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宋史
志第一百三十九 食貨下八
◎食貨下八○商稅市易均輸互市舶法
商稅は、凡そ州県には皆務を置き、関鎮も亦た或いは之を有す。大なるものは則ち専ら官を置き監臨し、小なるものは則ち令・佐に兼領せしむ。諸州は仍た都監・監押に同く掌らしむ。行く者は貨を齎ち、之を「過税」と謂い、千銭毎に二十を算す。居る者は市に鬻ぎ、之を「住税」と謂い、千銭毎に三十を算す。大約此の如し。然れども定制無く、其の名物は各々地宜に随って一ならず。行旅の齎つ装は、貨幣有りて算すべきに非ざる者は、篋を発して搜索するを得ず。凡そ販夫販婦の細碎なる交易、嶺南の商賈の齎す生薬及び民間の織る縑帛、市に鬻ぐに非ざる者は皆算す勿れ。常税の名物は、有司に令して件りに析かちて天下に頒行し、版に掲げ、官署の屋壁に置き、其の遵守を俾く。算すべき物貨にして輒ち蔵匿するものは、官司の捕獲する所と為り、其の三分の一を没し、半ばを以て捕者に畀う。販鬻して官路に由らざる者は之を罪す。官須有るものは十に其の一を取る。之を「抽税」と謂う。
唐室より藩鎮は多く便宜に事に従い、其の征利を擅にし、以て五代に及び、諸国は益々務めて財貨を掊聚して以て自ら贍らす。故に征算尤も繁し。宋興り、下す所の国には、必ず詔して蠲省し、屡官吏に敕して煩苛を事とし、羨余を規りて以て恩寵を徼むる毋からしむ。大中祥符六年、始めて諸路州軍の農器の税を免ず。
諸州の津渡は旧皆算有り。或いは水涸れて橋梁を改置すとも、有司は猶ほ主者に責めて備償せしむ。建隆初、詔して滄・徳・棣・淄・齊・鄆の幹渡三十九処の算銭を除き、水漲れば民の渡を置くを聴し、其の算を収むる勿れ。是より、此に類する有るものは多く恩宥に因りて蠲除す。其の余の橘園・魚池・水磑・社酒・蓮藕・鵞鴨・螺蚌・柴薪・地鋪・枯牛骨・溉田水利等の名は、皆諸国の旧制に因り、前後屡詔して廃省す。河に縁う州県の民船の粟を載するも亦算を輸す。三年、始めて罷む。
陳州は私に蔡河の鎖を置き、民船百斛に勝るものは百銭を取り、載する所有るものは其の征を倍す。太平興国三年、乃ち悉く之を除く。至道元年詔す、「江南の溪渡は、多く公吏豪民其の事を典り、官課を量り輸して而して行旅を厚く算す。州県宜しく厳禁を加うべし。輸する所の年額銭五千以下なる者は並びに免ず。色役に係らざる近便の人戸に船を掌らしめ濟渡せしめ、人を擾す毋からしむ。」と。至道中、歳入の税課銭四百万貫。天禧末、八百四万貫に増す。
天聖以来、国用浸いに広く、緡銭を算して以て経費を助けんと請う者有り。仁宗曰く、「貨泉の利は、天下に流れて有無を通ぜんと欲す。何ぞ算すべけんや」と。一日、内より蜀羅一端を出だす。印朱の漬す所数重なる者なり。因りて天下の税務に詔し、輒ち商人の物帛を汚壞する毋からしむ。康定元年、西辺の兵費給せず。州県或いは算する名物を増す。朝廷之を知り、悉く命じて蠲去せしむ。既にして詔を下して勧勵し、且つ行者の家屬を搜索する毋からしむを戒む。歳儉れば則ち耕牛の算を免じ、水郷は又或いは蒲・魚・果・蓏の税を弛す。民流れて河を渡る者も亦た之が為に算を免ず。算すべきにして匿して自ら言わざる者は、人を聴して捕告せしむと雖も、旧法の如く罪に抵す。然れども須く物皆見在するを乃ち聴す。以て誣罔を防がんとす。歳課の贏縮に至りては、屡詔して有司に裁定せしめ、前後詔を以て蠲放するもの、勝げて数う可からず。
皇祐中、歳課緡銭七百八十六万三千九百。嘉祐以後、茶禁を弛め、歴る所の州県算銭を収む。治平中に至り、歳課六十余万を増し、而して茶税銭四十九万八千六百に居る。
熙寧以来、河北・河東・陝西の三路は支移し、民租賦を以て貨を齎ち辺に至り貿易して以て官に輸する者は、税す勿れ。河北の流民復業する者の過ぐる所は算を免ず。後に歳稔るを以て、税課の逸するを慮り、旧に復す。五年、在京の商税院を以て提挙市易務に隷せしむ。七年、国門の税数十種を減じ、銭三十に満たざる者は之を蠲つ。其の先、外城二十門は皆課息を以て責む。近く令して閑・要に随い分等し、以て検捕獲失の数を賞罰とす。既にして歳旱を以て、復た是の命有り。
元豊元年、濱・棣・滄州の竹木・魚果・炭箔の税百銭に及ばざる者は之を蠲つ。二年、熙河路製置辺防財用の李憲、擅に本路の商貨を榷り、漕臣蔣之奇に令して其の罪を劾せしむ。導洛通汴司、泗州に堆垛場を置くを請う。賈物至る者は、先ず官場に入り、官船を以て京に運至し、稍く船算を輸す。明年、詔す。近京は通津水門外の順成倉を以て場と為す。導洛司の船に非ざるにして商税を載せて汴に入る者は、糾告を許す。自ら税を請うと雖も、猶ほ私載の法の如し。惟だ日用の物販易に非ざるは、若し廢箔・柴草・竹木の類は禁ずる勿れ。瓊管奏す、「海南の税を収むるは、船の丈尺を較り、之を『格納』と謂う。其の法三等に分ち、較する所幾り無くして、而して輸銭の多寡十倍す。賈物泉・福・両浙・湖・広より至る者は、皆金銀物帛、直或いは万余緡に至る。高・化より至る者は、唯だ米包・瓦器・牛畜の類、直纔かに百一にして、而して概ね丈尺を以て収む。故に高・化の商人至らず、海南遂に牛米乏し。請う、今より物の貴賤多寡を用い税を計い、官文憑を給し、部内に鬻ぐを聴せしめ、然らずば則ち糾告を許し、船貨を以て賞を給せん」と。詔して奏する所の如くせしむ。六年、京東漕臣呉居厚言う、「商人正税七万六千余緡を負い、倍税十五万二千余緡なり」と。詔して其の倍税を蠲ち、正税を納めしむ。百千以下は期を三年とし、百千以上は五年とす。
元祐元年、戸部、在京商税院に令し、元豊八年の銭五十五万二千二百六十一緡有奇を酌み取り、以て新額と為し、明年より始むるを請う。三年、又た天聖の歳課を以て額と為す。蓋し戸部は五年並びに増の法を用い、額を立つる既に重く、歳課登らず。故に言者論じて之を更む。七年、諸路の承買土産税場を罷む。初め、江南路の承買を罷む。而して河東転運司は元祐六年の官塩額より三万余緡を増すを以て較り、遂に之を諸路に行う。
八年、権に商人の米を載せ京に入り糶賣する力勝の税を蠲つ。先ず是れ、熙寧六年、蘇・湖歳稔り、穀価淮南に比し十五にして、而して商船力勝税を以て至らず。嘗て命じて権に蠲つ。恵一方に止まり、未だ定法と為さず。及び汴泗の垛場法行わるるや、穀船増置するを得ず。而して力勝の税益々三分の一を増す。是に至り、蘇軾言う、「法は五穀を税せず。請う力勝銭の条を削り去り、而して天聖免税の制を行わん」と。既にして尚書省も亦た在京穀貴きを言い、其の直を平らかにせんと欲し、復た権に之を蠲つ。後に徽宗宣和中、州県災傷を以て並びに都下を贍給するに及び、亦た一再免ず。旋なく旧に復す如し。惟だ両浙並びに東北の塩は、塩事司の請に以て、遂に復た徴せず。
哲宗が即位して以来、導洛物貨場は廃止されていた。紹聖四年、藍従熙が提挙京城所となり、この事を復活させようとし、泗州及び京師洛口にそれぞれ垛場を設置し、また麵市・牛羊圈の復活を請うた。詔が尚書省に下され、長い間そのままとなった。ここに至り、提挙汴河堤岸の王憲が再びこれを言上し、かつ温州・明州の運船を借用して用に供することを請うた。太府少卿鄭僅に命じて詳細に検討させた。翌年、ついに詔して施行しないこととした。五年、戸部に命じて天下の税務が五年間に収めた数を取り、多寡を斟酌して中制とし、諸路に頒布して版に掲示させ、おおむね十年ごとに改めることとした。その名目を増やし、あるいは多く税を課する者は、ともに違制として論ずることとした。
大観元年、牛畜・舟車の類を売買して印契のないものは、さらに百日の期限を与え、倍税を免除した。二年、詔して在京の諸門において、民衆の衣履・穀菽・鶏魚・蔬果・柴炭・瓷瓦器の類は、その税をすべて免除することとした。年末に免除した数を計算し、大観庫に命じて償わせた。宣和二年、宮観・寺院・臣僚の家が商販を行う場合、関津に命じて捜索させ、元豊法の通りに税を納めさせ、年末にその回数を順次報告して転運司が取旨することとした。初め、元符の令では、品官が家で用いる服用物は免税としていた。建中靖国初年に至り、馬・牛・駝・驢・騾はすでに服用の例に入らなくなったが、近年臣僚が私利を営む者が多く、宮観寺院には専ら免税の旨が降されることが多かった。皆が船艘で商販を行ったため、この詔があったのである。漕臣の劉既済が応奉物を起こし、両浙・淮南等路の税例の外に、一分を増して費用に供した。三年、詔してこれを罷めた。蚕織農具・耕牛を両浙・江東に至らせる者は、すべて文憑を与えて一年間免税することとした。四年、諸路の近年増加した税銭は、すべて応奉司に帰属させることとした。七年、凶作の後であるため、用物が少なく民が食に苦しんでいるとして、在京及び畿内の油・炭・麵・布・絮税及び力勝銭をすべて権免した。提挙京東常平の楊連が上奏した。「当路は牛価が高く、田の多くが荒れている。牛を当路に販売する者に対し、引き続き文憑を与えて免税し、二年後に充足したなら旧に復することを請う。」これに従った。
靖康元年に詔した。「都城の物価が平らかでないので、すべての税物について、権宜的に一年間免税する。」臣僚が上言した。「祖宗の旧制及び政和の新令では、場務が額を立てる方法は、いずれも五年間の増減の数をもって比較し、ともに増えた場合は中数を取り、ともに減った場合は最高数を取って、新たな額としていた。そのため課息は容易に給し、商旅は通じた。近ごろ諸路の転運司はその法を循らず、益あって損なく、物価の騰踊を招き、官課はますます負えるところとなった。諸路の提刑に命じて諸郡に下し、旧法に準じて厘正して額を立てることを請う。」詔して上奏に依ることを命じた。
高宗建炎元年に詔し、貨物を上都に販売する者は免税とした。翌年また詔し、糧草を都に入れて販売する者を抑えて税を課する者は罪に処することとした。すべて残破した州県は竹木・磚瓦税を免除し、北より来た帰正人及び両淮で復業する者も路税を免除した。紹興三年、臨安が火災に遭い、竹木税を免除した。しかし当時は都邑が定まらず、兵革が止まず、四方の税には間々増置があり、及び江湾浦口において海船税を量り収め、すべて官司の回易も併せて税を収めた。一方で寛弛の令も錯綜して現れ、諸路に増置した税場、山間の迂僻な県鎮、経理未定の州郡は、すべて罷免して免税した。また税網が余りに密であるとして、減併するものが百三十四、罷めるものが九、過税を免ずるものが五あり、牛・米・薪・麵など民間の日用に至るまですべて罷めた。
孝宗は志を継ぎ、高宗が省罷して未だ尽くさなかったものを、すべて推行した。また臨安府の物価が平らかでないとして、淳熙七年の税を半分免除した。光宗・寧宗以降も、商税の放免を屡々行い、あるいは一年、あるいは五月、あるいは三月であった。すべて火災に遇えば、竹木の税を放免するのも同様であった。光宗・寧宗が嗣服すると、諸郡の税額は累次にわたって放免があった。しかし当時は、寛大の旨が屡々頒布され、関市の征が迭りに放免されても、貪吏が縁に乗じ、苛取百出した。私立の税場を設け、緡銭・斗米・束薪・菜茹の類にまで算し、稽察措置を擅用し、専欄を添置して収検した。虚市に税あり、空舟に税あり、食米を酒米とし、衣服を布帛とするにも、すべて税ありであった。士夫の行李に遇えば囊を捜し篋を発し、興販と目した。甚だしきは貧民が村落で瑣細な貿易を行うと、漏税と指して、輒々罪を加えた。空身の行旅にも、白く百金を取った。迂路をとって避けようとすれば、欄截して叫呼した。あるいは貨物があれば、抽分して賞を与え、罪を断じて倍輸させ、囊を倒して帰らせた。聞く者は谘嗟し、大小法場と指し、斯民と刃を相い摩り相い、仇敵に啻ならず、その弊は言い尽くせぬほどであった。
市易の設置は、本来漢の平準に本づき、物の低昂を制して均通せんとするものであった。その弊は、官府が賈区となり、公に牙儈の利を取り、民はその煩に勝たなかったことにある。
熙寧三年、保平軍節度推官の王韶が縁辺市易の説を提唱し、官銭を借りて元手とすることを請うた。詔して秦鳳路経略司に川交子で物貨を易えて与えさせ、よって王韶を本路帥司幹当兼領市易事に命じた。当時、司を古渭城に移そうとしたが、李若愚らは多く貨を聚めて戎心を啓き、また秦州の小馬・大馬の私貿易を妨げるとして、不可とした。文彦博・曾公亮・馮京はいずれもこれを是とし、韓絳も秦州を去ることを非としたが、王安石のみが言った。「古渭に市易を置く利害は、臣は敢えて断じないが、若愚の奏の如きは、必ず慮るに足らぬ。」七月、詔して転運司に詳細に検討させ、また陳升之に問うた。升之は古渭は極辺であり、群羌の窺覬の心を啓く恐れがあると言った。安石は乃ち言った。「今蕃戸の富者は、往々にして緡銭二三十万を蓄えている。彼らすら劫奪を畏れないのに、朝廷の威霊がかくも衰弱に至るであろうか。今生羌を連ねようとすれば、形勢は張らんとし、応接は近からんとする。古渭の辺砦は応接に便であり、商旅が並び集い、居る者がますます多くなれば、よって軍を建て、兵馬を増やし、人を選んでこれを守らせれば、形勢は張るであろう。かつ蕃部が官市に与ることができれば、辺民に再び逋負はなく、その心を懐来するに足り、その贏を収めて軍費を助け、さらに荒土を開けば、異日に兵を聚めることができる。」当時王安石が政を執り、汲々として財利兵革を先としていた。その市易の説は、すでに熙寧二年に均輸平準法を立てることを建議した時に見えている。故に王韶がまずその意に迎合し、安石が力を以てこれを主とし、李若愚・陳升之・韓絳らの議があっても、ついに翻すことができなかった。五年、ついに詔して内帑の銭帛を出し、京師に市易務を置いた。
先んずること、魏繼宗と称する者あり、自ら草澤と称し、上書して言う、「京師の百貨は常價なく、貴賤相傾き、富める者は奪い、貧しき者は與うることができて、初めて天下と為すべし。今、富人大姓は、民の亟に乗じ、数倍の利を牟り、財は既に偏聚し、国用もまた屈す。請う、榷貨務の銭を仮り、常平市易司を置き、通財の官を選んでその責に任じ、良賈を求めて之を転易せしむ。市物の價を審かに知らしめ、賤ければ則ち價を増して之を市い、貴ければ則ち價を損じて之を鬻ぎ、因って餘息を収め、以て公上に給せしむべし」と。ここにおいて中書、在京に市易務官を置くことを奏す。凡そ貨の市うべきもの及び民に滞りて售げざるものは、その價を平らかにして之を市い、官物を以て易わんことを願う者は聴す。若し官に市わんと欲すれば、則ちその抵を度りて之に銭を貸し、期を責めて償わしめ、半年は息十一を輸し、歳に及べば之を倍す。凡そ諸司の配率は、並びに之を仰ぎ給す。呂嘉問を以て提挙と為し、内庫の銭百万緡・京東路の銭八十七万緡を賜い、本と為す。三司、市易条を立てんことを請う、『兼並の家、較固して利を取り、新法を害するは、本務覚察し、三司按治す』の文あり、帝之を削り去る。
七月、榷貨務を以て市易西務下界と為し、市易務を以て東務上界と為し、在京の商税院・雑買務・雑売場を之に隷す。又、銭帛五十万を賜い、鎮洮軍に司を置く。市易は極めて苛細にして、道路怨謗する者籍籍たり。上以て安石に諭し、事実を宣示せんことを請う。帝、氷を鬻ぎ、梳樸を市う等数事を以て之に語る。安石皆弁解す。後に帝復た言う、「市易の果物を鬻ぐこと太だ煩碎なり、之を罷むるは如何」と。安石謂う、「法を立つるは当に人に害あるか否かを論ずべく、煩碎を以て廃すべからず」と。是より諸州の上供する藨席・黄蘆の類六十色、悉く直を計わしめ、民の願い鬻ぐ者に従い之を市いて用に給す。
六年、詔して在京市易幹当公事孫迪に、両浙・淮東転運司と同しく、杭州市易務を置く利病を議して以て聞かしむ。その後、市易上界の償う内帑の銭二十万緡を以て之に仮り本と為す。又、夔州路転運司に度僧牒五百を賜い、市易を黔州に置き、本路の在任已替の官を選び之を監せしめ、仍って知州或いは通判を以て提挙す。在京市易務及び開封府司録に令し、諸行の利病を同しく詳度せしむ。ここにおいて詳定所請う、「諸行の利入の薄厚に約し、免行銭を輸して以て吏を祿し、其の官に供する物を蠲む。禁中の須うる所は、並びに雑売場・雑買務に下す。市司を置き物價の低昂を估し、凡そ内外官司の物價を占めんと欲するは、悉く是において取決す」と。之に従う。提挙在京市易務を改めて都提挙市易司と為し、諸州の市易務は皆之に隷す。又詔して三司幹当公事李杞等に、成都に市易務を置くことを詳度せしむ。
七年、帝、輔臣と論じて成都市易の事に及ぶ。馮京曰く、「曩に榷市物に因り、王小波の乱を致せり。今頗る市易を以て言と為す」と。安石曰く、「彼は饑民衆く、官之を恤せず、相聚いて盗と為せるのみ」と。帝問う、「李杞行くか」と。安石曰く、「未だせず。然れども市易必ず乱を致さざるを保つ」と。帝猶蜀人の駭擾を慮う。安石謂う、「已に使を遣わして乃ち遽かに罷むるは、豈に四方の笑いと為さざらんや」と。乃ち已む。然れども其の後竟に杞等の詳度を罷む。
三月、詔して権三司使曾布・翰林学士呂惠卿に、市易の事を同しく究詰せしむ。先んずること、帝手詔を出だして布に付し、市易司の物を市うこと、頗る小民の業を害し、衆言喧嘩すと謂う。布乃ち監市易務魏繼宗の言を引き、呂嘉問の多く息を取って以て賞を幹し、商旅の所有する者は尽く収め、市肆の無き者は必ず索め、率ね賤く市い貴く鬻ぎ、広く贏餘を裒め、是れ官府を挟みて兼並と為すと以為う。王安石具に奏し、其の然らざるを明らかにす。乃ち更に惠卿に令し布と偕に之を究詰せしむ。帝尋いで復た手劄を以て布に賜い、対を求めしむ。布即ち上行人の訴うる所を上り、並びに惠卿の奸欺の状を疏し、且つ言う、「臣朝に立つ以来、毎に徳音を聞くも、未だ嘗て王道を以て天下を治めんと欲せざるはなし。今市易の虐と為すこと、凜凜乎として間架・除陌の事たり。嘉問奏す、『近く官を遣わし湖南に往きて茶を販い、陝西に塩を販い、両浙に紗を販わしむ。皆未だ敢て息を計わず』と。臣以て謂う、此の如き政事、之を簡牘に書するは、独り唐・虞・三代の無きのみならず、歴観するに秦・漢以来衰乱の世、恐らく未だ之れ有らざるべし」と。四月、布復た薛向の茶儈を罪するの当たらずを陳ぶ。帝惻然として谘嗟す。及び三司の商人を決責すること多濫なるを言う。時に帝猶必ず按治せんと欲す。而して安石は惠卿を用いることを主とし去るべからず、蓋し其の事を変えんと謀るなり。帝疑う、故に仍って以て布に属す。
既にして中書事を奏し已り、帝論じて市易に及び、且つ曰く、「朝廷此を設くるは、本た平準の法を為して以て民に便ならんと欲するなり。今正に爾く相反し、中下の民をして此の如く失業せしむ。宜しく其の法を修補すべし」と。元詳定の呂嘉問・呉安持に令し、韓維・孫永と同しく行人の銭を輸し免行の利病を問わしむ。参知政事馮京曰く、「開封祥符県の民に銭を給するに、出息抵当の銀絹米麦・緩急喪葬の目七八種あり。其の初め銭を給するや、往々願い請う。積数既に多し、実に輸送に艱し」と。帝曰く、「此の如くして、吾が民安んぞ泰然たるを得んや」と。時に布と惠卿方に市易の事を究め、率ね数日に一対す。帝初めは布の言を是とし、已にして惠卿の請に従い、魏繼宗を開封府に拘す。既にして布と惠卿即ち東府にて再び行人を詰む。訴うる所の状前に同じく変ぜず。而して安石懇ろに去位を求め、惠卿を引いて政を執らしむ。
提挙楚州市易蔣之奇奏す、「監務王景彰の商人の物を榷市する非法、及び虚りて中糴入務を為し、詭名を立てて之を糴い、白く息銭を輸し、之を『幹息』と謂う。又賈販を抑えて他郡に至るを得しめず、多く留難を為す」と。帝輔臣に謂いて曰く、「景彰法に違い人を害す。宜しく即ち其の罪を治むべし」と。時に呂惠卿已に朝政に参ず。而して市易を究詰する未だ竟わず。詔して之を促す。惠卿請う、中書に令して悉く桉牘の異同を取って以て奏せしむ。後二日、布延和殿に対し、先後に陳ぶる所の条祈を条し、並びに治平・熙寧の出入銭物の数を較べて以て聞かしむ。帝方に歳費の浸く広きを慮い、布に令して中書に送らしむ。五月、乃ち詔して章惇・曾孝寛に即ち軍器監にて布の究むる所の市易の事を鞫わしめ、又戸房に令して財賦の数を会し、布の陳ぶる所と異なる。而して呂嘉問も亦雑買務の多く月息に入るを覚えざるを以て、皆公坐に従い差あり。未だ幾からず、布職を褫かれ、嘉問と俱に郡を出で守る。魏繼宗仍って秩を奪い勒停す。初め、市易の建つるや、布実に之に預かる。後に上意の疑う有るを揣り、遂に急ぎ嘉問を治む。而して惠卿は布と夙怨有り、故に卒に之を擠す。而して市易は故の如し。
三司使章惇が内蔵庫の銭五百万緡を借用し、市易司に有能な者を選び、四路に分けて入中させ、現行の塩引を計算し、また安い時に買い占めさせることを請うた。詔して二百万緡を貸し与える。八年、呂嘉問を再び提挙市易とする。二月、鳳翔・大名・真定府、永興・安肅軍、秦・瀛・定・越・真州に、いずれも市易司を設置する。惠州阜民監の銭十万緡を広州市易務に支給し、司農寺の坊場銭三十万緡を鄆州市易に支給する。九年、また在京市易司の物貨十五万緡を熙河市易司に支給する。九月、中書が言うには、「市易の利息銭および市例銭を合わせて収入は百三十三万二千緡余りである」。詔して嘉問・安持らに恩賞を差等を付けて与える。以後、二年ごとに一較することを常とする。十年、上界の元本を七百万緡を限度とし、不足分は毎年の収入利息で補うことと定める。内帑の銭を借りた分は、毎年利息二十万緡で償還する。
元豊元年、都提挙王居卿の請いに従い、市易の銭貨を借りる者には、金帛などを抵当とすることを許し、利息は一分二厘を超えず、一年に満たない場合は月割りで計算し、銭での受け取りを希望する者、あるいは物貨との併給を希望する者は、その望みに任せる。市易司が、官を派遣して物貨を諸路に持ち込み貿易することを請う。十万緡以上は二年、二十万緡以上は三年を期限とし、三分まで回収できた者は例年のごとく恩賞を推し進め、八分に達した者は在任期間として認め、期限満了で達しない者は賞を与えず、官吏の俸給も停止する。
二年、経制熙河路辺防財用李憲が言うには、蕃人の商人が仲買人と私的に取引し、その貨物は皆、他の路を通って税を避け秦州に入る。そこで秦・熙河・岷州、通遠軍の五つの市易務に命じ、仲買人を募って蕃貨を市易務に引き入れ売買させ、私的な取引は告発を許し、賞金は告発額の倍とする。田宅を抵当に市易銭を借りて長く返済しない者は、実際の価値を見積もり、坊場・河渡を売却する法のごとくにする。もし未だ銭を納めていない者は、官がその地代・利息を徴収する。在京市易務もこれに倣う。
三年、詔して免行銭の月納が百文に満たない者は全て免除し、合わせて八千六百五十四人を除く。九月、王居卿がまた言うには、「市易法には三つある。保人を立てて借り請けること、これが第一。契約に金銀を抵当とすること、これが第二。物貨を売買転輸すること、これが第三。この三つのうち、保証貸付法のみが長く行われ、負債と損失がますます多くなった。往年、貸付銭は廃止したが、物貨の取引は以前の通りである。今後、貸付額は毎年およそ二百万緡を超えず、旧来の戸に貸し付けて互いに継続させ、旧来の戸でない者は抵当・売買の法のみを用いることを請う」。詔して中書に法を定めて上奏させる。ここにおいて中書が上奏するには、「在京の物貨は、旧来の戸に貸し付けることを許し、回収してはまた貸し出し、負債総額は三百万緡を超えず、諸路はその四分の一を超えない」。詔して上奏の通りとする。この年、経制熙河辺防財用司がその置司以来の収入利息を集計する。元豊初年は四十一万四千六百二十六緡・石、翌年は六十八万四千九十九緡・石。四年、都提挙賈青の請いに従い、新旧城外内に四つの抵当所を設置し、官を派遣してこれを管掌させ、市易上界などの抵当を廃止して民の便を図る。
五年、詔して内外の市易務が負っている銭は、三年の猶予を与え、均等に月割りで納入させ、期限内の罰息は全て免除する。先に、王安礼が開封府にいた時、市易銭の負債がある者が、累次庭に訴え出た。安礼が執政となってから、帝に言うには、「市易法が行われ、利息を取り立てることが多く、官に納入が期日通りでない者には罰息があり、民は窮困に至っています。詔してこれを免除されることを願います」。帝曰く、「群臣で朕に言う者はなかった。民に期限を定めて納入させ、その罰息を免じよ」。安礼が退出し、詔書に「内外」の二字を加えて批を入れる。蔡確が曰く、「先ほど帝のご下命には、外内の字はありませんでした。公は詔書を増やそうとするのですか」。安礼曰く、「ただ内の字だけを言ったわけでもありません」。結局これを加える。八月、饒州景德鎮に瓷窯博易務を設置する。
六年、蘭州に市易務を増設し、蕃漢の貿易を通じさせる。七年、市易下界を榷貨務と改める。諸州に旬ごとの物価評価を定めた後、提挙司に報告させ、提挙司は管下の州に下し、州は所属に下し、民に抵当または銭を出させて買わせ、利息は二分を超えないようにする。詔して諸路の常平司の銭はその半分を留保し、二分を市易の抵当に充てる。そもそも五年に賈青が物価を平準し金銀の類を行い、畿県で抵当法を行い、翌年これを諸路で行い、常平・市易の賒貸および寛剩銭を元本とし、五路は各十万緡、その他の路は五万緡とした。この時、またこの詔が出る。抵当がなくても物貨の売買が適切な者も、また売買することを許す。八年、諸鎮砦の市易抵当を廃止する。八月、詔して諸郡の抵当で、利息が薄く民の困窮を救えるものは存置し、その他の抵当および州県の市易は全て廃止する。
元祐元年、内外で市易および坊場の浄利銭を監督し、収入した利息および罰銭を比較計算することを許し、もし官本に達した者は、全て釈放する。紹聖四年、三省が言うには、熙寧年間に市易を興し設置したが、元祐年間に一切廃止し、立法の意を顧みなかった。詔して戸部・太府寺に詳細に審議させ、市易務を再設置する。ただ銭で取引し、利息は二分を超えず、貸付請負は行わせない。元符三年、市易務を平準務と改め、戸部・太府寺の市易案を平準案と改める。尚書省が言うには、「平準務の官吏らの経費が多く、また官を派遣して物を買い、外で騒動を起こす。近ごろ官が石炭を売ると、市場価格が急騰し、いずれも民の不便となる」。詔して平準務および官による石炭販売を廃止し、その官有の物貨は、役所に命じて銭鈔に換え、元の支給元に償還させる。
崇寧元年、戸部が上奏するには、平準務の銭物は他の役所に流用してはならない。二年、平準を南北両務とし、旧来のように官吏を分置する。年末に能力を考察し、勧奨・阻止の法を行う。五年、郡県で市易を設置すべき者は、毎年の利息収入、官吏の経費の余りが千緡以上なら官を監として置き、五百緡以上なら場務に兼務させ、それ以外は全て廃止する。先に、かつて詔して府界の万戸県および路の要衝にあり、市易抵当が既に官を設け局を置いているもの。万戸に満たず要衝でないもの、および諸鎮で官監があり商販の集まる所は、いずれも元豊の令の通り監当官に兼務させる。この時、戸部が再度詳細に審議して上奏し、遂にその議を実行する。建炎二年、言事官が費用に見合わないと考えるので、遂にこれを廃止し、その銭を左蔵庫に納め、ただ抵当庫のみは以前の通りとする。
紹興元年、諸州軍の免行銭および行戸の供応を廃止し、現任官の売買は全て時価に従い、違反者は窃盗の罪に論ずる。四年、両浙転運司が婺州に檄を飛ばし御用炉炭を市させ、胡桃紋・鵓鳩色を要求したので、守臣王居正がこれを言上する。上曰く、「厳冬に火に寄り、暖を取るのみである。どうして炭の紋様や色を問うことがあろうか」。命じてこれを廃止し、これに類するものは全て禁止する。十三年、雷・化・高・融・宜・廉・邕・欽・賀・貴州の免行銭を免除する。十四年、開州の両県が夔部の中で特に僻遠であるため、免行銭の半分を減免する。十五年、漢陽軍知事韓昕の言により、諸路が免行銭を徴収する際、定数外に一文以上多く取った者は、税賦を擅に増加した法により罪に処する。十七年、百姓が現在納入している免行銭の三分の一を免除する。十九年、南郊の赦で、百姓の免行銭の未納分を全て免除する。この後、赦があるごとに皆そうする。二十五年、現在納入している免行銭を廃止し、下行による買物を禁止する。小商人を害し、郷村に賦課するからである。
淳熙元年、市令司を罷む。詔して臨安府及び属県の交易儈保銭を十の五を減ず。七年、諸路州県の交易儈保銭も、十分を率とし、以て五分を減ずるに与る。
嘉定二年、臣僚の言に因り、輦轂の下にて、物を鋪戸に買うも、銭を得る由なし。凡そ臨安府の未だ支払わざる物価は、即日に尽く数え給還するを令し、是れより後は物を買うに須らく見銭を給すべく、違う者は許すに台に陳訴せしむ。
嘉熙三年、臣僚言う、「今官司官価を以て物を買い、行鋪時直を以てこれを計るに、什に二三を得ず。重ねて歳月を遷延して償わず、胥卒並びに縁りて芸無く、積日既に久しく、類いて白著を成し、至っては遷居して以てその擾を避け、改業して以てその害を逃るる者有り。甚だしきは蔬菜魚肉、日用の需むる所の瑣瑣たる物、販夫販婦の資る所錐刀を以て斗升を営む者も、皆な官価を以て強いてこれを取る。終日営営として、而して銭本倶に乾没を成す。商旅行わず、衣食路絶つ。望むらくは特く睿旨を降し、凡そ諸路州県官司の物を買うは、並びに時直を以てすべく;輒ち官価を用いるを許さず、違う者は贓を以て罪を定む。」これを従う。
均輸の法は、以て天下の貨を通じ、軽重斂散の術を制し、輸者既に便にして、有無得以て懋遷する所以なり。
熙寧二年、製置三司條例司言う、「天下の財用余り無く、典領の官弊法に拘り、内外相知らず、盈虚相補わず。諸路の上供は、歳に常数有り。豊年便道は、以て多く致すべくして能わずして贏さず;年儉物貴は、供億に難くして敢えて不足せざるを得ず。遠方に倍蓰の輸有り、中都に半価の鬻有り、徒らに富商大賈をして公私の急に乗じ、以て軽重斂散の権を擅にするをさせん。今発運使実に六路の賦入を総べ、その職は茶・塩・礬・酒税を製置するを事とし、軍儲国用、多く仰ぎ給う所なり。宜しく銭貨を仮し、その用度を資し、六路財賦の有無を周知して而してこれを移用すべし。凡そ糴買税斂上供の物は、皆な貴きを徙えて賤きに就き、近きを用いて遠きを易うるを得べし。令して中都帑蔵の年支見在の定数を預め知らしめ、当に供辦すべき者は、以て便に従い変易蓄買し、以て上令を待たしむ。稍々軽重斂散の権を収めて公上に帰し、而してその有無を制し、以て転輸を便にし、労費を省き、重斂を去り、農民を寛うす。庶幾くば国用足り、民財匱せざらん。」詔して本司に条例を具えて以て聞かしめ、而して発運使薛向を以て均輸平準事を領せしめ、内蔵銭五百万緡・上供米三百万石を賜う。時に議その擾を慮り、多く以て非と為す。向既にその事を董むるや、乃ち官属を設置するを請う、神宗自らこれを択ばしむ。向ここに於て劉忱・衛琪・孫珪・張穆之・陳倩を辟して属と為し、又請う有司に六路歳当に上供すべき数・中都歳用及び見儲度可支歳月を具えしめ、凡そ当に計置すべき歳何は、皆な預め有司に降す。これを従う。
八月、侍御史劉琦・侍御史裏行錢顗等言う、「向は小人、貨泉を仮し、その変易を任せ、縦い有所入るとも、商賈の利を奪う免れず。」 琦・顗皆な坐して貶せらる。條例司檢詳文字蘇轍言う、「昔漢武外に四夷に事え、内に宮室を興し、財用匱竭し、力支え能わず、賈人桑弘羊の説を用い、賤きを買い貴きを売り、これを均輸と謂う。曰う民に賦を加えずして国用饒足すと雖も、然れども法術正しからず、吏縁りて奸を為し、掊克日深く、民その病を受く。孝昭既に立ち、学者その説を排するを争い、霍光民の欲する所に順い、従いてこれを予え、天下心に帰し、遂に以て事無し。今この論復興し、衆口紛然、皆なその患必ず漢に甚だしと謂う。何ぞや?方今聚斂の臣、材智方略、未だ桑弘羊に比すべきを見ざるに;而して朝廷規矩を破壊し、繩墨を解き縦え、して馳騁自由を得せしめ、唯だ利を嗜む、その害必ず勝え言うべからざる者有らん。」轍も亦た坐して官を去る。
ここに於て知諫院範純仁言う、「向は憸巧刻薄、発運使と為すべからず。人主は当に農桑を務め、用を節すべく、利を言うべからず。」この後より、純仁の諫職を罷め、而して諫官李常復た均輸の便ならざるを論じ、権開封府推官蘇軾も亦た言う、「均輸は貴きを徙えて賤きに就き、近きを用いて遠きを易う。然れども広く官属を置き、多く緡銭を出だし、豪商大賈皆な疑いて敢えて動かず、以て販売を明言せざると雖も、既にその変易を許し、変易既に行わるれば、而して商賈と利を争わざるは、未だこれを聞かず。夫れ商賈の事は、曲折行い難く、その買うや先期して銭を予え、その売るや後期して直を取る、多方相済い、委曲相通じ、倍称の息、ここより得る。今先ず官を設け吏を置き、簿書廩祿、費と為す已に厚く、良からざれば售さず、賄わざれば行わず。是れ官買の価民に比べ必ず貴く、その売るに及んでは、弊復た前に如く、商賈の利、何に縁りてか得ん?朝廷このことを慮るを知らず、乃ち五百万緡を捐てて以てこれを予う。この銭一出づれば、恐らく復たすべからず。縦いその間薄く所獲有るとも、而して征商の額の損ずる所必ず多からん。」
帝方に安石の説に惑わされ、言皆な行われず。乃ち向を以て天章閣待制と為し、太常少卿羅拯を遣わして使と為し、手詔を賜いて向に曰く、「政事の先、理財を急と為す。朕卿に東南の賦入を托す、皆な消息盈虚・翕張斂散するを得しむ。而して卿忠誠内に固く、能く職業を倡挙し、朕が意を導揚し、成績に底す、朕甚だこれを嘉す。奏を覧るに流言を慮りて惑わすを致すを、朕が心は匪石、豈に易く転ぜんや?卿その強を以てこれを済し、倦まずを以てこれを終え、以て朕が意に称せよ。」然れども均輸後ついに能わずして成らず。
互市舶法は漢初に南越と関市を通じ、而して互市の制行わる。後漢烏桓・北単于・鮮卑と交易を通じ、北魏南陲に互市を立て、隋・唐西北と貿易を通ず。開元令を定め、その条目を載す、後唐も亦然り。而して高麗・回鶻・黒水諸国は、又各おの風土の産する所を以て中国と交易す。
宋初、周制に循い、江南と市を通ず。乾徳二年、商旅の渡江するを得ざるを禁じ、建安・漢陽・蘄口に三榷署を置き、その交易を通ず;内外の群臣輒ち人を遣わして江・浙に往き販易する者は、その貨を没入す。江に縁る百姓及び煎塩亭戸は、その樵漁を恣にし、造る所の屨席の類は、榷署券を給し、渡江販易するを聴す。開宝三年、建安榷署を揚州に徙す。江南平らぎ、榷署存すと雖も、止だ茶貨を掌る。四年、市舶司を広州に置き、後に又杭・明州に司を置く。凡そ大食・古邏・闍婆・占城・勃泥・麻逸・三仏斎諸蕃並びに貨易を通じ、金銀・緡銭・鉛錫・雑色帛・瓷器を以て、香薬・犀象・珊瑚・琥珀・珠琲・镔鉄・鼊皮・玳瑁・瑪瑙・車渠・水精・蕃布・烏樠・蘇木等の物を市う。
太宗の時、榷署を京師に置き、詔して諸蕃の香薬宝貨広州・交阯・両浙・泉州に至るは、官庫より出でざる者は、私相貿易するを得ず。その後乃ち詔す、「今より惟だ珠貝・玳瑁・犀象・镔鉄・鼊皮・珊瑚・瑪瑙・乳香は禁榷する外、他の薬は官市の余り、民に市するを聴す。」
雍熙年間、内侍八人を遣わし、勅書と金帛を携えさせ、四路に分かれて海南の諸蕃を招致せしむ。商人が海外蕃国に出て販易する者は、皆両浙司市舶司に赴き官券の給付を請うべし、違反すればその宝貨を没収す。淳熙二年、詔して広州市舶司に、榷貨を除き、他の良貨はその半ばのみを市買せしむ。およそ海船が至れば、十に先立ちその一を徴し、価値は蕃貨の軽重を斟酌して差等を付け給付す。歳に約五十余万斤・条・株・顆を獲たり。太平興国初年、私かに蕃国人と貿易する者は、価値が百銭以上満たせば罪に論じ、十五貫以上は面に黥して海島に流し、これを過ぐれば闕下に送る。淳化五年にその禁を申し、四貫以上に至っては一年の徒罪とし、漸次加えて二十貫以上は、面に黥して本州に配し役兵と為す。
天聖以来、象犀・珠玉・香薬・宝貨が府庫に充満し、嘗てその余りを斥けて金帛・芻粟と交換し、県官の用度は実にこれを助けたり。而して官市の貨数は、淳化の時に比べれば微かに損ずる所あり。皇祐年間、歳入の象犀・珠玉・香薬の類を総計すれば、その数五十三万有余。治平中に至り、また十万を増す。
熙寧五年、発運使薛向に詔して曰く、「東南の利は、舶商その一を占む。比来言者が泉州に司を置くことを請う、その法を創め講求せよ」。七年、舶船が風に遇い諸州の界に至れば、速やかに所属に報じ、近地の舶司に送り榷賦分買せしむ。泉・福の瀕海の舟船で未だ賦買を受けざる者は、仍って司に赴き勘験を受くべし。時に広州市舶司の歳課二十万緡を欠き、或いは市易司の擾乱によるものと為し、故に海商至らずと為す。提挙司に命じて究詰し以て聞かしむ。既にして市易務の呂邈が舶司に入り闌取して蕃商の物を取る。詔して提挙司にこれを劾せしむ。九年、集賢殿修撰程師孟が杭・明州市舶司を廃し、諸舶を皆広州一司に隷せしむることを請う。師孟に命じて三司と詳議せしむ。是年、杭・明・広三司の市舶司が収めたる銭・糧・銀・香・薬等は五十四万一百七十三緡・匹・斤・両・段・条・個・顆・臍・隻・粒、支弁したるは二十三万八千五十六緡・匹・斤・両・段・条・個・顆・臍・隻・粒。
元豊二年、商人が高麗に入り、資が五千緡に及ぶ者は、明州にその名を籍し、歳ごとに保を責め給引して船を発せしむ。引なき者は盗販の法の如し。先に、人の私販を禁ずるも、然れども絶つ能わず。是に至り、復た中国と通ずる故に、明らかに是の法を立てる。
三年、中書言う、広州市舶司は既に条約を修定せり、官を選んで推行すべし。詔して広東は転運使孫迥に、広西は陳倩に、両浙は副使周直孺に、福建は判官王子京に委ね、広東の帥臣の兼領を罷む。五年、広西漕臣呉潜言う、「雷・化州は瓊島と対境すれども、発船請引を広州舶司に為し、約五千里。乞うらくは広西の瀕海郡県に、土著の商人が米穀・牛酒・黄魚及び舶司の賦取せざる物を載せるは、広州に至り請引するを免ぜしめよ」。詔して孫迥に詳かに度りて行わしむ。
密州知州範鍔言う、「板橋は海に臨み、東は二広・福建・淮・浙、西は京東・河北・河東の三路、商賈の集まる所、海舶の利は富家大姓に専ら占めらる。宜しく即ち本州に市舶司を置き、板橋鎮に抽解務を置くべし」。六年、詔して都転運使呉居厚に条析して以て聞かしむ。
元祐三年、鍔等復た言う、「広南・福建・淮・浙の商人が、航海して物を販り京東・河北・河東等路に至り、銭帛絲綿を運載して貿易す。而して象犀・乳香の珍異の物は、嘗て禁榷すれども、欺隠免れず。若し板橋市舶の法行われば、則ち海外の諸物府庫に積まるものは、必ず杭・明二州に倍せん。商舶を通行せしめ、禁を冒し刑に罹るの患無く、而上供の物は、道路風水の虞を免れん」。乃ち密州板橋市舶司を置く。而して前年、亦た泉州に市舶司を増置せり。
商人が海道を由りて外蕃に往くは、物貨の名数並びに詣る所の地を以て、所在の州に報じ保を召すべし。兵器或いは兵器を造る可き物及び違禁の物を参帯するを得ず。官は以て券を給す。擅かに船に乗り海を由りて界河に入り、及び高麗・新羅・登萊州の境に往く者は、徒罪を以て論じ、北界に往く者は等を加う。
崇寧元年、復た杭・明市舶司を置き、官吏は旧額の如し。三年、蕃商が他郡に往かんと欲するは、舶司に従い券を給し、禁物・奸人を雑うるなからしむ。初め、広南舶司言う、海外蕃商が広州に至り貿易するは、その往還居止を聴す。而して大食諸国の商も亦た他州及び京東に入り販易することを丐い通ぜんとす。故に是の詔あり。凡そ海舶が福建・両浙に至り販易せんと欲するは、広南舶司が防船の兵仗を給し、諸国に詣るの法の如くせしむ。広南舶司が市する所の物貨を鬻ぐは、息を取るに二分を過ぐるなからしむ。政和三年、詔して至道の法の如くせしむ。凡そ知州・通判・官吏並びに舶司・使臣等は、蕃商の香薬・禁物を市するを得ず。
宣和元年、秀州にて青龍江浦を開修し、舶船輻湊す。監官を復置することを請う。先に、政和中、華亭県に務を設け官を置く。後ち江浦湮塞し、蕃舶鮮しく至らず、止め県官に兼掌せしむ。是に至り、復た官を設け専ら領せしむ。四年、蕃国の進奉物は、元豊の法の如く、舶司に即ち其の地にて鬻がしめ、発して京師に至らしむるなからしむ。違う者は罪に論ず。
契丹は太祖の時、縁辺の市易を聴くも、未だ官署有らず。太平興国二年、始めて鎮・易・雄・霸・滄州に各々榷務を置かしめ、香薬・犀象及び茶を輦して交易せしむ。後に范陽の師有りて、罷めて通ぜず。雍熙三年、河北の商民のこれと貿易するを禁ず。時に累年師を興し、千里糧を饋り、居民疲乏す。太宗も亦た頗る兵を厭うの意有り。端拱元年、詔して曰く、「朕は上穹より命を受け、中土に尊きに居る。惟だ暴を禁むるを思う、豈に兵を窮めんと欲せんや。幽薊の民に至るまで、皆吾が赤子なり。宜しく辺疆の互いに市易するを許すべし。自今より縁辺の戍兵は、輒恣に侵略するを得ず」。未だ幾ばくもせず復た禁じ、違う者は死に抵す。北界の商旅が輒ち内地に入り販易するは、所在にて捕斬す。淳化二年、雄・霸州、静戎軍、代州雁門砦に榷署を置き旧制の如くせしめ、鬻ぐ所の物に蘇木を増す。尋いで復た罷む。
咸平五年、契丹復た署を置くことを求め、朝議その翻覆を以てし、許さず。雄州知州何承矩継いで請う。乃ち雄州に置くことを聴す。六年、罷む。景德初年、復た通好し、商賈に即ち新城に貿易せしむることを請う。詔して北商が物貨を齎して境上に至れば則ちこれを許す。二年、雄・霸州、安粛軍に三榷場を置かしめ、北商が他路に趨る者は、与に市を為すなからしむ。都官員外郎孔揆等を遣わし伝に乗りて三榷場に詣らしめ、転運使劉綜及び所在の長吏と互市の物価を平らかにし、稍々その価を優にしこれに予う。又た広信軍に場を置き、皆廷臣の専ら掌る所とし、通判に兼領せしむ。三年、詔して民が書籍を以て沿辺の榷場に赴き博易するは、『九経』の書疏に非ざれば悉くこれを禁ず。凡そ官の鬻ぐ物は旧の如くし、而して繒帛・漆器・粳糯を増す。入る所の者は銀銭・布・羊馬・橐駝有り、歳に四十余万を獲たり。
天聖年間、雄州知州の張昭遠が毎年入中金銭を会計することを請うたが、仁宗は「先朝が互市を設けたのは有無を通ずるためであって、利を計るためではない」と言って許さなかった。仁宗・英宗の世が終わるまで、契丹は固く盟好を守り、互市は絶えなかった。
熙寧八年、市易司が奉宸庫の象牙・犀角・真珠の価値総計二十万緡を借り受け、榷場で貿易し、翌年末に償還することを請うた。詔して許した。九年、化外人と私貿易する罪と賞の法を定めた。河北の四榷場は、治平四年以来、その貨物は専ら三司の催轄司が掌り、度支賞給案判官が簿を置いて監督計算していた。この時、私販する者が多いため、この命令があった。間もなく、また私的に硫黄・焰硝を売買すること、および盧甘石を他界に入れることを禁じ、河東も同様とした。元豊元年、再び書物を北界に売ることを告発・捕縛する法を申し立てた。
西夏は景德四年より、保安軍に榷場を置き、繒帛・羅綺をもって駱駝・馬・牛・羊・玉・氈毯・甘草と交換し、香薬・磁器漆器・薑桂などの物をもって蜜蠟・麝臍・毛褐・原羚角・碙砂・柴胡・蓯蓉・紅花・翎毛と交換し、官市でないものは民と交易することを許し、入貢して京に至る者はそのまま市をなすに任せた。
天聖年間、陝西の榷場二か所、並代路もまた場を置いて和市することを請うたので、許した。元昊が反乱すると、ただちに詔して陝西・河東でその互市を絶ち、保安軍の榷場を廃した。後にはまた陝西の辺境に接する主兵官が属羌と交易することを禁じた。久しくして、元昊が臣下を請い、たびたび使者を遣わして互市の復活を求めた。慶暦六年、再び保安・鎮戎の二軍に場を置いた。続いて駆り立てた馬や羊が到着しても放牧する土地がないと言ったので、保安軍の榷場を順寧砦に移した。やがて蕃商はついに来る者がなかった。嘉祐の初め、西人が屈野河の地を侵して耕作し、并州知州の龐籍が「互市を絶たなければ、内侵は止まないであろう。かつて聞くところによれば、兀臧訛龐の謀略によるもので、もし互市が通じなければ、その国は必ず訛龐を罪に帰し、数年後には、ようやく計議することができるであろう」と言った。これに従った。初めはただ陝西四路が私的に西人と貿易することを禁じたが、間もなく、ついにすべて絶った。
治平四年、河東経略司が言うには、西界が和市を通じることを請うた。夏人が慶州大順城を攻撃して以来、詔して歳賜を罷め、辺民が私的に相貿易することを厳禁した。この時、上章して罪を謝したので、再び許した。二年後、涇原の熟戸および河東・陝西の辺民に通市することを禁じた。さらに二年後、回使によって和市を立てることを議したが、私販が止められなかったので、ついに詔を申し立てて諸路に禁絶させた。やがて河東転運司が呉堡を罷め、寧星で従来通り和市することを請うた。また麟州が再び夏人の請いを奏上したので、銅・錫を売って馬を買うことを命じ、繊細な織物と急を要する物はすべて禁じた。西北から毎年馬を入れることは、事柄は『兵志』に詳しい。
楚・蜀・南粤の地で、蛮獠溪峒と接する所、および西州沿辺の羌戎は、すべて民と通市するに任せた。熙寧三年、王韶が秦鳳路古渭砦に市易司を置き、六年、蘭州に市易を増設した。その後、熙・河・蘭・湟・慶・渭・延などの州に、またそれぞれ折博務を置いた。湖北路および沅・錦・黔江口、蜀の黎・雅州にはすべて博易場を置いた。重和元年、燕瑛が交人は服順して久しいので、その貿易を阻害させてはならないと言った。初め、広西帥の曾布が欽・廉州それぞれに駅を創設し、交人に駅で博買させることを請うた。この時、ただちに燕瑛を兼ねて広西転運副使とし、王蕃とともに計画させた。
建炎四年三月、宣撫使張浚が大食国が人を遣わして珠玉宝貝を進めたと奏上した。上は「大観・宣和の間、川茶をもって馬を博さず、ただ珠玉を買ったので、武備を修めず、ついにこのように危弱に至った。今また数十万緡を費やして無用の物と交換するよりは、財を惜しんで戦士を養うほうがよい」と言い、張浚に受けないよう諭し、量を賜って答えた。六月、宜州の毎年朱砂二万両を買うことを罷めた。
紹興三年、邕州守臣が大理が入貢を請うたと言った。上は大臣に諭し、ただ馬を売ることを許し、その進貢は許さないとした。四年、詔して川・陝では永興軍・威茂州に博易場を置き、広西買馬司を邕管に移し、毎年金帛を費やし、その価値を倍にして報酬した。しかし言語が通じず、すべて通訳の手の上下に任せ、吏がこれに乗じて奸を行うことができた。六年、大理国が象および馬五百匹を献じたので、詔してその馬の価値を償い、象は受けずに退け、書を賜って労い遣わした。十二年、盱眙軍に榷場官監を置き、北商と博易し、淮西・京西・陝西の榷場も同様とした。十九年、国信所の博易を罷めた。二十六年、廉州の貢珠を罷め、蜑丁を解散させた。廉州にある珠池は合わせて十余りあり、交阯に接する所は水深百尺で、大珠がそこに生ずる。蜑が採りに行くと、多くは交人に取られ、また大魚に害される。この時、これを罷めた。二十九年、盱眙軍の榷場は存置し、その他はすべて罷めた。
乾道元年、襄陽鄧城鎮・寿春花靨鎮・光州光山県中渡市にすべて榷場を置き、守臣が措置し、通判が提轄した。五年、提轄官を省いた。淳熙二年、臣僚が言うには、溪峒縁辺の州県に博易場を置き、官がこれを主る。七年、塞外の諸戎が珠玉を販って黎州に入ると、官が常にこれを邀え買い取った。臣僚がその貨を濫りにし釁を啓くのは不便であると言い、ただ商人・百姓に収買させるべきであるとした。詔してこれに従った。
建炎元年、詔して「市舶は多く無用の物をもって国用を費やす、今後篤耨香環・瑪瑙・猫児眼睛などの類を博買する者は、すべて法に置く。ただ臣僚に宣賜する象笏・犀帯は、選んでよいものを輸送せよ」とした。胡人は三百斤を一婆蘭と言い、舶舟で最大のものを独檣と言い、一千婆蘭を載せる。次を牛頭と言い、独檣の三分の一である。また次を木舶と言い、料河と言い、順に三分の一ずつである。
隆興二年、臣僚が言うには「熙寧の初め、市舶を立てて物貨を通じさせた。旧法では抽解に定数があり、取ることに苛酷でなく、輸税はその期限を寛げ、価を待たせ、遠人を懐ける意が実に寓されていた。近ごろ抽解が多くなり、また急いで輸させるので、貨が滞り価が減る。その良品、例えば犀角・象牙は十分の二を抽解し、さらに四分を博買する。真珠は十分の一を抽解し、さらに六分を博買する。舶戸は抽買の数が多いのを恐れ、粗色雑貨だけを買う。象牙・真珠・犀角などは他の貨物よりはるかに重いので、十分の一を抽解し、さらに博買しないことを乞う」。
乾道二年、両浙路提挙を罷め、守倅および知県・監官が共に事に当たり、転運司が提督した。三年、詔して広南・両浙市舶司の発する舟が帰還する際、風水の不便・船破・檣壞のためならば、ただちに抽解しないとした。七年、詔して現任官が金銭を綱首・商旅に附して蕃に渡り物を買う者を罰し、舶が到着したら抽解と和買のほか、違法に抑えて買うことを許さず、蕃商が越訴することを許し、贓を計って罪とした。
旧法によれば、細色綱(龍脳・真珠の類)は一綱五千両、その他犀角・象牙・紫鉱・乳香・檀香の類は粗色とし、一綱一万斤であった。凡そ一綱を起すごとに、衙前一名を派遣して部送させ、脚力・乗り物・家族扶養の費用として百余緡を支給した。大観年間以後、その数を大きく拡張し、象牙・犀角・紫鉱をすべて細色として発送し、旧来の一綱を三十二綱に分割したため、脚力・家族扶養の費用が三千余貫余分に費消された。乾道七年に至り、詔して広南の粗色香薬物貨の発送は、一綱二万斤とし、加耗六百斤を加え、従来通り水脚銭一千六百六十二貫余を支給することとした。淳熙二年、戸部が言うには、「福建・広南の市舶司の粗色・細色の物貨は、いずれも五万斤をもって一全綱と為す」。
南渡後、三路の舶司の歳入は確かに少なくないが、金銀銅鉄は海舶で飛運するため、損失が甚だ多く、銅銭の流出は特に甚だしい。法禁は厳しいが、奸巧はますます巧妙となり、商人は利を貪って交易し、狡猾な官吏は賄賂を受けて容赦するため、その弊害はついに禁じることができない。