宋史

志第一百四十三 兵四

郷兵とは、戸籍から選抜し、あるいは土着の民が応募し、その在所において団結して訓練し、もって防守の兵とするものである。後周の広順年間、秦州の税戸を点じて保毅軍に充当し、宋はこれを踏襲した。建隆四年より、使臣を分命して関西道に赴かせ、郷兵を調発して慶州に赴かせしめた。咸平四年、陝西の税籍に係る人戸に家ごとに一丁を出させ、保毅と号し、官が糧食と賜物を与え、これらを分番して戍守させた。五年、陝西の沿辺で丁壮が保毅に充当された者は六万八千七百七十五人に至った。七月、募兵が郷土を離れることは和気を損なうとして、詔して諸州で強壮戸に点充された者は、税賦はただ本州において輸納させるのみとし、官司はこれを支移してはならないとした。先だって、河北の忠烈・宣勇で人を承替する者のない者は、老病であっても籍を停めることができなかった。ここに至り、詔して今後、委ねて家業を代替する者なき場合は、放ちて自便にせしめた。これより天禧年間に至るまで、へい州・代州の広鋭の老病の兵は、親属でなくとも代わろうとする者はこれを聴した。河北の強壮は、その農時を奪うことを恐れ、十月より正月までの旬休の日に召集して教閲した。忠烈・宣勇・広鋭で帰農して闕員となった者は、ともに京より差し補い、河上に戍して歳月久遠の者は、則ち特に遷補し、貧独で力を召替するなき者は、則ち逐処に保明して放停せしめた。

当時、河北・河東には神鋭・忠勇・強壮があり、河北には忠順・強人があり、陝西には保毅・砦戸・強人・強人弓手があり、河東・陝西には弓箭手があり、河北東・陝西には義勇があり、麟州には義兵があり、川陝には土丁・壮丁があり、荊湖南・北には弩手・土丁があり、広南東・西には槍手・土丁があり、邕州には渓洞壮丁・土丁があり、広南東・西には壮丁があった。

仁宗の時、神鋭・忠勇・強壮は久しく廃され、忠順・保毅はわずかに存するのみであった。康定初年、詔して河北・河東に強壮を添籍し、河北は凡そ二十九万三千、河東は十四万四千、皆時に従って訓練した。西方の軍旅が屡々敗北し、正兵が足らず、乃ち陝西の民を籍し、三丁より一を選び、郷弓手となした。間もなく、刺して保捷に充当し、指揮一百八十五と為し、分かって辺州に戍した。西方の軍旅が罷むと、多くは揀放された。慶暦二年、河北の強壮を籍し、二十九万五千を得、その十の七を揀って義勇と為し、且つ民丁を籍してその不足を補った。河東は河北の法の如く揀籍した。

その後、議者が論じて「義勇は河北の伏兵たり、時に講習し、儲廩を待たず、古の兵を農に寓するの意を得たり。惜しむらくは列郡に束縛され、ただ城守の備えと為すに止まる。誠に能く河北の邢・冀二州をして東西両路に分かたしめ、二郡の守を命じて分領せしめ、時に閲習せしめ、寇至れば、即ち両路の義勇が翔集して赴援し、その腹背に敵を受けしめば、則ち河北三十余所に常に鋭兵を伏せしむるなり」と。朝廷その議を下すと、河北の帥臣李昭亮等議して曰く「昔、唐の沢潞留後李抱真は戸丁男を籍し、三つに選びて一とし、農隙には則ち曹を分かって角射し、歳終には都試し、賞罰を示し、三年にして皆善射となり、部内を挙げて勁卒二万を得たり。既に廩費なく、府庫益々実り、乃ち甲兵を繕って戦具と為し、遂に山東を雄視せり。是の時、天下昭義の歩兵を称して諸軍に冠たりとす。此れ近代の顕効なり。而るに或いは民兵は只城守すべく、戦陣に備え難しと謂うは、通論に非ざるなり。但だ無事の時に当たり、便ち義勇を分かって両路と為し、官を置いて統領せしめ、以て用兵の勢いを張らば、外は敵をして疑いて謀を生ぜしめ、内も亦衆心を揺るがし、計の得たるに非ず。姑く在所において点集訓練せしめ、三二年の間、武藝稍々精しく、漸く行陣に習わしむ。警有るに遇い、将臣抱真の如き者を得て統馭し、その陣隊を制し、賞罰を示さば、何の敵か戦うべからざらん。部分布列に至りては、敵を量り機に応ずるは、臨時の便宜に係り、亦預め図り難し。況んや河北・河東は皆辺州の地、義勇を置くより以来、州県時に按閲し、耳目已に熟し、行うこと固より疑い無し」と。詔して議の如くせしむ。

治平元年、宰相韓琦言う「古は民を籍して兵と為し、数は多けれども贍養は甚だ薄し。唐は府兵を置き、最もこれに近し。後廃して復たす能わず。今の義勇、河北は幾ばく十五万、河東は幾ばく八万、勇悍純実、天性より出で、而して物力資産有り、父母妻子の係わる所なり。若し稍々練簡を加えんには、唐の府兵と何の異ならんや。陝西は嘗て弓手を刺して保捷と為せり。河北・河東・陝西は皆西北を控え、事は一体たるべし。請う、陝西諸州に於いても亦義勇を点じ、ただ手背に涅するに止めよ。一時小擾無からずと雖も、終に長利と成らん」と。天子その言を納れ、乃ち陝西の義勇を籍せしめ、十三万八千四百六十五人を得たり。

是の時、諫官司馬光累ねて奏し、謂う「陝西は頃に郷弓手を籍せしめ、始めは郷里を去らざることを諭せり。既にして保捷正兵に涅し、辺州に遣戍せしむ。その後用うるべからず、遂に汰して民と為す。徒らに一路を騒然たらしめ、而して国に補うこと無し。且つ祖宗は海内を平一せしも、曽て義勇有りや。趙元昊の反するより、諸将師を覆すこと相継ぎ、終に一旅の衆を出だし、区脱の地に渉ること能わず。当の時、三路の郷兵数十万、何ぞ嘗て一人の力を得たりや。議者は必ず曰く『河北・河東は衣廩を用いず、勝兵数十万を得、閲教精熟し、皆以て戦うべし。又兵は民間に出で、古制に合う』と。臣謂う、然らず。彼の数十万は虚数なり。閲教精熟は外貌なり。兵出民間は名は古と同なるも実は異なり。蓋し州県朝廷の意を承け、只だ数を求むるのみ。閲教の日、観る者は但だその旗号鮮明、鉦鼓備具し、行列有序、進退有節なるを見て、以て真に戦うべしと為さざる莫し。殊不知、彼は猶お戯れを聚むるが若く、若し敵に遇わば、則ち瓦解星散し、之の去る所を知らざらん。古は兵は民間に出で、耕桑の得る所、皆以て其の家を衣食す。故に処すれば則ち富足し、出でれば則ち精鋭なり。今既に農民の粟帛を賦斂して正軍に給し、又その身を籍して兵と為す。是れ一家にして二家の事を給するなり。此くの如くんば、民の財力安んぞ屈せざらんや。臣愚、以て為す、河北・河東の已に刺したるの民は猶お放還すべく、況んや陝西の未だ刺さざるの民をや」と。帝聴かず。ここにおいて三路の郷兵、唯だ義勇最も盛んなり。

熙寧以来、則ち尤も蕃兵・保甲の法を重んじ、余は多く旧制を承く。前史の沿革は、復た具述せず、その損益有る者を取って篇に著す。南渡して後は、土宇は前に及ばずと雖も、兵制は多く其の故に仍り、凡そその郷兵・砦兵の改むべきものは、皆附見す。

陝西保毅

陝西保毅、開宝八年、渭州平涼・潘原の二県の民を発して城隍を治め、因って保毅弓箭手と為り、分かって鎮砦に戍す。能く自ら馬を置く者は、役を免ず。逃・死すれば、親属を以て代えしむ。周の広順の旧制に因るなり。

咸平初年、秦州の極辺には止め千人を置き、分番して守戍せしむ。上番の人は月に米六斗を給し、仲冬には指揮使より副都頭に至るまで紫綾綿袍を賜い、十将以下には皂綾袍を賜う。五年、陝西沿辺の丁壮を点じて保毅に充当し、凡そ六万八千人を得たり。資糧を給し、正兵とともに辺郡を戍せしむ。

慶曆の初め、詔して悉く刺して保捷軍と爲し、唯だ秦州の増置及び三千人、環・慶・保安も亦各々籍して置く。是の時、諸州總六千五百十八人、指揮三十一を爲す。

皇祐五年、涇原都總管程戡上言す、「陝西の保毅は、近年州縣の役に給するに止まり、復た武技を以て責むること無し。げい刺して保捷と爲してより、而も家猶ほ保毅の籍を免れず、或は田産を折賣し、而して産を得る者は分數を以て役を助く。今秦州僅かに三千人、久しく農業を廢し、請ふ罷遣せんことを」と。詔して自今敢て私役する者は、傭を計ひて之を坐す。治平の初め、詔して保毅田承の名額を置く者、悉く揀刺して以て義勇と爲す。熙寧四年、詔して其の軍を廢す。

環慶の砦戶・強人弓手、九年、詔して禁軍の法の如くし、其の籍を上せ、馬軍司に隷し、廩給は中禁軍を視る。

河北忠順

河北忠順は太宗朝より瀛・莫・雄・州・乾寧・順安・保定軍に忠順を置き、凡そ三千人、番を分ちて巡徼し、沿邊戰棹巡檢司に隷す。十月より悉く上り、人に糧二升を給し、二月に至り半ばを輪して營農す。慶曆七年、夏竦建議して正兵と參戍せしむ。八年、水沴を以て、逋亡する者多きを爲し、權に正兵を益して其の闕額に代ふ。皇祐四年、權に業農を放ち、後復た補はず。

河北陝西強人砦戶

河北陝西の強人・砦戶・強人弓手、名號一ならず。咸平四年、河北の民に募りて契丹の道路に諳んじ、勇銳にして間伺と爲す可き者を強人に充て、都頭・指揮使を置く。事無きときは田野に散處し、寇至れば追集し、器甲・口糧・食錢を給し、塞を出でて賊壘を偷斫せしむ。能く首級を斬り、馬を奪ふ者は賞格の如し。虜獲の財畜は皆之に畀ふ。慶曆二年、環州も亦募り、手背に涅し、自ら戎械並びに馬を備へ、押官・甲頭・隊長を置き、戶四等以下は役を免じ、上番して防守し、月に奉廩を給す。三年、涇原路の邊城砦に被る者は悉く置く。

環・慶二州復た砦戶有り、康定の中、沿邊の弓手を以て手背に涅して充て、警有れば召集して防戍し、保毅弓手と同し。

大順城・西谷砦に強人弓手有り、天禧・慶曆の間募置し、番戍して巡徼斥候と爲し、日に糧を給す。人に田八十畝を賦し、能く自ら馬を備ふる者は益すに四十畝を賦す。防秋に遇れば、官器甲を給し、下番すれば軍に隨ひて訓練す。指揮六を爲す。

河北河東強壯

河北・河東の強壯は五代の時、瀛・霸諸州已に置く。咸平三年、詔して河北の家二丁・三丁は一を籍し、四丁・五丁は二を籍し、六丁・七丁は三を籍し、八丁以上は四を籍し、強壯と爲す。五百人を以て指揮と爲し、指揮使を置く;百人を以て都と爲し、正・副都頭二人・節級四人を置く。所在に籍を置き、善く騎射する者を擇びて第に校長を補し、自ら馬を置くを聽し、甲に勝つ者は其の戶役を蠲く。五年、其の勇敢を募り、團結して大軍に附して柵と爲し、官鎧甲を給す。景德元年、使を遣はし分ちて河北・河東に詣り強壯を集め、庫兵を借りて糧を給し訓練し、緣邊に非ざれば即ち番を分ちて迭に教へ、寇至れば悉く集りて城を守り、寇退けば營農す。

康定の初めに至り、州縣復た閱習せず、其の籍多く亡ぶ。乃ち詔して二路に選補せしめ、其の數を增し、伍保を爲し、迭に遊惰及び奸を爲す者を糾す。二十五人を以て團と爲し、押官を置く;四團を以て都と爲し、正・副都頭各一人を置く;五都を以て指揮と爲し、指揮使を置き、各階級を以て事に伏す。年二十にして籍に繫ぎ、六十にして免れ、家人或は他戶を取つて之に代ふ。歲正月、縣は籍を以て州に上せ、州は籍を以て兵部に奏し、法の如からざる者を按舉す。慶曆二年、悉く揀して以て義勇と爲し、預からざる者は之を釋ち、而して其の籍を存し、以て城池を守葺するに備ふ。而して河東の強壯は此より浸く廢せり。

其れ河北に募る者は、舊に塘泊河淤の田を給し、力耕するに足らず、重ねて番教を苦しめ、應募する者寡し。熙寧七年之を罷め、其の田を以て民に募りて耕さしめ、戶兩頃、其の賦を蠲き、以て保甲と爲す。

河東陝西弓箭手

河東・陝西の弓箭手は周の廣順の初め、鎮州諸縣、十戶に材勇なる者一人を取つて之と爲し、餘九戶は以て器甲芻糧を資す。建隆二年、詔して之を釋ち、凡そ一千四百人。

景德二年(1005年)、鎮戎軍の曹瑋が言上した、「辺境の民で応募して弓箭手となろうとする者あり、これに閑田を与え、その徭役と賦税を免除することを請う。警報あれば、正規兵に参じさせて前鋒とすることができ、官は資糧や兵器の費用を要しない」と。詔して、「人ごとに田二頃を与え、甲士一人を出させる。三頃に及ぶ者は戦馬一匹を出す。堡塁を設け、守備させ、部伍を列ね、指揮使以下の官を補任する。兵を率いて功労ある者も、軍都指揮使に補任する。巡検を置いてこれを統率させる」とした。その後、鄜延・環慶・涇原および河東の州軍もそれぞれ募って設置した。

慶暦年間(1041-1048年)、諸路の総数は三万二千四百七十四人、指揮は一百九十二となった。この時、河東都転運使の欧陽修が言上した、「代州・岢嵐・寧化・火山軍の辺境に接する地はほぼ二三万頃あり、人を募って開墾耕作させ、弓箭手に充当することを請う」と。詔して宣撫使の范仲淹に議させたところ、便利であると考えた。そこで岢嵐軍北の草城川の禁地において、人を募り、敵界から十里外で耕作を占めさせ、二千余戸を得た。年々租税数万斛を納め、自ら弓馬を備え、手の甲に墨を入れて弓箭手とした。既に并州の明鎬が議を阻んだため、中止された。

至和二年(1055年)、韓琦が奏上して明鎬の議は誤りであると訂正し、言った、「昔、潘美は契丹がしばしば侵入するのを憂い、遂に辺境の耕民を内陸に移住させ、一時の不備の咎を免れようとした。その後、契丹と講和したが、因循として再び人に旧業に復することを許さず、遂に禁地と名付け、歳月を経て戎人に侵耕され、次第に疆界を失った。今、代州・寧化軍に禁地万頃あり、草城川の例のように弓箭手を募ることを請う。四千余戸を得ることができよう」と。并州の富弼に議させた。富弼は韓琦の奏上通りとすることを請うた。詔して条規を整えさせ、山坡・川原を見て均等に給与し、人ごとに二頃とする。その租は秋に一度納め、川地は一畝あたり五升、阪原地は一畝あたり三升とし、折変や科徭をしてはならない。なお指揮して、山険に即して屋舎を造り、居住に便利ならしめ、征防に備え、擅に役使してはならないとした。

先に、麟・府・豊州も閑田を以て募って設置し、人ごとに屋舎を与え、口糧二石を貸し与えた。そして徳順軍静辺砦の壕外の弓箭手は特に勁勇であった。夏人はその地を利し、しばしば来て争い占領しようとしたため、朝廷はこれがために堡塁を築き守備させた。治平末年(1067年)に至るまで、河東七州軍の弓箭手は総計七千五百人、陝西十州軍および砦戸は総計四万六千三百人であった。先に、康定元年(1040年)、詔して麟・府州に帰業する人を募り義軍を増補させ、その本戸の旧地を耕させてその税租を免じた。その制度は弓箭手とほぼ同じであったが、田を与えなかった。

熙寧二年(1069年)、兵部が上奏した、河東七郡の旧籍は七千五、今の籍は七千である。陝西十郡および砦戸の旧籍は四万六千三百であるが、今はただ秦鳳路に砦戸があるのみである、と。

熙寧三年(1070年)、秦鳳路経略使の李師中が言上した、「一昨年、熟羊などの堡を築き、蕃部に地を献じさせ、弓箭手を設置した。今に至るまで三年になるが、募った者は良民ではなく、初めから団結訓練せず、田事に力を尽くさない。今、屯を置き堡を列ね、戦守の計とすべきである。屯を置く法は、百人を一屯とし、旁塞の堡に田を授け、将校に農事を領させ、休む時には武技を教える。その牛具・農器・旗鼓の類は全て官が与える。堡を置く法は、諸屯が力を合わせ、近くから遠くまで堡を築いて寇の来襲に備え、寇が退いたならば悉く出て掩撃する」と。これに従った。

熙寧五年(1072年)、趙禼が鄜延路を担当し、その地一万五千九百頃を以て、漢・蕃の弓箭手四千九百人を募った。帝はその募兵の費用を節減できることを嘉し、褒賞した。六年、趙禼が言上した、新たに募った弓箭手はかなり武技に習熟したので、番代して正兵を京師に帰還させることを請う、と。詔して審議させた。十月、詔して熙河路に公田を以て弓箭手を募らせ、その旁塞の民で強勇で自ら田を占め、租賦を納め、保伍を聯ねようとする者、あるいは義勇で応募を願う者、あるいは民戸で蕃部の地を受けようとする者は聴許するとした。

熙寧七年(1074年)正月、帯禦器械の王中正が熙河路に赴き、土田を以て弓箭手を募った。募る人は路分の遠近に拘わらず、常格に依らず、官を差して召募し、なお自ら提挙した。三月、王韶が言上した、「河州の近城川地では漢人弓箭手を招くほか、その山坡地では蕃人弓箭手を招き、人ごとに地一頃を与え、蕃官には二頃、大蕃官には三頃を与える。なお漢人弓箭手らを甲頭に募り、招集の人数に及んだならば、節級人員を補任し、蕃官とともに管勾させる。従来、出軍の際、多くは漢兵が蕃兵を盗み殺し、これを首功とした。今、蕃兵は各々左耳前に'蕃兵'の字を刺すことを願っている」と。これに従った。十月、中書条例司が請うた、五路の弓箭手・砦戸は、防拓・巡警および緩急の事は差発を許すが、もし城を修築するなどの役務については、即ち経略安撫司・鈐轄司に申告すること。擅に差発し、あるいは科配・和雇した者は、全て違制の罪に処する、と。これに従った。その夔州路の義軍、広南の槍手・土丁・峒丁、湖南の弩手、福建の郷丁・槍手も、この法に依る。

熙寧八年(1075年)、詔して涇原路の七駐泊就糧上下番の正兵・弓箭手・蕃兵約七万余人を五将に分け、別に熙河策応将の副将を置いた。十年、延州知事の呂惠卿が言上した、「熙寧五年以来、招集した弓箭手は、ただ権宜的に差補しただけで、未だ指揮として団定していない。本司は今、本路の団結将分を団成して指揮都分とし、将校を置いて統轄させれば、臨時に容易に勾集できる」と。これに従った。

元豊二年(1079年)、計議措置辺防所が言上した、涇原路の正兵・漢蕃弓箭手を十一将とし、諸州に分駐させる、と。これに従った。

元豊三年(1080年)、詔した、「凡そ弓箭手の兵・騎は各々五十人を一隊とし、引戦・旗頭・左右傔旗を置き、また本属の酋首将校を以て擁隊とし、全て正軍の法の如くせよ。蕃捉生・蕃敢勇・山河戸もまた同様とする。凡そ弓箭手・蕃捉生・強人・山河戸を募るには、等様を問わず、ただ保任があり、年十七以上、弓射七斗、負帯に耐える者を募れ。鄜延路の新旧の蕃捉生、環慶路の強人、諸路の漢人弓箭手、鄜延路の帰明界保毅蕃戸弓箭手は、皆手の甲に墨を入れよ」と。

元豊四年(1081年)、涇原路経略司が言上した、「本路の弓箭手に欠く地九千七百頃あり、渭州隴山一帯の川原陂地四千余頃は、弓箭手二千余人を募ることができる。あるいは応募を願わないならば、その地を収めて官有とすることを請う」と。熙河路都大経制司が言上した、「熙河の旧例に依り、涇原・秦鳳路、環慶および熙河路の弓箭手の投換を許し、なお旧戸の田土を帯びさせ、二年耕作したならば、即ち官に収め、別に弓箭手を招集することを請う」と。皆これに従った。

五年正月、鄜延路経略司が新たに回復した米脂・呉堡・義合・細浮図・塞門の五砦の地に漢蕃弓箭手を置き、春耕に合わせて耕作させ、その規律・補職などはすべて旧条を用いることを請うた。これを聴く。二月、詔して提挙熙河等路弓箭手・営田・蕃部を一つの司とし、涇原路制置司に隷属させる。四月、詔して「蕃弓箭手が陣没した場合は、漢弓箭手の例に依って葬送料を給付する。弓箭手が出戦し、傷つきあるいは病弱で自ら帰還できない者は、すべて軍例に依ってその家に賜う」とす。七月、提挙熙河路弓箭手営田蕃部司の康識と、兼提挙営田の張大寧が言うには「新たに回復した地に官を差し分画して経界を定め、農事に通じた廂軍を選んで耕作させ、一頃ごとに一人とする。その部押人員・節級および雇助人工の歳入賞罰は、すべて熙河官荘法を用いる。その余はすべて弓箭手を招いて営田させ、五十頃ごとに一営とし、農事に通じた官一員を差して担当させることを請う」と。これを聴く。

六年、鄜延路経略司が言うには「弓箭手が近裏の県に田地を二か所持ち、戸籍を立てて四丁以上ある者は、一丁を取って保甲とし、一丁を弓箭手とすることを請う。二丁から三丁の者は、しばらく弓箭手に充てるように命じる」と。詔して保甲が弓箭手を志願する者は聴許し、現に弓箭手を務めている者は丁役に当たらせ、退いて保甲に就くことを許さず、陝西・河東もこれに同じくする。

八年、詔して秦鳳路に場を設けて弓箭手を集め教練することを罷め、経略司に土人の教練に適した法を講究して立法するよう命ず。

元祐元年、詔して提挙熙河等路弓箭営田蕃部司を罷める。三年、兵部が言うには「涇原路隴山一帯の官有地は、例として人に侵され冒領され、ほとんど賦役がない。朝廷自らが局を置き招置・摽撥しなければ、奸弊を杜絶することはできない」と。これを聴く。その後、殿前司副都指揮使劉昌祚が奏上して隴山の地を根括したところ凡そ一万九百九十頃、弓箭手の人馬を招置して凡そ五千二百六十一となり、勅書を賜って褒め諭された。四年、詔して隴山一帯の弓箭手人馬を別に一将を置いて管轄させ、なお涇原路第十二将を以て名とする。五年、詔して戸部に官を遣わし熙河蘭岷路に赴き孫路に代わって弓箭手の土田を措置させる。

紹聖元年、枢密院が言うには「熙河蘭岷路経略司が奏上するに、本路の弓箭手は、展置以来、累戦を経ており、そのうち戦功により三班差使以上に補された者は、すべて所属に帰して差使させ、その田地は親族に承刺させ、もし親族がいなければ別に人を召して承継させることを望む」と。三年正月、詔して「今後漢蕃人が互いに弓箭手に投じる者は、官司はこれを収刺してはならず、違反した者は杖一百とする」と。五月、詔して在京府界・諸路の馬軍槍手をすべて弓箭手に改充させ、兼ねて蕃槍を習わせる。四年、詔して張詢・巴宜に専ら安西・金城の膏腴の地の頃畝を根括させ、弓箭手を若干人招置できるか、団結の状況を具して奏上させる。

元符元年二月、枢密院が言うには「鐘傳が奏上するに、近ごろ涇原に赴き章楶とともに天都山・南牟などの進築を講究した。今考えるに青南訥心を展置するならば、一将を置く必要がある。熙・秦両路から暫定的に移すことを請う。新城内の土田はすべて弓箭手を招き、なお提挙官二員を置く。熙・秦両路の弓箭手は、毎指揮三百人を定員とし、二十指揮を招置することを請う。一二年の間に、数千の民兵を得て武備を充実させるべきである」と。これを聴く。七月、詔して「陝西・河東路の新城砦は弓箭手を招き投換すべきである。元祐八年四月の他路の弓箭手を招いてはならないという指揮は用いない」と。三年、提挙涇原路弓箭手の安師文が涇州知州となり、提挙弓箭手司を罷める。

崇寧元年九月、枢密院が勘会して「陝西五路および河東は、紹聖以来開斥されて以来、疆土が甚だ広く、遠いところは数百里、近いところも百里を下らず、罷兵以来、未だ措置されていない。田地は多く膏腴であるが、累次詔を降して弓箭手を置いたにもかかわらず、多くは貧乏で、あるいは逃走に至る。州県鎮砦の汚吏豪民が沃壤を冒占し、利益は平民に及ばず、かつ旧疆に縁って新土を侵佔している。今官を遣わし逐路に分かれて提挙措置させ、新疆の土田に関わるすべてについて、腴瘠を分定し、弓箭手を招置し、新たに降された条法を推行する。旧弓箭手が新疆に出佃することを望む者も、相度して施行させる」と。詔して湯景仁を河東路に、董采を秦鳳路に、陶節夫を環慶路に、安師文を鄜延路に、いずれも提挙弓箭手とする。元符三年に提挙司を罷めたが、今また置く。

崇寧二年十一月、安師文が奏上するには「権通判徳順軍事盧逢原の申し立てによると、根括打量して四将の地分管下五砦・新たに占めた旧辺壕外地合わせて四万八千七百三十一頃有余を出したので、特に優賞を賜わることを請う」と。詔して安師文に特に左朝議大夫を授け、差遣は元の如しとす。盧逢原に特に朝請郎を授く。

二年九月、熙河路都転運使鄭僅が詔を受けて熙河新疆の辺防利害を相度措置し、鄭僅が奏上するには「朝廷が田地を与えて漢蕃弓箭手を養うのは、本来辺面を藩扞し、家産を顧慮させ、人自ら力を尽くさせるためである。今、境域がますます遠くに拓け、熙・秦の漢蕃弓箭手は却って腹裏にあり、道理に合えば移出すべきである。しかし人情として移転を重んじるので、しばらく一家ごとに一丁を選び、官が口糧を与え、耕夫を団成して官荘を佃わせることを請う。成熟の日には、糧種を除いて、半分は官に入れ、半分は耕夫に給し、次第が整い次第、その便に聴する」と。これを聴く。

五年三月、趙挺之が言うには「湟・鄯を回復して以来、歳費として朝廷の供億は一千五百余万に及ぶ。鄭僅が初めて官荘の議を建てた時、朝廷はその歳入を会計させたが、凡そ五荘の収入でようやく一荘の費用を支えることができる。そもそも鄯・湟は西蕃の二小国であり、湟州を邈川といい、鄯州を青唐といい、河南と合わせて本来三国であり、その地は河に臨み、沃壤が多い。昔三国が分拠していた時、民はその国に厚く供輸し、また毎族それぞれ酋長を有して統領し、いずれも衣食贍足で、所属の民から取っていた。朝廷が回復して以来、名目上は蕃民に各々旧地を占めて居住させているが、実際には屡々戦闘を繰り返し、殺戮・竄逐されて、残存する者は僅かである。今、兵将官・帥臣・知州は多く閑民を召して居住させ、貪冒の者は金を受け取って田地を与え、またひそかにその羊馬駝畜を取るが、官に供する租賦は一毫もない。もし昔三国に輸していたものの百分の一を県官に入れれば、即ち湟州の資費は余りあるであろう」と。帝は深くこれを然りとする。

翌日、知樞密院張康國が入見し、新たに帰順した民に租税を課すべきでないと強く主張し、民衆の心情をかき乱す恐れがあると述べ、また蕃民は既に手の甲に刺青して兵士となっているのに、どうしてさらに租賦を課せられようかと言った。帝はそこで宣諭して言った、「新民は動揺させてはならぬ。それに既に多く弓箭手を招くよう命じた。」廷之が上奏した、「弓箭手は、官が土地を与えて租税を課さない、これが中国の法です。蕃兵の場合は、その旧来の習わしで既に供給物資を納めており、出戦すればまた人皆が兵となるので、弓箭手とは比べものになりません。今、朝廷は莫大な費用を費やし、数年をかけてこの西蕃の地を得たのに、もし少しも収入がなく、官吏や戍卒の糧秣の費用が全て朝廷から出るならば、なんという拙い計画でしょうか。」帝は言った、「既に姚雄に計画させている。」当時、累次の詔で姚雄に空閑地を調査させ、人を募って開墾させ課税を出させていたので、帝は深く挺之の上奏を正しいと思った。挺之はまた言った、「鄯州・湟州が回復して以来、羌人はたびたび反乱し、溪撦羅撒は逃走して夏国に降り、夏国は彼を受け入れ、しばしば辺境を侵し、兵備は緩められず、糧秣の輸送は極めて困難である。和糴で穀物を買い入れるのに、鄯州では一石の価格が七十貫に至り、湟州では五十余貫である。倉場は商人が入中して請け取るのを利し、官吏は斛斗の支給を請うのを利し、中官は百倍の利益を得て、人々皆が富んでいる。これによって上下が互いに欺き、朝廷の害となっている。」

熙寧三年、熙河運司が歳計が不足することを理由に、官茶で博糴することを請い、茶三斤ごとに粟一斛と交換すれば、その利益は甚だ大きいとした。朝廷は、茶馬司は本来馬を博易するためのもので、博糴には用いるべきでないとし、茶馬司の歳額の外に、川茶の両倍茶を増買し、朝廷が別に銭二百万を出して支給し、提刑司に封樁させた。また茶馬官の程之邵に転運使を兼ねさせた。これによって数年は辺境の費用がほぼ足りた。そして挺之が再び宰相となると、熙河漕司がたびたび軍糧不足を急務として申し出たので、去年の支出した銭の総数が一千一百万馱(一馱の価格は三千から四十千)であり、二百馱の転送は計り知れず、今年は既に銀・銭・絹など合計九百万を割り当てたのに、さらに両倍茶一百万馱を支給するよう命じた。張康国が共に進呈し、聖旨を得たが、密かに元豊以来の茶は博馬のみに用いるという指揮を検索して進呈した。しかし康国は、両倍茶は本来博馬の数には含まれないことを知らず、何執中・鄧洵武が雑然とこれに同調した。これによって両倍茶はさらに支給されなくなり、鄯州・湟州の兵費が不足するようになった。

七年、詔した、「辺境の土地は広いが耕墾が行き届かず、肥沃な土地が荒れ閑き、芻粟の価格が高騰し、歳糴の費用は少なくない。先に累次指揮を下し、涇原路経略司と提挙弓箭手司に措置させ、人を募って開墾させ、塞下の穀物蓄積を助け、備辺のための無限の利益とさせた。訪聞すると、提挙弓箭手司と経略司の見解が異なり、措置や議論において、和協を図っていない。その提挙涇原路弓箭手の銭帰善を罷免せよ。」

大観三年二月、臣僚が言上した、「西寧州を回復して以来、供給は常に多く、しかし儲蓄は広まらず、買価は数回にわたって上昇し、市の物価もそれに伴って高騰し、地利は開拓されず、兵籍は充足しない。これは招集の方法が講じられず、勧利の法が興されないためである。帥臣・監司に委ねて講求させ、募兵か招集か、どうすれば弓箭手の数を充足させて欠けることなきようにできるか、あるいは拘束か誘導か、どうすれば蕃部に定住させて耕作を責められるかを、期せ。田が開墾されれば穀物は自然に満ち、募兵が充足すれば兵はますます振るう。これこそ班超の功績を収め、趙充国の利益を尽くすものである。」詔した、「熙州・河州・洮州・岷州は前後して回復したが、歳月が深く久しく、その地を得てもその利を得ず、その民を得てもその用を得ていない。地利が開拓されず、兵籍が充足せず、歳ごとに朝廷の供給に依存するのは、持久の道ではない。本末を詳しく究明し、条画して上奏せよ。」

政和三年、秦鳳路経略安撫使何常が上奏した。

古来、行師用兵は、騎兵か歩兵か、概ね地形による。兵法に曰く、「蕃兵は勁馬をもって奔沖し、漢兵は強弩をもって掎角す」と。これは蕃は馬に長け、漢は弩に長けるからである。今はそうではない。西賊には山間部落で「歩跋子」と呼ばれる者がおり、山坡を上下し、渓澗を出入りし、最も高きを逾え遠きを超え、足軽くして善く走る。平夏騎兵で「鉄鷂子」と呼ばれる者がおり、百里を走り、千里を期し、最もよく倏かに往き忽かに来たり、電撃雲飛の如し。平原の馳騁に適した場所で敵に遇えば、多くは鉄鷂子を用いて沖冒奔突の兵とし、山谷の深険な場所で敵に遇えば、多くは歩跋子を用いて撃刺掩襲の用をなす。これが西人の歩騎の長所である。我が諸路の塞に並ぶ民は、皆弓箭手の地分であり、平素は田猟騎射を能とし、緊急時には追逐馳騁を尊ぶ。また沿辺の土兵は、山川に習熟し、馳驟に慣れている。関東の戍卒は、多くが硬弩手及び摽牌手であり、賊の勁矢を防ぐだけでなく、賊の馬を驚かせ潰走させることもできる。これが中国の歩騎の利である。

至道年間、王超・丁罕らが李継遷を討伐した時、馬上で弩を用い、賊に遇えば則ち万弩斉発し、賊は手足を措くところなくして遁走した。また元豊年間、劉昌祚らが霊州に向かった時、賊衆が隘を守り、官軍は進めなかった。そこで牌子を先鋒とし、賊が下馬して官軍に臨むと、その勢いは甚だ盛んであったが、昌祚らは牌子を以て踢跳閃爍させ、響環を振って、賊の馬を驚かせ潰走させた。もし山林険隘の場所で賊に遇えば、先ず牌子で賊を遮り、次に勁弓強弩と神臂弓で賊の先鋒を射れば、則ち矢は虚しく発せず、皆心を穿ち臆に達するであろう。もし平原広野の間で賊に遇えば、則ち馬上で弩を攅射すれば、一発で皆殪すことができる。牌子と馬上での弩の使用は、共に既に試みられた効果であり、講じざるべからざるものである。先に言うところの勁馬奔沖、強弩掎角、その利を両得し、賊の歩跋子と鉄鷂子は皆破るに足りない。また歩兵の中では、必ず先ずその魁健で材力ある兵卒を選び、皆斬馬刀を用い、別に一将がこれを統率する、唐の李嗣業が陌刀を用いた法の如く。鉄鷂子が衝突し、我が陣脚を掠め、あるいは我が歩兵を践踏するに遇えば、則ち斬馬刀を用いて進む、これが勝利の一奇である。

詔して樞密院に諸路経略司に劄を下すよう命じた。

四年、詔した、「西羌は久しく辺患となり、乍叛乍服し、譎詐常ならず。かつて先朝において、使者が朝廷に在った時でさえ、なお境を犯すことがあった。今、養い積み重ねること数年、たびたび飢饉に遭い久しく困窮しているが、誓表を進めたとはいえ、羌夷の性格はその行く末を保証しない。無事の時に備禦を修め、萃聚の際に不虞を戒めることは、正に今日にある。陝西・河東路の帥臣に兵伍を訓練させ、軍器を整え治め、楼櫓を繕修し、芻糧を収積させ、常に寇の至るが如くせよ。既に誓表を進めたからといって、軽々しく弛怠し、その奸謀に堕してはならない。すべての弓箭手・蕃兵には、常に優恤させ、逃亡者は速やかに招補し、貧乏者にも貸借させよ。将佐偏裨で、もし軟懦で職を失する者がいれば、名を具して奏聞せよ。あるいは寇が至って事を失すれば、並びに軍法を行え。」

五年二月、詔して曰く、「陝西・河東の逐路は、紹聖以来辺疆を開拓して以来、及び西寧・湟・廓・洮州・積石等の処の新辺には、各々良田を包占し、併せて弓箭手を招置し、以て辺防の籬落と爲すべきなり。今に至るまで累年、曠土尚だ多く、応募の人数未だ広からず。蓋し専ら提挙官を置くを罷め、経略司に隷属せしめてより、事権専らならず、頗る措置を失うに縁る。根括打量・催督開墾・理断交侵等の職事は、尽く極辺に在りて、帥臣親しく到る由無し。即今夏人貢を通じ、辺鄙安静なり。若し此に乗じて官を委し往来督責し、多方弓箭手を招刺し閒田を墾辟し、辺計を補助し、以て飛輓の労を寬げざれば、窃に因循浸久にして、曠土愈多く、民兵の人額を銷耗し、辺防の大計に害有らんことを慮る。兼ねて提挙の文臣は翰墨を玩習し、多く安養を務め、能く寒暑を沖冒するは罕なり。可く陝西・河東の逐路に令し、並びに復た提挙弓箭手司を置き、仍て各武臣一員を選差して充てしめ、理任・請給・恩数等は並びに提挙保甲の条例に依り施行せしむべし。毎路各幹當公事使臣二員を置く。仍て毎歳枢密院をして逐路の招到したる弓箭手並びに開墾過したる地土を取索せしめ、優劣殿最を比較し、旨を取って黜陟せしむべし。措置を合する事節は、差したる官条画を以て聞すべし」と。

八月、枢密院言う、「近裏の弓箭手の地を将ち、但だ争訟侵冒の処有らば、並びに行い打量し、庶幾く侵冒の弊を杜絶せんと欲す」と。之に従う。是の月、提挙河東路弓箭手司奏す、「本司体訪して得たり、沿辺の州軍逐処弓箭手を招置するに、多く人戸の旧に用工開耕したる地を将ち指射剗奪し、其の旧佃人遂に失業に至る。且つ租する所は、僅かに佃戸の五分之一に比し、公私に俱に便ならず。今将ちに官莊屯田に系り已に人租佃すること五年に及ぶ者を、並びに弓箭手を招置し請射するの限に在らざらしめんと欲す。其の河東路察訪司は初め辺防の民兵を以て重しと爲さず、佃戸を姑息し、此の弊を致す。欲しくは応に熙寧八年以前の人戸の官田を租佃するを、並びに先ず佃人を取問し、如し弓箭手に投刺するを願はば、一丁を出す毎に、条に依り見佃の田二頃五十畝を給して人馬地に充てしむるを許し、若し弓箭手に充るるを願はざる、及び出丁の外尚だ請占不尽の地土有らば、即ち官に拘収すべし」と。之に従う。

十一月、辺防司奏す、「提挙熙河蘭湟路弓箭手何灌の申すに拠る:漢人の田を買うこと常に多く、比来打量に縁り、其人亦自ら安からず、首陳已に一千余頃に及ぶ。若し弓箭手を招かば、即ち五百人を得可し。若し租税を納めしむれば、毎畝三斗五升・草二束、一歳の間亦米三万五千石・草二十万束を得可し。今相度して将ちに漢人の置買して蕃部の土田に到り弓箭手と爲るを願う者を、両頃已上は一名を刺し、四頃已上は両名を刺さんと欲す。願う者有らば、条に依り租税を立定して輸納せしむ。其の巧みに影占を爲す者は、重ねて禁止すべし」と。之に従う。

七年三月、詔して曰く、「熙・河・鄯・湟は開拓以来より、疆土広しと雖も地利悉く羌に帰属し、官兵吏祿縣官に仰給し、後計と爲す可からず。本路の帥臣に仰ぎ相度し、錢糧茶彩を以て或いは羌人の嗜む所の物を以て、之と田土を貿易せしむべし。田土既に多ければ、即ち弓箭手を招置し、入りて耕し出でて戦い、以て辺圉を固くすべし」と。

宣和六年七月、詔して曰く、「已に処分を降す、陝西は昨地震に因り屋宇を摧塌し、弓箭手を死傷するに因り、内合承襲の人を、速やかに保明を具して聞奏せしむべし」と。

靖康元年二月、臣僚言う、「陝西は弓箭手を恃みて国の藩籬と爲す、旧帥府に隷す、比年始めて提挙弓箭手官を置き、務めて数多きを取るを以て功と自ら爲す。是より選練精ならず、遂に法制を浸して壞す。欲しくは詳酌し、提挙官を罷め、弓箭手を以て復た帥司に隷し、務めて以て辺声を振わんことを求むべし」と。詔して之に従う、河東路此に依る。四月、枢密院奏す、「陝西・河東の逐路の漢弓箭手は自來並びに肥饒の田を給し、近年以来、多く旧人の已に給したる田を分擘し、新人を招刺す。蓋し提挙官の賞を貪り欺蔽するに縁り、務めて数多きを要し、妄りに招刺を行い、激勸する無し。朝廷近く已に提挙官を罷む、今復た帥司の轄する所に隷す、況んや当今の辺事全く民兵に藉る、若し早く計らざれば、深く事を誤らんことを慮る」と。詔して陝西五路制置使錢蓋及び陝西・河東の逐路の帥臣に令し相度措置し、已に分擘したる弓箭手の田土を、旧に依り改正撥還し、所有の新たに招到したる人を別に地を給し、務めて均濟せしむべし。仍て帥臣に仰ぎ厳切に奉行せしむ。是の月、徐處仁又奏す、詔して並びに詳議司に送る。

熙寧五年、涇原路経略司蔡挺言う、「涇原の勇敢三百四十四人、久しく揀練せず、徒らに虚名有り。臣二将領に委ね季ごとに一点閲し、其の騎射の能否を校して升除し、功有る者を補いて隊長と爲し、極塞の博軍子嘗て戦陣を歴る者を募りて其の闕を補う。益々熟戸蕃部を募りて蕃勇敢と爲し、凡そ一千三百八十人、騎一千一百九十四匹、弓一石を挽き、馳逐撃刺法の如し。其の功有る者は勇敢の下等の奉を受け、余は調発に遇うれば、則ち人ごとに奉三百を給し、芻糧を以て益す」と。詔して諸路に挺の言う如く行わしむ。

六年、枢密院言う、「勇敢・效用は皆材武を以て応募して軍に従い、廩食既に優なり、戦馬戎械の具は皆公上より出だし、平時又家居するを得、労效を以て賞する者は凡そ四補して借職に至り、弓箭手に校ぶれば十資を減じ、淹速相遠く、甚だ朝廷の功を第し賞を均しくするの意に非ず。請う自今より河東・鄜延・秦鳳・環慶・熙河路は各三百を以て、涇原路は五百を以て額と爲すべし。第一等は歩射弓一石一斗、馬射九斗、奉錢千。第二等以下は一斗を遞減し、奉七百より五百に至る。季首に経略司に閲試し、射親及び野戦に中る者には賞有り、全く中らざる者は其の奉を削り、次季又中らざる者は之を罷む。戦いて功有る者は八等を以て賞を定む:一、公據を給す、二、隊長と爲す、三、守闕軍将、四、軍将、五、殿侍、六、三班借差、七、差使、八、借職。其の弓箭手功有るも、亦八等を以て賞を定む:一、押官、承局、二、将、虞候、十将、三、副兵馬使、軍使、四、副指揮使、五、都虞候、六、都指揮使、七、三班差使、八、借職。即ち闕を以て排連する者を次遷す。

元豐三年、詔して涇原路に勇敢を募ることを鄜延路の如くし、百人を以て額と爲す。是より以後、蕃部益々衆く、而して弓箭手多く蕃兵と爲る。

河北等路弓箭社

弓箭社は河北旧より之あり。熙寧三年十二月、知定州滕甫言う、「河北の州縣山谷に近き処、民間各弓箭社及び獵射人有り、習慣便利、夷人と異なる無し。欲しくは本道の逐州縣に下し、並びに諸色の公人及び城郭郷村の百姓に武勇有り弓箭を習わんことを願う者を募り、自ら之を社と爲さしむ。歳の春毎に、長吏就きて閲試す。北人は勁悍、緩急用うる可し」と。之に従う。

元祐八年十一月、定州知事蘇軾が言うには、

北辺は久しく和し、河朔に事無し。沿辺の諸郡は、軍政稍々弛み、将驕り卒惰り、緩急には恐らく用いるべからず。武藝軍裝は、皆陝西・河東に遠く及ばず。即目の邊防事勢に據れば、三五年の間必ず警急無からんと雖も、然れども安に居りて危を慮ふは、國の常なり。備へ事を素より講ぜずんば、變に應じ難し。臣が觀るに、祖宗以來、沿邊の要害に重兵を屯聚するは、只國威を壯にして敵謀を消すを以てす。蓋し所謂る先聲後實、形格勢禁の道なり。若し進取して深入し、兩陣に交鋒せば、猶當に禁旅を雜用すべし。平日本を保ち、小寇を備禦するに至りては、即ち須らく專ら極邊の土人を用ふべし。此れ古今不易の論なり。

晁錯が漢文帝と備邊の策を畫くは、二事に過ぎず。其一は遠方を徙して以て空虛を實にする、其二は邊縣を制して以て敵國に備ふ。寶元・慶曆の中、趙元昊反し、兵四十餘萬を屯し、宣毅・保捷二十五萬人を招刺すれども、皆其の用を得ず、卒に成功無し。范仲淹・劉{山成}・種世衡等は專ら蕃漢熟戶・弓箭手を整緝するを務め、其の家を封殖し、其の人を砥礪する所以の者は一道に非ず。藩籬既に成り、賊來て得る所無く、故に元昊復た臣す。今河朔西路の被邊州軍は、澶淵の講和以來、百姓自ら相團結して弓箭社と爲り、家業の高下を論ぜず、戶一人を出す。又自ら相推擇して家資武藝衆の服する所なる者を社頭・社副・錄事と爲し、之を頭目と謂ふ。弓を帶びて鋤き、劍を佩びて樵り、出入山阪し、飲食長技は敵國と同し。賞罰を私立し、官府より嚴なり。番を分ちて巡邏し、鋪屋相望み、若し北賊を透漏し及び本土強盜を獲ずれば、其の當番人皆重罰有り。其の警急に遇へば、鼓を擊てば、頃刻に千人を致す可し。器甲鞍馬は、常に寇至るが若し。蓋し親戚墳墓の在る所、人自ら戰ひを爲し、敵深く之を畏る。先朝の名臣定州を帥る者韓琦・龐籍は、皆意を加へて其の人を拊循し、以て爪牙耳目の用と爲し、而して籍は又其の約束賞罰を增損せり。

熙寧六年、保甲法を行ひ、強壯・弓箭社並びに廢罷せらる。熙寧七年、應兩地供輸人戶は、元弓箭社・強壯並びに義勇の類有るを除き、依舊存留する外、更に保甲を編排せず。件の兩次の聖旨を看詳するに、兩地供輸村分を除き方に弓箭社を依舊置くを許し、其の餘は併せて廢罷すべし。件の指揮有るも、公私相承け、元廢罷せず、只弓箭社兩丁以上人戶に令し保甲を兼充せしめ、以て逐捕本界及び他盜賊に至るまで、皆弓箭社人戶を驅使して用命して捉殺せしむ。見今の州縣は、全く此等に藉りて寅夜防拓し、灼然に弓箭社は實に邊防の要用たるを見る。其の勢決して廢す可からず。但だ保甲を兼充するの故を以て、召集追呼し、勞費して業を失ふ。今名目俱に存すと雖も、其の實用を責むれば、往日に逮ばず。

臣竊に謂ふ、陝西・河東の弓箭手は、官良田を給し、以て甲馬に備ふ。今河朔沿邊の弓箭社は、皆人戶の祖業田產なり。官毫釐の損無くして、軀を捐て邊を捍ぎ、器甲鞍馬は陝西・河東と異ならず。苦樂相遠く、未だ其の用を盡さず。近日霸州文安縣及び真定府北砦に、皆北賊有りて人戶を驚劫し、捕盜官吏拱手相視し、之を如何ともする無く、以て禁軍・弓手皆得力せざるを驗す。向ひに使ひ州縣逐處に皆弓箭社有らしめ、人戶致命盡力せしめば、則ち北賊豈に敢へて輕く邊砦を犯し、無人の境に入るが如くならんや。臣已に本路の將吏を戒飭し、賞罰を申嚴し、意を加へて其の人を拊循し、輒ち復た龐籍の舊奏約束を拾用し、稍々增損を加へ、別に條目を立てんとす。朝廷に法を立て、少しく優異を賜ひ、賞罰を明設し、以て懲勸を示さんことを乞はんと欲す。今已に密切に取會して本路極邊の定・保兩州、安肅・廣信・順安三軍邊面七縣一砦内に管する自來團結弓箭社五百八十八社、六百五十一火、共計三萬一千四百十一人に到る。若し朝廷以て可行と爲さば、法立つ後、更に將吏を敕して常に拊循を加へしめ、三萬餘人をして番を分ち晝夜巡邏せしめ、盜邊の小寇來れば即ち擒獲し、狃𢗗して以て戎心を生ぜしめざらしめん。而して事皆舊に循ひ、改作する所無く、敵疑畏せず、事を生ずる由無く、利有りて害無く、較然として見る可し。

奏凡そ兩たび上るも、皆報ぜず。

政和六年、詔す、「河北路に弓箭社縣分有るは、已に異等を解發せしむ。其の逐路の縣令佐は、歲終の教閱異等を俟ち、帥司優劣の最を具し、各旨を取て賞罰し、以て勸沮と爲す。仍令と爲すことを具すべし。」又高陽關路安撫司言ふ、「大觀三年弓箭社人は《保甲法》・《政和保甲格》に依り最優劣を較べ、縣令各磨勘年を減展すること差有り。」詔して《保甲格》に依り賞罰施行せしむ。

宣和七年二月、臣僚言ふ、

往年西路提刑梁揚祖奏請して民戶を勸誘し弓箭社に充せしめ、繼ひて東路に下し令して西路の例に仿ひ招誘せしむ。原ふる立法の意は、鄉民自ら願ひて社に入る者をして武備を閱習せしめ、賊を禦ぐの具と爲すに過ぎざる爾。奈何んぞ功を邀へ事を生ずるの人は、唯社に入るの民衆多なるを以て功と爲し、厚く朝廷を誣ひて怨を民に斂め、州縣を督責すること星火の如く急にし、五等の籍を取て甲乙と次ぎ、家に至り戶に到り、胥を追ひ迫脅す。悉く之を驅りて社に入らしめ、更に免るる者無し。法始めて西路に行はる。西路既に已に厚賞を冒受し、於是に東路憲司前後論列し、誕謾滋甚し。近者東路の奏する所、數二十四萬一千七百人に至り、武藝優長なる者十一萬六千、且つ云く西路に比し僅に一倍多しと。陛下灼然に其の然らざるを知り、帥臣と廉訪使者を命じて核實せしむと雖も、彼安んぞ實を以て聞かん。今東路憲司の官屬と登・淄兩州の當職官、秩を增すに坐する者幾二十人、而して縣令・佐は及ばず。出入阡陌の間勸誘する者は誰なるかを知らず。此れ其の誕謾なるを知る可し。審らかに奏する所の如くならば、山東の寇、何ぞ累月淹時して未だ殄減を見ざるや。則ち其の奏する所の二十四萬と十一萬は、殆ど虛名有りて、賊を捍ぐに足らざる明らかなり。大抵因緣追擾し、民其の勞に堪へず、則ち老弱は轉徙して道路にし、強壯は起りて盜賊と爲る。此れ亦寇を致すの一端なり。

近ごろは仰せ煩わしくも陛下が将を遣わし師を出し、方略を授け、また近臣に詔を持たせて撫諭させ、内庫の蔵を発し、淮甸の粟を転じてこれを振給し、その税租を寛免し、その罪戾を蕩宥し、丁寧に細やかに、曲り尽くさざるはなし。まさに田畝に帰伏して、善に遷り罪を遠ざくの民とならんとす、詎んぞその甚だ病むところを以てこれを擾すべけんや。かつ私有の兵器は、律の禁甚だ厳し。三路の保伍の法は、農隙に武事を講ずるといえども、なお事畢れば則ち兵器は官府に蔵す。今弓箭社の一切の兵器は、民皆自ら家に蔵す、寇に借すに幾からずや。願わくは陛下聖心より断じ、京東弓箭社の名を罷め、蔵する兵器悉くこれを官に送り、民をして非時の追呼迫脅の擾を免れしめ、以てその生を安んぜしめよ。応に両路弓箭社に縁りて推恩する者並びに追奪改正し、首議の人重ねて黜責を賜い、後に奏請誕謾を為す者もまた乞う特に施行を賜い、庶幾くは群下悚懼し、敢えて妄りに曲説を進めてその奸を肆にすることなく、実に今日の先務なり。

詔して並びに奏に依らしむ、梁揚祖は職を落とし、兵器は並びに拘えて官に入れ、弓箭社人は已に降したる指揮に依り放散す。