宋史

志第一百四十六 兵七

◎兵七(召募之制)

召募の制は府衛の廃止に始まる。唐末、士卒は征役に疲弊し、亡命する者が多かった。梁祖(朱全忠)は諸軍に命じて皆顔面に墨で文字を入れさせ、軍号を識別させた。これが長征の兵である。募兵の際には、先ず人材を量り、次に走躍を閲し、瞻視を試み、その後で顔面に墨を入れ、緡銭・衣履を賜って諸籍に隷属させた。国初(宋初)はこれを踏襲し、或いは土人を募ってその所在の地で団を立て、或いは営伍の子弟を取って本軍に従わせ、或いは飢民を募って本城を補い、或いは罪有る者を配隷して役務に供させた。取る道は一途ではなかったが、強健な者は禁衛に遷し、短弱な者は廂軍とし、隊伍をもって制し、法令をもって束ねた。平時には、爵賞・衣糧の費用がないわけではないが、一旦征討があれば、これをもって戦闘に力を尽くさせ、漕運・転輸に供させ、天下の獷悍にして失職の徒は、皆良民の衛りとなったのである。

初め、太祖は軍中の強勇なる者を選び、兵様と号し、諸道に分送して、その様に倣って募兵させた。後に木梃に改め、尺寸の高下をもって差をつけ、等長杖と称し、長吏・都監に委ねて人材を量り取らせた。当該部が闕下に送る者は、軍頭司が覆験し、便坐に引対して、諸軍に分属させた。

真宗祥符年間、等杖を再定し、五尺八寸から五尺五寸までを五等とし、諸州が部送して闕下に至り、等に及ぶ者は次軍に隷属させた。

仁宗天聖元年、詔して京東西・河北・河東・淮南・陝西路に募兵させ、当該部が送る者には「指揮」の二字を刺し、家族には口糧を給すとした。兵官が代還する際は、募った多寡をもって賞罰とした。また詔して益・利・梓・夔路は毎年民を募って軍士に充て、数に及べば即ち部送し、奉節・川效忠・川忠節に分属させた。これにより遠方の健勇にして失業の民は、悉く帰する所を得た。

慶曆七年、諸路は廂軍及び五尺七寸以上の者を募り、部送して闕下に至らせ、試補して禁衛に充てた。

至和元年、河北・河東・陝西で就糧兵を募り、騎兵は四百人、歩兵は五百人をもって一営とした。

嘉祐二年、再び等仗を定め、上四軍から武肅・忠靖に至るまで皆五尺以上とし、寸分をもって差をつけてその俸銭に応じた。一千の者は五尺八寸・七寸・三寸を三等とした。俸銭七百の者は、五尺七寸・六寸・五寸を三等とした。俸銭五百の者は、五尺六寸・五寸五分を三等とした。俸銭四百の者は、五尺五寸・四寸五分を二等とした。俸銭三百の者は、五尺五寸・四寸五分・四寸・三寸・二寸を六等とした。俸銭二百の者は、五尺四寸・三寸五分・三寸・二寸を四等とした。俸銭を給さない者は、五尺二寸或いは下五寸七指・八指を等とした。ただ武嚴・御営喝探は技芸精熟なる者を充て、諸司の管庫で技を執る者は等杖を設けなかった。

七年、御史唐介が言うには、「近年、禁軍を等募する多くは小弱にして、鎧甲に耐えず。初めに創めた尺寸を以て定めとし、敢えて減縮を議する者は、違制の罪に論ずることを請う」。詔して「禁軍で戦備に当たる者は、宜しくこの令を著すべし。その備役の雄武・宣敕六軍・搭材の類は、軍馬の敕の如くせよ」とした。

治平二年、陝西の土民・営伍の子弟を募って禁軍に隷属させ、一営の補充は八分で止めた。また使者を畿県・南京・曹・濮・単・陳・許・蔡・亳州に遣わして民を募り、虎翼・広勇を補い、人ごとに絹・布各一を加賜した。

治平四年、詔して延州に保捷五営を募り、更戍に備えさせた。熙寧元年、詔して諸州に飢民を募って廂軍を補わせた。

二年、枢密院が言うには、「国初、辺州に警報がなければ兵を罷めた。今は既に和を講じているのに、屯兵が極めて多く、徒らに金帛を消耗している。近裏で糧食の安い処で営兵を増募し、ただ極辺に往戍させるならば、甚だ便宜の計である」。帝は文彦博及び韓絳・陳升之・呂公弼等とこれを議し、或いは「古来皆営兵を募り、事が静まれば即ち罷める」とし、或いは「縁辺の兵は多く減らすべからず」とした。そこで彦博等に命じて詳議して奏聞させた。

三年七月、詔して京西路に糧草有る州軍において廂軍を招き、総計三万人を定員とした。十一月、定州知事滕甫が下本路に請い、旧制に依って弓箭社を募り、以て辺備とすべしとした。これに従った。

四年(熙寧四年)十二月、枢密院が言うには、「在京の係役兵士は、旧額一万八千二百五十九人、現に欠員六千三百九十二人。もし招集選抜して充足させ得れば、即ち外路から勾抽する必要がなく、水土に慣れず、凍え飢えて道中で斃死する憂いを免れる。京中及び府界、京東西、河北において少壮の兵を募集し、ただ在京の功役に供するのみとし、臣僚に占拠差発を許さず、一年を過ぎずして充足させ得よう。そうして在外の募集数を相対的に減らし、減らした糧賜を樁管して上供し、以て有司の用に給することを欲する。」これを聴く。

五年、権発遣延州趙禼が漢蕃の弓箭手人騎四千九百八十四を招き到し、八指揮と為し、ここに吏部員外郎に抜擢され、銀絹二百を加賜される。

七年、使臣を分遣して諸路に熙河の效用を選募せしめ、先ず名を以て聞かしむ。河北、河東の募兵は悉く罷む。八年、詔して軍士の祖父母、父母が老疾で侍丁がなく、他処に応募している者は、徙ることを聴く。

九年、詔して捧日・天武以下の諸軍の欠員を選補せしめ、馬軍は三分の一を補い、歩軍は十分の五を補う。

元豊二年二月、経制熙河路辺防財用司が言うには、「岷州の┒川、荔川、閭川の砦、通遠軍の熟羊砦に、牧養十監を置き、兵を募って監牧指揮と為すことを乞う。その営田は官荘の例に依り、永済卒二百人を募ることを乞う。その永済卒は通じて千人を以て額と為す。」これを聴く。七月、沿辺安撫司が言うには、「北辺の州軍が主管刺事人に銭三千を給することを乞い、使臣職員或いは百姓を選募して之を為し、以て敵情を鉤致せしむ。仍って通判及び監官を選びその虚実を考課し、以て賞罰を行わしむ。」これを聴く。是の年、兗・鄆・齊・濟・濱・棣・德・博の民が飢えたるを以て、兵に募り、以て開封府界、京東西の将兵の欠員を補う。

三年、また詔す、「府界諸路の将下に禁軍の欠員万数あり、有司は速やかに之を募れ。」また詔す、「河北に水災あり、食を欠く民甚だ衆し、宜しく寄招して軍を補うべし。」

四年、京東・西路は兵将を調発するに当たり、累次増戍を請う。朝廷は兵員に数ありとし、多くその上章を寝かす。然れども州郡には実に山を負い海に帯し、奸盗の窺う所あるもあり、また過分に之を慮るべきなり。其れ募に応ずる者を益々広くするを令し、貼軍及び他の役を免ずること一年とす。六月、詔す、「在京で奉銭七百以下の者を選募し、馬歩軍一万五千人とす。開封府界及び本路は共に義兵保甲一万人を選募す。もし涇原の五千人足らざれば、秦鳳路において選募す。」

五年五月、同提挙成都府等路茶場蒲宗閔が、秦州より熙州に至るまで地里の遠近険易を量り、車鋪二十八を置き、兵士を招刺することを乞う。これを聴く。八月、詔して開封府界、京西の招軍は式に依り賜う外、仍って銭千を増す。十二月、詔して京城四面巡検は四門において士を募り、民で年三十五以下の者を取る。また詔して河北は歩軍の額を立て、各々逐指揮の額外に百人を招く。

五年、詔して一年の内に百人を募り及ぶ者あれば、秩一等を加う。四月、河東路経略司が麟州の飛騎、府州の威遠の子弟二十五以下を刺して兵と為すことを請う。

七年、広西都鈐轄司が言うには、「本路の土兵欠員数多く、使臣を選んで福建、江南、広東に往かせ、投換兵四千人を招簡することを乞う。」詔して江南、福建路に官を委ねて招換せしむ。

八年四月、河東路安撫使呂恵卿が言うには、「河東の敢勇は三百人を以て額と為し、請給微薄にして、応募者少なし。臣が頃に鄜延路に在りし日、三等の請給を増し、省馬を借支して七分の草料を給し、営を置きて教習することを奏請し、爾後応募者衆し。願わくは陝西路の已に得たる指揮に依らんことを。」これを聴く。

哲宗元祐元年三月、詔して河北の保甲で軍人に投ぜんと願い、及び上四軍等の杖事芸に上る者は、特許して招填し、例物を給するに合う外、更に銭五千を増し、中軍以下には三千を増す。比等杖一指短くとも、保甲第一等の弓弩を射る者は、並びに招刺を許す。右司諫蘇轍の請いに従うなり。六月、門下侍郎司馬光が言うには、「諸州軍の兵馬全く欠き、守禦に足らざる処は、量りて額を立てて招添すべし。」

八年、枢密院が言うには、「今新たに招く兵士は多くは饑民にして、教閲に未だ諳ぜず。乞うらくは今より住営州軍に官を差して訓練せしめ、半年を俟って軍前に発遣せしむ。」紹聖元年、枢密院が招禁軍の官員の賞格を立てることを乞い、もし数に及ばざれば、罰も亦之に随う。

四年、熙河蘭岷路都総管、提点熙河蘭岷等路漢蕃弓箭手司が言うには、蘭州金城関に歩軍保捷四指揮、馬軍蕃落一指揮を招置せんと欲す。これを聴く。詔して陝西路に蕃落軍十指揮を添置し、各々五百人を以て額と為し、永興軍、河中、鳳翔、同、華州に各々両指揮を置き、並びに住営州軍の将下に隷属せしめて統制訓練し、逐路所属の都総管司に官を選び人を招かしむ。初め、三省、密院は牧地を以て民を募り馬を牧養せしめんと欲し、久しくして未だ集まらず。曾布は騎兵を増すが簡便ならんと謂う。兼ねて土兵は乃ち勁兵なり、又諸路の出戍する者は已に竭きたり。此の議を建つるに及び、衆翕然として皆以て允当と為し、帝も亦之に楽しく従う。蓋し牧租現存するもの七百万、歳額一百七十万、而して十指揮の費二十五万に過ぎず、故に募人養馬の法と兼行すべし。

徽宗崇寧元年、湖北都鈐轄舒亶が旨を奉じて施・黔州の土丁を召募することを相度し、辰・沅の山徭を討伐致さんとす。毎州七百人を過ぎず。縁るに徭賊深く溪洞に在り、険阻にして正軍を通ぜざる故なり。

三年、京東等路において五万の兵を募集し、馬軍は崇捷・崇銳と称し、歩軍は崇武・崇威と称した。

四年七月、熙河蘭湟路転運使洪中孚が河東より入朝し、帝は崇威・崇銳の新兵の教練が整ったかと問うた。中孚は言う、「教練は容易な事でございます。臣は知りませんが、藝祖が天下を取られた時の兵と神考が分けられた将兵がかつて減損したことがあるか、もし減損していないなら、増やす必要はないようです。兵は簡練を貴び数を貴ばず、今急に二軍を増やせば、費用は甚だ広大となり、臣は献策者が経費の外に別の措置を講じているのか、あるいはただ朝廷に仰ぐだけなのか知りません」と。帝は愕然として言う、「初め兵を増やすことを議した時、費用は議していなかった。直ちに罷めよ」と。中孚は言う、「惰遊の卒は再び南畝に安んじず、今一旦罷めて遣わせば、強者は集まって盗賊となり、弱者は転徙し、重ねて朝廷の憂いとなります。諸営の欠員を埋めさせ、欠員がなければ、定員外に収容することを許し、一二年で尽きましょう」と。帝は善しとした。九月、詔して言う、「近く指揮を下し、在京・諸路において崇捷・崇武等の指揮十万を募集し、また效忠・蕃落の指揮及び定員内の不足人数を募集したが、急に定員を満たすのは難しいと慮り、先ず崇捷・崇武の十万人を募集せよ。人数が次第に見えてきたら、即ち詳しく申し出て旨を取れ」と。

五年、詔して言う、「諸色の人を強制して軍に投じさせた者は、共に自身及び親属の越訴を許し、既に刺字した者も、共に改正せよ」と。

政和二年、広西都鈐司が奏上して言う、「広西の両将の定員一万三百余人、事故逃亡により、荊湖南北・江南東西に寄せて募集するが、諸路は本職でないため、多くは心を用いない。今兵の欠員は六分に及び、本路・隣路において徒罪並びに杖罪以下の情状重き人を犯した者で、沙門島・広南遠悪の地に配流される者及び強盗凶悪・殺人放火・化外に関わる事を犯し法に依る者を除き、残りは全て決罰・刺字を免じて欠員を埋めさせたい」と。これに従った。

四年、中衛大夫童師敏が言う、「東南州郡は例として廂軍が欠けており、役使がある度に、全てが雇いである。もし諸郡の守臣並びに提刑司に措置させて募集補充させれば、費用を省くことができましょう」と。これに従った。

宣和元年、高陽関路安撫使呉玠が手詔を奉じて諸路の禁軍欠員を募集補充し、十分を率として、四分以下を募集した場合は磨勘年を順次延長し、七分以上を募集した場合は磨勘年を順次減ずる。高陽関路河間府・滄・覇・恩州・信安軍は募集補充の数が足りたので、推賞を行うことを乞うた。これに従った。

二年、手詔して言う、「比聞く、諸路州軍が廂軍の河清・壮城等を招き置くに、往々にして怯懦幼小、等様に及ばず、虚しく廩食を費やし、駆使に堪えず。今後は並びに著令に遵って募集補充せよ。もし違背すれば、違制を以て論ずる」と。

四年正月、両浙東路鈐轄司が奏上して言う、「温・処・衢・婺州の元来管轄する不係将禁軍六指揮を、更に招き置いて十指揮に増やし、並びに五百人を定員とし、凡そ五千人とし、全将を成さんことを庶幾す。及び更に台州において不係将禁軍一指揮を招き置き、四百人を定員としたい」と。これに従った。三月、臣僚が言う、「窃かに道路洶洶として相怖れ、諸軍が人を捉えて刺涅し以て欠員を補うと聞く。数人で一壮夫を率い、且つ曳き且つ毆り、百姓は叫呼し、或いは指を齧って免れを求む。先日、金明池で人の大和会があったが、忽ち門を遮って大索し、ただ長身の少年を、牽いて去り、『軍に充てる』と言う。売蔬茹の者をして敢えて城に入らず、行旅市人下って奴隸に逮るまで、皆避け隠れて恐懼し、事は見聞を駭かす。今国家閑暇にして、必ず禁旅を募集補充せんと欲すれば、法令を明示し、金帛を以て賚い、財を百万捐てば、則ち十万人応募すべし。途において人を捉うるは、実に国体を虧き、四方に流聞し、遠邇に伝播し、甚だ未便なり。伏して亟に行い禁止し、以て疑畏を弭がんことを望む」と。時に宝籙宮の道士張継滋が尉氏に往くに因り、亦た刺涅された。事が聞こえ、手詔して提刑司に根治させた。四月、臣僚が因りて言う、「禁軍の欠員を招き刺すに、枢密院が期限を立てるが余りに急で、諸営は止まず、人は大いに駭く。幸いにして踵を旋らさず徳音を以て禁止し、群情悦服す。其れ既に刺涅されて願わざる者は、頗る亦た改正されたが、尚官に経て免れを求めて得ざる者あり。輦轂の地にして此の如し、況んや其の遠きをや。窃かに聞く、小人声勢を仮借し、因縁して奪攘す、所在多く有り、若し或いは哀鳴して脱するを得ても、其の家は已に空し。今往来猶お畏避を懐く。伏して聖明特ちに戒敕を賜い、応に在外招軍の去処に在って、横濱するを得ざらしめんことを望む」と。これに従った。

七年、掖庭の用度を減じ、侍従官以上の月廩を減じ、諸兼局を罷め、有司は得たる数に拠り撥充して諸路の糴本及び募兵賞軍の用に充てた。

欽宗即位し、詔して守令に州県郷村の土豪を隊長として募らせ、各自其の親識郷里を募って以て行かしむ。及び五十人以上には先ず進義副尉を与え、三百人以上には承信郎を与え、文武官で武勇に習う者を統領として募る。行く日、発する所の州軍は器甲を授け、人に半月分の糧を与え、地里遠き者は、至る所の州県が接続して批支す。京畿輔郡兵馬製置使司が言う、「諸路が敢勇效用を召募するに、毎名先ず銭三千を与え、本司に赴き試験して給據した後、銀絹を支散して激賞す。若し監司・知通・令佐並びに応に官有る人で、敢勇效用事藝高強及び二百人以上を召到し得る者は、転一官することを乞い、毎に二百人を加えるごとに此れに依る。或いは監司・郡守・州県官以下で応に軍期事件に縁る者、稍く稽緩する有らば、並びに軍法に依る」と。これに従った。

靖康元年春正月、臣僚が言う、「諸路現に人兵を招募するが、逐処の漕計欠乏に縁り、近州の応奉司及び延福宮西城の銭帛に於いて、並びに請用を許し、速やかに辦ぜんことを庶幾す」と。これに従った。又詔して言う、「龍猛・龍騎・帰遠・壮勇諸軍の欠員は、行下して諸路に揀選配填せしむべし」と。又詔して言う、「已に指揮を降し、逐処各々召募した效用敢勇武藝の人数の多寡に等第して推賞す」と。又詔して言う、「賞を希う人の、抑勒強募するを聞く。自今より並びに情願を取れ。敢えて違背する有らば、当に重罰を議すべし。羸弱にして出戦に堪えず及び已に係軍籍する有る者を一例に充募するを得ざれ」と。及び詔して言う、「武挙及第で材武方略有る者、或いは戦功有り・曾て戦陣を経、及び辺任を経た大小使臣で罪を犯した已発未敘を問わず、及び武学に方略智謀有り、及び曾て弓馬所の子弟たり、及び諸色の胆勇敢戦の人を募り、許して親征行営司に赴かしむ」と。又詔して言う、「陝西の土人を兵として募り並びに使臣・效用等を募り姚平仲軍に使喚せしむ。其の応募人は修武郎已上は二十貫、進義副尉以上は十五貫、軍人・百姓は十貫を与え、並びに開封府応管の官銭内より支給す」と。

四月、詔して言う、「已に指揮を降して帰朝人を発還し大金軍前に往かしむるに、如し往くを願わざれば、所在に於いて口券を量り給し津遣せよ。元官守有る人は並びに厘務せず、奉給の半を支給す。其れ効力を軍前に願う者は、許して自陳せしめよ」と。

五月、河北・河東路宣撫司が奏上した。「河北諸州軍の管轄する正兵は極めて少なく、また陝西の遊手浮浪の惰民で軍に志願する者も多いが、ただ招刺に必要な例物が欠乏しているため、軍の定員が常に不足している。今もし一色の銀絹を与え、例物の犒設・起発に代えて、人を募って義勇とし、右臂にのみ刺字し、禁軍の例物に準じて衣糧料銭を支給すれば、陝西五路で合わせて二万人を得られ、淮・浙等路で得た将兵に比べ、実に使い勝手がよい。」これを聴き入れ、詔して文武官各一名を遣わし、陝西路に赴いて兵二万人を募り、京師に送らせた。そこで趙鼎を特除して開封府曹官とし、種湘を差して宣撫司準備将領とし、ともに陝西路幹当公事を充て、専ら募兵を担当させた。この月、戸部員外郎陳師尹を福建路に遣わして槍杖手を募集させた。都水使者陳求道が言う。「朝廷が官を差して陝西に赴き招軍するが、ちょうど豊作の年に当たり、恐らく容易には招填できないであろう。もし監司に委ねて保甲を募集し、例物を与えて誘い、科差を免じて士気を高めれば、勁兵五万を得られる。」これを聴き入れた。

六月、枢密都承旨折彦実が奏上した。「西人(西夏)が女真と結託して久しく、どうして関中を窺う志がなかろうか。今、諸路の人馬は皆空しく、万一敵人が長駆すれば、どうして防ぎ止められようか。言うに寒心に堪え、朝廷は深く慮っていないようである。河東・河北の患いは既に形を現しており、人は故に憂える。陝西の患いは未だ起こらず、人は故に軽んじる。もし各路に先ず十万緡を与え、帥臣に土人を募って保護の計を立てさせ、要害を扼することを責め、侵入を許さず、なお朝廷が応分に支給するならば、漕司は時機に乗じて広く蓄積を行い、急務とすべきである。」

また開封府尹聶山が奏上した。「招兵は今日の急務である。近頃、京畿諸邑がそれぞれ招刺を行ったが、就募する者がいないため、村民や往来の行人を強制的に捕らえてこれに充てた。そのため里民は奔走して驚き、商旅は通行せず、朝廷の愛民の意に大いに反する。政和令を検討すると、盗賊で再犯し杖刑以上で情状酌量の余地がなく、軍に堪えうる者は、例物を与えて廂軍に刺充する、とある。今、京城内外に盗賊がいるが、皆豪猾の徒で畏れるところがなく、罪を断じられても頑悪で悔い改めない。もし上条に依って廂軍に刺充すれば、強壮の用を得るだけでなく、奸黠の徒を収集して再び盗賊とならなくなる。もしこの請願を許可されれば、内から外まで皆これを見て施行できるであろう。」これを聴き入れた。

七月、陝西五路制置使銭蓋が言う。「都水使者陳求道が保甲五万を招刺して軍に充てることを請うた。近頃、陝右の正兵は数が少なく、全て保甲に守禦や運糧などの諸役の差使を頼っているが、それ以外に残る者は僅かである。もしさらに五万を招刺して軍に充てれば、正丁が殆ど全て使役されることになり、選択が難しいだけでなく、民情が驚疑して別の事態を招く恐れがある。州県に命じて保甲に諭し、その情願を取ることを乞う。もし情願する者がいなければ、保甲司に正丁の余数の中から選択させることを乞う。京師に赴く者と合わせて七万とし、用に足りるようにしたい。」これを聴き入れた。この月、銭蓋が奏上した。「陝西で土人を募って軍に充てるが、多くは市井の烏合の衆で、臨敵に堪えられない。今、折彦実が陝西六路に銅錢各十万緡を支給し、毎名に銭十千を添えれば、自ら精選して少壮で等杖に達する者を得られ、正軍一万、六路合わせて六万人を得られる。」これを聴き入れた。

十月、枢密院が奏上した。「材武勇鋭及び胆勇の人並びに射猟・射生戸を召募する。」これを聴き入れた。また奏上した。「福建路には忠義武勇で功を立て自ら効力を尽くし官職を得ようとする者がおり、理に召募すべきである。保甲・正兵を除き、弓手・百姓・僧行・有罪の軍人を全て応募に聴す。もし武芸高強で実に胆勇があり、衆に推服され、応募して部領人となろうとする者がいれば、各項の名目に従って権摂部領とし、各々募った人数に応じて官資を借補させる。」これを聴き入れた。

十一月、京城四壁合わせて十万人、黄人黄旗が市に満ちた。当時、応募する者は多くが傭丐であり、全く闘志がなかった。閏十一月、何〓が王健を用いて奇兵を募ったが、瓢箪を持って物乞いする者までも皆応募し、倉卒のうちに紀律が整わなかった。奇兵が乱を起こし、王健を殴打し、使臣数十人を殺害し、内前は大いに騒擾した。王宗濋が渠魁数人を斬り、ようやく鎮定した。出戦すると、鉄騎に衝かれ、風を見て奔潰し、殲滅された。

十二月、詔した。「諸軍が蕃装を詐り、財物を焚劫した者は、十日を限りに贓物を持参して自首すれば、罪を免ずる。」なお潰兵を召募して収管し、口食を与えた。

逃亡の法は、国初以来それぞれ増損があった。熙寧五年に詔し、禁軍で俸銭が五百に至り逃亡して満七日となる者は斬刑とした。旧制では三日で死罪であった。初め、執政が法改正を議し、満十日を請うた。帝が言う。「臨陣で逃亡し、十日を過ぎて自首すれば、奸を長じるのではないか。」王安石が言う。「臨陣で逃亡する者は、法は日数を計らず、即ち斬刑に入る。今、軍興の所で逃亡して満三日となる者を立て、対寇賊律に論ずべきであろうか。」枢密使蔡挺が、辺境で逃亡して満三日となる者は斬刑を請うた。王安石が言う。「辺境には軍興の所でない場所もあり、一概に重刑に処すことはできない。本来、重法を立てるのは、寇賊を避けること及び軍興を禁ずるためである。」帝が言う。「その通りである。」文彦博が固く言う。「軍法は臣等が総領すべきであり、軽々しく改めるべきではない。前代のように兵を削減すれば変乱が生じた。」王安石が言う。「前代の杜元穎らが兵を削減したのは、その措置が失当であったのであって、兵を削減できないわけではない。また蕭俛の時代には、天下の兵が極めて多く、民力が支えきれず、どうして減らさないでいられようか。ちょうど幽州が朱克融らを京師に送り、克融を幽州に戻して衆を煽り乱を起こさせないよう請うたのに、朝廷は克融らを京師に漂泊させ、久しく任用せず、再び北に帰らせた。克融が再び乱を起こしたのは、どうして兵削減の事に関わるのか。」彦博が言う。「国初、禁軍が逃亡して満一日となる者は斬刑であった。仁宗が満三日に改めたが、当時の議者は既に軍法を損なうことを憂えた。」王安石が言う。「仁宗が法を改めて以来、人命を救った者は極めて多い。しかし軍人の逃亡は、旧法に比べて増えたとは聞かない。仁宗の法改正は不善ではなかった。」帝は遂に詔して七日に増やした。

元豊元年、鄂州知州王韶が言う。「今後、逃亡した配軍が盗賊となった場合、捕斬を聴し、賞銭を与えることを乞う。」詔して条に坐し韶に照会を下す。「もし犯した情状が重く、死罪に至らない場合は、奏聞して裁断を仰ぐ。」

三年六月、詔した。「軍士・民兵が逃亡して随軍で効用する者で、もし自首して捕獲された場合は、全て械送して所属に送り、法に論ずる。たとえ戦功を立てても賞せず、なお功をもって過ちを贖うことを許さない。随軍に榜諭せよ。」

四年、沈括に詔した。「奏上によれば、軍前の士卒が逃亡し、路上で潰散しているが、本意ではなく、急いで招安すべきである。卿は速やかに朝旨を具して榜を出し、『戦士はただ飢寒に耐えられず、家に逃げ帰ったに過ぎないと聞く。各々所在の城砦に赴き、一時的に器甲を納め、糧食の給与を請い、所属に帰ることを聴す』とせよ。順次、招撫した数を具して奏聞せよ。」

崇寧四年九月、枢密院が言う。「熙河都総管司には旧来兵籍がなく、諸将に各々籍を置かせ、毎日に開収の有無を具し、旬ごとに元額・見管及び逃亡事故の細目を具し、総管司に申し上げさせ、本司は都簿に貼り出し、機宜一員に逐時抽摘点検を委せたい。」これを聴き入れた。

十月、尚書省が言うには、「今、所在の逃軍が聚集し、千数を以て至り、小は則ち郷邑を驚動し、大は則ち公然と劫盗を為す。累次指揮を降し、首身を許し、或いは投換を令すも、終に革絶せず。昔、神宗は将兵を知らず、兵将を知らざるを以て、故に兵を分けて将を領せしむ。統兵官司は、凡そ兵の事統べざる無く、則ち其の逃亡走死、豈に其の責を任せざるを得んや。将敕と見行敕令を検会するに、皆未だ将官と人員の任責の法有らず、致令来兵将に存恤を加えず、其の身を労役し、逃避に至り、而して職を任ずるの人悉く罪を加えず。近日、熙河一路の逃者は幾四萬、将副坐視して禁ぜず、人員将校故に縦して問わず、至って逃亡軍人の所在皆に有り。蓋し自來立法未だ詳ならず、兼ねて軍中の長行節級人員、将校、什長相統き、同営相依い、上下相製す、豈に其の逃亡漫に省察せざるを致さんや。況んや招軍既に賞格を立てば、則ち逃走安んぞ禁無からんや。今参詳して賞罰十数条を修立す」と。並びに之に従う。

五年、枢密院童貫の言う所を備える、「陝西等処に官を差して逃亡軍人を招諭し、並びに所在の首身を許し、更に会問せず、便ち口券を支えて本営に帰らしむ。辺上の軍人は戍守の労を憚り、往々内郡に逃竄して首身し、遂に口券を得て営に帰る。相習い風と成り、軍政に害有らんことを恐る。乞う、自今応に軍人首身し、並びに須らく逃亡赦限を会問し、今来の招諭指揮に依らしむべし。若し赦後逃亡に係らば、即ち条に依り施行するを乞う」と。之に従う。

大観三年、枢密院臣僚の言を備える云う、「陝西路提点刑獄呉安憲始めて逃亡廂禁軍を招誘するの法を陳じ、乃ち投換改刺を令するを許すの令を著す。此より諸弊浸く生じ、軍律肅ならず。朝廷其の弊を洞見し、已に厳に立法す、然れども尚ほ冒名一節有り、其の弊未だ除かず。請う、主兵官旧に曾て書札・作匠・雑技・手業の徒を占使し、或いは統轄軍員と素に嫌忌有り、意此を捨てて彼に就かんと欲し、或いは所部逃亡数多く、譴責を避けんと欲し、輒ち逃軍を将て逃亡の名を承け便ち請給と為すが如くせんことを。既に譴責を避け、又請受を冒し、上下相蒙り、之を能く革せず、致令軍士多に擅去の心を懐く者は、良に擅住の地を得易きを以てなり。若し重賞を加え、厳刑を申さば、庶く斯の弊を革し、成法に裨益有らん」と。之に従う。

四年、枢密院言う、「諸路及び京畿逃亡軍数居多し、赦敕を以て限を立て首を許すと雖も、終に畏避を懐く。若し諸路に専ら知州・通判或いは職官一員を委ね、京畿に知県を委ね、若し招誘累ねて三百人以上に及べば、一年磨勘を減じ、五百人以上一年半、千人以上は旨を取って推恩す、理に於いて便なり」と。

政和二年、臣僚言う、「祖宗軍政大いに備わり、議すべき無し。比多く逃亡者有るは、縁る所の推行未だ至らず、及び主兵司官遵奉未だ厳ならざる故なり。其の弊六有り。一に曰く上下率斂、二に曰く挙放営債、三に曰く聚集賭博、四に曰く差使不均、五に曰く防送過遠、六に曰く単身無火聚。此の如く是れ条禁具わるも、而して犯者極めて多し。乞う下して有司に推究せしめ、兵将官歳終に定むる賞罰条格外、諸路提刑司に詔し、毎歳終に本路州軍の将に係らざる禁軍見管及び逃亡人数を将て、参互比較し、最多最少の処各一州の知・通職位姓名を具し、枢密院に申さしむ」と。之に従う。

三年十一月、開封少尹陳彦修言う、「諸廂寒凍赤露を収め到る者共五千七百余人、其の間逃軍数多し、行うに措置を合す。今欲く押送逃軍格に依り、毎二十人各使臣一員を差し係押送人に付与し、各穩便の官屋を踏逐して安泊し、居養法に依り錢米を關請して存養し、晴和を候い、管押して前去せしむ。所有の沿路支破口券は、並びに本府押送逃軍法に依り、合破口券等の外に請う、更に量り盤纏を支はんことを」と。詔す、「每人に盤纏錢三百、衲襖一領を支はし、二月晴暖を候いて即ち行発遣す」と。

四年、尚書省令を著す、「諸禁軍差發出戍未だ軍前に到らず、或いは已に到りて而して代わり去ること半年以上、逃亡首獲す、恩を会すと雖も、捕獲法の如く配す。上軍首身或いは捕獲、恩を会し、七日內法に依り配す。下軍本名応に配すべき者は、千里に配す。若し本管輒ち停留せば、同罪とし、該赦と雖も仍ほ配法に依る」と。之に従う。

五年、錢監兵匠逃走刺手背法を立つ。

宣和二年、手詔す、「逃卒頗る多し、仰せ宣撫司措置を以て聞かしむ」と。童貫言う、「凡そ逃卒、冬祀大赦已に百日首身免罪の文有り、縁り内に元犯首身と雖も、常法に於いて尚ほ移降移配に合する者有れば、即ち未だ官に赴き自陳するを敢えず。乞う在京並びに京畿・京西・陝西・河東路逃軍、自今指揮到る日の、未だ赦限を満たさざるを通じて共に一百日、許して首身免罪せしめ、旧に軍分職次に依り収管せしむ。仍ほ本司本営の問儅を免じ、及び官逋を放免す。若し本犯冬祀赦後を経て、猶ほ移降移配有らば、特と原免せしむ。若し限満て首せざれば、則ち常法に依り科罪す。凡そ逃軍在京住営に係り、限に依り在京に於いて首身する者は、隷する所の軍司に令して当日本営に押赴せしむ。若し見出戍する者は、即ち口券を破り転じて本路駐泊州軍に押赴せしめ、並びに前項指揮に依り免罪し、旧に依り収管せしむ。凡そ逃軍外に在り、限に依り首身する者は、並びに所在に於いて日米二升を破り、其の県・鎮・砦並びに限り当日本州軍に解し、毎二十人一番と作し、職員を差して管押し、仍ほ沿路口食を給破し、前路州軍に交付し、転送住営の去処にせしむ。若し見出戍すれば、即ち駐泊州軍に転じて収管せしむ。凡そ首身軍人は、並びに他軍に投換するを許さず。凡そ所在の当職官、若し限内に用心して逃軍を招收し、措置転送住営或いは出戍処に収管し、満つるを候い、外に提刑司を委ね、在京に開封府を委ねて営・出戍処の公文を取索到り、人数を験し、最優なる者を宣撫司に申して旨を取って推恩せしむ」と。並びに之に従う。

三年、詔す、「江・浙軍前等処応に逃竄軍兵は、並びに特と罪を放ち、本将の見出軍路分州県に於いて首身するを許し、旧に依り給請し、随処権に行い収管せしむ。若し他処に走往し、或いは住営の去処に於いて首獲せば、即ち所在官司に令して逐旋発遣し本将に赴き応副使喚せしむ。仍ほ逐路安撫・鈐轄・提刑司に委ねて覚察せしめ、若し所在輒ち敢えて隠芘し、或いは逐司行わず覚察せざれば、並びに違製を論ず」と。

四年、臣僚言う、「中外士卒故無く逃亡し、所在之れ有り。祖宗軍を治むる紀律甚だ厳しく、若し戍する者家に還り、役すべき者事を避くれば、必ず轅門の戮有り。今既に其の罪を宥し、且つ投換を許し、什伍の長に製せられず。既に赦限を立て、又特に日を展べ、以て其の自首の期を寬うす。臣恐らくは逃亡計を得、其の弊益々滋さんことを。乞う恩赦の外軽々しく限を与えず、限の常と為す可からざるを知らしめ、庶く畏懼有らしむ」と。之に従う。

五年、臣僚が言うには、「今、諸軍の逃亡者を実情のままに上聞せず。諸処において名を冒して給与を請い、選閲や差役に至っては巧みに占拠・破損し、甚だ已むを得ざるに至れば、逃亡者を雇募して名数を充たし、直ちに遁走して再び実用に供さず。平時において供給に難く、緩急に応用するものなし。而して奸人がその間に腕を捲り、坐して財賦を費やす。開収勘斂を開くも、法制は益々詳しくなるも、共利の人は一体として傅会す。望むらくは処分を賜い、先ず当職官に実数を核見せしめ、保明して転運司に申達し、期日を定めて諸郡の守貳に点閲を委ね、仍って掌兵官司に関会して行下せしめよ。州に勾押し難き者は、官を差して就閲し、期を同日に定めて的実を究見せしめよ。稍でも欺罔に渉る者は、根治して赦さず。監司使者は郡を分けて覆実し、数を具して朝に申達し、以て官を差して分按を待ち、必ず罪賞を行い、官に虚費無くして軍に実用有らしめよ。然らば紀律明らかにして国用省かるべし」と。詔して枢密院に送り条画措置せしむ。

七年二月、尚書省言うには、「開封府の状に『在京において盗を犯し配流降出して外に出たる者が、復た京に入り投換するを乞う者は、人をして告捕せしめ、逃亡捕獲の罪に科し、情状に酌み増配すべし。其の官司及び本営の典首人員・曹級が容庇収留するは、各杖一百とす。因って盗を為すに致るは、差使配軍の京に入り作過する法に依り、犯人と同罪とす。罪は徒二年に止まり、去官赦原減に以てせず。及び在京において犯罪し編管出外して逃亡し京に入る者は、断罪増加地裏の条法有りと雖も、縁りに止だ是れ募告の賞格太だ軽きを以て、是れ致して往々復た京に走入す。元の犯杖罪は賞銭十貫、徒罪は二十貫、流罪は三十貫を乞い、並びに犯事人の家財を以て充つ』と乞う」と。之に従う。

十二月、詔す、「諸路の逃竄軍人にして已に該赦恩を蒙り出首免罪せしめ、却って出戍の去処に帰り再び逃竄する者は、所在の去処に於いて首身せしめ、並びに特と罪を免じ、一般の軍分に安排し、請給を支破し、軍前に発遣して使喚せしむべし」と。

靖康元年三月、詔す、「行宮に随従する禁衛軍兵等に逃亡する者有らば、並びに法に依り施行すべし」と。五月、臣僚言う、「泗州は頃に勤王の師を遣わし、管押者統制を善くせず、類多く遁帰す。既にして法を畏れて敢えて出でず、本州遂に閣を開き請受す。外に在りて以て給養すべからず、窃かに慮るに因って聚まり盗を為すを、恐らくは他州も亦多く此の如きあらん。乞うらくは勅して応に勤王兵に遁帰已に赦宥を経る者を、並びに首身せしめよ」と。之に従う。

六月、詔す、「応に河東に潰散する諸路の将佐は、並びに仰せて逐路の帥守に発遣せしめ、河東・河北制置司に赴き、以て功を以て過を贖わしむべし」と。河北路制置司都統制王淵言う、「旨を被り差充して種師道等の下の潰散人馬を招集し、太原に応援す。限満して首せざれば、即ち家属を寄禁し、人をして収捕して軍前に赴かしめ、重ねて処置すべし」と。之に従う。仍って指揮到るの日より、限を十日とす。河北路制使劉韐奏す、「近く制置使種師中軍を領して榆次に到り、利を失い潰散し、師中存否を知らず。旨を奉るに、師中の下応統制・将佐・使臣等は、並びに放罪とす。臣按ずるに、兵を用いて主将を失えば、統制・将佐並びに行って軍法に合す。軍法行なわれれば、則ち人以て主将を重しとし、緩急必ず須らく護救す。若し軍法を行わざれば、緩急の際争いて先んじて逃遁し、主将を路人の如く視て、略顧み恤わず。近年以来、高永年陷没し、一行の将佐及び中軍将・提轄等未だ嘗て軍法を以て罪せず。継いて劉法陷没し、今種師中又た王事に死す。若し両軍相い遇い、勢力加わらず、血戦して敗れ、或いは主将を失うも、亦た言うべき無し。榆次の戦、頃刻にして潰え、統制・将佐・使臣走る者十に已に八九、軍士中傷する者十に一二無く、独り師中出でず。若し師中撫禦少恩、紀律不嚴と謂うも、其の命を受けて即ち行き、奮いて身を顧みず、初め右軍戦卻するを聞き、即ち応援を遣わす。比の時諸将已に在る者無し。賊兵営を犯すに至り、師中未だ肯て馬に上らざりき。師中に偷生の心有らしめば、敗を聞きて即ち行かば、亦た必ず出で得べし。一時の将佐若し能く戮力相い救わば、或いは敵を破り得べし。今一軍纔に卻き、諸将主帥有らず、相継いで遁る。其の初め猶お懼色有りしも、既に放罪を聞き、遂に皆釈然たり。朝廷太原の囲未だ解けざるを以て、未だ窮治せんと欲せず。今師旅方に興り、深く懲艾する所無からんことを恐る。敵に遇えば必ず命を用いざらん。乞うらくは指揮し、応に種師中の下の統制・将佐は並びに聖旨の処分に依り、仍って軍前に自効せしめよ。若し命を用いて功を立てば、前罪を免ず。今後戦功を立てずんば、該恩赦と雖も叙復を得ず。仍って乞うらくは優詔を以て師中を褒贈し、以て忠義の勧めと為せ」と。詔す、「種師中の下の統制・将佐は並びに五官を降し、仍って職位・姓名を開具して尚書省に申すべし。余は劉韐の奏する所に依る」と。

八月、河北・河東路宣撫司奏す、「近く都統制王淵の潰敗使臣を捉獲するに据る。已に管押して宣撫副使劉韐の軍前に赴き交割し、軍法に依り施行する外、訪い聞くに尚ほ未だ出首せざる将佐・使臣有り」と。詔す、「限を今の指揮到るの日より更に展限十日とし、許して所在の州軍に出首せしめ、仍って元降の指揮に依り免罪し、特と遞馬驛券を支破し、疾速に軍前に発赴して自効せしめ、功を立てる日を候って優加推賞すべし。若し再限満日の更に首身せざれば、当に職名を見取り重賞を以て購捕し、定めて軍法を行なうべし。仍って多く榜示を出して諭すべし」と。

二年四月、詔す、「訪い聞くに諸処の潰散軍人嘯聚して作過し、百姓を強いて刺して軍に充て、驅虜して随行せしめ使喚し、敵に遇えば前に使いて、枉しく良民を害す。其れ令して有司に榜諭せしめよ。虜われ強刺せられたる人は許して自陳せしめ、拠りを給い各々帰業せしむべし。願いて軍に充たらん者は、等杖に随い刺填して禁軍・廂軍とし、条に依り例物を支給すべし」と。又た詔す、「昨逃亡の班直・諸軍は、已に指揮を降し撫諭し、並びに罪を免じ、元の処に帰発すと雖も、其の管押兵官は未だ指揮無し。指揮の到るを候い、許して所在の官司に自陳せしめ、亦た罪を免ずべし」と。

建炎初年、招募多くは西北の人なり。其の後諸路の州・軍・砦或いは三衙に招募し、或いは三衙軍中の子弟を選刺し、或いは諸郡より中軍子弟を選刺し解発す。復た詔して滄・濱及び江・淮沿流の州軍に、善く水に没し経時伏藏する者を募り、五千を以て額とす。神武右軍統制張俊言う、「牙軍多くは烏合の衆を招集す。擬して上等は勝捷に改刺し、次等は振華・振武に刺し、庶幾くは部分帰一して訓練便ならん」と。詔して両浙・江東、江陰軍を除き、各々水軍二百人を募らしむ。

紹興元年、広東帥臣言う、「本路の将兵元五千二百、見在千三百十九。今将官の駐紮する諸軍及び本路州軍を擬し、十分を率とし、各々其の半を招かん」と。

二年、累たび令を降し行在の諸軍に、互いに招收する毋く、及び別軍の人を拘執する毋からしめ、違う者は軍法を行なう。

四年、詔す、「招く所の河北人は河北振武に充て、余人は陝西振華指揮に刺すべし。沿江に水軍を招置し、戦艦を備え、東南水に諳んずる者を募りて充て、毎指揮五百を以て額とすべし」と。

十年、詔して三京路招撫処置使司に効用軍兵一万人を招かしめ、その内に使臣二千員を招かしむ。

十五年、福建安撫莫将言う、「汀・漳・泉・建の四州は、広東・江西と接壌す。比年、寇盗居民を剽劫し、土豪は私銭を備へて社戸を集め、防捍に労あり。有司は上聞して恩を推すことを為さず、家を破りて依帰する所無く、勢ひ必ず賊に従はんとす。官軍は山険に習はず、且つ瘴癘侵加し、窮追すること能はず、管属の良民悉く転じて盗と為る。請ふらくは四州の守臣に委せ、此の遊手にして帰する所無き勇健の人を募り、各千人を収め、仍ほ効用を以て名と為し、足らく以て備用に供し、実に永久の利なり」と。詔して張淵に同措置せしむ。

二十四年、殿前都指揮使楊存中言う、「旧制、在京の管する捧日・天武・拱聖・ぎょう騎・驍勝・寧朔・神騎・神勇・宣武・虎翼・広勇諸指揮の禁軍内、捧日・天武は条に依り升揀して扈衛の諸班直と為し、拱聖・神勇以下は升揀して捧日・天武と為す。逃亡・有故を除き、僅かに千九百人なり。請ふらくは今年の分定月内に千人を招かん」と。

二十七年、楊存中旨を奉ず、三衙の招く所の効用兵、招くことを住むべしと令す。今、六千七百二十六人を闕く。若し招填せずんば、兵数日々に損ぜん。詔して本司に来年正月を始めとし、旧に依り招募せしむ。

隆興元年、歩軍司郭振言う、「本司在京の日、軍額三万九千五百、今行在僅かに千二百一十九人なり」と。詔して千七百八十一人を招填し、三千を以て額と為し、神衛・虎翼・飛山・床子弩雄武等の指揮に刺充す。

乾道七年、馬軍司王友直言う、「見管の戦馬二千七百余、止だ傔馬六百余人有り。請ふらくは傔兵千五百を招き、並びに雄威に充てん」と。詔して千人を招き、「歩傔」の二字を刺す。歩軍司呉挺言う、「歩司五軍、額二万五千、見闕三千六百」と。詔して招填せしむ。

淳熙十六年、殿前副都指揮郭鈞言う、「淳熙五年兵を招くことを住む。今十載を踰ゆ。戦隊合用の火分傔兵闕く」と。詔して千人を招く。紹熙二年、詔して歩軍司に軍千人を招かしむ。

慶元元年、詔して楚州に招き到る二百六十一人を弩手・効用に補す。五年、詔して度牒を給降し金州都統に付し、闕額を招填し並びに揀汰兵し、紹熙初年の令を照らし、自ら五尺四寸より五尺六寸に至る三等を招收せしむ。

開禧元年、興元都統秦世輔言う、「本司軍多く闕額す。紹興の末、二万九千余人を管す。乾道三年、額二万七千を立て、今二万五千四百、差戍・官占実に万一百四十三人、部を点閲するに、披帯に堪ふる人僅かに六百二十七。請ふらくは本司に従ひ紹興の額を酌み招刺せん」と。参知政事蔣芾言う、「内の諸軍に在りては、每月逃亡四百人を下らず。若し権に招くことを一年半住み、財用稍く足るを俟ちて強壮を招かば、費を省くのみならず、又兵精なるを得ん。且つ南渡以来の兵籍の数、紹興十二年二十一万四千五百余人、二十三年二十五万四千五百四十人、三十年三十一万八千百三十八人、乾道三年三十二万三千三百一人、只だ二十三年に比すれば、已に六万九千六十一人を増す。此くの如くにして何の縁りか財用余り有らん」と。

宝慶二年、武岡軍知事呉愈言う、「禁衛兵は以て根本を重んじ、外夷を威す。太祖天下の精兵を聚め在京する者十余万、州郡も亦十余万なり。嘉定十五年、三衛の馬歩諸軍凡そ七万余、旧額三万を闕く。若し川しょく・荊襄・両淮の屯戍を較ぶれば、奚啻に禁衛より数倍せんや。宜しく旧制に遵ひ、州郡の禁兵を択びて禁衛の闕を補ひ、州郡の闕額は帥守に招填せしむべし」と。

紹定四年、臣僚言う、「州郡に禁卒有り、壮城有り、廂軍有り、土兵有り、一州の財自ら足らく以て一州の兵を給す。比年尺籍多く虚しく、月に招き歳に補ふも、悉く文具と成る。蓋し州郡養兵の費を吝み、招く所二三に過ぎず、逃亡已に六七なり。宜しく帥臣に申厳し、応に郡守到罷するに、兵額若干・逃故若干・招填若干を具し、其の数を考へて黜陟すべし」と。

宝祐の間、州郡守を闕き、承摂する者令を遣はして招刺せしむ。材武を詢はず、務めて帑儲を盗む。

咸淳の季年、辺報日々に聞こえ、召募尤も急なり。官銭を降すこと甚だ優厚なり。強ひて平民を刺すも、法禁無きに非ず。所司上意を体する能はず、民を執へて兵と為す。或は甘言を以て誑誘し、或は詐りて名を賈舟と為し、負販の者群至るを候ひ、輒ち之を載せ去る。或は航船の人を購ひ、全船疾く趨ること所隷の所。或は軍婦に令して冶容を以て路に誘はしめ、尽く之を涅刺す。是に由りて野に耕人無く、途に商旅無し、往々丁壮数十を聚めて後に敢へて市に入る。民に執はれて水火に赴く者有り、自ら指臂を断ちて免れんことを求むる者有り、軍人と抗して殺傷する者有り、無頼機に乗じて仮名して擾す。

九年、賈似道疏に云く、「景定元年より今に至るまで、節次軍を招くこと凡そ二十三万三千奇有り。額を填ふるを除き、創めて招く者九万五千、近く又五万を招く。之を兵無しと謂ふべからず」と。十年、汪立信書を賈似道に抵へて三策を陳ぶ。一に謂く、「内地何ぞ多く兵を用ゐん、宜しく悉く抽して以て江を過ぎしめ、六十万を行ふべし。蓋し兵は多きを貴ばず、貴ぶ所は訓練の素に行はるるに在り。苟くも甲を受くるに堪へずんば、徒らく数を充すを取るのみ。将に焉んぞ之を用ゐん」と。

旧制を考ふるに、凡そ軍に闕額有れば即ち招填す。熙寧・元豊民兵の政を講求し、是に於て募兵浸く減じ、而して三衙多く虚籍す。靖康に至りて、禁衛弱し。中興復た招募を用ふ。等杖を立て、勇壮を選び、人才を核し、虚実を験し、審刺の法諸屯に在りと雖も、而して已に招く者は兵籍悉く枢府に総ぶ。