宋史

志第一百五十四 刑法三

志第一百五十四 刑法三

天下に疑獄あり、讞議して決すること能わざるものは、則ち両制と大臣及び台諫をして雑議せしめ、その事の大小を視て、常法なく、而して有司の建請を論駁する者も、亦時に有り。

原文天下疑獄,讞有不能決,則下兩制與大臣若臺諫雜議,視其事之大小,無常法,而有司建請論駮者,亦時有焉。

端拱初年、広安軍の民安崇緒は禁兵に隷し、継母馮が父知逸と離縁したと訴え、今、資産を奪って己が子に与えると。大理寺は崇緒が母を訟ずるに当たり、罪は死とす。太宗之を疑い、判大理寺事張佖は固く前の断を執り、遂に台省をして雑議せしむ。徐鉉議して曰く「今第に其の母馮の嘗て離縁したることを明らかにせば、即ち須らく宗に帰すべし、否なれば即ち崇緒は法に準じて処死すべし。今案内を詳らかにするに、曾て離異せざるに、其の証四つ有り。況んや不孝の刑は、教の大なる者なり、宜しく刑部・大理寺の断に依るべし」。右僕射李昉等四十三人議して曰く「法寺の定断は不当なり。若し五母皆同じきを以てすれば、即ち阿蒲は賤しと雖も、乃ち崇緒の親母なり、崇緒は特ち田業を馮に強占せられ、親母の衣食給せざるを以て、所以に論訴するなり。若し法寺の断死に従わば、則ち知逸何の辜か有って嗣を絶ち、阿蒲何の地に身を托さん。臣等議す:田産並びに崇緒に帰し、馮は合わしく蒲と同居し、供侍して終身すべし。是くの如くせば、則ち子に父業を守る可く、馮は終身に至って乏養に至らず。所犯並びに赦に準じて原ゆ」。詔して昉等の議に従い、鉉・佖各々俸を一月奪う。

原文端拱初,廣安軍 民安崇緒隸禁兵,訴繼母馮與父知逸離,今奪資產與己子。大理當崇緒訟母,罪死。太宗疑之,判大理張佖固執前斷,遂下臺省雜議。徐鉉議曰:「今第明其母馮嘗離,即須歸宗,否即崇緒準法處死。今詳案內不曾離異,其證有四。况不孝之刑,教之大者,宜依刑部、大理寺斷。」右僕射李昉等四十三人議曰:「法寺定斷為不當。若以五母皆同,即阿蒲雖賤,乃崇緒親母,崇緒特以田業為馮強占,親母衣食不給,所以論訴。若從法寺斷死,則知逸何辜絕嗣,阿蒲何地托身?臣等議:田產並歸崇緒,馮合與蒲同居,供侍終身。如是,則子有父業可守,馮終身不至乏養。所犯並準赦原。」詔從昉等議,鉉、佖各奪奉一月。

熙寧元年七月、詔す「謀殺已だ傷つけ、按問して挙げんと欲し、自首するは、謀殺より二等を減じて論ず」。初め、登州奏す、婦阿云有り、母服中に韋に聘せられ、韋の醜陋を悪み、謀殺して死せず。按問して挙げんと欲し、自首す。審刑院・大理寺は死を論じ、違律を以て婚と為し奏裁し、敕して其の死を貸す。知登州許遵奏し、律を引き「犯に因り殺傷して自首するは、因の罪を免るるを得、仍って故殺傷の法に従う」と、謀を以て因と為し、当に按問欲挙の条を用いて二等を減ずべしと。刑部は審刑・大理の如く定む。時に遵方に召されて大理を判じ、御史台は遵を劾す、而して遵伏せず、請うて両制をして議せしむ。乃ち翰林学士司馬光・王安石をして同議せしむ、二人議同じからず、遂に各々奏を為す。光の議は刑部に是とし、安石の議は遵に是とす、詔して安石の議する所に従う。而して御史中丞滕甫は猶お再び官を選び定議を請い、御史銭顗は遵の大理を罷むるを請う、詔して翰林学士呂公著・韓維・知制誥銭公輔をして重ねて定めしむ。公著等の議は安石の如し、制して曰く「可」。ここに於いて法官斉恢・王師元・蔡冠卿等皆論奏して公著等の議する所を不当とす。又詔して安石と法官をして集議せしめ、反覆論難す。明年二月庚子、詔す「今後謀殺人自首するは、並びに奏して敕裁を聴く」。是の月、安石を参知政事に除く、ここに於いて奏して以て為す「律の意、犯に因り殺傷して自首するは、因の罪を免るるを得、仍って故殺傷の法に従う。若し已に殺せば、故殺の法に従う、則ち首たる者は必ず死す、須らく奏裁せず。従たる者は自ら編敕の奏裁の文有り、須らく復た新制を立つる無し」。唐介等と数え帝の前に争議し、卒に安石の議に従う。復詔す「自今並びに去年七月の詔書を以て事に従う」。判刑部劉述等又請うて中書・枢密院を合議せしめ、中丞呂誨・御史劉琦・銭顗皆請うて述の奏の如くし、之を二府に下す。帝以て律文甚だ明らかなりと為し、須らく合議せず。而して曾公亮等皆以て博く同異を尽くし、言者を厭塞するを傷無きと為し、乃ち衆議を枢密院に付す。文彦博以て為す「殺傷する者は、殺さんと欲して傷つくるなり、即ち已に殺したる者は首す可からず」。呂公弼以て為す「殺傷は律に於いて首す可からず。請う自今已に殺傷するは律に依り、其の従いて功を加え自首するは、即ち奏裁すべし」。陳升之・韓絳の議は安石と略同じ。会に富弼相に入り、帝弼をして議せしめ、而して疾病を以て、久しく議せず。ここに至りて乃ち決し、而して弼は告に在り、預からず。

原文熙寧元年七月,詔:「謀殺已傷,按問欲舉,自首,從謀殺減二等論。」初,登州奏有婦阿云,母服中聘於韋,惡韋醜陋,謀殺不死。按問欲舉,自首。審刑院、大理寺論死,用違律為婚奏裁,敕貸其死。知登州許遵奏,引律「因犯殺傷而自首,得免所因之罪,仍從故殺傷法」,以謀為所因,當用按問欲舉條減二等。刑部定如審刑、大理。時遵方召判大理,御史臺劾遵,而遵不伏,請下兩制議。乃令翰林學士司馬光、王安石同議,二人議不同,遂各為奏。光議是刑 部,安石議是遵,詔從安石所議。而御史中丞滕甫猶請再選官定議,御史錢顗請罷遵大理,詔送翰林學士呂公著、韓維、知制誥錢公輔重定。公著等議如安石,制曰「可」。於是法官齊恢、王師元、蔡冠卿等皆論奏公著等所議為不當。又詔安石與法官集議,反覆論難。明年二月庚子,詔:「今後謀殺人自首,並奏聽敕裁。」是月,除安石參知政事,於是奏以為:「律意,因犯殺傷而自首,得免所因之罪,仍從故殺傷法;若已殺,從故殺法,則為首者必死,不須奏裁;為從者自有編敕奏裁之文,不須復立新制。」與唐介等數爭議帝前,卒從安石議。復詔:「自今並以去年七月詔書從事。」判刑部劉述等又請中書、樞密院合議,中丞呂誨、御史劉琦、錢顗皆請如述奏,下之二府。帝以為律文甚明,不須合議。而曾公亮等皆以博盡同異、厭塞言者為無傷,乃以眾議付樞密院。文彥博以為:「殺傷者,欲殺而傷也,即已殺者不可首。」呂公弼以為:「殺傷於律不可首。請自今已殺傷依律,其從而加功自首,即奏裁。」陳升之、韓絳議與安石略同。會富弼入相,帝令弼議,而以疾病,久之弗議。至是乃決,而弼在告,不預也。

蘇州の民張朝の従兄、槍を以て朝の父を戳し死なせ、逃げ去る、朝之を執りて殺す。審刑院・大理寺は朝に十悪不睦の罪を当てて死とす。案既に上る、参知政事王安石言す「朝の父は従兄に殺さるる所と為り、而して朝報復して之を殺す、罪は加役流に止まり、赦に会い、応に原ゆべし」。帝安石の議に従い、特ち朝を釈して問わず。更に命じて呂公著等をして刑名を定議せしむ、議安石の意に称せず、乃ち自ら奏を具す。初め、曾公亮は中書の刑名を論正するを非と為し、安石曰く「有司刑を用うるに当たらず、則ち審刑院・大理寺当に論正すべし。審刑院・大理寺刑を用うるに当たらず、即ち官を差し定議すべし。議既に当たらず、即ち中書自ら宜しく論奏し、人主の取决を取るべし。此れ所謂国体なり。豈に中書刑名を論正す可からざるの理有らんや」。

原文蘇州民張朝之從兄以槍戳死朝父,逃去,朝執而殺之。審刑、大理當朝十惡不睦罪死。案既上,參知政事王安石言:「朝父為從兄所殺,而朝報殺之,罪止加役流,會赦,應原。」帝從安石議,特釋朝不問。更命呂公著等定議刑名,議不稱安石意,乃自具奏。初,曾公亮以中書論正刑名為非,安石曰:「有司用刑不當,則審刑、大理當論正;審刑、大理用刑不當,即差官定議;議既不當,即中書自宜論奏,取決人主。此所謂國體。豈有中書不可論正刑名之理。」

三年、中書上す刑名未だ安からざる者五つ:其一、歳に死刑を断ずること幾二千人、前代に比べて殊に多し。強劫盗の如き並びに死法有り、其の間情状軽重、絶えて相遠き者有り、使いて皆死に抵らしむれば、良に亦哀しむ可し。若し従にして情軽の人の為に別に刑を立て、前代の斬右趾の比の如くせば、足りて悪を止め害を除くに。禁軍辺防に屯戍せずして逃ぐる者は、亦更に首限を寛にして、以て其の勇力の効を収むべし。其二、徒・流の折杖の法、禁網密に加わり、良民偶々抵冒有り、肌体を傷つけ致し、終身の辱と為る。愚頑の徒は、一時創痛と雖も、而して終に愧恥無し。若し情理軽き者をして古の居作の法に復せしめ、赦に遇いて第に月日を減じ、良善の者をして改過自新を知らしめ、凶頑の者をして拘繫する所有らしむ。其三、刺配の法二百余条、其の間情理軽き者、亦古の徒流移郷の法に復す可く、其の再犯を俟ち、然る後に決刺して軍に充つべし。其の配隷並びに減じて本処に就かしめ、或いは近地に与うべし。凶頑の徒は、自ら旧法に従う。編管の人も、亦迭に他所に送り、量りて役作の時限を立て、鉗するを得ざらしむ。其の四、州県をして士民を考察せしめ、能く孝悌力田して衆の知る所と為る者有らば、帖を給して身に付す。偶々犯令有り、情軽く恕す可き者は、特ち贖罰を議す。其の悛まざる者は、科決すべし。其の五、奏裁の条目繁多、刑禁を淹らすに致る、亦宜しく刪定すべし。詔して編敕所に付し詳議して立法せしむ。

原文三年,中書上刑名未安者五:其一,歲斷死刑幾二千人,比前代殊多。如強劫盜並有死法,其間情狀輕重,有絕相遠者,使皆抵死,良亦可哀。若為從情輕之人別立刑,如前代斬右趾之比,足以止惡而除害。禁軍非在邊防屯戍而逃者,亦可更寬首限,以收其勇力之効。其二,徒、流折杖之法,禁網加密,良民偶有抵冒,致傷肌體,為終身之辱;愚頑之徒,雖一時創痛,而終無愧恥。若使情理輕者復古居作之法,遇赦第減月日,使良善者知改過自新,凶頑者有所拘繫。其三,刺配之法二百餘條,其間情理輕者,亦可復古徒流移鄉之法,俟其再犯,然後決刺充軍。其配隸並減就本處,或與近地。凶頑之徒,自從舊法。編管之人,亦迭送他所,量立役作時限,無得鉗。其四,令州縣考察士民,有能孝悌力田為眾所知者,給帖付身。偶有犯令,情輕可恕者,特議贖罰;其不悛者,科決。其五,奏裁條目繁多,致淹刑禁,亦宜刪定。詔付編敕所詳議立法。

初めに、韓絳が嘗て肉刑を用いることを請うたことがあり、曾布がまた上議して曰く、「先王の刑罰を制するや、未だ仁を本とせざるはなく、然れども肢体を断ち、肌膚を刻みて殺戮に至るものあり、已むを得ざるなり。蓋し人の罪あるや、贖刑以て之を懲らすに足らず、故に已むを得ずして之に墨・劓・剕・宮・大辟を加う。然れども軽重を審かに適せしむれば、則ち又流宥の法あり。漢の文帝に至り肉刑を除きて笞箠の令を定め、後世之に因りて律と為す。大辟の次、流刑を以て処し、墨・劓・剕・宮に代うるは、唯だ先王の流宥の意に非ざるのみならず、而して又軽重の差を失う。古は郷田同じ井にして、人皆安土して遷を重んず。之を遠方に流せば、資給する所無く、徒隸困辱し、以て終身に至る。近世の民は、軽くして郷井を去り、四方に転徙す、固より患と為さず、而して居作一年なれば、即ち附籍を聴す、古に比するも亦軽し。況んや折杖の法は、古に於ける鞭扑の刑にして、刑軽くして悪を止むること能わず、故に法を犯すこと日益に衆く、其の終必ず殺戮に至らんとす、是れ軽くせんと欲して却って重きに反するなり。今大辟の目至って多し、其の情貸すべき者を取り、之を肉刑を以て処せば、則ち人の生を獲る者必ず衆からん。若し軍士亡去して斬に応ずる者、賊盗贓満ちて絞に応ずる者は、則ち其の足を刖り、良人を犯して法に応じて死すべきも、而して情軽き者は宮刑を以て処す。劓・墨に至っては、則ち刺配の法を用う。此を降りて後に流・徒・杖・笞の罪と為せば、則ち刑を制すること差等有らん」と。議既に上るや、帝執政に可否を問う、王安石・馮京互いに論辨有り、遂に行わるること果たさず。

原文初,韓絳嘗請用肉刑,曾布復上議曰:「先王之制刑罰,未嘗不本於仁,然而有斷肢體、刻肌膚以至於殺戮,非得已也。蓋人之有罪,贖刑不足以懲之,故不得已而加之以墨、劓、剕、宮、大辟,然審適輕重,則又有流宥之法。至漢文帝除肉刑而定笞箠之令,後世因之以為律。大辟之次,處以流刑,代墨、劓、剕、宮,不惟非先王流宥之意,而又失輕重之差。古者鄉田同井,人皆安土重遷。流之遠方,無所資給,徒隸困辱,以至終身。近世之民,輕去鄉井,轉徙四方,固不為患,而居作一年,即聽附籍,比於古亦輕矣。况折杖之法,於古為鞭扑之刑,刑輕不能止惡,故犯法日益眾,其終必至於殺戮,是欲輕而反重也。今大辟之目至多,取其情可貸者,處之以肉刑,則人之獲生者必眾。若軍士亡去應斬,賊盜贓滿應絞,則刖其足;犯良人於法應死,而情輕者處以宮刑 。至於劓、墨,則用刺配之法。降此而後為流、徒、杖、笞之罪,則制刑有差等矣。」議既上,帝問可否於執政,王安石、馮京互有論辨,迄不果行。

樞密使文彥博も亦上言して曰く、「唐末・五代は、重典を用いて時弊を救う、故に法律の外、徒・流或いは死に加うるに至る。国家平を承けて百年、中典を用うべし、然れども猶因循し、旧律より重き者有り、若し官文書を偽造するは、律に止めて二千里を流す、今断じて絞に従う。近く凡そ印記を偽造し、再犯死に至らざる者も、亦絞坐に従う。夫れ杖を強盗するは、本法造印より重し、今造印再犯する者は死し、而して強盗再犯贓五匹に満たざる者は死せず、則ち刑を用うること甚だ律文に異なり。請う、刑名旧律より重き者を検詳し、以て敕律を参考し、其の当を裁定せん」と。詔して編敕所に送る。又詔して審刑院・大理寺に重贓併せて軽贓を満たす法を議せしむ。審刑院言う、「犯す所各々異なる贓は、罪等を待たずして累併すれば、則ち律義に通じ難し、宜しく故事の如くすべし」と。而して大理寺言う、「律に称す、贓を以て罪に致し、頻りに犯す者は並びに累科す、若し罪犯等しからざれば、即ち重贓を以て軽贓を併せ満たし各々倍論す、累併して加重せざれば、止めて重きに従う。蓋し律の意は、頻りに贓を犯す者は、二罪以上の法を用うべからず、故に累科せしめ、一犯に非ざるが故に、倍論せしむ。此れ寛に従うの一なり。然れども六贓軽重等しからず、若し二贓以上を犯す者は、軽きを累ねて重きに従うべからず、故に重きを併せて軽きを満たさしむ。此れ寛に従うの二なり。若し重きを以て軽きに併せて後加重すれば、則ち止めて一重に従う、蓋し進めば則ち軽法に改めて従い、退くも亦姦を容るるに至らざらんと為すなり。而して疏議仮設の法、適に皆罪等なる者、蓋し一時の命文なる耳。若し罪等なる者は尽く数え累併し、等しからざる者は止めて一贓を科せば、則ち恐らくは法を知る者は以て姦を為すに足り、知らざる者は但だ臨時に幸と不幸とに係る、律の本意に非ざるなり」と。帝是れ大理の議とし、之を行わしむ。

原文樞密使文彥博亦上言:「唐末、五代,用重典以救時弊,故法律之外,徒、流或加至於死。國家承平百年,當用中典,然猶因循,有重於舊律者,若偽造官文書,律止流二千里,今斷從絞。近凡偽造印記,再犯不至死者,亦從絞坐。夫持杖強盜,本法重於造印,今造印再犯者死,而強盜再犯贓不滿五匹者不死,則用刑甚異於律文矣。請檢詳刑名重於舊律者,以敕律參考,裁定其當。」詔送編敕所。又詔審刑院、大理寺議重贓併滿輕贓法。審刑院言:「所犯各異之贓,不待罪等而累併,則於律義難通,宜如故事。」而大理寺言:「律稱,以贓致罪,頻犯者並累科;若罪犯不等者,即以重贓併滿輕贓各倍論;累併不加重者,止從重。蓋律意以頻犯贓者,不可用二罪以上之法,故令累科;為非一犯,故令倍論。此從寬之一也。然六贓輕重不等,若犯二贓以上者,不可累輕以從重,故令併重以滿輕。此從寬之二也。若以重併輕後加重,則止從一重,蓋為進則改從於輕法,退亦不至於容姦。而疏議假設之法,適皆罪等者,蓋一時命文耳。若罪等者盡數累併,不等者止科一贓,則恐知法者足以為姦,不知者但繫臨時幸與不幸,非律之本意也。」帝是大理議,行之。

八年、洪州の民に徒罪を犯して杖罪に断ぜられたる者有り、其の余罪恩に会して免ぜられ、官吏失出し、劾すべし。中書堂後官劉袞駮議し、以て謂う、「律に罪人に因りて以て罪に致す、罪人恩に遇う者は、罪人の原法に準ず。洪州の官吏原すべし」と。又請う、今より官司人罪を出入するは、皆此の令を用いよと。而して審刑院・大理寺以て謂う、「人罪を失入するは、乃ち官司誤って人に罪を致す、此の令を用い難し。其の失出する者は、宜しく袞の議の如くすべし」と。

原文八年,洪州民有犯徒而斷杖者,其餘罪會恩免,官吏失出,當劾。中書堂後官劉袞駮議,以謂:「律因罪人以致罪,罪人遇恩者,準罪人原法。洪州官吏當原。」又請自今官司出入人罪,皆用此令。而審刑院、大理寺以謂:「失入人罪,乃官司誤致罪於人,難用此令。其失出者,宜如袞議。」

元豊三年、周清言う、「審刑院・刑部奏断するに、妻謀殺案問自首し、故殺法に変じ、軽きを挙げて重きを明らかにし、悪逆斬刑に入る。窃かに律意を詳らかにするに、妻夫を謀殺し、已に殺せば、悪逆に入るに合し、按問自首を以て、故殺法に変ずれば、宜しく妻夫を毆り死さしむる法を用いて罪を定むべし。且つ十悪の条、謀と故闘夫を殺す、方に悪逆に入る、若し謀めて未だ殺さざれば、止めて不睦に当たる。既に軽きを挙げて重きを明らかにするを用うれば、宜しく謀めて未だ殺さざる法に従い、敕に依りて当に重杖を決して死に処すべく、恐らくは悪逆斬刑に入るべからず」と。下して審刑院・刑部に参詳せしむ、清の議の如し。邵武軍奏讞す、婦人与を通姦し、其の夫を謀殺す、已にして夫酔いて帰る、姦者自ら之を殺す。法寺婦を謀殺の従と為すに当たり、而して刑部郎中杜紘議す婦の罪死に応ずと。又興元府奏讞す、梁懷吉出妻の病を視往し、因りて粟を寄す、其の子輒ち取りて之を食す、懷吉其の子を毆り死さしむ。法寺盗粟を以て論じ、而して懷吉を雑犯死罪に当て、赦を引きて原う。而して紘議す、出妻粟を受寄し、而して其の子輒ち費用す、捕法に入らずと。議既に上るや、御史臺論ず紘の議当たらずと、詔して罰金し、仍て年を展して磨勘す。而して侍郎崔台符以下三人可否無く、亦罰金す。

原文元豐三年,周清言;「審刑院、刑部奏斷妻謀殺案問自首,變從故殺法,舉輕明重,斷入惡逆斬刑 。竊詳律意,妻謀殺夫,已殺,合入惡逆,以按問自首,變從故殺法,宜用妻毆夫死法定罪。且十惡條,謀與故鬥殺夫,方入惡逆,若謀而未殺,止當不睦。既用舉輕明重,宜從謀而未殺法,依敕當決重杖處死,恐不可入惡逆斬刑。」下審刑院、刑部參詳,如清議。邵武軍奏讞,婦與人姦,謀殺其夫,已而夫醉歸,姦者自殺之。法寺當婦謀殺為從,而刑部郎中杜紘議婦罪應死。又興元府奏讞,梁懷吉往視出妻之病,因寄粟,其子輒取食之,懷吉毆其子死。法寺以盜粟論,而當懷吉雜犯死罪,引赦原。而紘議出妻受寄粟,而其子輒費用,不入捕法。議既上,御史臺論紘議不當,詔罰金,仍展年磨勘。而侍郎崔台符以下三人無所可否,亦罰金。

八年、尚書省が言うには、「諸々の盗賊を捕らえた場合、既に人を殺した者、及び元犯が強姦・強盗で死刑を免れ配流に処せられた者で、再犯して捕獲された場合、有司は例として『知人欲告』あるいは『按問自首』の減免法を用いる。そもそも律文に自首して減等して処断するのは、その情状が甚だしくなく、改過自新の心があるためである。強姦・強盗に至っては、他の罪と異なり、例によって減等することは難しい。請う、強盗で既に人を殺した者、強姦あるいは元犯が強盗で死刑を免れた者、もし杖を持ち三人以上で、人が告げようとしていることを知り、あるいは取り調べられそうになって自首し、及び他人の首告によって減刑されるべき者は、全て減等の例に含まれないものとする。」初め、王安石と司馬光が按問自首法を争議し、結局王安石の議に従った。この時、光が宰相となり、再び以前の議論を申し立てて改めた。そこで詔して、「強盗で按問欲挙により自首する者は、減等を用いない。」と。既にして給事中范純仁が言うには、「熙寧の按問欲挙条は全て減刑・赦免を得られ、姦悪を容認するのが多すぎたため、元豊八年に別に条制を立てた。窃かに詳らかにするに、既に人を殺した者・強姦は、法により自ずから自首すべきでなく、更に按問減等を用いるべきではない。死刑を免れた者及び杖を持つ強盗に至っても減等しないのは、甚だ重すぎる。嘉祐編敕によれば、『応に犯罪の人は、疑いにより捕らえられ、贓物証拠が未だ明らかでなく、あるいは仲間が捕らえられ、未だ指摘されていないが、ただ詰問されるとすぐに自白した者は、皆律の按問欲挙首減の科に従う。もし既に詰問を受け、本罪を隠し拒んだ者は、自首減刑の例に含まれない。』この敕は道理に適い、当時用いられ、天下は刑が平らかであると称した。請う、法により自首しない者は、自ずから減刑されず、その他は嘉祐編敕を取って定断すれば、則ち用法が実情に当たり、上は好生の徳を広め、下は一人の不遇な者もいなくなる。」これを従う。また詔して、「諸州が強盗を審訊し、情理に憫れむべきところがなく、刑名に疑慮がなく、而して軽々しく奏請することを、刑部に挙駁を許し、重ねて朝典を行い、例をもって条を破ることを得ず。」司馬光の請いに従ったのである。光はまた上言して、「人を殺しても死なず、人を傷つけても刑せられなければ、堯・舜でも治世を致すことはできない。刑部が奏鈔した、兗・懐・耀の三州の民で闘殺した者は、皆死刑に論ずべきであるのに、妄りに情理憫れむべしとして奏裁し、刑部は即ち旧例を引いてこれを赦した。凡そ律・令・敕・式に載せ尽くさないものがあれば、則ち有司は例を引いて決する。今、闘殺で死刑に当たるのは、自ずから正条があるのに、刑部が例を承けて死刑を免れ配流に処するのは、闘殺条律が用いられないことである。請う、今後諸州が奏上する大辟で、情理に憫れむべきところがなく、刑名に疑慮がないものは、刑部にこれを返させ、法に依って処断させる。もし実に憫れむべき・疑慮がある場合は、即ち刑部にその実状を奏鈔に具えさせ、先ず処断を擬し、門下省が審査覆奏する。もし不当、及び例をもって条を破る場合は、即ち駁奏して旨を取ってこれを勘案させる。」

原文八年,尚書省言:「諸獲盜,有已經殺人,及元犯強姦、強盜貨命斷配之人,再犯捕獲,有司例用知人欲告、或按問自首減免法。且律文自首減等斷遣者,為其情非巨,有改過自新之心。至於姦、盜,與餘犯不同,難以例減。請強盜已殺人,?強姦或元犯強盜貸命,若持杖三人以上,知人欲告、按問欲舉而自首,及因人首告應減者,並不在減等例。」初,王安石與司馬光爭議按問自首法,卒從安石議。至是,光為相,復申前議改焉。乃詔:「強盜按問欲舉自首者,不用減等。」既而給事中范純仁言:「熙寧按問欲舉條並得原減,以容姦太多,元豐八年,別立條制。竊詳已殺人、強姦,於法自不當首,不應更用按問減等。至於貸命及持杖強盜,亦不減等,深為太重。按嘉祐編敕:『應犯罪之人,因疑被執,贓證未明,或徒黨就擒,未被指說,但詰問便承,皆從律按問欲舉首減之科。若已經詰問,隱拒本罪,不在首減之例。』此敕當理,當時用之,天下號為刑平。請於法不首者,自不得原減,其餘取嘉祐編敕定斷,則用法當情,上以廣好生之德,下則無一夫不獲之 。」從之。又詔;「諸州鞫訊強盜,情理無可憫,刑名無疑慮,而輒奏請,許刑部舉駁,重行朝典,無得用例破條。」從司馬光之請也。光又上言:「殺人不死,傷人不刑,堯、舜不能以致治。刑部奏鈔兗、懷、耀三州之民有鬥殺者,皆當論死,乃妄作情理可憫奏裁,刑部即引舊例貸之。凡律、令、敕、式或不盡載,則有司引例以決。今鬥殺當死,自有正條,而刑部承例免死決配,是鬥殺條律無所用也。請自今諸州所奏大辟,情理無可憫,刑名無可疑,令刑部還之,使依法處斷。若實有可憫、疑慮,即令刑部具其實於奏鈔,先擬處斷,門下省審覆。如或不當,及用例破條,即駁奏取旨勘之。」

元祐元年、純仁はまた言う、「前年四方が奏讞した大辟は凡そ二百六十四件、死者は僅か二十五人、助命された者は九分に迫った。去年法を改めて以来、今に至るまで百日に満たないが、奏上した按問は凡そ百五十四件、死者は五十七人、助命された者は僅か六分余りである。臣は固より法を改める前は全活数が多く、その中には必ず曲げて赦したものがあることを知るが、然れども尚『罪疑わしきは惟れ軽きを取る』の仁を失わない。法を改めた後は、助命数が少なく、その中には必ず濫刑があり、則ち深く『寧ろ経に失うとも』の義を損なう。請う、今後四方が大辟の按問を奏上する際は、並びに刑部・大理寺に再び審査覆奏させ、略ぼ所犯及び元の奏上の理由を具えさせ、執政に旨を取って裁断させ、あるいは奏上が不当でも、その罪を宥す。このようにすれば濫刑の獄は無い。」また尚書省の言により、遠方の奏讞は、報を待つ間に滞獄するため、初めて川・広・福建・荊南路の罪人で、情状軽く法が重く奏断すべき者に、安撫使あるいは鈐轄司に申し出て情状を酌量して決断してから奏上することを命じた。門下侍郎韓維が言う、「天下の奏按は、必ず大理寺で断じ、刑部で詳議し、然る後に中書に上し、人主が決する。近年有司は只だ州郡の請いに因り、その言に依違し、即ち中書に上し、例を貼って旨を取る。故に四方の奏讞が日に前に増える。刑清く事省き難し。今後大理寺が天下の奏按を受けるに、刑名に疑慮・情理に憫れむべきものがあれば、須らく情法の軽重条律を具え、あるいは断ずる法を指し、刑部が詳審し、次第に上す。」詔して刑部に法を立てて奏聞させる。

原文元祐元年,純仁又言:「前歲四方奏讞,大辟凡二百六十四,死者止二十五人,所活垂及九分。自去年改法,至今未及百日,所奏按凡一百五十四,死者乃五十七人,所活纔及六分已上。臣固知未改法前全活數多,其間必有曲貸,然猶不失『罪疑惟輕』之仁;自改法後,所活數少,其間必有濫刑,則深虧『寧失不經』之義。請自今四方奏大辟按,並令刑部、大理寺再行審覆,略具所犯及元奏因依,令執政取旨裁斷,或所奏不當,亦原其罪。如此則無濫之獄。」又因尚書省言,遠方奏讞,待報淹繫,始令川、廣、福建、荊南路罪人,情輕法重當奏斷者,申安撫或鈐轄司酌情決斷乃奏。門下侍郎韓維言:「天下奏按,必斷於大理,詳議於刑部,然後上之中書,決之人主。近歲有司但因州郡所請,依違其言,即上中書,貼例取旨,故四方奏讞日多於前。欲望刑清事省,難矣。自今大理寺受天下奏按,其有刑名疑慮、情理可憫,須具情法輕重條律,或指所斷之法,刑部詳審,次第上之。」詔刑部立法以聞。

崇寧五年、詔す、「民が罪により法に罹るに、情状に重軽あれば、則ち法に増損あり。故に情重く法軽きは、情軽く法重きは、旧に取旨の令あり。今有司は惟だ情重く法軽き場合は罪を加えることを請うが、法重く情軽き場合は減刑を奏上せず、是れ罪人を喜び、恕を用いることを難しとし、欽恤の為す所以に非ず。今後宜しく旧法に従い取旨し、情法の軽重各々その中に適せしめ、然らずば違制を以て論ず。」宣和六年、臣僚が言う、「元豊旧法は、情軽く法重き、情重く法軽き、もし大辟に入る、刑名に疑慮あるは、並びに奏裁を許す。比来諸路が大辟疑獄を朝廷に決するものは、大理寺は類して『不当』としてこれを劾する。情理甚だしく、罪状明白で、奏裁して幸いに寛貸を求めるは、固に戒むべき所なり。然れども疑いありて決し難き者を、一切これを劾すれば、則ち官吏は便文自営を以てせざるは莫し。臣は天下が再び疑獄を奏上しなくなることを恐れる。願わくは詔して大理寺に並びに元豊法に依らしめん。」これを従う。

原文崇寧五年,詔:「民以罪麗法,情有重輕,則法有增損。故情重法輕,情輕法重,舊有取旨之令。今有司惟情重法輕則請加罪,而法重情輕則不奏減,是樂於罪人,而難於用恕,非所以為欽恤也。自今宜遵舊法取旨,使情法輕重各適其中,否則以違制論。」宣和六年,臣僚言:「元豐舊法,有情輕法重,情重法輕,若入大辟,刑名疑慮,並許奏裁。比來諸路以大辟疑獄決于朝廷者,大理寺類以『不當』劾之。夫情理巨,罪狀明白,奏裁以幸寬貸,固在所戒;然有疑而難決者,一切劾之,則官吏莫不便文自營。臣恐天下無復以疑獄奏矣。願詔大理寺並依元豐法。」從之。

紹興初年、州県に盗賊が起こり、道が通じず、詔して応に奏裁すべき者は、権減降して断遣し奏聞する。既にして奏讞する者は多く軽い赦免を得、官は失入の憂い無く、而して吏は鬻獄の利あり、往往奏すべきでない者を、率ね奏上する。三年、乃ち詔して大辟で応に奏すべき者は、提刑司が理由を具えて奏上する。宣州の民葉全二が檀偕の窖銭を盗み、偕が佃人の阮授・阮捷に命じて全二等五人を殺し、屍を水中に棄てた。有司は「屍を経験せず」として奏上した。侍御史辛炳が言うには、偕は故殺に当たり、衆証分明で、近降の法により、奏上すべきでない。諸獄で奏すべきでないのに奏した者は、論罪されないが、今宣州が観望し、併せてこれを罪にしたい。帝曰く、「もし宣州を加罪すれば、則ち実に疑いある者も再び奏陳しなくなる。」ここにおいて法寺・刑部は止めに罰金を科した。五年、給事中陳与義が奏上するに、有司が多く妄りに出入人罪を奏上する。帝は厳しく立法を申し命じたが、終に悔い改めない。二十六年、右正言凌哲がまた上疏して曰く、「漢高が関に入り、悉く秦法を除き、民と法三章を約した。所謂人を殺す者は死す、実にその首に居る。司馬光に言有り、『人を殺す者死せずんば、堯・舜と雖も以て治を致すこと能わず。』この言は至当と謂うべし。臣窃かに見るに、諸路州・軍の大辟は、刑法相当なる者と雖も、類して憫れむべしとして奏裁する。去年郊祀の後より今に至るまで、大辟奏裁する者五十余人の中に、実犯故殺・闘殺で常赦の原ゆざる所の者あり、法既に疑い無く、情憫れむべからず、刑部・大理寺並びに皆奏裁して赦減する。彼の人を殺す者は幸いと謂うべく、殺された者は恨みを九原に銜み、何時にて已まんや。臣は強暴の風が滋長し、良善の人、自ら保つこと能わず、その刑政に於いて、害と為すこと細ならざるを恐れる。応に今後大辟で、情法相当・憫れむべからざる者は、所司が軽々しく奏裁減貸するを、乞う、台臣に弾劾せしめん。」帝、奏を覧て曰く、「但だ諸路が滅裂にして、実に情理憫れむべき人を、一例に奏上せず、欽恤の意を失うことを恐れる。」刑部に条を坐して行下せしむ。

原文紹興初,州縣盜起,道不通,詔應奏裁者,權減降斷遣以聞。既而奏讞者多得輕貸,官無失入之虞,而吏有鬻獄之利,往往不應奏者,率奏之。三年,乃詔大辟應奏者,提刑司具因依繳奏。宣州民葉全二盜檀偕窖錢,偕令佃人阮授、阮捷殺全二等五人,棄屍水中,有司以「屍不經驗」奏。侍御史辛炳言偕係故殺,眾證分明,以近降法,不應奏。諸獄不當奏而奏者雖不論罪,今宣州觀望,欲併罪之。帝曰:「若宣州加罪,則實有疑者亦不復奏陳矣。」於是法寺、 刑部止罰金。五年,給事中陳與義奏有司多妄奏出入人罪,帝為申嚴立法,終不悛。二十六年,右正言凌哲復上疏曰:「漢高入關,悉除秦法,與民約法三章耳。所謂殺人者死,實居其首。司馬光有言:『殺人者不死,雖堯、舜不能以致治。』斯言可謂至當矣。臣竊見諸路州、軍大辟,雖刑法相當者,類以可憫奏裁。自去歲郊後距今,大辟奏裁者五十餘人中,有實犯故殺、鬥殺常赦所不原者,法既無疑,情無可憫,刑、寺並皆奏裁貸減。彼殺人者可謂幸矣,被殺者銜恨九原,何時已邪?臣恐強暴之風滋長,良善之人,莫能自保,其於刑政,為害非細。應今後大辟,情法相當、無可憫者,所司輒奏裁減貸者,乞令臺臣彈劾。」帝覽奏曰:「但恐諸路滅裂,實有情理可憫之人,一例不奏,有失欽恤之意。」令刑部坐條行下。

乾道に至るに及んで、讞獄の弊、日増しに甚だしくなる。孝宗は乃ち有司に詔して、情に縁り條を引き定めて断じ、更に奏裁せざらしむ。その後、刑部侍郎方滋言う、「有司の罪を断ずるに、其の間に情重くして法軽きもの、情軽くして法重きもの、情理憫むべきもの、刑名疑慮すべきもの、命官の犯罪、議親議故の類、一切に定断するに難し。今後は宜しく敕律條令に於いて、合奏裁の事件を明言し、併せて建隆三年の敕文に依ることを乞う」と。之に従う。六年、臣僚請う、「今後大辟は、只だ首として応に死罪に坐すべき者を以て奏し、従として応に死に坐さざる者は、先ず次第に決遣すべし。及び流・徒の罪は、情重と作して旨を取ることを許さず。然らずんば、則ち応に奏せずして奏するの罪に坐すべし」と。之に従う。

原文馴至乾道,讞獄之弊,日益滋甚。孝宗乃詔有司緣情引條定斷,更不奏裁。其後刑部侍郎方滋言:「有司斷罪,其間有情重法輕,情輕法重,情理可憫,刑名疑慮,命官犯罪,議親議故之類,難以一切定斷。今後宜於敕律條令,明言合奏裁事件,乞並依建隆三年敕文。」從之。六年,臣僚請:「今後大辟,只以為首應坐死罪者奏,為從不應坐死者,先次決遣。及流、徒罪,不許作情重取旨。不然,則坐以不應奏而奏之罪。」從之。

理宗の時に至り、往々にして讞は時に報ぜず、囚多く瘐死す。監察御史程元鳳奏して曰く、「今、罪軽重無く、悉く皆獄に送り、獄大小無く、悉く皆稽留す。或いは追索未だ斉わざるを以て問わず、或いは供款未だ円ならざるを以て呈せず、或いは書擬未だ当たらずを以て判せず、獄官は以て常と為して視、其の遅きを顧みず、獄吏は留めて以て利と為し、唯だ其の速きを恐る。奏案申牘既に刑部に下るも、日月を遅延して方に理寺に送る。理寺の看詳も、亦た復た之の如し。寺より部に回申し、部より省に回申するに、動もすれば歳月に渉る。省房又未だ遽かに呈擬せず、亦た呈擬して疏駮する者有り、疏駮の歳月、又復た前の如し。展転遅回し、一二年にして未だ報下せざる者有り。疑うべく矜むべきは、法当に奏讞すべく、矜んで之を全うすべきに、乃ち反って遅回す。矜貸の報下有りて、而して其の人已に獄に斃るる者有り、犯者貸を得て、而して干連病死する者一ならざる有り、豈に重ねて念うべからざらんや。請う、今より諸路の奏讞は、即ち発する月日を以て御史臺に申し、臺臣に従い省・部・法寺の慢を究めしむ」と。之に従う。而して所司延滞し、尋いで復た旧の如し。景定元年、乃ち詔を下して曰く、「比に諸提刑司に詔し、翻異駁勘の獄を取って、軽きに従い断決せしむ。而して長吏監司多く責に任ぜず、又た奏裁を引き、甚だしき者は十余年決せざるの獄有り。仰せらく、提刑司守臣審勘し、或いは前勘未だ尽きず、委しく疑うべき有らば、命官・命婦・宗婦・宗女及び用いるべき蔭人の奏裁を除く外、其の余は断訖りて以て聞かしむ。官吏は特免して一次を収坐せしむ」と。

原文至理宗時,往往讞不時報,囚多瘐死。監察御史程元鳳奏曰:「今罪無輕重,悉皆送獄,獄無大小,悉皆稽留。或以追索未齊而不問,或以供款未圓而不呈,或以書擬未當而不判,獄官視以為常,而不顧其遲,獄吏留以為利,而惟恐其速。奏案申牘既下刑部,遲延日月方送理寺。理寺看詳,亦復如之。寺回申部,部回申省,動涉歲月。省房又未遽為呈擬,亦有呈擬而疏駮者,疏駮歲月,又復如前。展轉遲回,有一二年未報下者。可疑可矜,法當奏讞,矜而全之,乃反遲回。有矜貸之報下,而其人已斃於獄者;有犯者獲貸,而干連病死不一者,豈不重可念哉?請自今諸路奏讞,即以所發月日申御史臺,從臺臣究省、部、法寺之慢。」從之。而所司延滯,尋復如舊。景定元年,乃下詔曰:「比詔諸提刑司,取翻異駁勘之獄,從輕斷決。而長吏監司多不任責,又引奏裁,甚者有十餘年不決之獄。仰提刑司守臣審勘,或前勘未盡,委有可疑,除命官、命婦、宗婦、宗女及合用蔭人奏裁外,其餘斷訖以聞。官吏特免收坐一次。」

凡そ応に配役すべき者は軍籍に傅し、重典を用うる者は其の面を黥げいす。赦に会えば、則ち有司其の罪状を上し、情軽き者は之を縱し、重き者は終身釋さず。初め、徒罪に官当有りて贖銅すべき者非ざるは、京師に在りては則ち将作監役に隷し、兼ねて之を宮中に役し、或いは左校・右校役に輸作す。開宝五年、御史臺言う、「若し此の如き者は、其の名有りと雖も、復た役使無し。祠祭に遇えば、水火を供すれば、則ち本司供官有り。望むらくは、大理に令して格に依り断遣せしむ」と。是に於いて併せて作坊に送りて之を役す。

原文凡應配役者傅軍籍,用重典者黥其面。會赦,則有司上其罪狀,情輕者,縱之;重者,終身不釋。初,徒罪非有官當贖銅者,在京師則隸將作監役,兼役之宮中,或輸作左校、右校役。開寶五年,御史臺言:「若此者,雖有其名,無復役使。遇祠祭,供水火,則有本司供官。望令大理依格斷遣。」於是並送作坊役之。

太宗は国初諸方割拠し、五代の制に沿い、罪人率ね西北辺に配隷し、多く亡投して塞外に至り、羌を誘いて寇と為すを以て、乃ち詔す、「当に徒すべき者は、復た秦州・霊武・通遠軍及び縁辺諸郡に隷せず」と。時に江・広已に平らぎ、乃ち皆南方に流す。是に先立ち、死罪を犯して貸を得る者は、多く登州沙門島及び通州海島に配隷し、皆屯兵使者有りて領護す。而して通州島中凡そ両処官塩有り、豪強制し難き者は崇明鎮に隷し、懦弱者は東州市に隷す。太平興国五年、始めて分ちて塩亭に隷し之を役することを令し、而して沙門は旧の如し。端拱二年、詔して嶺南流配の荷校執役を免ず。初め、婦人罪有りて流に至るも、亦た鍼を執り配役す。是に至り、詔して之を罷免す。始めて雑犯死に至りて命を貸す者は、沙門島に流さず、只だ諸州牢城に隷することを令す。

原文太宗以國初諸方割據,沿五代之制,罪人率配隸西北邊,多亡投塞外,誘羌為寇,乃詔:「當徒者,勿復隸秦州、靈武、通遠軍及緣邊諸郡。」時江、廣已平,乃皆流南方。先是,犯死罪獲貸者,多配隸登州沙門島及通州海島,皆有屯兵使者領護。而通州島中凡兩處官鹽,豪強難制者隸崇明鎮,懦弱者隸東州市。太平興國五年,始令分隸鹽亭役之,而沙門如故。端拱二年,詔免嶺南流配荷校執役。初,婦人有罪至流,亦執鍼配役。至是,詔罷免之。始令雜犯至死貸命者,勿流沙門島,止隸諸州牢城。

旧制、僮僕罪有れば、其の面を私に黥するを得。帝謂う、「僮使傭を受くるは、本良民なり」と。詔す、「主の財を盗む者は、杖脊・黥面して牢城に配し、私に之を黥すこと勿れ。十貫以上は、五百里外に配し、二十貫以上は、奏裁す」と。帝配隷の刑を寬にせんと欲し、祥符六年、詔して審刑院・大理寺・三司に詳定して以て聞かしむ。既にして茶塩礬麴を犯す、私に軍器を鑄造す、外蕃の香薬を市す、銅錢を挾み漢口を誘いて界を出づ、主吏官物を盗貨す、夜聚して妖を為すを取るに、旧法に比して咸く軽減に従う。

原文舊制,僮僕有犯,得私黥其面。帝謂:「僮使受傭,本良民也。」詔:「盜主財者,杖脊、黥面配牢城,勿私黥之。十貫以上,配五百里外;二十貫以上,奏裁。」帝欲寬配隸之刑 ,祥符六年,詔審刑院、大理寺、三司詳定以聞。既而取犯茶鹽礬麴、私鑄造軍器、市外蕃香藥、挾銅錢誘漢口出界、主吏盜貨官物、夜聚為妖,比舊法咸從輕減。

乾興以前、州軍の長吏、往々にして擅に罪人を配す。仁宗即位し、首に詔を下して禁止し、且つ情巨なるに非ざる者は、須らく奏して報を待つことを令す。又た諸路の按察官に詔し、乾興赦前に配隷兵籍する者を取り、坐する所の罪状を列ねて以て聞かしむ。是より赦書下る毎に、輒ち之に及ぶ。初め、京師裁造院女工を募るに、而して軍士の妻罪有れば、皆南北作坊に配隷す。天聖初、特詔して之を釋し、自便に聽す。婦人応に配すべきは、則ち妻務或いは軍營致遠務卒の家無き者を以てす、法と為す。時に又た詔して曰く、「配徒する者の其の妻子道路に流離し、罕に能く生還するを聞く、朕甚だ之を憐む。今より応に配すべき者は、獄を具に録し刑名及び配する地里を、尚書刑部に上り詳覆せしむ」と。未だ幾ばくもせず、又た応に配すべき者は、須らく長吏以下集り聽事して慮問することを詔す。後に奏牘煩冗を以て、獄を具に録するを罷め、第に単状を以て承進司に上る。既にして又た慮問を罷む。知益州薛田言う、「蜀しょく人他路に配徒する者は、請う老疾と雖も釋すことを得ざらしむ」と。帝曰く、「遠民無知にして法を犯し、終身郷里に還ることを得ず、豈に朕の意ならんや。其の情矜むべきを察する者は還ることを許す」と。後に復た罪状獷悪なる者は許すこと勿れと詔す。初め、配隷罪人皆奏して報を待つことを令す、既にして獄に繫がり淹久し、奏請煩數なり。明道二年、乃ち有司に詔して軽重を参酌し、令と為して著す。凡そ命官重罪を犯し、当に配隷すべきは、則ち外州に於いて編管し、或いは牙校に隷す。其の死に坐して特に貸す者は、多く杖・黥して遠州牢城に配し、恩を経て量移し、始めて軍籍を免る。天聖初、吏同時に贓を以て敗るる者数人、悉く之を嶺南に竄し、詔を下して在位に申儆す。平羌県尉鄭宗諤と為る者有り、賕を受け枉法して死に抵る、赦に会いて当に官を奪うべし。帝輔臣に問うて曰く、「尉の奉月幾何ぞ、豈に祿薄くして自ら養うに足らざるか」と。王欽若対えて曰く、「奉薄しと雖も、廉士固より亦た自ら守る」と。特に関宗諤を杖し、安州に配隷す。其の後数え貪吏を懲し、其の末年に至り、吏廉を以て自ら飾るを知り、法を犯す者稍く旧に損ず。

原文乾興以前,州軍長吏,往往擅配罪人。仁宗即位,首下詔禁止,且令情非巨者,須奏待報。又詔諸路按察官,取乾興赦前配隸兵籍者,列所坐罪狀以聞。自是赦書下,輒及之。初,京師裁造院募女工,而軍士妻有罪,皆配隸南北作坊。天聖初,特詔釋之,聽自便。婦人應配,則以妻務或軍營致遠務卒之無家者,著為法。時又詔曰:「聞配徒者,其妻子流離道路,罕能生還,朕甚憐之。自今應配者,錄具獄刑名及所配地里,上尚書刑部詳覆。」未幾,又詔應配者,須長吏以下集聽事慮問。後以奏牘煩冗,罷錄具獄,第以單狀上承進司。既又罷慮問焉。知益州薛田言:「蜀人配徒他路者,請雖老疾毋得釋。」帝曰:「遠民無知犯法,終身不得還鄉里,豈朕意哉?察其情可矜者許還。」後復詔罪狀獷惡者勿許。初,令配隸罪人皆奏待報,既而繫獄淹久,奏請煩數。明道二年,乃詔有司參酌輕重,著為令。凡命官犯重罪,當配隸,則於外州編管,或隸牙校。其坐死特貸者,多杖、黥配遠州牢城,經恩量移,始免軍籍。天聖初,吏同時以贓敗者數人,悉竄之嶺南,下詔申儆在位。有平羌縣尉鄭宗諤者,受賕枉法抵死,會赦當奪官。帝問輔臣曰:「尉奉月幾何,豈祿薄不足自養邪?」王欽若對曰:「奉雖薄,廉士固亦自守。」特杖宗諤,配隸安州。其後數懲貪吏,至其末年,吏知以廉自飾,犯法者稍損於舊矣。

罪人死を貸す者は、旧多く沙門島に配し、至る者多く死す。景祐中、当に沙門島に配すべき者は、第に広南地牢城に配すことを詔し、広南の罪人は、乃ち嶺北に配す。然れども其の後又た沙門島に配する者有り。慶曆三年、既に天下の繫囚を疏理し、因りて諸路の配役人皆之を釋することを詔す。六年、又た詔して曰く、「百姓軽罪に抵り、而して長吏擅に他州に刺隷するを聞く如し、朕甚だ之を憫む。今より法外に於いて事を従うるに非ざるを得ざる者は、輒ち罪人を刺すことを得ず」と。皇祐中、既に赦し、知制誥曾公亮・李絢に命じて配する人の罪状を閲し以て聞かしむ、是に於いて多く寬縱す。公亮請う、故事と為して著し、且つ益・梓・利・夔の四路は就きて転運・鈐轄司に委ねて之を閲せしむ。自後毎赦命官、率ね以て常と為す。

原文罪人貸死者,舊多配沙門島,至者多死。景祐中,詔當配沙門島者,第配廣南地牢城 ;廣南罪人,乃配嶺北。然其後又有配沙門島者。慶曆三年,既疏理天下繫囚,因詔諸路配役人皆釋之。六年,又詔曰:「如聞百姓抵輕罪,而長吏擅刺隸他州,朕甚憫焉。自今非得於法外從事者,毋得輒刺罪人。」皇祐中,既赦,命知制誥曾公亮、李絢閱所配人罪狀以聞,於是多所寬縱。公亮請著為故事,且請益、梓、利、夔四路就委轉運、鈐轄司閱之。自後每赦命官,率以為常。

配流の重い者は沙門島の砦に、次いで嶺表に、次いで三千里から隣州に、次いで羈管に、次いで遷郷に配する。判決が下りれば、寒暑を問わず、直ちに上道させる。呉充が建議して言うには、「流人は冬の寒さに傷つき、上道の途中で凍死する者が多い。今後は情理が甚だしくない限り、冬の月には本処に留めて役務に就かせ、春の月にこれを発遣することを聴許されたい。」詔して可とする。

原文配隸重者沙門島砦,其次嶺表,其次三千里至鄰州,其次羈管,其次遷鄉。斷訖,不以寒暑,即時上道。吳充建請:「流人冬寒被創,上道多凍死。請自今非情理巨,遇冬月聽留役本處,至春月遣之。」詔可。

熙寧二年、比部郎中・房州知事の張仲宣はかつて巡検に檄を飛ばして金州の金坑を調査させたが、あまり利益がなかった。土地の人は工事の起こるのを恐れ、金八両を以て仲宣に官を差し向けないよう求めた。事が発覚すると、法官は仲宣を枉法贓の罪に坐して絞刑に相当するとし、前例を援用して死罪を赦し、脊杖・黥面して海島に配流した。知審刑院の蘇頌が言うには、「仲宣の犯した罪は、恐喝の条に比すべきである。かつて古に『刑は大夫に上らず』とあり、仲宣は官五品で、罪があっても車に乗ることができた。今、刑して徒隷と為すのは、その人自体は矜れむに足りないが、衣冠を汚辱することを恐れるのみである。」遂に杖・黥を免じ、賀州に流した。これより命官には杖・黥の法はなくなった。

原文熙寧二年,比部郎中、知房州張仲宣嘗檄巡檢體究金州金阬,無甚利。土人憚興作,以金八兩求仲宣不差官。及事覺,法官坐仲宣枉法贓應絞,援前比貸死,杖脊、黥配海島。知審刑院蘇頌言:「仲宣所犯,可比恐喝條。且古者『刑不上大夫』,仲宣官五品,有罪得乘車,今刑為徒隸,其人雖無足矜,恐污辱衣冠爾。」遂免杖、黥,流賀州。自是命官無杖、黥法。

六年、審刑院が言うには、「登州沙門砦への配流は、二百人を定員とし、余りは海外に移し置くが、これは姦を禁ずる趣旨に合わない。」詔して三百人を定員とする。広南転運司が言うには、「春州は瘴癘の地であり、配流されて来る者の十のうち八九は死ぬ。配流罪人を停止されたい。」詔して、「沙門島に配すべき者は、春州への配流を許す。その他は配するな。」既にして諸々の配流人は凶盗を除き、少壮の者は全て河州に置き、五百人に止めた。初め、神宗は流人が郷邑を去り、道中で病没すること、また護送の禁卒の往来の労費を憂い、張誠一の議に従い、所在の地に随って諸軍の重役に配した。後に中丞の黄履らが上言し、これを廃止した。凡そ盗を犯した者は、耳の後ろに環を刺す:徒刑・流刑は方形、杖刑は円形。三度杖刑を犯した者は、顔面に移す。直径は五分を超えない。

原文六年,審刑院言:「登州沙門砦配隸,以二百人為額,餘則移置海外,非禁姦之意。」詔以三百人為額。廣南轉運司言:「春州瘴癘之地,配隸至者十死八九,願停配罪人。」詔:「應配沙門島者,許配春州,餘勿配。」既而諸配隸除凶盜外,少壯者並寘河州,止五百人。初,神宗以流人去鄉邑,疾死於道,而護送禁卒,往來勞費,用張誠一之議,隨所在配諸軍重役。後中丞黃履等言,罷之。凡犯盜,刺環於耳後:徒、流,方;杖,圓;三犯杖,移於面。徑不過五分。

元祐六年、刑部が言うには、「諸々沙門島に配流される者で、強盗・殺人・放火、贓満五万銭・強姦毆傷で両犯して死罪に至る者、累贓二十万銭に至る者・謀殺で致死した者、及び十悪の死罪、蠱毒を造って既に人を殺した者は、移配しない。強盗の徒党で人を殺したが共謀でなく、贓満二十五万の者は、赦に遇えば広南に移配し、定員超過者は遠悪の地に配流する。その他の犯人は赦に遇えば荊湖南北路・福建路諸州に移配し、定員超過者は広南に配流する。沙門島で満五年を経て、赦にあっても移配に該当せず、かつ放還を許されずに年六十以上に達した者は、広南に移配する。島に十年いる者は、その他の犯人の規定に依って移配する。篤疾または年七十に達し島に三年以上いる者は、近郷の州軍に移配する。犯状が移配に応じるが老疾の者も同様とする。永く放還しない者は、各々二年を加えて移配する。」後にまた令を定めて、「沙門島が既に定員超過の場合、瓊州・万安軍・昌化・朱崖軍に移配する。」

原文元祐六年, 刑部言:「諸配隸沙門島,強盜殺人縱火,贓滿五萬錢、強姦毆傷兩犯至死,累贓至二十萬錢、謀殺致死,及十惡死罪,造蠱已殺人者,不移配。強盜徒黨殺人不同謀,贓滿二十五萬,遇赦移配廣南,溢額者配隸遠惡。餘犯遇赦移配荊湖南北、福建路諸州,溢額者配隸廣南。在沙門島滿五年,遇赦不該移配與不許縱還而年及六十以上者,移配廣南。在島十年者,依餘犯格移配。篤疾或年及七十在島三年以上,移配近鄉州軍。犯狀應移而老疾者同。其永不放還者,各加二年移配。」後又定令:「沙門島已溢額,移配瓊州、萬安軍、昌化、朱崖軍。」

紹聖三年、刑部侍郎の邢恕らが言うには、「藝祖が天下を初めて定めた時、主典が自ら盗みを働き、贓満の者は往々にして死に抵した。仁祖の初めも、尚お廃さなかった。その後、用法が稍々寛大になり、官吏が自盗を犯し、罪が極法に至っても、多くは死罪を赦された。しかし甚だしい者はなお決して刺配島に処せられ、錢仙芝は館職を帯び、李希甫は転運使を歴任したが、免れなかった。近頃朝廷の用法は益々寛大になり、主典・人吏・軍司が犯しても、例え各々死罪を赦され、少しの差別もない。祖宗の故事を講述し、凡そ自盗で贓が多い者については、間々に睿断を出され、以て中外を粛正されたい。」詔して、「今後、応に枉法自盗で罪が死に至り、贓数が多い者は、並びに旨を取るべし。」

原文紹聖三年,刑部侍郎邢恕等言:「藝祖初定天下,主典自盜,贓滿者往往抵死。仁祖之初,尚不廢也。其後用法稍寬,官吏犯自盜,罪至極法,率多貸死。然甚者猶決刺配島,錢仙芝帶館職,李希甫歷轉運使,不免也。比朝廷用法益寬,主典人吏軍司有犯,例各貸死,略無差別。欲望講述祖宗故事,凡自盜,計贓多者,間出睿斷,以肅中外。」詔:「今後應枉法自盜,罪至死、贓數多者,並取旨。」

或いは加役流の法が重すぎることを患え、官には監視駆使の労があり、道路には逃亡の憂いがある。蘇頌は元豊中に嘗て建議して言うには、「古に倣って圜土を置き、流刑に当たる者を治罪した後、首に鉗をはめ足を繋ぎ、昼は居作させ、夜はこれを圜土に置く。満三年にして後に釈放し、未だ年を満たさずに赦に遇った者は、赦原しない。釈放後もなお本郷に送り、出入りを監察させる。また三年犯さなければ、乃ち自由にすることを聴許する。」時に未だ実行されなかった。崇寧中、始めて蔡京の請いに従い、諸州に強盗で死罪を赦された者を居住させるための圜土を築かせた。昼は役作させ、夜はこれを拘束し、罪の軽重を視て、以て久近の期限とする。圜土を出る日には軍に充てることを許し、過失のない者は釈放する。これを二年行ったが、その法は不便であり、乃ち廃止した。大観元年、再び施行。四年、再び廃止。

原文或患加役流法太重,官有監驅之勞,而道路有奔亡之慮。蘇頌元豐中嘗建議:「請依古置圜土 ,取當流者治罪訖, 首鉗足,晝則居作,夜則置之圜土。滿三歲而後釋,未滿歲而遇赦者,不原。既釋,仍送本鄉,譏察出入。又三歲不犯,乃聽自如。」時未果行。崇寧中,始從蔡京之請,令諸州築圜土以居強盜貸死者。晝則役作,夜則拘之,視罪之輕重,以為久近之限。許出圜土日充軍 ,無過者縱釋。行之二年,其法不便,迺罷。大觀元年,復行。四年,復罷。

南渡後、諸々の配流については、祥符編勅では四十六条に止まったが、慶曆中には百七十余条に増え、淳熙に至ってはまた五百七十条に増え、則ち慶曆の四倍となった。配法が既に多く、犯す者日々衆く、黥配の人は到る所に充満した。淳熙十一年、校書郎の羅點がその重すぎることを言上し、乃ち詔して刑部・大理寺に集議して奏聞させた。十四年に至っても未だ定論がなかった。その後、臣僚が議して、「もし只だ居役に止め、郷井を離れなければ、ほぼ姦を恵み、悪を懲らしめるに足りない。もし配法を尽く用い、黥刺を憚らなければ、面目一旦壊れて、誰か復た顧藉せん。強民は恰も威力を長じ、過ちあっても自新する由なし。元豊の刑部格を検照すると、諸々の編配人には自ら不移・不放及び移放の条限がある。政和の編配格にはまた情重・稍重・情軽・稍軽の四等がある。もし旧格に倣い、稍々参訂を加え、情重に入るならば旧に倣って面を刺し、不移不放の格を用い、其次稍重ならば只だ額角を刺すに止め、配及び十年の格を用い、其次稍軽ならば黥刺を免じ、面を刺さず・役満放還の格を与え、其次最軽ならば居役に降格し、別に年限を立てて縦免する格とする。仮に従坐で編管される者があれば、則ちこれを本城に置き、その放免期限を減ずる。このようにすれば、現行の条法に並びに牴牾せず、且つ刺面の法を専ら情犯の凶悪な者に処し、その他たまたま罪に罹った者は皆その面目を全うし、顧藉すべきを知り、自新することができる。黥徒を省き、姦党を銷すは、誠に天下の切務である。」即ち詔して有司に裁定させたが、その後は終に旧制の如くであった。

原文南渡後,諸配隸,祥符編敕止四十六條,慶曆中,增至百七十餘條。至於淳熙,又增至五百七十條,則四倍於慶曆矣。配法既多,犯者日眾,黥配之人,所至充斥。淳熙十一年,校書郎羅點言其太重,乃詔刑、寺集議奏聞。至十四年,未有定論。其後臣僚議,以為:「若止居役,不離鄉井,則幾惠姦,不足以懲惡;若盡用配法,不恤黥刺,則面目一壞,誰復顧藉?強民適長威力,有過無由自新。檢照元豐刑部格,諸編配人自有不移、不放及移放條限;政和編配格又有情重、稍重、情輕、稍輕四等。若依倣舊格,稍加參訂,如入情重,則倣舊刺面,用不移不放之格;其次稍重,則止刺額角,用配及十年之格;其次稍輕,則與免黥刺,用不刺面、役滿放還之格;其次最輕,則降為居役,別立年限縱免之格。儻有從坐編管,則置之本城,減其放限。如此,則於見行條法並無牴牾,且使刺面之法,專處情犯凶,而其他偶麗於罪,皆得全其面目,知所顧藉,可以自新。省黥徒,銷姦黨,誠天下之切務。」即詔有司裁定,其後迄如舊制。

嘉泰四年、臣僚が言うには、「配流の人は、蓋し両等がある。その郷民の一時の闘毆殺傷、及び胥吏の犯贓で命を貸して流配された人等は、仮令逃逸しても、必ずしも大過を為す能わず、只だ徒刑に従い、本州の牢城重役に配し、期限満了して証拠を与え、復た良民と為すことを欲する。累犯強盗及び聚衆して私商を販売し、嘗て殺傷・捕獲された人に至っては、村民・胥吏の比ではなく、並びに屯駐軍に配し、年限を立て、期限満了して正軍に改刺することを欲する。」これに従う。その配する所の地は、高宗以来、或いは広南海外四州に配し、或いは淮・漢・四川に配し、度宗の世に至るまで定法なく、皆記すに足りない。

原文嘉泰四年,臣僚言:「配隸之人,蓋有兩等。其鄉民一時鬥毆殺傷,及胥吏犯贓貸命流配等人,設使逃逸,未必能為大過,止欲從徒,配本州牢城重役,限滿給據,復為良民。至於累犯強盜,及聚眾販賣私商,曾經殺傷捕獲之人,非村民、胥吏之比,欲並配屯駐軍,立為年限,限滿改刺從正軍。」從之。其所配之地,自高宗來,或配廣南海外四州,或配淮、漢、四川,迄度宗之世無定法,皆不足紀也。

凡そ内外の上申する刑獄は、刑部・審刑院・大理寺が参じてこれを主とし、また糾察在京刑獄司があって審覆を相した。官制が既に行われると、審刑院・糾察司を罷め、その職を刑部に帰した。四方の獄は、則ち提点刑獄がこれを統治する。官司の獄は、開封には府司・左右軍巡院があり、諸司には殿前・馬歩軍司及び四排岸があり、外には三京府司・左右軍巡院、諸州軍院・司理院があり、下って諸県に至るまで皆獄がある。諸獄は皆楼牖を置き、漿と鋪席を設け、時に沐浴を具え、食は温暖ならしめ、寒ければ薪炭・衣物を与え、暑ければ五日毎に枷杻を洗う。郡県では則ち職掌の官が躬行して検視し、獄が破損すればこれを修繕して堅固ならしめる。

原文凡內外所上刑獄,刑部、審刑院、大理寺參主之,又有糾察在京刑獄司以相審覆。官制既行,罷審刑 、糾察,歸其職於刑 部。四方之獄,則提點刑獄統治之。官司之獄:在開封,有府司、左右軍巡院;在諸司,有殿前、馬步軍司及四排岸;外則三京府司、左右軍巡院,諸州軍院、司理院,下至諸縣皆有獄。諸獄皆置樓牖,設漿鋪席,時具沐浴,食令溫暖,寒則給薪炭、衣物,暑則五日一滌枷杻。郡縣則所職之官躬行檢視,獄敝則修之使固。

神宗即位の初め、詔して曰く、「獄は民命の繫ぐ所なり。比来有司が歳ごとに天下の奏を考ふるを聞くに、多く瘐死す。深く惟ふに獄吏並びに縁りて姦を為し、檢視明らかならず、吾が元元をして横に其の害に罹らしむ。書に云はざるや、『其れ不辜を殺すに與るよりは、寧ろ不經を失へ』と。其れ令を具へよ。諸州軍巡司院所禁ずる罪人に應じ、一歳に獄中に病死する者二人に及び、五縣以上の州は歳に三人死し、開封府司・軍巡は歳に七人死せば、推吏・獄卒皆杖六十とし、一人を増せば則ち一等を加へ、罪は杖一百に止む。典獄官は推獄の如く、兩犯を經て即ち違制に從ひて坐す。提點刑獄は歳終に死者の数を會して之を上へ、中書檢察す。死者過多なれば、官吏既に罰を行ひたるも、當に更に黜責すべし」と。

原文神宗即位初,詔曰:「獄者,民命之所繫也。比聞有司歲考天下之奏,而多瘐死。深惟獄吏並緣為姦,檢視不明,使吾元元橫罹其害。書不云乎:『與其殺不辜,寧失不經。』其具為令:應諸州軍巡司院所禁罪人,一歲在獄病死及二人,五縣以上州歲死三人,開封府司、軍巡歲死七人,推吏、獄卒皆杖六十,增一人則加一等,罪止杖一百。典獄官如推獄,經兩犯即坐從違制。提點刑獄歲終會死者之數上之,中書檢察。死者過多,官吏雖已行罰,當更黜責。」

未だ幾ばくもせず、復た詔す、「死罪に失入し、既に三人を決せしむれば、正官は除名編管し、貳者は除名し、次貳者は免官勒停し、吏は千里に配隷す。二人以下は、此れに視て差有り。赦降・去官を以て原免せず。未だ決せざれば、則ち比類して遞に一等を降す。赦降・去官なれば、又た一等を減ず。審刑院・刑部斷議官に令し、歳終に嘗て徒罪に失入すること五人以上を具へ、京朝官は磨勘年を展し、幕職・州縣官は考を展し、或は任滿指射差遣を與へず、或は罷め、仍ぐ即ち支賜を斷絕す」と。以前の法未だ備はらざるを以て、故に是の詔有り。又た嘗て詔す、「官司人罪に失入し、而して罪人應に原免すべきも、官司猶ほ法の如く論ず。即ち人罪に失出し、若し應に徒すべきを杖するに、罪人應に原免すべき者は、官司乃ち罪人に因りて以て罪を致すの律を用ふるを得」と。帝國初に大理獄を廢するは是に非ずと為し、元豐元年詔して曰く、「大理に獄有るは尚しきなり。今中都官に劾治すべき所有れば、皆開封諸獄に寓繫し、囚既に猥多にして、隔訊に難く、盛夏疾疫に、傳致して瘐死し、或は主者異見有りて、歳時に決せず。朕甚だ之を愍む。其れ大理獄を復し、卿一人を置き、少卿二人、丞四人を置き、專ら鞫訊を主とし、檢法官二人、主簿一人を置く。三司・諸寺監の吏杖・笞に犯し追究を俟たざる者に應ずれば、聽きて即ち決し、餘は悉く大理獄に送る。其れ奏すべき者は、並びに刑部・審刑院をして詳斷せしむ。天下の奏按に應ずる者も亦之を上ぐ」と。五年、少卿を分ち命じて左は斷刑、右は治獄と為す。斷刑は則ち評事・檢法詳斷し、丞議し、正審す。治獄は則ち丞專ら推劾し、主簿按籍を掌り、少卿其の事を分領し、而して卿之を總ぶ。六年、刑部言ふ、「舊く詳斷官公按を分ち訖り、主判官論議して改正し、詳議官を發して覆議す。差失問難有れば、則ち檢尾に書して、斷官に送りて改正せしめ、主判官審定し、然る後に判成す。詳斷官大理に歸して評事・司直と為り、議官丞と為りてより、斷ずる按草、長貳に由らず、類多く差忒す」と。乃ち定制す、評事・司直と正を分ちて斷司と為し、丞と長貳を議司と為す。凡そ公按を斷ずるに、正先づ其の當否を詳にし、論定すれば則ち印を簽し日を注ぎ、議司に移して覆議せしめ、辨難有れば、乃ち議を具へて改正し、長貳更に審定を加へ、然る後に判成して錄奏す。

原文未幾,復詔:「失入死罪,已決三人,正官除名編管,貳者除名,次貳者免官勒停,吏配隸千里。二人以下,視此有差。不以赦降、去官原免。未決,則比類遞降一等;赦降、去官,又減一等。令審刑院、刑部斷議官,歲終具嘗失入徒罪五人以上,京朝官展磨勘年,幕職、州縣官展考,或不與任滿指射差遣,或罷,仍即斷絕支賜。」以前法未備,故有是詔。又嘗詔:「官司失入人罪,而罪人應原免,官司猶論如法,即失出人罪;若應徒而杖,罪人應原免者,官司乃得用因罪人以致罪之律。」帝以國初廢大理獄非是,元豐元年詔曰:「大理有獄尚矣。今中都官有所劾治,皆寓繫開封諸獄,囚既猥多,難於隔訊,盛夏疾疫,傳致瘐死,或主者異見,歲時不決,朕甚愍焉。其復大理獄,置卿一人,少卿二人,丞四人,專主鞫訊;檢法官二人,主簿一人。應三司、諸寺監吏犯杖、笞不俟追究者,聽即決,餘悉送大理獄。其應奏者,並令刑部、審刑院詳斷。應天下奏按亦上之。」五年,分命少卿左斷刑 、右治獄。斷刑則評事、檢法詳斷,丞議,正審;治獄則丞專推劾,主簿掌按籍,少卿分領其事,而卿總焉。六年,刑部言:「舊詳斷官分公按訖,主判官論議改正,發詳議官覆議。有差失問難,則書於檢尾,送斷官改正,主判官審定,然後判成。自詳斷官歸大理為評事、司直,議官為丞,所斷按草,不由長貳,類多差忒。」迺定制:分評事、司直與正為斷司,丞與長貳為議司。凡斷公按,正先詳其當否,論定則簽印注日,移議司覆議,有辨難,乃具議改正,長貳更加審定,然後判成錄奏。

元祐初め、三省言ふ、「舊く糾察司を置き、蓋し其の違慢を察せんと欲し、以て獄事を謹重にせしむ。刑部に罷歸し、復た糾察の制無し。請ふらくは糾察の職事を以て、御史臺刑察に委ねて之を兼ねしめ、臺獄は則ち尚書省右司之を糾察せしむ」と。三年、大理寺獄を罷む。初め、大理獄を置くは、本と囚繫の淹滯を以てし、獄事統ぶる所有らしめんと為す。而して大理卿崔台符等德意を奉承すること能はず、士大夫と雖も若し命婦と、獄辭小しく連逮する有れば、輒ち捕繫す。凡そ邏者の探報する所は、即ち之を獄に下す。傅會鍛鍊して、誣服せざる無し。是に至り、台符等皆罪を得、獄乃ち罷む。八年、中書省言ふ、「昨詔を内外にし、歳終に諸獄囚死の数を具ふ。而して諸路の上ぐる所、遂に禁繫二十にして一を死する者を具へず。是れ歳に二百人を繫ぐと雖も、十人の獄死を許すに即ちなり。恐らくは州縣獄事に弛意し、甚だ欽恤の意に非ず」と。詔し刑部して自今禁繫の数を輒ち分つことを許さず。

原文元祐初,三省言:「舊置糾察司,蓋欲察其違慢,所以謹重獄事,罷歸刑部,無復糾察之制。請以糾察職事,委御史臺刑察兼之,臺獄則尚書省右司糾察之。」三年,罷大理寺獄。初,大理置獄,本以囚繫淹滯,俾獄事有所統,而大理卿崔台符等不能奉承德意,雖士大夫若命婦,獄辭小有連逮,輒捕繫。凡邏者所探報,即下之獄。傅會鍛鍊,無不誣服。至是,台符等皆得罪,獄迺罷。八年,中書省言:「昨詔內外,歲終具諸獄囚死之數。而諸路所上,遂以禁繫二十而死一者不具,即是歲繫二百人,許以十人獄死,恐州縣弛意獄事,甚非欽恤之意。」詔刑部自今不許輒分禁繫之數。

紹聖二年、戶部三司故事の如く、推勘檢法官を置き、在京諸司事錢穀に干り當に追究すべき者に應じ、杖已下より即ち定斷す。三年、復た大理寺右治獄を置き、官屬元豐の員を視、仍ぐ司直一員を増置す。大理卿路昌衡請ふ、「大理寺丞を分ちて左・右推と為し、若し異有れば、左より右に移す。再變すれば、即ち官を命じて審問し、或は御史臺推究せしむ。開封府の互勘及び地分の探報を許さず、互送挾の弊を革まんことを庶幾ふ。徒已上の罪は、御史臺に移す。命官追攝する者は、悉く條に依る。若し探報虛に涉り、情を用ひて託する者は、並びに收坐して以て聞す」と。

原文紹聖二年,戶部如三司故事,置推勘檢法官,應在京諸司事干錢穀當追究者,從杖已下即定斷。三年 ,復置大理寺右治獄,官屬視元豐員,仍增置司直一員。大理卿路昌衡請:「分大理寺丞為左、右推,若有 異,自左移右。再變,即命官審問,或御史臺推究。不許開封府互勘及地分探報,庶革互送挾之弊。徒已上罪,移御史臺。命官追攝者,悉依條。若探報涉虛、用情託者,並收坐以聞。」

初め、法寺獄を斷ずるに、大辟失入すれば罰有り、失出すれば坐せず。是に至り、死罪を失出すこと五人を以て一人を失入するに比し、徒・流罪を失出すこと三名も亦之の如し。令と為して著す。元符三年、刑部言ふ、「祖宗失入の罪を重くす、刑を恤むる所以なり。夫れ失出は臣下の小過、生を好むは聖人の大德なり。失出の責を罷め、有司讞議の間、務めて忠恕を盡さしむるを請ふ」と。詔して可とす。政和三年、臣僚言ふ、「遠方の官吏、文法既に疏く、刑罰中を失ひ、無からざること能はず。願くは耳目の官に委ね、季ごとに一分して部内の囚禁を錄し、抑有るに遇ひ、先づ釋して後に以て聞す。歳終に釋する所の多寡を較へ、之が為に殿最と為す。其れ功を徼ひて故に罪有る者を出すは、法の如く論ず」と。詔して刑部に令し立法せしむ、「諸に入れて人を徒・流の罪にし已に結案し、而して錄問の官吏能く駮正し、或は事に因りて能く推正する者は、累ねて七人に及び、大辟一名に比して賞を推す」と。

原文初,法寺斷獄,大辟失入有罰,失出不坐。至是,以失出死罪五人比失入一人,失出徒、流罪三名,亦如之。著為令。元符三年,刑部言:「祖宗重失入之罪,所以恤刑。夫失出,臣下之小過;好生,聖人之大德。請罷失出之責,使有司讞議之間,務盡忠恕。」詔可。政和三年,臣僚言:「遠方官吏,文法既疏,刑罰失中,不能無。願委耳目之官,季一分錄所部囚禁,遇有抑,先釋而後以聞。歲終較所釋多寡,為之殿最。其徼功故出有罪者,論如法。」詔令刑 部立法:「諸入人徒、流之罪已結案,而錄問官吏能駮正,或因事而能推正者,累及七人,比大辟一名推賞。」

紹興六年、諸に令す、鞫勘に情款異同有りて病死者は、提刑司之を研究し、如し有れば、朝廷に申して旨を取る。十二年、諸に令す、翻異の獄を推究するに、初官・蔭子及び新進士を差すこと無く、曾經歷任の人を擇べ。二十七年、監察御史に令し毎冬夏獄を點し、鞫勘失實する者有れば、刑部郎官を照し、直に行ひて移送す。二十九年、人を殺して證無く、屍經驗せざるの獄は、案を具して奏裁し、提刑に委ねて審問せしむ。若し可疑及び翻異有れば、本司に從ひ官を差して重勘し、案成れば本路に上り、他監司に移して審定せしめ、案を具して聞奏す。然らずば監司再び官を遣はして之を勘し、又伏せずば、復た奏して旨を取る。是に先立ち、有司建議す、「外路の獄三たび翻異を經、千里内に在る者は大理寺に移す」と。三十一年、刑部以爲ふ、祖宗の法に非ずと。遂に之を釐正す。乾道中、諸州翻異の囚、既に本州を經、次に路を檄し、或は再び翻異すれば、乃ち隔路に移す。兩路を越ゆる者有るに至る。官吏道に旁午し、逮繫する者追對に困す。四年、乃ち令す、「鞫勘本路累ね嘗て官を差すも猶稱する者は、惟だ路を檄し、如し尚ほ翻異すれば、則ち奏裁す」と。淳熙三年、縣尉縣事を權ずるは、自ら獄を鞫むること無く、即ち丞・簿をして之に參ぜしむ。全く闕くれば、則ち州官或は縣に於て官を選び權攝せしむ。

原文紹興六年,令諸鞫勘有情款異同而病死者,提刑司研究之,如 ,申朝廷取旨。十二年,令諸推究翻異獄,毋差初官、蔭子及新進士,擇曾經歷任人。二十七年,令監察御史每冬夏點獄,有鞫勘失實者,照刑部郎官,直行移送。二十九年,令殺人無證、屍不經驗之獄,具案奏裁,委提刑審問。如有可疑及翻異,從本司差官重勘,案成上本路,移他監司審定,具案聞奏。否則監司再遣官勘之,又不伏,復奏取旨。先是,有司建議:「外路獄三經翻異,在千里內者移大理寺。」三十一年,刑部以為非祖宗法,遂釐正之。乾道中,諸州翻異之囚,既經本州,次檄路,或再翻異,乃移隔路,至有越兩路者。官吏旁午於道,逮繫者困於追對。四年,乃令:「鞫勘本路累嘗差官猶稱者,惟檄路,如尚翻異,則奏裁。」淳熙三年,令縣尉權縣事,毋自鞫獄,即令丞、簿參之。全闕,則於州官或縣選官權攝。

金銭を以て刑罰を贖う制度は、鞭撲の罪について、情状と法理に酌量の余地がある場合に寛大に処するものである。穆王が五刑にまで贖罪を及ぼしたのは、法に適わぬことであった。宋代は旧制を損益し、官蔭によって減免・贖罪を得られるようにし、爵禄を尊び廉恥を養うこととした。

原文金作贖刑 ,蓋以鞭扑之罪,情法有可議者,則寬之也。穆王贖及五刑,非法矣。宋損益舊制,凡用官蔭得減贖,所以尊爵祿、養廉恥也。

乾徳四年、大理正高継申が上言した。『『刑統』名例律によれば、三品・五品・七品以上の官の親族が犯罪した場合、それぞれ等級に応じて減免・贖罪が認められている。年代が久しくなり、不肖の者が先代の官蔭を恃んで刑章を畏れぬことを恐れる。今、犯罪した本人に官位がなくとも、祖父・父が本朝の官に任じていた場合、その品秩に基づいて減免・贖罪を得られるべきである。前代に仕えた者は、民に功恵があり時論に推され、歴官が三品以上であれば、初めて申請を認めるべきである』。詔して従った。後にまた定めた。『流内の品官が流外の職に任じている場合、律文に準じ、徒罪以上は当該贖法による。諸司が勒留官を授け、あるいは帰司人が徒流等の罪を犯した場合、公罪は贖罪を許し、私罪は決罰を以て論ずる』。淳化四年、詔して諸州の民が犯罪し、あるいは金銭を納めて贖う場合、長吏が任情に軽重を加えることを禁じ、今後は贖罪として論じてはならないとした。婦人が杖以下の罪を犯し、故意でない場合は、軽重を量って笞罰を加え、あるいは銅を贖わせて釈放する。

原文乾德四年,大理正高繼申上言:「《刑統》名例律:三品、五品、七品以上官,親屬犯罪,各有等第減贖。恐年代已深,不肖自恃先蔭,不畏刑章。今犯罪身無官,須祖、父曾任本朝官,據品秩得減贖;如仕于前代,須有功惠及民、為時所推、歷官三品以上,乃得請。」從之。後又定:「流內品官任流外職,準律文,徒罪以上依當贖法。諸司授勒留官及歸司人犯徒流等罪,公罪許贖,私罪以決罰論。」淳化四年,詔諸州民犯罪,或入金贖,長吏得以任情而輕重之,自今不得以贖論。婦人犯杖以下,非故為,量輕重笞罰或贖銅釋之。

仁宗は民の無知を深く憫れみ、薄刑に備えて贖法を立てんとし、乃ち有司に詔して言った。『先王は用法簡約にして、人をして禁を知り易く従わしめた。後代は茶・酒・塩税の禁を設け、民の厚利を奪い、刑罰がますます煩雑となった。今の編敕は皆律の外に出で、また数度改更し、官吏すら未だよく知らず、百姓どうして聞くことができようか。一旦理官に陥れば、情状は哀れむべきであっても、法によって贖うことはできない。これは礼楽の教化が未だ行われず、専ら刑罰を用いる弊害であろうか。漢の文帝は天下の人に辺境に粟を納めさせ、爵位を受けて罪を免じさせ、刑罰措置に近づいた。律に著されていない科条について、利に冒り禁を犯す者、奢侈して令に違う者、あるいは過ちが憫れむべき者など、別に贖法を設けよ。郷民には穀麦を、市人には銭帛を以て贖わせ、民に穀麦を重んじさせ、刑罰を免れさせれば、農桑は自ら勧められ、富寿は期して待つことができるであろう』。詔が下ると、論者は富人は贖うことができても貧者は免れられず、朝廷の用法の意に適わないとした。時に命じて輔臣に職事を分総させ、参知政事范仲淹に刑法を領させたが、未だ何ら建明するに及ばずして仲淹が罷免され、事は遂に止んだ。至和初年、また詔した。『前代帝王の後裔で、本朝に仕えて官が七品に及ばなかった者、その祖父母・父母・妻子が流罪以下の罪を犯した場合は、贖罪を聴す。仕えずとも嘗て賜与を受けた者は、罪が重大でなければ、これに同じくする』。随州司理参軍李抃の父が人を毆り殺した。李抃は自らの授かった官を上って父の罪を贖おうとし、帝は哀れんでこれを許した。君子はこれを刑罰を失うと謂ったが、然れどもこれ以後嘗てこれを先例とすることはなかった。而して宋一代を通じ、贖法は軽刑にのみ及んだのである。

原文仁宗深憫夫民之無知也,欲立贖法以待薄刑,迺詔有司曰:「先王用法簡約,使人知禁而易從。後代設茶、酒、鹽稅之禁,奪民厚利, 刑 用滋章。今之編敕,皆出律外,又數改更,官吏且不能曉,百姓安得聞之?一陷于理,情雖可哀,法不得贖。豈禮樂之化未行,而專用刑罰之弊與?漢文帝使天下人入粟於邊,以受爵免罪,幾于刑措。其議科條非著于律者,或冒利犯禁,奢侈違令,或過可憫,別為贖法。鄉民以穀麥,市人以錢帛,使民重穀麥,免刑罰,則農桑自勸,富壽可期矣。」詔下,論者以為富人得贖而貧者不能免,非朝廷用法之意。時命輔臣分總職事,以參知政事范仲淹領刑法,未及有所建明而仲淹罷,事遂寢。至和初,又詔:「前代帝王後,嘗仕本朝官不及七品者,祖父母、父母、妻子罪流以下,聽贖。雖不仕而嘗被賜予者,有罪,非巨 ,亦如之。」隨州司理參軍李抃父毆人死,抃上所授官以贖父罪,帝哀而許之。君子謂之失刑 ,然自是未嘗為比。而終宋之世,贖法惟及輕刑而已。

恩赦と宥罪の制度は、凡そ大赦は天下に及び、雑犯死罪以下を釈放し、甚だしきは常赦が原宥しない罪までも皆これを除く。凡そ曲赦は、一路あるいは一州、あるいは別京、あるいは畿内に限る。凡そ徳音は、死罪及び流罪を降等し、その余の罪を釈放し、時に流罪をも釈放する。その及ぶ範囲の広狭は一定しない。また、天子は毎年自ら京師の繫囚を録囚し、畿内には則ち使を遣わし、往々にして雑犯死罪以下を、順次降等し、杖・笞は釈放し、あるいは徒罪も釈放される。若し諸路に及ぶ場合は、監司に命じて録囚させる。

原文恩宥之制,凡大赦及天下,釋雜犯死罪以下,甚則常赦所不原罪,皆除之。凡曲赦,惟一路或一州,或別京,或畿內。凡德音,則死及流罪降等,餘罪釋之,間亦釋流罪。所被廣狹無常。又,天子歲自錄京師繫囚,畿內則遣使,往往雜犯死罪以下,第降等,杖、笞釋之,或徒罪亦得釋。若?及諸路,則命監司錄焉。

初め、太宗は嘗て郊祀の礼に因んで赦を議し、秦再思という者が上書して赦すべからずと願い、諸葛亮が劉備を佐えて数十年赦さなかった故事を引いた。帝は頗る疑った。時に趙普が対して言った。『凡そ郊祀に肆眚するは、聖朝の彝典であり、その仁は天の如し。若し劉備の区々たる一方の事は、臣の取らざるところである』。上はこれを善とし、遂に赦を定めた。初め、太祖が南郊を祀らんとし、詔した。『両京・諸道において、十月以後に強窃盗を犯した者は、郊祀の赦に預かることを得ず。所在の長吏は告諭して、民に法を冒すことなからしめよ』。是れ以後、祭祀を行わんとする時は必ず先ずこの詔を申明した。天聖五年、馬亮が言った。『朝廷には是の詔があるが、法官が獄を断ずるに、終には赦に会うであろうと言って、多く寛宥し、姦を恵み詔旨を失っている』。遂に詔した。『既に禁令を下した後に劫盗を犯し、あるいは官典が贓を受けた者は、再び奏上せず、悉く律に論ずべし』。七年春、京師に雨が降り、弥月止まなかった。仁宗が輔臣に謂って言った。『豈に政事が天心に適わぬのであろうか』。因って言った。『向に大辟は覆奏し、州県では三度、京師では五度に及んだ。人命を重んずること此の如しである。有司を戒めて、獄を決し罪を議するに、枉濫あることなからしめよ』。また言った。『赦は数を欲せず、然れども是を捨てては和気を召す術がない』。遂に命じて天下を赦した。帝は在位久しく、人の情偽に明らかで、特に人の陰事を訐ることを悪み、故に一時の士大夫は惇厚を習いとした。久しきに及び、小人が間隙に乗じて密かに上書し、人の過失を疏し、好事の徒が稍々相与に唱和し、また人の赦前の事を按じた。翰林学士張方平・御史呂誨が以て言い、因って詔を下して言った。『蓋し聞く、治古には君臣心を同じくし、上下協穆にして激訐の俗無しと。その徳の盛んなること、何ぞ其れ甚だしきや。朕窃かに之を慕う。公卿大夫と嘉に斯の道に同くして底せんとす。而るに教化未だ至らず、澆薄日滋す。比者中外の群臣、多く上章して人の過失を言い、難くして験すべからざる罪を暴揚し、或いは外に公言を託し、内に私忿に縁り、曖昧を詆欺し、苟も善良を陷れんとす。又た赦令は、以て天下と更始する所なれども、有司多く赦前の事を挙按し、殆ど命令を信じ、刑罰を重んじ、人をして心を洒いて自ら新たにせしむるの意に非ざるなり。今、上言して人の罪を告げ、赦前の事を言う者有らば、之を訊問せよ。言官に至っては、宜しく大體を務むべく、事朝政に関らざれば、自余の小過細故は、須らく察挙するに及ばず』。

原文初,太宗嘗因郊禮議赦,有秦再思者,上書願勿赦,引諸葛亮佐劉備數十年不赦事。帝頗疑之。時趙普對曰:「凡郊祀肆眚,聖朝彝典,其仁如天,若劉備區區一方,臣所不取。」上善之,遂定赦。初,太祖將祀南郊,詔:「兩京、諸道,自十月後犯強竊盜,不得預郊祀之赦。所在長吏告諭,民無冒法。」是後將祀,必先申明此詔。天聖五年,馬亮言:「朝廷雖有是詔,而法官斷獄,乃言終是會赦,多所寬貸,惠姦失詔旨。」遂詔:「已下約束而犯劫盜,乃官典受贓,勿復奏,悉論如律。」七年春,京師雨,彌月不止。仁宗謂輔臣曰:「豈政事未當天心耶?」因言:「向者大辟覆奏,州縣至於三,京師至於五,蓋重人命如此。其戒有司,決獄議罪,毋或枉濫。」又曰:「赦不欲數,然捨是無以召和氣。」遂命赦天下。帝在位久,明於人之情偽,尤惡訐人陰事,故一時士大夫習為惇厚。久之,小人乘間密上書,疏人過失,好事稍相與唱和,又按人赦前事。翰林學士張方平、御史呂誨以為言,因下詔曰:「蓋聞治古,君臣同心,上下協穆,而無激訐之俗,何其德之盛也!朕竊慕焉。嘉與公卿大夫同底斯道,而教化未至,澆薄日滋。比者中外羣臣,多上章言人過失,暴揚難驗之罪,或外託公言,內緣私忿,詆欺曖昧,苟陷善良。又赦令者,所以與天下更始,而有司多舉按赦前之事,殆非信命令,重刑罰,使人洒心自新之意也。今有上言告人罪,言赦前事者,訊之。至於言官,宜務大體,非事關朝政,自餘小過細故,勿須察舉。」

神宗即位し、また詔して言った。『夫れ赦令は、国の大恩にして、以て瑕穢を蕩滌し、自新の地に納るる所以なり。是を以て聖王重んずる所なり。中外の臣僚多く赦前の事を以て吏民を捃摭し、獄訟を興起し、苟くも詿誤有らば、皆自ら安からず。甚だ心を持すること近厚の義に非ず、吾が号令を天下に信ぜしめざるなり。内外の言事・按察官は、依前に挙劾することを得ず。具に按じて旨を取るべし。然らずんば違制の罪を科す。御史臺は覚察して弾奏せよ。法寺に此の奏按有らば、挙駁して聞こえしむるを許す』。知諫院司馬光が言った。『按察の官が赦前の事を以て獄訟を興起するを禁ずるは、誠に大善なり。言事の官に至っては、事體稍々異なり。何となれば、御史の職は、本より百僚を繩按し、隠伏を糾擿するを以てとす。姦邪の状は、固より一日の為す所に非ず。国家は素より寛仁を尚び、数たび赦令を下し、或いは一歳の間に再三に至る。若し赦前の事皆言うを得ずんば、則ち其の言うべき者は幾ばくも無し。万一姦邪の臣有りて、朝廷知らず、誤って進用を加うるも、御史言わんと欲すれば則ち今日の詔に違い、若し其れ言わざれば則ち陛下何に由りて之を知らん。臣恐らくは此に因りて言う者藉口して偷安し、姦邪放心して懼れざることを得ん。此れ人臣の至幸にして、国家の長利に非ざるなり。請う前詔を追改し、『言事』の両字を刊去せんことを』。光の論、再に至り、帝は『言う者は好んで赦前の事を以て人を誣う』と諭した。光対えて言った。『若し言うこと実を得ば、誠に聞こえしむる所なり。若し其れ実ならざれば、当に言う者を罪すべし』。帝は光に命じて詔を中書に送らしめた。

原文神宗即位,又詔曰:「夫赦令,國之大恩,所以蕩滌瑕穢,納於自新之地,是以聖王重焉。中外臣僚多以赦前事捃摭吏民,興起獄訟,苟有詿誤,咸不自安,甚非持心近厚之義,使吾號令不信於天下。其內外言事、按察官,毋得依前舉劾,具按取旨,否則科違制之罪。御史臺覺察彈奏,法寺有此奏按,許舉駁以聞。」知諫院司馬光言曰:「按察之官,以赦前事興起獄訟,禁之誠為大善。至於言事之官,事體稍異。何則?御史之職,本以繩按百僚,糾擿隱伏。姦邪之狀,固非一日所為。國家素尚寬仁,數下赦令,或一歲之間至於再三,若赦前之事皆不得言,則其可言者無幾矣。萬一有姦邪之臣,朝廷不知,誤加進用,御史欲言則違今日之詔,若其不言,則陛下何從知之。臣恐因此言者得以藉口偷安,姦邪得以放心不懼。此乃人臣之至幸,非國家之長利也。請追改前詔,刊去『言事』兩字。」光論至再,帝諭以「言者好以赦前事誣人」,光對曰:「若言之得實,誠所欲聞,若其不實,當罪言者。」帝命光送詔于中書。

熙寧七年三月、帝は旱魃のため赦を下そうとした。時に既に二度赦しており、王安石は言う、「湯の旱魃の時、六事を以て自ら責めて曰く、『政事に節度なきか』と。もし一年に三度赦せば、これ政に節度なきなり、災を消す所以にあらず」と。乃ち止む。八年、廃免された者の叙用規定を編定し、常赦の際は郡県が規定に従って叙用する。凡そ三朞(九年)ごとに一叙し、即ち朞が満たずして非次の赦に遇う場合もまたこれに同じ。

原文熙寧七年三月,帝以旱,欲降赦。時已兩赦,王安石曰:「湯旱,以六事自責曰:『政事不節與?』若一歲三赦,是政不節矣,非所以弭災也。」乃止。八年,編定廢免人敘格,常赦則郡縣以格敘用,凡三朞一敘,即朞未滿而遇非次赦者,亦如之。

元祐元年、門下省が言う、「官に在って職事を怠り疎かにした者は、去官しても免れず、なお言うべし。至って赦降の大恩は、万物を更新するものであり、劫盗殺人すらも寛宥を蒙る。豈に一事の差失を以て、終身罪を負うべけんや。今、刑部の修めし去官・赦降を以て原減せざる条は、更に刪改を請う」と。

原文元祐元年,門下省言:「當官以職事墮曠,雖去官不免,猶可言;至於赦降大恩,與物更始,雖劫盜殺人亦蒙寬宥,豈可以一事差失,負罪終身?今刑部所修不以去官、赦降原減條 ,請更刪改。」

徽宗は在位二十五年にして、大赦二十六、曲赦十四、徳音三十七。而して南渡の後、紹熙年間には年に四赦に至り、蓋し刑政乱れて恩赦益々濫觴す。

原文徽宗在位二十五年,而大赦二十六,曲赦十四,德音三十七。而南渡之後,紹熙歲至四赦,蓋刑政紊而恩益濫矣。

宋は祖宗以来、三年ごとに郊祀に遇えば赦す、これ常制なり。世に三歳一赦は、古に有ることなしと言う。景祐年中、言者が以て為す、「三王は歳に圜丘を祀るも、未だ嘗て輒ち赦さず。唐の兵興以後、天を祀る礼常に行われず、因って大赦有り、以て乱獄を蕩す。且つ罪ある者を寛むるも必ずしも自ら新たにせず、害を受けたる者を抑うるも必ずしも怨み無からず。自ら新たにすること能わざれば、将に復た悪を為さんとし、怨み無からざるを得ざれば、将に善を為すを悔いん。一赦して民をして善を悔い悪を長ぜしむるは、政教の大患なり。願わくは三歳一赦を罷め、良民をして恵を懐かしめ、凶人をして禁を知らしめよ。或いは未だ尽く廃すべからずと謂うは、即ち有司に命じ、郊祀の前三日に罪人を理し、過誤ある者を引きて之を赦せ。州県は詔の到るを須ちて此に倣え」と。疏奏す、朝廷其の事を重んじ、第に詔す、「罪人情重き者は、一赦を以て免るるを得ざるべし」と。然れども未だ嘗て行わず。

原文宋自祖宗以來,三歲遇郊則赦,此常制也。世謂三歲一赦,於古無有。景祐中,言者以為:「三王歲祀圜丘,未嘗輒赦。自唐興兵以後,事天之禮不常行,因有大赦,以蕩亂獄。且有罪者寬之未必自新,被害者抑之未必無怨。不能自新,將復為惡,不能無怨,將悔為善。一赦而使民悔善長惡,政教之大患也。願罷三歲一赦,使良民懷惠,凶人知禁。或謂未可盡廢,即請命有司,前郊三日理罪人,有過誤者引而赦之。州縣須詔到倣此。」疏奏,朝廷重其事,第詔:「罪人情重者,毋得以一赦免。」然亦未嘗行。