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宋史
志第一百三十七 食貨下六
◎食貨下六○茶下
茶。天聖三年八月、詔して翰林侍講學士孫奭等に利害を同究せしむ。奭等言う、「十三場の茶、積みて未だ売れざるもの六百一十三萬餘斤。蓋し商人に貼射を許せば、則ち善きものは皆商人に入り、其の官に入るものは皆粗悪にして時を得ず、故に人肯て売らざるなり。又園戶の歳課を輸して足らざる者は、商人の入息の如くせしむ。而して園戶は皆細民、貧弱にして力能く給せず、煩擾益甚だし。又奸人、貼射を名と倚り、強市盗販し、官利を侵奪す。其の弊革めざるべからず」と。十月、遂に貼射法を罷め、官復た本錢を給して茶を市う。商人の錢を入れて茶を售る者、奭等又た之を優せんと欲し、凡そ錢を京師に入れて海州・荊南の茶を售る者は、損じて七萬七千と為し、真州等四務十三場の茶を售る者は、又た第に之を損じ、給する茶は皆直十萬とせんことを請う。是より、河北の入中復た三説法を用い、旧に東南緡錢を給する者は、京師榷貨務の錢を以て之を償う。
奭等の議既に用いられ、益々李諮等の變法を非とす。明年、計置司の上ぐる天聖二年の比視増虧數の差謬を摭ひ、詔して嘗て典議の官張士遜等に條析せしむ。夷簡言う、「天聖初、環慶等路數たび芻糧給せざるを奏し、京師の府藏常に緡錢を闕き、吏兵の月奉僅かに能く取足す。變法より以来、京師錢を積むこと多し、邊計乏しきを告ぐるを聞かず、中間蕃部乱を作し、兵馬を調發すれども、有司に仰給して不足の患無し。此を以て之を推すに、頗る成效有り。三司の比視數目差互同じからず、執政の能く自ら較計する所に非ず」と。然れども士遜等猶お罰せられ、諮三司使を罷む。初め、園戶の歳課を負ふ者は商人の入息の如くし、後償ふ能はざるに至る。四年に至り、太湖等九場凡そ息錢十三萬緡を逋す。詔して悉く之を蠲す。然れども奭等の製を改めて以来、茶法浸く壞る。
景祐中、三司使孫居中等言う、「天聖三年變法より以来、河北の入中虚估の敝、復た乾興以前の類にし、縣官を蠹耗す。請う、復た見錢法を行わん」と。時に諮已に執政せり。三年、河北轉運使楊偕亦た三説法の十二害、見錢法の十二利を陳べ、以て謂う、三説の支ふる所の一分の緡錢を用いるを止むれば、以て一歳の邊計を贍ふに足ると。遂に諮と參知政事蔡齊等に合議せしめ、且つ商人に詔して其の利害を訪わしむ。是歳三月、諮等請う、河北の入中虚估を罷め、實錢を以て芻粟を償ひ、實錢を以て茶を售り、皆天聖元年の製の如くせんと。又た北商の券を持して京師に至るに、旧は必ず交引鋪之が為に保任を得、並びに三司の符驗を得て、然る後に錢を給す。是を以て京師の坐賈率多く邀求し、三司の吏稽留して奸を為す。乃ち悉く之を罷め、商に命じて券を持ち徑に榷貨務に趣きて驗實せしめ、直ちに之に錢を償わしむ。初め、奭等商人の入錢の數を増すと雖も、猶お利薄しと以為へば、故に競ひて虚估の券を市い、以て厚利を射んとし、而して錢を入るる者寡く、縣官日を逐うて侵削せられ、京師蓄藏少なし。是に至り、諮等請う、天聖三年の入錢數を視て第に一千有奇を損じ、入中の増直も亦た天聖元年の數を視て第に三百を加えんと。詔して皆之を可とす。前に已に虚估を以て券を給する者は、旧の如く茶を給し、仍た景祐二年已前の茶を給す。
既にして諮等又た言う、「天聖四年、嘗て陝西の入中願ひて茶を得んとする者を許す。每に錢十萬に、所在に券を給し、徑に東南に趣きて茶十一萬一千を受く。茶商利を得、爭ひて陝西の券を售げんと欲し、故に復た錢を京師に入れず。請う、之を禁止せん」と。並びに商人の便ならざる所を言ふこと、其の事甚だ悉し。請う、更に約束を為し、私販の禁を重くし、商人に錢五分を輸せしめ、餘を籍を置き保を召して、期を半年とし悉く償はしめ、期を失する者は其の數を倍せしめんと。事皆施行せらる。諮等復た言う、「奭等の變法より以来、歳に財利を損ずること勝計すべからず。且つ天聖九年至る景祐二年を以て之を較ぶるに、五年の間、河北の入中緡錢五百六十八萬を虚費す。今一旦旧法を用い復たせば、恐らくは豪商便せず、權貴に依托して以て朝廷を動かさん。請う、先づ期を以て申諭せん」と。是に於て帝為に詔を下して戒敕し、而して縣官の濫費此より少なくなり。
久しくして、上書する者復た言う、「變法より以来、歳に京師の金帛を輦し、河北に於て芻粟を易え、居民を配擾し、内に府庫を虚にし、外に商旅を困す。便ならず」と。寶元元年、御史中丞張觀等に命じて三司と之を議わしむ。觀等復た請う、錢を京師に入れて以て真州等四務十三場の茶を售り、直十萬の者、又た景祐三年の數を視て之を損じ、錢六萬七千と為し、河北に入中して願ひて茶を售らんとする者、又た一千を損ぜんと。既にして詔又た第に二千を損じ、是に於て錢を京師に入るるは止めて錢六萬五千と為し、河北に入中するは錢六萬四千のみと為す。
康定元年、葉清臣三司使と為る。是歳河北穀賤し。因りて内の地諸州に三説法を行い、人を募りて入中せしめ、且つ東南の鹽を以て京師の實錢に代えんことを請う。詔して糴を止めて二百萬石とす。慶曆二年、又た請う、人を募りて芻粟を入るることを康定元年の法の如くし、數足れば而して止めんと。是より三説稍々復た用いらる。八年、三司鹽鐵判官董沔亦た三説法を復たせんことを請う。三司然りと以為ひ、因りて言う、「見錢法行はるるより以来、京師の錢入るる少なく出づること多し。慶曆七年、榷貨務緡錢入るる百十九萬、出づる二百七十六萬。此を以て之を較ぶるに、恐らくは以て贍給すべからず。請う、沔の議の如く、茶・鹽・香藥・緡錢の四物を以て之に如くせん」と。是に於て四説の法有り。初め、詔して止むるに並邊諸州に行はしめ、而して内の地諸州の有司蓋し未だ嘗て請はざるも、即ち康定元年の詔書を以て事に従ふ。是より三説・四説の二法並びに河北に行はれ、數年を経ずして、茶法復た壞る。芻粟の直、大約虚估十の八を居し、米一斗七百、甚だしきは千錢。券京師に至り、南商の抑ふる所と為り、茶每に直十萬、止むるに錢三千に售る。富人時に乗じて収蓄し、転じて厚利を取る。三司之を患ひ、貼買の法を行はんことを請う。每に券直十萬、市估三千に比し、倍して六千と為し、復た錢四萬四千を入れ、貼して五萬と為し、茶直十萬を給す。詔又た錢一萬を損ず。然れども亦た其の直を平らぐるに足らず。久しくして、券比して錢三千に售るもの、纔かに二千を得、往々売れず。北商利無く、入中する者寡く、公私大いに弊る。
皇祐二年(1050年)、定州知事韓琦および河北転運司がともに上言したため、三司に下して議させた。三司が奏上して言うには、「法を改めて以来、穀物二百二十八万余石、芻五十六万余囲を得たが、費やした緡銭は百九十五万有余であり、茶・塩・香薬はさらに緡銭一千二百九十五万有余に及ぶ。茶・塩・香薬は民間での需要に限りがあり、榷貨務の歳課は五百万緡を超えない。今、民間に散らばっているものが既に多く、各地に積んで売れないため、交引の価値もそれに従って下落した。茶十万の価値は、旧来の銭六万五千であったが、今はわずか二千に止まる。香一斤は旧来三千八百銭で売られていたが、今はわずか五六百銭である。公私ともにその利益を失っている。見銭法を復活させ、すべて景祐三年(1036年)の規定を用いることを請う。」そこで詔を下して言うには、「近ごろ食貨法が崩れ、芻粟の価格が倍増し、朝廷の費用は日々増大し、商人は行商せず、豪富の家が時機に乗じて利益を貪り、役人がこれに縁って奸をなす。今後、建議する者は、必ずその道理を究め、実施可能であるかを審らかにせよ。もし事が上奏された後に検証して実状がなければ、重罰に処す。」
この時、見銭法に改めたが、京師に蓄積された銭が少なく、入中(商人が辺境に物資を納入し、京師で代価を受け取る制度)の費用を支払うのに不足する恐れがあったため、帝はさらに内蔵庫の銭帛百万を出して三司に賜った。しばらくして、入中する者が次第に多くなり、京師の府庫はますます乏しくなった。商人は交引を持って待ち、動かずに年月を過ごし、ついにその価値を損じて蓄積商人の家に売り渡すに至った。利益を論ずる者は、内蔵庫の銭を出して少し価格を上げて売却することを請い、毎年余剰の利益五十万緡を得られるとした。施行された後、諫官範鎮が言うには、内蔵庫と榷貨務はいずれも朝廷の管轄であるのに、どうして榷貨務がわざと商人を滞らせ、内蔵庫に時機に乗じて利益を貪らせるようなことがあろうか。体制を損ない法を壊すこと、これより甚だしいものはない。詔して即時にこれを廃止した。しかし、これ以降、辺境沿いでの虚估(実際より高い評価額)の弊害が再び起こった。
至和三年(1056年)、河北提挙糴便糧草の薛向が建議した。「辺境沿い十七州軍は、毎年の計画で粟百八十万石、銭百六十万緡、豆六十五万石、芻三百七十万囲を必要とする。辺境沿いの租賦で毎年得られる粟・豆・芻は五十万であり、残りはすべて商人の入中による。辺境沿いへの入粟を廃止し、京師から銭帛を河北に運び、専ら見銭で和糴することを請う。」当時、楊察が三司使であり、その説を用いることを請うた。そこで絹四十万匹を運び、緡銭七十万に相当させ、さらに見銭を蓄え、上等の茶場八箇所を選び、総計緡銭百五十万として、京師に貯蔵した。そして商人を募って銭を辺境沿いに納入させ、その道のりの遠近を計算し、優遇してその価値を増し、これをもって償う。かつ、運搬の費用を省く。ただし、芻豆の入中は従来通り、その価値を計算して茶で償う。施行されて数年も経たないうちに、論者が言うには、運搬や折納(物納を銭納に換算すること)が煩雑で住民を煩わせ、かつ商人の入銭は少なく、芻豆の虚估はますます高くなり、茶はますます安くなった。詔して翰林学士韓絳らに三司で経度(計画・検討)させた。韓絳らが言うには、「法を改めて以来、辺境の備蓄は整い、商旅はかなり流通している。軽々しく変更すべきではない。ただ、運搬の費用はすべて官が支給し、当路で旧来税絹を納めていた者は、見銭に折納してはならない。芻豆の入中は廃止して茶を与えず、現地で市価を平準にし、京師では銀・綢・絹で償う。」これ以降、茶法はもはや辺境の買い入れに必要とされなくなり、通商の議論が起こった。
当初、官が茶を専売して以来、民間の私的な貯蔵や密売はすべて禁じられ、臘茶(固形茶)の禁令は他の茶より厳しく、違反者の罪は特に重く、私茶を告発・逮捕した者にはすべて賞を与えた。しかし、規制がますます厳密になるにつれて禁令を犯すことがますます増え、毎年報告される刑罰は数えきれないほどであった。茶園の農民は徴収に苦しみ、役所は縁故をたどって侵擾し、罪に陥って破産・逃亡する者が毎年のようにいた。また、茶法がたびたび変わり、歳課は日々削減された。至和年間(1054-1056年)の中頃、毎年買い入れる茶は淮南でわずか四百二十二万余斤、江南三百七十五万余斤、両浙二十三万余斤、荊湖二百六万余斤であり、ただ福建のみが天聖末年(1032年)に五十万斤に増え、詔して特に五万斤を減らしたが、この時には七十九万余斤に増加した。毎年売却する銭を元本と利息を合わせて計算しても、わずか百六十七万二千余緡に過ぎない。官茶は各地に陳積し、朝廷の得る利益はわずかであり、論者は皆、禁令を緩めて便利にすべきであると言った。
先に、天聖年間(1023-1032年)に、上書して茶・塩の課税が不足していると述べる者がいた。帝は執政に言った。「茶・塩は民が食するものであるのに、強いて法を設けてこれを禁じ、違反者が多い。ただ、経費がまだ広大であるため、禁令を緩めることができないだけである。」景祐年間(1034-1038年)、葉清臣が上疏して言った。
「山沢には産物があり、天が民を恵むために与えたものである。兵糧が充足せず、財政担当の臣が兼ねて利益を図り、草の芽や木の葉であっても、私的に専有できず、茶園に対役人を置き、随所に管理を立てる。一切を官が禁じ、人が犯せば刑に処し、その資産を奪うだけでなく、さらに罪を加え、黥面や流刑が日々報告され、違反を繰り返して悔い改めない。もしも厚利や重貨があり、国用を助けることができるならば、聖仁は民の苦しみを憐れみ、罪なき者を哀れんで赦し、なお禁令を緩め刑罰を緩やかにし、民のために害を除くであろう。度支の費用は甚だ大きく、専売取引の収入は甚だ薄く、茶園の農民を刳り剥ぎ、商人に奉仕し、朝廷に聚斂の名を負わせ、役所に虐濫の罰を増やし、名目を虚偽に張り、黎民を刻みむしばむ。
建国以来、法が弊害を生ずればすぐに改めるが、改法の理由を詳しく見ると、国の実益のためではなく、すべて商人と役人が協力して計略を巡らし、利権を逆に持ち、更張を幸いとして、倍の奇羨(法外な利益)を求めるものである。富人の豪族は座して商売の利益を得、小商人や下層の商人は日々削り取られ、官と私の間には、いずれも遠大な策略ではない。臣はひそかに茶の利益の収入を計算してみた。景祐元年(1034年)を基準として、元本を除いた実収の利息銭は五十九万余緡である。また、天下で売られている食茶(消費用の茶)は、元本と利息を合わせた歳課もわずか三十四万緡に及ぶ。一方、茶商が現在通行している六十五州軍で収める税銭は既に五十七万緡に達している。もし天下で通商を許し、ただ税銭を収めるだけで、自然と数倍に及び、すなわち榷務・山場および食茶の利益をすべて取り込むことができる。さらに、度支の元本を費やさず、専売取引の官を置かず、運搬の労を起こさず、徒罪や黥刑の法を濫用しない。
臣は考えるに、民衆の弊害には時として行き詰まりがあり、盛徳の事柄は聖人を待って惑わされない。議者は、専売には定率があるが、徴税には一定の基準がなく、通商の後は必ず歳計が不足すると言う。臣は管氏の塩鉄法を調べると、人口に応じて賦を課した。茶は人が用いるもので、塩鉄と同等であり、必ず天下に通行させ、人口によって賦を定めれば、民は善い利益を得、さらに厳刑を去り、人口数に応じて銭を出せば、人は厭って取られることはない。景祐元年、天下の戸数は千二十九万六千五百六十五、丁数は二千六百二十万五千四百四十一である。その三分の一を産茶州軍とし、内外の城郭と郷村のうちさらに三分の一を占める。丁賦銭を三十とし、村郷の丁賦を二十とする。産茶しない州軍の城郭・郷村は前と同じように計算し、さらに十銭ずつ減らすと、毎年の計算で既に緡銭四十万に及ぶ。茶の専売の利益は、およそ九十余万緡に止まる。通商して税を収め、かつ旧税の三倍を率とすれば、百七十余万緡を得ることができ、さらに口賦の収入を加えれば、二百十余万緡となる。あるいはさらに収税の則例において、わずかに増益を加えれば、増加する分は少なく、集まるものはますます厚くなる。官自らが専売取引を行い、民を刑に駆り立てるのと比べれば、利と病は相俟って、明らかに察することができる。」当時、三司に下して議させたが、皆、実行不可能であると考えた。
嘉祐年間に至り、著作佐郎何鬲・三班奉職王嘉麟がまた皆上書して、茶の本銭の給付を廃止し、園戸に貿易を許し、官は租銭を収め、所在の征算を収めて、榷貨務に帰して辺境の糴買の費用に充てるべきことを請うた。これにより利源を疏通し民力を寛ぐことができると。嘉麟は『登平致頌書』十巻・『隆衍視成策』二巻を撰してこれを上進し、淮南転運副使沈立もまた『茶法利害』を集めて十巻とし、通商の利を陳述した。時に富弼・韓琦・曾公亮が執政し、これに向かう意向を決し、帝に力説した。三年九月、韓絳・陳升之・呂景初に命じ、三司に局を置いてこれを議させた。十月、三司が言うには、「茶課の緡銭は毎年二百二十四万八千を入るべきところ、嘉祐二年にはわずか一百二十八万に及び、また人を募って銭を入れさせたが、皆虚数あり、実は八十六万であり、そのうち三十九万余りは本銭であり、子銭は四十六万九千を得るに過ぎず、しかも輦運の糜耗喪失と官吏・兵夫の廩給雑費は、まだ計上していない。園戸の輸納に至っては、侵擾日増しに甚だしく、小民は利に趨いて法を犯し、刑辟ますます繁く、獲利は甚だ少なく、弊害は甚だ大きい。至和以後の一年の数を基準とし、得た息銭を茶民に均等に賦課し、その買売を恣とし、所在で算を収めるべきである。官を遣わして利害を詢察させ、奏聞を請う。」詔して官を遣わし六路に分行させ、還って言うには三司使の議の如くが便宜であると。
四年二月、詔して曰く、「古は山沢の利を民と共にし、故に民は下に足り、君は上に裕かで、国家に事無く、刑罰以て清し。唐の建中時に至り、始めて茶禁あり、上下利を規り、二百年を垂れる。聞くに比来患い益々甚だしくなり、民は誅求の困を受け、日々ただ諮嗟し、官は濫悪の入を受け、歳々陳積し、私蔵盗販し、犯す者実に繁く、厳刑重誅は、情に忍びず、これは江湖の間、幅員数千里に、陷阱を為して吾が民を害するものである。朕心惻然として、これを念うこと久し。間もなく使者を遣わし往ってこれを問わしむるに、皆歓然としてその禁を弛めることを願い、歳入の課を時を以て上官す。一二の近臣、その状を条析す。朕なお慊然たるが若く、また歳輸においてその数を裁減し、饒阜を得させ、以て相い生を為し、商利を通ぜしむ。歴世の弊、一朝に以て除き、著して経常と為し、復た更に制せず、上を損じ下を益し、以て吾が民を休ましむ。なお慮う、立異を喜ぶの人、縁って奸を為すの党、妄りに奏議を陳べ、以て官司を惑わすを、必ず明刑を置き、或いは貸すこと無からしめん。」と。
初め、遣わされた官は既に禁を弛めることを議し、これにより三司の歳課を茶戸に均賦し、凡そ緡銭六十八万余りと為し、毎年県官に輸納させた。茶を輸納した時に比べ、その出は幾倍かであり、朝廷はこれを難しとし、その半を損じ、毎年緡銭三十三万八千余りを輸納させ、これを租銭と謂い、諸路の本銭と悉く儲えて辺糴を待った。ここより唯だ臘茶の禁は旧の如く、余りの茶は天下に肆行した。論者はなお朝廷が人を恤うるに志し、刑罰を省かんとするは、その意良く善しと謂う。然れども茶戸は輸銭に困しめられ、商賈は利薄く、販鬻する者少なく、州県の徴税日増しに蹙り、経費充たず。学士劉敞・欧陽修は頗るその事を論じた。敞の疏の大要は、先には百姓の山を摘む者は、官より銭を受けしが、今はかえってこれに官に銭を納めしむ、受納の間に、利害百倍す。先には百姓の法を冒して茶を販する者は罰せられたるのみ、今は悉く民に均賦し、賦時に入らずんば、刑もまたこれに及ぶ、これは良民が法を冒する者に代わって罪を受く。先には大商富賈は国のために懋遷し、州郡はその税を収めしが、今は大商富賈行わず、則ち税額登らず、かつ国用乏し。修は言う、新法の行わるるは、一利ありて五害ありと、大略敞の意と同じ。時に朝廷は方に衆論を排してこれを行い、敞等は言うと雖も、聴かれざりき。
治平年間、歳入は臘茶四十八万九千余斤、散茶二十五万五千余斤、茶戸租銭三十二万九千八百五十五緡、また本銭四十七万四千三百二十一緡を儲け、内外総入の茶税銭は四十九万八千六百緡、これを推して茶法の得失を見るべし。天聖以来、茶法屡々変易し、嘉祐に始めて通商を行い、議者或いは不便と為すと雖も、法を更むるの意は則ち民を優するを主とす。
熙寧四年、神宗大臣と昔の茶法の弊を論じ、文彦博・呉充・王安石各々その故を論ずるも、然れども茶法には未だ変ずる所無し。及び王韶が湟を開くの策を建て、経略を委ねらる。七年、始めて三司幹当公事李杞を遣わし蜀に入り経画して茶を買い、秦鳳・熙河において馬を博せしむ。而して韶言う、西人は頗る善馬を以て辺に至り、嗜むは唯だ茶のみ、茶乏しくして市す。即ち詔して杞を促し見る茶に拠り水陸運致を計らしめ、また銀十万両・帛二万五千・度僧牒五百をこれに付し、常平及び坊場の余銭を仮り、著作佐郎蒲宗閔を以て同しくその事を領せしむ。初め、蜀の茶園は、皆民の両税地にして、五穀殖えず、唯だ茶を種うるに宜し。賦税は一例に折輸し、蓋し銭三百と為せば、折輸して綢絹皆一匹。若し銭十と為せば、則ち折輸して綿一両。銭二と為せば、則ち折輸して草一囲。役銭もまたその賦に視る。民は茶を売り衣食を資し、農夫の田を業とするに異ならず、而して税額総三十万。杞命を受けて経度し、また詔して官属を調挙するを得、乃ち諸州に属して官場を創設し、歳増の息を四十万と為し、而して榷禁の令を重くす。その輸受の際、往々その斤重を厭い、その価直を侵し、法既に急に加わる。八年、杞疾を以て去る。
先に、杞等は歳十万の息を増やし、既にして運茶積滞し、歳課給せず、即ち彭・漢二州において毎年布各十万匹を買い、以て脚費を折り、実に布の息を以て茶利を助けんと画策す。然れども茶もまた積滞免れず。都官郎中劉佐また議す、毎年解塩十万席を易え、回車船を顧みて運び蜀に入れ、而して商販を禁ず、蓋し布もまた敷き難からんことを恐るるなり。詔して既に佐を以て杞に代え、未だ幾ばくもせず、塩法また行い難く、遂に佐を罷む。而して宗閔は乃ち議す、川峽路の民茶は息を什の三を収め、尽く官場に売り、更に私交易の令を厳にし、稍々重くして徒刑に至らしめ、仍って縁身の所有物を没し、以て賞給を待つ。ここにおいて蜀茶尽く榷せられ、民始めてこれに病まれる。
十年、彭州知州呂陶言う、「川峽四路の出す茶は、東南に比し十も一に及ばず、諸路は既に通商を許すも、両川は却って禁地と為り、治体を虧損す。解州に塩池有るが如く、民間の煎ずる者は乃是れ私塩、晉州に礬山有るが如く、民間の煉ずる者は乃是れ私礬、今川蜀の茶園は、皆百姓の己が物にして、解塩・晉礬と相同じからず。また市易司は百貨を籠製し、歳出息銭は什の二を過ぎず、然れど必ず一年を率とす。今茶場司は務めて法を重く立つるに、民茶を尽く榷し、随買随売し、息を什の三を取る。或いは今日十千の茶を買い、明日即ち十三千と作ってこれを売り、変転休まず、歳終に比するまで、豈に三分に止まらんや。」と。因って劉佐・李杞・蒲宗閔等が苟も進用を希い、必ず息三分を出さんと欲し、茶戸をして害を受けしむるを奏す。始めて詔して息は止めて什の一を収め、佐は措置乖方に坐して罷められ、国子博士李稷を以てこれに代え、而して陶もまた罪を得。稷は李杞の例に依り三司判官を兼ね、仍って権を委ねて員を限らず挙劾せしむ。
侍御史周尹が蜀中における茶の専売が民の害となっていると論じ、罷免されて湖北刑獄の提点となった。利州路の漕臣張宗諤・張升卿が茶場司を廃し、従来通り通商に戻すことを議し、詔が李稷に下された。李稷はちょうど茶の利益で功を求めようとしており、宗諤らの上陳はすべて疎漏で誤りであり、罪は赦すべからずと奏した。赦令があったにもかかわらず、なお皆二等の貶秩に処せられた。ここにおいて李稷は、売茶官が非才であれば対換を許し、欠員があれば前資の待闕官から差充すること、茶場司の事柄については州郡が職を越えて聴断してはならないと建議した。また茶価の増減が一定しないため、中価を定めて裁断し、歳入の課額を定め、官吏に対する酬賞を設けた。そして三路三十六場の大小使臣は員数を限らなかった。園戸が黄花・秋葉茶を採造することを厳しく禁じ、違反した者は没官とした。蒲宗閔もまた李稷に倣い、官吏を挙劾することを許され、その権力を重くした。二人はともに利益を搾り取り、苛酷であった。茶場の監官が買い入れた茶が精良で、かつ五千馱から一万馱に満たない場合、等級に応じて賞を差別し、買い入れた茶が粗悪で偽濫のものは、不足分を贓罪として論じた。茶場のある州軍の知州・通判はすべて提挙を兼ね、経略使の所在地では通判に委ねた。また南茶が熙河・秦鳳・涇原路に入ることを禁じ、私販の臘茶に関する法に準じた。
熙寧十年冬より茶法を推行し、元豊元年秋まで、凡そ一年間で、課利および旧来の界息税を通算して七十六万七千六十余緡を得た。帝は李稷が法の趣旨を推し究め、日々事功を成し遂げているとして、速やかに昇進させ、在職者を勧奨すべきとし、ついに権発遣の官を落として都大提挙茶場とし、永興軍等路提挙常平範純粹を同提挙に用いた。久しくして、李稷の言を用いて司を秦州に移し、李杞の以前の功労を記録して、その子の李玨を将作監主簿に試用した。蒲宗閔はさらに巴州などの産茶地においてすべて専売法を用いるよう請うた。
五年、李稷は永楽城で死に、詔して陸師閔を代わりとした。師閔は李稷が茶を治めて五年間、諸経費を除いた純益が四百二十八万余緡に上ったと奏し、詔して田十頃を賜った。しかし師閔の専売による利益追求は、以前よりも一層苛酷で、「文州・階州は接しているが茶法が異なり、階州は禁地で博馬・売茶場があるが、文州だけが通商地である。文州・龍州の二州をともに禁榷とし、なお川路の余剰茶貨を陝西に運び売却することを許し、成都府に博売都茶場を置くことを乞う」と建議した。事柄はすべて施行された。初め、群牧判官郭茂恂が、茶を売って馬を買うことは、事実上相互に必要であると上言し、詔して茂恂を同提挙茶場とした。この時、師閔は買馬司が茶場を兼領すると、茶法が自立できなくなるとし、詔して買馬司の兼領を罷めさせた。茶場都大提挙は転運使と同等とし、同管幹は転運判官と同等として、その任を重くした。賈種民が新たに茶法を立てると、師閔は茶場は他の場務とは異なると論奏し、詔してすべて旧条を用いた。初め、李杞が諸州の茶場を増やし、熙寧七年から元豊八年までに、蜀道の茶場は四十一、京西路金州の場は六、陝西の売茶場は三百三十二となり、税息は李稷の時に五十万に増え、師閔の時に百万となった。
元祐元年、侍御史劉摯が奏疏を上して言った、「蜀茶の産出は数十州に過ぎないが、人はこれに頼って生計を立てている。茶司はすべて専売して買い上げる。園戸に一本の茶樹があれば、官がこれを買い上げ、その額は数十斤に及ぶ。官が給する銭は、公事における消耗で、名目は一様でなく、給借・保任、輸納・視験はすべて牙儈が主宰するので、牙儈に費やすものもまた幾何かを知らない。これは官が園戸に対して平市と名乗りながら、実はこれを奪っているのである。園戸には逃れて免れる者もあり、死を選んで免れる者もあり、その害はなお隣伍に及ぶ。茶を伐採しようとすれば禁があり、植え増そうとすれば買い上げが加わる。故にその俗諺に、地は茶を生むのではなく、実に禍を生むのだという。願わくは使者を遣わし、茶法の弊を考査して、蜀民を蘇らせられたい」。右司諫蘇轍が引き続き言った、「呂陶がかつて茶法を改め、長引のみを行い、民に自販させ、毎緡の長引銭を百とするよう奏した。詔はその請いに従い、民はようやく息肩の望みを持った。孫迥・李稷が蜀に入り商度し、力を尽くして掊取し、息銭・長引を併行したため、民間は始めて容易でなくなった。かつ盗賊の贓が二貫に及べば、徒一年に止まり、賞銭は五千である。今、民が銭八百で私的に茶四十斤を買う者がいれば、直ちに徒一年、賞銭三十千とする。立法が苟くも自己の便益のみを図り、軽重の宜しきを顧みない。そもそも茶法を造立した者は皆、傾險の小人で、事体を識らない」。そして五つの害を詳しく陳述した。呂陶もまた利害を条上し、詔して黄廉に体量させた。未だ到着しないうちに、劉摯はまた陸師閔がほしいままに不法を行い、なお任に留まるべきでないと上言した。詔は直ちにこれを罷免した。先に、師閔が茶の専売を提挙した時、その行う職務は他の司が一切預かり聞くことができず、事権は震え上がるほどで、患いは深く密であった。黄廉が茶事を領することになってから、ようやく茶事に関して侵損・戾法があるもの、または措置が未だ適当でないもの、および訴訟があるものは、元豊の令に依り、他の司が関送することを聴くよう請うた。十一月、蒲宗孟もまた李稷に附会して茶を売ったことで罷免された。
翌年、熙河・秦鳳・涇原の三路の茶はなお官が計置し、永興・鄜延・環慶は通商を許し、茶で穀物を易えるものはすべて従前通りとし、転運司の和糴価を超えてはならず、その博易した斛斗には利息を取らないこととした。七年、詔して成都等路茶事司の額本を三百万緡とした。
紹聖元年、再び陸師閔を都大提挙成都等路茶事とし、陝西でも再び禁榷を行った。師閔は龍州をなお禁茶地とし、すべての茶法は元豊の旧条を用いるよう奏した。師閔は再び用いられてから、哲宗の世の終わりまで、その掊克の跡は前日の如く顕著ではなく、したがって建明も稀であった。
諸路における茶については、神宗・哲宗朝に大きな変更はなかった。熙寧八年、かつて都提挙市易司に歳々商茶を買い入れ、三百万斤を額とするよう詔した。元祐五年、六路の茶税租銭について、諸州の通判・転運司が月次および歳終に都数を比較する法を立てた。七年、茶を提刑司に隷属させ、税務はさらに雑税に改易して収受してはならないとした。紹聖四年、戸部が言った、「商旅の茶税は五分である。治平の条で輸送の期限を既に寛大に定めたが、また課入に基準がないことを慮り、故に限約を定めて、さらに延期させないようにした。元祐年中、しばしば一季延期し、課入が漏失した。かつ茶税の歳計は七十万緡で、十年間積もっても未だ検査したことがない。内外に官を委ね、一年を期として駆算して奏聞することを請う」。詔はその議を聴き、期限延長の令は一時のものであり、承用してはならないとした。
崇寧元年、右僕射蔡京が言うには、「祖宗は禁榷法を立て、歳に収むる淨利凡そ三百二十餘萬貫、而して諸州の商稅七十五萬貫有奇、食茶の算は是に在らず、其の盛時の幾五百餘萬緡なり。慶暦の後、法製浸く壞れ、私販公行し、遂に禁榷を罷め、通商の法を行ふ。自ら後、商旅の至る所、官と市を爲し、四十餘年、利源浸く失す。謂ふらくは、荊湖・江・淮・兩浙・福建の七路の産する茶は、仍舊として禁榷官買とし、復た民に科する勿れ、即ち産茶州郡に隨ひて場を置き、商人園戶の私易の禁を申し、凡そ場地を置く園戶の租折稅は仍舊とす。産茶州軍は其の民の場に赴きて息を輸するを許し、斤数を量り限り、短引を給し、旁近の郡縣に便鬻せしむ;餘は悉く商人の榷貨務に於て金銀・緡錢或は邊糧草を入納するを聽し、即ち本務鈔を給し、便を取って場に算請し、別に長引を給し、指す所の州軍に從ひて之を鬻かしむ。商稅は場より長引を給し、沿道登時に批發し、指す所の地に至り、然る後に稅を計り盡く輸せしむれば、則ち道に苛留無し。買茶の本錢は度牒・末鹽鈔・諸色の封樁・坊場常平の剩錢を通じて三百萬緡を率とし、諸路に給し、諸路措置し、各官を分命す」と。詔して悉く之を聽く。
俄に諸路の措置茶事官の置く司を定む:湖南は潭州に、湖北は荊南に、淮南は揚州に、兩浙は蘇州に、江東は江寧府に、江西は洪州に。其の場を置く所在:蘄州は即ち其の州及び蘄水縣、壽州は霍山・開順を以てし、光州は光山・固始を以てし、舒州は即ち其の州及び羅源・太湖、黃州は麻城を以てし、廬州は舒城を以てし、常州は宜興を以てし、湖州は即ち其の州及び長興・德清・安吉・武康、睦州は即ち其の州及び青溪・分水・桐廬・遂安、婺州は即ち其の州及び東陽・永康・浦江、處州は即ち其の州及び遂昌・青田、蘇・杭・越は各其の州に即ちし、而して越の上虞・餘姚・諸暨・新昌・剡縣は皆置く、衢・台は各其の州に即ちし、而して溫州は平陽を以てす。大法既に定まり、其の製置節目、毛舉す可からず。四年、京復た更革を議し、遂に官の場を置くを罷め、商旅並びに即ち所在の州縣或は京師に長短引を給し、自ら園戶に買はしむ。茶は籠篰を以て貯へ、官之を抽盤し、第敘に循ひて息を輸し訖り、引を批して販賣す、茶事益々密なり。
大觀元年、提舉茶事司の一路の産する茶色の高下・價直の低昂を保驗し、而して茶の短引を請くるに地の遠近を程して三等の期を以てすべしと議す。復た商旅の舊引を影挾し、冒詐して利を規るを慮ひ、官吏因りて擾動するを得、御筆を以て之を申飭す。又諸路の再定する茶息、多寡或は等しからざるを以てし、後各錢十を増すを令す。三年、七路一歳の息一百二十五萬一千九百餘緡、榷貨務再歳一百十有八萬五千餘緡を計ふ。京專ら是を以て智を舞はし權を固め、是より歳に百萬緡を以て京師の供する私奉に輸し、掊息益々厚く、盜販公行し、民病を滋す。
政和二年、大いに茶法を増損す。凡そ長引を請けて再行する者は、錢百緡を輸し、即ち陝西に往くは、二十を加へ、茶は百二十斤を以てす;短引は緡錢二十を輸し、茶は二十五斤を以てす。私に引を造る者は川錢引の法の如し。歳春茶出づれば、民戶を集めて三歳の實直及び今價を約し上戶部す。茶籠篰並びに皆官製し、客の買ふを聽し、大小の式を定め、封印の法を嚴にす。長短引輒ち竄改増減及び新舊對帶・繳納申展・住賣轉鬻の科條悉く具はる。初め、客の茶を販するに舊引を用ふる者は、斤重の限を嚴にせず、影帶する者衆し。是に於て又詔して凡そ長引を販する斤重三千斤に及ぶ者は、須らく更に新引を買ひ對賣し、三千斤に及ばざる者は、即ち新引を以て一斤に二斤を帶びて之を鬻かしむ、而して合同場の法出づ。場は産茶州軍に置き、而して簿は都茶場に給す。凡そ斤重を限らざる茶は官司に委ねて秤製し、止だ批引を憑りて定と爲すを得ず、贏數有れば即ち官に沒し、別に新引の限程及び商旅の秤製を規避するの禁を定め、凡そ十八條、若し抄劄を避匿し及び擅賣するは、皆徒を以て坐す。復た茶法猶ほ輕きを慮ひ、課入羨ならざるを以てし、園戶の私賣及び引有りて賣る所の數を逾ゆるを定め、保内に犯有りて告げざるは、並びに煎鹽亭戶の法の如し。短引及び食茶關子輒ち本路を出づるは、二千里の流を以て坐し、賞錢百萬。
重和元年、詔す:「客販の稅を輸し、檢括抵保するは、吏因りて民を擾す、其れ之を蠲せ」と。未だ幾もあらざるに、復た稅を輸すること舊の如し。大抵茶・鹽の法は、蔡京に主り、巧に利を掊むを務め、法度を變改し、前後相踰へ、民聽眩惑す。初め、茶戶に狀を投げ官に籍するを令し、籍に在らざる者は、商旅と貿易するを禁ず、未だ幾もあらざるに即ち罷む。初め、斤重を計るを限り、新引を買はしむるを令し、茶に贏る者有れば、即ち一千五百斤に及べば、須らく新引を以て貼販し、或は止だ新茶を販し帶賣するを願ふ者は聽す;未だ幾もあらざるに、帶賣する者多きを以てし、又其の令を罷む。
陝西舊く蜀茶を通ず、崇寧二年、始めて東南茶を通ず。政和中、陝西の沒官茶を估賣するを令し、繼ひて商旅を妨ぐるを以てし、焚棄するを下令す。俄に正茶の沒官する者は與販するを聽し、引外の剩茶及び私茶の數を以て告ぐる者に給す。長引は一年を限り、短引は半歳を限りて繳納す。久しくして、已に引を買ひて未だ園戶に於て得ざるを令し、期七年、民間の同見緡の流轉するを許し、長引は即ち本路に住賣するを聽す、二浙鹽香司の言有りて而して止む。其の科條纖悉紛更、記すに勝へず、商旅の疑豫し、茶貨通ぜざるを慮ひ、乃ち扇搖の令を重くす。時に掊克の吏、爭ひて贏羨を功と爲し、朝廷亦比較の法を嚴立す。州郡賞を樂み刑を畏れ、惟だ課を負はんことを恐れ、商人を優假し、州郡を陵轢す、蓋し言ふ者有ること莫し。獨り邠州通判張益謙奏す:「陝西は産茶の地に非ず、奉行十年、未だ額を立たず、歳歳比較し、第に增益を務め、稍或は虧少すれば、程督星の如し。州縣殿を懼れ、多く前路に豪商を招誘し、價を増して以て其の來るを幸ふ、故に陝西の茶價、斤に五六緡に至る者有り、或は稍之を裁せば、則ち文引を批改し、他郡に轉ず。及び鋪戶に配すれば、安んぞ盡く售けんや?均しく稅農に及び、民實に害を受け、徒に豪商をして坐して大利を享けしむ」と。言竟に行はれず。
然れども茶法更張より、政和六年に至るまで、息一千萬緡を収め、茶一千二百八十一萬五十一百餘斤を増す。及び方臘竊發するに及び、乃ち比較を權罷するを詔す。臘誅せられ、有司園戶を招集し、借貸優恤するを議すれども、止だ文具に於てし、奸臣仍用事し、國を蠹し民を害し、又人言を慮ひ、扇搖の令復出づ。靖康元年、詔して川茶の客茶の地を侵す者は、多寡を以て差し其の罪を定む。
初めに、熙寧五年、福建の茶が陳積したため、詔して福建の茶を在京・京東西・淮南・陝西・河東では引き続き禁榷とし、その他の路では通商とする。元豊七年、王子京が福建転運副使となり、「建州の臘茶は、旧来榷法を立てていたが、熙寧年間に一時的に通商を許して以来、茶戸が客人に売る茶は甚だ良質であり、官中が得るものは常茶のみで、税銭は極めて微少である。南方の遺利はこれに過ぎるものはない。乞うらくは旧来の榷法を行わんことを。建州は歳に茶を出すこと三百万斤に下らず、南剣州もまた二十余万斤に下らない。これらを全て官に買い入れ、各州軍の民戸の多少及び隣路の民用の数を推し量って計置し、即ち官場で売り、厳しく告賞の禁を立てる。建州で私末茶を売ることを禁じ、豊国監の銭十万緡を借りて元本とする。」と上言し、全て従われた。請うところの諸路に均しく入れて榷売することは、転運司の官に委ねて提挙せしめた。福建は王子京、両浙は許懋、江東は杜偉、江西は朱彦博、広東は高鎛、しかし子京は民に抑配することを免れなかった。
当時、遠方の桂州修仁諸県や夔州路達州などの有司も皆、茶の専売を議し、利を言う者は踵を接して相次いだ。しかし神宗は鄂州が茶税の徴収を怠ったと聞くと、直ちにこれを免除した。建州の園戸らは茶が粗悪で濫りが多いため剝納に当たり、銭三万六千余緡に相当したが、償うことができないのを慮り、茶を輸納することを準用させた。初め、成都帥司の蔡延慶が邛部川蛮の首長苴克らが馬を売りたいと願っていると上言したので、即ち詔して延慶に茶をもって招来させたが、後に辺境の計略や蛮情に適さないと聞き、即ちこれを罷めた。哲宗が位を嗣ぐと、御史の安惇がまず王子京が臘茶を買い民を抑圧したことを弾劾し、詔して子京の事任を罷め、福建の禁榷州軍には旧来の通りとさせ、その余は全て通商とした。桂州修仁等県の禁榷及び陝西の芽茶の砕売も皆罷められた。
崇寧二年、尚書省が上言した。「建州・剣州二州の茶額は七十余万斤であるが、近年増加して盛んであるのに、元本の銭が多く継続しない。」詔して更に度牒四百を給し、なお諸色の封樁銭を以て給する。続いて詔して、商旅が臘茶を販売する者はその税を免除し、私販した者は元の売り主の家を処罰することを、元豊の制の通りとする。臘茶は旧法では免税であったが、大観三年、茶事を措置し、始めてこれを徴収した。四年、私販については元の売り主の家を処罰せず、元符の令の通りとする。政和初年、再び増減して新法とした。三年、詔して短引の輸納を免除し、長引に依って諸路で住売することを許す。後に末骨茶は毎長引ごとに五百斤を増やし、短引もこれに倣う。諸路の監司・州郡の公使食茶は私買を禁じ、商旅が引を買うのに依ることを聴す。六年、詔して福建の茶園を塩田の如く、土地の産茶の多寡を量り、等第に依って均しく課税する。重和元年、免税新引を改めて給するに当たり、福建末茶の斤重を重く定め、長引は六百斤を標準とする。
元豊年間、宋用臣が都提挙汴河堤岸となり、創めて水磨を修置することを奏上した。在京の茶戸が勝手に末茶を磨くことは禁じ、全て官に赴いて請買することを許した。そして茶鋪が米豆雑物を揉み和する者は、人を募って告発させ、一両で賞銭三千、一斤で十千、五十千に至るまでとする。商賈が茶を販売して府界及び京師に赴くべき者は、産茶山場の州軍に引を給させ、併せて京場に赴いて中売せしめ、違犯する者は私販臘茶法に依る。諸路の末茶が府界に入ることは、再び厳しくこれを禁じた。元豊末に至るまで、歳に獲る利息は二十万を超えず、商旅はこれを苦しんだ。
元祐初年、茶法を緩和し、議者が水磨を廃止しようとした。戸部侍郎の李定は歳課を失うとして、廃止すべからずと主張した。侍御史の劉摯・右司諫の蘇轍らが相次いで論奏したため、遂に廃止された。紹聖初年、章惇らが政事を執り、まず水磨を修復することを議した。そこで詔して京河・索河・大源河等の河畔にこれを設け、孫迥を提挙とし、再命して兼ねて提挙汴河堤岸とせしめた。四年、場官の銭景逢は利息十六万余緡を獲得し、呂安中は二十一万余緡を獲得し、差等に応じて賞を議した。元符元年、戸部が上奏した。凡そ私末茶及び雑和茶を獲得した場合は、即ち犯人が未だ獲られていない場合でも、価を估して賞を給し、全て私臘茶の犯人を獲得した法の通りとする。雑和茶で棄てるべきものは、斤ごとに特に二十銭を給し、十緡に至るまでとする。
初め、元豊年間に水磨を修置したのは、在京及び開封府界諸県に止まり、未だ外路では行わなかった。紹聖年間に復置すると、その後遂に京西路の鄭州・滑州・潁昌府、河北路の澶州でもこれを行い、また将に済州の山口に営置せんとした。崇寧二年、提挙京城茶場が上奏した。「紹聖初年、水磨を興復し、歳に二十六万余緡を収めた。四年、長葛等処の京河・索河・潩水河に磨二百六十余所を増修したが、輔郡の榷法が廃止されて以来、遂にその利を失った。請うらくは再び挙行せんことを。」従われた。間もなく詔して、商販の臘茶が京城に入る者は、本場がこれを全て買い取り、その翻引出外する者には堆垛銭を収める。元豊の制を裁断して新たに額を立て、歳に山場の草茶を買うことを五百万斤を標準とする。客茶が京に至る者は、官場がその十分の三を買うことを許すが、即ち価格を故意に高く求め、元の引の買価を検分して量を増す。三年、詔してこれを廃止した。
翌年、磨戸に歳課を承けさせることを改め、酒戸が麹銭を納める法に準じた。五年、再び民戸の磨茶を廃止し、官用水磨は依然として元豊法に依り、茶事に縁る全ての事項を都提挙汴河堤岸司に隷属させた。大観元年、提挙茶事司と改称し、間もなく茶場・茶事を通じて一司とすることを命じた。三年、再び京城所に撥隷し、全て旧法を用いた。政和元年、京城所が請うた。商旅が茶を販売し引を起こして定めて京に入り住売する者は、即ち江に入り汴に入ることを借ることを許し、元豊の旧制の通りとする。その江に入り汴に入ることを借りながら他路を指して住売する者は禁じ、既に引を請けた者は併せて京に赴かしめる。二年、課入が上がらず、商賈が留滞するため、詔してその事を尚書省に帰属させた。ここにおいて尚書省が言う。「水磨茶は元豊に創立され、近畿にのみ行われたが、昨今諸路に分配したため、弊害に至った。京城にのみ行い、依然として客販を通じさせ、その余の路の水磨は併せて廃止したい。」従われた。四年、利息四百万貫有余を収め、旧来の三倍に比し、遂に月進を創設した。
高宗建炎初年、真州で鈔を印造し、東南の茶塩を給売した。当時、東南に産する茶は、浙東・浙西・江東・江西・湖南・湖北・福建・淮南・広東・広西の路十、州六十六、県二百四十二であった。霅川顧渚に石上に生ずるものを紫筍と謂い、毗陵の陽羨、紹興の日鑄、婺源の謝源、隆興の黄龍・双井は皆絶品である。建炎三年、行在に都茶場を置き、合同場十八を廃止し、洪州・江州・興国軍・潭州・建州のみ各一場を置き、監官一人とした。食茶小引を廃止し、私茶を捕える法は私塩を捕える法に準じた。二十一年、秦檜らが始めて『茶塩法』を進上した。先に、臣僚が事に因って建明し、朝廷もまた時に因って損益していたが、ここに至り審訂して書を成し、上ったのである。
孝宗隆興二年、淮東宣諭使の錢端禮が言うには、「商人が長引の茶を販売する場合、水路では高郵を過ぎることを許さず、陸路では天長を過ぎることを許さない。もし楚州及び盱眙の境界まで行くことを望むならば、引に貼って翻引錢十貫五百文を輸納せよ。もしさらに淮北を過ぎるならば、貼輸もまたこれと同じとする」と。この当時、商人は榷場から転じて虜中に入り、その利益は甚だ博く、禁令は厳しいけれども、民が法を犯す者は依然として同じであった。乾道二年、戸部が言うには、「商人が淮北の榷場に至り折博する場合、翻引錢を輸納するほか、さらに通貨儈息錢十一緡五百文を輸納せよ」と。八年、翻引錢の輸納を減じて僅か七緡とし、通貨儈見錢を僅か八緡とした。淳熙二年、長短の茶引を権宜的に半ば原引の斤重錢數に依り、四緡の小引に分けて印を押して給与し、翻引貼輸錢は小引に随って輸送させた。光宗紹熙初年、漳州の守臣朱熹が上奏して属邑の科茶七千余緡を除いた。臣僚が長短の小引を相兼ねることを申し明らかにし、人の便に従わせた。戸部が言うには、小引を給売するに当たり、金銀・会子の分數を入輸するほか、残りを専ら会子で算請することを願う者は聴す、と。
寧宗嘉泰四年、隆興府の知事韓邈が上奏して請うには、「隆興府では分寧県のみが茶を産し、他の県には茶がなく、豪民で武断する者が引を請い、一郷を窮索して茶租を認めさせるのは、便ならず」と。ここにおいて茶を産さない県では民が勝手に茶租を認めることを許さないよう禁じた。
建寧の臘茶は、北苑が第一とされ、その最も佳いものを社前といい、次を火前といい、また雨前といい、以て玉食に供え、賜予に備える。太平興国年間に始めて置かれ、大観以後は製法が愈々精緻となり、数が愈々多く、胯の様式が屡々変わり、而して品が一様でなく、歳貢の片茶は二十一萬六千斤であった。建炎以来、葉濃・楊等が相因って乱を為し、園丁が亡散したので、遂にこれを罷めた。紹興二年、未起の大龍鳳茶一千七百二十八斤を蠲免した。五年、再び大龍鳳及び京鋌の半ばを減じた。十二年、榷場を興し、遂に臘茶を取って榷場の本とし、凡そ胯・截・片・鋌は、高下多少を問わず、官が尽くこれを専売し、私販して海に入ることを厳しく禁じた。議者が建茶を臨安で売り、茶司の事務を建州に移して買発することを請うた。明年、引錢を失陥したので、再び通商を令した。ここに上供の龍鳳・京鋌の茶料は、凡そ製作の費用・篚笥の様式を、漕司に専らさせた。
蜀の茶の細かいものは、その品は南方に比べて既に下るが、ただ広漢の趙坡、合州の水南、峨眉の白牙、雅安の蒙頂は、土人もまたこれを珍重するが、但し産する所は甚だ微少で、江・建の比ではない。旧来は専売の禁がなく、熙寧年間に始めて提挙司を置き、歳課三十萬を収めた。元豊年間の中頃に至り、累増して百万に至った。建炎元年、成都転運判官趙開が茶の専売・買馬の五害を言い、「嘉祐の故事を用いて尽く茶の専売を罷め、而して漕司に馬を買わせよ。或いはそれができなくとも、また額を減じて園戸を蘇らせ、価を軽くして行商に恵みを与えよ。このようにすれば私販は衰え而して盗賊は止む」と請うた。遂に趙開を以て川・秦の茶馬を同主管させた。二年、趙開が成都に至り、大いに茶法を改め、蔡京の都茶場法に倣い、引を以て茶商に給し、即ち園戸より茶を市い、百斤を一大引とし、その十を除いて算せず。合同場を置いてその出入りを譏し、私商の禁を重くし、茶市を以て交易を通じさせた。毎斤の引錢は春七十・夏五十とし、市利頭子錢は含まない。通過する所で一錢を徴し、停止する所で一錢五分を徴した。以後、引息錢は一百五萬緡に至った。十七年に至り、都大茶馬の韓球が尽く園戸の加饒の茶を取って額とし、茶司は歳に二百万を収めたが、買馬の数は加えて多くなかった。
乾道末年、青羌が乱を起こし、茶司が細馬名色等錢を増長して歳に三十萬とした。淳熙六年以後、累次園戸の重額錢十六萬を減じ、また引息錢十六萬を減じた。紹熙初年に至り、楊輔が使となり、遂に法と定めた。成都府・利州路の二十三場は、歳に茶二千一百二萬斤を産し、通博の馬物帛は歳に錢二百四十九萬三千余緡を収めた。朝廷は歳に一百一十三萬緡を総領所に隷属させて軍を贍ったが、然るに茶馬司は率多くこれを難じた。乾道以後、歳撥は僅か一二十萬緡に止まり、淳熙十年に至り、遂に五十萬緡を以て準とした。
熙寧・元豊以来、茶司の官権は諸司の上に出た。初め、元豊年間に川・秦の茶場を開き、園戸は既に二税を輸し、また土産を輸した。隆安県の園戸は二税・土産を兼ねて輸する外、また茶課估錢を催理した。建炎元年にこれを額と定め、寧宗慶元初年に至り、始めてこれを除いた。六年、詔して四川の茶を産する処では歳に経総製頭子錢五千四十一道有奇を輸し、また租錢三千一百四十道有奇を科した。
宋初、蜀茶を經理し、互市を原・渭・德順の三郡に置き、以て蕃夷の馬を市った。熙寧年間、また熙河に場を置いた。南渡以来、文・黎・珍・敘・南平・長寧・階・和の凡そ八場があり、その間、盧甘蕃の馬は歳に一度来たり、洮州蕃の馬は或いは一月或いは両月に一度来たり、疊州蕃の馬は或いは半年或いは三月に一度来たり、皆良馬であった。他の諸蕃の馬は多く駑馬で、大率皆互市を以て利とし、宋朝は曲く遠方を懐柔する恩を示し、またこれを以てこれを羈縻した。紹興二十四年、黎州及び雅州碉門霊犀砦の易馬場を復した。乾道初年、川・秦の八場の馬額は九千余匹であり、淳熙以来は一万二千九百九十四匹を額とし、以後市う所は未だ嘗てこれに及ばなかった。