宋史

志第一百四十五 兵六

志第一百四十五 兵六

◎兵六(郷兵三)○保甲 建炎後郷兵 建炎後砦兵

原文◎兵六(鄉兵三)○保甲建炎後鄉兵建炎後砦兵

保甲 熙寧の初め、王安石は募兵を変革して保甲を行い、帝はその議に従った。三年、初めてその民を連ねて相保任せしむ。及び詔して畿内の民十家を以て一保と為し、主戸にして幹力ある者一人を選びて保長と為す。五十家を以て一大保と為し、一人を選びて大保長と為す。十大保を以て一都保と為し、衆の服する所たる者を選びて都保正と為し、又一人を以てその副と為す。応に主客戶両丁以上は、一人を選びて保丁と為す。保に附す。両丁以上にして余丁ありて壮勇なる者も亦これに附す。内家貲最も厚く、材勇人に過ぐる者も亦保丁に充て、兵器禁に非ざる者は習うことを聴す。毎一大保夜に五人を輪番して盗を警めしむ。凡そ告捕して獲る所は、賞格に以て事に従う。同保にして強盗・殺人・放火・強姦・略人・妖教を伝習し・蠱毒を造畜するを犯し、知りて告げざれば、律の伍保法に依る。余事己に干せず、又敕律の糾を聴する所に非ざれば、皆告うるを得ず、情を知ると雖も亦坐せず。若し法に於いて隣保合坐すべき罪あれば乃ちこれを坐す。其の強盗三人を居停し、三日を経れば、保隣情を知らずと雖も、失覚の罪を科す。逃移・死絶し、同保五家に及ばず、並びに他保に合す。外より保に入る者有れば、これを収めて同保と為し、戸数足れば則ちこれに附し、十家に及ぶを俟ちて、則ち別に保と為し、牌を置きて以て其の戸数姓名を書す。既にこれを畿甸に行い、遂に五路に推し、以て天下に達す。時に則ち盗賊を捕らえて相保任するを以てし、未だ武事を以て肄せず。

原文保甲熙寧初,王安石變募兵而行保甲,帝從其議。三年,始聯比其民以相保任。及詔畿內之民十家為一保,選主戶有幹力者一人為保長。五十家為一大保,選一人為大保長。十大保為一都保,選為眾所服者為都保正,又以一人為之副。應主客戶兩丁以上,選一人為保丁。附保。兩丁以上有餘丁而壯勇者亦附之。內家貲最厚、材勇過人者亦充保丁,兵器非禁者聽習。每一大保夜輪五人警盜。凡告捕所獲,以賞格從事。同保犯強盜、殺人、放火、強奸、略人、傳習妖教、造畜蠱毒,知而不告,依律伍保法。餘事非幹己,又非敕律所聽糾,皆毋得告,雖知情亦不坐。若於法鄰保合坐罪者乃坐之。其居停強盜三人,經三日,保鄰雖不知情,科失覺罪。逃移、死絕、同保不及五家,並他保。有自外入保者,收為同保,戶數足則附之,俟及十家,則別為保,置牌以書其戶數姓名。既行之畿甸,遂推之五路,以達於天下。時則以捕盜賊相保任,而未肄以武事也。

四年、初めて詔して畿内の保丁に武事を肄習せしむ。歳の農隙に、隷する所の官期日を要便の郷村に於いて都試し騎歩射し、並びに射中の親疏遠近を以て等と為す。騎射は其の用いる馬を校し、余芸ありて願い試みる者は聴す。第一等は保明して以て聞こえしめ、天子親しく閲試し、官使を以て命ず。第二等は当年の春夫一月を免じ、馬槁四十、役銭二千。本戸に免ずる可き無く、或いは免する所及ばざれば、他戸に移免して其の直を受くるを聴す。第三・第四等は此れを視て差有り。芸未だ精ならずして閲試を候わんことを願い、或いは甲に附せず単丁にして閲試に就かんことを願う者は、並びに聴す。都副保正武藝等に及ばずと雖も、能く保戸を整斃して擾わず、丁壮を勧誘して芸を習わしめ及び等し、盗を捕らえること他保より最多く、盗を弭ぐること他保より最少きは、隷する所の官以て聞こえしめ、其の恩第一等を視る。都副保正闕有れば、大保長を選びて充てる。都副保正丁壮を勧誘して芸を習わしむと雖も、輒ち強率して務を妨ぐる者は、これを禁ず。吏保甲の事に因り賕を受け、斂掠するは、乞取監臨三等を加え、仗・徒・編管・配隸し、告ぐる者は次第にこれを賞し、命官犯す者は名を除く。時に雖ち之をして武技を習わしむと雖も未だ番上せず。

原文四年,始詔畿內保丁肄習武事。歲農隙,所隸官期日於要便鄉村都試騎步射,並以射中親疏遠近為等。騎射校其用馬,有餘藝而願試者聽。第一等保明以聞,天子親閱試之,命以官使。第二等免當年春夫一月,馬槁四十,役錢二千。本戶無可免,或所免不及,聽移免他戶而受其直。第三、第四等視此有差。藝未精願候閱試,或附甲單丁願就閱試者,並聽。都副保正武藝雖不及等,而能整齊保戶無擾,勸誘丁壯習藝及等,捕盜比他保最多,弭盜比他保最少,所隸官以聞,其恩視第一等焉。都副保正有闕,選大保長充。都副保正雖勸誘丁壯習藝,而輒強率妨務者,禁之。吏因保甲事受賕、斂掠,加乞取監臨三等,仗、徒、編管、配隸,告者次第賞之,命官犯者除名。時雖使之習武技而未番上也。

五年、右正言・知制誥・判司農寺曾布言う、「近日保戸数たびたび状を以て県に詣り、願わくは分番して巡検司に隷し武技を習わんとす、提点司以て朝廷及び司農寺に聞こえしむ、未だ敢えて輒ち議せず、願わくは提点司を下して中書に送り詳審せしめ、司農に付して令を具せしめん」と。ここにおいて詔す、「主戸保丁願わくは巡検司に上番せんとす、十日一更し、疾故ある者は次番を以て之に代う。月に口糧・薪菜銭を給し、分番して巡警せしめ、毎五十人に大保長二・都副保正一を輪番して之を統領せしむ。都副保正月各々銭七千を給し、大保長三千。番に当たる者は輒ち本所を離るるを得ず。劇盗を捕逐するは、下番の人と雖も亦追集を聴し、其の錢斛を給し、事畢わりて遣還し、上番の人数を過ぐること毋く、仍ち其の上番の日を折除す。巡検司量りに廂界を留めて使役し、余兵悉く罷む。応に番する保丁武技第三等已上に及ぶは、並びに籍に記す。歳凶に遇えば、五分已上なる者は第にこれを振恤し、十五石より三石に至るを差と為す」と。十一月、又た詔して尉司の上番保丁巡検司の法の如くせしむ。

原文五年,右正言、知制誥、判司農寺曾布言:“近日保戶數以狀詣縣,願分番隸巡檢司習武技,提點司以聞朝廷及司農寺,未敢輒議,願下提點司送中書詳審,付司農具為令。”於是詔:“主戶保丁願上番於巡檢司,十日一更,疾故者次番代之。月給口糧、薪菜錢,分番巡警,每五十人輪大保長二、都副保正一統領之。都副保正月各給錢七千,大保長三千。當番者毋得輒離本所。捕逐劇盜,雖下番人亦聽追集,給其錢斛,事訖遣還,毋過上番人數,仍折除其上番日。巡檢司量留廂界給使,餘兵悉罷。應番保丁武技及第三等已上,並記於籍。遇歲凶,五分已上者第振之,自十五石至三石為差。”十一月,又詔尉司上番保丁如巡檢司法。

六年、詔して開封府畿に都保を以て木契を置き、左は司農寺に留め、右は其の県に付し、凡そ追胥・閲試・肄習すれば則ち契を出す。是の月、又た詔して永興・秦鳳・河北東西・河東の五路に行わしむ、唯だ上番する毋かれ。余路は止だ相保任するのみとし、武藝を習う毋かれ、内荊湖・川・広並びに辺なる者は武事を肄することを得、監司に之を度らしむ。後に全・邵の土丁、邕・欽の洞丁、広東の槍手保甲に改まる者は則ちこれを肄す。十二月、乃ち河北西路の強壮、縁辺の弓箭社籍に係り番上して巡守する者を罷む。

原文六年,詔開封府畿以都保置木契,左留司農寺,右付其縣,凡追胥、閱試、肄習則出契。是月,又詔行於永興、秦鳳、河北東西、河東五路,唯毋上番。餘路止相保任,毋習武藝,內荊湖、川、廣並邊者可肄武事,令監司度之。後惟全、邵土丁、邕、欽洞丁、廣東槍手改為保甲者則肄焉。十二月,乃罷河北西路強壯、緣邊弓箭社係籍番上巡守者。

初め、開封府畿・五路の保甲五万人に及び、二年に一度解発し、京師に詣り閲試して官を命ず、開封府畿は十人、五路は七人。八年、詔して開封府畿一万人に及び、五路一万五千人に及ぶは、各々一人の解発を許す。

原文初,開封府畿、五路保甲及五萬人,二年一解發,詣京師閱試命官,開封府畿十人,五路七人。八年,詔開封府畿及一萬人、五路及一萬五千人,各許解發一人。

九年、枢密院請う、今より都副保正・義勇軍校二年に一度比選し、県其の訓習武藝及び等最も多く、捕察して盗賊最も少き者を考えて州に上り、州上って所轄の官司に上り、同比較して以て聞こえしむ。或いは中選の人多くば、則ち武藝最も優なる者を択ぶ。額外尚ほ解発す可き者有れば、則ち其の次を第して之が為に旌勧す。第一次は、州県姓名を籍記し、杖以下の犯は贖うことを聴す;第二次は、等第を以て杖子・紫衫・銀帯を賜い、徒罪を犯し情軽きは奏裁す;累ねて三次に及ぶ者は、宣を降してこれを補し、馬及び芻菽を給す。五路義勇軍校二千、解発三人を過ぐるを得ず。保甲都副保正の解発する者も亦二年を以てし、府界六人、河北・河東各々四人、永興・秦鳳等路七人。都保正・指揮使は下班殿侍と、副保正・副指揮使は三司軍将と、正副都頭は守闕軍将と並びに衣及び銀帯・銀裹頭杖を賜い、馬を給すること差有り。

原文九年,樞密院請自今都副保正、義勇軍校二年一比選,縣考其訓習武藝及等最多、捕察而盜賊最少者上於州,州上所轄官司,同比較以聞。或中選人多,則擇武藝最優者。額外尚有可解發者,則第其次為之旌勸。第一次,州縣籍記姓名,犯杖以下聽贖;第二次,以等第賜杖子、紫衫、銀帶,犯徒罪情輕奏裁;累及三次者,降宣補之,給馬及芻菽。五路義勇軍校二千,解發毋得過三人。保甲都副保正之解發者亦以二年,府界六人,河北、河東各四人,永興、秦鳳等路七人。都保正、指揮使與下班殿侍,副保正、副指揮使與三司軍將,正副都頭與守闕軍將,並賜衣及銀帶、銀裹頭杖,給馬有差。

初め、保甲は司農に隷し、熙寧八年、兵部に改めて隷し、同判一・主簿二・幹当公事官十を増し、諸州を分按し、其の政令は則ち枢密院に聴く。十年、枢密院副都承旨張誠一『五路義勇保甲敕』を上る。元豊元年、翰林学士・権判尚書兵部許将『開封府界保甲敕』を修し、書成りて之を上る、詔して皆頒つ。

原文初,保甲隸司農,熙寧八年,改隸兵部,增同判一、主簿二、幹當公事官十,分按諸州,其政令則聽於樞密院。十年,樞密院副都承旨張誠一上《五路義勇保甲敕》。元豐元年,翰林學士、權判尚書兵部許將修《開封府界保甲敕》,成書上之,詔皆頒焉。

二年十一月、初めて『府界集教大保長法』を立て、昭宣使入内内侍省副都知王中正・東上閣門使狄諮を以て兼ねて府界教保甲大保長を提挙せしめ、総二十二県を以て教場十一所と為し、大保長凡そ二千八百二十五人、毎十人一色事藝、教頭一を置く。凡そ禁軍教頭二百七十、都教頭三十、使臣十。弓は八斗・九斗・一石を以て三等と為し、弩は二石四斗・二石七斗・三石を以て三等と為し、馬射は九斗・八斗を以て二等と為し、其の材力超抜する者は出等と為す。教うる時に当たりては、月に銭三千を給し、日に食を給し、官戎械・戦袍を予え、又た銀楪・酒醪を具えて以て賞犒と為す。

原文二年十一月,始立《府界集教大保長法》,以昭宣使入內內侍省副都知王中正、東上閣門使狄諮兼提舉府界教保甲大保長,總二十二縣為教場十一所,大保長凡二千八百二十五人,每十人一色事藝,置教頭一。凡禁軍教頭二百七十,都教頭三十,使臣十。弓以八斗、九鬥、一石為三等,弩以二石四斗、二石七斗、三石為三等,馬射九斗、八鬥為二等,其材力超拔者為出等。當教時,月給錢三千,日給食,官予戎械、戰袍,又具銀楪、酒醪以為賞犒。

三年、大保長の武芸が完成したので、団教法を立て、大保長を教頭とし、保丁を教習させた。凡そ一都保で近接するものを五団に分け、即ち本団の都副保正の居住する空地に集めて教習する。大保長で武芸完成した者十人が順番に教え、五日で一巡させる。その丁を五分し、その一を騎兵とし、二を弓兵とし、三を弩兵とする。府界の法が完成すると、これを三路に推し広め、各々文武の官一人を置いて提挙させ、河北は狄諮・劉定、陝西は張山甫、河東は黄廉・王崇拯とし、封樁の養贍義勇保甲の銭糧を以てその費用に充てた。この年、府界の保甲武芸完成を引見し、帝自ら閲兵し、能ある者を登用し、残りには金帛を賜った。

原文三年,大保長藝成,乃立團教法,以大保長為教頭,教保丁焉。凡一都保相近者分為五團,即本團都副保正所居空地聚教之。以大保長藝成者十人袞教,五日一周之。五分其丁,以其一為騎,二為弓,三為弩。府界法成,乃推之三路,各置文武官一人提舉,河北則狄諮、劉定,陝西則張山甫,河東則黃廉、王崇拯,以封樁養贍義勇保甲錢糧給其費。是歲,引府界保甲武藝成,帝親閱,錄作能者,餘賜金帛。

四年、五路の義勇を保甲に改めた。狄諮・劉定が澶州の集教大保長四百八十二人を率いて崇政殿に参内し、執政を召して座を賜い閲試し、三班借職・差使・借差に補した者は凡そ三十六人、残りには金帛を差等を付けて賜った。狄諮を四方館使に、劉定を集賢校理に遷した。また詔して曰く、「三路で今訓練中の民兵は日が浅く、什長の武芸が完成したら、直ちに府界の団教法を行わねばならぬ。銭糧・官吏は全て畿県の如くとするが、期日までに処理できるか否かは未だ知れぬ。もし更に日月を引き延ばせば、必ずや措置の大法に誤りを来たすであろう。承旨に命じて取り調べ合わせ校閲させよ」と。その年、府界・河北・河東・陝西路で保甲を会校したところ、都保は凡そ三千二百六十六、正長・壮丁は凡そ六十九万一千九百四十五人、旧費の緡銭一百六十六万一千四百八十三を歳に省き、歳費は緡銭三十一万三千一百六十六、而して団教の賞銭は百万緡余りでこれに含まれない。凡そ集教・団教が完成すると、歳に使を遣わして提挙按閲と称し、概ね近臣に内侍を伴わせて往き賞銭を与え、格令に従って事を為す。諸路は皆番次で武芸完成した者を順序とし、概ね五、六年で一遍するが、独り河東は金帛が不足するため、遂に十一歳に及んだ。上は晋人の勇悍なるを以て、遼・夏の間に介在し、講武勧奨は後れを取るべからずとし、詔して緡銭十五万を賜う。時に籍に係る義勇・保甲及び民兵は凡そ七百十八万二千二十八人という。(熙寧九年の数。)

原文四年,改五路義勇為保甲。狄諮、劉定部領澶州集教大保長四百八十二人見於崇政殿,召執政賜坐閱試,補三班借職、差使、借差凡三十六人,餘賜金帛有差。遷諮四方館使,定集賢校理。又詔曰:“三路見訓民兵非久,什長藝成,須便行府界團教之,錢糧、官吏並如畿縣,未知及期能辦與不。若更稽延日月,必致有誤措置大法,可令承旨取索會校之。”其年,府界、河北、河東、陝西路會校保甲,都保凡三千二百六十六,正長、壯丁凡六十九萬一千九百四十五,歲省舊費緡錢一百六十六萬一千四百八十三,歲費緡錢三十一萬三千一百六十六,而團教之賞為錢一百萬有奇不與焉。凡集教、團教成,歲遣使則謂之提舉按閱,率以近臣挾內侍往給賞錢,按格令從事。諸路皆以番次藝成者為序,率五六歲一遍,獨河東以金帛不足,乃至十一歲。上以晉人勇悍,介遼、夏間,講勸宜不可後,詔賜緡錢十五萬。時係籍義勇、保甲及民兵凡七百一十八萬二千二十八人雲。(熙寧九年之數。)

保甲法を立てた初め、故老の大臣は皆不便と為したが、安石は主議甚だ力強く、帝は遂にこれに従われた。今その論難を悉く著し、来る者に考証せしめる。

原文保甲立法之初,故老大臣皆以為不便,而安石主議甚力,帝卒從之。今悉著其論難,使來者考焉。

帝嘗て租庸調法を論じてこれを善しとされ、安石対えて曰く、「この法は井田に近く、後世事を立てて先王の遺意を粗く得れば、則ち善からざるは無し。今も亦た為すべからざるは無し。顧みるに速やかに成すは難し」と。帝が再び問うに及んで、則ち曰く、「人主誠に天下の利害を知り、その所謂害を以て法を製し、これを兼併の者に加うれば、則ち人は自ら敢えて限を過ぎる田を保たず。その所謂利を以て法を製し、これを力耕の者に加うれば、則ち人は自ら力耕に勧み、而して田を授くるも限を過ぐる能わざるなり。然れども此れは漸くにして乃ち法を成すべし。人主誠に利害の権を知り、因って好悪を以てこれに加うれば、則ち好む所は何ぞ人の従わざるを患えん、悪む所は何ぞ人の避けざるを患えん。若し人主にこれを揆るの道無くんば、則ち多くは異議に奪われ、善き法有りと雖も、何ぞ由って立たんや」と。

原文帝嚐論租庸調法而善之,安石對曰:“此法近井田,後世立事粗得先王遺意,則無不善。今亦無不可為。顧難速成爾。”及帝再問,則曰:“人主誠能知天下利害,以其所謂害者製法,而加於兼並之人,則人自不敢保過限之田;以其所謂利者製法,而加於力耕之人,則人自勸於力耕,而授田不能過限。然此須漸乃能成法。使人主誠知利害之權,因以好惡加之,則所好何患人之不從,所惡何患人之不避?若人主無道以揆之,則多為異議所奪,雖有善法,何由立哉?”

帝、府兵は租庸調法と相俟つものと謂われ、安石則ち曰く、「今義勇・土軍が上番して役に供するは、既に廩給有り、則ち貧富を問わず皆以て衛に入り戍に出づることを得、租庸調法無くとも、亦た自ら為すべし。但し義勇は皆良民なり、礼義を以て奨励養成すべし。今皆倒置せられるは、その手背に涅すること、教閲して縻費すること、これに糧を運ばしむるが故なり。この三者は皆人の楽しまざる所、若し更にこれを毆りて敵に就かしめ、殺戮を被らしむれば、尤も人の憚る所なり」と。

原文帝謂府兵與租庸調法相須,安石則曰:“今義勇、土軍上番供役,既有廩給,則無貧富皆可以入衛出戍,雖無租庸調法,亦自可為。第義勇皆良民,當以禮義獎養。今皆倒置者,以涅其手背也,教閱而縻費也,使之運糧也。三者皆人所不樂,若更毆之就敵,使被殺戮,尤人所憚也。”

馮京曰く、「義勇にも亦た挽強に因って試み推恩を得る者有り」と。安石曰く、「挽強して力足らざれば、則ち進取に絶つ、是れ朝廷に推恩の濫有り。初めより勧奨して人を武用に趨らしむるに非ざるなり。今義勇を措置せんと欲すれば皆当に此れに反すべく、害は義勇ならざるに在り、而して利は義勇たるに在らしめば、則ち俗は変ぜられて衆技成ることを得ん。臣願わくは郷閭の豪傑を択びて将校と為し、稍々奨励抜擢すれば、則ち人自ら悦服せん。況んや今募兵をして宿衛と為し、及び積官して刺史以上に至る者有り。此れを移して彼れに与うるは、固より不可なるは無し、況んや官禄を如此に費やすに至らずして、已に人をして楽んで為さしむるに足らんや。陛下誠に能く審択せば、近臣は皆政事の材有り、則ち異時にこの等の軍を分将せしむることを得ん。今募兵は無頼の人より出づ、尚も軍主・廂主と為ることを得、則ち近臣以上豈にこの輩に及ばざらんや、此れ乃ち先王の成法、社稷の長計なり」と。帝然りと為さる。

原文馮京曰:“義勇亦有以挽強得試推恩者。”安石曰:“挽強而力有不足,則絕於進取,是朝廷有推恩之濫。初非勸獎使人趨武用也。今欲措置義勇皆當反此,使害在於不為義勇,而利在於為義勇,則俗可變而眾技可成。臣願擇鄉閭豪傑以為將校,稍加獎拔,則人自悅服。矧今募兵為宿衛,及有積官至刺史以上者。移此與彼,固無不可,況不至如此費官祿,已足使人樂為哉!陛下誠能審擇,近臣皆有政事之材,則異時可使分將此等軍矣。今募兵出於無賴之人,尚可為軍、廂主,則近臣以上豈不及此輩,此乃先王成法,社稷之長計也。”帝以為然。

時に義勇を以て正兵に代えんと欲する者有り、曾公亮は義勇・弓手を置くは、漸く以て正兵を省くことを得べしと為す。安石曰く、「誠に然り、但だ今江・淮に新たに弓手を置くは、適農を傷つけるに足る」と。富弼も亦た京西の弓手は便ならずと論ず。安石曰く、「文教を揆え、武衛を奮う、先王の遠邇を待つ所以は固より同じからず。今江・淮と三辺とを処置するは、事当に異なる有るべし」と。

原文時有欲以義勇代正兵者,曾公亮以為置義勇、弓手,漸可以省正兵。安石曰:“誠然,第今江、淮置新弓手,適足以傷農。”富弼亦論京西弓手非便。安石曰:“揆文教,奮武衛,先王所以待遠邇者固不同。今處置江、淮與三邊,事當有異。”

帝又た財用を節することを言われ、安石は兵を減ずる最も急務なりと対える。帝曰く、「比の慶曆の数已に甚だ減ず」と。因って河北・陝西の兵数を挙げ、募兵少なすぎるを慮り、又た訓擇精しからず、緩急或いは事を欠くを慮る。安石則ち曰く、「募兵を精訓練し、而して三路の民を鼓舞して兵を習わしめば、則ち兵は省くことを得ん。臣屡々言う、河北旧く武人の割拠する所、内は朝廷に抗し、外は四隣に敵し、亦た奚・契丹を禦ぐ者有り、兵儲外に求めずして足れり。今河北戸口蕃息し、又た天下の財物を挙げてこれに奉ずるも、常に足らざるが若し。一面の敵に当たるに、その施設乃ち武人の割拠せし時に如かず。則ち三路の事に当に講画すべきもの有り、その民を専用するに在るのみ」と。帝又た言われる、「辺兵は以て守るに足らず、徒らに衣廩を費やす。然れども固より辺圉は又た悉く減ずべからず」と。安石曰く、「今更に兵を減ずれば、即ち誠に急緩に待つこと無く、減ぜざれば、則ち財を費やし国を困らす已む時無し。臣以謂わく、儻し兵を理め、稍々古製に復する能わざれば、則ち中国に富強の理無からん」と。

原文帝又言節財用,安石對以減兵最急。帝曰:“比慶曆數已甚減矣。”因舉河北、陝西兵數,慮募兵太少,又訓擇不精,緩急或闕事。安石則曰:“精訓練募兵而鼓舞三路之民習兵,則兵可省。臣屢言河北舊為武人割據,內抗朝廷,外敵四鄰,亦有禦奚、契丹者,兵儲不外求而足。今河北戶口蕃息,又舉天下財物奉之,常若不足。以當一面之敵,其施設乃不如武人割據時。則三路事有當講畫者,在專用其民而已。”帝又言:“邊兵不足以守,徒費衣廩。然固邊圉又不可悉減。”安石曰:“今更減兵,即誠無以待急緩;不減,則費財困國無已時。臣以謂儻不能理兵,稍復古製,則中國無富強之理。”

帝曰く、「唐は長安ちょうあんに都し、府兵多くは関中に在り、則ち本を強くするなり。今は関東に都して府兵盛んなれば、則ち京師反って四方に待つに足らず」と。安石曰く、「府兵は在る所にて為すべく、又た入衛せしむることを令すれば、則ち本強からざるを患えず」と。韓絳・呂公弼は皆入衛を難しと為す。文彦博曰く、「曹・濮の人の如きは専ら盗賊を為す、豈に入衛せしむべけんや」と。安石曰く、「曹・濮の人豈に応募する者無からんや。皆暴猾無頼の人なり、尚も虞と為さず、義勇は皆良民、又た物力戸を以て将校と為す、豈に復た以て虞と為すべきや」と。

原文帝曰:“唐都長安,府兵多在關中,則為強本。今都關東而府兵盛。則京師反不足待四方。”安石曰:“府兵在處可為,又可令入衛,則不患本不強。”韓絳、呂公弼皆以入衛為難。文彥博曰:“ 如曹、濮人專為盜賊,豈宜使入衛?”安石曰:“曹、濮人豈無應募?皆暴猾無賴之人,尚不以為虞;義勇皆良民,又以物力戶為將校,豈當復以為可虞也?”

陳升之は義勇兵を漸次近州に戍守させようとした。王安石は言う、「陛下が数百年にわたる募兵の弊を除かんと欲せば、則ち宜しく果断にし、詳細に法製を立て、本末備具の令をなすべし。然らずんば、補うところ無からん」と。帝は言う、「製して之を用うるは、法に於いて予め條製を立て、漸次に推行すべきなり」と。彦博等はまた土兵をして千里を出でて戍守するは難しと為す。王安石は言う、「前代、流求を征し、党項を討つは、豈に府兵に非ずや」と。帝は言う、「募兵は専ら戦守に於いて、故に恃むべし。民兵に至りては、則ち兵農の業相半ばし、戦守に恃むべしや」と。王安石は言う、「唐以前には未だ黥げい兵有らず、然れども亦戦守に足れり。臣以謂う、募兵と民兵と異なること無し、顧みるに用いる将帥如何なるかのみ。将帥は求むるに難からず、但だ人主能く群臣の情偽を察見し、善く駕禦すれば、則ち人材出でて用いられ、将帥無きを患えず。将帥有らば、則ち民兵用いられざるを患えず」と。

原文陳升之欲令義勇以漸戍近州。安石曰:“陛下若欲去數百年募兵之敝,則宜果斷,詳立法製,令本末備具。不然,無補也。”帝曰:“製而用之,在法當預立條製,以漸推行。”彥博等又以為土兵難使千里出戍。安石曰:“前代征流求,討党項,豈非府兵乎?”帝曰:“募兵專於戰守,故可恃;至民兵,則兵農之業相半,可恃以戰守乎?”安石曰:“唐以前未有黥兵,然亦可以戰守。臣以謂募兵與民兵無異,顧所用將帥如何爾。將帥非難求,但人主能察見群臣情偽,善駕禦之,則人材出而為用,不患無將帥。有將帥,則不患民兵不為用矣。”

帝は言う、「経遠の策は、必ずや民を什伍に至らしめ、費省くして兵衆く、且つ募兵と相為に用いられん」と。王安石対えて曰く、「公私の財用匱せず、宗社の長久の計を為さんと欲せば、募兵の法誠に当に変革すべし」と。帝は言う、「密院は必ず建中の変有らんと為す」と。王安石対えて曰く、「陛下躬行徳義、政事を憂勤し、上下蔽わず、必ず此の理無し。建中に所以変を致せるは、徳宗盧杞の徒を用い陸贄を疎んずるに在り、其の亡びざる者は幸いなり」と。

原文帝曰:“經遠之策,必至什伍其民,費省而兵眾,且與募兵相為用矣。”安石對曰:“欲公私財用不匱,為宗社長久計,募兵水法誠當變革。”帝曰:“密院以為必有建中之變。”安石對曰:“陛下躬行德義,憂勤政事,上下不蔽,必無此理。建中所以致變,德宗用盧杞之徒而疏陸贄,其不亡者幸也。”

時に開封にて保戸に衣を質して弓箭を買う者有り、帝其の貧乏を恐れ、出備に難しとす。王安石は言う、「民貧にして宜しく之れ有るべし、抑えて民に弓箭を置かしむれば、則ち法の去らざる所なり。往者冬閲及び巡検番上に、唯だ在官の弓矢を用うるに就く、百姓何の故ぞ衣を質するに至るを知らず。然れども生民以来、兵農一にして、耒耜以て生を養い、弓矢以て死を免る、皆凡民の宜しく自ら具うべき所、未だ耒耜・弓矢を造りて百姓に給する者有らず。然らば則ち百姓に弓矢を置かしむるも、亦過ちと為さず。第に陛下百姓を優恤すること甚だ至れり、故に今法を立て、一に民の便に聴くのみ。且つ府界素より群盗多く、攻劫殺掠、一歳の間に二百火に至り、逐火皆賞錢有り、賞を備うるの人即ち今の保丁なり。其の賞を備うるの時に当たりて、豈に衣服を売易して官賞を納むる者無からんや。然れども人皆以謂う、賞錢は宜しく百姓より出づべしと。夫れ錢を出すの多きは盗を止むるに足らず、而して保甲の能く盗を止むるは、其の效已に見ゆ、則ち民をして少錢を出だして器械を置かしむるも、未だ損うる所無し」と。帝は言う、「賞錢は人の習慣する所、則ち之れに安んずること自然の如し。習慣せざれば、則ち怨み無からず。如何に民産を決壊すれば、民怨まず。河を決して民産を壊せば、則ち怨む」と。

原文時開封鞫保戶有質衣而買弓箭者,帝恐其貧乏,難於出備。安石曰:“民貧宜有之,抑民使置弓箭,則法所弗去也。往者冬閱及巡檢番上,唯就用在官弓矢,不知百姓何故至於質衣也。然自生民以來。兵農為一,耒耜以養生,弓矢以免死,皆凡民所宜自具,未有造耒耜、弓矢以給百姓者也。然則雖使百姓置弓矢,亦不為過。第陛下優恤百姓甚至,故今立法,一聽民便爾。且府界素多群盜,攻劫殺掠,一歲之間至二百火,逐火皆有賞錢,備賞之人即今保丁也。方其備賞之時,豈無賣易衣服以納官賞者?然人皆以謂賞錢宜出於百姓。夫出錢之多不足以止盜,而保甲之能止盜,其效已見,則雖令民出少錢以置器械,未有損也。”帝曰:“賞錢人所習慣,則安之如自然;不習慣,則不能無怨。如何決壞民產,民不怨;決河以壞民產,則怨矣。”

帝嘗て批す、「陳留県の行う保甲は、毎十人一小保、中三人或いは五人須らく弓箭を要し、県吏督責し、無き者は刑有り。百姓一弓を買うに千五百に至り、十箭六七百に至り、青黄不接の際に当たり、貧下の客丁安んぞ出辦せん。又毎一小保民力を用いて射垛を築き、又自ら錢糧を辦して鋪屋を起す。毎保鼓を置き、賊に遇えば声撃す、民居遠近一ならず、甲家賊に遭えば、鼓は乙家に在り、則ち声撃するに縁無し。此くの如くは、須らく人ごとに一鼓を置き、費錢少からず。速やかに指揮して元の議の如くに止めしむべし、団保して盗賊を覚察するのみ、余は施行するを得ず。郷民既に錢無くして弓箭を買うを憂え、加うるに傳惑して之れを戍辺に徙すに惑わさる、是を以て父子聚首して号泣する者虚しからず」と。王安石進呈して行わず。

原文帝嚐批:“陳留縣所行保甲,每十人一小保,中三人或五人須要弓箭,縣吏督責,無者有刑。百姓買一弓至千五百,十箭至六七百,當青黃不接之際,貧下客丁安能出辦?又每一小保用民力築射垛,又自辦錢糧起鋪屋。每保置鼓,遇賊聲擊,民居遠近不一,甲家遭賊,鼓在乙家,則無緣聲擊。如此,須人置一鼓,費錢不少。可速指揮令止如元議,團保覺察盜賊,餘無得施行。鄉民既憂無錢買弓箭,加以傳惑徙之戍邊,是以父子聚首號泣者非虛也。”安石進呈不行。

帝王安石に謂う、「保甲に誠に指を斬る者有り、此事宜しく緩やかにして密にすべし」と。王安石は言う、「日力惜しむべし」と。帝は言う、「然れども亦遽にすべからず、恐らくは却って事を沮がん」と。王安石は言う、「此事自ら敢えて密にせざるべからず」と。権知開封府韓維等言う、「諸県団結保甲、郷民驚擾す。祥符等県は已に畢り、其の余の県は農閑を俟って排定を乞う」と。時に府界諸県の郷民、或いは自ら傷を残して団結を避く。王安石辨説甚だ力あり。時に曾孝寬府界提点と為り、榜を以て保甲を扇惑する者を告捕するを募る、雖甚だ厳なり、匿名書を封丘の郭門にすする者有り、ここに於て詔して重賞を以て之れを捕えしむ。

原文帝謂安石:“保甲誠有斬指者,此事宜緩而密。”安石曰:“日力可惜。”帝曰:“然亦不可遽,恐卻沮事。”安石曰:“此事自不敢不密。”權知開封府韓維等言:“諸縣團結保甲,鄉民驚擾。祥符等縣已畢,其餘縣乞候農閑排定。”時府界諸縣鄉民,或自殘傷以避團結。安石辨說甚力。時曾孝寬為府界提點,榜募告捕扇惑保甲者雖甚嚴,有匿名書封丘郭門者,於是詔重賞捕之。

王安石は言う、「乃ち保甲は、人其の願い上番する状を得、然る後に之れを使う、人情に於いて驚疑する所無きに宜し。且つ今盗賊を蔵し及び盗賊を為すの人、固より新法に便せず。陛下長社一県を観よ、捕獲する府界の劇賊保甲に迫逐せられ出でし者三十人に至る。此の曹既に京畿に容れられず、又輔郡に捕えらる、其の計聊か無く、専ら扇惑に務む。比聞く、首として扇惑する者は已に就捕す、然れども京師に至るも亦二十許人に止まる。十七県十数万の家を以てし、而して扇惑せらるる者纔に二十許人、多しと謂うべからず。古より事を作す、未だ勢を以て衆を率いずして能く上下をして一の如くせしむる者無し。今十数万人を聯ねて保甲と為し、又其の応募を待ちて乃ち之れをして番上せしむ、比れは乃ち陛下の矜恤の至りを以てす。保甲をして番上して盗を捕えしむ、若し其の自ら去来するに任せば、即ち孰か肯て命を聴かん。若し法を以て之れを駆れば、又人の願う所に非ず。且つ天下を為す者は、如し止だ民情の願う所に任せんと欲するのみならば、則ち何ぞ必ずしも君を立てて之れが為に官を張り吏を置かん。今輔郡の保甲は、宜しく先ず官を遣わして上旨を諭し、後に法を以て之れを推行すべし」と。帝は言う、「然り」と。

原文安石曰:“乃者保甲,人得其願上番狀,然後使之,宜於人情無所驚疑。且今居藏盜賊及為盜賊之人,固不便新法。陛下觀長社一縣,捕獲府界劇賊為保甲迫逐出外者至三十人。此曹既不容京畿,又見捕於輔郡,其計無聊,專務扇惑。比聞為首扇惑者已就捕,然至京師亦止有二十許人。以十七縣十數萬家,而被扇惑者才二十許人,不可謂多。自古作事,未有不以勢率眾而能令上下如一者。今聯十數萬人為保甲,又待其應募乃使之番上,比乃以陛下矜恤之至。令保甲番上捕盜,若任其自去來,即孰肯聽命?若以法驅之,又非人所願。且為天下者,如止欲任民情所願而已,則何必立君而為之張官置吏也?今輔郡保甲,宜先遣官諭上旨,後以法推行之。”帝曰:“然。”

一日、帝王安石に謂う、「曾孝寬言う、民に指を斬りて保甲を訴うる者有りと」と。王安石は言う、「此事は蔡駰に得たり。趙子幾駰をして驗問せしむ、乃ち民木を斫むに因り誤って指を斬る、参證する者数人。大抵保甲法は、上は執政大臣より、中は両製、下は盗賊及び停蔵の人に至るまで、皆欲せざる所なり。然れども臣郷人を召して之れを問う、皆便りと為す。則ち指を斬りて丁を避くる者有りと雖も、皆然りとせず。況んや保甲は盗を除くに非ざるのみならず、固より漸く習ひて兵と為すべし。既に人皆射能くし、又旗鼓を以て其の耳目を変え、且つ免稅を約して上番し巡検兵に代わる。又正・長より上り、能く賊を捕うる者は官を以て之れを獎し、則ち人競って勧む。然る後に募兵と相参せしめば、則ち以て募兵の驕誌を銷し、且つ財費を省くべし、此れ宗社長久の計なり」と。

原文一日,帝謂安石曰:“曾孝寬言,民有斬指訴保甲者。”安石曰:“此事得於蔡駰。趙子幾使駰驗問,乃民因斫木誤斬指,參證者數人。大抵保甲法,上自執政大臣,中則兩製,下則盜賊及停藏之人,皆所不欲。然臣召鄉人問之,皆以為便。則雖有斬指以避丁者,不皆然也。況保甲非特除盜,固可漸習為兵。既人皆能射,又為旗鼓變其耳目,且約以免稅上番代巡檢兵;又自正、長而上,能捕賊者獎之以官,則人競勸。然後使與募兵相參,則可以銷募兵驕誌,且省財費,此宗社長久之計。”

帝謂う、百姓を什伍するは保甲の如く、恐らくは成し難く、便りに団結して指揮を成し、使臣を以て管轄するに如かずと。王安石は言う、「陛下誠に能く果断にし、人言を恤みず、即ち団結指揮と為すも、亦妨げる所無し。然れども指揮は虚名なり、五百人を一保と為し、緩急に喚集すべく、雖も指揮と名づけずと雖も、指揮使と異なること無く、乃ち是れ実事なり。幸いに大急に至らず、即ち人をして駭擾せしめずして事集まるを上策と為す」と。帝遂に三路の義勇を変じて府畿の保甲法の如くせしむ。

原文帝謂什伍百姓如保甲,恐難成,不如便團結成指揮,以使臣管轄。安石曰:“陛下誠能果斷,不恤人言,即便團結指揮,亦無所妨。然指揮是虛名,五百人為一保,緩急可喚集,雖不名為指揮,與指揮使無異,乃是實事。幸不至大急,即免令人駭擾而事集為上策。”帝遂變三路義勇如府畿保甲法。

馮京曰く、「義勇には既に指揮使がおり、指揮使は即ちその郷里の豪傑である。今また保甲を作り、何れの者を大保長と為すべきか」と。安石曰く、「古は民の居る所を郷と為し、五家を比と為し、比には長あり、及び兵を用うるに至れば、即ち五人を伍と為し、伍には伍司馬あり。二十五家を閭と為し、閭には閭胥あり、二十五人を両と為し、両には両司馬あり。両司馬は即ち閭胥、伍司馬は即ち比長、ただ事に随ひて名を異にするのみ。此れ乃ち三代六郷六軍の遺法なり。其の法は書に見え、夏より以来、周に至るまで改めず。秦は阡陌を決裂すと雖も、然れども什伍の制は尚ほ古製の如し、此れ兵衆にして強き所以なり。征伐に府兵を以てするもの唯だ之に近し。今已然の成憲を捨てて、乃ち五代乱亡の余法を守るは、其れ安強を致すに足らざるは疑ひ無し。然るに人皆恬然として因循を以て憂ふべきと為さざるは、見る所浅近なるが故なり」と。

原文馮京曰:“義勇已有指揮使,指揮使即其鄉里豪傑。今復作保甲,令何人為大保長?”安石曰:“古者民居則為鄉,伍家為比,比有長,及用兵,即五人為伍,伍有伍司馬。二十五家為閭,閭有閭胥,二十五人為兩,兩有兩司馬。兩司馬即閭胥,伍司馬即比長,第隨事異名而已。此乃三代六鄉六軍之遺法。其法見於書,自夏以來,至周不改。秦雖決裂阡陌,然什伍之尚如古製,此所以兵眾而強也。征伐唯府兵為近之。今舍已然之成憲,而乃守五代亂亡之餘法,其不足以致安強無疑。然人皆恬然不以因循為可憂者,所見淺近也。”

安石又た奏す、「義勇は須らく三丁以上を要す、府界の如く、両丁以上を尽く籍すべしと請ふ。三丁は即ち出戍し、厚利を以て誘ひ、而して両丁は即ち止めて巡検に上番せしむ、府界の法の如し。大略此の如きに過ぎず。当に人を遣はして経略・転運司及び諸州の長吏と之を議し、及び本路の民情の苦しむ所欲する所を訪ひ、因りて以て法を寓すべし」と。帝曰く、「河東に義勇強壮の法を修め、又た保甲を団集せしむるは、如何」と。安石対へて曰く、「義勇は須らく丁数を隠括すべし、若し保甲を団集するに因らば、即ち一動にして両業就く。今既に官を遣はして義勇を隠括し、又た別に官を遣はして保甲を団結せしむれば、即ち分かれて両事と為り、民の擾はれざる能はざるを恐る」と。或る者曰く、「保甲は正軍に代はりて上番すべからずや」と。安石曰く、「其の習熟を俟ちて、然る後に上番すべし。然れども東兵の技芸も亦た義勇・保甲に優る能はざるなり、臣観るに広勇・虎翼の兵然り。今募兵と為る者は、大抵皆偷惰頑猾にして自ら振ふ能はざるの者なり。農と為る者は、皆朴力一心にして令を聴くの者なり、則ち緩急には民兵の用ふ可きに如かず」と。馮京曰く、「太祖天下を征伐せしに、豈に農兵を用ひしや」と。安石曰く、「太祖の時は五代に接し、百姓困窮極まり、豪傑多く軍に従ふを利と為せり。今百姓は安業して生を楽しみ、而して軍中には復た向時の如く抜き起りて公侯と為る者有らず、即ち豪傑は復た軍中に在らず、而して応募する者は大抵皆偷惰にして自ら振ふ能はざるの者のみ」と。帝曰く、「兵の強弱は人に在り。五代の兵弱く、世宗に至りて強し」と。安石曰く、「世宗の収むる所も、亦た皆天下の亡命強梁の者なり」と。文彦博曰く、「道を以て人主を佐くる者は兵を以て天下を強うせず」と。安石曰く、「兵を以て天下を強うする者は道に非ざるなり、然れども道有る者は固より能く柔能く剛、能く弱能く強し。其の能く剛強たる時に方りては、必ず柔弱に至らず。六師を張皇するは、固より先王の尚ぶ所なり、但だ専ら兵強を務むるに当らざるのみ」と。帝遂に安石の議に従ふ。

原文安石又奏:“義勇須三丁以上,請如府界,兩丁以上盡籍之。三丁即出戍,誘以厚利;而兩丁即止令於巡檢上番,如府界法。大略不過如此。當遣人與經略、轉運司及諸州長吏議之,及訪本路民情所苦所欲,因以寓法。”帝曰:“河東修義勇強壯法,又令團集保甲,如何?”安石對曰:“義勇須隱括丁數,若因團集保甲,即一動而兩業就。今既遣官隱括義勇,又別遣官團結保甲,即分為兩事,恐民不能無擾。”或曰:“保甲不可代正軍上番否?”安石曰:“俟其習熟,然後上番。然東兵技藝亦弗能優於義勇、保甲,臣觀廣勇、虎翼兵固然。今為募兵者,大抵皆偷惰頑猾不能自振之人。為農者,皆樸力一心聽令之人,則緩急莫如民兵可用。”馮京曰:“ 太祖征伐天下,豈用農兵?”安石曰:“太祖時接五代,百姓困極,豪傑多以從軍為利。今百姓安業樂生,而軍中不復有如向時拔起為公侯者,即豪傑不復在軍,而應募者大抵皆偷惰不能自振之人爾。”帝曰:“兵之強弱在人。五代兵弱,至世宗而強。”安石曰:“世宗所收,亦皆天下亡命強梁之人。”文彥博曰:“以道佐人主者不以兵強天下。”安石曰:“以兵強天下者非道也,然有道者固能柔能剛,能弱能強。方其能剛強,必不至柔弱。張皇六師,固先王之所尚也,但不當專務兵強爾。”帝卒從安石議。

帝曰く、「保甲・義勇の芻糧の費は、当に預め之を計るべし」と。安石曰く、「当に募兵の費を減じて以て之を供すべし。供する所の保甲の費は、纔かに兵を養ふ十の一二なり」と。帝曰く、「畿内の募兵の数は已に旧に減ず。本を強うするの勢は、未だ悉く減ず可からず」と。安石曰く、「既に保甲有りて其の役に代はれば、即ち募兵を須ゐず。今京師に募兵し、逃死停放するもの、一季にして乃ち数千、但だ招填せざるのみにて、即ち減ず可きと為す。然れども今廂軍既に少なく、禁兵も亦た多からず、臣願くは早く民兵を訓練せん。民兵成れば、則ち募兵当に減ずべし」と。又た上に為りて言ふ、「今河北の義勇は十八萬と雖も、然れども奨慰す可き者は酋豪百数十人のみ。此れ府兵の遺意なり」と。帝然りと為し、令して其の法を議せしむ。

原文帝曰:“保甲、義勇芻糧之費,當預為之計。”安石曰:“當減募兵之費以供之。所供保甲之費,才養兵十之一二。”帝曰:“ 畿內募兵之數已減於舊。強本之勢,未可悉減。”安石曰:“既有保甲代其役,即不須募兵。今京師募兵,逃死停放,一季乃數千,但勿招填,即為可減。然今廂軍既少,禁兵亦不多,臣願早訓練民兵。民兵成,則募兵當減矣。”又為上言:“今河北義勇雖十八萬,然所可獎慰者不過酋豪百數十人而已。此府兵之遺意也。”帝以為然,令議其法。

枢密院上旨を伝へ、府界の保甲を十日一番と為すは、大いに促にして武事を精うする無きを慮り、其れ一月を以て一番と為すべしと。安石奏して曰く、「今保甲十日一番と為し、計ふるに一年余り八月当番す、若し一月を須ゐば、即ち番愈よ疎なり。又た昨百姓と約して十日一番と為し、今遽に命を改むれば、恐らく愈よ人の扇惑せらるるを為さん。宜しく其の習熟を俟ち、徐ろに其の更番を議すべし。且つ今保甲の芸を閲する八等、奨励至って優なり、人競ひて私に習ふ、必ずしも上番して然る後に就学せず。臣愚、願くは数年を以てす、其の芸は特り義勇に勝つのみならず、当に必ず正兵に勝たん。正兵の技芸は官法に応ずるを取るのみにして、保甲の人人奨励の心有るが若くは非ざるなり」と。

原文樞密院傳上旨,以府界保甲十日一番,慮大促無以精武事,其以一月為一番。安石奏曰:“今保甲十日一番,計一年餘八月當番,若須一月,即番愈疏。又昨與百姓約十日一番,今遽改命,恐愈為人扇惑。宜俟其習熟,徐議其更番。且今保甲閱藝八等,勸獎至優,人競私習,不必上番然後就學。臣愚,願以數年,其藝非特勝義勇,當必勝正兵。正兵技藝取應官法而已,非若保甲人人有勸心也。”

元豊八年、哲宗位を嗣ぐ。陳州を知る司馬光上疏して保甲を罷めんことを乞ひて曰く、

原文元豐八年,哲宗嗣位,知陳州司馬光上疏乞罷保甲,曰:

兵は民間に出づ、古法と云ふと雖も、然れども古は八百家にして纔かに甲士三人・歩卒七十二人を出だし、閑民甚だ多く、三時は農に務め、一時は武を講じ、稼穡を妨げず。両司馬以上より、皆賢士大夫を選びて之を為し、侵漁の患無く、故に卒乗輯睦し、動けば則ち功有り。今郷村の民を籍し、二丁に一を取って以て保甲と為し、弓弩を授け、戦陣を教ふ、是れ農民半ば兵と為るなり。三四年以来、又た河北・河東・陝西に都教場を置かしめ、四時を問はず、毎五日に一たび教ふ。特に使者を置きて監司に比し、専切に提挙し、州県関預するを得ず。一丁を教閲すれば、一丁供送す、五日と云ふと雖も、而して保正・長は泥堋除草を名として、之を聚めて教場に至らしめ、賂を得れば則ち縱し、然らずば則ち之を留む、是れ三路の耕耘収穫稼穡の業幾くんぞ尽く廢せざらんや。

原文兵出民間,雖雲古法,然古者八百家才出甲士三人、步卒七十二人,閑民甚多,三時務農,一時講武,不妨稼穡。自兩司馬以上,皆選賢士大夫為之,無侵漁之患,故卒乘輯睦,動則有功。今籍鄉村之民,二丁取一以為保甲,授以弓弩,教之戰陣,是農民半為兵也。三四年來,又令河北、河東、陝西置都教場,無問四時,每五日一教。特置使者比監司,專切提舉,州縣不得關預。每一丁教閱,一丁供送,雖雲五日,而保正,長以泥堋除草為名,聚之教場,得賂則縱,否則留之,是三路耕耘收獲稼穡之業幾盡廢也。

唐の開元以来、民兵の法は廃れ、戍守や戦攻には全て長征の兵士を募り、民間では何ぞ嘗て兵事を習わんや。国家は太平を承けて百有余年、白髪の老人は兵革を識らず、一旦にして畎畝の民が皆戎服を着て兵を執り、奔駆して野に満ち、耆旧は歎息し、不祥と為す。事既に草創し、調発に法なく、比戸騒擾し、一家も遺さず。又、巡検・指使が郷村を行按し、往来すること織の如し。保正・保長は依倚して権を弄び、坐して供給を索め、多く賂遺を責め、少しも意に副わざれば、妄りに鞭撻を加え、行伍を蚕食し、紀極を知らず。中下の民は、家の所有を罄き、肌を侵し骨を削り、以て供億すべくもなく、愁苦困弊し、訴えを投ずる所なく、四方に流移し、繈属路に盈つ。又、朝廷は時に使者を遣わし、遍く行き按閲し、至る所で犒設賞賚し、金帛を糜費して巨万を以て計る。此れ皆、平民を鞭撻し銖両丈尺を以て斂め、一旦之を用いること糞土の如し。而して郷村の民は、但だ労役を苦しみ、恩沢を感ぜず。農民の労既に此の如く、国家の費又此の如く、終に何の用かあらんや。若し之をして盗賊を捕え、郷里を衛わしむれば、何ぞ必ずしも此くの如く多くせん。之をして辺境を戍り、征伐に事えしむれば、則ち彼の遠方の民は、騎射を業とし、攻戦を俗と為し、幼より長に及び、更に他の務め無し。中国の民は、大半田に服し力を穡にし、復た兵械を授け、撃刺を教うと雖も、教場の中に坐作進退し、厳整なる有るも、必ずや之をして敵人与に相遇わしめ、填然と鼓し、鳴鏑始めて交われば、其の奔北潰敗は以て前もって料るべく、決して疑い無し、豈に国事を誤らざらんや。又、悉く三路の巡検下の兵士及び諸県の弓手を罷め、皆保甲に易う。主簿は県尉を兼ね、但だ草市以裏を主とし、其の郷村の盗賊は悉く巡検に委ね、而して巡検は兼ねて巡按保甲の教閲を掌り、朝夕奔走し、猶お弁ぜざるを恐る、何の暇にか盗賊を逐捕せん。又、保甲の中には往々自ら盗を為す者有り、亦保馬に乗じて劫を行なう者有り。然らば則ち保甲・保馬を設くるは本と盗を除くを以てす、乃ち更に盗を資すなり。

原文自唐開元以來,民兵法壞,戍守戰攻,盡募長征兵士,民間何嚐習兵?國家承平百有餘年,戴白之老不識兵革,一旦畎畝之人皆戎服執兵,奔驅滿野,耆舊歎息,以為不祥。事既草創,調發無法,比戶騷擾,不遺一家。又巡檢、指使按行鄉村,往來如織;保正、保長,依倚弄權,坐索供給,多責賂遺,小不副意,妄加鞭撻,蠶食行伍,不知紀極。中下之民,罄家所有,侵肌削骨,無以供億,愁苦困弊,靡所投訴,流移四方,繈屬盈路。又朝廷時遣使者,遍行按閱,所至犒設賞賚,糜費金帛,以巨萬計。此皆鞭撻平民銖兩丈尺而斂之,一旦用之如糞土。而鄉村之民,但苦勞役,不感恩澤。農民之勞既如披,國家之費又如此,終何所用哉?若使之捕盜賊,衛鄉里,則何必如此之多?使之戍邊境,事征伐,則彼遠方之民,以騎射為業,以攻戰為俗,自幼及長,更無他務。中國之民,大半服田力穡,雖復授以兵械,教之擊刺,在教場之中坐作進退,有似嚴整,必若使之與敵人相遇,填然鼓之,鳴鏑始交,其奔北潰敗可以前料,決無疑也,豈不誤國事乎?又悉罷三路巡檢下兵士及諸縣弓手,皆易以保甲。主簿兼縣尉,但主草市以裏;其鄉村盜賊,悉委巡檢,而巡檢兼掌巡按保甲教閱,朝夕奔走,猶恐不辦,何暇逐捕盜賊哉?又保甲中往往有自為盜者,亦有乘保馬行劫者。然則設保甲、保馬本以除盜,乃更資盜也。

保甲を教閲して以来、河東・陝西・京西の盗賊已に多く、至って敢えて白昼公行し、県鎮に入り、官吏を殺す。官軍追討すれども、歳月を経歴し、終に制すること能わず。況んや三路未だ大饑に至らずして、而して盗賊猖熾已に此の如し、万一数千里の蝗旱に遇い、而して失業饑寒・武藝成就の人の、所在蜂起して之に応ずれば、其の国家の患と為す、言うに勝えんや。此れ小事に非ず、以て忽にすべからず。夫れ其の衣食を奪い、以て生くべき無からしむるは、是れ民を駆りて盗と為すなり。比屋をして戦を習わしめ、官賞を以て勧むるは、是れ民を教えて盗と為すなり。又、盗を捕うる人を撤去するは、是れ民を縦して盗と為すなり。国を謀る此の如く、果たして利と為さんや、害と為さんや。

原文自教閱保甲以來,河東、陝西、京西盜賊已多,至敢白晝公行,入縣鎮,殺官吏。官軍追討,經曆歲月,終不能製。況三路未至大饑,而盜賊猖熾已如此,萬一遇數千里之蝗旱,而失業饑寒、武藝成就之人,所在蜂起以應之,其為國家之患,可勝言哉!此非小事,不可以忽。夫奪其衣食,使無以為生,是驅民為盜也;使比屋習戰,勸以官賞,是教民為盜也;又撤去捕盜之人,是縱民為盜也。謀國如此,果為利乎?害乎?

且つ向者干進の士、先帝に征伐開拓の策を説きて、故に保甲・戸馬・保馬等の法を立てしむ。近者登極の赦書に云う有り、「応に縁辺の州軍は、逐処の長吏並びに巡検・使臣・鈐轄・兵士及び辺上の人戸に仰せ、外界を侵擾せず、務めて疆埸を静守し、騒擾せしむること勿れ」と。此れ蓋し聖意、殊才を恵綏し、生民を休息せしめんと欲するなり、中外の人孰れか帰戴せざらん。然らば則ち保甲・戸馬復た何の用かあらん。或いは今戸馬を罷め、保馬を寬うすと雖も、而して保甲猶お存するは、蓋し未だ其の利害の詳を以て奏聞する者無きなり。

原文且向者干進之士,說先帝以征伐開拓之策,故立保甲、戶馬、保馬等法。近者登極赦書有云:“應緣邊州軍,仰逐處長吏並巡檢、使臣、鈐轄、兵士及邊上人戶不得侵擾外界,務要靜守疆埸,勿令騷擾。”此蓋聖意欲惠綏殊才,休息生民,中外之人孰不歸戴?然則保甲、戶馬復何所用?或今雖罷戶馬,寬保馬,而保甲猶存者,蓋未有以其利害之詳奏聞者也。

臣愚、以爲うらくは悉く保甲を罷めて農に帰らしめ、提挙官を召し還朝せしめ、逐県の戸口を量り、毎五十戸に弓手一人を置き、略ぼ縁辺弓箭手の法に依り、本戸の田二頃を蔭するを許し、悉く其の税役を免ず。賊の出づる地分を除き、更に三限の科校を立たず、但だ賊を捕えて賞を給うるを令す。若し賊を獲ること数多き及び能く強悪の賊人を獲る者は、各功の大小に随い職級を遷補し、或いは班行を補い、務めて弓手を優仮し、人をして勧募せしむ。然る後に本県郷村の戸に勇力武藝有る者を募り投充せしめ、計らく即今保甲の中に勇力武藝有る者は必ず多く願いて応募せん。若し一人欠額し、二人以上争いて投ずる者有らば、即ち本県の令・尉に委ね武藝高強者を選び充てしむ。或いは武藝衰退する者は、他人の指名して之と比較するを許し、若し武藝旧に勝る者あらば、即ち衝替せしめ、其の替えらるる者は、更に田を蔭することを得ず。此くの如くすれば、必ずしも教閲せず、武藝自然精熟せん。一県の中、其の壮勇なる者は既に弓手と為り、其の羸弱なる者は使いて盗と為すと雖も、亦患いと為す能わざらん。仍て本州及び提点刑獄に委ね常に按察せしめ、令佐に取舍公ならざる者有らば、厳しく典憲を行わしむ。若し召募足らざれば、且つ即ち郷村の戸上に於て旧条に依り権差し、投名する者有るを候えば即ち充替せしむ。其の余の巡検兵士・県尉弓手・耆老・壮丁の盗賊を逐捕するは、並びに乞う祖宗の旧法に依らんことを。

原文臣愚以為悉罷保甲使歸農,召提舉官還朝,量逐縣戶口,每五十戶置弓手一人,略依緣邊弓箭手法,許蔭本戶田二頃,悉免其稅役。除出賊地分,更不立三限科校,但令捕賊給賞。若獲賊數多及能獲強惡賊人者,各隨功大小遷補職級,或補班行,務在優假弓手,使人勸募。然後募本縣鄉村戶有勇力武藝者投充,計即今保甲中有勇力武藝者必多願應募。若一人缺額,有二人以上爭投者,即委本縣令、尉選武藝高強者充。或武藝衰退者,許他人指名與之比較,若武藝勝於舊者,即令衝替,其被替者,更不得蔭田。如此,則不必教閱,武藝自然精熟。一縣之中,其壯勇者既為弓手,其羸弱者雖使為盜,亦不能為患。仍委本州及提點刑獄常按察,令佐有取舍不公者,嚴行典憲。若召募不足,且即於鄉村戶上依舊條權差,候有投名者即令充替。其餘巡檢兵士、縣尉弓手、耆老、壯丁逐捕盜賊,並乞依祖宗舊法。

五月、光を門下侍郎と為す。光復た前の説を申さんと欲し、以爲うらくは保甲を教閲するは公私労費して用無しと。是の時、資政殿学士韓維・侍読呂公著復た上前の奏を進めんと欲し、先づ是に進呈し、団教を罷むるを乞う。詔して府界・三路の保甲は来年正月以後より並びに団教を罷め、仍て旧に依り毎歳農隙に県に赴き一月教閲せしめ、其の官を差し場を置き、軍器を排備し、教閲の法式番次、按賞の費用は、枢密院・三省に令して同く法を立つ。後六日、光再び上奏し、其の懇切を極む。蔡確等執奏して行わず。詔して保甲は枢密院の已に得たる指揮に依り、保馬は別に議して法を立つ。

原文五月,以光為門下侍郎。光欲復申前說,以為教閱保甲公私勞費而無所用。是時,資政殿學士韓維、侍讀呂公著欲復上前奏,先是進呈,乞罷團教。詔府界、三路保甲自來年正月以後並罷團教,仍依舊每歲農隙赴縣教閱一月,其差官置場,排備軍器,教閱法式番次,按賞費用,令樞密院、三省同立法。後六日,光再上奏,極其懇切,蔡確等執奏不行。詔保甲依樞密院已得指揮,保馬別議立法。

九月、監察御史王岩叟言う、「保甲の害、三路の民は湯火の中に在るが如し、必ずしも皆法の弊に非ず、蓋し提挙一司上下の官吏の之を逼るに由りて然らしむるなり。而して近日の指揮は冬教を令すと雖も、然れども尚お官司を存すれば、則ち以て保甲の害と為す所のもの、十分の六七猶お在り、陛下の知らざる所なり。此れ皆奸邪の非を遂げ過を飾り、而して巧辞強辨を以て聖聴を欺惑し、将に至深の病を略示更張し、以て陛下の聖意に応副するのみ、至誠を以て国家の為に大害を去り大利を復し、以て百姓に便し、太平長久の計と為すに非ざるなり。此れ忠義の良心の猶お抑えらるる所以、奸邪の素計の尚お存する所以なり。天下の識者は、皆陛下の害源を絶たずんば、百姓由りて生を楽しまず、群邪を屏けずんば、太平終に是れ致し難しと言う。臣願わくは陛下奮然として独断し、聴政の初めの如く数事を行わば、則ち天下の大體虧くる無く、陛下高枕して臥せん」と。十月、詔して府界・三路の保甲官を提挙するを並びに罷め、逐路の提刑及び府界提点司に令して兼ねて領せしめ、所有の保甲は、冬教三月に止む。又詔して逐県の監教官を並びに罷め、令佐に委ね監教せしむ。

原文九月,監察御史王岩叟言:“保甲之害,三路之民如在湯火,未必皆法之弊,蓋由提舉一司上下官吏逼之使然。而近日指揮雖令冬教,然尚存官司,則所以為保甲之害者,十分之六七猶在,陛下所不知也。此皆奸邪遂非飾過,而巧辭強辨以欺惑聖聽,將至深之病略示更張,以應副陛下聖意而已,非至誠為國家去大害、復大利,以便百姓,為太平長久之計者也。此忠義之良心所以猶抑,奸邪之素計所以尚存。天下之識者,皆言陛下不絕害源,百姓無由樂生;不屏群邪,太平終是難致。臣願陛下奮然獨斷,如聽政之初行數事,則天下之大體無虧,陛下高枕而臥矣。”十月,詔提舉府界、三路保甲官並罷,令逐路提刑及府界提點司兼領所有保甲,止冬教三月。又詔逐縣監教官並罷,委令佐監教。

十一月、岩叟言う。

原文十一月,岩叟言:

保甲行わるること累年、朝廷固より已に人情の共に苦しむ所を知る。而して前日詔を下し疾病を蠲め、小弱を汰い、第五等の田二十畝に及ばざる者を釈し、一月の六教を省みて三日の並教と為すは、甚だ大なる恵なり。然れども其の司尚お存し、其の患終に在り。今臣の見る所を以て陛下に言わん、敢えて其の実を隠して朝廷を欺かず、亦敢えて其の事を飾りて成法を罔かず。

原文保甲行之累年,朝廷固已知人情之所共苦,而前日下詔蠲疾病,汰小弱,釋第五等之田不及二十畝者,省一月之六教而為三日之並教,甚大惠也。然其司尚存,其患終在。今以臣之所見者為陛下言,不敢隱其實以欺朝廷,亦不敢飾其事以罔成法。

朝廷は民を教えて兵となすことを知るも、教えが苛酷にして民堪え難きを知らず、別に一司を設けてこれを総べるを知るも、煩わしすぎて民に怨みを生ずるを知らざるなり。教えるは用いんがためなりしに、これをして怨みに至らしむれば、恐らくは一日これを用うるに、吾が意の如くならざる者あらん、思わざるべからざるなり。

原文夫朝廷知教民以為兵,而不知教之太苛而民不能堪;知別為一司以總之,而不知擾之太煩而民以生怨。教之欲以為用也,而使之至於怨,則恐一日用之,有不能如吾意者,不可不思也。

民の言うところは、教法の難きは以て苦しみと為すに足らず、而して羈縻の虐はこれに甚だしきものあり、羈縻は以て苦しみと為すに足らず、而して鞭笞の酷はこれに甚だしきものあり、鞭笞は以て苦しみと為すに足らず、而して誅求の已む無きはこれに甚だしきものあり、と。耕し耘す方に罷め、幹び営む方に去る、これ羈縻の以て苦しみと為す所以なり。その教うるや、保長これを笞ち、保正またこれを笞ち、巡検の指使と巡検の者とまた交えてこれを撻ち、提挙司の指使と提挙司の幹当公事の者とまた互いにこれを鞭ち、提挙の官長またこれを鞭つ。一たび逃避あれば、県令またこれを鞭つ。人聊生するなく、恨みて死なざるを得ず、これ鞭笞の以て苦しみと為す所以なり。袍を創り、巾を市い、弓を買い、箭に絛し、弦を添え、包指を換え、鞍轡を治め、涼棚を蓋い、象法を画き、隊牌を造り、架を緝め、椅卓を僦し、典紙墨を囲い、人雇直を見定め、菜緡を均し、秸粒を納むるの類、その名百出し、数え勝うべからず。故に父老の諺に曰く、「児曹手空しくして、以て教場に入るべからず」と。虚語に非ざるなり。都副両保正・大小両保長、平居家に在りては、婚姻喪葬の間遺、秋成夏熟、絲麻穀麥の要求、城市に遇えば、飲食の責望、これ勢いに迫られて敢えて致さざるを得ざるものなり。一たび意に如かざれば、即ち芸法に如かざるを以て名と為し、而してこれを捶辱すること至らざる所無し。また所謂巡検・指使の者、多くこの徒より出で、貪りて法を冒し、後禍を顧みず、保正・保長に逾えるものあり、これ誅求の以て甚だ苦しきと為す所以なり。

原文民之言曰,教法之難不足以為苦,而羈縻之虐有甚焉;羈縻不足以為苦,而鞭笞之酷有甚焉;鞭笞不足以為苦,而誅求之無已有甚焉。方耕方耘而罷,方幹方營而去,此羈縻之所以為苦也。其教也,保長得笞之,保正又笞之,巡檢之指使與巡檢者又交撻之,提舉司之指使與提舉司之幹當公事者又互鞭之,提舉之官長又鞭之,一有逃避,縣令又鞭之。人無聊生,恨不得死,此鞭笞之所以為苦也。創袍、市巾、買弓、絛箭、添弦、換包指、治鞍轡、蓋涼棚、畫象法、造隊牌、緝架、僦椅卓、圍典紙墨、看定人雇直、均菜緡、納秸粒之類,其名百出,不可勝數。故父老之諺曰:“兒曹空手,不可以入教場。”非虛語也。都副兩保正、大小兩保長,平居於家,婚姻喪葬之問遺,秋成夏熟,絲麻穀麥之要求,遇於城市,飲食之責望。此迫於勢而不敢不致者也。一不如意,即以藝不如法為名,而捶辱之無所不至。又所謂巡檢、指使者,多由此徒以出,貪而冒法,不顧後禍,有逾於保正、保長者,此誅求之所以為甚苦也。

また養子を逐い、贅婿を出し、その母を再嫁せしめ、兄弟析居して以て免れんことを求むる者あり、その目を毒し、その指を断ち、その肌膚を炙して以て自ら残廃と為し免れんことを求むる者あり、室を尽くして逃れて帰らざる者あり、老弱を家に委ねて保丁自ら逃るる者あり。保丁逃るれば、則ち法当にその家を督めて賞銭十千を出だし以てこれを募るべし。その家に出だす所有らしむれば、当に未だ逃るるに至らざるべし、逃るるに至れば、則ちその困窮知るべく、而して十千を督取する、何を以てか得べけんや。故に毎県常に数十百家の老弱、道路に嗟諮し、公庭に哀訴す。臣が愚の如き、且つ忍びざるを知る、陛下仁聖にしてこれを知らしめば、当に如何ならんや。

原文又有逐養子、出贅婿、再嫁其母、兄弟析居以求免者,有毒其目、斷其指、炙其肌膚以自殘廢而求免者,有盡室以逃而不歸者,有委老弱於家而保丁自逃者。保丁者逃,則法當督其家出賞錢十千以募之。使其家有所出,當未至於逃;至於逃,則其困窮可知,而督取十千,何可以得?故每縣常有數十百家老弱嗟谘於道路,哀訴於公庭。如臣之愚,且知不忍,使陛下仁聖知之,當如何也?

また保丁の外、平民凡そ一馬ある者は、皆借供せしむ。場を逐って騎を教え、終日馳驟し、往々饑羸して以て斃るるに至る、誰か復た敢えて言わん。その或いは主家倘いに他出に因り、一たび誤って借供せしめば、遂に追呼笞責の害あり。或いは官逋督迫に因り、已むを得ずしてこれを易うれば、則ち抑令して還取するの苦あり、故に人人馬あるを以て禍と為す。これ皆提挙官吏法に倚りて以て事を生じ、重ねて百姓の擾れと為す者なり。

原文又保丁之外,平民凡有一馬,皆令借供。逐場教騎,終日馳驟,往往饑羸以至於斃,誰復敢言?其或主家倘因他出,一誤借供,遂有追呼笞責之害。或因官逋督迫,不得已而易之,則有抑令還取之苦,故人人以有馬為禍。此皆提舉官吏倚法以生事,重為百姓之擾者也。

窃に惟うに、古者は未だ嘗て民を教えて戦わしめざるはあらず、而してこのあるを聞かざるは、人の情に因りて以て法と為すなり。情に縁りて以て法を推せば、則ち愈久しくして愈行わる、威に倚りて以て令を行えば、則ち愈厳にして愈悖る。これ自然の理なり。獣窮すれば則ち搏ち、人窮すれば則ち詐る、古より今に至るまで、その下を窮めて能く危き無き者は未だあらざるなり。臣保甲一司を観るに、上下の官吏、毫髪も百姓を愛するの意無く、故に百姓その官司を視るに虎狼に啻ならず、憤りを積み怨みを銜み、人人同じき所なり。比者保丁指使を執り、巡検を逐い、提挙司の幹当官を攻む、大獄相継ぎ、今猶未だ已まず。民の愚なるといえども、顧みて豈に父母妻子の愛を忘れ、而して犯上の悪を喜びて以て禍を取らんや。蓋しこれを激してこの極に至らしむるなり。これを激すること深きに至れば、その発することこの上に甚だしきあるを知らんや。情状かくの如し、先事にして慮り、以て大體を保ち安静を図らざるべからず。

原文竊惟古者未嘗不教民以戰,而不聞其有此者,因人之情以為法也。夫緣情以推法,則愈久而愈行;倚威以行令,則愈嚴而愈悖。此自然之理也。獸窮則搏,人窮則詐,自古及今,未有窮其下而能無危者也。臣觀保甲一司,上下官吏,無豪發愛百姓意,故百姓視其官司不啻虎狼,積憤銜怨,人人所同。比者保丁執指使,逐巡檢,攻提舉司幹當官,大獄相繼,今猶未已。雖民之愚,顧豈忘父母妻子之愛,而喜為犯上之惡以取禍哉?蓋激之至於此極爾!激之至深,安知其發有不甚於此者?情狀如此,不可不先事而慮,以保大體而圖安靜。

三時に農に務め、一時に武を講ず、これ先王の通制なり。一月の間に並びて三日を教うるは、一歳のうちに並びて一月を教うるに若かず。農事既に畢り、他に用心無く、人自ら武を講ずるに安んじて憾み無からん。遂に提挙司を罷め、巡教官を廃し、一たび州県に隷せしめ、而して逐路安撫司をしてこれを総べしむ。毎に冬を俟って城下に教え、一邑を分かちて両番と為し、一月に当たらしむ。教えを起せば則ち正長と階級を論じ、教えを罷めば則ち正長と相誰何せず。庶幾くは百姓以て優遊し生を治め、終年遁逃の苦無く、侵漁苛虐の患無く、爭陵犯上の悪無からしめん。且つ武事廃せず、威聲も亦全からん。豈に易くして功有らざらんや。惟うに陛下深く計り遠く慮り、断じて必ず行い、以て多事を省き、以て生霊安楽の恵と為し、以て国家安静の福と為さんことを。

原文夫三時務農,一時講武,先王之通製也。一月之間並教三日,不若一歲之中並教一月。農事既畢,無他用心,人自安於講武而無憾。遂可罷提舉司,廢巡教官,一以隸州縣,而俾逐路安撫司總之。每俟冬教於城下,一邑分兩番,當一月。起教則與正長論階級,罷教則與正長不相誰何。庶使百姓得以優遊治生,無終年遁逃之苦,無侵漁苛虐之患,無爭陵犯上之惡矣。且武事不廢,威聲亦全,豈不易而有功哉?惟陛下深計遠慮,斷在必行,以省多事,以為生靈安樂之惠,以為國家安靜之福。

また三路提挙保甲銭糧司を罷め、及び提挙教閲を罷め、及び毎歳保甲を分かちて両番と為し、十一月・十二月の両月上に教え、必ずしも四番に分かち作すべからず、且つ必ずしも京師より官を遣わして教えを視さしむべからず、止めに安撫司に差那の使臣をして為さしむるを便とす、と乞う。並びにこれに従う。

原文又乞罷三路提舉保甲錢糧司及罷提舉教閱,及每歲分保甲為兩番,於十一、十二兩月上教,不必分作四番,且不必自京師遣官視教,止令安撫司差那使臣為便。並從之。

元祐元年正月、枢密院言う、「府界・三路の保甲已に団教を罷む、その教閲の器械悉く官に上送し、仍て禁約を立てん」と。閏二月、詔して河北東西路・永興・秦鳳等路提点刑獄に保甲を提挙するを兼ねしめ、並びに提刑司の例に依り各々一司と為す。三月、王岩叟狄諮・劉定の奸贓の状を劾す。御史孫升も亦言う、「劉定は上には章惇の奸党に挾まり、下には狄諮の庸材に附き、大いに憑陵し、公に恐喝を行い、故に真定獲鹿の変は後に起こり、澶・滑の盗は前に作る、願わくは早くその罪を正せ」と。ここにおいて諮・定皆罷められ、外の宮観と為す。十一月、詔して府界・三路の保甲人戸五等已下、地土二十畝に及ばざる者は、三丁以上と雖も、並びに教えを免ず、と。殿中侍御史呂陶の請いに従うなり。

原文元祐元年正月,樞密院言:“府界、三路保甲已罷團教,其教閱器械悉上送官,仍立禁約。”閏二月,詔河北東西路、永興、秦鳳等路提點刑獄兼提舉保甲,並依提刑司例各為一司。三月,王岩叟劾狄諮、劉定奸贓狀。御史孫升亦言:“劉定上挾章惇之奸黨,下附狄諮之庸材,大肆憑陵,公行恐喝,故真定獲鹿之變起於後,澶、滑之盜作於前,願早正其罪。”於是諮、定皆罷,與在外宮觀。十一月,詔府界、三路保甲人戶五等已下、地土不及二十畝者,雖三丁以上,並免教。從殿中侍御史呂陶之請也。

紹聖二年七月、帝義勇・保甲の数を問う、宰臣章惇曰く、「義勇は、祖宗以来の旧法なり。治平中、韓琦使いを遣わし陝西に詣りて再び丁数を括り添刺せんことを請う。熙寧中、先帝始めて保甲法を行い、府界・三路七十余万丁を得たり。官を設け教閲するは府界に始まり、衆議沸騰す。芸を教え既に成り、更に正兵に勝る。元豊中、始めて使いを遣わし遍く三路を教う。先帝留神して按閲し、芸精なる者は厚く賞し、或いは差使・軍将の名目を以て擢で、而して一時の賞賚率ね封樁或いは禁軍の闕額に取り、未だ嘗て戸部の一銭を費やすこと無し。元祐に馳廃せしむる、深く惜しむべし」と。

原文紹聖二年七月,帝問義勇、保甲數,宰臣章惇曰:“義勇,自祖宗以來舊法。治平中,韓琦請遣使詣陝西再括丁數添刺。熙寧中,先帝始行保甲法,府界、三路得七十餘萬丁。設官教閱始於府界,眾議沸騰。教藝既成,更勝正兵。元豐中,始遣使遍教三路。先帝留神按閱,藝精者厚賞,或擢以差使、軍將名目,而一時賞賚率取諸封樁或禁軍闕額,未嘗費戶部一錢。元祐馳廢,深可惜也。”

元符二年(1099年)九月、御史中丞安惇が奏上して保甲の教習月分を定め、官を差して按試することを請うた。曾布が言うには、「保甲は確かに教習すべきであるが、しかし陝西・河東では連年城砦を進築し、調発が未だ止まず、河北では連年水害があり、流民が未だ回復せず、これをもって督責訓練をなすべからず」と。帝(哲宗)が言うには、「府界では先に行うことができぬか」と。布が言うには、「熙寧年間に保甲を教習した時、臣は司農に在った。その時諸県は保甲を引見し、事藝は精熟していた」と。章惇が即座に言うには、「多くは班行を得た」と。布が言うには、「ただ殿侍・軍将を得たに過ぎないが、しかし皆さらに差し充てて巡検司指揮となした。これにより、仕宦及び有力の家の子弟は、皆欣んで赴いた。また引対の際、乗る所は皆良馬で、鞍韉は華美で整い、馬上の事藝は往々にして諸軍に勝った。知県・巡検もまた皆転官あるいは減年を得た。これにより、上下皆踊躍自ら効した。しかしその時は司農官が親しくその事を任じ、督責検察は極めて精密で、県令に保甲に衣装を置かせて抑令し、非理に騒擾する者もあり、皆衝替されたので、人は敢えて法を奉じざる者無かった。その後、上番を命じたのである」と。帝が言うには、「まず府界において検挙施行せよ」と。蔡卞が言うには、「先朝の法中に少し加えて裁損するも、不可なる理無し」と。布は甚だ便りとし、文字を検尋して進呈することを容れた。

原文元符二年九月,御史中丞安惇奏乞教習保甲月分,差官按試。曾布言:“保甲固當教習,然陝西、河東連年進築城砦,調發未已,河北連年水災,流民未復,以此未可督責訓練。”帝曰:“府界豈不可先行?”布曰:“ 熙寧中教保甲,臣在司農。是時諸縣引見保甲,事藝精熟。”章惇即曰:“多得班行。”布曰:“止是得殿侍、軍將,然俱更差充巡檢司指揮。以此,仕宦及有力之家子弟,皆欣然趨赴。及引對,所乘皆良馬,鞍韉華楚,馬上事藝往往勝諸軍。知縣、巡檢又皆得轉官或減年。以此,上下皆踴躍自效。然是時司農官親任其事,督責檢察極精密,縣令有抑令保甲置衣裝非理騷擾者,亦皆衝替,故人莫敢不奉法。其後乃令上番。”帝曰:“且與先是府界檢舉施行。”蔡卞曰:“於先朝法中稍加裁損,無不可之理。”布以為甚便,容檢尋文字進呈。

十一月、蔡卞が上(哲宗)を勧めて畿内保甲教閲法を復行せしめ、帝はたびたび曾布を督した。この日、布が進呈して畿内保丁の総数は二十六万、熙寧中に事藝を教えた者は凡そ七万であると言い、ついで言うには、「この事は固より講求すべきであるが、しかし廃罷して已に十五年、一旦復行すれば、事の初めと異ならず、漸次に行うべきで、則ち人は驚擾に至らざるべし」と。帝が言うには、「固より漸次に行うべきである」と。布が言うには、「聖諭この如く、尽きたり。もし直ちに元豊の成法を以て一切挙行すれば、当時の保丁の存する者は幾ばくも無く、未だ教習せざる人を以て、直ちに上番及び集教を命ずれば、則ち人情洶洶として、安んずる易からざるべし。熙寧中、施行にもまた漸次があった。臣に施行の次第を講求せしめられよ」と。退いて卞に語ると、卞は殊に不快とし、乃ち言うには、「熙寧初年、人は未だ保甲の法を知らなかった。今は耳目已に習熟し、自ずから同からず」と。布は答えなかった。

原文十一月,蔡卞勸上復行畿內保甲教閱法,帝屢以督曾布。是日,布進呈畿內保丁總二十六萬,熙寧中教事藝者凡七萬,因言:“此事固當講求,然廢罷已十五年,一旦復行,與事初無異,當以漸行,則人不至於驚擾。”帝曰:“固當以漸行之。”布曰:“聖諭如此,盡之矣。若便以元豐成法一切舉行,當時保丁存者無幾,以未教習之人,便令上番及集教,則人情洶洶,未易安也。熙寧中,施行亦有漸。容臣講求施行次第。”退以語卞,卞殊以為不快,乃云:“熙寧初,人未知保甲之法。今耳目已習熟,自不同矣。”布不答。

徽宗崇寧四年(1105年)、枢密院が言うには、「近ごろ京畿の保甲が八百七十一通の牒を投じて教閲免除を乞い、また二百三十余通の牒を以て枢密張康国の馬首を遮って訴えた」と。この月、詔して京畿・三路の保甲は共に農隙の時に教閲し、その月教の指揮は行うなと。

原文徽宗崇寧四年,樞密院言:“比者京畿保甲投八百七十一牒乞免教閱,又二百三十餘牒遮樞密張康國馬首訴焉。”是月,詔京畿、三路保甲並於農隙時教閱,其月教指揮勿行。

五年(1106年)、詔して河北東西路・河東路・永興軍路・秦鳳路は各武臣一員を差し充てて提挙保甲とし、併せて提刑を兼ねさせ、その現に専ら提挙保甲を務める文臣は皆罷免せよと。この月、詔して京畿は武臣一員を差し充てて提挙保甲とし提刑を兼ねさせ、なお文臣の提刑を差し保甲提挙を兼ねさせよと。

原文五年,詔河北東西、河東、永興、秦鳳路各武臣一員充提舉保甲並兼提刑,其見專提舉保甲文臣並罷。是月,詔京畿差武臣一員充提舉保甲兼提刑,仍差文臣提刑兼提舉保甲。

政和三年(1113年)四月、枢密院が言うには、「神考(神宗)が保甲の法を制定され、京畿・三路は聚教し、毎番は五十日と号すといえども、その間に能く弓弩を勤習し賞に該る者はまず拍放した。一年のうち、場において閲教するのは、遠き者は二十七日を過ぎず、近き者は十八日に止まるのみである。もし秋稼に災傷あれば、則ち当年の聚教を免ずる。もし武藝稍々能く精熟すれば、則ち激賞の法あり。闘力出等すれば、則ち戸下の春夫・科配を免じ、最高強者は、則ち解発して引見し、試藝して命官する。これを累年行い、人は皆楽従した。ただ京東・西路は団成保甲の名有りといえども、未だ武事を以て訓せず、その間にまた人材甚だ衆く、武藝を習い、以て命官任使すべきの人あるを慮る。今、三路保甲の編修点択条約に依らんと欲す」と。これに従った。八月、枢密院が言うには、「諸路団成した保甲は六十一万余り、悉く皆楽従して擾わず。その京東・西路提挙官任諒は已に一官を転じ、直秘閣となった。その朝議大夫已上の者は転行を与え、武臣武功大夫は特に遙郡刺史に転じさせ、その余の官は磨勘年を差等に減ずる」と。

原文政和三年四月,樞密院言:“神考製保甲之法,京畿、三路聚教,每番雖號五十日,其間有能勤習弓弩該賞者首先拍放。一歲之中,在場閱教,遠者不過二十七日,近者止於十八日而已。若秋稼災傷,則免當年聚教。如武藝稍能精熟,則有激賞之法。鬥力出等,則免戶下春夫、科配;最高強者,則解發引見,試藝命官。行之累年,人皆樂從。惟京東、西雖有團成保甲之名,未嘗訓以武事,慮其間亦有人材甚眾,能習武藝,可以命官任使之人。今欲依三路保甲編修點擇條約。”從之。八月,樞密院言:“諸路團成保甲者六十一萬餘人,悉皆樂從無擾。其京東、西路提舉官任諒已轉一官,直秘閣。其朝議大夫已上與轉行,武臣武功大夫特與轉遙郡刺史,餘官減磨勘年有差。”

宣和元年(1119年)、詔して提挙保甲は州県都保が令に如かざる者を督察し、一ヶ月を限りに改正させ、毎年改正の多寡を以て殿最とせよと。二年(1120年)、詔して諸路の保甲法は皆元豊旧制に遵依し、京東・京西路は共に罷めよと。

原文宣和元年,詔提舉保甲督察州縣都保不如令者,限一月改正,每歲以改正多寡為殿最。二年,詔諸路保甲法並遵依元豐舊制,京東、京西路並罷。

三年(1121年)、詔して、「先帝は成周の保伍の法を若稽し、五家を以て相い比し、推し達して、二十五家を以て一大保とし、二百五十家を以て一都保となす。保各々長有り、都各々正有り、正各々副有り、之をして相い保ち相い愛し、以て奸慝を察せしむ。故に行う所あるに、諸外より来る者は、同保互いに告げ、各々相い知らしめ、行止明らかならざる者は、所属に送ることを聴す。保内の盗賊は、画時に集捕し、知りて糾さざれば、また律の如く論ず。以て糾禁幾察し、纖悉具備し、奇邪寇盗、何れの所にか容跡せん。訪聞するに法行ること既に久しく、州県玩習弛廃し、保丁の開収既に実を以てせず、保長の役使また時に以てせず。鼓鋪を修め、粉壁を飾り、敗船を守り、道路を治め、夫役を給し、税賦を催すの類、科率騒擾一ならず、遂に寇賊奇邪をして復た糾察無からしめ、良法美意浸く虚文と成る。尚書省に令して諸路の提点刑獄あるいは提挙常平官の内、毎路一員を選委し、専ら逐県の令佐を督責せしめ、係籍の人丁の開収を実を取らしめ、保正長を選択し、各々更替法の如くし、保丁を鈐束して、遞相いに覚察せしめ、亡頼作過等の人を舍て置くこと無からしめ、盗賊に遇えば画時に追捕せしめ、もし過ち致して蔵匿する者有れば、諸人の告首を許し、なお条を具して揭示せよ」と。

原文三年,詔:“先帝若稽成周製保伍之法,自五家相比,推而達之,二十五家為一大保,二百五十家為一都保。保各有長,都各有正,正各有副,使之相保相愛,以察奸慝。故有所行,諸自外來者,同保互告,使各相知;行止不明者,聽送所屬。保內盜賊,畫時集捕,知而不糾,又論如律。所以糾禁幾察,纖悉具備,奇邪寇盜,何所容跡?訪聞法行既久,州縣玩習弛廢,保丁開收既不以實,保長役使又不以時。如修鼓鋪、飾粉壁、守敗船、治道路、給夫役、催稅賦之類,科率騷擾不一,遂使寇賊奇邪無復糾察,良法美意浸成虛文。可令尚書省於諸路提點刑獄或提舉常平官內,每路選委一員,令專一督責逐縣令佐,將係籍人丁開收取實;選擇保正長,各更替如法,使鈐束保丁,遞相覺察,毋得舍亡賴作過等人,遇有盜賊,畫時追捕,若有過致藏匿者,許諸人告首,仍具條揭示。”

欽宗靖康元年(1126年)三月、尚書戸部侍郎錢蓋を以て龍図閣学士・陝西五路制置使とし、専ら京兆府路保甲の措置に当たらしめた。六月、御史胡舜陟が奏上して、「秦元は兵法を学ぶこと三十年、陛下これを下僚より抜き、京畿提刑とし、保甲を訓練せしめ、聞く者慰悦せざる無し。武臣提刑を罷め、保甲を元に属せしめ、庶幾くは専一を得んことを乞う」と。これに従った。十一月、京畿提挙秦元が保甲三万を集め、先に出屯を請い、自ら一面を当たろうとした。従わなかった。金兵が城に迫ると、また訓練を行い、間を乗じて出戦することを乞うた。守禦使劉韐が保甲を取って自ら益とすることを奏上し、元の謀は遂に塞がれたという。

原文欽宗靖康元年三月,以尚書戶部侍郎錢蓋為龍圖閣學士、陝西五路製置使,專一措置京兆府路保甲。六月,御史胡舜陟奏:“秦元學兵法三十年,陛下拔之下僚,為京畿提刑,訓練保甲,聞者莫不慰悅。乞罷武臣提刑,以保甲屬元,庶得專一。”從之。十一月,京畿提舉秦元集保甲三萬,先請出屯,自當一面。不從。金兵薄城,又乞行訓練,乘間出戰。守禦使劉韐奏取保甲自益,元謀遂塞雲。

建炎以後の郷兵

原文建炎後鄉兵

巡社(建炎元年(1127年)、詔して諸路州軍の巡社は皆忠義巡社を以て名とし、宣撫司に隷し、後に郷民を募ってこれを行った。毎十人を一甲とし、甲長有り、隊長有り、四隊を一部とし、部長有り、五部を一社とし、社長有り、五社を一都とし、都正有り。郷井の便なる処に駐紮す。紹興初年、これを罷めた。)

原文巡社(建炎元年,詔諸路州軍巡社並以忠義巡社為名,隸宣撫司,後募鄉民為之。每十人為一甲,有甲長,有隊長;四隊為一部,有部長;五部為一社,有社長;五社為一都,有都正。於鄉井便處駐紮。紹興初,罷之。)

槍杖手(建炎二年(1128年)、福建に令して五千人を招かしめた。)

原文槍杖手(建炎二年,令福建招五千人。)

土豪(建炎四年(1130年)、詔して諸州の守臣に土豪・民兵を募らしめ、州県の守令の節制を聴かしめた。後には強壮を存留し、余は皆放散した。)義兵(紹興十年(1140年)に団集し、諸州の名数は等しからず。後には皆県令を以て軍正とした。)

原文土豪(建炎四年,詔諸州守臣募土豪、民兵,聽州縣守令節製。後存留強壯,餘並放散。)義兵(紹興十年團集,諸州名數不等。後皆以縣令為軍正。)

義士(紹興元年(1131年)、興元の良家子弟を籍し、両丁は一を取、四丁は二を取り、毎二十人を一隊とし、号して義士と曰う。)

原文義士(紹興元年,籍興元良家子弟,兩丁取一,四丁取二,每二十人為一隊,號曰義士。)

民兵(建炎二年、五十人ごとに一隊とし、長・副を置く。一戸より一丁を取る。五丁より二丁を取る。淳熙十四年、三丁より一丁を、五丁より二丁を、十丁より三丁を取る。)

原文民兵(建炎二年,每五十人為一隊,有長、副。一戶取一丁,五丁取二丁。淳熙十四年,三丁取一,五丁取二,十丁取三。)

弓箭手(建炎初年、諸路の漢蕃弓箭手に対し百日の期限を以て自ら陳じて承襲することを命ず。紹興年間、京城外の閑地に、陝西沿辺の例に依り、弓箭手を招き蒔種せしむ。)

原文弓箭手(建炎初,應諸路漢蕃弓箭手限百日自陳承襲,紹興間,以京城外閑地,依陝西沿邊例,招弓箭手蒔種。)

土丁(紹興年中、詔して嘉祐の措置に依らしむ。三時は務農し、一時は武を講ず。諸県は逐郷に教場を置き、十一月より教練を始め、翌年正月に教練を罷む。)

原文土丁(紹興中,詔依嘉祐措置,三時務農,一時講武,諸縣逐鄉置教場,自十一月起教,至次年正月罷教。)

把截將(紹興二十七年、詔して恭州・雁門の控扼の地に土丁二百人を置く。)

原文把截將(紹興二十七年,詔恭州、雁門控扼之地置土丁二百人。)

峒丁(建炎三年、江西・福建諸処の総領官に命じ、槍杖手・峒丁の人数を籍定し、以て調遣に備えしむ。紹興年中、之を罷む。)

原文峒丁(建炎三年,命江西、福建諸處總領官籍定槍杖手、峒丁人數,以備調遣。紹興中,罷之。)

保勝(紹興六年、詔して金・均・房三州の保甲を五軍に分ち、保勝を以て名と為す。)勇敢(紹興二年、詔して池州に就き土人を招き充て、二千を額と為す。)

原文保勝(紹興六年,詔金、均、房三州保甲分為五軍,以保勝為名。)勇敢(紹興二年,詔池州就招土人充,二千為額。)

保丁(二広の保丁は、毎戸一名、土丁父子兄弟皆其の数に在り。乾道年中、拘留して民を擾すを以て、之を罷む。)山水砦(詳しくは砦兵に見ゆ。)

原文保丁(二廣保丁,每戶一名,土丁父子兄弟皆在其數。乾道中,以拘留擾民,罷之。)山水砦(詳見砦兵。)

萬弩手(初め、熙寧年間、鼎・澧・辰・沅・靖五郡の弓弩手一万三千人を以て辺境に散居せしめ訓練す。事無き時は耕作し、警有れば調発す。紹興以後、増損定まらず。)壯丁民社(乾道四年、楚州に置く。)

原文萬弩手(初,熙寧間,以鼎、澧、辰、沅、靖五郡弓弩手萬三千人散居邊境訓練,無事耕作,有警調發。紹興以後,增損靡定。)壯丁民社(乾道四年,楚州置。)

良家子(紹興四年、両淮・関陝の流寓及び陣亡した主兵將の子弟で驍ぎょう武にして存立し能わざる者を招き充て、月給は強弓手に比す。五十人を以て一隊と為す。)

原文良家子(紹興四年,招兩淮、關陝流寓及陣亡主兵將子弟驍武不能存立者充,月給比強弓手,五十人為一隊。)

義勇(湖北諸郡皆義勇有り、惟だ澧州石門・慈利は籍を置かず。其の法は主戸の双丁より取る。毎十戸を一甲と為し、五甲を一団と為す。甲には皆長有り、邑豪を択びて総首と為す。農隙に武藝を教え、食は官司より給す。)

原文義勇(湖北諸郡皆有義勇,惟澧州石門、慈利不置籍。其法取於主戶之雙丁。每十戶為一甲,五甲為團。甲皆有長,擇邑豪為總首。農隙教武藝,食從官司給。)

湖北土丁刀弩手(政和七年、土丁を募り充て、閑山を授け、辺境に散居せしめ、武藝を教う。紹熙之に因る。淳熙年中、李燾其の不便を力言し、之を罷む。)

原文湖北土丁刀弩手(政和七年,募土丁充,授以閑山,散居邊境,教以武藝。紹興因之。淳熙中,李燾力言其不便,罷之。)

湖南郷社(旧制、郷豪を以て之を領せしむ。大なる者は数百家を統べ、小なる者も亦二三百家なり。後言者其の不便を以てす。淳熙年中、其の首領を択び、大なる者五十家を過ぎず、小なる者は半減せしむ。)忠勇(関外西和・階・成・鳳四州に聚まる民兵、之を忠勇と謂う。)

原文湖南鄉社(舊制,以鄉豪領之,大者統數百家,小者亦二三百家。後言者以其不便,淳熙中,擇其首領,使大者不過五十家,小者減半。)忠勇(關外西和、階、成、鳳四州所聚民兵,謂之忠勇。)

鎮淮(初め、淮南に辺民を募り鎮淮軍と号す。数は十万に至り、月給は效勇に視る。惟だ黥涅せざるのみ。久しくして廩足らず、劫掠を肆う。嘉定初年、選汰して農に帰し、僅かに八千余人を存し、以て效用に充て、余は鎮江大軍に補う。淮西は二万六千余を選び御前定武軍に充て、六軍に分ち、軍に統製を設く。)

原文鎮淮(初,淮南募邊民號鎮淮軍,數至十萬,月給視效勇,惟不黥涅。久之,廩不足,肆劫掠。嘉定初,選汰歸農,僅存八千餘人,以充效用,餘補鎮江大軍。淮西選二萬六千餘充御前定武軍,分為六軍,軍設統製。)

忠義民兵(福州諸県旧に忠義社有り、邑民を屯結し、豪右を択びて長と為し、量りて器甲を授く。盗是より息み、人甚だ之を頼む。後有司煩擾し、初意を失う。開禧兵を用うるに及び、淮・襄の民兵官に籍する者有り、至って百六十緡を以て一兵を養う。後又令を放ちて帰業せしむるも、帰する所無く、多く散じて盗と為る。乃ち毎郡に豪酋一人を択び、官を授けて民を鎮撫せしむ。)

原文忠義民兵(福州諸縣舊有忠義社,屯結邑民,擇豪右為長,量授器甲,盜由是息,人甚賴之。後有司煩擾,失初意。開禧用兵,淮、襄民兵有籍於官者,至用百六十緡以養一兵。後又放令歸業,而無所歸,多散為盜。乃令每郡擇豪酋一人,授以官民鎮之。)

建炎後砦兵。両浙西路

原文建炎後砦兵。兩浙西路

臨安府十三砦(外沙、海内、管界、茶槽、南蕩、東梓、上管、赭山、黃灣、硤石、奉口、許村、下塘)。

原文臨安府十三砦(外沙、海內、管界、茶槽、南蕩、東梓、上管、赭山、黃灣、硤石、奉口、許村、下塘。)

安吉州七砦(管界、安吉、秀塞、呂小幽嶺、下塘、北豪、皋塘)。

原文安吉州七砦(管界、安吉、秀塞、呂小幽嶺、下塘、北豪、皋塘。)

平江府八砦(吳江、吳長、許浦、福山、白茅、江灣、楊林、角頭)。常州五砦(管界、小河、馬跡、香蘭、分界)。江陰軍二砦(申港、石牌)。

原文平江府八砦(吳江、吳長、許浦、福山、白茅、江灣、楊林、角頭。)常州五砦(管界、小河、馬跡、香蘭、分界。)江陰軍二砦(申港、石牌。)

嚴州五砦(威平、港口、鳳林、茶山、管界)。兩浙東路

原文嚴州五砦(威平、港口、鳳林、茶山、管界。)兩浙東路

慶元府十砦(浙東、結埼、三姑、管界、大嵩、海內、白峰、岱山、鳴鶴、公塘)。

原文慶元府十砦(浙東、結埼、三姑、管界、大嵩、海內、白峰、岱山、鳴鶴、公塘。)

溫州十三砦(城下、管界、館頭、青奧、梅奧、鹿西、浦門、南監、東北、三尖、北監、小鹿、大荊)。台州六砦(管界、亭場、吳都、白塔、鬆門、臨門)。

原文溫州十三砦(城下、管界、館頭、青奧、梅奧、鹿西、浦門、南監、東北、三尖、北監、小鹿、大荊。)台州六砦(管界、亭場、吳都、白塔、鬆門、臨門。)

處州二砦(管界、梓亭)。江南東路南康軍五砦(大孤山、水陸、四望山、河湖、左望)。江南西路

原文處州二砦(管界、梓亭。)江南東路南康軍五砦(大孤山、水陸、四望山、河湖、左望。)江南西路

隆興府七砦(都巡、鄔子、鬆門、港口、定江、杉市、管界)。撫州七砦(城南、曾田、樂安、鎮馬、旗步、招攜、湖平)。江州六砦(管界、江內、茭石、馬當、城子頭、孤山)。

原文隆興府七砦(都巡、鄔子、鬆門、港口、定江、杉市、管界。)撫州七砦(城南、曾田、樂安、鎮馬、旗步、招攜、湖平。)江州六砦(管界、江內、茭石、馬當、城子頭、孤山。)

興國二砦(池口、磁湖)。袁州四砦(都巡、四縣、管界、白斜)。臨江軍三砦(本軍、水陸、管界)。

原文興國二砦(池口、磁湖。)袁州四砦(都巡、四縣、管界、白斜。)臨江軍三砦(本軍、水陸、管界。)

吉州十六砦(富田、走馬塍、永和鎮、觀山、明德、沙溪、西平山、楊宅、栗傳、禾山、勝鄉、造口、秀洲、新砦、北鄉、黃茅峽)。荊湖南路

原文吉州十六砦(富田、走馬塍、永和鎮、觀山、明德、沙溪、西平山、楊宅、栗傳、禾山、勝鄉、造口、秀洲、新砦、北鄉、黃茅峽。)荊湖南路

永州三砦(都巡、同巡、衡永界)。寶慶三砦(黃茅、西縣、盧溪)。郴州五砦(管界、安福、青要、赤石、上猶)。

原文永州三砦(都巡、同巡、衡永界。)寶慶三砦(黃茅、西縣、盧溪。)郴州五砦(管界、安福、青要、赤石、上猶。)

武岡軍十砦(三門、石查、真良、嶽溪、臨口、關硤、黃石、新寧、綏寧、永和)。道州四砦(營道、寧遠、江華、永明)。全州四砦(上軍、角口、吉寧、平塘)。

原文武岡軍十砦(三門、石查、真良、嶽溪、臨口、關硤、黃石、新寧、綏寧、永和。)道州四砦(營道、寧遠、江華、永明。)全州四砦(上軍、角口、吉寧、平塘。)

福建路

原文福建路

邵武軍十砦(同巡檢、大寺、水口、永安、明溪、仁壽、西安、永平、軍口、梅口)。建寧府七砦(黃琦、籌嶺、盆亭、麻沙、水吉、苦竹、仁壽)。

原文邵武軍十砦(同巡檢、大寺、水口、永安、明溪、仁壽、西安、永平、軍口、梅口。)建寧府七砦(黃琦、籌嶺、盆亭、麻沙、水吉、苦竹、仁壽。)

南劍州八砦(滄峽、洛陽らくよう、浮流、岩前、同巡、仁壽、萬安、黃土)。泉州五砦(都巡、同巡、石井、小兜、三縣)。福州四砦(辜嶺、甘蔗、五縣、水口)。

原文南劍州八砦(滄峽、洛陽、浮流、岩前、同巡、仁壽、萬安、黃土。)泉州五砦(都巡、同巡、石井、小兜、三縣。)福州四砦(辜嶺、甘蔗、五縣、水口。)

興化軍の二砦(同巡、巡鹽)。漳州の二砦(同巡、虎嶺)。広西路賀州の二砦(臨賀、富川)。

原文興化軍二砦(同巡、巡鹽。)漳州二砦(同巡、虎嶺。)廣西路賀州二砦(臨賀、富川。)

昭州の四砦(昭平、雲峒、西嶺、立山)。

原文昭州四砦(昭平、雲峒、西嶺、立山。)

欽州の二砦(西県、管界)。

原文欽州二砦(西縣、管界。)