◎兵七(召募之制)
召募の制は府衛の廃止に始まる。唐末、士卒は征役に疲弊し、亡命する者が多かった。梁祖(朱全忠)は諸軍に命じて皆顔面に墨で文字を入れさせ、軍号を識別させた。これが長征の兵である。募兵の際には、先ず人材を量り、次に走躍を閲し、瞻視を試み、その後で顔面に墨を入れ、緡銭・衣履を賜って諸籍に隷属させた。国初(宋初)はこれを踏襲し、或いは土人を募ってその所在の地で団を立て、或いは営伍の子弟を取って本軍に従わせ、或いは飢民を募って本城を補い、或いは罪有る者を配隷して役務に供させた。取る道は一途ではなかったが、強健な者は禁衛に遷し、短弱な者は廂軍とし、隊伍をもって制し、法令をもって束ねた。平時には、爵賞・衣糧の費用がないわけではないが、一旦征討があれば、これをもって戦闘に力を尽くさせ、漕運・転輸に供させ、天下の獷悍にして失職の徒は、皆良民の衛りとなったのである。
初め、太祖は軍中の強勇なる者を選び、兵様と号し、諸道に分送して、その様に倣って募兵させた。後に木梃に改め、尺寸の高下をもって差をつけ、等長杖と称し、長吏・都監に委ねて人材を量り取らせた。当該部が闕下に送る者は、軍頭司が覆験し、便坐に引対して、諸軍に分属させた。
真宗祥符年間、等杖を再定し、五尺八寸から五尺五寸までを五等とし、諸州が部送して闕下に至り、等に及ぶ者は次軍に隷属させた。
慶曆七年、諸路は廂軍及び五尺七寸以上の者を募り、部送して闕下に至らせ、試補して禁衛に充てた。
七年、御史唐介が言うには、「近年、禁軍を等募する多くは小弱にして、鎧甲に耐えず。初めに創めた尺寸を以て定めとし、敢えて減縮を議する者は、違制の罪に論ずることを請う」。詔して「禁軍で戦備に当たる者は、宜しくこの令を著すべし。その備役の雄武・宣敕六軍・搭材の類は、軍馬の敕の如くせよ」とした。
四年(熙寧四年)十二月、枢密院が言うには、「在京の係役兵士は、旧額一万八千二百五十九人、現に欠員六千三百九十二人。もし招集選抜して充足させ得れば、即ち外路から勾抽する必要がなく、水土に慣れず、凍え飢えて道中で斃死する憂いを免れる。京中及び府界、京東西、河北において少壮の兵を募集し、ただ在京の功役に供するのみとし、臣僚に占拠差発を許さず、一年を過ぎずして充足させ得よう。そうして在外の募集数を相対的に減らし、減らした糧賜を樁管して上供し、以て有司の用に給することを欲する。」これを聴く。
五年、権発遣延州趙禼が漢蕃の弓箭手人騎四千九百八十四を招き到し、八指揮と為し、ここに吏部員外郎に抜擢され、銀絹二百を加賜される。
七年、使臣を分遣して諸路に熙河の效用を選募せしめ、先ず名を以て聞かしむ。河北、河東の募兵は悉く罷む。八年、詔して軍士の祖父母、父母が老疾で侍丁がなく、他処に応募している者は、徙ることを聴く。
九年、詔して捧日・天武以下の諸軍の欠員を選補せしめ、馬軍は三分の一を補い、歩軍は十分の五を補う。
四年、京東・西路は兵将を調発するに当たり、累次増戍を請う。朝廷は兵員に数ありとし、多くその上章を寝かす。然れども州郡には実に山を負い海に帯し、奸盗の窺う所あるもあり、また過分に之を慮るべきなり。其れ募に応ずる者を益々広くするを令し、貼軍及び他の役を免ずること一年とす。六月、詔す、「在京で奉銭七百以下の者を選募し、馬歩軍一万五千人とす。開封府界及び本路は共に義兵保甲一万人を選募す。もし涇原の五千人足らざれば、秦鳳路において選募す。」
五年五月、同提挙成都府等路茶場蒲宗閔が、秦州より熙州に至るまで地里の遠近険易を量り、車鋪二十八を置き、兵士を招刺することを乞う。これを聴く。八月、詔して開封府界、京西の招軍は式に依り賜う外、仍って銭千を増す。十二月、詔して京城四面巡検は四門において士を募り、民で年三十五以下の者を取る。また詔して河北は歩軍の額を立て、各々逐指揮の額外に百人を招く。
五年、詔して一年の内に百人を募り及ぶ者あれば、秩一等を加う。四月、河東路経略司が麟州の飛騎、府州の威遠の子弟二十五以下を刺して兵と為すことを請う。
七年、広西都鈐轄司が言うには、「本路の土兵欠員数多く、使臣を選んで福建、江南、広東に往かせ、投換兵四千人を招簡することを乞う。」詔して江南、福建路に官を委ねて招換せしむ。
八年四月、河東路安撫使呂恵卿が言うには、「河東の敢勇は三百人を以て額と為し、請給微薄にして、応募者少なし。臣が頃に鄜延路に在りし日、三等の請給を増し、省馬を借支して七分の草料を給し、営を置きて教習することを奏請し、爾後応募者衆し。願わくは陝西路の已に得たる指揮に依らんことを。」これを聴く。
四年、熙河蘭岷路都総管、提点熙河蘭岷等路漢蕃弓箭手司が言うには、蘭州金城関に歩軍保捷四指揮、馬軍蕃落一指揮を招置せんと欲す。これを聴く。詔して陝西路に蕃落軍十指揮を添置し、各々五百人を以て額と為し、永興軍、河中、鳳翔、同、華州に各々両指揮を置き、並びに住営州軍の将下に隷属せしめて統制訓練し、逐路所属の都総管司に官を選び人を招かしむ。初め、三省、密院は牧地を以て民を募り馬を牧養せしめんと欲し、久しくして未だ集まらず。曾布は騎兵を増すが簡便ならんと謂う。兼ねて土兵は乃ち勁兵なり、又諸路の出戍する者は已に竭きたり。此の議を建つるに及び、衆翕然として皆以て允当と為し、帝も亦之に楽しく従う。蓋し牧租現存するもの七百万、歳額一百七十万、而して十指揮の費二十五万に過ぎず、故に募人養馬の法と兼行すべし。
五年、詔して言う、「諸色の人を強制して軍に投じさせた者は、共に自身及び親属の越訴を許し、既に刺字した者も、共に改正せよ」と。
四年、中衛大夫童師敏が言う、「東南州郡は例として廂軍が欠けており、役使がある度に、全てが雇いである。もし諸郡の守臣並びに提刑司に措置させて募集補充させれば、費用を省くことができましょう」と。これに従った。
四年正月、両浙東路鈐轄司が奏上して言う、「温・処・衢・婺州の元来管轄する不係将禁軍六指揮を、更に招き置いて十指揮に増やし、並びに五百人を定員とし、凡そ五千人とし、全将を成さんことを庶幾す。及び更に台州において不係将禁軍一指揮を招き置き、四百人を定員としたい」と。これに従った。三月、臣僚が言う、「窃かに道路洶洶として相怖れ、諸軍が人を捉えて刺涅し以て欠員を補うと聞く。数人で一壮夫を率い、且つ曳き且つ毆り、百姓は叫呼し、或いは指を齧って免れを求む。先日、金明池で人の大和会があったが、忽ち門を遮って大索し、ただ長身の少年を、牽いて去り、『軍に充てる』と言う。売蔬茹の者をして敢えて城に入らず、行旅市人下って奴隸に逮るまで、皆避け隠れて恐懼し、事は見聞を駭かす。今国家閑暇にして、必ず禁旅を募集補充せんと欲すれば、法令を明示し、金帛を以て賚い、財を百万捐てば、則ち十万人応募すべし。途において人を捉うるは、実に国体を虧き、四方に流聞し、遠邇に伝播し、甚だ未便なり。伏して亟に行い禁止し、以て疑畏を弭がんことを望む」と。時に宝籙宮の道士張継滋が尉氏に往くに因り、亦た刺涅された。事が聞こえ、手詔して提刑司に根治させた。四月、臣僚が因りて言う、「禁軍の欠員を招き刺すに、枢密院が期限を立てるが余りに急で、諸営は止まず、人は大いに駭く。幸いにして踵を旋らさず徳音を以て禁止し、群情悦服す。其れ既に刺涅されて願わざる者は、頗る亦た改正されたが、尚官に経て免れを求めて得ざる者あり。輦轂の地にして此の如し、況んや其の遠きをや。窃かに聞く、小人声勢を仮借し、因縁して奪攘す、所在多く有り、若し或いは哀鳴して脱するを得ても、其の家は已に空し。今往来猶お畏避を懐く。伏して聖明特ちに戒敕を賜い、応に在外招軍の去処に在って、横濱するを得ざらしめんことを望む」と。これに従った。
七年、掖庭の用度を減じ、侍従官以上の月廩を減じ、諸兼局を罷め、有司は得たる数に拠り撥充して諸路の糴本及び募兵賞軍の用に充てた。
欽宗即位し、詔して守令に州県郷村の土豪を隊長として募らせ、各自其の親識郷里を募って以て行かしむ。及び五十人以上には先ず進義副尉を与え、三百人以上には承信郎を与え、文武官で武勇に習う者を統領として募る。行く日、発する所の州軍は器甲を授け、人に半月分の糧を与え、地里遠き者は、至る所の州県が接続して批支す。京畿輔郡兵馬製置使司が言う、「諸路が敢勇效用を召募するに、毎名先ず銭三千を与え、本司に赴き試験して給據した後、銀絹を支散して激賞す。若し監司・知通・令佐並びに応に官有る人で、敢勇效用事藝高強及び二百人以上を召到し得る者は、転一官することを乞い、毎に二百人を加えるごとに此れに依る。或いは監司・郡守・州県官以下で応に軍期事件に縁る者、稍く稽緩する有らば、並びに軍法に依る」と。これに従った。
四月、詔して言う、「已に指揮を降して帰朝人を発還し大金軍前に往かしむるに、如し往くを願わざれば、所在に於いて口券を量り給し津遣せよ。元官守有る人は並びに厘務せず、奉給の半を支給す。其れ効力を軍前に願う者は、許して自陳せしめよ」と。
五月、河北・河東路宣撫司が奏上した。「河北諸州軍の管轄する正兵は極めて少なく、また陝西の遊手浮浪の惰民で軍に志願する者も多いが、ただ招刺に必要な例物が欠乏しているため、軍の定員が常に不足している。今もし一色の銀絹を与え、例物の犒設・起発に代えて、人を募って義勇とし、右臂にのみ刺字し、禁軍の例物に準じて衣糧料銭を支給すれば、陝西五路で合わせて二万人を得られ、淮・浙等路で得た将兵に比べ、実に使い勝手がよい。」これを聴き入れ、詔して文武官各一名を遣わし、陝西路に赴いて兵二万人を募り、京師に送らせた。そこで趙鼎を特除して開封府曹官とし、種湘を差して宣撫司準備将領とし、ともに陝西路幹当公事を充て、専ら募兵を担当させた。この月、戸部員外郎陳師尹を福建路に遣わして槍杖手を募集させた。都水使者陳求道が言う。「朝廷が官を差して陝西に赴き招軍するが、ちょうど豊作の年に当たり、恐らく容易には招填できないであろう。もし監司に委ねて保甲を募集し、例物を与えて誘い、科差を免じて士気を高めれば、勁兵五万を得られる。」これを聴き入れた。
六月、枢密都承旨折彦実が奏上した。「西人(西夏)が女真と結託して久しく、どうして関中を窺う志がなかろうか。今、諸路の人馬は皆空しく、万一敵人が長駆すれば、どうして防ぎ止められようか。言うに寒心に堪え、朝廷は深く慮っていないようである。河東・河北の患いは既に形を現しており、人は故に憂える。陝西の患いは未だ起こらず、人は故に軽んじる。もし各路に先ず十万緡を与え、帥臣に土人を募って保護の計を立てさせ、要害を扼することを責め、侵入を許さず、なお朝廷が応分に支給するならば、漕司は時機に乗じて広く蓄積を行い、急務とすべきである。」
また開封府尹聶山が奏上した。「招兵は今日の急務である。近頃、京畿諸邑がそれぞれ招刺を行ったが、就募する者がいないため、村民や往来の行人を強制的に捕らえてこれに充てた。そのため里民は奔走して驚き、商旅は通行せず、朝廷の愛民の意に大いに反する。政和令を検討すると、盗賊で再犯し杖刑以上で情状酌量の余地がなく、軍に堪えうる者は、例物を与えて廂軍に刺充する、とある。今、京城内外に盗賊がいるが、皆豪猾の徒で畏れるところがなく、罪を断じられても頑悪で悔い改めない。もし上条に依って廂軍に刺充すれば、強壮の用を得るだけでなく、奸黠の徒を収集して再び盗賊とならなくなる。もしこの請願を許可されれば、内から外まで皆これを見て施行できるであろう。」これを聴き入れた。
七月、陝西五路制置使銭蓋が言う。「都水使者陳求道が保甲五万を招刺して軍に充てることを請うた。近頃、陝右の正兵は数が少なく、全て保甲に守禦や運糧などの諸役の差使を頼っているが、それ以外に残る者は僅かである。もしさらに五万を招刺して軍に充てれば、正丁が殆ど全て使役されることになり、選択が難しいだけでなく、民情が驚疑して別の事態を招く恐れがある。州県に命じて保甲に諭し、その情願を取ることを乞う。もし情願する者がいなければ、保甲司に正丁の余数の中から選択させることを乞う。京師に赴く者と合わせて七万とし、用に足りるようにしたい。」これを聴き入れた。この月、銭蓋が奏上した。「陝西で土人を募って軍に充てるが、多くは市井の烏合の衆で、臨敵に堪えられない。今、折彦実が陝西六路に銅錢各十万緡を支給し、毎名に銭十千を添えれば、自ら精選して少壮で等杖に達する者を得られ、正軍一万、六路合わせて六万人を得られる。」これを聴き入れた。
十月、枢密院が奏上した。「材武勇鋭及び胆勇の人並びに射猟・射生戸を召募する。」これを聴き入れた。また奏上した。「福建路には忠義武勇で功を立て自ら効力を尽くし官職を得ようとする者がおり、理に召募すべきである。保甲・正兵を除き、弓手・百姓・僧行・有罪の軍人を全て応募に聴す。もし武芸高強で実に胆勇があり、衆に推服され、応募して部領人となろうとする者がいれば、各項の名目に従って権摂部領とし、各々募った人数に応じて官資を借補させる。」これを聴き入れた。
十一月、京城四壁合わせて十万人、黄人黄旗が市に満ちた。当時、応募する者は多くが傭丐であり、全く闘志がなかった。閏十一月、何〓が王健を用いて奇兵を募ったが、瓢箪を持って物乞いする者までも皆応募し、倉卒のうちに紀律が整わなかった。奇兵が乱を起こし、王健を殴打し、使臣数十人を殺害し、内前は大いに騒擾した。王宗濋が渠魁数人を斬り、ようやく鎮定した。出戦すると、鉄騎に衝かれ、風を見て奔潰し、殲滅された。
十二月、詔した。「諸軍が蕃装を詐り、財物を焚劫した者は、十日を限りに贓物を持参して自首すれば、罪を免ずる。」なお潰兵を召募して収管し、口食を与えた。
逃亡の法は、国初以来それぞれ増損があった。熙寧五年に詔し、禁軍で俸銭が五百に至り逃亡して満七日となる者は斬刑とした。旧制では三日で死罪であった。初め、執政が法改正を議し、満十日を請うた。帝が言う。「臨陣で逃亡し、十日を過ぎて自首すれば、奸を長じるのではないか。」王安石が言う。「臨陣で逃亡する者は、法は日数を計らず、即ち斬刑に入る。今、軍興の所で逃亡して満三日となる者を立て、対寇賊律に論ずべきであろうか。」枢密使蔡挺が、辺境で逃亡して満三日となる者は斬刑を請うた。王安石が言う。「辺境には軍興の所でない場所もあり、一概に重刑に処すことはできない。本来、重法を立てるのは、寇賊を避けること及び軍興を禁ずるためである。」帝が言う。「その通りである。」文彦博が固く言う。「軍法は臣等が総領すべきであり、軽々しく改めるべきではない。前代のように兵を削減すれば変乱が生じた。」王安石が言う。「前代の杜元穎らが兵を削減したのは、その措置が失当であったのであって、兵を削減できないわけではない。また蕭俛の時代には、天下の兵が極めて多く、民力が支えきれず、どうして減らさないでいられようか。ちょうど幽州が朱克融らを京師に送り、克融を幽州に戻して衆を煽り乱を起こさせないよう請うたのに、朝廷は克融らを京師に漂泊させ、久しく任用せず、再び北に帰らせた。克融が再び乱を起こしたのは、どうして兵削減の事に関わるのか。」彦博が言う。「国初、禁軍が逃亡して満一日となる者は斬刑であった。仁宗が満三日に改めたが、当時の議者は既に軍法を損なうことを憂えた。」王安石が言う。「仁宗が法を改めて以来、人命を救った者は極めて多い。しかし軍人の逃亡は、旧法に比べて増えたとは聞かない。仁宗の法改正は不善ではなかった。」帝は遂に詔して七日に増やした。
四年、沈括に詔した。「奏上によれば、軍前の士卒が逃亡し、路上で潰散しているが、本意ではなく、急いで招安すべきである。卿は速やかに朝旨を具して榜を出し、『戦士はただ飢寒に耐えられず、家に逃げ帰ったに過ぎないと聞く。各々所在の城砦に赴き、一時的に器甲を納め、糧食の給与を請い、所属に帰ることを聴す』とせよ。順次、招撫した数を具して奏聞せよ。」
崇寧四年九月、枢密院が言う。「熙河都総管司には旧来兵籍がなく、諸将に各々籍を置かせ、毎日に開収の有無を具し、旬ごとに元額・見管及び逃亡事故の細目を具し、総管司に申し上げさせ、本司は都簿に貼り出し、機宜一員に逐時抽摘点検を委せたい。」これを聴き入れた。
十月、尚書省が言うには、「今、所在の逃軍が聚集し、千数を以て至り、小は則ち郷邑を驚動し、大は則ち公然と劫盗を為す。累次指揮を降し、首身を許し、或いは投換を令すも、終に革絶せず。昔、神宗は将兵を知らず、兵将を知らざるを以て、故に兵を分けて将を領せしむ。統兵官司は、凡そ兵の事統べざる無く、則ち其の逃亡走死、豈に其の責を任せざるを得んや。将敕と見行敕令を検会するに、皆未だ将官と人員の任責の法有らず、致令来兵将に存恤を加えず、其の身を労役し、逃避に至り、而して職を任ずるの人悉く罪を加えず。近日、熙河一路の逃者は幾四萬、将副坐視して禁ぜず、人員将校故に縦して問わず、至って逃亡軍人の所在皆に有り。蓋し自來立法未だ詳ならず、兼ねて軍中の長行節級人員、将校、什長相統き、同営相依い、上下相製す、豈に其の逃亡漫に省察せざるを致さんや。況んや招軍既に賞格を立てば、則ち逃走安んぞ禁無からんや。今参詳して賞罰十数条を修立す」と。並びに之に従う。
五年、枢密院童貫の言う所を備える、「陝西等処に官を差して逃亡軍人を招諭し、並びに所在の首身を許し、更に会問せず、便ち口券を支えて本営に帰らしむ。辺上の軍人は戍守の労を憚り、往々内郡に逃竄して首身し、遂に口券を得て営に帰る。相習い風と成り、軍政に害有らんことを恐る。乞う、自今応に軍人首身し、並びに須らく逃亡赦限を会問し、今来の招諭指揮に依らしむべし。若し赦後逃亡に係らば、即ち条に依り施行するを乞う」と。之に従う。
四年、枢密院言う、「諸路及び京畿逃亡軍数居多し、赦敕を以て限を立て首を許すと雖も、終に畏避を懐く。若し諸路に専ら知州・通判或いは職官一員を委ね、京畿に知県を委ね、若し招誘累ねて三百人以上に及べば、一年磨勘を減じ、五百人以上一年半、千人以上は旨を取って推恩す、理に於いて便なり」と。
四年、尚書省令を著す、「諸禁軍差發出戍未だ軍前に到らず、或いは已に到りて而して代わり去ること半年以上、逃亡首獲す、恩を会すと雖も、捕獲法の如く配す。上軍首身或いは捕獲、恩を会し、七日內法に依り配す。下軍本名応に配すべき者は、千里に配す。若し本管輒ち停留せば、同罪とし、該赦と雖も仍ほ配法に依る」と。之に従う。
五年、錢監兵匠逃走刺手背法を立つ。
四年、臣僚言う、「中外士卒故無く逃亡し、所在之れ有り。祖宗軍を治むる紀律甚だ厳しく、若し戍する者家に還り、役すべき者事を避くれば、必ず轅門の戮有り。今既に其の罪を宥し、且つ投換を許し、什伍の長に製せられず。既に赦限を立て、又特に日を展べ、以て其の自首の期を寬うす。臣恐らくは逃亡計を得、其の弊益々滋さんことを。乞う恩赦の外軽々しく限を与えず、限の常と為す可からざるを知らしめ、庶く畏懼有らしむ」と。之に従う。
五年、臣僚が言うには、「今、諸軍の逃亡者を実情のままに上聞せず。諸処において名を冒して給与を請い、選閲や差役に至っては巧みに占拠・破損し、甚だ已むを得ざるに至れば、逃亡者を雇募して名数を充たし、直ちに遁走して再び実用に供さず。平時において供給に難く、緩急に応用するものなし。而して奸人がその間に腕を捲り、坐して財賦を費やす。開収勘斂を開くも、法制は益々詳しくなるも、共利の人は一体として傅会す。望むらくは処分を賜い、先ず当職官に実数を核見せしめ、保明して転運司に申達し、期日を定めて諸郡の守貳に点閲を委ね、仍って掌兵官司に関会して行下せしめよ。州に勾押し難き者は、官を差して就閲し、期を同日に定めて的実を究見せしめよ。稍でも欺罔に渉る者は、根治して赦さず。監司使者は郡を分けて覆実し、数を具して朝に申達し、以て官を差して分按を待ち、必ず罪賞を行い、官に虚費無くして軍に実用有らしめよ。然らば紀律明らかにして国用省かるべし」と。詔して枢密院に送り条画措置せしむ。
十二月、詔す、「諸路の逃竄軍人にして已に該赦恩を蒙り出首免罪せしめ、却って出戍の去処に帰り再び逃竄する者は、所在の去処に於いて首身せしめ、並びに特と罪を免じ、一般の軍分に安排し、請給を支破し、軍前に発遣して使喚せしむべし」と。
六月、詔す、「応に河東に潰散する諸路の将佐は、並びに仰せて逐路の帥守に発遣せしめ、河東・河北制置司に赴き、以て功を以て過を贖わしむべし」と。河北路制置司都統制王淵言う、「旨を被り差充して種師道等の下の潰散人馬を招集し、太原に応援す。限満して首せざれば、即ち家属を寄禁し、人をして収捕して軍前に赴かしめ、重ねて処置すべし」と。之に従う。仍って指揮到るの日より、限を十日とす。河北路制使劉韐奏す、「近く制置使種師中軍を領して榆次に到り、利を失い潰散し、師中存否を知らず。旨を奉るに、師中の下応統制・将佐・使臣等は、並びに放罪とす。臣按ずるに、兵を用いて主将を失えば、統制・将佐並びに行って軍法に合す。軍法行なわれれば、則ち人以て主将を重しとし、緩急必ず須らく護救す。若し軍法を行わざれば、緩急の際争いて先んじて逃遁し、主将を路人の如く視て、略顧み恤わず。近年以来、高永年陷没し、一行の将佐及び中軍将・提轄等未だ嘗て軍法を以て罪せず。継いて劉法陷没し、今種師中又た王事に死す。若し両軍相い遇い、勢力加わらず、血戦して敗れ、或いは主将を失うも、亦た言うべき無し。榆次の戦、頃刻にして潰え、統制・将佐・使臣走る者十に已に八九、軍士中傷する者十に一二無く、独り師中出でず。若し師中撫禦少恩、紀律不嚴と謂うも、其の命を受けて即ち行き、奮いて身を顧みず、初め右軍戦卻するを聞き、即ち応援を遣わす。比の時諸将已に在る者無し。賊兵営を犯すに至り、師中未だ肯て馬に上らざりき。師中に偷生の心有らしめば、敗を聞きて即ち行かば、亦た必ず出で得べし。一時の将佐若し能く戮力相い救わば、或いは敵を破り得べし。今一軍纔に卻き、諸将主帥有らず、相継いで遁る。其の初め猶お懼色有りしも、既に放罪を聞き、遂に皆釈然たり。朝廷太原の囲未だ解けざるを以て、未だ窮治せんと欲せず。今師旅方に興り、深く懲艾する所無からんことを恐る。敵に遇えば必ず命を用いざらん。乞うらくは指揮し、応に種師中の下の統制・将佐は並びに聖旨の処分に依り、仍って軍前に自効せしめよ。若し命を用いて功を立てば、前罪を免ず。今後戦功を立てずんば、該恩赦と雖も叙復を得ず。仍って乞うらくは優詔を以て師中を褒贈し、以て忠義の勧めと為せ」と。詔す、「種師中の下の統制・将佐は並びに五官を降し、仍って職位・姓名を開具して尚書省に申すべし。余は劉韐の奏する所に依る」と。
八月、河北・河東路宣撫司奏す、「近く都統制王淵の潰敗使臣を捉獲するに据る。已に管押して宣撫副使劉韐の軍前に赴き交割し、軍法に依り施行する外、訪い聞くに尚ほ未だ出首せざる将佐・使臣有り」と。詔す、「限を今の指揮到るの日より更に展限十日とし、許して所在の州軍に出首せしめ、仍って元降の指揮に依り免罪し、特と遞馬驛券を支破し、疾速に軍前に発赴して自効せしめ、功を立てる日を候って優加推賞すべし。若し再限満日の更に首身せざれば、当に職名を見取り重賞を以て購捕し、定めて軍法を行なうべし。仍って多く榜示を出して諭すべし」と。
建炎初年、招募多くは西北の人なり。其の後諸路の州・軍・砦或いは三衙に招募し、或いは三衙軍中の子弟を選刺し、或いは諸郡より中軍子弟を選刺し解発す。復た詔して滄・濱及び江・淮沿流の州軍に、善く水に没し経時伏藏する者を募り、五千を以て額とす。神武右軍統制張俊言う、「牙軍多くは烏合の衆を招集す。擬して上等は勝捷に改刺し、次等は振華・振武に刺し、庶幾くは部分帰一して訓練便ならん」と。詔して両浙・江東、江陰軍を除き、各々水軍二百人を募らしむ。
四年、詔す、「招く所の河北人は河北振武に充て、余人は陝西振華指揮に刺すべし。沿江に水軍を招置し、戦艦を備え、東南水に諳んずる者を募りて充て、毎指揮五百を以て額とすべし」と。
十年、詔して三京路招撫処置使司に効用軍兵一万人を招かしめ、その内に使臣二千員を招かしむ。
十五年、福建安撫莫将言う、「汀・漳・泉・建の四州は、広東・江西と接壌す。比年、寇盗居民を剽劫し、土豪は私銭を備へて社戸を集め、防捍に労あり。有司は上聞して恩を推すことを為さず、家を破りて依帰する所無く、勢ひ必ず賊に従はんとす。官軍は山険に習はず、且つ瘴癘侵加し、窮追すること能はず、管属の良民悉く転じて盗と為る。請ふらくは四州の守臣に委せ、此の遊手にして帰する所無き勇健の人を募り、各千人を収め、仍ほ効用を以て名と為し、足らく以て備用に供し、実に永久の利なり」と。詔して張淵に同措置せしむ。
二十四年、殿前都指揮使楊存中言う、「旧制、在京の管する捧日・天武・拱聖・驍騎・驍勝・寧朔・神騎・神勇・宣武・虎翼・広勇諸指揮の禁軍内、捧日・天武は条に依り升揀して扈衛の諸班直と為し、拱聖・神勇以下は升揀して捧日・天武と為す。逃亡・有故を除き、僅かに千九百人なり。請ふらくは今年の分定月内に千人を招かん」と。
二十七年、楊存中旨を奉ず、三衙の招く所の効用兵、招くことを住むべしと令す。今、六千七百二十六人を闕く。若し招填せずんば、兵数日々に損ぜん。詔して本司に来年正月を始めとし、旧に依り招募せしむ。
乾道七年、馬軍司王友直言う、「見管の戦馬二千七百余、止だ傔馬六百余人有り。請ふらくは傔兵千五百を招き、並びに雄威に充てん」と。詔して千人を招き、「歩傔」の二字を刺す。歩軍司呉挺言う、「歩司五軍、額二万五千、見闕三千六百」と。詔して招填せしむ。
紹定四年、臣僚言う、「州郡に禁卒有り、壮城有り、廂軍有り、土兵有り、一州の財自ら足らく以て一州の兵を給す。比年尺籍多く虚しく、月に招き歳に補ふも、悉く文具と成る。蓋し州郡養兵の費を吝み、招く所二三に過ぎず、逃亡已に六七なり。宜しく帥臣に申厳し、応に郡守到罷するに、兵額若干・逃故若干・招填若干を具し、其の数を考へて黜陟すべし」と。
宝祐の間、州郡守を闕き、承摂する者令を遣はして招刺せしむ。材武を詢はず、務めて帑儲を盗む。
咸淳の季年、辺報日々に聞こえ、召募尤も急なり。官銭を降すこと甚だ優厚なり。強ひて平民を刺すも、法禁無きに非ず。所司上意を体する能はず、民を執へて兵と為す。或は甘言を以て誑誘し、或は詐りて名を賈舟と為し、負販の者群至るを候ひ、輒ち之を載せ去る。或は航船の人を購ひ、全船疾く趨ること所隷の所。或は軍婦に令して冶容を以て路に誘はしめ、尽く之を涅刺す。是に由りて野に耕人無く、途に商旅無し、往々丁壮数十を聚めて後に敢へて市に入る。民に執はれて水火に赴く者有り、自ら指臂を断ちて免れんことを求むる者有り、軍人と抗して殺傷する者有り、無頼機に乗じて仮名して擾す。
旧制を考ふるに、凡そ軍に闕額有れば即ち招填す。熙寧・元豊民兵の政を講求し、是に於て募兵浸く減じ、而して三衙多く虚籍す。靖康に至りて、禁衛弱し。中興復た招募を用ふ。等杖を立て、勇壮を選び、人才を核し、虚実を験し、審刺の法諸屯に在りと雖も、而して已に招く者は兵籍悉く枢府に総ぶ。