宋史

志第一百三十  食貨上五

◎食貨上五(役法上)

役法は民より出で、州県には皆定数あり。宋は前代の制を因り、衙前を以て官物を主とし、里正・戸長・郷書手を以て賦税を課督し、耆長・弓手・壮丁を以て盗賊を逐捕し、承符・人力・手力・散従官を以て使令に給す。県の曹司より押司・録事に至り、州の曹司より孔目官に至り、下は雑職・虞候・揀・掏等人に至るまで、各々郷戸の等第を以て差役を定む。京の百司が吏を補するには、役に差し支えなきを須い、乃ち聴す。

建隆年中、詔して文武官・内諸司・台省・寺監・諸軍・諸使は、州県の課役戸を占めてはならず、州県は道路の居民を役して遞夫と為してはならずとす。後に又詔して諸州の職官は私に役戸を占めて課役に供してはならずとす。京西転運使程能は請うて諸州の戸を九等に定め、籍に著し、上四等は軽重を量りて役を給し、余の五等は之を免ず、後に貧富有らば、時に随ひて升降すと。詔して加へて裁定せしむ。淳化五年、始めて諸県に令し、第一等戸を以て里正と為し、第二等戸を以て戸長と為し、名を冒して以て役を給することを許さず。自余の諸役は、多く廂軍を調ふ。大中祥符五年、提点刑獄府界段惟幾は中牟県の夫二百を発して馬監倉を修む。群牧製置使は廄卒を以て之に代へ、因りて詔を下して之を禁ず。惟だ詔令に大なる興作有りて後に丁夫を調ふるのみ。然れども役には軽重労佚の斉しからざる有り、人には貧富強弱の一しからざる有り、承平既に久しく、奸偽生じ滋す。命官・形勢は田を占むるに限り無く、皆復役を得、衙前将吏は里正・戸長を免ぜらる。而して応役の戸は、繁数に困しめられ、券を偽りて田を形勢の家に售ぎ、佃戸の名を仮り、以て徭役を避く。乾興初め、始めて限田法を立て、形勢が他戸の田を挟むを敢へる者は人の告ぐるを聴し、挟む所の田の三分の一を子に与ふ。

時に州県既に広く、徭役益々衆し。太常博士範諷は広済軍を知り、因りて言ふ「軍の地方四十里、戸口一県に及ばず、而るに徭差は諸郡と等し。願くは復た県と為らん」と。転運司は執へて不可とし、因りて詔して役人を裁損せしむ。是より数たび詔書を下し、州県の長吏と転運使に督ひて冗役を蠲め、以て民力を寛むるを議せしむ。又た州県に令し、丁産及び産する所の役使を録し、前期に揭示し、実ならざる者は民自ら言ふことを得しむ。役の重き者は、里正・郷戸より衙前と為り、府庫を主典し或は官物を輦運するを主とし、往々にして破産す。景祐年中、稍々其の法を寛めんと欲し、乃ち人を募りて役に充てしむ。初め、官八品以下の死者は、子孫の役は編戸と同し。是に至り、詔して特ち之を蠲む。民役を避くる者は、或は名を浮図の籍に竄め、出家と号す。趙州は千余人に至る。詔して出家する者は須らく落髪して僧と為り、乃ち免役を聴す。諸県に禁じ、盗を捕ふるに非ざれば壮丁を擅に役する毋れ。慶曆年中、京東西・河北・陝西・河東に令し、役人を裁損し、即ち給使足らざれば、廂兵を以て益す。既にして詔して諸路の転運司に、州県の差徭賦斂の数を条析せしめ、二府の大臣に委ねて裁減せしむ。科役均しからずれば、郷村・坊郭の戸を以て均差す。時に范仲淹執政たり、天下の県多きを謂ひ、故に役蕃にして民瘠しとし、首として河南の諸県を廃し、以て次第に他州に及ぼさんと欲す。当時以て非と為す。未幾にして悉く復す。王逵は荊湖転運使と為り、率ひて民に輸銭免役せしめ、緡銭三十万を得、進めて羨余と為し、詔を蒙りて奨す。繇りて他路競ひて掊克を為し以て恩を市ふ。皇祐年中、詔して州県の里正・押司・録事既に代りて銭を輸し免役せしむるを令する者は、違制の律に論ず如し。又た郷戸を役して長名衙前と為すことを禁ず。

初め、へい州を知る韓琦上疏して曰く「州県の生民の苦しみ、里正衙前より重きは無し。孀母改嫁し、親族分居し、或は田を棄て人に与へ、以て上等を免れ、或は非命を求めて死し、以て単丁に就かんとす。百端を規図し、苟ももって溝壑の患を免れんとす。毎郷差される疏密と、資力の高下均しからず。仮りに一県に甲乙二郷有り、甲郷第一等戸十五戸、資を計れば銭三百万、乙郷第一等戸五戸、貲を計れば銭五十万とす。番休して役を遞ふれば、即ち甲郷は十五年一巡し、乙郷は五年一巡す。富者は休息して余り有り、貧者は敗亡相継ぐ。豈に朝廷の民の父母たるの意ならんや。請ふらくは里正衙前を罷め、転運司に命じ、州軍の見役人数を以て額と為し、令・佐は五等簿を視、一県を通じて之を計り、籍皆第一等に在る者、資最高き者一戸を選びて郷戸衙前と為し、後差人は此に放て。即ち甲県戸少なくして役蕃なれば、乙県戸多きにして役簡なる者を差すを聴せ。簿書未だ尽く実ならざれば、他戸に換取するを聴せ。里正は租賦を主督す、請ふらくは戸長を以て之に代へ、二年一易せしめん」と。其の議を京畿・河北・河東・陝西・京東西の転運司に下し、利害を度らしむ。皆以て便と為す。而して知制誥韓絳・蔡襄は極めて江南・福建の里正衙前の弊を論じ、絳は郷戸五則の法を行ふことを請ひ、襄は産銭の多少を以て役の重軽を定むることを請ふ。至和中、絳・襄と三司に命じ司を置き参定せしめ、継ひて尚書都官員外郎呉幾復を遣はし江東に趨らしめ、殿中丞蔡稟を遣はし江西に趨らしめ、長吏・転運使と議して可否を決せしむ。因りて五則法を行ふことを請ふ。凡そ郷戸衙前を差すには、資産の多寡を視て籍を置き、五則に分ち、又其の役の軽重に第し此に放つ。仮りに第一等重役十有り、役すべき十人、第一等戸百を列ね、第二等重役五有り、役すべき五人、第二等戸五十を列ね、以て十番の役使に備ふ。其の籍を通判の治所に蔵し、人を差すに遇ひては、長吏以下同しく按視し、転運使・提点刑獄は其の違慢を察す。遂に更めて淮南・江南・両浙・荊湖・福建の法を著し、三司に下して頒たしむ。

里正衙前を罷むるより、民稍々休息す。又た詔して諸路の転運司・開封府界に、衙前の役に重くして害を為す者有らば条奏せしむ。能く件悉し便利、大いに労弊を去る者は賞を議す。寛恤民力司を置き、使を遣はし四出せしむ。是より州県の力役多く裁損する所有り、凡そ二万三千六百二十二人。

治平四年、詔して曰く「農は天下の大本なり。間水旱に因り、頗る流離を致す。殆ど州郡の差役の法甚だ煩はし。其れ中外の臣庶に詔し、利害を条陳して以て聞かしめよ」と。先づ是れ、三司使韓絳言ふ「聞く京東の民に父子二丁将に衙前役と為らんとする者有り。其の父其の子に告げて曰く『吾当に死を求め、汝曹を以て凍餒を免れしめん』と、遂に自縊して死す。又聞く江南に其の祖母を嫁し、及び母と析居して以て役を避くる者有り。又田を鬻ぎ其の戸等を減ずる者有り。田は官戸不役の家に帰し、而して役は同等見存の戸に並ぶ。望むらくは博く利害を訪ひ、集議して裁定し、力役偏重の寄する無からしめん」と。役法更に議するは此より始まる。

熙寧元年、知諫院の吳充が言うには、「今、郷役の中で、衙前が最も重い。民間では重役を避けようと、土地を多く耕すことを敢えず、戸等を避け、肉親を敢えて義聚せず、人丁を憚る。故に近年、上戸は次第に少なく、中下戸は次第に多く、役使が頻繁で、生計の資が供給されず、則ち工商に転じ、已むを得ずして盗賊となる。宜しく早く郷役の利害を定め、時に応じて施行すべきである」。後に帝が内蔵庫の奏を閲覧したところ、衙前が千里を越えて金七銭を輸送し、庫吏が邀え乞い、一年を過ぎても還ることができない者があった。帝はこれを深く傷み、乃ち詔して製置條例司に命じ、役法を講じて立てさせた。二年、劉彝・謝卿材・侯叔獻・程顥・盧秉・王汝翼・曾伉・王廣廉の八人を諸路に行かせ、農田水利・税賦科率・徭役の利害を相度させた。

條例司の檢詳文字蘇轍が言うには、「役人に郷戸を用いざるを得ないのは、官吏に士人を用いざるを得ないのと同じである。今、遂に両税の外に別に一科を立て、これを庸銭と謂い、官雇に備えようとし、戸の高低を問わず、例えて出銭させようとするのは、上戸には則ち便利であるが、下戸には実に難しい」。轍は議が合わずして罷免された。

條例司が言うには、「民に泉(銭)を出させて役を雇わせるのは、即ち先王が民財を致して官に在る庶人に禄を与えるの意に当たる。願わくは條目を以て官を遣わし天下に分行させ、広く衆議を尽くさせたい」。ここにおいて諸路に條諭して曰く、「衙前は既に重難分數を用いる。凡そ買撲酒税坊場で、旧に衙前を酬うのに用いたものは、官自ら売るに従い、その銭を役銭と同様に分數に随って給付する。その廂鎮場務の類で、旧に衙前を酬奨し、民に買占めさせることができないものは、即ち旧定の分數を用いて投名衙前の酬奨とする。部水陸運及び倉驛・場務・公使庫などを領するものの、旧に煩擾かつ陪備させたものは、今、省使して費やさないようにすべきである。承符・散従官など旧に重役と償欠に苦しんだものは、今、法を改めて弊を除き、庶幾く無困ならしめる。凡そ産業物力有りて旧に役無きものは、今、泉を出して役を助くべきである」。久しくして、司農寺が言うには、「今、役條を立てるに当たり、寬優する所は、皆、村郷の朴蠢にして自ら達すること能わざる窮氓であり、裁取する所は、乃ち仕宦兼併にして人言を致す能き豪右である。若し経制一定すれば、則ち衙司県吏は誅求巧舞の奸を施すこと無く、故に新法の行は特に不便とする所である。願わくは先ず一両州より始め、その成就を俟ち、即ち諸州軍に令して仿視施行せしめ、若し実に百姓に便ならば、当に特これを奨すべし」。詔して可とした。

ここにおいて提点府界公事趙子幾が府界所在の條目を奏上し、これを司農に下し、詔して判寺鄧綰・曾布に更にこれを議させた。綰・布が言うには、「畿内の郷戸は、産業若しくは家資の貧富を計り、上下五等に分つ。歳毎に夏秋、等に随って銭を輸納し、郷戸は四等より、坊郭は六等以下は輸納せず。両県に産業有る者は、上等は各県に随い、中等は一県に併せて輸納する。析居する者は析く所に随って定め、その等を降す。若し官戸・女戸・寺観・未成丁は、半減して輸納する。皆その銭を用いて三等以上の税戸を募り役を代行させ、役の重軽に随って禄を制す。開封県の戸二万二千六百余り、歳毎に銭一万二千九百緡を輸納す。一万二百を禄とし、その二千七百を贏ち、以て凶荒欠閣に備え、他の県もこれに倣う」。然るに銭を輸納するには等の高下を計るが、戸等は籍に著すに、昔、巧避に縁り実を失う。乃ち詔して郡県を責め、坊郭は三年、郷村は五年毎に、農隙に衆を集め、その物産を稽え、その貧富を考へ、その詐偽を察し、為に升降す。若し故に高下を為す者は、違制を以て論ず。

募法は、三人相任し、衙前はなお物産を供えて抵と為す。弓手は武藝を試み、典吏は書計を試みる。三年或いは二年を以て乃ち更える。法既に具わり、一月間揭示し、民に異辞無く、令として著す。令下り、募る者は役に執り、差された者は散去することを得た。開封一府にて衙前八百三十人を罷め、畿県の郷役数千、遂にその法を天下に頒った。

天下の土俗同じからず、役の重軽一ならず、民の貧富等しからず、便に従って法を為す。凡そ当役人戸は、等第に随って出銭し、名づけて免役銭と曰う。その坊郭等第戸及び未成丁・単丁・女戸・寺観・品官の家で、旧に色役無くして出銭するものは、名づけて助役銭と曰う。凡そ銭を敷くには、先ず州若しくは県の用うる雇直の多少を視、戸等に随って均しく取る。雇直既に用いて足り、又その数に率いて二分を増取し、以て水旱欠閣に備う。増すと雖も二分を過ぐることを得ず、これを免役寬剩銭と謂う。

三年、集賢校理呂惠卿を命じて同判司農寺と為し、已にして林旦・曾布相継いで其事を典主した。四年、許州の衙前が幹する公使庫を罷め、軍校を以てこれを主たせ、月に食銭三千を給す。後に諸路に行われ、人皆これを便とした。

両浙提点刑獄王庭光・提挙常平張靚が民の助役銭を率いて七十万に至る。薛向が帝に言上し、帝が王安石に問うと、安石は曰く、「提挙官は数に据って取り、朝廷は恩恵を以て科減するは、体として順である」。御史中丞楊繪もまた言うには、「靚らが民に科配して銭を輸させ、多きは一戸三百千に至る。乞う、少しく裁損し、以て民心を安んぜよ」。五月、東明県の民数百人が開封府に詣でて超升等第を訴え、受けられず、遂に王安石の私第に突入した。安石は相府の知らざることを諭した。御史臺に訴えるも、臺は訴えを受けず、諭して散去させた。楊繪また言うには、「司農寺は旧則を用いず、自ら戸数に据って助役銭の等第を創立し、県令に下してこれを籍に著させた。酸棗県の戸等を升するは皆実を失う」。帝は乃ち提点司に命じて升降の従う所を究め、仍升降の法を厳にし、畿民で銭を輸して免役するを願わざる者は、県は当に供役すべき歳月を按じ、期に如期に役し、銭を輸するを免ずる。先に、帝は既に東明の事を知り、及び繪の言を聞き、両たび手敕を降して王安石に問うて曰く、「酸棗に既に下戸より上戸に升入する者有れば、則ち四等には免輸役銭の名有りて、その実無し」。安石は力説して嘗て諸県の新旧の籍を取って対覆升降したとし、外間で役法を扇動する者は、輸多ければ必ず贏余有り、若し群訴すれば必ず免ぜられんと謂い、彼らは既に衆を聚めて僥幸し、苟もその訴えを受け、輸銭を免ずれば、当に仍役すべきであると。帝は乃ち尽くその言を用いた。

中書の孫迪・張景溫は、出銭を望まぬ民を体量し、重い役で困窮させようとし、楊繪がまたこれを論じた。監察御史の劉摯は言う、「先だって保甲を団結させた際、民はまさに驚擾していたところ、また法を作って人々に均しく緡銭を出させ、時期を選ばず戸等を升降し、期会が急迫して、人情は惶駭している」と。そこで新法の十害を陳べ、その要旨は、「上戸は常に少なく、中下戸は常に多い。故に旧法では上戸の役は概ね数多く重く、下戸の役は大抵簡略で軽かった。今は上下戸を問わず、一概に物力を見て差等に銭を出させるので、上戸は幸いとし、下戸はこれを苦しむ。歳には豊凶があるが、役人は定数があり、助銭は歳ごとに欠くことができない。すなわち賦税には時に減免・猶予があるが、助銭にはさらに蠲損がない。役人は必ず郷戸を用いるのは、その常産があれば自ら自重するからである。今は既に招雇するので、恐らく浮浪の奸偽の人を得るに止まり、そうなれば帑庾・場務・綱運は典幹できないばかりか、窃かにその盗用に耐えず法を冒す者が多いことを恐れる。弓手・耆長・壮丁・承符・散従・手力・胥史の類に至っては、寇に遇えば縦逸し、事に因って辄に搔擾を為すことを恐れる。司農寺の新法では、衙前は郷戸を差役せず、旧に長名として願った者は、そのまま旧に従うことを聴し、代わりに官自ら酒税坊場を召売し、併せて州県の坊郭人戸の助役銭数で、その重難を酬いる。ただこの一法のみ、あたかも行いうるが如し。然れども坊郭の十等戸は、緩急の科率に、郡県はこれに頼っており、更にこれに均しく助銭を出させることは難しい。乞う、有司に詔して、坊場銭をもって衙前の雇直を足しうるならば、条目を詳究し、徐行してこれを観察せしめよ」と。帝は安石が役銭の文字を進呈するに因り、これに謂いて曰く、「民は税斂を供する已に重し。坊郭及び官戸等は減ずるを須いず。税戸の升等の事は更に少しくこれを裁せよ」と。安石曰く、「朝廷が法を製するは、義を以て断ずべきであり、豈に規規として浅近の人の議論を恤れんや」と。

ここにおいて提点の趙子幾は、東明県知事の賈蕃が県民の訴訟を禁遏できなかったことを怒り、雑多に他の事を摭って賈蕃を法に致した。また子幾をして自らこれを鞫かしめた。楊繪は、これが安石の意旨に希い、県令を罪に致したのだと謂う。即ち疏を上ってこれを弁じた曰く、「子幾がもし賈蕃の五月十日以前の事を劾するならば、臣は固より言うところなし。もし劾する所がこの日より後ならば、これは脅迫をもって令佐をして民を赴訴させず、これを便と為すを得んや」と。また言う、「助役の利は一つ、而して難行は五つあり。先ずその利を言わんことを請う。仮に民田に一家で百頃を持つ者もあり、また戸で僅か三頃の者もあり、その等は乃ち俱に第一に在り。百頃を以て三頃と較べれば、則ち已に三十倍なり。而して受役の月日は均斉にして異なること無し。況んや官戸の如きは、耆長を除く外皆応に役無きべきに、今例に均しく雇銭を出させしむれば、則ち百頃の輸ずる所は必ずや三頃の者の三十倍に当たり、而して又永に決射の訟無からん。これ其の利なり。然れども難行の説も亦五つあり。民は唯だ種田するのみにして、其の銭を輸するを責む。銭は田の出ずる所に非ず、一なり。近辺の州軍に就募する者は土着に非ず、奸細防ぎ難し、二なり。各処の田税、多少同じからず、三なり。耆長が人を雇えば、則ち盗賊止め難し、四なり。衙前が人を雇えば、則ち官物を失陥す、五なり。乞う、先ず此の五害を防ぐことを議し、然る後に定制として著わし、仍って先ず農寺に戒めて速やかに就きて恩賞を祈る無からしめ、提挙司に戒めて多く民より取って自ら功と為す無からしめよ。此くの如くすれば、則ち誰か復た妄りに議せん」と。

劉摯も亦言う、「趙子幾が他事を以て賈蕃を捃摭するは過ちなり。且つ役法を変更するは、意は民を便ならしめんと欲するに在り。民苟も利害と為す有らば、安んぞ其の言わんと欲する所を禁ぜんや。今畿民の訴うる有るに因り、而して刻薄の人、反って県官の禁遏できざるを怒る。臣恐らくは四遠の人情、必ず朝廷の天下の口を鉗せんと欲するを疑い、而して職主民に在る者は、必ず皆賈蕃を戒めと為すを見ん。則ち天下の休戚、陛下何に由りて之を知らん。子幾の情を挟むの罪、伏して請う吏部に付して施行せしめん」と。

ここにおいて同判司農寺の曾布は、楊繪・劉摯の言う所を摭い、条を分けて奏上しこれを弁詰した。その略は曰く、

畿内の上等戸は尽く昔日の衙前の役を罷め、故に今輸する所の銭は旧に役を受けた時に比べ、その費十に四五を減ず。中等の人戸は旧に弓手・手力・承符・戸長の類に充て、今は上等及び坊郭・寺観・単丁・官戸をして皆銭を出してこれを助けしむ。故にその費十に六七を減ず。下等の人戸は尽く前日の冗役を除き、而して専ら壮丁に充て、且つ一銭も輸せず。故にその費十に八九を減ず。大抵上戸の減ずる所の費は少なく、下戸の減ずる所の費は多し。言者は上戸を優にして下戸を虐にし、聚斂の謗を得たりと謂う。臣の未だ諭せざる所なり。

提挙司は諸県の等第実ならざるを以て、故に首に品量升降の法を立てた。開封府・司農寺が方に奏議する時、蓋し已に旧数を増減したことを知らざりしなり。然れども旧勅は毎三年に一たび簿書を造り、等第は嘗て升降有り。則ち今品量して増減するも亦未だ非と為さず。又況んや方に民戸に曉諭し、苟も未便あれば、皆と共に厘正する。則ち凡そ増減する所は、実に未だ嘗て行わざるなり。言者は則ち謂う、品量して等を立つるは、蓋し多く雇銭を斂め、上等に升補して配銭の数を足さんと欲するなりと。祥符等県に至っては、上等の人戸数多くして下等に減充するを、乃ち独り掩いて言わず。此れ臣の未だ諭せざる所なり。

凡そ州県の役は、募人すべからざる理無し。今投名の衙前は半天下に在り、未だ嘗て倉庫・場務・綱運を典主せざること無し。而して承符・手力の類は、旧法皆雇人を許し、行わるること久し。惟だ耆長・壮丁は、今の措置する所最も軽役なるを以て、故に但だ郷戸を輪差し、復た人を募らず。言者は則ち謂う、衙前が人を雇えば則ち官物を失陥す。耆長が人を雇えば則ち盗賊止め難し。又謂う、近辺の奸細の人応募すれば、則ち倉庫を焚焼し、或いは城門を守把すれば、則ち恐らくは外境に潜通せんと。此れ臣の未だ諭せざる所なり。

免役は或いは見銭を輸し、或いは斛斗を納む。皆民の便に従う。法の此に至るも、亦已に周し。言者は則ち謂う、直に銭を輸せしむれば、則ち絲帛粟麥必ず賤し。若し他物を以て直を銭に準ずれば、則ち又退揀乞索し、且つ民害と為さんと。此くの如くすれば則ち当に如何にして可ならん。此れ臣の未だ諭せざる所なり。

昔の徭役は皆百姓の為す所なり。凶荒饑饉と雖も、未だ嘗て役を罷めず。今役銭は必ず稍々余羨有らんことを欲するは、乃ち凶年に蠲減の備とする所以なり。其の余は又専ら田利を興し、吏祿を増すに以てす。言者は則ち謂う、助銭は税賦の如く倚閣減放の期有るに非ずと。臣は知らず、昔の衙前・弓手・承符・手力の類も、嘗て倚閣減放したるや否やを。此れ臣の未だ諭せざる所なり。

両浙一路、戸一百四十余万、輸する所の緡銭七十万のみ。而して畿内戸十六万、率いて緡銭も亦十六万。是れ両浙の輸する所、才に畿内の半ばなり。然れども畿内は以て役を募るに用い、余る所も亦自ら幾ばくも無し。言者は則ち謂う、吏法意に縁り、広く大計を収め、両浙の如きは羨銭を以て徼幸せんと欲し、司農は出剩を以て功と為さんと欲すと。此れ臣の未だ諭せざる所なり。

賈蕃は令たりて、民訴を受けず、京師に趨りて喧嘩せしむ。其の意必ず謂う所有らん。誠に其の用心他無きと令すとも、亦謂うべし職に不たると。賈蕃の不職不法、其の状甚だ衆し。皆趙子幾の問わざるを得ざる所なり。御史の言は、賈蕃を捨てて子幾を治めんと欲す。是れ陛下の法・陛下の民を顧みず。宜しく賈蕃と御史の如きは莫かるべし。

ここにおいてその上疏を劉繪、劉摯に下し、各々に状況を言わせた。

劉繪は前後四度の上奏を記録して自らを弁明した。劉摯は言う、「助役の銭を徴収する法は、大臣及び御史が内でこれを主とし、大臣の親族や与党が監司・提挙官となって諸路でこれを実行するので、その勢いは順調で容易である。しかしながら長い年月を費やしても、終に定論がなく、民心に順わないからに過ぎない。陛下が司農寺を正しいとされるならば、事柄は前の上奏に尽きており、覆って見ることができる。臣の言を誤りとされるならば、貶黜するのみである。たとえ再び臣に言わせたとしても、いわゆる十害を超えるものではなく、風憲の官がどうして有司と是非勝負を較べるべきであろうか」と。詔して劉繪を鄭州知州とし、劉摯は館閣校勘・監察御史裏行を落とされ、衡州塩倉を監とした。

察訪使を遣わして諸路を遍く行き巡らせ、役法の書類の完成を促し、助役を免役と改め、募りに応じることを望まない者を強制した者は律に照らして論じた。初め、詔して監司に各々その管轄する助役銭の額を定めさせたが、利州路転運使李瑜は四十万と定めようとし、判官鮮于侁は言った、「利州路の民は貧しく、二十万で足りる」と。議論が合わず、遂に各々別個に上奏した。帝は鮮于侁の議論を是とした。侍御史鄧綰は、利州路の役は毎年緡銭九万余を要するのに、李瑜は率いて三十三万有余を徴取し、提点刑獄周約もまた名を連ねて異議を唱えなかったと上言した。詔して李瑜と周約を責め、鮮于侁を副使に抜擢した。

諸路の役法書類が司農寺に上られた後、天下に募役法を頒布し、免役銭を用いて内外の胥吏に禄を支給し、禄を受けながら贓罪を犯した者には倉法を用いてその罪を重くした。初め、京師で吏に禄を賦与したのは、年間わずか四千緡であった。八年に至って、緡銭三十八万有余を計上し、京師の吏の旧来の禄及び外路の吏禄はまたこれに含まれていなかった。時に長葛県知県楽京は助役の法は長く行うことができないと称し、常平司がその理由を尋ねても答えず、遂に罷免された。京西使者が湖陽県知県劉蒙を召して会議したが、劉蒙は議することを肯まず、退いて利害を条上し、即ち弾劾の文を投じて去った。一方、権江西提刑提挙金君卿は先ず交代する官に銭帛の綱運を京へ送ることを募り、郷戸衙前を差発せず、費用は十五六分減じた。詔を賜って褒め諭し、仍って権の字を落として正官とした。

免役の剰余銭について、詔して州県に常平法を用いて給散し民を休ませ、吏人の餐銭を添給することを命じ、仍って法として立てた。京東路の免役銭は秋の税徴収期に起催することとし、雇直の多少や役使の軽重に未だ究められていないものがあれば、監司に詳しく具して上奏することを命じ、仍って熙寧七年から施行することとした。永興軍路・秦鳳路は他の路に比べて民が貧しく役が重いので、詔して提挙司に冗役を併省し、順次に蠲減させ、二分の寛剩を留保して水旱の際の閣放の備えとすべきことを命じた。

七年、詔した、「役銭一千ごとに別に頭子銭五銭を納め、官舎を修繕し、什器を作り、人夫や運搬などの費用は、皆これを取って供給することを許す。不足する場合は、情状の軽い贖銅銭でこれを補う。諸路の公人は弓箭手の法の如く、田を与えて人を募ってこれに当たらせる。凡そ逃田・絶戸田・監牧の田で転運司に籍があるものは、射買や請佃を許さない。提刑司はその田を応募者に給し、その価値を査定し、一年分の雇役の費用がいくらに相当するかを基準として、その価値を転運司に帰属させる」と。衢州西安県は緡銭十二万を用いて田を買い、始めて一県の役を募るのに足りた。司農寺が言うには、両浙路のみならず、他の路もまた同様であると。費用が多く賄い難いので、法を改めようとした。遂に詔して、今後は寛剩銭を用いて募役田を買うに当たり、必ず先ず余剰銭を勘案して災害に支えることができることを確認してから、初めて給買を許すこととした。もし田価が高騰している地であれば、これを止めることとした。

時に免役の出銭が均しくなかったため、参知政事呂惠卿とその弟の曲陽県尉呂和卿が共に手実法の施行を請うた。その法は、官が田産の中価を定め、民に各々田畝の多少高下に従い、価格に応じて自ら申告させる。併せて屋宅について蕃息の有無で等級を立て、居住用の銭五に対して蕃息の銭一とする。用器や田穀でないものを隠し落とした者は告発を許し、事実があればその三分の一を賞に充てる。帳簿を作成するに当たり、予め様式を示して民に与え、様式に従って申告書を作成させ、県はこれを受け取って籍に記す。その価格を並べて高下を定め、五等に分ける。一県の民の物産銭数を見渡した後、通県の役銭の本来の額と合わせて当該納付額を定め、その数を明記し、二ヶ月間公示して民に悉く知らしめる。詔してその請いを従えた。

司農寺が戸長・坊正を廃止し、州県の坊郭において隣接する戸三二十家を選び、順番に並べて甲とし、交替で甲頭とし、税賦や苗役の徴収を監督させ、一税ごとに交替することを請うた。その後、諸路が皆甲頭による税の催促は不便であると上言したため、詔して耆長・戸長・壮丁は旧来通り募って充てることとし、保正・甲頭・承帖の法は併せて廃止した。

王安石は田を与えて役を募ることは、害が十余りあると上言した。八年、田を与えて役を募る法を廃止し、既に募りに応じた者は旧来通りとし、欠員は補充しないこととした。官戸が役銭を納める場合はその半額を免じ、免じる額が多い場合でも、各々二十千を超えないこととした。二県以上に物産がある者は通計し、二州二県以上に物産がある者は所在に随って銭を納め、等級に及ばない者は一つの多い所に併せて納めることとした。

初め、手実法が施行されると、上言者の多くがその長所は告発を助長し、煩擾を増すと論じた。この時、呂惠卿が政務を罷めると、御史中丞鄧綰がその法は不便であると上言し、これを廃止し、司農寺に委ねて再び詳定して上奏させた。

九年、荊湖南北路の敷いた役銭が重すぎ、一年の収支を較べると寛剩銭の数が多いため、詔して権宜的に二年間減額することとした。間もなく詔して、今後は寛剩役銭及び買撲坊場銭を、再び役人に給与せず、毎年余剰数を司農寺に上申し、その他の物で常平司に籍があるものは、常に半分を留保することとした。侍御史周尹が上言した、「募役銭の数外に寛剩一分を留保しているが、州県が提挙司の意向を窺って、広く民銭を敷き、役の定員を減らし、雇直を削減し、民間の納付額は一切旧来通りであるため、寛剩の数が多い。募直は軽いが倉法は重く、役人は多くが募りに応じようとしない。天下皆、朝廷が法を設けて聚斂していると言い、疑怨がないわけではない。耆長・戸長及び役人で過度に減らすことができない者は悉く旧額に復し、募銭が足りるように約し、その寛剩は二分のみ留保することを乞う」と。

この年、諸路から司農寺に上った歳収の免役銭は一千四十一万四千五百五十三貫・石・匹・両であった。内訳は、金銀銭斛匹帛が一千四十一万四千三百五十二貫・石・匹・両、絲綿が二百一両。支出は金銀銭斛六百四十八万七千六百八十八両・貫・石・匹。応在(簿記上の残高)は銀銭斛匹帛二百六十九万三千二十貫・匹・石・両、現存は八十七万九千二百六十七貫・石・匹・両。

十年、彭州知州呂陶が上奏した、「朝廷は力役を緩和しようとし、法を立てて召募したのであり、初めから民財を過度に徴収する意図はなかった。しかし有司が奉行するに当たり過当であり、科出を增添し、これを寛剩と称している。熙寧六年に役法を施行して以来、今に至るまで四年、臣の管轄する州の四県において、既に寛剩銭四万八千七百余貫があり、今年また一万余貫を科納しなければならない。成都府路一路で計算すれば、おおよそ五六十万、天下に推し量れば、現在約六七百萬貫の寛剩が官にある。歳歳このようであれば、泉幣は絶えて乏しく、貨法は通じず、商旅や農夫が最もその弊害を受ける。臣は朝廷が免役銭の外にこのような寛剩の数目があることを知らないのではないかと恐れる。乞う、現在の支出を勘案して何年か不足しないかを検討し、広大なる徳音を発し、特にもう数年これを免じられたい。あるいは毎年限定して、十分の一を超えないようにされたい。これによって民が重ねて困窮しないことが貴ばれる」と。返答はなかった。

王安石が去位し、呉充が相となると、沈括は建議して、役法を少し変え、差役と徭役を交えて用いるのが便利であるとした。御史知雑事の蔡確が沈括が反覆であると上言し、沈括を宣州知州に貶した。

役銭の定額は、浙東では多くは田税銭の数を基準とし、浙西では多くは物力を用いた。この時、詔して物力と税銭を通算して互いに組み合わせて数を定め、便宜に従って納入させることを命じた。淮東路では物産を評価して定め、その実際の価値の通りに、均等に賦課して取り立てた。初め、両浙の坊郭戸で家産が二百千に満たない者、郷村戸で五十千に満たない者は、役銭を納めなくてもよいとしていたが、後に郷戸で五十千に満たない者も免れず納めることとなった。元豊二年、提挙司が坊郭戸の免納法が過分に優遇されていると上言したため、詔して郷戸の法の通りに裁定して賦課する銭数を定めた。提挙広西常平の劉誼が上言した、「広西一路の戸口は二十万であるが、民が納める役銭は十九万緡に至り、まず税銭から賦課して出し、税数が不足すれば、また田米から賦課し、田米が不足すれば、さらに身丁に算定する。広西の民は、身に丁があれば、既に銭で税を納め、また米で算定されるので、これは一身で二税を納めることになり、前代の弊法に近い。今既にこれを免除することはできないが、さらに役銭を加えるのは、甚だ憐れむべきである。広東西の監司・提挙司の吏の一月の給与は、上は令録と同じで、下は摂官の倍であり、その数を削減するよう乞う。そうすれば両路の身丁田米も少し緩和されよう。」そこで詔して吏輩の月給銭を二千ずつ逓減させ、年間で役銭一千二百余緡を減ずることとなった。三年、司農寺丞の呉雍が上言した、「淮・浙の役書を議定し、冗占一千三百余人を減じ、緡銭二十九万近くを削減し、歳用を合わせて定めると、寛剩銭一百四万余緡となり、諸路の役書も多くはこの類である。まず近京の三両路から修定し、諸路に下すことを乞う。」従った。

七年、天下の免役緡銭の歳計は一千八百七十二万九千三百、場務銭は五百五万九千、穀帛石匹は九十七万六千六百五十七であり、役銭は熙寧年間の収入より三分の一多かった。

帝が免役を力主したのは、民間が差役に苦しみ、特に衙前の役で任務が重く遠方に行く者が甚だしいことを知り、特に免役を創設したのである。均等に雇直を賦課するとはいえ、民から取らないわけにはいかない。しかし民が一意に田畑に専念できるようになり、実際に以前の困弊を解消した。故に群議が雑然と起こったが、帝はその意志を変えようとしなかった。ただその間、王安石の策を採用し、雇直を正額として用いず、二分を加算して賦課して吏禄や水旱の用に備えた。群臣はしばしばこれを言上し、たびたび疑い詰問したが、王安石はますます固執した。この法は終始弊害を防ぐことを究めず、聚斂の小人がまたこれに乗じて増取したので、帝はたびたび詔して禁戒したが、完全には止められなかった。この時、雇役はそれほど増えていないのに、歳入が以前より増加したのは、王安石が帝の徳意に順応できず、その流弊が既に現れたのである。

哲宗が即位し、宣仁太后が垂簾してともに政務を聴くと、門下侍郎の司馬光が言上した。

「調べると、差役のために破産する者は、郷戸衙前だけである。山野の愚かで頑なな者は、事を処理できず、あるいは水火のために官物を損傷・破損させ、あるいは上下から侵欺・乞取され、それによって欠損が生じ、償いが足りず、破産する者がいるのである。長名衙前に至っては、公務に精通しており、重難な任務を経るごとに、別に優軽な場務を酬奨として得て、しばしば富を成すので、どうして破産することがあろうか。また以前は役人は皆上等戸が担当し、その下等戸・単丁・女戸及び品官・僧道は本来役がなかった。今これらを一律に銭を納めさせれば、賦斂がますます重くなる。免役法を行って以来、富室はかろうじて自ら寛かになり、貧者は困窮が日増しに甚だしくなった。監司・守令の不仁な者は、雇役人以外に多く羨余を取り、ある県では数万貫に至り、恩賞を期待している。また青苗法・免役法では、賦斂を多く現銭で納めさせる。銭は私家で鋳造するものではなく、必ず貿易しなければならない。豊作の年でも期限を迫られれば、なお半価を失い、凶年に当たれば、穀物を売るものがなく、田を売っても買い手がつかず、遂に牛を殺して肉を売り、桑を伐って薪を売り、来年の生計を顧みる暇もなく、これが農民が重く困窮する所以である。

臣の愚見では、宜しく免役銭を悉く廃止し、諸色の役人は、並びに旧制の通りに差定し、現在雇われている役人は皆罷免して帰らせるべきである。衙前はまず人を募って長名に投充させ、募りが足りなければ、その後で郷村の人戸を差し、重難な差遣を経るごとに、旧来の通り優軽な場務をもって酬奨とする。所有する現在の役銭は、州県の常平本銭に充当し、戸口を率として、三年分の蓄えを置き、余りは転運司に帰属させる。凡そ免役の法は、富強で役に応ずべき人を免れさせ、貧弱で役のない戸から徴収し、富者に利あり貧者に利なしである。今耳目が接しているうちに、なお旧名に復することができるが、もしさらに年月が深まれば、富者はこれに安んじ、民を再び差役にすることはできなくなるであろう。」

そこで初めて詔して役書を修定させ、凡そ役銭は、元の定額及び額外の寛剩二分以下のもののみを準拠として定めることを許し、その他は全て除いた。もし寛剩が元々二分に及ばない者は、旧則の通りとする。まもなく詔して耆戸長・壮丁は皆旧来の通り人を募って役に供させ、保正・甲頭・承帖人は並びに罷めた。

元祐元年、侍御史の劉摯が言上した、「戸を率いて銭を賦課することには、従来差役に関わらずに一律に徴収される者があり、一戸で数百から千緡を納める者がある。昔は衙前一役だけに、破産に至る者がいたのみである。今天下の坊場は、官が収めて官が売り、歳計の緡銭は数百万に及ぶから、自ら衙前の雇募支酬の代価を足すことができ、役の重いものは既に農民に関わる必要がなくなる。外には散従・承符・弓手・手力・耆戸長・壮丁の類は、大した労費がなく、宜しく並びに祖宗の差法を用い、第一等以下から通じて担当させるべきである。」監察御史の王岩叟は衙前の大役について本等相助の法を立て、変通の利を尽くすよう請うた。仮に一邑の中で大役に応ずべき者が百家いて、年に十人を取るならば、九十家が力を出して助け、明年十戸を替え、また同様にすれば、大役に偏重の弊がなくなる。その他百色の無名の差占、一切の理に合わない資陪は、悉く熙寧の新法で禁じ、相助しなくてもなお可能であるとした。

殿中侍御史の劉次莊が言上した、「近時の制で耆戸長を雇うには三等以上の戸でなければならないと許しているが、三等以上の戸が雇われることを望まないと知らない。既に志願者がいなければ、郡県は必ず表面上は雇の名を循り、陰では差法を用いるであろう。法を立てて明らかに差役とする方が便利である。」戸部が言上した、「詔で凡そ耆戸長・壮丁は並びに人を募って役に供させるとあるが、窃かに耆戸長の雇銭の数が少なく、応募する者がいないことを憂慮する。兼ねて四等以下の戸は旧来役銭を賦課されず、ただ壮丁を輪差していたが、今悉く雇募すれば、用いる銭額が広がり、提挙司は必ず人戸から増賦するであろう。旧法では役を全て雇わず、また輪差・輪募の処もあったので、欲するに且つ本法の通りにしたい。」

中書舍人蘇軾が言うには、「先帝が初めて免役法を行ったとき、寛剩銭の徴収は二分を超えてはならず、災害に備えるものとした。役所が行き過ぎて奉行し、施行すること十六、七年、蓄積して用いず、三千余万貫石に至った。熙寧年間、給田募役法を行い、大略は辺境の郡の弓箭手のようであった。臣が密州を知ったとき、先に弓手を募ったが、民は甚だ便利とし、まだ半年にもならず、この法はまた罷められた」と。そこでその五利を列挙した。王岩叟が言うには、「蘇軾が田を買って役を募ることを乞うのは、その五利は信じ難く、十の弊害がある」と。大意は、「官が民田を買うのは、価格が適当でないことを慮る;民が田を受けて募に就くのは、永業でないから、耕作を粗略にし、また他に転じようとする」というものであった。そしてその六弊は特に詳しく、「弓箭手は名目上は応募とはいえ、実は家に居る農民と異ならず、たとえ番上や緊急時に点集を免れぬことがあっても、実際には田業を廃さず、州県の色役が長く官寺に在るのとは同じでないから、弓箭手の煩擾は推して知ることができる。しかしなお欠員が常に補招し難く、既に招かれた者も時々逃げ去ると聞く。これを引き合いに出して比べるのは、事情に切実でない」と言う。その七弊は、「戸が三等以上に及ぶ者は、皆自ら足り、必ずや田を佃って役に供することを肯んじない。今、法を立てて二等以上の戸でなければ弓手に充てず、三等以上で初めて散従官以下の色役に供することができるとすれば、これは給田募役の名を用いて、掲簿定差の実を行おうとするものである。既に百姓が応募を喜ぶと言うなら、なぜ戸が四等に降るには必ず上二等の戸が保任しなければならないのか?任じて逃げれば、任じた者を勒して田役に就かせる、これどうして喜んで応じるなどと言えようか?」上官均もまた五つの不可行を陳べ、蘇軾の議は遂に止められた。

司馬光がまた上奏して言う。

「今の免役法には、害が五つある。上戸は旧来役に充てられ、もとより陪備があったが、番休を得た。今は銭を出して旧費より特に多く、年年休息がない。下戸は元来役に充てられず、今は例として銭を出させる。旧日差された者は皆土着の良民であったが、今は皆浮浪の人が応募し、顧藉がなく、賄賂を受け、官物を侵し陥れる。また農民は力を出すより銭を出す方が難しく、もし凶年に遇えば、荘田・牛具・桑柘を売って、銭を官に納める。提挙常平倉司はただ役銭を多く斂め、寛剩を広く積むことに務める。これが五害である。

今は直ちに勅命を降して、天下の免役銭を尽く罷め、諸色の役人は、皆熙寧元年以前の旧法の人数に依り、本県の令佐に委せて簿を掲げて差定するのが良い。その人が自ら供役することを願わなければ、雇って代わらせることを許し、逋逃や失陷があれば、雇った者がこれを任じる。ただ衙前一役は、最も重難と号し、もとよりこれによって破産する者があり、このために始めて助役法を作った。その後、色々と優遇し、陪備を禁じ、別に命官・将校を募って遠方への綱運を部押させたので、遂にまた破産の人が聞かれなくなった。もし今衙前が仍って差法を行い、陪備が既に少なければ、当に家を破るに至らないであろう。もし猶その力が独りで任せるのが難しいことを矜れむならば、即ち旧法のように、官戸・寺観・単丁・女戸で屋産の月収の僦直が十五千に及び、荘田の中熟の収穫が百石以上に及ぶ者に、貧富に随って差等を以て助役銭を出させ、その余の物産も、これを基準として約することを乞う。毎州に樁収し、重難の役使があるのを待って、即ち以て支給する。

尚、役人の利害は、四方で斉一に同じくすることができないことを慮る。監司・守令にその可否を審らかにすることを許し、可ならば亟に行い、もし未だ尽く究められなければ、県は五日を許して措画を州に上し、州は一月で転運司に上し、転運司は季ごとに聞上することを乞う。朝廷は執政に委せて審定し、一路一州ごとにそれぞれ勅を為し、曲尽することを務める。しかし免役法は施行すること近く二十年、富戸は優利に習い、一旦変更すれば、異同を懐かざるを得ない。また差役が復行されれば、州県は小擾を免れず、提挙官は専ら役銭を多く斂めることを功とし、必ず競って免役銭は罷められないと言うであろう。この際に当たり、人言を以て軽々しく良法を壊さないことを願う。」

知樞密院章惇が光の上奏した疏で略して尽くさなかったものを取り上げて駁奏した。尚書左丞呂公著が、惇は専ら勝ちを求め、命令の大體を顧みないと言い、近臣を選差して詳定することを望んだ。右正言王覿が上奏して、「光の議が初めて上ったとき、惇は嘗て同奏し、既に施行されるのを待って、方に光の短を列ねる。その資性は小人であり、腹心の地に置くべきでない」と言った。ここにおいて詔して資政殿大學士韓維・給事中範純仁等に専ら詳定して聞上せしめた。

王覿がまた言うには、「近時の制で募を改めて差とし、旧法の人数を則とするが、熙寧元年以後、募数は屡々裁減を経ており、則ち旧数は復用すべからず、悉く現額を準じて差定することを請う」と。先に、差法が既に復され、知開封府蔡京は勅の如く五日以内に開封・祥符両県の旧役人数を尽く用い、一千余人を差して旧額を足した。右司諫蘇轍が言うには、「開封府が急いで旧額を用いて尽く差し、壇子の類のように、近例は率ね剩員を用いるのに、今悉く民戸に改めて差し、故に煩擾を為して成法を揺るがす。その罪を正すことを乞う」と。

司馬光が初めて差役を議したとき、中書舍人範百祿が光に言った。「熙寧の免役法が行われたとき、百祿は咸平県にあり、開封は衙前数百人を罷め遣わし、民は皆欣幸した。その後、役所が羨余を求め、刻剝に務めたので、法を病とした。今は第に助免銭額を減じて民力を寛ぐことができよう」と。光は従わなかったが、州県の吏が差役によって賄賂を受けた場合、重法に従って等を加えて配流することを議したとき、百祿は刑房を押し、固執して不可と言った。「郷民は徭役によって吏となり、今日は執事して賄賂を受け、明日は役を罷め、また財を人に遺す。もし尽く重法を以てこれを縄すれば、げい麵赭衣が道路に充塞するのを見るであろう」と。光は言った。「公の言がなければ、幾らか民害と為すところであった」と。遂にこれを止めた。

蘇轍がまた言う。

「差役が復行されるに当たり、議すべきことが五つある。その一は、旧来郷戸を差して衙前とし、人家を破敗させ、兵火の如く甚だしかった。新法が行われる以来、天下は復た衙前の患いを知らず;しかし天下が反って苦しむとするのは、農家が歳ごとに役銭を出すことが難しく、及び人に現売の坊場を添剗することを許したので、遂に輸納が給しない者があったからである。向使、官が坊場を売って得た課入を以て衙前を雇うのみに止め、自ら足りて弁じ、他の色役人は旧法の如くに止めれば、利は較然としていたであろう。初めは衙前は多く浮浪の投雇であり、郷差の税戸が託すに足るのに如かぬかと疑った。しかし十有余年行って、投雇者も大敗闕がなく、郷差衙前の害を易えるに足らなかった。今、天下の坊場銭を略計すれば、一歳に四百二十余万貫を得ることができ、もし中価を定め、添剗を許さず、三分の一を減じても、尚二百八十余万貫ある。そして衙前の支費及び非泛の綱運を召募するのに、一歳共に一百五十余万緡を超えない。則ち坊場の直は、自ら衙前の百費を了辨することができ、何ぞ更に郷戸を差する用があろう?今の制は尽く差役を復し、衙前に陪備がなければ、故に郷戸を以てこれを行う;坊場に至っては、元より明らかに降した処分がなく、官自ら売り出すのか、それとも仍って以て衙前を酬奨するのか知らない。もし仍って以て酬奨するならば、即ち部綱を召募するのに何の銭を応用するのか?もしこれに銭を与えなければ、即ち旧来の名は重難であり、郷戸衙前は仍って前に自ら備え、害小さからず。

第二に、都市住民は従来科配に苦しんでいたが、新法では郷戸と共に役銭を出して科配を免れることとなり、その法は甚だ便利である。但し賦課する銭額が余りに重く、長久の法とは成り難い。都市住民・官戸・寺観・単丁・女戸に対し、現在の役銭を斟酌して中数を減定し、坊場銭と共に雇って衙前を支弁し、及び非泛の綱運を召募する以外は、却って諸色の役人を募雇する用に備蓄させよ、と乞う。

第三に、現在の在役人数を以て差役を定めることを乞う。熙寧年間に減定する前の数は実に冗多であり、そのまま用いるべきではない。

第四に、熙寧以前は、散従・弓手・手力等の諸役人は常に逆送に苦しんでいたが、新法以来、官吏は皆雇銭を請け、役人も便利となり、官も事に欠けることが無くなった。雇法を仍用することを乞う。

第五に、州県の胥吏は皆量を支えて雇銭を以て募充し、仍って重法を罷め、また坊場・坊郭銭を以て用いることを許す。不足する時は、初めて郷戸を差し、郷戸の出す雇銭は、官雇の本数を超過してはならない。」詔して看詳役法所に送り詳定せしめ、その要なるものを択び先ず奏して行わしむ。

ここにおいて役人は悉く現数を以て額と為し、惟だ衙前は坊場・河渡銭を以て雇募し、不足すれば、初めて簿を掲げて差定することを許す。その余の役人は、惟だ該募するものは募ることが出来、余は悉く差定する。遂に官戸・寺観・単丁・女戸の助役法を出することを罷め、その今夏の役銭は即ち輸納を免ず。間もなく衙前が皆雇直を持つ訳ではないので、遂に雇募を招募に改む。凡そ熙寧・元豊年間に嘗て立法して禁じた、衙前及び役人を非理に役使し、及び陪備円融等を令める類は、悉く申し行い、耆壮は保正長法に依る。坊場河渡銭・量添酒銭等の類は、名色一ならず、惟だ法に於いて用いることを許すものは支用する外、並びに衙前を招募し、重難を支酬し、及び役事に応縁する用に備蓄す。一州の銭が供用に足らざれば、別州の銭を用いることを許し、一路不足すれば、戸部より他路に通じて移用することを許す。其れ或いは余有れば、妄りに用いること無く、其れ或いは不足すれば、募を減らし置を増すこと無し。衙前は最も重役なり、若し已に招募して足額に満たば、上一等戸に虚閑にして差されざる者有れば、次等の色役に供せしむ。郷差の役人に在りて、職官若し敢えて抑えて別に雇い承符・散従に承代せしむる者は、転運司劾奏して重く責む。時に提挙常平司は已に罷置し、凡そ役事は提刑司に改隷す。

殿中侍御史呂陶言う、「天下の版籍斉しからず、或いは税銭貫百を以てし、或いは田地の頃畝を以てし、或いは家の積財を以てし、或いは田の受種を以てす。皆別に五等と為すと雖も、然れども税銭一貫・占田一頃・積財千緡・受種十石にして之を一等に入るる者有り。一等の上は、等を加うる無く、遂に税緡・田頃・積財・受種十倍これに於けるも、亦た同じく一等に在るに過ぎず。此を憑りて差役すれば、必ず均平ならず。今日の納銭の労無きと雖も、却って昔時の偏頗陪費の害有り。新旧を裁量し、条約を著すに若かず。例へば税銭一貫を第一等と為し、本等の中に於いて一役を差すに合し、税銭一役の両倍なる者は並びに二役を差し、又倍すれば即ち三役を差す。税銭更に多しと雖も、三役を過ぎず、並びに人を雇うことを聴す。或いは本県戸多きに役少なきは、則ち上戸の役は並びに差すを須いず、但だ次叙して休役の年月遠近を均しくして其の労逸を均うすべし。仮令甲役に充てたる後五年を閑かにす可く、乙税銭甲の両倍なれば三年を閑かにす可く、丙又乙に倍すれば一年を閑かにす可し。其の田土の頃畝の類を等と為し、並びに其の余同等にして多少倶わざる者は、並びに此に倣え。又成・梓両路の差役は、旧専ら戸税を以て差等と為し、熙寧初め、別に坊郭戸の営運銭を定めて以て免役を助けしむ。乃ち税産の外に在り、州県抑えて額を認め、今に至るも減ぜず、停閑居業して郷村に移避する有るも、猶免れ得ず。今方に法を議するに、坊郭の等第固より偏廃す可からず、然れども須らく虚実を参究し、別に行い排定して、以て民力を寛うすべし。」並びに詳定所に送る。

蘇轍又言う、「雇募衙前を招募に改むるは、既に明らかに銭を以て雇うに非ざれば、必ず肯て招に就く者無く、勢い差撥を須いん。歳に収むる坊場・河渡の緡銭四百二十余万を、何れの地に於いて之を用いんとするかを知らず。熙寧以前、諸路の衙前は多く長名を雇いて役に当たらしめ、例へば西川は全く長名にて、淮南・両浙は長名大半以上、余路も半を減ぜず。今坊場官既に自ら売る、必ず長名に充たんと願う者無く、則ち衙前並びに郷戸なり。招募と号すと雖も、上戸免役に利有りて、方肯て名を占め、差と異ならず。上戸既に衙前の重役を免るれば、則ち凡そ役は皆当に均しく以て次第の人戸に及ぶべく、此くの如くすれば則ち下戸役に充つること、多く熙寧前の如くなるべし。」