訓練之制
禁軍で月俸五百(文)以上の者は、皆、日々武技を習練する。三百以下の者は、ある者は雑役に従事し、ある者は武技を習う。その後、別に廂兵を募集し、これも武技を閲習させ、教閲廂軍と号した。川・広に戍守する者は従来訓練せず、嘉祐以後は少し習うようになった。およそ諸々の日々習練する法は、鼓の音を節とし、騎兵は五度習い、歩兵は四度習い、その坐作進退は両軍が相対する時に施すものではないが然り。宋初以来、中外の諸軍は皆これを用いた。
五年、密詔を益・利・梓・夔路鈐轄司に下し、弓弩を以て士卒を習練させ、民間の観聴が次第に熟するを待ち、便ち短兵を以て日々三十人を教え、十日ごとに交替させよ。并州知州明鎬が言うには、「臣が近く諸営の武芸の卒を籍に記し、甲を帯びて試みに奇兵に充てる者の外、三等と為し、主将が悉く軍中の武技の強弱を知り、敵に臨んで用いることができるようにしたい」。詔してその法を三路に頒布した。范仲淹は、甲を帯びて一石の弓を射る者を奇兵に充て、残りを九斗から七斗まで順次三等と為し、射力が等に及べば即ちこれを昇格させよと請うた。詔してこれを令として定着させた。
六年、詔して諸軍に夏の三か月は弓弩を教えるな、ただ短兵を習えと命じた。また詔して曰く、「春秋の大教で弓一石四斗・弩三石八斗を射、槍刀手が三人に勝つ者を、武芸出衆の格として立てよ。これに中る者は、本営に階級の欠員があれば即ち順次に補う」。
五年四月、詔して在京の殿前・馬歩諸軍の巡教使臣を、並びに春秋の分を行い校試せしむ。射命中する者には第に銀楪を賜い、兵房に籍を置き考校し、多少を以て殿最を定む。五月、詔して涇原路の蔡挺が衙教陣隊を以て崇政殿に引見し、仍って諸路に頒つ。その法は、五伍を隊と為し、五隊を陣と為し、陣は横に列し、騎兵二隊も亦た五伍これを列す。その出づるは皆鼓を以て節と為し、草を束ねて人に象りて射たしめ、中る者には賞有り。馬歩ともに前三行は槍刀、後二行は弓弩、隊に附して虎蹲弩・床子弩各一を以てし、射と撃刺とを迭りに出だし、皆金を聞きて即ち退く。予め人馬の強き者を籍して隊中に隠し、用いるべきに遇えば、則ち別に出だして奇と為す。帝はその点閲周悉にして、常に出野の備え有るを以て、故に令して頒行せしむ。
七年、詔して戦法を教閲せしめ、主将は地の形を度り、宜しきに随い施行せしむ。二月、詔す、「今より歳に一度使を遣わし、五路の安撫使以下及び提挙教閲諸軍・義勇・保甲官を按視し、その優劣を課して聞こえしめ、以て誅賞す」。
八年、詔す、「在京諸軍の営屯は迫隘にして、馬調習する所無し。比に四教場を創り、益々寛大にして、以て馳騁すべし。その騎軍をして教場に就き習わしむる者は、日に一営を輪じ、馬を走らせ驟らせて閲習せしめよ」。五月、臧景が馬射六事を陳ぶ。一に順騣直射、二に背射、三に盤馬射、四に射親、五に野戦、六に輪弄、各説を為して以て射者に曉らしむ。詔して此に依りて教習せしむ。八月、帝は曾孝寛に令して教営陣を視せしむ。八軍陣を荊家陂に大閲し、事を訖えて大いに賞す。
是の月、賈逵・燕達等言う、「近く東南排弩隊法を増損すれども、東南の用いる兵械と同からず、請う止むるに東南隊法に依り、以て弩手を以て小排に代えん。若し敵を去ること稍遠ければ則ち箭を施し、近ければ則ち左手に弩を持ち小排の如く架隔し、右手に刀を執り以て斬伐に備え、長兵と相参して用いん」。詔して可とす。その槍手は仍って標を以て兼ね習わしむ。十一月、京西の将劉元言う、「馬軍教習成らず、請う歩軍に降さん。又成らざれば、廂軍に降さん」。乃ち諸軍に下令し、約す一季学ぶ能わざる者は、請う所の如くこれを降す。十二月、詔す、「開封府界・京東西の将兵は、十人に一人を以て馬射を習わしめ、中都の遣わす教頭に教えを受く。在京歩軍諸営の弓箭手も、亦た十人に一人を以て馬射を習わしめ、教習馬軍所の教えを受く。芸成れば、則ち展転してその軍に分教す」。
四年五月、詔して東南諸路の転運・提点刑獄司に、将兵の教閲新法を降す以来、軍士の倍費する所有るを体量して聞こえしむ。蓋し将兵を団立して以来、軍人日に新たに教閲し、旧き技芸を資として以て私費を給せし者は、悉く暇無きが故なり。
七年八月、詔して開封府界・京東西路に専ら監司を選び提挙して教閲せしむ。神宗は武備に心を留め、既に武学を立て・『七書』を校して以て武挙の士を訓え、又兵法を頒ち以て軍旅を肄わしむ。微妙淵通、心に成を取り、群臣望む莫し。
六年六月、三衙が枢密院に申し、近く伏日七十日に令式に依り諸軍の教練を放つことを乞う。王厳叟が韓忠彦に白して曰く。「景德の故事は、皆内侍省が検挙して伝宣す。今但だ歳に挙げて常と為せば、則ち復た朝廷の恩意を見ず」。忠彦然りと為し、又太皇太后に開陳す。曰く。「此くの如くすれば則ち常事と為り、内侍省を処分して待たん」。遂に詔す。「今後入伏に、中侍を遣わして諸軍に住教を伝宣せしむ」。
四年五月、臣僚上言す。「神臂弓の垛は遠く百二十歩、箭十隻を給し、五中を取って合格と為す。軍中少しく該賞を得、習射に惰るを恐る。殿前・馬歩軍司に送り勘会せしめ、中貼の箭数並びに上垛に改め、其の一中貼は此の両上垛に当てよ」。これに従う。
五年三月、詔す。「自今より敢えて将兵を占留し、教閲に赴かざる者は、並びに御筆に違うを以て論ず。挙げて按ぜざる者は、其の罪の如くせよ」。十一月、臣僚言う。「春秋大教に、諸軍の弓弩は上って鬥力高強を取る。其の射親中多なる者は、激賞太く薄く、以て勧むる無し」。詔して元豊の法に依る。
八年、詔す。州郡の禁軍は出戍する外、常に五分を州に留めて教閲せよ。毛友の請いに従うなり。
陣法
五年四月、詔して蔡挺に先ず教閲陣図を進めしむ。帝嘗て謂う、「今の辺臣に奇正の体を知る者無し、況んや奇正の変をや。且つ天地五行の数は五を過ぎず、五陣の変は自然に出で、強いて之を為すに非ず」と。宰相韓絳因りて諸帥臣に各戦陣の法を具えて上らしめ、其の長を取りて法と為さんことを請う。之に従う。帝は諸将の軍行に陣法無きを患い、嘗て曰く、「李靖が三人を結びて隊と為すは必ず意有らん。星書に、羽林は皆三人を以て隊と為すと有り、靖は此れを深く曉りて、拠り無きに非ず」と。乃ち賈逵・郭固に之を試みしむ。十二月、通遠軍知事王韶は合行条約の降下を請う。詔して御製『攻守図』・『行軍環珠』・『武経総要』・『神武秘略』・『風角集占』・『四路戦守約束』を各一部賜い、余りは関秦鳳路経略司に抄録せしむ。
六年、諸路経略司に詔し、結隊は並びに李靖の法に依り、三人を以て一小隊と為し、九人を以て一中隊と為し、賞罰は序成の日に俟ちて裁を取らしむ。其の隊伍及び器甲の数は、涇原路牙教法に依る。九月、趙禼言う、「今より大閲の漢蕃陣隊は、且つ一万二千五百人を以て法と為し、旌旗麾幟は各随方色と為さんことを欲す。戦国時、大将の旗は亀を以て飾りと為す、蓋し前列先知の義を取るなり。今中軍も亦た宜しく亀を以て号と為すべし。其の八隊の旗は、別に天・地・風・雲・龍・虎・鳥・蛇を絵く。天・地は則ち其の方円を象り、風・雲は則ち其の飛揚を状し、龍・虎は則ち其の猛厲を状し、鳥・蛇は則ち其の翔盤の勢を状し、以て大閲に備えん」と。枢密院は陣隊の旗号若し八物を絵かば、応に士衆弁別し難く、且つ其の間亦た形無きを絵く可き者有りと為す。遂に詔して止むるに方色に依り、仍って其の形製を異にし、雑せざらしむるのみとす。
七年、又た呂惠卿・曾孝寛に命じ三五結隊法を比校せしむ。十月、新定の結隊法並びに賞罰格及び置陣形勢等を以て、近侍李憲を遣わし趙禼に付して曰く、「陣法の詳は已に憲に面諭せしむ。今図する所は止むるに一小陣なり、卿其れ従容として析問せよ、憲必ず一一説有らん。然れども置陣の法度、久しく其の伝を失う、今朕一旦意の得る所に拠り、率爾として法と為す、未だ尽さざる有るを恐る、宜しく避忌無く、但だ具に奏来せよ」と。継いで又た詔して曰く、「近く李憲に新定結隊法並びに賞罰格を齎らしめて卿に付し、同議して可否を因り、以て将官を団立し、更に陣法を置かんとす、卿必ず深く朝廷の経画の意を悉すべし。日近く了う可き如くんば、宜しく李憲に齎らしめて闕に赴かしむべし」と。禼奏して曰く、
置陣の法は、結隊を先と為す。李靖は五十人を以て一隊と為し、毎に三人自ら相得る者を結びて一小隊と為し、三小隊を合して一中隊と為し、五中隊を合して一大隊と為し、余り押官・隊頭・副隊頭・左右傔旗五人即ち五十を充たし、並びに相依附す。今聖製:每一大隊は五中隊を合し、五十人を以て之を為す。中隊は三小隊を合し、九人を以て之を為す。小隊は三人を合し、之を為す、亦た心意相得る者を択ぶ。又た壮勇善槍の者一人を選びて旗頭と為し、己が芸・心相得る者二人を自ら択ばしめて左右傔と為す。次に勇悍の者一人を選びて引戦と為す。又た軍校一人を選び刀を執りて後在り、擁隊と為す。凡そ隊内一人用命すれば、二人応援す。小隊用命すれば、中隊応援す。中隊用命すれば、大隊応援す。大隊用命すれば、小隊応援す。逗撓観望して即ち赴救せず、致して陷失有らしむる者は、本隊は擁隊軍校に委ね、次隊は本轄隊将に委ね、不救の由を審観して、之を斬る。其の救う可からざる有り、或いは赴救及びばず、或いは身自ら敵を受け、体重創を被るも、但だ救う可きに非ざる者は、皆坐せず。其の説は古と同じと雖も、而して用法尤も精密なり。此れ蓋し陛下の天錫する勇智、学ばずして能くするなり。
然れども議者は四十五人にして一長は、五人にして一長の密なるに若かずと謂う。且つ五人にして一長と為せば、即ち五十人にして十長なり、之を百千万に推せば、則ち長と為る者多く、而して統製一ならず。周制に至りては、五人を伍と為し、比長に属す。五伍を両と為し、閭胥に属す。四両を卒と為し、族師に属す。五卒を旅と為し、党正に属す。五旅を師と為し、州長に属す。五師を軍と為し、命卿に属す。此れ猶今の軍制の如し、百人を都と為し、五都を営と為し、五営を軍と為し、十軍を廂と為す。廂都指揮使より下、各節級有り、員品有り、亦た昔の比長・閭胥・族師・党正の任なり。
議者は什伍の制は、都法に便なりと謂う、然れども都法は恐らくは臨陣対敵決勝の術に非ざるなり。況んや八陣の法は、久しく其の伝を失う、聖製一新し、前に聞くを稽うれば、符節を合するが若し。夫れ法一定すれば、易く以て人を致す。敵は虚を撃つを好めば、吾は虚を以て之に形す。敵は実を背くを好めば、吾は実を以て之に形す。然して而して撃つ所は其の虚に非ず、背く所は其の実に非ざれば、故に逸能く之を労し、飽能く之を饑す、此れ所謂人を致して人に致されざるなり。
七年七月、諸路安撫使に詔し、各可用の陣隊法を具え、及び陣隊法を知る者を訪求して以て聞かしむ。九月、崇儀使郭固は同詳定古今陣法を以て賜対し、是に於いて内より『攻守図』二十五部を出だし河北に付す。
八年二月、帝批す、「見校試の七軍営陣、分数斉しからず、前後抵牾し、施用に難し。見校試官に其の取る可き者を摭め、八軍法を草定して以て聞かしむ可し」と。初め、枢密院に詔して曰く、「唐李靖の兵法、世に全書無く、雑に『通典』に見え、離析訛舛す。又た官号物名は今の称謂と同からず、武人将佐多く其の意を通ぜず。枢密院検詳官に王震・曾収・王白・郭逢原等と校正せしめ、分類解釋し、今を行う可からしめよ」と。又た枢密院副都承旨張誠一・入内押班李憲に命じ、震・逢原と共に広闊の処を行視せしめ、馬歩軍二千八百人を以て李靖の営陣法を教う。歩軍副都指揮使楊遂を都大提挙と為し、誠一・憲を同提挙と為し、震・逢原を参議公事と為し、夏元象・臧景等を将副・部隊将・幹当公事と為し、凡そ三十九人。
誠一等初め李靖の六花陣法を用い、約すに兵二万人を受くるを率と為し、七軍と為す。内虞候軍各二千八百人、戦兵千九百人を取りて七十六隊と為す。戦兵内毎軍弩手三百、弓手三百、馬軍五百、跳蕩四百、奇兵四百、輜重毎軍九百、是れ二千八百人と為す。帝近臣に諭して曰く、
黄帝は初めて八陣法を設け、涿鹿において蚩尤を破った。諸葛亮は魚復の平沙の上に八陣図を造り、石を積んで八行とした。晋の桓温はこれを見て、「常山蛇の勢いなり」と言った。これ即ち九軍陣法である。隋に至り、韓擒虎は深くその法を明らかにし、甥の李靖に授けた。李靖は時に久しく乱に遇い、将臣で通暁する者が頗る多いことを以て、故に六花陣を造って九軍の法を変え、世人をしてこれを暁らしめざらしめた。大抵八陣は即ち九軍なり、九軍とは方陣なり。六花陣は即ち七軍なり、七軍とは円陣なり。蓋し陣は円を体とし、方陣は内円にして外方、円陣は即ち内外ともに円なり。故に方円の物を以てこれを験すれば、則ち方は八をもって一を包み、円は六をもって一を包む、これ九軍六花陣の大略なり。六軍とは、左右虞候軍各一、これ二虞候軍なり;左右廂各二、これ四廂軍なり;中軍と共に七軍を為す。八陣とは、前後二軍を加え、共に九軍なり。開国以来、殿前・馬歩軍三帥を置く、即ち中軍・前後軍帥の別名なり;而して馬歩軍都虞候はこれ二虞候軍、天武・捧日・龍神衛四廂はこれ四廂軍なり。中軍帥は九軍を総制し、即ち殿前都虞候、専ら中軍一軍の事務を総べ、これ其の名実古の九軍及び六花陣に符して少しも差違せざるなり。今兵を論ずる者は皆唐の李筌『太白陰経』中の陣図を法と為し、失うこと遠し。
朕は嘗て近時の臣僚の献ずる陣図を覧るに、皆妄りに相眩惑し、一も取るべきなし。果して其の説の如くならば、則ち両敵相遇うに、必ず使を遣わして予め戦日を約し、寛平の地を択び、阜を夷げ壑を塞ぎ、草を誅し木を伐ち、射圃教場の如くにして、初めて其の法を尽くすべし。理を以てこれを推すに、其の用いるべからざるは決せり。今李靖の法に約して九軍営陣の制と為すべし。然れども李筌の図は乃ち営法にして、陣法に非ず。朕は古の法を采り、今の宜しきに酌み、曰く営曰く陣、本は一法より出づ、特に行わざるを営と曰い、行うを陣と曰う;奇正にこれを言えば、則ち営は正、陣は奇なり。
ここにおいて八月を以て城南の荊家陂において八軍陣を大閲し、事已みて、遂より下り指使・馬歩軍に至るまで銀絹を賜うこと差等あり。八年、諸路に詔して五軍陣の教えを権に止め、ただ四禦陣を教えしむ。
九年四月、帝輔臣と営陣法を論じ、謂う、「将たる者は将兵の理を知ること少く、且つ八軍・六軍は皆大将中に居り、大将は譬えば則ち心なり、諸軍は四体なり。其の心智を運らし、身を以て臂を使い、臂を以て指を使い、左を攻めれば則ち右救い、右を攻めれば則ち左救い、前後も亦然り、則ち軍何ぞ由って敗れんや」と。
元豊四年、九軍法一軍の営陣を以て城南の好草陂において按閲し、事已みて、諭を獎す。
七年、詔す、「已に五陣法を降す、諸将に教習せしむ、其の旧く教うる陣法は並びに罷めよ」と。蓋し九軍営陣は方・円・曲・直・鋭と為し、凡そ五変、是れ五陣と為す。
紹興四年、内殿において神武中軍官兵を按閲し推賞せんことを詔す。
二十四年、臣僚言う、「州郡の禁卒は、遠方に在りて縦馳し、多く訓練せず、春秋教閲には、臨時に数を備うるのみ、乞う旧制を申厳せん」と。
三十一年、詔す、「比聞く諸路の州廂・禁軍・土軍は、有司擅に私役し、教閲を妨ぐと。帥府其れ厳に守兵を責めて兵を勤め帰営せしめ、訓練精熟し、以て点視に備えよ」と。
四年、帝は茅灘に幸して教閲を行ふ。黄旗を挙げ、三鼓を連ねて方陣に變じ、五鼓に白旗を挙げて圓陣に變じ、次いで二鼓に赤旗を挙げて銳陣に變じ、青旗を挙げて直陣に變ず。事畢りて、上大いに悦び、賞賚を倍加す。兵を東西に分ち、大刀・火炮を呈す。上、李舜舉に問ふ、「按閲は曩時に比して如何」と。舜舉奏す、「今日の兵は、陛下親しく訓練し、深恩を以て撫し、重賞を以て錫ひたまふ。忠勇常に倍せり」と。
乾道年中、詔して弓箭手の元射一石四斗力を三斗加へ、元射一石力を五斗加へ、弩手の元射四石力を五斗加へ、元射兩石七斗力を八斗加へ、進秩推賞等差有り。宰執、射親賞格を進む。虞允文曰く、「拍試は鬥力升請給を以てす。今射親を以て賞を定むれば、恐らくは鬥力を加意せざらん」と。上曰く、「然り。他日強弓弩を以て勝を取るべし。若し止だ射親を習はば、則ち鬥力進まず。此の賞格行はるべからず」と。
淳熙年間、槍手及び射鐵簾の格を立てる。上、輔臣に謂ひて曰く、「射鐵簾を聞くに、諸軍鼓躍奮厲す」と。周必大曰く、「兵久しく用ひず、此輩進取無く、自然氣惰る。今陛下激勵告戒し、人々皆勝兵たり」と。是に於て殿前・歩軍司諸軍及び馬軍舊司の弓弩手、射鐵簾に合格する兵、總て一千八百四十餘人。詔して中垛簾の弓箭手一石二斗力十箭、弩手四石力八箭は、格に依り兩秩を進め、各錢百緡を賜ふ。弓箭手一石力十箭以上、弩手三石力八箭は、各兩秩を進む。詔して中外諸軍の賞格も亦之の如くす。
淳祐十一年、台臣軍匠閑せず閱習せざるの弊を條陳す、「舊制を按ずるに、禁兵私役すること無し。比歲凡そ州軍屯營駐紥の處、多く舊習に循ひ、一州の軍匠慮る無く數百、官の小大無く各占破し、而して雕鏤・組繡・攻金・設色の事靡く所として有らざる無し。工藝は精なれども、擊刺習はざれば、設ひ小警有らば、何ぞ甲を授く可けん。乞はくは帥守及び統兵官に申嚴し、應に軍匠は營伍に歸り閑習訓練を聽し、無益を競ひ作すこと勿らしめ、虛しく廩稍を糜し、以て軍實を妨げしむる勿らん」と。
鹹淳初、臣僚言ふ、「諸軍の統領・統製・正將・副將は正に軍に在りて訓練し、武事に閑ならんと欲す。一たび調用有らば、令下りて即ち行き、士悉く將の智に、將悉く士の勇にし、向ふ所敵無きなり。今江南の州郡・沿江の製閫は帳前官を置き、專ら營運を任じ、軍計の爲に非ず、實に家謀の爲にし、戰陣の新功絕無し。率ね帳前より升差す。大略一軍僅か二三千なるに、使臣五六百に至り、以て雜役に供す」と。
九年、臣僚言ふ、「比者軍兵を招募するも、一時徒に充數を取らんとし、以て賞格を覬ふ。涅刺の後、更に教閱せず。主兵官は勞役を以て苦しめ、日夜休むこと無し。一たび或少しく違へば、即ち囹圄に罹り、榜掠の酷、兵命に堪へず。而して死者逃者踵を接ぐ。今請ふ、新招の軍を諸隊に分隸し、之をして紀律に熟し、事藝を習はしめ、或は旬或は月上に各郡に閱試せしめん」と。蓋し弊此に至りて、訓練の製大いに壞る。