器甲の制度
器甲の制度は、その工務官署には南北作坊があり、弓弩院があり、諸州には皆作院があり、いずれも工匠・労役者を動員してその定常的な課役を定めていた。南北作坊は毎年、塗金脊鉄甲など総計三万二千を造り、弓弩院は毎年、角把弓など総計千六百五十万余を造り、諸州は毎年、黄樺弓・黒漆弓弩など総計六百二十万余を造った。また南北作坊及び諸州は別に兵幕・甲袋・梭衫などの雑物を造り、軍行の用に備えた。京師で造るものは、十日ごとに一度進上し、これを「旬課」と称した。上(皇帝)が自ら閲覧し、五つの倉庫を設けてこれを貯蔵した。かつて郊外で床子弩を試射させたところ、矢は七百歩に及び、また別に歩弩を造らせて試射させた。戎具は精巧で鋭利であり、近代に未だかつてなかった。
五年、寧化軍知軍劉永錫が手砲を製して献上し、詔して沿辺に造らせて用に充てる。
六年十月、軍中の伝信牌を給する。その制は、漆を塗った木を牌とし、長さ六寸、幅三寸、腹背に字を刻んで中央で二分し、鑿枘を設けて合わせられるようにする。また二つの穴を穿ち筆墨を容れ、上に紙札を施す。毎度臨陣する時には分けて持ち、あるいは命令を伝える時にはその言葉を記して軍吏の首に掛け、至って符合すれば、乃ち返事を書く。冀州団練使石普の請願によるものである。
仁宗の時、天下久しく兵を用いず。天聖四年、詔して諸路の毎年造る兵器を半減する。この年、詔して作坊に鉄槍一万五千を造らせ、秦・渭・環・慶・延州・鎮戎軍に給する。六年、詔す:外器甲は久しく修繕せず、先に使者を遣わし諸路に分かれて赴き閲覧し修治させる。
四年、詔して作坊に栓子槍・柧槍を各五万ずつ製させる。
五年、詔して諸路の儲蔵する兵械は悉く三司に報告せしめ、三司は毎年須知を具えて奏聞せしめ、仍って程式を約してこれを預め頒布す。
八年、詔す、「士庶の家に蔵する兵器、法の許さざる所のものは、一箇月を限り官に送れ。敢えて匿す者は、人の告捕を聴く。」
四年、河北・河東・陝西都総管司言う、「郭諮の造れる独轅衝陣無敵流星弩は、以て軍陣の用に備え得。」詔して弓弩院にその様の如く製せしむ。郭諮を除して鄜延路鈐轄と為し、弩五百を置き、土民を募りてこれを教うるを許す。既に成り、経略夏安期その便を言う。詔して独轅弩軍を立てしむ。
五年、荊南兵馬鈐轄王遂、臨陣柺槍を上る。
嘉祐四年、詔す、京師の製する軍器は、多く鋒利ならず。朝臣・使臣各一員を選びこれを揀試せしめよ。
七年、詔す、江西制置賊盗司は、在所の私造兵甲の匠は並びに姓名を籍し、もし再犯する者は、妻子と共に淮南に徙す。
四年、詔す、諸路は官を遣わして州に詣らしめ、庫蔵の甲兵器を沿辺三路の如く三等に分つ。而して川峡は与からず。
五年、帝、匣中の斬馬刀を出して蔡挺に示す。挺、製作精にして操撃便なりと謂う。乃ち中人に工を領せしめて数万口を造らしめ辺臣に賜う。鐔は長さ尺余、刃は三尺余、首は大環を為す。是歳、詔して権三司度支副使沈起に軍器制度を詳定せしむ。起以為く、一己の見は有限なり。宜しく在京及び三路の主兵官・監官・工匠に法度の宜き所を審度せしむべし。庶くは久しく伝うべし。詔してこれに従う。
時に帝、戎器を利せんと欲し、而して有司の苟簡を患う。王雱上疏して曰く、「漢の宣帝は中興の賢主と号せられ、而して史は技巧工匠、独り元・成の時に精しと称す。これは有司の事と雖も、而上は朝廷の政に係る。方今外には辺患を禦ぎ、内には盗賊を虞う。而して天下の歳課たる弓弩・甲冑、武庫に入り充つるもの千万数を以てす。乃ち一つも堅好精利にして実に備えと為すべきもの無し。臣嘗て諸州の作院を観るに、兵匠乏少にして、市人を拘えて役に備うるに至り、作る所の器は但だ形質のみ。武庫の吏は、その多寡の数を計りてこれを蔵し、未だその実用を責むること無し。故に積む所多くと雖も、大抵敝悪なり。夫れ政を為すこと此の如くにして、威を抗え勝を決し、外を攘ぎ内を修めんと欲するは、未だその可なるを見ず。儻し武備を弛め、天下に無事を以て示さんと欲せば、則ち金木・絲枲・筋膠・角羽の材は、皆民力なり。故無く工を聚めてこれを毀つは、甚だ惜しむべし。法度を更に製し、数州の作を斂めて一処に聚め、今の銭監の比の如くし、工事を知る臣を択んでその職を専にせしめ、且つ天下の良工を募りて匠師と為し散じ、而して朝廷内に工官を置き以てその事を総制し、その精窳を察して賞罰すれば、則ち人人力勝を務め、責めずして皆精ならん。聞く、今の武庫に太祖時の弓尚ほ新しきが如き有り、而して近世の造る所は往々用に堪えず。これ法禁の張弛を見るべし。」と。大抵雱この言を為すは、以て上意に迎逢し、妄りに旧制を更えんと欲するなり。
熙寧六年、初めて軍器監を設置し、内外の軍器の政務を総括させた。判一人、同判一人を置く。属官として丞があり、主簿があり、管當公事があった。これ以前は、軍器は三司が管轄していたが、この時これを廃し、すべて監に総括させた。材木を産する州にはすべて都作院を置いた。軍器の利害を知る者は、監に赴いて陳述することを許し、これにより官吏・民衆が器械の法式を献ずる者が甚だ多かった。この年、また内弓箭南庫を設置した。軍器監は利器を諸路の作院に頒布して法式とすべしと奏上した。この年の冬、騎兵が大鞍を用いるのは野戦に不便であるとして、初めて小鞍を製した。皮〓木〓登にして、回旋に長け、馬射において馳驟することができ、また辺境の騎射に習熟する者を選んで諸軍に分属させた。
時に周士隆が上書して広西・交阯の事を論じ、車を用いて象陣を防ぐべきことを請うたが、文彦博はこれを非とした。王安石は、前代から本朝に至るまで、南方はしばしば象をもって中国に勝ち、士隆の策は用いるべきであると考え、因みに古来の車戦法について甚だ弁じ、車と騎兵を相対させて試み、どちらが有利かを観察することを請うた。帝もまた北辺は地勢が平坦であるから、車を用いて営とすることができると言い、そこで車法を試すことを詔し、沿河の地に車材三千両を採らせ、軍器監に法式を定めさせ、戦車を造って進上させた。
熙寧七年、判監の呂惠卿が言うには、「当監が上進した弓の様式その他の兵器の制度について、殿前司・馬軍司・歩軍司の三司に下して取捨を定奪させた。しかし各司はただ軍校から文状を取って責め聞くに過ぎず、旧説を固持して更改を肯んぜぬのみならず、その智慮もまた作器の意を知り得るとは限らない。臣は朝廷の既に行われた命令について、敢えて改めよと言うにあらず、一司において同議することを乞う。」帝はそこで管軍の郝質を遣わして監に赴き定奪させたが、皆「便なり」と言った。時に軍器監の製器は統一されず、材用がますます消耗した。そこで常制によらず官を選んで馳せ州県に遣わし、牛皮・角・筋を根こそぎ徴発し、数量を余剰させることができれば、順次に奨励を加えることを詔した。この年、初めて狼牙・鴨觜・出尖四楞・一插刃鑿子の四種の箭を造り、これを推行した。
熙寧八年、詔して曰く、「河北の拒馬は、多く竹をもってこれを作るものあり、敵に当たるに足らず。軍器監に三万具を造らせて北京・澶州・定州に送らせよ。」また河北の不足する兵器を計って製造させ、不急のものは妄りに材力を費やすことなきを命じた。また民戸の馬が死んだ場合、旧来は官に報告しなかった者もすべて報告させ、皮筋を納めて用に充てることを詔した。
帝は監を設置しても実効がなく、虚しく材用と労役を費やすことを慮り、中書・枢密院にその事実を核実させ、条画して奏聞することを命じた。軍器監は奏上して、監設置以来、兵器若干を増造し、工数若干を要し、以前の器に比べて増加し、工は省けりと。帝はさらにこれを詰問し、かつ御前工作所と比較してどちらが工を省くか、器のどちらが良きかを検証せよと命じた。王韶は言う、「このようにしますと、内外が相傾軋して風俗となることを恐れます。かつて往年、軍器監が内臣の弓弩折剝を検察した際、隙はここより生じました。今、内臣に軍器監を較べ按ずることをさせれば、またかつてのごとく相傾軋して已むことなきでしょう。」帝曰く、「近頃しきりに軍器監の事を説くが、もし事実を較べて見なければ、すなわち中外は小臣の譖訴を聞き入れたと思い込むであろう。今、事実を得て法を行わせるのは、曲直を明らかにするためである。」王安石曰く、「誠にこのようであるべきです。もし毎事曲直を分別し、その信実と虚誕を明らかにし、功罪が蔽われざるようにすれば、すなわち天下の治は久しきを得ましょう。」王韶曰く、「軍器監の事は比較する必要はありません。」帝曰く、「事を比較しなければ、枉直を見る由なし。」王安石曰く、「朝廷が事を治めるには、ただ直を欲するのみです。」その後、王安石はついに弁舌をもって帝の疑いを解き、軍器監は欺瞞冒涜の罪を免れた。冬十月、軍器監は河東等路に下して曲木を採買し鞍橋とすべしと欲したが、帝は民を労し財を費やすとして、許さなかった。この時、河東・陝西・広南の帥臣は功を邀えて已まず、兵器の増給を請うたので、帝は各々に給与するよう命じた。この時に至り、耕牛をもって器甲を博買せんことを乞う者あり。
時に西辺で用兵が久しく解けず。元豊四年春、陝西転運使の李稷が奏上して、「本道の九軍は、什物の外、一切これ無し。永興軍庫の余財をもって法を立てて営み弁ずることを乞う。」七月、涇原路が渭州城修築完了を奏上したが、防城の戦具が寡少であるとして、三弓八牛床子弩・一槍三剣箭の給与を乞い、各々法式に従って製造せんと欲した。詔して図様を給与した。
元豊五年七月、鄜延路計議辺事所が緡銭百万・工匠千人・鉄生熟五万斤・牛馬皮万張を乞い軍器を造らんと奏上し、すべてこれを給与した。八月、詔して沈括に劈陣大斧五千を選び西辺の諸将に給するよう命じた。十一月、陝西転運使の李察が言うには、「本路の都作院五ヶ所は、各々監司に委ねて提挙させるのが宜しい。」従った。
元豊六年二月、詔す:熙河路の守具に欠けるところあり、氈三千領・牛皮一万張を給し、これを運送せしむ。八月、環慶路の趙禼の請いに従い、神臂弓一千・箭十万をこれに給した。未だ幾ばくもなく、蘭会路に薬箭二十五万を賜う。
元豊七年、陝西転運副使の葉康直が言うには、「秦鳳路の軍器で現に欠けている名物は合わせて四百三十万余りに計上される。これを一一造ろうとすれば、十余年を要しても完成せず、京師より給賜されることを乞う。」詔して量を酌んで給与した。
帝は性質倹約なり。有司が将官の皮甲を造るに、生糸を染めて紅とし、犛牛の尾に代えて瀝水とせんとしたが、帝はこれを惜しみ、他の毛をもって代えさせた。一弓・一矢・一甲・一牌の用に至るまで、心を尽くさざるはなかった。弓は闊閃促張弓と曰い、長肖の旧法を罷めた。矢は減指箭と曰う。牌は欒竹に皮を穿ってこれを作り、桐木の牌に代えた。素鉄甲を改めて編挨甲とす。その法は精密にして、すなわち劉昌祚・尹抃・閻守勤等の定めたる制度という。
元豊八年十月、詔す:内外の造る軍器は、現存の余剰物材・工匠をもってこれを作り、兵匠・民工はすなわち罷め遣わすべし。
崇寧初め、臣僚争いて元祐以来の因循弛廢を言い、兵犀利ならず。詔して復た諸路の都作院に令して創造修治せしめ、官吏の考察は一も熙寧の時の如くせしむ。時に詔有りて五十将の器械を造らしむ。工部の請いに従い、内外に令して共に造らしむ。ここにおいて都大提挙内外製造軍器所の名立つ。
初め、邢恕の議に従い、下令して兵車数十乗を創造し、牛を買いて以て駕す。已にして蔡碩また河北に五十将の兵器を置き、且つ兵車万乗を為さんことを請う。蔡京その説を主とし、奸吏旁縁して因って民害を為すこと深し。
元豊の時、河北・河東路の軍器は、毎季終わりに逐路の職司に委ね更互に考察せしむ。元祐にこれを罷む。四年、工部の請いに因り、復たこれを行わしむ。
六年、軍器少監鄧之綱奏す、「国家諸路将と為すこと一百三十有一、士卒を訓練し、各々軍器を給し、以て不虞に備う。惟だ河北諸将の軍器は乃ち熙・豊の時に造り、精利牢密にして諸路に冠たり。臣恐る、歳久しく因循すれば、多く損弊を致すことを。河北・陝西路を首とし、諸路に令して一新に戎器せしめ、陛下の先誌を追述し、戎器を儲え国威を壮んとするの意を仰ぎ称せんことを乞う」と。これを従う。
靖康初め、兵仗皆な闕け、詔書屡々下り、厳しく賞刑を立つるも、而して卒に亦た補うこと無し。時に河陽通判・権州事張旂奏して曰く、「河陽は今春以来、累ねて軍馬經過有り、軍士随身の軍器を挙げ、馬甲・神臂弓・箭槍牌の類、市肆に於いて熟食に博易し、名は寄頓と為すも、其の実は棄遣し、征役を避け逃ぐるなり。拘収すること三日の間、器械四千二百余物を得たり。此れ乃ち太原の援師、尚ほ器甲を棄捐す。則ち他路の軍馬の事勢知るべし。宜しく民に諭し首納せしめ、以て他患を貽すを免れしむべし」と。帝旂の奏を善しとし、一官を以て賞す。
初め、御前軍器監・軍器所の萬全軍匠は三千七百人を定員とし、東・西作坊の工匠は五千人を定員とした。紹興初年、役兵は僅か千人であったが、時が経つにつれて五千六百余りに増え、さらに諸道で二千九百余りを増員し、本来の給与券の外に日銭百七十文・月米七斗半を追加支給した。これにより内庫には累年の兵械が山積みとなったが、諸軍は全て戎器を免除された。二十六年、詔して「工匠は減免すべく、江・浙・福建諸州の物料は全て免除せよ」と。有司が奏上して物料を三分の一減じ、工匠二千・雑役兵五百を定員とした。
旧来、軍器所は専達を許されていた。建炎年間、かつて宦官の董愨を提挙に任じたが、まもなく罷免した。紹興五年、工部に隷属させたが、後に再び中人に典領させた。三十年、工部が「祖宗の建官の意に非ず」と上言し、詔して条令に依って検察させた。孝宗が受禅すると、提点官を一員増員したが、御史が強くその不可を論じ、再び工部に隷属させた。
十五年、工部侍郎の李昌図が言う「弓矢の利は、便疾(便利で迅速)なるを貴ぶ。神臂弓は鬥力及び遠く、屡々その用を得たり。後、また神勁弓を造り、及遠は神臂弓の上に在りと雖も、軍中多くその発遅しと言う。神臂三矢の間に神勁はようやく一発するを得、若し臨敵の際には、便疾は却って神臂の下に出づ」と。上(孝宗)が言う「平原曠野には神勁弓を用うべく、西蜀の崇山峻嶺には、未だ孰れが利なるかを知らず」と。詔して金州都統司に詳議して奏聞させた。既にして都統制の呉挺が奏上して「神勁弓に並び彈子頭箭を、諸軍が用いれば誠に便疾にして、神臂は及ばず」と。詔してその便に従う。楚州兵馬鈐轄が言う「弩の力、勁きものは三十石、次は十五石、矢の鏃の状は鍬の如く、発する所は何啻数百歩、数人を洞穿す。江上の諸軍に弩式有りと雖も、皆廃して修めず」と。詔して両淮・荊襄の沿辺城守に、各二十枝を製させ、御前軍器所もまた之の如くせしめた。紹熙以後、日に器械を造り、その数は山積みの如し。
咸淳九年、沿辺州郡が、降式に因り回回炮を製す。触類して巧思有り、別に炮を置きてその上に出づ。且つ炮を破るの策は尤も奇なり。その法は、稻穰草を用いて堅き索と成し、条の囲み四寸、長さ三十四尺、毎二十条を束と為し、別に麻索を以て一頭を楼後柱に繫ぎ、楼を搭ぎ越えて、地に垂れ下がらしめ、栿梁に四層或いは五層垂れ下げ、楼屋を周り庇い、泥漿を沃す。火箭・火炮は侵す能わず、炮石は百鈞と雖も施す所無し。且つ軽便にして財を費やさず、立って名づけて「護陴籬索」と曰う。是の時、兵紀は振わず、独り器甲は旧制に視て益々詳かなり。