宋史

志第一百三十一 食貨上六

◎食貨上六(役法下 振恤)役法

中書舎人蘇軾が詳定役法所において、役法は雇役たるべく差役たるべからずと極言し、ただ雇役の実費の外に民の銭を多く取るは当たらず、もし量入為出して多く取らざれば、自ずから民を利するに足るとした。司馬光はこれを然とせず、光は言う、「差役は既に行われ、続いて聞くに、雇募が足らざるを以て初めて差役を定むるを許すとの命あり。屡々更張有り、号令一ならず。また転運使は一路を合わせて一法と為さんと欲し、州県に各々その宜に従うを令せず、或いは既に差を受けしに役を釈して去らしめ、或いは既に雇を辞ししに復たこれを拘えて役に入れ、或いは旧に用いし銭を用いて招雇し、或いは銭を用いずして白く招く、紛紜として定まらず、漸く本意に違う」と。遂に始めて奏したる条文を挙げ、かつて州県・監司に宜否を陳列するを許したることを述べ、「今後外官苟も利害を見るは、県は直ちに転運司に上るを許し、州は直奏を許し、下情の壅がれざらしむべし。詳定所はただ監司・州県の陳ずる所を稽閲し、可否を詳定すべく、その職任に非ずして務めて奇論を出し、事情に切らざる者は用いるなかれ、また一路・一州・一県の土風利害を以て天下に行うを概するなかれ」と。これに従う。

未だ幾ばくもせず、詔す、「諸路の坊郭五等以上、及び単丁・女戸・官戸・寺観の第三等以上、旧に免役銭を輸せし者は並びに五分を減じ、余の戸等これより下の者は悉く輸するを免じ、仍って元祐二年より始む。凡そ衙前の重難及び綱運の公皂の迓送飧銭に支酬するは、坊場・河渡の銭を以て給賦す。足らざれば、初めてこの六色銭に於て助用すべく、而して余有れば、封樁して不時の須に備う」と。

臣僚上言す、「朝廷は差法を立てながらも、明らかに民戸に雇代を許し、州県多くは既に施行す。近く弓手は正身たるを須うとの命有り、公私未だ便ならざるを恐る」と。詔す、「身自ら役に任ずるを願わざれば、嘗て弓手として労効有る者を雇うを許し、雇直多くと雖も、元募の数を踰ゆるなかれ」と。御史中丞劉摯言す、「弓手は差法を用いざるべからざるは、蓋し郷人の役に在るは、則ち家丁子弟の助け有るのみならず、族姻郷党に至るまで、耳目と為らざる莫く、捕うれば輒ち獲ること有り、また土着自ら重んじ、逃亡の患い無し。自ら雇募を行いしより、盗寇充斥す、蓋し浮惰責に任じ能わざる故なり。五路の弓手の如き、熙寧未だ法を変えざる前は、身自ら役を執り、最も強勁と号し、その材芸捕緝は他路に勝れり。近日復た差し、楽しまずして願い銭を出し人を雇うを聞かず。惟だ川しょく・江・浙等の路は、昨上一等戸を升差し、皆驕脆に習い、察捕の責に任ずるを肯ぜず。乞う、五路は必ず正身を差し、余路は即ち新勅を用い、三色に厘すべし、旧に戸等有り既に嘗て差を受けし者、嘗て戦闘の労効有り応に留むべき者、願い人を雇い己に代わらしむる者。この三色を立て、冀わくは新旧相兼ね、漸く禦捕に習わしむ」と。侍御史王岩叟もまた雇代は恐らく事に任じ能わざるを言い、略ね摯と同し。

監察御史上官均言す、「役の最も重きは、衙前に如く莫く、其次は弓手なり。今東南の長名衙前は招募既に足り、差す所は上戸に及ばず、上戸は必ず弓手を差す、則ち是れ上戸を以て中戸の役に就かしむるなり、実に優幸たり。上戸は産厚くして役軽く、下戸は産薄くして役無し、然らば補恤すべきは、正に中戸に在り。今若し上戸の役年を増し、中戸の番休を稍く久しくせしめば、則ち補除相均しからん」と。また言す、「近く当差弓手戸の役に人を雇いて代わらしむるを許す、この法最も便なり。議者謂う、『身其の役に任ずれば、則ち自ら愛して犯法を重んず』と、熙寧の募法久しく行わる、何ぞ嘗て盗賊の充斥するを聞かんや。彼の自ら愛するの民、符帖を承り追逮するは則ち可なり、これに賊と角して死せしむ、豈に其れ能くせんや。両浙諸路は法に案じて弓手を差し、必ず正身を責む、至って涕泣して辞免する者有り。此れ豈に恃みて用うべきや。今既に法を立て、嘗て弓手として労効有る人を雇うを許す、泛く募るに比べ、宜しく間有るべし」と。

殿中侍御史呂陶が謁告して成都に帰るに因り、転運司と議定して役法を令む。後に役年を増減するの法を議立して曰く、「戸多きの郷は十二年を以てし、戸少なきは九年を以てし、応差の戸は通じて一周を輪す。一周の月日を以て之を戸等に参し、戸税多き者は役する日の多きを占め、少き者は率を以て減下し、則ち均適して頗る無からん。等を以て周差すと雖も、皆人を募いて代わらしむるを許し、如此れば則ち四等は往々にして少差し、而して五等は差の及ばざる所なり。衙前は悉く招募を令め、坊場銭を以て重難に支酬す、この法允当なり」と。

是の時に当たり、役法を議する者は皆之を詳定所に下し、久しく決すること能わず。ここにおいて文彦博言す、「差役の法、局を置き衆議し、命令雑下し、致して久しく決せず」と。ここにおいて詔して詳定局を罷め、役法専ら戸部に隷す。

諫議大夫鮮於侁言す、「開封府は官戸多く、祥符県に至っては闔郷止だ一戸応差する有り、其の濫を裁せんことを請う。凡そ保甲の班行を授かる者は、進納人の例の如く、須らく升朝に至りて、初めて色役を免るべし」と。旧法、戸の免役銭を賦する及び三百緡なる者は、令めて仍って銭を輸して役を免ず。侍御史王岩叟謂う、「この法其の利を見ず。仮りに両戸、其の一は銭を輸する及び三百千、其の一は及び二百八九十千、相去ること幾何ぞ、而して応差する者は三年五年即ち休息を得、其の応に輸助する者は畢世銭に入れ、已む時無し、破家に至らざれば、終に免るるを得ず。此の勢必ず巧みに免計を為し、兄弟有れば則ち居を析ち、然らず則ち咸く其の業を売り、但だ三百千の数を少しく降せば、則ち遂に免るることを得ん。二三年を出でず、高強戸皆中戸と成らん」と。其の後また詔す、旧に免役銭を輸する戸及び百千以上の者は、令めて六色戸の如く銭を輸して役を助けしむ。蓋し其の銭を以て広く雇い、番休を優しく久からしめんと欲するなり。凡そ戸少なきの郷、応差三番に及ばざる者は、六色銭を以て州役を募るを許し、尚両番に及ばざれば、則ち戸部に申し、他州の銭を移用し、以て差期を紓う。郷戸衙前役を受け、休むに当たり代わり無ければ、即ち募法の如く雇食の直を給し、若し願い就き投募する者は、仍って本戸の身役を免じ、願わざる者は、速やかに人を募いて之に代わらしむ。

元祐二年、翰林学士兼侍読蘇軾言す、「差役の法、天下皆未だ便ならずと云う。昔日の雇役、中戸歳に出づること幾何、今者の差役、中戸歳に費やすこと幾何。更に幾年一役を以て之を較べ、其の数を約見すれば、則ち利害灼然たり。而るに況んや農民の官に在るは、官吏百端蠶食し、雇人に比し、苦楽十倍なり。五路の百姓樸拙、間々差されて胥吏と為るに遇えば、又須らく慣習の人を転雇せざるべからず、尤も患苦たり」と。尋いで郡県に詔し各々差役法の利害を具し、条析して以て聞かしむ。

四年、右正言劉安世上言す、御史中丞李常が雇募を復するを請うたのは、奸を懐いて政を害するものなりと。先に、常は言う、「差法の詔下り、民は更に銭を輸さざるを知り、嘗て歓呼して相慶す。行わるること既に久しく、始めて銭を輸さざるが害たるを覚ゆ。何となれば、差法廃れて久しく、版籍明らかならず、重軽準る所無く、郷寛く戸多き者は僅かに更休を得、郷狭く戸窄き者は頻年にして役に在り。上戸極等の昔、歳に百千より三百千を輸する者有りしも、今は止だ弓手に差され、人を雇いて役に代わり、歳に銭を用いること三四十千を過ぎず。中下戸の旧に銭を輸するは三二千を過ぎざるも、而今雇う所の承符・散従の類、三十千に下らず。然らば則ち今の法は徒らに上戸を優便する能く、而して三等・四等の戸は困苦日を追うて甚し。望むらくは詔して一二の練事の臣僚をし、賦臣と差雇二法の百姓に便なる者を取りて之を行わしむ。新書に牽かれず、旧説を執せず、民以て善と為す、斯れ善なり」と。而して安世は則ち民に出銭を責むるを以て非と為し、差役の初議を固守するを乞うた故に、常を以て罪と為す。

杭州知事蘇軾も亦言う。

「差法に改行すれば、則ち上戸の害は皆去る。独り三等人戸有り、方に雇役の時、戸歳に出銭極めて三四千を過ぎず、而して今一役二年に当たり、費すこと七十余千に当たるべし。休閑六年を過ぎず、則ち是れ八年の中、昔は徐ろに三十余千を出だし、而今は併せて七十余千を出だす、苦楽知るべし。

朝廷既に六色銭を取り、雇役を用いて中戸に代わるるを許し、頗る一害を除き、以て二利を全うす。今惟だ狭郷戸少なく、役者替閑三番に及ばず、方に六色銭を用いて人を募り州役に代わらしむるを得るも、此法未だ允ならず。何となれば、百姓出銭は本役を免るる為なり、今乃ち番次を限り、用いて尽く用いず。銭を官に留むるは、其の名正しからず、又雇う所の者少なく、未だ中戸の労を紡ぐに足らず。

又投名衙前は元額に足らず、而して郷差衙前は又当に更代すべく、即ち又別に差し、更に銭を支えず。若し長名に就くを願わば、則ち酬いを支えて重難を尽く以て之に給し、仍て日月を計りて其の戸役を除き、及び助役銭二十千を免ず。及び州役は惟だ吏人・衙前のみ皆雇募を得、此の外悉く差法を用う。如し休役未だ三年に及ばずんば、即ち助役銭を以て募りを支う。此法尤も未だ通ぜず。元豊以前より、天下に闕額衙前有りと聞かず、豈に嘗て抑勒せんや、直に重難月給を以て足用に可きが故なり。当時奉使李承之の徒の如き、至る所已に輒ち減刻し、元祐法を改め、又減削を行い、既に多く月給を支えず、如何ぞ肯て招募に就かん。今其の本に循わず、乃ち郷差を重困せんと欲し、全く銭を支えず、而して応募の人には尽く数支給し、又役銭二千貫を放免し、以て誘脅して尽く令して応募せしめんと欲す。何ぞ直に重難月給を添え、令して招募の行わるるを得しむるに如かん。闕額長名衙前を促して招き刻期を須いて足らしむるを乞う。如し合わずんば銭を増して雇募し、之を監司に上り、議定して即ち行わしむ。

役は率ね二年を以て一番と為す。向來尚お一戸歇役三番に及ばざるを許し、則ち令して雇募せしむ、是れ百姓をして空閑六年せしめんと欲するなり。今忽ち減じて二年と作す。幸いに六色銭足用して余り有り、正に可く番数を加添すべく、而るに乃ち番を減じて役を添う。農民皆紛然として妄りに朝廷此の銭を他に移すと謂う。雖も量りに一分を留めて備用にすと云うも、若し余剩の数有らば、却って量りに下戸無丁及び女戸の敷く所の役銭を減ずべしと。此れ乃ち空言にして実無し。丁口・産税開収増減、年年相同からず、如何ぞ前もって来年の応役を知りて預め樁科せん。若し亟に行い減下し、臨期足らずんば、又須らく増取すべく、吏縁りて奸を為し、防ぐに勝えず。大抵六色銭は免役を取り、当に雇役に於いて平らかに之を尽くすべく、然る後に名正しくして人服す。惟だ一事有り、慮らざるを得ず。州県六色銭多少相同からず、若し各随って多少を以て之を用うれば、則ち敷銭多き処は、役戸優閑太久く、六色人戸反って敷銭数多きを覚ゆ。今後六色銭常に一年備用の数を存し、而して歳の当に用うべき所を会計し、以て贏余を以て一路を通じ、人戸貧富・色役多少を酌み預め品配し、以て一路の六色銭能く融けて分給し、州県をして尽く人を雇いて用いしめ、以て本処の色役軽重を先後と為さんことを乞わん。如此くすれば則ち銭均しくして弊無く、雇人稍く広く、中戸漸く蘇り、則ち差役の良法は久しく行わりて変ぜざるを得べし」。

是の時、役法未だ便ならざるを論ずる者衆し。五年、再び詔して中書舎人王岩叟・枢密都承旨韓川・諫議大夫点検戸曹文字劉安世に同しく利害を看詳せしむ。戸部請う、「河北・河東・陝西郷差衙前は、投募人の得る所の雇直を則と為し、而して半減して之を給す。投名衙前は惟だ耆長を差し、他の投は皆免ず」。

六年、三省三路投募衙前役の例を援け、概ね他路に行わる。詔す、「凡そ投募人は其の戸二等已下の色役を免じ、郷差人戸は悉く投名人を以て之に代え、長く投募するを願う者は聴す」。又詔す、「諸州衙前は已に量りに雇直・餐銭を支うるを許すも、費広く支え難きを慮う。転運・提刑司其れ土俗に随い参酌して優重の分数及び月給餐銭を立定し、支酬額銭を用いて之を給し、旧法の元数を過ぐるを得ず」。州役の郷差に応ずる者は、若し一郷の人戸終役皆未だ四年に及ばずんば、助役銭を以て人を募り之を為すを許す。総計して一州の雇直、其の助役銭用うるに足らざれば、即ち戸狭く役煩わしき郷分に於いて先ず与に一役を雇代し、役竟りて籍を按じて初めの如く復た差す。諸州歳計助役銭は常に一分を留むる外、雇直を対計し、或は闕け或は剩えば、提刑司一路を通じて移用す。応差諸県手力は、一郷の休役皆三年に及ばざるを合わすれば、亦た助役銭を用いて雇募するを許す。既に一役を終え、別に閑及び三年する者有れば、復た差法を行う。諸州県は差役都鼠尾簿を置き、民戸の税産・物力高下を取り差し、五等に分かち排定し、而して其の色役の年月及び其の更代する人の姓名を逐戸の下に疏す。毎たび差役に遇えば、即ち籍を按じて上より下へし、吏先後を移竄するを得ず。坊場・河渡銭は以て衙前を雇うて寬剩有り、亦た令して其の余の役人を補助せしむ。

三省言う。

「朝廷民役を審定し、差募兼行い、斟酌補除し、極めて詳備なり。而して州県尽く助役銭を用いて人を募り、以て頻役の地を補わず。今綱目を括具し、之を州県に下し、使いて恪く之を承けしむ」。

その第一は、応差の戸において、三等以上は四年の休役を許し、四等以下は六年の休役を許す。もし戸数が少なく交代する者がなく、役を卸すのが応閑の年数に及ばない場合は、助役銭を用いて人を募り代役させてこれを満たす。

その第二は、狭郷の県の役人は、衙前・州胥は雇役を許し、壮丁は直差で雇わないほか、凡そ州県の役人は皆招募を許し、就募の月日をもって応差で閑が四年・六年に及ばない者を補除し、年数に及ばせる。

その第三は、寛郷の県において、既に雇った衙前・州胥のほか、余りの役は皆順序に従って按差する。

その第四は、官が弓手を雇うには、先に嘗て弓手を充てた者を雇い、もし不足すれば、武勇があり雇籍のある者を充てる。他の役人が雇役に就くことを願う場合も、その選受はこれに準ずる。

その第五は、壮丁は皆戸版簿の名次に従って実輪で充役し、半年で交替する。

その第六は、一州一路に狭郷で役の頻繁な県分があり、募銭が不足する場合は、提刑司が一路の助役寛剩銭を通融して移用し、また不足すれば、坊場・河渡の寛剩銭をもってこれを給する。

その第七は、助銭は年年に一分を樁留し、毎に五分に及べば止め、或いは時に支用すれば、即ち随って撥補し、常に五分之数を足らしめる。

その第八は、軍人で応差の迓送に当たる者は、本来雇銭役人の代わりとするものであり、その沿う迓送の軍人に費用があれば、提刑司が計数してこれを転運司に帰する。

その第九は、重役人で応替でありながら仍って就募を願う者は、雇銭を給して役を受けることを許す。

旧来、重修編敕所を設置し、中外の文書の根本を検討したところ、昨年差定した郷役が未だ十分に善からず、議に入って曰く、「都保正・副保正は耆長に比べて職責既に軽く、また承帖人が文書を受け行うので、すなわち大保長は公事無きを苦しむ。元豊の本来の制度では、一都の内、役する者は十人、副保正の外、八保各々一大長を差す。今もし常に二大長を輪番して十保の税租・常平銭物を分催させ、一税ごとに一交替とすれば、則ち自ら更に保丁を輪番して甲頭に充てる必要は無からん。凡そ都保が雇う承帖人は、必ず本保に家を持つ者を選び、而して雇直は皆官より給し、一年ごとに交替すれば、則ち自ら浮浪稽留符移の弊無からん。承帖の雇直は固より旧数有り、其の今雇う保正の直は耆長に示し、保長の直は則ち戸長に視よ。若し此の三役に応じて替代を願わざる者は、自ら其の願に従う。壮丁は元より雇直を敷かざる処は、旧の如くに聴す。承帖雇銭は旧来の寛剩銭を以て通融支募するを許し、如し土俗に保正長の雇役に就くを願わざる者有れば、本土の産税戸を募り、耆長・壮丁として以て之に代えるを許す。其の雇う耆長・戸長は、既に法を立てて抑勒するを得ざるなり。若し保正・長が雇に就くを願わずして輒ち差雇する者は、徒二年の罪に坐す。」詔して皆之に従う。

三年、左正言孫諤言う、「役法の行わるるや、官にあるの数、元豊は多し、元祐は省く。省くも未だ嘗て事を廃せず、則ち多きは省くに如かず。雇役の直、元豊は重し、元祐は軽し。軽きも未だ嘗て応募せざる無し、則ち重きは軽きに如かず。今役法は下戸を優遇して輸せしめず、而して尽く諸の上戸に取る。意は則ち美なりと雖も、而して法未だ善からず。夫れ先帝免役の法を建て、而して熙寧・元豊に異論有り、元祐に更変有り。正に惟れ弊無からざる能わざるのみ。願わくは元豊・元祐を以て間と為す無く、期して均平便民に至るに止まらんことを。則ち善きかな。」翰林学士蔡京言う、「諤の論は多・省、軽・重を論じ、明らかに抑揚有り。元豊は元祐に如かずと謂うは、明らかなり。諤は陛下の追紹の日に当たり、敢えて此の言を為す。臣窃に之を駭く。免役法復行して将に一年に及ばんとす。天下の吏習い而して民之に安んず。而して諤指して以て弊と為す。則ち詆ずる所は熙寧・元豊なり。且つ元豊は雇法なり。元祐は差法なり。雇と差は並行すべからず。元祐固より嘗て雇を兼ね、已に紛然として紀無し。而して諤は熙・祐を間わずと欲す。是れ元祐の奸を伸べ、天下の聴を惑わさんと欲するなり。」詔して諤の正言を罷め、広徳軍知軍に貶す。

後また詔す、「諸県は催税比磨を以て甲頭・保長を追うこと無く、雑事を以て保正・副を追うこと無くせよ。在任の官、承帖を名として、当直を占破する者は、贓罪に論ず。所管の催督租賦、州県官輒ち令して陪備輸物せしむる者は、違制を以て論ず。」

是の歳、常平・免役・農田・水利・保甲を以て、類を著して其の法とし、総べて一書と為し、名づけて『常平免役敕令』と曰い、之を天下に頒つ。詔して翰林学士承旨兼詳定役法蔡京に旧の如く詳定重修敕令せしむ。侍御史董敦逸言う、「京は元祐初めに開封府を知り、司馬光に附して差法を行い、祥符一県、数日の間に差して一千一百人に至る。願わくは役法を専ら戸部に委せんことを。」詔して疏析せしむ。京奏上す。復た敦逸をして自ら弁せしむ。京に責無し。

元符二年、蕭世京・張行を以て郎と為す。二人は元祐中、皆嘗て免役法を是と為すを言う。帝其の疏を出して之を擢ぐ。既にして詔す、河北東西・淮南運司、府界提点司、如し人戸已に嘗て正夫に差充せられば、其の免夫銭は皆催すを罷めよ。後また詔す、「辺事に因りて夫丁を起差するも、須らく応差雇の実数を以て朝廷に上すべく、未だ輒ち差すを得ず。其の河防並びに溝河歳用一十六万八千余夫は、人戸の銭を納れて以て免るるを聴す。」

建中靖国元年、戸部奏す、「京西北路の郷書手・雑職・斗子・所由・庫秤・揀・掏の類、土人の就募を願うは、須らく之に雇直を与うる無く、他路も亦た詳度施行すべし。」詔して之に従う。延安府知府範純粹言う、「比年衙前公に官銭を盗み、事発すれば即ち逃ぐ。乞うらくは上等郷戸を輪差して衙役に供せしむるを許さんことを。」殿中侍御史彭汝霖、純粹の言う所は良法を害すと劾し、宜しく加うるに黜責を以てすべしとす。詔して純粹の乞う所を行わず。其の後、襄州知州俞〓、襄州が他州の布綱を総受して而して他州に転致するを以て、是れ衙前重役並びに一州に在り、事理均しからずとす。臣僚、〓の輒ち紹聖の成法を毀つと謂い、重く黜するを請う。〓は散官を責授せられ、太平州に安置せらる。

崇寧元年、尚書省言う、「前に大保長に税を催さしめて而して雇直を与えざるは、是れ差役を為すなり。免役に非ざるなり。」詔して提挙司に元輸の雇銭を旧法の如く均給せしむ。永興軍路州県官、復た差役を行わんことを乞う。湖南・江西提挙司、物賤を以て吏胥の雇直を減じ、役人の雇銭を与うるを罷めんことを乞う。皆法意を害す。応に改めて其の旧に従うべし。詔して戸部並びに『紹聖常平免役敕令格式』及び先に降した『紹聖簽貼役法』を遵奉し、之を天下に行わしむ。

二年、臣僚言う、「常平の息、歳に二分を取れば、則ち五年に一倍の数有り。免役の剩銭、歳に一分を収めれば、則ち十年に一年の備え有り。故に紹聖立法、常平の息一倍に及び、免役の寛剩三料に及べば、旨を取って蠲免し、以て朝廷の民に取る者は、利を為すに非ざるを明らかにす。而して集賢殿修撰・鄧州知州呂仲甫、前に戸部侍郎たりしとき、輒ち状を以て都省に申し、上条を刪去せんことを乞う。」詔して仲甫を黜し、職を落として海州知州と為す。後また詔す、常平司は豊衍余有る日を候い、此の制を具して奏し之を蠲せ。

大観元年、詔す、「諸州県が吏人を召募するに、如し四等以上戸に非ざる者及び州県に於いて五犯杖罪有る者は、悉く罷遣に従い、再び諸処の名役に占むるを得ず、別に三等以上の人を募り充てよ。」是に於いて旧胥既に尽く罷められ、而して弊根未だ革まず、老奸巨猾、身を州県に匿し、法を舞い民を擾し、蓋し前日より甚だし。其の後、又た上三等人戸の弓手に投充するを許さず。募る所は皆浮浪にして、顧藉する所無く、盗賊公行し、四方を害す。是に至り、復た詔す、州県の募役は元豊の旧法に依れ。

政和元年、臣僚言う、「元豊中、鞏州の歳敷役銭は止むところ四百千なり。今累敷して緡銭近く三万に至る。又た元豊八年、命じて寛剩銭を存留するも二分を過ぐるを得ざらしむ。紹聖再び裁定を加え、止むところ一分を存留するを許す。此時法意を考詳するに、寛剩を取るに非ず。遂に名を改めて準備銭と為し、而して厳に禁約を立て、若し擅に歳額を増敷し及び準備を樁留して数過ぐる者は、並びに違制を以て論ず。今乞うらくは提挙常平官に飭して検察せしめ、及び鞏州の贏を取るの因を核究して以て聞かしめんことを。」之に従う。

宣和元年、言者が謂う、「役錢の一事は、神宗が初めに官戸の免多を防ぎ、特に半輸を責めた。今、戸ごとに官と称し、州縣の募役の類は既に減ずべからず、雇令官戸の減ずる所の数を下戸に均しく入るれば、下戸は常賦の外に、また官戸の減半の輸を代わり、豈に重困せざらんや」と。詔して、「今より二等以上の戸、直降指揮による非泛の補官に因る者は、賦を輸し、差科・免役は並びに官戸法に示して減免すべからず、已に免する者はこれを改めよ。進納人は自ら本法の如くせよ」と。保長は月に雇錢を給し、稅賦を督催す。比年諸縣或いは毎稅戸一二十家ごとに、また一人を差して甲頭及び催稅人に充て、十日ごとに一進し、官に赴きて比磨し、決責を求め取る、良民を害す、詔してこれを禁ず。七年、詔して、「州縣は昨儆察私鑄に因り、五家をして保と為さしむ。城郭もまた坊正・副を差し、文書を領受せしむ。これに由り追呼陪費し、或いは析居・逃移して差使を避く。その置く所の坊正・副は罷むべし」と。

紹聖に雇役を復してより、建炎初年にこれを罷む。已にしてその法の廃すべからざるを討論し、参政李固が高宗に言う、「常平法は漢の耿壽昌に本づく、豈に王安石を以てしてこれを廃すべけんや」と。且つ当時射士を招くに庸直を供する無く、詔して官戸の役錢は半減せず、民戸の役錢は概ね二分を増す。後に復たこれを減ず。兼ねて官は旧に庸錢を給して戸長を募り、及び保甲を立てれば、則ち庸錢を儲えて経費を助く。未だ幾ばくもせず、保甲を廃し、戸長を復し、而して庸錢は復た給せず、遂に総製の窠名と為る。

然れども役は物力より起こる、物力の升降淆わず、則ち役法公なり。ここを以て紹興以来、推割・推排の制を講究す。凡そ百姓産業を典売すれば、稅賦と物力とを一並に推割す。推排に至っては、則ちその資產の進退に因りて之が升降を為し、三歳にして一行う。然れども当時の弊、或いは小民の粗かに米粟有り、僅かに室廬を存するに、凡そ耕耨刀斧の器、雞豚犬彘の畜、纖微細瑣なるもの皆得てこれを籍す。吏は賂の多寡を視て、物力の低昂を為す。上の人これを憂い、ここにまた之が為に制限を為し、質庫房廊・停塌店鋪・租牛・賃船等を除く外、猪羊雑色を以て估計することを得ず、その後並びに耕牛租牛を以てこれを免ず。若し江の東西の如きは、畝頭を以て稅を計り、また推排を待たざる者あり。

保正・長の立つや、五家相い比し、五五保を為し、十大保を都保と為し、保長有り、都・副保正有り。余り三保に及ぶもまた長を置き、五大保もまた都保正を置く。その三保・五大保に及ばざる者は、或いは之が附庸と為り、或いは之が均並と為り、一ならず。戸は則ち物力の高下を以て役次の久近と為す。

若し夫れ品官の田は、則ち制限有り、死亡すれば、子孫減半す。蔭尽きれば、差役編戸に同じ。(一品五十頃、二品四十五頃、三品四十頃、四品三十五頃、五品三十頃、六品二十五頃、七品二十頃、八品十頃、九品五頃。)封贈官の子孫の差役も、また編戸に同じ。(父母生前に官無く、伯叔或いは兄弟の封贈に因る者を謂う。)凡そ非泛及び七色の補官は、限田免役の数に在らず。その奏薦する弟侄子孫、元より非泛・七色より来る者は、仍って差役に同じ。進納・軍功・捕盜・宰執給使・減年補授、転じて升朝官に至れば、即ち官戸と為る。身亡すれば、子孫並びに編戸に同じ。太学生及び得解並びに省試を経る者は、限田無きも、人を募りて役に充つるを許す。

単丁・女戸及び孤幼戸は、並びに差役を免ず。凡そ夫無く子無きは、則ち女戸と為す。女適人するに、奩錢を以て産を置くも、仍って夫を以て戸と為す。その保正・長を差すに合するは、家業錢数の多寡を以て限と為し、限外の数を以て官・編戸と輪差す。総首・部将は保正・長の差役を免ず。文州義士の已に免する所の田は、典売を許さず、老疾身亡すれば、承襲を許す。

凡そ人を募りて役に充つるは、並びに土著の人を募り、その放停兵及び嘗て公人と為りし者は、並びに募ることを許さず。既に募人有れば、官は復た正身を追うことを得ず。募人官勢を憑藉し、善人を奸害すれば、断罪の外、これを募る者を坐す。高宗河朔に在り、親しく閭閻の苦を見、嘗て知県の人を得ざるを歎き、一たび役次に充つれば、即ち家を破る、ここを以て役法を講究すること甚だ便なり。

乾道五年、処州鬆陽県にて義役を倡め、衆田穀を出し、役戸の輪充を助く、ここより所在に推行す。十一年、御史謝諤言う、「義役の行わるるは、民便に従うべく、その願わざる者は、乃ち差役を行え」と。上然りとす。朱熹謂う、義役に未だ善を尽くさざる者四事有りと。蓋し始め義役を倡むる者は、惟だ議の未だ詳ならざるを恐れ、慮の未だ周らざるを慮り、而してこれに踵ぐ者は皆善人たる能わず、ここにその弊日を開き、その流日を甚だしくす。或いは材智を以て把握し、専ら義役の利を為し、或いは気力を以て凌駕し、私に差役の権を為す。ここを以て貧を虐げ富を優し、寡を凌ぎ孤を暴にす。義役の名立ち、而して役戸業を安んずるを得ず、雇役の法行わり、而して役戸居を安んずるを得ず、信乎所謂未だ善を尽くさざるの弊なり。淳熙五年、臣僚奏して提挙官に令せしめ、歳に属邑の差役の当否を考し、詞訟の多寡を以て殿最と為し、役戸に令せしめて輪管して以てその役を提え、募人を置きて以て官の行移を奉らしむれば、則ち公私便にして義役立つと。

慶元二年、吏部尚書許及之、淳熙の陳居仁の奏する所に因り、祖宗の免役旧法及び紹興十七年以後の続降旨符を取り、修めて一書と為し、名づけて『役法撮要』と曰う。五年、書成る、左丞相京鏜これを上る。その法は以て悠久たるべく、その或いは未だ久しからずして輒ち弊するは、人なり。

水害・旱害・蝗害・疫病の災害を救済恤むことは、治世においても免れ得ぬことであるが、必ずこれに備える方策がある。『周官』に「荒政十二をもって万民を聚む」とあるのがそれである。宋代の治政は、仁厚を根本とし、貧者を救い患難を恤む意図は、前代に比べて特に切実であった。諸州が凶作の年には、必ず常平倉・惠民倉などの倉粟を開き、あるいは平価で売り出し、あるいは種子や食糧を貸与し、あるいは直接に給付して、主戸・客户の区別なく施した。不足すれば、使者を馳伝させて省倉を開き、あるいは他路から粟を漕運し、あるいは富民に銭穀を出させ、官爵をもって報い、官吏を勧諭して、その功績を記録することを許し、貧困者を救済するために貸し付けたものについては、秋の収穫時に官が弁償を代行した。また不足すれば、内蔵庫や奉宸庫の金帛を出し、祠部の度僧牒を売却し、東南では発運司の歳漕米を留保し、数十万石あるいは百万石をもって救済した。未納・未完納の租税については、あるいは徴収を免除し、あるいは軽減し、あるいは豊年まで据え置いた。滞納を寛免し、力役を休止し、支移・折変による賦課を減免し、蚕塩や和糴および不急不急の科率・追呼で農事を妨げるものは廃止した。関市の税を軽減し、牛を売る者は算を免じ、米を運ぶ舟車には沿路の力勝銭を免除した。民と共有できる利益は禁じず、水郷では蒲・魚・果・蓏の税を免除した。官を選んで各路に巡撫させ、囚人を緩やかに拘束し、刑罰を減じた。飢民が穀倉を奪う者は罪を軽くし、流亡する民には関津で渡銭を求めず、京師を経由する者には諸城門で米を給付し、到着地では官舎や寺観に宿泊させ、粥を炊いて与え、あるいは一人一日分の食糧を支給した。帰農できる者は日数を計算して一括して帰郷させ、帰る所のない者には、あるいは閑田を与え、あるいは軍籍に編入することを許し、あるいは少壮を募って工事に従事させた。老病幼弱で生存できない者は、官司が収養することを許した。水害の州県は船筏を整備して民を救助し、水の及ばぬ地に移し、薪糧を運搬して与えた。飢饉や疫病、あるいは圧死・溺死した者は、官が埋葬・祭祀を行い、圧死・溺死者の家には銭穀を加賜した。京師が酷寒に苦しみ、あるいは物価が高騰した時は、場を設けて米や薪炭を出し、価格を抑えて民に与えた。前後を通じてこれを常例とした。蝗害があれば、また民を募って捕獲させ、銭穀と交換し、蝗の子一升に対して菽粟三升あるいは五升と交換した。詔して州郡の長吏にその民を優遇恤むことを命じ、時には内侍を派遣して慰問し、監司に命じて老病・罷懦で職務に堪えない官吏を監察させた。

初めに、建隆三年、戸部郎中沈義倫が呉越より使いを終えて帰還し、「揚州・泗州の飢民は多く死に、郡中の軍糧はなお万斛余りある。宜しく民に貸すべし」と上言した。有司がこれを阻み、「もし来年が凶作ならば、誰がその責を負うのか」と言うと、義倫は「国家が倉粟をもって民を救済すれば、自ずから和気を召し、豊年を招くであろう。どうして水旱を憂えようか」と言った。太祖は喜んでこれに従った。四年、詔して州県に義倉を復興させ、二税を収める毎に、石別に一斗を収め、凶作に備えて貯蔵させた。広南・江南を平定する度に、詔してその飢饉を救済し、遠方の民を労り恤むその徳意は深厚であった。

太宗は恭倹仁愛で、諄々と民に勧めて農を務め穀を重んじ、妄りに費やすことなからしめた。この時、惠民倉の蓄積は備えがなくはなく、また常平倉を設置し、時機に乗じて増糴し、ただその不足を恐れた。真宗がこれを継ぎ、ますます民を養う政務に努めた。ここにおいて淳化の制度を推広し、常平倉・惠民倉はほぼ天下に遍く行き渡った。

仁宗・英宗は災変に遭うごとに、朝を避け服を変え、膳を減らし楽を撤けた。恐懼修省の念は顔色に現れ、惻怛哀矜の情は詔旨に形を成した。慶曆初年、詔して天下に義倉を再建させた。嘉祐二年、また詔して天下に広恵倉を設置し、老幼疾貧の者をして皆養われるところあらしめた。累朝相承して、民に対する慮りは既に周到であり、民に対する施しはますます厚かった。しかも一時の牧守もまた多く適任を得、例えば張詠の蜀を治めること、歳に米六万石を売り出し、これを皇祐甲令に著した。富弼が青州に移ると、公私の廬舎十余万区を選び、流民を分散して収容し食糧を与え、凡そ五十余万人を生かし、募って兵とした者はまた万余人に及び、天下に伝わって法とされた。鄆州知事劉夔が倉を開いて飢饉を救済し、民が頼って全活した者は甚だ多く、盗賊は衰え止み、詔を賜って褒め称えられた。越州知事趙抃が通衢に掲示を出し、民に米を持てる者は価格を上げて売り出すよう命じた。ここにおいて米商が輻湊し、越の米価は頓に減じ、民に飢え死にする者はなかった。このような善政は悉く記し尽くせないので、先王の救荒の法を略述したまでである。

神宗が即位して以来、河北諸路は水害旱害が重なり、兼ねて糴便司・広恵倉の粟を発して民を救済した。熙寧二年、判北京韓琦に詔を賜って言う、「河北は年々豊作でなく、水が溢れ地震がある。春の耕作期に当たり、民は老幼を携え、田舎を棄て、日に道を流離する。夜中に起きて、惨憺として安からず。その経制の方策は、便宜に従事することを許す。我が民を左右し得るものがあれば、宜しく朕のために撫輯して救済し、後時を過ごして民の困窮を重くすることなかれ」。しかし王安石が政を執り、貸糧法を改めて借助とし、常平・広恵倉の銭斛を移して青苗法とし、皆民に利息を納めさせ、不便を言う者は直ちに罪を得、民は遂に聊生すべからざるに至った。また詔して天下の広恵倉田を売却させた。ここに至って先朝の良法美意は、存するもの殆ど無くなった。哲宗は広恵倉を復活させる詔を出したが、既にして章惇が用いられると、またこれを廃し、その田を熙寧の法の如く売却した。常平倉は量を留めて銭斛を蓄えたが、救済給付に供するに足らず、義倉も不足し、また一路を通じて兌撥することを命じた。ここにおいて詔聖・大観の間、空名の告敕・補牒を諸路に賜って直に給付し、政は日に日に堕ち、民は日に日に困窮し、宋の業は遂に衰えた。

先に、仁宗が在位中、病者に方薬が乏しいことを哀れみ、『慶曆善救方』を頒布した。雲安軍知事王端が官が銭を給し薬を調合して民に与えるよう請うたので、遂に天下に行き渡った。かつて京師に大疫が発生した時、太医に命じて薬を調合させ、内庫から犀角二本を出し、割いて見せた。その一つは通天犀で、内侍李舜挙が帝の服用に留めるよう請うたが、帝は「吾れ豈に異物を貴びて百姓を賤しむべきや」と言い、竟にこれを砕いた。また公私の賃舎銭を十日間免除した。太医に善く脈を察する者を選ばせ、即ち県官に薬を授け、その疾状を審らかに処して与え、貧民が庸医に誤られて生命を夭折させられることなからしめた。天禧年中、京畿近郊の仏寺に地を買い、主なき死者を埋葬した。屍体を埋葬するに、一棺につき銭六百を給し、幼い者は半額とした。後には給付しなくなり、死者は路上に暴露された。嘉祐末、また詔して給付するようになった。

京師には従来、東・西福田院を設置し、老病の者や孤児・貧窮者・乞食者を養ったが、その後、銭粟を給する者はわずか二十四人に過ぎなかった。英宗は命じて南・北福田院を増設し、東・西の各院とともに官舎を拡張し、一日に三百人を養った。毎年、内蔵庫から銭五百万を出してその費用に充てたが、後に泗州の施利銭に替え、八百万に増額した。また詔して、「州県の長吏は大雨雪に遇えば、三日間、賃舎の銭を免除せよ。一年に九日を超えてはならぬ。これを令として定めよ」とした。熙寧二年、京師は雪寒であり、詔して、「老幼・貧疾で頼る所なく乞食する者は、四福田院の定員外で銭を給して収養することを許す。春になってやや暖かくなるまでとする」とした。九年、太原府知事韓絳が言上して、「法によれば、諸々の老病の者は十一月一日から州が米豆を給し、翌年三月末までとする。河東は地が寒いので、十月一日から支給を始め、翌年二月末までとしたい。もし余裕があれば、三月末までとする」と。これに従った。凡そ鰥・寡・孤・独・癃老・疾廃・貧乏で自活できず養われるべき者は、戸絶(相続人の絶えた家)の屋舎に住まわせる。なければ、官屋に住まわせ、戸絶の財産をその費用に充て、月限を設けない。乞食法に依って米豆を給する。不足すれば、常平倉の息銭を給する。崇寧初年、蔡京が国政を執り、居養院・安済坊を設置した。常平米を給し、厚く数倍に至った。官吏・兵卒を差し遣わして使令に充て、火頭を置き、飲膳を整え、衲衣や綿入りの布団を給した。州県が奉行して過当となり、或いは帷帳を備え、乳母や女使を雇い、浪費に節度なく、率斂を免れず、貧者は喜び富者は擾乱された。

三年、また漏沢園を設置した。初め、神宗は詔して、「開封府界の僧寺に旅寓する棺柩で、貧しくて葬れないものは、畿県に各々官の不毛の地三五頃を割き、人に安厝することを許し、僧に命じて主管させよ。葬った者が三千人以上に及べば、僧一人を度し、三年で紫衣を与える。既に紫衣を持つ者には師号を与え、更に三年間事を領させる。再び領することを願う者は許せ」とした。ここに至り、蔡京がこれを推し広めて園とし、籍簿を置き、埋葬する者は皆三尺の深さとし、暴露させぬようにし、監司が巡歴して検査した。安済坊もまた僧を募って主管させ、三年で千人を医癒すれば、紫衣・祠部牒を各一道賜った。医者には人ごとに手歴を給し、治癒・喪失した者を記録させ、年末にその数を考課して殿最を定めた。諸城・砦・鎮・市で戸数千以上で知監のある所は、各県に倣って居養院・安済坊・漏沢園を増置した。道路上で寒さに凍え倒れた者や衣なき乞食者は、近便の居養院に送ることを許し、銭米を給して救済した。孤貧の小児で教育可能な者は、小学に入れて聴読させ、その衣襴は常平頭子銭内で給造し、なお斎舎への入用を免じた。遺棄された小児は、人を雇って乳養させ、なお宮観・寺院が養って童行とすることを許した。宣和二年、詔して、「居養・安済・漏沢は元豊の旧法を参考し、中制を立てよ。居養される者には一日に粳米または粟米一升、銭十文省を給し、十一月至正月は柴炭を加え、五文省とし、小児は半減とする。安済坊の銭米は居養法に依り、医薬は旧制の如くとする。漏沢園は葬埋が現行の条法に依るほか、資給や斎醮などの事は悉く罷めよ」とした。

高宗が南渡すると、民の従う者は市に帰るが如くであった。既に衣食を与えてその飢寒を振恤し、また医薬を施してその疾病を救った。戈甲に斃れ、道路上に倒れた者には、度牒を給して埋葬した。(乞食者は居養院で養い、その病める者は安済坊で療し、その死せる者は漏沢園に葬り、毎年これを常例とした。)紹興以来、毎年水旱があり、常平義倉を発し、或いは救済し、或いは出糶し、或いは貸与し、及ばざるを恐れるが如くであった。然れども艱難の際に当たり、兵糧は急を要し、儲蓄は有限であるのに、振給は窮まりなく、また爵賞をもって富人を誘い相い補助させたことも、権宜の已むを得ざる策であった。

元年、詔して粟を出して救済・出糶する者には賞を各有差とするとした。(出糶三千石以上には、守闕進義副尉を与え、一万五千石以上には進義校尉こういを与え、二万石以上には旨を取って優賞し、既に官蔭があり補授を願わない者は、類を比べて施行する。)六年、湖・広・江西が旱魃となり、詔して上供米を撥じて振恤した。婺州の民に糶を遏えて盗賊を招いた者があったので、詔して糶を閉ざす者は断罪・遣配するとした。殿中侍御史周秘が言上して、「倉廩を発し分け与えることを勧めるは、古の道なり。断遣を許すは、恐らく貪吏が私を懐き、善良が害されん。守令に戒めて多方に勧諭させ、必ず喜んで従わせるようにし、或いは擾害があれば、提挙司が劾奏することを望む」と。これに従った。この年、潼川守臣景興宗・広安軍守臣李瞻・果州守臣王騭・漢州守臣王梅は飢民を多く救活し、前吏部郎中馮楫もまた米を出して振給を助けたので、興宗は一職を昇進し、瞻・騭・梅・楫は各々一官を転じた。十年、婺州通判陳正同は振済に方策あり、窮谷深山の民に恵みを沾わさざるなく、その法を諸路に下した。

二十八年夏、浙東・西の田畑が風水で損害を受けた。法によれば、水旱が七分以上の場合に振済するが、詔して今後五分に及ぶ処もまた振恤するとした。二十九年、詔して諸処の守臣に常平義倉米の二分を撥じて振糶させ、臨安府には樁積の米を撥じた。三十一年正月、雪寒で民多く食に艱難した。詔して臨安府並びに属県に常平米を以て時価の半減で、十日間振糶させた。臨安府城内・外の貧乏の家には、人ごとに銭二百・米一斗及び柴炭銭を給し、全て内蔵庫から給した。(凡そ寒さ・暑さ・雨・火事・赦令及び祈祷・即位・生辰・上尊号・皇太子誕生・晏駕・大祥などの際には、臨安の民及び三衙諸軍に対して時に振恤があり、また商税・公私の房賃を免除した。)輔郡の民に対しては、諸州に命じて常平銭を以て臨安府に倣って振恤させた。

孝宗隆興二年(1164年)秋、長雨が農作物を損なうと、内帑の銀四十万両を出して、穀物を買い入れ民を救済した。乾道六年(1170年)夏、浙西の水害を受けた貧民を救済した。七年(1171年)八月、湖南・江西が旱魃に見舞われると、賞格を定めて穀物を蓄える家を奨励した。(官職のない者:千五百石で進義校尉に補する、選限を問わない将仕郎への補任を希望する者は聴許する;二千石で進武校尉に補し、進士には文解(科挙の一次試験免除)を一度免除する;四千石で承信郎に補し、進士には上州文学に補する;五千石で承節郎に補し、進士には迪功郎に補する。文臣:千石で磨勘(考査)を二年短縮し、選人(候補者)は一階転官する;二千石で磨勘を三年短縮し、選人は一資(資格)を進め、それぞれ占射差遣(希望の官職への任用)を一度得る;三千石で一階転官し、選人は二資を進め、それぞれ占射差遣を一度得る。武臣:千石で磨勘を二年短縮し、選人は一資を進める;二千石で磨勘を三年短縮し、選人は一資を進め、それぞれ占射差遣を一度得る;三千石で一階転官し、選人は二資を進め、それぞれ占射差遣を一度得る。五千石以上は、文武の臣ともに上旨を仰ぎ、優遇して恩典を推し及ぼす。)九月、臣僚が言上した。「諸路の旱魃被害について、検放(減免査定)と展閣(納期限延長)の責任は転運司に、出糶・給付・借貸の責任は常平司に、不正濫発の監察責任は提刑司に、実情把握と措置の責任は安撫司に負わせよ」。上(孝宗)が宰執に諭して言った。「転運司にただ検放のみを命じるなら、他日救済の責任を負おうとしないであろう」。虞允文が奏上して言った。「転運司は一路の財賦を主管し、省計と称します。凡そ州郡に余剰・不足があれば、融通して補い合うのが、まさにその責務です」。淳熙八年(1181年)、詔を下した。「昨年、江・浙・湖北・淮西の旱魃被害地では既に救済のための出糶を行ったが、鰥寡孤独で貧しく自活できず、買い入れる金のない者には、義米をもって救済せよ」。寧宗慶元元年(1195年)、両浙転運副使沈詵が米価の高騰を言上したため、商販の家は全て出糶させることとし、穀物を隠匿した者を告発する法令が設けられた。嘉定十六年(1223年)、楚州に備蓄された米から二万石を撥出し、山東・山西を救済する詔が下った。

淳熙八年(1181年)、浙東提挙の朱熹が言上した。「乾道四年(1168年)、民が食糧に窮した時、私は府に請願し、常平米六百石を得て救済貸付を行いました。夏に倉から粟を受け、冬には利息を加えて米で返済させます。その後は毎年収支を繰り返し、凶作の年は利息の半分を免除し、大飢饉の時は全額免除しました。凡そ十四年間で、利息米により倉三間を建て、元の六百石を府に返還しました。現在、三千一百石の米を備蓄して社倉とし、もはや利息は取らず、一石につき耗米(消耗分)三升のみを収めています。このため、一郷四五十里の間では、凶年に遇っても人々が食糧に困ることはありません。どうかこの方法を倉司(常平司)で施行されるようお願いします」。時に陸九淵が敕令局におり、これを見て嘆じて言った。「社倉は数年も経つのに、役所が再び施行しないので、遠方では知る者がいないのだ」。そこで『振恤』篇に編入した。(凡そ借貸を希望する者は、十家を一甲とし、甲内で一人を首長に推す。五十家ならば、一通りの事情に通じた者一人を社首に選ぶ。毎年正月、社首に告示し、下って都ごとに甲を結成する。逃亡兵士及び素行不良の者、並びに税銭を納め衣食に不足ない者は、いずれも甲に入ることを許さない。甲に入る資格のある者についても、またその志願の有無を問う。志願する者は、一家の大小口数を明記し、大口は一石、小口はその半分、五歳以下は申請に含めない。甲首は一倍を加えて申請する。社首が虚実を審査訂正し、各自の自筆書を持参して本倉に赴き、再審査で不正がなければ、その後順序を定める。甲首は都の簿冊に付記し、誰某が何石を借りたかを記載し、正簿に従って二回に分けて給付する。初回は田植えの時、次回は除草の時である。秋の収穫後に穀物を返済するのは八月三十日を過ぎてはならず、湿って悪く実りのないものは罰する。)嘉定(1208-1224年)末年、真徳秀が長沙を統治してこれを施行し、凶年飢歳には多くの人が頼りとした。しかし事が長く続くと弊害が生じ、流用されて給付できなくなったり、徴収督促が正規の租税と変わらなくなったりして、良法美意はここで失われてしまった。

寶慶三年(1227年)、監察御史の汪剛中が言上した。「豊作の地では穀物が安値となり農民を損ない、凶作の地では救済のための買い入れ策がない。ただその有餘をもって其の不足を救うならば、飢えた者は高値で買い入れることを強いられず、農民もまた利益を得ることができます。遏糴(他地域への穀物販売阻止)の禁令を厳しく申し渡すことを乞います。凡そ両浙・江東・江西・湖南・湖北の州県で米のある所は、全て販売流通を許容し、違反した場合は被害者が越訴(上級官庁への直訴)することを許し、官は弾劾し、吏は決罪配流するならば、おそらく令は出でて必ず行われるようになり、文書上の空文に終わらないでしょう」。これに従った。端平元年(1234年)六月、臣僚が奏上した。「建陽・邵武で群盗が嘯聚するのは、上戸(富裕層)が穀物販売を閉ざしたことに起因します。専ら兵威を頼りに殄滅を図るのは、固より不可ではないが、しかし救済の政務を一切講じなければ、飢饉に迫られて、人は等しく死ぬことを覚悟する恐れがあります。これに附く者が日に日に増えるでしょう。朝廷が兵を練り士を選び、既に窃発した賊寇を掃蕩平定すること、並びに粟を発して飢えを救い、未だ賊に従わない者の心を懐柔して来たらしめることを望みます。そうすれば人は害を避けることを知り、賊の勢力は自然と孤立し、一挙に滅ぼすことができるでしょう。これは成周(周王朝)の荒政(凶年対策)において利益を散じ盗賊を除いた説です」。八月、河南の州軍が新たに回復したため、江・淮製置大使司に命じて米麦百万石を割り当てて降給し、救済させた。淳熙十一年(1184年)、福建諸郡が旱魃に見舞われ、米二十五万石を賜って救済のための出糶に充て、一万石を貧困細民の救済に充てた。

景定元年(1260年)、臨安府の平糴倉は旧来数十万石の米を貯蔵し、出糶と補填を循環させていたが、その後は使用するばかりで補填せず、残存は僅かであった。旨を下し、臨安府に米四十万石を買い入れさせ、平糴倉の銭三百四万七千八百五十九貫と、封樁庫の十七界会子一千九十五万二千百余貫を用い、合わせて十七界会子一千四百万貫に充当し、買い入れの元本銭とした。二年(1261年)、都城が全面的に浙西の米穀に依存していることから、人を誘い入れ京師へ販売出糶させ、賞格を乾道七年の例より優遇した。

鹹淳元年(1265年)、旨を下し、豊儲倉から公田米五十万石を撥出して平糴倉に交付し、米価が高騰した時に平価で出糶させた。二年(1266年)、監察御史の趙順孫が言上した。「今日の急務は、平糴に過ぎるものはありません。乾道年間(1165-1173年)、郡に米一斗が五六百銭する所があった時、孝宗はこれを聞くと、直ちにその太守を罷免し、賢明な太守に替えられました。これは今日において倣うべきことです。今、穀物の価格が高騰しているが、その原因は分からず、市井の間では紙幣(会子)は見えても米が見えません。その原因を推し究めれば、実に富家大姓が到る所で倉を閉ざしているためであり、買い入れ価格がますます高くなり、紙幣価値が陰に減じているのです。陛下は小民の食糧難を思いやられ、常平義倉を開かれましたが、その数は限られており、どうして人人を救済できましょうか。願わくは陛下が官吏を督励し、牛羊の芻牧(飼育管理)の責めを負わせられ、富民を勧奨し、秦と越のように肥瘠(豊かさと貧しさ)を隔てて見ないようにさせられますように。買い入れ価格が一旦平準化されれば、紙幣価値もそれによって軽んじられることはなく、物価もそれによって重くなることはありません」。七年(1271年)、鹹淳三年(1267年)以前の諸路の義米一百十二万九千余石を減価して出糶し、郡県に命じて民が関子・会子・現銭の区別なく買い入れすることを許容した。