宋史

志第一百四十六 兵七

志第一百四十六 兵七

◎兵七(召募之制)

原文◎兵七(召募之製)

召募の制は府衛の廃止に始まる。唐末、士卒は征役に疲弊し、亡命する者が多かった。梁祖(朱全忠)は諸軍に命じて皆顔面に墨で文字を入れさせ、軍号を識別させた。これが長征の兵である。募兵の際には、先ず人材を量り、次に走躍を閲し、瞻視を試み、その後で顔面に墨を入れ、緡銭・衣履を賜って諸籍に隷属させた。国初(宋初)はこれを踏襲し、或いは土人を募ってその所在の地で団を立て、或いは営伍の子弟を取って本軍に従わせ、或いは飢民を募って本城を補い、或いは罪有る者を配隷して役務に供させた。取る道は一途ではなかったが、強健な者は禁衛に遷し、短弱な者は廂軍とし、隊伍をもって制し、法令をもって束ねた。平時には、爵賞・衣糧の費用がないわけではないが、一旦征討があれば、これをもって戦闘に力を尽くさせ、漕運・転輸に供させ、天下の獷悍にして失職の徒は、皆良民の衛りとなったのである。

原文召募之製起於府衛之廢。唐末士卒疲於征役,多亡命者,梁祖令諸軍悉黵麵為字,以識軍號,是為長征之兵。方其募時,先度人材,次閱走躍,試瞻視,然後黵麵,賜以緡錢、衣履而隸諸籍。國初因之,或募土人就所在團立,或取營伍子弟聽從本軍,或募饑民以補本城,或以有罪配隸給役。取之雖非一途,而伉健者遷禁衛,短弱者為廂軍,製以隊伍,束以法令。當其無事時,雖不無爵賞衣廩之費,一有征討,則以之力戰鬥,給漕免,而天下獷悍失職之徒,皆為良民之衛矣。

初め、太祖は軍中の強勇なる者を選び、兵様と号し、諸道に分送して、その様に倣って募兵させた。後に木梃に改め、尺寸の高下をもって差をつけ、等長杖と称し、長吏・都監に委ねて人材を量り取らせた。当該部が闕下に送る者は、軍頭司が覆験し、便坐に引対して、諸軍に分属させた。

原文初,太祖揀軍中強勇者號兵樣,分送諸道,令如樣招募。後更為木梃,差以尺寸高下,謂之等長杖,委長吏、都監度人材取之。當部送闕者,軍頭司覆驗,引對便坐,分隸諸軍。

真宗祥符年間、等杖を再定し、五尺八寸から五尺五寸までを五等とし、諸州が部送して闕下に至り、等に及ぶ者は次軍に隷属させた。

原文真宗祥符中,重定等杖,自五尺八寸至五尺五寸為五等,諸州部送闕下,及等者隸次軍。

仁宗天聖元年、詔して京東西・河北・河東・淮南・陝西路に募兵させ、当該部が送る者には「指揮」の二字を刺し、家族には口糧を給すとした。兵官が代還する際は、募った多寡をもって賞罰とした。また詔して益・利・梓・夔路は毎年民を募って軍士に充て、数に及べば即ち部送し、奉節・川效忠・川忠節に分属させた。これにより遠方の健勇にして失業の民は、悉く帰する所を得た。

原文仁宗天聖元年,詔京東西、河北、河東、淮南、陝西路募兵,當部送者刺“指揮”二字,家屬給口糧。兵官代還,以所募多寡為賞罰。又詔益、利、梓、夔路歲募民充軍士,及數即部送,分隸奉節、川效忠、川忠節。於是遠方健勇失業之民,悉有所歸。

慶曆七年、諸路は廂軍及び五尺七寸以上の者を募り、部送して闕下に至らせ、試補して禁衛に充てた。

原文慶曆七年,諸路募廂軍及五尺七寸已上者,部送闕下,試補禁衛。

至和元年、河北・河東・陝西で就糧兵を募り、騎兵は四百人、歩兵は五百人をもって一営とした。

原文至和元年,河北、河東、陝西募就糧兵,騎以四百人、步以五百人為一營。

嘉祐二年、再び等仗を定め、上四軍から武肅・忠靖に至るまで皆五尺以上とし、寸分をもって差をつけてその俸銭に応じた。一千の者は五尺八寸・七寸・三寸を三等とした。俸銭七百の者は、五尺七寸・六寸・五寸を三等とした。俸銭五百の者は、五尺六寸・五寸五分を三等とした。俸銭四百の者は、五尺五寸・四寸五分を二等とした。俸銭三百の者は、五尺五寸・四寸五分・四寸・三寸・二寸を六等とした。俸銭二百の者は、五尺四寸・三寸五分・三寸・二寸を四等とした。俸銭を給さない者は、五尺二寸或いは下五寸七指・八指を等とした。ただ武嚴・御営喝探は技芸精熟なる者を充て、諸司の管庫で技を執る者は等杖を設けなかった。

原文嘉祐二年復定等仗,自上四軍至武肅、忠靖皆五尺已上,差以寸分而視其奉錢:一千者以五尺八寸、七寸、三寸為三等。奉錢七百者,以五尺七寸、六寸、五寸為三等。奉錢五百者,以五尺六寸、五寸五分為三等。奉錢四百者,以五尺五寸、四寸五分為二等。奉錢三百者,以五尺五寸、四寸五分、四寸、三寸、二寸為六等。奉錢二百者,以五尺四寸、三寸五分、三寸、二寸為四等。不給奉錢者,以五尺二寸或下五寸七指、八指為等。唯武嚴、禦營喝探以藝精者充,諸司筦庫執技者不設等杖。

七年、御史唐介が言うには、「近年、禁軍を等募する多くは小弱にして、鎧甲に耐えず。初めに創めた尺寸を以て定めとし、敢えて減縮を議する者は、違制の罪に論ずることを請う」。詔して「禁軍で戦備に当たる者は、宜しくこの令を著すべし。その備役の雄武・宣敕六軍・搭材の類は、軍馬の敕の如くせよ」とした。

原文七年,御史唐介言:“比歲等募禁軍多小弱,不勝鎧甲,請以初創尺寸為定,敢議減縮者,論以違製。”詔:“禁軍備戰者,宜著此令。其備役雄武、宣敕六軍、搭材之類,如軍馬敕。”

治平二年、陝西の土民・営伍の子弟を募って禁軍に隷属させ、一営の補充は八分で止めた。また使者を畿県・南京・曹・濮・単・陳・許・蔡・亳州に遣わして民を募り、虎翼・広勇を補い、人ごとに絹・布各一を加賜した。

原文治平二年,募陝西土民、營伍子弟隸禁軍,一營填止八分。又遣使畿縣、南京、曹、濮、單、陳、許、蔡、亳州募民補虎翼、廣勇,人加賜絹、布各一。

治平四年、詔して延州に保捷五営を募り、更戍に備えさせた。熙寧元年、詔して諸州に飢民を募って廂軍を補わせた。

原文治平四年,詔延州募保捷五營,以備更戍。熙寧元年,詔諸州募饑民補廂軍。

二年、枢密院が言うには、「国初、辺州に警報がなければ兵を罷めた。今は既に和を講じているのに、屯兵が極めて多く、徒らに金帛を消耗している。近裏で糧食の安い処で営兵を増募し、ただ極辺に往戍させるならば、甚だ便宜の計である」。帝は文彦博及び韓絳・陳升之・呂公弼等とこれを議し、或いは「古来皆営兵を募り、事が静まれば即ち罷める」とし、或いは「縁辺の兵は多く減らすべからず」とした。そこで彦博等に命じて詳議して奏聞させた。

原文二年,樞密院言:“國初邊州無警則罷兵,今既講和,而屯兵至多,徒耗金帛。若於近裏糧賤處增募營兵,但令往戍極邊,甚為便計。”帝與文彥博及韓絳、陳升之、呂公弼等議之,或以為自古皆募營兵,遇事息即罷,或以為緣邊之兵不可多減。乃命彥博等詳議以聞。

三年七月、詔して京西路に糧草有る州軍において廂軍を招き、総計三万人を定員とした。十一月、定州知事滕甫が下本路に請い、旧制に依って弓箭社を募り、以て辺備とすべしとした。これに従った。

原文三年七月,詔京西路於有糧草州軍招廂軍,共三萬人為額。十一月,知定州滕甫乞下本路依舊制募弓箭社,以為邊備。從之。

四年(熙寧四年)十二月、枢密院が言うには、「在京の係役兵士は、旧額一万八千二百五十九人、現に欠員六千三百九十二人。もし招集選抜して充足させ得れば、即ち外路から勾抽する必要がなく、水土に慣れず、凍え飢えて道中で斃死する憂いを免れる。京中及び府界、京東西、河北において少壮の兵を募集し、ただ在京の功役に供するのみとし、臣僚に占拠差発を許さず、一年を過ぎずして充足させ得よう。そうして在外の募集数を相対的に減らし、減らした糧賜を樁管して上供し、以て有司の用に給することを欲する。」これを聴く。

原文四年十二月,樞密院言:“在京係役兵士,舊額一萬八千二百五十九人,見闕六千三百九十二人,若招揀得足,即不須外路勾抽,以免不習水土、凍餒道斃之患。欲於在京及府界、京東西、河北招少壯兵,止供在京功役,不許臣僚占差,不過期年,可使充足。卻對減在外招募之數,樁管所減糧賜上供,以給有司之用。”從之。

五年、権発遣延州趙禼が漢蕃の弓箭手人騎四千九百八十四を招き到し、八指揮と為し、ここに吏部員外郎に抜擢され、銀絹二百を加賜される。

原文五年,權發遣延州趙禼招到漢蕃弓箭手人騎四千九百八十四,為八指揮,遂擢吏部員外郎,加賜銀絹二百。

七年、使臣を分遣して諸路に熙河の效用を選募せしめ、先ず名を以て聞かしむ。河北、河東の募兵は悉く罷む。八年、詔して軍士の祖父母、父母が老疾で侍丁がなく、他処に応募している者は、徙ることを聴く。

原文七年,分遣使臣諸路選募熙河效用,先以名聞。河北、河東所募兵悉罷。八年,詔軍士祖父母、父母老疾無侍丁而應募在他處者,聽徙。

九年、詔して捧日・天武以下の諸軍の欠員を選補せしめ、馬軍は三分の一を補い、歩軍は十分の五を補う。

原文九年,詔選補捧日、天武以下諸軍闕,馬軍三分補一,步軍十分補五。

元豊二年二月、経制熙河路辺防財用司が言うには、「岷州の┒川、荔川、閭川の砦、通遠軍の熟羊砦に、牧養十監を置き、兵を募って監牧指揮と為すことを乞う。その営田は官荘の例に依り、永済卒二百人を募ることを乞う。その永済卒は通じて千人を以て額と為す。」これを聴く。七月、沿辺安撫司が言うには、「北辺の州軍が主管刺事人に銭三千を給することを乞い、使臣職員或いは百姓を選募して之を為し、以て敵情を鉤致せしむ。仍って通判及び監官を選びその虚実を考課し、以て賞罰を行わしむ。」これを聴く。是の年、兗・鄆・齊・濟・濱・棣・德・博の民が飢えたるを以て、兵に募り、以て開封府界、京東西の将兵の欠員を補う。

原文元豐二年二月,經製熙河路邊防財用司言:“岷州┒川、荔川、閭川砦,通遠軍熟羊砦,乞置牧養十監,募兵為監牧指揮。其營田乞依官莊例,募永濟卒二百人,其永濟卒通以千人為額。”從之。七月,沿邊安撫司言:“北邊州軍主管刺事人乞給錢三千,選募使臣職員或百姓為之,以鉤致敵情。仍選通判及監官考其虛實,以行賞罰。”從之。是年,以兗、鄆、齊、濟、濱、棣、德、博民饑,募為兵,以補開封府界、京東西將兵之闕。

三年、また詔す、「府界諸路の将下に禁軍の欠員万数あり、有司は速やかに之を募れ。」また詔す、「河北に水災あり、食を欠く民甚だ衆し、宜しく寄招して軍を補うべし。」

原文三年,又詔:“府界諸路將下闕禁軍萬數,有司其速募之。”又詔:“河北水災,闕食民甚眾,宜寄招補軍。”

四年、京東・西路は兵将を調発するに当たり、累次増戍を請う。朝廷は兵員に数ありとし、多くその上章を寝かす。然れども州郡には実に山を負い海に帯し、奸盗の窺う所あるもあり、また過分に之を慮るべきなり。其れ募に応ずる者を益々広くするを令し、貼軍及び他の役を免ずること一年とす。六月、詔す、「在京で奉銭七百以下の者を選募し、馬歩軍一万五千人とす。開封府界及び本路は共に義兵保甲一万人を選募す。もし涇原の五千人足らざれば、秦鳳路において選募す。」

原文四年,京東、西路以調發兵將,累請增戍。朝廷以兵員有數,多寢其章。然州郡實有負山帶海,奸盜所窺,亦當過為之慮,其令益廣應募者,與免貼軍及他役一年。六月,詔:“在京奉錢七百以下,選募馬步軍萬五千人;開封府界及本路共選募義兵保甲萬人;如涇原五千人不足,於秦鳳路選募。”

五年五月、同提挙成都府等路茶場蒲宗閔が、秦州より熙州に至るまで地里の遠近険易を量り、車鋪二十八を置き、兵士を招刺することを乞う。これを聴く。八月、詔して開封府界、京西の招軍は式に依り賜う外、仍って銭千を増す。十二月、詔して京城四面巡検は四門において士を募り、民で年三十五以下の者を取る。また詔して河北は歩軍の額を立て、各々逐指揮の額外に百人を招く。

原文五年五月,同提舉成都府等路茶場蒲宗閔乞自秦州至熙州量地裏遠近險易,置車鋪二十八,招刺兵士。從之。八月,詔開封府界、京西招軍依式賜外,仍增錢千。十二月,詔京城四面巡檢募士於四門,取民年三十五以下者。又詔河北立額步軍,各於逐指揮額外招百人。

五年、詔して一年の内に百人を募り及ぶ者あれば、秩一等を加う。四月、河東路経略司が麟州の飛騎、府州の威遠の子弟二十五以下を刺して兵と為すことを請う。

原文五年,詔一歲內能募及百人者,加秩一等。四月,河東路經略司請以麟州飛騎、府州威遠子弟二十五以下剌為兵。

七年、広西都鈐轄司が言うには、「本路の土兵欠員数多く、使臣を選んで福建、江南、広東に往かせ、投換兵四千人を招簡することを乞う。」詔して江南、福建路に官を委ねて招換せしむ。

原文七年,廣西都鈐轄司言:“本路土兵闕額數多,乞選使臣往福建、江南、廣東招簡投換兵四千人。”詔於江南、福建路委官招換。

八年四月、河東路安撫使呂恵卿が言うには、「河東の敢勇は三百人を以て額と為し、請給微薄にして、応募者少なし。臣が頃に鄜延路に在りし日、三等の請給を増し、省馬を借支して七分の草料を給し、営を置きて教習することを奏請し、爾後応募者衆し。願わくは陝西路の已に得たる指揮に依らんことを。」これを聴く。

原文八年四月,河東路安撫使呂惠卿言:“河東敢勇以三百人為額,請給微薄,應募者少。臣頃在鄜延路日,奏請增三等請給,借支省馬給七分草料,置營教習,自後應募者眾。願依陝西路已得指揮。”從之。

哲宗元祐元年三月、詔して河北の保甲で軍人に投ぜんと願い、及び上四軍等の杖事芸に上る者は、特許して招填し、例物を給するに合う外、更に銭五千を増し、中軍以下には三千を増す。比等杖一指短くとも、保甲第一等の弓弩を射る者は、並びに招刺を許す。右司諫蘇轍の請いに従うなり。六月、門下侍郎司馬光が言うには、「諸州軍の兵馬全く欠き、守禦に足らざる処は、量りて額を立てて招添すべし。」

原文哲宗元祐元年三月,詔河北保甲願投軍人及得上四軍等杖事藝者,特許招填,合給例物外,更增錢五千,中軍以下三千。比等杖短一指,射保甲第一等弓弩,並許招刺。從右司諫蘇轍請也。六月,門下侍郎司馬光言:“諸州軍兵馬全欠,不足守禦之處,量與立額招添。”

八年、枢密院が言うには、「今新たに招く兵士は多くは饑民にして、教閲に未だ諳ぜず。乞うらくは今より住営州軍に官を差して訓練せしめ、半年を俟って軍前に発遣せしむ。」紹聖元年、枢密院が招禁軍の官員の賞格を立てることを乞い、もし数に及ばざれば、罰も亦之に随う。

原文八年,樞密院言:“今新招兵士多是饑民,未諳教閱,乞自今住營州軍差官訓練,候半年發遣赴軍前。”紹聖元年,樞密院乞立招禁軍官員賞格,如不及數,罰亦隨之。

四年、熙河蘭岷路都総管、提点熙河蘭岷等路漢蕃弓箭手司が言うには、蘭州金城関に歩軍保捷四指揮、馬軍蕃落一指揮を招置せんと欲す。これを聴く。詔して陝西路に蕃落軍十指揮を添置し、各々五百人を以て額と為し、永興軍、河中、鳳翔、同、華州に各々両指揮を置き、並びに住営州軍の将下に隷属せしめて統制訓練し、逐路所属の都総管司に官を選び人を招かしむ。初め、三省、密院は牧地を以て民を募り馬を牧養せしめんと欲し、久しくして未だ集まらず。曾布は騎兵を増すが簡便ならんと謂う。兼ねて土兵は乃ち勁兵なり、又諸路の出戍する者は已に竭きたり。此の議を建つるに及び、衆翕然として皆以て允当と為し、帝も亦之に楽しく従う。蓋し牧租現存するもの七百万、歳額一百七十万、而して十指揮の費二十五万に過ぎず、故に募人養馬の法と兼行すべし。

原文四年,熙河蘭岷路都總管、提點熙河蘭岷等路漢蕃弓箭手司言,蘭州金城關欲招置步軍保捷四指揮、馬軍蕃落一指揮,從之。詔陝西路添置蕃落軍十指揮,各以五百人為額,於永興軍、河中、鳳翔、同、華州各置兩指揮,並隸住營州軍將下統製訓練,委逐路所屬都總管司選官招人。初,三省、密院欲以牧地募民牧養馬,久而未集,曾布以謂不若增騎兵為簡便。兼土兵乃勁兵,又諸路出戍者已竭,及建此議,眾翕然皆以為允,帝亦樂從之。蓋牧租見存者七百萬,歲額一百七十萬,而十指揮之費二十五萬而已,故可與募人養馬之法兼行也。

徽宗崇寧元年、湖北都鈐轄舒亶が旨を奉じて施・黔州の土丁を召募することを相度し、辰・沅の山徭を討伐致さんとす。毎州七百人を過ぎず。縁るに徭賊深く溪洞に在り、険阻にして正軍を通ぜざる故なり。

原文徽宗崇寧元年,湖北都鈐轄舒亶奉旨相度召募施、黔州土丁,致討辰、沅山徭,每州無過七百人。緣徭賊深在溪洞,險阻不通正軍故也。

三年、京東等路において五万の兵を募集し、馬軍は崇捷・崇銳と称し、歩軍は崇武・崇威と称した。

原文三年,京東等路招軍五萬,馬軍以崇捷、崇銳名,步軍以崇武、崇威名。

四年七月、熙河蘭湟路転運使洪中孚が河東より入朝し、帝は崇威・崇銳の新兵の教練が整ったかと問うた。中孚は言う、「教練は容易な事でございます。臣は知りませんが、藝祖が天下を取られた時の兵と神考が分けられた将兵がかつて減損したことがあるか、もし減損していないなら、増やす必要はないようです。兵は簡練を貴び数を貴ばず、今急に二軍を増やせば、費用は甚だ広大となり、臣は献策者が経費の外に別の措置を講じているのか、あるいはただ朝廷に仰ぐだけなのか知りません」と。帝は愕然として言う、「初め兵を増やすことを議した時、費用は議していなかった。直ちに罷めよ」と。中孚は言う、「惰遊の卒は再び南畝に安んじず、今一旦罷めて遣わせば、強者は集まって盗賊となり、弱者は転徙し、重ねて朝廷の憂いとなります。諸営の欠員を埋めさせ、欠員がなければ、定員外に収容することを許し、一二年で尽きましょう」と。帝は善しとした。九月、詔して言う、「近く指揮を下し、在京・諸路において崇捷・崇武等の指揮十万を募集し、また效忠・蕃落の指揮及び定員内の不足人数を募集したが、急に定員を満たすのは難しいと慮り、先ず崇捷・崇武の十万人を募集せよ。人数が次第に見えてきたら、即ち詳しく申し出て旨を取れ」と。

原文四年七月,熙河蘭湟路轉運使洪中孚自河東入覲,帝問崇威、崇銳新兵教閱就緒否。中孚曰:“教閱易事也。臣不知藝祖取天下之兵與神考所分將兵曾無減損,若未嘗減損,似不須增。蓋兵貴簡練不貴多,今遽增二軍,所費至廣,臣不知獻議者於經費之外別有措置,或隻仰給朝廷也。”帝愕然曰:“初議增兵,未嘗議費,可即罷去。”中孚曰:“惰遊之卒不復安於南畝,今一旦罷遣,強者聚而為盜,弱者轉徙,則重為朝廷憂。不若使填諸營闕;無闕,聽於額外收管,不一二年盡矣。” 帝稱善。九月,詔:“近降指揮,在京、諸路招崇捷、崇武等指揮十萬人,又招效忠、蕃落指揮及額內不足人數,慮卒難敷額,可先招崇捷、崇武十萬人。候人數稍見次第,即具申取旨。”

五年、詔して言う、「諸色の人を強制して軍に投じさせた者は、共に自身及び親属の越訴を許し、既に刺字した者も、共に改正せよ」と。

原文五年,詔:“抑勒諸色人投軍者,並許自身及親屬越訴,其已剌字,仍並改正。”

政和二年、広西都鈐司が奏上して言う、「広西の両将の定員一万三百余人、事故逃亡により、荊湖南北・江南東西に寄せて募集するが、諸路は本職でないため、多くは心を用いない。今兵の欠員は六分に及び、本路・隣路において徒罪並びに杖罪以下の情状重き人を犯した者で、沙門島・広南遠悪の地に配流される者及び強盗凶悪・殺人放火・化外に関わる事を犯し法に依る者を除き、残りは全て決罰・刺字を免じて欠員を埋めさせたい」と。これに従った。

原文政和二年,廣西都鈐司奏:“廣西兩將額一萬三百餘人,事故逃亡,於荊湖南北、江南東西寄招,緣諸路以非本職,多不用心。今兵闕六分,欲乞本路、鄰路有犯徒並杖以下情重之人,除配沙門島、廣南遠惡並犯強盜凶惡、殺人放火、事幹化外並依法外,餘並免決刺填。”從之。

四年、中衛大夫童師敏が言う、「東南州郡は例として廂軍が欠けており、役使がある度に、全てが雇いである。もし諸郡の守臣並びに提刑司に措置させて募集補充させれば、費用を省くことができましょう」と。これに従った。

原文四年,中衛大夫童師敏言:“東南州郡例闕廂軍,凡有役使,並是和雇。若令諸郡守臣並提刑司措置招填,庶可省費。”從之。

宣和元年、高陽関路安撫使呉玠が手詔を奉じて諸路の禁軍欠員を募集補充し、十分を率として、四分以下を募集した場合は磨勘年を順次延長し、七分以上を募集した場合は磨勘年を順次減ずる。高陽関路河間府・滄・覇・恩州・信安軍は募集補充の数が足りたので、推賞を行うことを乞うた。これに従った。

原文宣和元年,高陽關路安撫使吳玠奉手詔招填諸路禁軍闕額,以十分為率,招及四分以下遞展磨勘年,七分以上遞減磨勘年。高陽關路河間府、滄、霸、恩州、信安軍招填數足,乞行推賞。從之。

二年、手詔して言う、「比聞く、諸路州軍が廂軍の河清・壮城等を招き置くに、往々にして怯懦幼小、等様に及ばず、虚しく廩食を費やし、駆使に堪えず。今後は並びに著令に遵って募集補充せよ。もし違背すれば、違制を以て論ずる」と。

原文二年,手詔:“比聞諸路州軍招置廂軍河清、壯城等,往往怯懦幼小,不及等樣,虛費廩食,不堪驅使。今後並仰遵著令招填,如違戾,以違製論。”

四年正月、両浙東路鈐轄司が奏上して言う、「温・処・衢・婺州の元来管轄する不係将禁軍六指揮を、更に招き置いて十指揮に増やし、並びに五百人を定員とし、凡そ五千人とし、全将を成さんことを庶幾す。及び更に台州において不係将禁軍一指揮を招き置き、四百人を定員としたい」と。これに従った。三月、臣僚が言う、「窃かに道路洶洶として相怖れ、諸軍が人を捉えて刺涅し以て欠員を補うと聞く。数人で一壮夫を率い、且つ曳き且つ毆り、百姓は叫呼し、或いは指を齧って免れを求む。先日、金明池で人の大和会があったが、忽ち門を遮って大索し、ただ長身の少年を、牽いて去り、『軍に充てる』と言う。売蔬茹の者をして敢えて城に入らず、行旅市人下って奴隸に逮るまで、皆避け隠れて恐懼し、事は見聞を駭かす。今国家閑暇にして、必ず禁旅を募集補充せんと欲すれば、法令を明示し、金帛を以て賚い、財を百万捐てば、則ち十万人応募すべし。途において人を捉うるは、実に国体を虧き、四方に流聞し、遠邇に伝播し、甚だ未便なり。伏して亟に行い禁止し、以て疑畏を弭がんことを望む」と。時に宝籙宮の道士張継滋が尉氏に往くに因り、亦た刺涅された。事が聞こえ、手詔して提刑司に根治させた。四月、臣僚が因りて言う、「禁軍の欠員を招き刺すに、枢密院が期限を立てるが余りに急で、諸営は止まず、人は大いに駭く。幸いにして踵を旋らさず徳音を以て禁止し、群情悦服す。其れ既に刺涅されて願わざる者は、頗る亦た改正されたが、尚官に経て免れを求めて得ざる者あり。輦轂の地にして此の如し、況んや其の遠きをや。窃かに聞く、小人声勢を仮借し、因縁して奪攘す、所在多く有り、若し或いは哀鳴して脱するを得ても、其の家は已に空し。今往来猶お畏避を懐く。伏して聖明特ちに戒敕を賜い、応に在外招軍の去処に在って、横濱するを得ざらしめんことを望む」と。これに従った。

原文四年正月,兩浙東路鈐轄司奏:“乞將溫、處、衢、婺州元管不係將禁軍六指揮,更招置增為十指揮,並以五百人為額,凡五千人,庶成全將。及更於台州招置不係將禁軍一指揮,以四百人為額。”從之。三月,臣僚言:“竊聞道路洶洶相怖,雲諸軍捉人刺涅以補闕額,率數人驅一壯夫,且曳且毆,百姓叫呼,或齧指求免。日者,金明池人大和會,忽遮門大索,但長身少年,牽之而去,雲‘充軍’。致賣蔬茹者不敢入城,行旅市人下逮奴隸,皆避藏恐懼,事駭見聞。今國家閑暇,必欲招填禁旅,當明示法令,賚以金帛,捐財百萬,則十萬人應募矣。捉人於途,實虧國體,流聞四方,傳播遠邇,殊為未便。伏望亟行禁止,以弭疑畏。”時寶籙宮道士張繼滋因往尉氏,亦被刺涅,事聞,手詔提刑司根治。四月,臣僚因言:“招刺闕額禁軍,樞密院立限太遽,諸營弗戢,人用大駭。幸不旋踵德音禁止,群情悅服。其已被刺涅而非願者,頗亦改正,尚有經官求免而未得者。輦轂若此,況其遠乎?竊聞小人假借聲勢,因緣奪攘,所在多有,若或哀鳴得脫,其家已空。今往來猶懷畏避。伏望聖明特賜戒敕,應在外招軍去處,毋得橫濫。”從之。

七年、掖庭の用度を減じ、侍従官以上の月廩を減じ、諸兼局を罷め、有司は得たる数に拠り撥充して諸路の糴本及び募兵賞軍の用に充てた。

原文七年,減掖庭用度,減侍從官以上月廩,罷諸兼局,有司據所得數撥充諸路糴本及募兵賞軍之用。

欽宗即位し、詔して守令に州県郷村の土豪を隊長として募らせ、各自其の親識郷里を募って以て行かしむ。及び五十人以上には先ず進義副尉を与え、三百人以上には承信郎を与え、文武官で武勇に習う者を統領として募る。行く日、発する所の州軍は器甲を授け、人に半月分の糧を与え、地里遠き者は、至る所の州県が接続して批支す。京畿輔郡兵馬製置使司が言う、「諸路が敢勇效用を召募するに、毎名先ず銭三千を与え、本司に赴き試験して給據した後、銀絹を支散して激賞す。若し監司・知通・令佐並びに応に官有る人で、敢勇效用事藝高強及び二百人以上を召到し得る者は、転一官することを乞い、毎に二百人を加えるごとに此れに依る。或いは監司・郡守・州県官以下で応に軍期事件に縁る者、稍く稽緩する有らば、並びに軍法に依る」と。これに従った。

原文欽宗即位,詔守令募州縣鄉村土豪為隊長,各自募其親識鄉里以行。及五十人以上先與進義副尉,三百人以上與承信郎,募文武官習武勇者為統領。行日,所發州軍授以器甲,人給糧半月,地裏遠者,所至州縣接續批支。京畿輔郡兵馬製置使司言:“諸路召募敢勇效用,每名先給錢三千,赴本司試驗給據訖,支散銀絹激賞。若監司、知通、令佐並應有官人,能召到敢勇效用事藝高強及二百人以上者,乞與轉一官,每加二百人依此。或監司、郡守、州縣官以下應緣軍期事件,稍有稽緩,並依軍法。”從之。

靖康元年春正月、臣僚が言う、「諸路現に人兵を招募するが、逐処の漕計欠乏に縁り、近州の応奉司及び延福宮西城の銭帛に於いて、並びに請用を許し、速やかに辦ぜんことを庶幾す」と。これに従った。又詔して言う、「龍猛・龍騎・帰遠・壮勇諸軍の欠員は、行下して諸路に揀選配填せしむべし」と。又詔して言う、「已に指揮を降し、逐処各々召募した效用敢勇武藝の人数の多寡に等第して推賞す」と。又詔して言う、「賞を希う人の、抑勒強募するを聞く。自今より並びに情願を取れ。敢えて違背する有らば、当に重罰を議すべし。羸弱にして出戦に堪えず及び已に係軍籍する有る者を一例に充募するを得ざれ」と。及び詔して言う、「武挙及第で材武方略有る者、或いは戦功有り・曾て戦陣を経、及び辺任を経た大小使臣で罪を犯した已発未敘を問わず、及び武学に方略智謀有り、及び曾て弓馬所の子弟たり、及び諸色の胆勇敢戦の人を募り、許して親征行営司に赴かしむ」と。又詔して言う、「陝西の土人を兵として募り並びに使臣・效用等を募り姚平仲軍に使喚せしむ。其の応募人は修武郎已上は二十貫、進義副尉以上は十五貫、軍人・百姓は十貫を与え、並びに開封府応管の官銭内より支給す」と。

原文靖康元年春正月,臣僚言:“諸路見招募人兵,緣逐處漕計闕乏,乞於近州應奉司及延福宮西城錢帛,並許請用,庶得速辦。”從之。又詔:“龍猛、龍騎、歸遠、壯勇諸軍闕額,可行下諸路揀選配填。”又詔:“已降指揮,逐處各以召募效用敢勇武藝人數多寡等第推賞。”又詔:“聞希賞之人,抑勒強募。自今並取情願,敢有違戾,當議重罰。毋得將羸弱不堪出戰及已有係軍籍者一例充募。”及詔:“募武舉及第有材武方略,或有戰功、曾經戰陣,及經邊任大小使臣不以罪犯已發未敘,及武學有方略智謀,及曾充弓馬所子弟,及諸色有膽勇敢戰之人,度許赴親征行營司。”又詔:“募陝西土人為兵並使臣、效用等赴姚平仲軍使喚,其應募人修武郎已上二十貫,進義副尉以上十五貫,軍人、百姓十貫,並於開封府應管官錢內支。”

四月、詔して言う、「已に指揮を降して帰朝人を発還し大金軍前に往かしむるに、如し往くを願わざれば、所在に於いて口券を量り給し津遣せよ。元官守有る人は並びに厘務せず、奉給の半を支給す。其れ効力を軍前に願う者は、許して自陳せしめよ」と。

原文四月,詔:“已降指揮發還歸朝人往大金軍前,如不願往,所在量給口券津遣;元有官守人並不厘務,支奉給之半。其願效力軍前者,許自陳。”

五月、河北・河東路宣撫司が奏上した。「河北諸州軍の管轄する正兵は極めて少なく、また陝西の遊手浮浪の惰民で軍に志願する者も多いが、ただ招刺に必要な例物が欠乏しているため、軍の定員が常に不足している。今もし一色の銀絹を与え、例物の犒設・起発に代えて、人を募って義勇とし、右臂にのみ刺字し、禁軍の例物に準じて衣糧料銭を支給すれば、陝西五路で合わせて二万人を得られ、淮・浙等路で得た将兵に比べ、実に使い勝手がよい。」これを聴き入れ、詔して文武官各一名を遣わし、陝西路に赴いて兵二万人を募り、京師に送らせた。そこで趙鼎を特除して開封府曹官とし、種湘を差して宣撫司準備将領とし、ともに陝西路幹当公事を充て、専ら募兵を担当させた。この月、戸部員外郎陳師尹を福建路に遣わして槍杖手を募集させた。都水使者陳求道が言う。「朝廷が官を差して陝西に赴き招軍するが、ちょうど豊作の年に当たり、恐らく容易には招填できないであろう。もし監司に委ねて保甲を募集し、例物を与えて誘い、科差を免じて士気を高めれば、勁兵五万を得られる。」これを聴き入れた。

原文五月,河北、河東路宣撫司奏:“河北諸州軍所管正兵絕少,又陝西遊手惰民願充軍者亦眾,祗緣招刺闕乏例物,是致軍額常闕。今若給一色銀絹,折充例物犒設起發,召募人作義勇,止於右臂上刺字,依禁軍例物支衣糧料錢,陝西五路共可得二萬人,比之淮、浙等路所得將兵,實可使喚。”從之,詔遣文武官各一員前去陝西路募兵二萬人赴闕。遂命趙鼎特除開封府曹官,種湘差宣撫司準備將領,並充陝西路幹當公事,專一募兵。是月,遣戶部員外郎陳師尹往福建路募槍杖手。都水使者陳求道言:“朝廷差官往陝西招軍,適當歲豐,恐未易招填。若就委監司招募保甲,啖以例物,與免科差,以作其氣,可得勁兵五萬。”從之。

六月、枢密都承旨折彦実が奏上した。「西人(西夏)が女真と結託して久しく、どうして関中を窺う志がなかろうか。今、諸路の人馬は皆空しく、万一敵人が長駆すれば、どうして防ぎ止められようか。言うに寒心に堪え、朝廷は深く慮っていないようである。河東・河北の患いは既に形を現しており、人は故に憂える。陝西の患いは未だ起こらず、人は故に軽んじる。もし各路に先ず十万緡を与え、帥臣に土人を募って保護の計を立てさせ、要害を扼することを責め、侵入を許さず、なお朝廷が応分に支給するならば、漕司は時機に乗じて広く蓄積を行い、急務とすべきである。」

原文六月,樞密都承旨折彥實奏:“西人結連女真,為日甚久,豈無覬覦關中之誌?即今諸路人馬皆空,萬一敵人長驅,何以枝梧?言之可為寒心,朝廷似未深慮也。河東、河塑之患已形,人故憂之;陝西之患未作,人故忽之。若每路先與十萬緡,令帥臣招募土人為保護之計,責以控扼,不得放令侵入,仍須朝廷應副。漕司乘時廣行儲蓄,以為急務。”

また開封府尹聶山が奏上した。「招兵は今日の急務である。近頃、京畿諸邑がそれぞれ招刺を行ったが、就募する者がいないため、村民や往来の行人を強制的に捕らえてこれに充てた。そのため里民は奔走して驚き、商旅は通行せず、朝廷の愛民の意に大いに反する。政和令を検討すると、盗賊で再犯し杖刑以上で情状酌量の余地がなく、軍に堪えうる者は、例物を与えて廂軍に刺充する、とある。今、京城内外に盗賊がいるが、皆豪猾の徒で畏れるところがなく、罪を断じられても頑悪で悔い改めない。もし上条に依って廂軍に刺充すれば、強壮の用を得るだけでなく、奸黠の徒を収集して再び盗賊とならなくなる。もしこの請願を許可されれば、内から外まで皆これを見て施行できるであろう。」これを聴き入れた。

原文又開封府尹聶山奏:“招兵者,今日之急務。近緣京畿諸邑例各招刺,至於無人就募,則強捕村民及往來行人為之。遂致裏氓奔駭,商旅不行,殊失朝廷愛民之意。檢準政和令,諸盜再犯杖以上、情理不可決放而堪充軍者,給例物刺充廂軍。今京城裏外間有盜賊,皆是豪猾,無所畏憚,雖經斷罪,頑惡弗悛,若依上條刺充廂軍,不惟得強壯之用,又且收集奸黠不復為盜。如允所請,則自內及外皆可見之施行。”從之。

七月、陝西五路制置使銭蓋が言う。「都水使者陳求道が保甲五万を招刺して軍に充てることを請うた。近頃、陝右の正兵は数が少なく、全て保甲に守禦や運糧などの諸役の差使を頼っているが、それ以外に残る者は僅かである。もしさらに五万を招刺して軍に充てれば、正丁が殆ど全て使役されることになり、選択が難しいだけでなく、民情が驚疑して別の事態を招く恐れがある。州県に命じて保甲に諭し、その情願を取ることを乞う。もし情願する者がいなければ、保甲司に正丁の余数の中から選択させることを乞う。京師に赴く者と合わせて七万とし、用に足りるようにしたい。」これを聴き入れた。この月、銭蓋が奏上した。「陝西で土人を募って軍に充てるが、多くは市井の烏合の衆で、臨敵に堪えられない。今、折彦実が陝西六路に銅錢各十万緡を支給し、毎名に銭十千を添えれば、自ら精選して少壮で等杖に達する者を得られ、正軍一万、六路合わせて六万人を得られる。」これを聴き入れた。

原文七月,陝西五路製置使錢蓋言:“都水使者陳求道請招刺保甲五萬充軍。緣比來陝右正兵數少,全籍保甲守禦,及運糧諸役差使外,所餘無幾,若更招刺五萬充軍,則是正丁占使殆遍,不唯難以選擇,兼慮民情驚疑,別致生事。欲乞令州縣曉諭保甲,取其情願;如未有情願之人,即乞令保甲司於正丁餘數內選擇。通赴闕人共成七萬,可以足用。” 從之。是月,錢蓋奏:“陝西募土人充軍,多是市井烏合,不堪臨敵。今折彥實支陝西六路銅錢各十萬緡,每名添錢十千,自可精擇少壯及等杖人,可得正軍一萬,六路共得六萬人。”從之。

十月、枢密院が奏上した。「材武勇鋭及び胆勇の人並びに射猟・射生戸を召募する。」これを聴き入れた。また奏上した。「福建路には忠義武勇で功を立て自ら効力を尽くし官職を得ようとする者がおり、理に召募すべきである。保甲・正兵を除き、弓手・百姓・僧行・有罪の軍人を全て応募に聴す。もし武芸高強で実に胆勇があり、衆に推服され、応募して部領人となろうとする者がいれば、各項の名目に従って権摂部領とし、各々募った人数に応じて官資を借補させる。」これを聴き入れた。

原文十月,樞密院奏:“召募有材武勇銳及膽勇人並射獵射生戶。”從之。又奏:“福建路有忠義武勇立功自效取仕之人,理宜召募,除保甲正兵外,弓手、百姓、僧行、有罪軍人並聽應募。如有武藝高強、實有膽勇、眾所推服、願應募為部領人者,依逐項名目權攝部領,各以所募人數借補官資。”從之。

十一月、京城四壁合わせて十万人、黄人黄旗が市に満ちた。当時、応募する者は多くが傭丐であり、全く闘志がなかった。閏十一月、何〓が王健を用いて奇兵を募ったが、瓢箪を持って物乞いする者までも皆応募し、倉卒のうちに紀律が整わなかった。奇兵が乱を起こし、王健を殴打し、使臣数十人を殺害し、内前は大いに騒擾した。王宗濋が渠魁数人を斬り、ようやく鎮定した。出戦すると、鉄騎に衝かれ、風を見て奔潰し、殲滅された。

原文十一月,京城四壁共十萬人,黃人黃旗滿市。時應募者多庸匄,殊無鬥誌。閏十一月,何〓用王健募奇兵,雖操瓢行乞之人,亦皆應募,倉卒未就紀律。奇兵亂,毆王健,殺使臣數十人,內前大擾。王宗濋斬渠魁數人,乃定。及出戰,為鐵騎所衝,望風奔潰,殲焉。

十二月、詔した。「諸軍が蕃装を詐り、財物を焚劫した者は、十日を限りに贓物を持参して自首すれば、罪を免ずる。」なお潰兵を召募して収管し、口食を与えた。

原文十二月,詔:“諸軍詐效蕃裝,焚劫財物,限十日齎贓自首,與免罪。”仍召募潰兵收管。給口食焉。

逃亡の法は、国初以来それぞれ増損があった。熙寧五年に詔し、禁軍で俸銭が五百に至り逃亡して満七日となる者は斬刑とした。旧制では三日で死罪であった。初め、執政が法改正を議し、満十日を請うた。帝が言う。「臨陣で逃亡し、十日を過ぎて自首すれば、奸を長じるのではないか。」王安石が言う。「臨陣で逃亡する者は、法は日数を計らず、即ち斬刑に入る。今、軍興の所で逃亡して満三日となる者を立て、対寇賊律に論ずべきであろうか。」枢密使蔡挺が、辺境で逃亡して満三日となる者は斬刑を請うた。王安石が言う。「辺境には軍興の所でない場所もあり、一概に重刑に処すことはできない。本来、重法を立てるのは、寇賊を避けること及び軍興を禁ずるためである。」帝が言う。「その通りである。」文彦博が固く言う。「軍法は臣等が総領すべきであり、軽々しく改めるべきではない。前代のように兵を削減すれば変乱が生じた。」王安石が言う。「前代の杜元穎らが兵を削減したのは、その措置が失当であったのであって、兵を削減できないわけではない。また蕭俛の時代には、天下の兵が極めて多く、民力が支えきれず、どうして減らさないでいられようか。ちょうど幽州が朱克融らを京師に送り、克融を幽州に戻して衆を煽り乱を起こさせないよう請うたのに、朝廷は克融らを京師に漂泊させ、久しく任用せず、再び北に帰らせた。克融が再び乱を起こしたのは、どうして兵削減の事に関わるのか。」彦博が言う。「国初、禁軍が逃亡して満一日となる者は斬刑であった。仁宗が満三日に改めたが、当時の議者は既に軍法を損なうことを憂えた。」王安石が言う。「仁宗が法を改めて以来、人命を救った者は極めて多い。しかし軍人の逃亡は、旧法に比べて増えたとは聞かない。仁宗の法改正は不善ではなかった。」帝は遂に詔して七日に増やした。

原文逃亡之法,國初以來各有增損。熙寧五年詔,禁軍奉錢至五百而亡滿七日者,斬。舊制,三日者死。初,執政議更法,請滿十日。帝曰:“臨陣而亡,過十日而首,得不長奸乎。”安石曰:“臨陣而亡,法不計日,即入斬刑。今當立在軍興所亡滿三日,論如對寇賊律?”樞密使蔡挺請沿邊而亡滿三日者斬。安石曰:“沿邊有非軍興之所,不可一概坐以重刑。本立重法,以禁避寇賊及軍興而已。”帝曰:“然。”文彥博固言:“軍法臣等所當總領,不宜輕改,如前代銷兵乃生變。”安石曰:“前代如杜元穎等銷兵,乃其措置失當,非兵不可銷也。且當蕭俛時,天下兵至多,民力不給,安得不減?方幽州以朱克融等送京師,請毋遣克融還幽州煽眾為亂,而朝廷乃令克融等飄泊京師,久之不調,復遣歸北。克融所以復亂,亦何預銷兵事?”彥博曰:“國初,禁軍逃亡滿一日者斬。仁宗改滿三日,當時議者已慮壞軍法。”安石曰:“仁宗改法以來,活人命至多,然於軍人逃亡,比舊不聞加多,仁宗改法不為不善。”帝乃詔增為七日。

元豊元年、鄂州知州王韶が言う。「今後、逃亡した配軍が盗賊となった場合、捕斬を聴し、賞銭を与えることを乞う。」詔して条に坐し韶に照会を下す。「もし犯した情状が重く、死罪に至らない場合は、奏聞して裁断を仰ぐ。」

原文元豐元年,知鄂州王韶言:“乞自今逃亡配軍為盜,聽捕斬,賞錢。”詔坐條劄韶照會:“如所犯情重,罪不至死,奏裁。”

三年六月、詔した。「軍士・民兵が逃亡して随軍で効用する者で、もし自首して捕獲された場合は、全て械送して所属に送り、法に論ずる。たとえ戦功を立てても賞せず、なお功をもって過ちを贖うことを許さない。随軍に榜諭せよ。」

原文三年六月,詔:“軍士、民兵逃亡隨軍效用,若首獲,並械送所屬,論如法。雖立戰功不賞,仍不許以功贖過。令隨軍榜諭。”

四年、沈括に詔した。「奏上によれば、軍前の士卒が逃亡し、路上で潰散しているが、本意ではなく、急いで招安すべきである。卿は速やかに朝旨を具して榜を出し、『戦士はただ飢寒に耐えられず、家に逃げ帰ったに過ぎないと聞く。各々所在の城砦に赴き、一時的に器甲を納め、糧食の給与を請い、所属に帰ることを聴す』とせよ。順次、招撫した数を具して奏聞せよ。」

原文四年,詔沈括:“奏以軍前士卒逃亡,潰散在路,本非得已,須當急且招安。卿可速具朝旨出榜,雲聞戰士止是不禁饑寒,逃歸其家,可各隨所在城砦權送納器甲,請給糧食,聽歸所屬。節次具招撫數以聞。”

崇寧四年九月、枢密院が言う。「熙河都総管司には旧来兵籍がなく、諸将に各々籍を置かせ、毎日に開収の有無を具し、旬ごとに元額・見管及び逃亡事故の細目を具し、総管司に申し上げさせ、本司は都簿に貼り出し、機宜一員に逐時抽摘点検を委せたい。」これを聴き入れた。

原文崇寧四年九月,樞密院言:“熙河都總管司舊無兵籍,乞令諸將各置籍,日具有無開收,旬具元額、見管及逃亡事故細目,申總管司,本司揭貼都簿,委機宜一員逐時抽摘點檢。”從之。

十月、尚書省が言うには、「今、所在の逃軍が聚集し、千数を以て至り、小は則ち郷邑を驚動し、大は則ち公然と劫盗を為す。累次指揮を降し、首身を許し、或いは投換を令すも、終に革絶せず。昔、神宗は将兵を知らず、兵将を知らざるを以て、故に兵を分けて将を領せしむ。統兵官司は、凡そ兵の事統べざる無く、則ち其の逃亡走死、豈に其の責を任せざるを得んや。将敕と見行敕令を検会するに、皆未だ将官と人員の任責の法有らず、致令来兵将に存恤を加えず、其の身を労役し、逃避に至り、而して職を任ずるの人悉く罪を加えず。近日、熙河一路の逃者は幾四萬、将副坐視して禁ぜず、人員将校故に縦して問わず、至って逃亡軍人の所在皆に有り。蓋し自來立法未だ詳ならず、兼ねて軍中の長行節級人員、将校、什長相統き、同営相依い、上下相製す、豈に其の逃亡漫に省察せざるを致さんや。況んや招軍既に賞格を立てば、則ち逃走安んぞ禁無からんや。今参詳して賞罰十数条を修立す」と。並びに之に従う。

原文十月,尚書省言:“今所在逃軍聚集,至以千數,小則驚動鄉邑,大則公為劫盜。累降指揮,許以首身,或令投換,終未革絕。昔神宗以將不知兵,兵不知將,故分兵領將。統兵官司,凡兵之事無所不統,則其逃亡走死,豈得不任其責?檢會將敕與見行敕令,皆未有將官與人員任責之法,致令來兵將不加存恤,勞役其身,至於逃避,而任職之人悉不加罪。近日熙河一路逃者幾四萬,將副坐視而不禁,人員將校故縱而不問,至逃亡軍人所在皆有。蓋自來立法未詳,兼軍中長行節級人員,將校,什長相統,同營相依,上下相製,豈得致其逃亡漫不省察?況招軍既立賞格,則逃走安可無禁?今參詳修立賞罰十數條。”並從之。

五年、枢密院童貫の言う所を備える、「陝西等処に官を差して逃亡軍人を招諭し、並びに所在の首身を許し、更に会問せず、便ち口券を支えて本営に帰らしむ。辺上の軍人は戍守の労を憚り、往々内郡に逃竄して首身し、遂に口券を得て営に帰る。相習い風と成り、軍政に害有らんことを恐る。乞う、自今応に軍人首身し、並びに須らく逃亡赦限を会問し、今来の招諭指揮に依らしむべし。若し赦後逃亡に係らば、即ち条に依り施行するを乞う」と。之に従う。

原文五年,樞密院備童貫所言:“陝西等處差官招諭逃亡軍人,並許所在首身,更不會問,便支口券令歸本營。邊上軍人憚於戍守之勞,往往逃竄於內郡首身,遂得口券歸營,恐相習成風,有害軍政。乞自今應軍人首身,並須會問逃亡赦限,依今來招諭指揮:若係赦後逃亡,即乞依條施行。”從之。

大観三年、枢密院臣僚の言を備える云う、「陝西路提点刑獄呉安憲始めて逃亡廂禁軍を招誘するの法を陳じ、乃ち投換改刺を令するを許すの令を著す。此より諸弊浸く生じ、軍律肅ならず。朝廷其の弊を洞見し、已に厳に立法す、然れども尚ほ冒名一節有り、其の弊未だ除かず。請う、主兵官旧に曾て書札・作匠・雑技・手業の徒を占使し、或いは統轄軍員と素に嫌忌有り、意此を捨てて彼に就かんと欲し、或いは所部逃亡数多く、譴責を避けんと欲し、輒ち逃軍を将て逃亡の名を承け便ち請給と為すが如くせんことを。既に譴責を避け、又請受を冒し、上下相蒙り、之を能く革せず、致令軍士多に擅去の心を懐く者は、良に擅住の地を得易きを以てなり。若し重賞を加え、厳刑を申さば、庶く斯の弊を革し、成法に裨益有らん」と。之に従う。

原文大觀三年,樞密院備臣僚言云:“自陝西路提點刑獄吳安憲始陳招誘逃亡廂禁軍之法,乃著許令投換改刺之令。自此諸弊浸生,軍律不肅。朝廷洞見其弊,已嚴立法,然尚有冒名一節,其弊未除。請如主兵官舊曾占使書劄、作匠、雜技、手業之徒,或與統轄軍員素有嫌忌、意欲舍此而就彼,或所部逃亡數多,欲避譴責,輒將逃軍承逃亡之名便與請給。既避譴責,又冒請受,上下相蒙,莫之能革,致使軍士多懷擅去之心者,良以易得擅住之地也。若加重賞,申以嚴刑,庶革斯弊,有裨成法。”從之。

四年、枢密院言う、「諸路及び京畿逃亡軍数居多し、赦敕を以て限を立て首を許すと雖も、終に畏避を懐く。若し諸路に専ら知州・通判或いは職官一員を委ね、京畿に知県を委ね、若し招誘累ねて三百人以上に及べば、一年磨勘を減じ、五百人以上一年半、千人以上は旨を取って推恩す、理に於いて便なり」と。

原文四年,樞密院言:“諸路及京畿逃亡軍數居多,雖赦敕立限許首,終懷畏避。若諸路專委知州、通判或職官一員,京畿委知縣,若招誘累及三百人以上,與減一年磨勘,五百人以上一年半,千人以上取旨推恩,於理為便。”

政和二年、臣僚言う、「祖宗軍政大いに備わり、議すべき無し。比多く逃亡者有るは、縁る所の推行未だ至らず、及び主兵司官遵奉未だ厳ならざる故なり。其の弊六有り。一に曰く上下率斂、二に曰く挙放営債、三に曰く聚集賭博、四に曰く差使不均、五に曰く防送過遠、六に曰く単身無火聚。此の如く是れ条禁具わるも、而して犯者極めて多し。乞う下して有司に推究せしめ、兵将官歳終に定むる賞罰条格外、諸路提刑司に詔し、毎歳終に本路州軍の将に係らざる禁軍見管及び逃亡人数を将て、参互比較し、最多最少の処各一州の知・通職位姓名を具し、枢密院に申さしむ」と。之に従う。

原文政和二年,臣僚言:“祖宗軍政大備,無可議者。比多逃亡者,緣所在推行未至,及主兵司官遵奉未嚴故也。其弊有六:一曰上下率斂,二曰舉放營債,三曰聚集賭博,四曰差使不均,五曰防送過遠,六曰單身無火聚。似此雖具有條禁,而犯者極多。欲乞下有司推究,除兵將官歲終立定賞罰條格外,詔諸路提刑司,每歲終將本路州軍不係將禁軍見管及逃亡人數,參互比較,具最多最少處各一州知、通職位姓名,申樞密院。”從之。

三年十一月、開封少尹陳彦修言う、「諸廂寒凍赤露を収め到る者共五千七百余人、其の間逃軍数多し、行うに措置を合す。今欲く押送逃軍格に依り、毎二十人各使臣一員を差し係押送人に付与し、各穩便の官屋を踏逐して安泊し、居養法に依り錢米を關請して存養し、晴和を候い、管押して前去せしむ。所有の沿路支破口券は、並びに本府押送逃軍法に依り、合破口券等の外に請う、更に量り盤纏を支はんことを」と。詔す、「每人に盤纏錢三百、衲襖一領を支はし、二月晴暖を候いて即ち行発遣す」と。

原文三年十一月,開封少尹陳彥修言:“諸廂收到寒凍赤露共五千七百餘人,其間逃軍數多,合行措置。今欲依押送逃軍格,每二十人各差使臣一員付與係押送人,各踏逐穩便官屋安泊,依居養法關請錢米存養,候晴和,管押前去。所有沿路支破口券,並依本府押送逃軍法,請於合破口券等外,更量支盤纏。”詔:“每人支盤纏錢三百,衲襖一領,候二月晴暖即行發遣。”

四年、尚書省令を著す、「諸禁軍差發出戍未だ軍前に到らず、或いは已に到りて而して代わり去ること半年以上、逃亡首獲す、恩を会すと雖も、捕獲法の如く配す。上軍首身或いは捕獲、恩を会し、七日內法に依り配す。下軍本名応に配すべき者は、千里に配す。若し本管輒ち停留せば、同罪とし、該赦と雖も仍ほ配法に依る」と。之に従う。

原文四年,尚書省著令:“諸禁軍差發出戍未到軍前,或已到而代去半年以上,逃亡首獲,雖會恩,配如捕獲法;上軍首身或捕獲,會恩,配依七日內法;下軍本名應配者,配千里。若本管輒停留,與同罪,雖該赦仍依配法。”從之。

五年、錢監兵匠逃走刺手背法を立つ。

原文五年,立錢監兵匠逃走刺手背法。

宣和二年、手詔す、「逃卒頗る多し、仰せ宣撫司措置を以て聞かしむ」と。童貫言う、「凡そ逃卒、冬祀大赦已に百日首身免罪の文有り、縁り内に元犯首身と雖も、常法に於いて尚ほ移降移配に合する者有れば、即ち未だ官に赴き自陳するを敢えず。乞う在京並びに京畿・京西・陝西・河東路逃軍、自今指揮到る日の、未だ赦限を満たさざるを通じて共に一百日、許して首身免罪せしめ、旧に軍分職次に依り収管せしむ。仍ほ本司本営の問儅を免じ、及び官逋を放免す。若し本犯冬祀赦後を経て、猶ほ移降移配有らば、特と原免せしむ。若し限満て首せざれば、則ち常法に依り科罪す。凡そ逃軍在京住営に係り、限に依り在京に於いて首身する者は、隷する所の軍司に令して当日本営に押赴せしむ。若し見出戍する者は、即ち口券を破り転じて本路駐泊州軍に押赴せしめ、並びに前項指揮に依り免罪し、旧に依り収管せしむ。凡そ逃軍外に在り、限に依り首身する者は、並びに所在に於いて日米二升を破り、其の県・鎮・砦並びに限り当日本州軍に解し、毎二十人一番と作し、職員を差して管押し、仍ほ沿路口食を給破し、前路州軍に交付し、転送住営の去処にせしむ。若し見出戍すれば、即ち駐泊州軍に転じて収管せしむ。凡そ首身軍人は、並びに他軍に投換するを許さず。凡そ所在の当職官、若し限内に用心して逃軍を招收し、措置転送住営或いは出戍処に収管し、満つるを候い、外に提刑司を委ね、在京に開封府を委ねて営・出戍処の公文を取索到り、人数を験し、最優なる者を宣撫司に申して旨を取って推恩せしむ」と。並びに之に従う。

原文宣和二年,手詔:“逃卒頗多,仰宣撫司措置以聞。”童貫言:“凡逃卒,冬祀大赦已有百日首身免罪之文,緣內有元犯雖首身,於常法尚合移降移配者,即未敢赴官自陳。欲乞在京並京畿、京西、陝西、河東路逃軍,自今指揮到日,通未滿赦限共一百日,許令首身免罪,依舊軍分職次收管。仍免本司本營問儅,及放免官逋。如本犯經冬祀赦後,猶有移降移配,特與原免。若限滿不首,則依常法科罪。凡逃軍係在京住營,依限於在京首身者,令所隸軍司當日押赴本營。若見出戍者,即破口券轉押赴本路駐泊州軍,並依前項指揮免罪,依舊收管。凡逃軍在外,依限首身者,並於所在日破米二升,其縣、鎮、砦並限當日解本州軍,每二十人作一番,差職員管押,仍沿路給破口食,交付前路州軍,轉送住營去處。如見出戍,即轉駐泊州軍收管。凡首身軍人,並不許投換他軍。凡所在當職官,如能於限內用心招收逃軍,措置轉送住營或出戍處收管,候滿,在外委提刑司,在京委開封府取索到營、出戍處公文,驗人數,最優者申宣撫司取旨推恩。”並從之。

三年、詔す、「江・浙軍前等処応に逃竄軍兵は、並びに特と罪を放ち、本将の見出軍路分州県に於いて首身するを許し、旧に依り給請し、随処権に行い収管せしむ。若し他処に走往し、或いは住営の去処に於いて首獲せば、即ち所在官司に令して逐旋発遣し本将に赴き応副使喚せしむ。仍ほ逐路安撫・鈐轄・提刑司に委ねて覚察せしめ、若し所在輒ち敢えて隠芘し、或いは逐司行わず覚察せざれば、並びに違製を論ず」と。

原文三年,詔:“江、浙軍前等處應逃竄軍兵,並特放罪,許於本將見出軍路分州縣首身,依舊給請,隨處權行收管。若走往他處,或於住營去處首獲,即令所在官司逐旋發遣赴本將應副使喚。仍委逐路安撫、鈐轄、提刑司覺察,如所在輒敢隱芘,或逐司不行覺察,並論違製。”

四年、臣僚言う、「中外士卒故無く逃亡し、所在之れ有り。祖宗軍を治むる紀律甚だ厳しく、若し戍する者家に還り、役すべき者事を避くれば、必ず轅門の戮有り。今既に其の罪を宥し、且つ投換を許し、什伍の長に製せられず。既に赦限を立て、又特に日を展べ、以て其の自首の期を寬うす。臣恐らくは逃亡計を得、其の弊益々滋さんことを。乞う恩赦の外軽々しく限を与えず、限の常と為す可からざるを知らしめ、庶く畏懼有らしむ」と。之に従う。

原文四年,臣僚言:“中外士卒無故逃亡,所在有之。祖宗治軍紀律甚嚴,若在戍者還家,當役者避事,必有轅門之戮。今既宥其罪,且許投換,不製於什伍之長;既立赦限,又特展日,以寬其自首之期。臣恐逃亡得計,其弊益滋。乞除恩赦外不輕與限,使知限之不可為常,庶有畏懼。”從之。

五年、臣僚が言うには、「今、諸軍の逃亡者を実情のままに上聞せず。諸処において名を冒して給与を請い、選閲や差役に至っては巧みに占拠・破損し、甚だ已むを得ざるに至れば、逃亡者を雇募して名数を充たし、直ちに遁走して再び実用に供さず。平時において供給に難く、緩急に応用するものなし。而して奸人がその間に腕を捲り、坐して財賦を費やす。開収勘斂を開くも、法制は益々詳しくなるも、共利の人は一体として傅会す。望むらくは処分を賜い、先ず当職官に実数を核見せしめ、保明して転運司に申達し、期日を定めて諸郡の守貳に点閲を委ね、仍って掌兵官司に関会して行下せしめよ。州に勾押し難き者は、官を差して就閲し、期を同日に定めて的実を究見せしめよ。稍でも欺罔に渉る者は、根治して赦さず。監司使者は郡を分けて覆実し、数を具して朝に申達し、以て官を差して分按を待ち、必ず罪賞を行い、官に虚費無くして軍に実用有らしめよ。然らば紀律明らかにして国用省かるべし」と。詔して枢密院に送り条画措置せしむ。

原文五年,臣僚言:“今諸軍逃亡者不以實聞。諸處冒名請給,至於揀閱差役,則巧為占破,甚不獲已,則雇募逋逃以充名數,旋即遁去,無復實用。平居難於供億,緩急無以應用。而奸人攘臂其間,坐費財賦。雖開收勘斂,法製滋詳,而共利之人,一體傅會。望賜處分,先令當職官核見實數,保明申達轉運司,期日委諸郡守貳點閱,仍關掌兵官司照會行下;不可勾押至州者,差官就閱,期以同日究見的實。稍涉欺罔,根治不赦。監司使者分郡覆實,具數申達於朝,以待差官分按,必行罪賞,使官無虛費,而軍有實用,則紀律可明,國用可省。”詔送樞密院條畫措置。

七年二月、尚書省言うには、「開封府の状に『在京において盗を犯し配流降出して外に出たる者が、復た京に入り投換するを乞う者は、人をして告捕せしめ、逃亡捕獲の罪に科し、情状に酌み増配すべし。其の官司及び本営の典首人員・曹級が容庇収留するは、各杖一百とす。因って盗を為すに致るは、差使配軍の京に入り作過する法に依り、犯人と同罪とす。罪は徒二年に止まり、去官赦原減に以てせず。及び在京において犯罪し編管出外して逃亡し京に入る者は、断罪増加地裏の条法有りと雖も、縁りに止だ是れ募告の賞格太だ軽きを以て、是れ致して往々復た京に走入す。元の犯杖罪は賞銭十貫、徒罪は二十貫、流罪は三十貫を乞い、並びに犯事人の家財を以て充つ』と乞う」と。之に従う。

原文七年二月,尚書省言:“開封府狀:‘乞應在京犯盜配降出外之人,復走入京投換者,許人告捕,科以逃亡捕獲之罪,酌情增配。其官司及本營典首人員、曹級容庇收留,各杖一百;因致為盜者,依差使配軍入京作過法,與犯人同罪。罪止徒二年,不以去官赦原減。及在京犯罪編管出外逃亡入京之人,雖有斷罪增加地裏條法,緣止是募告賞格太輕,是致往往復走入京。欲乞元犯杖罪賞錢十貫,徒罪二十貫,流罪三十貫,並以犯事人家財充。’”從之。

十二月、詔す、「諸路の逃竄軍人にして已に該赦恩を蒙り出首免罪せしめ、却って出戍の去処に帰り再び逃竄する者は、所在の去処に於いて首身せしめ、並びに特と罪を免じ、一般の軍分に安排し、請給を支破し、軍前に発遣して使喚せしむべし」と。

原文十二月,詔:“應諸路逃竄軍人或已該赦恩出首避免,卻歸出戍去處再行逃竄之人,令於所在去處首身,並特與免罪,於一般軍分安排,支破請給,發赴軍前使喚。”

靖康元年三月、詔す、「行宮に随従する禁衛軍兵等に逃亡する者有らば、並びに法に依り施行すべし」と。五月、臣僚言う、「泗州は頃に勤王の師を遣わし、管押者統制を善くせず、類多く遁帰す。既にして法を畏れて敢えて出でず、本州遂に閣を開き請受す。外に在りて以て給養すべからず、窃かに慮るに因って聚まり盗を為すを、恐らくは他州も亦多く此の如きあらん。乞うらくは勅して応に勤王兵に遁帰已に赦宥を経る者を、並びに首身せしめよ」と。之に従う。

原文靖康元年三月,詔:“隨從行宮禁衛軍兵等有逃亡者,並依法施行。”五月,臣僚言:“泗州頃遣勤王之師,管押者不善統製,類多遁歸,既而畏法不敢出,本州遂開閣請受。在外無以給養,竊慮因聚為盜,恐他州亦多如此。乞敕應勤王兵有遁歸已經赦宥者,並令首身。”從之。

六月、詔す、「応に河東に潰散する諸路の将佐は、並びに仰せて逐路の帥守に発遣せしめ、河東・河北制置司に赴き、以て功を以て過を贖わしむべし」と。河北路制置司都統制王淵言う、「旨を被り差充して種師道等の下の潰散人馬を招集し、太原に応援す。限満して首せざれば、即ち家属を寄禁し、人をして収捕して軍前に赴かしめ、重ねて処置すべし」と。之に従う。仍って指揮到るの日より、限を十日とす。河北路制使劉韐奏す、「近く制置使種師中軍を領して榆次に到り、利を失い潰散し、師中存否を知らず。旨を奉るに、師中の下応統制・将佐・使臣等は、並びに放罪とす。臣按ずるに、兵を用いて主将を失えば、統制・将佐並びに行って軍法に合す。軍法行なわれれば、則ち人以て主将を重しとし、緩急必ず須らく護救す。若し軍法を行わざれば、緩急の際争いて先んじて逃遁し、主将を路人の如く視て、略顧み恤わず。近年以来、高永年陷没し、一行の将佐及び中軍将・提轄等未だ嘗て軍法を以て罪せず。継いて劉法陷没し、今種師中又た王事に死す。若し両軍相い遇い、勢力加わらず、血戦して敗れ、或いは主将を失うも、亦た言うべき無し。榆次の戦、頃刻にして潰え、統制・将佐・使臣走る者十に已に八九、軍士中傷する者十に一二無く、独り師中出でず。若し師中撫禦少恩、紀律不嚴と謂うも、其の命を受けて即ち行き、奮いて身を顧みず、初め右軍戦卻するを聞き、即ち応援を遣わす。比の時諸将已に在る者無し。賊兵営を犯すに至り、師中未だ肯て馬に上らざりき。師中に偷生の心有らしめば、敗を聞きて即ち行かば、亦た必ず出で得べし。一時の将佐若し能く戮力相い救わば、或いは敵を破り得べし。今一軍纔に卻き、諸将主帥有らず、相継いで遁る。其の初め猶お懼色有りしも、既に放罪を聞き、遂に皆釈然たり。朝廷太原の囲未だ解けざるを以て、未だ窮治せんと欲せず。今師旅方に興り、深く懲艾する所無からんことを恐る。敵に遇えば必ず命を用いざらん。乞うらくは指揮し、応に種師中の下の統制・将佐は並びに聖旨の処分に依り、仍って軍前に自効せしめよ。若し命を用いて功を立てば、前罪を免ず。今後戦功を立てずんば、該恩赦と雖も叙復を得ず。仍って乞うらくは優詔を以て師中を褒贈し、以て忠義の勧めと為せ」と。詔す、「種師中の下の統制・将佐は並びに五官を降し、仍って職位・姓名を開具して尚書省に申すべし。余は劉韐の奏する所に依る」と。

原文六月,詔:“應河東潰散諸路將佐,並仰逐路帥守發遣赴河東、河北製置司,以功贖過。”河北路製置司都統製王淵言:“被旨差充招集種師道等下潰散人馬,應援太原,限滿不首,即寄禁家屬,許人收捕赴軍前,重行處置。”從之。仍自指揮到日,限以十日。河北路製使劉韐奏:“近製置使種師中領軍到於榆次,失利潰散,師中不知存在。奉旨,師中下應統製、將佐、使臣等,並與放罪。臣按:用兵失主將,統製、將佐並合行軍法。軍法行,則人以主將為重,緩急必須護救。若不行軍法,緩急之際爭先逃遁,視主將如路人,略不顧恤。近年以來,高永年陷歿,一行將佐及中軍將、提轄等未嘗罪以軍法,繼而劉法陷歿,今種師中又死王事。若兩軍相遇,勢力不加,血戰而敗,或失主將,亦無可言。榆次之戰,頃刻而潰,統製、將佐、使臣走者十已八九,軍士中傷十無一二,獨師中不出。若謂師中撫禦少恩,紀律不嚴,而其受命即行,奮不顧身,初聞右軍戰卻,即遣應援,比時諸將已無在者。至賊兵犯營,師中猶未肯上馬。使師中有偷生之心,聞敗即行,亦必得出。一時將佐若能戮力相救,或可破敵。今一軍才卻,諸將不有主帥,相繼而遁。其初猶有懼色,既聞放罪,遂皆釋然。朝廷以太原之圍未解,未欲窮治。今師旅方興,深恐無所懲艾,遇敵必不用命。欲乞指揮,應種師中下統製、將佐並依聖旨處分,仍令軍前自效。如能用命立功。與免前罪;今後非立戰功,雖該恩赦不得敘復。仍乞優詔褒贈師中,以為忠義之勸。”詔:“種師中下統製、將佐並降五官,仍開具職位、姓名申尚書省,餘依劉韐所奏。”

八月、河北・河東路宣撫司奏す、「近く都統制王淵の潰敗使臣を捉獲するに据る。已に管押して宣撫副使劉韐の軍前に赴き交割し、軍法に依り施行する外、訪い聞くに尚ほ未だ出首せざる将佐・使臣有り」と。詔す、「限を今の指揮到るの日より更に展限十日とし、許して所在の州軍に出首せしめ、仍って元降の指揮に依り免罪し、特と遞馬驛券を支破し、疾速に軍前に発赴して自効せしめ、功を立てる日を候って優加推賞すべし。若し再限満日の更に首身せざれば、当に職名を見取り重賞を以て購捕し、定めて軍法を行なうべし。仍って多く榜示を出して諭すべし」と。

原文八月,河北、河東路宣撫司奏:“近據都統製王淵捉獲潰敗使臣,已管押赴宣撫副使劉韐軍前交割,依軍法施行外,訪聞尚有未曾出首將佐、使臣。”詔:“限今指揮到日更與展限十日,許令於所在州軍出首,仍依元降指揮免罪,特與支破遞馬驛券,疾速發赴軍前自效,候立功日優加推賞。如再限滿日更不首身,當取見職名重賞購捕,定行軍法。仍多出榜示諭。”

二年四月、詔す、「訪い聞くに諸処の潰散軍人嘯聚して作過し、百姓を強いて刺して軍に充て、驅虜して随行せしめ使喚し、敵に遇えば前に使いて、枉しく良民を害す。其れ令して有司に榜諭せしめよ。虜われ強刺せられたる人は許して自陳せしめ、拠りを給い各々帰業せしむべし。願いて軍に充たらん者は、等杖に随い刺填して禁軍・廂軍とし、条に依り例物を支給すべし」と。又た詔す、「昨逃亡の班直・諸軍は、已に指揮を降し撫諭し、並びに罪を免じ、元の処に帰発すと雖も、其の管押兵官は未だ指揮無し。指揮の到るを候い、許して所在の官司に自陳せしめ、亦た罪を免ずべし」と。

原文二年四月,詔:“訪聞諸處潰散軍人嘯聚作過,將百姓強刺充軍,驅虜隨行使喚,遇敵使前,害枉良民。其令有司榜諭:被虜強刺之人許以自陳,給據各令歸業。願充軍者,隨等杖刺填禁、廂軍,依條支給例物。”又詔:“昨逃亡班直、諸軍,雖已降指揮撫諭,並與免罪,發歸元處。其管押兵官未有指揮,可候指揮到,許於所在官司自陳,亦與免罪。”

建炎初年、招募多くは西北の人なり。其の後諸路の州・軍・砦或いは三衙に招募し、或いは三衙軍中の子弟を選刺し、或いは諸郡より中軍子弟を選刺し解発す。復た詔して滄・濱及び江・淮沿流の州軍に、善く水に没し経時伏藏する者を募り、五千を以て額とす。神武右軍統制張俊言う、「牙軍多くは烏合の衆を招集す。擬して上等は勝捷に改刺し、次等は振華・振武に刺し、庶幾くは部分帰一して訓練便ならん」と。詔して両浙・江東、江陰軍を除き、各々水軍二百人を募らしむ。

原文建炎初,招募多西北之人,其後令諸路州、軍、砦或三衙招募,或選刺三衙軍中子弟,或從諸郡選刺中軍子弟解發。復詔滄、濱及江、淮沿流州軍,募善沒水經時伏藏者,以五千為額。神武右軍統製張俊言:“牙軍多招集烏合之眾,擬上等改刺勝捷,次等刺振華、振武,庶得部分歸一訓練為便。”詔兩浙、江東,除江陰軍,各募水軍二百人。

紹興元年、広東帥臣言う、「本路の将兵元五千二百、見在千三百十九。今将官の駐紮する諸軍及び本路州軍を擬し、十分を率とし、各々其の半を招かん」と。

原文紹興元年,廣東帥臣言:“本路將兵元五千二百,見千三百十九。今擬將官駐紮諸軍洎本路州軍,以十分為率,各招其半。”

二年、累たび令を降し行在の諸軍に、互いに招收する毋く、及び別軍の人を拘執する毋からしめ、違う者は軍法を行なう。

原文二年,累降令行在諸軍,毋互相招收,及將別軍人拘執,違者行軍法。

四年、詔す、「招く所の河北人は河北振武に充て、余人は陝西振華指揮に刺すべし。沿江に水軍を招置し、戦艦を備え、東南水に諳んずる者を募りて充て、毎指揮五百を以て額とすべし」と。

原文四年,詔:“所招河北人充河北振武,餘人刺陝西振華指揮。沿江招置水軍,備戰艦,募東南諳水者充,每指揮以五百為額。”

十年、詔して三京路招撫処置使司に効用軍兵一万人を招かしめ、その内に使臣二千員を招かしむ。

原文十年,詔三京路招撫處置使司招效用軍兵萬人,內招使臣二千員。

十五年、福建安撫莫将言う、「汀・漳・泉・建の四州は、広東・江西と接壌す。比年、寇盗居民を剽劫し、土豪は私銭を備へて社戸を集め、防捍に労あり。有司は上聞して恩を推すことを為さず、家を破りて依帰する所無く、勢ひ必ず賊に従はんとす。官軍は山険に習はず、且つ瘴癘侵加し、窮追すること能はず、管属の良民悉く転じて盗と為る。請ふらくは四州の守臣に委せ、此の遊手にして帰する所無き勇健の人を募り、各千人を収め、仍ほ効用を以て名と為し、足らく以て備用に供し、実に永久の利なり」と。詔して張淵に同措置せしむ。

原文十五年,福建安撫莫將言:“汀、漳、泉、建四州,與廣東、江西接壤。比年寇盜剽劫居民,土豪備私錢集社戶,防捍有勞,有司不為上聞推恩,破家無所依歸,勢必從賊。官軍不習山險,且瘴癘侵加,不能窮追,管屬良民悉轉為盜。請委四州守臣,募此遊手無歸勇健之人,各收千人,仍以效用為名,足可備用,實永久利。 ”詔令張淵同措置。

二十四年、殿前都指揮使楊存中言う、「旧制、在京の管する捧日・天武・拱聖・驍ぎょう騎・驍勝・寧朔・神騎・神勇・宣武・虎翼・広勇諸指揮の禁軍内、捧日・天武は条に依り升揀して扈衛の諸班直と為し、拱聖・神勇以下は升揀して捧日・天武と為す。逃亡・有故を除き、僅かに千九百人なり。請ふらくは今年の分定月内に千人を招かん」と。

原文二十四年,殿前都指揮使楊存中言:“舊制,在京所管捧日、天武、拱聖、驍騎、驍勝、寧朔、神騎、神勇、宣武、虎翼、廣勇諸指揮禁軍內,捧日、天武依條升揀扈衛諸班直,拱聖、神勇以下升揀捧日、天武,除逃亡有故,僅千九百人。請於今年分定月內招千人。”

二十七年、楊存中旨を奉ず、三衙の招く所の効用兵、招くことを住むべしと令す。今、六千七百二十六人を闕く。若し招填せずんば、兵数日々に損ぜん。詔して本司に来年正月を始めとし、旧に依り招募せしむ。

原文二十七年,楊存中奉旨,三衙所招效用兵令住招。今闕六千七百二十六人,若不招填,兵數日損。詔本司來年正月為始,依舊招募。

隆興元年、歩軍司郭振言う、「本司在京の日、軍額三万九千五百、今行在僅かに千二百一十九人なり」と。詔して千七百八十一人を招填し、三千を以て額と為し、神衛・虎翼・飛山・床子弩雄武等の指揮に刺充す。

原文隆興元年,步軍司郭振言:“本司在京日軍額三萬九千五百,今行在僅千二百一十九。”詔招填千七百八十一人,以三千為額,刺充神衛,虎翼,飛山、床子弩雄武等指揮。

乾道七年、馬軍司王友直言う、「見管の戦馬二千七百余、止だ傔馬六百余人有り。請ふらくは傔兵千五百を招き、並びに雄威に充てん」と。詔して千人を招き、「歩傔」の二字を刺す。歩軍司呉挺言う、「歩司五軍、額二万五千、見闕三千六百」と。詔して招填せしむ。

原文乾道七年,馬軍司王友直言:“見管戰馬二千七百餘,止有傔馬六百餘人,請招傔兵千五百,並充雄威。”詔招千人,刺“步傔”二字。步軍司吳挺言:“步司五軍,額二萬五千,見闕三千六百。”詔令招填。

淳熙十六年、殿前副都指揮郭鈞言う、「淳熙五年兵を招くことを住む。今十載を踰ゆ。戦隊合用の火分傔兵闕く」と。詔して千人を招く。紹熙二年、詔して歩軍司に軍千人を招かしむ。

原文淳熙十六年,殿前副都指揮郭鈞言:“淳熙五年住招兵,今逾十載,戰隊合用火分傔兵闕。”詔招千人。紹熙二年,詔步軍司招軍千人。

慶元元年、詔して楚州に招き到る二百六十一人を弩手・効用に補す。五年、詔して度牒を給降し金州都統に付し、闕額を招填し並びに揀汰兵し、紹熙初年の令を照らし、自ら五尺四寸より五尺六寸に至る三等を招收せしむ。

原文慶元元年,詔楚州招到二百六十一人補弩手、效用。五年,詔給降度牒付金州都統,招填闕額並揀汰兵,照紹熙初年令,自五尺四寸至五尺六寸三等招收。

開禧元年、興元都統秦世輔言う、「本司軍多く闕額す。紹興の末、二万九千余人を管す。乾道三年、額二万七千を立て、今二万五千四百、差戍・官占実に万一百四十三人、部を点閲するに、披帯に堪ふる人僅かに六百二十七。請ふらくは本司に従ひ紹興の額を酌み招刺せん」と。参知政事蔣芾言う、「内の諸軍に在りては、每月逃亡四百人を下らず。若し権に招くことを一年半住み、財用稍く足るを俟ちて強壮を招かば、費を省くのみならず、又兵精なるを得ん。且つ南渡以来の兵籍の数、紹興十二年二十一万四千五百余人、二十三年二十五万四千五百四十人、三十年三十一万八千百三十八人、乾道三年三十二万三千三百一人、只だ二十三年に比すれば、已に六万九千六十一人を増す。此くの如くにして何の縁りか財用余り有らん」と。

原文開禧元年,興元都統秦世輔言:“本司軍多闕額,紹興之末,管二萬九千餘人。乾道三年,立額二萬七千,今二萬五千四百,差戍、官占實萬一百四十三人,點閱所部,堪披帶人僅六百二十七。請從本司酌紹興額招刺。”參知政事蔣芾言:“在內諸軍,每月逃亡不下四百人,若權住招一年半,俟財用稍足招強壯,不惟省費,又得兵精。且南渡以來兵籍之數,紹興十二年二十一萬四千五百餘人,二十三年二十五萬四千五百四十人,三十年三十一萬八千一百三十八人,乾道三年三十二萬三千三百一人,隻比二十三年,已增六萬九千六十一人,如此何緣財用有餘?”

宝慶二年、武岡軍知事呉愈言う、「禁衛兵は以て根本を重んじ、外夷を威す。太祖天下の精兵を聚め在京する者十余万、州郡も亦十余万なり。嘉定十五年、三衛の馬歩諸軍凡そ七万余、旧額三万を闕く。若し川蜀しょく・荊襄・両淮の屯戍を較ぶれば、奚啻に禁衛より数倍せんや。宜しく旧制に遵ひ、州郡の禁兵を択びて禁衛の闕を補ひ、州郡の闕額は帥守に招填せしむべし」と。

原文寶慶二年,知武岡軍吳愈言:“禁衛兵所以重根本、威外夷,太祖聚天下精兵在京者十餘萬,州郡亦十餘萬。嘉定十五年,三衛馬步諸軍凡七萬餘,闕舊額三萬,若以川蜀、荊襄、兩淮屯戍較之,奚啻數倍於禁衛?宜遵舊制,擇州郡禁兵補禁衛闕,州郡闕額帥守招填。”

紹定四年、臣僚言う、「州郡に禁卒有り、壮城有り、廂軍有り、土兵有り、一州の財自ら足らく以て一州の兵を給す。比年尺籍多く虚しく、月に招き歳に補ふも、悉く文具と成る。蓋し州郡養兵の費を吝み、招く所二三に過ぎず、逃亡已に六七なり。宜しく帥臣に申厳し、応に郡守到罷するに、兵額若干・逃故若干・招填若干を具し、其の数を考へて黜陟すべし」と。

原文紹定四年,臣僚言:“州郡有禁卒,有壯城,有廂軍,有土兵,一州之財自足以給一州之兵。比年尺籍多虛,月招歲補,悉成文具。蓋州郡吝養兵之費,所招無二三,逃亡已六七。宜申嚴帥臣,應郡守到罷,具兵額若干、逃故若干、招填若干、考其數而黜陟之。”

宝祐の間、州郡守を闕き、承摂する者令を遣はして招刺せしむ。材武を詢はず、務めて帑儲を盗む。

原文寶祐間,州郡闕守,承攝者遣令招刺,不詢材武,務盜帑儲。

咸淳の季年、辺報日々に聞こえ、召募尤も急なり。官銭を降すこと甚だ優厚なり。強ひて平民を刺すも、法禁無きに非ず。所司上意を体する能はず、民を執へて兵と為す。或は甘言を以て誑誘し、或は詐りて名を賈舟と為し、負販の者群至るを候ひ、輒ち之を載せ去る。或は航船の人を購ひ、全船疾く趨ること所隷の所。或は軍婦に令して冶容を以て路に誘はしめ、尽く之を涅刺す。是に由りて野に耕人無く、途に商旅無し、往々丁壮数十を聚めて後に敢へて市に入る。民に執はれて水火に赴く者有り、自ら指臂を断ちて免れんことを求むる者有り、軍人と抗して殺傷する者有り、無頼機に乗じて仮名して擾す。

原文鹹淳季年,邊報日聞,召募尤急,官降錢甚優厚。強刺平民,非無法禁。所司莫能體上意,執民為兵。或甘言誑誘,或詐名賈舟,候負販者群至,輒載之去;或購航船人,全船疾趨所隸;或令軍婦冶容誘於路,盡涅刺之。由是野無耕人,途無商旅,往往聚丁壯數十,而後敢入市。民有被執而赴水火者,有自斷指臂以求免者,有與軍人抗而殺傷者,無賴乘機假名為擾。

九年、賈似道疏に云く、「景定元年より今に至るまで、節次軍を招くこと凡そ二十三万三千奇有り。額を填ふるを除き、創めて招く者九万五千、近く又五万を招く。之を兵無しと謂ふべからず」と。十年、汪立信書を賈似道に抵へて三策を陳ぶ。一に謂く、「内地何ぞ多く兵を用ゐん、宜しく悉く抽して以て江を過ぎしめ、六十万を行ふべし。蓋し兵は多きを貴ばず、貴ぶ所は訓練の素に行はるるに在り。苟くも甲を受くるに堪へずんば、徒らく数を充すを取るのみ。将に焉んぞ之を用ゐん」と。

原文九年,賈似道疏云:“景定元年迄今,節次招軍凡二十三萬三千有奇,除填額,創招者九萬五千,近又招五萬,謂之無兵不可。”十年,汪立信書抵賈似道陳三策,一謂:“內地何用多兵,宜悉抽以過江,可行六十萬矣。蓋兵不貴多,貴乎訓練之有素。苟不堪受甲,徒取充數,將焉用之!”

旧制を考ふるに、凡そ軍に闕額有れば即ち招填す。熙寧・元豊民兵の政を講求し、是に於て募兵浸く減じ、而して三衙多く虚籍す。靖康に至りて、禁衛弱し。中興復た招募を用ふ。等杖を立て、勇壮を選び、人才を核し、虚実を験し、審刺の法諸屯に在りと雖も、而して已に招く者は兵籍悉く枢府に総ぶ。

原文考之舊制,凡軍有闕額即招填。熙寧、元豐講求民兵之政,於是募兵浸減,而三衙多虛籍。至於靖康,禁衛弱矣。中興復用招募。立等杖,選勇壯,核人才,驗虛實,審刺之法雖在諸屯,而已招者兵籍悉總於樞府雲。