宋史

志第一百四十  兵一

宋の兵制は、おおよそ三つがある。天子の衛兵は、京師を守り征戍に備えるものを禁軍と曰い、諸州の鎮兵は、役使に分給するものを廂軍と曰い、戸籍より選び或いは応募し、之を団結訓練して在所の防守と為すものは、則ち郷兵と曰う。また蕃兵あり、其の法は国初に始まり、塞下に籍を具えて団結し藩籬の兵と為す。其の後、隊伍を分かち旗幟を与え、営堡を繕い器械を備え、一律に郷兵の制に依る。今、旧史に因りて『兵志』を纂修するに当たり、特に熙寧保甲の前に置き、而して之を郷兵に附す。

其の軍政には、則ち召募・揀選・廩給・訓練・屯戍・遷補・器甲・馬政の八つの項目あり、条分して之を著し、以て歴朝の因革損益の同じからざるを見せ、而して世道の盛衰も亦た是に具わる。

嗟乎、三代は遠し。秦・漢而下、兵を農に寓するの遺意を得るは、惟だ唐の府衛を以て之に近し。府衛変じて召募と為り、因循姑息し、藩鎮の盛んなるに至りて唐以て亡ぶ。更に五代を歴て、乱亡相踵ぎ、兵に由らざるは莫し。太祖、戎行より起りて天下を有ち、四方の勁兵を収め、京畿に営を列ねて以て宿衛に備え、番を分かち屯戍して以て辺圉を捍ぐ。時に将帥の臣は朝請に奉じ、獷暴の民は尺籍に収隷せしめ、桀驁恣肆する有りと雖も、而して其の間に施す所無し。凡そ其の制は、什長の法、階級の辨を為し、之をして内外相維ぎ上下相制せしめ、截然として犯すべからざらしむるは、是れ累朝藩鎮の弊を矯うるを以てするに雖も、而して其の懲る所深し。

咸平以後、承平既に久しく、武備漸く寬ぐ。仁宗の世、西兵の招刺太多く、将驕り士惰り、徒らに国用を耗し、憂世の士屡以て言うも、竟に之を改むる莫し。神宗奮然更制し、ここに其の民を聯比して保甲と為し、諸路を部分して将兵に隷せしむ。弊を尽く拯う能わざると雖も、而も亦た以て一時の気を作すに足る。時に其の任ずる者は、王安石なり。元祐・紹聖は成憲を遵守す。迨うに崇寧・大観の間、額を増すこと日広くして精銳乏しく、故に靖康の変に益する無し。時に其の任ずる者は、童貫なり。建炎南渡し、潰卒を収め群盗を招き、以て元帥府を開く。其の初め兵満たず萬、張・韓・劉・岳を将と為して軍声振う。秦檜和議を主るに及び、士気遂に沮む。孝宗興復を志すも而も能わず。光・寧以後、募兵衆しと雖も、土宇日蹙し、況んや上に将を馭するの術無く、而して将に中制の嫌有り。然れども沿辺諸壘は、尚能く戮力效忠し、相与に維持して百五十年に至りて後に亡ぶ。其の祖宗の深仁厚澤人心を固結する有るに雖も、而して兵を制するに道有り、綜理の周密なる、此に於ても亦た見るべし。

禁兵は、天子の衛兵なり、殿前・侍衛の二司之を総ぶ。其の最も親近扈従する者は、諸班直と号し、其次は御前忠佐軍頭司・皇城司・騏驥院に総ぶ。余は皆以て京師を守り征伐に備う。其の外に在る者は、屯駐・屯泊に非ざれば、則ち就糧軍なり。太祖前代の失を鑒み、精銳を京師に萃め、旧制を増損すと曰うと雖も、而して規模巨集遠なり。

建隆元年、詔して殿前・侍衛二司各其の掌る兵を閲し、其のぎょう勇なるを揀びて上軍に升め、老弱怯懦なるを剩員に置き以て之を処せしむ。詔して諸州長吏に其の部の兵を選び都下に送り、以て禁旅の闕を補わしむ。又強壮の卒を選び兵様と定め、諸道に分送す。其の後、木梃を以て代え、高下の等を為し、諸州軍に散給す。長吏・都監等に委ねて召募教習せしめ、其の精練するを俟ちて即ち闕下に送らしむ。二年、左右雄捷・左右驍武軍を改めて並びに驍捷と為し、左右備征を雲騎と為し、左右平遠を広捷と為し、左右懷德を懷順と為す。四年、河東楽平県の帰降卒元威以下二百六十六人に衣服・錢絹を差等有りて賜い、效順指揮を立てしむ。

乾德二年、詔して遼州降軍は宜しく效順・懷恩を以て名と為すべし。三年四月、詔して西川感化・耀武等軍を改めて並びに虎捷と為す。九月、上講武殿に御し諸道の兵を閲し、萬余人を得、騎兵を以て驍雄と為し、歩軍を以て雄武と為し、並びに侍衛司に隷せしめ、且つ王継勳をして之を主らしめ、緡錢を与えて妻を娶らしむ。継勳之を縦して白日に人妻女を掠めしむ、街使禁ずる能わず。帝聞きて大いに怒り、捕え斬る者百人、小黄門閻承翰見て奏せざるも、亦た数十を杖す。

開宝七年、泰寧軍節度使李従善の部下及び江南水軍凡そ千三十九人、並びに面にげいし籍に隷し、帰化・帰聖を以て額と為す。

太平興国二年、詔して簇御馬直を改めて簇御龍直と曰い、鐵騎を日騎と曰い、龍捷を龍衛と曰い、控鶴を天武と曰い、虎捷を神衛と曰い、骨䤪子直を御龍骨朵子直と曰い、寬衣控鶴を寬衣天武と曰い、雄威を雄勇と曰い、龍騎を雄猛と曰う。八年、濮州平海指揮を改めて崇武と為す。

雍熙四年、殿前司日騎𨧱直指揮を改めて捧日𨧱直と為し、日騎を捧日と改め、驍猛を拱辰と改め、雄勇を神勇と改め、上鐵林を殿前司虎翼と改め、腰弩を神射と改め、侍衛歩軍司鐵林を侍衛司虎翼と改む。

至道元年、帝禁兵を閲し、強弩を挽きて一石五斗に至り、二十発を連ねて余力有る者あり、顧みて左右に謂いて曰く、「今宇内阜安し、材武間出し、弧矢の妙も亦た近代に罕有なり」と。又騎歩兵各数百を令し、東西に陣を列ね、強弩を挽き彀い、其の進退発矢一なるを視、容止節に中る。因りて曰く、「此れ殿庭の間数百人爾り、猶お兵威観るべし、況んや堂堂の陣数萬列を成す者をや」と。

咸平三年、詔して定州等処の本城廳子・無敵・忠銳・定塞指揮は、已に並びに禁軍馬軍雲翼指揮に升充せり、逐州軍に依り就糧し、侍衛馬軍司に管轄せしむ。定州揀中廳子第一は雲翼第一に充て、第二は雲翼第二に充つ。相州廳子第一は雲翼第三に充て、第二は雲翼第四に充つ。保州無敵第一は雲翼第五に充て、第二は雲翼第六に充ち、忠銳は雲翼第七に充つ。威勇軍無敵第一は雲翼第八に充て、第二は雲翼第九に充ち、忠銳は雲翼第十に充つ。靜戎軍無敵は雲翼第十一に充つ。寧邊軍無敵は雲翼第十二に充つ。北平塞無敵は雲翼第十三に充つ。深州無敵は雲翼第十四に充つ。北面諸処応管本城・定塞指揮已下は鎮定州・高陽関路都総管に並びに充て、禁軍馬軍雲翼指揮と為す。才に升立訖るを候ち、逐指揮員兵士人数・就糧州府・本指揮見在去処を分析して以て聞かしむ。

四年、詔して陝西沿辺の州軍の兵士で先に選抜された者は、皆禁軍に昇格させ、名を保捷とせしむ。五年正月、広捷兵士五指揮を置く。五月、命じて使臣を分かち邠・寧・環・慶・涇・原・儀・渭・隴・鄜・延等州に往かしめ、保安・保毅軍内において、各処の官吏とともに有力なる者を選び取り合わせて二万人とし、各々本州に営を置き、禁軍に昇格させ、号して振武指揮と曰う。既にして帝曰く、「辺防に兵を欠き、朝廷須らく制置を為すは、蓋し已むを得ざるなり。辺鄙の乂寧を俟ちて、即ち銷弭すべし」と。六月、河東の州兵を以て神鋭二十四指揮・神虎十指揮と為し、又石州の廳子軍を禁軍に昇格させ、更に威虎十指揮を虎翼に隷属せしむ。

景德四年、詔して河東の広鋭・神鋭・神虎軍は現存するをもって定額とし、欠員あればこれを補うべしと。

大中祥符元年、詔して侍衛歩軍司に保寧軍士を閲し、四等に分かたしむ。その第一等は営を亳州永城県に移し、余りは農に帰るを聴す。家に帰る可き無き者は、諸州に隷して剩員と為す。四年、永安県の永安指揮兵八千余人を以て諸陵に奉ぜしむることを宣示す。その軍額は猶西京本城廂軍に隷すも、名を奉先指揮と賜うべく、禁軍に昇格し、清塞の下に置く。八年、禁軍左右清衛二指揮を置き、雄武弩手の上に在らしめ、散卒には月に鉄銭五百を給し、以て宮観に奉ぜしむ。

仁宗即位す。海内承平なりしも、武備に留神し、始めて安肅教場に幸し飛山雄武の発砲を観、捧日・天武・神衛・虎翼の四軍に命じて戦陣の法を為さしめ、その撃刺騎射の精なる者を抜擢し、稍々遷補す。天聖より宝元の間に至り、諸軍を増募す。陝西蕃落・広鋭、河北雲翼、京畿広捷・虎翼・効忠、陝西・河東清辺弩手、京西・江・淮・荊湖帰遠、総じて百余営。

康定の初め、趙元昊反す。西辺兵を用う。詔して神捷兵を募り、名を万勝と易え、営二十と為す。募るところ多くは市井の選愞にして、戦守に備うるに足らず。この時、禁兵多くは陝西に戍し、辺境に並ぶ土兵は等に及ばざるも、然れども驍勇にして戦に善し。京師より遣わされ戍る者は、魁頭と称すれども、大率辛苦に耐えず、而して鋒を摧き陣を陷るはその長とする所に非ず。又北兵の戍り川峡・荊湘・嶺嶠の間に及ぶ者は、多く水土に便習せず。故に議者は益々土兵を募り就糧と為さんことを欲す。ここにおいて陝西蕃落・保捷・定功、河北雲翼・有馬勁勇、陝西・河北振武、河北・京東武衛、陝西・京西壮勇、延州青澗、登州澄海弩手を増置し、京畿近郡も亦た龍騎・広勇・広捷・虎翼・歩闘・歩武を増募し、復た河北招收・無敵・廳子馬、陝西制勝、へい州克戎・騎射、麟州飛騎、府州威遠、秦州建威、慶州有馬安塞、保州威辺、安肅軍忠鋭、嵐・府州建安、登州平海を昇格し、皆禁兵と為し、内外の馬歩凡そ数百営を増す。又京東西・河北・河東・江・淮・荊湖・両浙・福建路各々宣毅を募り、大州は二営、小州は一営、凡そ二百八十八。岢嵐軍は別に床子弩砲手を置く。時に吏は募る所の多寡を以て賞罰の格と為し、諸軍の子弟は悉く隷籍を聴す。禁軍の闕額多くは本城を選び補填す。故に慶暦の中外禁・廂軍総計一百二十五万、国初に視て最も多し。西師既に罷み、上は兵の冗なるを患い、帑庾以て給する能わず、乃ち詔して兵数万人を省く。

皇祐二年、川峡に寧遠を増置す。五年、江・淮・荊湖に教閲忠節を置き、州一営、大州は五百人、小州は三百人。ここにおいて宣毅は浸く廃れて復た補わず、而して荊湖・広南は益々雄略を募る。至和二年、広・桂・邕州に有馬雄略を置く。明年、万勝と併せて十営と為す。その後、議者謂う、東南は事無きと雖も、備えを弛すべからずと。嘉祐四年、乃ち詔して荊南・江寧府・揚・廬・洪・潭・福・越州に就糧軍を募り、号して威果と曰い、各々本州に営す。又益々禁軍を遣わし駐泊せしめ、長吏に本路兵馬鈐轄を兼ねさせ、武臣を選び都監と為し、専ら訓練を主とす。ここにおいて東南稍々備え有り。

七年、宰相韓琦言う。

祖宗は兵を以て天下を定め、凡そ征戍有れば則ち募置し、事已れば則ち併せしむ。故に兵は日々精にして用ひ広からず。今二辺は号して通好と雖も、而して西北に辺を屯する兵は、常に敵の至るを待つが若し。故に天下の力を竭くすも而して給する能わず。この時に於いて先ず慮りてめ之を備えざれば、一旦辺陲兵を用うるに、水旱相継ぎ、卒然に起ちて之を図るも、及ぶべからず。

又三路の就糧の兵は勇勁服習すと雖も、然れども辺儲貴踴し、常に贍い難きを苦しむ。若し其の数過多なれば、復た尾大掉わざるの患い有り。京師の兵は雑且つ精少なれども、然れども東南より漕ぎ、広くして易く供設す。其の数多きは、強幹弱枝の勢を得たり。祖宗の時、就糧の兵は甚だ多からず、辺陲事有れば、則ち京師の兵を以て之を益す。其の慮り深くして其の費鮮し。願わくは詔して枢密院に三司とともに河北・陝西・河東及び三司榷貨務の歳入金帛の数を量り、約して京師及び三路の兵馬幾何を贍う可きかを約し、然る後に以て贍う可き数を以て定額を立てしめん。額外は募を罷め、闕有れば即ち増補す。額外の数已に尽きて営畸零なれば、則ち省併す。既に定額を見れば、則ち以て其の路の馬歩軍一営、若干を以て額と為すを定むる可し。仍って請う、開宝・至道・天禧・慶暦の中外兵馬の数を核見せんことを。蓋し開宝・至道の兵は、太祖・太宗の以て天下を定め四方を服せしむる所なり。天禧の兵は、真宗の以って成を守り豫に備うる所なり。慶暦の兵は、西師の後に増置せし数のなり。祖宗の兵を以て、今の数の多少を視れば、則ち精冗判然とし、裁制疑い無からん。

ここにおいて詔して中書・枢密院に同議せしむ。枢密院奏す。開宝の籍は総計三十七万八千、而して禁軍馬歩十九万三千。至道の籍は総計六十六万六千、而して禁軍馬歩三十五万八千。天禧の籍は総計九十一万二千、而して禁軍馬歩四十三万二千。慶暦の籍は総計一百二十五万九千、而して禁軍馬歩八十二万六千。前に募りし所に視て後浸く多し。是より稍々裁制を加え、以て定額と為す。

英宗即位す。詔して諸道に軍士で弓二石・弩四石五斗を引き得る者を選び京師に送り閲試せしめ、第に軍額を昇ぜしむ。明年、万勝を併せて神衛と為す。三年、京師に雄武第三軍を置く。時に宣毅は僅かに存する者有るも、然れども数詔して諸路に廂軍の壮勇なる者を選び禁衛を補わしめ、而して其の老弱なる者を退けしむ。蓋し治平の兵一百十六万二千、而して禁軍馬歩六十六万三千という。

熙寧元年十二月、詔を下す。「京東武衛四十二指揮は全て河北都総管司に分属させ、六指揮は大名府路に、三十六指揮は均等に定州・高陽関の両路に分属させて更戍に当たらせる。休番の者は、兵官三人を選差し、河北教閲新法に依って訓練させ、更に使臣を差して監督・教習させる。」また詔して、京東路に河北の流民を募り、教閲廂軍二十指揮を招置し、忠果をその額とせしむ。青・鄆・淄・斉州に各三指揮、済・兗・曹・濮州に各二指揮。

三年十二月、枢密使文彦博らが在京・開封府界及び京東等路の禁軍の数を上奏し、帝もまた治平年間の兵数を参照して検討された。そこで詔す。殿前虎翼は水軍一指揮を除き、六十指揮を存置し、各五百人を定員とし、総計三万四百人。在京では広勇五指揮を増設し、合わせて二千人。開封府界は六万二千人、京東五万一千二百人、両浙四千人、江東五千二百人、江西六千八百人、湖南八千三百人、湖北一万二千人、福建四千五百人、広南東・西千二百人、川峡三路四千四百人を定員と定む。在京のその他の指揮及び河東・陝西・京西・淮南路は既に全て撥併されたが、ただ河北のみ人数が尚多かったため、詔して禁軍を七万を定員とす。初め、河北の兵籍は諸路に比べて多く、その辺縁に沿う者は且つ三司の供給に頼っていたが、この時に至って零余を撥併し、定額を立てたのである。この時、京東に武衛軍を増置し、河北四路に分属させ、後にまた三千人を揚・杭州・江寧府に戍守させ、その後また軍士を団結させて将を置き分領させると、これを将兵と謂う。

七年正月、諸班直禁軍の名称を頒布する詔を下す。

殿前司諸班:殿前指揮使、内殿直、散員、散指揮、散都頭、散祗候、金槍、東西、招箭、散直、鈞容直。諸直:御龍、御龍骨朵、御龍弓箭、御龍弩直。諸軍:捧日𨧱直、捧日左射、捧日、寛衣天武、𨧱直天武、左射天武、帰明渤海、拱聖、神勇、吐渾、驍騎、驍勝、宣武、虎翼水軍、甯朔、龍猛、捧日第五軍、捧日第七軍、天武第五軍、天武第七軍、契丹直第一、契丹直第二、神騎、広勇、歩闘、龍騎、驍猛、雄勇、太原府就糧吐渾、潞州就糧吐渾、左射清朔、擒戎、広捷、広徳、驍雄、雄威。

侍衛馬軍司龍衛𨧱直、龍衛左射、龍衛、恩冀州員僚直、忠猛、定州散員、驍捷、雲騎、武騎、龍衛第十軍、揀中龍衛、新立驍捷、飛捷、驍武、広鋭、雲翼、禁軍有馬勁勇、庁子馬、無敵、克勝、飛騎、威遠、克戎、万捷、雲捷、横塞、慶州有馬安塞、蕃落、有馬雄略、員僚剰員直。

侍衛歩軍司神衛、虎翼水軍、神衛第十軍、歩武、武衛、床子弩雄武、飛山雄武、神衛、振武、来化、雄武弩手、上威猛、招收、雄勝、澄海水軍弩手、神虎、保捷、捉生、清辺弩手、制勝、定功、青澗、平海、雄武、効忠、宣毅、建安、威果、川効忠、揀中雄勇、懐順、懐恩、勇捷、威武、静戎弩手、忠遠、寧遠、忠節、教閲忠節、川忠節、神威、帰遠、雄略、下威猛、強猛、壮勇、橋道、清塞、武厳、宣効、神衛剰員、奉先園、揀中六軍、左龍武、右龍武、左羽林、右羽林、左神武、右神武。

御営喝探、新団立揀中剰員。

諸班直の序列(上下):殿前指揮使、御龍直、御龍骨朵子直、内殿直、散員、散指揮使、散都頭、散祗候、金槍、東西班、御龍弓箭直、御龍弩直、招箭班、散直、鈞容直。

諸軍の序列(上下):捧日𨧱直、捧日左射、捧日、寛衣天武、天武𨧱直、天武左射、天武、龍衛𨧱直、龍衛左射、龍衛、神衛、帰明渤海、拱聖、神勇、恩冀州員僚直、忠猛、定州散員、吐渾、驍騎、驍捷、雲騎、驍勝、宣武、武騎、殿前司虎翼、殿前司虎翼水軍、甯朔、龍猛、歩軍司虎翼、歩軍司虎翼水軍、捧日第五軍、捧日第七軍、天武第五軍、天武第七軍、龍衛第十軍、揀中龍衛、神衛第十軍、契丹直第一、契丹直第二、神騎、広勇、歩闘、龍騎、驍猛、雄勇、太原府就糧吐渾、潞州就糧吐渾、清朔、擒戎、新立驍捷、飛捷、驍武、広鋭、雲翼、禁軍有馬勁勇、歩武、武衛、床子弩雄武、飛山雄武、神鋭、振武、来化、雄武弩手、上威猛、庁子馬、無敵、招收、雄勝、広捷、広徳、克勝、飛騎、威遠、澄海水軍弩手、克戎、驍雄、雄威、万捷、雲捷、横塞、神虎、保捷、慶州有馬安塞、蕃落、捉生、清辺弩手、制勝、定功、有馬雄略、青澗、平海、雄武、効忠、宣毅、建安、威果、川効忠、揀中雄勇、懐順、懐恩、勇捷、威武、下威武、静戎弩手、忠勇、寧遠、忠節、教閲忠順、川忠節、神威、帰遠、雄略、下威猛、強猛、壮勇、員僚剰員直、橋道、川橋道、歩軍司清塞、武厳、宣効、神衛剰員、奉先園、揀中六軍、御営喝探、新団立揀中剰員。

諸禁軍の名称において、捧日・天武・龍衛・神衛を上軍とし、五百文以上の料銭現銭を中軍とし、五百文に満たない料銭現銭及び捧日天武第五第七軍・龍衛神衛第十軍・驍猛・雄勇・驍雄・雄威を下軍とする。元豊五年十月、詔して諸路の教閲廂軍を、下禁軍の中に指揮の名称を増入し、序列は全て禁軍と同じくせしむ。蓋し熙寧の籍では、天下の禁軍は凡そ五十六万八千六百八十八人。元豊の籍では、六十一万二千二百四十三人。

哲宗即位の時、四方に用兵し、戍兵を増やして益々広く配置した。元祐元年三月、河北路の保甲を寄招し、在京禁軍の欠員を充填させた。龍衛・神衛は年齢二十歳以下、中軍以下は年齢二十五歳以下の者を、一指短小であっても皆招刺した。二年、詔して西関堡の防拓禁軍を和雇して役務に就かせた。河北・河東・陝西・府界の馬歩軍を再び設置した。七年、河東・陝西路の諸帥府の敢勇を百人を定員とし、専ら経略司に隷属させた。

紹聖四年、陝西路に蕃落馬軍を増置した。この年、蘭州金城に歩軍保捷・馬軍蕃落を設置した。

元符元年、利州路興元府・閬州は各々就糧武寧を増置した。また湖北・江東は各々有馬雄略を増置した。涇原路が新たに南牟会を築き、西安州と賜名し、戍守は合わせて七千人を定員とし、更に馬軍蕃落・歩軍保捷を招置した。天都・臨羌砦の戍守は各々三千人を定員とし、更に各々馬軍蕃落・歩軍保捷を設置した。永興軍等路に蕃落を創置した。河北大名府等二十二州は合わせて馬軍広威・歩軍保捷を創置した。これは河北に大水があり、流民を招刺したためである。

二年正月、環慶に敢勇二百人を増置した。四月、環慶路都総管司が言上した。「本路が新たに定辺城を展築したが、横山・興平等の処の城砦よりも特に奥深い。住営馬軍蕃落・歩軍保捷を増置することを乞う。」六月、環慶路都総管司が言上した。「慶州白豹城を展築したので、住営馬歩軍を増置すべきである。」また鄜延路都総管司が言上した。「本路が新たに米脂等八堡砦を築いたので、土兵・馬歩軍を増置すべきである。」皆これに従った。三年、枢密院が奏上した。「河北に増置した馬軍広威・歩軍保捷二万余人を、揀選して在京の欠員軍分に昇換させたい。」従った。紹聖以来、陝西・河東は連年六年にわたり用兵し、進築は未だ止まず、軍は覆り将は殺され、供給は数え切れないほどであった。

徽宗崇寧元年九月、荊湖北路に禁軍を増置し、靖安と名付けた。十月、川陝に安遠軍を設置した。三年三月、隴右都護が奏上した。鄯州に水軍を設置し、河の浮橋を守備することを乞うた。また枢密院が府界・京東西等路の歩軍、荊湖南路の雄略を増置することを乞うた。皆これに従った。十月、京東西・河東北・開封府界に馬歩軍五万人を創置し、馬軍は崇捷・崇銳と名付け、歩軍は崇武・崇威と名付けた。合わせて緡錢二百八十万有余を用い、常平・封樁等の錢から支給した。蔡京の請によるものである。京はまた言った。「今、拓地は広く、戍兵は少ない。兵額を添置して議し、辺備とすべきである。」従った。

四年十一月、広西路に刀牌手三千人を設置し、切要な州軍に更戍させ、寧海と名付けた。十二月、詔した。「四輔は京師を屏翰するものであり、兵力は偏重すべきではない。各々二万人を定員とすることができる。」五年、環慶路が徐丁台城を進築し、安辺と賜名し、馬軍蕃落・歩軍保捷を設置した。

大観元年五月、延安に銭監兵を設置した。閏十月、靖州に宣節を設置した。十一月、両浙東・西路は各々禁軍を増置した。宣和三年、内侍・制置使の譚が奏上し、方臘が既に平定されたことを以て、節鎮には禁軍を両指揮増やし、その余の州軍には一指揮を増やすことを乞うた。また温・処・衢・婺を除き、禁軍を更に招置して十指揮とすることも乞うた。また厳州に威果禁軍を増置することを乞うた。並びにこれに従った。五年二月、尚書省が言上した。「古くは、六軍は王の爪牙であり、羽林は則ち禁衛の総名である。今、臣僚の使令兵卒の居る営分を六軍と称し、また左・右羽林の名があり、称謂が失当である。もし揀中六軍並びに六軍指揮を共に広效と改め、内、揀中六軍を第一指揮とし、左龍武を第二、左羽林を第三、左神武を第四、右龍武を第五、右羽林を第六、右神武を第七とする。」従った。

靖康元年、詔した。「広西の宜・融二州は実に極辺であり、旧来設置の馬軍は減省を議し難く、且つ元の降指揮に依って招置せよ。」

元豊以後、民兵は日に盛んとなり、募兵は日に衰えた。その募兵の欠員は、その廩給を収めて、民兵の教閲の費用とした。元祐以降、民兵もまた衰えた。崇寧・大観以来、蔡京が権勢を握り、兵制の弊害は日に滋し、逃亡者を受け入れ、配隷を収めるに至っても、猶恐らくは足りなかった。政和以後、久しく蒐補を廃し、軍士は死亡の余り、老疾の者は徒らに廩給を費やし、少壮の者は又多く冗占し、階級既に壊れ、紀律遂に亡びた。童貫が兵権を握り、勢いは内外に傾き、凡そ陣に敗れるに遇えば、人に言うを恥じ、ただ逃竄を申し上げるのみであった。河北の将兵は、十に二三無く、往々にして多くは招闕額に住し、その封樁を上供の用とした。陝右諸路の兵もまた幾らも無く、種師道が兵を将いて入援したが、僅かに一万五千人を得たのみであった。故に靖康の変に際し、画一の詔は、哀痛激切であっても、事既に及ぶところではなかった。

高宗が南渡し、始めて御営司を建てた。未だ幾ばくもなく、また御営を枢密院に併合した。建炎四年、御前五軍を神武軍と改め、御営五軍を神武副軍と改め、共に枢密院に隷属させた。五年、上は祖宗の故事に依り、兵は皆三衙に隷するものとして、乃ち神武中軍を廃して殿前司に隷属させた。ここに於いて殿司の兵権は始めて統一された。乾道元年、詔して殿前兵馬を権りに七万二千人を定員とした。

諸屯駐大軍は則ち皆諸将の部曲であり、高宗が元帥府を開くと、諸将の兵は悉くこれに隷した。建炎後、諸大将の兵は次第に盛んとなり、時に因り制を変え、屯するに常の所無し。例えば劉光世の軍は或いは鎮江・池州・太平に在り、韓世忠の軍は或いは江州・江陰に屯し、岳飛の一軍は或いは宜興・蔣山に屯し、王彦の八字軍は張浚に随ってしょくに入り、呉玠の兵は多く鳳州・大散関・和尚原に屯した。この時、内外の大軍を合わせて十九万四千余り、川・陝はこれに与からず。及び楊沂中が中軍を将いて宿衛を総べると、江東劉光世・淮東韓世忠・湖北岳飛・湖南王𤫉の四軍は合わせて十九万一千六百、亦未だ嘗て屯する所無かりき。

紹興十一年、范同は諸将が兵権を握り制し難いことを以て、謀を秦檜に献じ、且つ柘皋の捷を以て上に言い、張俊・韓世忠・岳飛を召して入覲させ、張俊が先ずその部する兵を納めた。三大帥の副校に分命して各々その部する所を統べさせ、自ら一軍と為し、更に銜を統制御前軍馬と曰う。宣撫司を罷め、出師に遇っては旨を取り、兵は皆枢密院に隷し、屯駐は仍って旧の如くとした。而して四川の大将の兵は興・成・階・鳳・文・龍・利・閬・金・洋・綿・房・西和州・大安軍・興元・隆慶・潼川府の凡そ十七郡と曰い、亦分屯して就糧した。

乾道の末、各州に都統司が有り兵を領した。建康五万、池州一万二千、鎮江四万七千、楚州武鋒軍一万一千、鄂州四万九千、荊南二万、興元一万七千、金州一万一千。その後、分屯列戍し、増減常ならず。考うる所のものは、統制・統領・正将・副将・準備将の目である。

水軍の制度については、以前よりも増強されたところがある。南渡以後、江・淮はいずれも辺境となったためである。建炎初年、李綱が江・淮・河の帥府に水兵二軍を置き、要郡には別に水兵一軍を置き、次要郡には別に中軍を置き、舟楫に巧みな者を募集して充て、軍号を淩波・楼船軍と称するよう請うた。その戦艦には、海鰍・水哨馬・双車・得勝・十棹・大飛・旗捷・防沙・平底・水飛馬の名称があった。隆興以後から宝祐・景定の間に至るまで、江・淮の沿岸には堡塁要害が相望み、守禦はますます煩雑となり、民の労苦はますます甚だしくなった。咸淳の末に至っては、広東では蜑丁を籍没し、閩海では舶船・民船を徴発し、公私ともに疲弊した。

その禁軍の将校には、殿前司都指揮使・副都指揮使・都虞候が各一人いる。諸班には都虞候・指揮使・都知・副都知・押班がある。御龍諸直には四直都虞候があり、本直にはそれぞれ都虞候・指揮使・副指揮使・都頭・副都頭・十将・将虞候がある。馬歩軍には捧日・天武左右四廂都指揮使があり、捧日・天武左右にはそれぞれ都指揮使があり、各軍には都指揮使・都虞候があり、各指揮には指揮使・副指揮使があり、各都には軍使(歩軍ではこれを都頭と称す)がある。

副兵馬使(歩軍ではこれを副都頭と称す)。

十将・将虞候・承局・押官。

管轄する諸班直・指揮、騎兵・歩兵の定員を左に列挙する。その前後の異同により、建隆以来の制度・熙寧以後の制度に分け、また将兵・水兵の制度で考証できるものは、これに附して後に記す。

建隆以来の制度

騎軍

殿前指揮使左右班二。宋初、旧府の親従で甲を帯びた兵士および諸班軍騎の中から武芸絶倫の者を選抜して充てた。

内殿直左右班四。周の制度で、軍校および武臣の子弟で材勇ある者を選抜して立てた。また川班内殿直があり、乾徳三年に蜀を平定して得た奇兵の中から、材貌魁偉で騎射に習熟した者を選抜し、合わせて百二十人を立てたが、開宝四年に廃止した。

散員左右班四。周の制度で、諸州の豪傑を招集して立てた。散指揮・散都頭・散祗候合わせて十二班。また北面の驍捷員僚直および諸軍の中から選抜して補充した。咸平五年、定州路都部署王超が言上した。「辺境には強梁の輩が常に四界に居住し、辺境を擾乱している。厚く金帛を与えて募集し、散員に充てることを請う。」これに従った。

散指揮左右班四。

散都頭左右班二。

金槍班左右班二、旧名は内直。太平興国初年、諸軍の中から槍槊を用いることに長じた者を選抜して補充した。

東西班弩手・龍旗直・招箭班合わせて十二、旧号は東西班承旨。淳化二年、殿前侍と改称し、東西それぞれ第一第二弩手・龍旗直班六は、いずれも甲を帯び、諸班および甲を帯びない班から選抜して増補した。その東第二茶酒班および第三班、西第四班は甲を帯びず、いずれも諸軍の員・使臣および王事に殉じた者の子弟をもってこれに充てた。また弓箭に巧みな者を選抜して招箭班とした。

散直左右班四。雍熙四年、諸道で募置した藩鎮の庁頭軍将および登聞院に赴いて武芸の試験を求めた者をもって立てた。咸平元年、諸節度使の従者・騎御馬小底を選抜して増補した。

鈞容直は二班あり。太平興國三年、諸軍より音楽に通暁し、御馬小底に騎乗する者を選びて立てる。淳化二年、これを改む。

外殿直は一班あり。諸班の衛士中、年齢多き者を看班外殿直と号す、後に看班の号を削る。或いは諸道に詣でて軍校の職を摂し州兵を部分するを、権管と謂う。國初にはまた内員僚直あり、開寶年中に廃す。太平興國四年、太原を征し、上軍を得る。天禧四年、この班に併入す。

捧日並びに左射、𨧱直、弩手、左第五軍、総じて指揮三十五。京師に三十三、雍丘・鄭に各一。旧号は小底、周に改めて鐵騎と為し、太平興國二年に改めて日騎と為し、雍熙四年に今の名に改む。左・右廂に分ち、各四軍。雍熙三年、槍槊に善き者を選びて𨧱直に充つ。淳化三年、左射に善き者を選びて左射と為す。咸平五年、天武・拱聖・驍騎より弩射に善き者を選びて弩手と為す。

契丹直は三。咸平・許・寿に各一。後唐に置き、旋廃す。開寶三年、遼人内附の衆を以て復た置く。太平興國年中、事に因り復た置き、旋廃す。

帰明渤海指揮は二。京師。太平興國四年、幽州を征し、渤海降兵を以て立てる。

拱聖指揮は二十一。京師。乾德年中、諸州の騎兵を選びて闕下に送り、立てて驍雄と為し、後に驍猛と改む。雍熙四年、また拱辰と改む。未だ幾ばくもあらずして今の名に改む。

吐渾小底旧指揮は五、治平年中に併せて二と為す。京師。太平興國四年、太原を平らげ、吐渾の子弟を獲、また監牧諸軍中にある者を選びて充つ。

驍騎指揮は二十三。京師。太平興國四年に置き、後にまた掉搨索兵及び左右教駿兵を選びて増置す。雍熙四年、殿前司歩鬥弩手を改めて驍騎弩手と為す。淳化四年、壮勇超絶なる者を選びて上驍騎と為し、本軍の上に在り。咸平五年、左・右廂に分つ。旧にまた殿前小底あり。至道二年、驍騎馬直及び善射の者を選びて充つ、後に廃す。

驍勝左右指揮は各五。京師。咸平三年、教駿・驍騎諸軍の備征子弟より材勇なる者を選びて立てる。

甯朔指揮は十。京師・尉氏に各三、雍丘・渭・河陽・河陰に各一。咸平三年、教駿諸軍の備征及び外州の兵を選びて立てる。

龍猛指揮は八。京師。太平興國年中、龍騎及び諸州より部送招獲したる群盗を揀閲し、その材勇なる者を取って立てる。淳化四年、また精悍なる者を択びて教閲龍猛と為し、以て盗を禽えるに備え、本軍の上に在り。景德四年、また龍騎・驍騎の兵を選びてこれを増す。

飛猛指揮は二。咸平二年、龍猛・驍騎兵の子弟より材勇なる者を選びて立てる。

驍猛指揮は四。尉氏に三、太康に一。旧号は驍雄、太平興國年中に改む。雍熙四年、拱聖の年多き者を以て拱辰軍と為し、その次等の者は旧の如し。景德四年、拱聖の年多き者を以てこれに隷す。

神騎指揮は十八。雍丘に十三、咸平に五。端拱二年、驍雄の新たに配せられたる人及び教駿・借事等の兵を選びて立てる。淳化二年、掉搨索軍を廃してこれに隷す。咸平二年、また教駿・備征及び外州の者を択びてこれを増す。

驍雄指揮は四。咸平・陳留に各二。太平興國八年、驍猛中の次等の者を遷して立てる。景德年中、驍騎・驍勝・寧朔軍の年多き者を以てこれに隷す。

吐渾直の指揮は三つ。太原に二、潞に一。太平興国八年、太原のものは雲州及び河界の吐渾を移して立て、並州・代州に屯す。雍熙三年、また雲州・朔州の帰明吐渾を得て増立し、潞州に屯す。

安慶直は四つ。太原に一、潞に三。太平興国四年、雲州・朔州及び河東の帰明安慶民を移し、並州・潞州等に分屯させ、田地を与う。雍熙四年に立てる。

三部落の指揮は一つ。太原にある。太平興国四年、親征して幽州に至り、雲州・朔州・応州等の部落を并州に移し、これにより立てる。

清朔の指揮は四つ。西京に二、許・汝に各一。太平興国四年、雲州・朔州の民を内地に移し、自ら馬を置くことを得て騎兵と為し、これを家戸馬と謂う。雍熙四年に立てる。

擒戎の指揮は五つ。西京・許に各二、汝に一。太平興国四年、雲州・朔州の民を西京・許・汝等州に移し、田地を与え、家戸馬に充てる。端拱二年に立てる。

新安内員僚直は五つ。端拱二年、成徳軍節度使田重進言う、「易州静砦の兵は先に鎮州に屯し、賊が勇を陥れ穀を陥れ、その家を尽く俘虜にす。請う、その軍を以て宿衛に備えん」と。これによりこの直を立てる。後に廃す。天聖以後は無し。

散祗候左右班は二つ。天聖以前には無し。

歩闘の指揮は六つ。尉氏・太康に各一、蔡に四。慶曆年中に増置す。天聖以前には無し。

歩軍

御龍直左右は二つ。旧号は簇御馬直、太平興国二年に簇御龍直と改め、後に今の名に改む。

御龍骨朶子直左右は二つ。旧号は骨朶子直、太平興国二年に御龍散手直と改め、後に今の名に改む。

御龍弓箭直は五つ。天武諸軍より材貌魁傑なる者を選びて充てる。

御龍弩直は五つ。

天武並びに寬衣・𨧱直・左射、総指揮三十四。京師に三十三、咸平に一。

神勇上下合わせて二十一指揮。乾徳年中、諸軍の壮実にして大體なる者を揀閲し、雄威と為して立てる。太平興国二年、雄勇と改む。雍熙四年、今の名に改む。淳化四年、武藝超絶なる者を選びて上神勇と為して立て、盗賊擒捕に備う。

宣武上下合わせて二十指揮。京師に駐屯す。太平興国二年、效節・忠猛の二軍を併せて設置し、また諸軍及び郷兵を選抜してこれを増強す。至道二年、また軍頭司の歩直より槍槊・掉刀を用いるに巧みなる者を選抜して殿前歩直を立てしも、後に廃止す。

虎翼は太平興国年中、雄武弩手より選抜して上鉄林と為し、また雄武・定遠・寧勝の床子弩手・飛山雄武等の軍より勁兵を選びてその数を増す。雍熙四年、左右四軍に分かち改む。淳化四年、本軍の精鋭なる者を選抜して上虎翼と為し、以て盗賊を擒えるに備う。咸平二年、広勇軍を併せてこれに隷属せしむ。大中祥符六年、詔して在京諸軍に江・淮の士卒にして水に善き者を選抜し、金明池に於いて戦闘を習わしめ、虎翼水軍を立てしむ。旧指揮六十二、景德年中六を増す。京師に駐屯す。

雄勇は旧号を雄威と称し、太平興国二年に今の名に改む。雍熙四年、神勇と改め、また本軍より退きて次等に入る者を選抜してこれを為す。旧指揮五、至和五年に八に増す。咸平に三、鄆に二、許・鄭・滑に各一。

広徳は開宝四年、広南を平定し、その兵を殿前司に隷属せしめ、次等の者は八作司に隷属せしむ。欠員あれば広南諸州の兵を選抜してこれを補う。雍熙三年、八作司の強壮なる者を選抜して揀中と為す。総指揮十。咸平・尉氏・陽武・河陽・滄・鞏・白波に各一、西京に三。

広勇は淳化二年、神射・鞭箭・雄武・效忠等の軍より強壮にして射術に優る者を選抜して広武を立て、大中祥符二年に今の名に改む。旧指揮二十三、慶暦年中四十三に増し、毎指揮十を以て一軍と為す。京師に五、陳留に二十二、咸平・東明・太原・胙城・南京に各二、襄邑・陽武・鄆に各一、滑に三。

広捷は旧名を左右平遠と称し、建隆二年に改む。咸平五年、また広徳・神威等の軍より選抜し、標槍・旁牌を教えてこれを補う。旧指揮五、景祐年中五を増し、明道年中十を増し、慶暦年中三十六を増し、総五十六。陳留に八、咸平に六、雍丘に四、襄邑・尉氏・許に各三、太康・扶溝・南京・亳・河陰・潁・寧陵に各二、陳に六、滑・曹・鄧・蔡・広済・穀熟・永城・襄城・葉に各一。

雄威は雍熙四年、神勇兵より退きて第二等に入る者を選抜して神威を立て、後に今の名に改む。指揮十。考城・襄邑・陳留に各一、南京に四、陳に二。

宣威は雍熙四年、神勇・宣武の兵より退きて次等に入る者を選抜して立てる。上下指揮二。咸平・襄邑に各一。

龍騎は建隆年間、諸道より招致し及び捕獲したる群盗を以て立て、号して有馬歩人と称し、陣に臨めば即ち歩闘す。淳化三年、本軍にて年数の多き者を選抜して帯甲剩員と為す。咸平以後、また本軍及び龍猛の退兵を以てこれを増す。旧指揮八、康定年中、配隷して軍に充てる者を取って増置し指揮二十と為し、三軍に分つ。京師に四、尉氏・雍丘・咸平・鄭に各二、南京・陳・蔡・河陽・潁・単・四波に各一。

神射は両浙の州兵にて、旧号を腰弩と称す。雍熙四年に今の名に改む。淳化元年、部送して闕下に至らしめ、その強者を選抜して広武と為し、次等の者は復た本軍と為す。指揮五。陳留に三、雍丘に二。

歩闘は雍熙三年、諸州の廂軍より壮勇なる者を選抜して立てしも、後に廃止す。此の下二軍は、天聖以後無し。

鞭箭は雍熙三年、両浙の兵を選抜して鞭箭と為し、次等の者を忠節鞭箭と為す。端拱二年に併せて一と為す。至道元年、此の兵を発して霊州の芻粟を援けしむるに、車重・兵器を浦洛河にて喪い、詔して死を免ず、後に廃止す。

侍衛司は侍衛親軍馬歩軍都指揮使・副都指揮使・都虞候各一人。馬軍都指揮使・副都指揮使・都虞候各一人、歩軍もまたこれに如し。馬歩軍都虞候已上の員、全く闕くれば、即ち馬・歩軍都指揮使等各々その務を領し、殿前司と号して三司と為す。馬歩軍に龍衛・神衛の左右四廂都指揮使・都虞候あり。毎指揮に指揮使・副指揮使あり。其余は殿前司の制に如し。領する所の騎兵・歩兵の員額を左に列叙す。

騎軍

員僚直は顕徳年中、周が三関を平定し、強人を召募し及び高陽関の馳捷兵を選抜して北面両直と為す。建隆初年、諸州の騎兵及び蕃鎮の庁頭召募人等を選抜して左三直と為す。太平興国四年、太原を平定し、その騎兵を選抜して右三直と為す。北面両直は、貝・冀に営し高陽関都部署に隷属す。大中祥符年中、貝州左直・冀州右直と改め、後に四直と改む。京師に二、恩・冀に各一。

龍衛は旧号を護聖と称す。周の広順年中に龍捷と改む。建隆二年、老衰の者を選び去り、諸州に募れる精勁の者を以て之を補ふ。太平興国二年、左・右廂に分つことを改む。四年、太原を平らげ、其の降兵を選びて揀中龍衛と為す。雍熙二年、又た善く槍槊を用ふる者を選びて𨧱直と為す。淳化三年、剰員にて甲を披くに堪ふる者を選びて帯甲剰員と為す。五年、又た善く左射する者を選びて左射と為す。指揮四十四。京師三十八、雍丘・尉氏・河陽各一、澶三。

忠猛は咸平一年に置く。指揮一。定州。

散員は咸平五年に置く。指揮一。定州。

驍捷は周の顕徳年中、三関を平らげ、諸州の士卒の壮勇なる者を選びて河北驍捷と為す。宋初、高陽関都部署に隷す。建隆二年、左右驍武を廃し、其の兵を以て来り隷す。乾徳年中、又た備征及び嵐州帰附の兵を選びて河南驍捷と為し、其の後は唯だ驍捷を以て名と為す。太平興国四年、太原を平らげ、降兵を揀閲して揀中驍捷と為す。淳化四年、又た新立驍捷を置く。至道三年、驍捷を左・右廂に分つ。咸平五年、其の年多き者を以て帯甲剰員と為す。指揮二十六。尉氏新立・陳揀中各一、恩十四、冀十。

雲騎は旧号を左右備征と称し、建隆二年に改む。開宝以後、子弟を募りて雲騎と為し、其の次を以て武騎と為し、又た騎兵の次等を選びて武騎と為し、又た本軍の年多き者を選びて帯甲剰員と為す。指揮十五。京師十一、陳留・西京各一、鞏二。

帰明神武は太平興国四年、幽州に親征し、其の降兵を以て此の軍を立つ。初め指揮一、後に増して四と為す。雍丘。

克勝は本潞州の騎兵、端拱初年に昇格す。指揮二。潞。

驍鋭は旧名を散員指揮と称し、咸平四年に改む。指揮四。莫三、冀一。

驍武は本河北諸州の忠烈・威辺・騎射等の兵なり。淳化四年、其の材を揀閲し、雲騎・武騎等と並び立て、自ら馬を置くことを得、左・右廂に分つ。指揮二十。北京七、真定三、定六、相・懐・洺・邢各一。

広鋭は本河州の忠烈・宣勇にて能く社を結び馬を買ふ者、馬死すれば則ち市ひて補ひ、官其の直を助く。至道元年に立つ。咸平以後、振武兵を選びて之を増し、老疾の者は親属を以て代はす。景德二年に詔す:親属に非ざる者願ひて代はるは聴す。大中祥符五年、其の退兵を以て帯甲剰員と為す。旧河東指揮三十一、陝西七。景祐・康定年中、増して四十二と為す。太原・代・並各三、汾五、嵐・石・岢嵐各二、晋・熙・慈・絳・沢・隰・憲・寧化・威勝・平定・火山各一、涇・原・鄜各二、秦・渭・環・邠・寧各一。

武清は晋州の騎兵なり。端拱二年、其の久しく北鄙に在りて屯戍の労有るを以て、勇悍なる者を選び就きて昇格す。指揮一。晋。

有馬勁勇は咸平四年、江東諸州の兵を選びて立つ。慶暦年中、第六・第七を分置す。総指揮七。太原二、代・嵐各一、磁三。

雲翼は旧指揮三十三、景祐以後、二十三を増置し、左・右廂に分ち、総五十六。真定・雄・瀛・深・趙・永寧各三、定・冀各六、保五、滄・北平・永静・順安・保定各二、莫・邢・覇各一、広信・安粛各四。

庁子は本石州城に立てる。景德元年、改めて営を相州に徙す。慶暦初年、禁軍に昇格す。指揮六。定一、相五。

万捷は開宝年中、趙・相・滄・冀州の民を募りて立つ。大中祥符年中、驍武・雲騎の退兵を以て之に隷す。指揮七。相・冀・遼各二、滄一。

雲捷軍は太平興国四年に、諸軍の中から応募した子弟及び教駿・借事・備征などで武幹ある者を選抜して設立された。大中祥符五年、寧朔軍の退兵をこれに隷属させた。指揮は十二。尉氏・咸平・西京・北京・澶州に各二、汝州・懐州に各一。

横塞軍は咸平三年に、諸軍の威辺・騎射及び在京の借事を選抜して設立された。指揮は七。雍丘・咸平・考城・襄邑・寧陵に各一、衛州に二。

員僚剩員直は、禁軍の員僚で罪により責め降格された者を充てる。これより以下、騎捷軍に至るまでの六軍は、天聖年間以後には存在しない。

清塞軍は後周により設立され、指揮は二。その一つは北蕃の帰附の衆で、寿州に営す。もう一つは淮南の紫金山砦を破って得た騎軍で、延州に営す。宋初、本軍の子弟を選んでその欠員を補った。太平興国三年、また泉州・両浙の兵を得てこれを増強した。

飛捷軍は、もと威虜軍・保州・易州の静塞兵、定州の庁子軍を基に設立された。淳化元年、詔して闕下に赴かせて揀閲し、静塞を三等とし、庁子を一等として、今の名に改めた。指揮は四。

驍駿軍はもと寿州の鹹聖軍で、咸平三年に改称された。指揮は一。

揀中夏州庁子はもと夏州の家戸である。淳化五年、河西行営都部署李継隆が部を遣わして京師に送り設立された。指揮は一。

騎捷軍はもと雍州の強人指揮で、咸平三年に改称された。瀛州・莫州に分かれて営す。指揮は四。

武騎軍の指揮は十一。京師・雍丘に各一、尉氏に三、陳留・考城・咸平・鄭州に各一、西京に二。これより以下、有馬雄略軍に至るまでの十二軍は、『三朝志』には記載がない。

驍騎軍の指揮は一、太原に置かれる。

無敵軍は河北沿辺の廂兵で、慶暦二年に禁軍に昇格した。総指揮は六。定州・北平に各二、安粛・広信に各一。

忠鋭軍は広信の廂兵で有馬の者を、慶暦二年に禁軍に昇格させた。指揮は一。

威辺軍は諸州の廂兵で、ただ保州のみが戦射を教え、巡検司に隷属していた。慶暦初年に禁軍に昇格した。指揮は二。定州・保州に各一。

飛騎軍は麟州の廂兵で、慶暦初年に禁軍に昇格した。指揮は二。

威遠軍は府州の廂兵で、もと胡騎の精鋭であり、慶暦初年に禁軍に昇格した。指揮は二。

克戎并州廂軍のうち馬を有する者は、康定年間(1040-1041年)に禁軍に昇格した。指揮数は一。

馬を有する安塞慶州廂軍は、慶曆年間(1041-1048年)に禁軍に昇格した。指揮数は一。

蕃落陝西沿邊の廂兵のうち馬を有する者は、天禧年間(1017-1021年)以後、禁軍に昇格し、最辺境の城砦にすべて設置された。慶曆年間(1041-1048年)に至って、総指揮数は八十三となった。環州に五、延州・慶州に各四、秦州及びその外砦に十七、原州・渭州及びその外砦に各十二、徳順軍及びその外砦に十二、鳳翔府・涇州及びその外砦、儀州、保安軍に各二、隴州の外砦に一。

并州騎射は諸道の廂軍のうち、并州路のみが馬を備えて征役に充て、慶曆五年(1045年)に禁軍に昇格した。指揮数は一。

有馬雄略は至和二年(1055年)に設置され、指揮数は三。広州、桂州、邕州に各一。

歩軍

神衛は、晋では奉国軍と称し、周では虎捷と改称した。建隆二年(961年)、諸州が募集した禁軍を揀閲して増補した。乾徳三年(965年)、西川行営都部署の王全斌が、偽署の感化・耀武等の軍で平寇の功ある者を、禁旅に備えるよう請うた。詔してともに虎捷とした。太平興国二年(977年)に改称した。旧水虎翼は即ち軍中で水戦を習う者であり、この年に神衛水軍と改めた。また、剰員の中から征役に備えうる者を選び、揀中神衛として立てた。大中祥符年間(1008-1016年)以後、剰員にはさらに帯甲・看倉草場・看船の名があり、凡そ四等で、皆本軍の年功の多い者を選んで補った。宋初、指揮数は四十六であったが、仁宗以後は、指揮三十一を存するのみとなった。京師に駐屯。

歩武は、本来の郷軍から選抜して神勇・宣武に充てたもので、雍熙三年(986年)、その次等の者を選んで立てた。慶曆年間(1041-1048年)に、指揮を六増置した。陳州に駐屯。

虎翼は、宋初、雄武弩手と号した。太平興国二年(977年)、壮勇な者を選んで上鉄林とし、その次を下鉄林とした。雍熙四年(987年)、左廂・右廂に改め、各三軍とした。咸平五年(1002年)、威虎軍を以てこれに隷属させた。景德三年(1006年)、効順兵を選んでその欠員を補った。大中祥符五年(1012年)、本軍の水戦に長じる者を選んで上虎翼とし、六年(1013年)にはまた江・淮の水卒に熟達した者を金明池で選び、戦棹を按試して、虎翼軍として立てた。江・浙・淮南の諸州も、これに準じて選置した。七年(1014年)、虎翼水軍と改称した。旧指揮数は七十五、慶曆年間(1041-1048年)に二十一を増置し、総計九十六となった。京師に九十(うち水軍一を含む)、襄邑・東明・単州に各一、長葛に一。

奉節は、乾徳三年(965年)に蜀を平定し、その兵を得て奉議として立て、後に今の名に改めた。景德三年(1006年)、また選んで上奉節を立てた。指揮数は五。京師に駐屯。

武衛は、太平興国年間(976-984年)中に、河北諸州の兵を募って立てた。旧指揮数は十六、慶曆年間(1041-1048年)中に、河北で増置して指揮六十七となった。南京・真定府・淄州に各四、北京・澶州・相州・邢州・懐州・趙州・棣州・洺州・徳州・祁州・通利軍・乾寧軍・広済軍に各一、青州に五、鄆州・徐州・兗州・曹州・濮州・沂州・済州・単州・萊州・濰州・登州・淮陽軍・瀛州・博州に各二、斉州・密州・滄州に各三。

雄武並びに雄武弩手・床子弩雄武・揀中雄武・飛山雄武・揀中帰明雄武は、総指揮数三十四。京師に十三、太原・尉氏・南京・鄭州・汝州・寧陵に各二、咸平・東明・雍丘・襄邑・許州・曹州・広済・穀熟・長葛に各一。

川効忠は、太平興国三年(978年)、諸州の廂兵で京師に帰った者を選んで立てた。淳化四年(993年)、また川峽の威棹・克寧の兵で部送されて京師に来た者を選んで川効忠とした。景德元年(1004年)、徳清廂軍及び威遠兵を以てこれを増強した。旧指揮数は二十八、後に七に減じた。南京に六、寧陵に一。

効順は、宋初、潞州を征伐した際、降伏した兵卒を以て立てた。指揮数は一。襄邑に駐屯。

雄勝は、開宝年間(968-976年)中に、剰員を以て立てた。太平興国年間(976-984年)中に、上鉄林に選抜され、残りは従前の通りとした。また雄勝剰員があった。指揮数は三。峡州・冀州・済州に各一。

揀中雄勇は開寶年間に設立され、常寧雄勇・效順等軍の剰員の中から強壮な者を選抜して揀中とした。大中祥符二年、また歸遠軍を選んで新たに設立した。旧来の指揮は四であったが、後に一に減じた。襄邑に駐屯す。

懷勇は開寶四年、京師に在る蜀兵を選抜して設立し、指揮は三。雍丘に二、陳に一。

威寧は淳化年間、西川の賊帥王小波の脅従兵を部送して京師に帰し設立した。咸平元年、また散員直を以て増補した。指揮は一。許に駐屯す。

飛虎は本来虎翼・廣武の兵で西川に屯し家族の無い者を、太平興國年間に京師に帰して設立した。指揮は三。陳留に二、咸平に一。

懷順は本来淮南の兵で、旧号は懷德。建隆二年に改称。指揮は一。に駐屯す。

歸聖は開寶七年、李從善の率いる兵及び水軍を以て設立。八年、江南を平定し、またその降兵を以て増補、指揮は一。雍丘に駐屯す。

順聖は太平興國年間、両浙の兵を部送して京師に帰し設立した。指揮は一。鞏に駐屯す。

懷恩は乾德三年、蜀を平定し、その軍を得て設立。指揮は三。荊南に二、鄂に一。

揀中懷愛は本来蜀兵で、懷恩と同時に設立し、また精鋭を抜擢して揀中とした。淳化四年、また川峽の威棹・克寧兵の次等の者を選び牽船として立て、河漕の役に供した。旧来の指揮は三であったが、後に一に減じた。寧陵に駐屯す。

勇捷は太平興國四年、太原征討に際し設立、左・右廂に分け、諸州の庫兵を以て左廂を補い、廣濟・開山の兵を以て右廂を補った。指揮二十六。襄邑・北京・澶・陳・壽・汝・曹・宿に各二、咸平・西京・南京・亳・甯・洪・河陰・鞏・長葛・韋城に各一。

威武は太平興國四年、太原征討に際し設立、左・右廂に分け、江南の歸化兵を以て左廂を補い、両浙の順化兵を以て右廂を補った。大中祥符五年、また下威武を立てた。合わせて指揮十三。西京・河陽・鄭・鄆・澶・滑・濮・通利・鞏・河陰・永城に各一、曹に二。

靜戎弩手は江南の歸化兵及び諸州の廂兵の壮実なる者を選抜して設立。指揮四。河陽・澶・衛・通利に各一。

平塞弩手は本来両浙順化軍で、その強壮なる者を選抜して弩手とし、また江・浙の官物を逋負して窯務の徒役に隷する者を以て揀中平塞とした。指揮四。咸平・亳・河陽・白波に各一。

新立弩手は本来勁勇兵で、太平興國年間、その弩に巧みなる者を選抜して設立。指揮一。廣済に駐屯す。

忠勇は咸平五年、易州の兵で賊を擒える能ある者を以て設立。指揮一。成都に駐屯す。

甯遠軍は大中祥符六年に、西川の克寧・威棹の兵を選抜して設置された。旧来の指揮は五つ、皇祐及び至和年間に増設して八つとなった。戎州に三つ、遂州・梓州・嘉州・雅州・江安軍に各一つ。

忠節軍は太平興國三年に、諸州の廂軍のうち強壮な者を選抜して設置された。淳化四年に、また川峽の威棹・克寧の兵を選抜して川忠節軍とした。旧来の指揮は二十四、後に教閲忠節を増設し総計六十となった。雍丘・襄邑・寧陵に各三つ、陳留・咸平・東明・亳州・河陰・永城に各二つ、南京に五つ、太康・陽武・許州・江寧・揚州・廬州・宿州・壽州・楚州・真州・泗州・泰州・滁州・岳州・澧州・池州・歙州・信州・太平州・饒州・宣州・洪州・虔州・吉州・臨江軍・興國軍・廣濟軍・南康軍・廣徳軍・長葛に各一つ、合流に四つ。

神威軍は咸平三年に、京師の諸司庫務の兵を選抜して設置された。上下指揮十三。陳留に三つ、許州・鞏縣に各二つ、雍丘・考城・咸平・河陽・廣濟・白波に各一つ。

歸遠軍は雍熙三年に、王師が北征して飛狐・靈丘を抜き、その降卒を得て設置された。咸平二年に、諸州の雑犯兵を選抜して増員した。旧来の指揮は三つ、天聖年間に増設して十六となった。陳州・許州・亳州・壽州・宿州・鄧州・襄州・鼎州に各一つ、荊南府・澧州・潭州・洪州に各二つ。

雄略軍は咸平六年に、諸州の廂兵及び香薬遞鋪の兵を選抜して設置された。旧来の指揮は十五、皇祐五年に増設して二十五となった。荊南府に五つ、潭州に四つ、鼎州・澧州に各二つ、廣州・辰州・桂州に各二つ、許州・全州・邵州・容州に各一つ。

威猛軍は咸平三年に、諸州の廂兵及び募集した者を選抜して設置された。上下指揮十。襄邑に四つ、咸平・許州・長葛に各二つ。

神銳軍は咸平六年に、河東の兵を選抜して設置された。大中祥符五年に、本軍及び神虎軍のうち年配の者を帯甲剩員とした。指揮二十六。太原に六つ、潞州・晉州に各三つ、澤州・汾州・隰州・平定軍に各二つ、代州・絳州・忻州・遼州・邢州・威勝軍に各一つ。

神虎軍は咸平五年に、陝西の州兵馬を選抜して設置された。六年に、また河東の州兵を選抜して設置し、西路の河東兵をもってこれに充てた。指揮二十六。永興に六つ、鳳翔・河中・忻州・晉州・威勝軍に各二つ、太原・秦州・延州・鄜州・華州に各一つ、潞州に三つ。

保捷軍は咸平四年に、詔して陝西沿辺の郷丁保毅を選抜して昇格充填させた。旧来の指揮は四十五、慶曆年間に、郷弓手を選抜して増設し、総計一百三十五となった。永興に十二、同州に九、秦州に八、河中・汾州・涇州に各七、渭州・寧州・耀州に各六、鳳翔・延州・儀州・華州・隴州・解州・乾州に各五、陝州・原州・鄜州に各四、成州に三、慶州・鳳州・坊州・晉州・鎮戎軍に各二、環州・丹州・商州・虢州・階州・慶成軍・徳順軍に各一つ。

振武軍は旧来の指揮四十、慶曆以後、河北で増設して指揮四十二、陝西で増設して指揮三十九となり、総計八十一。北京・澶州・相州・懷州・衛州・霸州・莫州・祁州・棣州・趙州・濱州・洺州・保安軍・永寧軍・通利軍・安肅軍・儀州に各一つ、真定府・定州・瀛州・保州・恩州・邢州・深州・博州・永靜軍・乾州・寧陵・涇州に各二つ、延州に六つ、邠州・隴州に各七つ、鄜州・寧州に各五つ、磁州に四つ、滄州・原州に各三つ。

橋道軍は太平興國三年に、諸州の廂兵の次等の者を選抜して設置された。淳化四年に、また川峽の威棹・克寧を選抜して川橋道軍とした。総指揮十八。襄邑・咸平・陽武に各二つ、陳留・東明・尉氏・太康・西京・河陽・濮州・鄆州・鞏縣・河陰・白波・寧陵に各一つ。

清塞軍は太平興國初年に設置された。左・右廂、旧来の指揮二十三、嘉祐年間に併合して十三となった。曹州に二つ、鄭州・鄆州・滑州・通利軍・鞏縣・河陰・白波・汜水・長葛に各一つ。

招收軍は端拱年間に、通州大沙洲の賊衆を捕獲して設置され、欠員は江・浙で招致した海賊で補充した。また端拱年間の逃亡兵で帰還した者を収容し、その罪を赦して徳壽軍とし、後に今の名に改め、保州巡検司に隷属させた。慶曆初年に禁軍に昇格し、指揮十七となった。保州に四つ、霸州・信安軍に各三つ、定州・軍城砦に各二つ、廣信軍・安肅軍・順安軍に各一つ。

壯勇軍は本来、捕獲した群盗で近京に配流服役させた者を選抜して設置され、咸平三年に諸雑犯兵を選抜して増員した。至道三年に、江・浙発運使楊允恭が捕らえた海賊を闕下に送り増補したが、まもなく廃止された。旧来の指揮は三つ、慶曆年間に増設して七つとなった。耀州・解州・滑州に各二つ、許州に一つ。

宣效軍は咸平三年に、六軍・窯務・軍営務・天駟監の効役・店宅務・州兵を選抜して設置された。景德元年に、また本軍の材勇ある者を選抜して揀中宣效軍とした。旧来の指揮は五つ、後に減じて二つとなった。京師に置かれた。

来化雍熙年間、飛狐・霊丘の帰附の衆を以て立て、また朔州の内附牽擺兵を以て立て、後に廃す。旧指揮三、後に損じて二となる。寧陵。

帰恩雍熙年間、平塞の辺境に陥ちた民で黥面して放還された者を以て立て、家族有る者は左廂に隷し、無き者は右廂に隷す。指揮二。亳。

順化太平興国三年、両浙の兵の次等の者を以て立てる。指揮二。河陽・鄆各一。

左右清衛大中祥符八年に立て、諸宮観の灑掃の役を奉ぜしむ。指揮二。此より以下強壮軍員に至る凡そ八軍、天聖以後無し。

川員僚直本は西蜀の賊全師雄の署した将領、乾徳年間に立てる。

造船務乾徳初年、荊湖を平らげ、其の軍の舟楫を善く治むる者を選びて立てる。

帰明羽林太平興国四年、幽州を征し、其の兵を獲て立てる。

新立清河は河に沿って旧に鋪兵を置きて河の決壊に備え、後に揀閲して立てる。指揮二。

保甯大中祥符元年、馬歩軍都虞候王超、病軍にして経行陣の者を以て立てんことを請う。

新立帰化開宝七年、江南の李従善の領する部曲水軍を以て立て、八年、江南を平らげ、また降兵を以て之を増す。指揮一。

強壮軍員咸平六年に置く。指揮一。

澄海弩手慶暦二年に置き、海州都巡検司に隷す。指揮二。登。此より以下武厳に至る凡そ十三軍。

捉生延州の廂兵、天聖五年に禁軍に昇る。指揮二。

清辺弩手宝元初年、陝西・河東の廂軍の伉健なる者を選びて置き、弩手と名づく。指揮四十三。太原九、秦五、涇四、河中・隴各三、永興・代・潞・晉各二、慶・環・滑・同・坊・鎮戎・慈・丹・隰・汾・憲各一。

制勝陝西の廂兵、慶暦年間、禁軍に昇る。指揮九。永興・華各二、鳳翔・耀・同・解・乾各一。

定功陝西廂軍は、慶曆四年に禁軍に昇格し、増設されて指揮十となった。永興・秦・慶・原・渭・涇・儀・鄜・延・鎮戎に各一ずつ置かれた。

清澗は慶曆初年に、その地の精悍な土人を募って充て、地名に因んで命名された。指揮二。

建威は秦州の廂兵で、慶曆八年に禁軍に昇格した。指揮一。

效勇は景祐年間に、川峡の流民を募って増設され、指揮二十七となった。陳留に三、太康・尉氏・襄邑・河陽・曹・合流に各二、咸平・鄭・亳・衛・許・単・澶・磁・広済・河陰・寧陵・白波に各一ずつ置かれた。

宣毅は慶曆年間に、京東・京西・河北・河東・淮南・江南・両浙・荊湖・福建の九路で健勇を募るか、あるいは廂軍を選抜して編成された。指揮二百八十八、治平年間には百七十四を管轄した。京東路:南京・鄆・徐・曹・斉に各二、青・兗・密・濮・沂・単・済・淄・萊・濰・登・淮陽・広済に各一。京西路:西京・滑・許・河陽・陳・襄・鄭・潁・蔡・汝・随・信陽に各一、鄧に二。河北路:真定・徳・棣・博・邢・祁・恩・磁・深・定・濱・通利・永静・乾寧に各一。河東路:太原・汾に各六、晋に四、澤・絳・石・代に各三、潞・嵐・忻・遼・威勝・平定に各二、慈・隰・寧化に各一。淮南路:揚・亳に各二、廬・宿・寿・楚・真・泗・蘄海・舒・泰・濠・和・光・黄・通・無為・高郵・漣水に各一。江南路:江寧・洪・虔・吉・撫・袁・筠・建昌・南安に各一。両浙路:杭に二、越・蘇・明・湖・婺・潤・溫・衢・常・秀・処に各一。荊湖路:潭・全・鼎に各三、荊南・邵・衡・永・郴・道・安・鄂・岳・澧・復・峡・帰・辰・荊門・漢陽・桂陽に各一。福建路:建に二、泉・南剣・漳・汀・邵武・興化に各一。

宣毅床子弩炮手は慶曆年間に設置された。指揮一。岢嵐に置かれた。

建安は府州の廂兵で、慶曆二年に禁軍に昇格した。指揮二。府州・嵐州に各一ずつ置かれた。

威果は嘉祐四年に設置され、指揮二十五となった。荊南・江寧・杭・揚・廬・潭に各三、洪・越・福に各二、虔に一ずつ置かれた。

武嚴は指揮一。京師に置かれた。

御前忠佐軍頭司には、馬歩軍都軍頭・副都軍頭、馬軍都軍頭・副都軍頭、歩軍都軍頭・副都軍頭がいる。その管轄する散員には、副指揮使・軍使・副兵馬使・十将がある。馬歩直は指揮使以下、すべて殿前司の制度と同じである。

御前忠佐散員は本来、許州の員僚剩員であり、淳化年間に軍頭司散員一班として立てられた。また、五代以来、軍校で功績を立てながら官署に収容する余地のない者は、ただ諸校と同様に飲食させるのみで、健飯都指揮使と称したが、後には罪を被った者のみがここに居た。大中祥符二年、散指揮使と改称された。班一。

馬直は雍熙四年に設置された。指揮一。

歩直は端拱元年に設置された。指揮一。

備軍は一千九百六十人。

皇城司親従官は太平興国四年に、親事官のうち材勇ある者を分けてこれに充て、諸殿の洒掃および契勘巡察の事を担当させた。指揮三。

入内院子は天聖元年、親事官のうち年長なる者を選抜してこれに充てる。九年、輦官のうち六十歳以上の者を選抜して充てる。治平二年、詔して五百人を定員とす。

騏驥院騎御馬直は太平興国二年に設置し、左右の番に分つ。八年、二直に分つ。その後、八直を増置す。

左右教駿(旧名は左右備征、建隆二年に改称)は指揮四。