駁以聞。」

淳化じゅんか初年、初めて諸路に提点刑獄司を置き、管内の州府は十日ごとに囚帳を報告し、疑獄で未決のものがあれば、即ち駅伝を馳せて往き視察する。州県が稽留して決せず、按讞あんげんが実をえざれば、長吏を劾奏し、佐史・小吏は便宜に按劾して事に従うことを許す。帝はまた、大理寺・刑部の吏が文を舞い巧みに誹謗することを慮り、禁中に審刑院を置き、枢密直学士李昌齢をもって院事を知らしめ、兼ねて詳議官六員を置いた。凡そ獄を上奏するには、先ず審刑院に達し、印を押し終えてから、大理寺・刑部に付して断覆だんぷくして上聞に達する。乃ち審刑院に下して詳議申覆し、裁決し終えてから、中書省に付す。妥当なれば、即ちこれを下す。その允ゆるさざるものは、宰相が覆奏して上聞に達し、始めて論決を命ずる。蓋し重慎の至りである。

原文淳化初,始置諸路提點刑獄司,凡管內州府十日一報囚帳,有疑獄未決,即馳傳往視之。州縣稽留不決,按讞不實,長吏則劾奏,佐史、小吏許便宜按劾從事。帝又慮大理、刑部吏舞文巧詆,置審刑院於禁中,以樞密直學士李昌齡知院事,兼置詳議官六員。凡獄上奏,先達審刑院,印訖,付大理寺、刑部斷覆以聞。乃下審刑院詳議申覆,裁決訖,以付中書省。當,即下之;其未允者,宰相覆以聞,始命論決。蓋重慎之至也。

凡そ大理寺が天下の案牘を決するは、大事は二十五日を限り、中事は二十日、小事は十日とする。審刑院が詳覆するは、大事は十五日、中事は十日、小事は五日とする。三年(淳化三年)、詔して御史台に徒罪以上の罪を審理せしめ、獄が具われば、尚書丞郎・両省の給舎以上の者一人に親しく往き慮問りょもんさせる。まもなくまた詔した:「獄の大小を問わず、中丞以下、皆臨んで審理し問い、専ら所司に責め負わせてはならない。」端拱たんきょう以来、諸州の司理参軍は、皆帝自ら選択し、民が闕けつに詣でて称訴する者があれば、また台使を遣わし駅伝に乗って按問審理させ、数年之間に刑罰は清く省すみ了った。既にして諸路の提点刑獄司が未だ嘗て平反する所なく、詔して悉くこれを罷め、その事を転運司に帰属させた。

原文凡大理寺決天下案牘,大事限二十五日,中事二十日,小事十日。審刑院詳覆,大事十五日,中事十日,小事五日。三年,詔御史臺鞫徒以上罪,獄具,令尚書丞郎、兩省給舍以上一人親往慮問。尋又詔:「獄無大小,自中丞以下,皆臨鞫問,不得專責所司。」自端拱以來,諸州司理參軍,皆帝自選擇,民有詣闕稱者,亦遣臺使乘傳按鞫,數年之間,刑罰清省矣。既而諸路提點刑獄司未嘗有所平反,詔悉罷之,歸其事轉運司。

至道二年、帝は諸州の断じた大辟たいびゃくで、情状に疑わしいものがあるが、有司に駁されることを懼れ、その獄を上申しないことを聞いた。乃ち詔して、死罪の事に疑わしいものがある場合は、獄を具えて転運司に申し、部内の格律に詳練なる者を選んでこれを決せしめ、奏すべきものは乃ち奏上させる。

原文至道二年,帝聞諸州所斷大辟,情可疑者,懼為有司所駁,不敢上其獄。迺詔死事有可疑者,具獄申轉運司,擇部內詳練格律者令決之,須奏者乃奏。

真宗は性寛慈にして、特に刑辟けいへきを慎んだ。嘗て宰相に謂いて言う:「執法の吏は、軽々しく授けるべからず。職に称わざる者あれば、当に挙主を責め、その濫りを懲らしむべし。」審刑院が詳議官を挙げるには、就きて刑部で断案三十二道を試し、引用詳明なる者を取る。審刑院が毎回案を奏するには、先ず事状を具えさせ、親しくこれを覧み、翌日、乃ち進止を候い、軽重を裁処し、必ずその罪に当てる。咸平四年、黄州守王禹偁おううしょうの請いに従い、諸路に病囚院を置き、徒・流以上の疾ある者をここに処し、余りは外で保証を責める。景德元年、詔す:「諸道州軍が獄を断ずるに、内に宣勅で刑名を定めず、ただ当に極断を行うべしと言うのみのものは、所在即ち大辟を置くは、頗る平允に乖そむく。今より凡そ処断・重断・極断・決配・朝典の類を言うものは、未だ論決せず、獄を具えて上聞に達すべし。」四年、再び諸路に提点刑獄官を置く。先に、帝は筆記六事を出し、その一に曰く:「民隠を勤恤し、庶官を遴柬りんかんするは、朕日に念わざる日なし。慮う所は四方の刑獄官吏、未だ人を得尽くさず、一夫冤を受くれば、即ち災沴さいれいを召す。今軍民事務は、転運使有りと雖も、且つ地遠くして由りて周知する無し。先帝嘗て朝臣を選び諸路の提点刑獄と為す、今復た置く可く、仍なお使臣を以てこれに副え、中書・枢密院に命じて官を択ばしむ。」また曰く:「河北・陝西は、地辺要を控え、特に必ず人を得、性度平和にして執守有る者を須もちう。」親しく太常博士陳綱・李及を選び、自余は名を擬して上聞に達し、皆長春殿に引対してこれを遣わす。内より御前の印紙を出して歴と為し、その績效を書き、代還すれば、功を議し賞を行なう。もし刑獄枉濫にして挙げることができず、官吏曠怠にして弾奏できず、畏避に務むる者は、深罪に置く。知審刑院朱巽が上言した:「官吏が公事に因り財を受け、証左明白なるは、枉法を以て論ずるを望み、その罪死に至る者は、役流を加う。」これに従う。御史台が嘗て人を殺した賊を審理し、獄が具わると、知雑王随が臠咼れんかいすることを請うた。帝曰く:「五刑自ら常制有り、何ぞ惨毒を為さんや。」入内供奉官楊守珍が陝西に使いし、盗賊の督捕に因り、「強盗を擒獲して死に至る者は、臣に付して凌遲りょうちにし、以て凶悪を戒めんことを望む」と請うた。詔す:「賊を捕えて所属に送り、法に依り論決し、凌遲を用いるなかれ。」凌遲とは、先ずその肢体を断ち、乃ちその吭のどを抉えぐる、当時の極法である。蓋し真宗は仁恕にして、惨酷の刑は、祖宗も未だ嘗て用いざるなり。

原文真宗性寬慈,尤慎刑辟。嘗謂宰相曰:「執法之吏,不可輕授。有不稱職者,當責舉主,以懲其濫。」審刑院舉詳議官,就刑部試斷案三十二道,取引用詳明者。審刑院每奏案,令先具事狀,親覽之,翌日,乃候進止,裁處輕重,必當其罪。咸平四年,從黃州守王禹偁之請,諸路置病囚院,徒、流以上有疾者處之,餘責保于外。景德元年,詔:「諸道州軍斷獄,內有宣敕不定刑名,止言當行極斷者,所在即寘大辟,頗乖平允。自今凡言處斷、重斷、極斷、決配、朝典之類,未得論決,具獄以聞。」四年,復置諸路提點刑獄官。先是,帝出筆記六事,其一曰:「勤恤民隱,遴柬庶官,朕無日不念也。所慮四方刑獄官吏,未盡得人,一夫受,即召災沴。今軍民事務,雖有轉運使,且地遠無由周知。先帝嘗選朝臣為諸路提點刑獄,今可復置,仍以使臣副之,命中書、樞密院擇官。」又曰:「河北、陝西,地控邊要,尤必得人,須性度平和有執守者。」親選太常博士陳綱、李及,自餘擬名以聞,咸引對於長春殿遣之。內出御前印紙為曆,書其績效,代還,議功行賞。如刑獄枉濫不能擿舉,官吏曠不能彈奏,務從畏避者,寘以深罪。知審刑院朱巽上言:「官吏因公事受財,證左明白,望論以枉法,其罪至死者,加役流。」從之。御史臺嘗鞫殺人賊,獄具,知雜王隨請臠咼之,帝曰:「五刑自有常制,何為慘毒也。」入內供奉官楊守珍使陝西,督捕盜賊,因請「擒獲強盜至死者,望以付臣凌遲,用戒凶惡」。詔:「捕賊送所屬,依法論決,毋用凌遲。」凌遲者,先斷其支體,乃抉其吭,當時之極法也。蓋真宗仁恕,而慘酷之刑 ,祖宗亦未嘗用。

初め、殿中侍御史趙湘が嘗て建言した:「聖王は法を行なうに、必ず天道に順う。漢制では大辟の科は、冬月を尽くして乃ち断ず。これは古の善政にして、当に行なうべきである。且つ十二月は承天節と為し、万方祝頌の時なるに、大辟の決断は故の如し。況んや十一月は一陽始めて出で、その気尚微なり、獄を議し刑を緩むるは、以て陽を助け陰を抑うる所以なり。十一月・十二月の内に、天下の大辟で未だ結正せざる者は、更に詳覆を令し、已に結正した者は、未だ決断を令せざるを望む。所在厚く矜恤を加え、獄房を掃除し、飲食・薪炭の属を供給し、防護して他故を致さざらしむ。情憫れむべき者は、奏して敕裁を聴く。法に合する者は、冬月を尽くして乃ち断ず。京師の大辟人は、春孟の月に当たり、また慶を行ない恵を施す時なり。伏して万幾の暇に、臨軒躬みずから覧み、情憫れむべき者は、特たる末減に従わんことを望む、また以て聖沢を無窮に布く所以なり。況んや愚民の罪に抵する未だ断ぜざるは、両月も亦た淹延に非ず。若し用刑陰陽に順えば、則ち四時の気和し、気和すれば則ち百穀豊かに実り、水旱作らず。」帝奏を覧みて曰く:「これは誠に嘉事なり!然れども古今異制、沿革同じからず、これを行なえば慮うに淹滞有り、或いは因縁として姦を為さん。」天禧四年、乃ち詔す:「天下十悪・劫殺・謀殺・故殺・闘殺・放火・強劫・正枉法贓・偽造符印・厭魅咒詛・妖書妖言を造る・妖術を伝授する・毒薬を合造する・禁軍諸軍逃亡して盗と為り罪死に至る者を犯すは、毎回十二月に遇えば、権かりに区断を住め、天慶節を過ぎれば即ちこれを決す。余り罪死に至るを犯す者は、十二月及び春夏未だ区遣を得ず、禁錮して奏裁す。」

原文初,殿中侍御史趙湘嘗建言:「聖王行法,必順天道。漢制大辟之科,盡冬月乃斷。此古之善政,當舉行之。且十二月為承天節,萬方祝頌之時,而大辟決斷如故。况十一月一陽始出,其氣尚微,議獄緩刑 ,所以助陽抑陰也。望以十一月、十二月內,天下大辟未結正者,更令詳覆;已結正者,未令決斷。所在厚加矜恤,掃除獄房,供給飲食、薪炭之屬,防護無致他故。情可憫者,奏聽敕裁。合依法者,盡冬月乃斷。在京大辟人,既當春孟之月,亦行慶施惠之時。伏望萬幾之暇,臨軒躬覽,情可憫者,特從末減,亦所以布聖澤於無窮。况愚民之抵罪未斷,兩月亦非淹延。若用刑順於陰陽,則四時之氣和,氣和則百穀豐實,水旱不作矣。」帝覽奏曰:「此誠嘉事!然古今異制,沿革不同,行之慮有淹滯,或因緣為姦矣。」天禧四年乃詔:「天下犯十惡、劫殺、謀殺、故殺、鬥殺、放火、強劫、正枉法贓、偽造符印、厭魅咒詛、造妖書妖言、傳授妖術、合造毒藥、禁軍諸軍逃亡為盜罪至死者,每遇十二月,權住區斷,過天慶節即決之。餘犯至死者,十二月及春夏未得區遣,禁錮奏裁。」

仁宗の御代には、四方に事なく、戸口は繁栄し、自らを抑制して畏れ、刑罰の運用には特に慎重であった。即位の初めに、内外の官司に対し、獄を聴き罪を決するには、必ず自ら実情を閲覧し、冤罪や濫刑・滞獄をしてはならないと詔した。刑部がかつて詳覆官を推薦した際、帝はその姓名を覚えており、「これはかつて人を誤って罪に陥れて遷官できなかった者である。どうして法吏の任に就かせられようか」と言い、推薦した者たちは皆罰金を科された。獄事に疑いのあるものは讞議(上奏して審議を請う)する慣例は、古くからあった。漢代には「讞議した後に不当であっても、讞議自体は過失としない」と詔しており、これは広く聴察し、誤りや濫刑を防ぐためであった。当時、奏讞の法は廃れていた。初め、真宗が囚人名簿を閲覧し、天下で死罪を断じた者が八百人いるのを見て、憮然として表情を動かし、宰執に語って言った、「雑犯死罪の条項は極めて多い。官吏がもし心を尽くさなければ、冤罪や濫刑がないと言えようか。故事によれば、死罪の獄案が整うと、三度覆奏した。これは非常に重んじて慎重にしたものである。いつの代に廃止されたのか」。そこで検討して改革するよう命じたが、有司は結局滞獄を懸念し、実行されなかった。ここに至り、刑部侍郎燕肅が上奏して言った、「唐代の大辟の罪は、尚書・九卿に讞議させた。死刑を決するには、京師では五度覆奏し、諸州では三度覆奏した。貞観四年に死罪を断じたのは二十九人、開元二十五年にはわずか五十八人であった。今、天下の生歯(人口)は唐代より増えていないのに、天聖三年に大辟を断じたのは二千四百三十六人で、唐代に比べてほぼ百倍に及んでいる。京師の大辟は一覆奏ではあるが、州郡で獄事に疑いがあれば上請し、法寺(大理寺・刑部)が多く挙駁するため、大抵は奏すべきでない罪に問われ、往々にして事状を飾り立て、情状を曲げて法に合わせ、朝廷の欽恤(慎み慈しむ)の意を失っている。唐代の故事に準じて、天下の死罪は皆覆奏を得られるように願う。議者は必ず、回答を待つと滞延すると言うであろう。漢律では皆季秋に囚人を論じ、唐代は立春から秋分まで死刑を決せず、漢・唐の治世を害するほどの滞留は聞かない」。その上奏文を中書に下すと、王曾が言った、「天下が皆一覆奏とすれば、必ず死罪となる者たちが、徒らに獄舎に満ちて長く決断を得られないであろう。諸々の獄事で疑いがあり、情状に憫れむべきものがある場合は、上請することを許すべきである」。天聖四年、遂に詔を下して言った、「朕は生歯の繁栄を思い、法に抵触する者が多いことを考える。法には高低があり、情状には軽重があるのに、有司が微細な条文を巧みに避け、一切を重辟に致している。どうして朕の好生(生命を慈しむ)の志にかなうと言えようか。天下の死罪で、情理に憫れむべきもの及び刑名に疑慮のあるものは、案を具えて奏聞せよ。有司は挙駁してはならない」。その後は、法上奏すべきでなく、吏が坐罪すべき場合でも、審刑院が貼奏(付箋を付けて上奏)し、大抵は恩赦によって釈放するのを例とし、「貼放」と称した。吏は初めて牽制を受けることがなくなり、讞議を請う者は多く減死を得るようになった。

原文在仁宗時,四方無事,戶口蕃息,而克自抑畏,其於用刑尤慎。即位之初,詔內外官司,聽獄決罪,須躬自閱實,毋枉濫淹滯。刑部嘗薦詳覆官,帝記其姓名,曰:「是嘗失入人罪不得遷官者,烏可任法吏?」舉者皆罰金。獄疑者讞,所從來久矣。漢嘗詔「讞而後不當讞者不為失」,所以廣聽察、防繆濫也。時奏讞之法廢。初,真宗嘗覽囚簿,見天下斷死罪八百人,憮然動容,語宰執曰:「雜犯死罪條目至多,官吏儻不盡心,豈無枉濫?故事,死罪獄具,三覆奏,蓋甚重慎,何代罷之?」遂命檢討革,而有司終慮淹繫,不果行。至是,刑部侍郎燕肅奏曰:「唐大辟罪,令尚書、九卿讞之。凡決死刑,京師五覆奏,諸州三覆奏。貞觀四年,斷死罪二十九,開元二十五年,財五十八。今天下生齒未加於唐,而天聖三年,斷大辟二千四百三十六,視唐幾至百倍。京師大辟雖一覆奏,而州郡獄疑上請,法寺多所舉駁,率得不應奏之罪,往往增飾事狀,移情就法,失朝廷欽恤之意。望準唐故事,天下死罪皆得覆奏。議者必曰待報淹延。漢律皆以季秋論囚,唐自立春至秋分不決死刑,未聞淹留以害漢、唐之治也。」下其章中書,王曾謂:「天下皆一覆奏,則必死之人,徒充滿狴犴而久不得決。諸獄疑若情可矜者,聽上請。」天聖四年,遂下詔曰:「朕念生齒之蕃,抵冒者眾。法有高下,情有輕重,而有司巧避微文,一切致之重辟,豈稱朕好生之志哉?其令天下死罪,情理可矜及刑名疑慮者,具案以聞。有司毋得舉駁。」其後,雖法不應奏、吏當坐罪者,審刑院貼奏,率以恩釋為例,名曰「貼放」。吏始無所牽制,請讞者多得減死矣。

先に、天下は旬ごとに獄状を奏上し、杖罪・笞罪であっても皆申覆していたが、徒罪・流罪で獄に繋がれていないものは、奏聞しなかった。六年、集賢校理聶冠卿が杖・笞の覆奏を廃止し、徒罪以上は獄に繋がれていなくても、皆付奏するよう請うた。詔してその説に従った。折杖の制を定めて以来、杖の長短広狭には皆尺度があったが、軽重に基準がなく、官吏が任情にできた。ここに至り、有司がこれを言上したため、詔して十五両を超えてはならないとした。

原文先是,天下旬奏獄狀,雖杖、笞皆申覆,而徒、流罪非繫獄,乃不以聞。六年,集賢校理聶冠卿請罷覆杖、笞,而徒以上雖不繫獄,皆附奏。詔從其說。自定折杖之制,杖之長短廣狹,皆有尺度,而輕重無準,官吏得以任情。至是,有司以為言,詔毋過十五兩。

初め、真宗の時、京師の刑獄に滞りが多いため、糾察司を置き、御史臺獄もまたこれに報告させた。八年、御史が非体であると論じたため、遂に詔して報告させないこととした。祖宗の時代、桑柘を盗んで剥ぐ禁令を重んじ、枯れたものは尺で計算し、四十二尺を一功と積み、三功以上は死罪に当たった。殿中丞于大成が減死をもって論ずることを得るよう請うたが、法官に議わせると、旧の如くすべきと言った。帝はこれを寛大にしたい意向で、詔して死罪の場合は上請させた。刑部は四つの按(担当部署)に分かれ、大辟はその一つを占め、月に覆奏する大辟は二百件を下らず、しかも詳覆官はわずか一人であった。明道二年、四按に分かれて大辟を覆奏させ、死罪を駁正できる者が五人以上いれば、年満(任期満了)で改官させることとした。法直官と詳覆官が分かれて天下の旬奏を詳しく審査し、獄に重辟があれば、獄官は宴遊や迎送に預かってはならない。凡そ上具する獄案は、大理寺が詳断し、大事は三十日を期とし、小事は順次十日を減ずる。審刑院が詳議するのはまたそれぞれ半減する。期満を待たずに断ずるものを「急按」と称した。凡そ集断(合議して判決)する急按では、法官と議者は共に姓名を記し、刑を議するのに過失があれば、皆これに坐した。景祐二年に至り、判大理寺司徒しと昌運が言うには、「断獄には期日があるが、炎熱の時、囚人が長く繋がれる。四月から六月までは期日を半減し、両川・広南・福建・湖南では急按のように上奏することを請う」。その後もなお断獄の滞りを憂い、また詔して月ごとに断獄数を上奏させ、大・中・小事の期日を列記して、互いに参考にさせた。この年、強盗法を改めた。杖を持たず、財物を得ず、徒二年。財物を得て一万錢に及び、人を傷つけた者は、死罪。杖を持って財物を得ない者は、流三千里。財物を得て五千錢の者は、死罪。人を傷つけた者は、殊死(斬刑)。杖を持たずに財物を得て六千錢、あるいは杖を持ち罪が死に至らない者は、なお刺字して千里外の牢城に隷属させる。強盗が人を殺害したことを告発できる者には等級に応じて賞を与え、十人に及べば錢十万を与える。既にして有司が言うには、「窃盗は威力を用いず、財物を得て五千錢であれば、即ち兵士に刺配するのは、かえって強盗より重い。減ずることを請う」。遂に詔して十千に至って初めて兵士に刺配することとし、京城で杖を持って窃盗し、財物を得て四千錢の者も、兵士に刺配することとした。ここより盗法は京城のみを加重し、その他は旧より益々寛大になった。

原文初,真宗時,以京師刑獄多滯,置糾察司,而御史臺獄亦移報之。八年,御史論以為非體,遂詔勿報。祖宗時,重盜剝桑柘之禁,枯者以尺計,積四十二尺為一功,三功以上抵死。殿中丞于大成請得以減死論,下法官議,謂當如舊。帝意欲寬之,詔死者上請。刑部分四按,大辟居其一,月覆大辟不下二百數,而詳覆官纔一人。明道二年,令四按分覆大辟,有能駁正死罪五人以上,歲滿改官。法直官與詳覆官分詳天下旬奏,獄有重辟,獄官毋預燕遊迎送。凡上具獄,大理寺詳斷,大事期三十日,小事第減十日。審刑院詳議又各減半。其不待期滿而斷者,謂之「急按」。凡集斷急按,法官與議者並書姓名,議刑有失,則皆坐之。至景祐二年,判大理寺司徒昌運言:「斷獄有期日,而炎暍之時,繫囚淹久,請自四月至六月減期日之半,兩川、廣南、福建、湖南如急按奏。」其後猶以斷獄淹滯,又詔月上斷獄數,列大、中,小事期日,以相參考。是歲,改強盜法。不持杖,不得財,徒二年;得財為錢萬及傷人者,死。持杖而不得財,流三千里;得財為錢五千者,死;傷人者,殊死。不持杖得財為錢六千,若持杖罪不至死者,仍刺隸千里外牢城。能告?盜劫殺人者第賞之,及十人者予錢十萬。既而有司言:「竊盜不用威力,得財為錢五千,即刺為兵,反重於強盜,請減之。」遂詔至十千始刺為兵,而京城持杖竊盜,得財為錢四千,亦刺為兵。自是盜法惟京城加重,餘視舊益寬矣。

慶曆五年、詔して殊死の罪人で、祖父母・父母が八十歳あるいは篤疾で期親(近親)のいない者は、その犯した罪を列記して奏聞せよとした。

原文慶曆五年,詔罪殊死者,若祖父母、父母年八十及篤疾無期親者,列所犯以聞。

太平の世が長く続き、天下の生歯は益々繁栄し、法を犯す者が多く、年に断ずる大辟は甚だ多く、有司はその数を上奏したことがなかった。嘉祐五年、判刑部李綖が言うには、「一年のうち、死刑はおおよそ二千余りに及ぶ。風俗の薄さは、骨肉が相残すことに甚だしいものはなく、衣食の窮乏は盗賊に急ぐものはない。今、法を犯す者が多いのは、果たして刑罰が姦を止めるに足らず、教化が彼らを善に導くことができなかったためであろうか。刑部に命じて天下の断じた大辟を分類し、年に朝廷に上奏させ、観察と省察の助けとされることを願う」。これに従った。

原文承平日久,天下生齒益蕃,犯法者多,歲斷大辟甚眾,而有司未嘗上其數。嘉祐五年,判刑部李綖言:「一歲之中,死刑無慮二千餘。夫風俗之薄,無甚於骨肉相殘;衣食之窮莫急於盜賊。今犯法者眾,豈刑罰不足以止姦,而教化未能導其為善歟?願詔刑部類天下所斷大辟,歲上朝廷,以助觀省。」從之。

凡そ在京の班直諸軍が糧食を請うると、斗斛が不足し、出戍している家は特に甚だしかった。倉吏は官に在って禄がないことを理由に、恣意に侵漁していた。神宗は将兵を愛養する意に適わないと考え、ここに詔して三司に対し、初めて諸倉の丐取(強請・収賄)に関する法を立てさせた。中書は主典役人の歳禄を一万八千九百余緡まで増額するよう請うた。凡そ丐取が百錢に満たない者は、徒一年、百錢ごとに一等を加える。千錢で流二千里、千錢ごとに一等を加え、罪は流三千里で止める。その行貨(賄賂を贈る者)及び過致(仲介する者)は、首犯の罪より二等を減ずる。徒罪の者は皆五百里に配流し、その賞は百千。流罪の者は皆千里に配流し、賞は二百千。満十千になれば、首謀者は沙門島に配流し、賞は三百千。自首すればその罪を除く。凡そ更に約束十条を定めて施行した。その後、内では政府、外では監司が、多くこの法を倣った。内外で歳に増やす吏禄は百余万緡に及び、皆坊場、河渡、市利、免行錢・役剩息錢から取った。久しくして、議臣が倉法を少し緩めようとし、編敕所が告発・捕獲による倉法の給賞条を修立し、一百千から三百千まで等級を分け、按問(取り調べ)した者は半額を与えるとした。中書はその定めに従うよう請うたが、詔して旧の如く全賞を与え、按問した場合でも全額を与えることとした。呂嘉問がかつて請うた、行貨者は宜しく不応為(不相当な行為)の罪に坐するのみとすべきだと、刑部が初めてその罪を減じた。哲宗の初めに至り、かつて重祿法を廃止したが、紹聖年間に復旧した。

原文凡在京班直諸軍請糧,斗斛不足,出戍之家尤甚。倉吏自以在官無祿,恣為侵漁。神宗謂非所以愛養將士之意,於是詔三司,始立諸倉丐取法。而中書請主典役人,歲增祿至一萬八千九百餘緡。凡丐取不滿百錢,徒一年,每百錢則加一等;千錢流二千里,每千錢則加一等,罪止流三千里。其行貨及過致者,減首罪二等。徒者皆配五百里,其賞百千;流者皆配千里,賞二百千;滿十千,為首者配沙門島,賞三百千,自首則除其罪。凡更定約束十條行之。其後內則政府,外則監司,多倣此法。內外歲增吏祿至百餘萬緡,皆取諸坊場,河渡,市利,免行、役剩息錢。久之,議臣欲稍緩倉法,編敕所修立告捕獲倉法給賞條,自一百千分等至三百千,而按問者減半給之。中書請依所定,詔仍舊給全賞,雖按問,亦全給。呂嘉問嘗請,行貨者宜止以不應為坐之,刑部始減其罪。及哲宗初,嘗罷重祿法,而紹聖復仍舊。

熙寧四年、盗賊重法を立てる。凡そ盗罪死に当たる者は、その家財を籍没して告発者に賞し、妻子は千里に編置す。赦に遇い若しくは災傷により減等する者は、遠悪の地に配す。罪徒・流に当たる者は、嶺表に配す。流罪降に会する者は、三千里に配し、その家財の半を籍没して賞とし、妻子は次第に降等して差有り。応に編配すべき者は、赦に会うと雖も、移さず釈かず。凡そ囊橐の家、劫盗死罪、情重き者は斬に処し、余は皆遠悪の地に配し、その家財の半を籍没して賞とす。盗罪徒・流に当たる者は、五百里に配し、その家財の三の一を籍没して賞とす。窃盗三犯は、杖を加え五百里或いは州に配す。重法の地に非ざると雖も、重法の人を囊橐する者は、重法を以て論ず。その知県・捕盗官は皆挙者を用い、或いは武臣を尉と為す。盗発十人以上、限内に半を捕え獲ざれば、罪を劾して旨を取る。若し復た官吏を殺し、及び累ねて三人を殺し、舎屋百間を焚き、或いは州県の内に?行し、江海船櫂の中を劫掠するは、重地に非ざるも、亦た重を以て論ず。凡そ重法地、嘉祐中、開封府諸県に始まり、後稍々諸州に及ぶ。開封府東明・考城・長垣県、京西滑州、淮南宿州、河北澶州、京東応天府・濮・斉・徐・済・単・兗・鄆・沂州・淮陽軍を以て、亦た重法を立て、令と為して著す。元豊時に至り、河北・京東・淮南・福建等路皆重法を用い、郡県漸く益々広し。元豊の敕、重法地分、劫盗五人以上、凶悪なる者のみ、方に重法を以て論ず。紹聖後、犯有れば即ち坐し、人数を計わず。復た妻孥編管法を立てる。元符三年に至り、刑部の請有るに因り、詔して旧敕に依り改む。是に先立ち、曾布建言す、「盗情に重軽有り、贓に多少有り。今贓を以て罪を論ずれば、則ち貧家を劫うは情重きと雖も、贓少きを以て減免し、富室を劫うは情軽きと雖も、贓重きを以て死を論ず。是れ盗の生死、主の貧富に係るなり。傷人に至りては、情状亦た殊なり。手足を以て人を毆い、偶々肌体を傷つくるは、夫れ兵刃湯火と、固より間有り、而して均しく之を傷と謂う。朝廷は奏裁を許すと雖も、州郡或いは奏し或いは否み、死生の分、特だ幸と不幸のみ。旧法を一変するに若かず、凡そ贓を以て罪を定め及び傷人の情状切害に至らざる者は、皆罪止の法に従う。其れ兵刃湯火を用い、情状酷毒にして、乃ち良家を汚辱し、或いは州県鎮砦に入り行劫し、若しくは官吏巡防人等を駆虜するは、傷くと傷かざるとを以てせず、凡そ情貸すべからざる者は、皆死刑に処し、則ち軽重其の当を失わざるべし」と。及び布相と為り、始めて其の議に従い、詔して有司に法を改めしむ。未だ幾ばくもあらず、侍御史陳次升言す、「祖宗の仁政、天下に加うる者甚だ広し。刑法の重き、改めて軽きに従う者至って多し。惟だ強盗の法、特だ重くする者は、蓋し姦宄を禁じて良民を恵むに以てなり。近く朝廷法を改め、詔して強盗贓を計り応に絞すべき者を、並びに一倍を増し、贓満ちて人を傷つけず、及び人を傷つくると雖も情軽き者は奏裁すと。法行わるる後、民其の弊を受く。被害の家、盗必ず死すべきの理無きを以て、敢えて官に告げず、而して隣里亦た之が為に擒捕せず、怨仇報復を恐る。故に賊益々逞しく、重法地分尤も甚だし。大寇を養い成して、以て国家の患を貽すを恐る、請う旧法を行い復せん」と。布罷相し、翰林学士徐勣復た其の不便を言う、乃ち詔して旧法の如くし、前詔行うる勿れと。

原文熙寧四年,立盜賊重法。凡盜罪當死者,籍其家貲以賞告人,妻子編置千里;遇赦若災傷減等者,配遠惡地。罪當徙、流者,配嶺表;流罪會降者,配三千里,籍其家貲之半為賞,妻子遞降等有差。應編配者,雖會赦,不移不釋。凡囊橐之家,劫盜死罪,情重者斬,餘皆配遠惡地,籍其家貲之半為賞。盜罪當徒、流者,配五百里,籍其家貲三之一為賞。竊盜三犯,杖配五百里或州。雖非重法之地,而囊橐重法之人,以重法論。其知縣、捕盜官皆用舉者,或武臣為尉。盜發十人以上,限內捕半不獲,劾罪取旨。若復殺官吏,及累殺三人,焚舍屋百間,或?行州縣之內,劫掠江海船之中,非重地,亦以重論。凡重法地,嘉祐中,始於開封府諸縣,後稍及諸州。以開封府東明、考城、長垣縣,京西滑州,淮南宿州,河北澶州,京東應天府、濮、齊、徐、濟、單、兗、鄆、沂州、淮陽軍,亦立重法,著為令。至元豐時,河北、京東、淮南、福建等路皆用重法,郡縣寖益廣矣。元豐敕,重法地分,劫盜五人以上,凶惡者,方論以重法。紹聖後,有犯即坐,不計人數。復立妻孥編管法。至元符三年,因刑部有請,詔改依舊敕。先是,曾布建言:「盜情有重輕,贓有多少。今以贓論罪,則劫貧家情雖重,而以贓少減免,劫富室情雖輕,而以贓重論死。是盜之生死,係於主之貧富也。至於傷人,情狀亦殊。以手足毆人,偶傷肌體,與夫兵刃湯火,固有間矣,而均謂之傷。朝廷雖許奏裁,而州郡或奏或否,死生之分,特幸與不幸爾。不若一變舊法,凡以贓定罪及傷人情狀不至切害者,皆從罪止之法。其用兵刃湯火,情狀酷毒,乃汙辱良家,或入州縣鎮砦行劫,若驅虜官吏巡防人等,不以傷與不傷,凡情不可貸者,皆處以死刑 ,則輕重不失其當矣。」及布為相,始從其議,詔有司改法。未幾,侍御史陳次升言:「祖宗仁政,加於天下者甚廣。刑法之重,改而從輕者至多。惟是強盜之法,特加重者,蓋以禁姦宄而惠良民也。近朝廷改法,詔以強盜計贓應絞者,並增一倍;贓滿不傷人,及雖傷人而情輕者奏裁。法行之後,民受其弊。被害之家,以盜無必死之理,不敢告官,而鄰里亦不為之擒捕,恐怨仇報復。故賊益逞,重法地分尤甚。恐養成大寇,以貽國家之患,請復行舊法。」布罷相,翰林學士徐勣復言其不便,乃詔如舊法,前詔勿行。

是に先立ち、諸路経略・鈐轄、便宜に百姓を斬配するを得ず。趙抃嘗て成都を知り、乃ち言う当に独り成都四路を許すべしと。王安石執りて不可とし、而して中書・枢密院法を立て同く之を許す。其の後、謝景初奏す、「成都妄りに便宜を以て誅釈し、多く当たらず」と。是に於いて中書復た敕文を刪定し、惟だ軍士犯罪及び辺防機速に限り、特断を許す。及び抃成都に移り、又立法を請い、御史劉孝孫亦た之が為に請う旧に依り便宜に事に従わんと、安石其の奏を寝す。

原文先是,諸路經略、鈐轄,不得便宜斬配百姓。趙抃嘗知成都,乃言當獨許成都四路。王安石執不可,而中書、樞密院同立法許之。其後,謝景初奏:「成都妄以便宜誅釋,多不當。」於是中書復刪定敕文,惟軍士犯罪及邊防機速,許特斷。及抃移成都,又請立法,御史劉孝孫亦為之請依舊便宜從事,安石寢其奏。

武臣贓を犯し、赦を経て叙復したる後、更に年考を立てて升遷す。帝曰く、「若し此くの如くせば、何を以て貪吏を戒めん」と。故に命じて法を改めしむ。熙寧六年、枢密都承旨曾孝寬等議を定めて之を上る、大概文臣叙法に倣いて少しく増損するのみ。七年、詔す、「品官犯罪するは、按察の官並びに奏劾して旨を聴く。擅りに捕繫し、其の職奉を罷むるを得ず」と。

原文武臣犯贓,經赦敘復後,更立年考升遷。帝曰:「若此,何以戒貪吏?」故命改法。熙寧六年,樞密都承旨曾孝寬等定議上之,大概倣文臣敘法而少增損爾。七年,詔:「品官犯罪,按察之官並奏劾聽旨。毋得擅捕繫、罷其職奉。」

元豊二年、成都府・利路鈐轄言う、「往時川峡絹匹を銭二千六百と為し、此を以て贓を估す、両鉄錢銅錢の一に比するを得たり。近く絹匹千三百に過ぎず、贓を估す二匹にして乃ち一匹の罪を得、多く重法に至らず」と。法寺に令して一銭半を以て銅錢の一に当てしむ。

原文元豐二年,成都府、利路鈐轄言:「往時川峽絹匹為錢二千六百,以此估贓,兩鐵錢得比銅錢之一。近絹匹不過千三百,估贓二匹乃得一匹之罪,多不至重法。」令法寺定以一錢半當銅錢之一。

元祐二年、刑部・大理寺定制を定む、「凡そ断讞獄を奏するは、毎に二十緡以上を大事と為し、十緡以上を中事と為し、十緡に満たざるを小事と為す。大事は十二日を以て、中事九日、小事四日を限と為す。若し在京・八路は大事十日、中事五日、小事三日。台察及び刑部挙劾約法状並びに十日、三省・枢密院再送は各半減す。故有れば量りて展べ、五日を過ぐるを得ず。凡そ公案の日限、大事は三十五日を以て、中事二十五日、小事十日を限と為す。在京・八路は大事三十日を以て、中事其の半、小事三の一。台察及び刑部並びに三十日。毎十日、断に七日を用い、議に三日を用う」と。

原文元祐二年, 刑部、大理寺定制:「凡斷讞奏獄,每二十緡以上為大事,十緡以上為中事,不滿十緡為小事。大事以十二日,中事九日,小事四日為限。若在京、八路大事十日,中事五日,小事三日。臺察及刑部舉劾約法狀並十日,三省、樞密院再送各減半。有故量展,不得過五日。凡公案日限,大事以三十五日,中事二十五日,小事十日為限。在京、八路大事以三十日,中事半之,小事三之一。臺察及 刑部並三十日。每十日,斷用七日,議用三日。」

五年、詔す命官犯罪し、事辺防軍政に干るは、文臣は尚書省に申し、武臣は枢密院に申すべしと。中丞蘇轍言う、「旧制、文臣・吏民断罪公案は中書に帰し、武臣・軍士は枢密に帰し、而して断例の軽重、悉く相知らず。元豊官制を更定し、断獄公案並びに大理・刑部を由りて尚書省に申し、然る後中書省に上り旨を取る。是より断獄軽重比例、始めて一に帰し、天下明なりと称す。今復た枢密に分隷せば、必ず罪同じくして断異なり、元豊の本意を失わん、請う並びに三省に帰せしめん。其の事辺防軍政に干る者は、枢密院に令して同く進み旨を取らしめば、則ち事体一に帰し、而して兵政大臣各其の職を得ん」と。六年、乃ち詔す、「文武官犯有り同く按ずるに辺防軍政に干る者は、刑部定断し、仍て三省・枢密院同く旨を取るべし」と。

原文五年,詔命官犯罪,事干邊防軍政,文臣申尚書省,武臣申樞密院。中丞蘇轍言:「舊制,文臣、吏民斷罪公案歸中書,武臣、軍士歸樞密,而斷例輕重,悉不相知。元豐更定官制,斷獄公案並由大理、刑部申尚書省,然後上中書省取旨。自是斷獄輕重比例,始得歸一,天下稱明焉。今復分隸樞密,必有罪同斷異,失元豐本意,請並歸三省。其事干邊防軍政者,令樞密院同進取旨,則事體歸一,而兵政大臣各得其職。」六年,乃詔:「文武官有犯同按干邊防軍政者,刑部定斷,仍三省、樞密院同取旨。」

刑部論ず、「佃客主を犯せば、凡人より一等を加う。主之を犯せば、杖以下は論ぜず、徒以上は凡人より一等を減ず。謀殺盗詐、規求避免する所有りて而して犯す者は、減ぜず。毆に因りて死を致す者は面を刺さず、鄰州に配し、情重き者は奏裁す。凡そ命士官に死し或いは位を去り、其の徒を送りて道に亡うれば、則ち部轄将校・節級と首めて衆を率いる者は徒一年、情軽ければ則ち杖百、自首すると雖も免れず」と。

原文刑部論:「佃客犯主,加凡人一等。主犯之,杖以下勿論,徒以上減凡人一等。謀殺盜詐,有所規求避免而犯者,不減。因毆致死者不刺面,配鄰州,情重者奏裁。凡命士死於官或去位,其送徒道亡,則部轄將校、節級與首率眾者徒一年,情輕則杖百,雖自首不免。」

政和年間、詔して曰く、「品官が罪を犯し、三度問うて承服せざれば、即ち奏請して追捕すべし。若し情理重害にして拒み隠すときは、方に枷訊を許す。近来有司法を廃し、軽重を弁ぜず、枷訊すること常人と異ならず、将に人をして吾が爵禄を軽んずるの心あらしめんとす。条令を申明して、以て欽恤の意に称すべし」と。また詔して曰く、「宗子罪を犯すときは、庭訓して辱しめを示す。比来衣を去り杖を受くるあり、膚を傷つけ体を敗り、朕が懐を惻む有り。其れ大宗正司に令して条制を恪守せしめ、違う者は御筆に違うを以て論ずべし」と。また曰く、「其の情理重害なる者は、別に処分を受く。若し徒・流に至る罪は、方に制勘を許す。余は止だ衆証を以て定めと為し、仍て伏辨を取り、輒に捶考を加うること無きべし。其の庭訓に合する者は、並びに大宗正司に送り、以て朕が九族を敦睦するの意に副わしむべし」と。中書省言う、「律に『官に在りて罪を犯し、官を去れば論ずること勿れ』と。蓋し命官の為に文を立てしなり。其の後相因み、掌典官を去るも、亦た官を去るを以て罪を免れ、犯有れば則ち役を解きて農に帰し、重罪を幸いに免る」と。詔して政和の敕を改め、掌典の役を解く者は官を去るの法に従わしむ。

原文政和間,詔:「品官犯罪,三問不承,即奏請追攝;若情理重害而拒隱,方許枷訊。邇來有司廢法,不原輕重,枷訊與常人無異,將使人有輕吾爵祿之心。可申明條令,以稱欽恤之意。」又詔;「宗子犯罪,庭訓示辱。比有去衣受杖,傷膚敗體,有惻朕懷。其令大宗正司恪守條制,違者以違御筆論。」又曰:「其情理重害,別被處分。若罪至徒、流,方許制勘,餘止以眾證為定,仍取伏辨,無得輒加捶考。其合庭訓者,並送大宗正司,以副朕敦睦九族之意。」中書省言:「律,『在官犯罪,去官勿論』。蓋為命官立文。其後相因,掌典去官,亦用去官免罪,有犯則解役歸農,幸免重罪。」詔改政和敕掌典解役從去官法。

左道は法を乱し、妖言は衆を惑わす、先王の赦さざる所にして、宋に至りては尤も其の禁を重んず。凡そ妖教を伝習し、夜に聚り暁に散ずる類、及び人を殺して祭祀するの類は、皆法に著し、訶察甚だ厳なり。故に姦軌不逞の民、以て愚俗を動揺する無し。間に之を為す者有りと雖も、随いて輒に報敗し、其の事紀するに足らず。

原文左道亂法,妖言惑眾,先王之所不赦,至宋尤重其禁。凡傳習妖教,夜聚曉散,與夫殺人祭祀之類,皆著于法,訶察甚嚴。故姦軌不逞之民,無以動搖愚俗。間有為之,隨輒報敗,其事不足紀也。