宋史

志第一百四十  兵一

志第一百四十  兵一

宋の兵制は、おおよそ三つがある。天子の衛兵は、京師を守り征戍に備えるものを禁軍と曰い、諸州の鎮兵は、役使に分給するものを廂軍と曰い、戸籍より選び或いは応募し、之を団結訓練して在所の防守と為すものは、則ち郷兵と曰う。また蕃兵あり、其の法は国初に始まり、塞下に籍を具えて団結し藩籬の兵と為す。其の後、隊伍を分かち旗幟を与え、営堡を繕い器械を備え、一律に郷兵の制に依る。今、旧史に因りて『兵志』を纂修するに当たり、特に熙寧保甲の前に置き、而して之を郷兵に附す。

原文宋之兵制,大概有三:天子之衛兵,以守京師,備征戍,曰禁軍;諸州之鎮兵,以分給役使,曰廂軍;選於戶籍或應募,使之團結訓練,以爲在所防守,則曰鄉兵。又有蕃兵,其法始于國初,具籍塞下,團結以爲藩籬之兵;其後分隊伍,給旗幟,繕營堡,備器械,一律以鄉兵之制。今因舊史纂修《兵志》,特置於熙寧保甲之前,而附之鄉兵焉。

其の軍政には、則ち召募・揀選・廩給・訓練・屯戍・遷補・器甲・馬政の八つの項目あり、条分して之を著し、以て歴朝の因革損益の同じからざるを見せ、而して世道の盛衰も亦た是に具わる。

原文其軍政,則有召募、揀選、廩給、訓練、屯戍、遷補、器甲、馬政八者之目,條分而著之,以見歷朝因革損益之不同,而世道之盛衰亦具是矣。

嗟乎、三代は遠し。秦・漢而下、兵を農に寓するの遺意を得るは、惟だ唐の府衛を以て之に近し。府衛変じて召募と為り、因循姑息し、藩鎮の盛んなるに至りて唐以て亡ぶ。更に五代を歴て、乱亡相踵ぎ、兵に由らざるは莫し。太祖、戎行より起りて天下を有ち、四方の勁兵を収め、京畿に営を列ねて以て宿衛に備え、番を分かち屯戍して以て辺圉を捍ぐ。時に将帥の臣は朝請に奉じ、獷暴の民は尺籍に収隷せしめ、桀驁恣肆する有りと雖も、而して其の間に施す所無し。凡そ其の制は、什長の法、階級の辨を為し、之をして内外相維ぎ上下相制せしめ、截然として犯すべからざらしむるは、是れ累朝藩鎮の弊を矯うるを以てするに雖も、而して其の懲る所深し。

原文嗟乎!三代遠矣。秦、漢而下得寓兵于農之遺意者,惟唐府衛爲近之。府衛變而召募,因循姑息,至於藩鎮盛而唐以亡。更曆五代,亂亡相踵,未有不由於兵者。太祖起戎行,有天下,收四方勁兵,列營京畿,以備宿衛,分番屯戍,以捍邊圉。于時將帥之臣入奉朝請,獷暴之民收隸尺籍,雖有桀驁恣肆,而無所施於其間。凡其制,爲什長之法,階級之辨,使之內外相維,上下相制,截然而不可犯者,是雖以矯累朝藩鎮之弊,而其所懲者深矣。

咸平以後、承平既に久しく、武備漸く寬ぐ。仁宗の世、西兵の招刺太多く、将驕り士惰り、徒らに国用を耗し、憂世の士屡以て言うも、竟に之を改むる莫し。神宗奮然更制し、ここに其の民を聯比して保甲と為し、諸路を部分して将兵に隷せしむ。弊を尽く拯う能わざると雖も、而も亦た以て一時の気を作すに足る。時に其の任ずる者は、王安石なり。元祐・紹聖は成憲を遵守す。迨うに崇寧・大観の間、額を増すこと日広くして精銳乏しく、故に靖康の変に益する無し。時に其の任ずる者は、童貫なり。建炎南渡し、潰卒を収め群盗を招き、以て元帥府を開く。其の初め兵満たず萬、張・韓・劉・岳を将と為して軍声振う。秦檜和議を主るに及び、士気遂に沮む。孝宗興復を志すも而も能わず。光・寧以後、募兵衆しと雖も、土宇日蹙し、況んや上に将を馭するの術無く、而して将に中制の嫌有り。然れども沿辺諸壘は、尚能く戮力效忠し、相与に維持して百五十年に至りて後に亡ぶ。其の祖宗の深仁厚澤人心を固結する有るに雖も、而して兵を制するに道有り、綜理の周密なる、此に於ても亦た見るべし。

原文咸平以後,承平既久,武備漸寬。仁宗之世,西兵招刺太多,將驕士惰,徒耗國用,憂世之士屢以爲言,竟莫之改。神宗奮然更制,於是聯比其民以爲保甲,部分諸路以隸將兵,雖不能盡拯其弊,而亦足以作一時之氣。時其所任者,王安石也。元祐、紹聖遵守成憲。迨崇甯、大觀間,增額日廣而乏精銳,故無益于靖康之變。時其所任者,童貫也。建炎南渡,收潰卒,招群盜,以開元帥府。其初兵不滿萬,用張、韓、劉、岳爲將,而軍聲以振。及秦檜主和議,士氣遂沮。孝宗有志興復而未能。光、寧以後,募兵雖衆,土宇日蹙,況上無馭將之術,而將有中制之嫌。然沿邊諸壘,尚能戮力效忠,相與維持至百五十年而後亡。雖其祖宗深仁厚澤有以固結人心,而制兵之有道,綜理之周密,於此亦可見矣。

禁兵は、天子の衛兵なり、殿前・侍衛の二司之を総ぶ。其の最も親近扈従する者は、諸班直と号し、其次は御前忠佐軍頭司・皇城司・騏驥院に総ぶ。余は皆以て京師を守り征伐に備う。其の外に在る者は、屯駐・屯泊に非ざれば、則ち就糧軍なり。太祖前代の失を鑒み、精銳を京師に萃め、旧制を増損すと曰うと雖も、而して規模巨集遠なり。

原文禁兵者,天子之衛兵也,殿前、侍衛二司總之。其最親近扈從者,號諸班直,其次總於御前忠佐軍頭司、皇城司、騏驥院。余皆以守京師、備征伐。其在外者,非屯駐、屯泊,則就糧軍也。太祖鑒前代之失,萃精銳于京師,雖曰增損舊制,而規模巨集遠矣。

建隆元年、詔して殿前・侍衛二司各其の掌る兵を閲し、其の驍ぎょう勇なるを揀びて上軍に升め、老弱怯懦なるを剩員に置き以て之を処せしむ。詔して諸州長吏に其の部の兵を選び都下に送り、以て禁旅の闕を補わしむ。又強壮の卒を選び兵様と定め、諸道に分送す。其の後、木梃を以て代え、高下の等を為し、諸州軍に散給す。長吏・都監等に委ねて召募教習せしめ、其の精練するを俟ちて即ち闕下に送らしむ。二年、左右雄捷・左右驍武軍を改めて並びに驍捷と為し、左右備征を雲騎と為し、左右平遠を広捷と為し、左右懷德を懷順と為す。四年、河東楽平県の帰降卒元威以下二百六十六人に衣服・錢絹を差等有りて賜い、效順指揮を立てしむ。

原文建隆元年,詔殿前、侍衛二司各閱所掌兵,揀其驍勇升爲上軍,老弱怯懦置剩員以處之。詔諸州長吏選所部兵送都下,以補禁旅之闕。又選強壯卒定爲兵樣,分送諸道。其後代以木梃,爲高下之等,散給諸州軍。委長吏、都監等召募教習,俟其精練,即送闕下。二年,改左右雄捷、左右驍武軍並爲驍捷,左右備征爲雲騎,左右平遠爲廣捷,左右懷德爲懷順。四年,賜河東樂平縣歸降卒元威以下二百六十六人衣服、錢絹有差,立爲效順指揮。

乾德二年、詔して遼州降軍は宜しく效順・懷恩を以て名と為すべし。三年四月、詔して西川感化・耀武等軍を改めて並びに虎捷と為す。九月、上講武殿に御し諸道の兵を閲し、萬余人を得、騎兵を以て驍雄と為し、歩軍を以て雄武と為し、並びに侍衛司に隷せしめ、且つ王継勳をして之を主らしめ、緡錢を与えて妻を娶らしむ。継勳之を縦して白日に人妻女を掠めしむ、街使禁ずる能わず。帝聞きて大いに怒り、捕え斬る者百人、小黄門閻承翰見て奏せざるも、亦た数十を杖す。

原文乾德二年,詔遼州降軍宜以效順、懷恩爲名。三年四月,詔改西川感化、耀武等軍並爲虎捷。九月,上御講武殿閱諸道兵,得萬餘人,以騎兵爲驍雄,步軍爲雄武,並隸侍衛司,且命王繼勳主之,給緡錢俾娶妻。繼勳縱之白日掠人妻女,街使不能禁。帝聞大怒,捕斬者百人,小黃門閻承翰見而不奏,亦杖數十。

開宝七年、泰寧軍節度使李従善の部下及び江南水軍凡そ千三十九人、並びに面に黥げいし籍に隷し、帰化・帰聖を以て額と為す。

原文開寶七年,泰甯軍節度使李從善部下及江南水軍凡千三十九人,並黥面隸籍,以歸化、歸聖爲額。

太平興国二年、詔して簇御馬直を改めて簇御龍直と曰い、鐵騎を日騎と曰い、龍捷を龍衛と曰い、控鶴を天武と曰い、虎捷を神衛と曰い、骨䤪子直を御龍骨朵子直と曰い、寬衣控鶴を寬衣天武と曰い、雄威を雄勇と曰い、龍騎を雄猛と曰う。八年、濮州平海指揮を改めて崇武と為す。

原文太平興國二年,詔改簇御馬直曰簇御龍直,鐵騎曰日騎,龍捷曰龍衛,控鶴曰天武,虎捷曰神衛,骨䤪子直曰御龍骨朵子直,寬衣控鶴曰寬衣天武,雄威曰雄勇,龍騎曰雄猛。八年,改濮州平海指揮爲崇武。

雍熙四年、殿前司日騎𨧱直指揮を改めて捧日𨧱直と為し、日騎を捧日と改め、驍猛を拱辰と改め、雄勇を神勇と改め、上鐵林を殿前司虎翼と改め、腰弩を神射と改め、侍衛歩軍司鐵林を侍衛司虎翼と改む。

原文雍熙四年,改殿前司日騎𨧱直指揮爲捧日𨧱直,日騎改爲捧日,驍猛改爲拱辰,雄勇改爲神勇,上鐵林改爲殿前司虎翼,腰弩改爲神射,侍衛步軍司鐵林改爲侍衛司虎翼。

至道元年、帝禁兵を閲し、強弩を挽きて一石五斗に至り、二十発を連ねて余力有る者あり、顧みて左右に謂いて曰く、「今宇内阜安し、材武間出し、弧矢の妙も亦た近代に罕有なり」と。又騎歩兵各数百を令し、東西に陣を列ね、強弩を挽き彀い、其の進退発矢一なるを視、容止節に中る。因りて曰く、「此れ殿庭の間数百人爾り、猶お兵威観るべし、況んや堂堂の陣数萬列を成す者をや」と。

原文至道元年,帝閱禁兵有挽強弩至一石五斗,連二十發而有餘力者,顧謂左右曰:「今宇內阜安,材武間出,弧矢之妙,亦近代罕有也。」又令騎步兵各數百,東西列陣,挽強彀弩,視其進退發矢如一,容止中節,因曰:「此殿庭間數百人爾,猶兵威可觀,況堂堂之陣數萬成列者乎!」

咸平三年、詔して定州等処の本城廳子・無敵・忠銳・定塞指揮は、已に並びに禁軍馬軍雲翼指揮に升充せり、逐州軍に依り就糧し、侍衛馬軍司に管轄せしむ。定州揀中廳子第一は雲翼第一に充て、第二は雲翼第二に充つ。相州廳子第一は雲翼第三に充て、第二は雲翼第四に充つ。保州無敵第一は雲翼第五に充て、第二は雲翼第六に充ち、忠銳は雲翼第七に充つ。威勇軍無敵第一は雲翼第八に充て、第二は雲翼第九に充ち、忠銳は雲翼第十に充つ。靜戎軍無敵は雲翼第十一に充つ。寧邊軍無敵は雲翼第十二に充つ。北平塞無敵は雲翼第十三に充つ。深州無敵は雲翼第十四に充つ。北面諸処応管本城・定塞指揮已下は鎮定州・高陽関路都総管に並びに充て、禁軍馬軍雲翼指揮と為す。才に升立訖るを候ち、逐指揮員兵士人数・就糧州府・本指揮見在去処を分析して以て聞かしむ。

原文咸平三年,詔定州等處本城廳子、無敵、忠銳、定塞指揮,已並升充禁軍馬軍雲翼指揮,依逐州軍就糧,令侍衛馬軍司管轄。定州揀中廳子第一充雲翼第一,第二充雲翼第二;相州廳子第一充雲翼第三,第二充雲翼第四;保州無敵第一充雲翼第五,第二充雲翼第六,忠銳充雲翼第七;威勇軍無敵第一充雲翼第八,第二充雲翼第九,忠銳充雲翼第十;靜戎軍無敵充雲翼第十一;甯邊軍無敵充雲翼第十二;北平塞無敵充雲翼第十三;深州無敵充雲翼第十四。北面諸處應管本城、定塞指揮已下鎮定州、高陽關路都總管,並充禁軍馬軍雲翼指揮,才候升立訖,分析逐指揮員兵士人數、就糧州府、本指揮見在去處以聞。

四年、詔して陝西沿辺の州軍の兵士で先に選抜された者は、皆禁軍に昇格させ、名を保捷とせしむ。五年正月、広捷兵士五指揮を置く。五月、命じて使臣を分かち邠・寧・環・慶・涇・原・儀・渭・隴・鄜・延等州に往かしめ、保安・保毅軍内において、各処の官吏とともに有力なる者を選び取り合わせて二万人とし、各々本州に営を置き、禁軍に昇格させ、号して振武指揮と曰う。既にして帝曰く、「辺防に兵を欠き、朝廷須らく制置を為すは、蓋し已むを得ざるなり。辺鄙の乂寧を俟ちて、即ち銷弭すべし」と。六月、河東の州兵を以て神鋭二十四指揮・神虎十指揮と為し、又石州の廳子軍を禁軍に昇格させ、更に威虎十指揮を虎翼に隷属せしむ。

原文四年,詔陝西沿邊州軍兵士先選中者,並升爲禁軍,名保捷。五年正月,置廣捷兵士五指揮。五月,命使臣分往邠、寧、環、慶、涇、原、儀、渭、隴、鄜、延等州,於保安、保毅軍內,與逐處官吏選取有力者共二萬人,各於本州置營,升爲禁軍,號曰振武指揮。既而帝曰:「邊防闕兵,朝廷須爲制置,蓋不得已也。候邊鄙乂寧,即可銷弭。」六月,以河東州兵爲神銳二十四指揮、神虎十指揮,又升石州廳子軍爲禁軍,又以威虎十指揮隸虎翼。

景德四年、詔して河東の広鋭・神鋭・神虎軍は現存するをもって定額とし、欠員あればこれを補うべしと。

原文景德四年,詔河東廣銳、神銳、神虎軍以見存爲定額,缺則補之。

大中祥符元年、詔して侍衛歩軍司に保寧軍士を閲し、四等に分かたしむ。その第一等は営を亳州永城県に移し、余りは農に帰るを聴す。家に帰る可き無き者は、諸州に隷して剩員と為す。四年、永安県の永安指揮兵八千余人を以て諸陵に奉ぜしむることを宣示す。その軍額は猶西京本城廂軍に隷すも、名を奉先指揮と賜うべく、禁軍に昇格し、清塞の下に置く。八年、禁軍左右清衛二指揮を置き、雄武弩手の上に在らしめ、散卒には月に鉄銭五百を給し、以て宮観に奉ぜしむ。

原文大中祥符元年,詔侍衛步軍司閱保甯軍士,分爲四等,其第一等徙營亳州永城縣,余聽歸農;無家可還者,隸諸州爲剩員。四年,宣示永安縣永安指揮兵八千餘人以奉諸陵,其軍額猶隸西京本城廂軍,可賜名奉先指揮,升爲禁軍,在清塞之下。八年,置禁軍左右清衛二指揮,在雄武弩手之上,散卒月給鐵錢五百,以奉宮觀。

仁宗即位す。海内承平なりしも、武備に留神し、始めて安肅教場に幸し飛山雄武の発砲を観、捧日・天武・神衛・虎翼の四軍に命じて戦陣の法を為さしめ、その撃刺騎射の精なる者を抜擢し、稍々遷補す。天聖より宝元の間に至り、諸軍を増募す。陝西蕃落・広鋭、河北雲翼、京畿広捷・虎翼・効忠、陝西・河東清辺弩手、京西・江・淮・荊湖帰遠、総じて百余営。

原文仁宗即位,海內承平,而留神武備,始幸安肅教場觀飛山雄武發炮,命捧日、天武、神衛、虎翼四軍爲戰陣法,拔其擊刺騎射之精者,稍遷補之。由天聖至寶元間,增募諸軍:陝西蕃落、廣銳,河北雲翼,京畿廣捷、虎翼、效忠,陝西、河東清邊弩手,京西、江、淮、荊湖歸遠,總百余營。

康定の初め、趙元昊反す。西辺兵を用う。詔して神捷兵を募り、名を万勝と易え、営二十と為す。募るところ多くは市井の選愞にして、戦守に備うるに足らず。この時、禁兵多くは陝西に戍し、辺境に並ぶ土兵は等に及ばざるも、然れども驍勇にして戦に善し。京師より遣わされ戍る者は、魁頭と称すれども、大率辛苦に耐えず、而して鋒を摧き陣を陷るはその長とする所に非ず。又北兵の戍り川峡・荊湘・嶺嶠の間に及ぶ者は、多く水土に便習せず。故に議者は益々土兵を募り就糧と為さんことを欲す。ここにおいて陝西蕃落・保捷・定功、河北雲翼・有馬勁勇、陝西・河北振武、河北・京東武衛、陝西・京西壮勇、延州青澗、登州澄海弩手を増置し、京畿近郡も亦た龍騎・広勇・広捷・虎翼・歩闘・歩武を増募し、復た河北招收・無敵・廳子馬、陝西制勝、并へい州克戎・騎射、麟州飛騎、府州威遠、秦州建威、慶州有馬安塞、保州威辺、安肅軍忠鋭、嵐・府州建安、登州平海を昇格し、皆禁兵と為し、内外の馬歩凡そ数百営を増す。又京東西・河北・河東・江・淮・荊湖・両浙・福建路各々宣毅を募り、大州は二営、小州は一営、凡そ二百八十八。岢嵐軍は別に床子弩砲手を置く。時に吏は募る所の多寡を以て賞罰の格と為し、諸軍の子弟は悉く隷籍を聴す。禁軍の闕額多くは本城を選び補填す。故に慶暦の中外禁・廂軍総計一百二十五万、国初に視て最も多し。西師既に罷み、上は兵の冗なるを患い、帑庾以て給する能わず、乃ち詔して兵数万人を省く。

原文康定初,趙元昊反,西邊用兵,詔募神捷兵,易名萬勝,爲營二十。所募多市井選愞,不足以備戰守。是時禁兵多戍陝西,並邊土兵雖不及等,然驍勇善戰。京師所遣戍者,雖稱魁頭,大率不能辛苦,而摧鋒陷陣非其所長。又北兵戍及川峽、荊湘、嶺嶠間,多不便習水土,故議者欲益募土兵爲就糧。於是增置陝西蕃落、保捷、定功,河北雲翼、有馬勁勇,陝西、河北振武,河北、京東武衛,陝西、京西壯勇,延州青澗,登州澄海弩手,京畿近郡亦增募龍騎、廣勇、廣捷、虎翼、步鬥、步武,復升河北招收、無敵、廳子馬,陝西制勝,并州克戎、騎射,麟州飛騎,府州威遠,秦州建威,慶州有馬安塞,保州威邊,安肅軍忠銳,嵐、府州建安,登州平海,皆爲禁兵,增內外馬步凡數百營。又京東西、河北、河東、江、淮、荊湖、兩浙、福建路各募宣毅,大州二營,小州一營,凡二百八十八。岢嵐軍別置床子弩炮手。時吏以所募多寡爲賞罰格,諸軍子弟悉聽隸籍,禁軍闕額多選本城補填,故慶曆中外禁、廂軍總一百二十五萬,視國初爲最多。西師既罷,上患兵冗,帑庾不能給,乃詔省兵數萬人。

皇祐二年、川峡に寧遠を増置す。五年、江・淮・荊湖に教閲忠節を置き、州一営、大州は五百人、小州は三百人。ここにおいて宣毅は浸く廃れて復た補わず、而して荊湖・広南は益々雄略を募る。至和二年、広・桂・邕州に有馬雄略を置く。明年、万勝と併せて十営と為す。その後、議者謂う、東南は事無きと雖も、備えを弛すべからずと。嘉祐四年、乃ち詔して荊南・江寧府・揚・廬・洪・潭・福・越州に就糧軍を募り、号して威果と曰い、各々本州に営す。又益々禁軍を遣わし駐泊せしめ、長吏に本路兵馬鈐轄を兼ねさせ、武臣を選び都監と為し、専ら訓練を主とす。ここにおいて東南稍々備え有り。

原文皇祐二年,川峽增置寧遠。五年,江、淮、荊湖置教閱忠節,州一營,大州五百人,小州三百人。於是宣毅浸廢不復補,而荊湖、廣南益募雄略。至和二年,廣、桂、邕州置有馬雄略。明年,並萬勝爲十營。其後,議者謂東南雖無事,不宜馳備。嘉祐四年,乃詔荊南、江寧府、揚、廬、洪、潭、福、越州募就糧軍,號威果,各營於本州。又益遣禁軍駐泊,長吏兼本路兵馬鈐轄,選武臣爲都監,專主訓練。於是東南稍有備矣。

七年、宰相韓琦言う。

原文七年,宰相韓琦言:

祖宗は兵を以て天下を定め、凡そ征戍有れば則ち募置し、事已れば則ち併せしむ。故に兵は日々精にして用ひ広からず。今二辺は号して通好と雖も、而して西北に辺を屯する兵は、常に敵の至るを待つが若し。故に天下の力を竭くすも而して給する能わず。この時に於いて先ず慮りて豫よめ之を備えざれば、一旦辺陲兵を用うるに、水旱相継ぎ、卒然に起ちて之を図るも、及ぶべからず。

原文祖宗以兵定天下,凡有征戍則募置,事已則並,故兵日精而用不廣。今二邊雖號通好,而西北屯邊之兵,常若待敵之至,故竭天下之力而不能給。不於此時先慮而豫備之,一旦邊陲用兵,水旱相繼,卒起而圖之,不可及矣。

又三路の就糧の兵は勇勁服習すと雖も、然れども辺儲貴踴し、常に贍い難きを苦しむ。若し其の数過多なれば、復た尾大掉わざるの患い有り。京師の兵は雑且つ精少なれども、然れども東南より漕ぎ、広くして易く供設す。其の数多きは、強幹弱枝の勢を得たり。祖宗の時、就糧の兵は甚だ多からず、辺陲事有れば、則ち京師の兵を以て之を益す。其の慮り深くして其の費鮮し。願わくは詔して枢密院に三司とともに河北・陝西・河東及び三司榷貨務の歳入金帛の数を量り、約して京師及び三路の兵馬幾何を贍う可きかを約し、然る後に以て贍う可き数を以て定額を立てしめん。額外は募を罷め、闕有れば即ち増補す。額外の数已に尽きて営畸零なれば、則ち省併す。既に定額を見れば、則ち以て其の路の馬歩軍一営、若干を以て額と為すを定むる可し。仍って請う、開宝・至道・天禧・慶暦の中外兵馬の数を核見せんことを。蓋し開宝・至道の兵は、太祖・太宗の以て天下を定め四方を服せしむる所なり。天禧の兵は、真宗の以って成を守り豫に備うる所なり。慶暦の兵は、西師の後に増置せし数のなり。祖宗の兵を以て、今の数の多少を視れば、則ち精冗判然とし、裁制疑い無からん。

原文又三路就糧之兵雖勇勁服習,然邊儲貴踴,常苦難贍。若其數過多,復有尾大不掉之患。京師之兵雖雜且少精,然漕于東南,廣而易供設,其數多,得強幹弱枝之勢。祖宗時,就糧之兵不甚多,邊陲有事,則以京師兵益之,其慮深而其費鮮。願詔樞密院同三司量河北、陝西、河東及三司榷貨務歲入金帛之數,約可贍京師及三路兵馬幾何,然後以可贍之數立爲定額。額外罷募,闕即增補。額外數已盡而營畸零,則省並之。既見定額,則可以定其路馬步軍一營,以若干爲額。仍請核見開寶、至道、天禧、慶曆中外兵馬之數。蓋開寶、至道之兵,太祖、太宗以之定天下、服四方也。天禧之兵,真宗所以守成備豫也。慶曆之兵,西師後增置之數也。以祖宗之兵,視今數之多少,則精冗易判,裁制無疑矣。

ここにおいて詔して中書・枢密院に同議せしむ。枢密院奏す。開宝の籍は総計三十七万八千、而して禁軍馬歩十九万三千。至道の籍は総計六十六万六千、而して禁軍馬歩三十五万八千。天禧の籍は総計九十一万二千、而して禁軍馬歩四十三万二千。慶暦の籍は総計一百二十五万九千、而して禁軍馬歩八十二万六千。前に募りし所に視て後浸く多し。是より稍々裁制を加え、以て定額と為す。

原文於是詔中書、樞密院同議。樞密院奏:開寶之籍總三十七萬八千,而禁軍馬步十九萬三千;至道之籍總六十六萬六千,而禁軍馬步三十五萬八千;天禧之籍總九十一萬二千,而禁軍馬步四十三萬二千;慶曆之籍總一百二十五萬九千,而禁軍馬步八十二萬六千。視前所募後浸多,自是稍加裁制,以爲定額。

英宗即位す。詔して諸道に軍士で弓二石・弩四石五斗を引き得る者を選び京師に送り閲試せしめ、第に軍額を昇ぜしむ。明年、万勝を併せて神衛と為す。三年、京師に雄武第三軍を置く。時に宣毅は僅かに存する者有るも、然れども数詔して諸路に廂軍の壮勇なる者を選び禁衛を補わしめ、而して其の老弱なる者を退けしむ。蓋し治平の兵一百十六万二千、而して禁軍馬歩六十六万三千という。

原文英宗即位,詔諸道選軍士能引弓二石、弩四石五鬥送京師閱試,第升軍額。明年,並萬勝爲神衛。三年,京師置雄武第三軍。時宣毅僅有存者,然數詔諸路選廂軍壯勇者補禁衛,而退其老弱焉。蓋治平之兵一百十六萬二千,而禁軍馬步六十六萬三千雲。

熙寧元年十二月、詔を下す。「京東武衛四十二指揮は全て河北都総管司に分属させ、六指揮は大名府路に、三十六指揮は均等に定州・高陽関の両路に分属させて更戍に当たらせる。休番の者は、兵官三人を選差し、河北教閲新法に依って訓練させ、更に使臣を差して監督・教習させる。」また詔して、京東路に河北の流民を募り、教閲廂軍二十指揮を招置し、忠果をその額とせしむ。青・鄆・淄・斉州に各三指揮、済・兗・曹・濮州に各二指揮。

原文熙甯元年十二月,詔:「京東武衛四十二指揮並分隸河北都總管司六指揮,隸大名府路三十六指揮,均隸定州、高陽關兩路更戍;其休番者,選差兵官三人依河北教閱新法訓練,仍差使臣押教。」又詔京東路募河北流民,招置教閱廂軍二十指揮,以忠果爲額。青、鄆、淄、齊州各三指揮,濟、兗、曹、濮州各兩指揮。

三年十二月、枢密使文彦博らが在京・開封府界及び京東等路の禁軍の数を上奏し、帝もまた治平年間の兵数を参照して検討された。そこで詔す。殿前虎翼は水軍一指揮を除き、六十指揮を存置し、各五百人を定員とし、総計三万四百人。在京では広勇五指揮を増設し、合わせて二千人。開封府界は六万二千人、京東五万一千二百人、両浙四千人、江東五千二百人、江西六千八百人、湖南八千三百人、湖北一万二千人、福建四千五百人、広南東・西千二百人、川峡三路四千四百人を定員と定む。在京のその他の指揮及び河東・陝西・京西・淮南路は既に全て撥併されたが、ただ河北のみ人数が尚多かったため、詔して禁軍を七万を定員とす。初め、河北の兵籍は諸路に比べて多く、その辺縁に沿う者は且つ三司の供給に頼っていたが、この時に至って零余を撥併し、定額を立てたのである。この時、京東に武衛軍を増置し、河北四路に分属させ、後にまた三千人を揚・杭州・江寧府に戍守させ、その後また軍士を団結させて将を置き分領させると、これを将兵と謂う。

原文三年十二月,樞密使文彥博等上在京、開封府界及京東等路禁軍數,帝亦參以治平中兵數而討論焉。遂詔:殿前虎翼除水軍一指揮外,存六十指揮,各以五百人爲率,總三萬四百人;在京增廣勇五指揮,共二千人;開封府界定六萬二千人,京東五萬一千二百人,兩浙四千人,江東五千二百人,江西六千八百人,湖南八千三百人,湖北萬二千人,福建四千五百人,廣南東、西千二百人,川峽三路四千四百人爲額。在京其餘指揮並河東、陝西、京西、淮南路既皆撥並,唯河北人數尚多,乃詔禁軍以七萬爲額。初,河北兵籍比諸路爲多,其緣邊者且仰給三司,至是而撥並畸零,立爲定額焉。是時,京東增置武衛軍,分隸河北四路,後又以三千人戍揚、杭州、江寧府,其後又團結軍士置將分領,則謂之將兵雲。

七年正月、諸班直禁軍の名称を頒布する詔を下す。

原文七年正月,詔頒諸班直禁軍名額:

殿前司諸班:殿前指揮使、内殿直、散員、散指揮、散都頭、散祗候、金槍、東西、招箭、散直、鈞容直。諸直:御龍、御龍骨朵、御龍弓箭、御龍弩直。諸軍:捧日𨧱直、捧日左射、捧日、寛衣天武、𨧱直天武、左射天武、帰明渤海、拱聖、神勇、吐渾、驍騎、驍勝、宣武、虎翼水軍、甯朔、龍猛、捧日第五軍、捧日第七軍、天武第五軍、天武第七軍、契丹直第一、契丹直第二、神騎、広勇、歩闘、龍騎、驍猛、雄勇、太原府就糧吐渾、潞州就糧吐渾、左射清朔、擒戎、広捷、広徳、驍雄、雄威。

原文殿前司諸班:殿前指揮使、內殿直、散員、散指揮、散都頭、散祗候、金槍、東西、招箭、散直、鈞容直。諸直:御龍、御龍骨朵、御龍弓箭、御龍弩直。諸軍:捧日𨧱直、捧日左射、捧日、寬衣天武、𨧱直天武、左射天武、歸明渤海、拱聖、神勇、吐渾、驍騎、驍勝、宣武、虎翼水軍、甯朔、龍猛、捧日第五軍、捧日第七軍、天武第五軍、天武第七軍、契丹直第一、契丹直第二、神騎、廣勇、步鬥、龍騎、驍猛、雄勇、太原府就糧吐渾、潞州就糧吐渾、左射清朔、擒戎、廣捷、廣德、、驍雄、雄威。

侍衛馬軍司龍衛𨧱直、龍衛左射、龍衛、恩冀州員僚直、忠猛、定州散員、驍捷、雲騎、武騎、龍衛第十軍、揀中龍衛、新立驍捷、飛捷、驍武、広鋭、雲翼、禁軍有馬勁勇、庁子馬、無敵、克勝、飛騎、威遠、克戎、万捷、雲捷、横塞、慶州有馬安塞、蕃落、有馬雄略、員僚剰員直。

原文侍衛馬軍司龍衛𨧱直、龍衛左射、龍衛、恩冀州員僚直、忠猛、定州散員、驍捷、雲騎、武騎、龍衛第十軍、揀中龍衛、新立驍捷、飛捷、驍武、廣銳、雲翼、禁軍有馬勁勇、廳子馬、無敵、克勝、飛騎、威遠、克戎、萬捷、雲捷、橫塞、慶州有馬安塞、蕃落、有馬雄略、員僚剩員直。

侍衛歩軍司神衛、虎翼水軍、神衛第十軍、歩武、武衛、床子弩雄武、飛山雄武、神衛、振武、来化、雄武弩手、上威猛、招收、雄勝、澄海水軍弩手、神虎、保捷、捉生、清辺弩手、制勝、定功、青澗、平海、雄武、効忠、宣毅、建安、威果、川効忠、揀中雄勇、懐順、懐恩、勇捷、威武、静戎弩手、忠遠、寧遠、忠節、教閲忠節、川忠節、神威、帰遠、雄略、下威猛、強猛、壮勇、橋道、清塞、武厳、宣効、神衛剰員、奉先園、揀中六軍、左龍武、右龍武、左羽林、右羽林、左神武、右神武。

原文侍衛步軍司神衛、虎翼水軍、神衛第十軍、步武、武衛、床子弩雄武、飛山雄武、神衛、振武、來化、雄武弩手、上威猛、招收、雄勝、澄海水軍弩手、神虎、保捷、捉生、清邊弩手、制勝、定功、青澗、平海、雄武、效忠、宣毅、建安、威果、川效忠、揀中雄勇、懷順、懷恩、勇捷、威武、靜戎弩手、忠遠、寧遠、忠節、教閱忠節、川忠節、神威、歸遠、雄略、下威猛、強猛、壯勇、橋道、清塞、武嚴、宣效、神衛剩員、奉先園、揀中六軍、左龍武、右龍武、左羽林、右羽林、左神武、右神武。

御営喝探、新団立揀中剰員。

原文御營喝探、新團立揀中剩員。

諸班直の序列(上下):殿前指揮使、御龍直、御龍骨朵子直、内殿直、散員、散指揮使、散都頭、散祗候、金槍、東西班、御龍弓箭直、御龍弩直、招箭班、散直、鈞容直。

原文諸班直資次相壓殿前指揮使、御龍直、御龍骨朵子直、內殿直、散員、散指揮使、散都頭、散祗候、金槍、東西班、御龍弓箭直、御龍弩直、招箭班、散直、鈞容直。

諸軍の序列(上下):捧日𨧱直、捧日左射、捧日、寛衣天武、天武𨧱直、天武左射、天武、龍衛𨧱直、龍衛左射、龍衛、神衛、帰明渤海、拱聖、神勇、恩冀州員僚直、忠猛、定州散員、吐渾、驍騎、驍捷、雲騎、驍勝、宣武、武騎、殿前司虎翼、殿前司虎翼水軍、甯朔、龍猛、歩軍司虎翼、歩軍司虎翼水軍、捧日第五軍、捧日第七軍、天武第五軍、天武第七軍、龍衛第十軍、揀中龍衛、神衛第十軍、契丹直第一、契丹直第二、神騎、広勇、歩闘、龍騎、驍猛、雄勇、太原府就糧吐渾、潞州就糧吐渾、清朔、擒戎、新立驍捷、飛捷、驍武、広鋭、雲翼、禁軍有馬勁勇、歩武、武衛、床子弩雄武、飛山雄武、神鋭、振武、来化、雄武弩手、上威猛、庁子馬、無敵、招收、雄勝、広捷、広徳、克勝、飛騎、威遠、澄海水軍弩手、克戎、驍雄、雄威、万捷、雲捷、横塞、神虎、保捷、慶州有馬安塞、蕃落、捉生、清辺弩手、制勝、定功、有馬雄略、青澗、平海、雄武、効忠、宣毅、建安、威果、川効忠、揀中雄勇、懐順、懐恩、勇捷、威武、下威武、静戎弩手、忠勇、寧遠、忠節、教閲忠順、川忠節、神威、帰遠、雄略、下威猛、強猛、壮勇、員僚剰員直、橋道、川橋道、歩軍司清塞、武厳、宣効、神衛剰員、奉先園、揀中六軍、御営喝探、新団立揀中剰員。

原文諸軍資次相壓捧日𨧱直、捧日左射、捧日、寬衣天武、天武𨧱直、天武左射、天武、龍衛𨧱直、龍衛左射、龍衛、神衛、歸明渤海、拱聖、神勇、恩冀州員僚直、忠猛、定州散員、吐渾、驍騎、驍捷、雲騎、驍勝、宣武、武騎、殿前司虎翼、殿前司虎翼水軍、甯朔、龍猛、步軍司虎翼、步軍司虎翼水軍、捧日第五軍、捧日第七軍、天武第五軍、天武第七軍、龍衛第十軍、揀中龍衛、神衛第十軍、契丹直第一、契丹直第二、神騎、廣勇、步鬥、龍騎、驍猛、雄勇、太原府就糧吐渾、潞州就糧吐渾、清朔、擒戎、新立驍捷、飛捷、驍武、廣銳、雲翼、禁軍有馬勁勇、步武、武衛、床子弩雄武、飛山雄武、神銳、振武、來化、雄武弩手、上威猛、廳子馬、無敵、招收、雄勝、廣捷、廣德、克勝、飛騎、威遠、澄海水軍弩手、克戎、驍雄、雄威、萬捷、雲捷、橫塞、神虎、保捷、慶州有馬安塞、蕃落、捉生、清邊弩手、制勝、定功、有馬雄略、青澗、平海、雄武、效忠、宣毅、建安、威果、川效忠、揀中雄勇、懷順、懷恩、勇捷、威武、下威武、靜戎弩手、忠勇、寧遠、忠節、教閱忠順、川忠節、神威、歸遠、雄略、下威猛、強猛、壯勇、員僚剩員直、橋道、川橋道、步軍司清塞、武嚴、宣效、神衛剩員、奉先園、揀中六軍、御營喝探、新團立揀中剩員。

諸禁軍の名称において、捧日・天武・龍衛・神衛を上軍とし、五百文以上の料銭現銭を中軍とし、五百文に満たない料銭現銭及び捧日天武第五第七軍・龍衛神衛第十軍・驍猛・雄勇・驍雄・雄威を下軍とする。元豊五年十月、詔して諸路の教閲廂軍を、下禁軍の中に指揮の名称を増入し、序列は全て禁軍と同じくせしむ。蓋し熙寧の籍では、天下の禁軍は凡そ五十六万八千六百八十八人。元豊の籍では、六十一万二千二百四十三人。

原文諸禁軍名額系捧日、天武、龍衛、神衛爲上軍,五百文已上料錢見錢爲中軍,不滿五百文料錢見錢並捧日天武第五第七軍、龍衛神衛第十軍、驍猛、雄勇、驍雄、雄威爲下軍。元豐五年十月,詔諸路教閱廂軍,於下禁軍內增入指揮名額,排連並同禁軍。蓋熙寧之籍,天下禁軍凡五十六萬八千六百八十八人;元豐之籍,六十一萬二千二百四十三人。

哲宗即位の時、四方に用兵し、戍兵を増やして益々広く配置した。元祐元年三月、河北路の保甲を寄招し、在京禁軍の欠員を充填させた。龍衛・神衛は年齢二十歳以下、中軍以下は年齢二十五歳以下の者を、一指短小であっても皆招刺した。二年、詔して西関堡の防拓禁軍を和雇して役務に就かせた。河北・河東・陝西・府界の馬歩軍を再び設置した。七年、河東・陝西路の諸帥府の敢勇を百人を定員とし、専ら経略司に隷属させた。

原文哲宗即位,四方用兵,增戍益廣。元祐元年三月,寄招河北路保甲,充填在京禁軍闕額。龍、神衛以年二十以下,中軍以下以年二十五以下者,雖短小一指並招刺焉。二年,詔西關堡防拓禁軍和雇入役。復置河北、河東、陝西、府界馬步軍。七年,河東、陝西路諸帥府敢勇以一百人爲額,專隸經略司。

紹聖四年、陝西路に蕃落馬軍を増置した。この年、蘭州金城に歩軍保捷・馬軍蕃落を設置した。

原文紹聖四年,陝西路增置蕃落馬軍。是年,蘭州金城置步軍保捷、馬軍蕃落。

元符元年、利州路興元府・閬州は各々就糧武寧を増置した。また湖北・江東は各々有馬雄略を増置した。涇原路が新たに南牟会を築き、西安州と賜名し、戍守は合わせて七千人を定員とし、更に馬軍蕃落・歩軍保捷を招置した。天都・臨羌砦の戍守は各々三千人を定員とし、更に各々馬軍蕃落・歩軍保捷を設置した。永興軍等路に蕃落を創置した。河北大名府等二十二州は合わせて馬軍広威・歩軍保捷を創置した。これは河北に大水があり、流民を招刺したためである。

原文元符元年,利州路興元府、閬州各增置就糧武寧;又湖北、江東各增置有馬雄略。涇原路新築南牟會,賜名西安州,戍守共以七千人爲額,仍招置馬軍蕃落、步軍保捷。天都、臨羌砦戍守各以三千人爲額,仍各置馬軍蕃落、步軍保捷。永興軍等路創置蕃落;河北大名府等二十二州共創置馬軍廣威、步軍保捷,以河北大水,招刺流民故也。

二年正月、環慶に敢勇二百人を増置した。四月、環慶路都総管司が言上した。「本路が新たに定辺城を展築したが、横山・興平等の処の城砦よりも特に奥深い。住営馬軍蕃落・歩軍保捷を増置することを乞う。」六月、環慶路都総管司が言上した。「慶州白豹城を展築したので、住営馬歩軍を増置すべきである。」また鄜延路都総管司が言上した。「本路が新たに米脂等八堡砦を築いたので、土兵・馬歩軍を増置すべきである。」皆これに従った。三年、枢密院が奏上した。「河北に増置した馬軍広威・歩軍保捷二万余人を、揀選して在京の欠員軍分に昇換させたい。」従った。紹聖以来、陝西・河東は連年六年にわたり用兵し、進築は未だ止まず、軍は覆り将は殺され、供給は数え切れないほどであった。

原文二年正月,環慶增置敢勇二百人。四月,環慶路都總管司言:「本路新展定邊城,比之橫山、興平等處城砦尤深,乞增置住營馬軍蕃落、步軍保捷。」六月,環慶路都總管司言:「展築慶州白豹城,合增置住營馬步軍。」又鄜延路都總管司言:「本路新築米脂等八堡砦,合增置土兵、馬步軍。」皆從之。三年,樞密院奏:「河北增置馬軍廣威、步軍保捷二萬餘人,欲令揀選升換在京闕額軍分。」從之。自紹聖以來,陝西、河東連用兵六年,進築未已,覆軍殺將,供給不可勝紀。

徽宗崇寧元年九月、荊湖北路に禁軍を増置し、靖安と名付けた。十月、川陝に安遠軍を設置した。三年三月、隴右都護が奏上した。鄯州に水軍を設置し、河の浮橋を守備することを乞うた。また枢密院が府界・京東西等路の歩軍、荊湖南路の雄略を増置することを乞うた。皆これに従った。十月、京東西・河東北・開封府界に馬歩軍五万人を創置し、馬軍は崇捷・崇銳と名付け、歩軍は崇武・崇威と名付けた。合わせて緡錢二百八十万有余を用い、常平・封樁等の錢から支給した。蔡京の請によるものである。京はまた言った。「今、拓地は広く、戍兵は少ない。兵額を添置して議し、辺備とすべきである。」従った。

原文徽宗崇甯元年九月,荊湖北路增置禁軍,以靖安名。十月,川陝置安遠軍。三年三月,隴右都護奏:乞于鄯州置水軍,守河浮橋。又樞密院乞增置府界、京東西等路步軍,荊湖南路雄略,皆從之。十月,京東西、河東北、開封府界創置馬步軍五萬人,馬軍以崇捷、崇銳名,步軍以崇武、崇威名,合用緡錢二百八十萬有奇,以常平、封樁等錢支,用蔡京之請也。京又言:今拓地廣,戍兵少,當議添置兵額,以爲邊備。」從之。

四年十一月、広西路に刀牌手三千人を設置し、切要な州軍に更戍させ、寧海と名付けた。十二月、詔した。「四輔は京師を屏翰するものであり、兵力は偏重すべきではない。各々二万人を定員とすることができる。」五年、環慶路が徐丁台城を進築し、安辺と賜名し、馬軍蕃落・歩軍保捷を設置した。

原文四年十一月,廣西路置刀牌手三千人,於切要州軍更戌,以寧海名。十二月,詔:「四輔屏翰京師,兵力不可偏重,可各以二萬人爲額。」五年,環慶路進築徐丁台城,賜名安邊,置馬軍蕃落、步軍保捷。

大観元年五月、延安に銭監兵を設置した。閏十月、靖州に宣節を設置した。十一月、両浙東・西路は各々禁軍を増置した。宣和三年、内侍・制置使の譚が奏上し、方臘が既に平定されたことを以て、節鎮には禁軍を両指揮増やし、その余の州軍には一指揮を増やすことを乞うた。また温・処・衢・婺を除き、禁軍を更に招置して十指揮とすることも乞うた。また厳州に威果禁軍を増置することを乞うた。並びにこれに従った。五年二月、尚書省が言上した。「古くは、六軍は王の爪牙であり、羽林は則ち禁衛の総名である。今、臣僚の使令兵卒の居る営分を六軍と称し、また左・右羽林の名があり、称謂が失当である。もし揀中六軍並びに六軍指揮を共に広效と改め、内、揀中六軍を第一指揮とし、左龍武を第二、左羽林を第三、左神武を第四、右龍武を第五、右羽林を第六、右神武を第七とする。」従った。

原文大觀元年五月,延安置錢監兵。閏十月,靖州置宣節。十一月,兩浙東、西路各增置禁軍。宣和三年,內侍、制置使譚奏,以方臘既平,乞節鎮增添禁軍兩指揮,余州軍一指揮;又乞除溫、處、衢、婺外,將禁軍更招置成十指揮。又乞增置嚴州威果禁軍。並從之。五年二月,尚書省言:「古者,六軍爲王之爪牙,羽林則禁衛之總名也。今臣僚使令兵卒所居營分曰六軍,而復有左、右羽林之名,稱謂失當。若將揀中六軍並六軍指揮並改爲廣效,內揀中六軍作第一指揮,左龍武第二,左羽林第三,左神武第四,右龍武第五,右羽林第六,右神武第七。」從之。

靖康元年、詔した。「広西の宜・融二州は実に極辺であり、旧来設置の馬軍は減省を議し難く、且つ元の降指揮に依って招置せよ。」

原文靖康元年,詔;「廣西宜、融二州實爲極邊,舊置馬軍難議減省,且依元降指揮招置。」

元豊以後、民兵は日に盛んとなり、募兵は日に衰えた。その募兵の欠員は、その廩給を収めて、民兵の教閲の費用とした。元祐以降、民兵もまた衰えた。崇寧・大観以来、蔡京が権勢を握り、兵制の弊害は日に滋し、逃亡者を受け入れ、配隷を収めるに至っても、猶恐らくは足りなかった。政和以後、久しく蒐補を廃し、軍士は死亡の余り、老疾の者は徒らに廩給を費やし、少壮の者は又多く冗占し、階級既に壊れ、紀律遂に亡びた。童貫が兵権を握り、勢いは内外に傾き、凡そ陣に敗れるに遇えば、人に言うを恥じ、ただ逃竄を申し上げるのみであった。河北の将兵は、十に二三無く、往々にして多くは招闕額に住し、その封樁を上供の用とした。陝右諸路の兵もまた幾らも無く、種師道が兵を将いて入援したが、僅かに一万五千人を得たのみであった。故に靖康の変に際し、画一の詔は、哀痛激切であっても、事既に及ぶところではなかった。

原文自元豐而後,民兵日盛,募兵日衰,其募兵闕額,則收其廩給,以爲民兵教閱之費。元祐以降,民兵亦衰。崇甯、大觀以來,蔡京用事,兵弊日滋,至於受逃亡,收配隸,猶恐不足。政和之後,久廢蒐補,軍士死亡之余,老疾者徒費廩給,少健者又多冗占,階級既壞,紀律遂亡。童貫握兵,勢傾內外,凡遇陣敗,恥於人言,第申逃竄。河北將兵,十無二三,往往多住招闕額,以其封樁爲上供之用。陝右諸路兵亦無幾,種師道將兵入援,止得萬五千人。故靖康之變,雖畫一之詔,哀痛激切,而事已無及矣。

高宗が南渡し、始めて御営司を建てた。未だ幾ばくもなく、また御営を枢密院に併合した。建炎四年、御前五軍を神武軍と改め、御営五軍を神武副軍と改め、共に枢密院に隷属させた。五年、上は祖宗の故事に依り、兵は皆三衙に隷するものとして、乃ち神武中軍を廃して殿前司に隷属させた。ここに於いて殿司の兵権は始めて統一された。乾道元年、詔して殿前兵馬を権りに七万二千人を定員とした。

原文高宗南渡,始建御營司,未幾,復並御營歸樞密院。建炎四年,改御前五軍爲神武軍,御營五軍爲神武副軍,並隸樞密院。五年,上以祖宗故事,兵皆隸三衙,乃廢神武中軍隸殿前司,於是殿司兵柄始一。乾道元年,詔殿前兵馬權以七萬三千人爲額。

諸屯駐大軍は則ち皆諸将の部曲であり、高宗が元帥府を開くと、諸将の兵は悉くこれに隷した。建炎後、諸大将の兵は次第に盛んとなり、時に因り制を変え、屯するに常の所無し。例えば劉光世の軍は或いは鎮江・池州・太平に在り、韓世忠の軍は或いは江州・江陰に屯し、岳飛の一軍は或いは宜興・蔣山に屯し、王彦の八字軍は張浚に随って蜀しょくに入り、呉玠の兵は多く鳳州・大散関・和尚原に屯した。この時、内外の大軍を合わせて十九万四千余り、川・陝はこれに与からず。及び楊沂中が中軍を将いて宿衛を総べると、江東劉光世・淮東韓世忠・湖北岳飛・湖南王𤫉の四軍は合わせて十九万一千六百、亦未だ嘗て屯する所無かりき。

原文諸屯駐大軍則皆諸將之部曲,高宗開元帥府,諸將兵悉隸焉。建炎後,諸大將兵浸盛,因時制變,屯無常所。如劉光世軍或在鎮江、池州、太平,韓世忠軍或屯江州、江陰,岳飛一軍或屯宜興、蔣山,王彥八字軍隨張浚入蜀,吳玠兵多屯鳳州、大散關、和尚原。是時合內外大軍十九萬四千餘,川、陝不與焉。及楊沂中將中軍總宿衛,江東劉光世、淮東韓世忠、湖北岳飛、湖南王𤫉四軍共十九萬一千六百,亦未嘗有屯。

紹興十一年、范同は諸将が兵権を握り制し難いことを以て、謀を秦檜に献じ、且つ柘皋の捷を以て上に言い、張俊・韓世忠・岳飛を召して入覲させ、張俊が先ずその部する兵を納めた。三大帥の副校に分命して各々その部する所を統べさせ、自ら一軍と為し、更に銜を統制御前軍馬と曰う。宣撫司を罷め、出師に遇っては旨を取り、兵は皆枢密院に隷し、屯駐は仍って旧の如くとした。而して四川の大将の兵は興・成・階・鳳・文・龍・利・閬・金・洋・綿・房・西和州・大安軍・興元・隆慶・潼川府の凡そ十七郡と曰い、亦分屯して就糧した。

原文紹興十一年,范同以諸將握兵難制,獻謀秦檜,且以柘皋之捷言於上,召張俊、韓世忠、岳飛入覲,張俊首納所部兵。分命三大帥副校各統所部,自爲一軍,更銜曰統制御前軍馬。罷宣撫司,遇出師取旨,兵皆隸樞密院,屯駐仍舊。而四川大將兵曰興、成、階、鳳、文、龍、利、閬、金、洋、綿、房、西和州、大安軍、興元、隆慶、潼川府凡十七郡,亦分屯就糧焉。

乾道の末、各州に都統司が有り兵を領した。建康五万、池州一万二千、鎮江四万七千、楚州武鋒軍一万一千、鄂州四万九千、荊南二万、興元一万七千、金州一万一千。その後、分屯列戍し、増減常ならず。考うる所のものは、統制・統領・正将・副将・準備将の目である。

原文乾道之末,各州有都統司領兵:建康五萬,池州一萬二千,鎮江四萬七千,楚州武鋒軍一萬一千,鄂州四萬九千,荊南二萬,興元一萬七千,金州一萬一千。其後分屯列戍,增損靡常。所可考者,統制、統領、正將、副將、準備將之目也。

水軍の制度については、以前よりも増強されたところがある。南渡以後、江・淮はいずれも辺境となったためである。建炎初年、李綱が江・淮・河の帥府に水兵二軍を置き、要郡には別に水兵一軍を置き、次要郡には別に中軍を置き、舟楫に巧みな者を募集して充て、軍号を淩波・楼船軍と称するよう請うた。その戦艦には、海鰍・水哨馬・双車・得勝・十棹・大飛・旗捷・防沙・平底・水飛馬の名称があった。隆興以後から宝祐・景定の間に至るまで、江・淮の沿岸には堡塁要害が相望み、守禦はますます煩雑となり、民の労苦はますます甚だしくなった。咸淳の末に至っては、広東では蜑丁を籍没し、閩海では舶船・民船を徴発し、公私ともに疲弊した。

原文至於水軍之制,則有加于前者,南渡以後,江、淮皆爲邊境故也。建炎初,李綱請於沿江、淮、河帥府置水兵二軍,要郡別置水兵一軍,次要郡別置中軍,招善舟楫者充,立軍號曰淩波、樓船軍。其戰艦則有海鰍、水哨馬、雙車、得勝、十棹、大飛、旗捷、防沙、平底、水飛馬之名。隆興以後至於寶祐、景定間,江、淮沿流堡隘相望,守禦益繁,民勞益甚。迨鹹淳末,廣東籍蜑丁,閩海拘舶船民船,公私俱弊矣。

その禁軍の将校には、殿前司都指揮使・副都指揮使・都虞候が各一人いる。諸班には都虞候・指揮使・都知・副都知・押班がある。御龍諸直には四直都虞候があり、本直にはそれぞれ都虞候・指揮使・副指揮使・都頭・副都頭・十将・将虞候がある。馬歩軍には捧日・天武左右四廂都指揮使があり、捧日・天武左右にはそれぞれ都指揮使があり、各軍には都指揮使・都虞候があり、各指揮には指揮使・副指揮使があり、各都には軍使(歩軍ではこれを都頭と称す)がある。

原文其禁軍將校,則有殿前司都指揮使、副都指揮使、都虞候各一人;諸班有都虞候、指揮使、都知、副都知、押班;御龍諸直有四直都虞候,本直各有都虞候、指揮使、副指揮使、都頭、副都頭、十將、將虞候;馬步軍有捧日、天武左右四廂都指揮使,捧日、天武左右各有都指揮使,每軍有都指揮使、都虞候,每指揮有指揮使、副指揮使,每都有軍使、步軍謂之都頭。

副兵馬使(歩軍ではこれを副都頭と称す)。

原文副兵馬使、步軍謂之副都頭。

十将・将虞候・承局・押官。

原文十將、將虞候、承局、押官。

管轄する諸班直・指揮、騎兵・歩兵の定員を左に列挙する。その前後の異同により、建隆以来の制度・熙寧以後の制度に分け、また将兵・水兵の制度で考証できるものは、これに附して後に記す。

原文所領諸班直、指揮,騎兵、步兵之額敘列如左。以其前後之異同者分爲建隆以來之制、熙寧以後之制,而將兵、水兵之制可考者,因附著於後雲。

建隆以来の制度

原文建隆以來之制

騎軍

原文騎軍

殿前指揮使左右班二。宋初、旧府の親従で甲を帯びた兵士および諸班軍騎の中から武芸絶倫の者を選抜して充てた。

原文殿前指揮使左右班二。宋初,以舊府親從帶甲之士及諸班軍騎中選武藝絕倫者充。

内殿直左右班四。周の制度で、軍校および武臣の子弟で材勇ある者を選抜して立てた。また川班内殿直があり、乾徳三年に蜀を平定して得た奇兵の中から、材貌魁偉で騎射に習熟した者を選抜し、合わせて百二十人を立てたが、開宝四年に廃止した。

原文內殿直左右班四。周制,簡軍校暨武臣子弟有材勇者立。又有川班內殿直,乾德三年平蜀得奇兵,簡閱材貌魁偉便習騎射者凡百二十人立,開寶四年廢。

散員左右班四。周の制度で、諸州の豪傑を招集して立てた。散指揮・散都頭・散祗候合わせて十二班。また北面の驍捷員僚直および諸軍の中から選抜して補充した。咸平五年、定州路都部署王超が言上した。「辺境には強梁の輩が常に四界に居住し、辺境を擾乱している。厚く金帛を与えて募集し、散員に充てることを請う。」これに従った。

原文散員左右班四。周制,招置諸州豪傑立,散指揮、散都頭、散祗候凡十二班。又於北面驍捷員僚直及諸軍內簡閱填補。咸平五年,定州路都部署王超言;「緣邊有強梁輩常居四界,擾動邊境,請厚給金帛募充散員。」從之。

散指揮左右班四。

原文散指揮左右班四。

散都頭左右班二。

原文散都頭左右班二。

金槍班左右班二、旧名は内直。太平興国初年、諸軍の中から槍槊を用いることに長じた者を選抜して補充した。

原文金槍班左右班二,舊名內直。太平興國初,改選諸軍中善用槍槊者補之。

東西班弩手・龍旗直・招箭班合わせて十二、旧号は東西班承旨。淳化二年、殿前侍と改称し、東西それぞれ第一第二弩手・龍旗直班六は、いずれも甲を帯び、諸班および甲を帯びない班から選抜して増補した。その東第二茶酒班および第三班、西第四班は甲を帯びず、いずれも諸軍の員・使臣および王事に殉じた者の子弟をもってこれに充てた。また弓箭に巧みな者を選抜して招箭班とした。

原文東西班弩手、龍旗直、招箭班共十二,舊號東西班承旨。淳化二年,改爲殿前侍,東西各第一第二弩手、龍旗直班六,並帶甲,選諸班及不帶甲班增補。其東第二茶酒及第三、西第四班不帶甲,並以諸軍員、使臣及沒王事者子弟爲之。又擇善弓箭者爲招箭班。

散直左右班四。雍熙四年、諸道で募置した藩鎮の庁頭軍将および登聞院に赴いて武芸の試験を求めた者をもって立てた。咸平元年、諸節度使の従者・騎御馬小底を選抜して増補した。

原文散直左右班四。雍熙四年,以諸道募置藩鎮廳頭軍將及詣登聞院求試武藝者立。咸平元年,選諸節度使從人、騎御馬小底增補。

鈞容直は二班あり。太平興國三年、諸軍より音楽に通暁し、御馬小底に騎乗する者を選びて立てる。淳化二年、これを改む。

原文鈞容直班二。太平興國三年,選諸軍諳曉音樂、騎御馬小底立。淳化二年,改之。

外殿直は一班あり。諸班の衛士中、年齢多き者を看班外殿直と号す、後に看班の号を削る。或いは諸道に詣でて軍校の職を摂し州兵を部分するを、権管と謂う。國初にはまた内員僚直あり、開寶年中に廃す。太平興國四年、太原を征し、上軍を得る。天禧四年、この班に併入す。

原文外殿直班一。諸班衛士中年多者號看班外殿直,後削看班之號。或詣諸道攝軍校之職部分州兵,謂之權管。國初又有內員僚直,開寶中廢。太平興國四年,征太原,得上軍。天禧四年,併入此班。

捧日並びに左射、𨧱直、弩手、左第五軍、総じて指揮三十五。京師に三十三、雍丘・鄭に各一。旧号は小底、周に改めて鐵騎と為し、太平興國二年に改めて日騎と為し、雍熙四年に今の名に改む。左・右廂に分ち、各四軍。雍熙三年、槍槊に善き者を選びて𨧱直に充つ。淳化三年、左射に善き者を選びて左射と為す。咸平五年、天武・拱聖・驍騎より弩射に善き者を選びて弩手と為す。

原文捧日並左射、𨧱直、弩手、左第五軍,總指揮三十五。京師三十三,雍丘、鄭各一。舊號小底,周改爲鐵騎,太平興國二年改爲日騎,雍熙四年改今名。分左、右廂,各四軍。雍熙三年,選善槍槊者充𨧱直。淳化三年,選善左射者爲左射。咸平五年,選天武、拱聖、驍騎善弩射者爲弩手。

契丹直は三。咸平・許・寿に各一。後唐に置き、旋廃す。開寶三年、遼人内附の衆を以て復た置く。太平興國年中、事に因り復た置き、旋廃す。

原文契丹直三。咸平、許、壽各一。後唐置,旋廢。開寶三年,以遼人內附之衆復置。太平興國中,因事復置,旋廢。

帰明渤海指揮は二。京師。太平興國四年、幽州を征し、渤海降兵を以て立てる。

原文歸明渤海指揮二。京師。太平興國四年,征幽州,以渤海降兵立。

拱聖指揮は二十一。京師。乾德年中、諸州の騎兵を選びて闕下に送り、立てて驍雄と為し、後に驍猛と改む。雍熙四年、また拱辰と改む。未だ幾ばくもあらずして今の名に改む。

原文拱聖指揮二十一。京師。乾德中,選諸州騎兵送闕下,立爲驍雄,後改驍猛。雍熙四年,又改拱辰。未幾改今名。

吐渾小底旧指揮は五、治平年中に併せて二と為す。京師。太平興國四年、太原を平らげ、吐渾の子弟を獲、また監牧諸軍中にある者を選びて充つ。

原文吐渾小底舊指揮五,治平中並爲二。京師。太平興國四年,平太原,獲吐渾子弟,又選監牧諸軍中所有者充。

驍騎指揮は二十三。京師。太平興國四年に置き、後にまた掉搨索兵及び左右教駿兵を選びて増置す。雍熙四年、殿前司歩鬥弩手を改めて驍騎弩手と為す。淳化四年、壮勇超絶なる者を選びて上驍騎と為し、本軍の上に在り。咸平五年、左・右廂に分つ。旧にまた殿前小底あり。至道二年、驍騎馬直及び善射の者を選びて充つ、後に廃す。

原文驍騎指揮二十三。京師。太平興國四年置,後又選掉搨索兵及左右教駿兵增置。雍熙四年,改殿前司步鬥弩手爲驍騎弩手。淳化四年,選壯勇超絕者爲上驍騎,在本軍之上。咸平五年,分左、右廂。舊又有殿前小底。至道二年,選驍騎馬直及善射者充,後廢。

驍勝左右指揮は各五。京師。咸平三年、教駿・驍騎諸軍の備征子弟より材勇なる者を選びて立てる。

原文驍勝左右指揮各五。京師。咸平三年,選教駿、驍騎諸軍備征子弟材勇者立。

甯朔指揮は十。京師・尉氏に各三、雍丘・渭・河陽・河陰に各一。咸平三年、教駿諸軍の備征及び外州の兵を選びて立てる。

原文甯朔指揮十。京師、尉氏各三,雍丘、渭、河陽、河陰各一。咸平三年,選教駿諸軍備征及外州兵立。

龍猛指揮は八。京師。太平興國年中、龍騎及び諸州より部送招獲したる群盗を揀閲し、その材勇なる者を取って立てる。淳化四年、また精悍なる者を択びて教閲龍猛と為し、以て盗を禽えるに備え、本軍の上に在り。景德四年、また龍騎・驍騎の兵を選びてこれを増す。

原文龍猛指揮八。京師。太平興國中,揀閱龍騎及諸州部送招獲群盜,取其材勇者立。淳化四年,又擇精悍者爲教閱龍猛以備禽盜,在本軍之上。景德四年,又選龍騎、驍騎兵增之。

飛猛指揮は二。咸平二年、龍猛・驍騎兵の子弟より材勇なる者を選びて立てる。

原文飛猛指揮二。咸平二年,選龍猛、驍騎兵子弟之材勇者立。

驍猛指揮は四。尉氏に三、太康に一。旧号は驍雄、太平興國年中に改む。雍熙四年、拱聖の年多き者を以て拱辰軍と為し、その次等の者は旧の如し。景德四年、拱聖の年多き者を以てこれに隷す。

原文驍猛指揮四。尉氏三、太康一。舊號驍雄,太平興國中改。雍熙四年,以拱聖年多者爲拱辰軍,其次等者如故。景德四年,以拱聖年多者隸之。

神騎指揮は十八。雍丘に十三、咸平に五。端拱二年、驍雄の新たに配せられたる人及び教駿・借事等の兵を選びて立てる。淳化二年、掉搨索軍を廃してこれに隷す。咸平二年、また教駿・備征及び外州の者を択びてこれを増す。

原文神騎指揮十八。雍丘十三,咸平五。端拱二年,選驍雄新配人及教駿、借事等兵立。淳化二年,廢掉搨索軍隸之。咸平二年,又擇教駿、備征及外州增之。

驍雄指揮は四。咸平・陳留に各二。太平興國八年、驍猛中の次等の者を遷して立てる。景德年中、驍騎・驍勝・寧朔軍の年多き者を以てこれに隷す。

原文驍雄指揮四。咸平、陳留各二。太平興國八年,遷驍猛中次等者立。景德中,以驍騎、驍勝、寧朔軍年多者隸之。

吐渾直の指揮は三つ。太原に二、潞に一。太平興国八年、太原のものは雲州及び河界の吐渾を移して立て、並州・代州に屯す。雍熙三年、また雲州・朔州の帰明吐渾を得て増立し、潞州に屯す。

原文吐渾直指揮三。太原二,潞一。太平興國八年,太原遷雲州及河界吐渾立,屯並、代州。雍熙三年,又得雲、朔歸明吐渾增立,屯潞州。

安慶直は四つ。太原に一、潞に三。太平興国四年、雲州・朔州及び河東の帰明安慶民を移し、並州・潞州等に分屯させ、田地を与う。雍熙四年に立てる。

原文安慶直四。太原一,潞三。太平興國四年,遷雲、朔及河東歸明安慶民分屯並、潞等州,給以土田。雍熙四年立。

三部落の指揮は一つ。太原にある。太平興国四年、親征して幽州に至り、雲州・朔州・応州等の部落を并州に移し、これにより立てる。

原文三部落指揮一。太原。太平興國四年,親征幽州,遷雲、朔、應等州部落於并州,因立。

清朔の指揮は四つ。西京に二、許・汝に各一。太平興国四年、雲州・朔州の民を内地に移し、自ら馬を置くことを得て騎兵と為し、これを家戸馬と謂う。雍熙四年に立てる。

原文清朔指揮四。西京二,許、汝各一。太平興國四年,遷雲、朔州民於內地,得自置馬以爲騎兵,謂之家戶馬。雍熙四年立。

擒戎の指揮は五つ。西京・許に各二、汝に一。太平興国四年、雲州・朔州の民を西京・許・汝等州に移し、田地を与え、家戸馬に充てる。端拱二年に立てる。

原文擒戎指揮五。西京、許各二,汝一。太平興國四年,遷雲、朔州民於西京、許汝等州,給以土田,充家戶馬。端拱二年立。

新安内員僚直は五つ。端拱二年、成徳軍節度使田重進言う、「易州静砦の兵は先に鎮州に屯し、賊が勇を陥れ穀を陥れ、その家を尽く俘虜にす。請う、その軍を以て宿衛に備えん」と。これによりこの直を立てる。後に廃す。天聖以後は無し。

原文新安內員僚直五。端拱二年,成德軍節度使田重進言;「易州靜砦兵先屯鎮州,賊陷勇陷穀,盡俘其家,請以其軍備宿衛。」因而立此直。後廢,天聖後無。

散祗候左右班は二つ。天聖以前には無し。

原文散祗候左右班二。天聖前無。

歩闘の指揮は六つ。尉氏・太康に各一、蔡に四。慶曆年中に増置す。天聖以前には無し。

原文步鬥指揮六。尉氏、太康各一,蔡四。慶曆中增置,天聖前無。

歩軍

原文步軍

御龍直左右は二つ。旧号は簇御馬直、太平興国二年に簇御龍直と改め、後に今の名に改む。

原文御龍直左右二。舊號簇御馬直,太平興國二年改爲簇御龍直,後改今名。

御龍骨朶子直左右は二つ。旧号は骨朶子直、太平興国二年に御龍散手直と改め、後に今の名に改む。

原文御龍骨朵子直左右二。舊號骨䤪子直,太平興國二年改爲御龍散手直,後改今名。

御龍弓箭直は五つ。天武諸軍より材貌魁傑なる者を選びて充てる。

原文御龍弓箭直五。選天武諸軍材貌魁傑者充。

御龍弩直は五つ。

原文御龍弩直五。

天武並びに寬衣・𨧱直・左射、総指揮三十四。京師に三十三、咸平に一。

原文天武並寬衣、𨧱直、左射,總指揮三十四。京師三十三,咸平一。

神勇上下合わせて二十一指揮。乾徳年中、諸軍の壮実にして大體なる者を揀閲し、雄威と為して立てる。太平興国二年、雄勇と改む。雍熙四年、今の名に改む。淳化四年、武藝超絶なる者を選びて上神勇と為して立て、盗賊擒捕に備う。

原文神勇上下共二十一指揮。乾德中,揀閱諸軍壯實而大體者立爲雄威。太平興國二年,改爲雄勇。雍熙四年改今名。淳化四年,選武藝超絕者立爲上神勇,以備擒盜。

宣武上下合わせて二十指揮。京師に駐屯す。太平興国二年、效節・忠猛の二軍を併せて設置し、また諸軍及び郷兵を選抜してこれを増強す。至道二年、また軍頭司の歩直より槍槊・掉刀を用いるに巧みなる者を選抜して殿前歩直を立てしも、後に廃止す。

原文宣武上下共二十指揮。京師。太平興國二年,並效節、忠猛二軍立,又選諸軍及鄉兵增之。至道二年,又選軍頭司步直善用槍槊掉刀者立殿前步直,後廢。

虎翼は太平興国年中、雄武弩手より選抜して上鉄林と為し、また雄武・定遠・寧勝の床子弩手・飛山雄武等の軍より勁兵を選びてその数を増す。雍熙四年、左右四軍に分かち改む。淳化四年、本軍の精鋭なる者を選抜して上虎翼と為し、以て盗賊を擒えるに備う。咸平二年、広勇軍を併せてこれに隷属せしむ。大中祥符六年、詔して在京諸軍に江・淮の士卒にして水に善き者を選抜し、金明池に於いて戦闘を習わしめ、虎翼水軍を立てしむ。旧指揮六十二、景德年中六を増す。京師に駐屯す。

原文虎翼太平興國中,揀雄武弩手立爲上鐵林,又于雄武、定遠、寧勝床子弩手、飛山雄武等軍選勁兵以增其數。雍熙四年,改分左右四軍。淳化四年,選本軍精銳者爲上虎翼,以備禽盜。咸平二年,並廣勇軍隸之。大中祥符六年,詔在京諸軍選江、淮士卒善水者習戰于金明池,立爲虎翼水軍。舊指揮六十二,景德中增六。京師。

雄勇は旧号を雄威と称し、太平興国二年に今の名に改む。雍熙四年、神勇と改め、また本軍より退きて次等に入る者を選抜してこれを為す。旧指揮五、至和五年に八に増す。咸平に三、鄆に二、許・鄭・滑に各一。

原文雄勇舊號雄威,太平興國二年改今名。雍熙四年,改神勇,復於本軍選退入次等者爲之。舊指揮五,至和五年增爲八。咸平三,鄆二,許、鄭、滑各一。

広徳は開宝四年、広南を平定し、その兵を殿前司に隷属せしめ、次等の者は八作司に隷属せしむ。欠員あれば広南諸州の兵を選抜してこれを補う。雍熙三年、八作司の強壮なる者を選抜して揀中と為す。総指揮十。咸平・尉氏・陽武・河陽・滄・鞏・白波に各一、西京に三。

原文廣德開寶四年,平廣南,以其兵隸殿前司,次等隸八作司,闕則選廣南諸州兵補之。雍熙三年,選八作司之強壯者爲揀中。總指揮十。咸平、尉氏、陽武、河陽、滄、鞏、白波各一,西京三。

広勇は淳化二年、神射・鞭箭・雄武・效忠等の軍より強壮にして射術に優る者を選抜して広武を立て、大中祥符二年に今の名に改む。旧指揮二十三、慶暦年中四十三に増し、毎指揮十を以て一軍と為す。京師に五、陳留に二十二、咸平・東明・太原・胙城・南京に各二、襄邑・陽武・鄆に各一、滑に三。

原文廣勇淳化二年,選神射、鞭箭、雄武、效忠等軍強壯善射者立爲廣武,大中祥符二年改今名。舊指揮二十三,慶曆中增爲四十三,每指揮十爲一軍。京師五,陳留二十二,咸平、東明、太原、胙城、南京各二,襄邑、陽武、鄆各一,滑三。

広捷は旧名を左右平遠と称し、建隆二年に改む。咸平五年、また広徳・神威等の軍より選抜し、標槍・旁牌を教えてこれを補う。旧指揮五、景祐年中五を増し、明道年中十を増し、慶暦年中三十六を増し、総五十六。陳留に八、咸平に六、雍丘に四、襄邑・尉氏・許に各三、太康・扶溝・南京・亳・河陰・潁・寧陵に各二、陳に六、滑・曹・鄧・蔡・広済・穀熟・永城・襄城・葉に各一。

原文廣捷舊名左右平遠,建隆二年改。咸平五年,又選廣德、神威等軍教以標槍旁牌補之。舊指揮五,景祐中增五,明道中增十,慶曆增三十六,總五十六。陳留八,咸平六,雍丘四,襄邑、尉氏、許各三,太康、扶溝、南京、亳、河陰、潁、寧陵各二,陳六,滑、曹、鄧、蔡、廣濟、穀熟、永城、襄城、葉各一。

雄威は雍熙四年、神勇兵より退きて第二等に入る者を選抜して神威を立て、後に今の名に改む。指揮十。考城・襄邑・陳留に各一、南京に四、陳に二。

原文雄威雍熙四年,選神勇兵退入第二等立爲神威,後改今名。指揮十。考城、襄邑、陳留各一,南京四,陳二。

宣威は雍熙四年、神勇・宣武の兵より退きて次等に入る者を選抜して立てる。上下指揮二。咸平・襄邑に各一。

原文宣威雍熙四年,選神勇、宣武兵退入次等者立。上下指揮二。咸平、襄邑各一。

龍騎は建隆年間、諸道より招致し及び捕獲したる群盗を以て立て、号して有馬歩人と称し、陣に臨めば即ち歩闘す。淳化三年、本軍にて年数の多き者を選抜して帯甲剩員と為す。咸平以後、また本軍及び龍猛の退兵を以てこれを増す。旧指揮八、康定年中、配隷して軍に充てる者を取って増置し指揮二十と為し、三軍に分つ。京師に四、尉氏・雍丘・咸平・鄭に各二、南京・陳・蔡・河陽・潁・単・四波に各一。

原文龍騎建隆間以諸道招致及捕獲群寇立,號有馬步人,見陣即步鬥。淳化三年,選本軍年多者爲帶甲剩員。咸平以後,又以本軍及龍猛退兵增之。舊指揮八,康定中,取配隸充軍者增置爲指揮二十,分三軍。京師四,尉氏、雍丘、咸平、鄭各二,南京、陳、蔡、河陽、潁、單、四波各一。

神射は両浙の州兵にて、旧号を腰弩と称す。雍熙四年に今の名に改む。淳化元年、部送して闕下に至らしめ、その強者を選抜して広武と為し、次等の者は復た本軍と為す。指揮五。陳留に三、雍丘に二。

原文神射兩浙州兵,舊號腰弩。雍熙四年改今名。淳化元年,部送闕下,選其強者爲廣武,次等復爲本軍。指揮五。陳留三,雍丘二。

歩闘は雍熙三年、諸州の廂軍より壮勇なる者を選抜して立てしも、後に廃止す。此の下二軍は、天聖以後無し。

原文步鬥雍熙三年,選諸州廂軍之壯勇者立,後廢。此下二軍,天聖後無。

鞭箭は雍熙三年、両浙の兵を選抜して鞭箭と為し、次等の者を忠節鞭箭と為す。端拱二年に併せて一と為す。至道元年、此の兵を発して霊州の芻粟を援けしむるに、車重・兵器を浦洛河にて喪い、詔して死を免ず、後に廃止す。

原文鞭箭雍熙三年,選兩浙兵爲鞭箭,次等者爲忠節鞭箭。端拱二年並爲一。至道元年,發此兵援靈州芻粟,喪車重兵器於浦洛河,詔免死,後廢。

侍衛司は侍衛親軍馬歩軍都指揮使・副都指揮使・都虞候各一人。馬軍都指揮使・副都指揮使・都虞候各一人、歩軍もまたこれに如し。馬歩軍都虞候已上の員、全く闕くれば、即ち馬・歩軍都指揮使等各々その務を領し、殿前司と号して三司と為す。馬歩軍に龍衛・神衛の左右四廂都指揮使・都虞候あり。毎指揮に指揮使・副指揮使あり。其余は殿前司の制に如し。領する所の騎兵・歩兵の員額を左に列叙す。

原文侍衛司侍衛親軍馬步軍都指揮使、副都指揮使、都虞候各一人。馬軍都指揮使、副都指揮使、都虞候各一人,步軍亦如之。自馬步軍都虞候已上,其員全闕,即馬、步軍都指揮使等各領其務,與殿前號爲三司。馬步軍有龍衛神衛左右四廂都指揮使、都虞候。每指揮有指揮使、副指揮使。余如殿前司之制。所領騎兵步兵之額敘列如左:

騎軍

原文騎軍

員僚直は顕徳年中、周が三関を平定し、強人を召募し及び高陽関の馳捷兵を選抜して北面両直と為す。建隆初年、諸州の騎兵及び蕃鎮の庁頭召募人等を選抜して左三直と為す。太平興国四年、太原を平定し、その騎兵を選抜して右三直と為す。北面両直は、貝・冀に営し高陽関都部署に隷属す。大中祥符年中、貝州左直・冀州右直と改め、後に四直と改む。京師に二、恩・冀に各一。

原文員僚直顯德中,周平三關,召募強人及選高陽關馳捷兵爲北面兩直。建隆初,選諸州騎兵及蕃鎮廳頭召募人等爲左三直。太平興國四年,平太原,選其騎兵爲右三直。北面兩直,營貝、冀隸高陽關都部署。大中祥符中,改爲貝州左直、冀州右直,後改四直。京師二,恩、冀各一。

龍衛は旧号を護聖と称す。周の広順年中に龍捷と改む。建隆二年、老衰の者を選び去り、諸州に募れる精勁の者を以て之を補ふ。太平興国二年、左・右廂に分つことを改む。四年、太原を平らげ、其の降兵を選びて揀中龍衛と為す。雍熙二年、又た善く槍槊を用ふる者を選びて𨧱直と為す。淳化三年、剰員にて甲を披くに堪ふる者を選びて帯甲剰員と為す。五年、又た善く左射する者を選びて左射と為す。指揮四十四。京師三十八、雍丘・尉氏・河陽各一、澶三。

原文龍衛舊號護聖。周廣順中,改龍捷。建隆二年,揀去衰老,以諸州所募精勁者補之。太平興國二年,改分左、右廂。四年,平太原,選其降兵爲揀中龍衛。雍熙二年,又揀善槍槊者爲𨧱直。淳化三年,選剩員堪披甲者爲帶甲剩員。五年,又揀善左射者爲左射。指揮四十四。京師三十八,雍丘、尉氏、河陽各一,澶三。

忠猛は咸平一年に置く。指揮一。定州。

原文忠猛咸平一年置。指揮一。定州。

散員は咸平五年に置く。指揮一。定州。

原文散員咸平五年置。指揮一。定州。

驍捷は周の顕徳年中、三関を平らげ、諸州の士卒の壮勇なる者を選びて河北驍捷と為す。宋初、高陽関都部署に隷す。建隆二年、左右驍武を廃し、其の兵を以て来り隷す。乾徳年中、又た備征及び嵐州帰附の兵を選びて河南驍捷と為し、其の後は唯だ驍捷を以て名と為す。太平興国四年、太原を平らげ、降兵を揀閲して揀中驍捷と為す。淳化四年、又た新立驍捷を置く。至道三年、驍捷を左・右廂に分つ。咸平五年、其の年多き者を以て帯甲剰員と為す。指揮二十六。尉氏新立・陳揀中各一、恩十四、冀十。

原文驍捷周顯德中,平三關,揀諸州士卒壯勇者爲河北驍捷。宋初,隸高陽關都部署。建隆二年,廢左右驍武,以其兵來隸。乾德中,又選備征及嵐州歸附之兵爲河南驍捷,其後止以驍捷爲名。太平興國四年,平太原,揀閱降兵爲揀中驍捷。淳化四年,又置新立驍捷。至道三年,分驍捷爲左、右廂。咸平五年,以其年多者爲帶甲剩員。指揮二十六。尉氏新立、陳揀中各一,恩十四,冀十。

雲騎は旧号を左右備征と称し、建隆二年に改む。開宝以後、子弟を募りて雲騎と為し、其の次を以て武騎と為し、又た騎兵の次等を選びて武騎と為し、又た本軍の年多き者を選びて帯甲剰員と為す。指揮十五。京師十一、陳留・西京各一、鞏二。

原文雲騎舊號左右備征,建隆二年改。開寶以後,募子弟爲雲騎,以其次爲武騎,又選騎兵之次等爲武騎,又選本軍年多者爲帶甲剩員。指揮十五。京師十一,陳留、西京各一,鞏二。

帰明神武は太平興国四年、幽州に親征し、其の降兵を以て此の軍を立つ。初め指揮一、後に増して四と為す。雍丘。

原文歸明神武太平興國四年,親征幽州,以其降兵立此軍。初指揮一,後增爲四。雍丘。

克勝は本潞州の騎兵、端拱初年に昇格す。指揮二。潞。

原文克勝本潞州騎兵,端拱初升。指揮二。潞。

驍鋭は旧名を散員指揮と称し、咸平四年に改む。指揮四。莫三、冀一。

原文驍銳舊名散員指揮,咸平四年改。指揮四。莫三,冀一。

驍武は本河北諸州の忠烈・威辺・騎射等の兵なり。淳化四年、其の材を揀閲し、雲騎・武騎等と並び立て、自ら馬を置くことを得、左・右廂に分つ。指揮二十。北京七、真定三、定六、相・懐・洺・邢各一。

原文驍武本河北諸州忠烈、威邊、騎射等兵。淳化四年,揀閱其材,與雲騎、武騎等立,得自置馬,分左、右廂。指揮二十。北京七,真定三,定六,相、懷、洺、邢各一。

広鋭は本河州の忠烈・宣勇にて能く社を結び馬を買ふ者、馬死すれば則ち市ひて補ひ、官其の直を助く。至道元年に立つ。咸平以後、振武兵を選びて之を増し、老疾の者は親属を以て代はす。景德二年に詔す:親属に非ざる者願ひて代はるは聴す。大中祥符五年、其の退兵を以て帯甲剰員と為す。旧河東指揮三十一、陝西七。景祐・康定年中、増して四十二と為す。太原・代・並各三、汾五、嵐・石・岢嵐各二、晋・熙・慈・絳・沢・隰・憲・寧化・威勝・平定・火山各一、涇・原・鄜各二、秦・渭・環・邠・寧各一。

原文廣銳本河州忠烈、宣勇能結社買馬者,馬死則市補,官助其直。至道元年立。咸平以後選振武兵增之,老疾者以親屬代。景德二年詔:非親屬願代者聽。大中祥符五年,以其退兵爲帶甲剩員。舊河東指揮三十一,陝西七。景祐、康定中,增爲四十二。太原、代、並各三,汾五,嵐、石、岢嵐各二,晉、熙、慈、絳、澤、隰、憲、寧化、威勝、平定、火山各一,涇、原、鄜各二,秦、渭、環、邠、寧各一。

武清は晋州の騎兵なり。端拱二年、其の久しく北鄙に在りて屯戍の労有るを以て、勇悍なる者を選び就きて昇格す。指揮一。晋。

原文武清晉州騎兵。端拱二年,以其久在北鄙,有屯戍之勞,選勇悍者就升。指揮一。晉。

有馬勁勇は咸平四年、江東諸州の兵を選びて立つ。慶暦年中、第六・第七を分置す。総指揮七。太原二、代・嵐各一、磁三。

原文有馬勁勇咸平四年,選江東諸州兵立。慶曆中,分置第六、第七。總指揮七。太原二,代、嵐各一,磁三。

雲翼は旧指揮三十三、景祐以後、二十三を増置し、左・右廂に分ち、総五十六。真定・雄・瀛・深・趙・永寧各三、定・冀各六、保五、滄・北平・永静・順安・保定各二、莫・邢・覇各一、広信・安粛各四。

原文雲翼舊指揮三十三,景祐以後,增置二十三,分左、右廂,總五十六。真定、雄、瀛、深、趙、永寧各三,定、冀各六,保五,滄、北平、永靜、順安、保定各二,莫、邢、霸各一,廣信、安肅各四。

庁子は本石州城に立てる。景德元年、改めて営を相州に徙す。慶暦初年、禁軍に昇格す。指揮六。定一、相五。

原文廳子本石州城立。景德元年,改徙營相州。慶曆初,升禁軍。指揮六。定一,相五。

万捷は開宝年中、趙・相・滄・冀州の民を募りて立つ。大中祥符年中、驍武・雲騎の退兵を以て之に隷す。指揮七。相・冀・遼各二、滄一。

原文萬捷開寶中,募趙、相、滄、冀州民立。大中祥符中,以驍武、雲騎退兵隸之。指揮七。相、冀、遼各二,滄一。

雲捷軍は太平興国四年に、諸軍の中から応募した子弟及び教駿・借事・備征などで武幹ある者を選抜して設立された。大中祥符五年、寧朔軍の退兵をこれに隷属させた。指揮は十二。尉氏・咸平・西京・北京・澶州に各二、汝州・懐州に各一。

原文雲捷太平興國四年,選諸軍中應募子弟及教駿、借事、備征等有武幹者立。大中祥符五年,以寧朔退兵隸之。指揮十二。尉氏、咸平、西京、北京、澶各二,汝、懷各一。

横塞軍は咸平三年に、諸軍の威辺・騎射及び在京の借事を選抜して設立された。指揮は七。雍丘・咸平・考城・襄邑・寧陵に各一、衛州に二。

原文橫塞咸平三年,選諸軍威邊、騎射及在京借事立。指揮七。雍丘、咸平、考城、襄邑、寧陵各一,衛二。

員僚剩員直は、禁軍の員僚で罪により責め降格された者を充てる。これより以下、騎捷軍に至るまでの六軍は、天聖年間以後には存在しない。

原文員僚剩員直禁軍員僚以罪責降者充。此下至騎捷凡六軍,天聖後無。

清塞軍は後周により設立され、指揮は二。その一つは北蕃の帰附の衆で、寿州に営す。もう一つは淮南の紫金山砦を破って得た騎軍で、延州に営す。宋初、本軍の子弟を選んでその欠員を補った。太平興国三年、また泉州・両浙の兵を得てこれを増強した。

原文清塞周立,指揮二。其一北蕃歸附之衆,營壽州;其一破淮南紫金山砦所得騎軍,營延州。宋初,選本軍子弟補其缺。太平興國三年,又得泉州、兩浙兵以益之。

飛捷軍は、もと威虜軍・保州・易州の静塞兵、定州の庁子軍を基に設立された。淳化元年、詔して闕下に赴かせて揀閲し、静塞を三等とし、庁子を一等として、今の名に改めた。指揮は四。

原文飛捷本威虜軍、保州、易州靜塞兵、定州廳子軍立。淳化元年,詔赴闕揀閱,以靜塞爲三等,廳子爲一等,改今名。指揮四。

驍駿軍はもと寿州の鹹聖軍で、咸平三年に改称された。指揮は一。

原文驍駿本壽州鹹聖軍,咸平三年改。指揮一。

揀中夏州庁子はもと夏州の家戸である。淳化五年、河西行営都部署李継隆が部を遣わして京師に送り設立された。指揮は一。

原文揀中夏州廳子本夏州家戶。淳化五年,河西行營都部署李繼隆遣部送京師立,指揮一。

騎捷軍はもと雍州の強人指揮で、咸平三年に改称された。瀛州・莫州に分かれて営す。指揮は四。

原文騎捷本雍州強人指揮,咸平三年改。分營瀛、莫。指揮四。

武騎軍の指揮は十一。京師・雍丘に各一、尉氏に三、陳留・考城・咸平・鄭州に各一、西京に二。これより以下、有馬雄略軍に至るまでの十二軍は、『三朝志』には記載がない。

原文武騎指揮一十一。京師、雍丘各一,尉氏三,陳留、考城、咸平、鄭各一,西京二。此下至有馬雄略凡十二軍。《三朝志》無。

驍騎軍の指揮は一、太原に置かれる。

原文驍騎指揮一,太原。

無敵軍は河北沿辺の廂兵で、慶暦二年に禁軍に昇格した。総指揮は六。定州・北平に各二、安粛・広信に各一。

原文無敵河北沿邊廂兵,慶曆二年升禁軍。總指揮六。定、北平各二,安肅、廣信各一。

忠鋭軍は広信の廂兵で有馬の者を、慶暦二年に禁軍に昇格させた。指揮は一。

原文忠銳廣信廂兵有馬者,慶曆二年升禁軍。指揮一。

威辺軍は諸州の廂兵で、ただ保州のみが戦射を教え、巡検司に隷属していた。慶暦初年に禁軍に昇格した。指揮は二。定州・保州に各一。

原文威邊諸州廂兵,惟保州教戰射,隸巡檢司。慶曆初,升禁軍。指揮二。定、保各一。

飛騎軍は麟州の廂兵で、慶暦初年に禁軍に昇格した。指揮は二。

原文飛騎麟州廂兵,慶曆初,升禁軍。指揮二。

威遠軍は府州の廂兵で、もと胡騎の精鋭であり、慶暦初年に禁軍に昇格した。指揮は二。

原文威遠府州廂兵,本胡騎之精銳,慶曆初,升禁軍。指揮二。

克戎并州廂軍のうち馬を有する者は、康定年間(1040-1041年)に禁軍に昇格した。指揮数は一。

原文克戎并州廂軍有馬者,康定中,升禁軍。指揮一。

馬を有する安塞慶州廂軍は、慶曆年間(1041-1048年)に禁軍に昇格した。指揮数は一。

原文有馬安塞慶州廂軍,慶曆中,升禁軍。指揮一。

蕃落陝西沿邊の廂兵のうち馬を有する者は、天禧年間(1017-1021年)以後、禁軍に昇格し、最辺境の城砦にすべて設置された。慶曆年間(1041-1048年)に至って、総指揮数は八十三となった。環州に五、延州・慶州に各四、秦州及びその外砦に十七、原州・渭州及びその外砦に各十二、徳順軍及びその外砦に十二、鳳翔府・涇州及びその外砦、儀州、保安軍に各二、隴州の外砦に一。

原文蕃落陝西沿邊廂兵有馬者,天禧後,升禁軍,極邊城砦悉置。至慶曆中,總指揮八十三。環五,延、慶各四,秦並外砦十七,原、渭並外砦各十二,德順並外砦十二,鳳翔、涇並外砦、儀、保安各二,隴外一。

并州騎射は諸道の廂軍のうち、并州路のみが馬を備えて征役に充て、慶曆五年(1045年)に禁軍に昇格した。指揮数は一。

原文并州騎射諸道廂軍惟并州路有馬備征役,慶曆五年升禁軍。指揮一。

有馬雄略は至和二年(1055年)に設置され、指揮数は三。広州、桂州、邕州に各一。

原文有馬雄略至和二年置,指揮三。廣、桂、邕各一。

歩軍

原文步軍

神衛は、晋では奉国軍と称し、周では虎捷と改称した。建隆二年(961年)、諸州が募集した禁軍を揀閲して増補した。乾徳三年(965年)、西川行営都部署の王全斌が、偽署の感化・耀武等の軍で平寇の功ある者を、禁旅に備えるよう請うた。詔してともに虎捷とした。太平興国二年(977年)に改称した。旧水虎翼は即ち軍中で水戦を習う者であり、この年に神衛水軍と改めた。また、剰員の中から征役に備えうる者を選び、揀中神衛として立てた。大中祥符年間(1008-1016年)以後、剰員にはさらに帯甲・看倉草場・看船の名があり、凡そ四等で、皆本軍の年功の多い者を選んで補った。宋初、指揮数は四十六であったが、仁宗以後は、指揮三十一を存するのみとなった。京師に駐屯。

原文神衛晉曰奉國軍,周改虎捷。建隆二年,揀閱諸州所募禁軍增補。乾德三年,西川行營都部署王全斌偽署感化、耀武等軍平寇者功,請備禁旅,詔並爲虎捷。太平興國二年改。舊水虎翼即軍中習水戰者,是歲改爲神衛水軍,又於剩員中選可備征役者立爲揀中神衛。大中祥符後,剩員又有帶甲、看倉草場、看船之名,凡四等,皆選本軍年多者補。宋初,指揮四十六,仁宗後,止存指揮三十一。京師。

歩武は、本来の郷軍から選抜して神勇・宣武に充てたもので、雍熙三年(986年)、その次等の者を選んで立てた。慶曆年間(1041-1048年)に、指揮を六増置した。陳州に駐屯。

原文步武本鄉軍選充神勇、宣武,雍熙三年,揀其次等者立。慶曆中,增指揮六。陳。

虎翼は、宋初、雄武弩手と号した。太平興国二年(977年)、壮勇な者を選んで上鉄林とし、その次を下鉄林とした。雍熙四年(987年)、左廂・右廂に改め、各三軍とした。咸平五年(1002年)、威虎軍を以てこれに隷属させた。景德三年(1006年)、効順兵を選んでその欠員を補った。大中祥符五年(1012年)、本軍の水戦に長じる者を選んで上虎翼とし、六年(1013年)にはまた江・淮の水卒に熟達した者を金明池で選び、戦棹を按試して、虎翼軍として立てた。江・浙・淮南の諸州も、これに準じて選置した。七年(1014年)、虎翼水軍と改称した。旧指揮数は七十五、慶曆年間(1041-1048年)に二十一を増置し、総計九十六となった。京師に九十(うち水軍一を含む)、襄邑・東明・単州に各一、長葛に一。

原文虎翼宋初,號雄武弩手。太平興國二年,選壯勇者爲上鐵林,其次爲下鐵林。雍熙四年,改爲左、右廂,各三軍。咸平五年,以威虎軍來隸。景德三年,選效順兵補其缺。大中祥符五年,擇本軍善水戰者爲上虎翼,六,年又選江、淮習水卒于金明池按試戰棹,立爲虎翼軍。江、浙、淮南諸州,亦准此選置。七年,改爲虎翼水軍。舊指揮七十五,慶曆中,增置二十一,總九十六。京師九十並水軍一,襄邑、東明、單各一,長葛一。

奉節は、乾徳三年(965年)に蜀を平定し、その兵を得て奉議として立て、後に今の名に改めた。景德三年(1006年)、また選んで上奉節を立てた。指揮数は五。京師に駐屯。

原文奉節乾德三年平蜀,得其兵立爲奉議,後改今名。景德三年,又選立上奉節。指揮五,京師。

武衛は、太平興国年間(976-984年)中に、河北諸州の兵を募って立てた。旧指揮数は十六、慶曆年間(1041-1048年)中に、河北で増置して指揮六十七となった。南京・真定府・淄州に各四、北京・澶州・相州・邢州・懐州・趙州・棣州・洺州・徳州・祁州・通利軍・乾寧軍・広済軍に各一、青州に五、鄆州・徐州・兗州・曹州・濮州・沂州・済州・単州・萊州・濰州・登州・淮陽軍・瀛州・博州に各二、斉州・密州・滄州に各三。

原文武衛太平興國中,募河北諸州兵立。舊指揮十六,慶曆中,河北增置爲指揮六十七。南京、真定、淄各四,北京、澶、相、邢、懷、趙、棣、洺、德、祁、通利、乾寧、廣濟各一,青五,鄆、徐、兗、曹、濮、沂、濟、單、萊、濰、登、淮陽、瀛、博各二,齊、密、滄各三。

雄武並びに雄武弩手・床子弩雄武・揀中雄武・飛山雄武・揀中帰明雄武は、総指揮数三十四。京師に十三、太原・尉氏・南京・鄭州・汝州・寧陵に各二、咸平・東明・雍丘・襄邑・許州・曹州・広済・穀熟・長葛に各一。

原文雄武並雄武弩手、床子弩雄武、揀中雄武、飛山雄武、揀中歸明雄武,總指揮三十四。京師十三,太原、尉氏、南京、鄭、汝、寧陵各二,咸平、東明、雍丘、襄邑、許、曹、廣濟、穀熟、長葛各一。

川効忠は、太平興国三年(978年)、諸州の廂兵で京師に帰った者を選んで立てた。淳化四年(993年)、また川峽の威棹・克寧の兵で部送されて京師に来た者を選んで川効忠とした。景德元年(1004年)、徳清廂軍及び威遠兵を以てこれを増強した。旧指揮数は二十八、後に七に減じた。南京に六、寧陵に一。

原文川效忠太平興四三年,選諸州廂兵歸京師者立。淳化四年,又選川峽威棹、克寧兵部送京師者產爲川效忠。景德元年,以德清廂軍及威遠兵增之。舊指揮二十八,後減爲七。南京六,寧陵一。

効順は、宋初、潞州を征伐した際、降伏した兵卒を以て立てた。指揮数は一。襄邑に駐屯。

原文效順宋初,征潞州,以降卒立。指揮一。襄邑。

雄勝は、開宝年間(968-976年)中に、剰員を以て立てた。太平興国年間(976-984年)中に、上鉄林に選抜され、残りは従前の通りとした。また雄勝剰員があった。指揮数は三。峡州・冀州・済州に各一。

原文雄勝開寶中,以剩員立。太平興國中,選入上鐵林,餘如故。又有雄勝剩員。指揮三。峽、冀、濟各一。

揀中雄勇は開寶年間に設立され、常寧雄勇・效順等軍の剰員の中から強壮な者を選抜して揀中とした。大中祥符二年、また歸遠軍を選んで新たに設立した。旧来の指揮は四であったが、後に一に減じた。襄邑に駐屯す。

原文揀中雄勇開寶中立,以常寧雄勇、效順等軍剩員中選其強者立爲揀中。大中祥符二年,又選歸遠軍爲新立。舊指揮四,後損爲一。襄邑。

懷勇は開寶四年、京師に在る蜀兵を選抜して設立し、指揮は三。雍丘に二、陳に一。

原文懷勇開寶四年,揀蜀兵之在京師者立,指揮三。雍丘二,陳一。

威寧は淳化年間、西川の賊帥王小波の脅従兵を部送して京師に帰し設立した。咸平元年、また散員直を以て増補した。指揮は一。許に駐屯す。

原文威寧淳化中,部送西川賊帥五小波脅從之兵歸京師立。咸平元年,又以散員直增補。指揮一。許。

飛虎は本来虎翼・廣武の兵で西川に屯し家族の無い者を、太平興國年間に京師に帰して設立した。指揮は三。陳留に二、咸平に一。

原文飛虎本虎翼、廣武兵屯西川無家屬者,太平興國中,歸京師。指揮三。陳留二,咸平一。

懷順は本来淮南の兵で、旧号は懷德。建隆二年に改称。指揮は一。霸はに駐屯す。

原文懷順本淮南兵,舊號懷德。建隆二年改。指揮一。霸。

歸聖は開寶七年、李從善の率いる兵及び水軍を以て設立。八年、江南を平定し、またその降兵を以て増補、指揮は一。雍丘に駐屯す。

原文歸聖開寶七年,以李從善所領兵及水軍立。八年,平江南,又以其降兵增補,指揮一。雍丘。

順聖は太平興國年間、両浙の兵を部送して京師に帰し設立した。指揮は一。鞏に駐屯す。

原文順聖太平興國中,部送兩浙兵歸京師立。指揮一。鞏。

懷恩は乾德三年、蜀を平定し、その軍を得て設立。指揮は三。荊南に二、鄂に一。

原文懷恩乾德三年,平蜀,得其軍立。指揮三。荊南二,鄂一。

揀中懷愛は本来蜀兵で、懷恩と同時に設立し、また精鋭を抜擢して揀中とした。淳化四年、また川峽の威棹・克寧兵の次等の者を選び牽船として立て、河漕の役に供した。旧来の指揮は三であったが、後に一に減じた。寧陵に駐屯す。

原文揀中懷愛本蜀兵,與懷恩同立,又拔精銳者爲揀中。淳化四年,又選川峽威棹、克寧兵次等者立爲牽船,以給河漕之役。舊指揮三,後損爲一。寧陵。

勇捷は太平興國四年、太原征討に際し設立、左・右廂に分け、諸州の庫兵を以て左廂を補い、廣濟・開山の兵を以て右廂を補った。指揮二十六。襄邑・北京・澶・陳・壽・汝・曹・宿に各二、咸平・西京・南京・亳・甯・洪・河陰・鞏・長葛・韋城に各一。

原文勇捷太平興國四年,征太原立,分左、右廂,以諸州庫兵補左廂,廣濟、開山兵補右廂。指揮二十六。襄邑、北京、澶、陳、壽、汝、曹、宿各二,咸平、西京、南京、亳、甯、洪、河陰、鞏、長葛、韋城各一。

威武は太平興國四年、太原征討に際し設立、左・右廂に分け、江南の歸化兵を以て左廂を補い、両浙の順化兵を以て右廂を補った。大中祥符五年、また下威武を立てた。合わせて指揮十三。西京・河陽・鄭・鄆・澶・滑・濮・通利・鞏・河陰・永城に各一、曹に二。

原文威武太平興國四年,征太原立,分左、右廂,以江南歸化兵補左廂,兩浙順化兵補右廂。大中祥符五年,又立下威武。共指揮十三。西京、河陽、鄭、鄆、澶、滑、濮、通利、鞏、河陰、永城各一,曹二。

靜戎弩手は江南の歸化兵及び諸州の廂兵の壮実なる者を選抜して設立。指揮四。河陽・澶・衛・通利に各一。

原文靜戎弩手選江南歸化兵及諸州廂兵壯實者立。指揮四。河陽、澶、衛、通利各一。

平塞弩手は本来両浙順化軍で、その強壮なる者を選抜して弩手とし、また江・浙の官物を逋負して窯務の徒役に隷する者を以て揀中平塞とした。指揮四。咸平・亳・河陽・白波に各一。

原文平塞弩手本兩浙順化軍,揀其強壯立爲弩手,又以江、浙逋負官物隸窯務徒役者爲揀中平塞。指揮四。咸平、亳、河陽、白波各一。

新立弩手は本来勁勇兵で、太平興國年間、その弩に巧みなる者を選抜して設立。指揮一。廣済に駐屯す。

原文新立弩手本勁勇兵,太平興國中,選其善弩者立。指揮一。廣濟。

忠勇は咸平五年、易州の兵で賊を擒える能ある者を以て設立。指揮一。成都に駐屯す。

原文忠勇咸平五年,以易州兵能禽賊者立。指揮一。成都。

甯遠軍は大中祥符六年に、西川の克寧・威棹の兵を選抜して設置された。旧来の指揮は五つ、皇祐及び至和年間に増設して八つとなった。戎州に三つ、遂州・梓州・嘉州・雅州・江安軍に各一つ。

原文甯遠大中祥符六年,選西川克寧、威棹兵立。舊指揮五,皇祐及至和中,增置爲八。戎三,遂、梓、嘉、雅、江安各一。

忠節軍は太平興國三年に、諸州の廂軍のうち強壮な者を選抜して設置された。淳化四年に、また川峽の威棹・克寧の兵を選抜して川忠節軍とした。旧来の指揮は二十四、後に教閲忠節を増設し総計六十となった。雍丘・襄邑・寧陵に各三つ、陳留・咸平・東明・亳州・河陰・永城に各二つ、南京に五つ、太康・陽武・許州・江寧・揚州・廬州・宿州・壽州・楚州・真州・泗州・泰州・滁州・岳州・澧州・池州・歙州・信州・太平州・饒州・宣州・洪州・虔州・吉州・臨江軍・興國軍・廣濟軍・南康軍・廣徳軍・長葛に各一つ、合流に四つ。

原文忠節太平興國三年,選諸州廂軍之強壯者立。淳化四年,又選川峽威棹、克寧兵立爲川忠節。舊指揮二十四,後增教閱忠節總爲六十。雍丘、襄邑、寧陵各三,陳留、咸平、東明、亳、河陰、永城各二,南京五,太康、陽武、許、江寧、揚、廬、宿、壽、楚、真、泗、泰、滁、岳、澧、池、歙、信、太平、饒、宣、洪、虔、吉、臨江、興國、廣濟、南康、廣德、長葛各一,合流四。

神威軍は咸平三年に、京師の諸司庫務の兵を選抜して設置された。上下指揮十三。陳留に三つ、許州・鞏縣に各二つ、雍丘・考城・咸平・河陽・廣濟・白波に各一つ。

原文神威咸平三年,選京師諸司庫務兵立。上下指揮十三。陳留三,許、鞏各二,雍丘、考城、咸平、河陽、廣濟、白波各一。

歸遠軍は雍熙三年に、王師が北征して飛狐・靈丘を抜き、その降卒を得て設置された。咸平二年に、諸州の雑犯兵を選抜して増員した。旧来の指揮は三つ、天聖年間に増設して十六となった。陳州・許州・亳州・壽州・宿州・鄧州・襄州・鼎州に各一つ、荊南府・澧州・潭州・洪州に各二つ。

原文歸遠雍熙三年,王師北征,拔飛狐、靈丘,得其降卒立,咸平二年,選諸州雜犯兵增之。舊指揮三,天聖中,增置爲十六。陳、許、亳、壽、宿、鄧、襄、鼎各一,荊南、澧、潭、洪各二。

雄略軍は咸平六年に、諸州の廂兵及び香薬遞鋪の兵を選抜して設置された。旧来の指揮は十五、皇祐五年に増設して二十五となった。荊南府に五つ、潭州に四つ、鼎州・澧州に各二つ、廣州・辰州・桂州に各二つ、許州・全州・邵州・容州に各一つ。

原文雄略咸平六年,選諸州廂兵及香藥遞鋪兵立。舊指揮十五,皇祐五年,增置爲二十五。荊南五,潭四,鼎、澧各二,廣、辰、桂各二,許、全、邵、容各一。

威猛軍は咸平三年に、諸州の廂兵及び募集した者を選抜して設置された。上下指揮十。襄邑に四つ、咸平・許州・長葛に各二つ。

原文威猛咸平三年,選諸州廂兵及召募者立。上下指揮十。襄邑四,咸平、許、長葛各二。

神銳軍は咸平六年に、河東の兵を選抜して設置された。大中祥符五年に、本軍及び神虎軍のうち年配の者を帯甲剩員とした。指揮二十六。太原に六つ、潞州・晉州に各三つ、澤州・汾州・隰州・平定軍に各二つ、代州・絳州・忻州・遼州・邢州・威勝軍に各一つ。

原文神銳咸平六年,料簡河東兵立。大中祥符五年,以本軍及神虎兵年多者爲帶甲剩員。指揮二十六。太原六,潞、晉各三,澤、汾、隰、平定各二,代、絳、忻、遼、邢、威勝各一。

神虎軍は咸平五年に、陝西の州兵馬を選抜して設置された。六年に、また河東の州兵を選抜して設置し、西路の河東兵をもってこれに充てた。指揮二十六。永興に六つ、鳳翔・河中・忻州・晉州・威勝軍に各二つ、太原・秦州・延州・鄜州・華州に各一つ、潞州に三つ。

原文神虎咸平五年,選陝西州兵馬立。六年,又料簡河東州兵立,以西路河東兵之。指揮二十六。永興六,鳳翔、河中、忻、晉、威勝各二,太原、秦、延、鄜、華各一,潞州三。

保捷軍は咸平四年に、詔して陝西沿辺の郷丁保毅を選抜して昇格充填させた。旧来の指揮は四十五、慶曆年間に、郷弓手を選抜して増設し、総計一百三十五となった。永興に十二、同州に九、秦州に八、河中・汾州・涇州に各七、渭州・寧州・耀州に各六、鳳翔・延州・儀州・華州・隴州・解州・乾州に各五、陝州・原州・鄜州に各四、成州に三、慶州・鳳州・坊州・晉州・鎮戎軍に各二、環州・丹州・商州・虢州・階州・慶成軍・徳順軍に各一つ。

原文保捷咸平四年,詔陝西沿邊選鄉丁保毅升充。舊指揮四十五,慶曆中,揀鄉弓手增置,總一百三十五。永興十二,同九,秦八,河中、汾、涇各七,渭、寧、耀各六,鳳翔、延、儀、華、隴、解、乾各五,陝、原、鄜各四,成三,慶、鳳、坊、晉、鎮戎各二,環、丹、商、虢、階、慶成、德順各一。

振武軍は旧来の指揮四十、慶曆以後、河北で増設して指揮四十二、陝西で増設して指揮三十九となり、総計八十一。北京・澶州・相州・懷州・衛州・霸州・莫州・祁州・棣州・趙州・濱州・洺州・保安軍・永寧軍・通利軍・安肅軍・儀州に各一つ、真定府・定州・瀛州・保州・恩州・邢州・深州・博州・永靜軍・乾州・寧陵・涇州に各二つ、延州に六つ、邠州・隴州に各七つ、鄜州・寧州に各五つ、磁州に四つ、滄州・原州に各三つ。

原文振武舊指揮四十,慶曆後,河北增置爲指揮四十二,陝西增置爲指揮三十九,總八十一。北京、澶、相、懷、衛、霸、莫、祁、棣、趙、濱、洺、保安、永寧、通利、安肅、儀各一,真定、定、瀛、保、恩、邢、深、博、永靜、乾、寧陵、涇各二,延六,邠、隴各七,鄜、寧各五,磁四,滄、原各三。

橋道軍は太平興國三年に、諸州の廂兵の次等の者を選抜して設置された。淳化四年に、また川峽の威棹・克寧を選抜して川橋道軍とした。総指揮十八。襄邑・咸平・陽武に各二つ、陳留・東明・尉氏・太康・西京・河陽・濮州・鄆州・鞏縣・河陰・白波・寧陵に各一つ。

原文橋道太平興國三年,選諸州廂兵次等者立。淳化四年,又選川峽威棹、克寧爲川橋道。總指揮十八。襄邑、咸平、陽武各二,陳留、東明、尉氏、太康、西京、河陽、濮、鄆、鞏、河陰、白波、寧陵各一。

清塞軍は太平興國初年に設置された。左・右廂、旧来の指揮二十三、嘉祐年間に併合して十三となった。曹州に二つ、鄭州・鄆州・滑州・通利軍・鞏縣・河陰・白波・汜水・長葛に各一つ。

原文清塞太平興國初立。左、右廂,舊指揮二十三,嘉祐中並爲十三。曹二,鄭、鄆、滑、通利、鞏、河陰、白波、汜水、長葛各一。

招收軍は端拱年間に、通州大沙洲の賊衆を捕獲して設置され、欠員は江・浙で招致した海賊で補充した。また端拱年間の逃亡兵で帰還した者を収容し、その罪を赦して徳壽軍とし、後に今の名に改め、保州巡検司に隷属させた。慶曆初年に禁軍に昇格し、指揮十七となった。保州に四つ、霸州・信安軍に各三つ、定州・軍城砦に各二つ、廣信軍・安肅軍・順安軍に各一つ。

原文招收端拱中,獲通州大沙洲賊衆立,缺則以江、浙招致海賊補之。又收端拱中逃軍來復者,原其罪爲德壽軍,後改今名,隸保州巡檢司,慶曆初,升禁軍,爲指揮十七。保四,霸、信安各三,定、軍城砦各二,廣信、安肅、順安各一。

壯勇軍は本来、捕獲した群盗で近京に配流服役させた者を選抜して設置され、咸平三年に諸雑犯兵を選抜して増員した。至道三年に、江・浙発運使楊允恭が捕らえた海賊を闕下に送り増補したが、まもなく廃止された。旧来の指揮は三つ、慶曆年間に増設して七つとなった。耀州・解州・滑州に各二つ、許州に一つ。

原文壯勇本招獲群盜配近京徒役者揀拔立,咸平三年,選諸雜犯兵增之。至道三年,江、浙發運使楊允恭禽海賊送闕下增補,旋廢。舊指揮三,慶曆中,增置爲七。耀、解、滑各二,許一。

宣效軍は咸平三年に、六軍・窯務・軍営務・天駟監の効役・店宅務・州兵を選抜して設置された。景德元年に、また本軍の材勇ある者を選抜して揀中宣效軍とした。旧来の指揮は五つ、後に減じて二つとなった。京師に置かれた。

原文宣效咸平三年,選六軍、窯務、軍營務、天駟監效役、店宅務、州兵立。景德元年,又揀本軍材勇者爲揀中宣效。舊指揮五,後損爲二。京師。

来化雍熙年間、飛狐・霊丘の帰附の衆を以て立て、また朔州の内附牽擺兵を以て立て、後に廃す。旧指揮三、後に損じて二となる。寧陵。

原文來化雍熙中,以飛狐、靈丘歸附之衆立,又以朔州內附牽擺兵立,後廢。舊指揮三,後損爲二。寧陵。

帰恩雍熙年間、平塞の辺境に陥ちた民で黥面して放還された者を以て立て、家族有る者は左廂に隷し、無き者は右廂に隷す。指揮二。亳。

原文歸恩雍熙中,平塞陷邊之民黥面放還立,分有家屬者隸左廂,無者隸右廂。指揮二。亳。

順化太平興国三年、両浙の兵の次等の者を以て立てる。指揮二。河陽・鄆各一。

原文順化太平興國三年,以兩浙兵之次等者立。指揮二。河陽、鄆各一。

左右清衛大中祥符八年に立て、諸宮観の灑掃の役を奉ぜしむ。指揮二。此より以下強壮軍員に至る凡そ八軍、天聖以後無し。

原文左右清衛大中祥符八年立,以奉諸宮觀灑掃之役。指揮二。此下至強壯軍員凡八軍,天聖後無。

川員僚直本は西蜀の賊全師雄の署した将領、乾徳年間に立てる。

原文川員僚直本西蜀賊全師雄所署將領,乾德中立。

造船務乾徳初年、荊湖を平らげ、其の軍の舟楫を善く治むる者を選びて立てる。

原文造船務乾德初,平荊湖,選其軍善治舟楫者立。

帰明羽林太平興国四年、幽州を征し、其の兵を獲て立てる。

原文歸明羽林太平興國四年,征幽州,獲其兵立。

新立清河は河に沿って旧に鋪兵を置きて河の決壊に備え、後に揀閲して立てる。指揮二。

原文新立清河緣河舊置鋪兵以備河決,後揀閱立。指揮二。

保甯大中祥符元年、馬歩軍都虞候王超、病軍にして経行陣の者を以て立てんことを請う。

原文保甯大中祥符元年,馬步軍都虞候王超請以病軍經行陣者立。

新立帰化開宝七年、江南の李従善の領する部曲水軍を以て立て、八年、江南を平らげ、また降兵を以て之を増す。指揮一。

原文新立歸化開寶七年,以江南李從善所領部曲水軍立,八年,平江南,又以降兵增之。指揮一。

強壮軍員咸平六年に置く。指揮一。

原文強壯軍員咸平六年置,指揮一。

澄海弩手慶暦二年に置き、海州都巡検司に隷す。指揮二。登。此より以下武厳に至る凡そ十三軍。

原文澄海弩手慶曆二年置,隸海州都巡檢司。指揮二。登。此下至武嚴凡十三軍。

捉生延州の廂兵、天聖五年に禁軍に昇る。指揮二。

原文捉生延州廂兵,天聖五年升禁軍,指揮二。

清辺弩手宝元初年、陝西・河東の廂軍の伉健なる者を選びて置き、弩手と名づく。指揮四十三。太原九、秦五、涇四、河中・隴各三、永興・代・潞・晉各二、慶・環・滑・同・坊・鎮戎・慈・丹・隰・汾・憲各一。

原文清邊弩手寶元初,選陝西、河東廂軍之伉健者置,以弩手名。指揮四十三。太原九,秦五,涇四,河中、隴各三,永興、代、潞、晉各二,慶、環、滑、同、坊、鎮戎、慈、丹、隰、汾、憲各一。

制勝陝西の廂兵、慶暦年間、禁軍に昇る。指揮九。永興・華各二、鳳翔・耀・同・解・乾各一。

原文制勝陝西廂兵,慶曆中,升禁軍。指揮九。永興、華各二,鳳翔、耀、同、解、乾各一。

定功陝西廂軍は、慶曆四年に禁軍に昇格し、増設されて指揮十となった。永興・秦・慶・原・渭・涇・儀・鄜・延・鎮戎に各一ずつ置かれた。

原文定功陝西廂軍,慶曆四年,升禁軍增置,爲指揮十。永興、秦、慶、原、渭、涇、儀、鄜、延、鎮戎各一。

清澗は慶曆初年に、その地の精悍な土人を募って充て、地名に因んで命名された。指揮二。

原文清澗慶曆初,募土人精悍者充,因其地名。指揮二。

建威は秦州の廂兵で、慶曆八年に禁軍に昇格した。指揮一。

原文建威秦州廂兵,慶曆八年升禁軍。指揮一。

效勇は景祐年間に、川峡の流民を募って増設され、指揮二十七となった。陳留に三、太康・尉氏・襄邑・河陽・曹・合流に各二、咸平・鄭・亳・衛・許・単・澶・磁・広済・河陰・寧陵・白波に各一ずつ置かれた。

原文效勇景祐中,募川峽流民增置,爲指揮二十七。陳留三,太康、尉氏、襄邑、河陽、曹、合流各二,咸平、鄭、亳、衛、許、單、澶、磁、廣濟、河陰、甯陵、白波各一。

宣毅は慶曆年間に、京東・京西・河北・河東・淮南・江南・両浙・荊湖・福建の九路で健勇を募るか、あるいは廂軍を選抜して編成された。指揮二百八十八、治平年間には百七十四を管轄した。京東路:南京・鄆・徐・曹・斉に各二、青・兗・密・濮・沂・単・済・淄・萊・濰・登・淮陽・広済に各一。京西路:西京・滑・許・河陽・陳・襄・鄭・潁・蔡・汝・随・信陽に各一、鄧に二。河北路:真定・徳・棣・博・邢・祁・恩・磁・深・定・濱・通利・永静・乾寧に各一。河東路:太原・汾に各六、晋に四、澤・絳・石・代に各三、潞・嵐・忻・遼・威勝・平定に各二、慈・隰・寧化に各一。淮南路:揚・亳に各二、廬・宿・寿・楚・真・泗・蘄海・舒・泰・濠・和・光・黄・通・無為・高郵・漣水に各一。江南路:江寧・洪・虔・吉・撫・袁・筠・建昌・南安に各一。両浙路:杭に二、越・蘇・明・湖・婺・潤・溫・衢・常・秀・処に各一。荊湖路:潭・全・鼎に各三、荊南・邵・衡・永・郴・道・安・鄂・岳・澧・復・峡・帰・辰・荊門・漢陽・桂陽に各一。福建路:建に二、泉・南剣・漳・汀・邵武・興化に各一。

原文宣毅慶曆中,京東、京西、河北、河東、淮南、江南、兩浙、荊湖、福建九路募健勇或選廂軍爲之。指揮二百八十八,至治平中,管一百七十四。京東路:南京、鄆、徐、曹、齊各二,青、兗、密、濮、沂、單、濟、淄、萊、濰、登、淮陽、廣濟各一;京西路:西京、滑、許、河陽、陳、襄、鄭、潁、蔡、汝、隨、信陽各一,鄧二。河北路:真定、德、棣、博、邢、祁、恩、磁、深、定、濱、通利、永靜、乾寧各一。河東路:太原、汾各六,晉四,澤、絳、石、代各三,潞、嵐、忻、遼、威勝、平定各二,慈、隰、寧化各一。淮南路:揚、亳各二,廬、宿、壽、楚、真、泗、蘄海、舒、泰、濠、和、光、黃、通、無爲、高郵、漣水各一。江南路:江甯、洪、虔、吉、撫、袁、筠、建昌、南安各一。兩浙路:杭二,越、蘇、明、湖、婺、潤、溫、衢、常、秀、處各一。荊湖路:潭、全、鼎各三,荊南、邵、衡、永、郴、道、安、鄂、岳、澧、復、峽、歸、辰、荊門、漢陽、桂陽各一。福建路:建二,泉、南劍、漳、汀、邵武、興化各一。

宣毅床子弩炮手は慶曆年間に設置された。指揮一。岢嵐に置かれた。

原文宣毅床子弩炮手慶曆中置。指揮一。岢嵐。

建安は府州の廂兵で、慶曆二年に禁軍に昇格した。指揮二。府州・嵐州に各一ずつ置かれた。

原文建安府州廂兵,慶曆二年升禁軍。指揮二。府、嵐各一。

威果は嘉祐四年に設置され、指揮二十五となった。荊南・江寧・杭・揚・廬・潭に各三、洪・越・福に各二、虔に一ずつ置かれた。

原文威果嘉祐四年置,指揮二十五。荊南、江甯、杭、揚、廬、潭各三,洪、越、福各二,虔一。

武嚴は指揮一。京師に置かれた。

原文武嚴指揮一。京師。

御前忠佐軍頭司には、馬歩軍都軍頭・副都軍頭、馬軍都軍頭・副都軍頭、歩軍都軍頭・副都軍頭がいる。その管轄する散員には、副指揮使・軍使・副兵馬使・十将がある。馬歩直は指揮使以下、すべて殿前司の制度と同じである。

原文御前忠佐軍頭司馬步軍都軍頭、副都軍頭,馬軍都軍頭、副都軍頭,步軍都軍頭、副都軍頭。其所轄散員,有副指揮使、軍使、副兵馬使、十將。馬步直自指揮使而下,皆如殿前司之制。

御前忠佐散員は本来、許州の員僚剩員であり、淳化年間に軍頭司散員一班として立てられた。また、五代以来、軍校で功績を立てながら官署に収容する余地のない者は、ただ諸校と同様に飲食させるのみで、健飯都指揮使と称したが、後には罪を被った者のみがここに居た。大中祥符二年、散指揮使と改称された。班一。

原文御前忠佐散員本許州員僚剩員,淳化中,立爲軍頭司散員一班。又五代以來,軍校立功無可門署者,第令與諸校同其飲膳,名健飯都指揮使,後唯被譴者居此。大中祥符二年,改爲散指揮使。班一。

馬直は雍熙四年に設置された。指揮一。

原文馬直雍熙四年置,指揮一。

歩直は端拱元年に設置された。指揮一。

原文步直端拱元年置,指揮一。

備軍は一千九百六十人。

原文備軍一千九百六十人。

皇城司親従官は太平興国四年に、親事官のうち材勇ある者を分けてこれに充て、諸殿の洒掃および契勘巡察の事を担当させた。指揮三。

原文皇城司親從官太平興國四年,分親事官之有材勇者爲之,給諸殿灑掃及契勘巡察之事。指揮三。

入内院子は天聖元年、親事官のうち年長なる者を選抜してこれに充てる。九年、輦官のうち六十歳以上の者を選抜して充てる。治平二年、詔して五百人を定員とす。

原文入內院子天聖元年,揀親事官年高者爲之。九年,選輦官六十以上者充。治平二年,詔以五百人爲額。

騏驥院騎御馬直は太平興国二年に設置し、左右の番に分つ。八年、二直に分つ。その後、八直を増置す。

原文騏驥院騎御馬直太平興國二年置,分左右番。八年,分爲二直。其後增置八直。

左右教駿(旧名は左右備征、建隆二年に改称)は指揮四。

原文左右教駿舊名左右備征,建隆二年改。指揮四。