宋史

志第一百四十九 兵十

遷補之制

殿前司・侍衛馬軍司・歩軍司の諸校尉こういは、大礼のたびに、それぞれ順次に昇進し、これを「転員」と称した。転員して軍都指揮使に至り、さらに昇進すれば遙領刺史となり、さらに昇進して廂都指揮使となり、遙領団練使となる。員数が過剰になれば、ただちに上に従って軍職を罷め、正任の団練使・刺史の本任となり、あるいは他州の総管・鈐轄となる。老病あるいは過失ある者は、御前忠佐馬軍都軍頭・副都軍頭となり、軍頭司に隷属する。罷免される者は、外州の馬歩軍都指揮使となる。凡そ軍主に欠員があれば、軍都指揮使を順次に昇進させて補う。その他の欠員は、諸軍の都虞候・指揮使・副指揮使・行首・軍使・副行首・副兵馬使・十将を順次に昇進させて補う。凡そ将校は、一軍の営において十人を補うに止め、その廂都指揮使・軍都指揮使・都虞候・指揮使は、営主の一人を補えば、すなわちその三つは欠員とする。殿前司左右班都虞候が遙領刺史となれば、すなわち捧日軍都指揮使と通じ、順次に昇進して捧日・龍衛の廂都指揮使となり、なお遙領団練使とする。もし員数が過剰になれば、正任の刺史として外任を補い、その他は諸軍の例に従って順次に昇進させる。

凡そ列校の転補に際しては、有司はまず走躍・上下馬を検閲し、次に二十歩出て一指を出し、一目を掩ってこれを試み、左右各五つ、数を占って物を見ることを為す。武藝は、弓射五斗、弩は一石五斗を張り、槍刀手は稍を練る。徒罪に至らない罪を負い、年齢未だ高からず、あるいは年齢高くとも疾なく、精力耗せざる者を、併せてこれを取る。

凡そ諸軍が転員した後、殿前指揮使長入祗候を取って行門を充填し、東西班長入祗候・殿侍・諸班直を取って諸班の押班・諸軍の将校に充てる者は、皆親しく閲する。前日、入内都知あるいは押班一人・勾当御薬院内侍一人を命じ、軍頭引見司とともに弓弩の鬪力を較定し、標識を付ける。凡そ弓弩の藝が同等の者は、人ごとにその一つを占める。当日、引見し、弓弩を殿前に列置し、一つを取って射させることを命ずる。軍頭引見司は専ら箭を喝して奏することを視る。もし喝し誤れば、すなわち奏上して改正する。入内都知あるいは押班は勾当御薬院内侍とともに殿上で察視し、もし引見司が覚挙しなければ、これも奏上して改正する。槍刀手は勝負を竭くし、もし実を以て喝さず、併せて引見司が覚挙を失えば、併せてその罪を劾する。

太平興国九年、帝は崇政殿に詣でて諸軍の将校を転改し、軍都指揮使以下・員僚以上より、皆名籍に按じて労績を験し、これを陞陟すること、数日を経て畢った。内外感悦した。乃ち宰臣らに謂いて曰く、「朕が軍員を遷転するは、先ずその循謹にして能く下を御する者を取り、武勇はこれに次ぐ。もし自ら謹飭せざれば、則ちその下畏憚せず、仮令一夫の勇あれども、また何の用かあらん」と。

咸平三年五月、帝は便殿に御して軍職を遷補し、凡そ十一日にして畢った。神衛右第二軍都指揮使・恩州刺史周訓より下、順次に遷る者千三十一人。

四年十二月、帝は呂蒙正に謂いて曰く、「衆を選び才を求むるは、誠に易き事に非ず。朕は常に孜孜として詢訪し、冀くは所得あらんことを。向に軍校の中に求め、八九人を超擢し、方任に委ねたるに、その中王能・魏能は頗る甚だ宣力し、陳興・張禹珪も亦能名有り」と。蒙正ら曰く、「才は備を求むること難し。今十を抜きて五を得るは、以て陛下の臣を知るの明あるを見るなり」と。

五年、帝は枢密院知事周瑩に謂いて曰く、「国朝の制、軍員に欠員あれば、但だこれを権領し、三年に一度遷補す。期に及ばずして功を以て授くるは、止だ奉朝請するのみ。今欠員の処は則ち人を部轄すること乏し。須らく例に当って転補すべし」と。ここにおいて瑩らを召して便殿に至らしめ、軍籍に按じて次に補い、その外に屯戍する者及び軍額下に在りて素より恩例に該らざる者も、亦広くこれに及ぼす。凡そ再び旬を経て方に畢る。

景德二年四月、帝曰く、「殿前諸班・侍衛馬歩諸軍及び軍頭司諸軍員は、衰病に因り、あるいは他事を以て外職に出補するは、率ね皆臨事に奏裁し、殊に定制無し。その入る職名の類例を条して以て聞かしむべし」と。又曰く、「近く累ねに諸処の立功指揮使有りて、別に遷擢を加うべからざるは、皆特に本軍の都虞候を補す。旧にこの職名無し、蓋し権宜に加置するもの、若し後欠員あれば、復た補するを須いず」と。又曰く、「内外諸軍の欠く小校は、仮令名次を以て遷補せば、或いは武幹の士を尽く得ざるを慮る。今より併せて武藝を閲試し、選擢してこれを為さしむべし」と。

大中祥符四年七月、詔して曰く、「自来転補軍員は、皆議定して宣命を降し畢りて、方に引見して転補す。その間に老病にして職に任じざる者有れば、臨時にこれを易え、整斉する由無し。汾陰の大礼を経て、応に殿前馬歩軍諸班諸軍員は、併せて甲次に分ちて崇政殿に於いて逐人唱名引見し、朕自らこれを視る。職に任じざる者有れば、当に禁軍に係らざる処に優に安排し、転員の際に、旋って改易を議することを免れしむ」と。八月、詔して曰く、「殿前司・侍衛馬軍司・歩軍司の管する内外禁軍の軍員は、自来補転するに、体例一ならず、均平を得ず。朕夙夜これを思う。今来汾陰の転員に該るは、久遠の規制を定むべし。その馬軍・歩軍は、指揮使以下より、各別に転補し、皆下より昇ることを令す。仍って殿前司・侍衛馬軍司・歩軍司の轄する軍分を、各袞同して転補す。もし馬軍の軍員が近下より補して拱聖に至れば、即ち双にこれを取り、以て捧日・龍衛に分補し、その近下の軍分に欠員あれば、即ち却って捧日・龍衛より双に取り、一員の資を昇めて補填す。その歩軍に欠員あれば、填補すること並びに此に準ず」と。又詔して曰く、「議する所の転補軍員の職名を改更するは、諸軍未だ諭さざるを恐る。宣命を降すべし云く、殿前司・侍衛馬歩軍司は自来多くは龍衛より更に転入して捧日と為し、並びに神衛より更に入りて天武と為すの類、是れ致して難くして出職し、久しく沈滞を成す。今来転員は、朕が意より出で、併せて各両頭に分ちて遷改し、その龍衛は更に捧日に入らず、並びに神衛は更に天武に入らず。その捧日・龍衛の欠員は、拱聖の内に隔間して人を取り、分頭に充填す。その拱聖の欠員は、即ちぎょう騎・雲騎を将いて分頭に転入す。その天武・神衛の欠員は、神勇の内に隔間して人を取り、分頭に充填す。その神勇の欠員は、即ち宣武を将いて充填す。その宣武の欠員は、殿前司・歩軍司の虎翼を取りて充填す。已上もし指定の軍員を取り尽くせば、即ち已次の軍員を転じて充填す。所有の寧朔軍分の次第の請受並びに転員の出入は、今後並びに特と驍勝の体例に依って施行することを与う」と。

六年(熙寧六年)十月、詔を下す。「諸班直及び馬歩軍事軍員について、諸班・捧日・龍衛・天武・神衛の五頭下出人を除き、その御龍諸直は一箇所で転補するものとせよ。員僚直・拱聖・驍騎・雲騎・驍勝・武騎・寧朔・神騎以上の軍額軍員は、一箇所で順次に挨排して遷補するものとせよ。水軍神勇・宣武、殿前司虎翼・衛聖、歩軍司虎翼・奉節・広勇・神射以上の軍額軍員は、一箇所で挨排して転補するものとせよ。事内殿前指揮使押班から都知に至るまでは本班のみで転補し、その神衛・広勇・神射以下から軍使・都頭に至るまでは、即ち逐指揮内で順次に遷補するものとせよ。内に年齢六十歳以下に達する者あり、並びに勾押して闕下に赴かせ、殿前司に看検させて奏聞せしめ、当に議して相度して安排すべし。所有の副兵馬使・副都頭の員闕は、仍って捧日・龍衛・神勇の十将を取って充填し、余は並びにこれに従うものとせよ。内の神衛水軍第一指揮は、立って神衛水軍指揮を充すべし。殿前司上虎翼第二・歩軍司上虎翼第一は、並びに立って虎翼水軍指揮を充し、旧に依り逐司の管押に係るものとせよ。その神衛水軍見管軍員は、先ず奉節より補入し、多く舟楫を会せず、並びに一斉に転上する外、却って虎翼水軍両指揮の会水軍員を以て神衛水軍と共に三指揮一箇所で袞転すべし。もし転じて神衛水軍指揮使に至れば、年老病患を除くは例に依り出職して安排する外、更に転上せざるものとせよ。」

天禧元年十月、御前忠佐郭豊等六人を以て並びに将軍を受かしむ。初め、軍頭司は年老いて負犯ある者を定めて将にこれを黜かんとす。帝はその久しく武列に居るを以て、命じて環衛に寘き、その遙郡を帯ぶる者は大将軍を与え、遙郡を帯びざる者は将軍を与う。

天聖六年、将に転員せんとす。枢密院奏す。「諸軍の将校に因循して敢えて士を戢めざる者有り。請う、殿前・馬歩軍司に諭して密かに名を以て聞かしむべし。」八年、詔して殿前・侍衛司に内外諸軍の排立資次を同定せしむ。景祐二年、詔す。縁辺就糧の兵に員闕有れば、旧人次を以て遷補すべし。

康定元年、詔す。三品就糧の将校は半ばを以て次遷し、半ばは京師より遣わすべし。又詔す。陝西の土兵校長は京師より遣わすも、情諳達せず。今より悉く本路に就き通補すべし。

慶暦四年、詔す。捧日・天武の選退将校は三資を超え、余は二資を超え、悉く外職に補すべし。五年、真定府・定州路都総管司奏す。「詔を奉じて軍士を閲教し、階級を選補す。弓射九斗より一石に至り、距堋七十歩より百歩に至り、射最も親なる者を第一等と為す。その閲教の時、弓必ずしも満を引くを要せず、力競えば即ち発し、務めて必ず中るに在り。伏して旧例を縁るに、軍中に節級を揀ぶは、強を挽き満を引くを以て勝と為す。今一旦射親なる者を取って第一等と為し、その弓力は九斗・一石に止まり、箭は三両指を留め、而して素より習う挽強引満の士を退くは、理に於いて未だ便ならず。」詔す。諸軍の節級を選ぶは旧例を用い、閲教に遇えば即ち近制の如くすべし。

皇祐元年、詔す。諸路就糧の兵に将校の闕有れば、須らく転補満三年を経て遷補を聴すべし。又詔す。将帥麾下の兵は、戦功有るに非ざれば、請うて上軍に隷遷することを得ざるべし。

嘉祐二年、詔す。京東教閲本城・騎射・威辺・威勇・壮武は、初め募置より即ち鼓旗を与えて閲教し、以て禁軍に代う。もし員闕有れば、聴して副指揮使に至るまで遞遷し、転補後満三歳、闕三分已上に至れば即ち挙行すべし。その指揮使の闕は、即ち歩軍司これを補うべし。

至和三年、詔す。親従官殿に入り満八年の者は節級に補すべし。枢密院の請に従うなり。

治平元年、諸班直長行及び禁軍副兵馬使已上に材武有る者を遷し、七十人を得たり。帝臨軒して親しく閲す。天武右第三軍都指揮使王秀に諭して曰く。「爾が武藝は格に中らざるも、而して戦功有り、且つ能く法度を恪守す。其れ爾を以て正刺史と為し、務めて乃ち職に勤め、朕が委寄に負くこと無かれ。」又散直都虞候胡従・内殿直副都知張思に諭して曰く。「爾ら能く勤を以て身を持し、忠を以て上に事え、軍を治むる又皆整肅なり。其れ従を以て内園使と為し、思を以て崇儀副使と為せ。」自余擢遷差有り。

二年、詔す。「広南教閲忠敢・澄海は、一営なる者は即ち本營遞遷し、両營已上なる者は、營三百人に五人を補し、二百人より三百人に三人を補し、二百人以下に二人を補し、百人以下に一人を補し、副指揮使に止む。凡そ遞遷満三歳、五階闕二・三階闕一に至れば即ち補すべし。」四年、詔す。「今より一營及び二百五十人已上は校十人を置き、闕三人に至れば即ち補すべし。二百五十人以下は校七人を置き、闕二人に至れば即ち補すべし。京師の非転員並びに諸道就糧は並びに此の令に準ずべし。」

凡そ軍頭・十将・節級の転補を、「排連」と謂う。有司は籍に按じて閲試し、列校転員の法の如し。弓射六斗・弩広一石七斗・槍刀手稍練なる者並びにこれを取る。もし旧に武技を試みざる者は、即ち遞遷す。その教閲せざる廂軍の節級は、則ちその半ばを遞遷し、その半ばは伉健にして未だ徒刑を犯さず、角力勝る者を取って充す。

治平四年、有司言う。「軍士は闕額多くして将校衆し。請う、実領兵数を以て将校の額を制し、その遷補を第し、並びに五都の事を通領せしむべし。」乃ち詔す。「二百五十人以上は、指揮使十人を補し、以下は七人とし、闕二人なる者は以て次に補すべし。十将を補するは、馬軍四十人、歩軍は馬軍の数に如くしてその一を加う。百五十人以上なる者は三十人とし、闕五人なる者は以て次に補すべし。百五十人に及ばざる者は、旧格に如く、単将二十人を補すべし。」

熙寧二年、枢密院請う。「今より捧日・龍衛・天武・神衛廂の都指揮使に闕有り、当に次遷すべき者無きは、並びにこれを虚くすべし。その諸軍都指揮使・都虞候当に遷すべき者は、闕多ければ則ち一名を間いて補転し、兼ねて次職事を以てすべし。吐渾等軍の都指揮使・都虞候に闕有る者は、その闕を虚くすべし。」六月、詔す。「河東・陝西就糧の軍士将校、その間材效の人、孤遠にして自ら達する由無き者は、有司審度してその軍功驍勇有る者を以て名を聞かしむべし。当に班行に擢寘し、以て本路の任使に備うべし。」

四年、詔す。「諸班直嘗て宿衛を備え、病告満して尚お療すべき者は、殿前指揮使は外牢城指揮使に補し、余は以て捧日・天武第五軍の押営と為し、奉錢三千の者は五百を予え、二千以下の者は三百を予うべし。」

六年、詔す。「軍校老いて部轄に諳んずる者はこれを優假すべし。疾有りと雖も罷癃に至らず、或いは未だ七十に至らず猶お事に堪うべき者は罷むるなかれ。即ち法当に留むべきと雖も而も部轄すること能わざる者は以て聞かしめ、当に議してこれを廂軍に処すべし。」十月、詔す。「軍士節級に選ばるるは、両たび嘗て功有る者を取り、功等しきは先後を以てし、又等しきは重軽を以てし、又等しきは傷多き者を上と為すべし。」

七年、詔して曰く、「十将以下、転資すべきにして欲せざる者は、凡そ一資につき、功ある者は帛十五匹を賜い、技優れる者は十匹を賜う」と。六月、詔して曰く、「在京転員の諸軍都虞候已上より軍都指揮使に至るまで、軍功を以て遷すべきにして、願わくは子孫に授くるを以てするを聴す。その秩に差ありて視る」と。

八年、転員あり、帝親しく閲す、凡そ三日。旧制、捧日の都虞候四人、これに至り、補する者五人、而して馬軍都指揮使に驍騎二人を闕く。捧日の一人を以て驍騎の軍主を補し、余の四人は故の如し。則ち次軍皆遷るを得ず、乃ち四人を補する者皆馬歩軍副都軍頭と為す。旧く龍衛・拱聖・驍騎・武騎・寧朔・神騎を一百三十一営と為す。今五十営を省く。而して馬軍指揮以下已に八十一営を補す。補外尚だ溢員有り。乃ち詔して、省く所の営未だ移並せざる者凡そ四十三、毎営権に下名指揮使・副指揮使各一、軍使三を置き、以て遞遷に便ならしむ。

九年、将に転員せんとす。枢密院奏す、「官を換うること稍優なり。軍校、行伍より功有り、久しからずして乃ち団練使に至る」と。帝曰く、「祖宗以来、軍制固より意有り。凡そ在京の殿前・馬歩軍司に隷し統ぶる所の諸営は、軍都指揮使・都虞候を置き分領す。凡そ軍事は、分領節制の人を責むるに止む。これを責むること既に厳なれば、則ちこれに遇うこと優ならざるを得ず。諸路に至りては、則ち軍校各一営を領するに過ぎず、比ぶべからず」と。呉充等、本大なり末小なりと対す。帝之を然りとす。因りて言う、「周室盛んなりと雖も、成・康の後、浸に衰微す。本朝太平百有餘年、祖宗の法度具在るに由る。豈に軽く改むべけんや」と。

元豊元年、詔して禁軍の排連する者~~~~。

屯戍の制

凡そ上軍を遣わすには、軍頭司引き対せしめ、装銭を以て賜う。代わり還れば、亦見え入り、飲食を以て犒い、精鋭を簡抜し、その癃老を退く。諸州の禁・廂軍に至るも亦皆戍更す。州に隷する者は駐泊と曰う。しょくを戍る将校は、都虞候を遣わさず、当に行く者は他営を管す。凡そ屯駐の将校遙郡を帯ぶる者は、客礼を以て長吏に見え、余は屯駐の将校の如し。凡そ駐泊軍は、若し辺寇を捍禦せば、即ち総管・鈐轄共に議し、州の長吏等預かること毋し。事本城に渉り、並びに屯駐在城の兵馬は、即ち知州・都監・監押同に領す。若し州と駐泊の事相関する者は、公牒交報す。凡そ戍更に程有り、京東西・河北・河東・陝西・江・淮・両浙・荊湖・川峡・広南東路は三年、広南西路は二年、陝西の城砦巡検並びに将領下の兵は半年。

景祐元年、詔して曰く、「若し聞く、陝西の戍卒、多く大将の為に選び麾下に置き、及び偏裨臨陣、鮮にして精鋭自ら随うを得。今より全軍を以て逐将に隷し、選占することを得ざれ」と。三年、詔して広・桂・荊・潭・鼎・澧の六州各雄略一営を置き、帰遠軍と嶺外を更戍せしむ。

康定元年、銅符・木契・伝信牌を頒つ。銅符上に篆刻して曰く「某処発兵符」、下に虎豹を鋳て飾りと為し、而して中これを分つ。右符五、左旁に虎豹頭四を作す。左符五、右旁に四竅を為し、勘合すべきを令す。又篆文相向いて側に十幹の字を刻み号と為す。一は甲己、二は乙庚、三は丙辛、四は丁壬、五は戊癸。左符に十幹の半字を刻み、右符は止む甲己等の両半字を刻む。右五符は京師に留め、左符は総管・鈐轄・知州軍官高き者に降し之を掌らしむ。凡そ兵を発するには、枢密院符一より五に下し、周りて復始む。指揮三百人より五千人に至るは一虎一豹の符を用い、五千人已上は双虎豹の符を用う。枢密院符を下すには右符第一を始めと為し、内匣中にし、印を緘し、使者をして宣を齎し同に下さしめ、第一符を下すと云い、兵を発して使者に与え、復右符を緘して以て還し、仍疾置して聞かしむ。所在に下符の資次日月及び兵数を籍し、付することを所司に得ざれ。

其の木契上下に「某処契」と題し、中これを剖つ。上三枚中は魚形を為し、「一、二、三」と題す。下一枚中は空魚を刻み、勘合すべきを令す。左旁に題して云く「左魚合」、右旁に題して云く「右魚合」。上三枚は総管・鈐轄官高き者に留め之を掌らしむ。下一枚は諸州軍城砦の主に付し之を掌らしむ。総管・鈐轄兵馬を発するには、百人已上は先ず上契第一枚を発し、韋囊を以て貯え、印を緘し、指揮をして牒を齎し同に往かしむ。所在に下契を験し上契と合すれば、即ち兵を発し、復上契を緘して以て還し、仍総管・鈐轄に報ず。其の第二・第三契を発するも亦之の如し。掌契の官発契の資次日月及び兵数を籍し以て験と為す。

伝信牌中は池槽を為し、筆墨紙を蔵し、主将に之を掌らしむ。毎たび陣に臨み命を伝うるには、紙に書して牌中に内れ、兵官に持報し、復事宜を書して牌中に内れて還る。主将密に字を以て号験と為し、軍中の事を漏泄することを得ざれ。

呂夷簡言う、「元昊の反より、辺の城砦各自守の計を為し、万一賊奔衝有らば、即ち関輔驚擾す。夏竦等永興に屯すと雖も、其の実兵少なし。永興より鄜延・環慶諸路に距ること、皆数百里、急緩設け有らば、内外相救う能わず。請う勇敢の士三万を募い、武技を以て訓い、十隊に分置し、謀勇有る者三人を以て之を将とし、分かち永興に営せしむ。西寇至れば、則ち烽を挙げて相応じ、或いは勢いに乗り討撃し、進退地分を以てせず、並びに夏竦等の節制を受く」と。詔して之に従う。初め、趙元昊反し、夏竦・陳執中を以て永興軍を知らしめ、陝西諸軍を節度せしむ。久しく功無し。乃ち秦鳳・涇原・環慶・鄜延を析き四路と為し、秦・渭・慶・延の知州を以て本路の馬歩軍を分領せしむ。是歳、銅符・木契を罷む。詔して曰く、「陝西重兵を屯し、本路の租税を罄き、内庫の銭帛を益し、並びに西川の歳輸を以てす。而して軍儲猶足らず。宜しく隙地を度り営田務と為し、四路の総管・転運悉く兼ねて使を領せしむべし」と。

慶暦二年、詔して曰く、「已に士三万を発し永興を戍せしむ。総管司に委ね部分し閲教せしむ。歳を以て八月に万五千人を遣わし涇・原・儀・渭州・鎮戎軍を戍らしめ、十二月に万五千人を以て代え、二月に至り警無ければ即ち還り、歳を以て常と為す」と。葛懐敏等師を喪う。范仲淹・韓琦・龐籍を命じ復四路を統せしむ。軍期の中覆及ばざる者は、便宜を以て事に従う。四年、夏人已に款を納す。乃ち罷む。四月、帝輔臣に謂いて曰く、「湖広蛮を撃つ吏士、方に夏瘴熱に、而して疾に罹る者衆し。宜しく医を遣わし往きて胗視せしむべし」と。

六年、詔して曰く、「騎軍盛夏を以て出戍すれば、馬多く道に死す。今より八月より二月に至るまで遣発す」と。又詔して曰く、「広南方に春瘴癘有り。戍兵辺に在る者は権に善地に休せしむ。其れ嶺外より戍り回る軍士は、両月を休せしむ」と。李昭亮上言す、「旧制、諸軍を調発するには先ず引見し、戦陣を以て試み、校長を遷補す。今或いは戦陣を試むる暇無し。請う強壮武技有る者を選び、毎十人引見し転資して後遣わす」と。詔して可とす。

時に契丹の使節が来て関南の地を議し、朝廷は河北の武備を経制し、議者は兵を増やして屯させようとした。程琳が大名府から陝西安撫使に移され、上言して曰く、「河朔の地方は数千里に及び、連城三十六、民物繁庶にして、川原坦平なり。景德以前より、辺境に数度の警報あり、官軍は衆多なりといえども、成功すること稀なり。蓋し定州、真定府、高陽関の三路の兵は、形勢相接せず、召発の際、交錯して便ならず。況んや全魏を建てて北方を制するに、兵は定州、真定府路に隷し、その勢倒置せり。請う、河朔の兵を以て四路と為し、鎮・定の十州軍を一路と為し、兵十万を合すべし;高陽関の十一州軍を一路と為し、兵八万を合すべし;滄・の七州軍を一路と為し、兵四万を合すべし;北京の九州軍を一路と為し、兵八万を合すべし。その駐泊鈐轄・都監は各々訓練を掌り、士卒をして主将の号令に習聞せしめ、急緩あれば即ち部分を成さしむべし」。

天子その章を下し、判大名府夏竦奏す、「鎮・定の二路は内外の衝に当たり、万一警報あれば、各々重兵を籍し、要害を控守し、迭いに応援と為すべし。若し一つに合せば、則ち兵柄太重く、これを減ずれば則ち敵に備うるに足らず。又滄州は久しく高陽関に隷し、道里頗る近く、海に瀕し斥鹵、地形沮洳、東北三百里、野に民居なく、賊の蹊径に非ず。万一警報あれば、漳・御河を決して東に灌ぎ、塘澱隔越し、賊兵未だ易く奔衝すべからず、別に一路を建つる必ずしも要せず。惟だ北京は河朔の根本と為り、宜しく重兵を宿し、大河の南北を控扼し、内には則ち王畿を屏蔽し、外には則ち諸路を声援すべし。請う、大名府、澶・懐・衛・濱・棣・徳・博州、通利軍を以て北京路を建つべし。四路各々都総管・副都総管一人、鈐轄二人、都監四人を置く。平時は只だ河北安撫使を以て諸路を総制し、警報あれば、即ち北京に四路行営都総管を置き、嘗て両府の重臣を任じたる者を択びて之を為さしむべし」。

議未だ決せず、竦入りて枢密使と為り、賈昌朝が大名府を判じ、復命して規度せしむ。昌朝は竦の議の如くすることを請う。惟だ保州沿辺巡検並びに雄・霸・滄州界河の二司兵馬は、国初以来、辺を拓くこと最号強勁、今未だ隷する所なく、請う、沿辺巡検司を立てて定州路に隷し、界河司を高陽関路に隷せしむべし。

ここに於て詔を下し河北の兵を四路に分つ:北京、澶・懐・衛・徳・博・濱・棣州、通利保・順軍を合して大名府路と為す;瀛・莫・雄・霸・貝・冀・滄州、永静・乾寧・保定・信安軍を合して高陽関路と為す;鎮・邢・洺・相・趙・磁州を合して真定府路と為す;定・保・深・祁州、北平・広信・安粛・順安・永寧軍を合して定州路と為す。凡そ兵屯の将領は、悉く其の議の如し。韓琦は兵勢の大分を謂い、定州・真定府を一つに合し、高陽関・大名府を一つに合することを請う。朝廷は更置甫新を以て、報えず。詔して四路の兵は陝西に依り部将を遣わし往来して按閲せしむ。又詔して自今兵戍より回り、捧日・龍衛・天武・神衛等の軍に揀充すべし。

皇祐元年、禁兵十指揮を発して京東に戍らしめ、歳饑に因り盗賊に備う。詔して陝西辺警既に息み、土兵守禦に備うべく、東軍屯戍する者は内郡に徙し、以て餉饋を省くべし。二年、詔す、「聞く所に依れば河北諸屯の将校、老疾にして事を廃し而も退くを知らず、善く部勒し労効を著わす而も進むことを得ざる者有り、帥臣・監司審察し、密かに名を以て聞すべし」。

四年、詔す、「戍兵歳満するや、有司籍を按じ、遠き者は前二月、近き者は前一月に代を遣わし、戍より本管に還り休むを聴す」。五年、又詔す、「広西の戍兵二年に及び而も代を得ざる者は罷帰し、鈐轄司は土兵を以て歳一代せしむ」。儂智高の乱より、戍兵二万四千を逾え、是に至り還るを聴し、而して土兵をして代戍せしむ。

至和元年、詔して陳・許・鄭・滑・曹州各々禁兵三千を屯せしむ。嘉祐五年、賈昌朝の奏を用い、京北路に都監三人を置き、許・蔡・鄭州に駐紮し、近畿の屯兵を分督せしむ。七年、詔して陝西土兵番戍する者は本路を出でざるべし。

治平二年、兵指揮二十を発し、永興軍・邠州・河中府に分戍し、仍って官を遣わし専ら訓練を掌らしむ。三年、詔して員僚直・龍衛は出戍せざるべく、神衛は嘗て十指揮を営に留む。又詔す、「頃に東兵を以て嶺南に戍らしめ、瘴癘を冒犯し、還るを得る者十に五六無し。自今歳満するや、江・淮の教閲忠節・威果を以て之に代うべし」。

神宗位を嗣ぎ、軍政多く更革す。熙寧初、嘗て輔臣と河北の守備を論ず。韓絳等曰く、「漢・唐の重兵は皆京師に在り、その辺戍は裁ち足りて守備するのみ。故に辺に横費無く、本を強く末を弱くし、その勢亦順なり。開元後、四夷に事有り、権臣皆一方を節制し、重兵西北に在り。天宝の乱は、京師空虚に由り、賊臣以て志を肆うことを得たり」。帝曰く、「辺上の老人も亦今の辺兵は昔時に過ぐと謂い、その勢倒植の浮図の如し。朕も亦毎に此を以て念と為すなり」。三年、詔す、「諸路の戍兵、畸零にして部伍を成さず、致して紀律に乖き、或いは互いに郡兵を遣わし、更相往来し、道路艱梗す、宜しく悉く之を罷め、上番全軍或いは就糧兵を以て戍と易えしむべし;当に遣わすべき者は並びに総管司に隷し、詔令を以て事に従うべし」。

旧制、河北の軍馬は出戍せず、帝其の驕惰を慮い、五年、始めて河北・河東の兵を更戍せしめ、其の一歳を減じて以て之を優す。其の年、詔して河州の軍馬を熙州に駐し、熙州の軍馬を通遠軍に駐せしめ、追召易に集し、以て極辺の軍儲を省くべし。帝嘗て曰く、「吾が国用を窮ます者は、冗兵なり。其れ軍を内郡に徙し、弓箭手を以て之に代え、冀くは辺費を省かん」。

九年、詔す、「京師の兵比留すること十万、余りは以て四方の屯戍に備う、数甚だ減少す。自今戍兵京師を発すべきに応ぜざる者は遣わす勿れ」。其の後、言者屡び河北の冗兵を損ずることを請い、詔して額を立て禁兵七万を止めて留め、而して京東は武衛軍四十二営を増置し、訓練精鋭、皆以て河北に分隷し、而して三千人を以て東南の杭・揚・江寧諸州に散戍し、以て盗賊に備う。嶺外は惟だ広・韶・南雄州に常に戍兵千人あり、桂林は瘴癘に因り、間々軍を全・永に徙す。元豊中、或いは陝西路の騎軍五七百を遣わして桂林に戍らしむるを請う者あり、詔して在京の軍馬を遣わし以て之に戍らしむ。

元祐元年六月、右諫議大夫孫覺言う、「将兵の禁は、宜しく少しく解くべく、而して所在の守臣と州郡の兵官に責め、可ならしむべく時を乗じ広く召募を行い、稍々前日の額を補うべし。祖宗の法に循い、三辺及び川・広・福建諸道州軍に屯駐し、往来道路、以て労苦に服習するに足り、南北番戍、以て其の労佚を均うするに足らしむ」。詔す、「陝西・河東・広南の将兵は他路に輪戍せず、河北は近裏の一将を輪し河東に赴かしむ、府界・諸路の逐将と将兵に隷せざる者は、並びに更互に差撥し出戍して別路に赴かしむ。三路に赴く者は全将或いは半将を差し、余路は全指揮の分差を聴す、仍って半将を過ぎざるべし」。

十月、枢密院が言うには、「東南一十三将は、団将を設置して以来、出戍する路分を均定したことがなく、また不隸将兵のうちには出戍の窠名が少なく、所管の指揮数が多いところがあり、均当を得ていない。広南東・西両路に駐紮する三将は本路の守禦差使に充てるのみとし、虔州第六将・全州・永州第九将は広南東・西路の緩急に備えて勾抽策応に準備し、他路への差戍は行わないこととし、それ以外の八将及び不隸将兵は均定した路分の都鈐轄司に駐泊させ、分擘して差使に就かせたい。内、将兵・不隸将兵の路分については、京より差撥した歩軍を派遣して補戍させ、将兵が帰還した後に、これを勾抽する。」これを聴く。

十二月、広西経略安撫使・都鈐轄司が言うには、「桂州・宜州・融州・欽州・廉州の係将・不係将の馬歩軍を輪差して邕州の極辺で水土が悪弱な砦鎮監柵及び巡防並びに都同巡検等の場所に赴かせること、並びに邕州条例に依って一年ごとに交替させることを乞う。その他の諸州から邕州の永平・古万・太平・横山・遷隆の各砦鎮及び左・右江の溪洞巡検並びに欽州の如昔峒に駐紮する抵棹砦に差遣する者は、二年ごとに交替させる。諸州の巡検の下に配属される者は、一年ごとに交替させる。」これを聴く。

二年、河東経略安撫使曾布が言うには、「河外上番の四将において、毎将内から歩軍を抽減して嵐州・石州に派遣し、沿河等の場所に分擘して差使に就かせ、開封府界等の五将の兵馬を帰営させたい。また岢嵐軍・火山軍に駐紮させ、東兵の両指揮を太原府に就食させる。」これを聴く。今月、枢密院が言うには、「先に熙河蘭会路の戍兵が数多いため、年満を以て二千余人を節次抽減して帰営させたが、兼ねて本路は目下見管の戍兵が定額より尚一千三百余人多い。今、朝旨により熙河蘭会路都総管司は本路の緩急に人を欠く場合、秦鳳路より一将を勾抽して応副することを許されている。本路の目下の事情を考えるに、秋に向けて人を欠き防守が手薄になることを憂慮する。熙河蘭会路都総管司が本路の緩急に人を欠く場合、秦鳳路の九将を全員勾抽して応副差使に就かせることを聴し、京東より歩軍五指揮を差遣して永興軍・商州・虢州に権駐紮させ、秦鳳路の勾抽に備えたい。」これを聴く。

紹聖四年、枢密院が呂恵卿の言上を備えて奏するには、「『近く辺境からの牒報によれば、西夏が本路の叛卒を点集している。守御の人兵が欠けており、兼ねて土兵が闕額を埋めておらず、また蕃兵弓箭手は元豊元年より二千二百有余少なく、東兵の馬歩軍は元豊四年・七年より十六指揮少ない。東の歩兵人内より十六指揮を差撥して防守を添助することを乞う。』兼ねて本路は昨年以来、三十六指揮の軍馬を泛差しており、他路と比べて既に倍多く、目下の戍兵は二万六千余人で、元豊四年の人数と比べても欠けるほど少なくはないので、自ら那融して使喚できる。」詔して曰く、「鄜延路都総管司はこれを詳らかにして照会せよ。もし賊兵が塞を犯し、あるいは本路が挙兵する際、確かに人を欠く場合は、年満の人指揮兵級について、事情を相度し、権らくに二、三月留め置き、事態がやや鎮静した後に遣還せよ。」今月、詔して曰く、「河東路総管司は上番兵馬を那融して替換し、戍辺の日が久しくならないようにせよ。労弊を生じさせてはならない。もし替換する者がいない場合は、春月に事態がやや鎮静した後に、先ず上番四将の兵馬を抽減して一番ずつ帰営させよ。」

元符二年閏九月、秦鳳の戍兵十指揮を派遣して熙河の新辺の戍守に応副させる。十一月、呂恵卿の奏上により、鄜延の戍兵五十指揮を減ずる。三年八月、詔して虎翼軍六千を派遣して熙河路を戍守させ、蕃兵及び弓箭手を代えて家に還り休息させる。十二月、詔して辺帥に額外の戍兵を減ずるよう命ずる。

崇寧四年、詔して曰く、「広南は瘴癘の地であり、東西路は異なるが、気候に違いはない。西路の戍兵は二年で交替するのに、東路のみ三年を限りとし、交替が期に及ばず、瘴癘に斃れる者があるのは、朕甚だ惻然とする。東路もまた二年ごとに交替させ、半年前に人を差遣せよ。違反した者は違制の罪に問う。」

大観二年六月、詔して曰く、「陝西諸路は、兵を罷めて以来、数年を経ているが、兵は未だ徹していない。これは辺将が怯懦で、徒らに辺儲を費やし、戍卒を労苦させているためである。新辺の確実な人員を除き、その余は元豊年間に辺事を罷めた日の戍額人数に依り、その余は直ちに抽減して帰営させよ。有司は占吝してはならず、違反した者は違制の罪に問う。」また詔して曰く、「東南は現行の兵額の外に、帥府には別に二千人を屯させ、望郡には一千人を屯させる。帥府には奉銭五百の指揮一つを設置し、威捷と名づける。望郡には奉銭四百の指揮一つを設置し、威勝と名づける。帥府に三指揮、望郡に一指揮、各々奉銭三百の指揮を設置し、全捷と名づける。いずれも歩軍五百人を定員とする。」三年六月、詔して曰く、「国家は承平百五十年を経て、東南一方は地が広く人が多いが、既に兵が寡く勢いが弱いことが見えており、持久の道ではない。現今の兵額の外に、帥府には別に兵士二千人を屯させ、望郡には一千人を屯させよ。」

宣和二年、詔して河北の軍馬を陝西・河東と更戍させる。

三年正月、詔して曰く、「河北の軍馬を陝西・河東と更戍させるのは元豊の法ではなく、遂にその令を罷める。応に拖後した人は皆免罪とし、旧に依り収管する。」閏五月、江・浙・淮南等路宣撫使童貫が奏するには、「勘会したところ、江南東路・両浙東西路には各々東南一将があり、平素より武芸を訓練しておらず、臨敵すれば必ず駆策を誤る。先に睦州の賊寇が発生した際、天兵が未だ到着しない前に、上項の将兵を遣わして賊を捕らえさせたところ、遂に敗衄し、亡失した軍兵が甚だ多かった。今、睦賊を討平した後、脅従して叛亡した者がようやく還業しつつあるが、戍兵を増やして鎮遏しなければ、凶暴を潜消することはできない。臣は今、戍兵二万五千五百七十八人を留め置き、江南東路・両浙東西路の州軍に分置して防把させ、一年満了で交替して出軍を一度とし、平蛮の故事に依り、毎月別に銭三百を給し、歳に鞋銭一千を給することを擬する。その兵は全て本路安撫司に隷属させ統轄訓練させる。」詔してこれを聴く。是年、権知婺州楊応誠が奏するには、「凡そ屯戍する将兵は、守臣に隷属させるべきである。兵と民の任を一にすれば、号令は二つにならず、然る後に事を立てることができる。」詔してこれを聴く。続いて旨があり、旧制に改めて従う。

四年、臣僚が言うには、「東軍が遠く四川を戍守しているが、皆、京師及び府界の武芸があり過失のない者である。川路に至れば、分屯散処し、多くは隊を成さず、しかも差使に時がなく、委ねて労弊を致している。蓋し四川の土兵は既に詔により差使してはならないとあるため、その役は全て東軍にかかり、実に偏重である。もし四川の応有する土兵・禁軍を東軍と一同に差使させれば、労逸が均しくなるのみならず、熙寧・元豊年間に東軍を設置して蜀人を弾圧し兼ねて蛮寇に備えた意図をも失わないであろう。」詔して本路の鈐轄・転運両司に公同して利害を相度して奏聞させる。

五年、制置所が奏するには、「江・浙に増屯する戍兵について、節鎮には両指揮を增添する処とし、その余の州には各々一指揮とし、各々将に隷属させない。内、両指揮を置く処では、一指揮を威果と名づけ、一指揮を全捷と名づける。その余の州は全て威果と名づける。」これを聴く。

七年三月、詔して曰く、「広南東・西路は地遠く山険しく、盗賊時に窃発す。内郡の戍兵彼の地に往きて屯守するも、多く瘴癘疾病に縁り、捕盗に任ぜず、又山川道里・林壑曲折を諳知せず、故に盗を禁ずる能わず。可にて毎巡検の下に土人の健勇軽捷なる者を招置し、戍兵の半に参じ、互に関防し、擒捕に易からしむべし」と。枢密院をして之を行わしむ。

靖康元年四月、种師道を以て太尉と為し、前の如く鎮洮軍節度使・河北河東宣撫使とし、後に同知枢密院事を加う。時に師道は滑州に軍を駐め、実に兵従行する無く、山東・陝西・京畿の兵を合わせて青・滄・滑・衛・河陽に屯し、予め防秋の計を為さんことを請う。徐処仁等謂う、「金人の重載甫に還る、豈に復た来らんや。先ず自ら擾費すべからず、以て弱を示すべからず」と。議格みて行われず。

七月、河北東路宣撫使李綱奏す、「臣両たび論じ、七月七日指揮の諸路防秋の兵を止むるを以て不可と為す、必ずや聖察を蒙らん。今宣撫司既に兵差発す可き無く、朝廷既に諸路防秋の兵を止むれば、将に何を以て応副せんとするかを知らず。兼ねて遠方の人兵各おの既に路に在り、又既に数ヶ月を借請し、本路漕司・州県又既に半年・百日の糧を預備す、今一たび放散せば、皆な虚費と成り、而して実に兵を用うる処は摘那す可き無く、深く国大計を誤らんことを恐る」と。詔して奏に依う。

紹興の初、群盗四起し、岳飛・劉光世の諸大将の如きは兵を領すること尤も重く、宜しきに随い調発し、要害に屯泊し、控製捍蔽す、是亦権宜の利なり。厥の後枢府・帥臣屡に久戍の弊を言う、甚だしきは或いは十年或いは二十年にして更えず、尤も閔念す可し。蓋し出戍する者は皆な既に老瘁し、而して諸州の留むる所は、類皆な少壮及び工匠なり、三司多くは坐甲を以て名と為し、占留違制し、終身未だ嘗て一日も戍せざる者有り、ここに帥臣・鈐轄司をして諸州の尺籍を置かしめ、其の姓名を定め、期に依り更戍せしむ。帥臣又言う、「貴溪の戍兵の如きは、三月一更す、貴溪より池州に至るまで、往復一千五百里、即ち是一月途に在り、徒らに労費有るのみ。願わくは一年を以て終更せん」と。

今紹興の間辺境靖まらざるを考うるに、故に大軍を以て屯戍し、而して践更の期は、近き者は三月、遠き者は三年なり。和議既に成るに逮び、諸軍移屯する者は漸く営に帰る、惟だ防秋は仍って移屯更戍の法を用い、沿辺の備禦も亦た之に倚重す。乾道・淳熙・紹熙の際、一に其の制に遵う。開禧の初、復た兵を用いんと議し、駐紮諸兵始めて復た移屯す。和議再び成り、辺地一二の要郡は旧貫に循うと雖も、其の諸の駐紮更戍の法は講ぜず、而して常屯の兵益々多し。端平川蜀を破り、咸淳襄樊を失い、淮甸を裂くに逮び、疆宇蹙みて兵法壊る。叛将降を売り、庸夫鉞を秉り、間には図国忘死の士有るも、則ち遥かに権奸に制せられ、移屯更戍、定方有ること靡し。ここに戍卒奔命に疲れ、戦わずして斃るる者衆し。将校の部曲、諸軍の名号、士卒の衆寡の若きは、屯駐する者に詳列するも、茲に重ねて録せずと云う。