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宋史
志第一百四十一 兵二
熙寧以後の制
騎軍
殿前指揮使左右班二。
内殿直左右班四。
散員左右班四。
散指揮左右班四。
散都頭左右班二。
散祗候左右班二。
金槍班左右二。元祐二年六月、密院が言うには、「元豊七年、承旨司が密院に伝宣した:殿前指揮使左右班の槍手は各々五分を定員とし、残りは悉く弓箭手に改充せよ。詳しく考えるに、先に在京の馬軍が槍手を全廃したため、諸班の槍手に欠員があっても、選抜して補充する者がなく、この宣旨があった。近頃、殿前馬歩軍司が奏上したところによれば、在京の諸馬軍は再び一分の槍手を置き、諸班の槍手は並びに旧来の通り教閲する。」詔して曰く、「元豊七年の宣旨は、更に施行しない。」
東西班及び弩手・龍旗直・招箭、総計十一。中興の後、東は凡そ五班、西は凡そ三班。
散直左右四。熙寧九年、南散直を併せて北散直に隷属させる。中興の後、招箭班散直と称す。
外殿直一。熙寧五年に廃止。
銀槍班左右班二。中興の時に設置。
茶酒舊班は中興の際に設置された。
茶酒新班は中興の際に設置された。
鈞容直は國初に一班あり。中興もこれを踏襲したが、後に廃止された。以上を諸班とする。
捧日並びに左射、𨧱直、弩手、左第五軍、総計三十五指揮。京師に三十三、雍丘と鄭に各一。熙寧五年、捧日三十三指揮を併せて二十二とし、弩手を廃して左射に隷属させ、残りは二十九を留める。元豊元年十月、左射を天武に隷属させる。二年、左射と𨧱直を廃す。八月、第五軍を廃し、雍丘第二と南京第一を併せて新立の驍捷と改める。九月、詔して改めず、ただ欠員を補充せず、その数が少なくなるのを待って廃止せよと。
歸明渤海二指揮。京師に駐屯。元豊元年、一指揮を拱聖に移し補充し、残りは驍騎右第四に移し隷属させる。
拱聖二十一指揮。京師に駐屯。熙寧六年、併せて十六指揮とし、左射を廃す。中興後、副指揮一員。
吐渾五指揮。治平年中、併せて二指揮とする。熙寧二年、併せて一指揮とする。元豊元年廃止。中興後、歩軍に属す。
驍騎二十二指揮。京師に駐屯。熙寧六年、併せて十四指揮とし、弩手と上驍騎を廃す。元豊元年、在京の驍騎左第一を神勇に移し隷属させる。
驍勝十指揮。熙寧三年に廃止。
寧朔十指揮。京師と尉氏に各三、雍丘、滑、河陽、河陰に各一。熙寧二年、併せて七指揮とする。元豊元年、在京の第二と第三を併せて第一に隷属させる。
龍猛八指揮。熙寧三年、併せて六指揮とする。
飛猛一指揮。熙寧二年に廃止。
契丹直三指揮。咸平、棣昌、壽に各二。熙寧九年に廃止。
神騎十八指揮。雍丘に十三、咸平に五。熙寧二年、併せて十指揮とする。中興後、副指揮一員。
歩鬥六指揮。尉氏と太康に各一、蔡に四。元豊元年、尉氏と太康の各一、蔡州の二指揮は皆歩軍司虎翼に移し隷属させる。十一月、蔡州の二指揮を新立の驍捷と改め、その第二を擒戎第四に充て、尉氏第三と太康第四を擒戎第五に充て、太康第一を元豊元年に尉氏第三と併せて第一に隷属させ、太康第二を驍雄と改める。二年、尉氏の一指揮は欠員を補充せず。
吐渾直は三指揮。太原に二、潞州に一。熙寧六年、潞州の一指揮を廃す。一年、太原の二指揮を廃す。元豊二年、太原・潞州各一指揮は、欠員を補充せず。中興の時は歩軍に属す。
安慶直は四指揮。太原に一、潞州に三。熙寧六年に全て廃す。
三部落は一指揮。太原に置く。熙寧三年に廃す。
清朔は四指揮。西京に二、潁昌・汝州に各一。
擒戎は五指揮。西京・潁昌に各二、汝州に一。元豊元年、蔡州に二指揮を置く。
驍雄は旧六指揮、治平四年に併せて四指揮となる。咸平・陳州に各二。熙寧初年、驍猛第四を以て一指揮に改充す。元豊六年、咸平・尉氏に各一指揮、欠員は補充せず。
その馬軍行司の新軍の項目:
選鋒は中興の時に置く。
神策選鋒軍・左翼軍・右翼軍・摧鋒軍・游奕軍・前軍・右軍・中軍・左軍・後軍・護聖馬歩軍は中興の時に置く。
歩軍
御龍直は左右二指揮。
御龍骨朶子直は左右二指揮。
御龍弓箭直は五指揮。
御龍弩直は五指揮。中興の時、左右班二指揮。
天武並びに寬衣・𨧱直・左射、総計三十四指揮。京師に三十三、咸平に一。熙寧二年、三十三指揮を併せて二十三とする。九年、左射を廃す。元豊元年、陳留第七軍第一を併せて咸平第五軍第一に隷属せしむ。十月、寬衣天武を廃す。二年、第五軍を廃し、咸平第一を雄武弩手に改む。九月、詔して改めず、ただ欠員は補充せざるべしとす。四年、𨧱直を廃す。紹聖元年十一月、引進副使宋球言上す:「殿前司を立てしより以来、寬衣天武一指揮ありて駕出の禁衛囲子に充て、常に内の諸門を守把す。熙寧中に廃併し、禁囲には只天武を差し、皇城諸門には更に人を差さず。乞う、寬衣一指揮を復置すべし。若しくは添置を欲せざれば、天武本軍内に一指揮を以て寬衣天武となすを乞う。」詔す:禁囲子に合用する天武の人兵は、殿前司に今後並びに四十歳已上・行止有り過犯無く・新たに招揀到したる人に非ざる者を選定して充て、欠員に遇えば選填すべし。
神勇並びに上神勇二十一。京師。熙寧六年、並びに十四と爲し、上神勇を廢す。孝宗初、護聖軍と改む。
廣勇四十三、每に十を以て一軍と爲す。京師五、陳留二十二、咸平・東明・太康・胙城・南京各二、襄邑・陽武・鄆各一、滑三。熙寧九年、在京に一を增置す。元祐二年八月、詔して在京に左第三軍第一・右第三軍第一を置く。
神射五。陳留三、雍丘二。熙寧三年廢す。
龍騎二十、三軍に分つ。京師四、尉氏・雍丘・咸平・鄭各二、南京・陳・蔡・河陽・棣・單・宿・白波各一。熙寧二年、並びに十三と爲す。熙寧二年、在京第七は第九に隷す。
雄勇八。咸平三、鄆二、潁昌・鄭・滑各一。元豐元年、並びに咸平第二・第三を第一に隷し、鄆州第五を第四に隷し、改めて雄威と曰ひ、並びに管城第七・白馬第八を管す;潁昌一は闕として補はざる。二年、咸平一は闕として補はざる。
宣威上下二。咸平・襄邑各一。熙寧三年、咸平一を廣捷に隷し、襄邑一を威猛に隷し、四年廢す。
廣捷五十六。陳留八、咸平六、雍丘四、襄邑・尉氏・潁昌各三、太康・扶溝・南京・亳・河陽・潁・寧陵各二、陳五、鄭・滑・曹・鄧・蔡・廣濟・穀熟・永城・襄城・萊各一。熙寧三年、亳州一は廣勇に併せ、永城縣一は亳州に併せて隷す。元豐元年、管城第四十を本縣雄勇第七に併せて隷し、白馬縣第二十五を本縣雄勇第八に併せて隷す。
廣德並びに揀中廣德、總て十。咸平・尉氏・陽武・河陽・滄・鞏・白波各一、西京三。治平四年、十四を併せて八と爲す。熙寧六年、揀中廣德を廢し、尉氏揀中廣德第一・陽武第二を廣德と改む。
雄威十。考城・襄邑・陳留各一、南京四、陳三。治平四年、十・三を併せて十と爲す。元豐元年、南京第八を分ちて第三・第四・第七に隷す。二年、襄邑二は闕として補はざる。
勝捷・威勝・威捷は建炎初に置き、殿前司に隷す。
全捷・前軍・右軍・中軍・左軍・後軍は勝捷以下九軍より、並びに中興後に置く。
侍衛司侍衛親軍馬歩軍都指揮使・副都指揮使・都虞候各一人。馬軍都指揮使・副都指揮使・都虞候各一人、歩軍も亦之の如し。馬歩軍都虞候以上より、其の員全く闕くれば、即ち馬軍・歩軍都指揮使等各其の務を兼領す。馬歩軍に龍衛・神衛左右四廂都指揮使有り、龍衛・神衛左右廂各都指揮使有り、每軍に都指揮使・都虞候有り、每指揮に指揮使・副指揮使有り、余は殿前司の制の如し。其の領する騎歩軍の額左の如し。
騎軍
員僚直左右四。京師二、恩・冀各一。熙寧二年、左直を併せて一と爲し、人少なきを須ひば其の軍の省するが如く撥隷す。五年、恩・冀州左右直を廢し補はざる。六年、龍衛に撥隷す。元豐三年廢す。
龍衛並びに𨧱直・左射・帶甲剩員四十四。京師三十八、雍丘・尉氏・河陽並びに揀中各一、澶二。熙寧元年、澶州右第四軍第四を第三に隷し、共に併せて一と爲す。九年、陳留並びに帶甲剩員二を一と爲す。熙寧元年、澶州・河陽・尉氏就糧四は並びに別指揮に隷す。六年、三十九を併せて二十と爲す。八年、帶甲剩員二を置く。十年、亳州一を廢す。元豐元年、陳留帶甲剩員は闕として補はざる。二年五月、𨧱直・左射を廢す。八月、第十軍を廢す。十月、南京第十軍第一を新立驍捷左三と改む。六年、帶甲剩員を廢す。中興、二十。
忠猛一指揮。定額。熙寧五年に廃止。
散員一指揮。定額。熙寧五年に廃止。
驍捷二十六指揮。尉氏の新立及び揀中各一、恩州十四、冀州十。熙寧元年、帯甲剩員を廃す。三年、揀中を廃す。五年、瀛州の三指揮は本州の雲翼に撥隷し、冀州十、恩州十四の各指揮はそれぞれ五指揮に併合し、莫州二指揮は一指揮に併合す。十年、冀州及び恩州の驍捷各五指揮をそれぞれ四指揮に併合す。元豊元年、太康に新立驍捷一指揮を置く。
雲騎十五指揮。京師十一、陳留・南京各一、鞏縣二。熙寧二年、十五指揮を十指揮に併合す。三年、第一から第十二指揮を七指揮に併合す。七月、第八指揮を第一・第二指揮に撥隷す。八年、帯甲剩員一指揮を置く。元豊二年に欠員あり、雲捷第二軍より選抜してこれを補う。十月、雍丘の帯甲剩員第一指揮を横塞第十指揮と改む。中興の時、七指揮。
武騎二十一指揮。京師・雍丘各六、尉氏三、陳留・考城・咸平・鄭各一、西京二。熙寧元年、咸平の帯甲剩員を廃して剩員とす。二年、二十指揮を十五指揮に併合す。八年、帯甲剩員一指揮を置く。九年、雍丘の帯甲剩員一指揮を雲騎の帯甲剩員に隷属させ、合わせて一指揮とす。十二月、在京の四指揮を三指揮に併合し、尉氏二指揮を一指揮に併合し、考城一指揮を雍丘寧朔に分隷し、在京二指揮を一指揮に併合す。十年、帯甲剩員を廃す。元豊元年、帯甲剩員亳州第一指揮を併合す。中興の時、三指揮。
驍銳四指揮。莫州三、冀州一。熙寧五年、莫州三指揮を二指揮に併合し、冀州第三指揮はその欠員を虚しくし、存する者をもって捷に補う。六年七月、莫州第一・第二、冀州第三指揮をいずれも驍捷と改め、この月に廃止す。
歸明神武馬一指揮。尉氏。熙寧六年、新立驍捷と改め、七月に廃止す。
飛捷四指揮。雍丘。熙寧二年、二指揮に併合す。元豊元年に廃止す。
驍武左右二十指揮。北京七、真定三、定州六、相・懷・洛・邢各一。熙寧元年、帯甲剩員を廃す。二年、北京七指揮を五指揮に併合す。五年、真定府三指揮を二指揮に併合し、定州六指揮を四指揮に併合し、邢州及び雲翼各一指揮は人員少なきを以て併せて一指揮とす。十年、北京五指揮を四指揮に併合し、定州四指揮は人員少なきを以て三指揮に併合す。元豊七年、忠猛一指揮を分かちて驍武第七・第八・第九指揮に入れる。
廣銳総四十四指揮。太原・代州・并州各三、汾州五、石・嵐・岢嵐各二、晉・潞・慈・絳・澤・隰・憲・寧化・威勝・平定・火山各一、涇・原・鄜各二、秦・渭・環・邠・寧各一。元豊二年、忻州・嵐州各一指揮は、欠員を補わず。三年、涇州二指揮以下の一指揮をもって上一指揮の欠員を補う。五年、蘭州二指揮を置く。中興の時、二十三指揮。
雲翼は左右廂に分かれ、左三十四指揮、右二十二指揮、総五十六指揮。真定・雄・瀛・深・趙・永寧各三、定・冀各六、保五、滄・北平・永靜・順安・保定各二、莫・邢・霸各一、廣信・安肅各四。熙寧五年、滄州二指揮を一指揮に併合し、冀州六指揮を三指揮に併合し、真定府三指揮を一指揮に併合し、趙州三指揮を二指揮に併合し、定州六指揮を四指揮に併合し、順安軍二指揮を一指揮に併合し、永寧軍三指揮を二指揮に併合し、北平軍二指揮はその欠員を待って一指揮に併合し、安肅軍第一指揮を第三指揮に分隷し、深州三指揮を二指揮に併合し、保州一指揮を他の軍に分隷す。十年、莫州第十三指揮を驍捷に分隷し、真定府第八指揮を驍武に分隷し、定州四指揮はその欠員を待って三指揮に併合し、安肅軍三指揮はその欠員を待って二指揮に併合し、廣信軍四指揮を三指揮に併合す。元祐元年、桂州二指揮はなお廃止せず。中興の時、三十三指揮。
有馬勁勇七指揮。太原二、代・嵐各一、磁三。熙寧五年、磁州三指揮を一指揮に併合す。中興の時、五指揮。
騎捷五指揮。瀛州三、莫州二。熙寧六年に廃止す。
廳子七指揮。定州二、相州五。熙寧五年、相州廳子五指揮を三指揮に併合し、定州廳子馬二指揮を一指揮に併合す。六年、相州廳子三指揮をいずれも廳子馬と改む。十年、相州廳子馬第三指揮を驍武廳子馬に分隷す。中興の時、四指揮。
驍駿一指揮。太原。熙寧六年に廃止す。
無敵軍六指揮。定州、北平軍各二指揮、安肅軍、廣信軍各一指揮。熙寧五年、北平軍二指揮は人員が少ないため合併して一指揮とし、雲翼軍三指揮に編入する。廣信軍一指揮は雲翼軍に編入する。
忠銳軍一指揮。廣信軍。熙寧五年に廃止。
威邊軍二指揮。定州、保州各一指揮。熙寧五年に廃止。
克勝軍二指揮。潞州。
飛騎軍二指揮。麟州。
威遠軍二指揮。府州。
克戎軍二指揮。并州。
清塞軍一指揮。延安。熙寧五年に廃止。
武清軍一指揮。晉州。熙寧六年に廃止。
萬捷軍七指揮。相州、冀州、趙州各二指揮、滄州一指揮。熙寧五年、冀州二指揮を合併して一指揮とし、雲翼軍に隷属させる。相州二指揮は人員が少ないため合併して一指揮とする。中興の後、七指揮。
雲捷軍十二指揮。尉氏、咸平、西京、北京、澶州各二指揮、汝州、懷州各一指揮。
橫塞軍七指揮。雍丘、咸平、考城、襄邑、寧陵各一指揮、衛州二指揮。
有馬安塞軍一指揮。熙寧五年に廃止。
蕃落軍八十三指揮。環州五指揮、延州、慶州各四指揮、秦州及び外砦十七指揮、原州、渭州及び外砦各十二指揮、德順軍及び外砦七指揮、鎮戎軍及び外砦十二指揮、鳳翔府、涇州及び外砦、儀州、保安軍各二指揮、隴州一指揮。熙寧三年、外砦九指揮を合併して七指揮とする。八月、涇原路は新砦で削減した蕃落軍を在州の蕃落軍に編入し、定員を三万二千人とする。五年、隴州に招馬軍蕃落一指揮を増設する。九年、陝西土蕃落軍の渭州八指揮を合併して六指揮とし、原州、秦州各五指揮を四指揮とする。元豊四年、環州の下蕃落で未だ指揮に編成されていないものを、禁軍に編入する。五年六月、葭蘆砦主が一指揮の設置を請う。紹聖四年、詔して曰く、陝路に馬軍十指揮を増設し、各五百人を定員とし、永興軍、河中府、鳳翔府、同州、華州に各二指揮を置く。元符元年、詔して曰く、涇原路の新たに築いた西安州に馬軍一指揮を置き、天都砦、臨羌砦に各馬軍一指揮を置く。六月、詔して永興軍等路に十指揮を創設する。二年、定邊城に馬軍二指揮を増設し、烏龍川、北嶺新砦に各馬軍一指揮を置く。崇寧五年、新たに安邊城を築き、馬軍一指揮を置く。
并州騎射軍一指揮。熙寧六年、太原騎射第一を改めて克戎軍とする。元豊七年、成都府に馬軍騎射一指揮を置く。中興の後は無し。
有馬雄略軍は三指揮。広州、桂州、邕州に各一指揮。熙寧三年、広州、桂州、邕州の有馬雄略軍の欠員は補充せず、十年、邕州の駐屯二指揮の欠員を桂州に移し、従前通り設置す。紹聖元年、沅州に有馬軍一指揮を増置す。元符元年正月、詔して荊湖南路、江南東路に各々有馬軍一指揮を増置す。中興の後、二指揮。
崇捷軍は崇寧三年、詔して京東路、京西路、河北路、河東路、開封府界に馬歩軍五万人を創置し、計一百七指揮。馬軍三十五指揮、歩軍七十二指揮、合わせて三万六千人。馬軍は崇捷、崇銳を以て名とし、歩軍は崇武、崇威を以て名とす。
崇銳軍は崇寧三年、上に見ゆ。以上二軍は、中興の後無し。
清澗騎射軍は二指揮。
員僚剩員直は罪を以て謫降せられたる者を充てて立てる。
前軍、右軍、中軍、左軍、後軍、以上七軍は、並びに中興の後に置く。
歩軍
神衛軍並びに水軍、総計三十一指揮。京師。熙寧二年、三十一指揮を併せて三十指揮とす。三年、水軍を廃す。元豊二年、第九、第十を廃し、南京第一を雄武弩手に改む。中興の後、四十六指揮。
虎翼軍は九十六指揮。京師に九十指揮、並びに水軍一指揮、襄邑、東明、単州に各一指揮、長葛に二指揮。熙寧二年、水軍一指揮を除く外、九十五指揮を併せて六十指揮とす。六年、上虎翼を廃す。元豊四年、詔して殿前虎翼右一第四指揮を改めて李憲の親兵とす。
奉節軍並びに上奉節軍五指揮。京師。熙寧二年、殿上の奉節軍を廃す。九月、上奉節軍二指揮を虎翼軍に隷属せしむ。六年十月、奉節軍を廃す。
歩武軍は六指揮。陳州。
武衛軍は七十一指揮。南京、真定府、定州、淄州に各四指揮、北京、澶州、相州、邢州、懐州、趙州、棣州、洺州、徳州、祁州、通利軍、乾州、広済軍に各一指揮、青州に五指揮、鄆州、徐州、兗州、曹州、濮州、沂州、済州、単州、萊州、濰州、登州、淮陽軍、瀛州、博州に各二指揮、齊州、密州、滄州に各三指揮。熙寧四年、帝、文彦博等に諭して曰く「京東の武衛軍は平素精勇得力と号し、陝西の兵に劣らざるなり。」彦博曰く「京東の人は沈鷙精悍、亦た其の性なり。」五年、滄州の三指揮を併せて二指揮とし、真定府の各四指揮を各々三指揮とし、趙州、振武の各一指揮を合わせて一指揮とす。六年、詔して岷州に一指揮を置く。元豊三年、河州の武衛軍二指揮を一指揮とす。
雄武軍並びに雄武弩手、床子弩雄武、揀中雄武、飛山雄武、揀中帰明雄武、総計三十四指揮。京師に十三指揮、太原府、尉氏県、南京、鄭州、汝州、寧陵県に各二指揮、咸平県、東明県、雍丘県、襄邑県、潁昌府、曹州、広済軍、穀熟県、長葛県に各一指揮。熙寧五年、揀中雄武を廃す。閏七月、床子弩雄武、飛山雄武各五指揮を併せて各二指揮とす。六年、雄武軍を廃す。中興の後、「平海」の字を加う。
飛虎軍は三指揮。陳留に二指揮、咸平に一指揮。熙寧三年廃す。
神銳軍は二十六指揮。太原府に六指揮、潞州、晉州に各三指揮、澤州、汾州、隰州、平定軍に各二指揮、代州、絳州、沂州、遼州、邢州、威勝軍に各一指揮。元豊二年、潞州の三指揮は、欠員を補充せず。
振武八十一指揮。北京、澶、相、衛、霸、莫、祁、棣、趙、濱、洺、保安、永寧、通利、安肅、儀各一指揮。真定、瀛、保、恩、邢、深、博、永甯、乾甯、慶、涇各二指揮,延六指揮,邠、隴各七指揮,鄜、寧各五指揮,磁四指揮,滄、原各三指揮。熙寧五年,瀛州二指揮を一指揮とし,滄州三指揮を二指揮とし,真定府二指揮を一指揮とし,邢州二指揮のうち一指揮を武衛・神銳・鎮武に分属させ,磁州四指揮を三指揮とする。元豊三年,鄜州四指揮を三指揮とし,邠州五指揮のうち一指揮を以て上四指揮の欠員を補い,隴州四指揮を三指揮とする。元祐七年,詔して滄州第六十七・六十八指揮の再設置を命ず。
來化一指揮。寧陵。熙寧七年廃止。
新立弩手二指揮。廣済。熙寧六年,定陶県第二軍を雄武隊弩手と改む。
懷勇三指揮。雍丘二指揮,陳一指揮。熙寧三年廃止。
威寧一指揮。潁昌。熙寧二年廃止。
威猛上下十指揮。襄邑四指揮,咸平・潁昌・長葛各二指揮。熙寧三年,宣威を併入す。
雄勝三指揮。陝・冀・濟各一指揮。熙寧四年,陝府雄勝を分ちて他軍に隷属せしむ。中興の時,四指揮。
歸恩左右二指揮。亳。熙寧三年,左第一を右第一に併す。六年,第一を雄勝と改む。
澄海弩手二指揮。登。熙寧八年,廣西経略司が澄海を選抜して桂州に赴かせ,新澄海を以て名とす。中興の時,「水軍」の字を加う。
神虎二十六指揮,永興六指揮,鳳翔・河中・忻・隰・晉・威勝各二指揮,太原・秦・延・鄜・華各一指揮,潞三指揮。熙寧九年,秦州一指揮は欠員を補わず。
保捷一百三十五指揮。永興十二指揮,同九指揮,秦八指揮,河中・邠・涇各七指揮,滑・寧・耀各六指揮,鳳翔・延・儀・華・隴・解・乾各五指揮,陝・原・鄜各四指揮,成三指揮,慶・鳳・坊・晉・鎮戎各二指揮,環・丹・商・虢・階・慶成・德順各一指揮。熙寧五年,鳳翔府に三指揮を添置。六年,一指揮を添置。元豊三年,同州七指揮を併せて六指揮とし,永興軍九指揮を八指揮とする。五年,蘭州に歩軍二指揮を置く。紹聖四年,蘭州金城関に歩軍四指揮を置く。元符元年,新たに西安州を築き,歩軍一指揮を置き,天都・臨羌砦に各々歩軍一指揮を置く;又詔して河北路大名府二十二州軍に共に馬歩軍を創置し,歩軍二十九指揮を保捷を以て名とす。二年,定辺城に歩軍一指揮を置く。崇寧五年,安辺城に歩軍一指揮を置く。中興後,一指揮を増置。
捉生二指揮。延。紹聖三年,環・慶州に各々一指揮を置く。
清辺弩手四十三指揮。太原九指揮,秦五指揮,涇四指揮,河中・隴各三指揮,永興・代・潞・晉各二指揮,慶・渭・環・同・坊・鎮戎・慈・丹・隰・汾・憲各一指揮。熙寧六年,鳳翔四指揮を併せて三指揮とする。八年,吉陽が宣毅一指揮を併せて来隷す。九年,秦州四指揮を併せて三指揮とする。元豊三年,河中清辺弩手将兵一指揮を以て本府保捷・清辺弩手に隷属せしむ。
制勝九指揮。永興・華各二指揮,鳳翔・耀・同・乾・解各一指揮。華一指揮を撥して本州保捷・制勝に隷属せしめ,奉天一指揮を以て其の県保捷の欠員を補う。中興後一指揮を増す。
定功十指揮。永興・秦・慶・原・渭・涇・儀・鄜・延・鎮戎各一指揮。
青澗二箇。中興以後は騎軍に隷す。
平海二箇。登州。
建威一箇。秦州。熙寧三年に廃す。
效忠二十七箇。陳留三箇、太康・尉氏・襄邑・河陽・曹州・合流各二箇、咸平・鄭州・亳州・衛州・潁昌・単州・澶州・磁州・廣済・河陰・寧陵・白波各一箇。熙寧九年、磁州・衛州各一箇は、人員が少ないため武衛と合わされて一箇となる。
川效忠七箇。南京六箇、寧陵一箇。熙寧二年、南京六箇はともに上三に隷す。三年十二月、南京三箇は合わせて二箇となる。
宣毅一百七十四箇。京東西・河北・河東・淮南・江南・両浙・荊湖・福建の九路に隷す。京東路:南京・鄆州・徐州・曹州・斉州各二箇、青州・兗州・密州・濮州・沂州・単州・済州・淄州・萊州・濰州・登州・淮陽・廣済各一箇。京西路:西京・滑州・潁昌・河陽・陳州・襄州・鄭州・潁州・蔡州・汝州・随州・信陽各一箇、鄧州二箇。河北路:真定・徳州・棣州・博州・邢州・祁州・恩州・磁州・深州・定州・洺州・濱州・通利・永静・乾寧・永寧各一箇。河東路:太原・汾州各六箇、晉州四箇、澤州・絳州・石州・代州各三箇、潞州・嵐州・忻州・遼州・威勝・平定各二箇、慈州・隰州・憲州・寧化各一箇。淮南路:揚州・亳州各二箇、廬州・宿州・壽州・楚州・真州・泗州・蘄州・海州・舒州・泰州・濠州・和州・光州・黄州・通州・無為・高郵・漣水各一箇。江南路:江寧・江州・洪州・虔州・吉州・撫州・袁州・筠州・建昌・南安各一箇。両浙路:杭州二箇、越州・蘇州・明州・湖州・婺州・潤州・温州・衢州・常州・処州・秀州各一箇。荊湖路:潭州・全州・鼎州各二箇、荊南・邵州・衡州・永州・郴州・道州・安州・鄂州・岳州・澧州・復州・峡州・帰州・辰州・荊門・漢陽・桂陽各一箇。福建路:二箇、福州・泉州・南剣州・漳州・汀州・邵武・興化各一箇。熙寧三年、宿州・揚州・廬州・壽州・楚州・真州・泗州・泰州の各一箇はともに教閲忠節に隷し、各一箇となる。蘄州・海州・舒州・濠州・和州・光州・黄州・通州・無為・高郵・漣水の各一箇は欠員のまま補充せず。十二月、京東路三十三箇は合わせて十三箇とし、荊湖南路の道州・永州・衡州各一箇・潭州二箇は威果に撥隷し、全州二箇・邵州一箇は雄略に撥隷し、郴州・桂陽各一箇は定員に充てず、荊南一箇は威果に撥隷し、鼎州二箇・澧州・岳州・安州・復州・鄂州各一箇は皆教閲忠節に改め、荊門・漢陽・帰州・峡州各一箇は定員に充てず、江南東路江寧・江南西路虔州各一箇は威果・雄略に撥隷し、洪州・吉州・撫州・建昌各一箇は皆教閲忠節に改め、筠州・袁州・南安各一箇は定員に充てず、福建路福州一箇は威果に隷し、建州二箇は合わせて一箇とし威果に改め、両浙路杭州二箇・越州・蘇州・潤州各一箇は皆威果に改め、湖州・婺州・温州・衢州・常州・処州・秀州各一箇は定員に充てず。熙寧五年、恩州一箇・乾寧・永静・真定・邢州・洺州・磁州・定州・祁州・深州・永寧各一箇は欠員のまま補充せず。八年、吉郷軍宣毅一箇は清辺弩手に隷し、潞州は再び一箇を置く。九年、定州・邢州・深州・祁州・磁州・永寧・永静・乾寧各一箇は皆效忠となる。元豊元年、博州二箇は他の州軍に撥隷す。
宣毅床子弩炮手一箇。岢嵐軍。熙寧三年に廃す。
建安二箇。府州・嵐州各一箇。
威果二十五箇。荊南・江寧・杭州・揚州・廬州・潭州各三箇、洪州・越州・福州各二箇、虔州一箇。宣和三年、厳州に一箇を増置す。
效順一箇。襄邑。熙寧六年、雄武に改む。
揀中雄勇一箇。襄邑。
懷順一箇。霸州。
歸聖一箇。雍丘。熙寧六年、雄武に改む。
順聖一箇。鞏県。中興以後は無し。
懷恩三箇。荊南二箇、鄂州一箇。
揀中懷愛一軍。寧陵に駐屯。熙寧六年に廃止。
勇捷左右二十六軍。襄邑・北京・澶・陳・壽・汝・曹・宿に各二軍、咸平・西京・南京・亳・寧陵・虹・河陰・鞏・長葛・韋城に各一軍。熙寧三年、十軍を併せて九軍とし、右十二軍は右二軍に併合。元豐二年、唐州・汝州に各土兵一軍を設置。
威武上下総十三軍。西京・河陽・鄭・鄆・澶・滑・濮・通利・鞏・河陰・永城に各一軍、曹に二軍。熙寧三年、下威武を廃止。九年、澶の一軍を效忠・勇捷に隷属。
靜戎弩手四軍。河陽・澶・衛・通利に各一軍。熙寧七年に廃止。
平塞弩手及び揀中平塞・新立平塞、総四軍。咸平・亳・河陰・白波に各一軍。熙寧六年、弩手及び新立・揀中平塞を廃止し、亳の平塞弩手及び白波の新立平塞・咸平の揀中平塞は共に下威武に改編。
忠勇三軍。成都に駐屯。
寧遠八軍。戎に三軍、遂・梓・嘉・雅・江安に各一軍。熙寧六年、瀘州に一軍を増置。
忠節及び川忠節・教閱忠節、総六十軍。雍丘・襄邑・寧陵に各三軍、陳留・咸平・東明・亳・河陰・永城に各二軍、南京に五軍、太康・陽武・潁昌・江寧・揚・廬・宿・壽・楚・真・泗・泰・滁・岳・澧・池・歙・信・太平・饒・宣・洪・虔・吉・臨江・興國・廣濟・南康・廣德・長葛に各一軍、合流に四軍。熙寧三年、亳州第十四軍を勇捷に併合し、川忠節一軍を忠節に併合。十二月、八軍を添置。五年、蔡州に一軍を設置。
神威上下十三軍。陳留に三軍、潁昌・鞏に各二軍、雍丘・考城・咸平・河陽・廣濟・白波に各一軍。
歸遠十六軍。陳・潁昌・亳・壽・宿・鄧・襄・鼎に各一軍、荊南・澧・潭・洪に各二軍。元豐五年、成州に一軍を設置。
雄略二十五軍。荊南に五軍、潭に四軍、鼎・澧に各三軍、廣・辰・桂に各二軍、許・全・邵に各一軍。熙寧三年、衡に一軍を増置し、吉に三百人を増員及び部軍雄略一軍を設置。崇寧三年、荊湖南路に四軍を設置。
招收十七軍。保に四軍、霸・信安に各三軍、定・軍城砦に各二軍、廣信・安肅・順安に各一軍。熙寧五年、霸・信安の各二軍をそれぞれ一軍とし、定の二軍を一軍とし、安肅一軍・保の二軍を振武・招收に分属。八年、忻において保甲をもって替罷し、揀充して下禁軍とする。
壯勇七軍。耀・解・滑に各二軍、潁昌に一軍。
橋道及び川橋道十八軍。襄邑・咸平・陽武に各二軍、陳留・東明・尉氏・太康・西京・河陽・濮・鄆・鞏・河陰・白波・寧陵に各一軍。熙寧三年、鄆の川橋道を橋道に改め、順化に隷属。
清塞十二軍。曹に二軍、鄭・鄆・滑・通利・鞏・河陰・白波・汜水に各一軍、長葛に二軍。
崇武は崇寧三年に設置し、歩軍を京東西・河東北に置く。
崇威は崇寧三年に設置し、歩軍を京東西・河東北に置く。
敢勇は元祐七年、詔して河東・陝西路の諸帥府に敢勇を募らせ、百人を定員とした。宣和四年、詔して越州に招集した敢勇三百人を、両浙提刑司の捉殺差使に充当させた。
靖安は崇寧元年、詔して荊湖北路に禁軍五指揮を増設し、靖安と名付け、侍衛歩軍司に隷属させた。
広固は崇寧三年、詔して広固兵四指揮を増設し、京城の工役に備えさせた。政和五年、詔して四指揮それぞれに五百人を増員して定員とし、今後は客軍を差し遣わさないこととした。
通済は政和六年、詔して通済兵士二千人を増設し、御前綱運の牽引に当たらせた。崇武からこの六軍までは、中興以後には存在しない。
清衛は宣和七年、清衛等の軍を削減し、歩軍司に命じて一般の軍分に振り分けて補充させた。
刀牌手は崇寧年間に設置。広西桂州に置く。
勁勇・壮武・静江の勁勇以下の三軍は、旧来は廂軍に隷属していた。中興以後、侍衛歩軍に隷属する。
振華は五百人をもって一軍とする。
安遠・奉先園の四。
武寧・威勇・忠果・雄節・必勝の六。
前軍・右軍・中軍・左軍・後軍の振華以下の十三軍は、いずれも中興以後に設立された。
御前忠佐将校はすべて建隆以来の制度と同じである。
散員班一。
馬直指揮一。
歩直指揮一。熙寧四年、馬歩二直ともに廃止され、殿前司・歩軍司の虎翼に撥隸し、そのうち馬を有する者は雲騎を補す。
備軍一千九百六十人。熙寧二年、九百六十人を罷む。
皇城司
親従官指揮四。政和五年、第五指揮を創置し、七百人を以て定員とす。
親事官指揮三。元豊五年に一を増置し、景霊宮を守奉す。政和五年、西京大内官一、五百五十人を以て定員とす。また内園司一を増置し、五百十人を以て定員とす。
入内院子五百人。中興の後、二百人。
快行・長行は中興の後に置き、一百人。
司圊三人。
曹司は中興に置き、三十人。
将兵とは、熙寧の更制によるものである。先に、太祖は藩鎮の弊を懲らしめ、禁旅を分遣して辺城を戍守せしめ、更戍法を立て、往来道路せしめて、以て勤苦に習熟せしめ、労逸を均しくせしむ。故に将はその兵を専らにすること能わず、兵は驕惰に至らざりき。淳化・至道以来、持循すること益々謹み、もはや難制の患い無きも、更戍交錯し、道路に旁午す。議者は徒らに兵は将を知らず、将は兵を知らず、緩急には恃むべからずと為す。神宗即位し、乃ち諸路の将兵を部分し、禁旅に総隷せしめ、兵に其の将を知らしめ、将に其の士を練らしめ、平居より訓厲有るを知りて番戍の労無く、事有りて後に遣わす、庶幾くは無用と為さざらん。
熙寧七年、始めて詔して開封府畿・京東西・河北路の兵を総べ、将・副を分置す。河北より始め、第一将以下合わせて十七将、河北四路に在り;第十八将以下合わせて七将、府畿に在り;第二十五将以下合わせて九将、京東に在り;第三十四将以下合わせて四将、京西に在り、凡そ三十七。而して鄜延・環慶・涇原・秦鳳・熙河はまた自ら将を列ねたり。鄜延に在る者九、涇原に在る者十一、環慶に在る者八、秦鳳に在る者五、熙河に在る者九、凡そ四十二。八年、また詔して馬軍十三指揮を増置し、京東・西の両路に分つ。また教閲忠果十指揮を募り、京西に在り、定員各五百人、その六は唐・鄧に在り、その四は蔡・汝に在り。
元豊二年、また土兵勇捷両指揮を京西に増置し、定員各四百人、唐州方城は右第十一と為し、汝州襄城は左第十二と為す。凡そ馬軍十三指揮、忠果及び土軍合わせて十二指揮。四年、また詔して東南路諸軍を団結せしむること亦た京畿の法の如く、合わせて十三将:淮南より始め、東路は第一と為し、西路は第二と為し、両浙西路は第三と為し、東路は第四と為し、江南東路は第五と為し、西路は第六と為し、荊湖北路は第七と為し、南路潭州は第八と為し、全・邵・永州は広西に応援して第九と為し、福建路は第十と為し、広南東路は第十一と為し、西路桂州は第十二と為し、邕州は第十三と為す。
天下を総べて九十二将と為し、而して鄜延五路にはまた漢蕃の弓箭手有り、亦た各諸将に附して分隷す。凡そ諸路の将は各副一人を置き、東南の兵三千人以下は単将のみを置く。凡そ将・副は皆内殿崇班以上、嘗て戦陳を歴し、親民の者を選びて充て、且つ監司に奏挙せしむ。また各その将する兵の多寡に以て、部将・隊将・押隊使臣を置くこと各差有り。また訓練官を置きて諸将佐に次ぐ。春秋に都試し、武力の士を択び、凡そ千人より十人を選び、皆名を以て聞こえ、而して旨を待ちて解発し、その郷里に留まらんと願う者は強いて遣わさず。これ将兵の法なり。
六年、熙河路経略制置李憲言う:「本路は九将の名有りと雖も、その実数目多く闕き、緩急に駆使に給せず。また蕃・漢雑えて一軍と為り、嗜好言語同じからず、部分居止悉く皆便ならず、今未だ出戦せずして、その害已に多し、李靖の所謂る蕃・漢自ら一法と為すの意に非ず。若し本路の九将を併せて五軍と為し、各五軍の将・副及び都・同総領蕃兵将を定立し、正兵をして漢弓箭手と合して自ら一軍と為らしめ、その蕃兵も亦た各自ら一軍と為らしむ。敵に臨むの際、首に蕃兵を用い、継いで漢兵に以てす、必ず成效有るべく、兼ねて将・副及び部隊将員を減併することを得べく、事に於いて便なり。」詔してこれに従う。
元祐元年、司馬光が言うには、「近年災害が続き、盗賊が多く、州郡は武備が全くない。長官の護衛は少なく、禁軍は全て将官に属し、多くは州郡と対立し、長官の勢力は遥かにその下にある。万一李順・王倫・王均・王則のような賊が隙に乗じて起こり、郡県を陥落させれば、朝廷の憂いとならぬことがあろうか。祖宗以来、諸軍は営にいることが少なく、常に交代で出戍していた。それは筋骨を労させ、艱難を知り、家を軽んじ、山川の険阻に習熟させるためである。将を置いて以来、全将が発つ時のみ将官と共に行き、その他は常に本営におり、飲食して遊び、驕惰を養い、歳月が経つにつれ、再び用いることができなくなった。また、各将の下にそれぞれ部隊将・訓練官など一二十人がおり、諸州にはまた総管・鈐轄・都監・監押があり、官を重複して設置し、禄を虚しく費やしている。兵を知る者は皆その非を知っている。臣愚かながら、諸路の将官を全て罷め、禁軍は各々本州の長官と総管・鈐轄・都監・監押などに委ね、将を置く以前のようにし、州郡が平時より武備に余裕を持ち、その後緩急あれば死守を責められるようにしたい」と。
諫議大夫孫覚もまたこれを言上した。そこで詔して、陝西・河東・広南の将兵は他路に出戍せず、その他河北は内陸に近い一将を差し替えて河東に赴かせ、諸路の各将と将に隷属しない兵は共に交互に出戍させ、諸路の鈐轄及び都監の員数を少し減らし、なお将官に州都監の職事を兼ねさせたが、結局光らの言うように将・副を全て罷めることはできなかった。その年八月、枢密院が言うには、辺境に近い州軍及び辺境の使者が経由する道路で、その地の兵官を減らすのは良くないと。そこで辺境の州及び人使が経由する道路では、将官は依然として都監を兼ねないこととした。
紹聖年間に至り、枢密院が言うには、「以前は軍士が法を犯せば、将官が専断して処分でき、事が滞ることがなかった。州県官が軍事に関与するようになって以来、動きが多く牽制され、自ら裁断できない。旧法に戻し、諸軍の除転・排補は全て将司に隷属させ、州県はみだりに関与できないようにしたい。屯駐地でない所では、将・副が巡歴して決めるのを待ち、その他は訓練官に委ねて行わせる」と。詔してこれに従った。これにより、州県は一切関与せず、兵はますます驕り、再び用いることができなくなった。
元符元年、章楶がまた涇原第十二将の増置を請うた。
宣和元年、詔して、水火の救護・奸細妖人の収捕以外でみだりに将兵を差し向ける者は罪に処すとした。三年後、婺州知州楊応誠が言うには、「諸路の屯戍は守臣に隷属すべきであり、兵と民の責任を一つにすれば、号令が二つにならない。そうでなければ、将は驕り兵は横暴となり、細民を侵漁し、州郡を圧迫し、憂いが耐えられなくなる」と。そこで詔して、今後は守臣に隷属させることとした。間もなく、また詔して曰く、「将兵は将官の条教に従い、以前に守臣に隷属させた指揮を除く」と。その後、江・浙で盗賊が起こり、州邑を攻め落とすと、東南の将兵は風の便りに逃げ散り、再び戦うことができなかった。事が平定されると、童貫が奏上して言うには、「東南の三将は、概して弱弱しく、全く戦いを知らず、糧食を虚しく費やし、驕り怠惰で勝手気ままである。平時は主領が差役を占めて私利を図り、大半は工芸を習っている。そのため寇盗が横行し、毒が一方に流れ、経営に重い費用がかかった。今事が平定された後、将を増やし兵を増強し、鎮圧し綏撫すべきである。しかし南人は怯弱で、平素訓練を欠き、終に戦に耐えられない。今、内郡に別に三将を置き、京畿の将分に従って接続して配置し、陝西軍を交互に戍守させたい。そうすれば東南に実戦の士を得られ、計略として便利である」と。詔してこれに従った。その後、南渡後の諸屯駐大軍は旧将兵の類いであり、その駐紮の所は以前とは異なっていた。
今、建炎以後の将兵を拾い上げて屯駐大軍の次に列し、建炎の水軍もまた附して見せる。
建炎後諸屯駐大軍:武鋒・精鋭・敢勇・鎮淮・強勇・雄勝・武定・江都振武・泰熙振武・忠勇・游奕・淮陰前軍・副司左右軍・移戍左軍。
淮東滁州:雄勝・安淮・青平小雄辺。
淮東泰州:鎮江左軍。
淮西廬州:強勇前軍・強勇右軍・武定・游奕・忠義・雄辺・全年。
淮西濠州:武定選鋒軍・武定後軍・使効・威勝・遊撃・義士諸軍・定遠武定。
淮西安豊軍:武定前軍・武定右軍・防城戍軍・四色軍。
淮西無為軍巣県:池司右軍。
淮西黄州:雄関飛虎軍。
臨安府屯駐諸軍:雄節・威果・全捷・龍騎・帰遠。
金州駐屯都統司の兵。
成都路安撫副司駐屯の兵。
四川大制司帳前飛捷軍。
利州節制司の諸軍。
金州忠義軍。
閬州節制司の諸軍。
潼川府制帳踏白軍。
隆慶屯駐游奕軍。
潼川安撫司忠定軍。
夔州節制司の軍。
興元節制軍事利州都統司の兵。
四川制司帳前、信義の両軍。
興元都統司屯駐合州の軍、沔州乾道三年、三百人。
沿江水軍は建炎年間に設置。
明州水軍は紹興年間に設置。乾道元年、二千人、左・右の両将に分かれる。
福州の荻蘆・延祥の砦は紹興年間に設置、百五十人。乾道七年に増員を募る。総計五千人。
鎮江駐紮御前水軍は乾道三年、三百人を募り、淳熙五年に千五百人を増員募集。
沿海水軍は乾道六年に設置、一千人。
潮州水軍は乾道四年に設置、二百人。
江陰水軍は乾道四年に設置、三百人。
広東水軍は乾道五年、二千人に増員。
平江許浦水軍は乾道七年、七千人、淳熙五年、五百人を増員。
江州水軍は淳熙三年、一千人を募集。
池州都統司水軍は淳熙元年千人、嘉定年間中に三千人に増員。
漳州水軍は紹熙元年、漳州・泉州合わせて六百人。
泉州水軍は上に見える。
殿前澉浦水軍は開禧元年、一千五百人。
鄂州都統司水軍は開禧十五年。
太平州採石駐紮御前水軍は嘉定十四年、五千人。
建康都統司靖安水軍は元来都統司に隷属、嘉定年間中に御前に隷属。
馬軍行司唐灣水軍は元来馬軍行司に隷属し、嘉定年間に御前に隷属した。
通州水軍は乾道五年に設置された。
池州清溪雁汊控海水軍は建炎四年に設置され、百五十人を擁した。
両淮水軍は紹興元年に設置され、二千人を擁した。隆興元年、詔して諸州に断配の海賊を刺字して隷属させることを命じた。