宋史

志第一百四十四 兵五

◎兵五(郷兵二)

○河北・河東・陝西義勇、陝西護塞、川峡土丁、荊湖義軍土丁弩手、夔・施・黔・思等処義軍土丁、広南西路土丁、広南東路槍手、邕・欽溪洞壮丁、福建路槍仗手、江南西路槍仗手、蕃兵

河北・河東・陝西義勇。慶暦二年、河北・河東の強壮を選び、併せて民丁を徴発し手の甲に墨を入れてこれを作る。戸の三等以上の者は弩一つを備え、税銭二千に相当し、三等以下の者は官が給する。各々その州に駐屯し、年に二回に分けて訓練し、上番には俸禄と食糧を給し、犯罪の処断は廂軍に比し、下番は強壮に比する。

治平元年、詔して陝西は商・虢の二州を除き、残りは悉く義勇に籍する。凡そ主戸で三丁の者は一丁を選び、六丁は二丁を選び、九丁は三丁を選び、年齢二十から三十で材力勇気ある者を充て、手の甲に墨を入れるのみとする。五百人を以て指揮と為し、指揮使・副使各二人、正都頭三人、十将・虞候・承局・押官各五人を置く。年々十月に番上し、一ヶ月閲兵教練して罷める。また詔して秦州成紀等六県に、税戸弓箭手・砦戸及び四路で正規に保毅を充てる者あり、家に六丁あれば一丁を刺し、九丁あれば二丁を刺す。保毅の田を買って名額を承ける者あり、三丁あれば一丁を刺し、六丁あれば二丁を刺し、九丁あれば三丁を刺し、悉く以て義勇と為す。この年、詔して秦・隴・儀・渭・涇・原・邠・寧・環・慶・鄜・延の十二州の義勇は、召集防守に遇えば、日に米二升を給し、月に醤菜銭三百を給す。蓋し慶暦の初め、河北路は総計十八万九千三十一人、河東路は総計七万七千七十九人、陝西路は治平初めに総計十五万六千八百七十三人。

熙寧初め、枢密使呂公弼が請う、河北義勇を以て毎指揮ごとに少壮で技芸精熟なる者百人を選び上等と為し、手の甲に「上等」の字を添えて刺し、区別して教練し、及び定数外で技芸優れた者もまたこれに籍し、欠員あれば補う。これに従う。十二月、詔して河北義勇は、県では年に一度閲兵すべし。州において閲兵すべき者は、宜しく番を分かち、年ごとに一番とすべし。災害損傷で中止すべき者は詔旨を聴く。指揮を以て番を分かつ者は、大名府五十三指揮を四番と為し、真定・瀛・洺・邢・滄・定・冀・恩・趙・深・磁・相・博は三十九より十二まで並びに三番と為し、徳・祁・澶・棣・・濱・永静・永寧・懷・衛・乾寧・莫・保・通利は十一より四まで並びに二番と為す。九指揮以上の者は更に本番を三に分かち、教練は十月に始まり、十二月に止む。六指揮以上の者は更に本番を二に分かち、教練は十月に始まり、十一月に止み、満一月に終えて罷め遣わす。

帝嘗て陳升之に問うて曰く、「侯叔獻が言う義勇の上番は如何か」と。王安石曰く、「この事は為すべしと似たり、但し少し歳月を待ってこれを議すべし」と。升之曰く、「今募兵は未だ已まず、且つ上番義勇を養えば、則ち調度は特に容易ならず」と。安石曰く、「募兵の害を言うこと多くと雖も、用いるに及べば患少なし、民と兵を以て両途と為すが故なり」と。十二月、帝言う、「義勇は四番に分かち出戍せしむべし」と。呂公弼曰く、「須らく先ず募兵を省くを得て、乃ちこれを議すべし」と。安石曰く、「毎年募兵の死亡の数を計り、乃ち義勇を以てこれを補うべし」と。陳升之は義勇を以て漸次近州に戍らしめんと欲す。安石曰く、「陛下若し数百年の募兵の弊を変えんと欲せば、則ち宜しく果断にし、詳細に法制を立てるべし。然らずんば、補うこと無し」と。帝然りと為し、曰く、「須らく予め条法を定立し、宣布せず、以て漸次に推行すべし」と。両府、上番を議す。或いは一月と為すべしとし、或いは一季と為すべしとし、且つ近くに戍らしめんとす。文彦博等また言う、遠く戍らしむるは難しと。安石これを弁じ甚だ力めり。

この月、兵部が陝西・河北・河東の義勇の数を上奏す。陝西路二十六郡、旧籍十五万三千四百、環・慶・延州の保毅・弓箭手三千八百を加え、総計十五万六千八百、指揮三百二十一と為す。河北三十三郡、旧籍十八万九千二百、今籍十八万六千四百、指揮四百三十と為す。而して河東二十郡、慶暦以後総計七万七千、指揮一百五十九と為す。凡そ三路の義勇の兵、総計四十二万三千五百人。

三年七月、王安石が進めて蔡挺の義勇を五番に分けて教練せんことを乞う事を呈す。帝は密院が措置を肯んぜざるを患う。安石曰く、「陛下誠に行わんと欲せば、則ち孰か能く禦がん。此れ陛下に在り」と。涇・渭・儀・原の四州義勇一万五千人、旧は止むに戍守のみ。経略使蔡挺始めて令す、上番に遇えば諸軍に依り隊を結び、諸将に分属す。技芸精なる者を選び遷補し、官馬を給し、月廩・時帛・郊賞は正兵と同じくし、遂に正兵と相参して戦守す。時に土兵に欠員あり、三千人を召募す。挺奏す、義勇は点刺累年、訓肄を時に以てすと雖も、未だ征防に施さず。意、府兵の遺法に案ずべく、これに番戍せしめ、以て土兵の欠員を補うべしと。詔して復た措置の遠近番の法を問う。挺即ち条上す、四州の義勇を五番に分かち、一番三千人、防秋は八月十五日に上り、十月に罷む。防春は正月十五日に上り、三月に罷む。周りて復た始む。詔してこれに従い、諸路に行う。九月、秦鳳経略安撫司言う、「保毅の人数は未だ義勇に揀充せず、而してその子孫田土を転易し、煙を分かち姓を析き、正身少なし。乞う、保毅軍既に丁数内に揀刺して義勇に充てる者は、保毅を承認することを免ぜしめん」と。これに従う。十月、韓絳が著作佐郎呂大忠等を差し宣撫司に赴かせ、以て義勇を提挙する備えとせんことを乞う。これに従う。この月、韓絳言う、「今義勇を七路に分かつ。延・丹・坊を一路と為し、邠・寧・環・慶を一路と為し、涇・原・儀・渭を一路と為し、秦・隴を一路と為し、陝・解・同・河中府を一路と為し、階・成・鳳州・鳳翔府を一路と為し、乾・耀・華・永興軍を一路と為す。逐年に一州の数を四番に分かち、縁辺の四路十四州は、毎年秋冬に一番を用いて屯戍すべし。近裏の三路十二州軍は、即ちこれに依り番次を定立し、未だ逐年に差発せず、本処に正兵の欠少あるに遇えば、即ち勾抽し或いは次辺に那往して守戍すべし」と。これに従う。十一月、判延州郭逵言う、「陝西が義勇を起発して縁辺に赴き戦守せしむるは、今後並びに自ら一月の糗糧を齎し、本戸の税賦を折当すべし。若し自ら備え能わざれば、則ち発する所の州軍に就き口食を一月預請すべし」と。これに従う。

十二月、司馬光上疏して曰く。

臣は不才をもって、長安ちょうあん一路十州の兵民の大柄を兼ねて領す。官に到りて以来、朝廷及び宣撫等司の指揮を伏して見るに、義勇を四番に分かち、以て順次に縁辺に戍守せしめんと欲し、諸軍のぎょう鋭を選び及び閭裏の悪少を募りて奇兵と為し、乾糧・炒飯・布嚢・力車を造りて饋運に備え、歳賜趙秉常の物を悉く取りて縁辺諸路に散給し、又内の府庫の甲兵財物を竭して以て之を助く。且つ永興一路を以て之を言へば、発する所の人馬、甲八千副、銭九万貫、銀二万三千両、銀碗六千枚、其の余の細瑣の物、勝げて数ふべからず。動くこと皆軍期を以て迫り、上下相駆り、星火よりも急なり。官吏狼狽し、下民驚疑し、皆云く国家将に来春大いに六師を挙げ、長駆深入し、以て秉常の罪を討たんとすと。

臣は疏賤にして、廟堂の議に預り聞くことを得ず、未だ茲の事の虚実を知らず。昨者親しく徳音を承るに、以て方今の辺計は、惟だ謹厳に守備を宜しくすべしと為す。其の入寇するは則ち壁を堅くし野を清くし、之をして来りて得る所無からしめ、兵疲れ食尽きて、坐して其の弊を収むるを得べしと。臣退きて思念す、聖謀高遠にして、深く王者の遠人を懐柔する道を得、実に天下の福なり。関中に到りて、乃ち見るに凡そ百の処置、皆出征の調度と為す。臣知らず、有司の外に在りて、聖意を諭せず、以て此の張皇有らしむるに至るか、将に陛下の神算を黙運して愚賤の臣に其の実を聞かしめざらんとするかと。臣勝へて惶惑せず、窃かに陛下の為に之を危ぶむ。況んや関中饑饉、十室九空、賊盗と為る者紛紛として已に多し。県官倉庫の積、余る所幾ばくも無し、乃ち大衆を軽動し、横に猛獣を挑まんと欲す、此れ臣の大いに懼るる所なり。

伏して望む、陛下深く安危の機を鑒み、之を未萌に消し、之を未形に杜かんことを。速やかに明詔を下し関中の民を撫諭して朝廷出征の計と為さざるを以てし、其の義勇更に番を分かち縁辺に戍守せしめず、亦奇兵を選募せず。凡そ諸の調発饋運の具と為す者は悉く停罷せしめ、内の倉庫の儲を愛惜し、以て春深く饑窮の人を賙救するに備へんことを。此くの如くせば、豈に生民の幸のみならん、亦社稷の福なり。惟ふらくは陛下裁察せられんことを。

再び之を言ふこと甚だ力あり、是に於て永興一路独り免るるを得たり。

四年、詔して陝西路義勇の差役を罷む。又詔して陝西諸路提挙義勇官を罷め、本属の州県に委ねて旧に依り番を分かち教閲せしむ。

五年七月、崇文院校書王安礼に命じ専一に三路義勇の条貫を編修せしむ。是の月、帝王安石に義勇の事如何と問ふ、安石曰く「宜しく先づ河東一路を了すべし。河東の旧制、每年一月を教ふ、今上番巡検に下半月或は十日を令す、人情悦ばざる無し。又東兵万人の費する所の銭糧を以て、且つ半ば或は三分の二を取り、保甲に依り其の人を養恤せば、即ち人情忻願せざる無き者なり」と。閏七月、執政同じく進めて河東保甲の事を呈す、枢密院但だ義勇・強壮と為さんと欲し、別に保甲と名づけず。王安石曰く「此れ王安礼の初議に非ざるなり」と。帝曰く「今三丁を以て義勇と為し、両丁を強壮と為し、三丁は遠戍し、両丁は本州県巡検に上番す、此れ即ち王安礼の奏する所なり、但だ保丁を易て強壮と為す。人強壮に習ふこと久し、別に名づくるは或は不安を致すを恐るるなり」と。安石曰く「義勇は単丁に非ざれば替へず、強壮は則ち皆第五等戸之を為す。又自ら弓弩及び箭を置き官庫に寄せ、須らく上教して乃ち給す。今府界保甲法を以て之を河東に推すは、蓋し之を寛利するなり、之を苦しむるに非ざるなり」と。帝曰く「河東の義勇・強壮、已に次第を成す。今官を遣はし義勇強壮法を修め、又別に人をして保甲を団集せしめんと欲す、如何」と。安石曰く「義勇は丁数を見んと要すれば、即ち須らく隠括すべし、団集保甲に因りて、即ち一動にして両業就く。今既に官を差し義勇を隠括し、又別に官を差し保甲を団集せば、即ち一事を分かちて両事と為し、民擾るる無からざるを恐る」と。帝遂に安石の議に従ふ。彦博請ふ、安石をして中書に就き一面に此の事を施行せしめんと。安石曰く「本保甲の為なり、故に中書預り議す。若し止だ義勇・強壮を作らんと欲するのみならば、即ち合は枢密院をして旨を取り施行せしむべし」と。帝曰く「此れ大事なり、須らく共に議して乃ち可なり」と。是の月、秦鳳路経略呂公弼乞ふ、本司より官を選差し、十月の初より、諸州上番の義勇材武なる者を択みて以て「上義勇」と為し、芻糧を齎送するの役を免ぜんことを。馬を養ふ者を募りて「有馬上義勇」と為し、並びに其の本戸の支移を免ず。之に従ふ。

六年九月、詔す義勇の人員・節級の名闕は、須らく教閲排連に因りて遷補すべし。十月、熙河路経略司言ふ:人を許し義勇に投換せしめ、地を以て之に給し、税額を起立せんことを乞ふ。詔して官地を以て弓箭手を招き、仍近裏の百姓壮勇なる者に占射を許し、内の地に依りて税を起し、保甲を排す;即ち義勇願ひ投充する及び民戸蕃部の地を受くことを願ふ者は之を聴す。其の頃畝は経略司をして肥瘠を以て数を定めしむ。十一月、詔す永興軍・河中府・陝・解・同・華・鄜・延・丹・坊・邠・寧・環・慶・耀の十五州軍は各元に刺したる義勇に依る外、商・虢州・保安軍は並びに止だ保甲を団成す。七年、詔す義勇の正身は応募充刺を許さず、已に応募する者は人を召し対替せしむ。

八年四月、韓琦等に詔して曰く「河朔の義勇民兵、之を置くこと歳久しく、耳目已に熟し、将校甚だ整ひ、教習亦良し。然るに保甲を団結するに、一道紛然たり。義勇の旧人十に其の七を去り、或は保甲に撥入し、或は放ちて農に帰し、数増すの虚名を得て、用ふべき成法を破り、此れ又徒らに契丹の疑ひを起すなり」と。七月、詔す応に義勇家人の軍に投じたる後、本戸の余丁数少なく、合は義勇を免ずべく、並びに軍に投ずるを許す。十月、詔す「五路の義勇は每年州に赴きて教へ、保甲は県に赴きて教ふ、並びに十月より次年正月の終に至る。義勇十指揮に及ばず、保甲十都に及ばざる者は、十二月より教を起し、各人数に拠り番次を分定し、一月を教閲し、指揮・都保を拆破するを許さず。其の人数の少き処は、隻だ一番・両番と作り、須らく教ふる所の月分を満すに及ばず。其の年已に上番する者は、半月を止めて教ふ」と。十二月、詔す五路の義勇は並びに保丁と輪充し及び盗賊を検察せしめ、違犯有らば、保丁法に依る。

九年正月、詔して義勇・保甲は逐年閲日の際に習得した武芸を比試せしめ、五路は毎州二十分を率として一を取るべし、五等に分ち、第一等は解発すべしとす。四月、詔す、「河北西路の義勇・保甲は三十六番に分ち、便近の村分に随い、巡検・県尉の下に上番し、半月ごとに交替せしむ。歳に農閑月には、下番人を併せて所轄の巡検・県尉に令し、広闊なる処を択びて五日間聚教せしむ」と。是月、兵部言う、「旧条に、義勇・保甲の習う事芸は十分を率とし、弓は二分を過ぐべからず、槍刀は共に二分を過ぐべからず、余は並びに弓弩を習うとす」と。詔して槍手は旧に依り専ら習う外、刀牌手は兼ねて弓弩を習わしめ、仍って様を頒ち五路に施行せしむ。九月、詔して永興・秦鳳等路の義勇は、主戸三丁以上を以て充て、戸等に拘わらずとす。是年、諸路の管する義勇は、河北東路三万六千二百十八人、河北西路四万五千七百六十六人、永興軍路八万七千九百七十八人、秦鳳路三万九千九百八十人、河東路三千五百九十五人、総計二十四万七千五百三十七人。

元豊二年、中書・枢密院、河北・陝西の義勇・保甲は皆諸軍の教閲法の如く誦せしむべしと請う。之に従う。三年、詔して五路の転運・提挙官は巡歴の至る所に於いて、見教の義勇・保甲を按閲し、法に如かざる者は、提点刑獄司に牒して施行せしむ。四年、蒲宗孟言う、開封府・五路の義勇を併せて保甲に改むるを乞うと。此より以て次第に諸路に行わる。(此後義勇は義勇保甲と改め、『保甲篇』に載す。)

陝西護塞、慶暦元年、土人にして山川道路蕃情に熟し、騎射に善き者を募り臂に涅して充てる。二百人を指揮と為し、自ら戎械を備え、郷閭に就き武技を習い、季ごとに州に集まり閲教す。事無き時は営農に放ち、月に塩茗を給す。警有れば召集して防守に当たらしめ、即ち之に廩給し、本路を出でず。

川峡土丁、熙寧七年、瀘州夷事を経制する熊本、土丁五千人を募り、夷界に入り水路大小四十六村を捕戮し、其の地二百四十里を蕩平し、民を募り墾耕せしめ、其の夷属を聯ねて保甲と為す。元祐二年、瀘南沿辺安撫使司言う、「請う、応に瀘人辺事に因り班行を補授せられ、自ら土丁子弟を備え本家地分に在り防拓する者は、更に廩給酬賞無し。若し賊に遇わば、臨時に旨を取る。其れ敢えて功を邀え事を生ずるは、重ねて法に置く」と。之に従う。

政和六年、瀘南安撫使孫羲叟奏す、「辺民法を冒し夷人の田を買う、法に依り尽く官に拘入し、土丁子弟を招置す。見招到する二千四百余人有り、番上せしめんと欲す」と。之に従う。

宣和四年、詔す、「茂州・石泉軍旧に管する土丁子弟は、番上して守把すれども、射芸に諳ぜず。其れ施・黔の兵に善射の者各五十人を選び、分かち教習せしめ、精熟の日に候い回遣すべし」と。

荊湖路義軍土丁・弩手は創置の始を見ず、北路は辰・澧二州、南路は全・邵・道・永四州に皆置く。蓋し溪洞諸蛮は、岩険を保拠し、叛服常ならず、其の制控は土人を須う故に是の軍を置く。皆戸籍より選び、徭賦を蠲免し、番戍して砦柵に当たる。大率其の風土に安んずれば、則ち瘴毒に嬰る罕なり。其の区落を知れば、則ち狡獪を制す可し。其の校長には則ち都指揮使・副都指揮使・指揮使・副指揮使・都頭・副都頭・軍頭・頭首・采斫招安頭首・十将・節級有り、皆功を叙し遷補し、相綜領せしむ。之を西南に施すは、実に王師に代わり、禦侮の備有りて、饋餉の労無し。其の後、荊南・帰・陝・鼎・郴・衡・桂陽も亦置く。

慶暦二年、北路総計一万九千四百人、南路総計五千百五十人。諸砦に番戍し、或いは歳を以てし、或いは季を以てし、或いは月を以てす。上番人は口糧を給し、功有れば遷補す。都副指揮使より歳に綿袍を給し、月に食錢を給し、指揮使は食錢を給し、副指揮使は紫大綾綿袍を給し、都頭已上は率ね廩給有り。

熙寧元年、荊湖南・北路の義軍凡そ一万五千人を籍し、軍政は旧制の如し。六年、諸路保甲を行い、司農寺、全・邵二州の土丁・弩手・弩団を令し本村土人と共に保甲を為さしめ、正・副指揮使を以て兼ねて都副保正に充て、都頭・将虞候・頭首・都甲頭を以て兼ねて保長に充て、左右節級・甲頭を以て兼ねて小保長に充てんことを請う。番上する時は則ち本鋪の土丁・弩手・弩団等同じく一保と為し、其の山嶺を隔て五大保に及ばざる者も亦各都保正一人を置く。

元祐七年、邵州邵陽・武崗・新化等県の中等以下戸を選差し土丁・弩手に充て、科役を免じ、七年ごとに替えしむ。将級を排補するは、替放の年に拘わらず、両番に分ち辺砦を防拓せしめ、人を募るを得ず。凡そ上番するは、禁軍の例に依り武芸を教閲し及び専ら木弩を習わしむ。若し私役有らば、並びに『私役禁軍勅』の如く論ず。

紹聖二年、枢密院言う、「荊湖南路安撫・転運・提刑・常平司奏請す、邵州管下の縁辺堡砦に弩手一千四百人を置き、元豊六年の詔に依り、五等戸に輪差し、併せて半年ごとに替えんことを乞う。其の上番人に若し故有らば、家人の少壮にして武芸有る者を許して代充せしむ」と。之に従う。

崇寧二年、荊湖南路安撫・鈐轄李閎言う、「綏寧県上堡裏・臨口砦を収復し、防拓弩手千人を用うるに合い、邵州邵陽・武岡両県の中等以下戸より選差し、半年ごとに替えしめんことを乞う。上番に遇わば、月に錢米を支給す。階級を排補するは、正副使より下り左右甲頭に至るまで、旧に依り七階と為す。両番に分ち部轄し、邵州に令して帖を給せしむ」と。之に従う。

政和七年、辰・沅・澧等州の更戍土丁と営田土丁と名称重畳するを以て、兵馬都鈐轄司の招填する土丁を改めて鼎・澧路営田刀弩手と為す。

重和元年、辰州招到の刀弩手二千百人、其の官吏各転官し、磨勘年を減ずること差有り。宣和四年、靖州通道県に辺警有り、詔して刀弩手二千人を添置す。

夔州路義軍土丁・壮丁は州県の籍する税戸を以て充て、或いは溪洞より帰投す。辺砦に分隸し、山川道路に習い、蛮の寇入するに遇えば、使を遣わし襲討せしめ、官軍は但だ険に拠りて之に策応す。其の校長の名は、州県に随い補置し、所在一ならず。職級已上は、冬に綿袍を賜い、月に食塩・米麥・鐵錢を給す。其次は紫綾綿袍を給し、月に塩米を給す。其次は月に米鹽を給するのみ。功有る者は次を以て遷す。

施州・黔州・思州の三州の義軍土丁は、総じて都巡検司に隷属す。施州の諸砦には義軍指揮使・把截将・砦将あり、併せて土丁総計一千二百八十一人、壮丁六百六十九人。また西路巡防殿侍兼義軍都指揮使・指揮使・都頭・十将・押番・砦将あり。黔州の諸砦には義軍正副指揮使・兵馬使・都頭・砦将・把截将あり、併せて壮丁総計千六百二十五人。思州・洪杜・彭水県には義軍指揮使・巡検将・砦将・科理・旁頭・把截・部轄将あり、併せて壮丁総計千四百二十二人。

渝州の懐化軍。溱州の江津巴県の巡遏将は、皆州県が調補す。その戸下には率ね子弟・客丁あり、寇警あるに遇えば、一切主戸に責めてこれを弁ぜしむ。巡遏・把截将は歳ごとに料塩・襖子を支給すれども、須らく三年その地内に寇警無きを以て初めて給し、労ある者はこれを増す。州県は土丁子弟並びに器械の数を籍に載せ、分地して戍守せしむ。

嘉祐年中、涪州賓化県の夷人を補して義軍正都頭・副都頭・把截将・十将・小節級と為し、月ごとに塩を給し、功ある者は次第に遷し、及び三年夷賊の警擾無きに至れば、即ち正副都頭に紫小綾綿旋襴一を給す。涪陵・武龍の二県の巡遏将は、砦ごとに一人、物力戸を以て充て、その役を免ず。その義軍土丁は、歳ごとに籍を枢密院に上る。

広南西路の土丁は嘉祐七年、税戸の常役に応ずる外、五丁ごとに一点してこれを為す。凡そ三万九千八百人を得。隊伍行陣を分ち、槍・鏢排を習わしめ、冬初に州に集めて按閲す。後に歳を遞るごとに州県迭りに教え、兵械を察視す。収刈を防ぐため、十一月に教えを改め用い、一月に罷む。

熙寧七年、桂州知事劉彝言う、「旧制、宜・融・桂・邕・欽の五郡の土丁は、成丁已上の者を皆これに籍す。既に蛮徼に接し、自ら寇掠を懼れ、守禦応援、駆策を待たず。而るに近制は主戸自第四等以上より、三つに取りて一を以て土丁と為す。而して旁塞は多く四等以上に非ず、若し三丁ごとに一を籍すれば、則ち旧丁の十の七を減ず。余りの三分を以て保丁と為し、保丁は多く内地に処り、又その益々武事に習うを俟ちて、則ち当に土丁の籍を蠲すべし。辺備に闕あるを恐れ、旧制の如くにせんことを請う」と。奏聞して可とす。

元豊六年、広西経略使熊本言う、「宜州の土丁七千余人は、緩急に用いる可し。所属に令して編排せしめ、都分に分ち作り、防盜を除く外、縁辺に警あれば、会合掩捕を聴すべし」と。これに従う。

元符二年、広西察訪司言う、「桂・宜・融等は土丁を用いて縁辺を防拓すれども、差及び単丁、両丁以上の家を差すことを乞う」と。これに従う。

広南東路の槍手は嘉祐六年、広・恵・梅・潮・循の五州は戸籍を以て置き、三等已上は身役を免じ、四等以下は戸役を免じ、歳ごとに十月一日に県に集めて閲教す。治平元年、詔して所在の官を遣わして按閲せしめ、一月に罷め、闕あれば即ち招補し、足らざれば本郷の武技ある者を選びて充てしむ。

熙寧元年、詔して広州の槍手の十の三に弓弩手を教えしむ。是の歳、六郡の槍手を会し、指揮四十一と為し、総計一万四千七百有奇。三年、広州知事王靖言う、「東路の槍手は、至和初より土丁の額と為して立てられ、農隙に一月肄業す、乃ち古の兵を農に寓するの策なり。然れども訓練勧獎の制未だ備わらず、三路の義勇軍政教法に比して条上し約束せんことを請う」と。四年、封州知事鄧中立、本路の未だ槍手を置かざる州県を以て、広・恵等五郡の例の如く置かんことを請う。奏聞して可とす。六年、広東駐泊の楊従先言う、「本路の槍手一万四千、今保甲と為し、両丁ごとに一を取りて得る丁二十五万、三丁ごとに一を取りて得る丁十三万。少なく計るも、猶お槍手の十倍なり。路分都監二員を委ね、分かち提挙して教閲せしめんことを願う」と。詔して司農寺に法を定めて聞かしむ。其の後、戸四等以上に、三丁ある者は一を以てこれと為し、毎百人を一都と為し、五都を一指揮と為す。十一月より二月に至るまで、月ごとに一番を輪して閲習し、凡そ三日ごとに一試し、その技優れる者を択びて先にこれを遣わす。七年、詔して広南東西路の旧槍手・土丁戸は河北・陝西の義勇法に依り、三丁ごとに一を選び、余りの州に槍手・土丁無き者は置かず。九年、兵部言う、「広・恵・循・潮・南恩の五郡の槍手は、主戸第四等以上の壮丁を籍し、旧額一万四千を過ぐること無く、余りを以て保甲と為さんことを請う」と。奏聞して可とす。

元豊二年、詔す:広・恵・潮・封・康・端・南恩の七州は皆並びて辺に接し、外は蛮徼に接す、西路の保甲の武芸を教習するに依るべし。時に又詔して虔州の槍仗手は千五百を以て、撫州・建昌軍の郷丁・関軍・槍仗手は各千七百を以て額と為す。監司は農隙を以て武芸を按閲し、広東の制の如くす。

邕州・欽州の溪洞壮丁は治平二年、広南西路安撫司は左・右両江の四十五溪洞の知州・洞将を集め、各隣を占めて迭りに救応せしめ、仍って壮丁を籍し、校長を補し、旗号を給す。峒は三十人を以て一甲と為し、節級を置き、五甲に都頭を置き、十甲に指揮使を置き、五十甲に都指揮使を置き、総計四万四千五百人を以て定額と為す。各戎械を置き、寇警あるに遇えばこれを召集し、二年ごとに一閲し、戎械を察視す。老病並びに物故の名闕あれば、少壮の者を選びて填め、三歳ごとに一上す。

熙寧中、王安石言う、「募兵は未だ全く罷む可からず、民兵は則ち漸く復す可し、二広に至りては、尤も緩にす可からず。今中国は禁軍を募りて往きて南方に戍せしむるに多く死す、仁政に害あり。陛下誠に軍職の得る所の官の十二三を移し、百姓豪傑を鼓舞して、趨りて兵と為らしめば、則ち事甚だ易く成るべし」と。ここにおいて、蘇緘は二広の洞丁を訓練せんことを請う。旧制、一歳に両月を教う。安石曰く、「訓練の法は、当にその人を什伍し、その材武の士を抜きて什百の長と為すべし。首領以下より、各禄利を以て勧獎し、自ら閲習に勤まらしめば、即ち事芸成り、部分立ち、緩急用いる可し」と。六年、広南西路経略の沈起言う、「邕州五十一郡峒の丁は、凡そ四万五千二百。保甲を行い、戎械を給し、陣隊を教えんことを請う。芸衆に出す者は、府界に依り推恩して補授す」と。奏聞して可とす。

九年、趙禼が交阯を征討するにあたり、入朝して辞儀を述べた。帝は「峒丁を用いる法は、まず実利をもって誘い、その後で人を使うことができる。甘言虚辞では、どうしてその効命を責められようか。かつて鄜延で蕃兵を集めて教練した際は、卿がこれを制する術があったからこそ、軽罪は決断し、重罪は誅することができた。西夏に背けばその禍は遠く、帥臣に背けばその禍は速い。兵法の『我を畏れて敵を畏れず』の義に合致し、故にその効命を責めることができたのである。王師の南征にあたり、卿は勁兵数千を選び募り、梟将を選んでこれを率いさせ、諸峒を脅し、大兵が将に至らんとすることを諭し、我に従う者には賞を与え、従わぬ者は族を按じて誅せよ。兵威既に振るえば、まず右江を脅し、右江既に附すれば、また左江を脅す。両江が附すれば、諸蛮附かざるはない。その後で交人の劉紀の巣穴を攻めるのは、甚だ難からざるであろう。郭逵は性吝嗇である。卿は朝廷が兵費を惜しまざることを以て諭すべし。逵はまた事崖岸にして、下情に通ぜず、将佐敢えて言う者なし。卿彼に至り、朕の語を以て詔せよ」と諭した。

十年、枢密院が請うた。「邕州・欽州の峒丁は経略司に委ねて提挙させ、巡検とともに総じて訓練の事に当たらせ、一切を分接に委ねる。歳末に武芸優れた者を上申し、その酋首とともに等級に応じて賞を受ける。五人を保とし、五保を隊とする。三等に分ける。軍功武芸衆に抜きん出る者は上とし、その徭役を免ず。人材矯捷なる者は中とし、その科配を免ず。余りは下とする。辺境に盗賊が発生すれば酋長が相報じ、族衆を率いて寇を防ぐ」と。十二月、詔して邕州・欽州の丁壮は自ら戎器を備え、貧しき者は官銭を貸し与え、金鼓旗幟は官が給し、隔年ごとに大閲兵を行い、終わればこれを収蔵する。

元豊元年、経略司が両江の峒丁を集めて指揮とし、権宜的に将校を補することを請うた。奏聞は許可された。二年、広西経略司が言う。「邕州・欽州の峒丁を団結して指揮一百七十五とし、武芸上等の者一万三千六百七人を籍す」と。詔して諸臣に下し、峒丁の事を措置する議を献ぜしめ、曾布に付して参酌損益させ、規画を創め、務めて詳尽ならしめ、施行に便ならしめた。布は乃ち鎮砦の監押・砦主に兵甲使臣と巡検等とともに管轄させ、州峒を分定して総制し、賞罰懲勧を立てることを請うた。都巡検使を両員増置し、分かって提挙する。及び首領丁壮を増やし、歳ごとに閲し、武芸絶倫の者を聞上し、材量に応じて補授する。詔して都巡検使を二員増やし、余りは熊本に下してその可なるものを施行せしめた。

五年、詔す。「広南の保甲は戎州・瀘州の故事の如く、自ら裹頭無刃槍・竹標排・木弓刀・蒿矢等を置き武技を習い、盗賊を捕らうるに遇えば官が器械を給する。

六年、詔して枢密承旨司に広西の峒丁を講議せしめ、開封府界の保甲の集教・団教の法の如くせしむ。是年、広西路刑獄を提点する彭次雲が言う。「邕州は瘴癘に苦しむ。兵を量り留めて更戍せしめ、余りは峒丁を用い、季月ごとに番上せしめ、禁軍の銭糧を給せよ」と。詔して許彦先にこれを度らしむ。彦先等が言う。「もし尽く正兵に代えさせれば、農を妨ぐる恐れあり。戍兵の三分の一を計って峒丁に代え、季ごとに二千を輪番して邕州に赴き武事を習わしむることを請う」と。これに従う。

大観二年、詔す。「熙寧年間に左・右江の峒丁十余万を団集し、広以西はこれに頼って防守した。今また二十万の衆が来帰した。既に張庄に左・右江の例に依って相度し聞奏せしめた。尚慮るに有司先務を知らず、措置滅裂なるを。今条画を下しその修する法を行わしむ。熙河蘭湟・秦鳳路の敕に入れてこれに遵行せしむ」と。

福建路の槍仗手は、元豊元年、転運使蹇周輔が言う。「廖恩が盗賊となるや、槍仗手を以て捕殺したところ、乃ち槍仗手の名を冒し、賊勢に乗じて村落を驚擾する者あり、その患いは廖恩よりも甚だしい」と。詔して犯す者は特に刺配を加う。周輔は槍仗手の人数を額定し、歳ごとに集めて閲することを請うた。その章を兵部に下す。兵部は保甲法に依って編排し、旧法を廃し、提刑司に隷属させることを請う。居相近き者五人を小保とし、保に長あり、五小保を一大保長とし、十大保を一都・副保正とする。教閲・盗賊捕縛・食直等の令を具えて頒布する。総計一万二百人余り、歳の農隙を以て、部使者分かって閲し、弓手法に依ってこれを賞す。二年、法を立て、自ら兵械を置き官に寄託することを聴し、盗賊を捕らうるに遇えば乃ち給し、数外に置く者は私有の法に従う。

元祐元年、御史上官均が言う。「福建路は往年、寇盗により槍手を召募し、多きは数百人に至り、少なくも一二百人に下らず。毎歳監司親しく至り按試犒賞す。比して閲視に至れば、その老弱武技に熟さざる者十の七八なり。監司の至る所、多くは先期して呼び集む。既に至れば、往々にして名を代えて充数し、支賞を冒して受け、徒らに呼集の労ありて校試の実なし。重ねて考核を行い、必ずしも旧数を充満せず、実を得んことを乞う」と。

靖康元年、臣僚が言う。「天下の歩兵の精鋭、福建路の槍仗手に如くはなし。出入軽捷、その術を得て馭すれば、一をもって十に当たる。官を選び前去して召募せんことを乞う」と。これに従う。

江南西路の槍仗手は、熙寧七年、詔して虔州・汀州・漳州の三州の郷丁・槍手等を籍し、製置盗賊司が三州の境は嶺外に接し、民は塩を販売するを喜び且つ盗賊となる、土人にあらざれば制すること能わざるが故なりと言うによる。

元豊二年、詔して虔州の槍仗手千五百三十六人、撫州及び建昌軍の郷丁・関軍・槍仗手各千七百七十八人を定額とす。毎歳農隙、監司・提挙司の官を輪番して案閲し武芸を試み、奸盗に備う。以前の江西転運副使蔣之奇の請いに従う。

宣和三年、兵部が言う。「近頃江西漕臣が謂うに、本路の槍仗手は、元豊七年に八千三十五人を以て定額とし、元祐年中に至り七千一百四十二人を減罷し、元符年間に雖も嘗て人数を増立すれども、元額に比すれば猶その七分を減ず。諸路の監司・帥臣に詔し、並びに熙寧の旧制に遵い元額を補足せしむることを乞う」と。これに従う。

蕃兵とは、塞下に内属する諸部落の籍を具え、団結して藩籬の兵となすものである。西北辺の羌戎は、種落相統一せず、塞を保つ者を熟戸と謂い、余りを生戸と謂う。陝西では秦鳳・涇原・環慶・鄜延、河東では石州・隰州・麟州・府州である。その大首領は都軍主と為し、百帳以上は軍主と為し、次は副軍主・都虞候・指揮使・副兵馬使と為し、功次に依って補する者は刺史・諸衛将軍・諸司使・副使・承製・崇班供奉官より殿侍に至る。その本族巡検を充たす者は、俸は正員と同じくし、月に添支銭十五千、米麵傔馬に差等あり。刺史・諸衛将軍の請給は、蕃官の例と同じ。首領で軍職を補する者は、月俸銭は三千より三百まで、また歳ごとに冬服綿袍凡七種、紫綾三種を給す。十将以下は皆田土を給す。

康定元年(1040年)、趙元昊が反乱を起こし、まず金明砦を破り、李士彬父子を殺害した。蕃部が既に潰走すると、塞門・安遠の両砦を破り、延州を包囲した。二年(1041年)、陝西體量安撫使王堯臣が上言した、「涇原路の熟戸一万四百七十余りの帳の首領は、それぞれ職名を有している。曹瑋が本路を統帥した時は、威令が明らかに著しく、嘗てこれを用いて西羌を平定した。その後、守将が撫育馭使を失い、次第に驕慢狡猾となった。元昊の反乱以来、鎮戎軍及び渭州山外は皆侵擾を受け、近界の熟戸も殺掠に遭った。蕃族の心情は、最も報酬(酬賽)を重んじる。その隙間(釁隙)に乗じてこれを激怒させれば、再びその用を為すことができる。人を遣わして、効用を願う首領を募り、姓名及び兵馬の数を登録せられたい。数が千人に及べば、自ら謀勇有る者を推挙させ、班行及び巡檢の職名を授け、将領として国境を出て征伐させよ。生戸を破蕩して得た財産・家畜は、官は検核しないこと。首級を得た者及び負傷者には賞を与え、なお本族の職名に依って遷補し俸給を増すこと」。詔してその請いの如くとした。

慶曆二年(1042年)、青澗城知事種世衡が上奏した、蕃兵五千を募り、右手の虎口に「忠勇」の字をいれずみし、折馬山族に隷属させた。言事者はこれに因って熟戸を募り、禁軍の俸給・支給を与えて辺境を守備させ、正兵を悉く罷めよと請うた。四路安撫使に下して議させたところ、環慶路の范仲淹が言うには、「熟戸は土田に恋慕し、老弱・牛羊を護り、賊に遇えば力戦し、漢戸の藩蔽(防壁)と為すことができるが、正兵としてたのむことはできない。大凡、蕃情は狡猾で、強きを畏れ弱きを凌ぎ、常にこれを制する方法あれば服従して用いることができるが、もし正兵として倚れば必ず驕蹇に至る。また今、蕃部の都虞候から副兵馬使までの俸銭は七百に止まり、衣糧は皆無である。もし長行(兵卒)が急に禁兵の俸給を得れば、蕃官は必ず非分の望みを生じる。況んや歳に敵を見ること稀にして、何ぞ長く俸給を与える必要があろうか。且つ銭が熟戸に入れば、蕃部は羊馬・青塩を買い求め河西に転売する資とし、これも良策ではない。もし警急有れば、直ちに金帛を以て勇猛を募る方が便宜である」。議は遂に止んだ。

治平二年(1065年)、詔して陝西四路駐泊鈐轄の秦鳳路梁寔・涇原路李若愚・環慶路王昭明・鄜延路韓則順に、各々本路の蕃部を管勾し、強人・壮馬を団結させ、予め経画を為し、寇が至れば老弱各々保存すべき所有らしめよと命じた。なお梁寔等に、蕃帳を往来し、その牒訴を受け、その屈抑を伸べ、その反側の者を察して羈縻し、猜阻を以て釁隙を萌さしめぬよう諭した。梁寔等は蕃部に至り首領を召集し、詔を称して犒労し、金帛を齎した。城砦の兵馬を登録し、族望の大小を計り、隊伍を分け、旗幟を与え、各々堡壘を繕わせ、人ごとに器甲を置かせ、以て調発に備えさせた。なお約束した、もし命令が下りて集まらなければ、押隊の首領を軍法に依って処断する、と。治平四年(1067年)以後より、蕃部の族帳は益々多くなり、撫禦団結の制度は益々密になったので、別にその後に附す。

秦鳳路:砦十三、強人四万一千百九十四、壮馬七千九百九十一。(三陽砦、十八門・三十四大部族・四十三姓・百八十族、総兵馬三千四百六十七。隴城砦、五門・五大部族・三十四小族・三十四姓、総兵馬二千五十四。弓門砦、二大門・十七部族・十七姓・十七小族、総兵馬千七百四。治坊砦、二大門・二大部族・九姓・九小部族、総兵馬三百六十。┒穰砦、二大門・二大部族・十一姓・十一小族、総兵馬千八百。静戎砦、門三、計りて大部族十・六姓・十六小族、総兵馬六百二十五。定西砦、四門・四大部族・十六姓・二十八族、総兵馬六百。伏羌砦、二門・二大部族・三十二姓・三十三小部族、総兵馬千九百九十二。安遠砦、二十三門・二十三大部族・百二十六姓・百二十六小族、総兵馬五千三百五十。来遠砦、八門・八大部族・十九姓・十九小族、総兵馬千五百七十四。寧遠砦、四門・四大部族・三十六姓・三十六小族、総兵馬七千四百八十。古渭砦、百七十二門・百七十一姓・十二大部族・一万六千九百七十小帳、兵七千七百・馬千四百九十。)

鄜延路:軍・城・堡・砦十、蕃兵一万四千五百九十五、官馬二千三百八十二、強人六千五百四十八、壮馬八百十。(永平砦、東路都巡檢の管轄する八族、兵千七百五十四・馬四百九。青澗城、二族、兵四千五百十・馬七百三十四。龍安砦、鬼魁等九族、兵五百九十九・馬百二十九。西路徳靖砦、同都巡檢の管轄する掲家等八族、兵千百十四・馬百五十。安定堡、東路都巡檢の管轄する十六族、兵千九百八十九・馬四百六十。保安軍、両族、兵三百六十一・馬五十。徳靖、西路同都巡檢の管轄する二十族、兵七千八百五・馬八百七十七。また小胡等十九族、兵六千九百五十六・馬七百二十五。保安軍、北都巡檢の管轄する厥七等九族、兵千四百四十一・馬百六十七。園林堡、両族、兵八百二十二・馬九十三。肅戎軍、卞移等八族、兵七百四十八・馬百二十三。)

涇原路には、鎮・砦・城・堡が二十一箇所あり、強人一万二千四百六十六人、壮馬四千五百八十六頭、これを百十甲に編成し、総計五百五隊とする。(新城鎮、四族、総兵馬三百四十一、これを十六隊とする。截原砦、六族、総兵馬五百九十六、これを六甲二十隊とする。平安砦、十一族、総兵馬二千三百八十四、これを十甲四十六隊とする。開邊砦、十八族、総兵馬一千二百五十四、これを九甲四十四隊とする。新門砦、十二族、総兵馬一千七十三、これを三甲二十八隊とする。西壕砦、三族、総兵馬四百五十四、これを四甲二十隊とする。柳泉鎮、十二族、総兵馬九百八十六、これを七甲三十一隊とする。綏寧・海寧砦、四族、総兵馬七百八十八、これを四十甲三十二隊とする。靖安砦、四族、総兵馬一千九百八十二、これを四甲五十九隊とする。瓦亭砦、四族、総兵馬五百九十一、これを四甲十九隊とする。安國鎮、五族、総兵馬六百三十四、これを五甲二十二隊とする。耀武鎮、一族、総兵馬三十二、これを一隊とする。新砦、両族、総兵馬一百九。東山砦、四族、総兵馬二百二、これを四甲九隊とする。彭陽城、三族、総兵馬一百八十四、これを六甲十二隊とする。德順軍、強人三千六百七十六、壮馬二千四百八十五、これを三十六甲一百三十五隊とする。本軍二十一族、総兵馬二千五百二、これを三十六隊とする。隆德砦、七族、総兵馬二百五十六、これを十七甲十九隊とする。靜邊砦、二十四族、総兵馬一千八百七、これを三十六隊とする。水洛城、十九族、総兵馬一千三百五十四、これを十九甲三十八隊とする。通邊砦、五族、総兵馬一百七十六、これを三隊とする。)

環慶路には、鎮・砦二十八箇所あり、強人三万一千七百二十三人、壮馬三千四百九十五頭、総計一千百八十二隊とする。(安塞砦、四族、強人三百五十一、壮馬三十、これを十六隊とする。洪德砦、二族、強人二百七十三、壮馬五十二、これを十隊とする。肅遠砦、三族、強人一千五百五十九、壮馬二百六十三、これを六十隊とする。烏侖砦、一族、強人六百八十四、壮馬一百十八、これを二十六隊とする。永和砦、旁家一族計六標、強人一千二百五十五、壮馬二百二、これを四十四隊とする。平遠砦、六族、強人五百四十、壮馬八十七、これを二十七隊とする。安遠砦、六族、強人七百四十八、壮馬一百十六、これを三十隊とする。合道鎮、十四族、強人一千五百六十五、壮馬一百八十三、これを五十七隊とする。木波鎮、十四族、強人二千一百六十九、壮馬一百九十五、これを六十一隊とする。石昌鎮、二族、強人四百六十二、壮馬三十四、これを十七隊とする。馬領鎮、四族、強人一千十六、壮馬八十、これを二十四隊とする。團堡砦、二族、強人一千二十二、壮馬一百十一、これを二十四隊とする。荔原堡、十三族、強人二千二百二十一、壮馬三百九十四、これを八十二隊とする。大順城、二十三族、強人三千四百九十一、壮馬三百十四、これを一百四十一隊とする。柔遠砦、十二族、強人三千三百八十一、壮馬一千、これを九十隊とする。東穀砦、十六族、強人四百五十九、壮馬五十六、これを十四隊とする。西穀砦、十族、強人一千七百九十四、壮馬一百四十、これを六十五隊とする。淮安鎮、二十七族、強人四千三百六十八、壮馬三百二十一、これを一百七十隊とする。平戎鎮、八族、強人一千八十五、壮馬一百七十一、これを四十一隊とする。五交鎮、十族、強人一千百七、壮馬七十三、これを四十九隊とする。合水鎮、四族、強人六百三十一、壮馬九十五、これを二十四隊とする。鳳川鎮、二十三族、強人八百七十五、壮馬一百四十三、これを二十隊とする。華池鎮、三族、強人二百六十二、壮馬三十八、これを十二隊とする。業樂鎮、十七族、強人一千百七十二、壮馬六十四、これを四十六隊とする。府城砦、一族、強人二百三十三、壮馬五、これを七隊とする。)

治平四年、郭逵が言うには、「秦州青雞川の蕃部が地を献じたいと願い、川南の牟穀口に城堡を設置し、弓箭手を募り、秦州・德順二州の援護を通じさせ、賊の侵入路を断つことを請う」と。閏三月、原州九砦の蕃官三百八十一人を収め、総計二百二十九族、七千七百三十六帳、蕃兵一万人、馬千頭。この年、四路の蕃部を主管する内臣を罷め、各路の升朝使臣で蕃情に通暁する者を選んでこれに当たらせた。

熙寧元年、議者が謂うには、

熟羌とは、唐が三使を設けて統べた党項である。西夏が臣節を守らぬより、種落は叛き散り、南北に分かれて寓居す。首領たる者は父死すれば子が継ぎ、兄死すれば弟が襲ぎ、家に正親なきときは、またその旁属の強者を推して族首と為し、多きは数百に及ぶ。族首たる者幼少なりとも、その本門中の婦女の令も皆信服する故、国家その俗に因りて法と為す。その大首領は、上は刺史より、下は殿侍に至るまで、並びに本族の巡検を補し、次首領は軍主・指揮使を補し、下は十将に至るまで、順次に廩給を受く。歳月久しくして、主家と客族の帳、混淆して紀すべからず。康定年中、嘗て蔣偕を遣わしてこれを籍す。今三十年を逾え、主家は累降の故にその先職たる族首の名品を失い、而して客戶は功を以て使臣・軍班となり、主家の上に超処するものあり。軍興して調発するとき、有司はただ職名を視て、その部曲に号令せしむるも、衆心は主家に非ざるを以て、肯て用いられんとせず。

請う、今より蕃官身歿のとき、秩高き者は子孫例に依り降等して本族の巡検と為し、その旁邊にて賊を捍ぐ能き者には奉給し、遠辺の者は旧に如く歳月を限りてこれに給すべし。その已に降等せしめ、或いは三班差使・殿侍にして身歿し降等すべき等なき者は、子孫降等せず、軍主・指揮使を充つる者は即ち殿侍と為すべし。かくの如くすれば、則ち本族蕃官の名品は常に在らん。或いはその部曲功を立て官に任ずべきときは、正親に非ざれば本族の巡検と為すを得ず、ただその奉を増すべし。その軍主より十将に至るまで、祖・父に族帳兵騎ある者は、子孫即ちその旧を承け、年限を以て廩給を受くべし。能く自ら功を立てる者はこの令を用いず。かくの如くすれば、則ち熟羌の心は皆、異日子孫旧職を失わず、世々我が用に為ることを知らん。

枢密院は河東路と会議し、蕃部の承襲は資を降さず、秦鳳路は二資を降し、涇原路の蕃官が老いて告退するときは門内の人が承代しても資を降さず、鄜延・環慶路の蕃官使臣は類比により職を授けることとした。蕃官の副兵馬使以上には元来奏到の者なく、詔して鄜延・環慶路の蕃官で本族の首領の子孫で継承すべき者は、もし都軍主以下の子孫ならば降さず、殿侍並びに差使・殿侍の子孫は都軍主に充て、借職・奉職の子孫は殿侍に充て、侍禁・殿直の子孫は差使・殿侍に充て、供奉官の子孫は借職を補し、承製以下の子孫は奉職を補す。その諸司副使以上の子孫で継承すべき者は、漢官の遺表の恩加に準じて二等を加える。奏して可とす。

二月、青澗城を治める劉怤が言うには、「管轄する帰明の号箭手八指揮、合わせて三千四百余人、馬九百匹は、連年収穫なく、丹州の儲糧をもって振恤せんことを願う」と。詔してその章を転運司に下して行わしむ。

二年、郭逵が奏す。「蕃兵は必ず人を得てこれを統領せしむべし。もし専ら厳刑をもって迫れば、彼ら必ず山谷に散走し、正兵はかえってその弊を受くべし。六術を設けてこれを用うべし。遠斥候を曰い、地利を択ぶを曰い、その長ずる所に従うを曰い、その短き所を捨つるを曰い、その心を利に誘うを曰い、その力を戦に助くるを曰う。これ蕃兵を用いる法なり」と。詔してこれに従う。

三年、宣撫使韓絳が言う。「親しく徳音を奉ずるに、蕃部の子孫で承襲する者は多く幼弱にして、衆を統べることができず、その族人の衆に信伏せられる者を選んで代わりにその事を領すべしと。聖算深遠にして、真に辺境を禦する要を得たり。諸路の帥臣に下して詔をもって事を行わしめんことを請う」と。

四年、詔す。「蕃官の殿侍・三班差使が職を補し、あるいは殿侍より差使に遷りて十二年を経、かつて巡検を充たし、あるいは本族の公事を管幹し、あるいは蕃官指揮となり、あるいはかつて守禦の任に備わった者は、総管司これを聞き、特に遷改を与えよ」と。

五年、王韶が沿辺の蕃部を招納し、洮・河・武勝軍より西、蘭州・馬銜山・洮・岷・宕・疊等州に至るまで、合わせて蕃官・首領九百三十二人を補し、首領に飧銭を給し、蕃官に俸給を与える者四百七十二人、月計の費銭四百八十余緡、正兵三万を得、族帳数千。

六年、帝輔臣に謂いて曰く。「洮西香子城の戦いにおいて、官軍功を貪り、巴氈角部の蕃兵を斬って首級に充てる者あり、人極めて嗟憤す。昔、李靖は漢蕃の兵を分けて各々一隊と為し、衆を紛乱に用いることなし」と。王安石進みて曰く。「李靖は素より蕃部を拊循する者にあらず、故にその兵を教うるは当にこの如くすべし。今、熙河の蕃部既に我が用いるところとなれば、則ち当に稍々漢法をもってこれを治め、久しくして漢兵と一の如くならしむべし。武王は微・盧・彭・濮の人を用い、ただ一法と為す。今、蕃兵をして稍々漢と同うせしめ、蕃賊と異ならしむべし。必ず先ずその豪傑を録用し、漸く以てこれを化すべし。これ夏をもって夷を変ずるの術なり」と。帝乃ち王韶に詔してその法を議わしむ。

帝曰く。「岷・河の蕃部族帳甚だ衆し、もし撫禦ことごとくその用を得ば、坐して西夏を製すべく、またいわゆる蛮夷をもって蛮夷を攻むる者なり。陝西極塞にして、もし会合訓練し、兵を用うるの勢いを為して敵に愾せば、彼必ず随いて兵を聚めて我に応ずべし。頻年この如くすれば、自ら困弊を致す。兵法のいわゆる『佚よくこれを労す』なり」と。安石対えて曰く。「朝廷当に先ず勝ちがたきを為し、糧を聚め財を積み、兵を選ぶのみ。新附の羌には、厚く爵賞をもってし、その豪傑を収め、これに堅甲利兵を賜い、その気を激し、人々皆趨赴の志あるあらしめ、我が体強力充つを待ち、鼓行して西せば、将に不可なることなからん」と。馮京・王珪曰く。「もし聖策の如く、多方をもってこれを誤らしめ、彼既に点集に疲れ、我に攻取の実なきときは、久しければ必ず我に応ぜざるべし。これに因りて兵を挙ぐれば、無人の境を蹈むが若し」と。帝曰く。「これ正に晋人の呉を取るの策なり。夫れ四夷を経営せんと欲すれば、宜しくこれより先なることなかるべし」と。帝嘗て謂う。「蕃部未だ兵を用いたことなく、虚名をもって内附し、事に臨みて使うべからざるを恐る」と。安石対えて曰く。「剛克・柔克、用いる所宜しきあり。王韶は以て先ず恩信をもってその人を結納し、強梗にして服さざる者あれば、乃ち殺伐をもってこれに加うと為す。大抵蕃部の情は、西夏と中国の強弱を視て向背と為す。もし中国の形勢強ければ、中国に附するを利と為し、即ち殺伐を仮さずして、自ら堅く附すべし。況んや蕃部の俗は、既に貴種を宗とし、また強国に附す。今、木征の貴種等三人を用い、また稍々恩信をもって蕃部を収めれば、則ち中国の形勢愈よ強く、殺伐を仮さずして、附する蕃部自ら製使すべしを恐る」と。帝以て然りと為す。是の時、王韶熙河の地千二百里を拓き、三十余万口を招附す。安石奏して曰く。「今、三十万の衆を以て、漸く文法を推し、当に即ちその夷俗を変ずべし。然れども韶の募る勇敢の士九百余人、田百頃を耕し、坊三十余所。蕃部既に漢と為るを得て、その俗また土を賤しみ貨を貴ぶときは、漢人貨をもって蕃部と田を易するを得、蕃人貨を得て、両者その欲する所を得、田疇墾け、貨殖通じ、蕃漢一と為り、その勢い以て調禦し易し。韶に諸路の如く銭を以て助借し息を収め、また百余万緡を捐てて蕃部に馬を養わしめ、且つその人を什伍し、武藝をもって奨励し、その人民を富足ならしめ、士馬を強盛ならしめ、奮いてこれを用うれば、則ち向う所功あるべし。今、蕃部初附し、洪荒の人に如く、唯だ我が禦する所のみ」と。

七年、韶言う。「河州の叛蕃を討平し、土を辟くこと甚だ広く、既に弓箭手を置き、またその余りの地をもって蕃兵弓箭手を募る。毎砦三指揮あるいは五指揮に至り、毎指揮二百五十人、人に田百畝を与え、次第の蕃官二百畝、大蕃官三百畝、仍て漢の弓箭手を募って隊長と為し、稍々衆しければ則ち将校を補し、及び蕃官とともに部族の事を主とす。その蕃弓箭手は並びに左耳に『蕃兵』の字を刺し、漢兵の盗み殺して首級に效うを防ぐ」と。詔してその請いの如くす。十一月、王中正熙河界の洮・河以西の蕃部を団結し、正兵三千八十六人、正・副隊将六十人、供贍一万五千四百三十人を得。

八年五月、詔して李承之に蕃兵法を参定せしむ。十一月、詔す。「陝西の蕃兵丁壮の戸を選び、九丁以上は五を取り、六は四を取り、五は三を取り、三は二を取り、二は一を取り、並びに年二十以上、手背に涅し、五丁を過ぐることなかれ。毎十人に十将一を置き、五十人に副兵馬使一を置き、百人に軍使一・副兵馬使一を置き、二百人に軍使一・副兵馬使三を置き、四百人に軍使一・副兵馬使一を加え、五百人にまた指揮使一・副兵馬使一を加え、五百人を過ぐれば、毎百人ごとに軍使一・副兵馬使一を加う。即ち一族三十人已上もまた副兵馬使一を置き、二十人に及ばざれば止めて十将を置く。月に俸を受け、仍て銭を増給し、指揮使一千五百より十将に至るまで差あり」と。

十年、枢密院が言うには、「陝西・河東において団結蕃部法を立てようと議し、願わくは上奏の如くにせんとす」と。上手詔して曰く、「夏人の恃み以て強国たる所以は、山界部落数万の衆のみ。その地誌を按ずるに、朝廷既にその半を有す。彼れこれを用うれば則ち小を併せ大を凌ぎ、向かうところ意の如し。我に在りては則ち徒らに含撫豢養する能く、未だ嘗てその死力を得ず。豈に用うる能わざるのみならん、又その患いを為さんことを恐る。故に小に悖戾有れば、有司惟だ利を以て説き解く能く、上下相習い畏憚し、その縦散に任せ、久しく部勒を失う。その近降の法は、固より未だ必ず行わるるを信ずべからず。然れども理を以てこれを言えば、彼此均しくその人を有し、而して利害遼遠なり。今苟くも辺人に循い、衆その説を知り、旧法に止まり聊か一二を改むるに過ぎざれば、則ち功を収むるも疑わしく亦た往日と異ならじ。徒らに紛紛たるのみ、事に補う無し。再び呂恵卿に下し参詳して以て聞かしむべし」。

元豊六年、詔して曰く、「蕃官は大使に至ると雖も、猶お漢官の小使臣の下に処す。朝廷功を賞し秩を増し、以て激勧と為す。乃ち爾く卑抑すれば、則ち孰れか遷官の栄を知らん。宜しく蕃漢官の序位を定むべし」。後に河東経略司言う、「蕃官部堡塞の兵を出して戦うに、嘗て漢官を以て駆策す。恐らくは漢官と序位すべからず」。而して兵部は蕃漢統轄せざる者をして乃ち官を序せしむべしと請い、奏聞可とす。熙河蘭会路経略製置使李憲言う、「蕃兵を治め、将領を置くは、法は簡にして行い易く、詳にして犯し難きを貴ぶ。臣今蕃情を酌み法を立て、凡そ熙河蘭会五郡、各都同総領蕃兵将二人を置く。本州諸部族の出戦する蕃兵及び供贍人馬は各管押蕃兵使臣十人を置く。五郡の蕃兵自ら一将を為し、出戦すれば則ち正兵を以てこれに継ぎ、旗幟同色。蕃兵は技芸功労を以て第して四等と為し、蕃官首領の推遷もまたこれに如し」。八月、憲また言う、「漢蕃兵騎雑えて一軍と為し、言語通ぜず、居処飲食悉く便利ならず。昔李靖蕃落を以て自ら一法を為す。臣近く蕃兵を以て自ら一将を為し、漢・蕃を厘して両軍と為し、相参して号令し、軍事惟だこれを使わしむるに任す」。

七年、瀘南縁辺安撫司言う、「羅始党生界八姓、各七姓・十九姓に依り刺して義軍に充てんことを願い、団結して三十一指揮と為し、凡そ一万五千六百六十人」。これを従う。

元祐元年、臣僚言う、「涇原路蕃兵人馬凡そ衆し、敵に臨むに正兵と錯雑し、便ならず」。詔してその章を四路都総管に下し詳議せしむ。環慶範純粹言う、「漢・蕃兵馬誠に雑用すべからず。宜しく逐将に於いて各廉勇蕃情に暁る者一員を選び専ら蕃将に充て、平素に鈐束訓練せしめ、調発有るに遇えば、即ち部領せしめて便ならしむべし」。また言う、「頃に兵部議い、蕃・漢官相統轄せざる者は、並びに官序に依り相圧すべしと乞う。その城砦等の蕃官を管轄する者は、即ち旧に依り本轄漢官の下に在らしむ。詔してその請いを従う。且つ諸路の蕃官は、官職の高卑を問わず、例として漢官の下に在り。以て中国を尊び、遠人を制する所以なり。行うこと既に久しく、忽然として更に制し、便ち相統轄せざるの官と品序に依り位す。即ち辺上の使臣及び京職官、当に蕃官の下に在るべきこと十に八九、人情の能く堪うる所に非ず。蕃部凶驕なり、豈に輒りて啓くべけんや。宜しく悉く旧制に依り、並びに漢官の下に序すべし」。これを従う。

元符二年三月、涇原経略司言う、「東西路蕃兵将を廃罷し、仍び順便城砦に於いて逐将の隷属に属し統領せしめ、漢兵と相兼ね差使せしめんことを乞う」。秦鳳路もまたこれに如し。四月、環慶路経略安撫司言う、「新たに築く定辺城に西夏より来投する蕃部甚だ衆し。願わくは今より将に帰順の人を、新城に就き収管し田を与え、仍び総領蕃兵正・副二員を選置せんことを乞う」。これを従う。