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宋史
志第一百二十七 食貨上二
◎食貨上二(方田・賦稅)
方田 神宗は田賦の不均を患い、熙寧五年に、方田法を重ねて定め、詔して司農に『均稅條約並式』を以て天下に頒布せしむ。東西南北各千歩を以て、四十一頃六十六畝一百六十歩に当たるを一方と為す。歳に九月を以て、県は令・佐を委して地を分ち計量せしめ、陂・原・平・澤に随ひて其の地を定め、赤淤・黒壚に因りて其の色を弁ず。方量畢りて、地及び色を以て肥瘠を参定し五等に分ち、以て稅則を定む。明年三月に至りて畢り、掲げて民に示し、一季訟無くば、即ち戸帖を書き、莊帳を連ねて之に付し、以て地符と為す。
均稅の法は、県各其の租額稅数を限と為し、旧嘗て奇零を収蹙せしむるが如き、米十合に及ばずして升として収め、絹十分に満たずして寸として収むるの類は、今其の数を用ひて均攤増展し、旧額を溢るることを致すを得ず。凡そ額を越え数に増すは皆禁ず。若し瘠鹵不毛、及び衆の食利する山林・陂塘・溝路・墳墓は、皆稅を立たず。
凡そ田方の角には、土を立てて峰と為し、其の野の宜しき所の木を植えて以て之を封表す。方帳有り、莊帳有り、甲帖有り、戸帖有り。其の分煙析産・典売割移するは、官契を給し、県簿を置く。皆今方する所の田を以て正と為す。令既に具はり、乃ち済州鉅野尉王曼を指教官と為し、先づ京東路より之を行ひ、諸路之に倣はしむ。六年、詔して土色を五等に分つは、未だ尽さざるを疑ひ、郡県に下して其の土宜を物し、多く等を為して以て其の均当たらしめ、五を以て拘はるる勿れとす。七年、京東十七州官四員を選び、各其の方を主とし、郡県を分ち行き、三年を以て任と為す。毎方大甲頭二人・小甲頭三人を差し、方戸と同集し、各歩畝を認めしめ、方田官地色を験し、更に甲頭・方戸と同定せしむ。諸路及び開封府界秋田災傷三分以上の県は権に罷め、余は農隙を候ふ。河北西路提挙司、一県の災傷一分に及ばざるを通じて罷めざるを乞ふ。
元豊五年、開封府言ふ、「方田法は、稅の最も均しからざる県を取りて先行し、即ち一州に定めて五県とし、歳に両県を過ぎず。今府界十九県、此に準じて之を行はば、十年にして乃ち定まる。請ふ、歳に五県を方せん」と。之に従ふ。其の後歳稔農隙にして乃ち行ふ。而して県に山林多き者は或は行ひ或は否とす。八年、帝官吏の民を擾すを知り、詔して之を罷む。天下の田已に方して籍に見ゆるは、是に至りて二百四十八万四千三百四十九頃と云ふ。
崇寧三年、宰臣蔡京等言ふ、「阡陌を開きてより、民をして田を以て私相貿易するを得しめ、富者は其の余有るを恃み、厚く価を立てて以て利を規し、貧者は不足に迫られ、薄く稅を移して以て速かに售らしむ。而して天下の賦調平らかならざること久し。神宗方田の利害を講究し、法を作りて之を推行す。方に之が帳を為し、歩畝高下丈尺隠す可からず。戸に之が帖を給し、升合尺寸遺るる所無し。売買を以てすれば、則ち民其の巧を容るる能はず。推収を以てすれば、則ち吏其の奸を措く能はず。今文籍具在り、挙げて行ふ可し」と。詔して諸路提挙常平官に官を選び其の法に習熟せしめ、州県官吏に諭して各豊稔の日を以て推行せしめ、京西・北両路より始む。四年、指教官毎三県に一員を加へ、点検官毎路二員とす。未だ幾ばくもあらず、詔して諸路添置する指教官は三員を過ぐるを得ず。又専ら点検官を差さず、提挙司に従ひ本路見任人の内より選差す。五年、詔して方田を罷む。大観二年、復た詔して之を行はしむ。四年其の稅賦未だ方さざる旧則に依りて輸納するを罷む。十一月、詔す、「方田官吏は特たに田稅を妄りに増すのみならず、又兼ねて不食の山を方し、芻草の直を出さしむ。民戸時に因りて業を廢し所を失ふ。監司其れ悉く改正し、旧を失ふ毋れ」と。
政和三年、河北西路提挙常平司奏す、「所在地色極めて多く、百数に下らず。均稅に至りては、十等を過ぎず。第一等は十分の稅を出すと雖も、地土肥沃にして、尚ほ軽しと為す。第十等は只一分を均すも、多くは瘠鹵にして、稅を出すこと少なきと雖も、猶ほ重しと為す。若し等に入らざれば、則ち積もり多きに至りて一頃と為すも、只柴蒿の直を以てし、銭自ら一百より五百に至る。次第十等に比し、全く稅を受けず。既に等に収まるれば、但だ耕す可きの地便ち一分の稅有り。其の間下色の地と柴蒿の地と相遠からずして、乃ち一例に毎畝稅一分を均す。上軽く下重し。土色十等は故の如くする外、十等の地を折りて再び上・中・下三等に分ち、畝を折りて数に均せんことを乞はんと欲す。謂へらく、第十等地毎十畝第一等一畝に合して折するが如く、即ち十等の上は、稅十一を受け、元則を改めず。十等の中は、数十五畝に及び、十等の下は、数二十畝に及びて、方に上等に比し一畝の稅を受く。庶幾く上下軽重皆均しからん」と。詔して諸路概ね其の法を行はしむ。五年、福建・利路茶戸の山園は、塩田の例の如く方量均稅を免ず。
宣和元年、臣僚言ふ、「方量官跋履を憚り、並びに躬親せず、行繵拍峰・土色の験定、一に之を胥吏に付す。御史臺訴を受くるに致り、二百余畝を方て二十畝と為す者有り、二頃九十六畝を方て一十七畝と為す者有り、虔の瑞金県是れなり。租稅十有三銭にして増して二貫二百と為す者有り、租稅二十七銭にして則ち増して一貫四百五十と為す者有り、虔の会昌県是れなり。詔して望むらくは常平使者検察せんことを」と。二年、遂に詔して之を罷む。民方量に因りて流徙する者は、守令招誘して帰業せしむ。荒閑田土は、人を召して請佃せしむ。自今諸司方田を起請する毋れ。諸路已に方量する者は、賦稅訴論の有無を以てせず、悉く旧額の如く輸納す。民逃移帰業し、已前逋欠の稅租は、並びに除放す。
賦稅 唐建中初年租庸調法を変じて年支両稅を作り、夏輸は六月を過ぐる毋れ、秋輸は十一月を過ぐる毋れとし、使を遣はし分道按率す。其の弊や、期に先だちて苛斂し、額を増して繁征し、五代に至りて極まれり。
宋代の歳賦の制度には、その類別として五種がある。公田の賦とは、官にある田で、民に耕作させてその租を収めるものである。民田の賦とは、百姓がそれぞれ専有する田のものである。城郭の賦とは、宅税・地税の類である。丁口の賦とは、百姓が毎年身丁銭米を納めるものである。雑変の賦とは、牛革・蠶塩の類で、その産出に従い、変じて納めるものである。歳賦の物品には、その類別として四種がある。穀物、帛、金鉄、物産である。穀物の品目は七つ。第一は粟、第二は稲、第三は麦、第四は黍、第五は穄、第六は菽、第七は雑子である。帛の品目は十。第一は羅、第二は綾、第三は絹、第四は紗、第五は絁、第六は綢、第七は雑折、第八は糸線、第九は綿、第十は布葛である。金鉄の品目は四。第一は金、第二は銀、第三は鉄・鑞、第四は銅銭・鉄銭である。物産の品目は六。第一は六畜、第二は歯・革・翎毛、第三は茶・塩、第四は竹木・麻草・芻菜、第五は果物・薬・油・紙・薪・炭・漆・蠟、第六は雑物である。その輸納には常に定められた場所があるが、余剰をもって不足を補うため、この地からあの地へ、近くから遠くへと移して輸納することを「支移」という。その納入には常に定められた物品があるが、一時の輸納においては変じて徴収し、その価値の軽重を相当ならしめることを「折変」という。その輸納の遅速は、収穫の早晩を見て期日を寛大に定め、民力を緩和するのである。諸州は毎年戸帳を奏上し、その丁口を詳細に記載する。男は二十歳をもって丁とし、六十歳をもって老とする。二物を折科する物品で、土地に適さずに抑配するものは、これを禁ずる。
五代以来、常に現に墾かれた田を検視して歳租を定めてきた。官吏がこれに縁って奸を行い、税が均平でなく適切でなかったため、これにより百姓は生業を失い、田は多く荒蕪した。太祖が即位すると、詔を下して民に土地を開墾することを許し、州県は検括してはならず、ただ現佃を以て額とすることとした。官を選んで分かれて京畿の倉庫に臨み、また諸道に赴かせて民の租調を受けさせ、増加や羨余があればただちに罪に問い、多く民租を徴収した者は棄市に至ることもあった。
旧来、諸州は租税の収納が完了すると、符を発して属県に追って吏を集めて会計させた。県吏は里胥に厚く徴収して州の吏に賄賂し、里胥はまた民に割り当てたため、民はこれを大いに苦しんだ。建隆四年、ついに詔を下してこれを禁止した。諸州が租の帳簿を受けるにあたり、分・毫・合・龠・銖・厘・糸・忽と称してはならず、銭は必ず成文(整数)とし、絹帛は尺単位とし、粟は升単位とし、糸綿は両単位とし、薪蒿は束単位とし、金銀は銭単位とせよ。綢が半匹に満たず、絹が一匹に満たないものは、丈尺を計って価値を納めることを許し、三戸・五戸が集まって一匹に合わせ、送納して煩擾させてはならない。民が夏税を納める際、所在の地は県尉に弓手を率いさせ要路で巡護させたが、後に民を煩わせると聞き、これを廃止し、ただ郷耆・壮丁に防護させた。
諸州の税籍は、録事参軍がこれを按視し、判官がこれを振挙する。形勢戸は別籍を立て、通判が専らこれを督掌する。二税は三限の前半月中に必ず輸納を完了せねばならない。歳に二税を起納するに当たり、前期に県に命じてそれぞれ税籍を作らせ、一県の戸数、夏秋の税・苗の畝数、桑功および縁科物を帳面一つに具えて州に送り、覆校して定め、州印を用いて長吏の庁に蔵する。県籍もまた州印を用い、令・佐に給付する。夏税籍は正月一日に、秋税籍は四月一日に作り、ともに四十五日を期限として完了させる。
開封府など七十州の夏税は、旧来五月十五日より起納し、七月三十日に完了する。河北・河東諸州は気候がやや遅いため、五月十五日より起納し、八月五日に完了する。潁州など一十三州および淮南・江南・両浙・福建・広南・荊湖・川峡は五月一日より起納し、七月十五日に完了する。秋税は九月一日より起納し、十二月十五日に完了する。後にまたともに一月を加え、あるいは閏月に当たれば、その田蚕にもまた早晩の違いがあるため、有司が臨時に奏上して裁断する。続いて河北・河東諸州の秋税は多く辺郡に輸送するため、常限の外にさらに一月を加えた。江南・両浙・荊湖・広南・福建は土に粳稲が多く、霜降を経て実るため、十月一日より租の収納を始める。納受を掌る官吏は、期限外の欠数の多少によって、その罰を差定する。期限前に完了すれば、選を減じ、資を昇す。民が租を逋欠して期限を過ぎた者は、保証を取って帰り弁済させ、禁錮してはならない。中原では租二十石につき牛革一を輸納し、銭千文に準ずる。川蜀はなお旧制に従い、牛・驢が死ぬと革はすべて官に没収されていたが、ついに詔してこれを免除し、民租二百石につき牛革一を輸納し、銭千五百文に準ずると定めた。
太平興国二年、江西転運使が言上した。「当路は蚕桑の数が少なく、金の価格がかなり低い。今、折徴するに、絹の評価が低くて民を傷つけ、金の評価が高くて官を傷つける。金上等の旧評価は両あたり十千であったが、今は八千と評価することを請う。絹上等の旧評価は匹あたり一千であったが、今は一千三百と評価することを請う。その他は順次増減する」。これに従った。
咸平三年、刑部員外郎・直史館陳靖を京畿均田使とし、自ら京朝官を選び分かれて県に臨み、元の額に基づいて税を定め、増収や余剰を徴収することを許さず、逃戸は別に籍を立て、本府に命じて帰業を招誘させ、桑功はさらに均等に検視せず、民戸に広く植えさせた。まもなく居民が朝旨を理解せず、桑柘を伐採すると聞き、ただちに詔してこれを罷めた。六年、広南西路転運使馮漣が罷免され、上言した。「廉・横・賓・白州の民は田を墾いても、いまだ輸送したことがない。すでに官を命じて検括し、常租をすべて出させるようにした」。帝は「遠方の民は、徭賦を省くべきである」と言い、急いで停止・廃止を命じた。袁州知事何蒙が金をもって本州の二税に折納することを請うたが、真宗は「もしそうすれば、耕農はことごとく廃れてしまうであろう」と言い、許さなかった。
大中祥符初年、連年豊作で辺境の儲蓄に備えがあったため、河北諸路の税賦は、ともに本州軍において輸納することを聴許した。二年、『幕職州県官招徠戸口旌賞条制』を頒布した。旧制では、県吏が戸口を招き増やすことができれば、県は即座に等級を昇格し、その俸給を加増した。そのため、客戸を分けて主戸とする者があり、籍には登載されても、賦税には何の増加もなかった。四年、詔してこれを禁じた。雍熙初年、かつて詔して荊湖等路の民が丁銭を納めるにあたり、未だ成丁せず、既に老齢に入り、また身に廃疾ある者は、これを免除した。この時、また両浙・福建・荊湖・広南の旧来納めていた身丁銭を免除し、歳凡そ四十五万四百貫に及んだ。九年、詔して諸路の支移税賦は二度に至らせず、なお粟・麦・蕎麦・菽を互いに折納することを許した。
凡そ歳賦は、穀物は石を以て計り、銭は緡を以て計り、帛は匹を以て計り、金銀・糸綿は両を以て計り、槀稭・薪蒸は囲を以て計り、その他の物品はそれぞれその数をもって計る。至道末年、総計七千八十九万三千。天禧五年、至道の数に対して増減あり、総計六千四百五十三万。その折変および隣接する地への移輸は、当時の必要に応じて定める。
宋は諸国を平定するに当たり、常に民を恤むことを先務とし、累朝相承して、凡そ名目のない苛細な徴収は、常に廃止改革を加え、尺縑斗粟に至るまで、増益があったとは聞かない。一旦水旱の災害や徭役に遇えば、則ち蠲除や倚格を行い、殆ど虚歳なく、倚格は後年凶作があれば、また直ちにこれを蠲免した。しかるにまた田制は確立せず、田畝は転易し、丁口は隠漏し、兼併や冒偽があっても、未だ嘗て考按せず、故に賦入の利は前代に比べて薄かった。丁謂が嘗て言うには、二十に税一のものあり、三十に税一のものありと。仁宗が嗣位すると、まず畿県の田賦を寛め、詔して三等以下の戸は遠輸せしめず。河中府・同華州が支移の免除を請うたので、帝が輔臣に問うと、対えて曰く、「西鄙に兵を宿すには、民賦を移用しなければ軍食が足りない」と。特詔して量りに支移を減ず。
福州では王氏の時に田千余頃あり、これを「官莊」と謂い、太平興国年中より券を民に授けて耕作させ、歳毎に賦を輸納させた。ここに至り、発運使方仲荀が言うには、「これは公田である。売却すれば厚利を得られる」と。尚書屯田員外郎幸惟慶を遣わしてその事を領せしめ、凡そ売却銭三十五万余緡を得、詔して緡銭の三分の一を減じ、三年を期として償還を完了させた。監察御史朱諫は民を傷つけるとして、不可と為した。やがて期限が尽きたが、未償のもの尚十二万八千余緡あり、詔して悉くこれを蠲免した。後にまた詔して、公田で重複して賦を取るものは皆罷めしめた。天聖の時、貝州が言うには、「民が析居する者は例として税を加え、これを『罰税』と謂う。他州にこの比類なし」と。詔してこれを除いた。これより、州県に税の苛細で名目のないものがあると言えば、蠲損すること甚だ多かった。
唐以来、民は田に計って賦を輸納する外に、他の物を増取し、また折りて賦と為すことを「雑変」と謂い、また「沿納」とも謂う。而して名品煩雑細かく、その類一ならず。官司は歳毎に帳籍に附し、並びに縁って侵優し、民はこれを患とした。明道中、帝自ら籍田を耕し、因って詔して三司に類を以て並合せしむ。ここにおいて諸名品を悉く除き、併せて一物と為し、夏秋の歳入は、第に粗細二色に分け、百姓これを便とした。
州県の賦入には籍あり、歳毎に一たび置き、これを空行簿と謂い、歳中の催科を待つ。閏年には別に置き、これを実行簿と謂い、以て有司に蔵す。天聖初、或いは実行簿は無用であり、而して民銭を率いることは擾りであると言い、これを罷めた。景祐元年、侍御史韓瀆が言うには、「天下の賦入の繁雑なるは、ただ催科一簿を存するのみで、一旦散亡すれば、則ち耗登の数は鉤考するに従うところなし。請う、実行簿を復置せん」と。詔して再閏ごとに一たび造らしむ。慶暦中に至り旧に復す。
時に州県の賦役の煩わしさを患え、詔して諸路にその数を上らせ、二府の大臣をして合議して蠲減せしむ。また詔して曰く、「税籍に偽書・逃徙あり、或いは推割に因り、幸いに走移を用い、若しくは公田を請占して税を輸納せざるものあり。この類のもの、県令・佐能くその弊を究見し、以て賦入を増すならば、量数を議して賞すべし」と。既にして諫官王素が言うには、「天下の田賦は軽重等しからず、請う均定せん」と。而して欧陽修もまた言うには、「秘書丞孫琳は嘗て洺州肥郷県に往き、大理寺丞郭諮と千歩方田法を以て民田を括定せり。願わくは詔して二人を得てこれを任せしめよ」と。三司もまた然りと為し、且つ亳・寿・蔡・汝の四州において均しからざるものを択び均することを請う。ここにおいて諮を蔡州に遣わす。諮はまず一県を括り、田二万六千九百三十余頃を得、その賦を民に均した。既にして諮が言うには、州県に逃田多く、尽く括るべからずと。朝廷もまた人を労するを重んじ、遂に罷む。
陝西・河東で用兵あり、民賦は率多く支移し、因って地裏脚銭を増取し、民堪えられず。五年、詔して陝西は特これを蠲免し、且つ後は復た取らざるべしと令す。既にして詔して河東もまた然りとす。また諸路転運司に令して、「支移・折変は、前期半歳を以て榜に書いて民に諭し、未だ便ならざるものあれば自ら言うを聴き、主者がこれを裁すべし」と。皇祐中、詔して「広西の賦する布は、匹を銭二百と為す。聞くに有司が擅にその価を損じ、遠人を重く困らすと。宜しく令して旧に復すべし」と。州郡は歳毎に常に先ず雨足り年豊かなりと奏し、後たとえ災害あれども、敢えて上聞せず、故に民賦は稀に蠲免を得る者あり。乃ち詔を下してこれを申飭す。また開封諸県の田賦を損じ、旧額の十分の三と為し、法に著すことを命ず。
支移・折変は、貧弱者特にこれを患と為す。景祐初、嘗て詔して戸が第九等のものはこれを免じ、後に孤独戸もまた皆免ず。ここに至り、赦書を下すに因り、転運司に責めて裁損せしめ、歳終わりに条上せしむ。その後赦書数たびこれを以て言い、また折科を平估と為すことを令し、農を害すること毋からしむ。久しくして、復た詔して曰く、「聞くに諸路比来折科の民賦を言うに、多くは折ったものを復た他物に変え、或いはその直を増取り、良農を重く困らすと。屡々戒敕すれども、能く詔令を奉宣するもの莫し。今よりこのようなことあれば、州の長吏は即時に上聞せよ」と。然れども有司は聚斂を規り、稀に能く帝の意を承く。
初め、湖・広・閩・浙は旧制に因り歳毎に丁身銭米を斂め、大中祥符間、詔して丁銭を除くも、米の輸納は旧の如し。天聖中に至り、始めて婺・秀二州の丁銭を併せて除く。後に龐籍が漳・泉・興化軍の丁米を罷むるを請うも、有司が持して不可とす。皇祐三年、帝は三司に命じてまず郴永州・桂陽監の丁米を減じ、最も下る数一歳を基準とし、歳毎に十余万石を減ず。既にして漳・泉・興化もまた第にこれを損ず。嘉祐四年、復た転運司に命じて郴・永・桂陽・衡・道州の輸する丁米及び銭絹雑物を裁定せしめ、業なき者はこれを弛め、業ある者は半減せしむ。後たとえ進丁すれども、復た増取する勿れ。時に広南は猶或いは丁銭を輸す。また転運司に命じて条上せしむ。これより輸するもの幾ばくも無し。
郭諮の均税の法が罷めて以来、論者は朝廷は徒らに一時の労を恤みて、経遠の慮を失うと謂う。皇祐中に至り、天下の墾田は景德に比べて四十一万七千余頃増え、而るに歳入の九穀は乃ち七十一万八千余石減ず。蓋し田賦均しからざれば、その弊この如し。後に田京が滄州を知り、無棣の田を均し、蔡挺が博州を知り、聊城・高塘の田を均す。歳毎に賦する穀帛の類を増し、無棣は総べて一千一百五十二、聊城・高塘は総べて一万四千八百四十七。然れども滄州の民は便と為さず、詔して旧の如く輸納せしむ。嘉祐五年、復た均定を詔し、官を遣わして諸路に分行せしむ。而して秘書丞高本は遣中に在り、独り均すべからずと為し、僅かに数郡の田を均して止む。
景德中、賦入の数は総べて四千九百十六万九千九百。皇祐中に至り、四百四十一万八千六百六十五を増し、治平中、また一千四百十七万九千三百六十四を増す。その赦令を以て蠲除し民に便ならしむるもの、若しくは逃移・戸絶で追わざるものは、景德中総べて六百八十二万九千七百、皇祐中三十三万八千四百五十七、治平中一千二百二十九万八千七百。毎歳災害を以て蠲除するものは、またこれに在らず。
神宗は農賦に留意し、湖・広の民は旧来歳ごとに丁米を輸納していたが、大中祥符以後たびたび削減されたものの、なお均しからず。熙寧四年、屯田員外郎周之純を広東に派遣してこれを均すことを相度させた。元豊三年、詔して諸路の支移折税は、すべて施行した月日を具して中書に上奏せしむ、と。初め、熙寧八年、二税の支移を起納銭の半歳前に民に諭し、民に宿辦せしめ、倉卒の労費なからしむることを詔した。時に有司は往々にして期を緩めし故、これを申し約したのである。州県はまた或いは民に銭を輸納せしめ、これを「折斛銭」と称し、しかして糴賤は頗る農を傷つけるに用いられた。海南四州軍の税籍は残欠し、吏多くは増損し、輒く税を他戸に移し、代わって輸納する者は類く自ら明らかにする能わず。瓊州・昌化軍の丁税米は、歳ごとに朱崖軍に移輸し、道遠く、民以て苦しむと為す。ここに至り、体量安撫朱初平等の議を用い、四州軍の税賦旧額を根括し、その正数を存し、二州の丁税米はただ朱崖に銭を輸納して自ら糴することを令し、以て民に便ならしむ。
権発遣三司戸部判官李琮は逃絶税役を根究し、江・浙において得たる逃戸凡そ四十万一千三百余り、書を為してこれを上奏した。明年、琮を除して淮南転運副使と為す。両路凡そ逃絶・詭名挟佃・簿籍に載せず並びに闕丁を得ること凡そ四十七万五千九百余り、正税並びに積負凡そ九十二万二千二百貫・石・匹・両余り。琮は蓋し貫石万数を以て賞を立て、以て委せしむる所の吏を誘い、増加浩大、三路の民は大いにその害を被る。而して唐州もまた民賦を増し、人情騒然たり。六年、御史翟思言う、「初め、趙尚寛唐守たりし時、民を勧めて田を墾き、高賦これに継ぎ、流民自ら占むる者衆く、凡そ百畝に税四畝を起すのみ。税軽くして民楽しく輸納し、境内殆ど曠土無し。近く聞く、転運司土を辟き百畝を二十畝に増至すと、その勢い再び転徙を致すを恐る。望むらくは使者を戒飭し、量りに加うるに寛民を以てせしむべし」と。帝は毎に水旱に遇うや、輒ち賦租を軽く弛め、或いは赦宥に因り、又蠲放・倚閣未だ嘗て絶えず、賦輸遠方均しからざるは、皆使いを遣わしてこれを按じ、率ね以て常と為す。
哲宗嗣位し、宣仁太后同聴政し、務めて裕民の政を行い、凡そ民に負うる所あるは、多く寛減す。天下の積欠名目煩多、法令一ならざるを患え、王岩叟開封たりし時、等第に随い貫百を立てて催法と為すことを請う。兗州鄒令張文仲その不便を議し、遂に十分を率と為し、歳ごとに夏秋料に随い帯納一分せしむ、是れ五年十料の法なり。
陝西転運使呂太忠は農戸に支移を令し、斗ごとに脚銭十八を輸納せしむ。御史これを劾し、提刑司に下して体量せしめ、その軽重の等を均す。税賦戸籍第一等・第二等の者は三百里を支移し、三等・四等の者は二百里、五等は百里と為す。支移を願わずして道里脚価を輸納せんことを願う者は、亦酌度して三等に分ち、以てその便に従う。河東の軍糧草を助くるは、支移三百里を逾ゆること毋からしむ。災傷五分以上の者は折変を免じ、折変は皆旧法に循う。
紹聖中、嘗て郡県の貨物は足銭・省陌等しからず、折変は宜しく中等を用うべしと詔す。俄にして所在の時估実値多寡斉しからず、概ね立法し難しとし、命じて旧に仍らしむ。言者謂う、「民の流亡せざらんことを欲すれば、穀を多く積むに若かず、穀を多く積まんことを欲すれば、折納糶糴の法を行わしむるに若かず。今常平に折納の法有りと雖も、ただ中価を用うるのみ、故に民楽しく輸納せず。若し和糴に依り実価を以てこれを折すれば、則ち民に損無からん」と。
崇寧二年、諸路歳稔り、遂に増価折納の法を行い、支移・折変・科率・配買は皆熙寧法に従事し、民穀菽・物帛を以て積負零税を輸納する者はこれを聴す。大観二年詔す、「天下の租賦科撥支折は、当に富を先にし貧を後にし、近きより及び遠きべし。乃ち者漕臣職を失い、不均の患い有り、民或いは害を受けしむ、其れ令を定むべし。支移は本より辺餉を便ならしむるに在り、内郡は稀に用う。間に移用有るも、則ち民に所費多寡を以て自ら択ばしむ、故に或いは本色を支移の地に輸納し、或いは脚費を居る所の邑に輸納す。而して折変の法は、納月初旬の估中価を以て準折し、仍って歳の豊歉を視て以て物の低昂を定め、官吏をして軽重を私する毋からしむ」と。七月、詔して曰く、「比聞く、慢吏期を廃し、凡そ官に輸する物、期に違い限を促し、蚕者は未だ糸せず、農者は未だ獲ず、追胥旁午し、民措く所無し。今より前期に督輸する者は、一等を加えてこれを坐し、民をして逃徙せしむるに致らば、論を更加等すべし」と。旧来凡そ赦令を以て賦を蠲するは、多くと雖も三分を過ぎず。四年、乃ち詔す、天下の逋賦、五年外戸口存せざる者は、悉くこれを蠲す、と。
京西は旧来支移せず、崇寧中、将漕の者忽ち民に令して曰く、「支移は宜しく同くすべし、今特に免ず、若し地裏脚費は則ち宜しく輸納すべし」と。是より歳ごとに以て常と為す。脚費は、斗を銭五十六と為し、元豊に比すれば即ち正税の数に当たるに、而して反覆紐折し、数倍昔に於ける。民牛を鬻ぎ産を易うるに至り猶継ぐ能わず、転運司は乃ち是を以て辦理の誉を取るに用い、言者は極めてその害を論ず。政和元年、遂に応に支移すべくして輸納する所の地裏脚銭斗に及ばざる者は、これを免ずと詔す。尋いで五等戸税斗に及ばざる者は、支移皆免ずと詔す。
時に天下の戸口類多く実ならず、嘗て法を立て比較鉤考し、歳終にその数を会し、籍に按じて隠括脱漏し、賞罰の格を定むと雖も、然れども蔡攸等徳・霸二州の戸口の数を計るに、率ね三戸四口、則ち戸版訛隠、校ずるを待たずして知るべし。乃ち諸路に詔し、凡そ戸口を奏するは、提刑司及び提挙常平司に参考保奏せしむ。而して終にその弊を拯う能わず、故に租税も亦均しうるを得ず。
是の時、内外の費漸く以て給せず、中官楊戩後苑作を主り、汝州の地稻田と為すべき者ありと言う者有り、因りてその言を用い、務を置きこれを掌らしめ、「稻田務」と号す。復た府畿に行い、公田と易名す。南は襄・唐に及び、西は澠池に及び、北は大河を逾え、民田初券の歩畝に溢るる有る者は、輒ち公田銭を輸納せしむ。政和末、又営繕所を置き、亦公田と為す。久しきの後、後苑・営繕所の公田は皆西城所に併され、山東・河朔の天荒逃田と河堤退灘の租税を尽く挙げてこれに入れ、皆内侍その事を主る。括むる所田三万四千三百余頃と為し、民公田銭を輸納する外、正税復た能く輸納せず。
重和元年、献言者曰く、「物には豊匱有り、価には低昂有り、豊賤の物を估し、民をして輸送せしめ、折価既に賤ければ、官に輸する必ず多し、則ち公私の利なり。而して州県の吏は、ただ一方の乏する所を計り、物の有無を計らず、民に無き所を責め、その費無量。支移に至りては、豊を徙えて歉に就くは、理則ち宜しく然るべし。豪民賕吏、故に歉を徙えて豊に就き、軽貨を齎挟し、以て賤価を官に輸し、その利自ら倍す、而して貧下戸は各々支移を免れ、估值既に高く、更に脚費を益し、富戸に視て反って重し。これに因りて逋負し、追胥に困む」と。詔してこれを戒む。
宣和初年、州県の主吏が租税徴収の職務を怠り、滞納租税の数が広がったため、転運司に守貳の勤惰を監察させ、内侍省への専達を許した。浙西の逃田・天荒・草田・葑茭蕩・湖濼退灘などの地は、すべて帳簿に計上して小作を募り租額を定め、以て供奉に応じた。局を置き官を命じ、「措置水利農田」の名目があり、部使者は自ら御前租課を監督した。
三年、言者が西蜀の折科の弊害を論じ、その要旨は「西蜀では当初、税銭三百を絹一匹に折納し、草十囲を銭二十と計算した。今、本路では絹を本色を用いず、一匹を草百五十囲に折り、一囲を銭百五十と評価し、税銭三百を輸納するのに二十三貫に至る。東蜀も同様である。なお支移して新辺に送り、これを遠倉と称し、民で破産する者が多い」というものであった。七年、言者がまた論じて言うには「法に依らぬ折変は、既に絹を銭に折り、また銭を麦に折る。絹を銭と較べれば、銭は絹の倍であり、銭を麦と較べれば、麦は銭の倍である。展転して増加し、民は訴えるところがない」。
唐・鄧・襄・汝等の州は、治平以後、開墾が年々増加したが、未だ税額を定めていなかった。元豊年間、開墾した新田を差等して五等とし税を輸納させたが、元祐元年にこれを廃止した。大観三年、転運副使張徽言の請いに従い、元豊の旧制を復活させたが、まもなく訴える者がいたためまた廃止した。政和三年、転運使王璹がまた官が租賦を失っていると上言し、詔して元豊の法に依らせ、ただ現銭に折納させ、凡そ三十万緡を得た。欽宗が即位し、詔してこれを免除した。旧来の税租加耗には、転運司に拋樁明耗があり、州県に暗樁暗耗の名目があり、諸倉場が受納するに当たり、また民に頭子銭を輸納させた。熙寧以後、給与と納入の両方で収め、その数は益々増加したが、この時に至り悉く廃止した。
高宗建炎元年五月庚寅、二税ともに旧法に依ることを詔し、凡そ百姓の欠租・閣賦及び応天府の夏税は、悉くこれを免除した。庚子、虜掠を受けた家の夏秋租税及び科配を免除することを詔した。
紹興元年五月、詔して「民力久しく困窮し、州県がこれに縁って奸を行う。今、諸路に様式を頒布する。凡そ軍期のため已むを得ず民から借りるものは、併せて用いた多寡を計り、物力の軽重を推し量り、様式に依って開き具申し、民に通知させ、過剰に科率してはならない」とした。八月、大観の税額を三分の一に減じた。十一月、言者が論じて「浙西の科斂の害は、農民・商工業者が殆ど生きるに聊かならず。田を売って償おうとすれば受け取る者なく、これを棄てて逃れようとすれば妻子を質に入れる。上下互いに欺き、民は措く手足なし。利は貪吏に帰し、怨は陛下に帰す。願わくは科斂の罪を重くし、貪墨の刑を厳しくせられよ」。詔して漕司に実情を究明して上奏させた。二年正月、紹興府知事陳汝錫が詔に違って科率し、漳州に貶謫された。四月、建州の賊範汝為が平定され、詔して本路の今年の二税及び夏科役銭を免除した。既にして手詔して「訪聞するに州県が著令は三分を過ぎないと為すは、甚だ朕の恵恤の意に称するものにあらず、赦をもって併せて免ずべし」とした。十一月、州県の既に免除した税簿を焼き、民に疑いなきことを示した。五年二月、諸路転運司に增收した租数を戸部に上奏させ、賞罰を課した。
六年八月、江・浙の来年夏税の綢絹の半分を前借りし、全て米に折納させることとした。両浙の綢絹は各々七千に折り、江南は六千半、毎匹を米二石に折る。九月、右司諫王搢が言うには「諸寺院で資産の多いものは、貴臣に請い求めて墳院に改め、科敷を免れようとし、則ち科する所は下戸に帰する」。詔して戸部に厳禁を申し合わせさせた。十二月、詔して淮西の残破州県は更に租税を二年免除する。今月戊申、詔して曰く「朕惟うに養兵の費用は、皆民より取り、吾が民は甚だ苦しむ。而して吏はこれを恤れず、軍需に縁り、掊斂に藝なく、朕は甚だこれを悼む。監司郡守は、朕が委ね寄せて以て元元を恵養せしむる者なり。今、漫に省みず、また何をか頼まん。其れ各々乃ち職を勤め、民を侵漁し賄賂を納むる者を察し、按劾して奏聞せよ。苟くも庇い覆い治めざれば、朕は汝を貸さじ」。是歳、両浙転運使李迨が婺州・秀州・湖州・平江府の歳計の寛剩銭二十二万八千緡余りを取り、折帛銭の期限に依って起発させた。これより以後、例とした。
七年三月、詔して:駐蹕地及び経過した州県の紹興五年以前の税賦の滞納は、併せてこれを免除する。七月、詔して:新たに回復した州軍で官田を請け佃うものは、租を輸納する外、正税を輸納せず。(己の田を税と謂い、佃う田を租と謂う。旧来は併せて納めず、劉豫が嘗て併せて取り立てた。この時に至り、乃ち旧法に従う。)九年、新たに回復した州軍の税租及び土貢・大礼銀絹を三年、差徭を五年免除した。初め、劉豫の僭称の時、凡そ民間の蔬圃に皆三季に税を輸納させた。宣諭官方庭実がその不便を言い、起居舎人程克俊が言うには「河南の父老、豫の煩苛に苦しむこと久し。賦斂は絮縷に及び、割剝は果蔬に至る」。ここにおいて詔して新たに回復した州県に、劉豫の重斂の法を取って通衢で焼かせた。
十三年、淮東宣撫使韓世忠が賜田及び私産で昔より未納の税を併せて官に帰することを請う。詔して褒め諭しこれを許可した。初め、神武右軍統制張俊が所有する産の凡そ和買・科敷を免除することを乞う。詔して特にこれに従う。後、三省が言うには「国家兵革未だ息まず、用度甚だ広し。陛下元元を哀憫し、士大夫及び勲戚の家をして編戸と等しく敷かしむるは、蓋し民力を寛げ、有無を均しくせんと欲するなり。今、俊のみ免かるを得ば、則ち当に余りの戸に均すべく、是れ民をして俊に代わって輸納せしむるなり。方今大将は俊一人に止まらず、各々例に援りて免れを求めば、何を以てかこれを拒がん。願わくは前詔を収還せられん」。詔してこれに従う。数年を経て、俊がまた歳々の和買絹の輸納免除を乞う。三省は歳々俊に絹五千匹を賜い、例を起こさぬよう図ることを擬す。上はこれを俊に示し、因って諭して曰く「朕は固より惜しまぬが、但だ公議不可なるを恐る」。俊惶悚し、力を尽くして賜絹を辞す。
十五年、戸部が議して「法に準ずれば、官物を輸納するに四鈔を用いる。(戸鈔と曰い、民に付して執り憑とす。県鈔と曰い、県司に関して簿を銷す。監鈔と曰い、官に納めてこれを掌る。住鈔と曰い、倉庫にこれを蔵す。偽冒を防ぎ、毀失に備える所以なり。)県鈔を毀失した者は、監鈔・住鈔を以て銷鑿す。若し輒く戸鈔を取り、或いは人戸に追って験する者は、杖刑に処す」。
二十三年、池州知事黄子遊が言うには「青陽県の苗米は諸県の七八倍である。南唐が嘗て県を宋斉丘の食邑と為し、一畝に三斗を輸納させたため、後遂にこれを額と為した」。詔して苗税を二分半、租米を二分減ず。この時、両浙の州県が合せて輸納すべき綿・綢・税絹・茶絹・雑銭・米の六色は、皆市価を以て銭に折り、却って別に米麦を科し、一畝に四五斗を輸納するものあり。京西は田を括り、租は旧より増す。湖南には土戸銭・折絁銭・醋息銭・曲引銭あり、名色一ならず。荊南の戸口十万、寇乱以来、幾ばくも人跡無し。議者は朝廷の意を希い、流民既に復したと謂い、歳々十二を輸納させしむべく、頻年にわたり復た増加し、積もる滞納は二十余万緡に至る。曹泳が戸部侍郎となり、償還を甚だ急に責む。蓋し檜が再び相となってより、密かに諸路に諭して暗に民税を七八分増加させた故に、民力重く困り、餓死者多く、皆檜の為す所なり。
二十六年、先に承議郎魯衝が上書して郡邑の弊を論じた。「臣が前任の宜興県一県を以て言えば、漕計の合収窠名に、丁塩・坊場課利銭・租地銭・租絲租紵銭があり、歳入は一万五千余緡に過ぎない。その発納の数は、大軍銭・上供銭・糴本銭・造船銭・軍器物料銭・天申節銀絹銭の類があり、歳支は三万四千余緡に止まらない。また現任・寄居官の請奉、往来官兵の批券、及び非泛の州郡督索拖欠があり、虚日略無し。今の令たる者、苟も寛恤を意とし、而して拙く催科に在れば、旋踵して以て不職を以て罷められ、能く上司に迎合し、惨刻聚斂すれば、則ち以て称職と聞こえる。是れ令たる者をして惴惴として惟れ財賦を念うのみならしめ、朝に夕を謀わず、亦何ぞ暇あらんや陛下が寛恤の詔書を奉行し、流れを承け化を宣べんとするに。」吏部侍郎許興古が議す。「今銓曹に知県・令二百余闕有り、願就く者無し、正に財賦の督迫に縁りて罪せられ、以て畏避する所以此の如し。若し羨余を献ずるを罷め、民の積欠を蠲免し、謹んで守臣を択び、監司を戒飭せば、則ち吏称し民安んず。」乃ち詔して之を行わしむ。
二十九年、上江西の盗賊を聞き、輔臣に謂いて曰く、「徭役を軽くし賦税を薄くするは、盗賊を息ます所以なり。歳の水旱は、免れざる所なり、儻も寛恤せずして惟務として科督すれば、豈に民をして盗たらざらしむるの意ならんや。」是に於て諸路州県に詔し、紹興二十七年以前の積欠官銭三百九十七万余緡及び四等以下の官欠を悉く除く。九月、詔す。両浙・江東西水害、浙東・江東西螟害有り、其の租税を尽く蠲免す。是より水旱・兵乱を経るに当たり、時に蠲減有り、尽く書さず。
三十二年六月戊寅、孝宗受禅の赦。「凡そ官司の債負・房賃・租賦・和買・役銭及び坊場・河渡等の銭は、紹興三十年以前より並びに之を除く。諸路或いは貢奉を仮り名と為し、民利を漁奪し、所在の居民をして土物を苦しむる有らしむ、太上皇帝已に嘗て詔を降して禁約す。今より州軍条上の土貢の物は、当に天地・祖宗の陵寝薦献及び徳寿宮甘旨の奉を参酌し議し、長吏の修貢を許すのみとし、其の余は並びに罷む。州県因縁して多取するは、違制を以て之を坐す。」七月、諸県民の已に輸する税租等の鈔を受けて、即時に簿を銷さざるは、当職官吏並びに科罪す。民戸鈔を齎して使わず、而して重輸を抑令するは、違制を以て論じ、赦を以て免せず、令と為す。八月、詔す。「州県秋苗を受納するに、官吏多く加耗を収め、奸欺を肆にす。方今艱虞の時、用度未だ足らず、常賦を減ぜんと欲して能わざるに、豈に貪贓の徒をして重ねて民の蠹と為らしむるを忍びんや。今より違犯の官吏は、並びに重典を置き、仍て其の家を没す。」(此れ孝宗の初詔なり。)
先に、常州宜興県に税産無き百姓は、丁毎に塩銭二百文を輸す。下戸に墓地有る者は、之を墓戸と謂い、経界の時に均しく正税に紐付け、又た丁塩絹を帯輸して折帛銭と作す。隆興元年に至り、始めて知県薑詔の言を用い、晋陵・武進・無錫の三県と一例に随産均輸せしむ。二年四月、知贛州趙公称、寛剩銭十万緡を以て民に代わり夏税を輸す。是より後、守臣時に代輸する者有り。五月、詔す。「温州・台州・処州・徽州は水路通ぜず、其の二税の物帛は、折法に依り銀を以て折輸するを許す。数外妄りに科折有るは、贓を計りて罪を定む。」
乾道元年、興化軍の「猶剩米」の半ばを蠲免す。(知軍張允蹈の言「建炎三年より、本軍の秋税は、歳に軍儲を余す外、猶剩米二万四千四百余石有り、福州に供給し、之を『猶剩米』と謂う。四十年間、水旱相仍ぎ、復た減損せず」に因る故に是の命有り。八年に至り、乃ち其の半ばを併せて蠲免す。)三年六月、臨安府新城県の進際税賦の半ばを減ず。知県耿秉の言、曩に銭氏進際を以て名と為し、虚額太重き故なり。十有一月、臨安府属県の乾道元年の二税・坊場課利・折帛・免丁等銭の欠を蠲免す。七年、敕令所『輸苗乞取法』を修す。(受納官は犯人に比し一等を減じ、州県長官不覚察は之と同罪。)及び上三等及び形勢戸の逋賦は、赦に遇うと雖も除かず。八年、紹興府の増起苗米四万九千余石を蠲免す。
淳熙三年、臣僚言す。「湖北の百姓官田を広く占め、量りて常賦を輸すは、過優の似く、比の議者実を従い起税し而して陳首の門を開かんと欲す。殊に思わざるは、朝廷往年経界するも、独り両淮・京西・湖北は旧に依る。蓋し四路辺に被り、土広く人稀にして、之を誘いて耕さしむるも、猶お至らざるを懼る。若し畝を履みて税せば、孰か肯て遠く徙り力耕して、以て公上の賦を供せんや。今湖北は惟だ鼎州・澧州は湖南に地接し、墾田稍く多し。荊南・安州・復州・岳州・鄂州・漢陽軍・沔州より汚萊弥望し、戸口稀少にして、且つ皆江南狭郷の百姓、老を扶け幼を携え、遠く来り佃請す。田畝寛にして税賦軽きを以てなり。若し議者の言に従わば、恐らくは公家に一毫の益無く、而して良民に無窮の擾り有らん。臣の見る所に如くは、且つ開耕を以て誘うべく、増税を以て恐るべからず。田疇尽く辟け、歳収滋に広く、一たび豊稔に遇い、平糴を以て辺を実にすれば、則ち省く所の漕運亦博し。其の紹興十六年の詔旨に依り、十分を率と為し、年一分を増輸し、開墾を願わざるは、即ち田を退け別に佃するを許さんことを望む。期限稍く寛にし、之を取るに漸を以てすれば、遠民業に安んじ、一路幸甚なり。」詔して戸部に之を議せしむ。
四年、臣僚言す。「屡赦して積欠を蠲し、以て疲民を蘇らす。州県徳意を仰承すること能わず、名色を変易して以て之を取るに至る。宜しく漕司に下し、除くに合する者は更に州より之を取ること無く、州は県より之を取ること無く、県は民の欠籍を銷し、其の名数を書し、民に通知せしむべし。」詔して可とす。五年八月、詔して曰く。「比年以来、五穀屡登し、蚕絲箱に盈つ。嘉く海内と共に阜康の楽を享けんとす。尚お耕夫蚕婦の終歳勤動し、価賤にして其の労に償わざるを念う。郡邑の両税は、折帛・折変を除きて自ら常制有り、正色を輸すべきは、重価を以て強いて之を銭に折ること無かれ。若し故違有るは、重く法に置く。臨安府に刻石し、遍く諸路に賜う。」六年、諫議大夫謝廓然の言「州県違法に科斂し、侵漁日甚だし。其の咎は県令に在ると雖も、督迫は実に郡守に由る。県令は按劾せられ、而して郡守は自如たり。」に因り、詔す。「今より凡そ過需横取有るは、監司悉く行い按劾し、小に詳にして大を略むること無かれ。」
七年の夏、大旱あり。南康軍知軍の朱熹、詔に応じて封事を上りて言う、「今、民間の二税の収入は、朝廷これを尽く取りて軍に供す。州県には復た贏餘なく、ここに別に名色を立てて巧みに取る。今、民貧しく賦重し。惟だ兵籍を核し、屯田を広め、民兵を練るのみ、以て漸く列屯坐食の兵を省き、稍く州郡の供軍の数を損ずべし。州県の力を浸く紓かにして、然る後に其の苛斂を禁じ、其の寬恤を責め、庶幾くは窮困の民生業を保ち、流移漂蕩の患無からしむべし」と。八年、詔して監司・太守に、所部の催科擾さざる者を察してこれを薦げ、煩擾民を害する者を劾せしむ。十一年、戸部奏す、「諸路州軍の旱傷米数を檢放すること近く六十萬石に及ぶ」と。上、王淮に諭して曰く、「若し尽く實を核せしむれば、恐らく他年郡縣疑ひを懷き、復た檢放せざらん。惟だ寧國の數最も多し。漕司に實を核せしめてこれを蠲すべし」と。
紹熙元年、臣僚言う、「古は賦租は民の所有する所より出で、其の無き所を強ひず。今の絹を為す者は、一倍折して錢と為し、再倍折して銀と為す。銀愈よ貴く、錢愈よ得難く、穀愈よ售げ難し。民をして賤く糶きて貴く折せしむれば、則ち大熟の歲かへりて民の害と為らん。願くは州郡に詔して、凡そ多く取りて多く折する者を、重く罰に置き、民に糶げて售げざる者有らば、常平をして就きて糴かしめ、異時に歲歉なれば、平價を以て糶かしむ。庶幾くは民に傷無く、國に補有らん」と。詔してこれに從ふ。
秘書監の楊萬里奏す、「民、粟を官に輸するを苗と謂ふ。舊は一斛を以て一斛を輸す。今は二斛を以て一斛を輸す。帛を官に輸するを稅と謂ふ。舊は正絹を以て稅絹と為す。今は正絹の外に和買有り。舊は和買官其の直を給し、或は錢を以てし、或は鹽を以てす。今は皆之無し。又絹の直を估して其の錢を倍折す。舊は稅畝一錢を輸して免役一錢を輸す。今は歲に其の額を增し、止む所を知らず。既に其の粟を一倍し、其の帛を數倍し、又其の錢を數倍す。而して又月樁錢・版帳錢有り。祖宗の舊に幾倍するかを知らず、又漢・唐の制に幾倍するかを知らんや。此れ猶ほ東南の賦の知るべきなり。蜀の賦の額外無名なるに至りては、知るを得ざるなり。陛下、賦斂を薄くせんと欲せば、當に用度を節すべし。用節して然る後に財積む可く、財積して然る後に國足る可く、國足して然る後に賦減ず可く、賦減して然る後に民富む可く、民富して然る後に邦寧かなる可し。然らずんば、日を復たし、歲を復たし、臣其の終る所を知らず」と。(時に金主璟新たに立ち、萬里、使客を淮に迓ふ。其の民間の房園地基錢を蠲し、鄉村の官酒坊を罷め、鹽價を減じ、田租を除くを聞く。虛譽の吾が境に達するを以て、故に轉對に因りて是の言有り。)
二年、詔して曰く、「朕惟ふに、政を為すの道は、民を養ふに先んずるは莫し。故に即位以来、甚だしき賦を蠲除し、寬條を頒宣し、嘉して四方と安富に臻らしむ。郡守・縣令は、最も民に近き者なり。誠に能く拊循惠愛して、休德を承けば、庶幾くは政平訟理の效あらん。今、人言を采るに、乃ち科斂を先期し、競ひて務めて辦集し、而して民の虛實を問はず、追呼相継ぎ、敢へて椎剝を為し、而して民の安否を恤はざるを聞く。財計の外、治理蔑聞す。甚だ朕が委屬の意に稱せず。國用常有り。固より經理に在り。而して掊克督趣を以て能と為すに非ざるなり。本末先後の誼を知るは、此れ朕が守令に貴ぶ所なり。今より繼ぎて軫恤を心とし、牧養を務とし、民をして安業せしめよ。時に予汝を嘉す」と。
慶元二年、詔して浙江東・西の夏稅・和買綢絹並びに紹興十六年の詔旨に依り折納せしむ。(紹興十六年の詔旨:絹は三分を錢に折し、七分を本色とす。綢は八分を錢に折し、二分を本色とす。)
嘉熙二年、臣僚言う、「陛下、大寶に登りて以来、賦を蠲するの詔、歲として之無きは無し。而して百姓未だ實惠に沾はず。蓋し民の輸率は先期して吏胥・攬戶に歸し、詔の下るに遇ふに及んで、則ち放つ所は吏胥の物、倚閣する所は攬戶の錢なり。是を以て寬恤の詔頒ると雖も、愁歎の聲舊の如し。嘗て漢史の民を恤ふの詔を覺ゆるに、多く明年の田租を減ず。今宜しく漢の故事に倣ひ、朝廷大惠を行ふに遇はば、則ち今年を以て詔を下し、明年租を減じ、民に先づ減數を知らしめば、則ち吏欺くに難く、民實賜を拜せん」と。これに從ふ。
淳祐八年、監察御史兼崇政殿說書の陳求魯奏す、「本朝は仁政餘り有りて、而して王制未だ備はらず。今の兩稅は、本より大曆の弊法なり。常賦の入尚ほ病と為る。況んや預借をや。預借一歲未だ已まず、再に至り、三に至る。預借三歲未だ已まず、四に至り、五に至る。竊かに聞く、今の州縣に、淳祐十四年を借る者有りと。百畝の家を以て之を計れば、其の永業を罄くすも、豈に數年の借を支ふるに足らんや。操縱は權宜より出で、官吏以て簸弄を得、上下姦を為し、公私俱に困す。臣愚謂ふ、今日の弊を救ふの策、其の大端四つ有り。宜しく夏侯太初の州郡を並省するの議を采り、縣令をして直に朝廷に達するを得しむべし。宋の元嘉六年を斷と為すの法を用ひ、縣令をして撫字に心を究むるを得しむべし。藝祖の朝紳を出して令と為すの典を法とし、以て其の權を重くすべし。光武の卓茂を擢て三公と為すの意に遵ひ、以て其の氣を激すべし。然る後に之が爲に其の經界を正し、其の版籍を明かにし、其の妄費を約し、其の橫斂を裁せば、則ち預借革む可く、民瘼瘳ゆる有らん」と。
咸淳十年、侍御史の陳堅・殿中侍御史の陳過等奏す、「今、東南の民力竭き、西北の邊患棘し。諸葛亮の所謂る危急存亡の時なり。而して邸第戚畹・御前寺觀は、田阡陌に連なり、亡慮數千萬計す。皆巧みに名色を立て、盡く二稅を蠲す。州縣は興に乏し、黎庶を鞭撻し、妻を鬻ぎ子を賣る。而して鍾鳴鼎食の家は、蒼頭廬兒、漿酒藿肉す。琳宮梵宇の流は、安居暇食し、死生に優遊す。安平無事の時猶ほ且つ不可なり。而るに況んや艱難多事の際をや。今、邊患を寬めんと欲せば、當に民力を紓くすべし。民力を紓くさんと欲せば、當に州縣を紓くすべし。則ち邸第・寺觀の常賦は、姑息して厘正を加へざる可からず。望むらくは二三大臣と亟に議して之を行はん」と。詔して可とす。
建炎二年、初めて鈔旁定帖錢を復し、諸路の提刑司にこれを掌らしむ。紹興二年、詔して券旁を偽造する者並びに軍法に依らしむ。五年三月、詔して諸州の勘合錢貫十文足を収む。勘合錢は、即ち所謂る鈔旁定帖錢なり。初め諸州の通判に田宅契紙を印賣せしめ、今より民間田を爭ふに、白契を執る者は用ふる勿れとす。十有一月、調度足らざるを以て、詔して諸路州縣に戶帖を出賣せしめ、民に田宅の數を具へて其の直を輸せしむ。既にして苛擾稽緩を以て、乃ち價を立つ。凡そ坊郭鄉村の出等戶は皆三十千、鄉村五等・坊郭九等戶は皆一千、凡そ六等とす。惟だ閩・廣の下戶は差減す。期三月足して行在に輸送せしむ。旱傷四分以上に及ぶ者は旨を聽く。
三十一年、先に、諸州の人戸が田宅を売買する契税銭の収める窠名は、七分が経・総制銭に隷属し、三分が係省に属していた。至るに、総領四川財賦の王之望が言上し、本所の措置に従って拘収し、以て軍用に供することを請うた。詔してこれに従う。凡そ嫁資・遺囑及び民間の葬地は、皆な契を投じて納税することを命じ、一年中に銭四百六十七万余引を得た。而して極辺の捐ねる八郡及び盧・夔等の未輸の十九郡はこれに与からず。乾道五年、戸部尚書曾懷が言う、「四川は限を立てて銭数百万緡を拘め、婺州もまた銭三十余万緡を得る。他路は恬として意を加えず。」詔す、「百姓の白契は、三月を期として自ら陳じ、再び百日を期として税を輸すべし。通判は総制帳に拘入す。輸送して十一万緡に及ぶ者は、知・通を推賞す。期に違いて首せず、及び銭を輸するに期に違う者は、人をして告げしむべし。律の如く論ず。」淳熙六年、敕令所が『重修淳熙法』を進む。舟・驢・駝・馬の契書の税を収むるあり。帝、これを刪するを命じ、曰く、「後世に舟車に算するの言有らんことを恐る。」
建炎三年、張浚が川・陝を節制し、制を承けて同主管川秦茶馬の趙開を以て随軍転運使と為し、四川財賦を総領せしむ。蜀に西師有るより、益・利諸司は已に便宜を以て三路の上供銭を截断せり。(川峽の布絹の陝西・河東・京西に給する者。)四年秋、遂に尽く元豊以来諸路常平司の坊場銭を起こす。(元豊以来封樁する者。)次に激賞絹を科す。(是の年初めて三十三万匹を科し、辺事寧んずるを俟ちて即ち罷む。紹興十六年、利・夔三万匹を減じ、惟だ東・西川三十万匹は今に至るも減ぜず。)次に奇零絹估銭。(即ち上三路の綱なり。歳三十万匹。西川は匹ごとに十一引を理め、東川は十引。紹興二十五年より慶元初に至るまで、両川並びに六引に減ず。)次に布估銭。(成都崇慶府・彭漢邛州・永康六郡、天聖間より、官は三百銭を以て布一匹を市い、民甚だこれを便とす。後に復た銭を与えず。至るに、宣撫司また民に匹ごとに估銭三引を輸せしむ。歳七十余万匹、銭二百余万引と為す。慶元初、累減して一百三十余万引に至る。)次に常平司の積年の本息。(此れ熙寧・元豊以来所謂青苗銭なる者。建炎元年、駕部員外郎喻汝礪を遣わして括りて八百余万緡を得。至るに、取りて以て軍を贍す。)次に対糴米。(戸当に税百石を輸すべくば、則ちまた糴百石を科す。故に之を対糴と謂う。)及び他の名色銭。(酒・塩等の如し。)大抵先朝の常賦の外、歳に銭二千六十八万緡を増す。而して茶は預からず。是より軍儲稍く充ち、而して蜀民始めて困す。
紹興五年、張浚召されて尚書右僕射に拝せられ、席益を以て四川安撫制置大使と為し、趙開を以て四川都転運使と為す。益頗る軍期銭を侵用す。開、朝に訴う。又数え銭引を増し、而して軍計猶お給せず。六年、龍図閣直学士李迨を以て開に代わり都転運使と為す。都官員外郎馮康国言う、「四川は地狭く民貧し。祖宗の時、正税重き者は折科稍く軽く、正税軽き者は折科稍く重し。二者平準して、以て偏重偏軽の患無し。百有余年、民甚だ之に安んず。近年、漕・総二司輒ち旧法を更え、反覆紐折し、数えを取るに務めて多し。民の業を棄て逃移するを致す。望むらくは並びに之を罷め、一に旧制に遵わん。」詔して請う所の如くし、憲臣に其の法の如からざる者を察せしむ。
七年三月、李迨、贍軍銭糧を以て四路の漕臣に分認せしむ。而して榷茶銭を用いず。蜀人、是と為さず。九月、張浚罷む。趙鼎、尚書左僕射と為る。十有一月、直秘閣張深を以て四川茶馬を主管せしむ。李迨、祠を請う。八年二月、張深及び宣撫司参議官陳遠猷を命じて並びに四川転運副使を兼ねしむ。席益、憂いを以て去る。枢密直学士胡世将、之に代わる。十月、趙鼎罷む。秦檜独り相と為る。九年、和議成る。簽書枢密院事楼炤、陝西を宣諭して還り、金四千両・銀二十万両を激賞庫に輸す。皆な蜀より取る者なり。会うに呉玠卒す。胡世将を以て宣撫副使と為し、吏部尚書張燾を以て成都府を知り兼ねて本路安撫使と為す。上、輔臣に諭して曰く、「張燾に便宜を付すべし。如し四川の前日の横斂は、宜しく令して減じ以て民を紓すべし。」成都の帥が民事を行うは、張燾より始まる。胡世将奏して宣撫司参議官井度を以て四川転運副使を兼ねしむ。
十一年正月、趙開卒す。金人の陝・蜀を犯すより、趙開饋餉を職とすること十年、軍用乏しきこと無し。一時之に頼る。其の後計臣屡く易わるも、趙開の経画に於いて敢えて変更する者無し。然れども茶・塩・榷酤・奇零絹布の征は、是より蜀の常賦と為り、屡く蠲減を経るも害去らず。議者開の俑を作すを咎めざる能わず。
十月、鄭剛中、川陝宣諭使と為る。十二年、胡世将卒す。宣撫使に改む。十三年、鄭剛中、黄金一万両を献ず。十五年正月、鄭剛中、成都路の対糴米を三分の一減ずるを奏す。四月、四川都転運使を省き、其の事を宣撫司に帰す。鄭剛中尋で事を以て秦檜に忤う。是に於いて四川総領所銭糧官を置き、太府少卿趙不棄を以て之と為す。又命を改めて趙不棄に四川宣撫司銭糧を総領せしむ。十六年、鄭剛中、両川の米脚銭三十二万緡、激賞絹二万匹を減ずるを奏し、創増の酒銭三万四千緡を免ず。四川総制銭五十万緡を以て辺費に充つ。十七年、戸部員外郎符行中を以て四川宣撫司銭糧を総領せしめ、鄭剛中を行在に赴かしむ。趙不棄、権工部侍郎と為り、成都府を知る李璆、権四川宣撫司事と為る。
先に、鄭剛中奏す、「本司旧に備辺歳入銭引五百八十一万五千道を貯う。如し撥きて歳計に供せば、即ち增添に対減し、民力を寛省すべし。」詔して李璆・符行中に参酌減放せしむ。是に於いて四川の科敷虚額銭歳二百八十五万緡、両川布估銭三十六万五千緡、夔路塩銭七万六千緡、坊場・河度の浄利抽貫税銭四万六千余緡を減じ、又両川米脚銭四十二万緡を減ず。時に宣撫司降賜庫に米一百万石を貯う。乃ち符行中に命じて酌度し対糴の分数を均減せしむ。
十八年、四川宣撫司を罷め、李璆を四川安撫製置使兼知成都府とし、太府少卿汪召嗣に四川の財賦・軍馬・錢糧を総領せしむ。宣撫司の降賜庫錢は、製置司が二十萬緡を取撥するほかは、残りを総領所に貯蔵せしむ。二十二年、総領所が諸路の紹興十七年以前の折估糴本等錢一百二十九萬餘緡、米九萬八千七百餘石、綾・絹一萬四千餘匹の欠損を免除すべしと奏す。先に、講和以来、歳額錢四百六十二萬緡有奇を減じたが、朝廷はなお重しとす。二十四年、戸部員外郎鍾世明を遣わし、四川の製置・総領両司とともに裕民の措置を講ぜしむ。二十五年、符行中らの言により、両川の絹估錢二十八萬緡、潼川府の秋稅腳錢四萬緡、利路の科斛腳錢十二萬緡、両川の米腳錢四十萬緡、鹽酒重額錢七十四萬緡、激賞絹九千餘匹、合計一百六十餘萬緡を減じ、州縣の紹興十九年より二十三年に至る折估糴本等の逋欠二百九十二萬緡を免除す。
是の時、朝廷は民の旧逋を免除したが、符行中の督責はなお峻しく、蜀人はこれを怨む。ここにおいて蕭振を四川安撫製置使兼知成都府とし、行中を提挙江州太平興國宮に転ず。二十六年、上は蜀民の供億に久しく困窮するを以て、製置蕭振・総領湯允恭・主管茶馬李澗・成都轉運判官許尹・潼川轉運判官王之望に寬恤の措置を講ぜしめ、ここにおいて之望が四川の上供の半を減ずるを奏す。二十七年、蕭振らの言を用い、三川の對糴米十六萬九千餘石、夔路の激賞絹五萬匹、両川の絹估錢二十八萬緡有奇、潼川・成都の奇零折帛匹一千を減じ、また韓球の増額せし茶額四百六十二萬餘斤、茶司の引息虚額錢歳九十五萬餘緡を減ず。
初め、利州の旧宣撫司に積緡二百萬あり、守者が密かにこれを朝廷に献じ、製置司に下して取撥せしむ。振曰く、「これは水旱・軍旅に備えるものなり、一旦急あれば、また民に取らんとするか。その半を留めんことを請う」と。是歳、振卒し、李文會これに代わる。二十八年、文會卒し、中書舍人王剛中これに代わる。二十九年、四川の折估糴本積欠錢三百四十萬緡を免除す。
乾道二年、奇欠白稅契錢三十七萬餘緡を免除す。三年、川・秦の茶馬両司の紹興十九年より三十二年に至る州縣の侵用及び民の積欠六十六萬四千九百餘緡を免除す。四年、また詔す、四川諸州の紹興三十一年より隆興二年に至る瞻軍諸窠名錢物、及び退剝虧分の数、並びに漏底折欠等錢は、ことごとくこれを免除す。成都の人戶の理運對糴米腳錢三十五萬緡を免除す。淳熙十六年詔す、「四川が歳に湖・廣総領所に発する綱運百三十五萬六千餘貫は、来年より始め、三年を免ず。まさに鹽酒の額を對減するを議し、製置・総領は諸路の轉運・提刑司とともに條上すべし。その湖・廣の歳計は、朝廷まさに自らこれを給すべし」と。
紹熙三年、潼川府の去年水害を受けたる州縣の租稅を免除し、資・普・榮・敘州及び富順監の夏輸もまたこれに同じ。尋いでまた詔す、「本路の旱傷州縣の租稅は、官これを代輸し、及び民の既に輸したる者は、ことごとく今年の数に理ずべし」と。四年、紹熙三年の成都・潼川両路の奇零絹估錢引四十七萬一千四百五十餘道、潼川府の激賞絹一十六萬六千九百七十五匹を免除す。また詔す、四川州縣の鹽・酒課額は、来年より更に三年を放免す、と。
嘉定七年、再び四川州縣の鹽・酒課額を三年免除し、その湖・廣総領所に輸すべき綱運もまた三年を免ず。十一年、天水軍の今年の租役差科を免除し、西和州は十の七を免じ、成州は十の六を免じ、將利・河池の両縣は各々十の五を免ず。兵乱を経たるによるなり。