◎兵五(郷兵二)
○河北・河東・陝西義勇、陝西護塞、川峡土丁、荊湖義軍土丁弩手、夔・施・黔・思等処義軍土丁、広南西路土丁、広南東路槍手、邕・欽溪洞壮丁、福建路槍仗手、江南西路槍仗手、蕃兵
熙寧初め、枢密使呂公弼が請う、河北義勇を以て毎指揮ごとに少壮で技芸精熟なる者百人を選び上等と為し、手の甲に「上等」の字を添えて刺し、区別して教練し、及び定数外で技芸優れた者もまたこれに籍し、欠員あれば補う。これに従う。十二月、詔して河北義勇は、県では年に一度閲兵すべし。州において閲兵すべき者は、宜しく番を分かち、年ごとに一番とすべし。災害損傷で中止すべき者は詔旨を聴く。指揮を以て番を分かつ者は、大名府五十三指揮を四番と為し、真定・瀛・洺・邢・滄・定・冀・恩・趙・深・磁・相・博は三十九より十二まで並びに三番と為し、徳・祁・澶・棣・霸・濱・永静・永寧・懷・衛・乾寧・莫・保・通利は十一より四まで並びに二番と為す。九指揮以上の者は更に本番を三に分かち、教練は十月に始まり、十二月に止む。六指揮以上の者は更に本番を二に分かち、教練は十月に始まり、十一月に止み、満一月に終えて罷め遣わす。
帝嘗て陳升之に問うて曰く、「侯叔獻が言う義勇の上番は如何か」と。王安石曰く、「この事は為すべしと似たり、但し少し歳月を待ってこれを議すべし」と。升之曰く、「今募兵は未だ已まず、且つ上番義勇を養えば、則ち調度は特に容易ならず」と。安石曰く、「募兵の害を言うこと多くと雖も、用いるに及べば患少なし、民と兵を以て両途と為すが故なり」と。十二月、帝言う、「義勇は四番に分かち出戍せしむべし」と。呂公弼曰く、「須らく先ず募兵を省くを得て、乃ちこれを議すべし」と。安石曰く、「毎年募兵の死亡の数を計り、乃ち義勇を以てこれを補うべし」と。陳升之は義勇を以て漸次近州に戍らしめんと欲す。安石曰く、「陛下若し数百年の募兵の弊を変えんと欲せば、則ち宜しく果断にし、詳細に法制を立てるべし。然らずんば、補うこと無し」と。帝然りと為し、曰く、「須らく予め条法を定立し、宣布せず、以て漸次に推行すべし」と。両府、上番を議す。或いは一月と為すべしとし、或いは一季と為すべしとし、且つ近くに戍らしめんとす。文彦博等また言う、遠く戍らしむるは難しと。安石これを弁じ甚だ力めり。
この月、兵部が陝西・河北・河東の義勇の数を上奏す。陝西路二十六郡、旧籍十五万三千四百、環・慶・延州の保毅・弓箭手三千八百を加え、総計十五万六千八百、指揮三百二十一と為す。河北三十三郡、旧籍十八万九千二百、今籍十八万六千四百、指揮四百三十と為す。而して河東二十郡、慶暦以後総計七万七千、指揮一百五十九と為す。凡そ三路の義勇の兵、総計四十二万三千五百人。
十二月、司馬光上疏して曰く。
臣は不才をもって、長安一路十州の兵民の大柄を兼ねて領す。官に到りて以来、朝廷及び宣撫等司の指揮を伏して見るに、義勇を四番に分かち、以て順次に縁辺に戍守せしめんと欲し、諸軍の驍鋭を選び及び閭裏の悪少を募りて奇兵と為し、乾糧・炒飯・布嚢・力車を造りて饋運に備え、歳賜趙秉常の物を悉く取りて縁辺諸路に散給し、又内の府庫の甲兵財物を竭して以て之を助く。且つ永興一路を以て之を言へば、発する所の人馬、甲八千副、銭九万貫、銀二万三千両、銀碗六千枚、其の余の細瑣の物、勝げて数ふべからず。動くこと皆軍期を以て迫り、上下相駆り、星火よりも急なり。官吏狼狽し、下民驚疑し、皆云く国家将に来春大いに六師を挙げ、長駆深入し、以て秉常の罪を討たんとすと。
臣は疏賤にして、廟堂の議に預り聞くことを得ず、未だ茲の事の虚実を知らず。昨者親しく徳音を承るに、以て方今の辺計は、惟だ謹厳に守備を宜しくすべしと為す。其の入寇するは則ち壁を堅くし野を清くし、之をして来りて得る所無からしめ、兵疲れ食尽きて、坐して其の弊を収むるを得べしと。臣退きて思念す、聖謀高遠にして、深く王者の遠人を懐柔する道を得、実に天下の福なり。関中に到りて、乃ち見るに凡そ百の処置、皆出征の調度と為す。臣知らず、有司の外に在りて、聖意を諭せず、以て此の張皇有らしむるに至るか、将に陛下の神算を黙運して愚賤の臣に其の実を聞かしめざらんとするかと。臣勝へて惶惑せず、窃かに陛下の為に之を危ぶむ。況んや関中饑饉、十室九空、賊盗と為る者紛紛として已に多し。県官倉庫の積、余る所幾ばくも無し、乃ち大衆を軽動し、横に猛獣を挑まんと欲す、此れ臣の大いに懼るる所なり。
伏して望む、陛下深く安危の機を鑒み、之を未萌に消し、之を未形に杜かんことを。速やかに明詔を下し関中の民を撫諭して朝廷出征の計と為さざるを以てし、其の義勇更に番を分かち縁辺に戍守せしめず、亦奇兵を選募せず。凡そ諸の調発饋運の具と為す者は悉く停罷せしめ、内の倉庫の儲を愛惜し、以て春深く饑窮の人を賙救するに備へんことを。此くの如くせば、豈に生民の幸のみならん、亦社稷の福なり。惟ふらくは陛下裁察せられんことを。
再び之を言ふこと甚だ力あり、是に於て永興一路独り免るるを得たり。
四年、詔して陝西路義勇の差役を罷む。又詔して陝西諸路提挙義勇官を罷め、本属の州県に委ねて旧に依り番を分かち教閲せしむ。
六年九月、詔す義勇の人員・節級の名闕は、須らく教閲排連に因りて遷補すべし。十月、熙河路経略司言ふ:人を許し義勇に投換せしめ、地を以て之に給し、税額を起立せんことを乞ふ。詔して官地を以て弓箭手を招き、仍近裏の百姓壮勇なる者に占射を許し、内の地に依りて税を起し、保甲を排す;即ち義勇願ひ投充する及び民戸蕃部の地を受くことを願ふ者は之を聴す。其の頃畝は経略司をして肥瘠を以て数を定めしむ。十一月、詔す永興軍・河中府・陝・解・同・華・鄜・延・丹・坊・邠・寧・環・慶・耀の十五州軍は各元に刺したる義勇に依る外、商・虢州・保安軍は並びに止だ保甲を団成す。七年、詔す義勇の正身は応募充刺を許さず、已に応募する者は人を召し対替せしむ。
八年四月、韓琦等に詔して曰く「河朔の義勇民兵、之を置くこと歳久しく、耳目已に熟し、将校甚だ整ひ、教習亦良し。然るに保甲を団結するに、一道紛然たり。義勇の旧人十に其の七を去り、或は保甲に撥入し、或は放ちて農に帰し、数増すの虚名を得て、用ふべき成法を破り、此れ又徒らに契丹の疑ひを起すなり」と。七月、詔す応に義勇家人の軍に投じたる後、本戸の余丁数少なく、合は義勇を免ずべく、並びに軍に投ずるを許す。十月、詔す「五路の義勇は每年州に赴きて教へ、保甲は県に赴きて教ふ、並びに十月より次年正月の終に至る。義勇十指揮に及ばず、保甲十都に及ばざる者は、十二月より教を起し、各人数に拠り番次を分定し、一月を教閲し、指揮・都保を拆破するを許さず。其の人数の少き処は、隻だ一番・両番と作り、須らく教ふる所の月分を満すに及ばず。其の年已に上番する者は、半月を止めて教ふ」と。十二月、詔す五路の義勇は並びに保丁と輪充し及び盗賊を検察せしめ、違犯有らば、保丁法に依る。
政和六年、瀘南安撫使孫羲叟奏す、「辺民法を冒し夷人の田を買う、法に依り尽く官に拘入し、土丁子弟を招置す。見招到する二千四百余人有り、番上せしめんと欲す」と。之に従う。
宣和四年、詔す、「茂州・石泉軍旧に管する土丁子弟は、番上して守把すれども、射芸に諳ぜず。其れ施・黔の兵に善射の者各五十人を選び、分かち教習せしめ、精熟の日に候い回遣すべし」と。
荊湖路義軍土丁・弩手は創置の始を見ず、北路は辰・澧二州、南路は全・邵・道・永四州に皆置く。蓋し溪洞諸蛮は、岩険を保拠し、叛服常ならず、其の制控は土人を須う故に是の軍を置く。皆戸籍より選び、徭賦を蠲免し、番戍して砦柵に当たる。大率其の風土に安んずれば、則ち瘴毒に嬰る罕なり。其の区落を知れば、則ち狡獪を制す可し。其の校長には則ち都指揮使・副都指揮使・指揮使・副指揮使・都頭・副都頭・軍頭・頭首・采斫招安頭首・十将・節級有り、皆功を叙し遷補し、相綜領せしむ。之を西南に施すは、実に王師に代わり、禦侮の備有りて、饋餉の労無し。其の後、荊南・帰・陝・鼎・郴・衡・桂陽も亦置く。
元祐七年、邵州邵陽・武崗・新化等県の中等以下戸を選差し土丁・弩手に充て、科役を免じ、七年ごとに替えしむ。将級を排補するは、替放の年に拘わらず、両番に分ち辺砦を防拓せしめ、人を募るを得ず。凡そ上番するは、禁軍の例に依り武芸を教閲し及び専ら木弩を習わしむ。若し私役有らば、並びに『私役禁軍勅』の如く論ず。
政和七年、辰・沅・澧等州の更戍土丁と営田土丁と名称重畳するを以て、兵馬都鈐轄司の招填する土丁を改めて鼎・澧路営田刀弩手と為す。
夔州路義軍土丁・壮丁は州県の籍する税戸を以て充て、或いは溪洞より帰投す。辺砦に分隸し、山川道路に習い、蛮の寇入するに遇えば、使を遣わし襲討せしめ、官軍は但だ険に拠りて之に策応す。其の校長の名は、州県に随い補置し、所在一ならず。職級已上は、冬に綿袍を賜い、月に食塩・米麥・鐵錢を給す。其次は紫綾綿袍を給し、月に塩米を給す。其次は月に米鹽を給するのみ。功有る者は次を以て遷す。
施州・黔州・思州の三州の義軍土丁は、総じて都巡検司に隷属す。施州の諸砦には義軍指揮使・把截将・砦将あり、併せて土丁総計一千二百八十一人、壮丁六百六十九人。また西路巡防殿侍兼義軍都指揮使・指揮使・都頭・十将・押番・砦将あり。黔州の諸砦には義軍正副指揮使・兵馬使・都頭・砦将・把截将あり、併せて壮丁総計千六百二十五人。思州・洪杜・彭水県には義軍指揮使・巡検将・砦将・科理・旁頭・把截・部轄将あり、併せて壮丁総計千四百二十二人。
広南西路の土丁は嘉祐七年、税戸の常役に応ずる外、五丁ごとに一点してこれを為す。凡そ三万九千八百人を得。隊伍行陣を分ち、槍・鏢排を習わしめ、冬初に州に集めて按閲す。後に歳を遞るごとに州県迭りに教え、兵械を察視す。収刈を防ぐため、十一月に教えを改め用い、一月に罷む。
元豊六年、広西経略使熊本言う、「宜州の土丁七千余人は、緩急に用いる可し。所属に令して編排せしめ、都分に分ち作り、防盜を除く外、縁辺に警あれば、会合掩捕を聴すべし」と。これに従う。
熙寧中、王安石言う、「募兵は未だ全く罷む可からず、民兵は則ち漸く復す可し、二広に至りては、尤も緩にす可からず。今中国は禁軍を募りて往きて南方に戍せしむるに多く死す、仁政に害あり。陛下誠に軍職の得る所の官の十二三を移し、百姓豪傑を鼓舞して、趨りて兵と為らしめば、則ち事甚だ易く成るべし」と。ここにおいて、蘇緘は二広の洞丁を訓練せんことを請う。旧制、一歳に両月を教う。安石曰く、「訓練の法は、当にその人を什伍し、その材武の士を抜きて什百の長と為すべし。首領以下より、各禄利を以て勧獎し、自ら閲習に勤まらしめば、即ち事芸成り、部分立ち、緩急用いる可し」と。六年、広南西路経略の沈起言う、「邕州五十一郡峒の丁は、凡そ四万五千二百。保甲を行い、戎械を給し、陣隊を教えんことを請う。芸衆に出す者は、府界に依り推恩して補授す」と。奏聞して可とす。
九年、趙禼が交阯を征討するにあたり、入朝して辞儀を述べた。帝は「峒丁を用いる法は、まず実利をもって誘い、その後で人を使うことができる。甘言虚辞では、どうしてその効命を責められようか。かつて鄜延で蕃兵を集めて教練した際は、卿がこれを制する術があったからこそ、軽罪は決断し、重罪は誅することができた。西夏に背けばその禍は遠く、帥臣に背けばその禍は速い。兵法の『我を畏れて敵を畏れず』の義に合致し、故にその効命を責めることができたのである。王師の南征にあたり、卿は勁兵数千を選び募り、梟将を選んでこれを率いさせ、諸峒を脅し、大兵が将に至らんとすることを諭し、我に従う者には賞を与え、従わぬ者は族を按じて誅せよ。兵威既に振るえば、まず右江を脅し、右江既に附すれば、また左江を脅す。両江が附すれば、諸蛮附かざるはない。その後で交人の劉紀の巣穴を攻めるのは、甚だ難からざるであろう。郭逵は性吝嗇である。卿は朝廷が兵費を惜しまざることを以て諭すべし。逵はまた事崖岸にして、下情に通ぜず、将佐敢えて言う者なし。卿彼に至り、朕の語を以て詔せよ」と諭した。
十年、枢密院が請うた。「邕州・欽州の峒丁は経略司に委ねて提挙させ、巡検とともに総じて訓練の事に当たらせ、一切を分接に委ねる。歳末に武芸優れた者を上申し、その酋首とともに等級に応じて賞を受ける。五人を保とし、五保を隊とする。三等に分ける。軍功武芸衆に抜きん出る者は上とし、その徭役を免ず。人材矯捷なる者は中とし、その科配を免ず。余りは下とする。辺境に盗賊が発生すれば酋長が相報じ、族衆を率いて寇を防ぐ」と。十二月、詔して邕州・欽州の丁壮は自ら戎器を備え、貧しき者は官銭を貸し与え、金鼓旗幟は官が給し、隔年ごとに大閲兵を行い、終わればこれを収蔵する。
五年、詔す。「広南の保甲は戎州・瀘州の故事の如く、自ら裹頭無刃槍・竹標排・木弓刀・蒿矢等を置き武技を習い、盗賊を捕らうるに遇えば官が器械を給する。
六年、詔して枢密承旨司に広西の峒丁を講議せしめ、開封府界の保甲の集教・団教の法の如くせしむ。是年、広西路刑獄を提点する彭次雲が言う。「邕州は瘴癘に苦しむ。兵を量り留めて更戍せしめ、余りは峒丁を用い、季月ごとに番上せしめ、禁軍の銭糧を給せよ」と。詔して許彦先にこれを度らしむ。彦先等が言う。「もし尽く正兵に代えさせれば、農を妨ぐる恐れあり。戍兵の三分の一を計って峒丁に代え、季ごとに二千を輪番して邕州に赴き武事を習わしむることを請う」と。これに従う。
江南西路の槍仗手は、熙寧七年、詔して虔州・汀州・漳州の三州の郷丁・槍手等を籍し、製置盗賊司が三州の境は嶺外に接し、民は塩を販売するを喜び且つ盗賊となる、土人にあらざれば制すること能わざるが故なりと言うによる。
蕃兵とは、塞下に内属する諸部落の籍を具え、団結して藩籬の兵となすものである。西北辺の羌戎は、種落相統一せず、塞を保つ者を熟戸と謂い、余りを生戸と謂う。陝西では秦鳳・涇原・環慶・鄜延、河東では石州・隰州・麟州・府州である。その大首領は都軍主と為し、百帳以上は軍主と為し、次は副軍主・都虞候・指揮使・副兵馬使と為し、功次に依って補する者は刺史・諸衛将軍・諸司使・副使・承製・崇班供奉官より殿侍に至る。その本族巡検を充たす者は、俸は正員と同じくし、月に添支銭十五千、米麵傔馬に差等あり。刺史・諸衛将軍の請給は、蕃官の例と同じ。首領で軍職を補する者は、月俸銭は三千より三百まで、また歳ごとに冬服綿袍凡七種、紫綾三種を給す。十将以下は皆田土を給す。
秦鳳路:砦十三、強人四万一千百九十四、壮馬七千九百九十一。(三陽砦、十八門・三十四大部族・四十三姓・百八十族、総兵馬三千四百六十七。隴城砦、五門・五大部族・三十四小族・三十四姓、総兵馬二千五十四。弓門砦、二大門・十七部族・十七姓・十七小族、総兵馬千七百四。治坊砦、二大門・二大部族・九姓・九小部族、総兵馬三百六十。┒穰砦、二大門・二大部族・十一姓・十一小族、総兵馬千八百。静戎砦、門三、計りて大部族十・六姓・十六小族、総兵馬六百二十五。定西砦、四門・四大部族・十六姓・二十八族、総兵馬六百。伏羌砦、二門・二大部族・三十二姓・三十三小部族、総兵馬千九百九十二。安遠砦、二十三門・二十三大部族・百二十六姓・百二十六小族、総兵馬五千三百五十。来遠砦、八門・八大部族・十九姓・十九小族、総兵馬千五百七十四。寧遠砦、四門・四大部族・三十六姓・三十六小族、総兵馬七千四百八十。古渭砦、百七十二門・百七十一姓・十二大部族・一万六千九百七十小帳、兵七千七百・馬千四百九十。)
鄜延路:軍・城・堡・砦十、蕃兵一万四千五百九十五、官馬二千三百八十二、強人六千五百四十八、壮馬八百十。(永平砦、東路都巡檢の管轄する八族、兵千七百五十四・馬四百九。青澗城、二族、兵四千五百十・馬七百三十四。龍安砦、鬼魁等九族、兵五百九十九・馬百二十九。西路徳靖砦、同都巡檢の管轄する掲家等八族、兵千百十四・馬百五十。安定堡、東路都巡檢の管轄する十六族、兵千九百八十九・馬四百六十。保安軍、両族、兵三百六十一・馬五十。徳靖、西路同都巡檢の管轄する二十族、兵七千八百五・馬八百七十七。また小胡等十九族、兵六千九百五十六・馬七百二十五。保安軍、北都巡檢の管轄する厥七等九族、兵千四百四十一・馬百六十七。園林堡、両族、兵八百二十二・馬九十三。肅戎軍、卞移等八族、兵七百四十八・馬百二十三。)
涇原路には、鎮・砦・城・堡が二十一箇所あり、強人一万二千四百六十六人、壮馬四千五百八十六頭、これを百十甲に編成し、総計五百五隊とする。(新城鎮、四族、総兵馬三百四十一、これを十六隊とする。截原砦、六族、総兵馬五百九十六、これを六甲二十隊とする。平安砦、十一族、総兵馬二千三百八十四、これを十甲四十六隊とする。開邊砦、十八族、総兵馬一千二百五十四、これを九甲四十四隊とする。新門砦、十二族、総兵馬一千七十三、これを三甲二十八隊とする。西壕砦、三族、総兵馬四百五十四、これを四甲二十隊とする。柳泉鎮、十二族、総兵馬九百八十六、これを七甲三十一隊とする。綏寧・海寧砦、四族、総兵馬七百八十八、これを四十甲三十二隊とする。靖安砦、四族、総兵馬一千九百八十二、これを四甲五十九隊とする。瓦亭砦、四族、総兵馬五百九十一、これを四甲十九隊とする。安國鎮、五族、総兵馬六百三十四、これを五甲二十二隊とする。耀武鎮、一族、総兵馬三十二、これを一隊とする。新砦、両族、総兵馬一百九。東山砦、四族、総兵馬二百二、これを四甲九隊とする。彭陽城、三族、総兵馬一百八十四、これを六甲十二隊とする。德順軍、強人三千六百七十六、壮馬二千四百八十五、これを三十六甲一百三十五隊とする。本軍二十一族、総兵馬二千五百二、これを三十六隊とする。隆德砦、七族、総兵馬二百五十六、これを十七甲十九隊とする。靜邊砦、二十四族、総兵馬一千八百七、これを三十六隊とする。水洛城、十九族、総兵馬一千三百五十四、これを十九甲三十八隊とする。通邊砦、五族、総兵馬一百七十六、これを三隊とする。)
環慶路には、鎮・砦二十八箇所あり、強人三万一千七百二十三人、壮馬三千四百九十五頭、総計一千百八十二隊とする。(安塞砦、四族、強人三百五十一、壮馬三十、これを十六隊とする。洪德砦、二族、強人二百七十三、壮馬五十二、これを十隊とする。肅遠砦、三族、強人一千五百五十九、壮馬二百六十三、これを六十隊とする。烏侖砦、一族、強人六百八十四、壮馬一百十八、これを二十六隊とする。永和砦、旁家一族計六標、強人一千二百五十五、壮馬二百二、これを四十四隊とする。平遠砦、六族、強人五百四十、壮馬八十七、これを二十七隊とする。安遠砦、六族、強人七百四十八、壮馬一百十六、これを三十隊とする。合道鎮、十四族、強人一千五百六十五、壮馬一百八十三、これを五十七隊とする。木波鎮、十四族、強人二千一百六十九、壮馬一百九十五、これを六十一隊とする。石昌鎮、二族、強人四百六十二、壮馬三十四、これを十七隊とする。馬領鎮、四族、強人一千十六、壮馬八十、これを二十四隊とする。團堡砦、二族、強人一千二十二、壮馬一百十一、これを二十四隊とする。荔原堡、十三族、強人二千二百二十一、壮馬三百九十四、これを八十二隊とする。大順城、二十三族、強人三千四百九十一、壮馬三百十四、これを一百四十一隊とする。柔遠砦、十二族、強人三千三百八十一、壮馬一千、これを九十隊とする。東穀砦、十六族、強人四百五十九、壮馬五十六、これを十四隊とする。西穀砦、十族、強人一千七百九十四、壮馬一百四十、これを六十五隊とする。淮安鎮、二十七族、強人四千三百六十八、壮馬三百二十一、これを一百七十隊とする。平戎鎮、八族、強人一千八十五、壮馬一百七十一、これを四十一隊とする。五交鎮、十族、強人一千百七、壮馬七十三、これを四十九隊とする。合水鎮、四族、強人六百三十一、壮馬九十五、これを二十四隊とする。鳳川鎮、二十三族、強人八百七十五、壮馬一百四十三、これを二十隊とする。華池鎮、三族、強人二百六十二、壮馬三十八、これを十二隊とする。業樂鎮、十七族、強人一千百七十二、壮馬六十四、これを四十六隊とする。府城砦、一族、強人二百三十三、壮馬五、これを七隊とする。)
治平四年、郭逵が言うには、「秦州青雞川の蕃部が地を献じたいと願い、川南の牟穀口に城堡を設置し、弓箭手を募り、秦州・德順二州の援護を通じさせ、賊の侵入路を断つことを請う」と。閏三月、原州九砦の蕃官三百八十一人を収め、総計二百二十九族、七千七百三十六帳、蕃兵一万人、馬千頭。この年、四路の蕃部を主管する内臣を罷め、各路の升朝使臣で蕃情に通暁する者を選んでこれに当たらせた。
熟羌とは、唐が三使を設けて統べた党項である。西夏が臣節を守らぬより、種落は叛き散り、南北に分かれて寓居す。首領たる者は父死すれば子が継ぎ、兄死すれば弟が襲ぎ、家に正親なきときは、またその旁属の強者を推して族首と為し、多きは数百に及ぶ。族首たる者幼少なりとも、その本門中の婦女の令も皆信服する故、国家その俗に因りて法と為す。その大首領は、上は刺史より、下は殿侍に至るまで、並びに本族の巡検を補し、次首領は軍主・指揮使を補し、下は十将に至るまで、順次に廩給を受く。歳月久しくして、主家と客族の帳、混淆して紀すべからず。康定年中、嘗て蔣偕を遣わしてこれを籍す。今三十年を逾え、主家は累降の故にその先職たる族首の名品を失い、而して客戶は功を以て使臣・軍班となり、主家の上に超処するものあり。軍興して調発するとき、有司はただ職名を視て、その部曲に号令せしむるも、衆心は主家に非ざるを以て、肯て用いられんとせず。
請う、今より蕃官身歿のとき、秩高き者は子孫例に依り降等して本族の巡検と為し、その旁邊にて賊を捍ぐ能き者には奉給し、遠辺の者は旧に如く歳月を限りてこれに給すべし。その已に降等せしめ、或いは三班差使・殿侍にして身歿し降等すべき等なき者は、子孫降等せず、軍主・指揮使を充つる者は即ち殿侍と為すべし。かくの如くすれば、則ち本族蕃官の名品は常に在らん。或いはその部曲功を立て官に任ずべきときは、正親に非ざれば本族の巡検と為すを得ず、ただその奉を増すべし。その軍主より十将に至るまで、祖・父に族帳兵騎ある者は、子孫即ちその旧を承け、年限を以て廩給を受くべし。能く自ら功を立てる者はこの令を用いず。かくの如くすれば、則ち熟羌の心は皆、異日子孫旧職を失わず、世々我が用に為ることを知らん。
枢密院は河東路と会議し、蕃部の承襲は資を降さず、秦鳳路は二資を降し、涇原路の蕃官が老いて告退するときは門内の人が承代しても資を降さず、鄜延・環慶路の蕃官使臣は類比により職を授けることとした。蕃官の副兵馬使以上には元来奏到の者なく、詔して鄜延・環慶路の蕃官で本族の首領の子孫で継承すべき者は、もし都軍主以下の子孫ならば降さず、殿侍並びに差使・殿侍の子孫は都軍主に充て、借職・奉職の子孫は殿侍に充て、侍禁・殿直の子孫は差使・殿侍に充て、供奉官の子孫は借職を補し、承製以下の子孫は奉職を補す。その諸司副使以上の子孫で継承すべき者は、漢官の遺表の恩加に準じて二等を加える。奏して可とす。
二月、青澗城を治める劉怤が言うには、「管轄する帰明の号箭手八指揮、合わせて三千四百余人、馬九百匹は、連年収穫なく、丹州の儲糧をもって振恤せんことを願う」と。詔してその章を転運司に下して行わしむ。
五年、王韶が沿辺の蕃部を招納し、洮・河・武勝軍より西、蘭州・馬銜山・洮・岷・宕・疊等州に至るまで、合わせて蕃官・首領九百三十二人を補し、首領に飧銭を給し、蕃官に俸給を与える者四百七十二人、月計の費銭四百八十余緡、正兵三万を得、族帳数千。
六年、帝輔臣に謂いて曰く。「洮西香子城の戦いにおいて、官軍功を貪り、巴氈角部の蕃兵を斬って首級に充てる者あり、人極めて嗟憤す。昔、李靖は漢蕃の兵を分けて各々一隊と為し、衆を紛乱に用いることなし」と。王安石進みて曰く。「李靖は素より蕃部を拊循する者にあらず、故にその兵を教うるは当にこの如くすべし。今、熙河の蕃部既に我が用いるところとなれば、則ち当に稍々漢法をもってこれを治め、久しくして漢兵と一の如くならしむべし。武王は微・盧・彭・濮の人を用い、ただ一法と為す。今、蕃兵をして稍々漢と同うせしめ、蕃賊と異ならしむべし。必ず先ずその豪傑を録用し、漸く以てこれを化すべし。これ夏をもって夷を変ずるの術なり」と。帝乃ち王韶に詔してその法を議わしむ。
帝曰く。「岷・河の蕃部族帳甚だ衆し、もし撫禦ことごとくその用を得ば、坐して西夏を製すべく、またいわゆる蛮夷をもって蛮夷を攻むる者なり。陝西極塞にして、もし会合訓練し、兵を用うるの勢いを為して敵に愾せば、彼必ず随いて兵を聚めて我に応ずべし。頻年この如くすれば、自ら困弊を致す。兵法のいわゆる『佚よくこれを労す』なり」と。安石対えて曰く。「朝廷当に先ず勝ちがたきを為し、糧を聚め財を積み、兵を選ぶのみ。新附の羌には、厚く爵賞をもってし、その豪傑を収め、これに堅甲利兵を賜い、その気を激し、人々皆趨赴の志あるあらしめ、我が体強力充つを待ち、鼓行して西せば、将に不可なることなからん」と。馮京・王珪曰く。「もし聖策の如く、多方をもってこれを誤らしめ、彼既に点集に疲れ、我に攻取の実なきときは、久しければ必ず我に応ぜざるべし。これに因りて兵を挙ぐれば、無人の境を蹈むが若し」と。帝曰く。「これ正に晋人の呉を取るの策なり。夫れ四夷を経営せんと欲すれば、宜しくこれより先なることなかるべし」と。帝嘗て謂う。「蕃部未だ兵を用いたことなく、虚名をもって内附し、事に臨みて使うべからざるを恐る」と。安石対えて曰く。「剛克・柔克、用いる所宜しきあり。王韶は以て先ず恩信をもってその人を結納し、強梗にして服さざる者あれば、乃ち殺伐をもってこれに加うと為す。大抵蕃部の情は、西夏と中国の強弱を視て向背と為す。もし中国の形勢強ければ、中国に附するを利と為し、即ち殺伐を仮さずして、自ら堅く附すべし。況んや蕃部の俗は、既に貴種を宗とし、また強国に附す。今、木征の貴種等三人を用い、また稍々恩信をもって蕃部を収めれば、則ち中国の形勢愈よ強く、殺伐を仮さずして、附する蕃部自ら製使すべしを恐る」と。帝以て然りと為す。是の時、王韶熙河の地千二百里を拓き、三十余万口を招附す。安石奏して曰く。「今、三十万の衆を以て、漸く文法を推し、当に即ちその夷俗を変ずべし。然れども韶の募る勇敢の士九百余人、田百頃を耕し、坊三十余所。蕃部既に漢と為るを得て、その俗また土を賤しみ貨を貴ぶときは、漢人貨をもって蕃部と田を易するを得、蕃人貨を得て、両者その欲する所を得、田疇墾け、貨殖通じ、蕃漢一と為り、その勢い以て調禦し易し。韶に諸路の如く銭を以て助借し息を収め、また百余万緡を捐てて蕃部に馬を養わしめ、且つその人を什伍し、武藝をもって奨励し、その人民を富足ならしめ、士馬を強盛ならしめ、奮いてこれを用うれば、則ち向う所功あるべし。今、蕃部初附し、洪荒の人に如く、唯だ我が禦する所のみ」と。
七年、韶言う。「河州の叛蕃を討平し、土を辟くこと甚だ広く、既に弓箭手を置き、またその余りの地をもって蕃兵弓箭手を募る。毎砦三指揮あるいは五指揮に至り、毎指揮二百五十人、人に田百畝を与え、次第の蕃官二百畝、大蕃官三百畝、仍て漢の弓箭手を募って隊長と為し、稍々衆しければ則ち将校を補し、及び蕃官とともに部族の事を主とす。その蕃弓箭手は並びに左耳に『蕃兵』の字を刺し、漢兵の盗み殺して首級に效うを防ぐ」と。詔してその請いの如くす。十一月、王中正熙河界の洮・河以西の蕃部を団結し、正兵三千八十六人、正・副隊将六十人、供贍一万五千四百三十人を得。
八年五月、詔して李承之に蕃兵法を参定せしむ。十一月、詔す。「陝西の蕃兵丁壮の戸を選び、九丁以上は五を取り、六は四を取り、五は三を取り、三は二を取り、二は一を取り、並びに年二十以上、手背に涅し、五丁を過ぐることなかれ。毎十人に十将一を置き、五十人に副兵馬使一を置き、百人に軍使一・副兵馬使一を置き、二百人に軍使一・副兵馬使三を置き、四百人に軍使一・副兵馬使一を加え、五百人にまた指揮使一・副兵馬使一を加え、五百人を過ぐれば、毎百人ごとに軍使一・副兵馬使一を加う。即ち一族三十人已上もまた副兵馬使一を置き、二十人に及ばざれば止めて十将を置く。月に俸を受け、仍て銭を増給し、指揮使一千五百より十将に至るまで差あり」と。
十年、枢密院が言うには、「陝西・河東において団結蕃部法を立てようと議し、願わくは上奏の如くにせんとす」と。上手詔して曰く、「夏人の恃み以て強国たる所以は、山界部落数万の衆のみ。その地誌を按ずるに、朝廷既にその半を有す。彼れこれを用うれば則ち小を併せ大を凌ぎ、向かうところ意の如し。我に在りては則ち徒らに含撫豢養する能く、未だ嘗てその死力を得ず。豈に用うる能わざるのみならん、又その患いを為さんことを恐る。故に小に悖戾有れば、有司惟だ利を以て説き解く能く、上下相習い畏憚し、その縦散に任せ、久しく部勒を失う。その近降の法は、固より未だ必ず行わるるを信ずべからず。然れども理を以てこれを言えば、彼此均しくその人を有し、而して利害遼遠なり。今苟くも辺人に循い、衆その説を知り、旧法に止まり聊か一二を改むるに過ぎざれば、則ち功を収むるも疑わしく亦た往日と異ならじ。徒らに紛紛たるのみ、事に補う無し。再び呂恵卿に下し参詳して以て聞かしむべし」。
元豊六年、詔して曰く、「蕃官は大使に至ると雖も、猶お漢官の小使臣の下に処す。朝廷功を賞し秩を増し、以て激勧と為す。乃ち爾く卑抑すれば、則ち孰れか遷官の栄を知らん。宜しく蕃漢官の序位を定むべし」。後に河東経略司言う、「蕃官部堡塞の兵を出して戦うに、嘗て漢官を以て駆策す。恐らくは漢官と序位すべからず」。而して兵部は蕃漢統轄せざる者をして乃ち官を序せしむべしと請い、奏聞可とす。熙河蘭会路経略製置使李憲言う、「蕃兵を治め、将領を置くは、法は簡にして行い易く、詳にして犯し難きを貴ぶ。臣今蕃情を酌み法を立て、凡そ熙河蘭会五郡、各都同総領蕃兵将二人を置く。本州諸部族の出戦する蕃兵及び供贍人馬は各管押蕃兵使臣十人を置く。五郡の蕃兵自ら一将を為し、出戦すれば則ち正兵を以てこれに継ぎ、旗幟同色。蕃兵は技芸功労を以て第して四等と為し、蕃官首領の推遷もまたこれに如し」。八月、憲また言う、「漢蕃兵騎雑えて一軍と為し、言語通ぜず、居処飲食悉く便利ならず。昔李靖蕃落を以て自ら一法を為す。臣近く蕃兵を以て自ら一将を為し、漢・蕃を厘して両軍と為し、相参して号令し、軍事惟だこれを使わしむるに任す」。
七年、瀘南縁辺安撫司言う、「羅始党生界八姓、各七姓・十九姓に依り刺して義軍に充てんことを願い、団結して三十一指揮と為し、凡そ一万五千六百六十人」。これを従う。