宋史

志第一百四十七 兵八

◎兵八○揀選之制 廩給之制

揀選の制は、建隆の初めに、諸州に命じて軍士を召募し、部送して闕下に至らしめ、到着すれば軍頭司が等第を覆験し、便坐に引対して、諸軍に分隷させた。廂軍から禁兵に昇り、禁兵から上軍に昇り、上軍から班直に昇る者は、皆、臨軒して親閲し、材勇絶倫でなければ応募に充てず、その余は皆、下から選補した。

咸平五年、環州・慶州等の州の廂軍馬歩軍六千余人の内から、材勇ある者四千五百人を選び、逐砦の屯防に付し、もって禁兵に代えさせた。

景德二年、宣示して曰く、「殿前・侍衛司の諸禁軍中に老疾の者衆し、蓋し久しく征戍に従い、揀練を失い、毎に抽替して京に至るも、量りに閲視を加うるも、亦たただその尤なる者を去るに能うのみ。今多くは已に抽還せり、宜しくこの兵を息うるに乗じ、精しく選揀を加うべし。議者その衆を動かすを恐るるも、亦た断じて必ず行うに在るべし。昔、太祖も亦た嘗てこれを患い、遂に尽く行って揀閲し、当時の人情深く以て懼れと為すも、その後果たして精兵を成せり。」樞密使王繼英等曰く、「今兵革休息す、この時に乗じて遴選せざれば、実に冗兵徒らに廩食を費やすを恐る。」帝曰く、「然り。近者契丹盟を請い、夏人款を納る、軍旅の情、国家便ち兵を去り費を惜しむを謀るを謂わんことを恐る。」乃ち命じて先ず下軍に於いて勇力ある者を選択し、次いで上軍に補わしむ。その老疾の者は、秋冬を俟ち、慎みて将臣を択び、令してこれを揀去せしむ。

三年正月、詔して樞密都承旨韓崇訓等を遣わし、殿前司・侍衛馬歩軍司とともに諸軍兵士を揀閲せしめ、供備庫使・帯禦器械綦政敏等を分かち往かせて京東・西路に揀閲せしむ。八月、詔して効順第一軍を京に赴かせて揀閲せしめ、もって虎翼の名闕を補わしむ。この軍は皆、河東の人なり、帝その累戍の労苦を念い、故に升獎す。

大中祥符二年四月、詔して曰く、「江南・広南東西路の流配人等は、皆、自ら憲章に抵り、久しく配隷に従う、その遠地を念い、毎に軫懐を用う。喬嶽の増封に属し、溥天の大慶に洽う、常例に拘わらず、特示して寛恩を施す。江南路は宜しく内殿崇班段守倫を差し、升州・洪州に就き、広南東・西路は殿直・閣門祗候彭麟を差し、桂州に就き、本路転運使とともに諸州の雑犯配軍を勾抽し、揀選して淮南州軍の牢城及び本城に移配せしむ。少壮にして披帯に堪うる者あれば、即ち部送して闕に赴かしめ、当に議って近上の軍分に安排すべし。量移及び闕に赴くを願わざる者は、亦た聴す。若し地理遠く隔たる処は、即ち転運使とともに伝に乗り就きて彼に依り、この如く揀選せしむ。」

五年正月、帝、知樞密院王欽若等に諭して曰く、「在京の軍校、外処の人員に差充し、軍数足らず、訓練を妨ぐ、詔を以て示し、殿前・侍衛馬歩軍司に簡補せしむべし。禁軍の逐指揮兵士の内、捧日上三軍は要して三百人に及び、龍衛上四軍は各二百五十人、拱聖・ぎょう騎・驍勝・寧朔・神騎・雲武騎は各三百五十人とし、並びに次の軍営に於いて升填し、須らく本額の等様に及び、及び軍頭司をして諸処に招揀して到る人の内より選填せしむべし。営が在京の者は引見して分配し、外処に在る者はこれに準じ、仍ち逐司に委ねて擘画し開坐して以て聞かしむ。在京より差出する者は、替回を俟ちて揀選すべし。」

九年十一月、詔して河北・河東・陝西の諸州軍に、本城兵を揀料せしめ、五百人以上を以て一指揮と為し、本処に於いて営を置き、武芸を教閲し、禁軍に升せしむ。

天禧元年二月、使を遣わし分かち諸州軍に往き、廂軍の驍壮及び等しき者を揀し、上軍に升隷せしむ。六月、天下の廂兵を召選し、禁軍に遷隷する者は、凡そ五千余人。天聖の間、嘗て詔して樞密院に禁軍選補法を次がしむ。

凡そ上四軍に入る者は、捧日・天武は弓を以て九斗、龍衛・神衛は弓を以て七斗、天武は弩を以て二石七斗、神衛は弩を以て二石三斗を中格と為す。恩州・冀州の員僚直・驍捷の軍士、四軍に選中せられば、則ち復た閲試せず。自余の招揀して中る者は、並びに引対す。凡そ員僚直に闕あれば、則ち選中の上軍及び龍衛等様、弓射七斗合格の者を以て充て、仍ち龍衛の例の如く班直を選補するを許す。

凡そ禁軍を選ぶには、奉錢三百已上、弓射一石五斗、弩蹠三石五斗、等様及び龍衛の者より、並びに親閲し、以て龍衛・神衛に隷す。凡そ騎御馬直の小底に闕あれば、則ち拱聖・驍騎の少壮善射の者を閲して充てる。凡そ弓手は、内殿直以下は殿前指揮使に選補し、射一石五斗。禦龍弓箭直は禦龍直・禦龍骨朵子直に選補し、東西班帯甲殿侍は長入祗候に選補し、禦龍諸直の将虞候は十将に選補し、射は皆一石四斗。東西班・散直は内殿直に選補し、捧日・員僚直・天武・龍衛・神衛の親従は諸班直に選補し、禦龍骨朵子直・弓箭直の将虞候は十将に選補し、禦龍直の長行は将虞候に選補し、射は皆一石三斗。員僚・龍禦・騎御馬直の小底は散直に選補し、射は皆一石二斗。凡そ弩手は、東西班帯甲殿侍は長騎祗候に選補し、射四石。禦龍弩直の将虞候は十将に選補し、射三石八斗。長行は将虞候に選補し、射三石五斗。その捧日・天武・龍衛の親従が弩手班・禦龍弩直に選補するも、亦たこの如し。その次は別に一等を為し、二斗を減ず。自余の殿前指揮使・諸班直は、歳久若しくは上名にして外職に出補する者は、試むる所の弓弩の斗力は皆遽かに減じ、弓は一石三斗より八斗に至り、弩は三石二斗より五斗に至り、各差有り。

凡そ班直、上親閲を経て籍に隷する者は、有司復た按試す勿れ。その軍額を升る者は、或いは少壮拳勇を取るか、或いは辺に労有るを旌す。河清の遽補に至りては、牢城の配軍も亦た間下して詔を選補し、蓋し使役に給する者時に進み、罪を負う者終に廢せられざらしむるなり。その老疾を退くは、則ち歳首を以てし、或いは出軍の回るに因る。転員は皆揀汰し、上軍は三歳を以てす。河北は大閲に遇うも亦たこの如し。景祐元年、詔して教駿を選び、拱聖諸軍に填め、その老疾を退けて剩員と為し、役に任えざる者は免じて民と為す。

三年、詔して驍騎・雲騎・驍勝を選び、拱聖に填め、武騎・寧朔・神騎を選び、驍騎に填めしむ。

康定元年、輦官を選抜して禁軍とした。輦官二十六人が輔臣を遮り喧嘩訴え、その首謀者二人を斬り、残りは顔に墨を入れ嶺南に配流し、結局当初通り選抜した。

慶曆三年、詔して韓琦・田況に命じ、京師で俸給五百以上の禁軍のうち武技に精しく敏捷なる者を選び、各営より五人ずつ取り、枢密院に姓名を記録させ、駆使に備えさせた。田況はこれにより言上して曰く、「今、天下の兵は百万を超え、先朝に比べてほぼ三倍に及ぶ。昔より養兵の冗多なること、かくの如きは未だ有らず。且つ諸路の宣毅・広勇等の軍は弱くて甚だ多く、大なるものは戦に堪えず、小なるものは役に堪えず。宜しく官を分遣し、戦に堪えざる者を選んで廂軍に降格し、役に堪えざる者は釈放すべし」と。上、その言を然りとす。

皇祐元年、河北・河東・陝西・京東西の禁軍・廂軍諸軍を選抜し、その老病衰弱たる者を半分の兵糧(半分)に退け、甚だしき者は糧を与えて郷里に帰還させた。化外に属する者、或いは罪により軍に隷属した者、或いはかつて戦功有りし者は、悉く剰員として処遇した。

三年、韓琦が奏上して曰く、「河北の就糧諸軍で上軍に就くことを願う者は、大閲の際に自ら申し出ることを許すべし。もし同等の試験に中格し、旧来罪悪なく、即ち部送して闕下に至らしめ、材量に応じて昇補すべし」と。乃ち詔して四路都総管司に曰く、「今より春秋の閲兵に於いて、主管官に委ねて身長五尺六寸以上、弓一石五斗、弩三石五斗に引ける者を選び、併せて家族を部送して闕下に至らしめよ」と。

嘉祐二年、詔して神衛水軍等は五年を以て、諸司庫務の役兵は三年を以て一選とす。五年、京東西・陝西・河北・河東の本城・牢城・河清・装禦・馬遞鋪の卒で、身長五尺三寸で甲を帯びるに堪える者を選び、禁軍に補う。その嘗て盗を犯し逃亡して坐し墨刑を受けた者は、外州軍の帰遠・壮勇に配す。

八年、右正言王陶が奏上して曰く、「天下の廂軍は歳首に選抜するが、禁軍に至っては、駐屯地より還った日に選抜する法有りと雖も、或いは行われず。臣、窃かに惟うに、禁軍を調発するは本来精鋭を籍とす。軍が出るの時は特に選抜訓練すべし。請う、有司に下し、凡そ禁軍を調発するに当たり、当職官に委ねて年六十以上、将校は年六十五以上で衰老者を淘汰せしめよ。然らば則ち兵は精にして用は省かるべし」と。その章を下す。殿前・馬歩軍司が奏して曰く、「旧制、陝西・河北・河東・広南の辺境に接する諸軍に派遣戍守する者は悉く選抜淘汰す。余りの路には令無し。請う、今より諸軍の調発は悉く選抜法に従わしめよ」と。詔して可とす。又詔して曰く、「凡そ本城・牢城の軍士を選んで龍猛等の軍に補うには、併せて籍簿を調べて嘗て俸給五百及び龍猛等の者を取って、以て龍猛に配せよ。その等に及ばず、且つ嘗て俸給四百以下の者、若しくは百姓で墨刑を受け隷属した者及び龍騎等の者は、以て龍騎に配せよ。その龍騎軍士で戍守より還った者は、即ち選んで龍猛を埋めよ。今より本城・牢城は悉く三年に一選とし、令と為すべし」と。

治平元年、親従官の武技を閲し、百二十人を得て諸班直に補う。乃ち詔す:今より親従官は、年齢を三十五以下に限って充てよ。又詔して曰く、「聞く所によれば、三路の就糧兵には、多く老疾で鎧甲に堪えざる者有り。時に拘わらず、年五十以上で子弟或いは異姓の親族等に応募に適う者あるものは、代えしむべし。如し無ければ、外人を召募するを聴す」と。是の歳、詔して京畿並びに諸路に龍騎・壮勇・帰遠・本城・牢城・宣効の六軍を選抜せしむ。河清・車営・致遠・窯務・鑄銭監・屯田務に籍を隷すること三十年で鎧甲に堪える者は、部送して京師に至らしめ龍猛等の軍を埋めよ。その広南より選抜に中った者は、就いて江西・荊湖の帰遠の欠員を埋めよ。仍て詔して、毎三年に龍猛等の軍の欠員数を奏聞せしむ。又詔して諸路に、歩射で弓を二石引き、広弩を四石五斗以上引ける者有れば、奏して遣わし闕下に詣らしめよ。

二年、詔して京東の教閲兵を禁軍に補う。先に、京東の教閲本城は、初め設置された時より番して本路の巡検に隷属し、久しく選抜補充せず。上、その軍に勇壮で用いるに堪える者多しと聞き、激励奨励を示さんと欲し、故に是の詔有り。

治平四年五月、拱聖・神勇以下の勇分を選抜し、以て捧日・天武・龍・神衛の欠員数を補う。

元豊三年六月、権主管馬歩軍司燕達が言上して曰く、「内外の就糧退軍二十一指揮八千余人は、禁軍の小疾故に選抜退けられ、及び武藝浅弱の人を配填したもので、既に訓練せず、又屯戍を免れ、安閑として冗食し、軍の儲蓄を消耗蠹食す。若し今より更に増補せず、漸く銷減を俟ち、欠員有るに及び、禁軍の選募に依り、武藝を教習せば、数年を経ずして、退軍は尽く鋭士に変ずべし。内、俸給七百の者は減じて五百と為し、五百俸給軍の等杖に依り招選すべし」と。之に従う。仍て詔して曰く、「上四軍の退軍は改めて五百俸給軍の軍額と為す」と。八月、殿前・歩軍司の虎翼十指揮が戍守より帰営し、その労苦を閔み、詔して並びに昇補して神勇指揮と為す。広西路経略司が言上して曰く、「雄略・澄海指揮に欠員有り。請う、諸路より配送隷属した牢城卒のうち、犯した所稍々軽く、及び少壮で披帯に任ずる者を選抜補充せしめよ」と。之に従う。

四年四月、提挙河北義勇保甲狄諮が言上して曰く、「旧制、諸指揮の兵級の内に老疾で年五十五以上、弟侄子孫及び等杖に適う者有れば、名糧を承替せしむ。其の中にも征役に堪えざる者有り。乞う、年四十以上を許して承替せしめよ」と。詔して河北の馬歩諸軍は此に依らしむ。十二月、詔して諸班直・上四軍は、常に罪有りて改配された人を簡抜することを得ず。

元祐二年七月、詔して諸路は毎歳八月以後に武藝を試す人を解発して闕下に至らしめ、殿前司は次年正月を限り、軍頭司は二月以前を限って試験し恩賞を推す。武藝人を呈試するも同じ。

三年閏十二月、枢密院が言上して曰く、「在京の諸軍の兵額多く欠員有り。而して京東・西路の就糧禁軍は往々にして定員を超えたり」と。詔して官を差し往きて逐路にて長吏と共に選抜発遣せしめ、以てその数を補わしむ。

大観元年四月、詔して曰く、「東南諸郡の軍旅の事、久しく訓斉を失う。民は浮弱と雖も、山を阻み江を帯び、軽くして易く動揺す。安きに必ず危きを慮う、誠に忽にすべからず。其の諸軍の事藝、生疏と精熟と不同なるは、独り将官の訓練の優劣を見るのみならず、実にまた教頭の能否に係る」と。枢密院は請う、逐路の提挙訓練官に委ねて精熟せる教頭を妙選せしめ、二年に一替とし、若し能く訓練精熟せば、然る後に賞を推すべしと。之に従う。

至若省並の法は、凡そ軍は各々営有り、営は各々定員有り。皇祐年間、馬軍は四百、歩軍は五百人を以て一営と為す。承平既に久しく、定員は存して兵は欠け、馬一営は或いは僅か数十騎に止まり、兵一営は或いは一二百に満たず。而して将校猥りに多く、賜与と廩給は士卒の十倍に及び、順次遷転するも定員の如く少しも損ぜず。帝之を患う。熙寧二年、始めて併廃を議す。陝西の馬歩軍営三百二十七を、併せて二百七十と為し、馬軍の定員は三百人を以てし、歩軍は四百人を以てす。其の後凡そ撥併するもの、馬歩軍営五百四十五を併せて三百五十五と為し、而して京師・府界・諸路及び廂軍は皆会総して畸零を足し、各々その常額を満たす。

凡そ営を併せんとするには、先ずその居室を繕い新たにし、遷徙の費を給す。軍校の員が溢るれば、則ち以て他軍の闕を補い、或いは併せし兵に随って各指揮に入れ、職次の高下に依って同じく領せしむ。帝嘗て輔臣に謂いて曰く、「天下の財用は、朝廷稍々意を加うれば、則ち省く所勝計すべからず。乃ち者軍営を銷併し、軍校・十将以下三千余人の減ずるを計る。二節の賜予及び傔従の廩給を除く外、一歳に省く所を計れば、銭四十五万緡、米四十万石、絹二十万匹、布三万端、馬槁二百万となる。庶事此の若き有らば、邦財其れ勝用すべけんや」と。

初めに営を併するを議するや、大臣皆兵驕ること久しとし、遽かに之を併せば必ず乱を召すべく、不可なりとす。帝聴かず、独り王安石之を賛決す。時に蘇軾言いて曰く、「近者軍を併し卒を蒐するの令猝然として軽く発す、前日に甚だし。陛下人言を恤みたまわず、之を持すること益々堅しと雖も、勢窮まり事礙り、終に亦必ず変ずべし。他日良法美政有りと雖も、陛下復た能く自ら信ぜんや」と。枢密使文彦博曰く、「近く多く更張し、人情洶洶として一に非ず」と。安石曰く、「事更張に合すれば、豈に此の輩の紛紛たるを憚らんや」と。帝安石の言を用い、卒に営を併せしむ。熙寧より元豊に至るまで、歳に併廃有り。

元符二年、枢密院言う、「已に諸路に詔して堡砦を併廃し、兵将を減罷せしむ。鄜延・秦鳳路は已に減併せり、余路は未だ施行を見ず」と。詔して涇原・熙河蘭会・環慶・河東路に速やかに議して以て聞かしむ。

三年、都護府を罷め、安撫使を河・蘭州に隷せしめ、以て饋運を省く。詔して辺帥に額外の戍兵を減ぜしむ。建中靖国元年、秦鳳路の土兵を減放す。

大観三年、詔す、「昨処分を降し、東南の利害を措置す。深く事力未だ弁ぜず、応に費やす所貲計るべからざるを慮る。其の帥府・望郡の禁軍を添置し、諸県の弓手を置き、並びに其の壮城兵士を罷む。帥府に一百人を置き、余の望郡に五十人を置かしむ。旧多く者は自ら旧に依れ。沿辺の州軍は旧有るを除く外、壮城の増招を罷む。帥府・望郡の養馬並びに歩人の選充する馬軍指揮、及び常平銭を支て封樁斛斗を収糴する指揮、並びに罷む。已に添置せる路分鈐轄・路分都監は、許して任満せしむ。江南東西・両浙は各共に走馬承受内臣一員を差し、帥府の機宜文字を添置する去処、並びに罷む」と。

四年、詔す、「四輔州は各一将を減ず。其の軍兵は京畿転運司に仰ぎ、未だ足額せず並びに未だ人有らざるを将い、崇鋭・崇威・崇捷・崇武内に並びに廃する四十四指揮已に揀到せる人を、等杖に随って四輔の見闕禁軍に撥填せしむ。仍って逐輔の将に係り・将に係らざる軍兵を、住営の遠近を以て相度し、重ねて別に分隷排定し、及び八将の訓練駐紮する去処を、疾速に開具して以て聞かしむ。河北・河東の崇鋭・崇威、河東十八指揮、河北将に隷せざる十三指揮は並びに廃し、見管の兵は総管司に撥填して本路の禁軍闕額に充てしむ。河北路は撥不尽の人を発遣して上京し、在京の禁軍闕額を分填せしむ。河東の撥不尽の人、並びに本路の禁軍額外に収管せしむ」と。

宣和五年、詔す、「両浙の盗賊寧息す。其の越州に置く捕盗指揮は、均しく江東・淮東三路の州軍闕額に填むべし」と。

神宗の世に至りては、則ち又た簡汰退軍の令有り。治平四年、詔して拱聖・神勇以下の軍を揀い、捧日・天武・龍衛・神衛の兵闕を補わしむ。

熙寧元年、詔して諸路の監司に州兵の招簡法の如くならざる者を察して之を按せしめ、禁軍に任せざる者は廂軍に降し、廂軍に任せざる者は免じて民と為さしむ。

二年、陳升之の議に従い、衛兵の年四十以上稍々程に中らざる者の請受を量り減ず。呂公弼及び龍図閣直学士陳薦皆退軍の便ならざるを言う。三年二月、司馬光も亦た曰く。

窃かに朝廷の在京禁軍四十五以上微かに呈切なる者を揀い、尽く請給を減じ、兼ねて其の妻子を徙置して淮南にし、以て糧食に就かしめんと欲するを聞く。若し実に此の議有らば、窃かに謂う、宜しからざるなりと。何となれば、在京禁軍及び其の家属は、率皆京師に生長し、親姻聯布し、安居楽業し、衣食県官す。日の固より久し。年四十五未だ衰老と為さず、微かに呈切なりと雖も、尚ほ征役に任ず。一旦別に罪負無くして、其の請給を減じ、之を淮南に徙すは、是れ横に降配に遭うなり。

且つ国家天下の財を竭して長征兵士を養うは、本より辺陲を備禦せんと欲するなり。今淮南は用武の地に非ずして、多く禁軍を屯し、坐して衣食を費やすは、是れ無用の兵を養い、諸れを無用の地に置くなり。又た辺陲常に事無きは則ち已む。異時に或少しく警急有らば、主兵の臣必ず争いて益兵を求む。京師の兵既に少なければ、必ず使者をして四出せしめ、大いに召募を加え、広く揀選し、将に数倍今日退する所の兵より多からん。是れ已に教閲経戦の兵を棄てて、市井畎畝の人を収む。本より冗兵を減ぜんと欲して冗更に多く、本より大費を省かんと欲して費更に広し。計の得る所に非ざるなり。

臣愚、願わくは朝廷且つ旧法に依り、毎歳禁軍に征戦に任せざる者有れば小分に減充し、小分復た執役に任せざる者は、放ちて自便せしめ在京に居止せしむ。但だ老病の者をして尚ほ名籍を占めしめ、虚しく衣糧を費やさしむる勿れ。人情既に習う所に安んじ、国家又た其の力を得、冗兵既に去り、大費自ら省まる。此れ国家の安危の係る所、敢えて言わざるべからず。

右正言李常も亦た以て言と為す。之に従う。是の年、詔す、「陝西就糧禁軍の額十万人、方に用兵の初めなり。其れ陝西・河東に令して亟に士を募り其の闕を補わしむべし」と。

四年、詔す、「比に諸路の配軍を選びて陝西の強猛と為す。其れ以て禁軍と為し、給賜は壮勇を視て優と為し、歩軍司に隷し、逐路の都監・総管司に役せしむ」と。詔して広東・福建・江西に本路の配軍壮勇なる者を選ばしめ、募る所の兵万人に合せ、以て征戍に備えしむ。三月、詔して広東路に雑犯配軍の丁壮を選ばしめ、毎五百人を一指揮と為し、広州に屯し、号して新澄海と曰い、広西の法の如くせしむ。七月、手詔す、「諸路の小分の年四十五以下甲に勝つ者を揀い、升めて以て大分と為し、五十已上民と為らんことを願う者は聴す」と。旧制、兵六十一に至りて始めて免ず。猶即ち許さず。是に至りて民と為るを免ずる者甚だ衆し。冗兵是れによりて大いに省まる。

十年、官を遣わして畿内、京東西、陝西、荊湖の長吏とともに軍士を簡募し、以て禁軍の闕を補う。

元豊元年、詔す:馬軍より上軍を選び、上軍より諸班を選ぶ者は、並びに馬射弓一石の力を要す。諸班直の槍弩手に闕あれば、親従・親事官を選び、八並びに捧日・龍衛の弓箭手を選ぶ。二年、雲騎軍に二千一百の闕あり、雲捷等の軍を以て之を補う。

六年、騎兵の年五十以下、武技を教えて成らず、而して才を以て肄習すべき者は、並びに以て歩軍と為す。

元祐四年、詔す:「今後歳に禁軍の節級を揀ぶに、筋力未だ衰えざる者は、年六十五にして始めて減じて剩員に充つ。」

八年、涇原路経略司奏す:「諸将の下の剩員を揀選し、年六十以下精力衰えず、仍って軍に充て、以て闕額を補う。」之に従う。陝西諸路も之の如し。

紹聖四年、樞密院言う:「龍騎は雑犯の軍額に係り、闕数尚お多し。今、禁軍の徒兵に犯し及び経断する者を将ち、歳に揀びて以て闕を填めんと欲す。」之に従う。

元符元年、又言う:「就糧禁軍の闕額は、廂軍の内より年四十以下を揀選して填む。」之に従う。

宣和七年、詔す:京東西、淮南、両浙の帥司は諸軍の驍鋭を精選し、発して京畿輔郡兵馬製置使司に赴かしむ。

靖康元年、詔す:「軍兵久しく教習を失い、当に冗濫を汰し、精しく揀択を加うべし。」然れども精にすべからず。兵盛んなる時は、年五十已上は皆汰して民と為し、及び銷並の久しきに及び、軍額廃闕すれば、則ち六十已上復た収めて兵と為す。時政の得失、因りて見るべし。

中興以後、兵素より練らず。軍校転補の法行わるるより、而して揀選益々精なり。大抵疾患有れば則ち選び、老弱有れば則ち選び、藝能不精なれば則ち選ぶ。或は中軍より揀補して外軍と為し、或は外辺の精鋭を揀びて以て禁衛を升す。『軍防令』を考うるに、諸軍の招簡等杖は:天武第一軍五尺八寸、捧日・天武第二軍・神衛五尺七寸三分、龍衛五尺七寸、拱聖・神勇・勝捷・驍捷・龍猛・精朔五尺六寸五分、驍騎・雲騎・驍勝・宣武・殿前司虎翼・殿前司龍翼水軍五尺六寸、武騎・寧朔・歩軍司虎翼水軍・揀中龍衛・神騎・廣勇・龍騎・驍猛・雄勇・吐渾・擒戎・新立驍捷・驍武・廣銳・雲翼・有馬勁勇・歩武・威捷・武衛・床子弩雄武・飛山雄武・神銳・振武・新招振武・新置振武・振華軍・雄武弩手・上威猛・廳子・無敵・上招收・冀州雄勝・澄海水軍弩手五尺五寸、廣捷・威勝・廣德・克勝・陝府雄勝・驍雄・雄威・神虎・保捷・清邊弩手・制勝・清澗・平海・雄武・龍德宮清衛・寧遠・安遠五尺四寸五分、克戎・萬捷・雲捷・横塞・捉生・有馬雄略・效忠・宣毅・建安・威果・全捷・川效忠・揀中雄勇・懷順・忠勇・教閲忠節・神威・雄略・下威猛五尺四寸、亳州雄勝・飛騎・威遠・蕃落・懷恩・勇捷・上威武・下威武・忠節・靖安・川忠節・歸遠・壯勇・宣效五尺三寸五分、濟州雄勝・騎射・橋道・清塞・奉先・奉國・武寧・威勇・忠果・勁勇・下招收・壯武・雄節・靜江・武雄・廣節・澄海・懷遠・寧海・刀牌手・必勝五尺三寸、揀中廣效・武和・武肅・忠靖・三路廂軍五尺二寸。

建炎三年、詔す:「江南・江東・両浙諸州軍の正兵・土兵、鎮江・越州を除き、守臣・兵官・巡検に委ね、六分中一分を選び、部轄人は年四十五以下、長行は年三十五以下、合用の器甲、旨を候ち行在に選択して赴かしむ。軟弱にして堪えず、年甲応ぜず、或は占庇して数の如く選発せざる有らば、其の当職官刑有り。」

四年、詔す:「神武義軍統制王燮の下に閲到したる第三等軍兵一千六百六十人、廂禁軍に填め、其の披帯に任ぜざる者は、分ちて厳州の新禁軍に填む。」

紹興二年、上輔臣に謂いて曰く:「邵青・単德忠・李捧の三盗、招安して臨安に至ること日久し、卿等其れ極めて揀汰せよ。」呂頤浩・秦檜、旨を得て張俊とともに閲視し、留むるに堪うる者近く七千人。詔して張俊に命じ精鋭を選ばしむ。兵五千人を得て行在に詣る。

二十年、樞密院言う:都統呉玠、中護衛の西兵千人を選中す。詔して殿司に隷せしむ。又、統制楊政、西兵三百二十五人を選び、歩軍司に填む。

二十四年、詔す:「禦龍直見闕の数は、殿・歩二司より選び拍試して諸班に填むべし。」乾道二年、詔す:王琪に三百人を選ばしめ馬軍に充てしむ。

慶元三年、殿司が言うには、「正額の效用は一万一千五百九十二人、欠員二百五十九人あり、雄効内及び效用のうち帯甲して一石力の弓・三石力の弩の拍試に合格した者をもって欠員を補充すべし」と。詔して曰く、「崇政殿祗候・親従を班直の人数に補充するのは、特例として免除する。三衙の旧司官兵及び御馬直で班人を選抜すべき者は、欠員に照らして補充せよ」と。

嘉定十一年、臣僚が言うには、「今、軍政において優先すべきは、兵卒を淘汰することに如くはない」と。謂うには、「例えば千人の兵のうち百人が老弱であれば、敵に遇えば先ず逃げ、すなわち千人皆が無用となる。厳しく中外の将帥に命じ、必ず実態を査核させることを乞う」と。

その省併の法は咸平年間に始まる。建炎以後、臣僚がしばしば言うには、軍の定員に欠員があれば、一等の軍分に併合し、その旧額を満たして教閲を便利にし、指揮・製領・将佐の属官も或いは罷め或いは省き、全てその請いに従う。蓋し多事の秋には、兵の不足を憂い、増補して軍容を壮んにすることを望む。事が既に寧息すれば、その有余を憂い、必ず併省して軍実を核めようとする。その意は、民力を少しでも蘇らせようとすることにある。

嘉熙初年、臣僚が言うには、「今日の兵はかくの如く貧窮している。これを変通して考えよ。卒伍の中から強勇の者を取り、その籍を別にし、その廩給を厚くする。例えば百人の中から十人、或いは二十人、或いは三十人を選べば、すなわち万人の中に三千の兵がいることになる。時に弓弩を試し、武芸を課し、暇あれば馬を馳せ球を撃って楽しみとし、秋冬には校猟を行わせる。その材力精強なる者には、厚く賞賚を与える。またその中から特に優れた者を抜擢し、数は愈々少なくし、廩給は愈々厚くし、子弟の如くに待遇し、腹心の如くに倚り頼む。緩急の際に用いることができる。蘇轍に言う、『天子は必ずや私する将あり、将軍は必ずや私する士あり』と。また必ずや主帥・製領に命を申し、鼓動して精選させ、統御の権を仮し、階級の法を厳しくすべし。将は士と親しむことを楽しみ、士は将のために用いられることを楽しめば、運動して意の如くにすることができ、別に一軍を移したり、新たに軍を招いたりする必要はない」と。

咸淳年間、兵を招くこと虚日なく、科降の下等の銭は万を以て計る。奈何せん、任ずるに其人に非ざれば、白昼に平民を捕えて兵とし、召募に法なく、揀選など言うに及ばない。

廩祿の制は、農たる者は租税を出して兵を養い、兵たる者は征守に事えて民を衛る。その勢然り。唐は天下の兵を分けて藩鎮に置き、天子の府衛、中外の校卒は、十余万を過ぎず、而して国用に見るに其の有余あるを見ず。宋は五代の弊を懲り、天下の甲兵数十万を収め、悉く京師に萃め、而して国用に見るに其の不足あるを見ざるは、経制に道あり、出納に節あるなり。国初、太倉の儲えは僅かに三、二年を支うるのみ。承平既に久しく、歳に江・淮の粟六百万石を漕ぎ、而して縑帛・貨貝・歯革百物の委積は用いるに勝えず。その後、軍儲充溢し、常に余羨あり。内外乂安、偶然ならざるなり。

凡そ上軍の都校、捧日・天武及び龍衛・神衛の左右廂都指揮使で遙領して団練使を帯びる者は、月俸銭百千、粟五十斛。諸班直の都虞候・諸軍の都指揮使で遙領して刺史を帯びる者はその半ば。自余の諸班直の将校は、三十千より二千まで、凡そ十二等。諸軍の将校は、三十千より三百まで、凡そ二十三等、上なる者は傔従あり。廂軍の将校は、十五千より三百五十まで、凡そ十七等、食塩あり。諸班直は五千より七百まで、諸軍は一千より三百まで、凡そ五等。廂兵で閲教する者は、月俸銭五百より三百まで、凡そ三等、下なる者は醬菜銭或いは食塩のみを与う。班直以下、将士の月給の糧は、率ね是れを以て差等と為す。春冬に賜う衣は絹綿あり、或いは〓布・緡銭を加う。凡そ軍士で辺外に在る者は、率ね口券を分かち与え、或いは月糧を折り、或いは別に給するに従う。其の軍食を支給するには、糧料院先ず進様し、三司が倉敖の界分を定め、而して年月を以て之に次ぐ。国初、諸倉は諸営に分給し、営は国城の西に在れば、糧を城東にて給し、南北も亦然り。相距ること四十里ある者は、蓋し士卒の習墮を恐れ、負担の勤めを知らしめんがためなり。久しきのち、有司乃ち受輸の年月界分を取り、軍の次第高下を以て之に給す。

凡そ三歳に一度の大祀には、賜賚あり、優賜あり。毎歳、寒食・端午・冬至には、特支あり。特支には大小の差あり、亦た時に非ざるに給する者あり。辺戍には季毎に銀・鞵鞋を加給し、邠・寧・環・慶の辺縁で炊爨・汲水困難の地には、両月毎に薪水銭を給し、苦寒の地には或いは絮の襦褲を賜う。役兵は労苦なれば、季毎に銭を給す。嶺南に戍る者は、月奉を増す。川・広より戍還する者は、別に装銭を与う。川・広の遞鋪卒には或いは時服・銭・履を給す。屯兵する州軍では、官が銭を賜って将校を宴犒し、之を旬設と謂う。旧くは屯泊の禁軍を待つのみ、その後は本城に及ぶ。

天聖七年、法寺が諸軍の衣装を裁定す。騎兵は春冬衣各七事、歩兵は春衣七事・冬衣六事。敢えて質売する者は重ねて法を置く。

景祐元年、三司使程琳が上疏し、論じて曰く、「兵は精に在りて衆に在らず。河北・陝西の軍儲数匱しく、而して召募已まず。且つ住営の一兵の費は、屯駐の三兵を給するに足る。昔、万兵を養いし者は今三万兵なり。河北の歳費芻糧千二十万、其の賦入は十の三を支う。陝西の歳費千五百万、其の賦入は十の五を支う。自余は悉く京師に仰ぎ給う。咸平より今に逮ぶまで、凡そ二辺の増やしたる馬歩軍指揮百六十。騎兵一指揮の給する所を計れば、歳約費緡銭四万三千、歩兵の給する所は、歳約費緡銭三万二千、他の給賜は預からず。新旧の兵の費を合わせれば、千万緡に啻ならず。天地の生財は有限なり、而して用に紀極無し。此れ国用の日に屈する所以なり。今、同・華の沿河州軍は、粟を積みて紅腐するに至りて用うるを知らず。沿辺の入中粟は、価常に踊貴して未だ嘗て足らず。誠に願わくは、河北・陝西の募住営兵を罷め、復た増置せず、欠員に遇えば即ち廂軍の精鋭なる者を遷して補い、仍って漸く営を内郡に徙し、以て糧餉に便ならしめよ。無事の時は番戍して辺に在らしめ、緩急には即ち便近より調発すべし。封疆の臣に厳戒し、侵軼して事を生じ恩賞を覬うこと毋からしめ、令に違う者は重ねて法を寘け。かくの如くすれば、疆場に事無く、而して国用に余りあらん」と。帝嘉納す。

康定元年、詔して戦場の士卒には奉給を終身給す。宰臣張士遜等が禁兵の久しく辺に戍ることを言う。其の家が京師にある者は、或いは自給できず。帝、内侍を召し、即ち殿隅にて軍校以下を数等に条し、特に出内蔵庫の緡銭十万を賜う。

慶暦五年、詔す。「湖南路、卒を発して蛮を征するに、装銭を給する者は、更に帯甲銭を与うること毋かれ」と。

七年、帝、軍糧を閲するに因り、倉官に諭して曰く、「自今以後は当に足数を以て之を給すべし」と。初め、有司は糧が江・淮より漕運され、積年して後に支給するを以て、惟だ上軍の給する所の斗升は僅かに足るのみ、中・下軍は率ね十に八九を得るのみ。

嘉祐八年、殿前諸班が糧を請う、進様に比べて異なれば、輒ち受けず散去す。御史中丞王疇以て言と為す。詔す。「提点倉官は自今より往きて検視し、様に如かざるあらば、同坐せしめよ。軍士、時に請わず及び喧嘩あるは、悉く軍法に従う」と。

皇祐二年、詔して曰く、「在外の禁軍、凡そ郊賚の折色は、並びに実估の直を以て給すべし」。

五年、詔して曰く、「広南の蛮を捕らうる諸軍、歳満ちて営に帰る者、人ごとに銭二千を賜い、月ごとに奉銭二百を増す。嶺を度りて陣没し及び瘴癘にて物故したる者の子孫或いは弟・姪、等様を問わず一人を本営に隷せしめざる者は、衣廩の半を支給すべし」。

治平二年、詔して曰く、「涇原の勇毅軍を三等に揀選し、差等を付けて奉銭一千より五百までを三等として給し、復た営を置くことなく、季ごとに渭州に集めて按閲すべし」。

熙寧三年、帝手詔して曰く、「倉使の軍糧を給するに、例として虧減有り、出軍の家を侵牟すること益甚だし。豈に朕の将士を愛養せんとする意ならんや。自今より糧を給するに其の数を損ずることなかれ。三司は令を具せよ」。ここにおいて河倉の乞取減刻の事を厳にす。

四年、詔を趙禼に付して曰く、「鄜延路の諸軍数出で、衣装を鬻ぎて以て自給するに至ると聞く。密かに体量し振恤すべし」。是に先立ち、王安石言う、「今士卒極めて窘し、紙を衣て甲を擐ぐ者有り。此れ最も大憂なり。而るに自来将帥は士卒を振恤するを言うを敢えず、姑息に成り以て兵驕を致すを恐るるなり。臣愚以為く、士卒を親しむこと愛子の如くすれば、故に之と俱に死すべく、愛して能く令せざれば、譬えば驕子の用いるべからざるが如し。前に陛下郭進の事を言わる。臣『進伝』を案ずるに、進は人の疾苦を知り、至る所人為に碑を立て徳を紀す。士卒小に違令する有れば、輒ち之を殺す。惟だ其の能く犒賞存恤する有りて、然る後に能く違令者を殺して人怨み無し。今宜しく稍々牽拘将帥の法を寛げ、封樁の銭物を用いて随宜に振恤するを得しめ、然る後に将帥を責めて士卒の死力を得しむべし」。

四年、枢密院言う、「教閲せざる廂軍の撥並に付き、各旧請を帯ぶる外、今後招到する者は、並びに本指揮の新定の請受に依ることを乞う。河北崇勝・河東雄猛・陝西保寧・京東奉化・京西壮武・淮南寧淮は各々醤菜銭一百、月糧二石、春衣絹二匹・布半匹・銭一千、冬衣絹二匹・〓半匹・銭一千・綿十二両。両浙崇節・江東西効勇・荊南北宣節・福建保節・広東西清化は醤菜銭を支給せざるを除き、余は六路の如し。川四路克寧以上は各々小鉄銭一千、糧二石、春衣絹一匹・小鉄銭十千、冬衣絹一匹・〓一匹・綿八両・小鉄銭五千」。並びに之に従う。

七年、橋道・清塞・雄勝諸軍の奉を増して三百に満たす。又詔して曰く、「今後禁軍等を募る賞給は、並びに旧兵の半に減ずべし」。

十年、詔して曰く、「安南道にて死戦没したる者は、仮りし衣奉は咸く之を蠲除す。弓箭手・民兵・義勇等官に貸す有る者は、償限を展して一年とす。又中外の禁軍は定額有り、而して三司及び諸路の歳に諸軍に給するも亦た常数有り。其の闕額未だ補わざる者は、其の歳給を会し並びに封樁す。枢密承旨司其の余数を簿し、輒ち移用せば、法の如く論ず」。

元豊二年、詔して曰く、「荊南雄略軍十二営南戍し、瘴にて没する者衆し。其れ優恤の議をせよ。軍校の子孫は職を降授す。疾有り及び兵たるを願わず若しくは子孫無き者は、緡銭を加賜す。軍士の子孫弟姪は兵として収め、並びに賻を給し、籍を除けたる後仍て糧を両月給す。即ち父母年七十已上にして子孫無き者は、衣廩の半を給し、其の身終わるまで」。

哲宗即位し、悉く旧制に依る。

徽宗崇寧四年、詔して曰く、「諸軍の料銭多からず、比来当十銭を支うと聞くは、分用に難しからんことを恐る。自今よりは小平銭を給するに止むべし」。初め、蔡京王恩を逐わんと謀り、計行わず、陰に環衛及び諸士卒を結ばんと欲し、乃ち奏して皇城輔兵月に食銭五百を給する者は、日に一百五十を給す。是より、每月頓に四貫五百を増す。因て以て私恩を市わんと欲するなり。

五年、枢密院言う、「熙寧以来、封樁は枢密院に隷す。比因りて広勇・崇捷・崇武十万人を創招し、権に封樁を撥して尚書省に入る。縁るに禁軍見闕数多し、若し専ら戸部及び転運司に責めて応副せしめば、誤事を致すを恐る」。詔して曰く、「尚書省は十万人極めて足るを候い、理に合いて撥還すべし。自今より応に禁軍闕額封樁銭は、仍て枢密院に隷すべし」。

宣和七年、詔して曰く、「国家兵を養い、衣食豊かに足る。近歳以来、官法を守らず、侵奪する者多し。若し軍司乞取及び事に因り率斂し、刻剝分數して、反って不足を致す。又官吏冗占猥り多く、修造役使し、違法に差借す。雑役の兵は、食禁旅に浮き、仮借の卒は、役廂軍に重し。近因りて軍政を整緝するに、深く聴聞に駭く。自今より前の如く違戾する者は、重く之を法に寘くべし」。

靖康元年、詔して曰く、「諸路州軍の二税課利は、先ず軍兵合支の每月糧料・春衣・冬賜の数足るを樁辦し、方に別に官吏請給等を支散するを許す。禁軍の月糧は、並びに坐倉を免ず」。

国初以来、内は則ち三司、外は則ち漕台、率ね軍儲を急務と為す。故に銭糧支賜は、歳に定数有り。征戍調発の特支、将士功労の犒賞、及び夫れ諸軍闕額にして其の奉廩を収め以て上供の封樁と為すに至っては、定数無きと雖も、而して未だ嘗て其の間に権衡無きに非ず。封樁は累朝皆之れ有り、而して熙寧盛んなり。其の後「今後再び封樁せず」の詔有りと雖も、然れども軍司乏しきを告ぐれば、則ち暫く其の請に従い、稍々或いは優足すれば、則ち封樁旧の如し。蓋し宰執人を得れば、則ち闕額は朝遷に用いられ、枢筦勢重ければ、則ち闕額は密院に帰す。此れ政和の軍政の所以に益々崇寧・大観の間に逮ばざる者は、両府の勢互いに軽重有りて、能く祖宗の法を恪守せざるに由るなり。

中興以後、多くは旧制に従う。紹興四年、御前軍器所が言うには、「万全雑役の定員は五百、戸部の給与支給には常法がある。先ごろ裁減を申し立てて明らかにしたところ、皆ことごとく逃げ去った。もし部の定めた月米五斗五升(日当たり二升に満たず)、麦四斗八升(一斗を銭二百文に換算)に従えば、日々の食費は百文で、実に養うに足りない」。詔して戸部に裁定させ、月米一石七斗を一石九斗に増やした。

五年、詔して曰く、「效用の入資旧法において、内公据・甲頭の名称が正しくない。公据を守闕進勇副尉と改め、日給食費二百五十文・米二升とせよ。甲頭を進勇副尉とし、日給食費二百文・米二升とせよ。甲冑を着けず隊列に入らない者は従来の法のままとする」。宣撫使韓世忠が言うには、「本軍が徴発されると、老幼が従って行く。效用の中には月糧を調達されず、日給も増給されない者がいるためである。軍兵は米二升半・銭百文、效用は米二升・銭二百文である。日給の養う米を一升半増給することを乞う。そうすれば戦士に家族の累や後顧の憂いがなく、心を合わせて命を尽くすであろう」。詔して分屯の日よりただちに陳請させる。

十三年、詔して曰く、「殿前司の諸統領将官には別に供給職田がなく、日々の養いが足りず、兵士を差し出して営運させ、軍政を損なっている。月ごとに供給を支給すべし。統制・副統制は月一百五十貫、統領官は百貫、正将・同正将は五十貫、副将は四十貫、準備将は三十貫、皆月ごとに給する。その家を足らしめれば、後日の効果を責めることができる。もし以前のように兵士を差し出して販売させれば、私役禁軍の法に従い、販売した物の価値に応じて罪を科し、必ず罰して赦さない。州県が知りながら挙発しなければ同罪とする」。主管歩軍司趙密が言うには、「近ごろ諸軍の五等請給を定め、欠員を募集補充し、もって奸弊を除こうとした。そのうち招收白身效用は、馬歩軍使臣の欠員を補充する。五等請給の例では、馬軍效用は五人衙官の例に、歩軍效用は三人衙官の例に依る。旧来の效用はかつて甲冑を着けて出入りし、日給は食費二百文・米二升に過ぎない。若く壮健で射術に優れた者が、初めて招收された效用の給与がやや優遇されているのを見て、他軍に逃れて厚い給与を望む。今、五等招收白身效用と旧效用とを、馬歩軍の別を論ぜず、一律にその給与を増やし、人ごとに日給銭二百文・米二升を支給し、使臣の欠員を補充したい」。

隆興二年、殿前司が言うには、「諸軍の法では、兵級は六十歳、将校は六十五歳で、剩員に減じて給与を支給し、戦功があっても半給に止まる。近ごろ年齢に達しても減給・降格しない。各営ごとに籍簿を設け、郷貫・年齢・招刺の月日を全て記録し、一通は本営に留め、一通は戸部に留め、一通は総領に留めて、開落の備えとしたい」。

乾道八年、枢密院が言うには、「二月より開始し、諸軍の七人例以上は、二分を銭、三分を銀、五分を会子とする。五人例は、三分を銭、四分を銀、三分を会子とする。軍兵の麦食費の折支は、全額銭で支給する。使臣の麦・料銭の折支、統制・軍佐の供給の分数は従来通りとする」。

淳熙三年、枢密院が言うには、「兵部が定めた請受の等級は次の通り。效用一資は守闕毅士、二資は毅士、三資は守闕效士、各月給銭三千文、折麦銭七百二十文、米一石五升、春冬衣絹各二匹。四資は效士、銭三千文、折麦銭九百七十二文、米一石一斗三升余、衣絹各二匹。五資は守闕聽候使喚、銭四千五百文、折麦銭一千八十文、米一石二斗、絹三匹半。六資は聽候使喚、銭四千五百文、折麦銭一千二百六十文、米一石四斗七升、絹五匹。七資は守闕聽候差使、八資は聽候差使、銭四千五百文、折麦銭一千四百四十文、米一石六斗八升、絹各五匹。九資は守闕準備使喚、十資は準備差使、銭五千文、折麦銭一千四百四十文、米六石八升、絹各五匹」。

紹熙元年、知常徳府王銖が言うには、「辺境の城砦の官吏は、国境の不測の事態に備えるものであるが、俸禄は薄く、給与も時を定めず、孤寒の小吏はどうして廉潔を養えようか。奸猾の者が禁物を漏洩するのを熟知しながら、公私ともに庇い隠し、恬として問わず、従って私情に従い賄賂を受ける者がある。弓手・士軍・戍卒の雇直や食糧は、累月にわたって支給されず、飢寒に迫られて蛮獠を侵害し、小さいものは訴訟争いを招き、大きいものは辺境の争いを引き起こす。州・軍に対し厳しく命じて月ごとに俸給を支給させ、もし未支給の場合は、守倅は自らの俸給を先に請け取ってはならない。そうすれば城砦の官兵が生計を立てることができ、緊急の際に力を発揮するであろう。辺境を安定させ盗賊を鎮めることは、これより急務はない」。

その後、弊害は日増しに蔓延し、咸淳に至っては、軍将がしばしば虚偽の員数を立てて俸給を詐取した。建康を例に言えば、神策二軍、遊撃五軍、親兵二軍、制効二軍、靖安・唐湾水軍、遊撃采石水軍、精鋭破敵軍、効用・防江軍があり、その起源を尋ねれば、もとは騎軍・歩軍の両司の定員に過ぎなかった。後にそれぞれ軍分を創設し、定員は多いが実員は少ない。一統制の月給を会子で計算すれば、一万五百貫に達し、他の軍に推し量れば、おおよそ見当がつく。

九年、四川制置司が言うには、「戍兵の生券は、人月給会子六千文であるが、しょくの物価は高騰している。人月給を九千文に増やすことを請う」。この当時、財賦の出所は限られていたが、俸給の支給は際限がなく、民の膏血を搾り尽くして全て辺境の費用に充て、金帛は悉く二三大将の私財庫に帰し、国用はますます枯渇し、ついに宋は滅亡した。

臣僚がかつて言った。「古は兵と農は一つであり、官には供給の煩わしさがなく、国には防衛の責務があった。後世、兵と農は二つに分かれ、国力を尽くして兵を養い、驕子のように奉り、傭人のように用いる。今、辺境守備の急務は、兵農合一でなければならない。その説には二つある。屯田と民兵である。川蜀では屯田を先とし、民兵を次とする。淮・襄では民兵を先とし、屯田を次とする。これが食を足し兵を足す良策である」。その言は権奸に阻まれ、ついに実行されなかった。