宋史

志第一百五十四 刑法三

天下に疑獄あり、讞議して決すること能わざるものは、則ち両制と大臣及び台諫をして雑議せしめ、その事の大小を視て、常法なく、而して有司の建請を論駁する者も、亦時に有り。

端拱初年、広安軍の民安崇緒は禁兵に隷し、継母馮が父知逸と離縁したと訴え、今、資産を奪って己が子に与えると。大理寺は崇緒が母を訟ずるに当たり、罪は死とす。太宗之を疑い、判大理寺事張佖は固く前の断を執り、遂に台省をして雑議せしむ。徐鉉議して曰く「今第に其の母馮の嘗て離縁したることを明らかにせば、即ち須らく宗に帰すべし、否なれば即ち崇緒は法に準じて処死すべし。今案内を詳らかにするに、曾て離異せざるに、其の証四つ有り。況んや不孝の刑は、教の大なる者なり、宜しく刑部・大理寺の断に依るべし」。右僕射李昉等四十三人議して曰く「法寺の定断は不当なり。若し五母皆同じきを以てすれば、即ち阿蒲は賤しと雖も、乃ち崇緒の親母なり、崇緒は特ち田業を馮に強占せられ、親母の衣食給せざるを以て、所以に論訴するなり。若し法寺の断死に従わば、則ち知逸何の辜か有って嗣を絶ち、阿蒲何の地に身を托さん。臣等議す:田産並びに崇緒に帰し、馮は合わしく蒲と同居し、供侍して終身すべし。是くの如くせば、則ち子に父業を守る可く、馮は終身に至って乏養に至らず。所犯並びに赦に準じて原ゆ」。詔して昉等の議に従い、鉉・佖各々俸を一月奪う。

熙寧元年七月、詔す「謀殺已だ傷つけ、按問して挙げんと欲し、自首するは、謀殺より二等を減じて論ず」。初め、登州奏す、婦阿云有り、母服中に韋に聘せられ、韋の醜陋を悪み、謀殺して死せず。按問して挙げんと欲し、自首す。審刑院・大理寺は死を論じ、違律を以て婚と為し奏裁し、敕して其の死を貸す。知登州許遵奏し、律を引き「犯に因り殺傷して自首するは、因の罪を免るるを得、仍って故殺傷の法に従う」と、謀を以て因と為し、当に按問欲挙の条を用いて二等を減ずべしと。刑部は審刑・大理の如く定む。時に遵方に召されて大理を判じ、御史台は遵を劾す、而して遵伏せず、請うて両制をして議せしむ。乃ち翰林学士司馬光・王安石をして同議せしむ、二人議同じからず、遂に各々奏を為す。光の議は刑部に是とし、安石の議は遵に是とす、詔して安石の議する所に従う。而して御史中丞滕甫は猶お再び官を選び定議を請い、御史銭顗は遵の大理を罷むるを請う、詔して翰林学士呂公著・韓維・知制誥銭公輔をして重ねて定めしむ。公著等の議は安石の如し、制して曰く「可」。ここに於いて法官斉恢・王師元・蔡冠卿等皆論奏して公著等の議する所を不当とす。又詔して安石と法官をして集議せしめ、反覆論難す。明年二月庚子、詔す「今後謀殺人自首するは、並びに奏して敕裁を聴く」。是の月、安石を参知政事に除く、ここに於いて奏して以て為す「律の意、犯に因り殺傷して自首するは、因の罪を免るるを得、仍って故殺傷の法に従う。若し已に殺せば、故殺の法に従う、則ち首たる者は必ず死す、須らく奏裁せず。従たる者は自ら編敕の奏裁の文有り、須らく復た新制を立つる無し」。唐介等と数え帝の前に争議し、卒に安石の議に従う。復詔す「自今並びに去年七月の詔書を以て事に従う」。判刑部劉述等又請うて中書・枢密院を合議せしめ、中丞呂誨・御史劉琦・銭顗皆請うて述の奏の如くし、之を二府に下す。帝以て律文甚だ明らかなりと為し、須らく合議せず。而して曾公亮等皆以て博く同異を尽くし、言者を厭塞するを傷無きと為し、乃ち衆議を枢密院に付す。文彦博以て為す「殺傷する者は、殺さんと欲して傷つくるなり、即ち已に殺したる者は首す可からず」。呂公弼以て為す「殺傷は律に於いて首す可からず。請う自今已に殺傷するは律に依り、其の従いて功を加え自首するは、即ち奏裁すべし」。陳升之・韓絳の議は安石と略同じ。会に富弼相に入り、帝弼をして議せしめ、而して疾病を以て、久しく議せず。ここに至りて乃ち決し、而して弼は告に在り、預からず。

蘇州の民張朝の従兄、槍を以て朝の父を戳し死なせ、逃げ去る、朝之を執りて殺す。審刑院・大理寺は朝に十悪不睦の罪を当てて死とす。案既に上る、参知政事王安石言す「朝の父は従兄に殺さるる所と為り、而して朝報復して之を殺す、罪は加役流に止まり、赦に会い、応に原ゆべし」。帝安石の議に従い、特ち朝を釈して問わず。更に命じて呂公著等をして刑名を定議せしむ、議安石の意に称せず、乃ち自ら奏を具す。初め、曾公亮は中書の刑名を論正するを非と為し、安石曰く「有司刑を用うるに当たらず、則ち審刑院・大理寺当に論正すべし。審刑院・大理寺刑を用うるに当たらず、即ち官を差し定議すべし。議既に当たらず、即ち中書自ら宜しく論奏し、人主の取决を取るべし。此れ所謂国体なり。豈に中書刑名を論正す可からざるの理有らんや」。

三年、中書上す刑名未だ安からざる者五つ:其一、歳に死刑を断ずること幾二千人、前代に比べて殊に多し。強劫盗の如き並びに死法有り、其の間情状軽重、絶えて相遠き者有り、使いて皆死に抵らしむれば、良に亦哀しむ可し。若し従にして情軽の人の為に別に刑を立て、前代の斬右趾の比の如くせば、足りて悪を止め害を除くに。禁軍辺防に屯戍せずして逃ぐる者は、亦更に首限を寛にして、以て其の勇力の効を収むべし。其二、徒・流の折杖の法、禁網密に加わり、良民偶々抵冒有り、肌体を傷つけ致し、終身の辱と為る。愚頑の徒は、一時創痛と雖も、而して終に愧恥無し。若し情理軽き者をして古の居作の法に復せしめ、赦に遇いて第に月日を減じ、良善の者をして改過自新を知らしめ、凶頑の者をして拘繫する所有らしむ。其三、刺配の法二百余条、其の間情理軽き者、亦古の徒流移郷の法に復す可く、其の再犯を俟ち、然る後に決刺して軍に充つべし。其の配隷並びに減じて本処に就かしめ、或いは近地に与うべし。凶頑の徒は、自ら旧法に従う。編管の人も、亦迭に他所に送り、量りて役作の時限を立て、鉗するを得ざらしむ。其の四、州県をして士民を考察せしめ、能く孝悌力田して衆の知る所と為る者有らば、帖を給して身に付す。偶々犯令有り、情軽く恕す可き者は、特ち贖罰を議す。其の悛まざる者は、科決すべし。其の五、奏裁の条目繁多、刑禁を淹らすに致る、亦宜しく刪定すべし。詔して編敕所に付し詳議して立法せしむ。

初めに、韓絳が嘗て肉刑を用いることを請うたことがあり、曾布がまた上議して曰く、「先王の刑罰を制するや、未だ仁を本とせざるはなく、然れども肢体を断ち、肌膚を刻みて殺戮に至るものあり、已むを得ざるなり。蓋し人の罪あるや、贖刑以て之を懲らすに足らず、故に已むを得ずして之に墨・劓・剕・宮・大辟を加う。然れども軽重を審かに適せしむれば、則ち又流宥の法あり。漢の文帝に至り肉刑を除きて笞箠の令を定め、後世之に因りて律と為す。大辟の次、流刑を以て処し、墨・劓・剕・宮に代うるは、唯だ先王の流宥の意に非ざるのみならず、而して又軽重の差を失う。古は郷田同じ井にして、人皆安土して遷を重んず。之を遠方に流せば、資給する所無く、徒隸困辱し、以て終身に至る。近世の民は、軽くして郷井を去り、四方に転徙す、固より患と為さず、而して居作一年なれば、即ち附籍を聴す、古に比するも亦軽し。況んや折杖の法は、古に於ける鞭扑の刑にして、刑軽くして悪を止むること能わず、故に法を犯すこと日益に衆く、其の終必ず殺戮に至らんとす、是れ軽くせんと欲して却って重きに反するなり。今大辟の目至って多し、其の情貸すべき者を取り、之を肉刑を以て処せば、則ち人の生を獲る者必ず衆からん。若し軍士亡去して斬に応ずる者、賊盗贓満ちて絞に応ずる者は、則ち其の足を刖り、良人を犯して法に応じて死すべきも、而して情軽き者は宮刑を以て処す。劓・墨に至っては、則ち刺配の法を用う。此を降りて後に流・徒・杖・笞の罪と為せば、則ち刑を制すること差等有らん」と。議既に上るや、帝執政に可否を問う、王安石・馮京互いに論辨有り、遂に行わるること果たさず。

樞密使文彥博も亦上言して曰く、「唐末・五代は、重典を用いて時弊を救う、故に法律の外、徒・流或いは死に加うるに至る。国家平を承けて百年、中典を用うべし、然れども猶因循し、旧律より重き者有り、若し官文書を偽造するは、律に止めて二千里を流す、今断じて絞に従う。近く凡そ印記を偽造し、再犯死に至らざる者も、亦絞坐に従う。夫れ杖を強盗するは、本法造印より重し、今造印再犯する者は死し、而して強盗再犯贓五匹に満たざる者は死せず、則ち刑を用うること甚だ律文に異なり。請う、刑名旧律より重き者を検詳し、以て敕律を参考し、其の当を裁定せん」と。詔して編敕所に送る。又詔して審刑院・大理寺に重贓併せて軽贓を満たす法を議せしむ。審刑院言う、「犯す所各々異なる贓は、罪等を待たずして累併すれば、則ち律義に通じ難し、宜しく故事の如くすべし」と。而して大理寺言う、「律に称す、贓を以て罪に致し、頻りに犯す者は並びに累科す、若し罪犯等しからざれば、即ち重贓を以て軽贓を併せ満たし各々倍論す、累併して加重せざれば、止めて重きに従う。蓋し律の意は、頻りに贓を犯す者は、二罪以上の法を用うべからず、故に累科せしめ、一犯に非ざるが故に、倍論せしむ。此れ寛に従うの一なり。然れども六贓軽重等しからず、若し二贓以上を犯す者は、軽きを累ねて重きに従うべからず、故に重きを併せて軽きを満たさしむ。此れ寛に従うの二なり。若し重きを以て軽きに併せて後加重すれば、則ち止めて一重に従う、蓋し進めば則ち軽法に改めて従い、退くも亦姦を容るるに至らざらんと為すなり。而して疏議仮設の法、適に皆罪等なる者、蓋し一時の命文なる耳。若し罪等なる者は尽く数え累併し、等しからざる者は止めて一贓を科せば、則ち恐らくは法を知る者は以て姦を為すに足り、知らざる者は但だ臨時に幸と不幸とに係る、律の本意に非ざるなり」と。帝是れ大理の議とし、之を行わしむ。

八年、洪州の民に徒罪を犯して杖罪に断ぜられたる者有り、其の余罪恩に会して免ぜられ、官吏失出し、劾すべし。中書堂後官劉袞駮議し、以て謂う、「律に罪人に因りて以て罪に致す、罪人恩に遇う者は、罪人の原法に準ず。洪州の官吏原すべし」と。又請う、今より官司人罪を出入するは、皆此の令を用いよと。而して審刑院・大理寺以て謂う、「人罪を失入するは、乃ち官司誤って人に罪を致す、此の令を用い難し。其の失出する者は、宜しく袞の議の如くすべし」と。

元豊三年、周清言う、「審刑院・刑部奏断するに、妻謀殺案問自首し、故殺法に変じ、軽きを挙げて重きを明らかにし、悪逆斬刑に入る。窃かに律意を詳らかにするに、妻夫を謀殺し、已に殺せば、悪逆に入るに合し、按問自首を以て、故殺法に変ずれば、宜しく妻夫を毆り死さしむる法を用いて罪を定むべし。且つ十悪の条、謀と故闘夫を殺す、方に悪逆に入る、若し謀めて未だ殺さざれば、止めて不睦に当たる。既に軽きを挙げて重きを明らかにするを用うれば、宜しく謀めて未だ殺さざる法に従い、敕に依りて当に重杖を決して死に処すべく、恐らくは悪逆斬刑に入るべからず」と。下して審刑院・刑部に参詳せしむ、清の議の如し。邵武軍奏讞す、婦人与を通姦し、其の夫を謀殺す、已にして夫酔いて帰る、姦者自ら之を殺す。法寺婦を謀殺の従と為すに当たり、而して刑部郎中杜紘議す婦の罪死に応ずと。又興元府奏讞す、梁懷吉出妻の病を視往し、因りて粟を寄す、其の子輒ち取りて之を食す、懷吉其の子を毆り死さしむ。法寺盗粟を以て論じ、而して懷吉を雑犯死罪に当て、赦を引きて原う。而して紘議す、出妻粟を受寄し、而して其の子輒ち費用す、捕法に入らずと。議既に上るや、御史臺論ず紘の議当たらずと、詔して罰金し、仍て年を展して磨勘す。而して侍郎崔台符以下三人可否無く、亦罰金す。

八年、尚書省が言うには、「諸々の盗賊を捕らえた場合、既に人を殺した者、及び元犯が強姦・強盗で死刑を免れ配流に処せられた者で、再犯して捕獲された場合、有司は例として『知人欲告』あるいは『按問自首』の減免法を用いる。そもそも律文に自首して減等して処断するのは、その情状が甚だしくなく、改過自新の心があるためである。強姦・強盗に至っては、他の罪と異なり、例によって減等することは難しい。請う、強盗で既に人を殺した者、強姦あるいは元犯が強盗で死刑を免れた者、もし杖を持ち三人以上で、人が告げようとしていることを知り、あるいは取り調べられそうになって自首し、及び他人の首告によって減刑されるべき者は、全て減等の例に含まれないものとする。」初め、王安石と司馬光が按問自首法を争議し、結局王安石の議に従った。この時、光が宰相となり、再び以前の議論を申し立てて改めた。そこで詔して、「強盗で按問欲挙により自首する者は、減等を用いない。」と。既にして給事中范純仁が言うには、「熙寧の按問欲挙条は全て減刑・赦免を得られ、姦悪を容認するのが多すぎたため、元豊八年に別に条制を立てた。窃かに詳らかにするに、既に人を殺した者・強姦は、法により自ずから自首すべきでなく、更に按問減等を用いるべきではない。死刑を免れた者及び杖を持つ強盗に至っても減等しないのは、甚だ重すぎる。嘉祐編敕によれば、『応に犯罪の人は、疑いにより捕らえられ、贓物証拠が未だ明らかでなく、あるいは仲間が捕らえられ、未だ指摘されていないが、ただ詰問されるとすぐに自白した者は、皆律の按問欲挙首減の科に従う。もし既に詰問を受け、本罪を隠し拒んだ者は、自首減刑の例に含まれない。』この敕は道理に適い、当時用いられ、天下は刑が平らかであると称した。請う、法により自首しない者は、自ずから減刑されず、その他は嘉祐編敕を取って定断すれば、則ち用法が実情に当たり、上は好生の徳を広め、下は一人の不遇な者もいなくなる。」これを従う。また詔して、「諸州が強盗を審訊し、情理に憫れむべきところがなく、刑名に疑慮がなく、而して軽々しく奏請することを、刑部に挙駁を許し、重ねて朝典を行い、例をもって条を破ることを得ず。」司馬光の請いに従ったのである。光はまた上言して、「人を殺しても死なず、人を傷つけても刑せられなければ、堯・舜でも治世を致すことはできない。刑部が奏鈔した、兗・懐・耀の三州の民で闘殺した者は、皆死刑に論ずべきであるのに、妄りに情理憫れむべしとして奏裁し、刑部は即ち旧例を引いてこれを赦した。凡そ律・令・敕・式に載せ尽くさないものがあれば、則ち有司は例を引いて決する。今、闘殺で死刑に当たるのは、自ずから正条があるのに、刑部が例を承けて死刑を免れ配流に処するのは、闘殺条律が用いられないことである。請う、今後諸州が奏上する大辟で、情理に憫れむべきところがなく、刑名に疑慮がないものは、刑部にこれを返させ、法に依って処断させる。もし実に憫れむべき・疑慮がある場合は、即ち刑部にその実状を奏鈔に具えさせ、先ず処断を擬し、門下省が審査覆奏する。もし不当、及び例をもって条を破る場合は、即ち駁奏して旨を取ってこれを勘案させる。」

元祐元年、純仁はまた言う、「前年四方が奏讞した大辟は凡そ二百六十四件、死者は僅か二十五人、助命された者は九分に迫った。去年法を改めて以来、今に至るまで百日に満たないが、奏上した按問は凡そ百五十四件、死者は五十七人、助命された者は僅か六分余りである。臣は固より法を改める前は全活数が多く、その中には必ず曲げて赦したものがあることを知るが、然れども尚『罪疑わしきは惟れ軽きを取る』の仁を失わない。法を改めた後は、助命数が少なく、その中には必ず濫刑があり、則ち深く『寧ろ経に失うとも』の義を損なう。請う、今後四方が大辟の按問を奏上する際は、並びに刑部・大理寺に再び審査覆奏させ、略ぼ所犯及び元の奏上の理由を具えさせ、執政に旨を取って裁断させ、あるいは奏上が不当でも、その罪を宥す。このようにすれば濫刑の獄は無い。」また尚書省の言により、遠方の奏讞は、報を待つ間に滞獄するため、初めて川・広・福建・荊南路の罪人で、情状軽く法が重く奏断すべき者に、安撫使あるいは鈐轄司に申し出て情状を酌量して決断してから奏上することを命じた。門下侍郎韓維が言う、「天下の奏按は、必ず大理寺で断じ、刑部で詳議し、然る後に中書に上し、人主が決する。近年有司は只だ州郡の請いに因り、その言に依違し、即ち中書に上し、例を貼って旨を取る。故に四方の奏讞が日に前に増える。刑清く事省き難し。今後大理寺が天下の奏按を受けるに、刑名に疑慮・情理に憫れむべきものがあれば、須らく情法の軽重条律を具え、あるいは断ずる法を指し、刑部が詳審し、次第に上す。」詔して刑部に法を立てて奏聞させる。

崇寧五年、詔す、「民が罪により法に罹るに、情状に重軽あれば、則ち法に増損あり。故に情重く法軽きは、情軽く法重きは、旧に取旨の令あり。今有司は惟だ情重く法軽き場合は罪を加えることを請うが、法重く情軽き場合は減刑を奏上せず、是れ罪人を喜び、恕を用いることを難しとし、欽恤の為す所以に非ず。今後宜しく旧法に従い取旨し、情法の軽重各々その中に適せしめ、然らずば違制を以て論ず。」宣和六年、臣僚が言う、「元豊旧法は、情軽く法重き、情重く法軽き、もし大辟に入る、刑名に疑慮あるは、並びに奏裁を許す。比来諸路が大辟疑獄を朝廷に決するものは、大理寺は類して『不当』としてこれを劾する。情理甚だしく、罪状明白で、奏裁して幸いに寛貸を求めるは、固に戒むべき所なり。然れども疑いありて決し難き者を、一切これを劾すれば、則ち官吏は便文自営を以てせざるは莫し。臣は天下が再び疑獄を奏上しなくなることを恐れる。願わくは詔して大理寺に並びに元豊法に依らしめん。」これを従う。

紹興初年、州県に盗賊が起こり、道が通じず、詔して応に奏裁すべき者は、権減降して断遣し奏聞する。既にして奏讞する者は多く軽い赦免を得、官は失入の憂い無く、而して吏は鬻獄の利あり、往往奏すべきでない者を、率ね奏上する。三年、乃ち詔して大辟で応に奏すべき者は、提刑司が理由を具えて奏上する。宣州の民葉全二が檀偕の窖銭を盗み、偕が佃人の阮授・阮捷に命じて全二等五人を殺し、屍を水中に棄てた。有司は「屍を経験せず」として奏上した。侍御史辛炳が言うには、偕は故殺に当たり、衆証分明で、近降の法により、奏上すべきでない。諸獄で奏すべきでないのに奏した者は、論罪されないが、今宣州が観望し、併せてこれを罪にしたい。帝曰く、「もし宣州を加罪すれば、則ち実に疑いある者も再び奏陳しなくなる。」ここにおいて法寺・刑部は止めに罰金を科した。五年、給事中陳与義が奏上するに、有司が多く妄りに出入人罪を奏上する。帝は厳しく立法を申し命じたが、終に悔い改めない。二十六年、右正言凌哲がまた上疏して曰く、「漢高が関に入り、悉く秦法を除き、民と法三章を約した。所謂人を殺す者は死す、実にその首に居る。司馬光に言有り、『人を殺す者死せずんば、堯・舜と雖も以て治を致すこと能わず。』この言は至当と謂うべし。臣窃かに見るに、諸路州・軍の大辟は、刑法相当なる者と雖も、類して憫れむべしとして奏裁する。去年郊祀の後より今に至るまで、大辟奏裁する者五十余人の中に、実犯故殺・闘殺で常赦の原ゆざる所の者あり、法既に疑い無く、情憫れむべからず、刑部・大理寺並びに皆奏裁して赦減する。彼の人を殺す者は幸いと謂うべく、殺された者は恨みを九原に銜み、何時にて已まんや。臣は強暴の風が滋長し、良善の人、自ら保つこと能わず、その刑政に於いて、害と為すこと細ならざるを恐れる。応に今後大辟で、情法相当・憫れむべからざる者は、所司が軽々しく奏裁減貸するを、乞う、台臣に弾劾せしめん。」帝、奏を覧て曰く、「但だ諸路が滅裂にして、実に情理憫れむべき人を、一例に奏上せず、欽恤の意を失うことを恐れる。」刑部に条を坐して行下せしむ。

乾道に至るに及んで、讞獄の弊、日増しに甚だしくなる。孝宗は乃ち有司に詔して、情に縁り條を引き定めて断じ、更に奏裁せざらしむ。その後、刑部侍郎方滋言う、「有司の罪を断ずるに、其の間に情重くして法軽きもの、情軽くして法重きもの、情理憫むべきもの、刑名疑慮すべきもの、命官の犯罪、議親議故の類、一切に定断するに難し。今後は宜しく敕律條令に於いて、合奏裁の事件を明言し、併せて建隆三年の敕文に依ることを乞う」と。之に従う。六年、臣僚請う、「今後大辟は、只だ首として応に死罪に坐すべき者を以て奏し、従として応に死に坐さざる者は、先ず次第に決遣すべし。及び流・徒の罪は、情重と作して旨を取ることを許さず。然らずんば、則ち応に奏せずして奏するの罪に坐すべし」と。之に従う。

理宗の時に至り、往々にして讞は時に報ぜず、囚多く瘐死す。監察御史程元鳳奏して曰く、「今、罪軽重無く、悉く皆獄に送り、獄大小無く、悉く皆稽留す。或いは追索未だ斉わざるを以て問わず、或いは供款未だ円ならざるを以て呈せず、或いは書擬未だ当たらずを以て判せず、獄官は以て常と為して視、其の遅きを顧みず、獄吏は留めて以て利と為し、唯だ其の速きを恐る。奏案申牘既に刑部に下るも、日月を遅延して方に理寺に送る。理寺の看詳も、亦た復た之の如し。寺より部に回申し、部より省に回申するに、動もすれば歳月に渉る。省房又未だ遽かに呈擬せず、亦た呈擬して疏駮する者有り、疏駮の歳月、又復た前の如し。展転遅回し、一二年にして未だ報下せざる者有り。疑うべく矜むべきは、法当に奏讞すべく、矜んで之を全うすべきに、乃ち反って遅回す。矜貸の報下有りて、而して其の人已に獄に斃るる者有り、犯者貸を得て、而して干連病死する者一ならざる有り、豈に重ねて念うべからざらんや。請う、今より諸路の奏讞は、即ち発する月日を以て御史臺に申し、臺臣に従い省・部・法寺の慢を究めしむ」と。之に従う。而して所司延滞し、尋いで復た旧の如し。景定元年、乃ち詔を下して曰く、「比に諸提刑司に詔し、翻異駁勘の獄を取って、軽きに従い断決せしむ。而して長吏監司多く責に任ぜず、又た奏裁を引き、甚だしき者は十余年決せざるの獄有り。仰せらく、提刑司守臣審勘し、或いは前勘未だ尽きず、委しく疑うべき有らば、命官・命婦・宗婦・宗女及び用いるべき蔭人の奏裁を除く外、其の余は断訖りて以て聞かしむ。官吏は特免して一次を収坐せしむ」と。

凡そ応に配役すべき者は軍籍に傅し、重典を用うる者は其の面をげいす。赦に会えば、則ち有司其の罪状を上し、情軽き者は之を縱し、重き者は終身釋さず。初め、徒罪に官当有りて贖銅すべき者非ざるは、京師に在りては則ち将作監役に隷し、兼ねて之を宮中に役し、或いは左校・右校役に輸作す。開宝五年、御史臺言う、「若し此の如き者は、其の名有りと雖も、復た役使無し。祠祭に遇えば、水火を供すれば、則ち本司供官有り。望むらくは、大理に令して格に依り断遣せしむ」と。是に於いて併せて作坊に送りて之を役す。

太宗は国初諸方割拠し、五代の制に沿い、罪人率ね西北辺に配隷し、多く亡投して塞外に至り、羌を誘いて寇と為すを以て、乃ち詔す、「当に徒すべき者は、復た秦州・霊武・通遠軍及び縁辺諸郡に隷せず」と。時に江・広已に平らぎ、乃ち皆南方に流す。是に先立ち、死罪を犯して貸を得る者は、多く登州沙門島及び通州海島に配隷し、皆屯兵使者有りて領護す。而して通州島中凡そ両処官塩有り、豪強制し難き者は崇明鎮に隷し、懦弱者は東州市に隷す。太平興国五年、始めて分ちて塩亭に隷し之を役することを令し、而して沙門は旧の如し。端拱二年、詔して嶺南流配の荷校執役を免ず。初め、婦人罪有りて流に至るも、亦た鍼を執り配役す。是に至り、詔して之を罷免す。始めて雑犯死に至りて命を貸す者は、沙門島に流さず、只だ諸州牢城に隷することを令す。

旧制、僮僕罪有れば、其の面を私に黥するを得。帝謂う、「僮使傭を受くるは、本良民なり」と。詔す、「主の財を盗む者は、杖脊・黥面して牢城に配し、私に之を黥すこと勿れ。十貫以上は、五百里外に配し、二十貫以上は、奏裁す」と。帝配隷の刑を寬にせんと欲し、祥符六年、詔して審刑院・大理寺・三司に詳定して以て聞かしむ。既にして茶塩礬麴を犯す、私に軍器を鑄造す、外蕃の香薬を市す、銅錢を挾み漢口を誘いて界を出づ、主吏官物を盗貨す、夜聚して妖を為すを取るに、旧法に比して咸く軽減に従う。

乾興以前、州軍の長吏、往々にして擅に罪人を配す。仁宗即位し、首に詔を下して禁止し、且つ情巨なるに非ざる者は、須らく奏して報を待つことを令す。又た諸路の按察官に詔し、乾興赦前に配隷兵籍する者を取り、坐する所の罪状を列ねて以て聞かしむ。是より赦書下る毎に、輒ち之に及ぶ。初め、京師裁造院女工を募るに、而して軍士の妻罪有れば、皆南北作坊に配隷す。天聖初、特詔して之を釋し、自便に聽す。婦人応に配すべきは、則ち妻務或いは軍營致遠務卒の家無き者を以てす、法と為す。時に又た詔して曰く、「配徒する者の其の妻子道路に流離し、罕に能く生還するを聞く、朕甚だ之を憐む。今より応に配すべき者は、獄を具に録し刑名及び配する地里を、尚書刑部に上り詳覆せしむ」と。未だ幾ばくもせず、又た応に配すべき者は、須らく長吏以下集り聽事して慮問することを詔す。後に奏牘煩冗を以て、獄を具に録するを罷め、第に単状を以て承進司に上る。既にして又た慮問を罷む。知益州薛田言う、「しょく人他路に配徒する者は、請う老疾と雖も釋すことを得ざらしむ」と。帝曰く、「遠民無知にして法を犯し、終身郷里に還ることを得ず、豈に朕の意ならんや。其の情矜むべきを察する者は還ることを許す」と。後に復た罪状獷悪なる者は許すこと勿れと詔す。初め、配隷罪人皆奏して報を待つことを令す、既にして獄に繫がり淹久し、奏請煩數なり。明道二年、乃ち有司に詔して軽重を参酌し、令と為して著す。凡そ命官重罪を犯し、当に配隷すべきは、則ち外州に於いて編管し、或いは牙校に隷す。其の死に坐して特に貸す者は、多く杖・黥して遠州牢城に配し、恩を経て量移し、始めて軍籍を免る。天聖初、吏同時に贓を以て敗るる者数人、悉く之を嶺南に竄し、詔を下して在位に申儆す。平羌県尉鄭宗諤と為る者有り、賕を受け枉法して死に抵る、赦に会いて当に官を奪うべし。帝輔臣に問うて曰く、「尉の奉月幾何ぞ、豈に祿薄くして自ら養うに足らざるか」と。王欽若対えて曰く、「奉薄しと雖も、廉士固より亦た自ら守る」と。特に関宗諤を杖し、安州に配隷す。其の後数え貪吏を懲し、其の末年に至り、吏廉を以て自ら飾るを知り、法を犯す者稍く旧に損ず。

罪人死を貸す者は、旧多く沙門島に配し、至る者多く死す。景祐中、当に沙門島に配すべき者は、第に広南地牢城に配すことを詔し、広南の罪人は、乃ち嶺北に配す。然れども其の後又た沙門島に配する者有り。慶曆三年、既に天下の繫囚を疏理し、因りて諸路の配役人皆之を釋することを詔す。六年、又た詔して曰く、「百姓軽罪に抵り、而して長吏擅に他州に刺隷するを聞く如し、朕甚だ之を憫む。今より法外に於いて事を従うるに非ざるを得ざる者は、輒ち罪人を刺すことを得ず」と。皇祐中、既に赦し、知制誥曾公亮・李絢に命じて配する人の罪状を閲し以て聞かしむ、是に於いて多く寬縱す。公亮請う、故事と為して著し、且つ益・梓・利・夔の四路は就きて転運・鈐轄司に委ねて之を閲せしむ。自後毎赦命官、率ね以て常と為す。

配流の重い者は沙門島の砦に、次いで嶺表に、次いで三千里から隣州に、次いで羈管に、次いで遷郷に配する。判決が下りれば、寒暑を問わず、直ちに上道させる。呉充が建議して言うには、「流人は冬の寒さに傷つき、上道の途中で凍死する者が多い。今後は情理が甚だしくない限り、冬の月には本処に留めて役務に就かせ、春の月にこれを発遣することを聴許されたい。」詔して可とする。

熙寧二年、比部郎中・房州知事の張仲宣はかつて巡検に檄を飛ばして金州の金坑を調査させたが、あまり利益がなかった。土地の人は工事の起こるのを恐れ、金八両を以て仲宣に官を差し向けないよう求めた。事が発覚すると、法官は仲宣を枉法贓の罪に坐して絞刑に相当するとし、前例を援用して死罪を赦し、脊杖・黥面して海島に配流した。知審刑院の蘇頌が言うには、「仲宣の犯した罪は、恐喝の条に比すべきである。かつて古に『刑は大夫に上らず』とあり、仲宣は官五品で、罪があっても車に乗ることができた。今、刑して徒隷と為すのは、その人自体は矜れむに足りないが、衣冠を汚辱することを恐れるのみである。」遂に杖・黥を免じ、賀州に流した。これより命官には杖・黥の法はなくなった。

六年、審刑院が言うには、「登州沙門砦への配流は、二百人を定員とし、余りは海外に移し置くが、これは姦を禁ずる趣旨に合わない。」詔して三百人を定員とする。広南転運司が言うには、「春州は瘴癘の地であり、配流されて来る者の十のうち八九は死ぬ。配流罪人を停止されたい。」詔して、「沙門島に配すべき者は、春州への配流を許す。その他は配するな。」既にして諸々の配流人は凶盗を除き、少壮の者は全て河州に置き、五百人に止めた。初め、神宗は流人が郷邑を去り、道中で病没すること、また護送の禁卒の往来の労費を憂い、張誠一の議に従い、所在の地に随って諸軍の重役に配した。後に中丞の黄履らが上言し、これを廃止した。凡そ盗を犯した者は、耳の後ろに環を刺す:徒刑・流刑は方形、杖刑は円形。三度杖刑を犯した者は、顔面に移す。直径は五分を超えない。

元祐六年、刑部が言うには、「諸々沙門島に配流される者で、強盗・殺人・放火、贓満五万銭・強姦毆傷で両犯して死罪に至る者、累贓二十万銭に至る者・謀殺で致死した者、及び十悪の死罪、蠱毒を造って既に人を殺した者は、移配しない。強盗の徒党で人を殺したが共謀でなく、贓満二十五万の者は、赦に遇えば広南に移配し、定員超過者は遠悪の地に配流する。その他の犯人は赦に遇えば荊湖南北路・福建路諸州に移配し、定員超過者は広南に配流する。沙門島で満五年を経て、赦にあっても移配に該当せず、かつ放還を許されずに年六十以上に達した者は、広南に移配する。島に十年いる者は、その他の犯人の規定に依って移配する。篤疾または年七十に達し島に三年以上いる者は、近郷の州軍に移配する。犯状が移配に応じるが老疾の者も同様とする。永く放還しない者は、各々二年を加えて移配する。」後にまた令を定めて、「沙門島が既に定員超過の場合、瓊州・万安軍・昌化・朱崖軍に移配する。」

紹聖三年、刑部侍郎の邢恕らが言うには、「藝祖が天下を初めて定めた時、主典が自ら盗みを働き、贓満の者は往々にして死に抵した。仁祖の初めも、尚お廃さなかった。その後、用法が稍々寛大になり、官吏が自盗を犯し、罪が極法に至っても、多くは死罪を赦された。しかし甚だしい者はなお決して刺配島に処せられ、錢仙芝は館職を帯び、李希甫は転運使を歴任したが、免れなかった。近頃朝廷の用法は益々寛大になり、主典・人吏・軍司が犯しても、例え各々死罪を赦され、少しの差別もない。祖宗の故事を講述し、凡そ自盗で贓が多い者については、間々に睿断を出され、以て中外を粛正されたい。」詔して、「今後、応に枉法自盗で罪が死に至り、贓数が多い者は、並びに旨を取るべし。」

或いは加役流の法が重すぎることを患え、官には監視駆使の労があり、道路には逃亡の憂いがある。蘇頌は元豊中に嘗て建議して言うには、「古に倣って圜土を置き、流刑に当たる者を治罪した後、首に鉗をはめ足を繋ぎ、昼は居作させ、夜はこれを圜土に置く。満三年にして後に釈放し、未だ年を満たさずに赦に遇った者は、赦原しない。釈放後もなお本郷に送り、出入りを監察させる。また三年犯さなければ、乃ち自由にすることを聴許する。」時に未だ実行されなかった。崇寧中、始めて蔡京の請いに従い、諸州に強盗で死罪を赦された者を居住させるための圜土を築かせた。昼は役作させ、夜はこれを拘束し、罪の軽重を視て、以て久近の期限とする。圜土を出る日には軍に充てることを許し、過失のない者は釈放する。これを二年行ったが、その法は不便であり、乃ち廃止した。大観元年、再び施行。四年、再び廃止。

南渡後、諸々の配流については、祥符編勅では四十六条に止まったが、慶曆中には百七十余条に増え、淳熙に至ってはまた五百七十条に増え、則ち慶曆の四倍となった。配法が既に多く、犯す者日々衆く、黥配の人は到る所に充満した。淳熙十一年、校書郎の羅點がその重すぎることを言上し、乃ち詔して刑部・大理寺に集議して奏聞させた。十四年に至っても未だ定論がなかった。その後、臣僚が議して、「もし只だ居役に止め、郷井を離れなければ、ほぼ姦を恵み、悪を懲らしめるに足りない。もし配法を尽く用い、黥刺を憚らなければ、面目一旦壊れて、誰か復た顧藉せん。強民は恰も威力を長じ、過ちあっても自新する由なし。元豊の刑部格を検照すると、諸々の編配人には自ら不移・不放及び移放の条限がある。政和の編配格にはまた情重・稍重・情軽・稍軽の四等がある。もし旧格に倣い、稍々参訂を加え、情重に入るならば旧に倣って面を刺し、不移不放の格を用い、其次稍重ならば只だ額角を刺すに止め、配及び十年の格を用い、其次稍軽ならば黥刺を免じ、面を刺さず・役満放還の格を与え、其次最軽ならば居役に降格し、別に年限を立てて縦免する格とする。仮に従坐で編管される者があれば、則ちこれを本城に置き、その放免期限を減ずる。このようにすれば、現行の条法に並びに牴牾せず、且つ刺面の法を専ら情犯の凶悪な者に処し、その他たまたま罪に罹った者は皆その面目を全うし、顧藉すべきを知り、自新することができる。黥徒を省き、姦党を銷すは、誠に天下の切務である。」即ち詔して有司に裁定させたが、その後は終に旧制の如くであった。

嘉泰四年、臣僚が言うには、「配流の人は、蓋し両等がある。その郷民の一時の闘毆殺傷、及び胥吏の犯贓で命を貸して流配された人等は、仮令逃逸しても、必ずしも大過を為す能わず、只だ徒刑に従い、本州の牢城重役に配し、期限満了して証拠を与え、復た良民と為すことを欲する。累犯強盗及び聚衆して私商を販売し、嘗て殺傷・捕獲された人に至っては、村民・胥吏の比ではなく、並びに屯駐軍に配し、年限を立て、期限満了して正軍に改刺することを欲する。」これに従う。その配する所の地は、高宗以来、或いは広南海外四州に配し、或いは淮・漢・四川に配し、度宗の世に至るまで定法なく、皆記すに足りない。

凡そ内外の上申する刑獄は、刑部・審刑院・大理寺が参じてこれを主とし、また糾察在京刑獄司があって審覆を相した。官制が既に行われると、審刑院・糾察司を罷め、その職を刑部に帰した。四方の獄は、則ち提点刑獄がこれを統治する。官司の獄は、開封には府司・左右軍巡院があり、諸司には殿前・馬歩軍司及び四排岸があり、外には三京府司・左右軍巡院、諸州軍院・司理院があり、下って諸県に至るまで皆獄がある。諸獄は皆楼牖を置き、漿と鋪席を設け、時に沐浴を具え、食は温暖ならしめ、寒ければ薪炭・衣物を与え、暑ければ五日毎に枷杻を洗う。郡県では則ち職掌の官が躬行して検視し、獄が破損すればこれを修繕して堅固ならしめる。

神宗即位の初め、詔して曰く、「獄は民命の繫ぐ所なり。比来有司が歳ごとに天下の奏を考ふるを聞くに、多く瘐死す。深く惟ふに獄吏並びに縁りて姦を為し、檢視明らかならず、吾が元元をして横に其の害に罹らしむ。書に云はざるや、『其れ不辜を殺すに與るよりは、寧ろ不經を失へ』と。其れ令を具へよ。諸州軍巡司院所禁ずる罪人に應じ、一歳に獄中に病死する者二人に及び、五縣以上の州は歳に三人死し、開封府司・軍巡は歳に七人死せば、推吏・獄卒皆杖六十とし、一人を増せば則ち一等を加へ、罪は杖一百に止む。典獄官は推獄の如く、兩犯を經て即ち違制に從ひて坐す。提點刑獄は歳終に死者の数を會して之を上へ、中書檢察す。死者過多なれば、官吏既に罰を行ひたるも、當に更に黜責すべし」と。

未だ幾ばくもせず、復た詔す、「死罪に失入し、既に三人を決せしむれば、正官は除名編管し、貳者は除名し、次貳者は免官勒停し、吏は千里に配隷す。二人以下は、此れに視て差有り。赦降・去官を以て原免せず。未だ決せざれば、則ち比類して遞に一等を降す。赦降・去官なれば、又た一等を減ず。審刑院・刑部斷議官に令し、歳終に嘗て徒罪に失入すること五人以上を具へ、京朝官は磨勘年を展し、幕職・州縣官は考を展し、或は任滿指射差遣を與へず、或は罷め、仍ぐ即ち支賜を斷絕す」と。以前の法未だ備はらざるを以て、故に是の詔有り。又た嘗て詔す、「官司人罪に失入し、而して罪人應に原免すべきも、官司猶ほ法の如く論ず。即ち人罪に失出し、若し應に徒すべきを杖するに、罪人應に原免すべき者は、官司乃ち罪人に因りて以て罪を致すの律を用ふるを得」と。帝國初に大理獄を廢するは是に非ずと為し、元豐元年詔して曰く、「大理に獄有るは尚しきなり。今中都官に劾治すべき所有れば、皆開封諸獄に寓繫し、囚既に猥多にして、隔訊に難く、盛夏疾疫に、傳致して瘐死し、或は主者異見有りて、歳時に決せず。朕甚だ之を愍む。其れ大理獄を復し、卿一人を置き、少卿二人、丞四人を置き、專ら鞫訊を主とし、檢法官二人、主簿一人を置く。三司・諸寺監の吏杖・笞に犯し追究を俟たざる者に應ずれば、聽きて即ち決し、餘は悉く大理獄に送る。其れ奏すべき者は、並びに刑部・審刑院をして詳斷せしむ。天下の奏按に應ずる者も亦之を上ぐ」と。五年、少卿を分ち命じて左は斷刑、右は治獄と為す。斷刑は則ち評事・檢法詳斷し、丞議し、正審す。治獄は則ち丞專ら推劾し、主簿按籍を掌り、少卿其の事を分領し、而して卿之を總ぶ。六年、刑部言ふ、「舊く詳斷官公按を分ち訖り、主判官論議して改正し、詳議官を發して覆議す。差失問難有れば、則ち檢尾に書して、斷官に送りて改正せしめ、主判官審定し、然る後に判成す。詳斷官大理に歸して評事・司直と為り、議官丞と為りてより、斷ずる按草、長貳に由らず、類多く差忒す」と。乃ち定制す、評事・司直と正を分ちて斷司と為し、丞と長貳を議司と為す。凡そ公按を斷ずるに、正先づ其の當否を詳にし、論定すれば則ち印を簽し日を注ぎ、議司に移して覆議せしめ、辨難有れば、乃ち議を具へて改正し、長貳更に審定を加へ、然る後に判成して錄奏す。

元祐初め、三省言ふ、「舊く糾察司を置き、蓋し其の違慢を察せんと欲し、以て獄事を謹重にせしむ。刑部に罷歸し、復た糾察の制無し。請ふらくは糾察の職事を以て、御史臺刑察に委ねて之を兼ねしめ、臺獄は則ち尚書省右司之を糾察せしむ」と。三年、大理寺獄を罷む。初め、大理獄を置くは、本と囚繫の淹滯を以てし、獄事統ぶる所有らしめんと為す。而して大理卿崔台符等德意を奉承すること能はず、士大夫と雖も若し命婦と、獄辭小しく連逮する有れば、輒ち捕繫す。凡そ邏者の探報する所は、即ち之を獄に下す。傅會鍛鍊して、誣服せざる無し。是に至り、台符等皆罪を得、獄乃ち罷む。八年、中書省言ふ、「昨詔を内外にし、歳終に諸獄囚死の数を具ふ。而して諸路の上ぐる所、遂に禁繫二十にして一を死する者を具へず。是れ歳に二百人を繫ぐと雖も、十人の獄死を許すに即ちなり。恐らくは州縣獄事に弛意し、甚だ欽恤の意に非ず」と。詔し刑部して自今禁繫の数を輒ち分つことを許さず。

紹聖二年、戶部三司故事の如く、推勘檢法官を置き、在京諸司事錢穀に干り當に追究すべき者に應じ、杖已下より即ち定斷す。三年、復た大理寺右治獄を置き、官屬元豐の員を視、仍ぐ司直一員を増置す。大理卿路昌衡請ふ、「大理寺丞を分ちて左・右推と為し、若し異有れば、左より右に移す。再變すれば、即ち官を命じて審問し、或は御史臺推究せしむ。開封府の互勘及び地分の探報を許さず、互送挾の弊を革まんことを庶幾ふ。徒已上の罪は、御史臺に移す。命官追攝する者は、悉く條に依る。若し探報虛に涉り、情を用ひて託する者は、並びに收坐して以て聞す」と。

初め、法寺獄を斷ずるに、大辟失入すれば罰有り、失出すれば坐せず。是に至り、死罪を失出すこと五人を以て一人を失入するに比し、徒・流罪を失出すこと三名も亦之の如し。令と為して著す。元符三年、刑部言ふ、「祖宗失入の罪を重くす、刑を恤むる所以なり。夫れ失出は臣下の小過、生を好むは聖人の大德なり。失出の責を罷め、有司讞議の間、務めて忠恕を盡さしむるを請ふ」と。詔して可とす。政和三年、臣僚言ふ、「遠方の官吏、文法既に疏く、刑罰中を失ひ、無からざること能はず。願くは耳目の官に委ね、季ごとに一分して部内の囚禁を錄し、抑有るに遇ひ、先づ釋して後に以て聞す。歳終に釋する所の多寡を較へ、之が為に殿最と為す。其れ功を徼ひて故に罪有る者を出すは、法の如く論ず」と。詔して刑部に令し立法せしむ、「諸に入れて人を徒・流の罪にし已に結案し、而して錄問の官吏能く駮正し、或は事に因りて能く推正する者は、累ねて七人に及び、大辟一名に比して賞を推す」と。

紹興六年、諸に令す、鞫勘に情款異同有りて病死者は、提刑司之を研究し、如し有れば、朝廷に申して旨を取る。十二年、諸に令す、翻異の獄を推究するに、初官・蔭子及び新進士を差すこと無く、曾經歷任の人を擇べ。二十七年、監察御史に令し毎冬夏獄を點し、鞫勘失實する者有れば、刑部郎官を照し、直に行ひて移送す。二十九年、人を殺して證無く、屍經驗せざるの獄は、案を具して奏裁し、提刑に委ねて審問せしむ。若し可疑及び翻異有れば、本司に從ひ官を差して重勘し、案成れば本路に上り、他監司に移して審定せしめ、案を具して聞奏す。然らずば監司再び官を遣はして之を勘し、又伏せずば、復た奏して旨を取る。是に先立ち、有司建議す、「外路の獄三たび翻異を經、千里内に在る者は大理寺に移す」と。三十一年、刑部以爲ふ、祖宗の法に非ずと。遂に之を釐正す。乾道中、諸州翻異の囚、既に本州を經、次に路を檄し、或は再び翻異すれば、乃ち隔路に移す。兩路を越ゆる者有るに至る。官吏道に旁午し、逮繫する者追對に困す。四年、乃ち令す、「鞫勘本路累ね嘗て官を差すも猶稱する者は、惟だ路を檄し、如し尚ほ翻異すれば、則ち奏裁す」と。淳熙三年、縣尉縣事を權ずるは、自ら獄を鞫むること無く、即ち丞・簿をして之に參ぜしむ。全く闕くれば、則ち州官或は縣に於て官を選び權攝せしむ。

金銭を以て刑罰を贖う制度は、鞭撲の罪について、情状と法理に酌量の余地がある場合に寛大に処するものである。穆王が五刑にまで贖罪を及ぼしたのは、法に適わぬことであった。宋代は旧制を損益し、官蔭によって減免・贖罪を得られるようにし、爵禄を尊び廉恥を養うこととした。

乾徳四年、大理正高継申が上言した。『『刑統』名例律によれば、三品・五品・七品以上の官の親族が犯罪した場合、それぞれ等級に応じて減免・贖罪が認められている。年代が久しくなり、不肖の者が先代の官蔭を恃んで刑章を畏れぬことを恐れる。今、犯罪した本人に官位がなくとも、祖父・父が本朝の官に任じていた場合、その品秩に基づいて減免・贖罪を得られるべきである。前代に仕えた者は、民に功恵があり時論に推され、歴官が三品以上であれば、初めて申請を認めるべきである』。詔して従った。後にまた定めた。『流内の品官が流外の職に任じている場合、律文に準じ、徒罪以上は当該贖法による。諸司が勒留官を授け、あるいは帰司人が徒流等の罪を犯した場合、公罪は贖罪を許し、私罪は決罰を以て論ずる』。淳化四年、詔して諸州の民が犯罪し、あるいは金銭を納めて贖う場合、長吏が任情に軽重を加えることを禁じ、今後は贖罪として論じてはならないとした。婦人が杖以下の罪を犯し、故意でない場合は、軽重を量って笞罰を加え、あるいは銅を贖わせて釈放する。

仁宗は民の無知を深く憫れみ、薄刑に備えて贖法を立てんとし、乃ち有司に詔して言った。『先王は用法簡約にして、人をして禁を知り易く従わしめた。後代は茶・酒・塩税の禁を設け、民の厚利を奪い、刑罰がますます煩雑となった。今の編敕は皆律の外に出で、また数度改更し、官吏すら未だよく知らず、百姓どうして聞くことができようか。一旦理官に陥れば、情状は哀れむべきであっても、法によって贖うことはできない。これは礼楽の教化が未だ行われず、専ら刑罰を用いる弊害であろうか。漢の文帝は天下の人に辺境に粟を納めさせ、爵位を受けて罪を免じさせ、刑罰措置に近づいた。律に著されていない科条について、利に冒り禁を犯す者、奢侈して令に違う者、あるいは過ちが憫れむべき者など、別に贖法を設けよ。郷民には穀麦を、市人には銭帛を以て贖わせ、民に穀麦を重んじさせ、刑罰を免れさせれば、農桑は自ら勧められ、富寿は期して待つことができるであろう』。詔が下ると、論者は富人は贖うことができても貧者は免れられず、朝廷の用法の意に適わないとした。時に命じて輔臣に職事を分総させ、参知政事范仲淹に刑法を領させたが、未だ何ら建明するに及ばずして仲淹が罷免され、事は遂に止んだ。至和初年、また詔した。『前代帝王の後裔で、本朝に仕えて官が七品に及ばなかった者、その祖父母・父母・妻子が流罪以下の罪を犯した場合は、贖罪を聴す。仕えずとも嘗て賜与を受けた者は、罪が重大でなければ、これに同じくする』。随州司理参軍李抃の父が人を毆り殺した。李抃は自らの授かった官を上って父の罪を贖おうとし、帝は哀れんでこれを許した。君子はこれを刑罰を失うと謂ったが、然れどもこれ以後嘗てこれを先例とすることはなかった。而して宋一代を通じ、贖法は軽刑にのみ及んだのである。

恩赦と宥罪の制度は、凡そ大赦は天下に及び、雑犯死罪以下を釈放し、甚だしきは常赦が原宥しない罪までも皆これを除く。凡そ曲赦は、一路あるいは一州、あるいは別京、あるいは畿内に限る。凡そ徳音は、死罪及び流罪を降等し、その余の罪を釈放し、時に流罪をも釈放する。その及ぶ範囲の広狭は一定しない。また、天子は毎年自ら京師の繫囚を録囚し、畿内には則ち使を遣わし、往々にして雑犯死罪以下を、順次降等し、杖・笞は釈放し、あるいは徒罪も釈放される。若し諸路に及ぶ場合は、監司に命じて録囚させる。

初め、太宗は嘗て郊祀の礼に因んで赦を議し、秦再思という者が上書して赦すべからずと願い、諸葛亮が劉備を佐えて数十年赦さなかった故事を引いた。帝は頗る疑った。時に趙普が対して言った。『凡そ郊祀に肆眚するは、聖朝の彝典であり、その仁は天の如し。若し劉備の区々たる一方の事は、臣の取らざるところである』。上はこれを善とし、遂に赦を定めた。初め、太祖が南郊を祀らんとし、詔した。『両京・諸道において、十月以後に強窃盗を犯した者は、郊祀の赦に預かることを得ず。所在の長吏は告諭して、民に法を冒すことなからしめよ』。是れ以後、祭祀を行わんとする時は必ず先ずこの詔を申明した。天聖五年、馬亮が言った。『朝廷には是の詔があるが、法官が獄を断ずるに、終には赦に会うであろうと言って、多く寛宥し、姦を恵み詔旨を失っている』。遂に詔した。『既に禁令を下した後に劫盗を犯し、あるいは官典が贓を受けた者は、再び奏上せず、悉く律に論ずべし』。七年春、京師に雨が降り、弥月止まなかった。仁宗が輔臣に謂って言った。『豈に政事が天心に適わぬのであろうか』。因って言った。『向に大辟は覆奏し、州県では三度、京師では五度に及んだ。人命を重んずること此の如しである。有司を戒めて、獄を決し罪を議するに、枉濫あることなからしめよ』。また言った。『赦は数を欲せず、然れども是を捨てては和気を召す術がない』。遂に命じて天下を赦した。帝は在位久しく、人の情偽に明らかで、特に人の陰事を訐ることを悪み、故に一時の士大夫は惇厚を習いとした。久しきに及び、小人が間隙に乗じて密かに上書し、人の過失を疏し、好事の徒が稍々相与に唱和し、また人の赦前の事を按じた。翰林学士張方平・御史呂誨が以て言い、因って詔を下して言った。『蓋し聞く、治古には君臣心を同じくし、上下協穆にして激訐の俗無しと。その徳の盛んなること、何ぞ其れ甚だしきや。朕窃かに之を慕う。公卿大夫と嘉に斯の道に同くして底せんとす。而るに教化未だ至らず、澆薄日滋す。比者中外の群臣、多く上章して人の過失を言い、難くして験すべからざる罪を暴揚し、或いは外に公言を託し、内に私忿に縁り、曖昧を詆欺し、苟も善良を陷れんとす。又た赦令は、以て天下と更始する所なれども、有司多く赦前の事を挙按し、殆ど命令を信じ、刑罰を重んじ、人をして心を洒いて自ら新たにせしむるの意に非ざるなり。今、上言して人の罪を告げ、赦前の事を言う者有らば、之を訊問せよ。言官に至っては、宜しく大體を務むべく、事朝政に関らざれば、自余の小過細故は、須らく察挙するに及ばず』。

神宗即位し、また詔して言った。『夫れ赦令は、国の大恩にして、以て瑕穢を蕩滌し、自新の地に納るる所以なり。是を以て聖王重んずる所なり。中外の臣僚多く赦前の事を以て吏民を捃摭し、獄訟を興起し、苟くも詿誤有らば、皆自ら安からず。甚だ心を持すること近厚の義に非ず、吾が号令を天下に信ぜしめざるなり。内外の言事・按察官は、依前に挙劾することを得ず。具に按じて旨を取るべし。然らずんば違制の罪を科す。御史臺は覚察して弾奏せよ。法寺に此の奏按有らば、挙駁して聞こえしむるを許す』。知諫院司馬光が言った。『按察の官が赦前の事を以て獄訟を興起するを禁ずるは、誠に大善なり。言事の官に至っては、事體稍々異なり。何となれば、御史の職は、本より百僚を繩按し、隠伏を糾擿するを以てとす。姦邪の状は、固より一日の為す所に非ず。国家は素より寛仁を尚び、数たび赦令を下し、或いは一歳の間に再三に至る。若し赦前の事皆言うを得ずんば、則ち其の言うべき者は幾ばくも無し。万一姦邪の臣有りて、朝廷知らず、誤って進用を加うるも、御史言わんと欲すれば則ち今日の詔に違い、若し其れ言わざれば則ち陛下何に由りて之を知らん。臣恐らくは此に因りて言う者藉口して偷安し、姦邪放心して懼れざることを得ん。此れ人臣の至幸にして、国家の長利に非ざるなり。請う前詔を追改し、『言事』の両字を刊去せんことを』。光の論、再に至り、帝は『言う者は好んで赦前の事を以て人を誣う』と諭した。光対えて言った。『若し言うこと実を得ば、誠に聞こえしむる所なり。若し其れ実ならざれば、当に言う者を罪すべし』。帝は光に命じて詔を中書に送らしめた。

熙寧七年三月、帝は旱魃のため赦を下そうとした。時に既に二度赦しており、王安石は言う、「湯の旱魃の時、六事を以て自ら責めて曰く、『政事に節度なきか』と。もし一年に三度赦せば、これ政に節度なきなり、災を消す所以にあらず」と。乃ち止む。八年、廃免された者の叙用規定を編定し、常赦の際は郡県が規定に従って叙用する。凡そ三朞(九年)ごとに一叙し、即ち朞が満たずして非次の赦に遇う場合もまたこれに同じ。

元祐元年、門下省が言う、「官に在って職事を怠り疎かにした者は、去官しても免れず、なお言うべし。至って赦降の大恩は、万物を更新するものであり、劫盗殺人すらも寛宥を蒙る。豈に一事の差失を以て、終身罪を負うべけんや。今、刑部の修めし去官・赦降を以て原減せざる条は、更に刪改を請う」と。

徽宗は在位二十五年にして、大赦二十六、曲赦十四、徳音三十七。而して南渡の後、紹熙年間には年に四赦に至り、蓋し刑政乱れて恩赦益々濫觴す。

宋は祖宗以来、三年ごとに郊祀に遇えば赦す、これ常制なり。世に三歳一赦は、古に有ることなしと言う。景祐年中、言者が以て為す、「三王は歳に圜丘を祀るも、未だ嘗て輒ち赦さず。唐の兵興以後、天を祀る礼常に行われず、因って大赦有り、以て乱獄を蕩す。且つ罪ある者を寛むるも必ずしも自ら新たにせず、害を受けたる者を抑うるも必ずしも怨み無からず。自ら新たにすること能わざれば、将に復た悪を為さんとし、怨み無からざるを得ざれば、将に善を為すを悔いん。一赦して民をして善を悔い悪を長ぜしむるは、政教の大患なり。願わくは三歳一赦を罷め、良民をして恵を懐かしめ、凶人をして禁を知らしめよ。或いは未だ尽く廃すべからずと謂うは、即ち有司に命じ、郊祀の前三日に罪人を理し、過誤ある者を引きて之を赦せ。州県は詔の到るを須ちて此に倣え」と。疏奏す、朝廷其の事を重んじ、第に詔す、「罪人情重き者は、一赦を以て免るるを得ざるべし」と。然れども未だ嘗て行わず。