宋史

志第一百四十四 兵五

志第一百四十四 兵五

◎兵五(郷兵二)

原文◎兵五(鄉兵二)

○河北・河東・陝西義勇、陝西護塞、川峡土丁、荊湖義軍土丁弩手、夔・施・黔・思等処義軍土丁、広南西路土丁、広南東路槍手、邕・欽溪洞壮丁、福建路槍仗手、江南西路槍仗手、蕃兵

原文○河北河東陝西義勇陝西護塞川峽土丁荊湖義軍土丁弩手夔施黔思等處義軍土丁廣南西路土丁廣南東路槍手邕欽溪洞壯丁福建路槍仗手江南西路槍仗手蕃兵

河北・河東・陝西義勇。慶暦二年、河北・河東の強壮を選び、併せて民丁を徴発し手の甲に墨を入れてこれを作る。戸の三等以上の者は弩一つを備え、税銭二千に相当し、三等以下の者は官が給する。各々その州に駐屯し、年に二回に分けて訓練し、上番には俸禄と食糧を給し、犯罪の処断は廂軍に比し、下番は強壮に比する。

原文河北、河東、陝西義勇慶曆二年,選河北、河東強壯並抄民丁涅手背為之。戶三等以上置弩一,當稅錢二千,三等以下官給。各營於其州,歲分兩番訓練,上番給奉廩,犯罪斷比廂軍,下番比強壯。

治平元年、詔して陝西は商・虢の二州を除き、残りは悉く義勇に籍する。凡そ主戸で三丁の者は一丁を選び、六丁は二丁を選び、九丁は三丁を選び、年齢二十から三十で材力勇気ある者を充て、手の甲に墨を入れるのみとする。五百人を以て指揮と為し、指揮使・副使各二人、正都頭三人、十将・虞候・承局・押官各五人を置く。年々十月に番上し、一ヶ月閲兵教練して罷める。また詔して秦州成紀等六県に、税戸弓箭手・砦戸及び四路で正規に保毅を充てる者あり、家に六丁あれば一丁を刺し、九丁あれば二丁を刺す。保毅の田を買って名額を承ける者あり、三丁あれば一丁を刺し、六丁あれば二丁を刺し、九丁あれば三丁を刺し、悉く以て義勇と為す。この年、詔して秦・隴・儀・渭・涇・原・邠・寧・環・慶・鄜・延の十二州の義勇は、召集防守に遇えば、日に米二升を給し、月に醤菜銭三百を給す。蓋し慶暦の初め、河北路は総計十八万九千三十一人、河東路は総計七万七千七十九人、陝西路は治平初めに総計十五万六千八百七十三人。

原文治平元年,詔陝西除商、虢二州,餘悉籍義勇。凡主戶三丁選一,六丁選二,九丁選三,年二十至三十材勇者充,止涅手背。以五百人為指揮,置指揮使、副二人,正都頭三人,十將、虞候、承局、押官各五人,歲以十月番上,閱教一月而罷。又詔秦州成紀等六縣,有稅戶弓箭手、砦戶及四路正充保毅者,家六丁刺一,九丁刺二;有買保毅田承名額者,三丁刺一,六丁刺二,九丁刺三,悉以為義勇。是歲,詔秦、隴、儀、渭、涇、原、邠、寧、環、慶、鄜、延十二州義勇,遇召集防守,日給米二升,月給醬菜錢三百。蓋慶曆初,河北路總十八萬九千三十一人,河東路總七萬七千七十九人,陝西路治平初總十五萬六千八百七十三人。

熙寧初め、枢密使呂公弼が請う、河北義勇を以て毎指揮ごとに少壮で技芸精熟なる者百人を選び上等と為し、手の甲に「上等」の字を添えて刺し、区別して教練し、及び定数外で技芸優れた者もまたこれに籍し、欠員あれば補う。これに従う。十二月、詔して河北義勇は、県では年に一度閲兵すべし。州において閲兵すべき者は、宜しく番を分かち、年ごとに一番とすべし。災害損傷で中止すべき者は詔旨を聴く。指揮を以て番を分かつ者は、大名府五十三指揮を四番と為し、真定・瀛・洺・邢・滄・定・冀・恩・趙・深・磁・相・博は三十九より十二まで並びに三番と為し、徳・祁・澶・棣・霸は・濱・永静・永寧・懷・衛・乾寧・莫・保・通利は十一より四まで並びに二番と為す。九指揮以上の者は更に本番を三に分かち、教練は十月に始まり、十二月に止む。六指揮以上の者は更に本番を二に分かち、教練は十月に始まり、十一月に止み、満一月に終えて罷め遣わす。

原文熙寧初,樞密使呂公弼請以河北義勇每指揮揀少壯藝精者百人為上等,手背添刺“上等”字,旌別教閱,及數外藝優者亦籍之,俟有闕則補。從之。十二月,詔河北義勇,縣以歲閱;當閱於州者,宜分番,歲以一番;災傷當罷者聽旨。其以指揮分番者,大名府五十三為四番,真定、瀛、洺、邢、滄、定、冀、恩、趙、深、磁、相、博自三十九以及十二並為三番,德、祁、澶、棣、霸、濱、永靜、永寧、懷、衛、乾寧、莫、保、通利自十一以及四並為二番。九指揮已上者再分本番為三,教始十月,止十二月。六指揮已上者再分本番為二,教始十月,止十一月,終滿一月罷遣。

帝嘗て陳升之に問うて曰く、「侯叔獻が言う義勇の上番は如何か」と。王安石曰く、「この事は為すべしと似たり、但し少し歳月を待ってこれを議すべし」と。升之曰く、「今募兵は未だ已まず、且つ上番義勇を養えば、則ち調度は特に容易ならず」と。安石曰く、「募兵の害を言うこと多くと雖も、用いるに及べば患少なし、民と兵を以て両途と為すが故なり」と。十二月、帝言う、「義勇は四番に分かち出戍せしむべし」と。呂公弼曰く、「須らく先ず募兵を省くを得て、乃ちこれを議すべし」と。安石曰く、「毎年募兵の死亡の数を計り、乃ち義勇を以てこれを補うべし」と。陳升之は義勇を以て漸次近州に戍らしめんと欲す。安石曰く、「陛下若し数百年の募兵の弊を変えんと欲せば、則ち宜しく果断にし、詳細に法制を立てるべし。然らずんば、補うこと無し」と。帝然りと為し、曰く、「須らく予め条法を定立し、宣布せず、以て漸次に推行すべし」と。両府、上番を議す。或いは一月と為すべしとし、或いは一季と為すべしとし、且つ近くに戍らしめんとす。文彦博等また言う、遠く戍らしむるは難しと。安石これを弁じ甚だ力めり。

原文帝嚐問陳升之曰:“侯叔獻言義勇上番何如?”王安石曰:“此事似可為,但少須年歲間議之。”升之曰:“今募兵未已,且養上番義勇,則調度尤不易。”安石曰:“言募兵之害雖多,及用則患少,以民與兵為兩途故也。”十二月,帝言:“義勇可使分為四番出戍。”呂公弼曰:“須先省得募兵,乃可議此。”安石曰:“計每歲募兵死亡之數,乃以義勇補之可也。”陳升之欲令義勇以漸戍近州,安石曰:“陛下若欲變數百年募兵之弊,則宜果斷,詳立法製。不然,無補也。”帝以為然,曰:“須豫立定條法,不要宣布,以漸推行可也。” 兩府議上番,或以為一月,或以為一季,且令近戍,文彥博等又言難使遠戍,安石辯之甚力。

この月、兵部が陝西・河北・河東の義勇の数を上奏す。陝西路二十六郡、旧籍十五万三千四百、環・慶・延州の保毅・弓箭手三千八百を加え、総計十五万六千八百、指揮三百二十一と為す。河北三十三郡、旧籍十八万九千二百、今籍十八万六千四百、指揮四百三十と為す。而して河東二十郡、慶暦以後総計七万七千、指揮一百五十九と為す。凡そ三路の義勇の兵、総計四十二万三千五百人。

原文是月,兵部上陝西、河北、河東義勇數:陝西路二十六郡舊籍十五萬三千四百,益以環、慶、延州保毅、弓箭手三千八百,總十五萬六千八百,為指揮三百二十一;河北三十三郡舊籍十八萬九千二百,今籍十八萬六千四百,為指揮四百三十;而河東二十郡,自慶曆後總七萬七千,為指揮一百五十九。凡三路義勇之兵,總四十二萬三千五百人。

三年七月、王安石が進めて蔡挺の義勇を五番に分けて教練せんことを乞う事を呈す。帝は密院が措置を肯んぜざるを患う。安石曰く、「陛下誠に行わんと欲せば、則ち孰か能く禦がん。此れ陛下に在り」と。涇・渭・儀・原の四州義勇一万五千人、旧は止むに戍守のみ。経略使蔡挺始めて令す、上番に遇えば諸軍に依り隊を結び、諸将に分属す。技芸精なる者を選び遷補し、官馬を給し、月廩・時帛・郊賞は正兵と同じくし、遂に正兵と相参して戦守す。時に土兵に欠員あり、三千人を召募す。挺奏す、義勇は点刺累年、訓肄を時に以てすと雖も、未だ征防に施さず。意、府兵の遺法に案ずべく、これに番戍せしめ、以て土兵の欠員を補うべしと。詔して復た措置の遠近番の法を問う。挺即ち条上す、四州の義勇を五番に分かち、一番三千人、防秋は八月十五日に上り、十月に罷む。防春は正月十五日に上り、三月に罷む。周りて復た始む。詔してこれに従い、諸路に行う。九月、秦鳳経略安撫司言う、「保毅の人数は未だ義勇に揀充せず、而してその子孫田土を転易し、煙を分かち姓を析き、正身少なし。乞う、保毅軍既に丁数内に揀刺して義勇に充てる者は、保毅を承認することを免ぜしめん」と。これに従う。十月、韓絳が著作佐郎呂大忠等を差し宣撫司に赴かせ、以て義勇を提挙する備えとせんことを乞う。これに従う。この月、韓絳言う、「今義勇を七路に分かつ。延・丹・坊を一路と為し、邠・寧・環・慶を一路と為し、涇・原・儀・渭を一路と為し、秦・隴を一路と為し、陝・解・同・河中府を一路と為し、階・成・鳳州・鳳翔府を一路と為し、乾・耀・華・永興軍を一路と為す。逐年に一州の数を四番に分かち、縁辺の四路十四州は、毎年秋冬に一番を用いて屯戍すべし。近裏の三路十二州軍は、即ちこれに依り番次を定立し、未だ逐年に差発せず、本処に正兵の欠少あるに遇えば、即ち勾抽し或いは次辺に那往して守戍すべし」と。これに従う。十一月、判延州郭逵言う、「陝西が義勇を起発して縁辺に赴き戦守せしむるは、今後並びに自ら一月の糗糧を齎し、本戸の税賦を折当すべし。若し自ら備え能わざれば、則ち発する所の州軍に就き口食を一月預請すべし」と。これに従う。

原文三年七月,王安石進呈蔡挺乞以義勇為五番教閱事,帝患密院不肯措置,安石曰:“陛下誠欲行,則孰能禦?此在陛下也。”涇、渭、儀、原四州義勇萬五千人,舊止戍守,經略使蔡挺始令遇上番依諸軍結隊,分隸諸將。選藝精者遷補,給官馬,月廩、時帛、郊賞與正兵同,遂與正兵相參戰守。時土兵有闕,召募三千人。挺奏以義勇點刺累年,雖訓肄以時,而未施於征防,意可以案府兵遺法,俾之番戍,以補土兵闕。詔復問以措置遠近番之法。挺即條上,以四州義勇分五番,番三千人,防秋以八月十五日上,十月罷;防春以正月十五日上,三月罷,周而復始。詔從之,行之諸路。九月,秦鳳經略安撫司言:“保毅人數不曾揀充義勇,而其子孫轉易田土,分煙析姓,少有正身。乞令保毅軍已於丁數內揀刺充義勇者,與免承認保毅。”從之。十月,韓絳乞差著作佐郎呂大忠等赴宣撫司,以備提舉義勇,從之。是月,韓絳言:“今將義勇分為七路,延、丹、坊為一路,邠、寧、環、慶為一路,涇、原、儀、渭為一路,秦、隴為一路,陝、解、同、河中府為一路,階、成、鳳州、鳳翔府為一路,乾、耀、華、永興軍為一路。逐年將一州之數分為四番,緣邊四路十四州,每年秋冬合用一番屯戍;近裏三路十二州軍,即令依此立定番次,未得逐年差發,遇本處闕少正兵,即得勾抽或那往次邊守戍。”從之。十一月,判延州郭逵言:“陝西起發義勇赴緣邊戰守,今後並令自齎一月糗糧,折本戶稅賦。若不能自備,則就所發州軍預請口食一月。”從之。

十二月、司馬光上疏して曰く。

原文十二月,司馬光上疏曰:

臣は不才をもって、長安ちょうあん一路十州の兵民の大柄を兼ねて領す。官に到りて以来、朝廷及び宣撫等司の指揮を伏して見るに、義勇を四番に分かち、以て順次に縁辺に戍守せしめんと欲し、諸軍の驍ぎょう鋭を選び及び閭裏の悪少を募りて奇兵と為し、乾糧・炒飯・布嚢・力車を造りて饋運に備え、歳賜趙秉常の物を悉く取りて縁辺諸路に散給し、又内の府庫の甲兵財物を竭して以て之を助く。且つ永興一路を以て之を言へば、発する所の人馬、甲八千副、銭九万貫、銀二万三千両、銀碗六千枚、其の余の細瑣の物、勝げて数ふべからず。動くこと皆軍期を以て迫り、上下相駆り、星火よりも急なり。官吏狼狽し、下民驚疑し、皆云く国家将に来春大いに六師を挙げ、長駆深入し、以て秉常の罪を討たんとすと。

原文臣以不才,兼領長安一路十州兵民大柄。到官以來,伏見朝廷及宣撫等司指揮,分義勇作四番,欲令以次於緣邊戍守,選諸軍驍銳及募閭裏惡少以為奇兵,造幹糧、炒飯、布囊、力車以備饋運,悉取歲賜趙秉常之物散給緣邊諸路,又竭內地府庫甲兵財物以助之。且以永興一路言之,所發人馬,甲八千副,錢九萬貫,銀二萬三千兩,銀碗六千枚,其餘細瑣之物,不可勝數。動皆迫以軍期,上下相驅,急於星火。官吏狼狽,下民驚疑,皆云國家將以來春大舉六師,長驅深入,以討秉常之罪。

臣は疏賤にして、廟堂の議に預り聞くことを得ず、未だ茲の事の虚実を知らず。昨者親しく徳音を承るに、以て方今の辺計は、惟だ謹厳に守備を宜しくすべしと為す。其の入寇するは則ち壁を堅くし野を清くし、之をして来りて得る所無からしめ、兵疲れ食尽きて、坐して其の弊を収むるを得べしと。臣退きて思念す、聖謀高遠にして、深く王者の遠人を懐柔する道を得、実に天下の福なり。関中に到りて、乃ち見るに凡そ百の処置、皆出征の調度と為す。臣知らず、有司の外に在りて、聖意を諭せず、以て此の張皇有らしむるに至るか、将に陛下の神算を黙運して愚賤の臣に其の実を聞かしめざらんとするかと。臣勝へて惶惑せず、窃かに陛下の為に之を危ぶむ。況んや関中饑饉、十室九空、賊盗と為る者紛紛として已に多し。県官倉庫の積、余る所幾ばくも無し、乃ち大衆を軽動し、横に猛獣を挑まんと欲す、此れ臣の大いに懼るる所なり。

原文臣以疏賤,不得預聞廟堂之議,未知茲事為虛為實。昨者親承德音,以為方今邊計,惟宜謹嚴守備。其入寇,則堅壁清野,使之來無所得,兵疲食盡,可以坐收其弊。臣退而思念,聖謀高遠,深得王者懷柔遠人之道,實天下之福。及到關中,乃見凡百處置,皆為出征調度。臣不知有司在外,不諭聖意,以致有此張皇,將陛下默運神算不令愚賤之臣得聞其實也?臣不勝惶惑,竊為陛下危之。況關中饑饉,十室九空,為賊盜者紛紛已多。縣官倉庫之積,所餘無幾,乃欲輕動大眾,橫挑猛獸,此臣之所大懼也。

伏して望む、陛下深く安危の機を鑒み、之を未萌に消し、之を未形に杜かんことを。速やかに明詔を下し関中の民を撫諭して朝廷出征の計と為さざるを以てし、其の義勇更に番を分かち縁辺に戍守せしめず、亦奇兵を選募せず。凡そ諸の調発饋運の具と為す者は悉く停罷せしめ、内の倉庫の儲を愛惜し、以て春深く饑窮の人を賙救するに備へんことを。此くの如くせば、豈に生民の幸のみならん、亦社稷の福なり。惟ふらくは陛下裁察せられんことを。

原文伏望陛下深鑒安危之機,消之於未萌,杜之於未形。速下明詔撫諭關中之民以朝廷不為出征之計,其義勇更不分番於緣邊戍守,亦不選募奇兵。凡諸調發為饋運之具者悉令停罷,愛惜內地倉庫之儲,以備春深賙救饑窮之人。如此,豈惟生民之幸,亦社稷之福也。惟陛下裁察。

再び之を言ふこと甚だ力あり、是に於て永興一路独り免るるを得たり。

原文再言之甚力,於是永興一路獨得免。

四年、詔して陝西路義勇の差役を罷む。又詔して陝西諸路提挙義勇官を罷め、本属の州県に委ねて旧に依り番を分かち教閲せしむ。

原文四年,詔罷陝西路義勇差役。又詔罷陝西諸路提舉義勇官,委本屬州縣依舊分番教閱。

五年七月、崇文院校書王安礼に命じ専一に三路義勇の条貫を編修せしむ。是の月、帝王安石に義勇の事如何と問ふ、安石曰く「宜しく先づ河東一路を了すべし。河東の旧制、每年一月を教ふ、今上番巡検に下半月或は十日を令す、人情悦ばざる無し。又東兵万人の費する所の銭糧を以て、且つ半ば或は三分の二を取り、保甲に依り其の人を養恤せば、即ち人情忻願せざる無き者なり」と。閏七月、執政同じく進めて河東保甲の事を呈す、枢密院但だ義勇・強壮と為さんと欲し、別に保甲と名づけず。王安石曰く「此れ王安礼の初議に非ざるなり」と。帝曰く「今三丁を以て義勇と為し、両丁を強壮と為し、三丁は遠戍し、両丁は本州県巡検に上番す、此れ即ち王安礼の奏する所なり、但だ保丁を易て強壮と為す。人強壮に習ふこと久し、別に名づくるは或は不安を致すを恐るるなり」と。安石曰く「義勇は単丁に非ざれば替へず、強壮は則ち皆第五等戸之を為す。又自ら弓弩及び箭を置き官庫に寄せ、須らく上教して乃ち給す。今府界保甲法を以て之を河東に推すは、蓋し之を寛利するなり、之を苦しむるに非ざるなり」と。帝曰く「河東の義勇・強壮、已に次第を成す。今官を遣はし義勇強壮法を修め、又別に人をして保甲を団集せしめんと欲す、如何」と。安石曰く「義勇は丁数を見んと要すれば、即ち須らく隠括すべし、団集保甲に因りて、即ち一動にして両業就く。今既に官を差し義勇を隠括し、又別に官を差し保甲を団集せば、即ち一事を分かちて両事と為し、民擾るる無からざるを恐る」と。帝遂に安石の議に従ふ。彦博請ふ、安石をして中書に就き一面に此の事を施行せしめんと。安石曰く「本保甲の為なり、故に中書預り議す。若し止だ義勇・強壮を作らんと欲するのみならば、即ち合は枢密院をして旨を取り施行せしむべし」と。帝曰く「此れ大事なり、須らく共に議して乃ち可なり」と。是の月、秦鳳路経略呂公弼乞ふ、本司より官を選差し、十月の初より、諸州上番の義勇材武なる者を択みて以て「上義勇」と為し、芻糧を齎送するの役を免ぜんことを。馬を養ふ者を募りて「有馬上義勇」と為し、並びに其の本戸の支移を免ず。之に従ふ。

原文五年七月,命崇文院校書王安禮專一編修三路義勇條貫。是月,帝問王安石義勇事如何,安石曰:“宜先了河東一路。河東舊制,每年教一月,今令上番巡檢下半月或十日,人情無不悅。又以東兵萬人所費錢糧,且取一半或三分之二,依保甲養恤其人,即人情無不忻願者。”閏七月,執政同進呈河東保甲事,樞密院但欲為義勇、強壯,不別名保甲。王安石曰:“此非王安禮初議也。”帝曰:“今以三丁為義勇,兩丁為強壯,三丁遠戍,兩丁本州縣巡檢上番,此即王安禮所奏,但易保丁為強壯。人習強壯久,恐別名或致不安也。”安石曰:“義勇非單丁不替,強壯則皆第五等戶為之。又自置弓弩及箭寄官庫,須上教乃給。今以府界保甲法推之河東,蓋寬利之,非苦之也。”帝曰:“河東義勇、強壯,已成次第。今欲遣官修義勇強壯法,又別令人團集保甲如何?”安石曰:“義勇要見丁數,即須隱括,因團集保甲,即一動而兩業就。今既差官隱括義勇,又別差官團集保甲,即一事分為兩事,恐民不能無擾。”帝卒從安石議。彥博請令安石就中書一面施行此事。安石曰:“本為保甲,故中書預議。若止欲作義勇、強壯,即合令樞密院取旨施行。”帝曰:“此大事,須共議乃可。”是月,秦鳳路經略呂公弼乞從本司選差官,自十月初,擇諸州上番義勇材武者以為“上義勇”,免齎送芻糧之役。募養馬者為“有馬上義勇”,並免其本戶支移。從之。

六年九月、詔す義勇の人員・節級の名闕は、須らく教閲排連に因りて遷補すべし。十月、熙河路経略司言ふ:人を許し義勇に投換せしめ、地を以て之に給し、税額を起立せんことを乞ふ。詔して官地を以て弓箭手を招き、仍近裏の百姓壮勇なる者に占射を許し、内の地に依りて税を起し、保甲を排す;即ち義勇願ひ投充する及び民戸蕃部の地を受くことを願ふ者は之を聴す。其の頃畝は経略司をして肥瘠を以て数を定めしむ。十一月、詔す永興軍・河中府・陝・解・同・華・鄜・延・丹・坊・邠・寧・環・慶・耀の十五州軍は各元に刺したる義勇に依る外、商・虢州・保安軍は並びに止だ保甲を団成す。七年、詔す義勇の正身は応募充刺を許さず、已に応募する者は人を召し対替せしむ。

原文六年九月,詔義勇人員、節級名闕,須因教閱排連遷補。十月,熙河路經略司言:乞許人投換義勇,以地給之,起立稅額。詔以官地招弓箭手,仍許近裏百姓壯勇者占射,依內地起稅,排保甲;即義勇願投充及民戶願受蕃部地者聽之。其頃畝令經略司以肥瘠定數。十一月,詔永興軍、河中府、陝、解、同、華、鄜、延、丹、坊、邠、寧、環、慶、耀十五州軍各依元刺義勇外,商、虢州、保安軍並止團成保甲。七年,詔義勇正身不許應募充刺,已應募者召人對替。

八年四月、韓琦等に詔して曰く「河朔の義勇民兵、之を置くこと歳久しく、耳目已に熟し、将校甚だ整ひ、教習亦良し。然るに保甲を団結するに、一道紛然たり。義勇の旧人十に其の七を去り、或は保甲に撥入し、或は放ちて農に帰し、数増すの虚名を得て、用ふべき成法を破り、此れ又徒らに契丹の疑ひを起すなり」と。七月、詔す応に義勇家人の軍に投じたる後、本戸の余丁数少なく、合は義勇を免ずべく、並びに軍に投ずるを許す。十月、詔す「五路の義勇は每年州に赴きて教へ、保甲は県に赴きて教ふ、並びに十月より次年正月の終に至る。義勇十指揮に及ばず、保甲十都に及ばざる者は、十二月より教を起し、各人数に拠り番次を分定し、一月を教閲し、指揮・都保を拆破するを許さず。其の人数の少き処は、隻だ一番・両番と作り、須らく教ふる所の月分を満すに及ばず。其の年已に上番する者は、半月を止めて教ふ」と。十二月、詔す五路の義勇は並びに保丁と輪充し及び盗賊を検察せしめ、違犯有らば、保丁法に依る。

原文八年四月,詔韓琦等,曰:“河朔義勇民兵,置之歲久,耳目已熟,將校甚整,教習亦良。然團結保甲,一道紛然。義勇舊人十去其七,或撥入保甲,或放而歸農,得增數之虛名,破可用之成法,此又徒起契丹之疑也。”七月,詔應義勇家人投軍後,本戶餘丁數少,合免義勇,並許投軍。十月,詔:“五路義勇每年赴州教,保甲赴縣教,並自十月至次年正月終。義勇不及十指揮、保甲不及十都者,自十二月起教,各據人數分定番次,教閱一月,不許拆破指揮、都保。其人數少處,隻作一番、兩番,不須滿所教月分。其年已上番者,止教半月。”十二月,詔五路義勇並與保丁輪充及檢察盜賊,有違犯,依保丁法。

九年正月、詔して義勇・保甲は逐年閲日の際に習得した武芸を比試せしめ、五路は毎州二十分を率として一を取るべし、五等に分ち、第一等は解発すべしとす。四月、詔す、「河北西路の義勇・保甲は三十六番に分ち、便近の村分に随い、巡検・県尉の下に上番し、半月ごとに交替せしむ。歳に農閑月には、下番人を併せて所轄の巡検・県尉に令し、広闊なる処を択びて五日間聚教せしむ」と。是月、兵部言う、「旧条に、義勇・保甲の習う事芸は十分を率とし、弓は二分を過ぐべからず、槍刀は共に二分を過ぐべからず、余は並びに弓弩を習うとす」と。詔して槍手は旧に依り専ら習う外、刀牌手は兼ねて弓弩を習わしめ、仍って様を頒ち五路に施行せしむ。九月、詔して永興・秦鳳等路の義勇は、主戸三丁以上を以て充て、戸等に拘わらずとす。是年、諸路の管する義勇は、河北東路三万六千二百十八人、河北西路四万五千七百六十六人、永興軍路八万七千九百七十八人、秦鳳路三万九千九百八十人、河東路三千五百九十五人、総計二十四万七千五百三十七人。

原文九年正月,詔義勇、保甲逐年遇閱日比試所習武藝,五路每州以二十分為率取一,分為五等,第一等解發。四月,詔:“河北西路義勇、保甲分三十六番,隨便近村分,於巡檢、縣尉下上番,半月一替。歲於農閑月,並下番人並令所轄巡檢、縣尉擇寬廣處聚教五日。”是月,兵部言:“舊條,義勇、保甲所習事藝以十分為率,弓不得過二分,槍刀共不得過二分,餘並習弓弩。”詔槍手依舊專習外,刀牌手令兼習弓弩,仍頒樣下五路施行。九月,詔永興、秦鳳等路義勇,以主戶三丁以上充,不拘戶等。是年,諸路所管義勇:河北東路三萬六千二百一十八人,河北西路四萬五千七百六十六人,永興軍路八萬七千九百七十八人,秦鳳路三萬九千九百八十人,河東路三千五百九十五人,總二十四萬七千五百三十七人。

元豊二年、中書・枢密院、河北・陝西の義勇・保甲は皆諸軍の教閲法の如く誦せしむべしと請う。之に従う。三年、詔して五路の転運・提挙官は巡歴の至る所に於いて、見教の義勇・保甲を按閲し、法に如かざる者は、提点刑獄司に牒して施行せしむ。四年、蒲宗孟言う、開封府・五路の義勇を併せて保甲に改むるを乞うと。此より以て次第に諸路に行わる。(此後義勇は義勇保甲と改め、『保甲篇』に載す。)

原文元豐二年,中書、樞密院請河北陝西義勇、保甲皆如諸軍誦教閱法。從之。三年,詔五路轉運、提舉官巡曆所至,按閱見教義勇、保甲,不如法者,牒提點刑獄司施行。四年,蒲宗孟言,乞開封府、五路義勇並改為保甲。自此以次行於諸路矣。(此後義勇改為義勇保甲,載《保甲篇》。)

陝西護塞、慶暦元年、土人にして山川道路蕃情に熟し、騎射に善き者を募り臂に涅して充てる。二百人を指揮と為し、自ら戎械を備え、郷閭に就き武技を習い、季ごとに州に集まり閲教す。事無き時は営農に放ち、月に塩茗を給す。警有れば召集して防守に当たらしめ、即ち之に廩給し、本路を出でず。

原文陝西護塞慶曆元年,募土人熟山川道路蕃情、善騎射者涅臂充。二百人為指揮,自備戎械,就鄉閭習武技,季一集州閱教。無事放營農,月給鹽茗。有警召集防守,即廩給之,無出本路。

川峡土丁、熙寧七年、瀘州夷事を経制する熊本、土丁五千人を募り、夷界に入り水路大小四十六村を捕戮し、其の地二百四十里を蕩平し、民を募り墾耕せしめ、其の夷属を聯ねて保甲と為す。元祐二年、瀘南沿辺安撫使司言う、「請う、応に瀘人辺事に因り班行を補授せられ、自ら土丁子弟を備え本家地分に在り防拓する者は、更に廩給酬賞無し。若し賊に遇わば、臨時に旨を取る。其れ敢えて功を邀え事を生ずるは、重ねて法に置く」と。之に従う。

原文川峽土丁熙寧七年,經製瀘州夷事熊本募土丁五千人,入夷界捕戮水路大小四十六村,蕩平其地二百四十里,募民墾耕,聯其夷屬以為保甲。元祐二年,瀘南沿邊安撫使司言:“請應瀘人因邊事補授班行,自備土丁子弟在本家地分防拓之人,更無廩給酬賞。若遇賊,臨時取旨。其敢邀功生事,重置於法。”從之。

政和六年、瀘南安撫使孫羲叟奏す、「辺民法を冒し夷人の田を買う、法に依り尽く官に拘入し、土丁子弟を招置す。見招到する二千四百余人有り、番上せしめんと欲す」と。之に従う。

原文政和六年,瀘南安撫使孫羲叟奏:“邊民冒法買夷人田,依法盡拘入官,招置土丁子弟。見招到二千四百餘人,欲令番上。”從之。

宣和四年、詔す、「茂州・石泉軍旧に管する土丁子弟は、番上して守把すれども、射芸に諳ぜず。其れ施・黔の兵に善射の者各五十人を選び、分かち教習せしめ、精熟の日に候い回遣すべし」と。

原文宣和四年,詔:“茂州、石泉軍舊管土丁子弟,番上守把,不諳射藝。其選施、黔兵善射者各五十人,分任教習,候精熟日遣回。”

荊湖路義軍土丁・弩手は創置の始を見ず、北路は辰・澧二州、南路は全・邵・道・永四州に皆置く。蓋し溪洞諸蛮は、岩険を保拠し、叛服常ならず、其の制控は土人を須う故に是の軍を置く。皆戸籍より選び、徭賦を蠲免し、番戍して砦柵に当たる。大率其の風土に安んずれば、則ち瘴毒に嬰る罕なり。其の区落を知れば、則ち狡獪を制す可し。其の校長には則ち都指揮使・副都指揮使・指揮使・副指揮使・都頭・副都頭・軍頭・頭首・采斫招安頭首・十将・節級有り、皆功を叙し遷補し、相綜領せしむ。之を西南に施すは、実に王師に代わり、禦侮の備有りて、饋餉の労無し。其の後、荊南・帰・陝・鼎・郴・衡・桂陽も亦置く。

原文荊湖路義軍土丁、弩手不見創置之始,北路辰、澧二州,南路全、邵、道、永四州皆置。蓋溪洞諸蠻,保據岩險,叛服不常,其控製須土人,故置是軍。皆選自戶籍,蠲免徭賦,番戍砦柵。大率安其風土,則罕嬰瘴毒。知其區落,則可製狡獪。其校長則有都指揮使、副都指揮使、指揮使、副指揮使、都頭、副都頭、軍頭、頭首、采斫招安頭首、十將、節級,皆敘功遷補,使相綜領。施之西南,實代王師,有禦侮之備,而無饋餉之勞。其後,荊南、歸、陝、鼎、郴、衡、桂陽亦置。

慶暦二年、北路総計一万九千四百人、南路総計五千百五十人。諸砦に番戍し、或いは歳を以てし、或いは季を以てし、或いは月を以てす。上番人は口糧を給し、功有れば遷補す。都副指揮使より歳に綿袍を給し、月に食錢を給し、指揮使は食錢を給し、副指揮使は紫大綾綿袍を給し、都頭已上は率ね廩給有り。

原文慶曆二年,北路總一萬九千四百人,南路總五千一百五十人。番戍諸砦,或以歲,或以季,或以月。上番人給口糧,有功遷補。自都副指揮使歲給綿袍、月給食錢,指揮使給食錢,副指揮使給紫大綾綿袍,都頭已上率有廩給。

熙寧元年、荊湖南・北路の義軍凡そ一万五千人を籍し、軍政は旧制の如し。六年、諸路保甲を行い、司農寺、全・邵二州の土丁・弩手・弩団を令し本村土人と共に保甲を為さしめ、正・副指揮使を以て兼ねて都副保正に充て、都頭・将虞候・頭首・都甲頭を以て兼ねて保長に充て、左右節級・甲頭を以て兼ねて小保長に充てんことを請う。番上する時は則ち本鋪の土丁・弩手・弩団等同じく一保と為し、其の山嶺を隔て五大保に及ばざる者も亦各都保正一人を置く。

原文熙寧元年,籍荊湖南、北路義軍凡一萬五千人,軍政如舊制。六年,諸路行保甲,司農寺請令全、邵二州土丁、弩手、弩團與本村土人共為保甲,以正、副指揮使兼充都副保正,以都頭、將虞候、頭首、都甲頭兼充保長,以左右節級、甲頭兼充小保長。番上則本鋪土丁、弩手、弩團等同為一保,其隔山嶺不及五大保者亦各置都保正一人。

元祐七年、邵州邵陽・武崗・新化等県の中等以下戸を選差し土丁・弩手に充て、科役を免じ、七年ごとに替えしむ。将級を排補するは、替放の年に拘わらず、両番に分ち辺砦を防拓せしめ、人を募るを得ず。凡そ上番するは、禁軍の例に依り武芸を教閲し及び専ら木弩を習わしむ。若し私役有らば、並びに『私役禁軍勅』の如く論ず。

原文元祐七年,選差邵州邵陽、武崗、新化等縣中等以下戶充土丁、弩手,與免科役,七年一替。排補將級,不拘替放年,分作兩番邊砦防拓,不得募人。凡上番,依禁軍例教閱武藝及專習木弩。如有私役,並論如《私役禁軍敕》。

紹聖二年、枢密院言う、「荊湖南路安撫・転運・提刑・常平司奏請す、邵州管下の縁辺堡砦に弩手一千四百人を置き、元豊六年の詔に依り、五等戸に輪差し、併せて半年ごとに替えんことを乞う。其の上番人に若し故有らば、家人の少壮にして武芸有る者を許して代充せしむ」と。之に従う。

原文紹聖二年,樞密院言:“荊湖南路安撫、轉運、提刑、常平司奏請,邵州管下緣邊堡砦置弩手一千四百人,乞依元豐六年詔,於五等戶輪差,並半年一替。其上番人如有故,許家人少壯有武藝者代充。”從之。

崇寧二年、荊湖南路安撫・鈐轄李閎言う、「綏寧県上堡裏・臨口砦を収復し、防拓弩手千人を用うるに合い、邵州邵陽・武岡両県の中等以下戸より選差し、半年ごとに替えしめんことを乞う。上番に遇わば、月に錢米を支給す。階級を排補するは、正副使より下り左右甲頭に至るまで、旧に依り七階と為す。両番に分ち部轄し、邵州に令して帖を給せしむ」と。之に従う。

原文崇寧二年,荊湖南路安撫、鈐轄李閎言:“收復綏寧縣上堡裏、臨口砦,合用防拓弩手千人,乞於邵州邵陽、武岡兩縣中等以下戶選差,半年一替;遇上番,月支錢米;排補階級,自正副使而下至左右甲頭,依舊為七階;分兩番部轄,令邵州給帖。”從之。

政和七年、辰・沅・澧等州の更戍土丁と営田土丁と名称重畳するを以て、兵馬都鈐轄司の招填する土丁を改めて鼎・澧路営田刀弩手と為す。

原文政和七年,以辰、沅、澧等州更戍土丁與營田土丁名稱重壘,將兵馬都鈐轄司招填土丁改為鼎、澧路營田刀弩手。

重和元年、辰州招到の刀弩手二千百人、其の官吏各転官し、磨勘年を減ずること差有り。宣和四年、靖州通道県に辺警有り、詔して刀弩手二千人を添置す。

原文重和元年,辰州招到刀弩手二千一百人,其官吏各轉官,減磨勘年有差。宣和四年,靖州通道縣有邊警,詔添置刀弩手二千人。

夔州路義軍土丁・壮丁は州県の籍する税戸を以て充て、或いは溪洞より帰投す。辺砦に分隸し、山川道路に習い、蛮の寇入するに遇えば、使を遣わし襲討せしめ、官軍は但だ険に拠りて之に策応す。其の校長の名は、州県に随い補置し、所在一ならず。職級已上は、冬に綿袍を賜い、月に食塩・米麥・鐵錢を給す。其次は紫綾綿袍を給し、月に塩米を給す。其次は月に米鹽を給するのみ。功有る者は次を以て遷す。

原文夔州路義軍土丁、壯丁州縣籍稅戶充,或自溪洞歸投。分隸邊砦,習山川道路,遇蠻入寇,遣使襲討,官軍但據險策應之。其校長之名,隨州縣補置,所在不一。職級已上,冬賜綿袍,月給食鹽、米麥、鐵錢;其次紫綾綿袍,月給鹽米;其次月給米鹽而已,有功者以次遷。

施州・黔州・思州の三州の義軍土丁は、総じて都巡検司に隷属す。施州の諸砦には義軍指揮使・把截将・砦将あり、併せて土丁総計一千二百八十一人、壮丁六百六十九人。また西路巡防殿侍兼義軍都指揮使・指揮使・都頭・十将・押番・砦将あり。黔州の諸砦には義軍正副指揮使・兵馬使・都頭・砦将・把截将あり、併せて壮丁総計千六百二十五人。思州・洪杜・彭水県には義軍指揮使・巡検将・砦将・科理・旁頭・把截・部轄将あり、併せて壮丁総計千四百二十二人。

原文施、黔、思三州義軍土丁,總隸都巡檢司。施州諸砦有義軍指揮使、把截將、砦將,並土丁總一千二百八十一人,壯丁六百六十九人。又有西路巡防殿侍兼義軍都指揮使、指揮使、都頭、十將、押番、砦將。黔州諸砦有義軍正副指揮使、兵馬使、都頭、砦將、把截將,並壯丁總千六百二十五人。思州、洪杜、彭水縣有義軍指揮使、巡檢將、砦將、科理、旁頭、把截、部轄將,並壯丁總千四百二十二人。

渝州の懐化軍。溱州の江津巴県の巡遏将は、皆州県が調補す。その戸下には率ね子弟・客丁あり、寇警あるに遇えば、一切主戸に責めてこれを弁ぜしむ。巡遏・把截将は歳ごとに料塩・襖子を支給すれども、須らく三年その地内に寇警無きを以て初めて給し、労ある者はこれを増す。州県は土丁子弟並びに器械の数を籍に載せ、分地して戍守せしむ。

原文渝州懷化軍。溱州江津巴縣巡遏將,皆州縣調補。其戶下率有子弟、客丁,遇有寇警,一切責辦主戶。巡遏、把截將歲支料鹽,襖子須三年其地內無寇警乃給,有勞者增之。州縣籍土丁子弟並器械之數,使分地戍守。

嘉祐年中、涪州賓化県の夷人を補して義軍正都頭・副都頭・把截将・十将・小節級と為し、月ごとに塩を給し、功ある者は次第に遷し、及び三年夷賊の警擾無きに至れば、即ち正副都頭に紫小綾綿旋襴一を給す。涪陵・武龍の二県の巡遏将は、砦ごとに一人、物力戸を以て充て、その役を免ず。その義軍土丁は、歳ごとに籍を枢密院に上る。

原文嘉祐中,補涪州賓化縣夷人為義軍正都頭、副都頭、把截將、十將、小節級,月給鹽,有功以次遷,及三年無夷賊警擾,即給正副都頭紫小綾綿旋襴一。涪陵、武龍二縣巡遏將,砦一人,以物力戶充,免其役。其義軍土丁,歲以籍上樞密院。

広南西路の土丁は嘉祐七年、税戸の常役に応ずる外、五丁ごとに一点してこれを為す。凡そ三万九千八百人を得。隊伍行陣を分ち、槍・鏢排を習わしめ、冬初に州に集めて按閲す。後に歳を遞るごとに州県迭りに教え、兵械を察視す。収刈を防ぐため、十一月に教えを改め用い、一月に罷む。

原文廣南西路土丁嘉祐七年,籍稅戶應常役外五丁點一為之。凡得三萬九千八百人。分隊伍行陣,習槍、鏢排,冬初集州按閱。後遞歲州縣迭教,察視兵械。以防收刈,改用十一月教,一月罷。

熙寧七年、桂州知事劉彝言う、「旧制、宜・融・桂・邕・欽の五郡の土丁は、成丁已上の者を皆これに籍す。既に蛮徼に接し、自ら寇掠を懼れ、守禦応援、駆策を待たず。而るに近制は主戸自第四等以上より、三つに取りて一を以て土丁と為す。而して旁塞は多く四等以上に非ず、若し三丁ごとに一を籍すれば、則ち旧丁の十の七を減ず。余りの三分を以て保丁と為し、保丁は多く内地に処り、又その益々武事に習うを俟ちて、則ち当に土丁の籍を蠲すべし。辺備に闕あるを恐れ、旧制の如くにせんことを請う」と。奏聞して可とす。

原文熙寧七年,知桂州劉彝言:“舊制,宜、融、桂、邕、欽五郡土丁,成丁已上者皆籍之。既接蠻徼,自懼寇掠,守禦應援,不待驅策。而近製主戶自第四等以上,三取一以為土丁。而旁塞多非四等以上,若三丁籍一,則減舊丁十之七。餘三分以為保丁,保丁多處內地,又俟其益習武事,則當蠲土丁之籍。恐邊備有闕,請如舊制便。”奏可。

元豊六年、広西経略使熊本言う、「宜州の土丁七千余人は、緩急に用いる可し。所属に令して編排せしめ、都分に分ち作り、防盜を除く外、縁辺に警あれば、会合掩捕を聴すべし」と。これに従う。

原文元豐六年,廣西經略使熊本言:“宜州土丁七千餘人,緩急可用。欲令所屬編排,分作都分,除防盜外,緣邊有警,聽會合掩捕。”從之。

元符二年、広西察訪司言う、「桂・宜・融等は土丁を用いて縁辺を防拓すれども、差及び単丁、両丁以上の家を差すことを乞う」と。これに従う。

原文元符二年,廣西察訪司言:“桂、宜、融等用土丁緣邊防拓,差及單丁,乞差兩丁以上之家。”從之。

広南東路の槍手は嘉祐六年、広・恵・梅・潮・循の五州は戸籍を以て置き、三等已上は身役を免じ、四等以下は戸役を免じ、歳ごとに十月一日に県に集めて閲教す。治平元年、詔して所在の官を遣わして按閲せしめ、一月に罷め、闕あれば即ち招補し、足らざれば本郷の武技ある者を選びて充てしむ。

原文廣南東路槍手嘉祐六年,廣、惠、梅、潮、循五州以戶籍置,三等已上免身役,四等以下免戶役,歲以十月一日集縣閱教。治平元年,詔所在遣官按閱,一月罷,有闕即招補,不足,選本鄉有武技者充。

熙寧元年、詔して広州の槍手の十の三に弓弩手を教えしむ。是の歳、六郡の槍手を会し、指揮四十一と為し、総計一万四千七百有奇。三年、広州知事王靖言う、「東路の槍手は、至和初より土丁の額と為して立てられ、農隙に一月肄業す、乃ち古の兵を農に寓するの策なり。然れども訓練勧獎の制未だ備わらず、三路の義勇軍政教法に比して条上し約束せんことを請う」と。四年、封州知事鄧中立、本路の未だ槍手を置かざる州県を以て、広・恵等五郡の例の如く置かんことを請う。奏聞して可とす。六年、広東駐泊の楊従先言う、「本路の槍手一万四千、今保甲と為し、両丁ごとに一を取りて得る丁二十五万、三丁ごとに一を取りて得る丁十三万。少なく計るも、猶お槍手の十倍なり。路分都監二員を委ね、分かち提挙して教閲せしめんことを願う」と。詔して司農寺に法を定めて聞かしむ。其の後、戸四等以上に、三丁ある者は一を以てこれと為し、毎百人を一都と為し、五都を一指揮と為す。十一月より二月に至るまで、月ごとに一番を輪して閲習し、凡そ三日ごとに一試し、その技優れる者を択びて先にこれを遣わす。七年、詔して広南東西路の旧槍手・土丁戸は河北・陝西の義勇法に依り、三丁ごとに一を選び、余りの州に槍手・土丁無き者は置かず。九年、兵部言う、「広・恵・循・潮・南恩の五郡の槍手は、主戸第四等以上の壮丁を籍し、旧額一万四千を過ぐること無く、余りを以て保甲と為さんことを請う」と。奏聞して可とす。

原文熙寧元年,詔廣州槍手十之三教弓弩手。是歲,會六郡槍手,為指揮四十一,總一萬四千七百有奇。三年,知廣州王靖言:“東路槍手,自至和初立為土丁之額,農隙肄業一月,乃古者寓兵於農之策也。然訓練勸獎之製未備,請比三路義勇軍政教法條上約束。”四年,知封州鄧中立請以本路未置槍手州縣,如廣、惠等五郡例置。奏可。六年,廣東駐泊楊從先言:“本路槍手萬四千,今為保甲,兩丁取一,得丁二十五萬,三丁取一,得丁十三萬。以少計之,猶十倍於槍手。願委路分都監二員,分提舉教閱。”詔司農寺定法以聞。其後,戶四等以上,有三丁者以一為之,每百人為一都,五都為一指揮。自十一月至二月,月輪一番閱習,凡三日一試,擇其技優者先遣之。七年,詔廣南東西路舊槍手、土丁戶依河北、陝西義勇法,三丁選一,餘州無槍手、土丁者勿置。九年,兵部言:“廣、惠、循、潮、南恩五郡槍手,請籍主戶第四等以上壯丁,毋過舊額一萬四千,餘以為保甲。”奏可。

元豊二年、詔す:広・恵・潮・封・康・端・南恩の七州は皆並びて辺に接し、外は蛮徼に接す、西路の保甲の武芸を教習するに依るべし。時に又詔して虔州の槍仗手は千五百を以て、撫州・建昌軍の郷丁・関軍・槍仗手は各千七百を以て額と為す。監司は農隙を以て武芸を按閲し、広東の制の如くす。

原文元豐二年,詔:廣、惠、潮、封、康、端、南恩七州皆並邊,外接蠻徼,宜依西路保甲教習武藝。時又詔虔州槍仗手以千五百,撫州、建昌軍鄉丁、關軍、槍仗手各以千七百為額。監司以農隙按閱武藝,如廣東製。

邕州・欽州の溪洞壮丁は治平二年、広南西路安撫司は左・右両江の四十五溪洞の知州・洞将を集め、各隣を占めて迭りに救応せしめ、仍って壮丁を籍し、校長を補し、旗号を給す。峒は三十人を以て一甲と為し、節級を置き、五甲に都頭を置き、十甲に指揮使を置き、五十甲に都指揮使を置き、総計四万四千五百人を以て定額と為す。各戎械を置き、寇警あるに遇えばこれを召集し、二年ごとに一閲し、戎械を察視す。老病並びに物故の名闕あれば、少壮の者を選びて填め、三歳ごとに一上す。

原文邕、欽溪洞壯丁治平二年,廣南西路安撫司集左、右兩江四十五溪洞知州、洞將,各占鄰迭為救應,仍籍壯丁,補校長,給以旗號。峒以三十人為一甲,置節級,五甲置都頭,十甲置指揮使,五十甲置都指揮使,總四萬四千五百人,以為定額。各置戎械,遇有寇警召集之,二年一閱,察視戎械。有老病並物故名闕,選少壯者填,三歲一上。

熙寧中、王安石言う、「募兵は未だ全く罷む可からず、民兵は則ち漸く復す可し、二広に至りては、尤も緩にす可からず。今中国は禁軍を募りて往きて南方に戍せしむるに多く死す、仁政に害あり。陛下誠に軍職の得る所の官の十二三を移し、百姓豪傑を鼓舞して、趨りて兵と為らしめば、則ち事甚だ易く成るべし」と。ここにおいて、蘇緘は二広の洞丁を訓練せんことを請う。旧制、一歳に両月を教う。安石曰く、「訓練の法は、当にその人を什伍し、その材武の士を抜きて什百の長と為すべし。首領以下より、各禄利を以て勧獎し、自ら閲習に勤まらしめば、即ち事芸成り、部分立ち、緩急用いる可し」と。六年、広南西路経略の沈起言う、「邕州五十一郡峒の丁は、凡そ四万五千二百。保甲を行い、戎械を給し、陣隊を教えんことを請う。芸衆に出す者は、府界に依り推恩して補授す」と。奏聞して可とす。

原文熙寧中,王安石言:“募兵未可全罷,民兵則可漸復,至於二廣,尤不可緩。今中國募禁軍往戍南方多死,害於仁政。陛下誠移軍職所得官十二三,鼓舞百姓豪傑,使趨為兵,則事甚易成。”於是,蘇緘請訓練二廣洞丁。舊制,一歲教兩月。安石曰:“訓練之法,當什伍其人,拔其材武之士以為什百之長。自首領以下,各以祿利勸獎,使自勤於閱習,即事藝可成,部分可立,緩急可用。”六年,廣南西路經略沈起言:“邕州五十一郡峒丁,凡四萬五千二百。請行保甲,給戎械,教陣隊。藝出眾者,依府界推恩補授。”奏可。

九年、趙禼が交阯を征討するにあたり、入朝して辞儀を述べた。帝は「峒丁を用いる法は、まず実利をもって誘い、その後で人を使うことができる。甘言虚辞では、どうしてその効命を責められようか。かつて鄜延で蕃兵を集めて教練した際は、卿がこれを制する術があったからこそ、軽罪は決断し、重罪は誅することができた。西夏に背けばその禍は遠く、帥臣に背けばその禍は速い。兵法の『我を畏れて敵を畏れず』の義に合致し、故にその効命を責めることができたのである。王師の南征にあたり、卿は勁兵数千を選び募り、梟将を選んでこれを率いさせ、諸峒を脅し、大兵が将に至らんとすることを諭し、我に従う者には賞を与え、従わぬ者は族を按じて誅せよ。兵威既に振るえば、まず右江を脅し、右江既に附すれば、また左江を脅す。両江が附すれば、諸蛮附かざるはない。その後で交人の劉紀の巣穴を攻めるのは、甚だ難からざるであろう。郭逵は性吝嗇である。卿は朝廷が兵費を惜しまざることを以て諭すべし。逵はまた事崖岸にして、下情に通ぜず、将佐敢えて言う者なし。卿彼に至り、朕の語を以て詔せよ」と諭した。

原文九年,趙禼征交阯,入辭,帝諭以“用峒丁之法,當先誘以實利,然後可以使人。甘言虛辭,豈能責其效命?比鄜延集教蕃兵,賴卿有以製之,使輕罪可決,重罪可誅。違西夏則其禍遠,違帥臣則其禍速,合於兵法‘畏我不畏敵’之義,故能責其效命。王師之南,卿宜選募勁兵數千,擇梟將領之,以脅諸峒,諭以大兵將至,從我者有賞,其不從者按族誅之。兵威既振,先脅右江,右江既附,復脅左江,兩江附則諸蠻無不附者。然後以攻交人劉紀巢穴,甚非難也。郭逵性吝嗇,卿宜諭以朝廷兵費無所惜,逵復事崖岸,不通下情,將佐莫敢言者,卿至彼,以朕語詔之。”

十年、枢密院が請うた。「邕州・欽州の峒丁は経略司に委ねて提挙させ、巡検とともに総じて訓練の事に当たらせ、一切を分接に委ねる。歳末に武芸優れた者を上申し、その酋首とともに等級に応じて賞を受ける。五人を保とし、五保を隊とする。三等に分ける。軍功武芸衆に抜きん出る者は上とし、その徭役を免ず。人材矯捷なる者は中とし、その科配を免ず。余りは下とする。辺境に盗賊が発生すれば酋長が相報じ、族衆を率いて寇を防ぐ」と。十二月、詔して邕州・欽州の丁壮は自ら戎器を備え、貧しき者は官銭を貸し与え、金鼓旗幟は官が給し、隔年ごとに大閲兵を行い、終わればこれを収蔵する。

原文十年,樞密院請:“邕、欽峒丁委經略司提舉,同巡檢總蒞訓練之事,一委分接。歲終上藝優者,與其酋首第受賞。五人為保,五保為隊。第為三等:軍功武藝出眾為上,蠲其徭役;人材矯捷為中,蠲其科配;餘為下。邊盜發則酋長相報,率族眾以捍寇。”十二月,詔邕、欽丁壯自備戎械,貧者假以官錢,金鼓旗幟官給,間歲大閱,畢則斂藏之。

元豊元年、経略司が両江の峒丁を集めて指揮とし、権宜的に将校を補することを請うた。奏聞は許可された。二年、広西経略司が言う。「邕州・欽州の峒丁を団結して指揮一百七十五とし、武芸上等の者一万三千六百七人を籍す」と。詔して諸臣に下し、峒丁の事を措置する議を献ぜしめ、曾布に付して参酌損益させ、規画を創め、務めて詳尽ならしめ、施行に便ならしめた。布は乃ち鎮砦の監押・砦主に兵甲使臣と巡検等とともに管轄させ、州峒を分定して総制し、賞罰懲勧を立てることを請うた。都巡検使を両員増置し、分かって提挙する。及び首領丁壮を増やし、歳ごとに閲し、武芸絶倫の者を聞上し、材量に応じて補授する。詔して都巡検使を二員増やし、余りは熊本に下してその可なるものを施行せしめた。

原文元豐元年,經略司請集兩江峒丁為指揮,權補將校。奏可。二年,廣西經略司言:“團結邕、欽峒丁為指揮一百七十五,籍武藝上等一萬三千六百七人。”詔下諸臣獻議措置峒丁事,付曾布參酌損益,創為規畫,務令詳盡,便於施行。布乃請令鎮砦監押、砦主同管轄兵甲使臣與巡檢等,分定州峒總製,立賞罰懲勸。增置都巡檢使兩員,分提舉。及增首領丁壯,歲閱之,以武藝絕倫者聞,量材補授。詔增都巡檢使二員,餘下熊本擇其可者施行之。

五年、詔す。「広南の保甲は戎州・瀘州の故事の如く、自ら裹頭無刃槍・竹標排・木弓刀・蒿矢等を置き武技を習い、盗賊を捕らうるに遇えば官が器械を給する。

原文五年,詔:“廣南保甲如戎、瀘故事,自置裹頭無刃槍、竹標排、木弓刀、蒿矢等習武技,遇捕盜則官給器械。

六年、詔して枢密承旨司に広西の峒丁を講議せしめ、開封府界の保甲の集教・団教の法の如くせしむ。是年、広西路刑獄を提点する彭次雲が言う。「邕州は瘴癘に苦しむ。兵を量り留めて更戍せしめ、余りは峒丁を用い、季月ごとに番上せしめ、禁軍の銭糧を給せよ」と。詔して許彦先にこれを度らしむ。彦先等が言う。「もし尽く正兵に代えさせれば、農を妨ぐる恐れあり。戍兵の三分の一を計って峒丁に代え、季ごとに二千を輪番して邕州に赴き武事を習わしむることを請う」と。これに従う。

原文六年,詔樞密承旨司講議廣西峒丁如開封府界保甲集教、團教法。是年,提點廣西路刑獄彭次雲言:“邕苦瘴癘,請量留兵更戍,餘用峒丁,以季月番上,給禁軍錢糧。”詔許彥先度之,彥先等言:“若盡以代正兵,恐妨農。請計戍兵三之一代以峒丁,季輪二千赴邕州肄習武事。”從之。

大観二年、詔す。「熙寧年間に左・右江の峒丁十余万を団集し、広以西はこれに頼って防守した。今また二十万の衆が来帰した。既に張庄に左・右江の例に依って相度し聞奏せしめた。尚慮るに有司先務を知らず、措置滅裂なるを。今条画を下しその修する法を行わしむ。熙河蘭湟・秦鳳路の敕に入れてこれに遵行せしむ」と。

原文大觀二年,詔:“熙寧團集左、右江峒丁十餘萬眾,自廣以西賴以防守。今又二十萬眾來歸。已令張莊依左、右江例相度聞奏。尚慮有司不知先務,措置滅裂,今條畫行下其所修法,入熙河蘭湟、秦鳳路敕遵行之。”

福建路の槍仗手は、元豊元年、転運使蹇周輔が言う。「廖恩が盗賊となるや、槍仗手を以て捕殺したところ、乃ち槍仗手の名を冒し、賊勢に乗じて村落を驚擾する者あり、その患いは廖恩よりも甚だしい」と。詔して犯す者は特に刺配を加う。周輔は槍仗手の人数を額定し、歳ごとに集めて閲することを請うた。その章を兵部に下す。兵部は保甲法に依って編排し、旧法を廃し、提刑司に隷属させることを請う。居相近き者五人を小保とし、保に長あり、五小保を一大保長とし、十大保を一都・副保正とする。教閲・盗賊捕縛・食直等の令を具えて頒布する。総計一万二百人余り、歳の農隙を以て、部使者分かって閲し、弓手法に依ってこれを賞す。二年、法を立て、自ら兵械を置き官に寄託することを聴し、盗賊を捕らうるに遇えば乃ち給し、数外に置く者は私有の法に従う。

原文福建路槍仗手元豐元年,轉運使蹇周輔言:“廖恩為盜,以槍仗手捕殺,乃有冒槍仗手之名,乘賊勢驚擾村落,患有甚於廖恩者。”詔犯者特加刺配。周輔請額定槍仗手人數,歲集閱之。下其章兵部。兵部請依保甲法編排,罷舊法,以隸提刑司。居相近者五人為小保,保有長,五小保為一大保長,十大保為一都、副保正。具教閱、捕盜賊、食直等令頒焉。總一萬二百人有奇,以歲之農隙,部使者分閱,依弓手法賞之。二年,立法,聽自置兵械寄於官,遇捕盜乃給,數外置者從私有法。

元祐元年、御史上官均が言う。「福建路は往年、寇盗により槍手を召募し、多きは数百人に至り、少なくも一二百人に下らず。毎歳監司親しく至り按試犒賞す。比して閲視に至れば、その老弱武技に熟さざる者十の七八なり。監司の至る所、多くは先期して呼び集む。既に至れば、往々にして名を代えて充数し、支賞を冒して受け、徒らに呼集の労ありて校試の実なし。重ねて考核を行い、必ずしも旧数を充満せず、実を得んことを乞う」と。

原文元祐元年,御史上官均言:“福建路往年因寇盜召募槍手,多至數百人,少不下一二百人。每歲監司親至按試犒賞,比至閱視,其老弱不閑武技者十七八。監司所至,多先期呼集。既至,往往代名充數,冒受支賞,徒有呼集之勞,而無校試之實。欲乞重行考核,不必充滿舊數,庶幾得實。”

靖康元年、臣僚が言う。「天下の歩兵の精鋭、福建路の槍仗手に如くはなし。出入軽捷、その術を得て馭すれば、一をもって十に当たる。官を選び前去して召募せんことを乞う」と。これに従う。

原文靖康元年,臣僚言:“天下步兵之精,無如福建路槍仗手,出入輕捷,馭得其術,一可當十。乞選官前去召募。”從之。

江南西路の槍仗手は、熙寧七年、詔して虔州・汀州・漳州の三州の郷丁・槍手等を籍し、製置盗賊司が三州の境は嶺外に接し、民は塩を販売するを喜び且つ盗賊となる、土人にあらざれば制すること能わざるが故なりと言うによる。

原文江南西路槍仗手熙寧七年,詔籍虔、汀、漳三州鄉丁、槍手等,以製置盜賊司言三州壤界嶺外,民喜販鹽且為盜,非土人不能製故也。

元豊二年、詔して虔州の槍仗手千五百三十六人、撫州及び建昌軍の郷丁・関軍・槍仗手各千七百七十八人を定額とす。毎歳農隙、監司・提挙司の官を輪番して案閲し武芸を試み、奸盗に備う。以前の江西転運副使蔣之奇の請いに従う。

原文元豐二年,詔虔州槍仗手千五百三十六人,撫州、建昌軍鄉丁、關軍、槍仗手各千七百七十八人為定額。每歲農隙,輪監司、提舉司官案閱武藝,以備奸盜。從前江西轉運副使蔣之奇請也。

宣和三年、兵部が言う。「近頃江西漕臣が謂うに、本路の槍仗手は、元豊七年に八千三十五人を以て定額とし、元祐年中に至り七千一百四十二人を減罷し、元符年間に雖も嘗て人数を増立すれども、元額に比すれば猶その七分を減ず。諸路の監司・帥臣に詔し、並びに熙寧の旧制に遵い元額を補足せしむることを乞う」と。これに従う。

原文宣和三年,兵部言:“近因江西漕臣謂本路槍仗手,元豐七年以八千三十五人為額,至元祐中減罷七千一百四十二人,元符間雖嚐增立人數,比之元額猶減其七。乞詔諸路監司、帥臣並遵熙寧舊制補足元額。”從之。

蕃兵とは、塞下に内属する諸部落の籍を具え、団結して藩籬の兵となすものである。西北辺の羌戎は、種落相統一せず、塞を保つ者を熟戸と謂い、余りを生戸と謂う。陝西では秦鳳・涇原・環慶・鄜延、河東では石州・隰州・麟州・府州である。その大首領は都軍主と為し、百帳以上は軍主と為し、次は副軍主・都虞候・指揮使・副兵馬使と為し、功次に依って補する者は刺史・諸衛将軍・諸司使・副使・承製・崇班供奉官より殿侍に至る。その本族巡検を充たす者は、俸は正員と同じくし、月に添支銭十五千、米麵傔馬に差等あり。刺史・諸衛将軍の請給は、蕃官の例と同じ。首領で軍職を補する者は、月俸銭は三千より三百まで、また歳ごとに冬服綿袍凡七種、紫綾三種を給す。十将以下は皆田土を給す。

原文蕃兵者,具籍塞下內屬諸部落,團結以為藩籬之兵也。西北邊羌戎,種落不相統一,保塞者謂之熟戶,餘謂之生戶。陝西則秦鳳、涇原、環慶、鄜延,河東則石、隰、麟、府。其大首領為都軍主,百帳以上為軍主,其次為副軍主、都虞候、指揮使、副兵馬使,以功次補者為刺史、諸衛將軍、諸司使、副使、承製、崇班供奉官至殿侍。其充本族巡檢者,奉同正員,月添支錢十五千,米麵傔馬有差。刺史、諸衛將軍請給,同蕃官例。首領補軍職者,月奉錢自三千至三百,又歲給冬服綿袍凡七種,紫綾三種。十將而下皆給田土。

康定元年(1040年)、趙元昊が反乱を起こし、まず金明砦を破り、李士彬父子を殺害した。蕃部が既に潰走すると、塞門・安遠の両砦を破り、延州を包囲した。二年(1041年)、陝西體量安撫使王堯臣が上言した、「涇原路の熟戸一万四百七十余りの帳の首領は、それぞれ職名を有している。曹瑋が本路を統帥した時は、威令が明らかに著しく、嘗てこれを用いて西羌を平定した。その後、守将が撫育馭使を失い、次第に驕慢狡猾となった。元昊の反乱以来、鎮戎軍及び渭州山外は皆侵擾を受け、近界の熟戸も殺掠に遭った。蕃族の心情は、最も報酬(酬賽)を重んじる。その隙間(釁隙)に乗じてこれを激怒させれば、再びその用を為すことができる。人を遣わして、効用を願う首領を募り、姓名及び兵馬の数を登録せられたい。数が千人に及べば、自ら謀勇有る者を推挙させ、班行及び巡檢の職名を授け、将領として国境を出て征伐させよ。生戸を破蕩して得た財産・家畜は、官は検核しないこと。首級を得た者及び負傷者には賞を与え、なお本族の職名に依って遷補し俸給を増すこと」。詔してその請いの如くとした。

原文康定初,趙元昊反,先破金明砦,殺李士彬父子。蕃部既潰,乃破塞門、安遠砦,圍延州。二年,陝西體量安撫使王堯臣言:“涇原路熟戶萬四百七十餘帳之首領,各有職名。曹瑋帥本路,威令明著,嚐用之以平西羌。其後,守將失於撫馭,浸成驕黠。自元昊反,鎮戎軍及渭州山外皆被侵擾,近界熟戶亦遭殺掠。蕃族之情,最重酬賽,因其釁隙而激怒之,可復得其用。請遣人募首領願效用者,籍姓名及士馬之數。數及千人,聽自推有謀勇者授班行及巡檢職名,使將領出境。破蕩生戶所獲財畜,官勿檢核。得首級及傷者給賞,仍依本族職名遷補增奉。”詔如所請。

慶曆二年(1042年)、青澗城知事種世衡が上奏した、蕃兵五千を募り、右手の虎口に「忠勇」の字を涅いれずみし、折馬山族に隷属させた。言事者はこれに因って熟戸を募り、禁軍の俸給・支給を与えて辺境を守備させ、正兵を悉く罷めよと請うた。四路安撫使に下して議させたところ、環慶路の范仲淹が言うには、「熟戸は土田に恋慕し、老弱・牛羊を護り、賊に遇えば力戦し、漢戸の藩蔽(防壁)と為すことができるが、正兵として倚たのむことはできない。大凡、蕃情は狡猾で、強きを畏れ弱きを凌ぎ、常にこれを制する方法あれば服従して用いることができるが、もし正兵として倚れば必ず驕蹇に至る。また今、蕃部の都虞候から副兵馬使までの俸銭は七百に止まり、衣糧は皆無である。もし長行(兵卒)が急に禁兵の俸給を得れば、蕃官は必ず非分の望みを生じる。況んや歳に敵を見ること稀にして、何ぞ長く俸給を与える必要があろうか。且つ銭が熟戸に入れば、蕃部は羊馬・青塩を買い求め河西に転売する資とし、これも良策ではない。もし警急有れば、直ちに金帛を以て勇猛を募る方が便宜である」。議は遂に止んだ。

原文慶曆二年,知青澗城種世衡奏:募蕃兵五千,涅右手虎口為“忠勇”字,隸折馬山族。言者因請募熟戶,給以禁軍廩賜使戍邊。悉罷正兵。下四路安撫使儀,環慶路范仲淹言:“熟戶戀土田,護老弱、牛羊,遇賊力戰,可以藩蔽漢戶,而不可倚為正兵。大率蕃情黠詐,畏強淩弱,常有以製之則服從可用,如倚為正兵必至驕蹇。又今蕃部都虞候至副兵馬使奉錢止七百,悉無衣廩,若長行遽得禁兵奉給,則蕃官必生徼望。況歲罕見敵,何用長與廩給?且錢入熟戶,蕃部資市羊馬、青鹽轉入河西,亦非策也。若遇有警,旋以金帛募勇猛,為便。”議遂格。

治平二年(1065年)、詔して陝西四路駐泊鈐轄の秦鳳路梁寔・涇原路李若愚・環慶路王昭明・鄜延路韓則順に、各々本路の蕃部を管勾し、強人・壮馬を団結させ、予め経画を為し、寇が至れば老弱各々保存すべき所有らしめよと命じた。なお梁寔等に、蕃帳を往来し、その牒訴を受け、その屈抑を伸べ、その反側の者を察して羈縻し、猜阻を以て釁隙を萌さしめぬよう諭した。梁寔等は蕃部に至り首領を召集し、詔を称して犒労し、金帛を齎した。城砦の兵馬を登録し、族望の大小を計り、隊伍を分け、旗幟を与え、各々堡壘を繕わせ、人ごとに器甲を置かせ、以て調発に備えさせた。なお約束した、もし命令が下りて集まらなければ、押隊の首領を軍法に依って処断する、と。治平四年(1067年)以後より、蕃部の族帳は益々多くなり、撫禦団結の制度は益々密になったので、別にその後に附す。

原文治平二年,詔陝西四路駐泊鈐轄秦鳳梁寔、涇原李若愚、環慶王昭明、鄜延韓則順各管勾本路蕃部,團結強人、壯馬,預為經畫,寇至則老弱各有保存之所。仍諭寔等往來蕃帳,受其牒訴,伸其屈抑,察其反側者羈縻之,勿令猜阻以萌釁隙。實等至蕃部召首領,稱詔犒勞,齎以金帛;籍城砦兵馬,計族望大小,分隊伍,給旗幟,使各繕堡壘,人置器甲,以備調發。仍約:如令下不集,押隊首領以軍法從事。自治平四年以後,蕃部族帳益多,而撫禦團結之製益密,故別附於其後云:

秦鳳路:砦十三、強人四万一千百九十四、壮馬七千九百九十一。(三陽砦、十八門・三十四大部族・四十三姓・百八十族、総兵馬三千四百六十七。隴城砦、五門・五大部族・三十四小族・三十四姓、総兵馬二千五十四。弓門砦、二大門・十七部族・十七姓・十七小族、総兵馬千七百四。治坊砦、二大門・二大部族・九姓・九小部族、総兵馬三百六十。┒穰砦、二大門・二大部族・十一姓・十一小族、総兵馬千八百。静戎砦、門三、計りて大部族十・六姓・十六小族、総兵馬六百二十五。定西砦、四門・四大部族・十六姓・二十八族、総兵馬六百。伏羌砦、二門・二大部族・三十二姓・三十三小部族、総兵馬千九百九十二。安遠砦、二十三門・二十三大部族・百二十六姓・百二十六小族、総兵馬五千三百五十。来遠砦、八門・八大部族・十九姓・十九小族、総兵馬千五百七十四。寧遠砦、四門・四大部族・三十六姓・三十六小族、総兵馬七千四百八十。古渭砦、百七十二門・百七十一姓・十二大部族・一万六千九百七十小帳、兵七千七百・馬千四百九十。)

原文秦鳳路:砦十三,強人四萬一千一百九十四,壯馬七千九百九十一。(三陽砦,十八門、三十四大部族、四十三姓、一百八十族,總兵馬三千四百六十七。隴城砦,五門、五大部族、三十四小族、三十四姓,總兵馬二千五十四。弓門砦,二大門、十七部族、十七姓、十七小族,總兵馬一千七百四。治坊砦,二大門、二大部族、九姓、九小部族,總兵馬三百六十。┒穰砦,二大門、二大部族、十一姓、十一小族,總兵馬一千八百。靜戎砦,門三,計大部族十、六姓、十六小族,總兵馬六百二十五。定西砦,四門、四大部族、十六姓、二十八族,總兵馬六百。伏羌砦,二門、二大部族、三十二姓、三十三小部族,總兵馬一千九百九十二。安遠砦,二十三門、二十三大部族、一百二十六姓、一百二十六小族,總兵馬五千三百五十。來遠砦,八門、八大部族、十九姓、十九小族,總兵馬一千五百七十四。寧遠砦,四門、四大部族、三十六姓、三十六小族,總兵馬七千四百八十。古渭砦,一百七十二門、一百七十一姓、十二大部族、一萬六千九百七十小帳,兵七千七百、馬一千四百九十。)

鄜延路:軍・城・堡・砦十、蕃兵一万四千五百九十五、官馬二千三百八十二、強人六千五百四十八、壮馬八百十。(永平砦、東路都巡檢の管轄する八族、兵千七百五十四・馬四百九。青澗城、二族、兵四千五百十・馬七百三十四。龍安砦、鬼魁等九族、兵五百九十九・馬百二十九。西路徳靖砦、同都巡檢の管轄する掲家等八族、兵千百十四・馬百五十。安定堡、東路都巡檢の管轄する十六族、兵千九百八十九・馬四百六十。保安軍、両族、兵三百六十一・馬五十。徳靖、西路同都巡檢の管轄する二十族、兵七千八百五・馬八百七十七。また小胡等十九族、兵六千九百五十六・馬七百二十五。保安軍、北都巡檢の管轄する厥七等九族、兵千四百四十一・馬百六十七。園林堡、両族、兵八百二十二・馬九十三。肅戎軍、卞移等八族、兵七百四十八・馬百二十三。)

原文鄜延路:軍、城、堡、砦十,蕃兵一萬四千五百九十五,官馬二千三百八十二,強人六千五百四十八,壯馬八百十。(永平砦,東路都巡檢所領八族,兵一千七百五十四、馬四百九。青澗城,二族,兵四千五百十、馬七百三十四。龍安砦,鬼魁等九族,兵五百九十九、馬一百二十九。西路德靖砦,同都巡檢所領揭家等八族,兵一千一百一十四、馬一百五十。安定堡,東路都巡檢所領十六族,兵一千九百八十九、馬四百六十。保安軍,兩族,兵三百六十一、馬五十。德靖,西路同都巡檢所領二十族,兵七千八百五、馬八百七十七。又小胡等十九族,兵六千九百五十六、馬七百二十五。保安軍,北都巡檢所領厥七等九族,兵一千四百四十一、馬一百六十七。園林堡,兩族,兵八百二十二、馬九十三。肅戎軍,卞移等八族,兵七百四十八、馬一百二十三。)

涇原路には、鎮・砦・城・堡が二十一箇所あり、強人一万二千四百六十六人、壮馬四千五百八十六頭、これを百十甲に編成し、総計五百五隊とする。(新城鎮、四族、総兵馬三百四十一、これを十六隊とする。截原砦、六族、総兵馬五百九十六、これを六甲二十隊とする。平安砦、十一族、総兵馬二千三百八十四、これを十甲四十六隊とする。開邊砦、十八族、総兵馬一千二百五十四、これを九甲四十四隊とする。新門砦、十二族、総兵馬一千七十三、これを三甲二十八隊とする。西壕砦、三族、総兵馬四百五十四、これを四甲二十隊とする。柳泉鎮、十二族、総兵馬九百八十六、これを七甲三十一隊とする。綏寧・海寧砦、四族、総兵馬七百八十八、これを四十甲三十二隊とする。靖安砦、四族、総兵馬一千九百八十二、これを四甲五十九隊とする。瓦亭砦、四族、総兵馬五百九十一、これを四甲十九隊とする。安國鎮、五族、総兵馬六百三十四、これを五甲二十二隊とする。耀武鎮、一族、総兵馬三十二、これを一隊とする。新砦、両族、総兵馬一百九。東山砦、四族、総兵馬二百二、これを四甲九隊とする。彭陽城、三族、総兵馬一百八十四、これを六甲十二隊とする。德順軍、強人三千六百七十六、壮馬二千四百八十五、これを三十六甲一百三十五隊とする。本軍二十一族、総兵馬二千五百二、これを三十六隊とする。隆德砦、七族、総兵馬二百五十六、これを十七甲十九隊とする。靜邊砦、二十四族、総兵馬一千八百七、これを三十六隊とする。水洛城、十九族、総兵馬一千三百五十四、これを十九甲三十八隊とする。通邊砦、五族、総兵馬一百七十六、これを三隊とする。)

原文涇原路:鎮、砦、城、堡二十一,強人一萬二千四百六十六,壯馬四千五百八十六,為一百十甲,總五百五隊。(新城鎮,四族,總兵馬三百四十一,為十六隊。截原砦,六族,總兵馬五百九十六,為六甲二十隊。平安砦,十一族,總兵馬二千三百八十四,為十甲四十六隊。開邊砦,十八族,總兵馬一千二百五十四,為九甲四十四隊。新門砦,十二族,總兵馬一千七十三,為三甲二十八隊。西壕砦,三族,總兵馬四百五十四,為四甲二十隊。柳泉鎮,十二族,總兵馬九百八十六,為七甲三十一隊。綏寧、海寧砦,四族,總兵馬七百八十八,為四十甲三十二隊。靖安砦,四族,總兵馬一千九百八十二,為四甲五十九隊。瓦亭砦,四族,總兵馬五百九十一,為四甲十九隊。安國鎮,五族,總兵馬六百三十四,為五甲二十二隊。耀武鎮,一族,總兵馬三十二,為一隊。新砦,兩族,總兵馬一百九。東山砦,四族,總兵馬二百二,為四甲九隊。彭陽城,三族,總兵馬一百八十四,為六甲十二隊。德順軍,強人三千六百七十六,壯馬二千四百八十五,為三十六甲一百三十五隊。本軍二十一族,總兵馬二千五百二,為三十六隊。隆德砦,七族,總兵馬二百五十六,為一十七甲十九隊。靜邊砦,二十四族,總兵馬一千八百七,為三十六隊。水洛城,十九族,總兵馬一千三百五十四,為十九甲三十八隊。通邊砦,五族,總兵馬一百七十六,為三隊。)

環慶路には、鎮・砦二十八箇所あり、強人三万一千七百二十三人、壮馬三千四百九十五頭、総計一千百八十二隊とする。(安塞砦、四族、強人三百五十一、壮馬三十、これを十六隊とする。洪德砦、二族、強人二百七十三、壮馬五十二、これを十隊とする。肅遠砦、三族、強人一千五百五十九、壮馬二百六十三、これを六十隊とする。烏侖砦、一族、強人六百八十四、壮馬一百十八、これを二十六隊とする。永和砦、旁家一族計六標、強人一千二百五十五、壮馬二百二、これを四十四隊とする。平遠砦、六族、強人五百四十、壮馬八十七、これを二十七隊とする。安遠砦、六族、強人七百四十八、壮馬一百十六、これを三十隊とする。合道鎮、十四族、強人一千五百六十五、壮馬一百八十三、これを五十七隊とする。木波鎮、十四族、強人二千一百六十九、壮馬一百九十五、これを六十一隊とする。石昌鎮、二族、強人四百六十二、壮馬三十四、これを十七隊とする。馬領鎮、四族、強人一千十六、壮馬八十、これを二十四隊とする。團堡砦、二族、強人一千二十二、壮馬一百十一、これを二十四隊とする。荔原堡、十三族、強人二千二百二十一、壮馬三百九十四、これを八十二隊とする。大順城、二十三族、強人三千四百九十一、壮馬三百十四、これを一百四十一隊とする。柔遠砦、十二族、強人三千三百八十一、壮馬一千、これを九十隊とする。東穀砦、十六族、強人四百五十九、壮馬五十六、これを十四隊とする。西穀砦、十族、強人一千七百九十四、壮馬一百四十、これを六十五隊とする。淮安鎮、二十七族、強人四千三百六十八、壮馬三百二十一、これを一百七十隊とする。平戎鎮、八族、強人一千八十五、壮馬一百七十一、これを四十一隊とする。五交鎮、十族、強人一千百七、壮馬七十三、これを四十九隊とする。合水鎮、四族、強人六百三十一、壮馬九十五、これを二十四隊とする。鳳川鎮、二十三族、強人八百七十五、壮馬一百四十三、これを二十隊とする。華池鎮、三族、強人二百六十二、壮馬三十八、これを十二隊とする。業樂鎮、十七族、強人一千百七十二、壮馬六十四、これを四十六隊とする。府城砦、一族、強人二百三十三、壮馬五、これを七隊とする。)

原文環慶路:鎮、砦二十八,強人三萬一千七百二十三,壯馬三千四百九十五,總一千一百八十二隊。(安塞砦,四族,強人三百五十一,壯馬三十,為十六隊。洪德砦,二族,強人二百七十三,壯馬五十二,為十隊。肅遠砦,三族,強人一千五百五十九,壯馬二百六十三,為六十隊。烏侖砦,一族,強人六百八十四,壯馬一百一十八,為二十六隊。永和砦,旁家一族計六標,強人一千二百五十五,壯馬二百二,為四十四隊。平遠砦,六族,強人五百四十,壯馬八十七,為二十七隊。安遠砦,六族,強人七百四十八,壯馬一百一十六,為三十隊。合道鎮,十四族,強人一千五百六十五,壯馬一百八十三,為五十七隊。木波鎮,十四族,強人二千一百六十九,壯馬一百九十五,為六十一隊。石昌鎮,二族,強人四百六十二,壯馬三十四,為十七隊。馬領鎮,四族,強人一千一十六,壯馬八十,為二十四隊。團堡砦,二族,強人一千二十二,壯馬一百十一,為二十四隊。荔原堡,十三族,強人二千二百二十一,壯馬三百九十四,為八十二隊。大順城,二十三族,強人三千四百九十一,壯馬三百十四,為一百四十一隊。柔遠砦,十二族,強人三千三百八十一,壯馬一千,為九十隊。東穀砦,十六族,強人四百五十九,壯馬五十六,為十四隊。西穀砦,十族,強人一千七百九十四,壯馬一百四十,為六十五隊。淮安鎮,二十七族,強人四千三百六十八,壯馬三百二十一,為一百七十隊。平戎鎮,八族,強人一千八十五,壯馬一百七十一,為四十一隊。五交鎮,十族,強人一千一百七,壯馬七十三,為四十九隊。合水鎮,四族,強人六百三十一,壯馬九十五,為二十四隊。鳳川鎮,二十三族,強人八百七十五,壯馬一百四十三,為二十隊。華池鎮,三族,強人二百六十二,壯馬三十八,為十二隊。業樂鎮,十七族,強人一千一百七十二,壯馬六十四,為四十六隊。府城砦,一族,強人二百三十三,壯馬五,為七隊。)

治平四年、郭逵が言うには、「秦州青雞川の蕃部が地を献じたいと願い、川南の牟穀口に城堡を設置し、弓箭手を募り、秦州・德順二州の援護を通じさせ、賊の侵入路を断つことを請う」と。閏三月、原州九砦の蕃官三百八十一人を収め、総計二百二十九族、七千七百三十六帳、蕃兵一万人、馬千頭。この年、四路の蕃部を主管する内臣を罷め、各路の升朝使臣で蕃情に通暁する者を選んでこれに当たらせた。

原文治平四年,郭逵言:“秦州青雞川蕃部願獻地,請於川南牟穀口置城堡,募弓箭手,以通秦州、德順二州之援,斷賊入寇之路,”閏三月,收原州九砦蕃官三百八十一人,總二百二十九族,七千七百三十六帳,蕃兵萬人,馬千匹。是歲,罷四路內臣主蕃部者,選逐路升朝使臣諳練蕃情者為之。

熙寧元年、議者が謂うには、

原文熙寧元年,議者謂:

熟羌とは、唐が三使を設けて統べた党項である。西夏が臣節を守らぬより、種落は叛き散り、南北に分かれて寓居す。首領たる者は父死すれば子が継ぎ、兄死すれば弟が襲ぎ、家に正親なきときは、またその旁属の強者を推して族首と為し、多きは数百に及ぶ。族首たる者幼少なりとも、その本門中の婦女の令も皆信服する故、国家その俗に因りて法と為す。その大首領は、上は刺史より、下は殿侍に至るまで、並びに本族の巡検を補し、次首領は軍主・指揮使を補し、下は十将に至るまで、順次に廩給を受く。歳月久しくして、主家と客族の帳、混淆して紀すべからず。康定年中、嘗て蔣偕を遣わしてこれを籍す。今三十年を逾え、主家は累降の故にその先職たる族首の名品を失い、而して客戶は功を以て使臣・軍班となり、主家の上に超処するものあり。軍興して調発するとき、有司はただ職名を視て、その部曲に号令せしむるも、衆心は主家に非ざるを以て、肯て用いられんとせず。

原文熟羌乃唐設三使所統之党項也。自西夏不臣,種落叛散,分寓南北。為首領者父死子繼,兄死弟襲,家無正親,則又推其旁屬之強者以為族首,多或數百,雖族首年幼,第其本門中婦女之令亦皆信服,故國家因其俗以為法。其大首領,上自刺史,下至殿侍,並補本族巡檢,次首領補軍主、指揮使,下至十將,第受廩給。歲久,主客族帳,混淆莫紀。康定中,嚐遣蔣偕籍之。今逾三十年,主家或以累降失其先職族首名品,而客戶或以功為使臣,軍班超處主家之上。軍興調發,有司惟視職名,使號令其部曲,而眾心以非主家,莫肯為用。

請う、今より蕃官身歿のとき、秩高き者は子孫例に依り降等して本族の巡検と為し、その旁邊にて賊を捍ぐ能き者には奉給し、遠辺の者は旧に如く歳月を限りてこれに給すべし。その已に降等せしめ、或いは三班差使・殿侍にして身歿し降等すべき等なき者は、子孫降等せず、軍主・指揮使を充つる者は即ち殿侍と為すべし。かくの如くすれば、則ち本族蕃官の名品は常に在らん。或いはその部曲功を立て官に任ずべきときは、正親に非ざれば本族の巡検と為すを得ず、ただその奉を増すべし。その軍主より十将に至るまで、祖・父に族帳兵騎ある者は、子孫即ちその旧を承け、年限を以て廩給を受くべし。能く自ら功を立てる者はこの令を用いず。かくの如くすれば、則ち熟羌の心は皆、異日子孫旧職を失わず、世々我が用に為ることを知らん。

原文請自今蕃官身歿,秩高者子孫如例降等以為本族巡檢,其旁邊能捍賊者給奉,遠邊者如舊限以歲月;其已降等或三班差使、殿侍身歿無等可降者,子孫不降,充軍主、指揮使者即以為殿侍。如此,則本族蕃官名品常在。或其部曲立功當任官者,非正親毋得為本族巡檢,止增其奉;其軍主至十將,祖、父有族帳兵騎者,子孫即承其舊,限年受廩給;能自立功者不用此令。如此,則熟羌之心皆知異日子孫不失舊職,世為我用矣。

枢密院は河東路と会議し、蕃部の承襲は資を降さず、秦鳳路は二資を降し、涇原路の蕃官が老いて告退するときは門内の人が承代しても資を降さず、鄜延・環慶路の蕃官使臣は類比により職を授けることとした。蕃官の副兵馬使以上には元来奏到の者なく、詔して鄜延・環慶路の蕃官で本族の首領の子孫で継承すべき者は、もし都軍主以下の子孫ならば降さず、殿侍並びに差使・殿侍の子孫は都軍主に充て、借職・奉職の子孫は殿侍に充て、侍禁・殿直の子孫は差使・殿侍に充て、供奉官の子孫は借職を補し、承製以下の子孫は奉職を補す。その諸司副使以上の子孫で継承すべき者は、漢官の遺表の恩加に準じて二等を加える。奏して可とす。

原文樞密院乃會河東路,蕃部承襲不降資;秦鳳路降兩資,涇原路蕃官告老以門內人承代亦不降資,鄜延、環慶路蕃官使臣比類授職。蕃官副兵馬使以上元無奏到之人,詔鄜延、環慶路蕃官本族首領子孫當繼襲者,若都軍主以下之子孫勿降,殿侍並差使、殿侍之子孫充都軍主,借職、奉職之子孫充殿侍,侍禁、殿直之子孫充差使、殿侍、供奉官之子孫補借職,承製以下子孫補奉職;其諸司副使以上子孫合繼襲者,視漢官遺表加恩二等。奏可。

二月、青澗城を治める劉怤が言うには、「管轄する帰明の号箭手八指揮、合わせて三千四百余人、馬九百匹は、連年収穫なく、丹州の儲糧をもって振恤せんことを願う」と。詔してその章を転運司に下して行わしむ。

原文二月,知青澗城劉怤言:“所隸歸明號箭手八指揮,凡三千四百餘人、馬九百匹,連歲不登,願以丹州儲糧振恤。”詔下其章轉運司行之。

二年、郭逵が奏す。「蕃兵は必ず人を得てこれを統領せしむべし。もし専ら厳刑をもって迫れば、彼ら必ず山谷に散走し、正兵はかえってその弊を受くべし。六術を設けてこれを用うべし。遠斥候を曰い、地利を択ぶを曰い、その長ずる所に従うを曰い、その短き所を捨つるを曰い、その心を利に誘うを曰い、その力を戦に助くるを曰う。これ蕃兵を用いる法なり」と。詔してこれに従う。

原文二年,郭逵奏:“蕃兵必得人以統領之。若專迫以嚴刑,彼必散走山谷,正兵反受其弊。當設六術以用之:曰遠斥堠,曰擇地利,曰從其所長,曰舍其所短,曰利誘其心,曰戰助其力。此用蕃兵法也。”詔從之。

三年、宣撫使韓絳が言う。「親しく徳音を奉ずるに、蕃部の子孫で承襲する者は多く幼弱にして、衆を統べることができず、その族人の衆に信伏せられる者を選んで代わりにその事を領すべしと。聖算深遠にして、真に辺境を禦する要を得たり。諸路の帥臣に下して詔をもって事を行わしめんことを請う」と。

原文三年,宣撫使韓絳言:“親奉德音,以蕃部子孫承襲者多幼弱,不能統眾,宜選其族人為眾信伏者代領其事。聖算深遠,真得禦邊之要。請下諸路帥臣以詔從事。”

四年、詔す。「蕃官の殿侍・三班差使が職を補し、あるいは殿侍より差使に遷りて十二年を経、かつて巡検を充たし、あるいは本族の公事を管幹し、あるいは蕃官指揮となり、あるいはかつて守禦の任に備わった者は、総管司これを聞き、特に遷改を与えよ」と。

原文四年,詔:“蕃官殿侍、三班差使補職,或由殿侍遷差使及十二年,嚐充巡檢或管幹本族公事,或為蕃官指揮,或嚐備守禦之任者,總管司以聞,特與遷改。”

五年、王韶が沿辺の蕃部を招納し、洮・河・武勝軍より西、蘭州・馬銜山・洮・岷・宕・疊等州に至るまで、合わせて蕃官・首領九百三十二人を補し、首領に飧銭を給し、蕃官に俸給を与える者四百七十二人、月計の費銭四百八十余緡、正兵三万を得、族帳数千。

原文五年,王韶招納沿邊蕃部,自洮、河、武勝軍以西,至蘭州、馬銜山、洮、岷、宕、疊等州,凡補蕃官、首領九百三十二人,首領給飧錢、蕃官給奉者四百七十二人,月計費錢四百八十餘緡,得正兵三萬,族帳數千。

六年、帝輔臣に謂いて曰く。「洮西香子城の戦いにおいて、官軍功を貪り、巴氈角部の蕃兵を斬って首級に充てる者あり、人極めて嗟憤す。昔、李靖は漢蕃の兵を分けて各々一隊と為し、衆を紛乱に用いることなし」と。王安石進みて曰く。「李靖は素より蕃部を拊循する者にあらず、故にその兵を教うるは当にこの如くすべし。今、熙河の蕃部既に我が用いるところとなれば、則ち当に稍々漢法をもってこれを治め、久しくして漢兵と一の如くならしむべし。武王は微・盧・彭・濮の人を用い、ただ一法と為す。今、蕃兵をして稍々漢と同うせしめ、蕃賊と異ならしむべし。必ず先ずその豪傑を録用し、漸く以てこれを化すべし。これ夏をもって夷を変ずるの術なり」と。帝乃ち王韶に詔してその法を議わしむ。

原文六年,帝謂輔臣曰:“洮西香子城之戰,官軍貪功,有斬巴氈角部蕃兵以效級者,人極嗟憤。昔李靖分漢蕃兵各為一隊,無用眾於紛亂。”王安石進曰:“李靖非素拊循蕃部者也,故其教兵當如此。今熙河蕃部既為我用,則當稍以漢法治之,使久而與漢兵如一。武王用微、盧、彭、濮人,但為一法。今宜令蕃兵稍與漢同,與蕃賊異,必先錄用其豪傑,漸以化之。此用夏變夷之術也。”帝乃詔王韶議其法。

帝曰く。「岷・河の蕃部族帳甚だ衆し、もし撫禦ことごとくその用を得ば、坐して西夏を製すべく、またいわゆる蛮夷をもって蛮夷を攻むる者なり。陝西極塞にして、もし会合訓練し、兵を用うるの勢いを為して敵に愾せば、彼必ず随いて兵を聚めて我に応ずべし。頻年この如くすれば、自ら困弊を致す。兵法のいわゆる『佚よくこれを労す』なり」と。安石対えて曰く。「朝廷当に先ず勝ちがたきを為し、糧を聚め財を積み、兵を選ぶのみ。新附の羌には、厚く爵賞をもってし、その豪傑を収め、これに堅甲利兵を賜い、その気を激し、人々皆趨赴の志あるあらしめ、我が体強力充つを待ち、鼓行して西せば、将に不可なることなからん」と。馮京・王珪曰く。「もし聖策の如く、多方をもってこれを誤らしめ、彼既に点集に疲れ、我に攻取の実なきときは、久しければ必ず我に応ぜざるべし。これに因りて兵を挙ぐれば、無人の境を蹈むが若し」と。帝曰く。「これ正に晋人の呉を取るの策なり。夫れ四夷を経営せんと欲すれば、宜しくこれより先なることなかるべし」と。帝嘗て謂う。「蕃部未だ兵を用いたことなく、虚名をもって内附し、事に臨みて使うべからざるを恐る」と。安石対えて曰く。「剛克・柔克、用いる所宜しきあり。王韶は以て先ず恩信をもってその人を結納し、強梗にして服さざる者あれば、乃ち殺伐をもってこれに加うと為す。大抵蕃部の情は、西夏と中国の強弱を視て向背と為す。もし中国の形勢強ければ、中国に附するを利と為し、即ち殺伐を仮さずして、自ら堅く附すべし。況んや蕃部の俗は、既に貴種を宗とし、また強国に附す。今、木征の貴種等三人を用い、また稍々恩信をもって蕃部を収めれば、則ち中国の形勢愈よ強く、殺伐を仮さずして、附する蕃部自ら製使すべしを恐る」と。帝以て然りと為す。是の時、王韶熙河の地千二百里を拓き、三十余万口を招附す。安石奏して曰く。「今、三十万の衆を以て、漸く文法を推し、当に即ちその夷俗を変ずべし。然れども韶の募る勇敢の士九百余人、田百頃を耕し、坊三十余所。蕃部既に漢と為るを得て、その俗また土を賤しみ貨を貴ぶときは、漢人貨をもって蕃部と田を易するを得、蕃人貨を得て、両者その欲する所を得、田疇墾け、貨殖通じ、蕃漢一と為り、その勢い以て調禦し易し。韶に諸路の如く銭を以て助借し息を収め、また百余万緡を捐てて蕃部に馬を養わしめ、且つその人を什伍し、武藝をもって奨励し、その人民を富足ならしめ、士馬を強盛ならしめ、奮いてこれを用うれば、則ち向う所功あるべし。今、蕃部初附し、洪荒の人に如く、唯だ我が禦する所のみ」と。

原文帝曰:“岷、河蕃部族帳甚眾,儻撫禦鹹得其用,可以坐製西夏,亦所謂以蠻夷攻蠻夷者也。陝西極塞,儻會合訓練,為用兵之勢以愾敵人,彼必隨而聚兵以應我。頻年如此,自致困弊。兵法所謂‘佚能勞之’者也。”安石對曰:“ 朝廷當先為不可勝,聚糧積財,選兵而已。新附之羌,厚以爵賞,收其豪傑,賜之堅甲利兵,以激其氣,使人人皆有趨赴之誌,待我體強力充,鼓行而西,將無不可者。”馮京、王珪曰:“儻如聖策,多方以誤之,彼既疲於點集,而我無攻取之實,久之必不我應。因爾舉兵,若蹈無人之境矣。”帝曰:“此正晉人取吳之策也。夫欲經營四夷,宜無先於此矣。”帝嚐謂:“蕃部未嘗用兵,恐以虛名內附,臨事不可使。”安石對曰:“剛克柔克,所用有宜。王韶以為先以恩信結納其人,有強梗不服者,乃以殺伐加之。大抵蕃部之情,視西夏與中國強弱為向背。若中國形勢強,附中國為利,即不假殺伐,自當堅附。矧蕃部之俗,既宗貴種,又附強國,今用木征貴種等三人,又稍以恩信收蕃部,則中國形勢愈強,恐不假殺伐,而所附蕃部自可製使。”帝以為然。是時,王韶拓熙河地千二百里,招附三十餘萬口。安石奏曰:“今以三十萬之眾,漸推文法,當即變其夷俗。然韶所募勇敢士九百餘人,耕田百頃,坊三十餘所。蕃部既得為漢,而其俗又賤土貴貨,漢人得以貨與蕃部易田,蕃人得貨,兩得所欲,而田疇墾,貨殖通,蕃漢為一,其勢易以調禦。請令韶如諸路以錢借助收息,又捐百餘萬緡養馬於蕃部,且什伍其人,獎勸以武藝,使其人民富足,士馬強盛,奮而使之,則所向可以有功。今蕃部初附,如洪荒之人,唯我所禦而已。”

七年、韶言う。「河州の叛蕃を討平し、土を辟くこと甚だ広く、既に弓箭手を置き、またその余りの地をもって蕃兵弓箭手を募る。毎砦三指揮あるいは五指揮に至り、毎指揮二百五十人、人に田百畝を与え、次第の蕃官二百畝、大蕃官三百畝、仍て漢の弓箭手を募って隊長と為し、稍々衆しければ則ち将校を補し、及び蕃官とともに部族の事を主とす。その蕃弓箭手は並びに左耳に『蕃兵』の字を刺し、漢兵の盗み殺して首級に效うを防ぐ」と。詔してその請いの如くす。十一月、王中正熙河界の洮・河以西の蕃部を団結し、正兵三千八十六人、正・副隊将六十人、供贍一万五千四百三十人を得。

原文七年,韶言:“討平河州叛蕃,辟土甚廣,已置弓箭手,又以其餘地募蕃兵弓箭手,每砦三指揮或至五指揮,每指揮二百五十人,人給田百畝,以次蕃官二百畝,大蕃官三百畝,仍募漢弓箭手為隊長,稍眾則補將校,暨蕃官同主部族之事。其蕃弓箭手並刺‘蕃兵’字於左耳,以防漢兵之盜殺而效首者。”詔如其請。十一月,王中正團結熙河界洮、河以西蕃部,得正兵三千八十六人,正、副隊將六十人,供贍一萬五千四百三十人。

八年五月、詔して李承之に蕃兵法を参定せしむ。十一月、詔す。「陝西の蕃兵丁壮の戸を選び、九丁以上は五を取り、六は四を取り、五は三を取り、三は二を取り、二は一を取り、並びに年二十以上、手背に涅し、五丁を過ぐることなかれ。毎十人に十将一を置き、五十人に副兵馬使一を置き、百人に軍使一・副兵馬使一を置き、二百人に軍使一・副兵馬使三を置き、四百人に軍使一・副兵馬使一を加え、五百人にまた指揮使一・副兵馬使一を加え、五百人を過ぐれば、毎百人ごとに軍使一・副兵馬使一を加う。即ち一族三十人已上もまた副兵馬使一を置き、二十人に及ばざれば止めて十将を置く。月に俸を受け、仍て銭を増給し、指揮使一千五百より十将に至るまで差あり」と。

原文八年五月,詔李承之參定蕃兵法。十一月,詔:“選陝西蕃兵丁壯戶,九丁以上取五,六取四,五取三,三取二,二取一,並年二十以上,涅手背,毋過五丁。每十人置十將一,五十人置副兵馬使一,百人置軍使一、副兵馬使一,二百人置軍使一、副兵馬使三,四百人加軍使一、副兵馬使一,五百人又加指揮使一、副兵馬使一,過五百人,每百人加軍使一、副兵馬使一,即一族三十人已上亦置副兵馬使一,不及二十人止置十將。月受奉,仍增給錢,指揮使一千五百至十將有差。”

十年、枢密院が言うには、「陝西・河東において団結蕃部法を立てようと議し、願わくは上奏の如くにせんとす」と。上手詔して曰く、「夏人の恃み以て強国たる所以は、山界部落数万の衆のみ。その地誌を按ずるに、朝廷既にその半を有す。彼れこれを用うれば則ち小を併せ大を凌ぎ、向かうところ意の如し。我に在りては則ち徒らに含撫豢養する能く、未だ嘗てその死力を得ず。豈に用うる能わざるのみならん、又その患いを為さんことを恐る。故に小に悖戾有れば、有司惟だ利を以て説き解く能く、上下相習い畏憚し、その縦散に任せ、久しく部勒を失う。その近降の法は、固より未だ必ず行わるるを信ずべからず。然れども理を以てこれを言えば、彼此均しくその人を有し、而して利害遼遠なり。今苟くも辺人に循い、衆その説を知り、旧法に止まり聊か一二を改むるに過ぎざれば、則ち功を収むるも疑わしく亦た往日と異ならじ。徒らに紛紛たるのみ、事に補う無し。再び呂恵卿に下し参詳して以て聞かしむべし」。

原文十年,樞密院言:“陝西、河東議立團結蕃部法,欲如所奏。”上手詔曰:“夏人所恃以強國者,山界部落數萬之眾爾。按其地誌,朝廷已據有其半。彼用之則並小淩大,所向如欲。在我則徒能含撫豢養,未嘗得其死力,豈惟不能用之,又恐其為患也。故小有悖戾,有司惟能以利說解之,上下相習畏憚,任其縱散,久失部勒。其近降之法,固未可信其必行,然以理言之,彼此均有其人,而利害遼遠。今苟循邊人,眾知其說,止於舊法聊改一二,則收功疑亦不異往日。徒為紛紛,無補於事。可再下呂惠卿參詳以聞。”

元豊六年、詔して曰く、「蕃官は大使に至ると雖も、猶お漢官の小使臣の下に処す。朝廷功を賞し秩を増し、以て激勧と為す。乃ち爾く卑抑すれば、則ち孰れか遷官の栄を知らん。宜しく蕃漢官の序位を定むべし」。後に河東経略司言う、「蕃官部堡塞の兵を出して戦うに、嘗て漢官を以て駆策す。恐らくは漢官と序位すべからず」。而して兵部は蕃漢統轄せざる者をして乃ち官を序せしむべしと請い、奏聞可とす。熙河蘭会路経略製置使李憲言う、「蕃兵を治め、将領を置くは、法は簡にして行い易く、詳にして犯し難きを貴ぶ。臣今蕃情を酌み法を立て、凡そ熙河蘭会五郡、各都同総領蕃兵将二人を置く。本州諸部族の出戦する蕃兵及び供贍人馬は各管押蕃兵使臣十人を置く。五郡の蕃兵自ら一将を為し、出戦すれば則ち正兵を以てこれに継ぎ、旗幟同色。蕃兵は技芸功労を以て第して四等と為し、蕃官首領の推遷もまたこれに如し」。八月、憲また言う、「漢蕃兵騎雑えて一軍と為し、言語通ぜず、居処飲食悉く便利ならず。昔李靖蕃落を以て自ら一法を為す。臣近く蕃兵を以て自ら一将を為し、漢・蕃を厘して両軍と為し、相参して号令し、軍事惟だこれを使わしむるに任す」。

原文元豐六年,詔:“蕃官雖至大使,猶處漢官小使臣之下。朝廷賞功增秩,以為激勸,乃爾卑抑,則孰知遷官之榮?宜定蕃漢官序位。”後河東經略司言:“蕃官部堡塞兵出戰,嚐以漢官驅策,恐不當與漢官序位。 ”而兵部請蕃漢非統轄者乃令序官,奏可。熙河蘭會路經略製置使李憲言:“治蕃兵,置將領,法貴簡而易行,詳而難犯。臣今酌蕃情立法,凡熙河蘭會五郡,各置都同總領蕃兵將二人;本州諸部族出戰,蕃兵及供贍人馬各置管押蕃兵使臣十人。五郡蕃兵自為一將,出戰則以正兵繼之,旗幟同色。蕃兵以技藝功勞第為四等,蕃官首領推遷如之。”八月,憲又言:“漢蕃兵騎雜為一軍,語言不通,居處飲食悉不便利。昔李靖以蕃落自為一法,臣近以蕃兵自為一將,厘漢、蕃為兩軍,相參號令,軍事惟所使焉。”

七年、瀘南縁辺安撫司言う、「羅始党生界八姓、各七姓・十九姓に依り刺して義軍に充てんことを願い、団結して三十一指揮と為し、凡そ一万五千六百六十人」。これを従う。

原文七年,瀘南緣邊安撫司言:“羅始黨生界八姓,各願依七姓、十九姓刺充義軍,團結為三十一指揮,凡一萬五千六百六十人。”從之。

元祐元年、臣僚言う、「涇原路蕃兵人馬凡そ衆し、敵に臨むに正兵と錯雑し、便ならず」。詔してその章を四路都総管に下し詳議せしむ。環慶範純粹言う、「漢・蕃兵馬誠に雑用すべからず。宜しく逐将に於いて各廉勇蕃情に暁る者一員を選び専ら蕃将に充て、平素に鈐束訓練せしめ、調発有るに遇えば、即ち部領せしめて便ならしむべし」。また言う、「頃に兵部議い、蕃・漢官相統轄せざる者は、並びに官序に依り相圧すべしと乞う。その城砦等の蕃官を管轄する者は、即ち旧に依り本轄漢官の下に在らしむ。詔してその請いを従う。且つ諸路の蕃官は、官職の高卑を問わず、例として漢官の下に在り。以て中国を尊び、遠人を制する所以なり。行うこと既に久しく、忽然として更に制し、便ち相統轄せざるの官と品序に依り位す。即ち辺上の使臣及び京職官、当に蕃官の下に在るべきこと十に八九、人情の能く堪うる所に非ず。蕃部凶驕なり、豈に輒りて啓くべけんや。宜しく悉く旧制に依り、並びに漢官の下に序すべし」。これを従う。

原文元祐元年,臣僚言:“涇原路蕃兵人馬凡眾,遇臨敵與正兵錯雜,非便。”詔下其章四路都總管詳議,環慶範純粹言:“漢、蕃兵馬誠不可雜用,宜於逐將各選廉勇曉蕃情者一員專充蕃將,令於平日鈐束訓練,遇有調發,即令部領為便。”又言:“頃兵部議乞蕃、漢官非相統轄者,並依官序相壓;其城砦等管轄蕃官,即依舊在本轄漢官之下。詔從其請。且諸路蕃官,不問官職高卑,例在漢官之下,所以尊中國,製遠人也。行之既久,忽然更製,便與不相統轄之官依品序位,即邊上使臣及京職官當在蕃官之下十有八九,非人情所能堪。蕃部凶驕,豈可輒啟?宜悉依舊制,並序漢官之下。”從之。

元符二年三月、涇原経略司言う、「東西路蕃兵将を廃罷し、仍び順便城砦に於いて逐将の隷属に属し統領せしめ、漢兵と相兼ね差使せしめんことを乞う」。秦鳳路もまたこれに如し。四月、環慶路経略安撫司言う、「新たに築く定辺城に西夏より来投する蕃部甚だ衆し。願わくは今より将に帰順の人を、新城に就き収管し田を与え、仍び総領蕃兵正・副二員を選置せんことを乞う」。これを従う。

原文元符二年三月,涇原經略司言:“乞將東西路蕃兵將廢罷,仍於順便城砦隸屬逐將統領,與漢兵相兼差使。”秦鳳路如之。四月,環慶路經略安撫司言:“新築定邊城有西夏來投蕃部甚眾,欲自今將歸順之人,就新城收管給田,仍乞選置總領蕃兵正、副二員。”從之。