宋史

志第一百四十五 兵六

◎兵六(郷兵三)○保甲 建炎後郷兵 建炎後砦兵

保甲 熙寧の初め、王安石は募兵を変革して保甲を行い、帝はその議に従った。三年、初めてその民を連ねて相保任せしむ。及び詔して畿内の民十家を以て一保と為し、主戸にして幹力ある者一人を選びて保長と為す。五十家を以て一大保と為し、一人を選びて大保長と為す。十大保を以て一都保と為し、衆の服する所たる者を選びて都保正と為し、又一人を以てその副と為す。応に主客戶両丁以上は、一人を選びて保丁と為す。保に附す。両丁以上にして余丁ありて壮勇なる者も亦これに附す。内家貲最も厚く、材勇人に過ぐる者も亦保丁に充て、兵器禁に非ざる者は習うことを聴す。毎一大保夜に五人を輪番して盗を警めしむ。凡そ告捕して獲る所は、賞格に以て事に従う。同保にして強盗・殺人・放火・強姦・略人・妖教を伝習し・蠱毒を造畜するを犯し、知りて告げざれば、律の伍保法に依る。余事己に干せず、又敕律の糾を聴する所に非ざれば、皆告うるを得ず、情を知ると雖も亦坐せず。若し法に於いて隣保合坐すべき罪あれば乃ちこれを坐す。其の強盗三人を居停し、三日を経れば、保隣情を知らずと雖も、失覚の罪を科す。逃移・死絶し、同保五家に及ばず、並びに他保に合す。外より保に入る者有れば、これを収めて同保と為し、戸数足れば則ちこれに附し、十家に及ぶを俟ちて、則ち別に保と為し、牌を置きて以て其の戸数姓名を書す。既にこれを畿甸に行い、遂に五路に推し、以て天下に達す。時に則ち盗賊を捕らえて相保任するを以てし、未だ武事を以て肄せず。

四年、初めて詔して畿内の保丁に武事を肄習せしむ。歳の農隙に、隷する所の官期日を要便の郷村に於いて都試し騎歩射し、並びに射中の親疏遠近を以て等と為す。騎射は其の用いる馬を校し、余芸ありて願い試みる者は聴す。第一等は保明して以て聞こえしめ、天子親しく閲試し、官使を以て命ず。第二等は当年の春夫一月を免じ、馬槁四十、役銭二千。本戸に免ずる可き無く、或いは免する所及ばざれば、他戸に移免して其の直を受くるを聴す。第三・第四等は此れを視て差有り。芸未だ精ならずして閲試を候わんことを願い、或いは甲に附せず単丁にして閲試に就かんことを願う者は、並びに聴す。都副保正武藝等に及ばずと雖も、能く保戸を整斃して擾わず、丁壮を勧誘して芸を習わしめ及び等し、盗を捕らえること他保より最多く、盗を弭ぐること他保より最少きは、隷する所の官以て聞こえしめ、其の恩第一等を視る。都副保正闕有れば、大保長を選びて充てる。都副保正丁壮を勧誘して芸を習わしむと雖も、輒ち強率して務を妨ぐる者は、これを禁ず。吏保甲の事に因り賕を受け、斂掠するは、乞取監臨三等を加え、仗・徒・編管・配隸し、告ぐる者は次第にこれを賞し、命官犯す者は名を除く。時に雖ち之をして武技を習わしむと雖も未だ番上せず。

五年、右正言・知制誥・判司農寺曾布言う、「近日保戸数たびたび状を以て県に詣り、願わくは分番して巡検司に隷し武技を習わんとす、提点司以て朝廷及び司農寺に聞こえしむ、未だ敢えて輒ち議せず、願わくは提点司を下して中書に送り詳審せしめ、司農に付して令を具せしめん」と。ここにおいて詔す、「主戸保丁願わくは巡検司に上番せんとす、十日一更し、疾故ある者は次番を以て之に代う。月に口糧・薪菜銭を給し、分番して巡警せしめ、毎五十人に大保長二・都副保正一を輪番して之を統領せしむ。都副保正月各々銭七千を給し、大保長三千。番に当たる者は輒ち本所を離るるを得ず。劇盗を捕逐するは、下番の人と雖も亦追集を聴し、其の錢斛を給し、事畢わりて遣還し、上番の人数を過ぐること毋く、仍ち其の上番の日を折除す。巡検司量りに廂界を留めて使役し、余兵悉く罷む。応に番する保丁武技第三等已上に及ぶは、並びに籍に記す。歳凶に遇えば、五分已上なる者は第にこれを振恤し、十五石より三石に至るを差と為す」と。十一月、又た詔して尉司の上番保丁巡検司の法の如くせしむ。

六年、詔して開封府畿に都保を以て木契を置き、左は司農寺に留め、右は其の県に付し、凡そ追胥・閲試・肄習すれば則ち契を出す。是の月、又た詔して永興・秦鳳・河北東西・河東の五路に行わしむ、唯だ上番する毋かれ。余路は止だ相保任するのみとし、武藝を習う毋かれ、内荊湖・川・広並びに辺なる者は武事を肄することを得、監司に之を度らしむ。後に全・邵の土丁、邕・欽の洞丁、広東の槍手保甲に改まる者は則ちこれを肄す。十二月、乃ち河北西路の強壮、縁辺の弓箭社籍に係り番上して巡守する者を罷む。

初め、開封府畿・五路の保甲五万人に及び、二年に一度解発し、京師に詣り閲試して官を命ず、開封府畿は十人、五路は七人。八年、詔して開封府畿一万人に及び、五路一万五千人に及ぶは、各々一人の解発を許す。

九年、枢密院請う、今より都副保正・義勇軍校二年に一度比選し、県其の訓習武藝及び等最も多く、捕察して盗賊最も少き者を考えて州に上り、州上って所轄の官司に上り、同比較して以て聞こえしむ。或いは中選の人多くば、則ち武藝最も優なる者を択ぶ。額外尚ほ解発す可き者有れば、則ち其の次を第して之が為に旌勧す。第一次は、州県姓名を籍記し、杖以下の犯は贖うことを聴す;第二次は、等第を以て杖子・紫衫・銀帯を賜い、徒罪を犯し情軽きは奏裁す;累ねて三次に及ぶ者は、宣を降してこれを補し、馬及び芻菽を給す。五路義勇軍校二千、解発三人を過ぐるを得ず。保甲都副保正の解発する者も亦二年を以てし、府界六人、河北・河東各々四人、永興・秦鳳等路七人。都保正・指揮使は下班殿侍と、副保正・副指揮使は三司軍将と、正副都頭は守闕軍将と並びに衣及び銀帯・銀裹頭杖を賜い、馬を給すること差有り。

初め、保甲は司農に隷し、熙寧八年、兵部に改めて隷し、同判一・主簿二・幹当公事官十を増し、諸州を分按し、其の政令は則ち枢密院に聴く。十年、枢密院副都承旨張誠一『五路義勇保甲敕』を上る。元豊元年、翰林学士・権判尚書兵部許将『開封府界保甲敕』を修し、書成りて之を上る、詔して皆頒つ。

二年十一月、初めて『府界集教大保長法』を立て、昭宣使入内内侍省副都知王中正・東上閣門使狄諮を以て兼ねて府界教保甲大保長を提挙せしめ、総二十二県を以て教場十一所と為し、大保長凡そ二千八百二十五人、毎十人一色事藝、教頭一を置く。凡そ禁軍教頭二百七十、都教頭三十、使臣十。弓は八斗・九斗・一石を以て三等と為し、弩は二石四斗・二石七斗・三石を以て三等と為し、馬射は九斗・八斗を以て二等と為し、其の材力超抜する者は出等と為す。教うる時に当たりては、月に銭三千を給し、日に食を給し、官戎械・戦袍を予え、又た銀楪・酒醪を具えて以て賞犒と為す。

三年、大保長の武芸が完成したので、団教法を立て、大保長を教頭とし、保丁を教習させた。凡そ一都保で近接するものを五団に分け、即ち本団の都副保正の居住する空地に集めて教習する。大保長で武芸完成した者十人が順番に教え、五日で一巡させる。その丁を五分し、その一を騎兵とし、二を弓兵とし、三を弩兵とする。府界の法が完成すると、これを三路に推し広め、各々文武の官一人を置いて提挙させ、河北は狄諮・劉定、陝西は張山甫、河東は黄廉・王崇拯とし、封樁の養贍義勇保甲の銭糧を以てその費用に充てた。この年、府界の保甲武芸完成を引見し、帝自ら閲兵し、能ある者を登用し、残りには金帛を賜った。

四年、五路の義勇を保甲に改めた。狄諮・劉定が澶州の集教大保長四百八十二人を率いて崇政殿に参内し、執政を召して座を賜い閲試し、三班借職・差使・借差に補した者は凡そ三十六人、残りには金帛を差等を付けて賜った。狄諮を四方館使に、劉定を集賢校理に遷した。また詔して曰く、「三路で今訓練中の民兵は日が浅く、什長の武芸が完成したら、直ちに府界の団教法を行わねばならぬ。銭糧・官吏は全て畿県の如くとするが、期日までに処理できるか否かは未だ知れぬ。もし更に日月を引き延ばせば、必ずや措置の大法に誤りを来たすであろう。承旨に命じて取り調べ合わせ校閲させよ」と。その年、府界・河北・河東・陝西路で保甲を会校したところ、都保は凡そ三千二百六十六、正長・壮丁は凡そ六十九万一千九百四十五人、旧費の緡銭一百六十六万一千四百八十三を歳に省き、歳費は緡銭三十一万三千一百六十六、而して団教の賞銭は百万緡余りでこれに含まれない。凡そ集教・団教が完成すると、歳に使を遣わして提挙按閲と称し、概ね近臣に内侍を伴わせて往き賞銭を与え、格令に従って事を為す。諸路は皆番次で武芸完成した者を順序とし、概ね五、六年で一遍するが、独り河東は金帛が不足するため、遂に十一歳に及んだ。上は晋人の勇悍なるを以て、遼・夏の間に介在し、講武勧奨は後れを取るべからずとし、詔して緡銭十五万を賜う。時に籍に係る義勇・保甲及び民兵は凡そ七百十八万二千二十八人という。(熙寧九年の数。)

保甲法を立てた初め、故老の大臣は皆不便と為したが、安石は主議甚だ力強く、帝は遂にこれに従われた。今その論難を悉く著し、来る者に考証せしめる。

帝嘗て租庸調法を論じてこれを善しとされ、安石対えて曰く、「この法は井田に近く、後世事を立てて先王の遺意を粗く得れば、則ち善からざるは無し。今も亦た為すべからざるは無し。顧みるに速やかに成すは難し」と。帝が再び問うに及んで、則ち曰く、「人主誠に天下の利害を知り、その所謂害を以て法を製し、これを兼併の者に加うれば、則ち人は自ら敢えて限を過ぎる田を保たず。その所謂利を以て法を製し、これを力耕の者に加うれば、則ち人は自ら力耕に勧み、而して田を授くるも限を過ぐる能わざるなり。然れども此れは漸くにして乃ち法を成すべし。人主誠に利害の権を知り、因って好悪を以てこれに加うれば、則ち好む所は何ぞ人の従わざるを患えん、悪む所は何ぞ人の避けざるを患えん。若し人主にこれを揆るの道無くんば、則ち多くは異議に奪われ、善き法有りと雖も、何ぞ由って立たんや」と。

帝、府兵は租庸調法と相俟つものと謂われ、安石則ち曰く、「今義勇・土軍が上番して役に供するは、既に廩給有り、則ち貧富を問わず皆以て衛に入り戍に出づることを得、租庸調法無くとも、亦た自ら為すべし。但し義勇は皆良民なり、礼義を以て奨励養成すべし。今皆倒置せられるは、その手背に涅すること、教閲して縻費すること、これに糧を運ばしむるが故なり。この三者は皆人の楽しまざる所、若し更にこれを毆りて敵に就かしめ、殺戮を被らしむれば、尤も人の憚る所なり」と。

馮京曰く、「義勇にも亦た挽強に因って試み推恩を得る者有り」と。安石曰く、「挽強して力足らざれば、則ち進取に絶つ、是れ朝廷に推恩の濫有り。初めより勧奨して人を武用に趨らしむるに非ざるなり。今義勇を措置せんと欲すれば皆当に此れに反すべく、害は義勇ならざるに在り、而して利は義勇たるに在らしめば、則ち俗は変ぜられて衆技成ることを得ん。臣願わくは郷閭の豪傑を択びて将校と為し、稍々奨励抜擢すれば、則ち人自ら悦服せん。況んや今募兵をして宿衛と為し、及び積官して刺史以上に至る者有り。此れを移して彼れに与うるは、固より不可なるは無し、況んや官禄を如此に費やすに至らずして、已に人をして楽んで為さしむるに足らんや。陛下誠に能く審択せば、近臣は皆政事の材有り、則ち異時にこの等の軍を分将せしむることを得ん。今募兵は無頼の人より出づ、尚も軍主・廂主と為ることを得、則ち近臣以上豈にこの輩に及ばざらんや、此れ乃ち先王の成法、社稷の長計なり」と。帝然りと為さる。

時に義勇を以て正兵に代えんと欲する者有り、曾公亮は義勇・弓手を置くは、漸く以て正兵を省くことを得べしと為す。安石曰く、「誠に然り、但だ今江・淮に新たに弓手を置くは、適農を傷つけるに足る」と。富弼も亦た京西の弓手は便ならずと論ず。安石曰く、「文教を揆え、武衛を奮う、先王の遠邇を待つ所以は固より同じからず。今江・淮と三辺とを処置するは、事当に異なる有るべし」と。

帝又た財用を節することを言われ、安石は兵を減ずる最も急務なりと対える。帝曰く、「比の慶曆の数已に甚だ減ず」と。因って河北・陝西の兵数を挙げ、募兵少なすぎるを慮り、又た訓擇精しからず、緩急或いは事を欠くを慮る。安石則ち曰く、「募兵を精訓練し、而して三路の民を鼓舞して兵を習わしめば、則ち兵は省くことを得ん。臣屡々言う、河北旧く武人の割拠する所、内は朝廷に抗し、外は四隣に敵し、亦た奚・契丹を禦ぐ者有り、兵儲外に求めずして足れり。今河北戸口蕃息し、又た天下の財物を挙げてこれに奉ずるも、常に足らざるが若し。一面の敵に当たるに、その施設乃ち武人の割拠せし時に如かず。則ち三路の事に当に講画すべきもの有り、その民を専用するに在るのみ」と。帝又た言われる、「辺兵は以て守るに足らず、徒らに衣廩を費やす。然れども固より辺圉は又た悉く減ずべからず」と。安石曰く、「今更に兵を減ずれば、即ち誠に急緩に待つこと無く、減ぜざれば、則ち財を費やし国を困らす已む時無し。臣以謂わく、儻し兵を理め、稍々古製に復する能わざれば、則ち中国に富強の理無からん」と。

帝曰く、「唐は長安ちょうあんに都し、府兵多くは関中に在り、則ち本を強くするなり。今は関東に都して府兵盛んなれば、則ち京師反って四方に待つに足らず」と。安石曰く、「府兵は在る所にて為すべく、又た入衛せしむることを令すれば、則ち本強からざるを患えず」と。韓絳・呂公弼は皆入衛を難しと為す。文彦博曰く、「曹・濮の人の如きは専ら盗賊を為す、豈に入衛せしむべけんや」と。安石曰く、「曹・濮の人豈に応募する者無からんや。皆暴猾無頼の人なり、尚も虞と為さず、義勇は皆良民、又た物力戸を以て将校と為す、豈に復た以て虞と為すべきや」と。

陳升之は義勇兵を漸次近州に戍守させようとした。王安石は言う、「陛下が数百年にわたる募兵の弊を除かんと欲せば、則ち宜しく果断にし、詳細に法製を立て、本末備具の令をなすべし。然らずんば、補うところ無からん」と。帝は言う、「製して之を用うるは、法に於いて予め條製を立て、漸次に推行すべきなり」と。彦博等はまた土兵をして千里を出でて戍守するは難しと為す。王安石は言う、「前代、流求を征し、党項を討つは、豈に府兵に非ずや」と。帝は言う、「募兵は専ら戦守に於いて、故に恃むべし。民兵に至りては、則ち兵農の業相半ばし、戦守に恃むべしや」と。王安石は言う、「唐以前には未だげい兵有らず、然れども亦戦守に足れり。臣以謂う、募兵と民兵と異なること無し、顧みるに用いる将帥如何なるかのみ。将帥は求むるに難からず、但だ人主能く群臣の情偽を察見し、善く駕禦すれば、則ち人材出でて用いられ、将帥無きを患えず。将帥有らば、則ち民兵用いられざるを患えず」と。

帝は言う、「経遠の策は、必ずや民を什伍に至らしめ、費省くして兵衆く、且つ募兵と相為に用いられん」と。王安石対えて曰く、「公私の財用匱せず、宗社の長久の計を為さんと欲せば、募兵の法誠に当に変革すべし」と。帝は言う、「密院は必ず建中の変有らんと為す」と。王安石対えて曰く、「陛下躬行徳義、政事を憂勤し、上下蔽わず、必ず此の理無し。建中に所以変を致せるは、徳宗盧杞の徒を用い陸贄を疎んずるに在り、其の亡びざる者は幸いなり」と。

時に開封にて保戸に衣を質して弓箭を買う者有り、帝其の貧乏を恐れ、出備に難しとす。王安石は言う、「民貧にして宜しく之れ有るべし、抑えて民に弓箭を置かしむれば、則ち法の去らざる所なり。往者冬閲及び巡検番上に、唯だ在官の弓矢を用うるに就く、百姓何の故ぞ衣を質するに至るを知らず。然れども生民以来、兵農一にして、耒耜以て生を養い、弓矢以て死を免る、皆凡民の宜しく自ら具うべき所、未だ耒耜・弓矢を造りて百姓に給する者有らず。然らば則ち百姓に弓矢を置かしむるも、亦過ちと為さず。第に陛下百姓を優恤すること甚だ至れり、故に今法を立て、一に民の便に聴くのみ。且つ府界素より群盗多く、攻劫殺掠、一歳の間に二百火に至り、逐火皆賞錢有り、賞を備うるの人即ち今の保丁なり。其の賞を備うるの時に当たりて、豈に衣服を売易して官賞を納むる者無からんや。然れども人皆以謂う、賞錢は宜しく百姓より出づべしと。夫れ錢を出すの多きは盗を止むるに足らず、而して保甲の能く盗を止むるは、其の效已に見ゆ、則ち民をして少錢を出だして器械を置かしむるも、未だ損うる所無し」と。帝は言う、「賞錢は人の習慣する所、則ち之れに安んずること自然の如し。習慣せざれば、則ち怨み無からず。如何に民産を決壊すれば、民怨まず。河を決して民産を壊せば、則ち怨む」と。

帝嘗て批す、「陳留県の行う保甲は、毎十人一小保、中三人或いは五人須らく弓箭を要し、県吏督責し、無き者は刑有り。百姓一弓を買うに千五百に至り、十箭六七百に至り、青黄不接の際に当たり、貧下の客丁安んぞ出辦せん。又毎一小保民力を用いて射垛を築き、又自ら錢糧を辦して鋪屋を起す。毎保鼓を置き、賊に遇えば声撃す、民居遠近一ならず、甲家賊に遭えば、鼓は乙家に在り、則ち声撃するに縁無し。此くの如くは、須らく人ごとに一鼓を置き、費錢少からず。速やかに指揮して元の議の如くに止めしむべし、団保して盗賊を覚察するのみ、余は施行するを得ず。郷民既に錢無くして弓箭を買うを憂え、加うるに傳惑して之れを戍辺に徙すに惑わさる、是を以て父子聚首して号泣する者虚しからず」と。王安石進呈して行わず。

帝王安石に謂う、「保甲に誠に指を斬る者有り、此事宜しく緩やかにして密にすべし」と。王安石は言う、「日力惜しむべし」と。帝は言う、「然れども亦遽にすべからず、恐らくは却って事を沮がん」と。王安石は言う、「此事自ら敢えて密にせざるべからず」と。権知開封府韓維等言う、「諸県団結保甲、郷民驚擾す。祥符等県は已に畢り、其の余の県は農閑を俟って排定を乞う」と。時に府界諸県の郷民、或いは自ら傷を残して団結を避く。王安石辨説甚だ力あり。時に曾孝寬府界提点と為り、榜を以て保甲を扇惑する者を告捕するを募る、雖甚だ厳なり、匿名書を封丘の郭門にすする者有り、ここに於て詔して重賞を以て之れを捕えしむ。

王安石は言う、「乃ち保甲は、人其の願い上番する状を得、然る後に之れを使う、人情に於いて驚疑する所無きに宜し。且つ今盗賊を蔵し及び盗賊を為すの人、固より新法に便せず。陛下長社一県を観よ、捕獲する府界の劇賊保甲に迫逐せられ出でし者三十人に至る。此の曹既に京畿に容れられず、又輔郡に捕えらる、其の計聊か無く、専ら扇惑に務む。比聞く、首として扇惑する者は已に就捕す、然れども京師に至るも亦二十許人に止まる。十七県十数万の家を以てし、而して扇惑せらるる者纔に二十許人、多しと謂うべからず。古より事を作す、未だ勢を以て衆を率いずして能く上下をして一の如くせしむる者無し。今十数万人を聯ねて保甲と為し、又其の応募を待ちて乃ち之れをして番上せしむ、比れは乃ち陛下の矜恤の至りを以てす。保甲をして番上して盗を捕えしむ、若し其の自ら去来するに任せば、即ち孰か肯て命を聴かん。若し法を以て之れを駆れば、又人の願う所に非ず。且つ天下を為す者は、如し止だ民情の願う所に任せんと欲するのみならば、則ち何ぞ必ずしも君を立てて之れが為に官を張り吏を置かん。今輔郡の保甲は、宜しく先ず官を遣わして上旨を諭し、後に法を以て之れを推行すべし」と。帝は言う、「然り」と。

一日、帝王安石に謂う、「曾孝寬言う、民に指を斬りて保甲を訴うる者有りと」と。王安石は言う、「此事は蔡駰に得たり。趙子幾駰をして驗問せしむ、乃ち民木を斫むに因り誤って指を斬る、参證する者数人。大抵保甲法は、上は執政大臣より、中は両製、下は盗賊及び停蔵の人に至るまで、皆欲せざる所なり。然れども臣郷人を召して之れを問う、皆便りと為す。則ち指を斬りて丁を避くる者有りと雖も、皆然りとせず。況んや保甲は盗を除くに非ざるのみならず、固より漸く習ひて兵と為すべし。既に人皆射能くし、又旗鼓を以て其の耳目を変え、且つ免稅を約して上番し巡検兵に代わる。又正・長より上り、能く賊を捕うる者は官を以て之れを獎し、則ち人競って勧む。然る後に募兵と相参せしめば、則ち以て募兵の驕誌を銷し、且つ財費を省くべし、此れ宗社長久の計なり」と。

帝謂う、百姓を什伍するは保甲の如く、恐らくは成し難く、便りに団結して指揮を成し、使臣を以て管轄するに如かずと。王安石は言う、「陛下誠に能く果断にし、人言を恤みず、即ち団結指揮と為すも、亦妨げる所無し。然れども指揮は虚名なり、五百人を一保と為し、緩急に喚集すべく、雖も指揮と名づけずと雖も、指揮使と異なること無く、乃ち是れ実事なり。幸いに大急に至らず、即ち人をして駭擾せしめずして事集まるを上策と為す」と。帝遂に三路の義勇を変じて府畿の保甲法の如くせしむ。

馮京曰く、「義勇には既に指揮使がおり、指揮使は即ちその郷里の豪傑である。今また保甲を作り、何れの者を大保長と為すべきか」と。安石曰く、「古は民の居る所を郷と為し、五家を比と為し、比には長あり、及び兵を用うるに至れば、即ち五人を伍と為し、伍には伍司馬あり。二十五家を閭と為し、閭には閭胥あり、二十五人を両と為し、両には両司馬あり。両司馬は即ち閭胥、伍司馬は即ち比長、ただ事に随ひて名を異にするのみ。此れ乃ち三代六郷六軍の遺法なり。其の法は書に見え、夏より以来、周に至るまで改めず。秦は阡陌を決裂すと雖も、然れども什伍の制は尚ほ古製の如し、此れ兵衆にして強き所以なり。征伐に府兵を以てするもの唯だ之に近し。今已然の成憲を捨てて、乃ち五代乱亡の余法を守るは、其れ安強を致すに足らざるは疑ひ無し。然るに人皆恬然として因循を以て憂ふべきと為さざるは、見る所浅近なるが故なり」と。

安石又た奏す、「義勇は須らく三丁以上を要す、府界の如く、両丁以上を尽く籍すべしと請ふ。三丁は即ち出戍し、厚利を以て誘ひ、而して両丁は即ち止めて巡検に上番せしむ、府界の法の如し。大略此の如きに過ぎず。当に人を遣はして経略・転運司及び諸州の長吏と之を議し、及び本路の民情の苦しむ所欲する所を訪ひ、因りて以て法を寓すべし」と。帝曰く、「河東に義勇強壮の法を修め、又た保甲を団集せしむるは、如何」と。安石対へて曰く、「義勇は須らく丁数を隠括すべし、若し保甲を団集するに因らば、即ち一動にして両業就く。今既に官を遣はして義勇を隠括し、又た別に官を遣はして保甲を団結せしむれば、即ち分かれて両事と為り、民の擾はれざる能はざるを恐る」と。或る者曰く、「保甲は正軍に代はりて上番すべからずや」と。安石曰く、「其の習熟を俟ちて、然る後に上番すべし。然れども東兵の技芸も亦た義勇・保甲に優る能はざるなり、臣観るに広勇・虎翼の兵然り。今募兵と為る者は、大抵皆偷惰頑猾にして自ら振ふ能はざるの者なり。農と為る者は、皆朴力一心にして令を聴くの者なり、則ち緩急には民兵の用ふ可きに如かず」と。馮京曰く、「太祖天下を征伐せしに、豈に農兵を用ひしや」と。安石曰く、「太祖の時は五代に接し、百姓困窮極まり、豪傑多く軍に従ふを利と為せり。今百姓は安業して生を楽しみ、而して軍中には復た向時の如く抜き起りて公侯と為る者有らず、即ち豪傑は復た軍中に在らず、而して応募する者は大抵皆偷惰にして自ら振ふ能はざるの者のみ」と。帝曰く、「兵の強弱は人に在り。五代の兵弱く、世宗に至りて強し」と。安石曰く、「世宗の収むる所も、亦た皆天下の亡命強梁の者なり」と。文彦博曰く、「道を以て人主を佐くる者は兵を以て天下を強うせず」と。安石曰く、「兵を以て天下を強うする者は道に非ざるなり、然れども道有る者は固より能く柔能く剛、能く弱能く強し。其の能く剛強たる時に方りては、必ず柔弱に至らず。六師を張皇するは、固より先王の尚ぶ所なり、但だ専ら兵強を務むるに当らざるのみ」と。帝遂に安石の議に従ふ。

帝曰く、「保甲・義勇の芻糧の費は、当に預め之を計るべし」と。安石曰く、「当に募兵の費を減じて以て之を供すべし。供する所の保甲の費は、纔かに兵を養ふ十の一二なり」と。帝曰く、「畿内の募兵の数は已に旧に減ず。本を強うするの勢は、未だ悉く減ず可からず」と。安石曰く、「既に保甲有りて其の役に代はれば、即ち募兵を須ゐず。今京師に募兵し、逃死停放するもの、一季にして乃ち数千、但だ招填せざるのみにて、即ち減ず可きと為す。然れども今廂軍既に少なく、禁兵も亦た多からず、臣願くは早く民兵を訓練せん。民兵成れば、則ち募兵当に減ずべし」と。又た上に為りて言ふ、「今河北の義勇は十八萬と雖も、然れども奨慰す可き者は酋豪百数十人のみ。此れ府兵の遺意なり」と。帝然りと為し、令して其の法を議せしむ。

枢密院上旨を伝へ、府界の保甲を十日一番と為すは、大いに促にして武事を精うする無きを慮り、其れ一月を以て一番と為すべしと。安石奏して曰く、「今保甲十日一番と為し、計ふるに一年余り八月当番す、若し一月を須ゐば、即ち番愈よ疎なり。又た昨百姓と約して十日一番と為し、今遽に命を改むれば、恐らく愈よ人の扇惑せらるるを為さん。宜しく其の習熟を俟ち、徐ろに其の更番を議すべし。且つ今保甲の芸を閲する八等、奨励至って優なり、人競ひて私に習ふ、必ずしも上番して然る後に就学せず。臣愚、願くは数年を以てす、其の芸は特り義勇に勝つのみならず、当に必ず正兵に勝たん。正兵の技芸は官法に応ずるを取るのみにして、保甲の人人奨励の心有るが若くは非ざるなり」と。

元豊八年、哲宗位を嗣ぐ。陳州を知る司馬光上疏して保甲を罷めんことを乞ひて曰く、

兵は民間に出づ、古法と云ふと雖も、然れども古は八百家にして纔かに甲士三人・歩卒七十二人を出だし、閑民甚だ多く、三時は農に務め、一時は武を講じ、稼穡を妨げず。両司馬以上より、皆賢士大夫を選びて之を為し、侵漁の患無く、故に卒乗輯睦し、動けば則ち功有り。今郷村の民を籍し、二丁に一を取って以て保甲と為し、弓弩を授け、戦陣を教ふ、是れ農民半ば兵と為るなり。三四年以来、又た河北・河東・陝西に都教場を置かしめ、四時を問はず、毎五日に一たび教ふ。特に使者を置きて監司に比し、専切に提挙し、州県関預するを得ず。一丁を教閲すれば、一丁供送す、五日と云ふと雖も、而して保正・長は泥堋除草を名として、之を聚めて教場に至らしめ、賂を得れば則ち縱し、然らずば則ち之を留む、是れ三路の耕耘収穫稼穡の業幾くんぞ尽く廢せざらんや。

唐の開元以来、民兵の法は廃れ、戍守や戦攻には全て長征の兵士を募り、民間では何ぞ嘗て兵事を習わんや。国家は太平を承けて百有余年、白髪の老人は兵革を識らず、一旦にして畎畝の民が皆戎服を着て兵を執り、奔駆して野に満ち、耆旧は歎息し、不祥と為す。事既に草創し、調発に法なく、比戸騒擾し、一家も遺さず。又、巡検・指使が郷村を行按し、往来すること織の如し。保正・保長は依倚して権を弄び、坐して供給を索め、多く賂遺を責め、少しも意に副わざれば、妄りに鞭撻を加え、行伍を蚕食し、紀極を知らず。中下の民は、家の所有を罄き、肌を侵し骨を削り、以て供億すべくもなく、愁苦困弊し、訴えを投ずる所なく、四方に流移し、繈属路に盈つ。又、朝廷は時に使者を遣わし、遍く行き按閲し、至る所で犒設賞賚し、金帛を糜費して巨万を以て計る。此れ皆、平民を鞭撻し銖両丈尺を以て斂め、一旦之を用いること糞土の如し。而して郷村の民は、但だ労役を苦しみ、恩沢を感ぜず。農民の労既に此の如く、国家の費又此の如く、終に何の用かあらんや。若し之をして盗賊を捕え、郷里を衛わしむれば、何ぞ必ずしも此くの如く多くせん。之をして辺境を戍り、征伐に事えしむれば、則ち彼の遠方の民は、騎射を業とし、攻戦を俗と為し、幼より長に及び、更に他の務め無し。中国の民は、大半田に服し力を穡にし、復た兵械を授け、撃刺を教うと雖も、教場の中に坐作進退し、厳整なる有るも、必ずや之をして敵人与に相遇わしめ、填然と鼓し、鳴鏑始めて交われば、其の奔北潰敗は以て前もって料るべく、決して疑い無し、豈に国事を誤らざらんや。又、悉く三路の巡検下の兵士及び諸県の弓手を罷め、皆保甲に易う。主簿は県尉を兼ね、但だ草市以裏を主とし、其の郷村の盗賊は悉く巡検に委ね、而して巡検は兼ねて巡按保甲の教閲を掌り、朝夕奔走し、猶お弁ぜざるを恐る、何の暇にか盗賊を逐捕せん。又、保甲の中には往々自ら盗を為す者有り、亦保馬に乗じて劫を行なう者有り。然らば則ち保甲・保馬を設くるは本と盗を除くを以てす、乃ち更に盗を資すなり。

保甲を教閲して以来、河東・陝西・京西の盗賊已に多く、至って敢えて白昼公行し、県鎮に入り、官吏を殺す。官軍追討すれども、歳月を経歴し、終に制すること能わず。況んや三路未だ大饑に至らずして、而して盗賊猖熾已に此の如し、万一数千里の蝗旱に遇い、而して失業饑寒・武藝成就の人の、所在蜂起して之に応ずれば、其の国家の患と為す、言うに勝えんや。此れ小事に非ず、以て忽にすべからず。夫れ其の衣食を奪い、以て生くべき無からしむるは、是れ民を駆りて盗と為すなり。比屋をして戦を習わしめ、官賞を以て勧むるは、是れ民を教えて盗と為すなり。又、盗を捕うる人を撤去するは、是れ民を縦して盗と為すなり。国を謀る此の如く、果たして利と為さんや、害と為さんや。

且つ向者干進の士、先帝に征伐開拓の策を説きて、故に保甲・戸馬・保馬等の法を立てしむ。近者登極の赦書に云う有り、「応に縁辺の州軍は、逐処の長吏並びに巡検・使臣・鈐轄・兵士及び辺上の人戸に仰せ、外界を侵擾せず、務めて疆埸を静守し、騒擾せしむること勿れ」と。此れ蓋し聖意、殊才を恵綏し、生民を休息せしめんと欲するなり、中外の人孰れか帰戴せざらん。然らば則ち保甲・戸馬復た何の用かあらん。或いは今戸馬を罷め、保馬を寬うすと雖も、而して保甲猶お存するは、蓋し未だ其の利害の詳を以て奏聞する者無きなり。

臣愚、以爲うらくは悉く保甲を罷めて農に帰らしめ、提挙官を召し還朝せしめ、逐県の戸口を量り、毎五十戸に弓手一人を置き、略ぼ縁辺弓箭手の法に依り、本戸の田二頃を蔭するを許し、悉く其の税役を免ず。賊の出づる地分を除き、更に三限の科校を立たず、但だ賊を捕えて賞を給うるを令す。若し賊を獲ること数多き及び能く強悪の賊人を獲る者は、各功の大小に随い職級を遷補し、或いは班行を補い、務めて弓手を優仮し、人をして勧募せしむ。然る後に本県郷村の戸に勇力武藝有る者を募り投充せしめ、計らく即今保甲の中に勇力武藝有る者は必ず多く願いて応募せん。若し一人欠額し、二人以上争いて投ずる者有らば、即ち本県の令・尉に委ね武藝高強者を選び充てしむ。或いは武藝衰退する者は、他人の指名して之と比較するを許し、若し武藝旧に勝る者あらば、即ち衝替せしめ、其の替えらるる者は、更に田を蔭することを得ず。此くの如くすれば、必ずしも教閲せず、武藝自然精熟せん。一県の中、其の壮勇なる者は既に弓手と為り、其の羸弱なる者は使いて盗と為すと雖も、亦患いと為す能わざらん。仍て本州及び提点刑獄に委ね常に按察せしめ、令佐に取舍公ならざる者有らば、厳しく典憲を行わしむ。若し召募足らざれば、且つ即ち郷村の戸上に於て旧条に依り権差し、投名する者有るを候えば即ち充替せしむ。其の余の巡検兵士・県尉弓手・耆老・壮丁の盗賊を逐捕するは、並びに乞う祖宗の旧法に依らんことを。

五月、光を門下侍郎と為す。光復た前の説を申さんと欲し、以爲うらくは保甲を教閲するは公私労費して用無しと。是の時、資政殿学士韓維・侍読呂公著復た上前の奏を進めんと欲し、先づ是に進呈し、団教を罷むるを乞う。詔して府界・三路の保甲は来年正月以後より並びに団教を罷め、仍て旧に依り毎歳農隙に県に赴き一月教閲せしめ、其の官を差し場を置き、軍器を排備し、教閲の法式番次、按賞の費用は、枢密院・三省に令して同く法を立つ。後六日、光再び上奏し、其の懇切を極む。蔡確等執奏して行わず。詔して保甲は枢密院の已に得たる指揮に依り、保馬は別に議して法を立つ。

九月、監察御史王岩叟言う、「保甲の害、三路の民は湯火の中に在るが如し、必ずしも皆法の弊に非ず、蓋し提挙一司上下の官吏の之を逼るに由りて然らしむるなり。而して近日の指揮は冬教を令すと雖も、然れども尚お官司を存すれば、則ち以て保甲の害と為す所のもの、十分の六七猶お在り、陛下の知らざる所なり。此れ皆奸邪の非を遂げ過を飾り、而して巧辞強辨を以て聖聴を欺惑し、将に至深の病を略示更張し、以て陛下の聖意に応副するのみ、至誠を以て国家の為に大害を去り大利を復し、以て百姓に便し、太平長久の計と為すに非ざるなり。此れ忠義の良心の猶お抑えらるる所以、奸邪の素計の尚お存する所以なり。天下の識者は、皆陛下の害源を絶たずんば、百姓由りて生を楽しまず、群邪を屏けずんば、太平終に是れ致し難しと言う。臣願わくは陛下奮然として独断し、聴政の初めの如く数事を行わば、則ち天下の大體虧くる無く、陛下高枕して臥せん」と。十月、詔して府界・三路の保甲官を提挙するを並びに罷め、逐路の提刑及び府界提点司に令して兼ねて領せしめ、所有の保甲は、冬教三月に止む。又詔して逐県の監教官を並びに罷め、令佐に委ね監教せしむ。

十一月、岩叟言う。

保甲行わるること累年、朝廷固より已に人情の共に苦しむ所を知る。而して前日詔を下し疾病を蠲め、小弱を汰い、第五等の田二十畝に及ばざる者を釈し、一月の六教を省みて三日の並教と為すは、甚だ大なる恵なり。然れども其の司尚お存し、其の患終に在り。今臣の見る所を以て陛下に言わん、敢えて其の実を隠して朝廷を欺かず、亦敢えて其の事を飾りて成法を罔かず。

朝廷は民を教えて兵となすことを知るも、教えが苛酷にして民堪え難きを知らず、別に一司を設けてこれを総べるを知るも、煩わしすぎて民に怨みを生ずるを知らざるなり。教えるは用いんがためなりしに、これをして怨みに至らしむれば、恐らくは一日これを用うるに、吾が意の如くならざる者あらん、思わざるべからざるなり。

民の言うところは、教法の難きは以て苦しみと為すに足らず、而して羈縻の虐はこれに甚だしきものあり、羈縻は以て苦しみと為すに足らず、而して鞭笞の酷はこれに甚だしきものあり、鞭笞は以て苦しみと為すに足らず、而して誅求の已む無きはこれに甚だしきものあり、と。耕し耘す方に罷め、幹び営む方に去る、これ羈縻の以て苦しみと為す所以なり。その教うるや、保長これを笞ち、保正またこれを笞ち、巡検の指使と巡検の者とまた交えてこれを撻ち、提挙司の指使と提挙司の幹当公事の者とまた互いにこれを鞭ち、提挙の官長またこれを鞭つ。一たび逃避あれば、県令またこれを鞭つ。人聊生するなく、恨みて死なざるを得ず、これ鞭笞の以て苦しみと為す所以なり。袍を創り、巾を市い、弓を買い、箭に絛し、弦を添え、包指を換え、鞍轡を治め、涼棚を蓋い、象法を画き、隊牌を造り、架を緝め、椅卓を僦し、典紙墨を囲い、人雇直を見定め、菜緡を均し、秸粒を納むるの類、その名百出し、数え勝うべからず。故に父老の諺に曰く、「児曹手空しくして、以て教場に入るべからず」と。虚語に非ざるなり。都副両保正・大小両保長、平居家に在りては、婚姻喪葬の間遺、秋成夏熟、絲麻穀麥の要求、城市に遇えば、飲食の責望、これ勢いに迫られて敢えて致さざるを得ざるものなり。一たび意に如かざれば、即ち芸法に如かざるを以て名と為し、而してこれを捶辱すること至らざる所無し。また所謂巡検・指使の者、多くこの徒より出で、貪りて法を冒し、後禍を顧みず、保正・保長に逾えるものあり、これ誅求の以て甚だ苦しきと為す所以なり。

また養子を逐い、贅婿を出し、その母を再嫁せしめ、兄弟析居して以て免れんことを求むる者あり、その目を毒し、その指を断ち、その肌膚を炙して以て自ら残廃と為し免れんことを求むる者あり、室を尽くして逃れて帰らざる者あり、老弱を家に委ねて保丁自ら逃るる者あり。保丁逃るれば、則ち法当にその家を督めて賞銭十千を出だし以てこれを募るべし。その家に出だす所有らしむれば、当に未だ逃るるに至らざるべし、逃るるに至れば、則ちその困窮知るべく、而して十千を督取する、何を以てか得べけんや。故に毎県常に数十百家の老弱、道路に嗟諮し、公庭に哀訴す。臣が愚の如き、且つ忍びざるを知る、陛下仁聖にしてこれを知らしめば、当に如何ならんや。

また保丁の外、平民凡そ一馬ある者は、皆借供せしむ。場を逐って騎を教え、終日馳驟し、往々饑羸して以て斃るるに至る、誰か復た敢えて言わん。その或いは主家倘いに他出に因り、一たび誤って借供せしめば、遂に追呼笞責の害あり。或いは官逋督迫に因り、已むを得ずしてこれを易うれば、則ち抑令して還取するの苦あり、故に人人馬あるを以て禍と為す。これ皆提挙官吏法に倚りて以て事を生じ、重ねて百姓の擾れと為す者なり。

窃に惟うに、古者は未だ嘗て民を教えて戦わしめざるはあらず、而してこのあるを聞かざるは、人の情に因りて以て法と為すなり。情に縁りて以て法を推せば、則ち愈久しくして愈行わる、威に倚りて以て令を行えば、則ち愈厳にして愈悖る。これ自然の理なり。獣窮すれば則ち搏ち、人窮すれば則ち詐る、古より今に至るまで、その下を窮めて能く危き無き者は未だあらざるなり。臣保甲一司を観るに、上下の官吏、毫髪も百姓を愛するの意無く、故に百姓その官司を視るに虎狼に啻ならず、憤りを積み怨みを銜み、人人同じき所なり。比者保丁指使を執り、巡検を逐い、提挙司の幹当官を攻む、大獄相継ぎ、今猶未だ已まず。民の愚なるといえども、顧みて豈に父母妻子の愛を忘れ、而して犯上の悪を喜びて以て禍を取らんや。蓋しこれを激してこの極に至らしむるなり。これを激すること深きに至れば、その発することこの上に甚だしきあるを知らんや。情状かくの如し、先事にして慮り、以て大體を保ち安静を図らざるべからず。

三時に農に務め、一時に武を講ず、これ先王の通制なり。一月の間に並びて三日を教うるは、一歳のうちに並びて一月を教うるに若かず。農事既に畢り、他に用心無く、人自ら武を講ずるに安んじて憾み無からん。遂に提挙司を罷め、巡教官を廃し、一たび州県に隷せしめ、而して逐路安撫司をしてこれを総べしむ。毎に冬を俟って城下に教え、一邑を分かちて両番と為し、一月に当たらしむ。教えを起せば則ち正長と階級を論じ、教えを罷めば則ち正長と相誰何せず。庶幾くは百姓以て優遊し生を治め、終年遁逃の苦無く、侵漁苛虐の患無く、爭陵犯上の悪無からしめん。且つ武事廃せず、威聲も亦全からん。豈に易くして功有らざらんや。惟うに陛下深く計り遠く慮り、断じて必ず行い、以て多事を省き、以て生霊安楽の恵と為し、以て国家安静の福と為さんことを。

また三路提挙保甲銭糧司を罷め、及び提挙教閲を罷め、及び毎歳保甲を分かちて両番と為し、十一月・十二月の両月上に教え、必ずしも四番に分かち作すべからず、且つ必ずしも京師より官を遣わして教えを視さしむべからず、止めに安撫司に差那の使臣をして為さしむるを便とす、と乞う。並びにこれに従う。

元祐元年正月、枢密院言う、「府界・三路の保甲已に団教を罷む、その教閲の器械悉く官に上送し、仍て禁約を立てん」と。閏二月、詔して河北東西路・永興・秦鳳等路提点刑獄に保甲を提挙するを兼ねしめ、並びに提刑司の例に依り各々一司と為す。三月、王岩叟狄諮・劉定の奸贓の状を劾す。御史孫升も亦言う、「劉定は上には章惇の奸党に挾まり、下には狄諮の庸材に附き、大いに憑陵し、公に恐喝を行い、故に真定獲鹿の変は後に起こり、澶・滑の盗は前に作る、願わくは早くその罪を正せ」と。ここにおいて諮・定皆罷められ、外の宮観と為す。十一月、詔して府界・三路の保甲人戸五等已下、地土二十畝に及ばざる者は、三丁以上と雖も、並びに教えを免ず、と。殿中侍御史呂陶の請いに従うなり。

紹聖二年七月、帝義勇・保甲の数を問う、宰臣章惇曰く、「義勇は、祖宗以来の旧法なり。治平中、韓琦使いを遣わし陝西に詣りて再び丁数を括り添刺せんことを請う。熙寧中、先帝始めて保甲法を行い、府界・三路七十余万丁を得たり。官を設け教閲するは府界に始まり、衆議沸騰す。芸を教え既に成り、更に正兵に勝る。元豊中、始めて使いを遣わし遍く三路を教う。先帝留神して按閲し、芸精なる者は厚く賞し、或いは差使・軍将の名目を以て擢で、而して一時の賞賚率ね封樁或いは禁軍の闕額に取り、未だ嘗て戸部の一銭を費やすこと無し。元祐に馳廃せしむる、深く惜しむべし」と。

元符二年(1099年)九月、御史中丞安惇が奏上して保甲の教習月分を定め、官を差して按試することを請うた。曾布が言うには、「保甲は確かに教習すべきであるが、しかし陝西・河東では連年城砦を進築し、調発が未だ止まず、河北では連年水害があり、流民が未だ回復せず、これをもって督責訓練をなすべからず」と。帝(哲宗)が言うには、「府界では先に行うことができぬか」と。布が言うには、「熙寧年間に保甲を教習した時、臣は司農に在った。その時諸県は保甲を引見し、事藝は精熟していた」と。章惇が即座に言うには、「多くは班行を得た」と。布が言うには、「ただ殿侍・軍将を得たに過ぎないが、しかし皆さらに差し充てて巡検司指揮となした。これにより、仕宦及び有力の家の子弟は、皆欣んで赴いた。また引対の際、乗る所は皆良馬で、鞍韉は華美で整い、馬上の事藝は往々にして諸軍に勝った。知県・巡検もまた皆転官あるいは減年を得た。これにより、上下皆踊躍自ら効した。しかしその時は司農官が親しくその事を任じ、督責検察は極めて精密で、県令に保甲に衣装を置かせて抑令し、非理に騒擾する者もあり、皆衝替されたので、人は敢えて法を奉じざる者無かった。その後、上番を命じたのである」と。帝が言うには、「まず府界において検挙施行せよ」と。蔡卞が言うには、「先朝の法中に少し加えて裁損するも、不可なる理無し」と。布は甚だ便りとし、文字を検尋して進呈することを容れた。

十一月、蔡卞が上(哲宗)を勧めて畿内保甲教閲法を復行せしめ、帝はたびたび曾布を督した。この日、布が進呈して畿内保丁の総数は二十六万、熙寧中に事藝を教えた者は凡そ七万であると言い、ついで言うには、「この事は固より講求すべきであるが、しかし廃罷して已に十五年、一旦復行すれば、事の初めと異ならず、漸次に行うべきで、則ち人は驚擾に至らざるべし」と。帝が言うには、「固より漸次に行うべきである」と。布が言うには、「聖諭この如く、尽きたり。もし直ちに元豊の成法を以て一切挙行すれば、当時の保丁の存する者は幾ばくも無く、未だ教習せざる人を以て、直ちに上番及び集教を命ずれば、則ち人情洶洶として、安んずる易からざるべし。熙寧中、施行にもまた漸次があった。臣に施行の次第を講求せしめられよ」と。退いて卞に語ると、卞は殊に不快とし、乃ち言うには、「熙寧初年、人は未だ保甲の法を知らなかった。今は耳目已に習熟し、自ずから同からず」と。布は答えなかった。

徽宗崇寧四年(1105年)、枢密院が言うには、「近ごろ京畿の保甲が八百七十一通の牒を投じて教閲免除を乞い、また二百三十余通の牒を以て枢密張康国の馬首を遮って訴えた」と。この月、詔して京畿・三路の保甲は共に農隙の時に教閲し、その月教の指揮は行うなと。

五年(1106年)、詔して河北東西路・河東路・永興軍路・秦鳳路は各武臣一員を差し充てて提挙保甲とし、併せて提刑を兼ねさせ、その現に専ら提挙保甲を務める文臣は皆罷免せよと。この月、詔して京畿は武臣一員を差し充てて提挙保甲とし提刑を兼ねさせ、なお文臣の提刑を差し保甲提挙を兼ねさせよと。

政和三年(1113年)四月、枢密院が言うには、「神考(神宗)が保甲の法を制定され、京畿・三路は聚教し、毎番は五十日と号すといえども、その間に能く弓弩を勤習し賞に該る者はまず拍放した。一年のうち、場において閲教するのは、遠き者は二十七日を過ぎず、近き者は十八日に止まるのみである。もし秋稼に災傷あれば、則ち当年の聚教を免ずる。もし武藝稍々能く精熟すれば、則ち激賞の法あり。闘力出等すれば、則ち戸下の春夫・科配を免じ、最高強者は、則ち解発して引見し、試藝して命官する。これを累年行い、人は皆楽従した。ただ京東・西路は団成保甲の名有りといえども、未だ武事を以て訓せず、その間にまた人材甚だ衆く、武藝を習い、以て命官任使すべきの人あるを慮る。今、三路保甲の編修点択条約に依らんと欲す」と。これに従った。八月、枢密院が言うには、「諸路団成した保甲は六十一万余り、悉く皆楽従して擾わず。その京東・西路提挙官任諒は已に一官を転じ、直秘閣となった。その朝議大夫已上の者は転行を与え、武臣武功大夫は特に遙郡刺史に転じさせ、その余の官は磨勘年を差等に減ずる」と。

宣和元年(1119年)、詔して提挙保甲は州県都保が令に如かざる者を督察し、一ヶ月を限りに改正させ、毎年改正の多寡を以て殿最とせよと。二年(1120年)、詔して諸路の保甲法は皆元豊旧制に遵依し、京東・京西路は共に罷めよと。

三年(1121年)、詔して、「先帝は成周の保伍の法を若稽し、五家を以て相い比し、推し達して、二十五家を以て一大保とし、二百五十家を以て一都保となす。保各々長有り、都各々正有り、正各々副有り、之をして相い保ち相い愛し、以て奸慝を察せしむ。故に行う所あるに、諸外より来る者は、同保互いに告げ、各々相い知らしめ、行止明らかならざる者は、所属に送ることを聴す。保内の盗賊は、画時に集捕し、知りて糾さざれば、また律の如く論ず。以て糾禁幾察し、纖悉具備し、奇邪寇盗、何れの所にか容跡せん。訪聞するに法行ること既に久しく、州県玩習弛廃し、保丁の開収既に実を以てせず、保長の役使また時に以てせず。鼓鋪を修め、粉壁を飾り、敗船を守り、道路を治め、夫役を給し、税賦を催すの類、科率騒擾一ならず、遂に寇賊奇邪をして復た糾察無からしめ、良法美意浸く虚文と成る。尚書省に令して諸路の提点刑獄あるいは提挙常平官の内、毎路一員を選委し、専ら逐県の令佐を督責せしめ、係籍の人丁の開収を実を取らしめ、保正長を選択し、各々更替法の如くし、保丁を鈐束して、遞相いに覚察せしめ、亡頼作過等の人を舍て置くこと無からしめ、盗賊に遇えば画時に追捕せしめ、もし過ち致して蔵匿する者有れば、諸人の告首を許し、なお条を具して揭示せよ」と。

欽宗靖康元年(1126年)三月、尚書戸部侍郎錢蓋を以て龍図閣学士・陝西五路制置使とし、専ら京兆府路保甲の措置に当たらしめた。六月、御史胡舜陟が奏上して、「秦元は兵法を学ぶこと三十年、陛下これを下僚より抜き、京畿提刑とし、保甲を訓練せしめ、聞く者慰悦せざる無し。武臣提刑を罷め、保甲を元に属せしめ、庶幾くは専一を得んことを乞う」と。これに従った。十一月、京畿提挙秦元が保甲三万を集め、先に出屯を請い、自ら一面を当たろうとした。従わなかった。金兵が城に迫ると、また訓練を行い、間を乗じて出戦することを乞うた。守禦使劉韐が保甲を取って自ら益とすることを奏上し、元の謀は遂に塞がれたという。

建炎以後の郷兵

巡社(建炎元年(1127年)、詔して諸路州軍の巡社は皆忠義巡社を以て名とし、宣撫司に隷し、後に郷民を募ってこれを行った。毎十人を一甲とし、甲長有り、隊長有り、四隊を一部とし、部長有り、五部を一社とし、社長有り、五社を一都とし、都正有り。郷井の便なる処に駐紮す。紹興初年、これを罷めた。)

槍杖手(建炎二年(1128年)、福建に令して五千人を招かしめた。)

土豪(建炎四年(1130年)、詔して諸州の守臣に土豪・民兵を募らしめ、州県の守令の節制を聴かしめた。後には強壮を存留し、余は皆放散した。)義兵(紹興十年(1140年)に団集し、諸州の名数は等しからず。後には皆県令を以て軍正とした。)

義士(紹興元年(1131年)、興元の良家子弟を籍し、両丁は一を取、四丁は二を取り、毎二十人を一隊とし、号して義士と曰う。)

民兵(建炎二年、五十人ごとに一隊とし、長・副を置く。一戸より一丁を取る。五丁より二丁を取る。淳熙十四年、三丁より一丁を、五丁より二丁を、十丁より三丁を取る。)

弓箭手(建炎初年、諸路の漢蕃弓箭手に対し百日の期限を以て自ら陳じて承襲することを命ず。紹興年間、京城外の閑地に、陝西沿辺の例に依り、弓箭手を招き蒔種せしむ。)

土丁(紹興年中、詔して嘉祐の措置に依らしむ。三時は務農し、一時は武を講ず。諸県は逐郷に教場を置き、十一月より教練を始め、翌年正月に教練を罷む。)

把截將(紹興二十七年、詔して恭州・雁門の控扼の地に土丁二百人を置く。)

峒丁(建炎三年、江西・福建諸処の総領官に命じ、槍杖手・峒丁の人数を籍定し、以て調遣に備えしむ。紹興年中、之を罷む。)

保勝(紹興六年、詔して金・均・房三州の保甲を五軍に分ち、保勝を以て名と為す。)勇敢(紹興二年、詔して池州に就き土人を招き充て、二千を額と為す。)

保丁(二広の保丁は、毎戸一名、土丁父子兄弟皆其の数に在り。乾道年中、拘留して民を擾すを以て、之を罷む。)山水砦(詳しくは砦兵に見ゆ。)

萬弩手(初め、熙寧年間、鼎・澧・辰・沅・靖五郡の弓弩手一万三千人を以て辺境に散居せしめ訓練す。事無き時は耕作し、警有れば調発す。紹興以後、増損定まらず。)壯丁民社(乾道四年、楚州に置く。)

良家子(紹興四年、両淮・関陝の流寓及び陣亡した主兵將の子弟でぎょう武にして存立し能わざる者を招き充て、月給は強弓手に比す。五十人を以て一隊と為す。)

義勇(湖北諸郡皆義勇有り、惟だ澧州石門・慈利は籍を置かず。其の法は主戸の双丁より取る。毎十戸を一甲と為し、五甲を一団と為す。甲には皆長有り、邑豪を択びて総首と為す。農隙に武藝を教え、食は官司より給す。)

湖北土丁刀弩手(政和七年、土丁を募り充て、閑山を授け、辺境に散居せしめ、武藝を教う。紹熙之に因る。淳熙年中、李燾其の不便を力言し、之を罷む。)

湖南郷社(旧制、郷豪を以て之を領せしむ。大なる者は数百家を統べ、小なる者も亦二三百家なり。後言者其の不便を以てす。淳熙年中、其の首領を択び、大なる者五十家を過ぎず、小なる者は半減せしむ。)忠勇(関外西和・階・成・鳳四州に聚まる民兵、之を忠勇と謂う。)

鎮淮(初め、淮南に辺民を募り鎮淮軍と号す。数は十万に至り、月給は效勇に視る。惟だ黥涅せざるのみ。久しくして廩足らず、劫掠を肆う。嘉定初年、選汰して農に帰し、僅かに八千余人を存し、以て效用に充て、余は鎮江大軍に補う。淮西は二万六千余を選び御前定武軍に充て、六軍に分ち、軍に統製を設く。)

忠義民兵(福州諸県旧に忠義社有り、邑民を屯結し、豪右を択びて長と為し、量りて器甲を授く。盗是より息み、人甚だ之を頼む。後有司煩擾し、初意を失う。開禧兵を用うるに及び、淮・襄の民兵官に籍する者有り、至って百六十緡を以て一兵を養う。後又令を放ちて帰業せしむるも、帰する所無く、多く散じて盗と為る。乃ち毎郡に豪酋一人を択び、官を授けて民を鎮撫せしむ。)

建炎後砦兵。両浙西路

臨安府十三砦(外沙、海内、管界、茶槽、南蕩、東梓、上管、赭山、黃灣、硤石、奉口、許村、下塘)。

安吉州七砦(管界、安吉、秀塞、呂小幽嶺、下塘、北豪、皋塘)。

平江府八砦(吳江、吳長、許浦、福山、白茅、江灣、楊林、角頭)。常州五砦(管界、小河、馬跡、香蘭、分界)。江陰軍二砦(申港、石牌)。

嚴州五砦(威平、港口、鳳林、茶山、管界)。兩浙東路

慶元府十砦(浙東、結埼、三姑、管界、大嵩、海內、白峰、岱山、鳴鶴、公塘)。

溫州十三砦(城下、管界、館頭、青奧、梅奧、鹿西、浦門、南監、東北、三尖、北監、小鹿、大荊)。台州六砦(管界、亭場、吳都、白塔、鬆門、臨門)。

處州二砦(管界、梓亭)。江南東路南康軍五砦(大孤山、水陸、四望山、河湖、左望)。江南西路

隆興府七砦(都巡、鄔子、鬆門、港口、定江、杉市、管界)。撫州七砦(城南、曾田、樂安、鎮馬、旗步、招攜、湖平)。江州六砦(管界、江內、茭石、馬當、城子頭、孤山)。

興國二砦(池口、磁湖)。袁州四砦(都巡、四縣、管界、白斜)。臨江軍三砦(本軍、水陸、管界)。

吉州十六砦(富田、走馬塍、永和鎮、觀山、明德、沙溪、西平山、楊宅、栗傳、禾山、勝鄉、造口、秀洲、新砦、北鄉、黃茅峽)。荊湖南路

永州三砦(都巡、同巡、衡永界)。寶慶三砦(黃茅、西縣、盧溪)。郴州五砦(管界、安福、青要、赤石、上猶)。

武岡軍十砦(三門、石查、真良、嶽溪、臨口、關硤、黃石、新寧、綏寧、永和)。道州四砦(營道、寧遠、江華、永明)。全州四砦(上軍、角口、吉寧、平塘)。

福建路

邵武軍十砦(同巡檢、大寺、水口、永安、明溪、仁壽、西安、永平、軍口、梅口)。建寧府七砦(黃琦、籌嶺、盆亭、麻沙、水吉、苦竹、仁壽)。

南劍州八砦(滄峽、洛陽らくよう、浮流、岩前、同巡、仁壽、萬安、黃土)。泉州五砦(都巡、同巡、石井、小兜、三縣)。福州四砦(辜嶺、甘蔗、五縣、水口)。

興化軍の二砦(同巡、巡鹽)。漳州の二砦(同巡、虎嶺)。広西路賀州の二砦(臨賀、富川)。

昭州の四砦(昭平、雲峒、西嶺、立山)。

欽州の二砦(西県、管界)。