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宋史
志第一百二十六 食貨上一
◎食貨上一(農田)
昔し武王が商を克ち、箕子に治道を訪ねしに、箕子はこれが為に『洪範』九疇を陳べ、五行五事の次第に即いて曰く「農用八政」と。八政の条目は、即ち食貨を以て先とす。五行は天道なり、五事は人道なり。天人の道治まりて、国家の政興る。是故に食貨以下、五卿の職備は挙げて是に在り。宗伯は邦礼を掌る、祀には必ず食貨有りて後に儀物備わり、賓には必ず食貨有りて後に委積豊かなり。司空は邦土を掌る、民は必ず食貨有りて後に厥の居に奠まるべし。司徒は邦教を掌る、民は必ず食貨有りて後に礼義に興るべし。司寇は邦禁を掌る、民は必ず食貨有りて後に刑罰を遠ざかるべし。司馬は邦政を掌る、兵は必ず食貨有りて後に征戍に用うるべし。其の「農用八政」と曰うは、農は食貨の本なり。唐の杜佑『通典』を作すに、首に食貨を立てて先ず田制を論ず、其れ能く『洪範』八政の意を推本するか。
宋は唐・五代の後に承け、太祖興り、諸国を削平し、藩鎮の留州の法を除きて、粟帛銭幣咸く王畿に聚まる。守令の農を勧むる条を厳にし、而して稻・粱・桑・枲務めて地力を尽くす。太宗に至り、国用殷実にして、軽賦薄斂の制、日と群臣に講求して之を行ふ。真宗に伝はり、内には升中告成の事挙がり、外には和戎安辺の事滋く、是に由りて食貨の議、日一日と盛んとなる。仁宗の世、契丹は幣を増し、夏国は賜を増し、兵を両陲に養ひ、費累百万。然れども帝の性恭儉寡欲なれば、故に民を取るの制、掊克に至らず。神宗は中国の威を伸べ、前代の弊を革めんと欲し、王安石の流れ進みて其の強兵富国の術を售り、而して青苗・保甲の令行はれ、民始めて其の害に罹る。哲宗元祐の更化に、斯の民稍く休息を望む。紹聖而後、章惇紹述の謀を倡へ、秕政復た作る。徽宗既に立ち、蔡京は豊亨豫大の言を為し、苛征暴斂、以て多欲を済し、自ら禍敗を速ぬ。高宗南渡し、旧物の半を失へども、猶ほ東南地産の饒を席にし、以て国を裕かにするに足る。然れども百五十年の間、公私粗く給するのみ。
其の祖宗の国を立つる初意を考ふるに、忠厚仁恕を基とす。向ひに使ひ其の為す所を究め、勉めて王道に進まば、亦た孰れか能く之を禦がんや。然れども終に宋の世、国を享くること長からずとせず。其の租税征榷、規撫節目、煩簡疎密、大いに前世に異なること無し。何ぞや。内には則ち繁文に牽かれ、外には則ち強敵に撓まされ、供億既に多し、調度継がず、勢ひ已むを得ず、民に徴求す。国を謀る者其の間に処り、又多く異を伐ちて同を党とし、動き易くして軽々に変ず。深く知らず、大国の用を制するは、巨商の財を理むるが如く、近效を求めずして遠利を貴ぶと。宋の臣、一事の行はるるに、初議審ならず、行ふこと未だ幾ばくもあらずして、既に区区然として其の失得を較べ、尋いで議して廃格す。後の議ふ所、前に愈れること有ること無く、其の後数人者、又復た前に如く之を訾る。上の君たる者をして適従する所莫からしめ、下の民たる者をして守るに自信無からしむ。因革紛紜、是非貿乱し、而して事弊日を以て甚だしきに益す。世に儒者の論議は事功に多しと謂ふ、若し宋人の食貨を言ふや、大率然り。又た漢の文・景の殷富は、黄・老の清静に得たりと謂ふ。黄・老の学を為す者は、大いに紛更を忌む。宋の法果たして然る能はんや。時に古今有り、世に升降有り、天地の財を生ずるは、其の数限り有り、国家の財を用ふるは、其の端窮まり無し。一に帰すれば、則ち「之を生ずる者衆く、之を食らふ者寡く、之を為す者疾く、之を用ふる者舒かなる」の外、他に技無きなり。
宋の旧史、食貨の法を誌すに、或いは驟に試みて輒ち已み、或いは亟に言ひて未だ行はれず。之を仍ねば則ち徒らに篇帙を重くし、之を約すれば則ち其の始末を見ず。姑く其の泰甚なるを去り、而して存す可きは鑒と為すべき者を存す。篇次を離ちて上下と為す。其の一は農田と曰ひ、二は方田と曰ひ、三は賦税と曰ひ、四は布帛と曰ひ、五は和糴と曰ひ、六は漕運と曰ひ、七は屯田と曰ひ、八は常平義倉と曰ひ、九は課役と曰ひ、十は振恤と曰ふ。或いは出で或いは入り、動もすれば民生に関はる。国は民を以て本と為す、故に之を上篇に列す。其の一は会計と曰ひ、二は銅鉄銭と曰ひ、三は会子と曰ひ、四は塩と曰ひ、五は茶と曰ひ、六は酒と曰ひ、七は坑冶と曰ひ、八は礬と曰ひ、九は商税と曰ひ、十は市易と曰ひ、十一は均輸と曰ひ、十二は互市舶法と曰ふ。或いは損じ或いは益し、国体に係る有り。国は利を以て利と為さず、故に之を下篇に列す。各其の事を疏し、二十有二目、通じて十有四巻と為す。
農田の制、五代より兵戦を務と為すを以て、条章多く闕く。周の世宗始めて使を遣はし諸州の民田を均しく括す。太祖即位し、其の法を用ひ循ふ。建隆以来、官を命じ分ちて諸道に詣り田を均くす。苛暴にして実を失ふ者は輒ち譴黜す。周の顕徳三年の令を申明し、民に課して樹を種へしむ。民籍を定めて五等と為し、第一等は雑樹百を種へ、毎等二十を減じて差と為し、桑棗は其の半とす。男女十歳以上は韭一畦を種へ、闊は一步、長さ十歩。井に乏しき者は、鄰伍之を鑿るを為す。令・佐は春秋巡視し、其の数を書す。秩満すれば、其の課を第して殿最と為す。又た詔して所在の長吏に諭し、広く桑棗を植え、荒田を墾辟する能く有る者は、旧租を輸するに止まらしむ。県令・佐能く招徠勸課し、戸口の増羨を致し、野に曠土無きに至らしむる者は、賞を議す。諸州は各風土の宜しきに随ひ、地の広狭を量り、土壤瘠埆にして種藝に宜しからざる者は、責課せず。豊歳に遇へば、則ち民に諭して謹みて歳を蓋ひ、費用を節し、以て不虞に備へしむ。民桑棗を伐ちて薪と為す者は之を罪す。桑を剝ぐこと三工以上は、首たる者は死し、従ふ者は三千里に流す。三工に満たざる者は死を減じて役に配し、従ふ者は三年徒す。
太宗太平興国中、両京・諸路に許し、民に共に土地の宜しきを練り、樹藝の法を明らかにする者一人を推さしめ、県は補して農師と為し、田畝の肥瘠及び五種の宜しき所を相視せしめ、某家に種有り、某戸に丁男有り、某人に耕牛有るかを令す。即ち郷の三老・裏胥と同しく余夫を召集し、曠土を分畫し、令を勧めて種蒔せしめ、歳の熟するを候ひて共に其の利を取らしむ。農師と為る者は税を蠲め役を免ず。民に飲博して農務に怠る者有らば、農師謹みて之を察し、州県に白して罪を論じ、以て遊惰を警む。墾く所の田は即ち永業と為し、官は其の租を取らず。其の後煩擾を以て罷む。初め、農時に、太宗嘗て畿内の青苗を取らしめて之を観しめ、政を聴くの次に、近臣に出示す。是歳、畿内の菽粟苗皆数尺に長ず。帝顧みて左右に謂ひて曰く、「朕毎に耕稼の勤を念ふ。苟も兵食の資する所に非ざれば、固より当に其の租税を尽く復すべし」と。
端拱の初め、帝みずから籍田を耕し、農事を勧めた。しかし畿内の民は税の重きを苦しみ、兄弟壮年となるや分居し、その田畝の税を一家に集め、すなわち棄て去り、県は毎年棄てられた地を調べてその租を除き、やがて他舎に匿れ、名を冒して佃作した。帝これを聞き、その弊を革さんと思し召し、時に封丘県知事竇比の言うところあり、すなわち詔して緋魚袋を賜い、絹百匹を賜う。太子中允に抜擢し、開封府司録事を兼ねさせ、京畿諸県の田租を按察せしむ。比は専ら苛酷を務めて課最を求め、民の実に逃亡した者も、隣里親戚の家を捜索し、ますます新たな籍を作り、甚だしく労擾す。数ヶ月にしてこれを罷む。時に州県の吏多くその人にあらず、土地の利尽く出でず、租税減耗し、賦役均しからず、上下相い蒙り、積習弊を成す。すなわち詔す、「諸知州・通判は、如何にして賦税を均平し、流亡を招輯し、孤貧を恵恤し、奸幸を窒塞するか、凡そ民間の未便の事を、一月の期限を以て疾置に附して聞かしめよ」と。而して近年多く稼穡登らず、富者は奇贏の資を操り、貧者は倍称の息を取る。ひとたび小稔あるや、富家は償いを責むること愈急にして、税調未だ畢わらざるに、資儲すでに罄然たり。遂に州県に令して、里胥・郷老に戒め察視せしめ、富民の穀麦資財を取る者は、出息倍を逾ゆるを得ず、未だ税を輸せざる者は先ず私逋を償うこと毋からしめ、違う者はこれを罪す。
言者謂う、江北の民は諸穀を雑植し、江南は専ら粳稻を種う。土風各々宜しき所あると雖も、参植して水旱に備うるは、亦た古の制なりと。ここにおいて詔す、江南・両浙・荊湖・嶺南・福建諸州の長吏、民を勧めて益々諸穀を種わしめ、民に粟・麦・黍・豆の種乏しき者は、淮北の州郡に於いてこれを給せしめよ。江北の諸州も、亦た水辺に就きて広く粳稻を種わしめ、併せてその租を免ずと。淳化五年、宋・亳数州に牛疫あり、死者過半す。官、銭を借りて江・淮に就きて牛を市わしむ。未だ至らざるに、時に属して雨足り、帝その耕稼時を失わんことを慮り、太子中允武允成、踏犁を献ず。人力を以て運ず。すなわち命を分かち秘書丞・直史館陳堯叟等をしてその州に即き、式に依り製造して民に給せしむ。
凡そ州県の曠土は、民に請佃して永業と為すを許し、三歳の租を蠲免し、三歳の外は、三分の一を輸納せしむ。官吏、民を勧めて田を墾くは、悉く印紙に書し、以て旌賞を俟つ。至道二年、太常博士・直史館陳靖上言す。
「先王の生民を厚くせんと欲するは、穀を積み農を務むるに先んずるは莫く、塩鉄榷酤はこれ末なり。天下の土田を按ずるに、江淮・湖湘・両浙・隴蜀・河東諸路の地裏敻遠なるを除き、勧督を加うと雖も、未だ遽かに利を獲ず。今、京畿周環二十三州、幅員数千里、地の墾くるもの十に才二三、税の入るもの又十に五・六無し。復た里舎を匿れて逃亡と称し、耕農を棄てて遊惰に事うる者有り。賦額歳に減じ、国用充たず。
詔書累下し、民に復業を許し、その租調を蠲免し、歳時を以て寛うす。然れども郷県これを擾し、一戸帰業する毎に、則ち所由を刺報す。朝に尺寸の田を耕し、暮に差徭の籍に入る。追胥責問、踵を継ぎて来たり、常租を蠲免せらるると雖も、実に損瘠に補うこと無し。況んや民の流徙するは、始め貧困に由り、或いは私債を避け、或いは公税を逃る。既に亡遁すれば、則ち郷里その資財を検し、室廬・什器・桑棗・材木に至るまで、咸くその直を計り、或いは郷官用いて税を輸し、或いは債主取りて逋を償う。生計蕩然たり、還りて詣る所無し。これに以て浮蕩し、帰耕を絶意す。
もし閑曠の田を授け、広く遊惰を募り、これを誘いて耕墾せしめ、賦租を計らず、別に版図を置き、便宜に事に従うを許し、民力の豊寡・農畝の肥磽を酌み、均配督課し、その倦まざらしむ。その逃民帰業し、丁口田を授くる煩碎の事は、並びに大司農の裁決を取る。耕桑の外に、益々雑木蔬果を樹えしめ、羊犬鶏豚を孳畜せしむ。桑土を給授し、潜かに井田に擬し、室居を営造し、保伍を立てしむ。養生送死の具、慶弔問遺の資は、並びに条制を立てる。三五年の間に至りて候い、生計成立すれば、即ち戸を計りて征を定め、田を量りて税を輸せしむ。もし民力足らざれば、官糴銭を借り、或いは以て餱糧を市い、或いは以て耕具を営ましむ。凡そこの給受は、司農に委ね、秋成に比し及んで、乃ち直を償わしめ、時価に依り折納し、その成数を以て戸部に関白す。」
帝これを覧みて喜び、靖に条奏して聞かしむるを令す。
靖また言う、「逃民復業及び浮客請佃する者は、農官に委ねて勘験し、以て田土を給授し、版籍に収附せしめ、州県未だその差役を議するを得ず。糧種・耕牛に乏しき者は、司農をして官銭を以て給借せしむ。その田制を三品と為す。膏沃にして水旱の患無きを以て上品と為し、沃壤と雖も水旱の患有り、埆瘠と雖も水旱の慮無きを中品と為し、既に埆瘠にして復た水旱に患うを下品と為す。上田は人に百畝を授け、中田は百五十畝、下田は二百畝を授け、併せて五年後にその租を収め、亦た只百畝を計り、十に其三を収む。一家に三丁有る者は、加えて田を受くるを請う。丁数五丁の者は三丁の制に従い、七丁の者は五丁を与え、十丁の者は七丁を与う。二十・三十丁に至っては、十丁を以て限りと為す。もし寛郷田多ければ、即ち農官に委ねて裁度し以てこれを賦す。その室廬・蔬韭及び桑棗・榆柳種芸の地は、毎戸十丁の者に百五十畝を与え、七丁の者に百畝、五丁の者に七十畝、三丁の者に五十畝、三丁に及ばざる者に三十畝を与う。桑功を除き五年後にその租を計る外、余は悉くその課を蠲免す。」
宰相呂端、靖の立てる田制は、多く旧法を改め、又大いに資用を費やすと謂い、その状を有司に付す。詔して塩鉄使陳恕等をして共に議せしめ、靖の奏の如くにするを請う。乃ち靖を以て京西勧農使と為し、陳・許・蔡・潁・襄・鄧・唐・汝等州を行按し、民を勧めて田を墾かしめ、大理寺丞皇甫選・光禄寺丞何亮を以てその副と為す。選・亮上言して功成り難しとし、願わくはその事を罷めんとす。帝、農を勉むるを志し、猶お靖に経度せしむるを詔す。未だ幾ばくもあらず、三司、官銭の費やすこと数多きを以て、万一水旱あらば、恐らくは散失に致さんとし、事遂に寝む。
真宗景德の初め、詔す、諸州の牧馬に堪えざる閑田は、職田の例に依り主客戶を招き多方に種蒔せしめ、沃瘠を以て三等に分かちて課を輸せしむ。河朔、戎寇の後、耕具頗る闕け、牛多く瘠死す。二年、内より踏犁の式を出だし、詔して河北転運使に民間に詢わしめ、もし用ゆ可きは、則ち官造してこれを給し、且つ有司に議わしめて牛を市い河北に送らしむ。又、兵罷みて民始めて農に務め什器を創るに因り、遂に生熟鉄の河を度るの禁を権除す。是歳、権三司使丁謂に命じ、戸税条敕及び臣民の陳ずる田農利害を取り、塩鉄判官張若穀・戸部判官王曾等と参詳刪定し、『景德農田敕』五巻を成し、三年正月これを上る。謂等又た唐の開元中、宇文融の勧農判田を置かんことを請い、戸口・田土の偽濫を検したるを取り、且つ別に官を置くは煩擾を慮い、而して諸州長吏は当に農を勧むべきを除き、乃ち少卿・監を刺史・合門使以上にして州を知る者は、並びに管内勧農事を兼ね、及び通判は並びに勧農事を兼ね、諸路転運使・副は本路勧農使を兼ぬるを請う。詔して可とす。
大中祥符四年、詔して曰く、「火田の禁は『礼経』に著し、山林の間は時令に順ずるべし。或いは昆蟲未だ蟄せず、草木猶お蕃うるに、輒ち燎原を放てば、則ち生類を傷つく。諸州県人の畬田は、並びに郷土の旧例の如くすべし、自余の野草を焚焼するは、須らく十月後に方って火を放つを得る。其の行路に野宿する人は、所在に於いて検察し、延焼せしむること毋からしめよ」と。帝は江・淮・両浙が稍々旱すれば即ち水田登らざるを以て、使者を遣わして福建に就き占城稲三万斛を取らしめ、三路に分かち給して種と為し、民田の高仰なる者を択びて之を蒔かしむ。蓋し早稲なり。内より種法を出だし、転運使に命じて榜を掲げ民に示さしむ。後また玉宸殿に種え、帝は近臣と同観す。刈り畢り、また内侍を遣わして朝堂に持ち至らしめ百官に示す。稥は中国の者に比し穂長くして芒無く、粒稍々小にして、地を択ばずして生ず。六年、諸路の農器の税を免ず。明年、諸州牛疫あり、また詔して民の耕牛を買売するに算を勿れとす。継いて群牧司に令して医牛の古方を選ばしめ、之を天下に頒つ。
天禧初、諸路に詔して自今より登熟を候いて方って豊稔を奏し、或いは已に豊稔を奏して非時の災沴ある者は、即ち須らく上聞すべし、違う者は其の罪を重ねて置かんとす。是に先立ち、民の水旱を訴うるは、夏は四月を以てし、秋は七月を以てす。荊湖・淮南・江浙・川峡・広南の水田は期を過ぐるを得ず、期を過ぐる者は吏受けず。令・佐訴えを受くれば、即ち分かち行きて検視し、州に白きて官を遣わし覆検せしめ、三司分数を定めて税を蠲す。また朝旨有りて特に免数を増し、及び応輸の者に其の倚格を許す。京畿は則ち特に官を遣わし覆検せしむ。太祖の時、また或いは官を遣わし外州に往きて検視せしむるも、常の制と為さず。傷甚だしきは、覆検を免ずる者有り。是に至り、また覆検の煩擾を以て、止めて官を田所に就かせて閲視せしめ、即ち蠲数を定む。時に久しく畋遊を罷め、開封府に令して民に諭さしめ、京城四面の禁囲草城を開き、其の耕牧を許す。三年、詔して民に孝弟力田・儲蓄歳計ある者は、長吏倍して之を存恤せしむ。
初め、朝議は勧農の名を置くも、然れども職局無し。四年、始めて諸路の提点刑獄朝臣を勧農使と為し、使臣を副使と為すことを詔す。至る所にて、民籍を取りて其の差等を視、式に如かざる者は之を懲革す。農民を勧恤し、時に耕墾し、逃散を招集し、陷税を検括す。凡そ農田の事は悉く之を領す。局案を置き、印を鋳て之に給す。凡そ親民の官を奏挙するに、悉く条析して勧農の績を令め、以て殿最黜陟と為す。
景德以来、四方事無く、百姓康楽、戸口蕃庶、田野日々に辟く。仁宗之を継ぎ、益々己を約し人を愛するを務む。即位の初、詔を下して曰く、「今宿麦既に登り、秋種向かって茂らんとす。其れ州県に令して民に諭し、務めて蓋蔵を謹み、或いは妄費すること無からしめよ」と。上書する者賦役未だ均からず、田制立たずと言う。因りて限田を詔す。公卿以下三十頃を過ぐる毋れ。牙前将吏応に役を復すべき者は十五頃を過ぐる毋れ。止だ一州の内に限る。是を過ぐる者は違制律に論じ、田を以て告者に賞す。既にして三司言う、限田一州にして、卜葬する者は陰陽の説に牽かれ、至って敢えて事を挙げずと。また数外に墓田五頃を置くを聴す。而して任事者は終に限田不便を以てし、未幾にして即ち廃す。
時にまた近臣の別業を京師に置くを禁じ、及び寺観は田を市うを得ざる。初め、真宗崩じ、内より中人を遣わし金を持ち玉泉山僧寺に賜りて田を市わしめ、先帝の為に福を植うと言う。後以て例と為す毋れ。繇是に寺観稍々益々田を市う。明道二年、殿中侍御史段少連言う、「頃歳中人漣水軍に至り、詔を称して民田を市い僧寺に給す。旧制に非ず」と。詔して民田に還し、其の直を収めて官に入る。後承平浸く久しく、勢官富姓、田を占むるに限り無く、兼並冒偽、習以て俗を成し、重禁も能く止むること莫し。
帝は本を敦くし農を務め、屡々詔して勧奨し、郊に於いて稼を観、歳一再出ず。また躬ら籍田を耕し、以て天下に先んず。景祐初、百姓の多く農を去りて兵と為るを患え、大臣に詔して兵農の得失を条上せしめ、其の法を更えんことを議す。尚書職方員外郎沈厚載を遣わし、懐・衛・磁・相・邢・洺・鎮・趙等州に出で、民に水田を種えしむることを教う。京東転運司もまた言う、「済・兗の間閑田多く、而して青州兵馬都監郝仁禹は田事を知る。請う命して水利を規度せしめ、民を募りて耕墾せしめん」と。之に従う。是の秋、詔して曰く、「仍歳饑歉、民多く職を失う。今秋稼甫に登らんとし、方に事斂獲にあり。州県或いは追擾すること毋く、以て農時を妨ぐること無からしめよ。刑獄証逮を須うる者は速かに之を決すべし」と。
帝は毎に水旱を以て憂いと為す。宝元初、諸州に詔して旬に雨雪を上らしめ、令と為して著す。慶暦三年、民の法を犯す矜むべき者を別に贖令を為し、郷民は穀麦を以てし、市人は銭帛を以てす。民は穀帛を重んじ、刑罰を免るれば、則ち農桑自ら勧むと謂う。然れども卒に行わるること果たさず。参知政事范仲淹言う、「古は三公六卿の職を兼ぬ。唐は相を命じて尚書六曹を判せしめ、或いは諸道塩鉄・転運使を兼ぬ。請う職事の中に其の要なる者を択び、以て輔臣に兼領せしめん」と。於は賈昌朝を以て農田を領せしむ。未だ施為に及ばずして仲淹罷む。事遂に止む。皇祐中、苑中に宝岐殿を作り、毎歳輔臣を召して穀麦を刈るを観さしむ。是より以て復た郊に出づること罕なり。
帝は天下の廃田尚お多く、民罕に土著し、或いは田を棄て流徙して閑民と為るを聞く。天聖初、民の流れて積むこと十年なる者は、其の田人の耕するを聴し、三年にして後賦を収め、旧額の半を減ず。後また流民能く自ら復する者は、賦も亦之の如しと詔す。既にして又流民と限り、百日に復業し、賦役を蠲し、五年に旧賦の十の八を減ず。期尽きて至らざれば、他人の耕するを得るを聴す。是に至り、毎に赦令を下すに、輒ち流亡を招輯し、人を募りて耕墾するを言と為す。災に被りて流るる民は、又其の蠲復を復し、其の期を緩めて之を招く。諸州の長吏・令・佐能く民を勧めて陂池・溝洫の久しく廃するを修むる者、及び荒田を墾辟し、税二十万已上を増す者は、賞を議す。監司能く部吏を督責して経画する者は、賞も亦之の如しと詔す。
久しくして、天下の生歯益々蕃え、田を辟くこと益々広し。独り京西唐・鄧の間尚お曠土多く、草莽に入る者十の八、九。或いは戸を徙して之を実せんことを請い、或いは屯田を置かんことを議し、或いは遂に唐州を廃して県と為さんことを欲す。嘉祐中、唐守趙尚寛言う、土曠くして辟くべく、民希にして招くべし、而して州は廃すべからずと。漢の邵信臣が故陂渠の遺跡を得て而して之を修復し、牛犁・種食を仮して以て耕者を誘い、勧課労来す。歳余、流民自ら帰る及び淮南・湖北の民至る者二十余戸。水を引いて田を溉ぐこと幾ばく万頃、磽瘠を変じて膏腴と為す。監司其の状を上ぐ。三司使包拯も亦以て言と為す。遂に留めて再任せしむ。治平中、歳満ちて当に去るべし。英宗其の勤を嘉し、且つ倚りて以て興輯せんとし、特に一官を進め、銭二十万を賜い、復た留めて再任せしむ。時に守令の数易なるを患え、詔して其の実課ある者を察し秩を増して再任せしむ。而して尚寛詔に応じて天下の倡と為る。後太守高賦之を継ぐ。亦能く勧課するを以て褒奨せられ、留めて再任せらる。
天下の墾田は、景德年間に丁謂が著した『會計錄』によれば、総計一百八十六万余頃を得たという。この年の戸数七百二十二万余戸で計算すると、四戸で一頃の田を耕すことになり、これによって天下の隠田が多いことが知られる。また川峡・広南の田は、頃畝の数が備わっておらず、ただ五賦をもって約計したに過ぎない。天聖年間に至ると、国史には、開宝末年に墾田二百九十五万二千三百二十頃六十畝、至道二年に三百十二万五千二百五十一頃二十五畝、天禧五年に五百二十四万七千五百八十四頃三十二畝とある。しかし開宝の数は景德の倍であり、丁謂の記録は固より実態を得ていない。皇祐・治平年間、三司はいずれも『會計錄』を有したが、皇祐中の墾田は二百二十八万余頃、治平中は四百四十万余頃で、その間二十年に満たないのに墾田の数が倍増している。治平の数をもって天禧と比べるとなお及ばないが、『治平錄』を編んだ者は、これはただその賦租を計って頃畝の数を知ったに過ぎず、賦租に含まれないものが十のうち七を占めると述べている。おおよそ計算すると、天下の墾田はおそらく三千余万頃に及ぶ。この時、累朝相承して民を擾すことを重んじず、未だ窮めて按ずることはなかったので、実態を得ることができず、籍に現れた廃田なお四十八万頃であった。
治平四年、詔して曰く、「歳ごとに登らず、今春時に雨あり、農民の桑蠶・穀麥は、衆作勤労し、一歳の功、並びに此時に在り。安撫・転運司に委ねて州県の吏を敕戒し、事を省き民を息め、その時を奪うことなかれ」。「諸路の逃田、三十年のものはその税の四分の一を除き、四十年以上は五分の一、五十年以上は六分、百年以上は七分とす。佃して十年に及べば五分を輸し、二十年に及べば七分を輸すことを令と為す」。
神宗熙寧元年、襄州宜城県令朱紘が再び水渠を修復し、田六千頃を灌漑したので、詔して一官を遷す。権京西転運使謝景温言う、「法に在りて、請田の戸は五年内科役を免ぜらる。貶汝州四県の客戶は、一二年ならずして便ち旧戸に糾抉せられ、之と同役を為し、此に因りて即ち又逃竄し、田土荒萊と為る。墾田務を置き、官を差して専ら領せしめ、四県の荒田を籍し、人を召して請射せしめんことを乞う。更に其人を諸県の版籍に隷属せしめず、須らく五年にして乃ち撥附せしむれば、則ち五年内自ら差科無からん。千戸以上を招き及ぶ者は、優に獎す」。詔して務を置かず、余は其の請に従う。
明年、諸路の常平官を分遣し、農田水利を専領せしむ。吏民能く土地種植の法、陂塘・圩垾・堤堰・溝洫の利害を知る者は、皆自ら言うことを得。行いて効有れば、功利の大小に随って酬賞す。民荒逃田を占め若しくは帰業する者は、相保任を責め、逃税する者は保任を以て之を輸せしむ。已に新法を行える県分は、田土の頃畝・川港陂塘の類、令・佐の受代に、墾辟開修の数を具えて諸代者に授け、令は籍を照らして実有るを乃ち代わらしむ。
中書、民を勧めて桑を栽うるを議す。帝曰く、「農桑は衣食の本なり。民敢えて自力せざるは、正に州県の約して以て貲と為し、其の戸等を升むるに在るのみ。宜しく條禁を申すべし」。ここに於いて司農寺諸に立法し、先ず開封に行い、行う可きを視て、天下に頒つ。民桑柘を種くるは賦を増すことを得ず。安肅広信順安軍・保州は、民をして即ち其の地に桑榆或いは宜しき所の木を植えしめ、因って戎馬を限閡す可し。官其の活茂の多寡を計り、在戸の租数を差減するを得。活数に及ばざる者は罰し、之を責めて補種せしむ。
水利田を興修すること、熙寧三年より九年に至るまで、府界及び諸路凡そ一万七百九十三処、田三十六万一千一百七十八頃有奇と為す。神宗元豊元年、詔して廃田を開き水利を興し、民力役を給する能わざる者には常平銭穀を貸し、京西南路の流民耕牛を買う者は征を免ず。五年、都水使者範三淵奏す、「大名より乾寧に抵り、十五州を跨ぎ、河徙の地凡そ七千頃、乞う人を募りて耕種せしめん」。之に従う。
哲宗即位し、宣仁太后朝に臨み、首に司馬光を起して門下侍郎と為し、政を之に委ぬ。詔して天下の臣民皆封事を以て民間の疾苦を言うことを得せしむ。光疏を抗して曰く、「四民の中、惟だ農最も苦し、寒に耕し熱に耘し、体に沾き足に塗れ、日を戴きて作し、星を戴きて息む。蚕婦繭を治め、麻を績ぎ、緯を紡ぎ、縷縷として之を積み、寸寸として之を成す、其の勤極まりたり。而して又水旱・霜雹・蝗蜮間為之災し、幸いに収成すれども、公私の債、交争互奪す。穀未だ場を離れず、帛未だ機を下さず、已に己有に非ず、食う所の者は糠乞にして足らず、衣る所の者は綈褐にして完からず。直に世田畝に服し、此を舍つるの外に何か生くる可きの路有るを知らざるのみ。而るに況や聚斂の臣、租税の外に於いて、巧みに百端を取り、以て功賞を邀う。青苗は則ち強いて散じ重く斂め、陳を給して新を納る。免役は則ち窮民を刻剝し、浮食を収養す。保甲は則ち非業の作に労し、保馬は則ち無益の費に困る。念わざる可けんや。今者徳音を浚発し、畎畝の民をして上封事することを得せしむ。其の言辞鄙雑と雖も、皆身実患を受けて、直に其の誠を貢ぐ、忽にす可からず」。
初め、熙寧六年、法を立て民を勧めて桑を栽えしめ、令に趨かざる有れば、則ち屋粟・裏布に倣いて之が罰を為す。然れども民を長ずるの吏能く徳意を究宣せず、民病と為す。ここに至り、楚丘の民胡昌等其の便ならざるを言う。詔して之を罷め、且つ負う所の罰金を蠲す。興平県民田を抑えて牧地と為す、民亦自ら言う。詔して悉く之を還す。元祐四年、詔す、「河に瀕する州県、積水田を冒す。在任の官能く民の為に経画し溝畎を疏導し、良田を退出すること百頃より千頃に至るは、賞を第す」。
崇寧年中、広東南路転運判官王覺、荒田を開辟すること幾く万頃に及ぶを以て、詔して一官を遷す。其の後、知州・部使者民を課して桑棗を種えしむる能き者は、率ね其の第秩を優す。政和六年、管幹圩岸・圍岸官の法を立て、官に在ること三年、隳損堙塞する者無ければ之を賞す。京畿提点刑獄王本言う、「前任提挙常平、諸県の天荒瘠鹵地一万二千余頃を根括して稻田務に入れ、已に佃する者五千三百余頃、尚慮う令・佐肯て心を究めざるを」。詔して開墾堿地の格に比して賞を推す。平江府圍田二千余頃を興修す、令・佐以下差に以て磨勘年を減ず。
八年、権淮南・江・浙・荊湖製置発運使任諒奏す、「高郵軍に逃田四百四十六頃有り、楚州九百七十四頃、泰州五百七十二頃、平江府四百九十七頃、六路を以て之を計れば、何ぞ勝数す可けん。諸県に専ら官を選び按籍して根括せしめんことを欲す」。詔して逃田は県丞に委す可く、丞無き処は他官に委せ、余は並びに之に従う。
宣和二年(一一二〇年)、臣僚が上言した。「監司・守令が官帯として勧農を担当しているが、上意に副う者は少ない。四つの証拠を立ててこれを検証したい。田畑の荒廃・整備の跡を調べ、戸産の増減の籍帳を較べ、米穀の貴賤の価格を検証し、租賦の盈虧の数を考査する。四つの証拠が揃えば、その実状は明らかになる」。命を下し中書に審定させ、旨を取らせた。五年(一一二三年)、詔した。「江東転運司が根括して得た逃田百六十頃十六畝、両浙が根括して得た四百五十六頃を、人を募って租を納めさせ、専ら今年増設の屯戍兵の衣糧に充てよ」。初め、政和年間(一一一一~一一一八年)に、品官の限田を定め、一品は百頃とし、差等により減じ、九品に至っては十畝とした。限外の数は、全て編戸と同じく差科を課した。七年(一一一七年)、また詔した。「内外の宮観・寺舍が田を設置する場合、在京では五十頃を超えず、在外では三十頃を超えず、科差・徭役・支移を免れない。たとえ御筆を奉じたとしても、執奏して施行を許さない」。
建炎元年(一一二七年)五月、高宗が即位し、有司に命じて農民を招誘し、帰業する者には振貸し、欠租を蠲免し、耕牛税を免除した。三年(一一二九年)、広州州学教授林勳が『本政書』十三篇を献上し、大略次のように述べた。「国朝の兵農の政は、大抵唐末の旧制を踏襲している。今、農は貧しく多く職を失い、兵は驕って用いるに足らず、このため飢民や逃亡兵卒が、多く盗賊となる。古の井田の制にならい、民に一夫当たり五十畝の田を占めさせ、余剰の田を持つ家は田を買い取れないようにすべきである。田を持たない者と遊惰・末作の者は、皆隷農とし、余剰の田を耕させる。銭穀を雑紐して什一の税とする。本朝の二税の額は、唐に比べて七倍に増えている。今、本政の制では、十六夫をもって一井とし、提封百里で三千四百井となり、税米五万一千斛、銭一万二千緡を率いる。毎井、兵二名・馬一頭を賦し、兵六千八百人、馬三千四百頭となる(これは方百里の県が出す賦税の数である)。歳に五分の一を取って上番の額とし、征役に給する。事なき時はさらに四番に分け、官府に直し、守衛に給する。これにより民は凡そ三十五年にして役が一巡する。全て上番させれば歳に米一万九千余斛、銭三千六百余緡を食するが、事なき時は四分の三を減じ、皆一同の租税で供給する。匹婦の貢は、絹三尺、綿一両とし、百里の県は歳に絹四千余匹、綿三千四百斤を収める。蚕郷でなければ布六尺、麻二両とし、収める額は綿絹の倍とする。これを十年行えば、民の口算、官の酒酤、及び凡そ茶・塩・香・礬の専売は、皆弛めて民に与えることができる」。その説は甚だ詳備であった。尋ねて勳を桂州節度掌書記とした。
建炎以来、内外で用兵があり、所在に逃絶の田が多かった。紹興二年(一一三二年)四月、両浙路に命じて牛具を買い上げ、淮東の人戸に貸し与えた。七月、詔した。知興国軍王□・知永興県陳升が率先して詔に奉じ民を誘い墾田させたので、各々一秩を増す。三年(一一三三年)九月、戸部が言上した。「百姓が産業を棄てた場合、既に詔で二年を過ぎれば他人が請射することを許し、十年以内は既に請射し職田に充てた者でも、帰業を聴くとしている。孤幼及び親属で財産を得るべき者は、守令が実情を検証して返還し、冒占した者は律に照らして論ずる。州県が謹んで奉行しない場合は、監司が按劾する」。これに従った。(先に、臣僚が言上した。「近く詔で州県が虜掠された百姓の税賦を拘籍したが、苛酷な吏は実情を考証せず、その中には父母が虜掠され児女が存する者、途中で脱出した者、全家が虜掠され親属が偶々帰還した者がいるのに、一概に籍没し、人情が惶惶としている」。故にこの命があった。)十月、江東・江西の閑田に佃を募り、三等で租を定めた。上田は畝当たり米一斗五升を輸納し、中田は一斗、下田は七升。四年(一一三四年)、廬州の民に銭一万緡を貸し与え、耕牛を買わせた。
五年(一一三五年)五月、『守令墾田殿最格』を立てた。(残破州県で墾田が一分増えれば、郡守は三季分名次を昇進し、九分増えれば一官を遷す。一分損なえば三季分名次を降格し、九分損なえば一官を削る。県令は差等を減ずる。増減各々十分に及ぶ者は、旨を取って賞罰する。その後、両淮・荊湖等路の民が稍々復業したが、曠土が尚多かったため、戸部が再び格を立てて上奏した。毎州墾田千頃を増やせば、県はその半とし、守宰は各々一秩を進める。州で五百頃損ない、県で五分の一損なえば、皆磨勘年を延ばす。詔して諸路に頒布した。増とは、荒田を開墾することをいう。虧とは、熟田が災傷によらずして荒廃することをいう。)また、県に帰業民の数及び墾田の多寡を具申させ、月ごとに州に上申させ、州は季ごとに転運司に上申し、転運司は歳ごとに戸部に上申し、戸部は籍を置いてこれを考課するように命じた。七月、都督行府が言上した。「潭・鼎・岳・澧・荊南の帰業の民で、その田が既に佃されている者は、附近の閑田を与え、三年間租税を免除する。産がなく閑田を受けたいと願う者にも、また与える」。上は輔臣に諭して言った。「淮北の民が繈負して至る者も、田を与えることができ、広く招徠の意を示すべきである」。
六年(一一三六年)、江東諸路の逃田税額を減じた。知平江府章誼が言上した。「民が甚だ苦しむところは、催科に法がなく、税役が均平でないことである。強宗巨室は阡陌相望むが、多く無税の田を持ち、下戸に破産させている。通判一員に委ねて賦役を均平にすることを乞う」。九年(一一三九年)、宗正少卿方庭実が言上した。「中原の士民が南州に奔逃して十四年になる。十年の限を出て及び流徙僻遠で卒して帰れない者については、有司に命じて別に限年を立てることを望む」。戸部が議した。「再び赦が降った日を始めとし、さらに五年の期限を設け、期限満了で理認する者がいなければ、現佃人が旧来通り承佃する。中原の士民で東南に流寓する者は、往々にして墳墓があり、官が拘籍したり、民が冒占したりしているので、速やかに返還する」。これに従った。十一年(一一四一年)、再び牛を買い上げ淮南農戸に貸し与えた。
十二年(一一四二年)、左司員外郎李椿年が経界不正の十害を言上し、かつ言った。「平江府の歳入は昔七十万斛余りあったが、今籍帳によると三十九万斛であるが、実入は僅か二十万に過ぎない。土地の人に尋ねると、皆欺隠している。考按して実情を核め、平江から始め、その後天下に施行すれば、経界が正され仁政が行われるであろう」。上は宰執に言った。「椿年の論は、頗る条理がある」。秦檜もその説は簡易で実行可能であると言った。程克俊が言った。「近年百姓が役を避けるのは、正に経界不正のためである。これを行えば、公私の利益となる」。椿年を両浙路転運副使とし、経界措置を担当させた。椿年は先ず平江諸県へ赴き、就緒し次第諸州へ往くことを請い、要は均平にあり、民のために害を除き、税額を増やさないとした。十三年(一一四三年)、提挙洪州玉隆観胡思・直顕謨閣徐林が経界を沮む議論をしたとして、官を停め遠方へ流徙させた。民田で税簿に上らないものは没官とし、税簿を謹んで書かない者は官吏を罪とした。当時、田を量るのに不実な者は、徒刑・流刑に至る罪となった。江山尉汪大猷が椿年に申し出た。「法が峻厳で、民は未だ理解しておらず、確かに田が少ないのに多く供出している者もいる。陳首を許して追正することを願う」。椿年はこれにより刑を軽くし、費用を省くことが甚だ多かった。
十四年、李椿年を権戸部侍郎に任じて経界を措置せしむ。まもなく母憂により去り、両浙転運副使王鈇を権戸部侍郎に任じて措置せしむ。十五年、詔して戸部及び派遣された官に委曲措置せしめ、務めて賦税を均しくして擾乱なからしむ。また興国軍守臣宋時の上言により、詔して諸州県において期限に遅れて帰業する者の田が既に佃作され、あるいは官売された場合は、即ち官田のうち耕作可能なものを給還せしむ。十六年、王鈇は病により罷む。十七年、再び李椿年を権戸部侍郎に任じて経界を措置せしむ。先に、真州は兵燹の余り、瘡痍未だ復せず、洪興祖が守となり、租税の復旧を二年間延期することを請い、翌年またこれを請う、ここより流民漸く帰る。十八年、荒田を開墾すること七万余畝に至る。
十九年、詔して敕令所刪定官鄭克に四川経界法を行わしむ。鄭克は頗る州県を峻責し、所謂「省荘田」なるものは、蔬果・桑柘に至るまで征せざるはなく、邛州・蜀州の民田は什に税を其の伍まで至らしむ。通判嘉州楊承曰く、「仁政にして虐く之を行えば、法意に非ず。上は令に違わず、下は民を擾さず、則ち仁政得たり」と。諸邑の令を召して謂ひて曰く、「平易にして民に近づけば、美成は久しきに在り、其れ謹んで之を行へ。心に愧なきに、何をか畏れん」と。事遂に成り、列郡の最となる。其の後、民に不均を訴ふる者あり、殿中侍御史曹筠、椿年を劾して罷む。上、秦檜に謂ひて曰く、「若し下田重税を受けば、将に輸する所無からん」と。檜曰く、「臣已に戸部侍郎宋貺に諭し、未だ均からざる処あれば亟に改正せしむ」と。二十年、詔す:両淮の沃壤は穀物に宜しく、力田科を置き、民を募りて就耕せしめ、以て官荘を広むべし。知資州楊師錫言ふ:有司奉行失当にして、田畝の腴瘠を分かたず、市居の丈尺隙田も亦た税産に充つ。ここに於て詔を降して曰く、「椿年経界を行ふを乞ひ、民の十害を去らんとす。今聞く、漸く本意を失へりと。凡そ民に便なる者は已に行はるるに依り、民を害する者は追ひて正すべし」と。二十一年四月、宋貺罷む。二十六年正月、上、輔臣に謂ひて曰く、「経界の事は李椿年之を主とす。若し推行して就緒に就かば、善からざるに非ず。今諸路往往中輟す。願くは一の経界に通暁する者を得て款曲に之を議はん」と。会に潼川府転運判官王之望上書し、蜀中の経界の利害を悉く言ふ。明年、之望を以て提点刑獄とし、経界事を畢へしむ。
三月、戸部言ふ:「蜀地は狭く人夥し、而して京西・淮南の膏腴なる官田尚ほ多し。人を許して承佃せしめ、官牛・種を貸し、八年にして仍ほ償はしむ。並びに辺は租を免ずること十年、次辺は其の半とし、満三年にして其の業を与ふ。願ひ往く者には据を給し津発せしむ」と。上曰く、「善し。但だ貧民乍に荒田を請ふて、安んぞ能く便ち牛・種を得ん。若し官貸に従はざれば、未だ虚文を免れざらん。相度して支給せしむべし」と。四月、通判安豊軍王時升言ふ:「淮南の土は皆膏腴なり。然れども地未だ尽く辟からず、民加ふるに多からざるは、豪強の虚しく良田を占めて遍く耕す力無く、流民繈負して至りて開耕の地無きに縁る。望むらくは凡そ荒閑田は人を許して剗佃せしむべし」と。戸部議す:期を二年とし、未だ墾かざる者は即ち請ふる所の如くす;京西路も之に如くす。詔して時升を司農寺丞とす。十月、御史中丞湯鵬挙の言を用ひ、離軍添差の人に、江・淮・湖南の荒田を授け、人一頃、世業と為す。所在の郡は一歳の奉を以て牛・種費に充て、仍ほ租税を免ずること十年、丁役二十年。
二十八年、王之望言ふ:「去年官を分遣し経界不均の県に詣りて裁正せしむ。今已に事を迄る。此の後吏民尚ほ敢へて扇搖して以て百姓を疑はしむる者は、乞ふらくは重ねて法に置かん」と。之に従ふ。二十九年、知潭州魏良臣言ふ:「本州帰業の民、熟田を以て荒と為し、租を輸せず。今令して甲を給し税を輸せしめ、明年より始む。実ならざれば、人を許して告げしめ、以て田を賞とす」と。戸部議す:「期百日を逾ゆれば、匿税法に依る」と。詔して可とす。三十年、初めて純州平江県の民に実田をして税を輸せしめ、畝に米二升四合を輸す。
孝宗隆興元年、詔す:「凡そ百姓逃棄の田宅、出でて三十年無人帰認する者は、戸絶法に依る」と。乾道元年正月、都省言ふ:「淮民復業には、宜しく先づ農桑を勧課すべし。令・丞は桑三万株より六万株まで植え、守・倅は部内に二十万株以上植え、並びに論賞差有らしむべし」と。二月、三省・樞密院言ふ:「帰正人貧乏なる者は両淮に散居し、去冬淮民麦を種くること甚だ広く、逃亡未だ帰らず、人無く収獲す」と。詔して諸郡口を量りて均しく給し、其の已に帰業する者は例として之を擾さざらしむ。四年、知鄂州李椿奏す:「州は江南に在りと雖も、荒田甚だ多し。請佃する者開墾未だ幾ばくもせず、便ち毛税を起し、田を度り追呼し、其の擾に任せず、旋ちに逃れ去る。今人を召して請射せしめ、免税三年;三年の後世業と為し、三分を率とし、苗一分を輸し、更に三年して一分を増し、又三年して全く輸す。帰業する者には別に荒田を以て之に給す」と。又た詔して楚州に帰正人に田及び牛具・種糧銭五万緡を給せしむ。
六年二月、詔して曰く:「朕深く惟ふに治進まざるを、思ひて以て其の本を正する者有らんとす。今役法を均くし、限田を厳にし、遊手を抑へ、農桑を務めんと欲す。凡そ是の数者は、卿等二三大臣朕が為に之を任せよ」と。十有二月、監進奏院李結『治田三議』を献ず:一に曰く務本、二に曰く協力、三に曰く因時。大略謂く:「浙西の低田は堤を恃みて固しと為す。若し堤岸高厚なれば、則ち水能く入らず。乞ふらくは蘇・湖・常・秀諸州の水田塘浦の要処に於て、官銭米を以て田主に貸し、此の農隙に乗じ、堰を作り増して高闊ならしめば、則ち堤成りて水患と為らざらん。方に此の饑饉に在り、其の力を食はしめ、其の利する所に因りて之を利せしむ。秋冬旱涸すれば、涇浜断流し、車畎修築すること、尤も省力なり」と。詔して胡堅常に相度して以て聞かしむ。其の後、戸部三議切当なりとす。但だ工力浩瀚なれば、田有るの家に曉し、各郷原の畝歩に依り銭米を出だして租田の人とし、更相修築せしめ、庶くは官費する所無く、民労を告げざらんと欲す。之に従ふ。
七年二月、知揚州晁公武奏す:「朝廷沿淮の荒残久しきを以て、未だ租税を行はず。民復業と創戸する者は、阡陌相望むと雖も、然れども官に聞くる者は十に才二三にして、皆後来の税重きを懼る。昔、晚唐の民稼穡を務むれば則ち其の租を増し、故に播種少なく;呉越の民荒田を墾くも税を加へず、故に曠土無し。望むらくは詔して両淮更に賦を増さず、庶くは民知りて勧むべし」と。詔して可とす。十月、司馬伋民に麦を種くるを勧め、来春の計と為さんことを請ふ。ここに於て詔して江東西・湖南北・淮東西路の帥漕に、官をして種を借り及び大姓に諭して農民に仮貸し広く種らしめ、賑済格に依り賞を推し、仍ほ已に種くる頃畝を上せしめ、賞罰を議す。九年、王之奇力田賞格を増定するを奏し、人を募りて荒田を開耕せしめ、官告綾紙を給して以て書填に備へ、及び官会十万緡を農具等の用に充つ。種糧足らざるを以て、又た詔して淮東総領所に稻三万石を借給せしむ。
淳熙五年、詔して曰く、「湖北の佃戸が荒田を開墾するは、旧税のみを輸納せしむ。若し頃畝を包占して、未だ悉く開耕せざるは、詔下の日より、期を二年とし、遍く耕すこと能はざる者は拘えて営田と作す。其の増税・剗佃の令は行ふなかれ」と。六年五月、提挙浙西常平茶塩の顔師魯奏す、「勧課の法を設くるは、農桑を重んじ、種植を広めんと欲するなり。今、郷民、己が田に連接する閑曠磽確の地を、墾りて田園と成す、用力甚だ勤し。或は未だ陳じて税を起さざるを以て、人の訟ふる所となり、即ち盗耕を以て之を罪す、何を以て力田を勧めんや。止だ実田に税を起すべし。特に告訐の風を戢むる可きのみならず、亦た盛世の農を重んずるの意を見るべし」と。詔して可とす。十有一月、臣僚奏す、「比に諸路の帥・漕に令して守令を督め麦を種植せしめ、歳毎に増加の頃畝を上せしむ。然れども土に宜しきと否と有り、湖南一路は唯だ衡・永等数郡麦に宜しく、余は皆な文具なり。望むらくは、民に時を以て播種せしむるを諭し、其の歳毎に増種の数を上するを免じ、庶幾く勧課の実を得ん」と。
七年、復た詔して両浙・江・淮・湖南・京西路の帥・漕臣に守令を督め民に麦を種植せしめ、務めて増広せしむ。是より後、毎歳之の如し。八年五月、詔して曰く、「乃ち天の時を得て、蚕麦既に登る。及て近甸に命じて取りて之を視しむるに、則ち穂短く繭薄し。種植風厲の功に未だ至らざる所有るか。朕将に勤惰を稽へて賞罰を詔せんとす」と。是歳、雨連なり、下田浸され、詔して両浙諸州軍と常平司に措置せしめ、再び種糧を下戸に借り与へ播種せしめ、時を失はざらしむ。十有一月、輔臣奏す、「田世雄言ふ、民に麦田有りと雖も、墾りて種無し。若し貧民に貸与すれば、猶ほ春麦を種す可しと。臣僚亦た言ふ、江・浙の旱田は既に耕すと雖も、亦た麦種無しと」と。是に於て詔して諸路の帥・漕・常平司に、常平麦を以て之を貸与せしむ。
先に、知揚州の鄭良嗣言ふ、「両淮の民田、広く包占に至り、多く未だ税を起さず。朝廷累ねて首実の期限を展延す。今、限満ちて旱に適ふ。乞はくは更に一年を展延せん」と。詔して其の請の如くす。九年、著作郎の袁枢、両淮を振恤して還り、奏す、「民の田を占むるは其の数を知らず。二税既に免ぜられ、止だ穀帛の課を輸すのみ。力を尽くして墾ること能はざれば、則ち廃して荒地と為す。他人佃請すれば、則ち疆界を以て詞と為し、官稽考すること無し。是を以て野は加ふるに辟けず、戸は加ふるに多からず、而して郡県の計益々窘し。望むらくは詔して州県に疆を画き券を立てしめ、田を多く占めて課を少く輸する者は、畝に随ひて之を増し、其の余の閑田は佃人に給与し、庶幾く流民に耕す可きの地有り、而して田莱多荒に至らざらしめん」と。
紹熙元年、初め、朱熹、泉の同安簿と為り、二郡の経界行はれざるの害を知る。是に至り、漳州を知る。臣僚の閩中に経界を行はんことを請ふに会し、詔して監司に条具せしめ、事郡に下る。熹訪問講求し、纖悉備はり至る。乃ち奏言す、「経界は最も民間の莫大の利たり。紹興已に推行する処は、公私両利す。独り泉・漳・汀は未だ行はれず。臣一身の労逸を先にし、而して一州の利病を後にする敢てせず。切に独り其の必ず行ふ可きを任ず。然れども必ず官吏を推択し、委任して責成し、歩畝を度量し、算計精確にし、図を画き帳を造り、費は官より給し、産に随ひて税を均し、特許して郷を過ぎ県を通じて均紐し、庶幾く百里の内、軽重斉同ならん。今、毎畝九等の高下に随ひて産銭を定計し、而して一州の租税銭米の数を合はせ、産銭を母と為し、毎文米幾何を輸し、銭幾何を輸し、止だ一倉一庫に於て受納せしめんと欲す。既に輸したる後、却て原額を視て分隸し、省計と為し、職田と為し、学糧と為し、常平と為し、各諸倉庫に撥入せん。版図一定すれば、則ち民業経有らん。但だ此法の行はるるは、貧民下戸固より深く喜ぶ所なれども、然れども自ら其の情を達すること能はず。豪家猾吏実に喜ばざる所にして、皆な善く説辞を為して以て群聴を惑はす。賢士大夫の安静を喜び紛擾を厭ふ者は、又或は深く察せずして風を望み沮怯す。此れ則ち慮無きにし能はざるなり」と。輔臣、漳州に行はんことを請ふ。明年春、詔して漕臣の陳公亮に熹と協力して奉行せしむ。農事方に興るに会し、熹益々講究を加へ、来歳之を行はんことを冀ふ。細民其の擾れずして己に利有るを知り、鼓舞せざる莫く、而して貴家豪右の田を占め税を隠し、貧弱を侵漁する者は、胥て異論を為して以て之を揺がし、前詔遂に格せらる。熹祠を請ひて去る。五年、廬州の旱傷百姓の貸稻種三万二千一百石を蠲す。
慶元元年二月、上、歳凶にして百姓饑病するを以て、詔して曰く、「朕が徳菲薄にして、饑饉薦臻し、民をして死亡に阽からしむ。夙夜惨怛たり、寧ぞ敢て過を下に諉せんや。顧ふに使者・守令の朕と分寄して共に憂ふる所なるに、乃ち春に涉り以来、一二郡の老稚食に乏しく、南畝を去り、溝壑に捐つを聞く。咎安くにか在るや。豈に振給尽く民に及ばざるか。粟を得る者は必ずしも饑えず、饑ゆる者は必ずしも得ざるか。偏に近き所に聚まり、均しく済むこと能はざるか。官吏成を見て自ら省みざるか。其れ各意を恪みて措画し、務めて実惠壅がれざらしめ、虚文を以て上を蒙ること無からしめよ。則ち朕汝を嘉せん」と。
寧宗開禧元年、夔路転運判官の範蓀言ふ、「本路の施・黔等州は荒遠にして、山谷に綿亙し、地曠く人稀なり。其の田を多く占むる者は人を須ひて耕墾す。富豪の家は客戶を誘ひて挙室遷去せしむ。乞はくは皇祐の官荘客戶逃移の法を校定せん。凡そ客戶と為る者は、其の身を役するを許すも、其の家属に及ぼす毋れ。凡そ田宅を典売するは、其の業を離るるを聴すも、租を就けて以て客戶と充つる毋れ。凡そ銭を貸すは、止だ文約に憑りて交還せしめ、抑勒して以て地客と為す毋れ。凡そ客戶身故し、其の妻改嫁するは、其の自便を聴し、女は其の自嫁を聴せ。庶幾く深山窮谷の民、生理に安んずるを得ん」と。刑部、皇祐の逃移旧法は軽重適中にして、以て久しきを経る可く、淳熙の比附略人の法は太重しと為し、今後凡そ官荘客戶を理訴するは、並びに皇祐旧法を用ゐんとす。之に従ふ。
嘉定八年、左司諫の黄序奏す、「雨澤期に愆り、地多く荒白なり。知餘杭県の趙師恕、民に勧めて麻・粟・豆・麦の属を雑種せしめんことを請ふ。蓋し稻を種すれば則ち費少くして利多く、雑種すれば則ち労多くして獲少し。収成の日を慮るに、田主分からんと欲し、官課輸を責むれば、則ち徒に益無きのみならず。若し之をして便に従ひ雑種せしめ、多寡皆な己が有と為さしめば、則ち勧めずして勤め、民饑ゆること無からん。望むらくは其の陳ぶる所の如く、両浙・両淮・江東西等路に下し、凡そ耕種時を失する者有らば並びに雑種せしめ、主は其の地利を分つ毋れ、官は其の秋苗を取る毋れ。庶幾く農民以て食を続くるを得、官振救の費を免れん」と。之に従ふ。
知婺州の趙与心夫、其の州に於て経界を行ひ、整然として倫緒有り。而して与心夫報罷せらる。士民相率ひて朝に請ふ。乃ち趙師岩を命じて之を継がしむ。後二年、魏豹文師岩に代はりて守と為り、之を行ふこと益々力めす。是に於て向の上戸貧下の戸に析け、実田逃絶の田に隠れし者は、粲然として考ふる可し。凡そ結甲冊・戸産簿・丁口簿・魚鱗図・類姓簿二十三万九千有奇、庫匱を創めて以て之を蔵し、歴三年にして後其の事を朝に上す。
淳祐二年(1242年)九月、詔勅して曰く、「四川は累次兵火を経て、百姓は業を棄て難を避け、官はその曠土を以て権(仮)に耕屯し以て軍食を給す。及び民が帰業するや、占拠して還さず。今より凡そ民に契券有り、界至分明なるものは、州県の屯官に析(申し出)すれば即時に帰還すべし。其れ違戾する有らば、民に越訴を許し、重く之を罪す。」
六年(1246年)、殿中侍御史兼侍講謝方叔言う。
「豪強兼併の患は、今日に至って極まれり。民の名田を限らざるべからず、是れ亦た世道を救う微権なり。国朝銭塘に駐蹕して、百二十余年有り。外の境土は日々に荒れ、内の生歯は日々に繁く、権勢の家は日々に盛んにして、兼併の習は日々に滋し、百姓は日々に貧しく、経制は日々に壊れ、上下煎迫して、為すべからざる勢有るが若し。所謂富貴操柄なる者は、人主の専らに得る所に非ざれば、識者は懼る。夫れ百万の生霊、資生養の具は、皆穀粟に本づく。而して穀粟の産は、皆田より出づ。今百姓の膏腴は皆貴勢の家に帰し、租米百万石に及ぶ者有り。少民の百畝の田は、頻年に差して保役に充て、官吏誅求百端、已むを得ずして則ち其の産を巨室に献し、以て役を免れんことを規る。小民の田は日々に減じて保役休まず、大官の田は日々に増して保役及ばず。此れを以て弱の肉、強の食と為し、兼併浸盛にして、民其の生を遂ぐる無し。斯の時に於いて、厳に経制を立てて以て之が防と為さざるべけんや。
去年、諫官嘗て限田を以て説と為す。朝廷之を悠悠に付す。知らず、今日の国用辺餉は、皆和糴に仰ぐ。然るに権勢多田の家は、和糴を以て之に加うるを容れず、保役を以て之に及ぼすを容れず。敵人は外に睥睨し、盗賊は内に窺伺す。此の時に居りて、其の多田厚貲長く保つべからざるに与るよりは、曷ぞ金を捐て国を助け共に目前を紓さん。転移して開導するに在るのみ。乞う、二三大臣に諭し、臣僚の論奏を摭りて之を行わしめ、経制を以て定まり、兼併を以て塞がれ、以て朝廷を尊び、以て国計を裕かにせん。陛下貴近の言に牽かれ以て初意を揺るがすこと勿れ。大臣仇怨の多きを避けて良策を廃すること勿れ。則ち天下幸甚なり。」之に従う。
十一年(1251年)九月、詔勅して曰く、「監司・州県は非法に民産を估籍することを許さず。戒め厳ならざるに非ざれども、貪官暴吏、往々にして問わず所犯の軽重を、顧みず同居有分の財産を、一例に估籍し、殃を平民に及ぼす。或いは戸絶の家に命継を与えず、或いは陳訴を経て給還を許すと雖も、輒ち他名を仮り支破し、竟に幹没を成す。或いは典業に収贖を聴かず、遂に産主をして辜無くして業を失わしむ。違戾の官吏は、重ねて典憲を置く。」是の歳、信州・常州・饒州・嘉興府は経界を行う。
景定元年(1260年)九月、詔勅して曰く、「州県孤幼の財産を検校するに、往々にして便に行い侵用し、年及び陳乞するに至りて、多く前官の用過を称し、即時に給還せず。今より尚違戾せば、吏業を以て估償し、官は違制を以て論じ、去官・赦・降を以て原減せず。」
咸淳元年(1265年)、監察御史趙順孫言う。「経界は将に民を便ならしめんとす。窮閻下戸の深く願う所と雖も、必ずしも豪宗大姓の尽く楽む所に非ず。其の心を深く服せしむる有るに非ざれば、則ち亦た何を以て其の情意の悉く孚からしめんや。且つ今の所謂推排は、昔の所謂自実に非ず。推排は、之を郷都に委ぬれば、則ち径捷にして行い易し。自実は、之を人戸に責むれば、則ち散漫にして集まり難し。嘉定以来の経界は、時至って近し。官に正籍有り、郷都に副籍有り、彪列戸分、具はらざる莫し。郷都を為す者は、成牘に按じて更に業主の姓名を易えるに過ぎず。若し夫れ紹興の経界は、其の時則ち遠く、其の籍の存する者寡し。其の鱗差櫛比に因りて求むれば、一よりして百に至り、百よりして千に至り、千よりして万に至り、其の畝歩を稽え、其の主佃を訂するも、亦た郷都の便の如きは莫し。朱熹の経界を主とし自実を辟くる所以は、正に是れを謂うなり。州県能く朝廷の郷都任責の令を守り、又諸州の便宜に随いて之が為に区処せば、必ず人情の悉く孚じ、令せずして行わるべし。」之に従う。
三年(1267年)、司農卿兼戸部侍郎李鏞言う。「夫れ経界は嘗て修明を議すと雖も、修明終に行われず。嘗て自実を令すと雖も、自実終に竟らず。豈に上の任事者毎に理財の名を避けんと欲し、下の其の成を楽しまざる者又毎に擾民の説を倡うるに非ずや。故に寧ろ邑政の壊るるを坐視し、敢えて猾吏奸民の欺くを詰えず。寧ろ下戸の苛きを忍びて取るも、敢えて豪家大姓の怨みを受くらず。蓋し経界の法は、必ず多く官吏を差し、必ず悉く都保を集め、必ず遍く阡陌を走り、必ず尽く歩畝を量り、必ず審かに等色を定め、必ず紐折計等す。奸弊転じて生じ、久しく事に迄らず。乃ち若し推排の法は、県を以て都を統べ、都を以て保を統め、才富公平なる者を選任し、田畝税色を訂し、之を図冊に載せ、民をして定産有らしめ、産をして定税有らしめ、税をして定籍有らしめんとするに過ぎず。臣吳門を守り、巳に嘗て之の施行を見る。今聞く、紹興亦た漸く就緒し、湖南漕臣亦た一路の告成を以てす。窃かに謂う、東南諸郡は、皆奉行して惟だ謹み有り。其れ或いは田畝実ならざれば、則ち郷局をして之を厘正せしむ。図冊備わらざれば、則ち県局をして之を程督せしむ。又必ず郡守は県の稽違を察し、監司は郡の怠弛を察し、其の号令を厳にし、其の賞罰を信じ、秋冬を期して以て其の事を竟え、年歳を責めて以て其の成を課し、『周官』の日成・月要・歳会の如く以て之を綜核すべし。」是に於いて詔して諸路の漕・帥に施行せしむ。
大抵南渡後、水田の利は中原に富み、故に水利大いに興る。而して諸籍没田民を募りて耕す者は、皆私租の旧額に仍り、毎に重きを失う。輸納の際、公私事例迥に殊なり。私租は額重くして納軽く、承佃猶お可なり。公租は額重くして納重ければ、則ち佃命に堪えず。州県の胥吏と倉庾百執事の人と、皆耕者の為に侵漁の道を得ることを得。季世、金人は乍和乍戦、戦えば則ち軍需浩繁、和すれば則ち歳幣重大、国用常に苦しみて継がず。是に於いて民の官租の重きを苦しむに因り、命じて有司に官田を括売して用を給せしむ。其の初め其の力役を弛めて以て之を誘い、其の終わり抑配を免れず。此れ官田の弊なり。嘉定以後、又所謂安辺所田有り、其の租を収めて以て歳幣を助く。其の将に亡ぼんとするに至り、又民の名田を限り、其の限外の所有を買い、之を公田と謂う。初め和糴を省め以て民力を紓がんと議すと雖も、其の弊極めて多く、其の租尤も重し。宋亡び、遺患猶お息まず。凡そ水田・官田の法、公田史に見ゆる者、其の始末を彙めて悉く篇に載す。鑑とするに足る者有り。」
紹興元年(1131年)、詔して宣州・太平州の守臣に圩を修めしむ。二年(1132年)、修圩の銭米及び民に種糧を貸すことを以て、並びに宣州の常平・義倉米に於いて撥借す。三年(1133年)、州県圩田の租額を定めて軍儲に充つ。建康府永豊圩の租米は、歳三万石を以て額と為す。圩の四至相去ること皆五六十里、田九百五十余頃有り。近歳田を墾るも三の一に及ばず。是に至り、始めて額を立つ。
五年、江東帥臣李光が言うには、「明州・越州の境には、いずれも陂湖があり、おおむね湖は田より高く、田はまた江・海より高い。旱魃の時は湖水を放って田を灌漑し、水害の時は田の水を決壊させて海に入れる。故に水旱の災害がない。本朝の慶曆・嘉祐の間、初めて湖を盗んで田とする者が現れ、その禁令は甚だ厳しかった。政和以来、応奉を創始し、初めて湖を廃して田とした。ここより両州の民は、毎年水旱の患いを被る。餘姚・上虞は毎県の租収が数千斛に過ぎないのに、失う民田の常賦は、動もすれば万を以て計る。両邑の湖田を先に罷めるに如くはない。」その会稽の鑒湖、鄞の広徳湖、蕭山の湘湖等の処は尚多く、漕臣に詔して尽く之を廃せしむることを望む。その江東・江西の圩田、蘇州・秀州の囲田は、監司・守令に令して条上せしむべし。」ここに於て諸路の漕臣に詔して之を議せしむ。その後、議者は合して廃すべしと称するも、竟に其の旧に仍る。
初め、五代の馬氏が潭州の東二十里に於て、諸山の泉に因り、堤を築き水を瀦え、号して龜塘と曰い、田万頃を溉ぐ。その後堤壊れ、歳旱り、民皆饑饉に阻まれる。七年、守臣呂頤浩が初めて民を募り修復し、以て耕稼を広む。十六年、袁州知事張成巳が言うには、「江西の良田は、多く山岡を占め、守令に委ね陂塘灌溉の利を講ぜしむることを望む。」その後、比部員外郎李滬が言うには、淮西の高原の処に旧に陂塘有り、銭米を給し、以て時に修浚すべしと請う。江陰軍知事蔣及祖もまた本軍の五卸溝を浚治して以て水を泄し、横河の支渠を修復して以て旱を溉がんことを請う。乃ち並びに諸路の常平司に詔して之を行わしめ、毎季施行の状を以て聞かしむ。
二十三年、諫議大夫史才が言うには、「浙西は民田最も広く、而して平時甚だしい害無きは、太湖の利なり。近年湖に臨むの地は、多く兵卒に侵拠され、土を累ねて高め、長堤弥望たり、名づけて壩田と曰う。旱れば則ち之に拠りて以て溉ぎ、而して民田は其の利に沾わず。涝れば則ち遠近泛濫し、湖に入るを得ず、而して民田尽く没す。太湖の旧跡を尽く復し、軍民各安んじ、田疇均しく利あらしむることを望む。」之に従う。二十四年、大理寺丞周環が言うには、「臨安・平江・湖・秀の四州の下田は、多く積水に浸される。溪山の諸水に縁り並びに太湖に帰し、太湖より二派を分つ。東南の一派は鬆江より海に入り、東北の一派は諸浦より江に注ぐ。其の鬆江の泄水は、惟だ白茅一浦最大なり。今泥沙淤塞す、宜しく浦の故道を決し、水勢をして分派流暢ならしむべし、実に四州の無窮の利なり。」詔して両浙の漕臣に之を視察せしむ。
二十八年、両浙転運副使趙子潚・平江府知事蔣璨が言うには、「太湖は数州の巨浸にして、而して独り鬆江の一川を以て泄す、宜しく其の勢いに逮ばざる所有るべし。是を以て昔人は常熟の北に二十四浦を開き、疏して之を江に導き、又昆山の東に一十二浦を開き、分かちて之を海に納む。三十六浦後ち潮汐沙積し、而して開江の卒も亦廃す、ここに於て民田に淹没の患い有り。天聖の間、漕臣張綸嘗て常熟・昆山に於て各衆浦を開く。景祐の間、郡守范仲淹も亦親しく海浦に至り、五河を浚開す。政和の間、提挙官趙霖復た嘗て開浚す。今諸浦湮塞し、又前の比に非ず、工を用いるを計るに三百三十余万、銭三十三万余緡、米十万余斛。」ここに於て詔して監察御史任古に復た之を視察せしむ。既にして古平江に至り言うには、「常熟五浦江に通ずるは誠に便なり、若し請うる所に依らば、五千の功を以て、月余にして畢るべし。」詔して激賞庫の銭・平江府の上供米を以て数の如く之に給す。二十九年、子潚又言うには、「父老福山塘と丁涇の地勢等しと称す、若し福山塘を浚わざれば、則ち水必ず丁涇に倒注せん。」乃ち命じて並びに之を浚わしむ。
隆興二年八月、詔す、「江・浙の水利、久しく講修せず、勢家の囲田、流水を堙塞す。諸州の守臣按視して以て聞かしめよ。」ここに於て湖州知事鄭作肅・宣州知事許尹・秀州知事姚憲・常州知事劉唐稽並びに囲田を開き、港瀆を浚わんことを乞う。詔して湖州は朱夏卿に委ね、秀州は曾愭に委ね、平江府は陳弥作に委ね、常州・江陰軍は葉謙亨に委ね、宣州・太平州は沈樞に措置せしむ。九月、刑部侍郎吳芾が言うには、「昨紹興を守り、嘗て鑒湖の廃田二百七十頃を開き、湖の旧を復し、水泛濫無く、民田九千余頃悉く倍収を得しことを請えり。今尚低田二万余畝有り、本も亦湖なり、百姓交佃し、畝の直纔に両三緡なり。官に其の半を給せしめ、其の田を尽く廃し、其の租を去らんと欲す。」戸部浙東常平司に符し、紹興府守臣と同しく審細に標遷せしむることを請う。之に従う。
乾道二年四月、詔して漕臣王炎に浙西の勢家の新たに囲んだ田、草蕩・荷蕩・菱蕩及び陂湖溪港の岸際に旋って築く塍畦・囲裹して耕種する者を開かしむ。至る処の守令共同して措置せしむ。炎諸囲田を開き畢り、凡そ租戸が主家に貸す種糧の債負は、並びに奏して之を蠲す。六月、秀州知事孫大雅代還し、言うには、「州に柘湖・澱山湖・當湖・陳湖有り、支港相貫き、西北は江に入る可く、東南は海に達する可し。海に傍る農家壩を作り以て堿潮を卻く、一方に利及ぶと雖も、而して水患実に隣郡を害す。設い之を疏導せば、則ち又海に傍る田を害す。若し諸港浦に閘を置き啓閉せば、惟だ水を泄す可きのみならず、而して旱も亦利を得ん。然れども工力稍大なり、大姓を率いて銭を出させ、下戸力を出し、農隙に之を修治せんと欲す。」ここに於て両浙転運副使薑詵を以て守臣と之を視察せしめ、詵尋ち秀常州・平江府・江陰軍と利便を条上す。詔す、「秀州華亭県の張涇閘並びに澱山東北の陂塘港に通ずる浅き処は、今年十一月を俟ち興修すべし。江陰軍・常州の蔡涇閘及び申港は、明年春興修すべし。利港は役を休むること一年を俟ち興修すべし。平江府は姑く之を緩む。」三年三月、詵使い還り、奏す、「開浚畢功し、積水を通泄し、久しく浸かる民田塍岸を露出す。臣已に民に諭し時を趁い耕種せしむ。下戸本を闕くを恐れ、良田復た荒らん、浙西常平司に令して種糧を貸給せしむることを望む。」又措置・提督・監修等の官、江陰軍知事徐蔵等の磨勘年を減ずることを奏す、差有り。
四年、彭州守臣梁介が三県十余堰を修復し、灌溉の利隣邦に及びしを以て、詔して介を直秘閣・利路転運判官とす。七年、王炎が言うには、「興元府の山河堰は世に漢の蕭何・曹参の作る所と伝う。本朝嘉祐中、提挙史炤堰法を上り、勅書を降すことを獲て石に刻み堰上にす。紹興以来、戸口凋疏し、堰事荒廃す、遂に興元府知事吳拱に委ね修復せしめ、卒万人を発して役を助けしむ。宣撫司及び安撫・都統司共に銭三万一千余緡を用い、尽く六堰を修し、大小の渠六十五里を浚い、凡そ南鄭・褒城の田二十三万三千余畝を溉ぐ。」詔して拱を獎諭す。
八年、戸部侍郎兼枢密都承旨の葉衡が言うには、「詔を奉じて寧国府・太平州の圩岸を核実したところ、内寧国府の惠民・化城の旧圩は四十余里、新たに築いたものは九里余り。太平州の黄池鎮福定圩は周囲四十余里、庭福等五十四圩は周囲一百五十余里(諸圩を包囲する内側)、蕪湖県の圩は周囲二百九十余里、当塗の圩と合わせて通計四百八十余里。いずれも高く広く堅固で、水に臨む一岸には榆柳を植え、風濤を防ぐに足り、農民に尋ねたところ、実に永利である」と。ここに詔を下して寧国府判官の魏王愷を褒賞し、その略には、「大江のほとりの地は広大で、水の蓄泄が害とならず、ことごとく膏腴たらしめるのは、圩の利である。しかし水土が相食み、昔からよく崩れる。卿は農政を修め、巨防は屹然としており、勤労の志を懐く、深く賞賛する」と。九年八月、臣僚が言うに、江西は連年旱魃に遭い、予め水利を興して備えることができなかった。ここに詔を下して曰く、「朕は旱魃・水害の災いは、堯・湯の盛時にも免れなかったことを思う。民が病を告げないのは、備えが先に具わっているからである。豫章の諸郡県では、ただ阡陌が水に近い所は苗が秀で実るが、高い土地は雨が時に至らず、苗はたちまち枯れる。水利が修められず、旱魃への備えを失っているのではないか。唐の韋丹が江西観察使となり、陂塘五百九十八所を治め、田一万二千頃を灌漑した。これはただ一道に施したもので、その利はこのようである。まして天下は至って広い。農は生の本である。泉流の灌溉は五穀を育む所以である。今、諸道の名山・川原は甚だ多いが、民はその利を知らない。それでは溝瀆を通じ、陂沢を貯えることは、監司・守令の職にあらずや。朕のために丘陵原隰の宜しきを相し、農桑を勧め、地利を尽くし、徭役を均しくして水を行わせ、時を失わせぬようにせよ。豊凶があっても、力田する者が拱手して弊を受けることなく、これも天人相因の理である。朕はまさに勤惰によって賞罰を寓すであろう」と。
淳熙二年、両浙転運判官の陳峴が言うには、「先に詔を奉じて平江府・常州・江陰軍を遍く巡り、民に利港諸所の開浚を併せて力を尽くすよう諭したところ、すでに全て完工した。当初は官が銭米を給しようとしたが、歳に数万を下らなかった。今は皆、百姓が相率いて効力して成し遂げた」と。詔して常熟県知県の劉穎に特に一秩を増し、その他は論賞に差等をつけた。三年、皇子で明州判官の魏王愷に詔を賜って曰く、「陂湖川沢の利は、通ずるか塞がるかは、人に存する。四明が州となるのは実に鄞を治めるためである。鄞の郷は東西凡そ十四あるが、銭湖の水は実にその東の七郷を灌漑する。吏が惰りて虔でなく、葑蕪が翳い、利は旧を失い、農人は病んでいる。卿がこの邦に臨み、よく利便を講求して浚治したので、遂に湖に並ぶ七郷の田に、かつての旱魃の患いがなくなり、その恵沢は浅からぬ。剡奏が聞こえ、嘉歎の念を忘れない」と。
十年、大理寺丞の張抑が言うには、「陂沢湖塘は、水の時には貯え泄らす資とし、旱の時には灌漑の資とする。近ごろ浙西の豪宗は、旱年に遇うごとに、湖を占めて田とし、長堤を築き、中に榆柳を植え、外に茭蘆で防ぎ、ここに旧く田であったものが、初めて水の出入を隔てる。蘇・湖・常・秀は昔は水患があったが、今は旱災が多い。これによるものであろう。県令に責めて証拠を与えず、尉に警戒捕縛させ、監司に覚察させるよう請う。囲裹する者があれば、違制をもって論じ、証拠を与えた者と失察した者はともに坐させるように」と。既にして漕臣の錢衝之が、毎囲ごとに石を立てて標識とし、総計一千四百八十九所とし、諸郡に遵守させんことを請うた。
紹熙二年、詔して守令は到任半年後に、水源湮塞で開修すべき箇所を具して奏聞させ、任満の日に、興修水利の図を進めさせ、その労効の著明な者を選んで賞することとした。慶元二年、戸部尚書の袁説友らが言うには、「浙西には囲田が相望み、皆千百畝に及び、陂塘漊瀆は悉く田畑となり、水があれば貯える地がなく、旱魃があれば汲む水がない。厳禁しなければ、後ますます甚だしくなり、再び豊年はないであろう」と。嘉泰元年、大理司直の留佑賢・宗正寺主簿の李澄に措置させ、淳熙十一年に石を立てた以後、官民が囲裹したものは全て開かせた。また知県に「点検囲田事」を官銜に入れさせ、毎年三四月に尉とともに奸民の囲裹の有無を点検し、州に上申させ、州は朝廷に奏聞させた。三年に官を遣わして審視させ、及び台諫に察させた。二年二月、佑賢・澄が使いから還り、臨安・平江・嘉興、湖・常で開掘した戸の元の佃据を追毀するよう奏上した。三月、右正言の施康年が言うには、「近属貴戚が九重の愛民の心を体せず、ただ一家の私計を営み、公然と牒を投じて成法を沮む。戒飭を請う。今後陳状する者があれば、名を指して奏劾し、必ず罰して赦さないように」と。
開禧二年、淮農が流移して耕す田がないため、詔して両浙州県の既に開いた囲田は、元の主人に再び囲むことを許し、専ら淮農を召して租種させた。嘉定三年、臣僚が言うには、「窃かに聞くに、豪民巨室は縁を併せて奸を行い、倍にして囲裹し、また影射して水蕩を包占し、農民の灌漑を妨げている」と。ここに再び詔して浙西提挙司に農隙を待って開掘させた。七年、臨安府西湖の旧界を復し、歳増の租銭を全て免除した。十七年、臣僚が言うには、「越の鑑湖は会稽の田のほぼ半分を灌漑し、興化の木蘭陂は民田万頃、歳にその沢を仰ぐ。今、官豪が侵占し、填淤してますます狭くなっている。宜しく有司に戒めて毎年省視させ、その貯蓄を厚くし、その壅底を取り除き、侵占を許さず、灌漑を妨げぬようにすべきである」と。皆、順次これを行った。
宝慶元年、右諫議大夫の朱端常の奏により、嘉泰年間に既に開いた浙西の囲田の租銭を除いた。租税額は尚存し、州県が民に白納を迫る故である。宝祐元年、史館校勘の黄國が麵對して言うには、「囲田は淳熙十一年に石を識したものは存すべきであり、再び囲んだものはその利害軽重を権衡して存毀を為し、その租は或は総所に帰し、或は安辺所に隷し、或は諸郡に分隷すべきである」と。上曰く、「安辺所の田は近ごろ既に本所に撥帰した」と。國また奏す、「丁未以来創囲の田は、始め殿司が草蕩を献じたことに因り、任事者が功を為さんと欲し、凡そ旱幹の処は悉く囲んだ。利少なく害多く、宜しく開掘して水道を通ずべきである」と。上然りとした。咸淳十年、江東が水害を受けたため、九年の圩田租を免除し、四分を減じた。
紹興二十七年、趙子潚は詔を奉じて鎮江府の沙田を措置し、租課を軽く立て、現佃者に耕作させようとした。もし勢家が占拠して吝嗇ならば、以前収めた租利を追徴する。詔して速やかにその田を拘束して措置し、冒佃の租を免除した。二十八年正月、詔して戸部員外郎莫濛に浙西・江東・淮南の漕臣趙子潚・鄧根・孫藎とともに諸路の沙田・蘆場を視察させた。先に、言者が江・淮間の沙田・蘆場が人に冒占され、歳に官課を失うこと甚だ多いと謂う。故に濛らに命じたのである。既にして殿中侍御史葉義問が言うには、「奉行者は百姓を恤れまず、名は経量と為すも、実は県官を逼って図に按じ紐を約し、ただ数を増やすことを務め、以て進用を希う。有力の家は初めより加損無く、貧民下戸は已にその害を受く。小利に因りてこれを擾せば、必ずや逃移を致し、坐して税額を失わん」と。因りて極論した。二月、詔して「沙田・蘆場はただ勢家の詭名冒占の為のみとし、その三等以下の戸は例に倣って根括せざれ」と。六月、孫藎の沙田措置が滅裂なるを以て、これを罷む。詔して「浙西江東の沙田・蘆場、官戸十頃・民戸二十頃以上は並びに租を増し、余は旧の如し。提領官田所を置きてこれを掌らしめ、戸部に隷せず」と。二十九年、莫濛の沙田・蘆場経量が実を失うを以て、饒州景德鎮の税を監せしめ、遂に詔して増租を尽く罷む。
三十二年九月、趙子潚言う、「浙西・江東・淮東の沙田、往年経量に、不尽不実の処あり、人戸に包占せらる。期を今冬とし自陳せしめ、己業と為し与え、租税の半を免ず。期を過ぐれば人に告げるを許し、全戸の租する田を以てこれを賞す。その蘆場は力に量りて租を軽くす」と。詔して馮方に措置せしむ。十有一月、方滋沙田を疏論す。上問う、「沙田或いは取るべしと為し、或いは捐つべしと為す」と。陳康伯ら奏す、「君子小人、各その類に従う。小人は事を生ずるを楽しみ、国の怨を斂むるを惜しまず。君子は大體を存するを務め、唯だ仁政を傷つくらんことを恐る。所以に同じからざるなり」と。上然りとし、前詔を行わざるを命ず。
乾道元年、臣僚言う、「浙西・淮東・江東路の沙田蘆場、頃畝浩瀚、宜しく租税を立て、軍食を補助すべし」と。詔して復た梁俊彥に張津らと措置せしむ。二年、輔臣奏す、「俊彥の上る沙田・蘆場の税、或いは十に其一を取り、或いは其二を取り、或いは其三を取り、皆主客を分たず」と。朝廷これを疑う。六年、俊彥の括る所の沙田・蘆場二百八十余万畝、その間或いは已に己業に充て、起税一ならず、及び包占して未だ租を起さざる者、並びに估売・立租を乞う。詔して蔡洸・梁俊彥に行在に司を置きて措置せしむ。八年七月、詔して提領官田所の催す三路の沙田・蘆場租銭を並びに戸部に帰す。十月、官を遣わして江・淮の沙田・蘆場の頃畝を実し、悉くこれを正す。
建炎元年、蔡京・王黼らの荘を籍して官田と為し、詔して見佃者に就耕せしめ、歳に租二分を減ず。三年、凡そ天下の官田、民に郷例に依り自陳輸租せしむ。紹興元年、軍興に用度足らざるを以て、詔して諸路の官田を尽く鬻ぐ。五年、詔して諸官田を鄰田の租に比し、人を召して請買せしめ、佃人買わんと願う者は聴す。佃すること三十年以上の者は価を十の二減ず。六年、詔して諸路の総領に民を諭し戸絶・没官及び江漲沙田・海退泥田に投買せしむ。七年、賊徒の田舎及び逃田を以て官荘に充て、その没官田は旧の如く出売す。二十年、凡そ没官田・城空田・戸絶房廊及び田、並びに常平司に撥隷す。転運・提刑・茶塩司の没入田もまたこれに如し。
二十一年、大理寺主簿丁仲京の言に依り、凡そ学田で勢家に侵佃せらるるものは、提学官に覚察せしむ。又命じて僧寺常住の絶産を撥して以て学を贍す。戸部議して並びに敕額無き庵院の田を撥す。詔して可とす。初め、閩は福建八郡の田を分かち三等と為す。膏腴なる者は僧寺・道院に給し、中下なる者は土著流寓に給す。劉夔が福州と為りしより、始めて貿易して資を取る。迨うに張守が閩に帥すや、紹興二年秋。上は凋瘵を拊循するに倚り、上等四十余刹を存して高僧を待ち、余は悉く民に請買せしめ、歳入七・八万緡を以て軍衣を助け、余は百姓の雑科を寬め、民皆これを便とす。
二十六年、諸路の売官田銭を七分上供、三分常平司糴本に充つ。初め、官田を尽く鬻がんとするに、議者は佃人の失業を恐れ、未売の者は租を失わんとす。侍御史葉義問言う、「今その田を尽く鬻ぎ、正税と為し立てば、田既に民に帰し、税又官に帰す。独り欺隠の弊を絶つのみならず、又力役の法を均しうす」と。浙東刑獄使者邵大受もまた官田を承買する者に物力三年より十年を免ずるを乞う。一千貫以下は三年を免じ、一千貫以上は五年、五千貫以上は十年とす。ここに於て詔して所在の常平没官・戸絶田、已佃未佃・已添租未添租を並びに拘売す。二十九年、初め、両浙転運司の官荘田四万二千余畝、歳に稻・麦等四万八千余斛を収む。営田九十二万六千余畝、歳に稻・麦・雑豆等十六万七千余斛を収み、行在の馬料及び糴銭に充つ。四月、詔して出売せしむ。七月、詔して諸路の提挙常平官に欺弊を督察せしめ、賞罰を申厳す。分水令張升佐・宜興令陳𨑖は売田稽違を以て、各々秩を貶し任を罷む。九月、浙東提挙常平都絜は売田最も多きを以て、一秩を増す。三十年、詔して荒田を承買する者に三年の租を免ず。
乾道二年、戸部侍郎曾懷言う、「江西路の営田四千余頃、已佃一千九百余頃、租銭五万五百余貫、もし出売せば、六万七千余貫を得べし。及び両浙転運司の括る所の已佃九十余万畝、これを合して言えば、数浩瀚なり。今元の詔に遵い、見佃願買する者に価を二分減ずるを欲す」と。詔して曾懷らに提領出売せしめ、その銭は左蔵南庫に輸し別にこれを貯む。四年四月、江東路の営田もまた見佃者に減価承買せしめ、期を三月に売絶し、八月に住売す。諸路未売の営田は、転運司に租を収めしむ。七年、提挙浙西常平李結は見管の営田を本司に撥帰し、常平田と同しく管荘を立てんことを乞う。梁克家もまた奏す、「戸部の売る営田、率は有力者の下価取る所と為り、税入甚だ微なり。官荘を置くに如かず、歳に五十万斛を得べし」と。八年、大理寺主簿薛季宣を以て黄岡・麻城に官荘二十二所を立つ。九年、司農寺丞葉翥らを以て浙東・西路の諸官田を出売し、登聞検院張孝賁らを以て江東・西路の諸官田を出売し、郎官薛元鼎を以て江・浙・閩・広の売官田銭四百余万緡を拘催せしむ。
淳熙元年、臣僚が言うには、「官田を売り出すこと、二年の間に、三省・戸部は文書のやり取りに困り、監司・州郡は売却に疲弊している。上下で督促責め立て、至らないところはないが、初めは一季を期限とし、続いて一年を期限としたが、既に売れたのはわずか十の三、既に納入したのはわずか十の二である。蓋し産を売る家は、大姓でないものはなく、估価の初めに上等の産には軽く価額を立て、掲榜した後に率先して投状する。もし中下の産は、人に属目されず、立てた価額は軽重が均しくない。元の佃家に業を著させて租を納めさせるようにすれば、数はなお数十万斛を得ることができる。」これを従う。六年、諸路の転運・常平司に詔して、凡そ没官田・営田・沙田・沙蕩の類、また数を括ってこれを売らしむ。紹熙四年、臣僚の言により売却を停止す。慶元元年八月、江東転運提挙司が紹熙四年に売却停止以後に続いて没官した田を、郷価に依ってまた人を召して承買させ、その銭を常平糴本に充てる。十一月、余端礼・鄭僑が言うには、福建は地狭く人稠にして、養うに足らず、子を生んでも多く挙げない。福建提挙宋之瑞が建・剣・汀・邵の没官田を売らず、その租を収めて民の挙子の費を助けることを乞う、詔してこれに従う。四年、諸路に詔して売れない田を召売し、また実を検して価を減じ、その沙礫で新たに耕作できないところは除く。
開熙三年、韓侂冑が既に誅せられ、金人が講解す。明年、廷臣の言を用い、安辺所を置き、凡そ侂冑及び他の権幸が没入した田、並びに囲田・湖田で官にあるもの皆これに隷せしむ。米七十二万二千七百斛余、銭一百三十一万五千緡余を輸納し、以て行人の金・繒の費に給す。北方と絶好に至り、軍需辺用は毎にここよりこれを取る。
景定四年、殿中侍御史陳堯道・右正言曹孝慶・監察御史虞慮張晞顔等が廩兵・和糴・造楮の弊を言い、「祖宗の限田議に依り、両浙・江東西の官民戸の限を逾えたる田より、三分の一を抽いて買い公田に充てんことを乞う。千万畝の田を得れば、則ち歳に六七百万斛の入有りて以て軍に餉し、以て糴を免れ、以て楮を重んじ、以て物を平らかにして富を安んずべし、一挙にして五利備わる。」旨有りてその言に従う。朝士に異議有る者あり、丞相賈似道奏す、「楮を救うの策は造楮を停止するより切なるは莫く、造楮を停止するは和糴を免するより切なるは莫く、和糴を免するは限を逾えたる田を買うより切なるは莫し。」因りて歴に異議者の非を詆す、帝曰く「一意に行うべし。」浙西安撫魏克愚言う、「四路の民田を取り限を立て回買するは、以て和糴を免して邦儲を益さんとする所以なり、議者は自ら公且つ忠と為さざるは非ず。然れども未だその利を見ずして、適にその害を見る。近く給事中徐経孫が丞相に奏記し、江西の買田の弊甚だ詳かなりと言う、若し浙西の弊は、則ち経孫の言う所より尤も甚だしき者有り。」因りて歴にその害と為す者八事を述ぶ、疏奏して省みず。
六郡の回買公田は、畝の起租石に満つる者は二百貫を償い、九斗の者は一百八十貫を償い、八斗の者は一百六十貫を償い、七斗の者は一百四十貫を償い、六斗の者は一百二十貫を償う。五千畝以上は、銀半分・官告五分・度牒三分・会子二分半を以てし、五千畝以下は、銀半分・官告三分・度牒二分・会子三分半を以てし、千畝以下は、度牒・会子各半を以てし、五百畝より三百畝までは、全て会子を以てす。是の歳、田事成り、毎石官給は止むところ四十貫、而して半は告・牒なり、民之を持して売ることを得ず、六郡騒然たり。遣わしたる劉良貴・陳時・趙与時・廖邦傑・成公策等に推賞差有り。邦傑の常州に在りしは、民を害すること特甚だしく、民に至りては本田無くして帰併抑買により自経する者あり。分かち庄官を置きて租を催し、州県は庄官を督して時を以て交収運発せしむ。
五年、官を選び官田所分司に充て、平江・嘉興・安吉各一員、常州・江陰・鎮江共に一員とし、凡そ公田の事悉く以てこれを委ぬ。是の歳七月、彗星東方に見ゆ。詔を下して言を求め、京学生蕭規・葉李等三学六館皆封章を上ず。前秘書監高斯得もまた詔に応じて駅を馳せ封事を上ず、力めて買田の人心を失い天変を致すを陳ぶ。謝枋得は江東運司に文を校し、方山京は天府に文を校し、皆得失を指陳す。未だ幾ばくもせず、蕭規等は真決黥隸せられ、枋得・山京相継いで劾せられ、斯得は郡を予うれども、尋いでこれを罷む。
咸淳三年、京師糴貴し、平江・嘉興の上戸に米を運び京に入ることを勒め、鞭笞囚係し、非命に死する者十の七八。太常寺簿陸逵謂う、買田は本和糴を免ぜんとするためなり、今その米を運ぶことを勒むるは、害前より甚だし。似道怒り、逵を出して台州を知らしむ、未だ至らざるに、怖死す。四年、差置庄官の弊甚だしきを以て、尽くこれを罷む。諸郡の公租を三千石を一庄とし、民に分司に於いて承佃するを聴き、盗易する者は盗売官田を以て論ず。その租を先に二分減じたる上更に一分を減ず。徳祐元年三月、詔す、「公田最も民害と為り、怨を稔らせ禍を召すこと、十余年。今より並びに田主に給し、その租戸を率いて兵と為らしむ。」而して宋の祚尽きぬ。