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宋史
志第一百三十五 食貨下四
◎食貨下四○鹽中
元豊七年、滄州知事趙瞻が大名府・澶・恩・信安・雄・霸・瀛・莫・冀等の州において全て専売としその利益を増すよう請うた。僅か半年で、利息銭十六万七千緡を得た。哲宗即位の際、監察御史王岩叟が言うには、「河北は二年以来新たに塩法を行い、各地で価格が倍増した。既に商人の利益を奪い、また住民の価格を増して利息としている。貧しい家では塩を薬と同等に扱うと聞く。伏して思うに河朔は天下の根本であり、祖宗はここに恩恵を推し及ぼされた。願わくは陛下には民を損なうことを利とせず、民を益することを利とされ、塩法を以前のように復し、河北数百万の生霊に対する無限の賜物とされたし」。時に河北転運使範子奇が奏上し、塩税を十分の一で収めようとし、範鍔を派遣して商議させた。岩叟はまた言う、「臣が河北にいた時も、商人が官に自ら請い、専売の廃止を願い、倍税を納めることを望んだことを知っている。主計の者はただ商人から倍の税銭を得て利とすることのみを知り、商人が民間で再び売価を増して害とすることになるのを知らない。慶暦六年、三司の専売法を行わず、また転運司の増税の請願にも従わず、仁宗は直ちに朕は河北の軍民が急に高価な塩を食することを慮る、と仰せられ、旧通りとせしめられた。当時、歳増は幾らか六十万緡と計算されたが、仁宗は公家の利とならないことを知らなかったのか。官に蔵するは民に蔵するに如かずとのお考えであった。今陛下即位の初め、仁宗の御意に倣うべきであり、小さな利をもって人心を失うべきではない」。翌年、遂に河北の専売法を廃止し、旧通り通商とした。六年、河北塩税司提挙が商人に塩を販売させ、場務において税を納めさせ、及び等戸に保任させ、小引を与え、道里を量って制限とし、即ち官監の鎮店でなければ、煮塩することを許すよう請うた。塩税の旧額五分のものを、七分に増やす。則ち塩税は既に行われていたのである。
紹聖年間、河北で官が再び塩を売り、続いて詔して京東法の如くせしむ。元符三年、崇儀使林豫が言うには、「河北の塩専売は、必ずしも以前の税額に及ばず、且つ契丹の塩がますます売れ、辺境の隙を生ずることを慮る」。翌年、給事中上官均もまたこのことを以て言上したが、皆果たして行われなかった。宣和元年、京畿・四輔及び滑州・河陽の産するアルカリ地を、悉く田と墾き、盗みで塩を煎じる弊害を革め、河陽知事王序が勧誘により推賞された。三年、大いに塩法を改め、旧税塩は全て鈔塩に易えた。凡そ未だ売れざる税塩鈔引及び既に算請したるもの或いは倉に到着し既に投じたるもの及び未投のものは、皆榷貨務に赴き新法鈔引に改給せしめ、通販を許す。既に旧法税塩を請け貨売する者は、自ら陳じ、更に新鈔を買って帯売せしむ。既に鈔引を請けたる者は、帯支してはならぬ。初め、茶塩には換鈔対帯の法を用い、民旅皆苦しんだが、然し河北はまだ及んでいなかった。この時に至り、河北・京東を併せてこれを行った。
その両浙にあるものは杭州場と言い、歳に七万七千余石を煮、明州昌国東・西両監は二十万一千余石、秀州場は二十万八千余石、温州天富南北監・密鸚永嘉二場は七万四千余石、台州黄岩監は一万五千余石を煮、以て本州及び越・処・衢・婺州に給す。天聖年間、杭・秀・温・台・明に各監一、温州はまた場三を領し、而して一路の歳課は旧に比べ六万八千石減じ、以て本路及び江東の歙州に給した。
慶暦初め、製置司が言うには、近年河川の流れ浅く涸れ、漕運艱難阻害し、靡費益々甚だしく、江・淮・両浙・荊湖六路の糶塩銭を量り増すよう請う。三司に下して議せしむ。三司は奏上して荊湖は既に銭を増したとし、余りの四路三十八州軍は、斤に二銭或いは四銭を増すよう請う。詔して河流通運復旧を俟つ。既にして江州に転般倉を置き、益々漕船及び傭客舟を増設して運ばしめ、製置司は因って六路五十一州軍に斤五銭を増すよう請う。民は官塩の価高きを苦しみ、食するに足らず、諸路皆その不便を言う。久しくして、韓絳が江南を安撫して還り、また極めてこれを言う。その後両浙転運使沈立・李肅之が奏上して、「本路の塩課銭は歳七十九万緡、嘉祐三年には僅か五十三万に及ぶ。而して一年の内、私販により罪に坐する者三千九十九人。弊は官塩の価高きに在り、故に私販止まず、而して官課益々虧く。官の価格を裁減し、塩綱を罷め、鋪戸衙前に山場に自ら赴き塩を取らしめよ。然らば則ち塩良くして価平らぎ、人は禁を冒して私に売ることを肯わず、官課必ず溢れん」。発運司はこれを難じた。立・肅之は固くその法を二三年試用し、利害を見ることを請う。詔して可とする。
立は嘗て東塩の利害を論じ、亭戸・倉場・漕運の弊を条陳し、言うには、「亭戸を愛恤して困窮に至らしめず、漕卒を休息して以て生くる有らしめ、倉場を防製して掊克率斂せざらしめ、私販を絶ち、官の価格を減ず。果たしてこの五者を行えば、歳に緡錢一二百萬を増す可し」。『塩策』二十巻を集めて進め、その言うところ亭戸の困乏は特に甚だしい。然し皇祐以来、詔書を下す毎にこれに及び、亭戸に官本を与えることを命じ、皆実銭を以てす。その額外の塩を売る者には、粟帛を与えること必ず良質ならしむ。亭戸で歳課を逋負し久しく輸納できざる者は、悉くこれを蠲免す。以て存恤するの意甚だ厚いが、而して有司は承順すること稀なり。
熙寧以来、杭・秀・温・台・明の五州は共に監六・場十有四を領す。然し塩価高きを苦しみ、私販する者多く、転じて盗賊となり、課額大いに失う。二年、万奇という者が両浙の塩を民間に撲買せしめんと献言し、乃ち奇を発運使薛向に従わせて利害を詢度せしむ。神宗は王安石に問う。対えて曰く、「趙抃が衢州の塩撲買は、収める課が両浙路に匹敵すると言う。抃はただ衢・湖が撲買可なるを見るのみで、衢塩が饒・信を侵し、湖塩が広徳・升州を侵す故に課が増えることを知らず、蘇・常の如きは則ち衢・湖に比べ難し。今は煎塩亭戸を製置し及び塩地の人戸を差して私販を督捕せしめ、搬運を時に従わせ、拌和を厳察すれば、則ち塩法自ずから挙がる。改製を事とすべからず」。
五年、盧秉を権発遣両浙提点刑獄とし、なお塩事を専ら提挙せしむ。盧秉は先に著作佐郎曾默と淮南・両浙を行き、利害を詢ね究む。往時、竈戸は塩を煮て官と市を為すも、塩場は時にその直を償わず、竈戸は益々困窮す。盧秉は先ず発運司の銭及び雑銭百万緡を儲けて償いを待つことを請い、諸場は皆分数を定む。銭塘県楊村場は上流睦州・歙州等に接し、越州銭清場等と共に水勢稍浅く、六分を額とす。楊村下流は仁和の湯村に接して七分、塩官場は八分、海に沿いて東は越州餘姚県石堰場・明州慈溪県鳴鶴場は皆九分、岱山・昌国に至り、又東南は温州双穂・南天富・北天富場は十分とす。蓋しその分数は塩の多寡を得るに約して之を節と為すなり。岱山より二天富に至るは海水を煉りて得る所最も多し。鳴鶴より西南及び湯村は則ち鹹を刮り鹵を淋し、十に六七を得る。塩官・湯村は鉄盤を用うる故に塩色青白、楊村及び銭清場は竹を織りて盤と為し石灰を塗る故に色稍黄、石堰以東は海水に近く鹹き故に竹盤を用うるも塩色尤も白し。盧秉は因りて伏火盤の数を定めて私煮を絶ち、三竈より十竈を一甲と為し、煮塩の地は其の民を什伍し以て相い幾察せしむ。及び酒坊戸に募りて課額を占めんことを願い、塩を官に取りて之を売り、月に銭を輸官し、酤す所の地を越ゆるを得ざらしむ。而又た盗販する者を厳捕し、罪配に至らずと雖も、杖の者と雖も皆妻子と共に五百里に遷す。仍て開封府界・京東の兵各五百人を益し防捕せしむ。
時に惟だ杭・越・湖の三州のみ新法を行わず、発運司劾奏して課を虧くとす、皆獄に治む。王安石神宗に言う、塩を捕うる法急なるは以て刑を止むべしと。久しくして、乃ち両浙提挙塩事司に詔す、諸州課を虧く者は未だ遽に劾すべからず、増虧及び違法の軽重を以て三等に分ちて聞かしむと。七年、盧秉の塩課増えたりと雖も、刑獄実に繁く、辜なき者即ち罪せらるる衆きを慮り、其の職を淮南に徙し、江東漕臣張靚を以て之に代え、且つ其事を休量せしむ。張靚言う、盧秉の事に在りて、越州監塩償を催すに至りて母の子を殺す者有りと。詔して其の罪を劾せしむるも、然れども竟に免れ、仍て課を増やしたるを以て太常博士に擢げ、一資を升す。歳余りて、三司言う、両浙漕司寛弛にして塩息大いに虧くと。命じて著作佐郎翁仲通に更に措置を議せしむ。元祐初め、言者盧秉を論ず、浙西塩法を推行し、務めて利を誅して以て課を増やし、配流する所の者一万二千余人に至ると。盧秉坐して職を降す。両浙塩亭戸は丁を計りて塩を輸すも、逋負滋く広し。二年、詔して之を蠲す。後更に積負償うる無く、元符初め、察訪使状を以て聞く。有司乃ち朝旨行わざるを以てす。右正言鄒浩嘗て其の害を極めて疏す。
明州鳴鶴場塩課登らず、越州に撥き隷す。宣和元年、楼異明州と為り、請う仍く旧の如くし、且つ接近の台州に旧塩五七万囊を給せんと。詔して曰く「明州塩場三、昨り施置善しからずして、鳴鶴一場を以て越に隷せしむ。客始めて輻湊す。猶二場有りて塩を積むこと百万計に以てし、未だ功緒を見ず。此れ而して図らず、東は越に取りんと欲し、西は台に取りんと欲し、令を改め法を害し、衆情を動揺せしむ」と。状を析して以て聞かしむ。
其れ淮南に在るを楚州塩城監と曰い、歳に四十一万七千余石を煮、通州豊利監四十八万九千余石、泰州海陵監如皋倉小海場六十五万六千余石、各本州及び淮南の廬州・和州・舒州・蘄州・黄州・無為軍、江南の江寧府・宣州・洪州・袁州・吉州・筠州・江州・池州・太平州・饒州・信州・歙州・撫州・広徳軍・臨江軍、両浙の常州・潤州・湖州・睦州、荊湖の江陵府・安州・復州・潭州・鼎州・岳州・鄂州・衡州・永州・漢陽軍に給す。海州板浦・恵沢・洛要の三場歳に四十七万七千余石を煮、漣水軍海口場十一万五千余石、各本州軍及び京東の徐州、淮南の光州・泗州・濠州・寿州、両浙の杭州・蘇州・湖州・常州・潤州・江陰軍に給す。天聖中、通州・楚州場各七、泰州場八、海州場二、漣水軍場一、歳に煮る所旧に視て六十九万七千五百四十余石を減じ、以て本路及び江南東路・江南西路・荊湖南路・荊湖北路の四路に給す。旧は並びに両浙路に給すも、天聖七年始めて罷む。
凡そ塩の入るや、倉を置きて之を受けしむ。通州・楚州各一、泰州三、以て三州の塩を受く。又た転般倉二を置く。一は真州に在り、以て通・泰・楚の五倉の塩を受け、一は漣水軍に在り、以て海州・漣水の塩を受く。江南・荊湖歳に漕米を淮南に至らしめ、塩を受けて帰る。東南の塩利、天下を視て最も厚しと為す。塩の官に入るや、淮南・福建・両浙の温州・台州・明州は斤を銭四と為し、杭州・秀州は銭六、広南は銭五。其の出づるや、塩を去る道里の遠近を視て其の估を上下し、利十倍に至る者有り。
咸平四年、秘書丞直史館孫冕請う「江南・荊湖に令して塩を通商売せしめ、縁辺に折中糧草し、京師に金銀銭帛を入納せしむれば、則ち公私皆便にして、利を為す実に多し。設え淮南江南・荊湖の通商に因り、或いは年額稍虧くに至らんことを慮るも、則ち国家糧草を折中して以て辺兵を贍うに足り、金銀を中納して以て官庫に実とす。且つ車乗を和雇し、民戸を差擾し、寒を冒し遠く渉るを免る。借りに荊湖銭万貫を運び、淮南米千石を運び、地里脚力を以て窮辺に送れば、則ち官費し民労す、何啻数倍ならんや」と。詔して吏部侍郎陳恕等に議せしむ。陳恕等謂う「江・湖官塩を売るは、蓋し海を煮るの地に近く、禁を犯すの人を息めんと欲するなり。今若し通商し、官塩を住売せば、立って一年の課額に乏しからん」と。孫冕の議遂に寝す。天禧初めに至り、始めて人を募りて緡銭粟帛を京師及び淮・浙・江南・荊湖の州軍に入れて塩に易えしむ。乾興元年、京師に銭貨を入るる総て緡銭一百十四万と為す。会す、通・泰塩を煮る歳に損し、所在貯積幾無く、因りて粟帛を入るるを罷め、第に銭を入るるを令す。久しくして、積塩復た多し。
明道二年、参知政事王隨が建言した。「淮南の塩は初めは甚だ良かった。通州・泰州・楚州から真州へ運び、真州から江・浙・荊湖へ運ぶうちに、綱吏と舟卒が侵奪し販売・煮詰め、これに従って沙土を混ぜる。道程が愈々遠くなるにつれ、混ざって悪くなり、殆ど食用に堪えられない。吏卒は鞭打ちの刑に坐し、流刑・配流が相継いでも止めることができない。近年は運河が浅く涸れ、漕運による牽引が行われず、遠方の州村の民は、頓に塩の食料を欠いている。一方で淮南に積もっている一千五百万石は、貯蔵する屋さえ無く、露積みして苫で覆うのみで、年々損耗している。また亭戸が塩を納め、応に得るべき本銭を給付されないことがあるので、亭戸は貧困に陥り、往々にして盗賊となる。その害はこのようである。願わくは暫く三五年間通商を聴許し、商人に京師で銭を納めさせ、また揚州に折博務を設置し、銭及び粟帛を納めさせ、その価値に応じて塩を与えること。塩一石はおよそ銭二千で売れるとすれば、一千五百万石で緡銭三千万を得て国用に資することができ、これが一の利である。江・湖の遠近皆が白塩を食し、これが二の利である。毎年の漕運の浪費を廃し、風水による覆没・溺死、舟人の刑罰陥入を免れ、これが三の利である。昔時の漕塩の舟を転用して米を漕運でき、これが四の利である。商人が納入した銭を取って亭戸に償還でき、これが五の利である。」
時に范仲淹が江・淮を安撫し、また塩利の疏通を言上した。即ち詔して知制誥丁度らに三司使・江淮製置使と共に議させた。皆、通商を聴許すれば私販がほしいままに行われ、県官を侵食すると言い、製置司に命じて漕船を増やし諸路に運ばせ、皆に二三年の蓄えを持たせるよう請うた。また天禧元年の制を復活させ、商人に京師及び淮・浙・江南・荊湖の州軍で銭粟を納めて塩と交換することを聴許した。通・楚・泰・海・真・揚・漣水・高郵で貿易する者は城を出てはならず、その他の州では県鎮に赴くことを聴許するが、郷村に至ってはならない。京師に銭を納める者には塩を増やして与え、また転運司に命じて本銭を経画して亭戸に償還させた。詔して皆施行させた。景祐二年、諸路の博易に利が無く、遂に廃止したが、京師への入銭は従前の通りとした。
康定元年、詔して商人が陝西の辺境に芻粟を納入し、東南塩を受けたいと願う場合は数を増やして与えるとした。河北で穀物が安いのに合わせ、三司は内地諸州で三説法を行うよう請い、また塩をもって京師が給付する緡銭に代えさせ、二十万石を糴ることで止めた。慶暦二年、また詔した。「陝西・河東に入中する者は券を持って京師に至り、銭及び金帛を半々で償う。金帛を受けたくない者は茶塩・香薬を与え、その欲する所に任せる。」而して東南塩は利が厚く、商旅は皆塩を得たいと願った。八年、河北で四説法を行い、塩はその一つを占め、辺境の芻粟は皆虚估があり、騰踊して数倍に至った。券が京師に至ると、反って蓄賈に抑えられ、塩百八斤は旧来十万銭で売れていたが、この時は六万となり、商人は安い評価で券を売り塩を取ったので、再び京師に銭を納めず、帑蔵は益々乏しくなった。皇祐二年、再び京師への入銭法を復活させ、旧来の銭数に比べて稍々増やして塩を与え、辺境での入中で先に券を得て塩を受ける者については、河東・陝西で芻粟を十万銭相当納入しても、塩の価値七万しか与えず、河北ではさらに六万五千に減らし、且つ京師に十万銭を納入させて初めて兼ねて給付を聴許し、これを対貼と呼んだ。これより京師への入銭は稍々旧に復した。
初め、天聖九年、三司が請うて榷貨務で銭を納め東南塩を売り、百八十万三千緡を額とし、後に四百万緡に増やした。嘉祐年間、諸路の漕運が不足し、榷貨務の課益が登らなくなった。ここにおいて発運司に官を置き専ら運塩の公事を領させた。治平年間、京師に入る緡銭は二百二十七万であったが、淮南・両浙・福建・江南・荊湖・広南の六路の歳售緡銭は、皇祐年間に二百七十三万、治平年間に三百二十九万であった。
江・湖への運塩は既に雑悪で、官の評価もまた高い。故に百姓は私塩を食するのを利とし、海に沿った民は魚塩を業とし、手間が省け利益が厚い。これにより不逞の無頼で盗販する者が多く、捕らえるのが急だと盗賊となる。江・淮の間では衣冠の士人でさえ、厚利に慣れ、或いは塩の販売を事とする者がいた。江西では虔州が地続きで広南に連なり、福建の汀州もまた虔州と接する。虔州の塩は良くなく、汀州は元来塩を産さないので、二州の民は多く広南塩を盗販して利を射た。毎年秋冬、田事が終わると、常に数十百人が群れをなし、甲兵旗鼓を持ち、虔・汀・漳・潮・循・梅・惠・広の八州の地を往来した。至る所で人の穀帛を奪い、婦女を掠め、巡捕の吏卒と闘い、吏卒を殺傷するに至れば盗賊となり、険要の地に依り阻まれて捕らえることができず、或いはその罪を赦して招いた。歳月が浸淫して益々多くなり、州官の糶塩は年にやっと百万斤に及ぶのみであった。
慶暦年間、広東転運使李敷・王繇が広州塩を南雄州に運び、虔・吉に給するよう請うた。返答がないうちに、即ち四百余万斤を南雄に運んだ。しかし江西転運司は便利でないとして、取りに行かなかった。後に三司戸部判官周湛ら八人が再び広塩を虔州に入れるよう請い、江西も自ら本銭を具えて取るよう請うた。詔して尚書屯田員外郎施元長らに会議させ、皆周湛らの議の通りにするよう請うた。しかし発運使許元は不可とし、遂に止めた。
嘉祐以来、或いは広南塩を商販して虔・汀に入れ、通過する州県で算を収めるよう請う者、或いは虔・汀・漳・循・梅・潮・惠の七州の塩を通商するよう放つよう請う者、或いは毎年淮南塩七百万斤を虔州に、二百万斤を汀州に運べば民間に塩が足り、寇盗は自然に止むと言う者、或いは官自らが鋪を置き兵卒を役して広南・福建塩を虔・汀州に運ぶよう請う者があり、論者は一致しなかった。先に職方員外郎黄炳を遣わし駅伝に乗って所属の監司及び知州・通判と会議させた。虔州は淮南塩を食すること久しく、改めることはできないが、近年増やした官の評価を減らし、斤を銭四十とし、十県の五等戸の夏秋税に率いて百銭ごとに塩二斤を糴らせ、夏税に随って銭を納め官に償わせる、と言った。続いて提点鑄錢沈扶に可否を覆視させた。扶らは江西の漕船を選んで十綱に団め、三班使臣にこれを部領させ、直に通・泰・楚の都倉の塩を取るよう請うた。詔して黄炳らの策を用いたが、年にやっと六十余万斤の糶を増やしたのみであった。
江西提点刑獄蔡挺が塩事を製置し、乃ち民に私蔵の兵械を首納して巡捕の吏卒に与えさせ、黄魚籠を販売し塩を挟んで二十斤に及ばず、徒が五人に及ばず、甲兵を自ら随えない者は、算を輸するのみで捕らえないようにした。淮南が既に新綱で漕塩を団めると、蔡挺は十二綱に増やし、綱ごとに二十五艘とし、鎖栿で州に至ってから発した。官に輸送して余った分を漕舟の吏卒に与え、官はまた半価でこれを買い取った。これにより侵盗の弊を減らし、塩は遂に稍々良くなった。また糶価を減らし、歳課は旧に比べて三百余万斤に増え、乃ち黄炳らの議した率いて糴らせた塩銭を廃止した。以前は、汀州人が塩を販売しようとすると、輒ち先に山谷で鼓を伐ち、従いたい者を召して期日を約し、常に数十百人以上を得て、共に行った。この時は、州県が耆保に督責し、鼓を伐つ者がいれば輒ち捕らえて送り、盗販する者は稍々畏縮した。朝廷は蔡挺を能吏とし、江西に留め、数年を積んで乃ち転任させた。久しくして、江西の塩は皆虔州のように綱を団めて運送するようになった。
初め、荊湖もまた塩の悪さに悩み、且つ歳漕が常に不足していた。治平二年、やっと二十五万余石に及んだ。三年、淮西の二十四綱及び傭客の舟を撥して塩を載せて運び、この年は四十万石に及んだ。四年、五十三万余石に至った。
慶曆の初め、判戸部勾院の王琪が言うには、「天禧の初め、かつて荊湖の塩の価格が高いことを以て、詔して斤ごとに三銭あるいは二銭を減じたが、その後より利益の入りが漸く損なわれた。旧来の価格に復することを請う、歳ごとに緡銭四万を増やすことができよう」と。これを許した。治平の中、淮南転運使の李復圭・張芻・蘇頌、三司度支判官の韓縝が相次いで淮南の塩価を減ずることを請うたが、ついに果たして行われなかった。
熙寧の初め、江西の塩課が上がらず、三年、提点刑獄の張頡が言うには、「虔州の官塩は鹹湿で雑悪であり、軽くて一斤に及ばず、しかも価格は四十七銭に至る。嶺南の盗販が虔州に入り、一斤半をもって一斤に当て、純白で雑じり気なく、二十銭で売る。この故に虔人はことごとく嶺南の塩を食す。すなわち議して虔塩の価格を稍々減じ、更に壮健な舟を選び、十綱に団とし、使臣を以て部押せしめよ」と。後に蔡挺は贛江の道険しきを以て、議して塩船を三年ごとに一度替えさせ、なお塩の純雑により増減を以て綱官・舟人の殿最と為し、塩課はついに敷かれ、盗販は衰え止んだ。挺の去りしより、法は十に五六を廃し、これを復するの便を請う、と。詔してこれに従う。なお歳ごとに淮塩十二綱を虔州に運ぶことを定む。及び章惇が湖南を察訪し、本路提点刑獄の朱初平に符して広塩の般運を措置せしめ、額を添えて出売せしめんとしたが、未だ行われるに及ばなかった。元豊三年、惇既に参政と為り、郟亶という者あり、邪険で鋭く進み、平素より惇に喜ばれ、惇の意に迎合し、湖南の法を推し倣い、広塩を江西に運ぶことを乞う。すなわち蹇周輔を遣わし江西に往きて相度せしむ。周輔は惇の意を承望し、奏して言うには、「虔州の運路は険遠であり、淮塩の至るもの多く能わず、人は淡食を苦しみ、広東塩は輒ち通ずるを得ず、盗販公行す。淮塩は官に九銭を以て一斤を致す。もし広塩を運びその費用を尽く会計すれば、淮塩より一銭を減ずるも、その塩は更に善く、運路阻むこと無し。淮塩の運搬を罷め、広塩一千万斤を江西の虔州・南安軍に通般し、復た淮塩六百十六万斤を洪・吉・筠・袁・撫・臨江・建昌・興国軍に均し、以て旧額を補わんことを請う」と。詔して周輔に法を立てて以て聞かしむ。周輔は塩法並びに総目条を具して上る。大率民を峻剝し、民その害を被る。旧来、江西の塩場は民に買撲を許す。周輔はことごとく官に籍してこれを売る。すなわち周輔を以て遙領提挙江西・広東塩事と為し、即ち司農寺に局を置く。
四年、周輔は河北に漕を改む。明年、提挙常平の劉誼が言うには、道途洶洶として、塩を売ることを患いと為す、と。詔して江東提点刑獄の範峋に体量せしむ。未だ報ぜず、誼は役法等の事を言うに坐して罷む。及び峋の奏至るも、ただ州県の詔に違法するを以て塞ぎ、竟に更張無し。未だ幾もなく、周輔が奏す、「虔州・南安軍に塩法を推行すること方に半年、已に息十四万緡を収む」と。自ら功と為す。詔して発運副使の李琮に命じ利害を体訪せしむ。琮は周輔方に奨用せらるるを知り、ただ塩法は変通すべきとのみ謂い、敢えてその害を斥言せず。六年、周輔は戸部侍郎と為り、復た奏す、湖南の郴・道州は韶・連に隣接し、以て広塩数百万を通運すべく、却って旧売の淮塩を潭・衡・永・全・邵等州に均し、並びに江西・広東の見法に準じ、なお郟亶の初議を挙げ、郴・全・道の三州も広塩を売らしむ、と。詔して提挙常平の張士澄・転運判官の陳偲に委ねて措置せしむ。明年、士澄等が条約を具して来り上る。詔してこれを施行す。額利増加し、一方騒然たり。この時淮西も亦周輔の塩法を推行し、発運使の蔣之奇が奏して知州・通判・塩事官の賞罰を立て、戸部に下して令と為す。
紹聖三年、発運司が言うには、淮南の亭戸貧瘠にして、官の賦する本銭六十四万緡は、皆諸路に倚りて辦ず。この故に時に至らず、民銭を得る所無く、必ず倍称の息を挙ぐ。糴本銭十万緡を以てこれに給せんと欲す。足らざれば、憑由を以て畀え、即ち官に質せんと欲すれば、平の七分とし、その息を蠲ち、塩本集まり、復たその三分を給す。憑由は毀棄せよ、と。
崇寧元年、蔡京が塩法を更めんと議し、乃ち言うには、東南の塩本或いは闕け、客販に滞る。度牒を増給し及び封樁坊場銭を給し通じ三十万緡とせんことを請う、と。並びに七条を列す。一、客に私船を用いて運致するを許し、なお厳しく輒ち疆を逾え夾帯私塩するの禁を立つ。二、塩場の官吏概量平らかならず或いは塩を支ふるに倫次を失する者は、徒を以て論ず。三、塩商の繇る官司・場務・堰閘・津渡等輒ち苛留を加うる者は、上の法の如し。四、命吏・蔭家・貢士・胥史が賈区と為り塩を請うるを禁ず。五、亭戸に貸すことを議す。六、塩価大いに低き者はこれを増すを議す。七、措置官に命じ利害を博く尽くして以て聞かしむ。明年、詔して塩舟の力勝銭は輸する勿れ、以て阻遏を絶ち、且つ舟の行きて越次し疾きを取るを許す。官綱等の舟輒ち攔阻する者はこれに坐す。遂に鈔法を変じ、買鈔所を榷貨務に置く。凡そ鈔を以て至る者は、並びに末塩・乳香・茶鈔並びに東北一分及び官告・度牒・雑物等を以て換給す。末塩鈔は五分を換易し、余りは雑物を以てす。而して旧鈔はただ末塩・官告を易するを許す。なお十分を以てこれを率い、ただ三分を算するを聴き、その七分は新鈔を兼ぬ。民間の鈔を買うの価を定め、以て豪強を抑え、以て辺糴を平らかにす。河北に買う者は、率ね百緡下ること五千を毋れ、東南末塩鈔は下ること十千を毋れ、陝西塩鈔は下ること五千五百を毋れ。私に減ずる者は徒徙の罪に坐す。官吏の留難・文鈔の展限等の条皆備わる。
四年、又た算請する塩価の軽重等しからざるを以て、六路の塩価を載定す。旧価二十銭以上の者は皆十銭を以て遞増し、四十五の者は旧の如し。東南末塩を算請し、願わくは金銀・物帛を以て折する者はその便を聴く。而して亭戸の貸銭、旧二分の息を輸する者はこれを蠲つ。五年、詔して算請に貼納見銭せず、十分を以てこれを率い、二分を過ぐること毋れ。大観元年、乃ち東南末塩を算請するに貼輸及び旧鈔を帯ぶることを令す。見条の外の如く、更に日前の貼輸三分塩鈔を帯ぶるを許す。四分を輸する者は二分を帯び、五分を輸する者は三分を帯ぶ。後に又た四分を貼輸する者は三分を帯び、五分を輸する者は四分を帯ぶ。而して東南塩は並びに見緡を収め新鈔を換請する者は、四分五分の法の如く貼輸す。その新鈔を換請し及び見銭を以て東南末塩を算するに、六等の旧鈔を帯ばざる者は、先に給するを聴く。もしただ五等の旧鈔を帯ぶるのみならば、その塩を給するの敘は、崇寧四年十月前に帯ぶる貼輸せざる旧鈔の上に在り。六等とは、貼三・貼四・貼五・当十鈔・並びに河北公據・貼納銭を免ずる是れなり。
当時、交鈔法は頻繁に変更され、公私ともに弊害が生じていた。四年、侍御史毛注が上言した。「崇寧以来、塩法は元豊の旧制を急に改め、諸路が官船で回漕して転運司の利益とすることを許さず、人々に自由に交鈔を用いて塩を請け取り、指定の州県へ運搬して販売することを許し、その売上を州県の課額とした。提挙塩事司は郡県を厳しく責め、塩の売上高を官吏の考課の基準とし、職務を忠実に果たし民を養い侵奪を忍ばない者があれば、直ちに法を阻む者と指弾し、必ず重く弾劾して譴責・罷免した。州県は誰か風向きを窺って威を畏れず、競って苛酷な取り立てを行わないことがあろうか。これにより、東南諸州では各県の三等以上の戸が、全て資産の高下に応じて、塩の数量を強制的に認めさせられた。上戸は年間の上限が千緡に至るものがあり、第三等の末戸でも三五十貫を下らず、これを定数として登録し、その数に従って販売させ、年間の額を満たさせた。少しでも期限に遅れると、鞭打ちの刑がすぐに加えられた。一県の年間の額は三五万緡に及び、今これを常額としているが、実に害の大きいものである。」
また上言した。
「朝廷は昔から三路の守備を厳重にし、糧食の備蓄が豊富であったが、その方法は他ではなく、ただ交鈔法が流通し、上下が互いに信頼したからである。東南の末塩銭は河北の備えとし、東北の塩は河東の備えとし、解地の塩は陝西の備えとし、その銭は全て京師に蓄積し、蓄積の多寡に応じて三路に交鈔を給付した。例えば河北の糧草鈔が京師に至れば、全て現銭を支払い、飛鈔法と称した。河東三路のものが京師に至れば、半分は現銭、半分は銀・綢・絹を支払った。陝西の解塩鈔は解塩の支給を受け、あるいは広く交鈔が給付された場合も、京師の銭で支給した。銭が京師に蓄積され、交鈔が三路で流通し、至れば銭を給付するので、再び滞留することはなかった。当時、商人たちは皆喜び、競って糧草を運び、辺境の郡に入れた。商売が既に通じると、物価も平穏になった。官庁の上下で二つの価格はなく、一斗の米はわずか百余銭、一束の草は三十を超えず、辺境の倉庫は至る所で満杯であった。
崇寧以来、交鈔法はたびたび変更され、人々は信用せず、京師には現銭の蓄積がなく、交鈔の給付は往年の数倍に及んだ。交鈔が京師に至っても、支給する銭がなく、ついに交鈔の価値は十分の一にも満たなくなった。辺境の郡には人々が入中せず、糴買が不足するので、銀絹・現銭を交鈔と組み合わせて、糴買の代価とした。民間で入中する者は、もはや交鈔の価値を計算せず、ただ銀絹・現銭のみを計算し、糧草の価格を高く吊り上げて、虚数の額に合わせざるを得なかった。これにより官価は民間の数倍にまでなり、一斗の米は四百に至り、一束の草は百三十余銭を下らず、軍の備蓄は欠かせず、財用は枯渇せざるを得なかった。例えば解塩鈔は一枚六千であったが、今では三千の価値しかなく、商人たちが東南末塩鈔に入中する際は、現銭四分・塩引六分とし、榷貨務はわずか七十千の収入を得るに過ぎないが、東南で塩を支給する際の官定価格は百千であるから、塩の元手は既に暗黙のうちに損なわれているのである。
臣は考えるに、交鈔法が熙寧・元豊の制度に復さなければ、物価を平穏にすることはできず、辺境の備蓄を蓄積することもできない。当今の大計は、これより急務はない。薛向がかつて嘉祐年間に研究し、施行して間もなく、穀物価格は急落し、辺境の備えは余剰を生じ、熙寧・元豊に至ってその法はようやく完備した。近年、榷貨務は交鈔法の頻繁な変更を顧みず、辺境の計画に誤りを生じさせ、ただ現銭の貼納を期待し、ひたすら東南塩鈔を買い占め、銭の数を増やして、栄誉と賞与を僥倖しようと図っている。前の交鈔がまだ流通しているのに、後の交鈔がまた変更され、特に先に塩を支給するよう命じれば、前の交鈔はたちまち廃紙となり、人を欺いて利益を奪い、商人たちは怨嗟している。臣は願わくば、執政大臣に明詔を下し、有能な官吏を精選して交鈔法を推し進めさせ、現行の制度が妨げとならないようにし、過去の制度が復活不可能ではないことを理解させ、薛向の法のようにかつて効果があったものは、挙げてこれを施行すべきである。」
今、政事に練達し、交鈔法に通じた者は、いないわけではない。在京の三庫の蓄積は、全て四方の郡県からの収入であり、備えがないわけではない。もし三四百万緡を京師に留保し、その数に応じて交鈔・塩引を給付し、交鈔が至れば銭を支給し、再び妨害・阻止しないようにすれば、上下が互いに信頼し、人々は交鈔・塩引を軽貨として、互いに貿易するであろう。あるいは支給・請け取りが多い場合は、ただ転廊して東南末塩鈔や度牒の類に就いて給付する。東南末塩鈔や度牒・勅牒は交鈔・塩引でのみ給付を許し、その他は全て在京で現銭を用いて取引させ、留保して交鈔・塩引の資金とすることも、得策である。もし以前に発行された文鈔があれば、立法の趣旨を体察・究明し、適宜に分数を定め、塩を支給して償うべきである。昔から立法の難しさは、単に始めを創るだけでなく、廃れたものを修復するのもまた容易ではない。永続的な利益を興そうとするならば、目前の微細な害は、やはり軽視すべきであり、ただ可否を詳しく斟酌して施行するのみである。
間もなく、張商英が宰相となると、変通と損益を議し、熙寧・元豊の旧制に復し、内府の銭を別に千五百万緡留保し、残りは全て移用して、銭・交鈔・物の三等の偏重の弊害を革めさせた。陝西には交鈔五百万緡を給付し、江・淮発運司には現銭文据または上供銭の截兌三百万緡を給付した。左司員外郎張察に東南塩事を措置させ、提挙江西常平張根に江西への淮塩運搬を管幹させ、提挙塩香を廃止し、諸路の塩事は各々提刑司に帰属させた。五等の旧鈔を議定し、商人が既に新鈔に換え請けたり、現銭鈔で対帯しない場合は、先に東南末塩を諸路で交易することを許した。なお淮・浙の塩場に下命し、塩を十分率として、五分を留保して官綱の支給に備え、三路の商人の転廊算請に備え、残りの五分を新鈔及び現銭鈔の算請と、旧鈔を帯びずに先に給付すべき者のために待機させた。こうして旧法を施行し、商人の五色旧鈔について、もし新鈔への換請・対帯に用いるのであれば、初めて塩の支給を許すとしたが、長い年月を待ち、給付の機会がないことを懸念し、増納の法を立てた。貼三鈔は榷貨務でさらに現緡七分を貼納することを許し、貼四鈔はさらに六分を貼納し、貼五・当十鈔は七分を貼納し、河北見錢文據は五分を貼納して算請する。
有司が議したところ、三路の交鈔法は熙寧・元豊の旧法のように、全て東南末塩を本拠としている。もし旧鈔の貼納算請を許せば、まさに三路で熙寧・元豊の交鈔法を施行することに背く。すなわち貼納算還を許さなければ、交鈔は行き場を失う。議して河北見錢文據の増納を二分減じ、その他は各々二分減じ、告敕・度牒・香薬・雑物・東南塩で算請し給償することとした。皇帝は詔して言った。「東南六路の元豊年間の塩売上額は、緡で計算すると、諸路各々数十万を下らない。交鈔塩を施行して以来、漕運の計画は窮乏し、江西を例に言えば、和買・預買で民に未払いの代価が少なくない。どうして仁民愛物の意に副うことができようか。」東南諸路転運司に協力して措置し運搬するよう命じた。
政和元年、詔して商旅の熙寧・元豊の法に依りて転廊を願う者を、許して先ず三路の新鈔を以て算請せしめ、他の所に往きて定価を給売せしむ。両浙の亭戸の額外の中塩を優に存し、斤ごとに価を三分増す。已にして張察塩価を均定し、紹聖に比して斤ごとに二銭を増すを視て、詔して其の説に従い、仍て斤ごとに一銭を増す。議者謂く、「異時に塩商は榷貨務に入納して転廊するに、惟だ東南諸郡の積塩の多寡を視る。塩多ければ則ち鈔を請う者衆く、入る所も亦倍し、其の塩を闕く地は、客肯て住まざるなり。元豊の時に遠地は須らく二年或いは三年を預備し、次遠は一年より二年に至り、最近も半年及び一年、之を準備塩と謂い、而して後鈔法乃ち通ず。紹聖の間旧制を用いるを遵い、広く準備有り、故に均価の後、課利倍増す。謂う宜しく厳に転運司を責めて準備塩を般運する外、更に元豊の準備の数に及ぶべし、則ち鈔法始めて通じ、課利且つ羨むべし。亭戸の塩を煎るを官買納と為し、旧に比して既に増せり、止だ元豊の旧価を用うるも自ら可なり、況んや新価を用い、而して本錢有り、復た借貸を加うるをや、何ぞ増えざるを慮らん。若し斤更に一銭を増さば、虚費も亦大なり」と。詔して之を施行す。六路を通じて提挙塩事官を置き、司を揚州に置く、未だ幾ばくもせず罷む。
議者復た謂く、「客の京師の榷貨務に在りて東南の末塩を買う者、其の法二有り。一は見錢入納と曰い、二は鈔麵転廊と曰う。今既に三路の文鈔を以て転廊するを得るを許す。若し更に旧制に循い、見錢を以て入納するを許さば、則ち客旅の錢は当に榷貨に入り、而して兼並に入らず、見錢は京師に留まり、客旅は東南に走らん」と。詔して焉れを采用す。又謂う有り、「旧法物貨及び官錢鈔引を以て抵当するを聴く、是を以て鈔価を扶持し、大いに減損せず。昨之を禁むるは是に非ず。其の旧転廊の塩鈔、販して東南に至れば、転運司乃ち専ら見錢を以て務と為し、致して多く壅閼す」と。是に於て復た鈔引の抵当をし、一其の旧の如し。末塩を十分を以て率いるに、限りを八分を以て末鈔に給し、二分は煮見緡を許す。後又見緡を増して三分と為す。
二年、江寧府・広徳軍・太平州は斤更に錢二を増し、宣州・歙州・饒州・信州は斤錢三を増し、池州・江州・南康軍は斤錢四を増し、各産塩地を去るの遠近を以て差と為す。是の歳、蔡京復た事を用い、大いに塩法を変ず。五月、官般売を罷め、商旅をして場に赴きて請販せしめ、已に般したる塩並びに封樁す。商旅榷貨務に赴きて算請し、先ず至る者は塩を増支して以て勧めを示す。前転廊已に鈔を算して未だ支えざる者は、率百緡ごとに別に見緡三分を輸し、仍て新鈔を用いて旧鈔三分を帯給す。已に算支したる者は、所在に数を抄し別に輸し帯売すること上法の如し。其の算請は悉く見緡を用い、而して塩を給する倫次は、全く見緡を用いて旧塩を帯びざる者を上と為し、旧塩を帯びる者之に次ぎ、旧鈔を帯びる者又之に次ぐ。三路糴買の文鈔、算して七分の東南末塩を給する者は、見緡に対し二分を支算するを聴き、東北塩も亦之の如し。自余の文鈔は、一例に対算することを得ず。復た諸路の提挙官を置く。是に於て詔書京の功を褒美す、然れども商旅終に法令の信ならざるを以て疑い、算請する者少なく、乃ち扇搖の令を申し、賞錢五百緡を増す。
三年、商人の承前先ず即ち諸州に投勾し、乃ち場に於て塩を請う、留滞するを以て、之を罷む。若し塩を請うに大いに斤重を帯する者は、官之を秤験し、乃ち錢を輸し鈔を給す。時法既に屢変し、蔡京更に巧みに商賈の利を籠めんと欲し、乃ち措置十六条を議し、買官塩の価を裁定し、囊を三百斤とし、価を十千とし、其の鬻ぐ者は増損時に随うを聴く。旧の加饒脚耗並びに罷む。客塩旧は止だ船に貯う、改めて東北塩に依り囊を用い、官袋之を鬻ぎ、印を書し及び私に造り貼補するは、並びに茶籠篰の法の如くし、仍て再用を禁ず。塩を受け塩を支える官司は、析して二と為し、場に受けし者は秤盤囊封を管し、倉に納むる者は引據・合同号簿を察視するを管す。囊二十なれば則ち一を以て合同を折験し遞牒を商人に給する外、東南末塩諸場は、仍て鈔引号簿を給す。別場を指し改めんと欲する有る者は、並びに号簿及び鈔引を批銷し、仍て合同遞牒を用いて指す所に報じ随塩引を給す。即ち已に塩を支えば、指す所に関して籍記す。中路にて指し改むる者は此に倣う。其の引の繳納は、限りを一年とし、故有れば展べ半年を逾ゆるを得ず。限竟り、塩未だ全く售げざる者は引を毀ち、見塩を以て官に籍し、止だ其の処に鬻ぐを聴き、翻改するを得ず。大抵皆茶法を視て多く節目を為し、民利を欺奪す。故に盗販・私煎・大帯斤重を免究するを名と為し、而して専ら対帯の法を用う。客鈔を負いて塩を請うも、往々厄して即ち畀えず、必ず元の数に対し再び新鈔を買い、方て旧鈔の半を帯給するを聴く。令の行われざるを慮り、避免の禁を厳にし、沮壞の制を申し、扇搖の法を重くし、季ご輒ち比較し、務めて峻督責を以て取辦せんとす。
四年、遠地の商販する者稀なるを以て、塩倉は地の遠近を以て叙と為し、先ず遠き者に給す。継いで正塩を搭帯するを令し、期一月新鈔を買わざれば、官に没し、而して剩塩は即ち没納す。五年、引を偽造する者は並びに川錢引に依りて罪を定む。六年、産塩州軍の大商止留を肯ぜざるを以て、其の小袋を用いて住売する者は錢二十を輸し鈔を給するを聴き、輒ち州界を出づるを得ず。
宣和二年、詔して六路封樁の旧塩数億萬を輸するも、其れ商旅の般販を聴き、淮・浙の塩倉と即今の塩鈔を対算せしむ。四年、榷貨務建議す、「古に斗米斤塩の説有り。熙寧・元豊以前は、米石六七百を過ぎず、時に塩価斤錢六七十と為す。今米価石二千五百より三千に至るも、而して塩仍旧六十なり。崇寧に会して塩価を定め、塩を買い折算し、中価を酌み、斤錢四十と為す。今一斤三十七錢、公に虧くる稍多し。囊を増して十三千を入納と為し、而して亭戸の輸する所並びに価を増し、庶くは自ら贍え、盗販衰止せんことを欲す」と。是に於て旧塩尽く住売を禁じ、而して籍記・貼輸・帯売の令復た用いらる。
初め、塩鈔法の行わるるや、塩を解池に積み、錢を京師の榷貨務に積み、鈔を陝西沿辺の諸郡に積む。商賈物斛を以て辺に至り入中し、鈔を請いて帰る。物斛辺に至るに数倍の息有り、惟だ回貨無きを患う。故に鈔を得るに極めて利し、径ち解池に於て塩を請い、而して解塩通行の地甚だ寬し。或いは京師に於て錢を請う。每鈔六千二百、登時に給与す。但だ頭子等錢数十を輸するのみ。此を以て由る所の州縣、貿易する者甚だ衆し。崇寧の間、蔡京始めて法を変え、商人をして先ず錢を輸し鈔を請わしめ、産塩郡に赴き塩を授け、四方の錢を囊括して尽く中都に入れ、以て羨を進め寵を要せんとす。鈔法遂に廢れ、商賈通ぜず、辺儲備を失う。東南の塩禁加密し、法を犯し罪せらるる者多し。民間の食する塩、灰土を雑う。解池天産の美利、乃ち糞壤と俱に積む。大概常に行わるるの法の售給纔に通ずるや、輒ち復た変易し、名づけて対帯法と為す。季年又た対帯を変じて循環と為す。循環とは、已に鈔を売り、未だ塩を授けず、復た更に鈔す。已に鈔を更え、塩未だ給せず、復た貼輸錢す。凡そ三たび錢を輸し、始めて一直の貨を獲る。民貲無くして鈔を更え、已に輸する錢悉く乾没し、数十萬券一夕に廢棄す。朝に豪商と為り、夕に流丐に儕す。水に赴き繯に投じて死する者有り。
時に魏伯芻という者がいた。もとは尚書省の大胥であったが、蔡京に信任され、専ら榷貨務を主管した。政和六年、塩課は総計四千万緡に達し、官吏は皆官位を進めた。七年、また課税の剰余を以て賞の等級を定めた。伯芻は年ごとに官を除され、歳ごとに昇進し、積み重ねて通議大夫・徽猷閣待制に至ったが、やがて王黼に党附したため、蔡京はこれを憎んで罷免した。伯芻は心算があるわけではなく、ただ交引戸と結託し、凡そ商旅が算請するに当たっては、一律に十分の四を留保して入納の数に充て、入納数を多くすることを務め、人主を惑わして虚偽の最上成績を誇示したのである。初め、政和年間に再び塩法を改めた時、伯芻は丁度蔡京に倚信されていたため、建言して言うには、「朝廷が利権を開閉し、商賈を奔走させ、煩わしい号令を要せず、億万の銭が輻湊して至るのは、禦府が頒索し、百司が支費する歳用の外に沛然として余りがあるからであり、則ち榷塩の収入は厚いと言えましょう。近年、塩法には一定の制度がなく、公私の便宜のために随時変革し、防閑が定まらなかったため、奸弊が百出しました。政和年間に立法して以来、弊源を頓絶し、公私ともに利益を得ています。以前は一日の収入が二万緡を超えれば、既に多すぎると驚いたものですが、今日の納入は常に四、五万貫に及んでいます。歳を以て計算すれば、一郡で客鈔銭が五十余万貫に及ぶところがあり、処州がそれです。一州の倉で客人の請塩が四十万袋に及ぶところがあり、泰州がそれです。新法は今やようやく二年ですが、収入は既に四千万貫に及び、伝記に載る貫朽ち銭流るるというのも、実は今日のことを言うには足りません。伏して通収四千万貫の数を以て、史館に宣付し、富国裕民の政を示されたく。」小人が時に志を騁せば、顧忌する所なく、遂にここに至ったのである。
当時、禦府の用度は日増しに広がり、課入を豊かにしようと、再び歳較・季比の令を申し立て、在職中に仮に告暇を取った者は、その月日を皆計折してはならず、法を害する者は官蔭をもってしても極刑に処すべく、微細な塩袋・鯗塩に至るまで、禁じないものはなく、州県はただ歳ごとに課税を増やして罪法を避けることを務め、上下の督促はますます厳しくなった。七年、乃ち詔して言う、「先に塩法を改め、賞を立てること甚だ重く、抑配する者が多く、戸口を計って嬰児にまで及び、広く数え駝畜にまで及んで、良民に弊害を受けさせ、家ごとに愁歎している。全て初めの令に従い、以て百姓を利せしめよ。三省は近制を厳しく申し立て、新鈔を奉じて改めよ。」然るに有司は承守することができず、故に比較は既に罷められてまた用いられ、抄劄は既に免ぜられてまた行われ、塩囊は既に増やされてまた止み、一囊の価は裁って十一千と為し、既にまた十三千と為し、民力はこれによって擾乱し困窮し、盗賊が滋生したのである。
靖康元年、新鈔を降す前に既に給付した現銭公據文鈔は、皆商賈に還給すべしと詔し、大信を示した。時に塩は全て新鈔を給し、また旧塩を帯売して期限を立てる法を用いた。言者が論じて言う、「王黼が国政を執った時、蔡京の弊法を循用し、新鈔を行い、旧塩は貼銭を以て対帯し、初めて売却を許し、初限は両月、再限は一月とした。当時、黼は丁度権勢を振るい、専ら民を害し、下を剥ぎ上を益し、鈔法を改易すること、盗賊よりも甚だしかった。然るに今、覆車の轍を改めず、また期限を促して半月に止め、反って王黼の時にも及ばない。商賈どうして怨まないことがあろうか。」詔して期限を申し立てた。
南渡後、淮・浙の亭戸には、官が本銭を給した。諸州に倉を置き、商人に鈔を買わせ、五十斤を一石とし、六石を一袋とし、鈔銭十八千を輸納させた。紹興元年、臨安府・秀州の亭戸の二税は、皇祐法に依って塩を輸納すべしと詔し、監官を立てて亭戸の私煎を察せず、及び巡捕の漏泄を禁ずる法を立てた。二年九月、淮・浙塩は商人に袋ごとに通貨銭三千を貼輸させ、既に算請して未だ売却していない者もまたこれに同じくし、十日以内に自ら陳述しなければ、私塩の律に従うべしと詔した。時に呂頤浩が提轄張純儀を用い、峻しく塩法を改めた。十一月、淮・浙塩は十分を率とし、四分は今降旨符以後の文鈔を支給し、四分は建炎渡江以後の文鈔を支給すべしと詔した。先に呂頤浩は対帯法を用いるべからずとし、商人に貼輸銭を納めさせたが、ここに至ってまた分数を以て対帯法の如くしたので、ここに始めて厳酷さを加えたのである。三年、民間の蠶塩銭を減じた。四年正月、淮・浙塩鈔銭は毎袋貼輸銭三貫を増し、併せて綱を計って行在に輸納すべしと詔し、尋いで広塩もまたこれに同じくせしめた。九月、入輸が遅延細少なため、添えた銭を減じた。然るに建炎三年に鈔法を改めて以来、今の改めに至るまで、凡そ五変し、而して建炎旧鈔の支給は未だ絶えておらず、乃ち先後のものを併せて支給すべしと命じた。
孝宗の乾道六年、戸部侍郎葉衡が奏上して言う、「今日の財賦において、海を鬻ぐ利はその半を占めます。年来、課入が増えず、商賈が行われないのは、皆私販が害しているからです。且つ淮東・二浙の塩の出入の数を以て言えば、淮東の塩灶は四百十二所、歳額塩は二百六十八万三千余石、去年両務場で淮塩を売ったのは六十七万二千三百余袋、収銭二千一百九十六万三千余貫。二浙の課額は百九十七万余石、去年両務場で浙塩を売ったのは二十万二千余袋、収銭五百一万二千余貫。而して塩灶は却って二千四百余所を数えます。塩額を論ずれば、淮東の数は二浙より五分の一多く、去歳の売塩銭数を論ずれば、淮東は二浙より三分の二多く、及び灶の多寡を論ずれば、両浙は反って淮東より四分の三多い。蓋し二浙には私販でない所がないからです。官を遣わして路を分かち措置せんことを望みます。」
淳熙八年、帯売積塩の売却を停止すべしと詔した。朝廷に徒らに帯売の名があるのみで、総所に免れず借撥の弊があるためである。十年、先に湖北の塩商呉傳が言うには、「国家が海を鬻ぐ利は、三分を率とすれば、淮東がその二を占めます。通・泰・楚に隷属する買塩場十六、催煎場十二、灶四百十二。紹興の初め、灶が煎ずる塩は多くても十一籌に止まり、一籌は塩百斤でした。淳熙の初め、亭戸が鹵水を試す法を得て、灶は二十五籌から三十籌まで煎ずるようになり、旧額の半ばを増やしました。この縁故で、塩場が亭戸から塩を買うに当たり、一籌につき塩二十斤から三十斤を増やして浮塩と称しています。一日に塩一万余籌を買いますが、その浮塩はただ二十斤を則とすれば、二十万斤あり、二千籌に当たり、一籌は銭一貫八百三十文、内船脚銭二百文を除けば、一貫六百三十文あります。その塩は併せて再び官に中入され、鈔銭四百五十一万七千五百余緡となります。又、綱が塩一代を取り、及び諸窠名等、及び売却にまた多く斤両を称するため、亭戸は饑寒に陥り、免れず私売します。若し朝廷が厳しく究め、その本銭を還付すれば、而して後私売の弊を尽く革することができます。」ここに至り、通・泰等州諸塩場の欠く亭戸塩本銭一百一十万貫を還付すべしと詔した。
寧宗慶元の初め、詔して循環塩鈔を罷め、増剩鈔の名を改めて正支文鈔と為し算給し、既に倉に投じたる者と通理して先後を支散す。淮東提挙陳損之の言ふ、循環鈔は弊多しと、故に是の命有り。ここに於て富商巨賈に貧民たらんと願ふ者有り。開禧二年、詔す、今より新鈔一袋に旧鈔一袋を搭支すべし。若し新鈔旧鈔より多きか、或いは全く新鈔を以て塩を支ふるを願ひ、及び旧鈔無くして全く新鈔を買はんと願ふ者は聴せよ、新鈔を以て資次を理すべしと。嘉定二年、詔す、淮東貼輸塩銭の二分交子を免じ、止めて銭会中半を用ゐしむ。三年詔す、「停鈔引の家、旧鈔価値を増長し、袋に官会百貫以上を売る。今より令到の日より、塩鈔官銭袋に会子二十貫を增收し、三務場朱印を鈔面にし、「某年某月新鈔」と作し、通売百万袋に及ばば即ち增收を免ず。其の日前已未支塩鈔並びに旧鈔と為し、期を一年とし持して倉場に赴き塩を支ふるに、袋に官会一十貫を貼輸し、限を出て更に行用せざるべし。」是れ淮・浙塩の大略なり。
唐の乾元の初め、第五琦塩鉄使と為り、塩法を変じ、劉晏之に代る。当時天下の塩利を挙ぐるも、歳たるや纔かに四十万緡。大暦に至り、増して六百余万緡に至る。天下の賦、塩利其の半を居む。元祐の間、淮塩と解池等歳四百万緡。唐の天下の賦を挙ぐるに比し已に三分の二。紹興末年以来、泰州海陵一監、支監三十余万席、銭六七百萬緡と為す、則ち是れ一州の数、唐の天下の数を挙ぐるを過ぐ。
寶慶二年、監察御史趙至道言ふ、「夫れ産塩は固より塩戸に藉り、鬻塩は実に塩商に頼む。故に塩戸は存恤すべく、塩商は優潤すべし。慶元の初、歳銭九百九十万八千有奇と為し、寶慶元年、止むるに七百四十九万九千有奇、乃ち塩課の虧るるは、実に塩商の贏利無きに由るを知る。今の計たるは、商旅を寛にし、征稅を減ずるに若かず、庶幾くは慶元塩課の盛なる、復た今日に見はん。」之に従ふ。紹定元年、侍御史李知孝の言に以て、上虞・餘姚の海塗地に創立する塩竈を罷む。端平二年、都省言ふ、「淮・浙歳額塩九十七万四千余袋、近二三年積虧一百余万袋、民貴塩を食し、公私俱に病む。」旨有り、三路提挙茶塩司各主管文字一員を置き、専ら塩額を興復し、散塩を収買するを務と為し、歳終尚書省其の殿最を課す。淳祐元年、臣僚奏す、「南渡立国、専ら塩鈔を仰ぐ。紹興・淳熙、率ね其の利を享く。嘉定以来、二三十年の間、鈔法或いは行はれ或いは罷められ、而して浮塩の説牢として破る可からず、其の害言ふに勝へざる者有り。望むらくは有司に付して集議せしめ、孰れか行ふ可きと為し、孰れか罷む可きと為すや、天地の蔵は官民と之を共にす、豈に甚だ盛ならずや。」之に従ふ。五年、私販苛征の禁を申厳す。
寶祐元年、都省言ふ、「行在榷貨務都茶場上本務場淳祐十二年収趁到茶塩等銭一十一千八百一十五万六千八百三十三貫有奇、今の新額四千万貫に比し一倍以上を増す、淳祐九年・十年・十一年の例に視ひ倍償して之を以て其の後を励すべし。」旨有り、上る所に依り推賞す。四年五月、行在務場の新額に比し九千一百七十三万五千九百一十二貫有奇を増すを以て、本務場並びに三省・戸部・大府寺・交引庫、凡そ三務場職事を通管する人の、例に視ひ推賞し、後以て常と為す。十有二月、殿中侍御史朱熠言ふ、「塩近くは課額頓に虧け、日一日甚だし。姑く真州分司を以て之を言へば、見虧二千余万、皆台閫及び諸軍帥の興販規利に由る。」ここに於て復た私販の禁を申厳す。
五年、朱熠復た言ふ、「塩の利と為る博し。蜀・広・浙数路を以て之を言へば、皆淮塩額の半に及ばず。蓋し斥鹵彌望たるを以て煎烹に供し、蘆葦阜繁なるを以て燔燎に備ふる可きが故なり。故に環海の湄に、亭戸有り、鍋戸有り、正塩有り、浮塩有り。正塩は亭戸に出で、之を公上に帰す。浮塩は鍋戸に出で、之を商販に鬻ぐ。正塩其の四を居め、浮塩其の一を居む。端平の初、朝廷浮塩の利散じて之を下に帰するを欲せず、ここに於て十局を分置し、以て浮塩を収買す。歳額を以て之を計れば、二千七百九十三万斤。十数年来、鈔法屡更し、公私俱に困す。真・揚・通・泰四州六十五万袋の正塩、昔に視るも猶ほ額に及ばず、尚何ぞ暇有らん浮塩を計るに。是を以て貪墨無恥の士大夫、朝廷浮塩の買を住むるを知り、龍断して其の利を籠む。累累たる竈戸、沙洲に列処し、日銖両の塩に藉りて、以て旦夕の命を延ぶ。今商賈既に私販するを得ず、朝廷又与に収買せず、則ち是れ其の衣食の源を絶つなり。今の計たるは、端平の旧式に遵ひ、鍋戸の浮塩を収むるに若かず。与ふる所の塩本、当に正塩の価を過ぐべし、則ち人皆官と市を為さん。却て此の塩を以て上江に售り、得る所の塩息、径に朝廷に輸す。一則ち戎閫争利の風を絶ち、二則ち鍋戸烹煎の利を続く可し。」旨有り之に従ふ。