宋史

志第一百三十八 食貨下七

◎食貨下七(酒・坑冶・礬・香 附)

酒 宋の榷酤の法は、諸州の城内には皆、務を置いて酒を醸し、県・鎮・郷・閭においては民に醸造を許してその歳課を定め、もし遺利があれば、所在の多くは官酤を請うた。三京では官が曲を造り、民に直を納めて取ることを聴した。

陳・滑・蔡・潁・随・郢・鄧・金・房州、信陽軍は旧来皆、榷酤しなかった。太平興国初年、京西転運使程能がその榷酤を請うたので、所在に官吏局署を置き、民の租米麦を取って醸造に給し、官銭で薪槱及び吏工の俸料を買った。歳計の獲る所は僅かで、主吏がその盈羨を規り、また醸斉が不良で、酒は多く醨薄であり、ついに民の婚葬に課し、戸の大小を量って酤させたので、民は甚だその害を受けた。歳が凶作で物価が高騰すると、殆どその費用を償わなかった。太宗はその弊を知り、淳化五年、詔して民に自ら醸造することを募り、官に輸す銭を常課より三分の二減じて、その容易に弁ずるを便とし、応募する民があれば、その資産を検視し、長吏及び大姓が共にこれを保ち、後に課が登らなければ則ち均しく償わせた。この年、諸州の歳課銭の少ない四百七十二箇所を取り、民に自ら酤することを募り、あるいは官が曲を売ってその直を収めた。その後、民の応募する者は少なく、なお多くは官醸であった。

陝西は榷酤するも、なお多く遺利があった。咸平五年、度支員外郎李士衡が課を増して辺費を助けることを請うたので、歳に十一万余貫を増した。両浙は旧来、民を募って榷酤を掌らせたが、雍熙初年、民が多く私醸するを以て、遂にその禁を蠲き、その榷酤の歳課は曲銭の制の如くし、両税に附して均率した。二年、詔して曰く、「有司が杭州の榷酤を罷めることを請うたのは、かえって豪挙の家に坐してその利を専有させ、貧弱の戸に歳に輸す所を責めることとなり、本は民を恵まんと欲したのに、却って侵擾を成す。宜しく旧の如く酒を榷し、均納する所の銭を罷むべし」と。天禧四年、転運副使方仲荀が言うには、「本道の酒課の旧額は十四万貫で、遺利なお多い」と。そこで歳に課を九万八千貫増した。

川峡は旧制を承け、売曲の価が重かった。開宝二年、詔して十の二を減じた。既にして頗る榷酤を興すと、言事者が多くその非便を陳じたので、太平興国七年に罷め、旧の如く曲を売った。これより後、ただ夔・達・開・施・瀘・黔・涪・黎・威州、梁山雲安軍、及び河東の麟・府州、荊湖の辰州、福建の福・泉・汀・漳州、興化軍、広南東・西路は禁じなかった。

春より秋に至るまで、醸成すれば即ち売るのを「小酒」と謂い、その価は五銭より三十銭まで、二十六等あり、臘に醸し蒸して売り、夏を候って出すのを「大酒」と謂い、八銭より四十八銭まで、二十三等あった。凡そ醸すに粳・糯・粟・黍・麦等及び曲法・酒式を用いるは、皆水土の宜に従った。諸州の官醸の費やす穀麦は、常糴を準じて給し、倉儲を用いることを得ず。酒匠・役人で糧を受くべき者は銭を給した。凡そ官曲は、麦一斗を以て曲六斤四両とする。売曲の価は、東京・南京は斤直ちに銭百五十五、西京は五を減ず。

咸平末、江・淮製置が榷酤銭を増し、頗る煩刻であった。景德二年、詔して増榷せざるべしとし、この後製置使は酒榷を兼領することを得ず。四年、また詔して中外に更に課を増して恩奨を図ることを議することを得ず。天禧初、著作郎張師徳が淮南に使いし、上言して「郷村の酒戸で年額の少ない者は、併せて停廃することを望む」と。これに従った。

至道二年、両京諸州の収むる所の榷課は銅銭一百二十一万四千余貫、鉄銭一百五十六万五千余貫、京城の売曲銭は四十八万余貫であった。天禧末、榷課の銅銭は七百七十九万六千余貫増し、鉄銭は一百三十五万四千余貫増し、曲銭は三十九万一千余貫増した。

五代の漢初、私曲を犯す者は皆棄市に処し、周では五斤に至れば死罪とした。建隆二年、周の法が太だ峻厳なるを以て、私曲を犯すこと十五斤に至り、私酒を以て城に入ること三斗に至る者より始めて極刑に処し、余は罪を論ずるに差等あり、私に酒・曲を市する者は造人の罪の半を減ず。三年、再び酒・曲の禁を下し、凡そ私造する者はその罪を差定す、城郭二十斤・郷閭三十斤は棄市、民が私酒を持って京城五十里内・西京及び諸州城二十里内に入る者は、五斗に至れば死罪、定むる所の里数の外、官署が酤酒する地に私酒が一石入れば棄市。乾徳四年、詔して建隆の禁に比べて第にこれを減ず、凡そ城郭五十斤以上・郷閭百斤以上・私酒が禁地に入ること二石・三石以上・官署のある処に至ること四石・五石以上に至る者にして、乃ち死罪。法益々軽くして犯す者鮮し。

端拱二年の令、民が曲を買って酒を醸し酤す者は、県鎮十里を州城二十里の禁の如くす。天聖以後、北京は曲を売るに三京の法の如くし、官が酒・曲を売るも亦疆界を画し、相侵越するを戒め、犯す者は皆法あり。その禁ぜざるの地は、大概宋初と同じく、ただ永興軍・大通監、川峡の茂州・富順監を増した。

時に天下承平既に久しく、戸口漸く蕃え、酒醪を以て穀を靡す者益々衆し。乾興初、言者謂う、「諸路の酒課は、月に比し歳に増し、芸極有ること無し、古の群飲を禁じ節用を教うの義に非ず」と。遂に詔して、「郷村に酒場を増置することを得ず、既に民を募いてこれを主たる者は、期を三年とす、他人はたとえ課を増して売ろうと欲すとも、聴かず、主者自ら課を増やそうと欲すれば、官吏に委せて異時に至って虧額負課せざるを度り、然る後に上聞すべし」と。既にして御史中丞晏殊が酒場の利薄き者は悉く課を増すことを禁ずることを請うた。

天聖七年、詔して、「民間に吉凶事ありて酒を酤すは、旧来自便を聴し、抑配せず。然るに江・淮・荊湖・両浙の酒戸は往々にして良民を豪制し、引目を出すに至り、抑えて多く売らしむ。厳にこれを禁止し、犯す者は人の告げるを聴き、人を募ってこれに代えしむべし」と。慶暦初、三司言う、「陝西に用兵し、軍費給せず、特に榷酤の利に資る。監臨官の歳課を較べ、増す者に第にこれを賞すべし」と。継いて蕭定基・王琪等に利害を商度せしむ。

初め、酒場の歳課登らず、州県は多く衙前または伍保に責めて銭を輸してその数を充てしめた。嘉祐・治平中、数えてこれを戒め止む。治平四年、手詔して京師の酒戸の負う所の曲銭十六万緡を蠲き、また江南の比歳に増す所の酒場、人に強いて酒を酤さしむるを禁止す。皇祐中、酒曲の歳課合せて緡銭一千四百九十八万六千一百九十六、治平中に至り、二百十二万三千七百三を減ず。而して皇祐中、また金帛・絲纊・芻粟・材木の類を入るる所、その数を総べて四百万七百六十、治平中に至り、乃ち一百九十九万一千九百七十五を増す。

熙寧三年、詔して諸郡に節序に遇うも酒を以て相饋する毋からしむ。初め、渭州知州蔡挺言う、「陝西に公使酒を醸し交遺するあり、二十驛を逾えるに至り、道路煩苦す」と。詔してこれを禁ず。是に至り、都官郎中沈行復言う、「莫州知州柴貽範、他州に酒を饋ること九百餘瓶に至り、兵夫を用いること一百人を逾ゆ」と。故に諸路を並せて禁ず。

四年、三司、酒曲坊場の銭を承買するに率て千銭に稅五十を以てし、儲えて以て吏を祿す。六月、令式所刪定官周直孺言う、「在京の曲院、酒戶酒を鬻きて額を虧くは、原ふらくは曲数多ければ則ち酒も亦多く、多ければ則ち價賤く、賤ければ則ち人戶其の利を損ず。今の法を為すは、宜しく数を減じ價を増し、酒を限有らしめて必ず售らしむべし。然らば則ち人耗折の患無く、而して官額虧けず。請うらくは百八十萬斤を以て定額と為し、閏年は十五萬斤を増す。舊直、斤百六十八、百は八十五を以て数とす。請うらくは二百に増し、百は省数を用い、以て入出に便ならしむ」と。七年、諸郡の舊酒を釀さざる者は釀するを許し、公使銭を以て率て百緡を千石と為し、額を溢るる者は制に違ふを以て論ず。在京の酒戶、歳に糯三十萬石を用ゆ。九年、江・浙災傷し、米直騰貴す。詔して官を選び産地に至り預め銭を給し、成稔を俟ちて官に折輸せしむ。未だ幾からず、詔して行は勿れとし、止だ糴する所の在京の新米と已に糴する米を以て半ば之を用ゆ。

元豐元年、在京の酒戶の曲銭を増し、年額に較べて曲三十萬斤を損じ、閏年は萬斤を益造す。二年、詔す、「在京に曲を鬻くは、歳に百二十萬斤を以て額と為し、斤直銭二百五十、鬻きて舊額に及ぶを俟ち、令して復た舊價せしめよ。酒戶糟・糯の銭を負ふは、更に二年を期として帯輸せしめ、並びに未だ請ぜざる曲数十萬斤を蠲せ」と。是に先立ち、京師の曲法、熙寧四年更定の後より、多く償ふ能はず。屢ひ未請の曲数を閣くも、及び歳額を損じて百五十萬斤と為し、斤銭を増して二百四十に至るも、未だ逋負を免れず。是に至り、命じて畢仲衍と周直孺に利病を講求せしめ、請うらくは「額を損じ直を増し、均しく七十店に給し、日に銭を輸せしめ、周歳にして足らしむ。月輸数に及ばざれば、負ふ所を計りて倍罰す。其の炊醞時ならざる、擅かに器量を益し及び私曲を用ふるは、皆告賞の法を立てよ」と。悉く之を行ひ、而して其の價を裁す。三年、詔す、「舊曲銭及び倍罰銭を帯輸するは、仍た半歳を以て寬にし、未だ罰を免ぜざる者は三の一を蠲せ」と。五年、外居の宗室の酒は、止だ舊宮院の尊長及び近屬に寄醞するを許す。永興軍乾祐縣の十酒場を増す。酒戶糟・糯の銭を負ふは、更に令して三年の内に月限を増して以て輸せしめ、並びに限内の罰息を除き、其の倍罰曲銭已に三の一を蠲せるは、下戶は更に一分を免ず。

元祐元年、監司の酒を鬻き及び三路の饋遺の條を刪す。紹聖二年、左司諫翟思言う、諸郡酒を釀すは、邊に沿はざるは並びに熙寧の数に復すべしと。詔す、「熙寧五年以前、諸郡酒を釀さず、及び公使銭有りて酒無き者は、釀する所並びに《熙寧編敕》の数に依れ。仍た諸郡の減ずる所百石を逾ゆ勿からしめ、舊数に及ばざる者は舊の如くし、例の外に供饋するを得毋れ」と。後また陝西沿邊の官監酒務の課入足らざるを以てし、乃ち邊郡の帥府に非ざるは並びに條製を酌みて釀酒の数を定め、諸將及び城砦は止だ官務に寄醞するを許す。

崇寧二年、漣水軍知軍錢景允、學舍を建立するを言ひ、請うらくは承買醋坊の銭を以て用ひを給せんと。詔して常平司に公費を害すること無きを計らしめて請の如くせしめ、仍た他路に準じて之を行はしむ。初め、元祐の臣僚榷醋を罷めんことを請ふ。戶部謂ふ、本禁文無しと。後、翟思請うらくは諸郡の醋坊の日息の用餘を悉く常平に歸せしめんと。是に至り、景允請有り、故に常平に計らしむ。十月、諸路の官監酒直、上者は升に銭二を増し、中下は一を増し、以て學費に充て、餘り轉運司の歳用を裨す。

大觀四年、兩浙轉運司の請を以てし、官監の糟銭を鬻くを別に額を立て比較す。又詔す、「諸郡の酒を榷する池、酒米を入出するは、並びに別に倉官を遣す。醋を賣るは郡城五里外を越ゆるを得毋れ。凡そ縣・鎮・村は並びに禁じ、其の息は悉く轉運司に歸し、舊常平に屬する者は故の如くせよ。

政和二年、淮南發運副使董正封言う、「杭州の都酒務は諸路に甲たり、治平以前は歳課三十萬緡、今は二十萬に過ぎず。請うらくは務を分けて三と為し、更に比較務二を置き、官吏兵匠を増す毋く、仍た請うらくは本路諸郡並びに務を増して比較せしめん」と。之に從ふ。四年、兩浙轉運司も亦た務を置き比較するを請ひ、課額を定めて酒を釀し息を収め、増虧を以て賞罰と為す。詔す、「酒務の官二員なる者は兩務に分ち、三員なる者は復た其の一を増す。員多くと雖も四務を過ぐる毋かれ。内に官多くと雖も課息廣からざる者は、聽して舊の如くせしむ」と。是歳、湖南路諸務の糟酵銭を分ちて提舉司に入れ、令して斤に銭三を増し、直達糧綱の水工の費と為す。酒匠の闕は聽して清務の廂軍を選試するの法を立てる。清務とは、本州選刺して曲を踏み爨蒸の役に供せしむ。闕すれば則ち人を募りて以て充つ。

宣和二年、公使庫米曲を假用し及び因りて官課を耗する者は、坐贓を以て之を罪し、監官は移替す。三年、發運使陳遘奏す、「江・淮等路の官監酒直、上者は升に權りて銭五を増し、次は三を増し、江・浙新復州縣の用に為す」と。其の後尚書省請ふらくは他路に令して悉く之を行はしめんと。詔して其の請の如くし、収むる所率て十の三を以て漕計に給し、餘り大觀庫に輸す。五年、夔路の榷酤を罷む。未だ幾からず舊に復す。轉運司言ふ、新邊の城砦藉りて以て供億する故なりと。六年、在任の官奉酒を以て坊戶を抑賣し轉鬻する者は、違制の律を以て論ず。是に先立ち、政和末、嘗て詔して人をして肆を置きて以て鬻かしむるを得毋からしむ。今並びに之を禁ず。諸路の酒銭を増すは、元豐の法の如くし、悉く上供に充て、戶部の用と為し、轉運司に入る毋し。七年、諸路の醋息を鬻くは、率て十五を公使と為し、餘りは鈔旁の法の如くし、令して提刑司季に儲備の数を具へしめ、移用するを得毋からしむ。靖康元年、兩浙路の酒價屢増し、熙・豐に較べて幾ばく倍し、而して歳稔みて米曲の直賤く、民利を規りて輕んじて法を冒す。遂に令して増す所の價を罷む。

江を渡りたる後、兵を養ふに屈し、時に隨ひて課を増し、名目雜出し、或は提刑に主り、或は漕司に領し、或は經・總製司に分隷し、惟だ軍資未だ裕ならざる有らんことを恐る。建炎三年、總領四川財賦趙開遂に大いに酒法を變ず:成都より始め、先づ公帑實供給の酒を罷め、即ち舊撲買の坊場の所に隔釀を置き、官を設けて之を主らしめ、民米を官に入れて自ら釀し、斛に銭三十を輸し、頭子銭二十二。明年、其の法を遍く四路に下す。歳遞増して六百九十餘萬緡に至り、凡そ官槽四百所、私店は預からず。是に於て東南の酒額も亦た日増す。四年、米曲の價高きを以てし、詔して上等は升に二十文を増し、上等は升に十八文を増し、米曲の價平なるを俟ちて舊に依れ。

紹興元年、両浙の酒坊は買撲の上に浄利銭五分を添え、季毎に戸部へ輸送せしむ。また諸酒銭の上昇二十文、下降十文を増す。その諸州軍の売酒の虧折は、宜しきに随ひ価を増し、一分は州用とし、一分は漕計とし、一分は経制司に隷せしむ。先づ是れ、酒には定価有り、増す毎に上請を須ひし。是れより後、郡県始めて自ら増し、而して価一ならず。五年、諸州の酒は上下を論ぜず、升に五文を増し、製総司に隷せしむ。六年、紹興二年以後三年中の一年の中数をもって額を立て、その増羨は郡県の用に給す。四川の州・軍・県・鎮の酒官百七員を罷め、その酒息微細の処は並びに之を罷む。

七年、戸部尚書章誼等の言に依り、行在に贍軍酒庫を置く。四川製置使胡世将、即ち成都・潼川・資・普・広安に清酒務を立て、民に買撲を許し、歳に銭四万八千余緡と為す。趙開の隔槽法を行ひてより、十四万六千余緡に増じ、(紹興元年。)及び世将官監に改め、所入又倍し、自後累ねて五十四万八千余緡に増ず。(紹興二十五年。)而して外邑及び民戸坊場又三十九万緡と為す。(淳熙二年。)然れども隔槽の法始めて行はるるや、務に就き分槽醞売するを聴き、官は入るる所の米を計りて其の課を収む、未だ病まざるが若し。之を行ふこと既に久しく、醞売虧欠すれば、則ち米を入るるの家を責めて認輸せしめ、復た其の米を核せずして第に其の銭を取る、民始めて病む。

十年、措置贍軍酒庫所を罷め、官吏悉く戸部に帰し、左曹郎中を以て兼領せしめ、点検贍軍酒庫を名と為し、本路の漕臣と其の事を共にす。十五年、夔路の酒禁を弛む。南北十一庫を以て並びに贍軍激賞酒庫に充て、左右司に隷す。十七年、四川清酒務の監官を省く、成都府二員、興元遂寧府・漢・綿・邛・しょく・彭・簡・果州・富順監並びに漢州綿州県各一員。

二十一年、詔して諸軍買撲酒坊監官の賞格は旧に依らしむ。(四万・三万貫已上の場務:一倍に増及すれば、一年の磨勘を減じ、二倍は二年の磨勘を減じ、三倍は三年の磨勘を減じ、四倍は四年の磨勘を減ず。二万・一万貫已上の場務:一倍に増及すれば、三季の磨勘を減じ、二倍は一年の磨勘を減じ、三倍は三年の磨勘を減ず。七千貫以上の場務:一倍に増及すれば、三季の名次を升し、二倍は一年の磨勘を減じ、三倍は一年半の磨勘を減じ、四倍は二年の磨勘を減ず。七千貫以下の場務:一万貫に増及すれば一年の磨勘を減じ、二万貫は二年の磨勘を減じ、三万貫は三年の磨勘を減じ、四万貫は四年の磨勘を減ず。)二十五年、諸路漕司の寄造酒を罷む。二十七年、隔槽酒民を擾すを以て、買撲を許して民に便せしむ。官監を罷め、後に復た之を製す。

三十年、点検措置贍軍酒庫を以て戸部に改隷す。既にして戸部侍郎邵大受等言く、「歳計は経・総製に頼り、窠名極めて多し、今諸路歳に二百万を虧くは、皆諸州の公使庫広く造り、別に店を置き酤売するに縁り、以て酒務例皆敗壊するに至る。」詔して諸州の別置酒庫、軍糧酒庫・防月庫・月樁庫の類の如きを罷め、並びに省務寄造酒及び帥司激買酒庫を省く。凡そ未だ経・総制銭に分隷せざる処は、並びに額を立て分隷し、虧額を補ひ趁ふ。三十一年、殿帥趙密諸軍の酒坊六十六を以て戸部に帰す。(九年を見よ。)同安郡王楊存中殿帥を罷め、復た私撲酒坊九を以て之を上る。歳に通じて息を収むること六十万緡奇有り、十分を率と為し、七分は行在に輸送し、三分は漕計に給す。蓋し軍興以来、諸帥榷酤の利を擅にし、是れより、県官始めて之に資りて以て経費を佐くことを得たり。

孝宗乾道元年、浙東・西の犒賞庫六十四を以て三衙に隷し、課を左蔵南庫に輸し、余銭は随年の贍軍及び軍器造作に充つ。二年、詔す、「臨安府安撫司酒庫は悉く贍軍に帰す。並びに贍軍諸庫及び臨安府安撫司酒務は、戸部に三年の収むる所の一年の中数を取り額を立てしめよ。」日に銭万緡を售り、歳に本銭一百四十万を収め、息銭一百六十万、麹銭二万、羨余内蔵に献ずる所又二十万、其の後五十万に増す。四年、場務官の賞格を立てる。七年、淮西総領周の言に依り、総所庫四、安撫司庫五、都統司庫十八、馬軍司庫一、行宮庫一を増置し、共に庫二十九と為し、三年の最高年を以て額と為す。其の行宮新庫の息銭は、諸処の銭を分認する及び縻費を除き、浄息三分を率と為し、一分は御前酒庫に輸す。提領建康府戸部贍軍酒庫を名と為し、遂に印を鑄し及び庫名を改む。八年、常徳府知事劉邦りゅうほう翰言く、「湖北の民は酒坊に困しめられ、貧乏の家に至りては、万銭を捐さざれば則ち一つの吉凶の礼を挙ぐること能はず。」乃ち『乾道重修敕令』を検し、抑買の禁を申厳す。淳熙三年詔す、「四川の酒課折估困弊す、額銭四十七万三千五百余緡を減ずべし、礼部に度牒六百六十一道を給降し、今歳の減数を補ひ還し、明年は四川の合して湖広総所に給すべき銭を以て之を補へ。」

寧宗開禧元年、臨安府知事兼点検贍軍激賞庫趙善防・転運判官提領戸部犒賞酒庫詹徽之の言、官吏冗費、諸司官属に兼管せしむるを請ふ。明年、又都省の言に依り課額失陷し、旧に依り辟置す。

初め、趙開の隔釀法を立つるは、蓋し一時の急を紡がんとす。其の後之を諸郡に行ふ、国家兵を贍ひ、郡県経費、率ね此に取り給す。故に行ひを罷め、増減すと雖も、一ならずして足るも、而其の法卒に廃すべからずと云ふ。

坑冶は総じて金、銀、銅、鉄、鉛、錫の監・冶・場・務が二百一箇所ある。金は商州、饒州、歙州、撫州の四州と南安軍で産出する。銀は鳳州、建州、桂陽州の三州に産し、三監がある。饒州、信州、虔州、越州、衢州、処州、道州、福州、汀州、漳州、南剣州、韶州、広州、英州、連州、恩州、春州の十七州と、建昌軍、邵武軍、南安軍の三軍に五十一場がある。秦州、隴州、興元州の三州に三務がある。銅は饒州、処州、建州、英州、信州、汀州、漳州、南剣州の八州と、南安軍、邵武軍の二軍に三十五場があり、梓州に一務がある。鉄は徐州、兗州、相州の三州に四監があり、河南府、鳳翔府、同州、虢州、儀州、蘄州、黄州、袁州、英州の九州と興国軍に十二冶があり、晋州、磁州、鳳州、澧州、道州、渠州、合州、梅州、陝州、耀州、坊州、虔州、汀州、吉州の十四州に二十務があり、信州、鄂州、連州、建州、南剣州の五州と邵武軍に二十五場がある。鉛は越州、建州、連州、英州、春州、韶州、衢州、汀州、漳州、南剣州の十州と、南安軍、邵武軍の二軍に三十六の場・務がある。錫は河南府、南康軍、虔州、道州、賀州、潮州、循州の七州と南安軍に九場がある。水銀は秦州、階州、商州、鳳州の四州に四場がある。朱砂は商州、宜州の二州と富順監に三場がある。

開宝三年、詔して曰く、「古は難得の貨を貴ばず、後代は山沢に賦及び、上は侵削を加え、下は益々凋弊す。毎に茲の事を念い、深く懐に疚む。未だ能く金を山に捐つること有らず、豈に人の利を奪ふを忍びんや。今より後、桂陽監の歳に課銀を輸するは、宜しく三分の一を減ずべし」と。民の銅を鋳て仏像・浮図及び人物の無用なるものを為すを禁じ、銅鉄は蕃界及び化外に闌出することを得ず。

至道二年、有司言ふ、「定州の諸山は銀鉱多く、而して鳳州の山銅鉱復た出で、采煉大いに獲、而して皆良しとす。請ふ官署を置きて其の事を掌らしむ」と。太宗曰く、「地は宝を愛せず、当に衆庶と之を共にすべし」と。許さず。東川・西川の監酒商税課は半ば銀帛を輸する外、有司は二分を金に入るるを令せんことを請ふ。景德三年、詔して土産に非ざるを以て之を罷む。

天聖年中、登州・萊州に金を采り、歳に数千両を益す。仁宗、官吏を奨励せんと命ず。宰相王曾曰く、「金を采ること多ければ則ち本を背き末に趨く者衆し、之を誘ふに宜しからず」と。景祐年中、登州・萊州饑饉あり、詔して金禁を弛め、民の采取を聴き、歳豊なるを俟ちて故に復す。然れども是の時、海内承平已久しく、民間の習俗日を逐ひて侈靡に漸し、金を糜して服器を飭ふもの勝て数へず、重禁も能く止むること莫し。景祐・慶曆年中、屡詔を下して之を申敕す。語は『輿服志』に在り。大率山沢の利は限り有り、或は暴発して輒ち竭き、或は采取歳久しくして、得る所其の費に償はず、而して歳課足らざれば、有司必ず主者を責めて盈ちるを取らしむ。仁宗・英宗は毎に赦書を降すに、輒ち所在に委ねて冶の発せざる者を視しめ、或は之を廢し、或は主者の負ふ所の歳課を蠲ち、率ね以て常と為す。而して有司の請ふ有れば、亦輒ち之に従ひ、吝るところ無し。故に冶の興廢常ならず、而して歳課の増損之に随ふ。

皇祐年中、歳に金一万五千九十五両、銀二十一万九千八百二十九両、銅五百十万八百三十四斤、鉄七百二十四万一千斤、鉛九万八千百五十一斤、錫三十三万六百九十五斤、水銀二千二百斤を得。

其の後、赦書に従ひて事を行ひ、或は有司の請ふ所に依り、冶百余を廢す。既にして山沢興発し、治平中に至り、或は冶を増し或は故に復するもの六十有八、而して諸州の坑冶総べて二百七十一。登州、萊州、商州、饒州、汀州、南恩州の六州に金の冶十一。登州、虢州、秦州、鳳州、商州、隴州、越州、衢州、饒州、信州、虔州、郴州、衡州、漳州、汀州、泉州、建州、福州、南剣州、英州、韶州、連州、春州の二十三州と、南安軍、建昌軍、邵武軍の三軍、桂陽監に銀の冶八十四。饒州、信州、虔州、建州、漳州、汀州、南剣州、泉州、韶州、英州、梓州の十一州と邵武軍に銅の冶四十六。登州、萊州、徐州、兗州、鳳翔府、陝州、儀州、邢州、虢州、磁州、虔州、吉州、袁州、信州、澧州、汀州、泉州、建州、南剣州、英州、韶州、渠州、合州、資州の二十四州と、興国軍、邵武軍の二軍に鉄の冶七十七。越州、衢州、信州、汀州、南剣州、英州、韶州、春州、連州の九州と邵武軍に鉛の冶三十。商州、虢州、虔州、道州、賀州、潮州、循州の七州に錫の冶十六。而して水銀・丹砂の州冶は、至道・天禧の時と則ち一にして、皆吏を置きて之を主どる。是の歳、皇祐に比し金は九千六百五十六減じ、銀は九万五千三百八十四増し、銅は百八十七万増し、鉄・錫は場百余万、鉛は二百万増し、又丹砂二千八百余斤を得、独り水銀は増損無し。

熙寧元年、詔す、「天下の宝貨坑冶、発せずして歳課を負ふ者は之を蠲てよ」と。八年、坑冶に近き坊郭・郷村に並びに淘采烹煉せしめ、人並びに相ひ保を為さしむ。保内及び坑冶に於て犯す者有り、知りて糾さず或は停盜して覚えざる者は、保甲法の如く論ず。

元豊元年、諸坑冶の金総収一万七百一十両、銀二十一万五千三百八十五両、銅千四百六十万五千九百六十九斤、鉄五百五十万一千九十七斤、鉛九百十九万七千三百三十五斤、錫二百三十二万一千八百九十八斤、水銀三千三百五十六斤、朱砂三千六百四十六斤十四両有奇。

先づ、熙寧七年、広西経略司言ふ、「邕州右江填乃洞は金を産す。請ふ鄧辟を以て金場を鑒らしむ」と。後五年、凡そ金を得て錢二十五万緡と為す。辟遷官する者再たび焉。元豊四年、始めて産する所薄きを以て貢を罷め、而して虔州・吉州界の鉛は悉く之を禁ず。七年、戸部尚書王存等、銅禁を復た開くことを請ひ、各磨勘年を展ぶること差有り。是の歳、坑冶凡そ一百三十六所、虞部に領せらる。

紹聖元年、戸部尚書蔡京奏す、「岑水場の銅額浸く虧け、而して商州・虢州の間苗脈多し。陝の民は烹采に習はず、久しく廢して発せず。請ふ南方の善工を募りて陝西に詣り経畫せしめ、地を択びて冶を興さしむ」と。是に於て許天啓を以て同管幹陝西坑冶事と為す。元符三年、天啓坑冶を領するを罷め、其の事を提刑司に帰す。初め、新旧坑冶合して一司と為し、而して漕司兼ねて之を領す。天啓同管幹と為り、事を専にせんと欲し、牽制有るを慮り、乃ち川・陝・京西路の坑冶自ら一司と為し、州縣を檢束し、官吏を刺舉するを許し、而して漕司復た坑冶を兼ねざることを請ふ。是に至り、中書天啓の領する所を奏す。首尾六年、総べて新旧の銅止むる所収むるは二百六万余斤、而して兵匠等の費繁多なり。故に之を罷む。

崇寧元年、提挙江・淮等路銅事の遊経が言上する。「信州の膽銅古坑は二つあり、一つは膽水による浸銅で、労力は少なく利益は多いが、その水は限りがある。一つは膽土による煎銅で、土は無尽蔵だが利益は少ない。計画実施の初めは、元手を増やし利息を減らすべきであり、浸銅は斤あたり銭五十を元手とし、煎銅は八十とする。」詔してその言を用いる。諸路の坑冶は、川・陝・京西を除き、全て常平司に管幹を同せしむ。収める利息が薄く官監が煩わしいものは、元符・紹聖の勅に立てた額の如く、民に封状を以て承買を許す。四年、湖北の旺溪金場は、歳収金千両により、監官を置く。広東漕臣の王覚は自ら嘗て常平を領し、山沢の利を講求したと述べ、岑水一場が去年収めた銅は、租額より三万九千百斤増え、常年に比べても六十六万一千斤増えたという。そこでその官秩を増す。この年、山沢坑冶の名称・数量は、監司に籍を置かせ、収めるべきでないものは別に籍し、もし弛興・廃置・移並があれば、また具注させ、虞部に上申せしむ。

大観二年、詔す。「金銀坑が発見され、告言があってなお検視中の時、私的に開き淘取する者は盗と論ず。坑冶で旧来知県・県丞に隷属しなかったものは、皆兼監せしめ、賞罰は正官より一等減ずる。」冶地のあるところは、知県が月一度点検巡視する。言者がその職務は徳沢を宣導し、徴賦・獄訟を平らかにすることにあり、課利のために山谷を走り回るべきではないと論じ、遂にこれを止む。八月、提挙陝西坑冶司を改めて転運司に併合す。

政和元年、張商英が言上する。「湖北は金を産し、辰・沅・靖の溪峒のみならず、峡州夷陵・宜都県、荊南府枝江・江陵県赤湖城から鼎州に至るまで、皆商人が淘采する地である。漕司は既に本銭が乏しく、提挙司の買上は千両に止まり、専司の定額もない。専切提挙買金司を置き、金苗があって官監のない所は、管内の州県官及び使臣を派遣して掌幹させることを許すべし。」詔して提挙官に措画して奏聞せしめ、なお荊南に司を置く。広東漕司がまた奏上する。「端州高明・惠州信上立溪場は皆停閉すべく、韶州曹峒場・英州銀岡場は皆英州の清溪場に併合し、ただ黄坑場は暫く存置し、歳末に収入を会計して別途奏上することを望む。惠州楊梅東坑・康州雲烈・潮州豊政・連州元魚銅坑黄田白宝・広州大利宜禄・韶州伍注岑水銅岡・循州大佐羅翊・英州鍾銅の凡そ十六場は、旧の如くとすることを請う。循州の夜明・英州の竹溪・韶州の思溪・連州の同安は、更に摂官を派遣することを請う。」これに従う。

三年、尚書省が言上する。「陝西路の坑冶は既に官吏を派遣して提轄措置し、川路の金銀坑冶の興廃については、利源を失うことを慮る。」詔す。「陝西の措置官に川路の事を兼行せしむ。坑冶が収める金・銀・銅・鉛・錫・鉄・水銀・朱砂の物数は、工部に籍を置き簽注させ、半年ごとに消補し、尚書省に上申せしむ。」これより、戸工部・尚書省は皆籍を以て鉤考するが、依拠するのは唯帳状のみであり、額があって収めず、収めても額がないことさえあり、そこで県丞・監官及び曹・部の奉行者を責め、更に累年の違負の数を督責する。九月、措置陝西坑冶の蔣彝が奏上する。本路の坑冶は金千六百両を収め、他の物産もそれぞれあると。詔して大観西庫に輸送せしめ、蔣彝は官秩を増し、官属は各々磨勘年を減ず。四年、監司に官を遣わし諸県丞と共に坑冶の利を遍く視察させ、図籍を作り簽注し、監司が覆実して保奏し、官を遣わし再覆を議し、軽重を斟酌して賞を加え、異同・脱漏があればこれを罪す。六年、川・陝路は各々提轄措置を置く。坑冶官の劉芑が万・永州の産金を計置し、一歳に二千四百余両を収め、特旨をもって官秩を増す。十二月、広東漕司が言上する。「本路の鉄場坑冶九十二所は、歳額として鉄二百八十九万余斤を収め、浸銅の余りは他に用いない。」詔して官に悉く買い取らせて浸銅を広め、なお諸司及び常平銭を以て元手を与う。尚書省が奏上する。「五路の坑冶は既に提轄措置の専司があり、及び淮南・湖北・広東西も監司が兼領し、その余の路は皆監司に領せしめることを請う。」ここに於いて江東・江西・福建・両浙の漕臣は皆坑冶を領す。

七年、提挙東南九路坑冶の徐禋が奏上する。「太平の瑞応は、史書に絶えることがない。今管内の山沢・坑冶において、もし希世の珍物及び古宝器を獲たれば、書芸局に赴き上進することを請う。」蓋し政和初年以来、京西漕臣の王璹が太和山が水精を産すると奏し、桂州知事の王覚が枕門等処が金及び生花金田を産すると奏し、提轄京西坑冶の王景文が汝州青嶺鎮界が瑪瑙を産すると奏し、その後湟州界の蕃官結彪の地内に金坑千余あり、生熟金四等を収め、凡そ百三十四両有奇であった。蔡京が史館に宣付し、百官を帥いて表賀することを請うたので、徐禋がまたこの請いをしたのである。この時、河北・京東西及び徐禋の領する九路で坑冶を興修するが、多くは虚構を穿ち下を擾し、州県に額を承けさせたので、ここに河北提轄官を降黜し、廉訪使者の鄭諶を遣わし諸路の廉訪に悉く利害真偽を陳究せしむ。八月、中書が坑冶が既に緒に就いたと奏する。詔して京東西・河北路及び提挙東南九路坑冶を並びに罷む。十一月、尚書省が言上する。「徐禋が東南の黒鉛を鼓鑄の余りに留め、悉く丹粉を造り、売って用を済ます。」詔して諸路常平司に三十万を大観西庫に輸送せしめ、余りはその請いに従う。

翌年、諸路の鉄は茶塩法に倣い榷鬻し、炉冶を置いて鉄を収め、引を与えて人を召し通市せしむ。苗脈が微かなものは民に出資承買を許し、収めたものを官に中売せしめ、私相貿易はこれを禁ず。先に、元豊六年、京東漕臣の吳居厚が奏上する。「徐・鄆・青等州は歳に軍器及び上供簡鉄の類を製する数多く、利国・萊蕪の二監は鉄が少なく供給できない。鉄を官が興煽し従うことを請う。獲る所は数倍多くできる。」これより、官が鉄を榷し器物を造り民に売る。元祐に至りこれを罷む。その後大観初め、入内皇城使の裴絢が涇原幹當となり、渭州通判の苗衝淑の言を奏上する。「石河鉄冶は既に民に自ら采煉させ、官に中売しているので、民の私相貿易を禁ずることを請う。農具・器用の類は、悉く官がこれを鑄造し、その冶坊の既成の物は、皆官に輸してその価を償うべし。」そこで私相貿易を禁じ、農具・器用は禁ぜず、官自ら売る鉄は唯鑄瀉戶のこれを市することを許す。

政和初年、臣僚が言うには、「塩と鉄の利益は均等である。今、塩法の施行は既に整っているが、鉄貨についてはまだ計画が行われていない。請う、冶戸の未償の銭を以て、その既に煉った鉄を収め、器物を造り売るべし。兼ねて京東の二監の産出は特に多く、河北の固鎮等の冶は共に官監であり、その利益は計り知れない。而して河東の鉄・炭は最も盛んである。若し官が専売して器物と為し、一路を賄い、傍ら陝・雍に及ぼせば、利益の入ることは甚だ広く、且つ盗鋳の弊を消すべし。又、夏人の茶山鉄冶は既に中国に入り、鉄を乏しくして器物と為す。聞くに、塩を以て辺境において鉄銭と易えると。若し官自ら器物と為せば、則ち鉄と銭と共に重くなり、その謀を伐つべし。請う、諸路の鉄を専売し、その最も盛んなるものを選び、監を置き官を設けて総べしめよ。概ね諸路数十処を越えず、余りはただ鋳瀉の地と為し、都監或いは監当官に属せしめて兼領せしむべし。凡そ農具・器用は皆官が鋳造し、字號を以て表し、官本の余りより、二分以上の利息を取る。仍って鉄引を置きて諸路を通じ、その銭を儲けて三路の鈔本を助くべし。」詔して戸部に下し、諸路の漕臣に詳しく度らしむ。会う次年、広東路が請う、可監の地は旧法の如くその浄利を収め、苗脈微かなるものは人を召して承買せしめ、官は専売せずと。遂に諸路の詳度の旨を併せて行わず。至是、臣僚復た以て言う。故に貿易の禁を厳しくし、而して鉄利は尽く官に専売せしむ。然れども農具・器用は民に従い鋳造せしめ、終に旧法の如し。

四月、広東廉訪の黄烈等が言うには、「広・恵・英・康・韶州、興慶府において、政和中、宝貨司が坑冶の金銀等の歳額を立てたが、或いは苗脈微か、或いは人承買せず、而して浮冗の人が虚しくその名を托し、民田を発毀し、騒動して邀販す。」詔して「政和六年に立てた額は並びに罷め、旧に苗脈有りて歳課を給し得るものは故の如し。」十一月、諸路の元く罷めたる提挙坑冶官を復し、その江南路は仍って江西漕臣の劉蒙に同措置せしむ。

宣和元年、石泉軍の江溪沙磧の麩金は、民に金脈に随い淘采するを許し、課額を立て、或いは分数を以てこれを取る。十月、相州安陽県の銅冶村監官を復置す。先ず是に、詔して邢州の綦村・磁州の固鎮の両冶を留め、余りの創置の冶は並びに罷む。而して常平司が銅冶村は河北に近く、得利多しと言う。故に是の命有り。六年、詔して「坑冶の利は、二広が最も盛んである。比歳の所入は、熙寧・元豊に稽うるに、十に一に逮ばず。漕臣の鄭良に提挙経画せしめ、官属を分任して典掌計置せしめ、元豊以来の歳入の多き数を取りて額を立て、常賦と定め、坑冶司は預かるなかれ。」時に江・淮・荊・浙等九路において、坑冶凡そ二百四十五、鋳銭院監十八、歳額三百余万緡。五月、詔して「坑冶旧く転運司に隷するものは、熙寧・元豊・紹聖の法の如くすべし。崇寧以後常平司に隷するものは、崇寧の法の如くすべし。その江・淮等路の坑冶官属は、熙寧・元豊の員数の如くすべし。余りの路の官属は並びに罷め、仍って中書に提点官を選ばしむ。」

靖康元年、諸路の坑冶の苗礦は既に微か、或いは旧く有りて今無きものは、悉く蠲損を令し、凡そ民の承買する金場は並びに罷む。宋初、旧く坑冶有り、官場監を置き、或いは民に承買せしめて分数を以て官に中売す。初め諸路転運司に隷し、本銭も亦たこれに資す。その物は悉く内帑に帰す。崇寧已後、利穴を広く搜し、専売の賦益々備わる。凡そ提挙司に属するものは、これを新坑冶と謂い、常平の息銭と剩利銭を以て本と為し、金銀等の物は往々皆大観庫に積む。自ら蔡京始む。政和間、数え罷め数え復す。然れども告発の地は多く民田を壊し、承買する者は額を立てて重く、或いは旧く有りて今無くして、額損ぜず。欽宗即位し、詔して悉くこれを罷む。

南渡して、坑冶の廃興常ならず、歳入の多寡同じからず。今、紹興三十二年の金・銀・銅・鉄・鉛・錫の冶の廃興の数一千一百七十、及び乾道二年の鋳銭司の比較する所入の数をこれに附す。

湖南・広東・江東西の金冶二百六十七、廃するもの一百四十二。湖南・広東・福建・浙東・広西・江東西の銀冶一百七十四、廃するもの八十四。潼川・湖南・利州・広東・浙東・広西・江東西・福建の銅冶一百九、廃するもの四十五。旧額歳七百五万七千二百六十斤有奇、乾道の歳入二十六万三千一百六十斤有奇。

淮西・夔州・成都・利州・広東・福建・浙東・広西・江東西の鉄冶六百三十八、廃するもの二百五十一。旧額歳二百十六万二千一百四十斤有奇、乾道の歳入八十八万三百斤有奇。

淮西・湖南・広東・福建・浙東・江西の鉛冶五十二、廃するもの一十五。旧額歳三百二十一万三千六百二十斤有奇、乾道の歳入十九万一千二百四十斤有奇。

湖南・広東・江西の錫冶一百十八、廃するもの四十四。旧額歳七十六万一千二百斤有奇、乾道の歳入二万四百五十斤有奇。

宋初、諸冶は外は転運司に隷し、内は金部に隷す。崇寧二年、始めて石曹に隷す。建炎元年、復た金部・転運司に隷す。隆興二年、坑冶監官歳に買収する金四千両及び、銀十万両及び、銅錫四十万斤及び、鉛一百二十万斤及びに至る者は、一官を転ず。守倅部内歳に租額に比べ金一万両・銀十万両・銅一百万斤を増すものも、亦た一官を転ず。令丞歳の買収及び監官の格内の数に至る者は、半減して賞を推す。

慶元二年、宰執言う、「封樁の銀数は淳熙末年に比べ額を虧くこと幾百五十万。今、務場の所入は歳三十万に満たず、而して歳に三宮及び冊宝の費を奉ずること約四十万、恐らく愈々銀額を侵さん。権めて三分を率と為し、一分は銀を支払い、二分は会子を支払わんと欲す。」上曰く「善し」。

端平三年、赦に曰く「諸路州県の坑冶の興廃、観寺・祠廟・公宇・居民の墳地及び近き墳園林地にあるものは、法において人に告げるを許さず、亦た受理すべからず。訪聞するに官司は告発に利し、更に実を究めず、多く擾害を致す。自今より人戸の越訴を許し、官吏並びに訟する者は重ねて典憲を置く。及び坑冶停閉・苗脈発せざるの所において、州県が坑戸に勒令して虚しく歳額を認めしむるは、提点鋳銭司に核実追正せしむ。」

礬は唐に於いて晋州に平陽院を置きてその利を収む。開成三年、度支奏してこれを罷む。乃ち礬山を州県に帰す。五代以来、復た務を創め官吏を置く。宋これに因る。

白礬は晉州・慈州・坊州・無為軍及び汾州の霊石県より産出し、緑礬は慈州・隰州及び池州の銅陵県より産出し、いずれも官を設けて統轄し、鑊戸が製造して官に売り渡す。晉州・汾州・慈州の礬は、一百四十斤を一馱とし、銭六十を支給する。隰州の礬は一馱を三十斤減じ、銭八百を支給する。博売(卸売)の白礬価格は、晉州が毎馱二十一貫五百文、慈州はさらに一貫五百文を増す。緑礬は、汾州が毎馱二十四貫五百文、慈州はさらに五百文を増し、隰州は毎馱四貫六百文である。散売(小売)の白礬は、坊州が斤八十文、汾州が百九十二文、無為軍が六十文。緑礬は、斤七十文である。

建隆年間(960-963年)に詔して、「商人が幽州の礬を私販するを厳しく捕らえて没収せよ」と定めた。続いて、河東・幽州の礬を一両以上私販する者、礬三斤を私鬻する者、及び官礬十斤以上を盗む者は、棄市(斬首)に処すと定めた。開宝三年(970年)、私販が十斤に至り、私鬻及び盗みが五十斤に満たる者を死刑に増し、その他は罪に差等を設けた。太平興国初年(976年)、歳鬻(年間販売量)が充足しないため、詔して化外の礬を一両以上私販する者、及び私鬻が十斤に至る者は、いずれも律に照らして論決し、再犯者は全て配流し、還って再び犯す者は死刑とした。淳化元年(990年)、有司が言上して、「慈州の礬が滞積し、小民が多く山谷の僻奥の地で私鬻して利益を侵している。また緑礬は価格が低廉であり、晉州の礬と均しい法を適用すべきではない」とした。詔して私茶の罪賞と同様に処すとした。

先に、建隆二年(961年)、左諫議大夫劉熙古を晉州に派遣して礬の製置を命じ、商人に金銀・布帛・絲綿・茶及び緡銭を輸納させ、官が礬で償うことを許し、毎年課税を八十万貫増加させた。太平興国初年(976年)、歳博(年間取引額)は緡銭・金銀で計十二万余貫、茶で計三万貫余であった。端拱初年(988年)、銀・絹帛で二万余貫、茶で計十四万貫であった。この時、言者が「礬の代価を現銭で支払うと、商人が陳茶を持ち込んで取引し、豪商に利益をもたらし、国用には資さない」と述べた。詔して今後は金銀・現銭のみによる取引を許すとした。

至道年間(995-997年)、白礬の歳課は九十七万六千斤、緑礬は四十万五千余斤、売上銭は十七万余貫であった。真宗末年(1022年頃)、白礬は二十万一千余斤増加し、緑礬は二万三千余斤増加し、売上銭は六万九千余貫増加した。天聖年間(1023-1032年)以来、晉州・慈州の二州の礬は民に募集して売らせ、一季に礬一盆を売り、多いものは千五、六百斤、少ないものは六、七百斤で、四分の一を官に輸納し、残りは官が買い取った。無為軍も務を置いて礬を売ったが、後に民が自ら売ることを許し、官が場を設けて販売し、私売の禁令は私茶法と同様とした。六年(1028年)、詔して両蜀の礬専売の禁令を緩めた。

当時、河東の礬の在庫がますます多くなり、再び金帛・芻粟(飼料と穀物)による納入を許した。芻粟の虚估(割高な評価額)が高く、商人は納入による利益を得た。麟州の粟一斗の実価は百文であるが、虚估は三百六十文に増加し、礬の出官価格は二万一千五百文で、粟六石と交換するに過ぎず、粟の実価はわずか六千文に相当するが、礬一馱の本銭は既に六十文を費やしている。県官は礬専売の名目があるのみで、実際には利益がない。嘉祐六年(1061年)、芻粟による納入を廃止し、再び緡銭による納入を命じた。礬は百四斤を一馱とし、京師の榷貨務に銭を納入する者は、銭十万七千文を納め、麟州・府州に銭を納入する者は、さらに三千文を減じた。これにより、商賈がその利益を独占することができなくなった。皇祐年間(1049-1054年)、晉州・慈州から納入された礬は二百二十七万三千八百斤で、芻粟などと交換し、緡銭十三万六千六百文に相当した。無為軍の礬の売上は緡銭三万三千一百文であった。治平年間(1064-1067年)、晉州・慈州の礬は一百九万六千五百四斤減少した。無為軍の礬の売上銭は年間に定額の課税があり、発運使が管轄し、皇祐年間の数に増減はなかった。隰州の礬はこの時までに三十九万六千斤が納入され、やはり緡銭と交換して河東の歳糴(年間の穀物買い上げ)を補助した。

熙寧元年(1068年)、河東転運司に礬・塩の遺利(未収の利益)を経画することを命じた。李師中が言上して、「官が積んだ礬三百斤は、鹵分が揮発して消耗し、後には廃物となる恐れがある」とした。詔して商人に糧草を納入させ、直ちにこれで償うことを命じた。三年(1070年)、潞州の交子務を廃止した。これは糧草の納入と礬塩の算請(許可取得)を妨げるためである。慶州知事王広淵が言上して、「河東において、礬は利益の源泉として最も重要である。河東・京東・河北・陝西に別に礬法を立て、専ら提挙官を置くことを請う」とした。詔して光祿丞楊蟠を派遣して会議させ、報告させた。楊蟠が言上して、「坊州は礬を産出し、官は場を設けているが、商人は多く私売している。鑊戸を設置し、その数を定め、陝西北界の黄河、東は潼関を限り、南は京西・均州・房州・襄州・鄧州・金州・光化軍に至るまで、鑊戸に互いに監督させよ。もし私売して境界を越える者は、私白礬法のように禁じ、さらに官が私礬を獲得した際に夾雑(混ぜ物)で斤両を減らす法を増設せよ」とした。これに従った。

元豊元年(1078年)、畿内及び京東・京西の五路は晉州・隰州の礬の販売を許し、陝西は潼関以西・黄河以南で、京西の均州・房州・襄州・鄧州・金州に至るまで坊州の礬を販売し、西山・保州・州より産出する礬は、成都・梓州路で販売し、無為軍より産出する礬は、その他の路で販売すると定めた。私鬻及び越界販売する者は、私礬法に従う。

熙寧初年(1068年)以来、礬法が初めて変更された。歳課の収入は、元年が銭三万六千四百緡余であり、五年間増加を続け、熙寧六年(1073年)の平均値を取り、十八万三千一百緡余を新額として定めた。元豊六年(1083年)には、課税は三十三万七千九百緡に増加したが、無為軍の礬の歳課は一百五十万斤で、本銭一万八千緡を用いた。治平年間から元豊年間までの数に増減はなかった。

元祐元年(1086年)、戸部が言上して、「商旅が礬を販売するは、旧来その便に任せていた。ところが発運司が河東の例を用いることを請い、染肆鋪戸に連帯保証させて予め買わせ、甚だしく抑圧と煩擾を招いている」とした。詔して旧制の通りとした。元符三年(1100年)、崇儀使林像が上奏して、「河北の土礬を禁ずるは不便である。もし河北の産礬地に直ちに場を設けて官が買い上げ、価格を増して売り出し、晉州の礬の運搬を廃止すれば、官は純利益を得、運搬の労苦がなく、民は地産を資し、法を犯す弊害が省かれる」とした。詔して戸部に下した。

初め、熙寧・元豊年間(1068-1085年)、東南九路では官が自ら礬を売り、発運司が総轄した。元祐初年(1086年)に通商とし、紹聖年間(1094-1098年)に熙寧・元豊の制を復した。大観元年(1107年)、河北・河東の礬額を各二十四万緡、淮南を九万緡と定め、官売を廃止し、商販に従い、河東・河北・淮南に各提挙官を置いた。政和初年(1111年)、再び官鬻とし、商販を廃止して旧制の通りとした。淮南の礬事司は廃止して発運司に帰属させ、上供の礬銭を三万三千一百緡を額として責めた。三年(1113年)、有司が河北・河東及び淮南の礬額を減額することを奏上し、計十六万緡とした。四年(1114年)、礬額は再び大観の制に従った。五年(1115年)、河北・河東の緑礬は客商による東南九路への販売を許し、民間で現に使用している者は、通商地に籍を置き、新引(販売許可証)を買って帯同販売することを許し、大略塩法に倣った。宣和年間(1119-1125年)、比較して増減による賞罰を実施したが、間もなく、民を煩わせるとして廃止した。

建炎三年(1129年)、財用措置の黄潛厚が上奏し、商人が淮南の礬を東南諸路に販売することを許し、行在(臨安)に銭を輸納させ、引据(許可証)を持って場に赴き礬を受け取ることを許した。

紹興十一年、鑄錢司の韓球の上言により、撫州の青膽礬は一斤につき一百二十文、土礬は一斤につき三十文省とし、鉛山場の所産は撫州のものより品質が高いので、青膽礬は一斤を一百五十文、黃礬は一斤を八十文と定めた。二十九年、淮西提挙司の上言により、紹興二十四年から二十八年までの収めた礬銭の一年間の平均額四萬一千五百八十五緡を定額とした。その他の産礬の地、すなわち潭州瀏陽の永興場や韶州の岑水場などは、いずれも場を置き引(販売許可証)を与え、毎年定額の納入があった。ただ漳州の東は海に極めて近く、大山が深く険阻であり、礬を採る利益はあるものの、潮州・梅州・汀州・贛州の四州の奸民がそこに集まり、その頭目は大洞主・小洞主と号し、土地の者と行商人は、みな盗賊であった。

宋の経費は、茶・塩・礬のほか、香が利益の大きいものであったので、官がこれを専売した。建炎四年、泉州で抽買(一部を官買)した乳香は十三等に分け、八萬六千七百八十斤余りであった。詔してこれを榷貨務に送らせて包みに詰めて売り出させ、陸路では三千斤、水路では一萬斤を一綱(輸送単位)とした。

紹興元年、詔して「広南市舶司が抽買した香は、行在(臨安)の品等に合わせて套(包み)にし、人を募って算請(販売権購入)させよ。その売り上げた代金は、五萬貫ごとに軽貨(体積の小さい高価品)に換えて行在に輸送せよ」とした。六年、泉州知事の連南夫が上奏して請うたところによれば、諸市舶の綱首が船舶を招き誘い、貨物を抽解(関税徴収)し、累計の価額が五萬貫・十萬貫に達した者には、差等をつけて官職を補任するというものであった。大食(アラビア)の蕃客囉辛が乳香を販売して価額三十萬緡に達し、綱首蔡景芳が船舶貨物を招誘して収めた利息銭が九十八萬緡に達したので、それぞれ承信郎に補任された。福建・広南の舶務監官は、抽買した乳香が百万両に達するごとに一階転官し、また商人を募って蕃国に赴かせて販売させ、船が帰還したのがその者の罷任後であっても、同様に推賞(恩賞を与える)した。しかし海商が蕃国に入るのは、興販(貿易)を以て招誘(業績)とし、僥倖を求める者が甚だ多かった。

淳熙二年、郴州・桂州で賊徒が起こり、その原因が乳香の科買(割当て購入)にあるとされた。詔して「湖南路に現存する乳香はすべて行在の榷貨務に輸送し、科降(割当て供出)を免ずる」とした。十二年、榷貨務の乳香を諸路に分撥して売り出させ、売上高が一萬貫に達するごとに左蔵南庫に輸送させた。十五年、諸路で分売する乳香が民を煩わせるとして、ただ榷貨務において客商を募り算請させるのみと命じた。

紹熙三年、福建市舶司の乳香が不足したため、詔して以前のように博買(官買)することを命じた。開禧三年、博買を停止した。嘉定十二年、臣僚が金銀で博買することは遠夷に流出させて惜しいと上言したので、命じて有司に絹帛・錦綺・磁器漆器の類のみで博易(交易)させた。その来航の多寡に任せ、もし来なければそのままにし、必ずしも重要視しなかった。