宋史

志第一百五十一 兵十二

志第一百五十一 兵十二

馬政

原文馬政

国馬の牧養は、五代を経て次第に廃れ、宋に至って規制が整備された。建隆以後、その官司の規制、厩牧の政務、および収市の利、牧地の数、支配の等級、券馬、省馬、馬社、括買と呼ばれるものがあり、沿革盛衰は、いずれも考証することができる。

原文國馬之牧,歷五代浸廢,至宋而規制備具。自建隆而後,其官司之規,廄牧之政,與夫收市之利,牧地之數,支配之等,曰券馬,曰省馬,曰馬社,曰括買,沿革盛衰,皆可得而考焉。

およそ御馬の等級は三つ(殿祗候に入るもの十五匹、引駕十四匹、従駕二十匹)。給用の等級は十五ある(揀中、不得支使、添價、明信、臣僚、諸班、御龍直、捧日・龍衛、拱聖、驍ぎょう騎、雲・武騎、天武・龍猛、配軍、雑使、馬鋪という)。群号の字は十七ある(「左」、「右」、「千」、「立」、「水」、「官」、「吉」、「天」、「主」、「王」、「方」、「與」、「來」、「萬」、「小」、「囗官」、「退」という)。毛色の種類は九十二ある(叱撥の別八、青の別二、白の別一、烏の別五、赤の別五、紫の別六、駿の別十一、赭白の別六、騮の別八、騧の別六、駱の別五、騅の別五、騟の別八、駁胯の別六、駁の別三、驃の別七)。

原文凡御馬之等三,(入殿祗候十五匹,引駕十四匹,從駕二十匹。)給用之等十有五,(曰揀中,曰不得支使,曰添價,曰明信,曰臣僚,曰諸班,曰御龍直,曰捧日、龍衛,曰拱聖,曰驍騎,曰雲、武騎,曰天武、龍猛,曰配軍,曰雜使,曰馬鋪。)群號之字十有七,(曰「左」,曰「右」,曰「千」,曰「立」,曰「水」,曰「官」,曰「吉」,曰「天」,曰「主」,曰「王」,曰「方」,曰「與」,曰「來」,曰「萬」,曰「小」,曰「囗官」,曰「退」。)毛物之種九十有二,(叱撥之別八,青之別二,白之別一,烏之別五,赤之別五,紫之別六,駿之別十一,赭白之別六,騮之別八,騧之別六,駱之別五,騅之別五,騟之別八,駁胯之別六,駁之別三,驃之別七。)

その官司の規制は、太祖が前代の制度を継承し、初めに左・右飛龍二院を設置し、左・右飛龍二使がこれを管轄した。太平興国五年、飛龍を天厩坊と改称した。雍熙四年、天厩を左・右騏驥院と改め、左右天駟監四つ、左右天厩坊二つはいずれもこれに隷属させた。

原文其官司之規,則太祖承前代之制,初置左、右飛龍二院,以左、右飛龍二使領之。太平興國五年,改飛龍為天廄坊。雍熙四年,改天廄為左、右騏驥院,左右天駟監四、左右天廄坊二皆隸焉。

真宗咸平元年、估馬司を創設した。馬を市買する際は、その良駑を弁別し、その価格を平準化し、諸監に分配することを掌った。三年、群牧使を設置し、内臣をもって群牧司の勾当制置とし、京朝官を判官とした。

原文真宗咸平元年,創置估馬司。凡市馬,掌辨其良駑,平其直,以分給諸監。三年,置群牧使,以內臣勾當制置群牧司,京朝官為判官。

景德二年、諸州の牧龍坊をすべて監と改め、名を賜り、印を鋳造して与えた。在外の監は十四あった:大名は大名監、洺州は広平監、衛州は淇水監(いずれも第一・第二に分かれる)。河南は洛陽らくよう監、鄭州は原武監、同州は沙苑監、相州は安陽監、澶州は鎮寧監、邢州は安国監、中牟は淳沢監、許州は単鎮監。

原文景德二年,改諸州牧龍坊悉為監,賜名,鑄印以給之。在外之監十有四:大名曰大名,洺州曰廣平,衛州曰淇水,並分第一、第二。河南曰洛陽,鄭州曰原武,同州曰沙苑,相州曰安陽,澶州曰鎮寧,邢州曰安國,中牟曰淳澤,許州曰單鎮。

四年、知枢密院陳堯叟を群牧制置使とし、また別に群牧使副・都監を置き、判官を二員に増員した。およそ厩牧の政務は、すべて群牧司より出で、騏驥院以下は、すべてその命令を聴いた。諸州に牧監があるところは、知州・通判が兼ねてこれを管轄し、諸監にはそれぞれ勾当官二員を置いた。また左右廂提点を置いた。また牧養上下監を置き、京城の諸坊・監の病馬を養療させた。また詔して左右騏驥院の諸坊・監官は、いずれも三年を任期とし、馬事に習熟し留任を願う者は、群牧司が上聞し、他の監に転任させた。

原文四年,以知樞密院陳堯叟為群牧制置使,又別置群牧使副、都監,增判官為二員。凡廄牧之政,皆出於群牧司,自騏驥院而下,皆聽命焉。諸州有牧監,知州、通判兼領之,諸監各置勾當官二員。又置左右廂提點。又置牧養上下監,以養療京城諸坊、監病馬。又詔左右騏驥院諸坊、監官,並以三年為滿;如習知馬事願留者,群牧司以聞,而徙蒞他監焉。

その厩牧の政務は、太祖が養馬務を一つ設置し、旧務四つを修繕し、牧放の地としたことに始まる。

原文其廄牧之政,則自太祖置養馬務一,葺舊務四,以為牧放之地始。

太平興国四年、太宗は幽州に兵を閲し、汾・晉・燕・薊の馬四万二千余匹を得、内厩に充てて駿馬とし、初めて諸州に分置して牧養させた。時に殿直李諤が贓罪に坐し、許州の牧監を監督していたが、官の豆を盗み、馬が多く死んだため、主吏とともに市で斬られた。また詔して豊かな曠野の地を選び、牧龍坊八つを設置し、牧養に便ならしめた。

原文太平興國四年,太宗觀兵於幽,得汾、晉、燕、薊之馬四萬二千餘匹,內皂充刃,始分置諸州牧養之。時殿直李諤坐贓,監牧許州,盜官菽,馬多死,並主吏斬於市。又詔擇豐曠地置牧龍坊八,以便牧養。

淳化二年十二月、詔して圉人に良馬数十匹を取らせ、便殿に皂棧を設け、秣飼の法を教え、かつその法を宰執に諭し、なお諸軍に頒布した。また医馬の良方を近臣に賜った。かつて趙守倫の請いに従い、諸州の牧龍坊に牝馬一万五千匹を飼養し、水草を逐って牧放させ、芻秣を費やさず、生駒が繁殖し、軍用に足りるようにした。この時、守倫がまた言上した:「諸坊の牧馬一万匹は、歳に駒四千を生むべきであるが、今歳は二千五百に止まる。典司が職を失しているので、厳しく責罰すべきである。もし馬百匹につき歳に駒七十を得れば、遷擢を加える。諸坊が駒を産めば、即時に籍を造り上聞する。牧放の軍人は、少壮を募って充役させるべきである。」いずれもこれに従った。

原文淳化二年十二月,詔圉人取善馬數十匹,於便殿設皂棧,教以秣飼,且以其法諭宰執,仍頒於諸軍。復以醫馬良方賜近臣。嘗從趙守倫之請,於諸州牧龍坊畜牝馬萬五千匹,逐水草牧放,不費芻秣,生駒蕃息,足資軍用。至是,守倫復言:「諸坊牧馬萬匹,歲當生駒四千,今歲止二千五百,典司失職,當嚴責罰。若馬百匹歲得駒七十,則加遷擢。諸坊產駒,即籍以聞。牧放軍人,當募少壯充役。」並從之。

真宗大中祥符元年、牧監の賞罰の令を立てた。外監の息馬は、一年を終えて十分を率とし、一分以上死ねば勾当官は一月の俸を罰し、その他は等級に応じて決杖する。牧養数が倍多く死数が少ない者は、賞銭を差等により給する。およそ駒一匹を生めば、兵校以下に絹一匹を賞する。この当時、内外の坊・監および諸軍の馬は凡そ二十余万匹、飼馬の兵校は一万六千三十八人。毎年、京城の草六十六万六千囲、麩料六万二千二百四石、塩・油・薬・糖九万五千余斤・石、諸州軍はこれに含まれない。左右騏驥六坊・監はただ馬二千余匹を留め置き、いずれも春季に出て牧に就き、孟冬にはその羸病を選別し、棧厩に就いて養飼する。その尚乗の馬は、ただ備用のものがあるのみである。

原文真宗大中祥符元年,立牧監賞罰之令,外監息馬,一歲終以十分為率,死一分以上勾當官罰一月奉,餘等第決杖。牧倍多而死少者,給賞緡有差。凡生駒一匹,兵校而下賞絹一匹。當是時,凡內外坊、監及諸軍馬凡二十餘萬匹,飼馬兵校一萬六千三十八人。每歲京城草六十六萬六千圍,麩料六萬二千二百四石,鹽、油、藥、糖九萬五千餘斤、石,諸州軍不預焉。左右騏驥六坊、監止留馬二千餘匹,皆春季出就牧,孟冬則別其羸病,就棧皂養飼。其尚乘之馬,唯備用者在焉。

およそ河南・河北にある牧監は、天禧以後、霊昌監が黄河の決壊によって衝かれた。乾興・天聖の間に至り、兵は久しく試みられず、言う者は多く牧馬の費用が広くて益がないとし、そこで東平監を廃し、その地を民に賦した。五年、単鎮監を廃す。六年、洛陽監を廃す。ここにおいて河南の諸監は皆廃され、すべて馬を河北に送った。まもなく詔して原武監の馬を京師に取り寄せ、河北の孳生馬を原武に移して牧養させた。

原文凡牧監之在河南、北,天禧後,靈昌監為河決所衝。至乾興、天聖間,兵久不試,言者多以為牧馬費廣而亡補,乃廢東平監,以其地賦民。五年,廢單鎮監。六年,廢洛陽監。於是河南諸監皆廢,悉以馬送河北。既而詔取原武監馬赴京師,移河北孳生馬牧於原武。

八年、群牧司が上言した:原武は地が広くて馬が少ないので、牧養数を増やすことを請う。詔して淇水第二監の四歳馬を原武に属させ、歳に河北の孳生四歳馬を取って淇水第二監および原武監に分属させ、原武の下等馬を霊昌鎮の廃監に移して牧養させ、なお原武に隷属させた。

原文八年,群牧司上言:原武地廣而馬少,請增牧數。詔以淇水第二監四歲馬屬原武,歲取河北孳生四歲馬分屬淇水第二並原武監,移原武下等馬牧於靈昌鎮廢監,仍隸原武。

九年、諸監にて駁馬を孳生せしめ、四季に遊牧せしめ、再び厩舎に登載せざることを詔す。

原文九年,詔諸監孳生駁馬,四時遊牧,勿復登廄。

明道元年(1032年)、議者曰く、「河南の六監廃止以来、京師の馬を須うるに、河北より取り、道遠くして便ならず」と。詔して左廂提点王舜臣を遣わし往きて利害を度らしむ。舜臣言う、「鎮寧・霊昌・東平・淳沢の四監は廃せられたりと雖も、然れども其の地は猶ほ本監並びに騏驥院の馬を牧し、洛陽・単鎮は京師に近く、之を罷むるは便ならず」と。乃ち詔して二監を復し、以て河北の孳生馬を牧せしむ。

原文明道元年(1032年),議者謂:「自河南六監廢,京師須馬,取之河北,道遠非便。」詔遣左廂提點王舜臣往度利害。舜臣言:「鎮寧、靈昌、東平、淳澤四監雖廢,然其地猶牧本監並騏驥院馬,洛陽、單鎮去京師近,罷之非便。」乃詔復二監,以牧河北孳生馬。

景祐二年、河北諸監の馬一千九百を揀びて趙州界に牧し、安陽監に隷せしむ。既にして詔す、広平の廃監は其の一を留め、趙州界の牧馬を復た之に隷せしめ、所余の一監は、厩舎を毀つこと毋れと。

原文景祐二年,揀河北諸監馬一千九百牧於趙州界,隸安陽監。既而詔廣平廢監留其一,以趙州界牧馬復隸焉,所餘一監,毋毀廄舍。

四年、復た原武第二監を以て単鎮と為し、長葛県に移し、県令・都監を以て之を兼領せしむ。三年、詔す、院坊・監の馬は歳に備用を留むる外、余を両群と為し、咸豊門外の牟駝岡に牧すと。

原文四年,復以原武第二監為單鎮,移於長葛縣,以縣令、都監兼領之。三年,詔院坊、監馬歲留備用外,餘為兩群,牧於咸豐門外牟駝岡。

凡そ病馬を収養するは、估馬司・騏驥院、病浅き者を取って上監に送り、深き者を下監に送り、十槽に分けて医療す。天聖六年、詔して月に都監・判官一人を以て提挙せしむ。八年、言者謂う、上監は京城より遠く、病馬を送るに便ならずと。詔して之を廃し、病浅き馬を左右騏驥院六坊・監に分属せしめ、季に拋死の数を較べ、歳終に賞罰を第す。更に騏驥院官を以て迭り往きて提挙せしむ。

原文凡收養病馬,估馬司、騏驥院取病淺者送上監,深者送下監,分十槽醫療之。天聖六年,詔月以都監、判官一人提舉。八年,言者謂上監去京城遠,送病馬非便。詔廢之,以病淺馬分屬左右騏驥院六坊、監,季較拋死數,歲終第賞罰。更以騏驥院官迭往提舉。

明道二年(1033年)、復た上監を置き、天と易名し、無病の馬を養い、病馬は並びに下監に属せしむ。

原文明道二年(1033年),復置上監,易名天,養無病馬,病馬並屬下監。

景祐二年、詔して牧養監の馬を以て群を団し陳・許州界の鳳凰陂に牧し、芻菽の耗を免れ、歳を以て常と為す。

原文景祐二年,詔以牧養監馬團群牧於陳、許州界鳳凰陂,免耗芻菽,歲以為常。

治平二年(1065年)、詔す、院坊・監の馬の病に堪えず估売すべからざる者は、淇水第一監に送り、別に一群を為して以て之を牧養せしむ。

原文治平二年(1065年),詔院坊、監馬之病不堪估賣者,送淇水第一監,別為一群以牧養之。

凡そ馬の孳生は、則ち大名府・洺・衛・相州の七監多く善種を択び、牝牡を合せて群と為し、判官歳に十二月を以て坊・監を巡行し、二歳の駒を閲し点印し、牧兵の賞を第す。諸軍の駒を収むる及二歳に至れば、即ち官に送る。

原文凡馬之孳生,則大名府、洺、衛、相州七監多擇善種,合牝牡為群,判官歲以十二月巡行坊、監,閱二歲駒點印,第賞牧兵。諸軍收駒及二歲,即送官。

天聖七年、群牧司言う、「旧制、知州軍・通判は同群牧事を領し、歳終に馬の死数及び分已上を較べ、並びに生駒四分に及ばざれば、並びに俸を罰す。死数少なく、生駒多きは、即ち奏して賞を第す。三歳毎に比し、以て該賞する者を聞す。今請う旧制を申明し、通判始めて官に到るに、轄する所の馬数を書し、歳一之を考へ、官満に、総数を較べて賞罰と為す」と。詔して之に従う。

原文天聖七年,群牧司言:「舊制,知州軍、通判領同群牧事,歲終較馬死數及分已上,並生駒不及四分,並罰奉。死數少,生駒多,即奏第賞。三歲都比,以該賞者聞。今請申明舊制,通判始到官,書所轄馬數,歲一考之,官滿,較總數為賞罰。」詔從之。

嘉祐八年、群牧司言う、「孳生七監、毎監歳に牝馬二千、牡馬四百を定め、歳約生駒四百を生じ、以て定数と為す」と。

原文嘉祐八年,群牧司言:「孳生七監,每監歲定牝馬二千,牡馬四百,歲約生駒四百,以為定數。」

治平二年(1065年)、詔す、「諸監の生駒満三十月已上は、毎歳点印し、牡の良き者を選び淇水第二監に送り、余の雑大馬は悉く河南三監に送る。其の淇水第二監の馬は、満六十月を候ち、諸監に給配す。諸監の牝馬満三十月は、本監別に群を立て牧放し、満五十月を候ち、乃ち他監に撥配す」と。

原文治平二年(1065年),詔:「諸監生駒滿三十月已上,每歲點印,選牡之良者送淇水第二監,餘雜大馬悉送河南三監,其淇水第二監馬,候滿六十月,給配諸監。諸監牝馬滿三十月,本監別立群牧放,候滿五十月,乃撥配他監。」

凡そ馬を収市するは、戎人馬を辺に駆り至らしめ、総数十・百を一券と為し、一馬に預め銭千を給し、官芻粟を給し、食を継ぎて京師に至らしめ、有司之を售ぎ、諸監に分隷し、券馬と曰う。辺州に場を置き、蕃漢の馬を市い綱を団し、殿侍を遣わし部送して闕に赴かしめ、或いは就きて諸軍に配し、省馬と曰う。陝西の広鋭・勁勇等軍は、相与に社を為し、毎に馬を市うに、官直を給する外、社衆復た金を裒めて之を益し、馬社と曰う。軍興すれば、民馬を籍し而して之を市い以て軍に給し、括買と曰う。

原文凡收市馬,戎人驅馬至邊,總數十、百為一券,一馬預給錢千,官給芻粟,續食至京師,有司售之,分隸諸監,曰券馬。邊州置場,市蕃漢馬團綱,遣殿侍部送赴闕,或就配諸軍,曰省馬。陝西廣銳、勁勇等軍,相與為社,每市馬,官給直外,社眾復裒金益之,曰馬社。軍興,籍民馬而市之以給軍,曰括買。

宋初、馬を市うは唯だ河東・陝西・川峡の三路、馬を招くは唯だ吐蕃・回紇・党項・蔵牙族、白馬・鼻家・保家・名市族の諸蕃なり。雍熙・端拱の間に至り、河東は則ち麟・府・豊・嵐州、岢嵐・火山軍、唐龍鎮、濁輪砦、陝西は則ち秦・渭・涇・原・儀・延・環・慶・階州、鎮戎・保安軍、制勝関、浩府、河西は則ち霊・綏・銀・夏州、川峡は則ち益・文・黎・雅・戎・茂・夔州、永康軍、京東は則ち登州なり。趙徳明河南を拠有するより、其の収市は唯だ麟・府・涇・原・儀・渭・秦・階・環州、岢嵐・火山・保安・保徳軍なり。其の後場を置くは、則ち又た止むるに環・慶・延・渭・原・秦・階・文州、鎮戎軍のみ。

原文宋初,市馬唯河東、陝西、川峽三路,招馬唯吐蕃、回紇、党項、藏牙族,白馬、鼻家、保家、名市族諸蕃。至雍熙、端拱間,河東則麟、府、豐、嵐州、岢嵐、火山軍、唐龍鎮、濁輪砦,陝西則秦、渭、涇、原、儀、延、環、慶、階州、鎮戎、保安軍、制勝關、浩府,河西則靈、綏、銀、夏州,川峽則益、文、黎、雅、戎、茂、夔州、永康軍,京東則登州。自趙德明據有河南,其收市唯麟、府、涇、原、儀、渭、秦、階、環州、岢嵐、火山、保安、保德軍。其後置場,則又止環、慶、延、渭、原、秦、階、文州、鎮戎軍而已。

太祖の時、歳に中使を遣わし辺州に詣りて馬を市う。先んずるに、両河の民蕃界に入り馬を盗み中国に入る。官其の直を給す。時に方に撫綏に留意し、詔して之を禁ず。

原文太祖時,歲遣中使詣邊州市馬。先是,兩河之民入蕃界盜馬入中國。官給其直。時方留意撫綏,詔禁之。

太平興國四年、詔して吏民の馬十七萬匹を市わしむ。六年、詔して内属の戎人に馬を駆りて闕下に詣らしむる者は、首領は県次に食を継ぎ、且つ富民の私市するを得ざるを禁ず。十二月、詔す、「蕃部馬を鬻ぐに、官は良を取って弩を棄つ、又その私市を禁ず、歳入の数既に充たず、且つ以て遠人を懐けること無し。今より長吏に委せて謹んで馬の良弩を視しめ、弩なるは即ち印を以てこれを識し、民の私市するを許すべし」と。是に先立ち、銅錢を以て諸蕃の馬直を給す。八年、有司言う、戎人錢を得て、銷ち鑄して器と為す、乃ち布帛茶及び他の物を以てこれに易う、と。

原文太平興國四年,詔市吏民馬十七萬匹。六年,詔內屬戎人驅馬詣闕下者,首領縣次續食,且禁富民無得私市。十二月,詔:「蕃部鬻馬,官取良而棄弩,又禁其私市,歲入數既不充,且無以懷遠人。自今委長吏謹視馬之良駑,駑即印識之,許民私市焉。」先是,以銅錢給諸蕃馬直。八年,有司言戎人得錢,銷鑄為器,乃以布帛茶及他物易之。

天禧中、宰相向敏中言う、国馬先朝に倍し、芻粟を広く費やす、と。乃ち詔して十三歳以上を配軍馬に估直を出して売らしむ。是に先立ち馬を市うるに三歳已上、十三歳已下を率とす。天聖中、詔して四歳已上、十歳已下を市わしむ。既にして市うる所足らざるに及び、群牧司以て言う有り、乃ち詔して入券並びに省馬は三歳已上、十二歳已下を市わしむ。明年、詔す、府州・岢嵐軍は今より省馬三歳・四歳なる者は等第を以てせず、五歳已上十二歳已下、骨格良く善く行く者は、悉く綱送して估馬司に送ることを許す、余は上京の省馬に非ざるは並びに并へい州揀馬司に送るべし、と。

原文天禧中,宰相向敏中言國馬倍於先朝,廣費芻粟。乃詔以十三歲以上配軍馬估直出賣。先是市馬以三歲已上、十三歲已下為率。天聖中,詔市四歲已上、十歲已下。既而所市不足,群牧司以為言,乃詔入券並省馬市三歲已上、十二歲已下。明年,詔府州、岢嵐軍自今省馬三歲、四歲者不以等第,五歲已上十二歲已下、骨格良善行者,悉許綱送估馬司,餘非上京省馬並送并州揀馬司。

景祐元年、御史中丞韓億言う、「蕃都馬を以て永康軍中に抵り売るも、得る所少なく、徒らに羌人に蜀しょくの山川道路を知らしむるのみ、計の得たるに非ず」と。乃ち詔してこれを罷む。

原文景祐元年,御史中丞韓億言:「蕃都以馬抵永康軍中賣,所得至少,徒使羌人知蜀山川道路,非計之得。」乃詔罷之。

四年、群牧司奏す、河北諸軍馬を闕く、請うらくは等杖六を製し、天雄軍・真定府・定・瀛・貝・滄州に付し、上生馬十二歳以下を市い、等第を視て直を給せん、と。馬は四尺七寸より四尺二寸に至るまで、凡そ六等。その直は二萬五千四百五十より萬六千五百五十に至り、課は萬三千四百五十より八千九百五十九に至り、六等、辺兵を備うる戸絶錢を取って直に充つ。第一等を以て京師に送り、余は就て諸軍に配す。

原文四年,群牧司奏河北諸軍闕馬,請製等杖六,付天雄軍、真定府、定、瀛、貝、滄州,市上生馬十二歲以下,視等第給直。馬自四尺七寸至四尺二寸,凡六等。其直自二萬五千四百五十至萬六千五百五十,課自萬三千四百五十至八千九百五十九,六等,取備邊兵戶絕錢充直。以第一等送京師,餘就配諸軍。

康定初、陝西兵を用い、馬足らず。詔して京畿・京東西・淮南・陝西路に戦馬を括市せしむ、馬は四尺六寸より四尺二寸に至り、その直は五十千より二十千に至り、凡そ五等。宰臣・樞密使は馬七を畜うるを聴し、参知政事・樞密副使は五、尚書・學士より知雑・閣門使已上は三、升朝官閣門祗候已上は一、余の命官より諸司職員・寺観主首に至るまで皆一。節度使より刺史に至るまで、殿前馬歩軍都指揮より軍頭司散員・副兵馬使に至るまで皆括すべからず。並びに辺の七州軍は免ず。内庫の珠を出だして民の馬直を償う。又辺臣の私市を禁じ、闕くる者は官これを給す。二年、詔す、「河北州軍場を置きて馬を市う、等様を除くといえども、聞く所に依れば得る所広からず、宜しく直を加増すべし。第一等二萬八千、第二等二萬六千、第三等二萬四千、第四等以下及び牝馬は即ち旧直に依れ。仍て第二等以下より遞減して一寸ずつす」と。

原文康定初,陝西用兵,馬不足。詔京畿、京東西、淮南、陝西路括市戰馬,馬四尺六寸至四尺二寸,其直自五十千至二十千,凡五等。宰臣、樞密使聽畜馬七,參知政事、樞密副使五,尚書、學士至知雜、閣門使已上三,升朝官閣門祗候已上一,餘命官至諸司職員、寺觀主首皆一。節度使至刺史,殿前馬步軍都指揮至軍頭司散員、副兵馬使皆勿括。並邊七州軍免。出內庫珠償民馬直。又禁邊臣私市,闕者官給。二年,詔:「河北州軍置場市馬,雖除等樣,如聞所得不廣,宜加增直。第一等二萬八千,第二等二萬六千,第三等二萬四千,第四等以下及牝馬即依舊直。仍自第二等以下遞減一寸。」

慶曆四年、詔す、「河北民間の馬を点印す、凡そ收市の外、見余す二萬七百、坊郭戸三等・郷村三等已上の養飼は旧の如くするを除き、余の点印する者は悉く集めて揀市せよ」と。五年、内蔵庫の絹二十萬を出だし、馬を秦州・岢嵐軍に市う。六年、詔す、陝西・河東の社馬死する者は、本營錢を鬻いで以て馬直を助けしめよ、と。

原文慶曆四年,詔:「河北點印民間馬,凡收市外,見餘二萬七百,除坊郭戶三等、鄉村三等已上養飼如舊,餘點印者悉集揀市。」五年,出內藏庫絹二十萬,市馬於秦州、岢嵐軍。六年,詔陝西、河東社馬死者,本營鬻錢以助馬直。

至和元年、詔す、「蜀馬京師に送るも、道遠く多く病瘠なり。今より春・秋・冬を以て部送して陝西四路総管司に送れ」と。二年、陝西蕃馬驛を修す、群牧司每季檄を以て沿路の郡県にこれを察視せしむ。辺州の巡検兵校は、自ら馬を市うるを聴し、官その直を償う。又詔す、陝西転運使司に銀十萬兩を以て秦州に馬を市わしめ、歳を以て常とせよ、と。

原文至和元年,詔;「蜀馬送京師,道遠多病瘠。自今以春、秋、冬部送陝西四路總管司。」二年,修陝西蕃馬驛,群牧司每季檄沿路郡縣察視之。邊州巡檢兵校,聽自市馬,官償其直。又詔陝西轉運使司以銀十萬兩市馬於秦州,歲以為常。

嘉祐元年、詔して三司に絹三萬を出ださしめ、馬を秦州に市わしめて以て河東軍に給せしむ。五年、薛向言う、「秦州の券馬京師に至り、直並びに路費を給するに、一馬錢數萬を計う。請うらくは原・渭州・德順軍に場を置き收市し、解鹽の交引を以て給し、即ち度支の縑錢を耗さざらしめん。その券馬は姑く存し、以て遠人を来らしめよ。歳別に良馬八千を得、三千を以て沿辺の軍騎に給し、五千を群牧司に入れしむべし」と。七年、陝西提挙買馬監牧司奏す、「旧制、秦州の蕃漢人月に募りて良馬二百を得て京師に至らしめ、彩絹・銀碗・腰帯・錦襖子を給し、蕃官・回紇隠藏して引至せざる者は、並びに漢法を以て論罪す。歳に募りて二千に及び、賞物を給する外、蕃都は蕃官を補し、蕃官は資を転じ、回紇百姓は等を加えて賞を給す。今原・渭・德順軍に場を置きて馬を市う、請うらくは秦州の例の如く施行せん」と。詔してこれに従う。是に先立ち、詔して買馬の利害を議せしむ。吳奎等議して秦州古渭・永寧砦及び原州・德順軍に各令して場を置き、京師歳に銀四萬兩・絹七萬五千匹を支いて馬直に充て、足らざれば、解鹽鈔並びに雑支錢を以てこれを給せん、と。詔してこれを行わしむ。八年、宰臣韓琦言う、「秦州永寧砦旧に鈔を以て馬を市う、古渭砦を修するより、永寧の西に在り、而して蕃漢多く互市その間にし、因りて買馬場を置く、凡そ歳に緡錢十余萬を用い、蕩然として虜中に流入し、実に国用を耗す」と。詔して復た場を永寧に置き、古渭砦の中場を罷む。蕃都の馬至れば、径に秦州に鬻ぐ。

原文嘉祐元年,詔三司出絹三萬,市馬於秦州以給河東軍。五年,薛向言:「秦州券馬至京師,給直並路費,一馬計錢數萬。請於原、渭州、德順軍置場收市,給以解鹽交引,即不耗度支縑錢。其券馬姑存,以來遠人。歲可別得良馬八千,以三千給沿邊軍騎,五千入群牧司。」七年,陝西提舉買馬監牧司奏:「舊制,秦州蕃漢人月募得良馬二百至京師,給彩絹、銀碗、腰帶、錦襖子,蕃官、回紇隱藏不引至者,並以漢法論罪。歲募及二千,給賞物外,蕃都補蕃官,蕃官轉資,回紇百姓加等給賞。今原、渭、德順軍置場市馬,請如秦州例施行。」詔從之。先是,詔議買馬利害。吳奎等議於秦州古渭、永寧砦及原州、德順軍各令置場,京師歲支銀四萬兩、〓絹七萬五千匹充馬直,不足,以解鹽鈔並雜支錢給之。詔行之。八年,宰臣韓琦言:「秦州永寧砦舊以鈔市馬,自修古渭砦,在永寧之西,而蕃漢多互市其間,因置買馬場,凡歲用緡錢十餘萬,蕩然流入虜中,實耗國用。」詔復置場永寧,罷古渭砦中場。蕃都馬至,徑鬻於秦州。

治平元年、薛向請う、原・渭州・德順軍の買馬官、永興軍の養馬務は、原州・德順軍並びに渭州同判の如く、三年を任とし、悉く市うる所の馬の多少を以て殿最と為せ、と。又言う、「秦州山外の蕃部原・渭州・德順軍・鎮戎軍に至りて馬を鬻ぎ、豪商の錢に充つ、秦州に至り、償うる所止むるところ六百を得るのみ。今請うらくは原・渭州・德順軍に於いて、官鹽鈔を以て博易し、軽齎を得て以て秦州に至らしめ、蜀貨に易えて以て帰らしめん。蜀商は博する所の鹽引を以て岐・雍に至り、監銀を換えて蜀に入り、両つながらその便を得しめん」と。群牧司請うらくは向の言う如く施行せん、と。是歳、詔す、河東陝西の広鋭・蕃落馬を闕く、復た社買を置き、一馬官錢三十千を給す、と。久しくして、馬至らず、乃ち直を増して慶曆の詔書の如くし、第三等三十五千、第四等二十八千とす。四年、成都府路の歳輸する絹三萬を以て陝西監牧司に給す。是より蕃都の馬至る者衆く、官軍これに仰給す。是に先立ち、陝西転運使を以て本路監牧買馬事を兼ねしめ、後又制置陝西解鹽官を以て同しくこれを主たらしむ。

原文治平元年(1064年),薛向請原、渭州、德順軍買馬官,永興軍養馬務,如原州、德順軍並渭州同判,三年為任,悉以所市馬多少為殿最。又言:「秦州山外蕃部至原、渭州、德順軍、鎮戎軍鬻馬,充豪商錢,至秦州,所償止得六百。今請於原、渭州、德順軍,官以鹽鈔博易,使得輕齎至秦州,易蜀貨以歸。蜀商以所博鹽引至岐、雍,換監銀入蜀,兩獲其便。」群牧司請如向言施行。是歲,詔河東陝西廣銳、蕃落闕馬,復置社買,一馬官給錢三十千。久之,馬不至,乃增直如慶曆詔書,第三等三十五千,第四等二十八千。四年,以成都府路歲輸〓絹三萬給陝西監牧司。自是蕃都馬至者眾,官軍仰給焉。先是,以陝西轉運使兼本路監牧買馬事,後又以制置陝西解鹽官同主之。

大抵国初馬を市うるに、歳僅かに五千余匹を得る。天聖中、蕃部の省馬三萬四千九百余匹に至る。嘉祐以前、原・渭・德順凡そ三歳に馬を市うること萬七千一百匹に至り、秦州の券馬歳に萬五千匹に至る。

原文大抵國初市馬,歲僅得五千餘匹。天聖中,蕃部省馬至三萬四千九百餘匹。嘉祐以前,原、渭、德順凡三歲市馬至萬七千一百匹,秦州券馬歲至萬五千匹。

凡そ牧地は、畿甸及び近郡より、水草善き地を択びてこれを標占せしむ。淳化・景德間、内外の坊・監総じて六萬八千頃、諸軍班また三萬九百頃預からず。歳久しくして官その籍を失い、界堠明らかならず、廢置常ならず、而して侵冒に淪る者多し。

原文凡牧地,自畿甸及近郡,使擇水草善地而標占之。淳化、景德間,內外坊、監總六萬八千頃,諸軍班又三萬九百頃不預焉。歲久官失其籍,界堠不明,廢置不常,而淪於侵冒者多矣。

淳化二年十二月、通利軍上る《十牧草地圖》、上民田を侵すを慮り、中使を遣わして疆理を檢視せしむ。

原文淳化二年十二月,通利軍上《十牧草地圖》,上慮侵民田,遣中使檢視疆理。

嘉祐年間(1056-1063年)、韓琦は諸監牧の土地を調査し、牧畜に必要な土地を除いては、下等戸に耕作・小作させるよう請うた。都官員外郎の高訪らを派遣して河北を調査させたところ、余剰の田地三千三百五十頃を得て、小作人を募集し、毎年約十一万七千八百石の穀物、三千二百五十匹の絹、十六万一千二百束の草を得ることとなった。群牧司が言上した。「諸監牧の土地には時折水害・旱害があり、各監は放牧のほか、毎年数万束の白草を刈り取って冬の飼料に備えている。今、すべて民に賦与すれば、将来監牧の馬が増え、あるいは水害・旱害があった場合、転地して放牧する場所がなくなる。」詔を下して左右廂提点官に実地検分させ、先に不法占拠され既に調査で明らかになった土地については小作権を与え、その他は群牧司に審議させて必要な土地を保留し、余剰地があれば耕作小作を募ることにした。五年(1060年)、群牧司が言上した。「馬一頭を牧養するのに、往来して草を食むため、五十畝の土地を占める。諸監には既に余剰地がないため、耕作を募るのは難しく、従来通り保留するよう請う。広平廃監で先に民に賦与した土地も、取り戻すよう乞う。」そこで詔を下した。「河北・京東の牧監が帳簿管理する草地は、今後、人々に請射(占有申請)させてはならず、違反者は違制の罪に問う。」

原文嘉祐中,韓琦請括諸監牧地,留牧外,聽下戶耕佃。遣都官員外郎高訪等括河北,得閑田三千三百五十頃募佃,歲約得穀十一萬七千八百石,絹三千二百五十匹,草十六萬一千二百束。群牧司言:「諸監牧地間有水旱,每監牧放外,歲刈白草數萬束,以備冬飼。今悉賦民,異時監馬增多,及有水旱,無以轉徙牧放。」詔遣左右廂提點官相度,除先被侵冒已根括出地權給租佃,餘委群牧司審度存留,有閑土即募耕佃。五年,群牧司言:「凡牧一馬,往來踐食,占地五十畝。諸監既無餘地,難以募耕,請存留如故。廣平廢監先賦民者,亦乞取還。」乃詔:「河北、京東牧監帳管草地,自今毋得縱人請射,犯者論以違制。」

群牧使の歐陽修が言上した。「唐代の牧地は、西は隴右の金城・平涼・天水から始まり、外は河曲の野に及び、内は岐・幽・涇・寧に及び、東は銀・夏に接し、さらに東は樓煩にまで至った。今では蕃界に没入し、侵奪・小作されてしまい、再び得ることはできない。ただ河東の嵐州・石州の間には、山荒地が非常に多く、汾河の側にも草地が広がっており、その水草は牧養に最も適している。これは唐代の樓煩監の地である。この跡を推し量れば、樓煩・元池・天池の三監の旧地は、まだ得られる望みがある。臣が往年、使者として出向いた折、威勝以東及び遼州・平定軍を通ったが、その地は概ね閑曠が多い。河東一路は水草が非常に良く、地勢が高く寒冷で、必ずや馬の性質に適している。また京西の唐州・汝州の間にも荒地が広い。河東・京西の転運司に命じて官を派遣し審議させ、もし監牧を興置できるならば、河北の諸監はやがて廃止できるであろう。」

原文群牧使歐陽修言:「唐之牧地,西起隴右金城、平涼、天水,外暨河曲之野,內則岐、幽、涇、寧,東接銀、夏,又東至於樓煩。今則沒入蕃界,淪於侵佃,不可復得。惟河東嵐、石之間,山荒甚多,汾河之側,草地亦廣,其間水草最宜牧養,此唐樓煩監地。跡此推之,則樓煩、元池、天池三監舊地,尚冀可得。臣往年出使,嘗行威勝以東及遼州、平定軍,其地率多閑曠。河東一路,水草甚佳,地勢高寒,必宜馬性。又京西唐、汝之間,荒地亦廣。請下河東、京西轉運司遣官審度,若可興置監牧,則河北諸監,尋可廢罷。」

治平末年(1067年)、牧地の総面積は五万五千頃であり、河南の六監が三万二千頃、河北の六監が二万三千頃であった。

原文治平末,牧地總五萬五千,河南六監三萬二千,而河北六監則二萬三千。

凡そ馬匹の配付は、騏驥院・估馬司が配当すべき軍及び新たに収めた馬を便殿で検閲し、その数は二百頭を超えない。凡そ軍に配付する際は、その俸給(奉錢)の額に応じ、馬は四尺六寸から四尺三寸まで、俸給は一千から三百までを四等とし、順序を追って給付し、五月に至って一時停止する。外州の軍士で馬が不足する場合は、先に奏上して許可を得てから給付する。荊湖路の帰遠軍・雄武軍の軍士には、在所の土産馬を配付する。凡そ馬が不足する軍士には、定められた割合(分数)に応じて補充配付する。

原文凡支配,騏驥院、估馬司以當配軍及新收馬閱於便殿,數毋過二百。凡配軍,視其奉錢之數,馬自四尺六寸至四尺三寸,奉錢自一千至三百,為四等,差次給之,至五月權止。外州軍士闕馬,先奏稟乃給。荊湖路歸遠、雄武軍士,配以在所土產馬。凡闕馬軍士,以分數配填。

慶暦四年(1044年)、詔して陝西・河北・河東は五分(50%)を補充し、その他の路は四分(40%)を補充するとした。他の州軍・開封府界の巡検兵校は自ら購入することを許し、官がその代価を償うが、三十千を超えないものとした。この年、詔して諸路に命じ、馬を軍士に給付する際は、武技を比試し、優れた者に先に給付し、比試で二度給付を受ける者もいることとした。不足馬が十頭以下の場合は全額給付し、十頭以上の場合は従来の数に従って支給する。

原文慶曆四年,詔陝西、河北、河東填五分,餘路填四分。他州軍、府界巡檢兵校聽自市,官償其直,毋過三十千。是歲,詔諸路以馬給軍士,比試武技,優者先給,比試兩給;闕馬十匹以下全給,十匹以上如舊數支。

至和元年(1054年)、詔して、陝西・河東・河北に戍守する軍士は七分(70%)を補充し、その他の路は六分(60%)を補充するとした。凡そ主兵官で馬を借り受ける資格のある者は、兵権を罷免される時までとする。殿前馬歩軍都指揮使には借り受けた馬三頭を賜い、都虞候・捧日・天武・龍・神衛四廂都指揮使には二頭、軍都指揮使には一頭を賜う。外州の在官で馬を借り受ける資格のある者は、経略使は三頭、総管・鈐轄は二頭、路分都監・承受・極辺の砦から監押・都巡検・把截・保丁指使までは一頭とし、他州に乗り入れたり他人に貸し出してはならず、違反者は違制の罪に問う。

原文至和元年,詔軍士戍陝西、河東、河北填七分,餘路填六分。凡主兵官當借馬者,至罷兵權。殿前馬步軍都指揮使賜所借馬三,都虞候、捧日、天武、龍、神衛四廂都指揮使二,軍都指揮使一。外州在官當借馬者,經畧使三,總管、鈐轄二,路分都監、承受、極邊砦至監押、都巡檢、把截、保丁指使一,毋得乘之他州並以假人,犯者論以違制。

寶元元年(1038年)、詔して、群臣で例によって馬を賜る者について、宰相から枢密直学士まで、使相から正任刺史まで、並びに皇族で姻戚関係の事由により賜るべき者は、旧制に従うこととした。その他には馬の代価(馬直)を給付し、少卿監以上には三十五千、内殿承制以下には二十三千とした。凡そ群臣が官馬を借りて進奉する者は、帳簿を設けて左蔵庫に報告し、代価四十千を償わせたが、その後多くが負債を償わなかった。そこで詔して、馬を借りる者は先に代価を納めさせ、長期にわたって滞納して償わない者はその俸給・手当(奉料)から控除することとした。

原文寶元元年,詔群臣例賜馬者,宰相至樞密直學士,使相至正任刺史,並皇族緣姻事當賜者,如舊制;餘給以馬直,少卿監已上三十五千,內殿承制已下二十三千。凡群臣假官馬進奉者,置籍報左藏庫,償直四十千,其後多負不償。乃詔借馬者先輸直,久逋不償者克其奉料。

熙寧年間(1068-1077年)以来、保馬法・戸馬法があり、その後また給地牧馬法に変わった。

原文熙寧以來,有保馬、戶馬,其後又變為給地牧馬。

神宗はかつて馬政の不備を憂い、枢密使の文彦博に言った。「群牧官が適任でないため、成效を責めることができない。中書に命じて使(群牧使)を選ばせ、卿は判官を推薦せよ。国馬が繁殖し、戦騎に供給されることを望む。」そこで比部員外郎の崔台符を権群牧判官とし、また群牧判官の劉航及び崔台符に命じて『群牧敕令』を刪定させ、唐代の制度を参考に本朝の故事に照らして奏上裁決させた。

原文神宗嘗患馬政不善,謂樞密使文彥博曰:「群牧官非人,無以責成效。其令中書擇使,卿舉判官,冀國馬蕃息,以給戰騎。」於是以比部員外郎崔台符權群牧判官,又命群牧判官劉航及台符刪定《群牧敕令》,以唐制參本朝故事而奏決焉。

熙寧元年(1068年)、また手詔を文彦博らに下して言った。「今、諸州の守・貳(知州・通判)はともに群牧を管轄するが、職事に親しく臨んだことはない。制度を改めるよう議論せよ。監牧・郡守貳はともに朝廷が選任授与し、坊・監の使臣とともにその能否を等級付けし、賞罰を定めて昇進・降格させるべきである。法を立てて奏聞せよ。」また手詔を下して言った。「当今、馬政が修まらず、官吏に顕著な成效がない。はたして任期が短く才能を尽くせないためか?何と監牧の多さ、官吏の多さに対して、人材不足が甚だしいことか!昔、唐は張萬歳を三代にわたり群牧を主管させ、恩信が下に行き渡ったため、馬政が修め挙げられ、後世に能吏と称された。今、上は提総官属から、下は坊・監の使臣に至るまで、選考によるものではなく、転任が迅速で、『仮の通り道(假道)』と呼ばれている。官にその職務に長く留まらせてその能力を尽くさせようとしても、得られないのである。当今の計は、その労苦と能力を簡抜し、順序を追って昇進させるべきである。坊・監から上は群牧都監に至るまで、皆その功績を考課して等級を付け昇進させ、職務に当たる者を奨励すべきである。」そこで、枢密副使の邵亢が、牧馬の余剰田を用いて農耕(稼政)を修め、牧養の利益を助けるよう請うた。一方、群牧司が言上した。「馬監の草地は四万八千余頃あり、今、五万頭の馬を基準とすれば、一頭が五十畝を占める。大名・広平の四監には余剰田がほとんどなく、宜しく従来通りとすべきである。しかし原武・単鎮・洛陽・沙苑・淇水・安陽・東平等の監には、一万七千頃の良田が余っており、民に賦与して芻粟を徴収できる。」これに従った。

原文熙寧元年,又手詔彥博等曰:「今諸州守貳雖同領群牧,而未嘗親蒞職事,其議更制,應監牧、郡守貳並朝廷選授,與坊、監使臣皆第其能否,制賞罰而升黜之,宜立法以聞。」又手詔曰:「方今馬政不修,官吏無著效,豈任不久而才不盡歟?是何監牧之多,官吏之眾,而乏才之甚也!昔唐用張萬歲三世典群牧,恩信行乎下,故馬政修舉,後世稱為能吏。今上自提總官屬,下至坊、監使臣,既非銓擇,而遷徙迅速,謂之『假道』,欲使官宿其業而盡其能,不可得也。為今之計者,當簡其勞能,進之以序。自坊、監而上至於群牧都監,皆課其功而第進之,以為任事者勸焉。」於是,樞密副使邵亢請以牧馬餘田修稼政,以資牧養之利。而群牧司言:「馬監草地四萬八千餘頃,今以五萬馬為率,一馬占地五十畝,大名、廣平四監餘田無幾,宜且仍舊。而原武、單鎮、洛陽、沙苑、淇水、安陽、東平等監,餘良田萬七千頃,可賦民以收芻粟。」從之。

まもなく枢密院がまた言上した。「旧制では、左・右騏驥院が国馬を総括管理していた。景德年間(1004-1007年)に初めて群牧使・副使・都監・判官を増置し、廐牧の政務を管轄させた。使の管轄は重いが、自ら巡察したことはなく、牧畜の利害得失を詳らかに知ることができないため、馬が繁殖しないのである。今、官局を分置し、専任して責務の達成を求めるべきである。」そこで詔を下し、河南・河北に分けて監牧使を置き、劉航・崔台符をこれに任じ、また都監を各一員置いた。河陽にあるものは、孳生監とした。凡そ外諸監はすべて両使に分属させ、それぞれ上奏すべき事項を条陳させた。諸官吏及び牧田を管轄する県令・県佐は、すべて監牧使に挙劾を委ね、枢密院に専属させ、群牧制置の管轄としない。先に、群牧司が河北・河東・陝西の都総管の治所に各一監を設置し、軍への給付を便利にするよう請うたため、官を派遣して諸路に詳細な検討をさせた。その後また、太原知府唐介の請願により、沙苑の馬五百頭を発し、交城に監を設置した。また河南・河北の両使を分置した。当時、皇帝は牧監の土地に留意していたが、諸監牧の田地はすべて広大で平坦であり、人々に不法占拠されていたため、議者は争ってその余剰資産を収用して芻粟の費用に充てるよう請うた。利益を求める者がこれに乗じ、初めて租税収入の増加を務めとするようになった。

原文已而樞密院又言:「舊制,以左、右騏驥院總司國馬。景德中,始增置群牧使副、都監、判官,以領廄牧之政。使領雖重,未嘗躬自巡察,不能周知牧畜利病,以故馬不蕃息。今宜分置官局,專任責成。」乃詔河南、北分置監牧使,以劉航、崔台符為之,又置都監各一員。其在河陽者,為孳生監。凡外諸監並分屬兩使,各條上所當行者。諸官吏若牧田縣令佐,並委監牧使舉劾,專隸樞密院,不領於群牧制置。先是,群牧司請於河北、河東、陝西都總管治所各置一監,以便給軍,乃遣官下諸路詳度。既又以知太原唐介之請,發沙苑馬五百,置監於交城。又分置河南、河北兩使。時上方留意牧監地,然諸監牧田皆寬衍,為人所冒占,故議者爭請收其餘資以佐芻粟。言利者乘之,始以增賦入為務。

二年、詔して河南・河北の監牧司の総牧地を括る。旧籍は六万八千頃、而今の籍は五万五千、余数は皆民に隠る。是より、牧地を以て民に賦するを請う者紛然たり、而して諸監尋いで廃す。是の歳、天下応在の馬凡そ十五万三千六百有奇。

原文二年,詔括河南北監牧司總牧地。舊籍六萬八千頃,而今籍五萬五千,餘數皆隱於民。自是,請以牧地賦民者紛然,而諸監尋廢。是歲,天下應在馬凡十五萬三千六百有奇。

初め、内外の班直・諸軍の馬は四月に槽を下りて出牧し、八月に槽に上る迄、風雨労逸の不斉なるを以て、故に多く病斃す。圉人は歳に榜罰を被り、吏は牧事に縁りて民を害し、棚井の科率寧歳無し。四年十月、乃ち同修起居注曾孝寛を命じて其の利害を較度せしむ。孝寛は諸班直・諸軍の馬の出牧を罷め、田を以て民を募りて租を出さしむるを請う。詔して来年より請う所の如くせしめ、仍て三司に令して当に牧する五月の芻粟を備えしむ。

原文初,內外班直、諸軍馬以四月下槽出牧,迄八月上槽,風雨勞逸之不齊,故多病斃。圉人歲被榜罰,吏緣牧事害民,棚井科率無寧歲。四年十月,乃命同修起居注曾孝寬較度其利害。孝寬請罷諸班直、諸軍馬出牧,以田募民出租。詔自來年如所請,仍令三司備當牧五月芻粟。

五年、太原監を廃す。七年、東平・原武監を廃し、而して淇水の両監を合して一と為す。八年、遂に河南・河北の八監を廃し、惟だ沙苑一監を存し、而して両監司牧も亦罷む。沙苑は先に陝西提挙監牧に隷せしむるも、是に至り、復た之を群牧司に属す。

原文五年,廢太原監。七年,廢東平、原武監,而合淇水兩監為一。八年,遂廢河南北八監,惟存沙苑一監,而兩監司牧亦罷矣。沙苑先以隸陝西提舉監牧,至是,復屬之群牧司。

始め監を廃するを議する時、群牧制置使文彦博言う、「議者は牧地を民に賦して租課を収め、国馬を編戸に散じて孳息を責むるを欲す、便ならず」と。詔して元絳・蔡確に其の利害を較めて上らしむ。是に於いて中書・枢密院言う、「河南・河北十二監、熙寧二年より五年に起り、歳に馬一千六百四十匹を出し、騎兵に給す可き者は二百六十四、余は僅かに郵伝に配するに足る。而して両監牧の吏卒雑費及び所占の地租、緡銭五十三万九千有奇を為し、出する所の馬を計れば銭三万六千四百余緡のみ。今九監に見る馬三万、若し更に制せざれば、則ち日に就きて損耗せん」と。是に於いて卒に之を廃し、其の善馬を以て諸監に分隷し、余馬は皆斥売し、其の地租を収め、市易の茶本銭に給し、分ちて籍を常平に寄し、子銭を出して以て市馬の直と為す。監兵五千を以て広固指揮と為し、京城を修治せしむ。後に遂に高陽・真定・太原・大名・定州の五監を廃す。凡そ廃監の銭市易に帰するの外、又た以て熙河の歳計に給す。

原文始議廢監時,群牧制置使文彥博言:「議者欲賦牧地與民而收租課,散國馬於編戶而責孳息,非便。」詔元絳、蔡確較其利害上之。於是中書、樞密院言:「河南北十二監,起熙寧二年至五年,歲出馬一千六百四十匹,可給騎兵者二百六十四,餘僅足配郵傳。而兩監牧吏卒雜費及所占地租,為緡錢五十三萬九千有奇,計所出馬為錢三萬六千四百餘緡而已。今九監見馬三萬,若不更制,則日就損耗。」於是卒廢之,以其善馬分隸諸監,餘馬皆斥賣,收其地租,給市易茶本錢,分寄籍常平、出子錢,以為市馬之直。監兵五千,以為廣固指揮,修治京城焉。後遂廢高陽、真定、太原、大名、定州五監。凡廢監錢歸市易之外,又以給熙河歲計。

諸監既に廃せられ、淤田司は広く淤溉を行い、課を増して以て耕者を募るを請う、而して河北制置牧田所継いて言う、牧田民に没する者五千七百余頃と。乃ち侵冒の法を厳にし、而して告獲の賞を加う、是より利入増多す。元豊三年、廃監の租銭遂に百一十六万に至り、群牧使より下、賜賚差有り。乃ち太常博士路昌衡・秘書丞王得臣を命じて逐路の転運司・開封府界提点司と租地を按じ、三年の中価を約して以て歳額を定めしむ。若し催督違滞せば、擅に封樁法を支くるを以て論ず。

原文諸監既廢,淤田司請廣行淤溉,增課以募耕者,而河北制置牧田所繼言,牧田沒於民者五千七百餘頃。乃嚴侵冒之法,而加告獲之賞,自是利入增多。元豐三年(1080年),廢監租錢遂至百一十六萬,自群牧使而下,賜賚有差。乃命太常博士路昌衡、秘書丞王得臣與逐路轉運司、開封府界提點司按租地,約三年中價以定歲額。若催督違滯,以擅支封樁法論。

初め、経制熙河辺防財用司岷州𢇲川・荔川・閭川砦・通遠軍熟羊砦に牧養十監を置くを奏す、議者蕃馬法を継いて言い、帝近甸に之を試みんと欲す。六年、手詔して枢密院に、「牧馬は重事、経始の際、宜しく左右の近臣を得て以て其の政を総ぶべし。今霧沢陂牧馬所より法を造り、始め畿内に十監を置き、以て次第に之を諸路に推す。宜しく枢密院都承旨張誠一・副都承旨張山甫に経度制置せしめ、権りに尚書駕部及び太僕寺に隷せず。朝廷より処分すべき有る者は、枢密院之を主とす」と。已にして其の説皆効せず。八年、同提挙経度制置曹誦言う、「崇儀副使温従吉の建議して孳生監を創るより、今に迨る二年、駒蕃ならずして死する者益衆し」と。乃ち御史台に命じて校核せしむ、監を置く以来、駒を得る一分四厘に及ばず、馬死すること已に十分の六。是に於いて議者及び提挙官を責め、而して畿内の十監を罷む。

原文初,經制熙河邊防財用司奏於岷州𢇲川、荔川、閭川砦、通遠軍熟羊砦置牧養十監,議者繼言蕃馬法,帝欲試之近甸。六年,手詔樞密院:「牧馬重事,經始之際,宜得左右近臣以總其政。今自霧澤陂牧馬所造法,始於畿內置十監,以次推之諸路。宜令樞密院都承旨張誠一、副都承旨張山甫經度制置,權不隸尚書駕部及太僕寺。有當自朝廷處分者,樞密院主之。」已而其說皆不效。八年,同提舉經度制置曹誦言:「自崇儀副使溫從吉建議創孳生監,迨今二年,駒不蕃而死者益眾。」乃命御史臺校核,自置監以來,得駒不及一分四厘,馬死已十分之六。於是責議者及提舉官,而罷畿內十監。

元祐初、監を興廃し、以て旧制を復するを議す。是に於いて詔して庫部郎中郭茂恂をして陝西・河東の当に監を置く所に往かしめ、尋いで又た河北・陝西転運・提点刑獄司に下し、河・渭・並・晋の間の牧田を按行して以て聞かしむ。時に已に保甲を罷め、騎兵を教え、而して戸馬を民に還す。是に於いて右司諫王巖叟言う、「兵の恃む所は馬に在り、而して能く之を蕃息せしむる者は、牧監なり。昔監を廃するの初、識者は皆十年の後天下馬に乏しむべきを知れり。已にして十年を待たず、其の弊已に見ゆ、此れ甚だ国の利に非ず。乞うらくは戸馬三万を収還し、監を復置すること故の如くし、監牧の事之を転運官に委ね、而して専ら使を置かず。今鄆州の東平、北京の大名・元城、衛州の淇水、相州の安陽、洺州の広平監、及び瀛・定の間の棚塞草地疆画具に存し、使臣牧卒大半猶在り、稍く招集を加うれば、則ち指顧の間に措置定まる可く、而して人納銭の害を免れ、国牧馬の利を収め、豈に計の得たるに非ずや?又況んや監を廃する以来、牧地の民に賦する者、害端多し、若し監牧を復置して地を収めて官に入るれば、則ち百姓恩を戴き、重負を釈るが如からん」と。是より、洛陽・単鎮・原武・淇水・東平・安陽等の監皆復す。

原文元祐初,議興廢監,以復舊制。於是詔庫部郎中郭茂恂往陝西、河東所當置監,尋又下河北陝西轉運、提點刑獄司按行河、渭、並、晉之間牧田以聞。時已罷保甲,教騎兵,而還戶馬於民。於是右司諫王巖叟言:「兵之所恃在馬,而能蕃息之者,牧監也。昔廢監之初,識者皆知十年之後天下當乏馬。已而不待十年,其弊已見,此甚非國之利也。乞收還戶馬三萬,復置監如故,監牧事委之轉運官,而不專置使。今鄆州之東平,北京之大名、元城,衛州之淇水,相州之安陽,洺州之廣平監,以及瀛、定之間棚塞草地疆畫具存,使臣牧卒大半猶在,稍加招集,則指顧之間措置可定,而人免納錢之害,國收牧馬之利,豈非計之得哉?又況廢監以來,牧地之賦民者,為害多端,若復置監牧而收地入官,則百姓戴恩,如釋重負矣。」自是,洛陽、單鎮、原武、淇水、東平、安陽等監皆復。

初め、熙寧中、天駟四監を併せて二と為し、而して左・右天廄坊も亦罷む。是に至り、左・右天廄坊を復す。時に又た旨有り、内外の馬事並びに太僕寺に隷し、駕部を由らずして尚書省に達す。兵部尚書王存・右司諫王覿言う、「先帝歴代の法を講求し、正に省・台・寺・監の職を正し、上下相継ぎ、各統制有り。其の間或いは濡滞通ぜず、宜しく量りに裁正を加うべく、因りて隳紊す可からず」と。言果たして行われず。又た詔す、旧群牧司に属する者は専ら太僕寺に隷し、直ちに枢密院に達し、尚書省及び駕部を由らずと。崇寧中に至り、始めて詔して元豊の旧制の如くせしむ。

原文初,熙寧中,並天駟四監為二,而左、右天廄坊亦罷。至是,復左、右天廄坊。時又有旨,內外馬事並隸太僕寺,不由駕部而達尚書省。兵部尚書王存、右司諫王覿言:「先帝講求歷代之法,正省、台、寺、監之職,上下相繼,各有統制。其間或濡滯不通,宜量加裁正,不可因而隳紊。」言不果行。又詔舊屬群牧司者專隸太僕寺,直達樞密院,不由尚書省及駕部。至崇寧中,始詔如元豐舊制。

紹聖初、事を用うる者更に其の意を以て廃置し、而して時議復た変ず。太僕寺言う、府界の牧田、占佃の外、尚た三千余頃を存し、畿内孳生十監を復するを議す。詔して庄宅副使麦文丙・内殿崇班王景儉を以て提挙に充てしむ。後二年にして地を給して馬を牧するの政行わる。

原文紹聖初,用事者更以其意為廢置,而時議復變。太僕寺言,府界牧田,占佃之外,尚存三千餘頃,議復畿內孳生十監。詔以莊宅副使麥文丙、內殿崇班王景儉充提舉。後二年而給地牧馬之政行矣。

先んずるに、任縣の知縣韓筠等が建議し、凡そ民に牧田一頃を授け、官のために一馬を牧して其の租を蠲免すべしと。縣は其の高下・老壯・毛色を籍に記し、歳毎に一たび檢閱し、亡失したる者は償ひを責め、既に牧田を佃うる者は上に依りて馬を養はしむ。邢州の知州張赴其の説を上り、且つ謂く、田一頃を授けて官のために一馬を牧せしむるは、陝西沿邊の弓箭手が既に馬を養ひ又邊を戍る者に較べて優れりと、一監一縣に試みるに、利有りて害無かるべしと。樞密院其の請を是とし、且つ言ふ、「熙寧中、諸監を罷めて民に賦し、歳に緡錢百餘萬を収む。元祐初、未だ利害を講明せず、惟だ元豐・熙寧の政を罷め、已に佃うる田を奪ひて舊監を復するを務む。桑棗井廬多く毀伐せられ、監牧の官吏費ふる所貲ふべからず、牧卒民を擾はし、棚井抑配し、害一つに非ず。蓋し監を復して以來、臣僚屢屢公私の害を陳ず。若し元祐の倉卒更張の法に循らば、久くして當に弊を益さむ。且つ左右廂今歳籍する馬萬三千有奇、軍に配するに堪ふる者は幾も無く、惟だ沙苑の六千疋は他監に愈れり。今赴等の陳ぶる所の田を授けて馬を養はしむるは、既に其の租を蠲め孳息を責めず、而して願はざる者に抑勒する所無く、又尺寸を限るを以てす、則ち緩急皆用ふるに堪ふる馬なり。」乃ち具さに條畫を爲し、太僕寺に下し、監牧の州縣に應ずる者悉く之を行はしむ。

原文先是,知任縣韓筠等建議,凡授民牧田一頃,為官牧一馬而蠲其租。縣籍其高下、老壯、毛色,歲一閱,亡失者責償,已佃牧田者依上養馬。知邢州張赴上其說,且謂授田一頃為官牧一馬,較陝西沿邊弓箭手既養馬又戍邊者為優,試之一監一縣,當有利而無害。樞密院是其請,且言:「熙寧中,罷諸監以賦民,歲收緡錢至百餘萬。元祐初,未嘗講明利害,惟務罷元豐、熙寧之政,奪已佃之田而復舊監。桑棗井廬多所毀伐,監牧官吏為費不貲,牧卒擾民,棚井抑配,為害非一。蓋自復監以來,臣僚屢陳公私之害。若循元祐倉卒更張之法,久當益弊。且左右廂今歲籍馬萬三千有奇,堪配軍者無幾,惟沙苑六千疋愈於他監。今赴等所陳授田養馬,既蠲其租不責以孳息,而不願者無所抑勒,又限以尺寸,則緩急皆可用之馬矣。」乃具為條畫,下太僕寺,應監牧州縣悉行之。

時に殿中侍御史陳次升言ふ、「地を給して馬を牧するは、其の初め邢州の守令の請に始まり、未だ監司に下して詳度せしめず。諸路各々利害有り、既に知る可からず。民居と田と相遠き者は、耕牧に就くこと難し。一頃の地の直は多からず、而して亡失して償ひを責めらるるは、錢四五十千を爲し、必ずや人情の願ふ所に非ず。」言竟に行はれず。時に同知樞密院なる者は、曾布なり。

原文時殿中侍御史陳次升言:「給地牧馬,其初始於邢州守令之請,未嘗下監司詳度。諸路各有利害,既不可知。民居與田相遠者,難就耕牧。一頃之地所直不多,而亡失責償,為錢四五十千,必非人情所願。」言竟不行。時同知樞密院者,曾布也。

四年、遂に淇水・單鎮・安陽・洛陽・原武の監を廢し、提點所及び左右廂を罷め、惟だ東平・沙苑の二監を存す。曾布自ら其の事を叙して曰く、「元祐中、監牧を復置し、兩廂の養ふ所の馬は止むるに萬三千匹、而して不堪なる者半を過ぐ。今既に租錢を以て蕃落十指揮を陝西に置き、馬三千五百を養ふ。又人戶願ひて養ふ者も數千、而して存する兩監各々萬馬を牧する可し。馬數舊監より多く、而して省く所の官吏の費一つに非ず、近世の良法、未だ之に能く及ばず。」時に三省皆善しと稱す。其の後、沙苑復た陝西買馬監牧司に隷し、而して東平監仍ほ廢す。

原文四年,遂廢淇水、單鎮、安陽、洛陽、原武監,罷提點所及左右廂,惟存東平、沙苑二監。曾布自敘其事曰:「元祐中,復置監牧,兩廂所養馬止萬三千匹,而不堪者過半。今既以租錢置蕃落十指揮於陝西,養馬三千五百。又人戶願養者亦數千,而所存兩監各可牧萬馬。馬數多於舊監,而所省官吏之費非一,近世良法,未之能及。」時三省皆稱善。其後,沙苑復隸陝西買馬監牧司,而東平監仍廢。

崇寧元年、有司諸路の田を以て馬を養ふの數を較ふるに、凡そ一千八百疋有奇、而して河北西路一千四百を占め、他路は二百匹以下より、河東路に至りては僅かに九匹、而して開封府界・京西南路・京東東路は皆應募する者無し。蓋し法既に具はれども、猶ほ未だ行はるるに及ばざるなり。

原文崇寧元年,有司較諸路田養馬之數,凡一千八百疋有奇,而河北西路占一千四百,他路自二百匹以下,至河東路僅九匹,而開封府界、京西南路、京東東路皆無應募者。蓋法雖已具,而猶未及行也。

大觀元年、尚書省言ふ、「元祐監を置き、馬蕃息せず、而して費用貲ふべからず。今沙苑最も多馬と號せらる、然れども牧田九千餘頃を占め、芻粟・官曹歳に緡錢四十餘萬を費し、而して牧馬止むるに六千に及ぶ。元符元年より二年に至るまで、亡失する者三千九百。且つ素より調習せず、用に中らず。九千頃の田・四十萬緡の費を以て、馬を養ひて用に適せず、又亡失此の如し、利害灼然として見る可し。今九千頃の田を以てし、其の磽瘠を計り、三分して一を去り、猶ほ良田六千頃を得。直を以て之を計れば、頃を爲すに錢五百餘緡、一頃を以て一馬を募らば、則ち人地利を得、馬養はるる所を得、以て先帝の農に隱兵せしむるの意を紹述す可し。請ふ永興軍路提點刑獄司及び同州に下して詳度して以て聞けしむ。實利を見るを俟ちて、則ち六路新邊の閑田、當に次を以て推行すべし。時に熙河蘭湟路牧馬司又た兼ねて牝馬を養はむと願ふ者を募るを請ふ、每に三駒を収むるに、其の二を以て官に歸し、一を以て賞に充つ、詔して之を行はしむ。是の歳、臣僚言ふ岷州應募して馬を養ふ者萬餘匹に至ると、是に於て自ら守貳以下、遞に賞有り差あり。明年、詔して熙河路の縣・鎮・城・砦・關・堡の官並びに管幹給地牧事を兼ぬべし。四年、復た京東西路の地を給して馬を牧するを罷め、東平監を復す。

原文大觀元年,尚書省言:「元祐置監,馬不蕃息,而費用不貲。今沙苑最號多馬,然占牧田九千餘頃,芻粟、官曹歲費緡錢四十餘萬,而牧馬止及六千。自元符元年至二年,亡失者三千九百。且素不調習,不中於用。以九千頃之田、四十萬緡之費,養馬而不適於用,又亡失如此,利害灼然可見。今以九千頃之田,計其磽瘠,三分去一,猶得良田六千頃。以直計之,頃為錢五百餘緡,以一頃募一馬,則人得地利,馬得所養,可以紹述先帝隱兵於農之意。請下永興軍路提點刑獄司及同州詳度以聞。俟見實利,則六路新邊閑田,當以次推行。時熙河蘭湟路牧馬司又請兼募願養牝馬者,每收三駒,以其二歸官,一充賞,詔行之。是歲,臣僚言岷州應募養馬者至萬餘匹,於是自守貳而下,遞賞有差。明年,詔熙河路應縣、鎮、城、砦、關、堡官並兼管幹給地牧事。四年,復罷京東西路給地牧馬,復東平監。

政和二年、詔して諸路に復た地を給して馬を牧するを行はしめ、復た東平監を罷む。五年、提舉河東給地牧馬尚中行奏報稽違を以て、且つ法を擅に更へむと欲す、詔して遠小監當官を授く。是に於て人皆令に趣き、牧守・提舉率先して就緒に就きて官を遷し賞を第する者甚だ衆し。七年、有司言ふ地を給して牧を增し、法成り令具はり、諸路功を告ぐと。乃ち諸路に下して春秋に集教し、以て選用に備ふ。令下り、之を奉行する者益〻力む。

原文政和二年,詔諸路復行給地牧馬,復罷東平監。五年,提舉河東給地牧馬尚中行以奏報稽違,且欲擅更法,詔授遠小監當官。於是人皆趣令,牧守、提舉以率先就緒遷官第賞者甚眾。七年,有司言給地增牧,法成令具,諸路告功。乃下諸路春秋集教,以備選用。令下,奉行之者益力。

蔡京既に政を罷めらる、新に事を用ふる者更に其の不便を言ふ。宣和二年、詔して政和二年以來の地を給して馬を牧する條令を罷め、見馬を収めて以て軍に給し、應に牧田及び監を置く處並びに舊制の如くすべし。又た東平監を復す。凡そ諸監興廢一ならず、而して沙苑監獨り廢せず。地を給して馬を牧するの法罷れてより、三年にして復た行はる。時に牧田已に多く給占せらる、乃ち詔して見管及び已に拘收せるもの、如し官司輒く復た請占せば、違制を以て論ずべし。

原文蔡京既罷政,新用事者更言其不便。宣和二年,詔罷政和二年以來給地牧馬條令,收見馬以給軍,應牧田及置監處並如舊制。又復東平監。凡諸監興罷不一,而沙苑監獨不廢。自給地牧馬之法罷,三年而復行。時牧田已多所給占,乃詔見管及已拘收,如官司輒復請占者,以違制論。

六年、又た詔して賞格を立て、應に牧馬一路に通じて三千匹に及び、州縣に通じて一千に及び、縣三百に及び、其の提點刑獄・守令各々一官を遷し、倍する者は更に磨勘年を減ずべし。是に於て諸路應募して馬を牧する者戶八萬七千六百有奇を爲し、馬二萬三千五百を爲す。既に賞を推すこと上詔の如くし、而して兵部の長貳も亦た八路の馬政を兼總するを以て官を遷す。然れども北方事有り、而して馬政も亦た急なり。

原文六年,又詔立賞格,應牧馬通一路及三千匹,州通縣及一千,縣及三百,其提點刑獄、守令各遷一官,倍者更減磨勘年。於是諸路應募牧馬者為戶八萬七千六百有奇,為馬二萬三千五百。既推賞如上詔,而兵部長貳亦以兼總八路馬政遷官。然北方有事,而馬政亦急矣。

靖康元年、左丞李綱言ふ、「祖宗以來、陝西・河東・河北の美水草高涼の地を擇び、監を置くこと凡そ三十六所、比年廢罷殆んど盡きたり。民間雜養を以て役に充て、官吏便文を以て責を塞ぎ、而して馬復た善き者無し。今諸軍馬を闕く者太半、宜しく舊制を復し、權時に宜しくし、天下の馬を括り、量りて其の直を給し、旬日を期せずして、則ち數萬の馬、猶ほ具ふる可し。」然れども時に已に其の説を盡く行ふ能はざるなり。

原文靖康元年,左丞李綱言:「祖宗以來,擇陝西、河東、河北美水草高涼之地,置監凡三十六所,比年廢罷殆盡。民間雜養以充役,官吏便文以塞責,而馬無復善者。今諸軍闕馬者太半,宜復舊制,權時之宜,括天下馬,量給其直,不旬日間,則數萬之馬,猶可具也。」然時已不能盡行其說矣。

保甲馬を養ふ者は、熙寧五年に始まる。先んずるに、中書省・樞密院其の事を議ること上前に於てす、文彥博・吳充言ふ、「國馬宜しく闕く可からず。今の法、馬死する者償ひを責む、恐らくは民の願ふ所に非ず。」安石以爲く令下りて京畿牒を投ずる者已に千五百戶、決して驅迫に出づるに非ずと、論を持すること益〻堅し。五月、詔して開封府界諸縣の保甲願ひて馬を牧する者は聽し、仍ほ陝西の市ふ所の馬を選びて之に給す。

原文保甲養馬者,自熙寧五年始。先是,中書省、樞密院議其事於上前,文彥博、吳充言:「國馬宜不可闕。今法,馬死者責償,恐非民願。」安石以為令下而京畿投牒者已千五百戶,決非出於驅迫,持論益堅。五月,詔開封府界諸縣保甲願牧馬者聽,仍以陝西所市馬選給之。

六年、曾布らは詔を承けてその條約を上奏した。およそ五路の義勇保甲で馬を養いたい者は、一戸に一匹、資力が高く二匹を養いたい者は聴許し、皆監牧の現存する馬を与えるか、あるいは官がその代価を与えて自ら買わせ、強いて与えることはない。府界は三千匹を超えず、五路は五千匹を超えない。盗賊を追捕する以外に、三百里を越えて乗ることは禁ずる。府界にある者は、体量草二百五十束を免じ、銭布を加給する。五路にある者は、毎年折変縁納銭を免除する。三等以上の者は、十戸を一保とする。四等以下の者は、十戸を一社とし、病斃や逃亡による償いを待つ。保戸の馬が死ねば、保戸が独りで償う。社戸の馬が死ねば、社戸が半分を償う。毎年一回その肥瘠を検閲し、苛酷な留保を禁ずる。凡そ十四條、先ず府界より頒布する。五路は監司・経略司・州県に委ねてさらに度量させる。ここにおいて保甲養馬は諸路で行われるようになった。

原文六年,曾布等承詔上其條約:凡五路義勇保甲願養馬者,戶一匹,物力高願養二匹者聽,皆以監牧見馬給之,或官與其直令自市,毋或強與。府界毋過三千匹,五路毋過五千匹。襲逐盜賊外,乘越三百里者有禁。在府界者,免體量草二百五十束,加給以錢布;在五路者,歲免折變緣納錢。三等以上,十戶為一保;四等以下,十戶為一社,以待病斃逋償者。保戶馬斃,保戶獨償之;社戶馬斃,社戶半償之。歲一閱其肥瘠,禁苛留者。凡十四條,先從府界頒焉。五路委監司、經畧司、州縣更度之。於是保甲養馬行於諸路矣。

当時、河東の騎軍の馬は一万一千余匹あり、番戍は概ね十年で一巡していた。費用を省こうと議し、『五路義勇保甲養馬法』を行った。兵部が言うには、「河東の正軍馬は九千五百匹、官給を一時停止し、義勇保甲馬五千匹をもってこれを補い定員に合わせることを請う。正軍馬が五千に満たなくなってから、給配を始める。」と。中書・枢密院に下す。枢密院は「官が一馬を養うと、一年で銭二十七千になる。民が一馬を養えば、ただ折変縁納銭六千五百を免ずるのみで、米を折納してその代価を輸納すれば、銭十四千四百となり、残りは全て民から出るので、決して望むところではない。況や軍馬五千匹を減らせば、辺防の事備えは何によって備えるのか。もし官軍馬を従前の如く存置し、漸次に民間に便に従って牧馬させ、五千を限りとしなければ、理に於いて可である。」と言った。中書は「官が一馬を養うと、中価で平均すれば銭二十七千になる。民を募って牧養させれば、雑費八万余緡を省くことができる。前二年の官馬の死亡を計ると、保甲馬の倍である。しかも保甲に馬があれば、戦いを習い盗賊を防ぐことができ、公私両便である。」と言った。帝はついに枢密院の議に従った。九年、京畿の保甲で馬を養う者への銭布の給与を廃し、ただ草の輸納を免ずるのみとし、馬数を増やした。

原文時河東騎軍馬萬一千餘匹,番戍率十年一周。議欲省費,乃行《五路義勇保甲養馬法》。兵部言:「 河東正軍馬九千五百匹,請權罷官給,以義勇保甲馬五千補之以合額。俟正軍馬不及五千,始行給配。」下中書、樞密院。樞密院以為:「官養一馬,歲為錢二十七千。民養一馬,才免折變緣納錢六千五百,折米而輸其直,為錢十四千四百,餘皆出於民,決非所願。況減軍馬五千匹,邊防事宜何所取備?若存官軍馬如故,漸令民間從便牧馬,不以五千為限,於理為可。」中書謂:「官養一馬,以中價率之,為錢二十七千。募民牧養,可省雜費八萬餘緡。計前二年官馬死,倍於保甲馬。而保甲有馬,可以習戰禦盜,公私兩便。」帝卒從樞密院議。九年,京畿保甲養馬者罷給錢布,止免輸草而增馬數。

元豊六年、河東路の保甲の十分の二を取って騎戦を教え、かつ本路の塩息銭をもってこれを給した。毎に二十五千で一馬を買わせ、なお五年を期限とした。

原文元豐六年,取河東路保甲十分之二以教騎戰,且以本路鹽息錢給之。每二十五千令市一馬,仍以五年為限。

七年、詔して京東・西路の保甲は教閲を免じ、毎都保ごとに馬五十匹を養い、一匹につき銭十千を与え、京東は十年、京西は十五年を期限として数が満ちるようにした。提挙保甲馬官を置き、京西は呂公雅、京東は霍翔にこれを領させた。郷村の物力による養馬の令を廃し、戸馬を養う者は保甲馬を免ずる。皆、翔の陳述したところである。

原文七年,詔京東、西路保甲免教閱,每都保養馬五十匹,匹給錢十千,限京東以十年,京西十五年而數足。置提舉保甲馬官,京西以呂公雅,京東以霍翔領之。罷鄉村物力養馬之令,養戶馬者免保甲馬,皆翔所陳也。

翔及び公雅は提挙の事を領するや、多く建白した。常平銭を借り、毎路五万緡ずつ、州県に付して利息を取り、馬が充肥し孳息する者を賞することを請うた。私馬に印を押して保馬とすることを望む者は聴許した。馬を三匹まで養う者は、役を免除するほか、一匹ごとに次丁一人が杖罪(人を侵損しないもの)を贖うことを許す。詔して悉くこれに従った。公雅はまた、毎都が毎年二十匹を買い、十五年を期限とするのを二年半に短縮するよう命じた。京西は馬を産せず、民は貧乏でますます堪えられず、上は役人が責める数が多すぎることを慮り、百姓が上意を理解していないとして、詔して元の令の如くし、少しその数を増やした。公雅はそこで、毎都が毎年八匹を買い、八年を期限とし、山県は十年を期限とすることを請うた。翔はまた、本路の馬がすでに一万匹に及んだと奏し、諸県の弓手に各々一匹を養わせ、失捕の罪を贖わせることを請うた。

原文翔及公雅既領提舉事,多所建白。請借常平錢,每路五萬緡,付州縣出息,以賞馬之充肥及孳息者。願以私馬印為保馬者聽。養馬至三匹,蠲役外,每疋許次丁一人贖杖罪之非侵損於人者。詔悉從之。公雅又令每都歲市二十匹,限十五年者促為二年半。京西不產馬,民貧乏益不堪,上慮有司責數過多,百姓未喻上意,詔如元令,稍增其數。公雅乃請每都歲市八匹,限以八年,山縣限以十年。翔又奏本路馬已及萬匹,請令諸縣弓手各養一匹,以贖失捕之罪。

哲宗が位を嗣ぐと、新法の不便を言う者は、保馬を急務とした。そこで詔して言う、「京東・西の保馬は、期限は極めて寛大である。役人は循守に務めず、遂に煩擾を招いた。先帝はすでに手詔を下して詰責したが、今なお遵守することができない。両路の市馬年限はともに元の詔の如くせよ。」と。まもなくまた詔して、両路の保馬を諸軍に分配し、余った数は太僕寺に付し、支配に堪えないものは民戸に斥還して官に代価を責めた。翔・公雅はともに罪によって去り、保馬は遂に廃止された。

原文哲宗嗣位,言新法之不便者,以保馬為急。乃詔曰:「京東、西保馬,期限極寬。有司不務循守,遂致煩擾。先帝已嘗手詔詰責,今猶未能遵守。其兩路市馬年限並如元詔。」尋又詔以兩路保馬分配諸軍,餘數付太僕寺,不堪支配者斥還民戶而責官直。翔、公雅皆以罪去,而保馬遂罷。

戸馬とは、慶暦年中、河北の民戸に物力によって馬を養わせ、官買に備えるよう詔したことがある。熙寧二年、河北察訪使曾孝寬がこれを言上し、始めて参考にして行われた。この時、諸監は既に廃され、市馬に仰給し、しかも義勇保甲馬はまた官給に従うので、朝廷は馬の乏しいことを憂えた。

原文戶馬者,慶曆中,嘗詔河北民戶以物力養馬,以備官買。熙寧二年,河北察訪使曾孝寬以為言,始參考行之。是時,諸監既廢,仰給市馬,而義勇保甲馬復從官給,朝廷以乏馬為憂。

元豊三年(1080年)春、王拱辰の請いに基づき、詔して開封府界・京東西・河北・陝西・河東路の州県の戸ごとに各々資産を計って馬を買わせ、坊郭の家産が三千緡・郷村が五千緡、あるいは坊郭郷村合わせて三千緡以上の者は、各々一馬を養い、倍増する者は馬もまたこれに従い、三匹までとする。馬は四尺三寸以上、歯齢は八歳以下と限り、十五歳になれば更に初めの如く買い換え、提挙司に籍を置く。ここにおいて諸道は各々その数を上申し、開封府界四千六百九十四、河北東路六百十五、西路八百五十四、秦鳳等路六百四十二、永興路一千五百四十六、河東路三百六十六、京東東路七百十七、西路九百二十二、京西南路五百九十、北路七百十六であった。

原文元豐三年(1080年)春,以王拱辰之請,詔開封府界、京東西、河北、陝西、河東路州縣戶各計資產市馬,坊郭家產及三千緡、鄉村五千緡、若坊郭鄉村通及三千緡以上者,各養一馬,增倍者馬亦如之,至三疋止。馬以四尺三寸以上,齒限八歲以下,及十五歲則更市如初,籍於提舉司。於是諸道各上其數,開封府界四千六百九十四,河北東路六百一十五,西路八百五十四,秦鳳等路六百四十二,永興路一千五百四十六,河東路三百六十六,京東東路七百一十七,西路九百二十二,京西南路五百九十,北路七百一十六。

当時、法を初めて立てるにあたり、上は商人が時機に乗じて高値を以て民を害することを慮り、群牧司の驍騎以上の馬千匹を出して市に売り、その価格を平らかにするよう命じた。熙寧年中、かつて徳順軍の蕃部に馬を養わせたことがあり、帝はその利害を問うた。王安石は言う、「今、坊・監では五百緡で一馬を得るが、もしこれを熙河の蕃部に委ねれば、重費には至らないであろう。蕃部の地は馬に適し、かつ畜牧を生業とするので、誠に便利である。」と。やがて得た駒は低劣で、亡失したものは償いを責められ、蕃部はこれを苦しみ、その法はまもなく廃された。この時、環慶路経略司がまた、すでに諸蕃部に馬を養うよう檄を飛ばしたと上言し、詔して実情を検閲して合格したもの一匹につき五縑を支給し、鄜延・秦鳳・涇原路もこれに準じた。

原文時初立法,上慮商賈乘時高直以病民,命以群牧司驍騎以上千疋出市,以平其直。熙寧中,嘗令德順軍蕃部養馬,帝問其利害。王安石謂:「今坊、監以五百緡得一馬,若委之熙河蕃部,當不至重費。蕃部地宜馬,且以畜牧為生,誠為便利。」已而得駒庳劣,亡失者責償,蕃部苦之,其法尋廢。至是,環慶路經畧司復言已檄諸蕃部養馬,詔閱實及格者一匹支五縑,鄜延、秦鳳、涇原路準此。

当時、西方で兵を用い、多く戸馬を調発して戦騎に給し、借りた者は返還し、死んだ者は代価を償った。七年、遂に詔して河東・鄜延・環慶路が各々戸馬二千を発して正兵に給し、河東は本路に就いて給し、鄜延は永興軍等路及び京西の坊郭馬を加え、環慶は秦鳳等路及び開封府界の馬を加えた。

原文時西方用兵,頗調戶馬以給戰騎,借者給還,死則償直。七年,遂詔河東、鄜延、環慶路各發戶馬二千以給正兵,河東就給本路,鄜延益以永興軍等路及京西坊郭馬,環慶益以秦鳳等路及開封府界馬。

戸馬は既に兵に配した後、遂に補うことはなかった。京東・西は既に保馬に改め、諸路の養馬指揮は八年に至って廃止された。その後、地を与えて牧馬するのは、やはり戸馬の趣旨に基づくものである。

原文戶馬既配兵,後遂不復補。京東、西既更為保馬,諸路養馬指揮至八年亦罷。其後給地牧馬,則亦本於戶馬之意云。

収市に至っては、なお嘉祐の制に従い、買馬司を原渭州・徳順軍に置き、招市の令を増やした。後に熙河を開くと、更に熙河に買馬司を置き、秦州買馬司をこれに隷属させた。八年、遂に熙河路に買馬場六箇所を置き、原・渭・徳順の諸場は皆廃した。続いてまた熙河岷州・通遠軍・永寧砦等に場を置き、徳順軍に馬場を置くことも復活した。先に、麟府路が上申した所市の馬三百は、その価格が熙河より高く、かつ多く羸憊していたので、本路の博易を廃し、軍馬司に自ら買わせるよう命じた。当時また、辺臣の議により、岢嵐・火山軍の土産馬を買って戦騎を増やした。既にまた、辺人が盗んだ馬で国境を越えて利を求めるので、まもなく皆これを廃した。ここより、国馬は専ら熙河・秦鳳の市に仰ぐようになった。

原文至於收市,則仍嘉祐之制,置買馬司於原渭州、德順軍,而增為招市之令。後開熙河,則更於熙河置買馬司,而以秦州買馬司隸焉。八年,遂置熙河路買馬場六,而原、渭、德順諸場皆廢。繼又置熙河岷州、通遠軍、永寧砦等場,而德順軍置馬場亦復。先是,麟府路上所市馬三百,以其直增於熙河而又多羸憊,乃罷本路博易,令軍馬司自市。時又以邊臣之議,市岢嵐、火山軍土產馬以增戰騎。既又以邊人盜馬越疆以趣利,尋皆罷之。自是,國馬專仰市於熙河、秦鳳矣。

熙寧七年、熙河において兵を用い、馬の通路が遮断された。そこで詔して成都府知事蔡延慶に戎州・黎州の買馬を兼ねて提挙させ、その事を経営計画させた。翌年、延慶が言上した、「威州・雅州・嘉州・瀘州・文州・龍州は、地が烏蛮・西羌に接し、皆良馬を産する。知州・砦主に委ね、錦采・茶・絹をもって招き市買することを請う」。施行に及ばないうちに、威州・茂州の夷人が辺境を侵し、また西辺の馬が既に到着したため、八月、遂に詔して戎・黎の買馬提挙を罷めた。

原文熙寧七年,熙河用兵,馬道梗絕。乃詔知成都府蔡延慶兼提舉戎、黎州買馬,以經度其事。明年,延慶言:「威、雅、嘉、瀘、文、龍州,地接烏蠻、西羌,皆產善馬。請委知州、砦主,以錦采、茶、絹招市。」未及施行,會威、茂州夷人盜邊,及西邊馬已至,八月,遂詔罷提舉戎、黎買馬。

元豊年間、軍事が起こり馬が不足した。六年、再び成都知事呂大防に命じ、成都府・利州路転運司とともに、辺境の郡で馬を市買できるところを経制させ、遂に嘉州中鎮砦・雅州霊関などに買馬場を設けたが、馬は皆来なかった。元祐初年、乃ちこれを罷めた。

原文元豐中,軍興乏馬。六年,復命知成都呂大防同成都府、利州路轉運司,經制邊郡之可市馬者,遂制嘉州中鎮砦、雅州靈關等買馬場,而馬皆不至。元祐初,乃罷之。

元祐年間、嘗て詔して蜀の馬を陝西の軍に給し、陝西の馬を京師に送らせた。崇寧五年、黎州市馬を四千匹に増やした。しかし凡そ蜀馬と云うものは、ただ沈黎で市買するものが多く、その他は戎州・瀘州などの州の如く、毎年蛮人と市を行い、ただ優遇を存し、馬の数を数えてその代価を給するに過ぎなかった。大観初年、また詔して播州夷界巡検楊栄に、南平軍において毎年五十匹の馬を市買することを許し、その給賜は戎州の数に準じた。

原文元祐中,嘗詔以蜀馬給陝西軍,以陝西馬赴京師。崇寧五年,增黎州市馬至四千疋。然凡雲蜀馬者,惟沈黎所市為多,其他如戎、瀘等州,歲與蠻人為市,第存優恤,數馬以給其直。大觀初,又詔播州夷界巡檢楊榮,許歲市馬五十疋於南平軍,其給賜視戎州之數。

熙寧年間、券馬を罷めて専ら招市に務め、毎年三司の銭二十万緡を節減した。馬が槽を下りずに出牧しないようになってから、三司が再び芻秣の費用を給し互いに補い除き、三司が毎年群牧司に償うものは、緡銭十万とし、以て市馬を増やした。券馬の廃止は既に久しかったが、紹聖初年、提挙買馬陸師閔が奏して再びこれを行い、蕃漢の商人で馬を結券して進売することを願う者に、先ず諸場において検印させ、各々その価格を具えて券を与え、太僕寺に送って償わせた。その説は、券馬が既に盛行すれば、綱馬は罷められるとするものであった。これを三年行うと、枢密院が言上した、券馬の死亡は一厘に及ばず、綱馬の死亡はその十倍であると。乃ち師閔に金帛を賜い、集賢修撰を加え、以てその功を賞した。当時の議論は既に券馬を是とせず、主管買馬閻令もその枉費を言上した。しかし曾布が力を入れてこれを行った。崇寧年間、乃ち詔して買馬は一切元豊の法に従うこととした。

原文熙寧中,罷券馬而專於招市,歲省三司錢二十萬緡。自馬不下槽出牧,三司復給芻秣之費更相補除,而三司歲償群牧者,為緡錢十萬,以增市馬。券馬之罷已久,紹聖初,提舉買馬陸師閔奏復行之,令蕃漢商人願以馬結券進賣者,先從諸場驗印,各具其直給券,送太僕寺償之。其說以為券馬既盛行,則綱馬可罷。行之三年,樞密院言券馬死不及厘,而綱馬之死十倍。乃賜師閔金帛,加集賢修撰,以賞其功。時議既不以券馬為是,主管買馬閻令亦言其枉費。然曾布力行之。崇寧中,乃詔買馬一遵元豐法。

市馬の官は、嘉祐年間より、始めて陝西転運使に本路監牧買馬事を兼ねさせ、後にまた制置陝西解塩官にこれを同主させた。熙寧年間、始めて提挙熙河路買馬を置き、熙州知事王韶をこれに任じ、提点刑獄を以て同提挙とした。

原文市馬之官,自嘉祐中,始以陝西轉運使兼本路監牧買馬事,後又以制置陝西解鹽官同主之。熙寧中,始置提舉熙河路買馬,命知熙州王韶為之,而以提點刑獄為同提舉。

八年、提挙茶場李杞が言上した、「茶を売り馬を買うことは、固より一事である。買馬を同提挙することを請う」。詔してその請いの如くとした。十年、また群牧行司を置き、以て往来して市馬を監督させた。

原文八年,提舉茶場李杞言:「賣茶買馬,固為一事。乞同提舉買馬。」詔如其請。十年,又置群牧行司,以往來督市馬者。

元豊三年、再び罷めて提挙買馬監牧司とした。四年、群牧判官郭茂恂が言上した、「詔を承り、専ら茶を以て馬を市い、物帛を以て穀を市い、而して茶馬を一司に併せることを議ず。臣聞く、頃時に茶を以て馬を易え、兼ねて金帛を用い、またその便を聴くと。近年事局既に分かれ、専ら銀絹・錢鈔を用いるは、蕃部の欲する所に非ず。且つ茶馬の二者は、事実相須つ。詔の如く便ならしむることを請う」。奏は可とされた。仍て詔して専ら雅州名山茶を以て馬を易える用に充てた。ここより蕃馬の至るもの稍々衆くなった。六年、買馬司は再び茶事を兼ねることを罷めた。七年、更に詔して買馬を経制熙河財用司に隷属させた。経制司が罷められると、乃ち旧に復した。

原文元豐三年(1080年),復罷為提舉買馬監牧司。四年,群牧判官郭茂恂言:「承詔議專以茶市馬,以物帛市穀,而並茶馬為一司。臣聞頃時以茶易馬,兼用金帛,亦聽其便。近歲事局既分,專用銀絹、錢鈔,非蕃部所欲。且茶馬二者,事實相須。請如詔便。」奏可。仍詔專以雅州名山茶為易馬用。自是蕃馬至者稍眾。六年,買馬司復罷兼茶事。七年,更詔以買馬隸經制熙河財用司。經制司罷,乃復故。

李杞の建議より、始めて提挙茶事が買馬を兼ね、その後二職の分合は一でなかった。崇寧四年、詔して曰く、「神宗皇帝は庶政に厲精し、熙河路茶馬司を経営して国馬を致し、法制大いに備わる。その後監司がその利を侵奪して糴買を助けんと欲したため、茶利専ならず、而して馬は額に敷かず。近く雖も更に条約を立て、茶馬司に総じて茶を運び馬を博する職を令すも、猶慮う有司苟もに目前の近利にし、悠久の深害を顧みざるを。三省其れ已に行わるるを謹守し、輒て元豊の成法を変乱すること無かれ」。ここより職任始めて一となった。

原文自李杞建議,始於提舉茶事兼買馬,其後二職分合不一。崇寧四年,詔曰:「神宗皇帝厲精庶政,經營熙河路茶馬司以致國馬,法制大備。其後監司欲侵奪其利以助糴買,故茶利不專,而馬不敷額。近雖更立條約,令茶馬司總運茶博馬之職,猶慮有司苟於目前近利,不顧悠久深害。三省其謹守已行,毋輒變亂元豐成法。」自是職任始一。

市馬の数は、時に従って増減した。初め、原州・渭州・徳順軍の三箇所で凡そ三年に共に馬一万七千百匹を市買したが、群牧判官王誨が言上した、「嘉祐六年以前、秦州の券馬は毎年一万五千匹到着した。今券馬法は壊れ、増市を令し、而して使臣の賞を優遇することを請う」。熙寧三年、乃ち詔して涇州・原州・渭州・徳順軍に毎年一万匹を買わせ、三年でこれを会計し、十分を率とし、六分七厘に及ぶ者は一官を進め、余分はまた三等に析ち、毎に一等を増す者には更に磨勘年を減ず」。ここより、市馬の賞は始めて優となった。時に誨が『馬政条約』を上り、詔してこれを頒行した。その後、熙河の市馬は毎年一万五千に増加した。紹聖年間、また二万匹に増え、毎年の費用は五十万緡となった。後遂にこれを定額とし、特詔で増市するものはこの数に在らずとした。

原文市馬之數,以時增損。初,原、渭、德順凡三歲共市馬萬七千一百匹,而群牧判官王誨言:「嘉祐六年以前,秦州券馬歲至者萬五千匹。今券馬法壞,請令增市,而優使臣之賞。」熙寧三年,乃詔涇、原、渭、德順歲買萬匹,三年而會之,以十分為率,及六分七厘者進一官,餘分又析為三等,每增一等者更減磨勘年。自是,市馬之賞始優矣。時誨上《馬政條約》,詔頒行之。其後,熙河市馬歲增至萬五千。紹聖中,又增至二萬匹,歲費五十萬緡。後遂以為定額,特詔增市者不在此數。

崇寧四年、提挙程之邵・孫鼇抃が額外に戦馬を市い二万匹に及んだため、各々一官を遷した。鼇抃には仍て三品の服を賜った。大観元年、龐寅孫らまた御前良馬を買い三万匹に及んだため、之邵の例の如く推恩した。宣和年間、宇文常・何漸ら更に元豊成法を遵用し、費用を省くこと貲えず、各々職を加え官を遷した。時に此の類頗る衆し。賞典優にして濫れ、官属は多市馬を利し、取って充数するのみであった。

原文崇寧四年,提舉程之邵、孫鼇抃以額外市戰馬及二萬匹,各遷一官。鼇抃仍賜三品服。大觀元年,龐寅孫等又以買御前良馬及三萬疋,推恩如之邵例。宣和中,宇文常、何漸等更以遵用元豐成法,省費不貲,各加職遷官。時如此類頗眾。賞典優濫,官屬利於多市馬,取充數而已。

支配。旧制、御馬より以下、次に臣僚に給賜し、次に諸軍に給し、而して駅馬を下とした。

原文支配。舊制,自御馬而下,次給賜臣僚,次諸軍,而驛馬為下。

熙寧初年、枢密院が言上した、「祖宗の時、臣僚で辺職に任ずる者は、或いは帯甲馬を賜い、疆埸の事を忘れざるを示した。承平日久しく、僥幸滋長す。応に使臣閤門祗候以上で、三路の路分州軍総管・鈐轄の類に充つる者は、馬価を賜うこと故の如くし、余は皆罷めて給することを請う」。奏は可とされた。十年、群牧司また言上した、「去歳安南行営及び両省・宗室・諸班直及び諸軍・諸司に給した馬総て三千余匹、未支のもの猶二千。宗室以下に給する馬を裁し、諸司には給するを停むることを請う」。これに従った。監を罷めてより此に至り、始めて馬が欠乏した。

原文熙寧初,樞密院言:「祖宗時,臣僚任邊職者,或賜帶甲馬,示不忘疆埸之事。承平日久,僥幸滋長。請應使臣閤門祗候以上,充三路路分州軍總管、鈐轄之類,賜馬價如故,餘皆罷給。」奏可。十年,群牧司又言:「去歲給安南行營及兩省、宗室、諸班直及諸軍、諸司馬總三千餘匹,未支者猶二千。請裁宗室以下所給馬,諸司停給。」從之。自罷監至此,始闕馬矣。

熙寧初年、詔して河北の騎軍に陝西・河東の社馬の例の如く社を立てさせ、更に相助けて銭を出し以て馬を市い、而して官直を遞増させた。尋いで奉宸庫の珠十余万を出して以てその費に充てた。その後、陝西の馬社は斂率に苦しんだ。元豊年間、乃ち詔して本路にその法を罷めさせ、更に買馬司よりこれを給することとした。時に又諸路に将を置き、馬を尽く給し得ざれば、則ちその価を給し、而して諸将に委ねて自ら市わせた。熙河蘭会路に在る者は、即ち以て買馬の数とした。

原文熙寧初,詔河北騎軍如陝西、河東社馬例立社,更相助錢以市馬,而遞增官直。尋出奉宸庫珠十餘萬以充其費。其後,陝西馬社苦於斂率。元豐中,乃詔本路罷其法,更從買馬司給之。時又諸路置將,馬不能盡給,則給其直,而委諸將自市。其在熙河蘭會路者,即以為買馬之數。

初め、内外の諸軍に馬を給するは、例その元額に及ばず、その欠乏の多寡を視て、分数を以て填配した。元豊更に立って定制と為し、凡そ諸軍欠乏馬応に給すべき者は、在京・府界・京東西・河東・陝西路は十の七を過ぎず、河北路は十の六とした。然るにその後諸軍欠乏馬する者多く、紹聖三年、乃ち詔して提挙陸師閔に毎年の額外に馬三万匹を市わせ、鄜延路・環慶路の正兵に給し、余は弓箭手に支給し、仍て権に分数を限らせなかった。

原文初,內外諸軍給馬,例不及其元額,視其闕之多寡,以分數填配。元豐更立為定制,凡諸軍闕馬應給者,在京、府界、京東西、河東、陝西路無過十之七,河北路十之六。然其後諸軍闕馬者多,紹聖三年,乃詔提舉陸師閔於歲額外市馬三萬匹,給鄜延、環慶路正兵,餘支弓箭手,仍權不限分數。

宣和初年、真定・中山・高陽等路馬を欠乏し、再び度僧牒を給し、帥臣に就いて市わせ、以て諸軍の欠乏を補った。

原文宣和初,真定、中山、高陽等路乏馬,復給度僧牒,令帥臣就市,以補諸軍之闕。

高宗紹興二年(1132年)、饒州に馬監を設置し、守卒にこれを管轄させ、官田を選んで牧地とし、また提挙を置いた。まもなく廃止された。四年、監を臨安の餘杭及び南蕩に置いた。

原文高宗紹興二年(1132年),置馬監於饒州,守卒領之,擇官田為牧地,復置提舉。俄廢。四年,置監臨安之餘杭及南蕩。

十九年、詔して曰く、「馬五百匹を以て一監と為し、牡一に牝四とす。監は四群と為す。歳に駒を産すること三分及び斃すること二分以上あれば、賞罰有り」と。帝、輔臣に謂いて曰く、「議者は南の地は牧馬に適さずと云う。昨より牧養して、今二三年、既に馬数百を得たり」と。先に、川路に置かれた馬は、歳ごとに鎮江で牧養されていた。是の年春、上は蕃息を見ざるを以て、遂に江上の諸軍に分送した。後にまた監を郢・鄂の間に置き、牝牡千匹、十餘年で僅かに二十駒を生むのみで、且つ用いるべからず、乃ち已んだ。故に凡そ戦馬は、悉く秦・川・広の三辺に仰ぐ。

原文十九年,詔:「馬五百匹為一監,牡一而牝四。監為四群。歲產駒三分及斃二分以上,有賞罰。」帝謂輔臣曰:「議者言南地不宜牧馬。昨自牧養,今二三年,已得馬數百。」先是,川路所置馬,歲牧於鎮江。是年春,上以未見蕃息,遂分送江上諸軍。後又置監郢、鄂間,牝牡千,十餘年僅生二十駒,且不可用,乃已。故凡戰馬,悉仰秦、川、廣三邊焉。

秦の馬は旧二万匹、乾道年間、秦・川の買馬額は歳に一万一千九百余、川司六千、秦司五千九百。益・梓・利の三路漕司は、歳に易馬絹十万四千匹を出す。成都・利州路十一州は、茶二千一百二万斤を産する。茶馬司の収める所、大略此の如し。慶元初年、川・秦両司を合わせて一万一千十六匹。嘉泰末年、両司を合わせて一万二千九十四匹。

原文秦馬舊二萬,乾道間,秦、川買馬額歲萬一千九百有奇,川司六千,秦司五千九百。益、梓、利三路漕司,歲出易馬〓絹十萬四千疋。成都、利州路十一州,產茶二千一百二萬斤。茶馬司所收,大較若此。慶元初,合川、秦兩司為萬一千十有六。嘉泰末,合兩司為萬二千九十四。

然れども累歳市易して、多くは額に及ばず。蓋し南渡以前、市馬は分かれて二と為す:其の一は戦馬と曰い、西郵に生じ、良健にして行陣に備うるに足り、今の宕昌・峰貼峽・文州の産する所是れなり;其の二は羈縻馬と曰い、西南諸蠻に産し、短小にして格に及ばず、今の黎・敘等五州の産する所是れなり。羈縻馬は毎綱五十匹、其の間良なるものは三五匹に過ぎず、中等十数匹、余は皆下等にして、服乗すべからず。守貳は賞格に貪り、多くを以て貴しと為す。険遠を経渉し、且つ綱卒其の芻粟を盗み、道に斃るる者相望む。

原文然累歲市易,多不及額。蓋南渡前,市馬分而為二:其一曰戰馬,生於西郵,良健可備行陣,今宕昌、峰貼峽、文州所產是也;其二曰羈縻馬,產西南諸蠻,短小不及格,今黎、敘等五州所產是也。羈縻馬每綱五十,其間良者不過三五,中等十數,餘皆下等,不可服乘。守貳貪賞格,以多為貴。經涉險遠,且綱卒盜其芻粟,道斃者相望。

成都府馬務は、歳に江上諸軍に発する馬凡そ五十八綱、月の券錢米二百緡、歳計一万一千六百緡。興元府馬務は、歳に三衙に発する馬百二十綱、其の費は是に称す。率いていまだ嘗て数の如くならず、蓋し茶馬司錢帛を吝しみ、馬至れば、価を即時に償わざるに致るなり。

原文成都府馬務,歲發江上諸軍馬凡五十八綱,月券錢米二百緡,歲計萬一千六百緡。興元府馬務,歲發三衙馬百二十綱,其費稱是。率未嘗如數,蓋茶馬司靳錢帛,馬至,價不即償致然也。

旧く蕃蠻中に馬を市うに、良駑に定価有り。紹興年中、張鬆が黎倅と為り、馬の溢額を欲して賞を覬い、乃ち高直を以てこれを市う。夷人は厭きること無く、邀求滋く甚だし。後に邛部川蠻は功を恃む。趙彥博始めて細茶・錦を以てこれに与う。而して夷人は毎に馬を貿うに、茶・錦の不堪を以て藉口と為す。

原文舊蕃蠻中馬,良駑有定價。紹興中,張鬆為黎倅,欲馬溢額覬賞,乃高直市之。夷人無厭,邀求滋甚。後邛部川蠻恃功。趙彥博始以細茶、錦與之。而夷人每貿馬,以茶、錦不堪藉口。

慶元年中、金人は既に冀北の地を失い、馬秦司に至るも亦罕なり。旧く川・秦の市馬は密院に赴くも、多くは道に斃るる者有り。紹興二十七年、詔して川馬を行在に赴かしめず、江上諸軍に分隷せしむ、鎮江・建康・荊・鄂の軍各七百五十匹、江・池の軍各五百匹、殿前司二千五百匹、馬司・歩司各千匹、川馬の良き者二百匹を進御す。此れ十九年の定めたる格なり。

原文慶元中,金人既失冀北地,馬至秦司亦罕。舊川、秦市馬赴密院,多道斃者。紹興二十七年,詔川馬不赴行在,分隸江上諸軍,鎮江、建康、荊、鄂軍各七百五十,江、池軍各五百,殿前司二千五百,馬司、步司各千,川馬良者二百進御。此十九年所定格也。

広馬とは、建炎末年、広西提挙峒丁李棫が市馬を行在に赴かしむるを請う。紹興初年、経略司に隷す。三年、即ち邕州に司提挙を置き、羅殿・自杞・大理諸蠻に市う。未だ幾ばくもせず、買馬司を廃し、帥臣これを領す。七年、胡舜陟が帥と為り、歳中に馬二千四百匹を市い、詔してこれを賞す。其の後馬益々精しく、歳費黄金五鎰、中金二百五十鎰、錦四百端、絁四千匹、廉州塩二百万斤、馬千五百匹を得。須く四尺二寸以上にして乃ちこれを市う。其の直は銀四十両と為し、毎に一寸高きごとに銀十両を増し、六七十両に至る者有り。土人の云うに、尤も駔駿なる者は、其の産処に在り、或いは黄金二十両を博し、日四百里を行くも、第に官価已に定まり、此れを致すこと能わずと。

原文廣馬者,建炎末,廣西提舉峒丁李棫請市馬赴行在。紹興初,隸經畧司。三年,即邕州置司提舉,市於羅殿、自杞、大理諸蠻。未幾,廢買馬司,帥臣領之。七年,胡舜陟為帥,歲中市馬二千四百,詔賞之。其後馬益精,歲費黃金五鎰,中金二百五十鎰,錦四百,絁四千,廉州鹽二百萬斤,得馬千五百。須四尺二寸已上乃市之。其直為銀四十兩,每高一寸增銀十兩,有至六七十兩者。土人云,尤駔駿者,在其產處,或博黃金二十兩,日行四百里,第官價已定,不能致此。

自杞諸蕃は本より馬無く、蓋し南詔より転市するなり。南詔は、大理国なり。乾道九年、大理人李觀音得等二十二人横山砦に至り馬を市わんことを求め、邕州知事姚恪盛んに金帛を陳べて之に誇示す。其の人々大いに喜び、一つの文書を出し、「利貞二年十二月」と称し、来年馬を以て来らんことを約す。求むる所の『文選』・『五経』・『国語』・『三史』・『初学記』及び医・釈等の書、恪厚く遺って之を遣わすも、而して敢えて上聞せざりき。嶺南は自ら小駟を産し、匹直十余千、淮・湖の出す所と異ならず。大理は西戎に連なり、故に馬多く、広南に互市するも、其の実猶西馬なり。毎に其の良きを択びて三衙に赴かしめ、余は以て江上諸軍に付す。

原文自杞諸蕃本自無馬,蓋轉市之南詔。南詔,大理國也。乾道九年,大理人李觀音得等二十二人至橫山砦求市馬,知邕州姚恪盛陳金帛誇示之。其人大喜,出一文書,稱「利貞二年十二月」,約來年以馬來。所求《文選》、《五經》、《國語》、《三史》、《初學記》及醫、釋等書,恪厚遺遣之,而不敢上聞也。嶺南自產小駟,匹直十餘千,與淮、湖所出無異。大理連西戎,故多馬,雖互市於廣南,其實猶西馬也。每擇其良赴三衙,餘以付江上諸軍。

宝慶四年、両淮制府は北馬五千余匹を貿易し、而して他郡も亦往往馬を市うこと輟まず。咸淳末年、紀智立と云う者謀を献じ、以て両淮の軍将・武官・巨室は皆馬を畜い、率いて三は二を借り、二は一を借り、一は全く起し、隊伍を団結し、防江を助け、各々飼馬役夫に自ら之に乗りて官に赴かしめ、月錢を優給すること一年、半年を以て約と為し、江面寧かなれば即ち帰放すべしと云う。又云う、陳巖が招信を守り、馬を団すること七千に至り、出没張耀す、此れ其の験なりと。臣僚言う:宜しく祖宗の遺意に倣い、亟に和市馬を謀るべし、一馬を出すこと有らば、則ち其の某色の力役を免ずべしと。惟だ是れ川・秦の馬は、陸に遵えば則ち崇岡復嶺、盤回斗絶;舟行すれば則ち峡江湍急、灘磧険悪。毎綱運、公私の経費十倍し、而して人馬俱に疲る。上は則ち国用を耗し、下は則ち州県を困す。綱兵の経る所、寇賊に甚だし。臣僚の条奏更迭すと雖も、終に其の要領を得ず。豈に馬政は各々風土の宜に因るものにして、而して東南の利に非ざるか。

原文寶慶四年,兩淮制府貿易北馬五千餘,而他郡亦往往市馬不輟。咸淳末,有紀智立者獻謀,以為兩淮軍將、武官、巨室皆畜馬,率三借二,二借一,一全起,團結隊伍,借助防江,各令飼馬役夫自乘之官,優給月錢一年,以半年為約,江面寧即放歸。又云,陳巖守招信,團馬至七千,出沒張耀,此其驗也。臣僚言:宜倣祖宗遺意,亟謀和市馬,如出一馬,則免其某色力役。惟是川、秦之馬,遵陸則崇岡復嶺,盤回斗絕;舟行則峽江湍急,灘磧險惡。每綱運,公私經費十倍,而人馬俱疲。上則耗國用,下則困州縣。綱兵所經,甚於寇賊。雖臣僚條奏更迭,終莫得其要領。豈馬政各因風土之宜,而非東南之利歟?