宋史

志第一百三十四 食貨下三

◎食貨下三○会子 塩上

会子・交子の法は、唐の飛銭に取るところがあった。真宗の時、張詠がしょくを鎮守し、蜀人の鉄銭の重さを患い、貿易に不便なため、質剤の法を設け、一交一緡とし、三年を一界としてこれを換えた。六十五年で二十二界となり、これを交子と謂い、富民十六戸がこれを主った。後、富民の資力がやや衰え、負うところを償うことができず、争訟が止まなかった。転運使薛田・張若穀が益州に交子務を置き、その出入を専売し、私造を禁ずることを請うた。仁宗はその議に従った。界は百二十五万六千三百四十緡を額とした。

神宗熙寧初年、偽造の罪賞を官印文書の法の如く定めた。河東で鉄銭を運ぶのは労費を要し、公私これを苦しんだ。二年、乃ち詔して潞州に交子務を置かしむ。転運司はその法が行われれば塩・礬が売れず、入中糧草に害があるとして、遂に奏してこれを罷めた。四年、再び陝西で施行したが、永興軍の塩鈔場を罷め、文彦博がその不便を言上した。ちょうど張景憲が延州より出使して還り、蜀では行えても陝西では行えないと謂い、間もなく竟に罷めた。五年、交子二十二界が替えられようとしたが、後界の給用が既に多く、詔して更に二十五界を百二十五万造り、以て二十三界の数を償わしむ。交子に両界あるはこれより始まる。時に交子の給与多くして銭足らず、価格が甚だ賤しくなり、既にして竟に実銭無く、法行うべからず。而して熙河の財利を措置する孫迥が言うには、「商人が買販し、官に牟利し、且つ鈔価を損なう」と。ここにおいて陝西交子法を罷む。

紹聖以後、界ごとに率いて増造し、以て陝西沿辺の糴買及び募兵の用に給し、少ないものは数十万緡、多いものは或いは数百万緡に至った。而して成都の用は、又印造を請うたので、故に毎歳の書放も定数無し。

崇寧三年、京西北路専切管幹通行交子所を置き、川峡路に倣い偽造法を立てる。情を通じて転用し並びに隣人が告げざる者は、皆これを罪す。私に交子紙を造る者は、徒配を以て罪す。四年、諸路に令して更に銭引を用い、新様に準じて印製せしめ、四川は旧法の如し。在京並びに永興軍の交子務を罷め、在京の官吏は並びに買鈔所に帰属せしむ。時に銭引は諸路に通行したが、惟だ閩・浙・湖・広は行わず、趙挺之は閩は蔡京の郷里なるを以て、故に免かれたと為す。明年、尚書省言う、「銭引は本来塩鈔に代わるものなり。而して諸路これを通行せず、印製を権(仮)に罷めんと欲す。官にある者は、旧法の如く更に解塩鈔を印し、民間にある者は、貿易を許し、漸く買鈔所に赴き鈔法の分数に計いて給するが如し」と。これに従う。

大観元年、詔して四川交子務を銭引務と改む。兵を用いて湟・廓・西寧を取って以来、その法をかりて以て辺費を助け、天聖の一界に較べて二十倍を逾え、而して価は愈々損なう。及び界を更える年に至り、新交子一は旧の者四に当たる。故にこれを更張す。四十三界の引を以て書放数に準じ、仍って旧印を用いて行い、人をして疑擾せしめず、以後並びに更めて銭引と為す。二年、而して陝西・河東は皆旧銭引を以て成都に入れ換易するので、故に四川には壅遏の弊があり、河・陝には道途の艱難があり、豪家は因って以て直を損じて斂取することができた。乃ち詔して永興軍に更に務を置き陝西・河東の引を納換せしめ、仍って文臣二人を遣わしてこれを監せしむ。八月、威州知事張持奏す、「本路の引一千は今僅かに十の一に直す。若し出入に弊無くば、八百に直すべく、流通して用うるに足る。官吏の俸給は旧より並びに引を用いる。請う、稍々銭を給して便用せしめよ」と。張持を擢て成都路転運判官と為し、川引を提挙せしむ。後、引価益々賤く、用いるべからず。張持復た別に印押を用いて以て官吏に給し、他の印押無き者は皆棄てて用いず。言者がその非法を論じ、張持は遠謫に坐す。三年、詔す、銭引四十一界より四十二界までは収易せず、以後は天聖の額の如くに止めて書放し、銅錢地内には用いるなかれ。四年、四川提挙諸司の封樁銭五十万緡を仮りて成都務の本銭と為し、侵移する者は常平法に準ず。

政和元年、戸部言う、成都漕司が奏す、「昨、官に輸すべき引を、十分を率とし、三分は民戸の所有するものを用い、而して七分は官場に赴き買納せしめた。これにより人は七分を疑う。請う、今よりは三七分の数を計ること無く、並びに通用を許し、願わくば買納する者は聴せよ。民間旧より本銭未だ至らず、引価大いに損なう。故に州官の官銭もまた数を減じて収市す。今、本銭已に足る。請う、数を減ぜずして以て民の惑いをのぞかん。又請う、四十三界の引は界満を俟って換給せず、四十四界より改法の首と為せ」と。而して戸部が詳度して、四十四界を行なうに止め、その四十五界は印すなからんと欲す。若し通行及び乏用すれば、界内において続いて増すを聴し、その新引を以て給換し、余りは旧の如く売り、或いは給銭の所において銭に易えて儲え以て本と為し、移用する者は封樁銭をほしいままに支うるの法の如し。詔して可とす。靖康元年、川引を令して並びに旧の如く即ち成都府務において納換せしむ。務を成都に置き、便利歳久なるを以て、諸州に至っては則ち料次交雑の弊あり。故に是の詔あり。

大凡旧歳一界を造り、本銭三十六万緡を備え、新旧相因る。大観中、本銭を蓄えずして増造にきまり無く、引一緡が銭十数に当たるに至る。及び張商英が政を執り、詔を奉じて復た旧法に循う。宣和中、商英当時の行なう所を録奏し、以て旧法の用いられしより、今に至り引価復た平らかなりと為す。

高宗紹興元年、有司、婺州の屯兵に因り、合用銭を樁辦するを請う。而して路舟を通ぜず、銭重くして致し難し。乃ち関子を造り婺州に付し、商人を召して入中せしめ、関子を執りて榷貨務に銭を請わしめ、願わくば茶・塩・香貨鈔引を得る者は聴す。ここにおいて州県は関子を以て糴本に充て、抑配免れず。而して榷貨務は又た日輸の三分の一を以てのみこれを償う。人皆嗟怨す。六年、詔して行在に交子務を置く。臣僚言う、「朝廷見銭関子を措置す。有司漸く本意を失い、交子に改む。官に本銭無くんば、民何を以てか信ぜん」と。ここにおいて交子務を罷め、榷貨務に令して見銭を儲え関子を印造せしむ。二十九年、公据・関子を印し、三路総領所に付す。淮西・湖広の関子各八十万緡、淮東公据四十万緡、皆十千より百千に至るまで、凡そ五等。内、関子は三年行使と作し、公据は二年とし、銭銀中半の入納を許す。

三十年、戸部侍郎銭端礼、旨を被り会子を造り、見銭を儲え、城内外に流転せしむ。その合発官銭は、並びに会子をえて左蔵庫に輸するを許す。明年、詔して会子務を都茶場に隷属せしむ。三十二年、偽造会子法を定む。(犯人を処斬す。賞銭十貫、受けずんば願わざる者は、進義校尉こういを補す。若し徒中及び庇匿する者能く告首すれば、罪を免じ賞を受け、官を補せんことを願う者は聴す。)当時、会紙は徽・池より取り、続いて成都に造り、又た臨安に造る。会子初めに行わるるは、両浙に止まり、後、淮・浙・湖北・京西に通行す。亭戸の塩本に銭を用いるを除き、その路舟を通ぜざる処の上供等の銭は、会子を尽く輸するを許す。その沿流の州軍は、銭・会中半とす。民間の田宅・馬牛・舟車等を典売するもこれに如く、全く会子を用いる者は聴す。

孝宗隆興元年、詔して会子に「隆興尚書戸部官印会子之印」を文と為し、更に五百文会を造り、また二百・三百文会を造る。江州会子務を置く。乾道二年、会子の弊を以て、内庫及び南庫の銀百万を出して之を収む。二年、民間の会子破損を以て、別に五百万を造り換給す。又詔して、会の貫百銭数験ふ可きを損ずる者は、並びに上供銭と為して輸納に入れ、巨室にて低価を以て収むる者は之を坐す。四年、取到したる旧会を毀抹し会子局に付して重ねて造らしめ、三年を一界と為し立て、界を千万貫を以て額と為し、界に随ひ新を造り旧を換ふ。戸部尚書曾懐を以て同共措置せしめ、「提領措置会子庫」の印を鋳る。毎道靡費銭二十足を収め、零百は其の半とす。凡そ旧会破損し、貫百の字存し印文験ふ可きは、即ち与に兌換す。五年、行在の榷貨務・都茶場に令して、算請する茶・塩・香・礬鈔引を将て、権めて第一界を収換するを許し、自後毎界の収換此の如し。其の州県諸色の綱銭は、七分を以て銭を収め、三分を以て会を収む。九年、偽会を造るを捕ふるの賞を定む。

淳熙元年、詔して左蔵南上庫に会子二十五万を給し、臨安・平江・紹興・明秀州の額外浮塩を収買せしめ、其の齎到する鈔銭は、榷貨務に令して月終に封樁庫に輸め、以て循環して会子を換易するに備ふ。三年、詔して第三界・第四界各三年限を展べ、都茶場会子庫に令して第四界の続印会子二百万を以て南庫に貯む。当時戸部の歳入一千二百万、其の半は会子と為し、而して南庫にて金銀を以て換収する者は四百万、外に流行する者は纔に二百万のみ。光宗紹熙元年、詔して第七・第八界会子各三年を展ぶ。臣僚言ふ、「会子の界は三年を以て限と為す、今再びに展ぶれば、則ち九年と為す、何を以て信を示さんや」と。是に於て詔して第十界を造り年限を立て定む。

慶元元年、詔して会子の界を三千万を以て額と為す。嘉定二年、三界の会子数多きを以て、称提に策無く、十一界は已に収換を除き、尚ほ一千三百六十万余貫有り、十二界・十三界は焼毀を除き尚ほ一万二百余万貫有り。(十二界四千七百万余貫、十三界五千七百万余貫。)詔して封樁庫に撥して金一十五万両、(両は銭四十貫と為す。)度牒七千道、(毎道は銭一千貫と為す。)官告綾紙・乳香、(乳香は毎套一貫六百文。)湊じて三千余と成し、臨安府官局に添貼し、旧会を収易し、品搭して輸納に入る。(十一界会子二分、十二・十三界会子各四分。)旧会の二を以て、新会の一に易ふ。泉州守臣宋均・南剣州守臣趙崇亢・陳宓、皆称提を以て職を失ひ、責降有差。

紹定五年、両界の会子已に二億二千九百余万に及ぶ。端平二年、臣僚言ふ、「両界の会子、遠き者は曾て数載未だだし、近き者は甫かに期年に及ぶ、破壊塗汚の弊有るに非ず、今当に収むる所の会を以て封樁庫に付し之を貯むべし、脱ひ緩急有らば、或は事を済す可し」と。旨有りて之に従ふ。淳祐二年、宗正丞韓祥奏す、「楮幣を壊す者は只だ変更に縁り、楮幣を救ふ者は収減に如くは無し。去年より今に至るまで、楮価粗く定まり、折閲に至らざるは、変更せざるの力なり。今已に諸の造紙局及び諸州の楮皮を科買するを罷め、更に方方を収減せば、則ち楮価増ふ可きの理有り」と。上曰く、「善し」と。三年、臣僚言ふ、「今官印の数は損ずと雖も、而して偽造の券愈増す、且つ十五・十六界の会子を以て之を言へば、其の入る所の数は、出づる所の数より減ずべし。今収換の際、元額既に溢れ、来る者未だ已まず。若し偽造に非ざれば、其れ何を以て能く多きを致すこと是の如くならんや。大抵前に二界は、尽く川紙を用ひ、物料既に精しく、工製苟もせず、民偽を為さんと欲すとも、尚ほ或は之を難しとす。迨ふに十七界の更印に及びては、已に川・杜の紙を雑用し、十八界に至りては則ち全く杜紙を用ふ。紙既に自ら造る可く、価且つ前に五倍す、故に昔の偽を為す者は難く、今の偽を為す者は易し。人心は利に循ひ、法を畏るるに甚し、況んや利は立致す可く、而して刑は未だ即ち加はらざる者をや。臣愚以為く、抄撩の際、紙料を增添し、工程を寛假し、務めて極めて精緻にし、人をして偽を為す能はざらしむるは、上なり、禁捕の法、厚く之が勧を為し、厲しく之が防を為し、人をして偽を為す敢へざらしむるは、次なり」と。七年、十八界と十七界の会子を以て更に限を立てず、永遠に行使せしむ。十一年、会価の増減を以て其の官吏を課す。景定四年、逾限の田を収買するを以て、復た日増しに会子一十五万貫を印す。

咸淳四年、近く頒ちし見銭関子を以て、貫を七百七十文足と作し、十八界は毎道を二百五十七文足と作し、三道を関子一貫に準じ、見銭と同く転使せしめ、公私擅に減ずる者は、官は贓を以て論じ、吏は則ち配籍す。五年、復た関子減落の禁を申厳す。七年、行在の紙局の造る所の関子紙精しからざるを以て、命じて四川の製使に抄造せしめて輸送せしめ、毎歳二千万を以て四綱と作す。

川引は張浚の宣府を開き、趙開の総餉と為りしより、以て糴本を供し、以て軍需を給し、増印日増しに多く、禁止する能はざるに至る。七年、川・陝の副帥呉玠、銀会を河池に置かんことを請ふ、許さず。蓋し前宋の時、蜀の交は両界を出放し、毎界一百二十余万。今三界通行し、三千七百八十余万と為り、紹興の末に至り、積みて四千一百四十七万余貫に至る、貯むる所の鉄銭、僅かに七十万貫に及び、塩酒等を以て陰に称提と為す。是を以て餉臣王之望も亦た銭引を添印して以て目前を救ひ、朝廷の遠慮を為さざるを得ずと謂ふ。詔して三百万を添印せしむ、之望は止めて一百万を添印す。孝宗隆興二年、餉臣趙沂二百万を添印す。淳熙五年、蜀の引増加して四千五百余万に至るを以て、額を立て再び増すを令せず。光宗紹熙二年、詔して川引界を展べて行使せしむ。寧宗嘉泰の末、両界出放凡そ五千三百余万緡、三界を通じて出放益多く矣。

開禧の末、餉臣陳咸歳用足らざるを以て、嘗て小会を為す、卒に行はるる能はず。嘉定の初、毎緡止だ鉄銭四百以下に直す、咸乃ち金銀・度牒一千三百万を出し、半界を收回し、歳終を期して用ゐざらしむ。然れども四川諸州、総所を去ること遠き者千数百里、期限已に逼り、受給の際、吏復た奸を為す。是に於て商賈行はず、民皆嗟怨し、一引の直、僅かに百銭を售る。製司乃ち人に諭して一千三百万引を除易せしめ、三界旧に依り通行し、又檄して総所に取り金銀を就て成都に場を置き収兌せしめ、民心稍く定まる。自後引の直鉄銭五百有奇、若し関外に銅銭を用ゐば、引の直五百七十銭のみ。

嘉定三年の春、製置司は総べての司をして九十一界の二千九百余万緡を収換せしめ、そのうち千二百万緡は茶馬司の羨余銭及び製置司の空名官告、総領所の樁積み金銀・度牒を以て対鑿し、余りは九十三界の銭引を以て収兌せしむ。また九十四界の銭引五百万緡を造り、以前の宣撫使程鬆の増やした数を収む。凡そ民間の輸納する者は、毎引百ごとに八千を貼納す。その金銀を品搭する率は、新引七分、金銀三分を用い、その金銀の品色・官称に少なからぬ欠損あるも、毎に旧引百ごとに二十引を貼納せしむ。蓋し元年・三年の両度に旧引を収めしより、引の価値遂に故の如く復す。昔、高宗は四川の交子を論ずるに当たり、最も沈該の称提の説を善しとし、官中常に銭百万緡を有し、もし交子の価減ずれば、官銭を以てこれを買い、方にて弊無きを得ると謂えり。

九年、四川安撫製置大使司言う、「川引は毎界、旧例三年を以て一易す。開禧の軍興以後より、用度給せず、年を展べて収兌するにより、遂に両界・三界を通使す。然れども率ね三年界満を以て、方に令を出して界を展ぶるにより、以て民の聴くところ惶惑せしむ。今、十年を以て一界と為し、定令として著わし、則ち民旅復た疑わず」と。これに従う。

宝祐四年、台臣奏す、「川引・銀会の弊、皆な自ら印し自ら用い、出づる有りて収むる無きに因る。今まさにその印造の権を拘え、これを朝廷に帰し、十八界の会子に倣いて四川会子を造り、淳祐の令を視て七百七十陌と作り、四川の州県に於いて公私行使すべし。両料の川引は並びに毀ち、現存の銀会は姑く存す。旧引既に清まり、新会限り有らば、則ち楮価損ぜず。物価自ずから平らかにして、公私倶に便ならん」と。旨有りてこれに従う。咸淳五年、復た会板を以て成都運司に発下しこれを掌らしめ、製置司の抄紙を運司に発往して印造畢功すれば、製置司に発回し、総領所の印を用いて行使し、歳に五百万を以て額とす。

紹興の末、会子には未だ両淮・湖広の分ち無かりしが、その後会子多くして本銭足らず、遂に弊有るに至る。乾道二年、詔して別に二百・三百・五百・一貫交子三百万を印し、ただ両淮に行用し、その旧会は対易を聴く。凡そ輸納・買売に入るは、並びに交子及び銭を以て中半とす。もし往来に使わざれば、詔して交子・会子各二十万を給し、鎮江・建康府の榷貨務に付し、淮人の江を過ぐる者、江南人の淮を渡る者、皆な対易循環して用うるを得しむ。然れども紹興末年より、銅銭は淮に用いることを禁じて鉄銭に易え、会子は既に淮に用いて交子に易う。ここにおいて商賈行わず、淮民困す。右司諫陳良祐、交子の便ならざるを言う。詔して両淮の郡守・漕臣にその利害を条せしむ。皆な降すところの交子数多く、而して銅銭並びに会子は江を過ぎず、是れ民旅の便ならざるを致すと謂う。ここにおいて詔す、銅銭並びに会子は旧の如く江を過ぎ行用し、民間の交子は見銭として官に輸することを許す。凡そ官の交子は、数を尽くして行在の左蔵庫に輸すべし。

三年、詔して新交子一百三十万を造り、淮南漕司に付して州軍に分給し対換行使せしめ、年を限らず。その運司の現に儲むる交子は、先ず南庫に付して交収せしむ。紹熙三年、詔して新たに交子三百万貫を造り、二百万を淮東に付し、一百万を淮西に付す。毎貫は鉄銭七百七十文足に準じ、三年を以て界とす。慶元四年、詔す、両淮第二界会子限満、明年六月、更に一界を展ぶ。嘉定十一年、両淮交子二百万を造り、三百万を増印す。十三年、二百万を印し、一百五十万を増印す。十四年・十五年、皆な三百万に及ぶ。ここよりその数日ごとに増し、価もまた日ごとに損じ、称提の術無く、ただ屡々と界を展ぶるのみ。

初め、襄・郢等の処の大軍の支請は、銭銀を以て品搭せし。孝宗隆興元年、始めて大軍庫に措置して見銭を儲け、五百並びに一貫直便の会子を印造し、軍前に発赴せしめ、並びに見銭に当てて流転せしむ。印造の権既に専にし、印造の数日ごとに益す。且つ総領所の給する所はただ本路に行わるるに止まり、而して荊南は水陸の要衝、商賈必ず由るの地なるに、流通便ならず。乾道三年、その会子の印板を収む。四年、淮西総領所の関子二十万、都茶場の鈔引八十万を以て、湖北漕司に付して収換せしめ、左蔵庫に輸し、又命じて銀銭を降してこれを収む。五年、詔す、戸部に行在会子五十万を給し、荊南府に付して兌換せしむ。淳熙七年、詔す、会子庫先ず会子一百万を造り、湖広総領所に降付して破会を収換せしむ。十一年、臣僚言う、「湖北会子は隆興の初に創まり、今に至るまで二十二年、曾て兌易せず、称提行わず」と。詔す、湖広総領、帥・漕と同しく議して経久の利便をせしむ。帥・漕・総領言う、「一貫・五百例の湖北会子二百万貫を印給し、旧会を収換せんことを乞う。庶幾く流転通快にして、経久行うべし」と。これに従う。

十三年、詔す、湖広会子は仍て三年を以て界とす。紹熙元年、詔す、湖広総領所、現行及び樁貯の新旧会を数え取り、行在の例に倣いて界を立てて収換せしむ。餉臣梁総奏す、「自来界を立てず、ただ破損する者は即ち換易を行い、累次易えたるを除く外、尚ほ五百四十余万有り、現に民間に行用す。別様に製作して両界とし、印造して収換せんことを乞う」と。これに従う。

嘉定五年、湖広の餉臣王釜、度牒・茶引を以て第五界旧会を兌せんことを請う。毎度牒一道、価千五百緡、又茶引一千五百緡を貼搭し、方に収買を許し、期を一月とす。然れども京湖二十一州に止めて三場を置き、便ならず。製臣劉光祖乃ち総領所と会して第六界新会五万緡を以て、軍民に旧楮二を以てその一に易えしめ、継いて又軍民に一楮半を以てその一に易えしめ、又朝に請いて新楮十万を添給す。軍民これに頼る。十四年、湖広会子三十万を造り破会に易う。十七年、湖広第六界会子二百万を造る。嘉熙二年、第七界湖会九百万を督視参政行府に撥付す。宝祐二年、第八界湖広会三百万貫を湖広総領所に撥付し、両界の破会に易う。自後これに因り仍てこれを行う。

塩の類二有り。池を引きて成る者を顆塩と曰い、『周官』の所謂き盬塩なり。海を鬻ぎ、井を鬻ぎ、堿を鬻いで成る者を末塩と曰い、『周官』の所謂き散塩なり。宋は諸国を削平するより、天下の塩利皆な県官に帰す。官鬻・通商、州郡の宜しきに随う。然れどもまた変革常ならず、而して特に私販の禁を重んず。

池を引いて塩を作る、解州の解県・安邑の両池という。地を開墾して畦とし、池の水を引いてこれを潤す、これを種塩と謂い、水が消耗すれば塩が成る。民戸を籍して畦夫とし、官が廩給を与え、その家を復する。巡邏の兵百人を募り、目して護宝都と為す。歳二月一日に畦を開墾し、四月に始めて種し、八月に乃ち止む。安邑池は毎年毎歳塩千席を種し、解池は二十席を減じ、以て本州及び三京、京東の済・兗・曹・濮・単・鄆州・広済軍、京西の滑・鄭・陳・潁・汝・許・孟州、陝西の河中府・陝虢州・慶成軍、河東の晋・絳・慈・隰州、淮南の宿・亳州、河北の懐州及び澶州諸県の河南にある者に給する。凡そ禁榷の地は、官が標識を立て、候望して以て民に知らしむ。その通商の地は、京西は蔡・襄・鄧・随・唐・金・房・均・郢州・光化信陽軍、陝西は京兆鳳翔府・同華・耀・乾・商・涇・原・邠・寧・儀・渭・鄜・坊・丹・延・環・慶・秦・隴・鳳・階・成州・保安鎮戎軍、及び澶州諸県の河北にある者なり。顆塩・末塩は皆五斤を以て斗と為し、顆塩の直は毎斤四十四より三十四銭に至るまで、三等あり。至道二年、両池は塩三十七万三千五百四十五席を得、席は百十六斤半なり。三年、鬻銭七十二万八千余貫。

咸平年中、度支使梁鼎言う、「陝西沿辺の解塩は請う、商を通さず、官自らこれを鬻かん」と。詔して鼎を以て陝西製置使と為し、又内殿崇班杜承睿を以て同製置陝西青白塩事と為す。承睿言う、「鄜・延・環・慶・儀・渭等州は青塩を禁じて以後、商人に芻粟を入るることを令し、解塩を辺に運びて貨鬻せしむ、その直は青塩と相懸からず、是を以て民は賎塩を食し、須らく法を畏るるに至り、而して蕃部の青塩は売り難し。今聞く、解塩を辺に運ぶも、却って内地と同じ価と為すと、辺民は必ず法を冒して利を図り、却って蕃界に入りて私に青塩を販わん、是れ寇に資を助け民怨を結ぶなり」と。継いて又上疏してその不便を言う者有り、鼎は請う、辺部に至りて斡運するを候い、及び伝駅に乗りて解池に至れば即ち商販を禁止せんと。旋って塩を辺に運び赴かしむ、公私大いに煩費有り、而して辺民は頓に市に入る無く、物論紛擾す。ここに於いて命ず、判塩鉄勾院林特・知永興軍張永に詳議せしむ、公私に便ならずと為し、請う旧の商販に復せんと。詔して鼎を切責し、度支使を罷む。大中祥符九年、陝西転運使張象中言う、「両池の貯うる所の塩は計らく直二千百七十六万一千八十貫、慮うらくは尚遺利有らん、望むらくは条約を行わん」と。真宗曰く、「地利の阜き、此れ亦至れり。過ぎて羨を増すを求めば、慮うらくは時に闕く有らん」と。許さず。

是に先立ち、五代の時塩法甚だ峻し。建隆二年、始めて官塩闌入法を定む、禁地貿易十斤に至り、煮堿塩三斤に至る者は乃ち死に坐し、民の受くる所の蠶塩以て城市に入る三十斤以上なる者は、上請す。三年、闌入三十斤に至り、煮堿十斤に至るを増して死に坐し、蠶塩城市に入る百斤以上なる者は、奏裁す。乾徳四年以後、毎詔優寬す。太平興国二年、乃ち詔す、闌入二百斤以上に至り、煮堿及び主吏盗販百斤以上に至り、蠶塩城市に入る五百斤以上なる者は、並びに麵をげいして闕下に送る。淳化五年に至り、前に犯す所の者を改めて正に本州牢城に配す。代州宝興軍の民私に契丹の骨堆渡及び桃山の塩を市す、雍熙四年、詔す、犯す者は一斤より論罪差有り、五十斤は役流を加え、百斤以上は部送して闕下に至らしむ。

天聖以来、両池の畦戸総三百八十、本州及び旁州の民を以てこれと為し、戸歳に夫二人を出だし、人に米を給すること日二升、歳に戸に銭四万を給す。塩と為す歳百五十二万六千四百二十九石、石五十斤、席を以て計れば、六十五万五千百二十席と為し、席百十六斤なり。禁榷の地は、皆官が郷戸衙前及び民夫を役し、これを帖頭と謂い、水陸漕運す。而して通商州軍並びに辺の秦・延・環・慶・渭・原・保安・鎮戎・徳順は、又人を募りて芻粟を中に入れ、塩を以てこれを償う。

凡そ通商州軍、京西にある者は南塩と為し、陝西にある者は西塩と為し、若し禁塩地は則ち東塩と為し、各々経界有り、以て侵越を防ぐ。天聖初、計置司茶塩の利害を議し、因りて言う、「両池旧に商人を募りて南塩を售る者は、京師榷貨務に銭を入る。乾興元年、歳入纔に二十三万緡、天禧三年の数に視て十四万を損ず。請う一切これを罷め、専ら辺に芻粟を中に入るることを令し、及びこれが為に約束を増し、防禁を申し、以て私販の弊を絶たん」と。久しうして、復詔す京師に銭を入るることを、商人の便に従う。

三京・二十八州軍、官自ら塩を輦運し、百姓転輸に困す。天聖八年、上書する者言う、「県官塩を禁ずるは、利を得ること微にして害を為すこと博し、両池塩を積みて阜と為し、その上に木を生じて合抱し、数較ぶる莫し。宜しく通商を聴し、平估を以て售り、以て民力を寛うすべし」と。詔して翰林学士盛度・御史中丞王随に議してその制度を更めしむ。因りて通商五利を画して上る曰く、「方に商を禁ずる時は、木を伐り船を造り輦運し、兵民疲労に勝えず、今その弊を去る、一利なり;陸運は既に帖頭を差し、又車戸を役し、貧人は役を懼れ、連歳逋逃す、今悉くこれを罷む、二利なり;船運は沈溺の患有り、綱吏侵盗し、泥沙硝石を雑え、その味苦悪しく、疾生じて重膇す、今皆真塩を食するを得、三利なり;銭幣は国の貨泉なり。通流せしめんと欲すれば、富家多く鏹を蔵して出ださず、民用益々蹙す、今歳商人に出ださしむる所の緡銭六十余万経費を助く、四利なり;歳に塩官・兵卒・畦夫傭作の給を減ず、五利なり」と。十月、詔して三京・二十八州軍の榷法を罷め、商人の京師榷貨務に銭若しくは金銀を入るることを聴し、両池の塩を受く。これを行うこと一年、天聖七年に視て、緡銭十五万を増す。その後歳課減耗し、命ず翰林学士宋庠等に天聖九年より宝元二年の新法を以て較えしむ、乾興より天聖八年の旧法に視て、歳課二百三十六万緡を損ず。康定元年、詔す京師・南京及び京東州軍、淮南の宿・亳州は、皆旧の如く禁ぜんと。未だ幾もなく、復た京師の榷法を弛め、並びに詔して三司に議わしむ淮南の塩を通じて京東等八州に給せしむることを、ここに於いて兗・鄆・宿・亳は皆淮南の塩を食す。

元昊が反乱してより、兵を西辺に集め、辺境一帯で芻粟を納入する者は少なかった。朝廷は兵糧に急迫し、調発が足りず、そこで芻粟の納入を許し、券を与えて京師の榷貨務に赴き銭または金銀を受け取らせた。他の物資を納入する者には、券を与えて池塩で償った。これにより羽毛・筋角・膠漆・鉄炭・瓦木の類は、すべて塩で交換されることとなった。狡猾な商人と貪欲な官吏が表裏で奸計をなし、ついには椽木二本を納入し、千銭と評価して、一大席の塩を与えるに至った。一大席は塩二百二十斤である。池塩を虚費すること、数え切れず、塩価はますます下落し、販売者は行商せず、公私ともに利益がなかった。慶暦二年、京師の専売法を復活させ、商人が虚偽の評価で券を受け取った者および既に塩を受け取ったが未販売の者は、すべてその価値に応じて官銭の不足分を納めさせた。内地の州軍における民間の塩は、すべて買い上げて官有とし、官が場を設けて価格を上げて売り出した。また永興・同・華・耀・河中・陝・虢・解・晋・絳・慶成の十一州軍における商塩を禁じ、官自らが車で運搬し、衙前がこれを主管した。さらに蜀への商塩の私的流入を禁じ、永興・鳳翔に折博務を設置し、銭または蜀の物資を納入することを許し、塩と交換して蜀中に赴き販売させた。時が経つにつれ、東・南の塩産地はすべて再び専売となり、兵民が運搬する苦しみは耐えがたく、州郡は騒然となった。得られる塩の利益は、朝廷の急務を補うに足りなかった。辺境一帯の務めでは人を誘って芻粟を納入させたが、すべて虚偽の評価で、数倍に高騰し、京師の銭幣を大きく消耗させ、国庫はますます空虚となった。

太常博士範祥は関中の者で、その利害に詳しく、常に両池の利益は甚だ大きいが、少しも辺境の経費を助けられないのは、公私の侵漁の害であると言い、もし一たび法を変えれば、毎年度支の緡銭数十百万を節減できるとしていた。そこで策を図って献上した。この時韓琦が枢密副使であり、知制誥田況とともに範祥の策を用いるよう請うた。四年、詔して範祥を馳伝させて陝西都転運使程戡とこれを議わせたが、程戡の議は範祥と合わず、範祥はまもなく喪に服して去った。八年、範祥が再びその説を申し立て、そこで陝西提点刑獄兼製置解塩事とし、これを推行させた。その法は、旧来の禁塩地はすべて通商とし、塩の蜀への流入を許す。九州軍への芻粟納入を廃止し、実銭の納入を命じ、塩で償い、納銭した州軍の遠近および指定した東・西・南塩に応じて、その価格を等級により優遇する。東・南塩についてはさらに永興・鳳翔・河中への納銭を許す。歳課として納入する銭の総額を塩三十七万五千大席とし、要券を与え、即ち池で券を検証し、数に応じて出し、兵民の運搬の役はすべて廃止する。また延・慶・環・渭・原・保安鎮戎・徳順の地は烏・白池に近く、奸人がひそかに青白塩を塞内に入れ、利益を侵し法を乱す。そこで人を募って池塩を納入させ、券を与えてその評価を優遇し、帰還後、池塩で償う。納入された塩は官自らが売り出し、私的販売を禁じ、青白塩の禁を厳しくする。辺境一帯の旧来の鉄・炭・瓦・木の類の納入令は、すべて法を重くして絶つ。以前に虚偽の評価で券を受け取った者および既に塩を受け取ったが未販売の者は、すべてその価値に応じて官銭の不足分を納めさせる。また三京および河中・河陽・陝・虢・解・晋・絳・濮・慶成・広済の官は引き続き塩を売り、商賈の流通を待って止める。納入された緡銭で辺境九州軍の芻粟を買い、榷貨務の銭幣はすべて留保して中都を充実させる。これを数年行うと、狡猾な商人や貪欲な賈人は、僥倖する余地がなくなり、関中の民はその業を安んじ、公私ともに便利とした。

皇祐元年、侍御史知雑何郯が再び法の変更は誤りであると上言した。翌年、三司戸部副使包拯を馳せさせて視察させ、帰還後その施行が便利であると上言し、ただ商人の納銭および延・環など八州軍での塩販売については、いずれもその価格を大きく引き下げ、塩を八州軍に納入する者には、価格を上げて販売させ、三京および河中等の地では官の塩販売を禁ずるよう請うた。三司は、京師では商賈が稀にしか来ないと塩価が高騰するので、公私ともに販売することを許し、その他は禁止するよう請うた。いずれもこれを聞き入れた。田況が三司使となり、範祥を長く任用し、その事を専管させるよう請うた。範祥を権陝西転運使に抜擢し、金紫の服を賜った。範祥は初めに歳入緡銭二百三十万を得られると言っていたが、皇祐三年、緡銭二百二十一万を納入した。四年、二百十五万を納入した。四年の数で慶暦六年を見ると、六十八万増えている。七年を見ると、二十万増えている。また旧来は毎年榷貨務から緡銭を支出していたが、慶暦二年は六百四十七万、六年は四百八十万であった。この時より、榷貨務の銭は支出されなくなった。その後、歳入は増減一定せず、五年にはなお百七十八万に及び、至和元年には百六十九万であった。この時範祥は既に他の罪に坐して貶せられ、転運使李参に代わらせた。三年、遂に元年の納入銭を歳課の定率とし、収入を量って支出を計り、辺境経費の十分の八を助けることができるとした。

時が経つにつれ、辺境一帯では再び芻粟を納入して実銭に当てることを許すようになり、虚偽評価の弊害が増長し、券の価値もそれに従って下落し、毎年官課を損ない、およそ百万に及んだ。嘉祐三年、三司使張方平および包拯が範祥を再任用するよう請うた。そこで再び範祥に塩事を総括させた。範祥は芻粟納入者を厳重に禁止するよう請い、その券が嘉祐三年以前のものは、一券ごとに別に銭一千を納めるよう請うてからでなければ塩を与えないとした。また商人が券または塩を持って京師で販売する者は、いずれも元本を損なうと上言した。京師に官を置き、二十万緡の銭を蓄え、商人が来た時に備え、券または塩の評価が下落した時は、官がこれを販売するよう請うた。券紙六千、塩席十千とし、みだりに増減せず、これによってその市場評価を平準化し、軽重をなさしめないようにする。詔して都塩院監官に兼領させ、これより次第に旧に復した。まもなく範祥が卒し、転運副使薛向を継がせた。治平二年、歳入百六十七万であった。

初め、範祥は法が既に通商となったので、州県の徴算を失うことを恐れ、そこで経由した場所で納めるべき算銭を計算し、すべて合わせて納入の数に算入した。その後も州県は旧来通り算していた。嘉祐六年、薛向がこれをすべて廃止し、併せて八州軍の塩販売価格の引き下げを奏上した。両池の畦戸には、毎年解・河中・陝・虢・慶成の民を役し、官司が傍らに縁って侵剝するので、民はこれを苦しみとし、そこで詔して三年ごとに交替させた。かつて滞納した課塩が三百三十七万余席に積もり、遂にその半額を免除した。中間で積塩が多いため、特に種塩を一年または二年三年停止し、その労力を緩和した。後には畦戸の半減を減らし、次第に傭夫で代え、五州の民はようやく安んじた。

青白塩は烏・白両池から産出し、西羌がその利を独占していた。李継遷が叛いてより、塞内への流入を禁じたが、まもなく廃止し、やがて再び禁止した。乾興初年、かつて詔して河東辺境の者が青白塩の禁を犯す者は陝西法に従うとした。慶暦年中、元昊が降伏を申し入れ、毎年十万石を納入して朝廷に売り渡すことを請うた。仁宗はそれが法を乱すとして、許さなかった。範祥が八州軍の商塩を禁止する議を立て、青白塩の禁を重くしてから、官塩の評価が高騰し、土人や蕃部で青白塩を販売する者がますます多く、しばしば法を犯して死罪に当たっても止めようとしなかった。至和年中、詔して蕃部が青白塩を犯して死罪に当たる者は、ただ海島に配流し、群党で民害となる者は上請するようにした。嘉祐の赦書では、配流された者を近地に移すようにし、これより禁法は次第に緩和された。熙寧初年、詔して淮南転運使張靖に陝西の塩・馬の得失を究明させた。張靖は薛向の欺隠の状を指摘したが、王安石が薛向を支持し、張靖はついに罪を得、薛向を江・淮等路発運使に抜擢した。諫官範純仁が賞罰失当であると上言し、薛向の五つの罪を数え上げたが、薛向の任は当初のままだった。そこで永興軍に売塩場を設置するよう請い、また辺境経費の銭十万緡を永興軍に儲けて塩鈔の元本とし、続いてさらに二十万を増やした。

四年、詔して陝西に蜀の交子法を行わせ、市鈔を廃止す。或いはその不便を論じ、旧に復す。七年、中書が陝西の塩鈔を議す。多く虚鈔を出し、而して塩益々軽く、鈔を以て糧草を折兌すれば、虚に辺糴を抬ぐるの患あり。交子法を用い、其の数を見銭と相当ならしめ、緩急を済すべしと請う。詔して皮公弼・熊本・宋迪をして分って其の事を領せしめ、趙瞻に製置せしむ。又内蔵銭二百万緡を以て三司に仮し、市易の吏を遣わして四路に塩引を請買せしめ、仍て秦鳳・永興の塩鈔をして、歳に百八十万を以て額と為さしむ。八年、中書、陝西塩鈔の利害及び立法八事を奏す。大抵、鈔を買う本銭有限にして、而して鈔を出すこと過多、買い尽くさざれば則ち鈔賤くして糴貴し、故に鈔を出すこと無限なるべからずと謂う。然れども商人見銭に変易せんと欲して、官買わざれば、即ち兼併に抑へられ、則ち鈔価益々賤し。而して辺境急あるも、鈔免れず多く出だす、故に場を置きて市価を以て之を平らぐべし。今両路の実売塩二百二十万緡を買うことを定め、以て用いるべき鈔数に当てて額を立て、永興路八十一万五千、秦鳳路百三十八万五千、内熙河路五十三万七千。永興軍に官を遣わして鈔を買わしめ、歳に転運司の銭十万緡を支えて西塩鈔を買い、又市易務の賒請法を用いて人を募り鈔を賒し変易せしめ、即ち民間鈔多くして滞れば、則ち解池に送りて之を毀つ。詔して其の請に従う。然れども有司鈔を与えること額を溢るるは、猶其の故を視るが如し。九年、乃ち詔して御史に陝西の官吏を劾せしめ、三司の額外に出だす鈔を止めしむ。

十年、三司言う、「塩法の弊は、熙河の鈔額を溢るるに由り、故に価賤くして芻糧貴し。又東・西・南三路の通商郡邑は官塩を榷売するを以て、故に商旅行わず。今塩法改むべく、官売罷むべし。請う先ず旧鈔を収め、旧塩に印識し、加納の法を行わん。官尽く旧鈔を買い、其の已に塩を出だせるは、期を約して商人の自ら言うを聴き、新価に準じて之を増し、塩席に印し、符験を与う。東・南旧法の塩鈔は、席纔に三千五百。西塩鈔は席一千を減ず。官尽く買う。先ず解州場院に令して商人の鈔を験し之を書かしめ、乃ち売るを許す。已に塩を請うるは、限を立て賞を告げ、商人の自ら陳ずるを聴く。東・南塩席は銭二千五百を加え、西塩席は三千を加え、以て旧符を易え、期を立てて売らしむ。両処の禁榷官売を罷め、提挙司の売塩並びに新価を用い、銭を以て旧鈔を承買し、商人願わくば対行算請せんとするを聴く。官為に法の如く印識す。応に通商の地各官一員を挙げ、其の塩席限十日自ら言わしめ、乃ち加納銭を令し、印識を為し、新引を与え、旧鈔を以て加納銭に当つるを聴く」。皆之を行わしむ。而して別に官売塩の地を定め、市易司を以て塩を買わしめ、亦加納銭せしむ。

旧制、河南北曹・濮以西、秦・鳳以東は、皆解塩を食す。仁宗の時より、解塩通商し、官復た榷せず。熙寧中、市易司始めて開封・曹濮等州を榷す。八年、大理寺丞張景温、出売解塩を提挙す。ここに於いて開封府界の陽武・酸棗・封丘・考城・東明・白馬・中牟・陳留・長垣・胙城・韋城、曹・濮・澶・懷・濟・単・解州・河中府等の州県は、皆官自ら売る。未だ幾ばくもせず、復た商人の議を用い、唐・鄧・襄・均・房・商・蔡・郢・随・金・晋・絳・虢・陳・許・汝・潁・隰州・西京・信陽軍を通商とし、畿県及び澶・曹・濮・懷・衛・済・単・解・同・華・陝・河中府・南京・河陽は、提挙解塩司に令して塩貨を運び鬻がしめ、仍て詔して三司に利害を講求せしむ。

塩価既に増し、民買わざれば、乃ち民に課して官塩を買わしめ、貧富の作業に随いて多少の差を為す。私塩を買売するは、人の告げるを聴き、重く賞を与え、以て犯人の家財を以て之に給す。官塩を買い食い尽くさず、留めて宿を経るは、私塩法に同じ。ここに於いて民間騒怨す。塩鈔旧法は毎席六緡、是に至りて二緡余り有り。商粟に入らず、辺儲備を失う。陝西転運使皮公弼を召し入れて議せしむ。公弼極めて官売の不便を言う。沈括三司使と為り、奪うこと能わず。王安石景温を主とし、括安石の意を希い、通商は歳に官売の緡銭二十余万を失うと言う。安石位を去り、括三司に在りて、乃ち官売罷むべしと言う。ここに於いて河陽・同・華・解州・河中・陝府・陳留・雍丘・襄邑・中牟・管城・尉氏・鄢陵・扶溝・太康・咸平・新鄭を通商を聴く。其の入官売に及ばざるは、官復た自ら売る。澶・濮・済・単・曹・懷州、南京、陽武・酸棗・封丘・考城・東明・白馬・長垣・胙城・韋城の九県は、官売旧の如し。詔して商塩京に入るは、悉く之を市易務に売らしめ、毎席十を減ずること毋からしむ。民塩は皆之を市易務に買わしめ、私に商人と市を為すは、告げるを許し、其の塩を没す。

皮公弼の塩法は、前後両池の支える塩数を酌み、歳に三百三十万緡を以て額と為す。又京師に七場を置き、東・南塩鈔を買わしめ、市易務計りて銭五十九万三千余緡と為す。三司銭を闕く、請う頗る其の鈔を還し、之を西に売らしめん。買う者は其の三を銭に給し、其の七は沿辺の塩価に準じて新引を与う。庶幾くば民間の旧鈔を得、而して新引変易し易からしめんと。詔して其の議を用う。公弼請う復た範祥の旧法を以て市価を平らげんと。詔して三司の銭三十万緡を仮し、京師に於いて鈔を市わしむ。是に先だち、解塩東西に分れ、西塩売るに分域有り。又辺に並ぶ州軍芻糧を市い、鈔を与えること過多なるを以て、故に鈔及び塩甚だ賤く、官価自ら二に分る。ここに於いて西塩の価を増して東塩に比し、以て鈔法を平らげ、歳約十二万緡を増し、復た東西を分たず、悉く西塩の約束を廃す。解池塩鈔旧に二百二十万緡を以て額と為す。転運使皮公弼請う十万を増し、以て辺糴を助けんと。是に至りて、又二百四十二万と為す。商人已に西塩を請うるは、令して銭を加納せしめ、新法の価に平らかならしむ。元豊三年、三司張景温の売解塩の息羨を挙げ、官を進め帛を賜う。

明年、権陝西転運使李稷言う、「新法未だ行わざるより、鈔の貴賤は、有司の出すの多少を視る。新法已に後の、鈔定数有り。熙寧十年冬を起り、元豊三年に尽くし、通じて印給すること百七十七万余席。而して塩池の出す才だ百十七万五千余席。余鈔五十九万有余り、官私に流布し、其の勢賤からざるを得ず」。遂に三司に下して給するを住む。五年、戸部猶お鈔多く售げ難しを以て、歳に陝西の軍儲鈔二百万を給するも、其の半を裁く。然れども鈔多く、卒く価を平らぐること能わず。

元祐元年、戸部及び製置解塩司が議して曰く、「延・慶・渭・原・環・鎮戎・保安・徳順等の八州軍は、皆官が自ら売り、一万五千五百席を額とし、商旅が八州軍の折博務に入納することを聴し、交引を算給し、範祥の旧法の如くすべし。塩価銭で償うべきものは、転運司の年額塩鈔を以てこれに給し、売った塩銭は、転運司の糴買を待つべし。なお承務郎以上の者一員を挙げ、在京に場を置き、塩鈔を以て現銭を売り、これを都塩院庫に輸送し、解塩額鈔を給するに遇えば尽く本司に帰し、更に転運司に給するなかれ。他の司は皆販易することを得ず、専旨有りと雖も、執奏するを聴す。その已に買った鈔は、本司これを拘し、若し民間に鈔少なければ或いは本路の緡銭を給し、即ち戸部に上りてその鈔を売るを議すべし」と。詔して皆これに従う。既にして又商人の解塩に入納するが年額売塩費銭二万七千余緡を減じ、在京の買鈔の本を増す。解塩に入中するは、並びに熙河鈔に倣い、而して価は事に随い増損して折し、澶・懐・滑州及び陽武の塩価を、銭八千二百と定む。時に、陝西の民多くは朴硝を以て私に煉りて顆と成し、これを倒硝と謂い、頗る解塩と相乱す。紹聖三年、製置使孫路これを聞くに、詔して犯す者は私塩法一等を減じてこれを坐す。

初め、神宗の時、官は解塩を売り、京西は則ち通商す。沈希顔と為る者有り、転運使と為り、更に榷法と為し、常平銭二十万緡を仮するを請い、自ら解塩を買い、これを本路に売り、民の已に買った解塩を尽く官に買い入れ、掊克して利を牟り、商旅これを苦しむ。哲宗即位す、殿中侍御史黄降、希顔の罪を劾す。元祐元年、京西始めて旧制を通商に復す、然れども猶官売す、元符元年に至りて乃ちこれを罷む。永興軍渭州河北の高陽・櫟陽・涇陽等県は、同・華等六州軍の如く、官仍自ら塩を売り、而して官司の折博務に於いて解塩を買い販易して利を規るを禁ず。俄かに水を以て解池を壊すに、河中府解州の小池塩・同華等州の私土塩・階州の石塩・通遠軍岷州の官井塩を本路に売るを聴し、而して京東・河北の塩も亦通行す。三年、詔して陝西転運副使兼製置解塩使馬城、提挙措置催促陝西・河東木筏薛嗣昌、提挙開修解州塩池。

崇寧元年、解州賈瓦の南北円池に沼畦眼を修し、拍摩布種し、通じて塩百七十八万二千七百余斤を得。初め、解梁の東に大塩沢有り、綿亘百余里、歳に億万計を得。元符初より、霖潦にて池壊す。是に至り、乃ち修復を議す。四年、池成る。凡そ二千四百余畦を開き、百官皆賀す。内侍王仲千なる者その役を董し、課額の敷溢を以て功と為す。然れども議者謂う、解池は水を灌ぎて盈尺、烈日に暴し、南風を鼓して、須臾にして塩を成す、その利固より博し。苟も額を溢さんと欲すれば、風日の便を俟たず、厚く水を灌ぎ、積水して成す、味苦くして口に適せずと。

崇寧初め、言事者、鈔法屡変し、民の聴く疑惑し、公家は軽重の権を失い、商旅は往来の費に困し、範祥の旧法に復し、謹んで守り力を以てこれを行い、庸軽く改むる無きを乞う。その請を可とすと雖も、未だ幾ばくもせず、蔡京建言す、「河北・京東の末塩は、客運して京及び京西に至り、袋に官銭六千を輸し、而して塩本一千に及ばず、施行未だ久しからずして、収息二百万緡に及ぶ。若し陝西に通ずれば、その利必ず倍せん」と。韓敦立等を遣わし分路提挙せしむるを議す。及び塩池已に復し、京仍ち旧解塩の地に客算東北末塩せんと欲し、榷貨務に入納する現緡を窮まり無からしめ、以て己が功を収めんとし、乃ち解塩新鈔の陝西に止まるを令す。五年、詔す、「鈔法これを用い、民の信ずること已久し、飛錢国を裕かにし、その利甚だ大なり。比に前後の法度を考へ、頗る利害を究む。その別に号験を為し、解塩を給して新鈔に換請せしむ。先ず五百万緡を以て陝西・河東に赴かしめ、止だ糴買に給し、商旅の榷貨務に赴き東南塩鈔に換請するを聴す。現緡四分を貼輸する者は旧三分の上に在り、五分を貼輸する者は四分の上に在り。且つ旧鈔を行うを帯し、四分を輸する者は五分を帯し、五分を輸する者は六分を帯す。若し貼輸銭を願わざる者は、旧鈔価に依り二分を減ず」と。先に、豪商の利源軽重の柄を擅にするを患い、率ね鈔直を減じ、辺に並ぶ糴価を増高せしむるを以て、乃ちこれを裁限す。崇寧四年、鈔価裁限すと雖も、その入中する州郡に復た糴価を増し、客鈔を持ち算請し、坐して大利を牟るに、乃ち詔す、陝西の旧鈔を以て東南末塩に易えるは、毎百緡に現銭三分、旧鈔七分を用いよと。後に又詔す、鈔価を減落すること五十を逾ゆる者は、法を以て論ずと。

及び大観四年、張商英相と為り、議して旧法の如く解塩を通行するに復し、而して東北塩は解塩の地と相乱すことを得ざらしむ。継いて有司議す、解池已に復し、旧法に依り鈔を印し請わしむ。商旅の已に買った東北塩は、随処の官司期を三日とし尽く籍し、官に輸してその価を償い、隠匿する者は私塩法の如し。解塩未だ到らざれば、官は得たる東北塩を売り、解塩到れば即ち止む。已に鈔を請け已に支えたる者は悉く毀ち、已に支え未だ請けざる者は別に議するを聴す。在京は仍通行し、その経由する州県鄭州・中牟・開封府祥符・陽武県境内も、亦通放を許す。而して王仲千の請うたる京西北路陳・潁・蔡州・信陽軍に通入するは、権りにこれを止む。商旅の已に算請したる東北塩は、元東京を指定す、未だ至らざる者は、止だ至る所の州軍に批引せしめ、その已に京に入り未だ貨さざる者は、都塩院全袋これを拘買売し、坐賈の買い請け碎売するを許す。

政和元年、詔す、陝西鈔は鈔面実価に依り、輒く増減する者は、違制を以て論ずと。未だ幾ばくもせず、復た陝西通行塩鈔を以て、旧は銅銭六千を以て鈔面と約すと雖も、然れども鈔貴ければ則ち入粟多く、鈔平ければ則ち入穀少なし。若し六千に限らば、陝西は唯だ鉄銭を行う、是れ塩鈔一席に六千鉄銭斛斗を得るなり、深く公家を損す、その時に随い増減するを聴す。二年、蔡京復た事を用い、法仍変改し、鈔用いる可からざる者は悉く敗楮に同じ。六年、両池漫生塩し、人を募り倍力して採取せしめ、且つ賞を加うるを議す。継いて紅塩生ず、百官皆賀し、製置解塩使李百禄等賞を第すに差有り。七年、議して解塩を行ふに復し、時に童貫関・河を宣撫し、実にこれを主る。詔す、解塩の地に見行する東北塩は、復た尽く官に収入し、官その直を給し、在京は平貨に於いて、在外は市易務に樁管し、解塩法の如くこれを売れ。自ら陳せざる者は、私塩法の如し。重和元年、詔して解塩旧法を行ふに復す。年を逾ゆるに、榷貨歳に数百万貫を虧き、又鈔価減落し、糴買行わず、三省趣に講画して以て聞かしむ。貫遂に請う解塩を領するを罷めんと。俄にして三省条奏す、旧東北塩の地に客販解塩するは、限を立て尽く売らしめ、限竟り売り未だ尽くさざる者は、解塩の地に運往し、逾ゆる者は私塩法の如く論ず。京畿・京西復た官を置き提挙す。初め、崇寧中、塩各一方に利するを以て、故に解塩は止だ本路に行い、東南は海を売り利博く、数路に行わる。既に解塩を行ふに復し、商旅折閲に苦しむ。即ち旧の如く改めんとすれば、商旅の疑惑するを慮る。遂に詔して諸路に諭し、鈔法更に改易せず、扇搖する者は法の如く論じ、仍これを倍すと。

靖康元年、解塩鈔の納入と算請は、すべて熙寧・元豊以前の旧法を参照し、また解塩及び東北塩の地分を増改し、すなわち商旅が塩を望まない場合は、旧法の如く鈔麵を用いて銭を請け取ることを許した。続いて、毎席の鈔を八貫とするものを定め、すべて鈔麵に収入する;糧草を納入する者は、直ちに塩池に赴いて塩を請け取ることを許し、再び京に入って鈔を批する煩わしさを省いた。

海を煮て塩とするものを、京東・河北・両浙・淮南・福建・広南の六路という。その塩を煮る地を亭場といい、民を亭戸、あるいは竈戸という。戸には塩丁があり、歳課を官に納め、銭を受け取るか租賦を折納するが、いずれも一定の数はなく、両浙ではまた軍士を役して定課を煮させた。諸路の塩場の廃置は、すべてその利の厚薄、価の盈縮によっており、また一定の制度があったわけではない。末塩の価格は、一斤あたり四十七文から八文まで、二十一等級あった。至道三年、売上総額は百六十三万三千余貫であった。

京東路にあるものは密州濤洛場といい、一年に三万二千余石を煮て、本州及び沂州・濰州に給したが、ただ登州・萊州は通商とし、後に登州に四場を増設した。旧来、南京及び曹・濮・済・兗・単・鄆・広済の七州軍は池塩を食し、その他はすべて二州の塩を食し、官が自ら煮ていた。慶暦元年冬、淄・濰・青・斉・沂・密・徐・淮陽の八州軍が連年凶災にあったため、詔して禁を弛め、人の貿易を聴し、官がその算を収め、密州・登州の歳課を罷め、ただ戸に租銭を輸納させることとした。その後、兗州・鄆州はいずれも地境が接しているため、池塩を食することを罷め、海塩を通商することを得て、淄・濰等州の如く算を収めた。これより諸州の官は塩を貯えず、百姓の蠶塩も毎年給することを罷めたが、しかし銭を輸納させることは従前の如くであった。至和年中、始めて詔して百姓の輸銭を十分を率として、三分を減ずることを聴した。

元豊三年、京東転運副使李察が言上した:「南京・済・濮・曹・単は解塩を行い、残る十二州は海塩を行っている。今の税法を用いて買売塩場を設置することを請う。」その法は、竈戸の煮る塩をすべて官が自ら売り、私的に市することを厳禁し、歳に銭二十七万三千余緡を収め、その利息はほぼ半ばに及んだ。呉居厚が転運判官となり、李察の後を承けて塩法を治め、利入はますます多くなった。六年、本路及び河北の買売塩場を較べると、法を改めてから今日まで一年半で、息銭三十六万緡を得た。李察・呉居厚はいずれも官を進められ、呉居厚には三品の服を賜うた。詔して売塩銭を北京に儲えさせ、河北都転運使蹇周輔・判官李南公に呉居厚より法を受けさせ、河北でこれを行わせた。

河北路にあるものは濱州場といい、一年に二万一千余石を煮て、本州及び棣州・祁州の雑支並びに京東路の青・淄・斉州に給し、大名・真定府、貝・冀・相・衛・邢・洺・深・趙・滄・磁・徳・博・濱・棣・祁・定・保・瀛・莫・雄・州、徳清・通利・永静・乾寧・定遠・保定・広信・永定・安粛軍は通商とした。後に濱州は四務に分け、また滄州に三務を増設し、歳課九千百四十五石をもって一路に給したが、京東路の淄・青・斉州は既に通商となったため、もはや給さなくなった。

開宝以来、河北の塩は人の貿易を聴し、官がその算を収め、歳額は銭十五万緡であった。上封者はかつて禁榷して遺利を収めることを請うたが、余靖が当時諫官であり、急ぎ言上した:「前年軍事が起こり、河北で義勇強壮を点検し諸般の科率を行い、数年之間、休息を得ていない。臣はかつて燕薊の地が契丹に陥って幾百年になるのに、民が南顧の心を忘れていることを痛むが、おおむね契丹の法が簡易で、塩・麹ともに廉価であり、科役が煩わしくないためである。昔、太祖は河朔に恩を推し及ぼしたので、通商を許された。今もしこれを榷すれば、価格必ず騰踊し、民もし怨みを抱けば、悔やんでも及ばない。河朔の土は多く塩鹹であり、小民の税地は五穀を生ぜず、ただ鹹を刮り塩を煎じて二税を納めている。これを禁めれば必ず逃亡に至る。塩価もし高ければ、法を犯す者も多く、辺民が怨望すれば、国の福ではない。乞う、かつ従前の如く通商せしめよ。」その議は遂に止んだ。

慶暦六年、三司使王拱辰がまた建議して二州の塩をすべて官に榷し入れて、その利を専有しようとした。都転運使魚周詢は不可とし、かつ言上した:「商人が塩を販売するに、過ぎる州県の吏と交通して弊をなし、算する所十に二三もない。州県をして十分に算することを勅し、商人の至る所鬻州軍において並びに算銭を輸納することを聴すれば、歳に十余万緡の銭を得ることができる。」三司はその策を用いることを奏上した。仁宗は言われた:「人をして頓に貴塩を食わしめるのは、豈に朕の意であろうか?」ここにおいて三司はさらに榷法を立てたが下さず、張方平が上に謁して問うた:「河北で再び塩を榷するのは何故ですか?」上は言われた:「始めて法を議するのであって、再榷ではない。」張方平は言った:「周世宗は河北の塩を榷し、犯せば輒ち処死した。世宗が北伐した時、父老が道を遮り泣き訴え、塩課を両税に均しその禁を弛めることを願い、これを許された。今の両税塩銭がそれである。豈に再榷ではないでしょうか?かつ今未だ榷せずして契丹が盗販止まず、もし榷すれば塩は貴くなり、契丹の塩はますます売れる。これは我がために怨みを斂め、契丹に福を獲させることである。契丹の塩が入る事益々多ければ、兵を用いなければ禁じられず、辺境の隙が一つ開けば、得る所の塩利が用兵の費を補うことができましょうか?」上は大いに悟り言われた:「その語を宰相に伝え、直ちにこれを罷めよ。」張方平は言った:「法は未だ下されていないが、民は既に戸ごとに知っています。直ちに手詔をもって罷めるべきで、下から出してはなりません。」上は喜び、張方平に密かに手詔を撰させて下した。河朔の父老は相率いて拝迎し、澶州において仏老の会を七日間行い、以て上の恩に報い、かつ詔を北京に刻した。後、父老がその下を通る時は、必ず稽首して涙を流した。

久しくして、緡銭の収入はますます消耗し、皇祐年中、旧額を視るとほとんどその半ばを失っていた。陝州録事参軍王伯瑜が滄州塩山務を監り、建議して商人が塩を滄・濱二州で受け取り、囊にこれを貯え、囊は三石三斗を過ぎず、一斗は塩六斤とし、三斗を耗として算せず、残りはその半ばを算する。券を与えて験とし、州県は券を験してこれを放ち、至る所鬻州軍において並びに算銭を輸納することを聴する;もし貯える所が数を過ぎれば、与える者及び受ける者ともに罰し、商人が私かに他の塩を挟めば、その資財を没収する。時に滄州知事田京が、王伯瑜と合議して上聞し、召して試行させた。一年を過ぎて、歳課は三万余緡増加し、遂にこれを定制とした。熙寧八年、三司使章惇がまた河北の塩を榷することを請い、詔して河北・京東塩税を提挙する周革を入れて議させ、施行しようとした。文彦博がその不便を論じたため、詔して仍旧のままとした。